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第四期 実業 明治二十四年より同三十四年まで
第五期 実業 明治三十五年より同四十四年まで
下巻目次
第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
二百三十七 独逸狩猟談(下巻324頁)
大正八(1919)年一月末のことであった。私はある晩、井上勝之助侯爵(注・井上馨の甥で養嗣子)に招かれて築地の瓢家に出かけたが、その席には、高田釜吉、岩原謙三、有賀長文、野崎広太諸氏の顔が並んでいたので雑談は八方に飛び広がり、興味はいやがうえにも沸き立った。
なかでも高田釜吉君のドイツ留学中の狩猟談は興味津々たるものがあり、非常に参考になるべきところがあるので、その大要を紹介しておこう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「私は本来、狩猟が好きなので、ドイツ留学中、ひととおり、かの国の形式を研究せんと思い、あるとき同国において名高い狩猟先生方に入門しましたが、不思議なことには、日本において囲碁の階級に、九段を名人といい、八段を上手というがごとく、ドイツにおいてもやはり、狩猟の名人を九段と呼んで居るのである。
ところでこの先生は、いわゆる名人の称あるにそむかず、狩猟上においては、ただその目的物を撃ち取るのみをもって能事とせず、それぞれの場合に応ずる心の働きを主として、優等合格の弟子には、卒業の際、三段の免状を与うるのであります。
私が卒業の際は、同級生が七人ありましたが、私は幸いにして、その第二番目で卒業することを得ました。しかしてその卒業試験というのが、いわゆる心の働きを主とするもので、第一番の生徒に対する試験は、小鳥が七羽飛んできたのを打ち取るべしと命じたのでありますが、さすがに第一番の位置を占めるほどなれば、二連発にて、まず最初の一羽を打ち、第二弾にてその次の一羽を打ち落としたところが、先生は非常に不機嫌で、そもそもこの小鳥は、スウェーデン(原文「瑞典」)、ノルウェー(原文「諾威」)などより独逸に飛び来たった渡り鳥である。されば、ドイツ国よりいえば、かかる外国の渡り鳥は、一羽も残さず、ドイツの国内で打ち取らなくてはならぬ。すなわち、この鳥の飛び来たった時、まずやりすごして、いずれかに落ちたところを待ち受け、時宜を見計らって打ち取らば、七羽中の四、五羽くらいは手に入るべきはずなるに、一時に二羽を打ち取って、残る五羽をドイツ国外に取りのがしたのは、狩猟者として、はなはだ無念の至りである、とて、三段の免許を与えず、それを二段に落としたのである。
さてその次は私の順番で、ある池の中に三羽の鴨が下りて居るのを打ち取れということであったが、私は前例に懲りて居るから、なんでも三羽を残らず打ち取らなくてはならぬと思い、さまざまに工夫して、稍(注・やや=しばらく)一時間ほど小蔭に隠れて待って居ると、折よくも、二羽の鴨が一列に打ち重なったので、たちまち一発にしてこれを撃ち取り、他の一羽が驚いて飛び上がったところを、さらに撃ち取って、三羽ともにしとめたので、まず良かったと思って先生の前に出ると、先生が言わるるには、鴨は大型の鳥であり、ことに、池水に浮かみ居るところなれば、これを撃ち取るのは無造作であるが、一時間余りも辛抱して、時期の来るのを待っていたその耐忍に対して、三段の免許を与うべしとて、図らずも優等卒業の光栄を得た。
右様の次第で、かの国の狩猟試験が、日本の剣道物語に伝わって居るがごとく、心の働きに重きを置くという一事は、東西相対して、まことに興味ある行方だろうと思います。
またあるとき、今晩の主人である井上(注・勝之助)侯が、ドイツ皇帝(注・ヴィルヘルム2世か)から、かの禁猟地においてアワーハンスといえる名鳥(注・詳細不明)を狩猟する許可を得たことがある。このとき私は井上侯の随行員として禁猟地に赴きたるに、狩猟長官は私等にむかい、『そもそも、このアワーハンスは、ドイツ領内に五、六十羽のほか棲息せざる鳥なれば、皇帝のほか、これを狩猟することを得ないのである。しかして、その形は、七面鳥のごとく、肩に青き毛を被り(注・肩が青い毛でおおわれ)、尾は孔雀のごとく団扇形に開くもので、かなり大型の鳥ではあるが、その挙動がきわめて鋭敏で、大木の間を飛び回り、容易に人を近づけぬが、ただ、かの交尾期にあたっては、小高きところにとまって、チッチッと鳴いて居る、このときばかりは、かの耳に外物が聞こえぬものとみえ、彼に接近してこれを撃ち取ることができるのである』と説明した。
ここにおいて私は、是非ともこれを撃ち取りくれんと決心し、井上侯と離れて諸処を徘徊する間に、折よくも、アワーハンスを認めて、一発にてこれをしとむることを得た。 ところがその翌日のベルリン(原文「伯林」)新聞紙は、皇帝陛下がかつて他国人に許したことのない狩猟を日本の大使に許されたとて大々的に特筆されたが、このアワーハンスは、はく製として日本に持ち帰り養父高田慎蔵の湯島邸に保存してありますから、そのうち一度ご覧になるが宜しかろう云々。」
高田氏は前記のとおり、ドイツ仕込みの狩猟家なので、以前、伊豆地方で一日に二十八頭の鹿を打ちとめたことがあるそうだが、鹿は百間(注・約180メートル)以内には人を寄せつけず、また、胸先の三寸四方(注・一寸は約3センチ)くらいの、ある場所に命中しなければ、手負いのままに遠くまで逃げてしまう恐れがあるので必ず急所を打たなくてはならない。
かくして、二十八頭の鹿を並べて猟師たちに見せたところ、その鉄砲がことごとく急所に当たっていたので、彼らも舌を巻いて感服したということである。
二百五 高田慎蔵氏の風骨(下巻206頁)
明治の初期から大正末期にいたるまで陸軍御用達の貿易商を営んで内外の信用を博し、朝野(注・政府と民間)の各方面に知人多く、書画骨董を好んで、おりおり風雅の会合を催すなど、東京の紳商のなかにあって一種異様な風骨を備えていた高田慎蔵氏は、佐渡国相川の土着士族のせがれである。
佐渡は幕府の直轄なので、王政維新の際に、幕臣で後年茨城県知事などを勤めた中山信安が、同地の士族の一団を率いて会津軍に加勢しようとしたとき、高田氏はいまだ十四、五歳の少年ながらその徒党に加わって出陣しようとした。しかしその前に裏切り者が現れて、結局これを果たすことはできなかったが、士族の子として一種の気概をたたえていたことは、後年に東都の交際裡に立つにおよんで自然とその素養をうかがうに足るものがあった。
明治二(1869)年に、井上勝子爵が、イギリス人のガール(注・鉱山技師エラスマス・ガワ―のことだと思われる)という鉱山技師を従えて佐渡を視察したとき、高田氏はその才気を認められ、いろいろと立身出世上の助言を得、明治三年に上京してドイツ商人が経営していた商店(注・アーレンス商会)に住み込んだ。
明治十二(1879)年に諸官庁が西洋人から品物を買わないという布達を出したので、そのドイツ商店(注・アーレンス商会ではなくベア商会に当時勤めていた)は表面上、高田商会の名前で陸軍御用達を勤めることになり、同二十二年には、高田氏が完全に私有するにいたり、以来、高田組の名声は旭日沖天の勢いを呈するにいたったのである。
高田氏はもともと左利き(注・酒好き)であったが、とりわけ洋酒を好み、湯島にあった氏の西洋館の地下の洋酒倉には葡萄酒その他各種の洋酒類が蓄えられ、およそ百年くらい前からの生産年別に品等を分け、室内の温度をいつも六十度(注・華氏60度は摂氏約15.6度)くらいにして保存するというたいへんな手間ひまかけた入れこみようだった。
かの世界大戦中にフランスからの葡萄酒輸出が途絶したとき、「東洋でボルドー産の古葡萄酒を保蔵するのは、ただ我が酒倉のみなり」と自慢して、各国大公使蓮を羨ましがらせたのは有名な逸話だ。
高田氏はとくに学問をした様子もないが、佐佐木信綱氏について晩学ながらも和歌を学び、また座談に長じ、ときどき頓智をひらめかすこともあった。
日露戦争中、曾禰子爵(注・曾禰荒助)が大蔵大臣であったが、日本で金貨の不足が憂慮されたとき、奥州気仙山に金脈があるという風説を信じて日本に大金山があると発表したことがあった。それは、たちまち外国に電報で伝えられ評判になったが、農商務省の技師たちがまじめに事実を否認したため、曾禰子爵は激怒して金鉱の管轄を農商務省から大蔵省に移した。
この時山県公爵は、曾禰子爵が気仙の金鉱熱に浮かされているのを危ぶみ、ある宴席でそのことを語りはじめたところ、高田氏は左右を見回し、声高に「気仙に金鉱あるのは事実です、このことについては、いずれ明日参上して、委細申し上げます」といって、翌日山県公爵を訪問し、「今や大戦中にあたり、海外において日本に金鉱ありという評判があるのは、まことにもっけの幸いである。農商務省の技師が大勢に通じないままに、むやみにこれを否認するのは大馬鹿者である。閣下より、農商務大臣の清浦子爵【のち伯爵】に御沙汰あり、技師たちの主張を取り消させるほうが得策でありましょう」と申し出た。
山県公爵も、いかにももっともであるとして、すぐにこの旨を清浦農相に伝え、金鉱有無論もうやむやのままに立ち消えとなったが、当時外債募集のためにイギリスに出張中だった高橋是清子爵は、この風説が募債の助けになったということである。
この例なども、高田氏の頓才が場合によって縦横に活躍したひとつのあかしとして見られるべきではなかろうか。
高田氏は、中年より思い立って、仏画や、宋、元、ならびに本朝の古画の蒐集をはじめ、下條桂谷画伯を顧問にしてその選別を任せた。そのため、収蔵の富は東都における一方の重鎮たるにいたったが、そのなかに弘法大師筆とされる木筆不動尊の大幅があった。
これは、明治四十一(1908)年に、高田氏が高野山の龍光院で感得した(注・修行して手に入れた)ものなので、信仰と鑑賞の両方の意味を兼ねており、翌明治四十二年から、本郷湯島の自邸で不動祭をとりおこなうことになった。
大正三(1914)年三月二十八日の不動祭は非常に盛大なものであった。当日、各室に陳列されたもののなかには、土佐為継(注・藤原為継)筆の在原行平像、伝信実(注・藤原信実)筆の藤原鎌足像、趙子昂筆の廬同煎茶図、崔白筆の波に群鷺図、渡辺崋山筆の富士山図など、稀代の名品が少なくなかった。
その日主人が短冊にしたためた和歌には、
年ごとの今日の祭にみすがたを 仰げば更に尊かりけり
とあり、また同じく短冊に物された山県含雪公爵の歌は、
かくれゐし高野の奥のみほとけは 世に出でてこそ光ありけれ
というものだった。
そのころの高田氏は、おそらく成功の絶頂期であっただろう。氏の没後まもなく起こった大正十二年の大震火災では湯島の本邸が烏有に帰し、上記の数々の書画を一炬に付して(注・いっきょにふして。全部燃やして)しまったが、氏が生前にこの悲惨を見ることなく亡くなったことは、むしろ幸運であったかもしれない。
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百六十 高野山霊宝館の発端(下巻45頁)
私は明治四十五(1912)年から趣味に生きる人間になったので、美術、工芸、文学に関する各種の事業において、みずから進み出たり人から推されたりして奔走することになった。そのようなもののひとつに、同年の六月から発足して約十年後にようやく完成した高野山霊宝館の建設事業がある。
そもそもこの事業は高野鉄道の発起人である根津嘉一郎氏らが、この鉄道を繁昌させる方策として高野山に宝物館を設けようと提唱したことに始まる。ひとつには一般人に観覧の機会を与えようということと、もうひとつには火災の危険を防ぐ必要があると提唱したのである。弘法大師の信仰者であり、また同山の宝物の真価を知り尽くしていた益田孝、朝吹英二、高田慎蔵の諸氏が賛成し、彼らが私に趣意書の起草を非常に熱心に依頼されたので、次のような大要の一文を作りその求めに応じることになった。これが高野山霊宝館の建設のはじまりだった。
高野山霊宝館建設趣意書(注・旧字を新字にあらためたほかは原文通り、なお、「萬象録」明治45年6月29日にも同趣意書が掲載されているが、文言が微妙に違っている。後者は、たとえば「本邦名刹はと問ふ者あれば人先づ指を高野山に屈せん」で始まっている)
人あり若し本邦の名刹を問ふ者あらば、必ず先づ指を高野山に屈せん、此一事開山大師の徳業が、如何に当山に集中せるやを示すと同時に、之を永遠に保存するの必要も、亦自づから明白ならん、而して此保存事業中、即今一日も捨て置く可からざるものは、高野山霊宝館の設立即ち是れなり、由来当山の宝物は、大師の唐朝より請来したる書画、法器、歴代聖僧の手に成れる仏体、仏具、各種の図像、詔勅、官符、衣裳、刀剣、凡百器具書類に至るまで、歴史に於て信拠すべく、法儀に於て尊重すべく、美術に於て鑑賞すべき者にして、既に国宝に指定せられたる者、百数十点の多きに及べりと云う。然るに此等の宝物は、総本山たる金剛峯寺の所管に属する一部分の外、或は各寺院、或は各個人の名義に属して、統一集中の道を得ず、第一火災、第二湿汚の危険あるのみならず、其取扱の不完全なるが為め、毀壊相継ぎ、遂に宝物たるの真価を失ふの恐なしとせず、聞くが如くんば高野鉄道は、早晩其工程を進めて、汽車の山頂に往来するに至るも、亦応さに(注・またまさに)遠からざるべしと。果して然らば、山上の人煙更に加り、参詣の群衆更に倍する事必然にして、此際因て生ずべき不慮の災難を防ぎ、因て要すべき観覧の便宜を謀り、茲に高野山宝物館を当山内に設立するは、豈に焦眉の急事業にあらずや。是れ啻(注・ただ)に祈願報恩の為めのみにあらず、今後永く大師以下諸名僧の遺烈を仰ぎ、又平安朝文献の余影を留め、本邦歴史文学美術の参考に資する所以にして、其関係する所重大なりと云ふべし。大方の諸賢、冀(注・こいねがわ)くは某等の微志を賛助せられ、速に浄財を喜捨して此発願を成就せしめ給はんことを、熱願渇望の至りに堪へず、某等敬白。
明治四十五年六月吉祥日
この趣旨については、高野山金剛峰寺の管長、密門宥範大僧正らももちろん大賛成で、宝城院住職の佐伯宥純師を全権委員に任命し、いよいよ資金勧化にとりかからせた。佐伯師は、僧侶の中では稀に見る敏腕家で、しかも非常に熱意をもってこれに当たられたので、事業は非常に進行した。
ところが大正七(1919)年七月に上京のおり、腸チフスにかかり突然遷化されたので、ここでいったん頓挫することになった。その時、馬越恭平翁は非常な義侠心を発揮し、この事業を完成させなければ死んだ佐伯師に対して合わす顔がないとして、私と野崎広太氏を補佐役にして、三人が協力して資金を募集することになった。
当時は好況な時代だったので、諸大家の蔵器入札会が頻繁に行われたのを幸いに、その入札に関係した札元などを説得して、その手数料の一部を何度も喜捨に回してもらった。そしてとうとう十二万円ほどの資金を集めることに成功したので、今回は、最初から縁故が深かった益田孝、朝吹英二、馬越恭平、根津嘉一郎、原富太郎(注・三渓)、野崎広太と私の七名が、不足分を各自七千円ほど出し合って建設費の十七万円とし、さらに高野山から補給された十万円余りと合わせて霊宝館建設に着手した。
木材はすべて高野山から伐り出したため費用を大きく減らすことができ、結果としては五十万円程度で霊宝館ができ上ったのであった。
なお、佐伯師遷化のあとは、金剛峯寺執事の藤村密幢師【のちに大僧正大覚寺門跡】がかわって尽力し、大正十(1921)年五月十五日に、ついに開館式を挙行することができた。この開館前後の様子についてはまた後段において叙述することにしたい。(注・261「高野山霊宝館落成式」を参照のこと)