だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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  高橋義雄 箒のあと(全) 目次  
   人名索引を追加しました


 第一期 幼時 文久元年より明治三年まで
1   幼時の記憶、腕白小僧 (上巻3、4頁)//
5  党争の余毒 (上巻14頁)//
6  元喜按摩、水戸の家塾 (上巻16、17頁)


 第二期 少年 明治四年より同十三年まで
7   麗人の栄枯、家禄の奉還 (上巻21、22頁)//
8   武士の訓言、異様の丁稚 (上巻24、25頁)//
10 慈母の奮闘、自炊の生活 (上巻30、32頁)//
11 共同の学塾、水戸の学者 (上巻33、35頁)//
13 少年の願望、新人の感化 (上巻40、41頁)//
14 地方中学の三年間 (上巻43頁)//
15 未見の福澤先生 (上巻45頁)//

   第三期 青年 明治十四年より同二十三年まで
18 福澤先生の演説 (上巻58頁)//
22 論説の執筆(上巻71頁)//
23 福澤先生の雑話(上巻75頁)//
25 道楽者の親玉(上巻81頁)朝吹英二//
26 粗忽者の隊長(上巻84頁)朝吹英二//
29 相馬事件初回の顛末(上巻94頁)後藤新平談//
43 外遊中の知人(上巻139頁)//
44 外国名優の印象(上巻142頁)//
47 貧富問題、廃娼問題(上巻152、154頁)//
49 副島種臣伯、老伯の歌才(上巻159、161頁)//
50 薩摩の豪傑、商政一新(上巻162、164頁)奈良原繁//
52 初見の井上馨侯(上巻169頁)//
 
  第四期 実業 明治二十四年より同三十四年まで
57 転禍為福、三池炭鉱(上巻189、191頁)//
58 三井中興の第一歩(上巻192頁)//
61 君民共楽、御前素人能(上巻204、205頁)
62 後の相馬事件(上巻208頁)//
66 吉原謳歌の名残、応挙屏風の割愛(上巻222、225頁)川田小一郎、森村市左衛門//
67 関西の探題、生仏の雨曝(上巻226、228頁)東本願寺//
68 大阪の商傑(上巻230頁)松本重太郎、田中市兵衛、広瀬宰平、土居通夫、平瀬亀之助、鴻池善右衛門//
70 在阪知友の思い出(上巻237頁)岩下清周、武藤山治、小林一三ほか//
74 三越呉服店の改革(上巻251頁)//
75 九代目団十郎(上巻254頁)//
76 呉服小売法の変更(上巻257頁)//
77 東北機場廻り(上巻261頁)
80 千葉勝と紅艶(上巻272頁)千葉勝五郎、益田英作//
82 生兵法の側杖、道具の虎の巻(上巻279、281頁)朝吹英二//
83 江戸気分の名残(上巻283頁)平岡吟舟//
84 助六の古式、富永の毒舌(上巻286、288頁)*平岡吟舟、富永冬樹//
85 明治中期の芸人(上) (上巻290頁)団菊左、三遊亭円朝、桃川如燕、松林伯円ほか//
86 明治中期の芸人(下) (上巻293頁)常盤津林中、清元延寿大夫、竹本摂津大掾ほか//
87 梅若流稽古(上巻296頁)//
88 明治能楽界の三傑(上巻299頁)宝生九郎、梅若実、桜間左陣//
89 下條桂谷画伯(上巻303頁)//
90 美術鑑賞熱(上巻306頁)龍池会、大師会、天狗会、二二会、和敬会//
92 寸松庵開き(上巻313頁)//
96 先師の捐館、稀代の偉人(上巻327頁)*福沢諭吉//
97 大隈の福澤評(上巻331頁)//
101 三井宗竺遺書(上巻345頁)//
102 大家の主人公(上巻349頁)三井八郎右衛門//
103 中上川の業蹟(上巻352頁)//

  第五期 実業 明治三十五年より同四十四年まで
104 杉聴雨先生(上巻359頁)杉孫七郎//
105 道具争奪戦の勝敗(上) (上巻362頁)井上馨、福地桜痴、益田孝、馬越恭平//
106 道具争奪戦の勝敗(下) (上巻365頁)井上馨、益田孝、馬越恭平//
107 益田無為庵の茶風(上巻369頁)益田克徳//
108 天下仏画の圧巻(上巻372頁)井上馨、原三渓、益田孝//
109 道具界の大鰐、青磁香炉の裁判(上巻376、378頁)赤星弥之助、加藤正義、山澄力蔵//
110 道具買収の大手筋、生涯貧乏の道具商(上巻379、381頁)根津嘉一郎、春海藤次郎//
111 東明流発端、東明流端書、月の霜夜(上巻383、384、385頁)平岡吟舟//
112 長唄研精会来歴(上巻386頁)吉住小三郎、稀音家六四郎//
113 茶人失策談(上)感服七種、褒めて叱られる(上巻389頁)浅田正文、馬越恭平、伊集院兼常、伊丹元蔵//
117 目白椿山荘講評(上巻404頁)//
119 箒庵と箒の歌(上巻411頁)//
120 元禄模様の流行(上巻415頁)//
122 日本百貨店の先鞭(上巻422頁)//
124 九州の実業大家(上) (上巻429頁)野田卯太郎、永井純一、安田敬一郎、麻生太吉//
125 九州の実業大家(下) (下巻433頁)貝島太助、伊藤伝右衛門、平岡浩太郎//
128 能楽翁の神秘(上巻443頁)梅若実、梅若六郎//
130 安田松翁出世談(上) (上巻450頁)安田善次郎//
132 金色平沼の真相(上巻456頁)平沼専蔵//
134 和歌修業の端緒(上巻463頁)小出粲//
135 小出粲翁の和歌(上巻466頁)//
136 大日本史の完成(上巻470頁)//
139 河東節稽古初め、清元師匠お若(上巻781頁)山彦秀次郎//
140   老少無常(上巻484頁) 高橋常彦、高橋千代子//
142 家族の消長、家庭の音曲(上巻492、494頁)//
143 音羽護国寺、高城大僧正(上巻496、498頁)//
144 帝国劇場の使命(上巻499頁)//
145 北海道の雪見(上巻503頁)//
146 王子製紙の二年半(上巻506頁)//
148 実業社会に告別(上巻523頁)//



下巻目次
  第六期 文芸 明治四十五年より大正十年まで
151 茶道記と万象録(下巻10頁)//
153 裳川詩老の俳味(下巻18頁)//
167 乃木大将の殉死(下巻69頁)//
170 顔輝の寒山拾得(下巻80頁)//
175 東京の庭石(下巻97頁)//
177 群書索引 広文庫(下巻104頁)//
179 内田山掛物揃い(下巻112頁)//
180 実験上の宿命観(下巻115頁)//
181 脱線党の一人者(下巻119頁)紅艶益田英作(汽車中で近善を捕虜にする、新発明湯タンポの破裂、警句とポンチの天才)//
182 三井松籟翁の茶品(下巻123頁)//
183 朝吹柴庵道具逸話(下巻126頁)朝吹英二//
184 大倉鶴彦喜寿狂歌集(下巻130頁)大倉喜八郎//
187 京都の三曲界(下巻142頁)//
188 白紙庵構築の由来(下巻146頁)//
196 正金銀行創設の経緯(下巻174頁)中村道太//
198 花柳国の女将軍(下巻182頁)//
199 大隈(重信)侯爵懐旧談(上) (下巻185頁)//
202 香川皇后宮大夫(下巻196頁)香川敬三//
205 高田慎蔵氏の風骨(下巻206頁)//
206 法螺丸翁の刀剣談、太郎冠者の舞曲談(下巻210、211頁)杉山茂丸、益田太郎//
210 大江天也坊(下巻223頁)大江卓//
212 老母の永眠(下巻230頁)//
216 古稀庵の観楓(下巻245頁)//
217 元老の忠勤(下巻249頁)山県有朋//
222 木瓜唐花、大江定基(下巻267、268頁)//
223 鷹峯光悦会発端(下巻270頁)//
224 龍年の余興(下巻274頁)平岡吟舟//
225 伊達家道具入札会(下巻278頁)//
226 波多野長者、藤原の紙成(下巻282、284頁)波多野承五郎、藤原銀次郎//
228 秋山真之将軍(下巻290頁)//
229 赤星家蔵器処分(下巻294頁)//
230 薪寺の一夜(下巻298頁)//
231 名物男柴庵翁の易簀(下巻302頁)朝吹英二//
232 郭公落し文(下巻305頁)//
233 舞踏劇馬郎婦(下巻309頁)//
234 越路太夫芸談(上) (下巻314頁)//
235 越路太夫芸談(中) (下巻317頁)//
236 越路太夫芸談(下) (下巻320頁)//
237 独逸狩猟談 高田釜吉//
238 虎肉試食会(下巻328頁)山本唯三郎//
240 超人的手裏剣(下巻335頁)高田釜吉//
241 蛙の行列(下巻339頁)平岡吟舟//
242 水国飛将軍(下巻342頁)高田釜吉//
243 決闘実験談(上)(下巻346頁)高田釜吉//
244 決闘実験談(下)(下巻349頁)高田釜吉//
245 古稀庵の石と竹(下巻352頁)
247 往生極楽院山門(下巻360頁)大原三千院//
248 梅幸の人形(下巻363頁)//
249 白頭宰相原敬氏(下巻367頁)//
250 山県元帥の対支観(下巻371頁)//
251 角田竹冷宗匠(下巻375頁)//
254 正倉院拝観新例(下巻386頁)//
255 犬養木堂翁刀剣談(下巻390頁)//
256 信実歌仙断簡式(下巻394頁)佐竹本三十六歌仙絵巻//
257 山県公の大西郷評(下巻397頁)//
258 鴻池家名器(下巻401頁)//
259 大口御歌所寄人(下巻405頁)大口鯛二//
262 名笛大獅子(下巻416頁)杉山立枝//
263 玉菊三味線供養(下巻419頁)小泉三申、馬越恭平//
264 益田紅艶冥土入り(下巻422頁)益田英作//
265 小倉色紙披露会(下巻427頁)//
 
  第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
266 山県有朋公の薨去(下巻433頁)//
267 伏見大宮御殿の一夕(上)(下巻436頁)藤田彦三郎//
269 大倉翁の値切じまい(下巻444頁)大倉喜八郎//
270 名物形石灯籠供養(下巻447頁)//
275 若州酒井家名器(下巻465頁)
276 大震火災と名器(下巻468頁)
277 嬉森庵の命拾い(下巻472頁)
279 中村画伯の遺物(下巻478頁)中村彜(つね)//
282 平家納経副本完成(上) (下巻489頁) 田中親美//
284 東郷元帥懐旧談(下巻496頁)
285 仏法僧(下巻500頁)
286 延寿大夫芸談(下巻503頁)
287 延寿達磨(下巻507頁)//
288 医茶一途論(下巻510頁)真鍋嘉一郎//
289 大正名器鑑の編著(下巻514頁)//
290 名器三十本茶杓(下巻517頁)//
291 松屋肩衝争奪戦(下巻522頁)//
292 三十六人集分譲(下巻525頁)西本願寺三十六人家集//
293 現役大臣の茶の湯(下巻529頁)渡辺千冬司法大臣//
294 隅田公園記念碑(下巻533頁)//
295 盛久能平家経(下巻536頁)//
296 日本一の勉強家(下巻540頁)徳富蘇峰//
297 栂尾高山寺遺香庵(下巻544頁)//
298 大津馬茶会と新曲(下巻548頁)根津嘉一郎//
299 故犬養首相遺事(下巻551頁)
300 和製張子房(下巻555頁)久原房之助//



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二百三十七  独逸狩猟談(下巻324頁)

 大正八(1919)年一月末のことであった。私はある晩、井上勝之助侯爵(注・井上馨の甥で養嗣子)に招かれて築地の瓢家に出かけたが、その席には、高田釜吉、岩原謙三、有賀長文、野崎広太諸氏の顔が並んでいたので雑談は八方に飛び広がり、興味はいやがうえにも沸き立った。
 なかでも高田釜吉君のドイツ留学中の狩猟談は興味津々たるものがあり、非常に参考になるべきところがあるので、その大要を紹介しておこう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

「私は本来、狩猟が好きなので、ドイツ留学中、ひととおり、かの国の形式を研究せんと思い、あるとき同国において名高い狩猟先生方に入門しましたが、不思議なことには、日本において囲碁の階級に、九段を名人といい、八段を上手というがごとく、ドイツにおいてもやはり、狩猟の名人を九段と呼んで居るのである。
 ところでこの先生は、いわゆる名人の称あるにそむかず、狩猟上においては、ただその目的物を撃ち取るのみをもって能事とせず、それぞれの場合に応ずる心の働きを主として、優等合格の弟子には、卒業の際、三段の免状を与うるのであります。
 私が卒業の際は、同級生が七人ありましたが、私は幸いにして、その第二番目で卒業することを得ました。しかしてその卒業試験というのが、いわゆる心の働きを主とするもので、第一番の生徒に対する試験は、小鳥が七羽飛んできたのを打ち取るべしと命じたのでありますが、さすがに第一番の位置を占めるほどなれば、二連発にて、まず最初の一羽を打ち、第二弾にてその次の一羽を打ち落としたところが、先生は非常に不機嫌で、そもそもこの小鳥は、スウェーデン(原文「瑞典」)、ノルウェー(原文「諾威」)などより独逸に飛び来たった渡り鳥である。されば、ドイツ国よりいえば、かかる外国の渡り鳥は、一羽も残さず、ドイツの国内で打ち取らなくてはならぬ。すなわち、この鳥の飛び来たった時、まずやりすごして、いずれかに落ちたところを待ち受け、時宜を見計らって打ち取らば、七羽中の四、五羽くらいは手に入るべきはずなるに、一時に二羽を打ち取って、残る五羽をドイツ国外に取りのがしたのは、狩猟者として、はなはだ無念の至りである、とて、三段の免許を与えず、それを二段に落としたのである。

 さてその次は私の順番で、ある池の中に三羽の鴨が下りて居るのを打ち取れということであったが、私は前例に懲りて居るから、なんでも三羽を残らず打ち取らなくてはならぬと思い、さまざまに工夫して、稍(注・やや=しばらく)一時間ほど小蔭に隠れて待って居ると、折よくも、二羽の鴨が一列に打ち重なったので、たちまち一発にしてこれを撃ち取り、他の一羽が驚いて飛び上がったところを、さらに撃ち取って、三羽ともにしとめたので、まず良かったと思って先生の前に出ると、先生が言わるるには、鴨は大型の鳥であり、ことに、池水に浮かみ居るところなれば、これを撃ち取るのは無造作であるが、一時間余りも辛抱して、時期の来るのを待っていたその耐忍に対して、三段の免許を与うべしとて、図らずも優等卒業の光栄を得た。
 右様の次第で、かの国の狩猟試験が、日本の剣道物語に伝わって居るがごとく、心の働きに重きを置くという一事は、東西相対して、まことに興味ある行方だろうと思います。
 またあるとき、今晩の主人である井上(注・勝之助)侯が、ドイツ皇帝(注・ヴィルヘルム2世か)から、かの禁猟地においてアワーハンスといえる名鳥(注・詳細不明)を狩猟する許可を得たことがある。このとき私は井上侯の随行員として禁猟地に赴きたるに、狩猟長官は私等にむかい、『そもそも、このアワーハンスは、ドイツ領内に五、六十羽のほか棲息せざる鳥なれば、皇帝のほか、これを狩猟することを得ないのである。しかして、その形は、七面鳥のごとく、肩に青き毛を被り(注・肩が青い毛でおおわれ)、尾は孔雀のごとく団扇形に開くもので、かなり大型の鳥ではあるが、その挙動がきわめて鋭敏で、大木の間を飛び回り、容易に人を近づけぬが、ただ、かの交尾期にあたっては、小高きところにとまって、チッチッと鳴いて居る、このときばかりは、かの耳に外物が聞こえぬものとみえ、彼に接近してこれを撃ち取ることができるのである』と説明した。
 ここにおいて私は、是非ともこれを撃ち取りくれんと決心し、井上侯と離れて諸処を徘徊する間に、折よくも、アワーハンスを認めて、一発にてこれをしとむることを得た。 ところがその翌日のベルリン(原文「伯林」)新聞紙は、皇帝陛下がかつて他国人に許したことのない狩猟を日本の大使に許されたとて大々的に特筆されたが、このアワーハンスは、はく製として日本に持ち帰り養父高田慎蔵の湯島邸に保存してありますから、そのうち一度ご覧になるが宜しかろう云々。」

 高田氏は前記のとおり、ドイツ仕込みの狩猟家なので、以前、伊豆地方で一日に二十八頭の鹿を打ちとめたことがあるそうだが、鹿は百間(注・約180メートル)以内には人を寄せつけず、また、胸先の三寸四方(注・一寸は約3センチ)くらいの、ある場所に命中しなければ、手負いのままに遠くまで逃げてしまう恐れがあるので必ず急所を打たなくてはならない。
 かくして、二十八頭の鹿を並べて猟師たちに見せたところ、その鉄砲がことごとく急所に当たっていたので、彼らも舌を巻いて感服したということである。


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二百五  高田慎蔵氏の風骨(下巻206頁)

 明治の初期から大正末期にいたるまで陸軍御用達の貿易商を営んで内外の信用を博し、朝野(注・政府と民間)の各方面に知人多く、書画骨董を好んで、おりおり風雅の会合を催すなど、東京の紳商のなかにあって一種異様な風骨を備えていた高田慎蔵氏は、佐渡国相川の土着士族のせがれである。
 佐渡は幕府の直轄なので、王政維新の際に、幕臣で後年茨城県知事などを勤めた中山信安が、同地の士族の一団を率いて会津軍に加勢しようとしたとき、高田氏はいまだ十四、五歳の少年ながらその徒党に加わって出陣しようとした。しかしその前に裏切り者が現れて、結局これを果たすことはできなかったが、士族の子として一種の気概をたたえていたことは、後年に東都の交際裡に立つにおよんで自然とその素養をうかがうに足るものがあった。
 明治二(1869)年に、井上勝子爵が、イギリス人のガール(注・鉱山技師エラスマス・ガワ―のことだと思われる)という鉱山技師を従えて佐渡を視察したとき、高田氏はその才気を認められ、いろいろと立身出世上の助言を得、明治三年に上京してドイツ商人が経営していた商店(注・アーレンス商会)に住み込んだ。
 明治十二(1879)年に諸官庁が西洋人から品物を買わないという布達を出したので、そのドイツ商店(注・アーレンス商会ではなくベア商会に当時勤めていた)は表面上、高田商会の名前で陸軍御用達を勤めることになり、同二十二年には、高田氏が完全に私有するにいたり、以来、高田組の名声は旭日沖天の勢いを呈するにいたったのである。
 高田氏はもともと左利き(注・酒好き)であったが、とりわけ洋酒を好み、湯島にあった氏の西洋館の地下の洋酒倉には葡萄酒その他各種の洋酒類が蓄えられ、およそ百年くらい前からの生産年別に品等を分け、室内の温度をいつも六十度(注・華氏60度は摂氏約15.6度)くらいにして保存するというたいへんな手間ひまかけた入れこみようだった。
 かの世界大戦中にフランスからの葡萄酒輸出が途絶したとき、「東洋でボルドー産の古葡萄酒を保蔵するのは、ただ我が酒倉のみなり」と自慢して、各国大公使蓮を羨ましがらせたのは有名な逸話だ。
 高田氏はとくに学問をした様子もないが、佐佐木信綱氏について晩学ながらも和歌を学び、また座談に長じ、ときどき頓智をひらめかすこともあった。
 日露戦争中、曾禰子爵(注・曾禰荒助)が大蔵大臣であったが、日本で金貨の不足が憂慮されたとき、奥州気仙山に金脈があるという風説を信じて日本に大金山があると発表したことがあった。それは、たちまち外国に電報で伝えられ評判になったが、農商務省の技師たちがまじめに事実を否認したため、曾禰子爵は激怒して金鉱の管轄を農商務省から大蔵省に移した。
 この時山県公爵は、曾禰子爵が気仙の金鉱熱に浮かされているのを危ぶみ、ある宴席でそのことを語りはじめたところ、高田氏は左右を見回し、声高に「気仙に金鉱あるのは事実です、このことについては、いずれ明日参上して、委細申し上げます」といって、翌日山県公爵を訪問し、「今や大戦中にあたり、海外において日本に金鉱ありという評判があるのは、まことにもっけの幸いである。農商務省の技師が大勢に通じないままに、むやみにこれを否認するのは大馬鹿者である。閣下より、農商務大臣の清浦子爵のち伯爵に御沙汰あり、技師たちの主張を取り消させるほうが得策でありましょう」と申し出た。
 山県公爵も、いかにももっともであるとして、すぐにこの旨を清浦農相に伝え、金鉱有無論もうやむやのままに立ち消えとなったが、当時外債募集のためにイギリスに出張中だった高橋是清子爵は、この風説が募債の助けになったということである。
 この例なども、高田氏の頓才が場合によって縦横に活躍したひとつのあかしとして見られるべきではなかろうか。
 高田氏は、中年より思い立って、仏画や、宋、元、ならびに本朝の古画の蒐集をはじめ、下條桂谷画伯を顧問にしてその選別を任せた。そのため、収蔵の富は東都における一方の重鎮たるにいたったが、そのなかに弘法大師筆とされる木筆不動尊の大幅があった。
 これは、明治四十一(1908)年に、高田氏が高野山の龍光院で感得した(注・修行して手に入れた)ものなので、信仰と鑑賞の両方の意味を兼ねており、翌明治四十二年から、本郷湯島の自邸で不動祭をとりおこなうことになった。
 大正三(1914)年三月二十八日の不動祭は非常に盛大なものであった。当日、各室に陳列されたもののなかには、土佐為継(注・藤原為継)筆の在原行平像、伝信実(注・藤原信実)筆の藤原鎌足像、趙子昂筆の廬同煎茶図、崔白筆の波に群鷺図、渡辺崋山筆の富士山図など、稀代の名品が少なくなかった。
 その日主人が短冊にしたためた和歌には、

  年ごとの今日の祭にみすがたを 仰げば更に尊かりけり

とあり、また同じく短冊に物された山県含雪公爵の歌は、

  かくれゐし高野の奥のみほとけは 世に出でてこそ光ありけれ

というものだった。
 そのころの高田氏は、おそらく成功の絶頂期であっただろう。氏の没後まもなく起こった大正十二年の大震火災では湯島の本邸が烏有に帰し、上記の数々の書画を一炬に付して(注・いっきょにふして。全部燃やして)しまったが、氏が生前にこの悲惨を見ることなく亡くなったことは、むしろ幸運であったかもしれない。


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百六十  高野山霊宝館の発端(下巻45頁)

 私は明治四十五(1912)年から趣味に生きる人間になったので、美術、工芸、文学に関する各種の事業において、みずから進み出たり人から推されたりして奔走することになったそのようなもののひとつに、同年の六月から発足して約十年後にようやく完成した高野山霊宝館の建設事業がある。
 そもそもこの事業は高野鉄道の発起人である根津嘉一郎氏らが、この鉄道を繁昌させる方策として高野山に宝物館を設けようと提唱したことに始まる。ひとつには一般人に観覧の機会を与えようということと、もうひとつには火災の危険を防ぐ必要があると提唱したのである。弘法大師の信仰者であり、また同山の宝物の真価を知り尽くしていた益田孝、朝吹英二、高田慎蔵の諸氏が賛成し、彼らが私に趣意書の起草を非常に熱心に依頼されたので、次のような大要の一文を作りその求めに応じることになった。これが高野山霊宝館の建設のはじまりだった。

   高野山霊宝館建設趣意書(注・旧字を新字にあらためたほかは原文通り、なお、「萬象録」明治45年6月29日にも同趣意書が掲載されているが、文言が微妙に違っている。後者は、たとえば「本邦名刹はと問ふ者あれば人先づ指を高野山に屈せん」で始まっている)
 

人あり若し本邦の名刹を問ふ者あらば、必ず先づ指を高野山に屈せん、此一事開山大師の徳業が、如何に当山に集中せるやを示すと同時に、之を永遠に保存するの必要も、亦自づから明白ならん、而して此保存事業中、即今一日も捨て置く可からざるものは、高野山霊宝館の設立即ち是れなり、由来当山の宝物は、大師の唐朝より請来したる書画、法器、歴代聖僧の手に成れる仏体、仏具、各種の図像、詔勅、官符、衣裳、刀剣、凡百器具書類に至るまで、歴史に於て信拠すべく、法儀に於て尊重すべく、美術に於て鑑賞すべき者にして、既に国宝に指定せられたる者、百数十点の多きに及べりと云う。然るに此等の宝物は、総本山たる金剛峯寺の所管に属する一部分の外、或は各寺院、或は各個人の名義に属して、統一集中の道を得ず、第一火災、第二湿汚の危険あるのみならず、其取扱の不完全なるが為め、毀壊相継ぎ、遂に宝物たるの真価を失ふの恐なしとせず、聞くが如くんば高野鉄道は、早晩其工程を進めて、汽車の山頂に往来するに至るも、亦応さに(注・またまさに)遠からざるべしと。果して然らば、山上の人煙更に加り、参詣の群衆更に倍する事必然にして、此際因て生ずべき不慮の災難を防ぎ、因て要すべき観覧の便宜を謀り、茲に高野山宝物館を当山内に設立するは、豈に焦眉の急事業にあらずや。是れ啻(注・ただ)に祈願報恩の為めのみにあらず、今後永く大師以下諸名僧の遺烈を仰ぎ、又平安朝文献の余影を留め、本邦歴史文学美術の参考に資する所以にして、其関係する所重大なりと云べし。大方の諸賢、冀(注・こいねがわ)くは某等の微志を賛助せられ、速に浄財を喜捨して此発願を成就せしめ給はんことを、熱願渇望の至りに堪へず、某等敬白。
 明治四十五年六月吉祥日


 この趣旨については、高野山金剛峰寺の管長、密門宥範大僧正らももちろん大賛成で、宝城院住職の佐伯宥純師を全権委員に任命し、いよいよ資金勧化にとりかからせた。佐伯師は、僧侶の中では稀に見る敏腕家で、しかも非常に熱意をもってこれに当たられたので、事業は非常に進行した。
 ところが大正七(1919)年七月に上京のおり、腸チフスにかかり突然遷化されたので、ここでいったん頓挫することになった。その時、馬越恭平翁は非常な義侠心を発揮し、この事業を完成させなければ死んだ佐伯師に対して合わす顔がないとして、私と野崎広太氏を補佐役にして、三人が協力して資金を募集することになった。
 当時は好況な時代だったので、諸大家の蔵器入札会が頻繁に行われたのを幸いに、その入札に関係した札元などを説得して、その手数料の一部を何度も喜捨に回してもらった。そしてとうとう十二万円ほどの資金を集めることに成功したので、今回は、最初から縁故が深かった益田孝、朝吹英二、馬越恭平、根津嘉一郎、原富太郎(注・三渓)、野崎広太と私の七名が、不足分を各自七千円ほど出し合って建設費の十七万円とし、さらに高野山から補給された十万円余りと合わせて霊宝館建設に着手した。
 木材はすべて高野山から伐り出したため費用を大きく減らすことができ、結果としては五十万円程度で霊宝館ができ上ったのであった。
 なお、佐伯師遷化のあとは、金剛峯寺執事の藤村密幢師のちに大僧正大覚寺門跡がかわって尽力し、大正十(1921)年五月十五日に、ついに開館式を挙行することができた。この開館前後の様子についてはまた後段において叙述することにしたい。(注・261「高野山霊宝館落成式」を参照のこと)
 


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