だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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「箒のあと」に登場する人名の索引 
 

 2年ほど前から公開していた「【箒のあと】現代語訳(的なもの?)」の校正作業を、ようやく終えることができた。ずっと手をつけることができずに気になっていたが、なかなかエンジンがかからなかった。しかし始めてみると思っていた以上に間違いが多く、これを放置していたのかと思うと冷や汗のかきどおしだった。ひととおり見直し、気づいた限り訂正したので、少しは精度があがっているのではないかと思う。


 校正作業に並行して、本に登場する全人物の「索引」を作成した。これも2017年の段階で作っていたものだが、その時点では不備が多すぎて公開ははばかられた。今回の校正作業にあたっては、この索引を充実させることもひとつの目標だった。こちらも、本文以上に間違いだらけだったので、一度くらい見直したからといって完璧になっているとはとても思えないが、いまのところこの作業をもう一度繰り返す気力はなく、不備は重々承知で公開することに決めた。
 箒のあと 人名索引 PDF へ




 【索引中、各人のおぼえがきとしてつけたメモは、わたし自身のためのもので、公開時には隠してもよかったが、どなたかの、なんらかの手がかりになることもあるかもしれないと思いそのままに残した。よってこの欄にはあまり注意を払わないでいただけると幸いです。】






【箒のあと(全)・目次へ







 

高橋義雄『箒のあと』上・下巻(昭和8年、秋豊園刊)の本文を、やや読みやすい現代文になおして紹介するにあたり、その目的と方針を示す。

「箒のあと」は、「大正名器鑑」「近世道具移動史」「萬象録」や数々の茶会記の著者で、前半生を実業家として、後半生を趣味人として生きた箒庵高橋義雄(18611937)が、昭和6年から一年にわたり、都新聞紙上で発表した自叙伝的文章(1300章 箒のあと(全)目次へ)である。今日でいう日経新聞の「私の履歴書」のようなもので、箒庵の趣味の多様さ、交友関係の広さにより、箒庵が生きた時代の文化状況、人物交流の一端を知る豊富な材料が提供された面白い読み物になっている。★2020年11月に人名索引を追加しました。

 わたしは、ある近代数寄者への興味から本書に接したが、この本が、当時のことを研究するごく限られた人に読まれているだけでは惜しいと思った。原書の入手は、やや困難とはいえ不可能ではないし、図書館での閲覧も可能だ。しかし絶版になって久しく、必要もない人がわざわざ手に取る種類の本ではない。なによりも分量がかなりある。そこで、ウェブで公開し、どこでも好きなところを読んでもらえるようにしておき、興味を持たれた方には原書にあたってもらうことにしたらどうかと思った次第である。
 そこで、ここではなによりもまず、必要文献として本書をひもとくのではないほとんどの人に、どこでも一頁、二頁とつまみぐいしていただけるよう、また速いスピードで読んでもらえるようにすることを目標にした。現代文になおしたものは、400字詰め原稿用紙で1700枚程度、文庫本3冊ほどの長さになった。

 書かれている内容を明らかにすることに主眼があるため、原文の言い回しをなるべく残しながらも、本文どおりではない。よって、ここからの引用は原書を引用することにはならないことに注意していただきたい。以下、その他のいくつかの方針をしるす。


1、基本的に、旧字は新字に、旧仮名遣いは新仮名遣いにあらためた。しかし、人名で旧字を残した場合がいくつかある。その判断基準は主観的なものであることをお断りしておく。

2、本文のなかで【 】内にいれたものは、原著者が原文で( )書きにしているものか、ルビが振られていたものである。

3、日本の元号で記された年には、なるべく( )内に西暦を示すようにした。原文にはないものである。

4、漢文詩については、力量不足で翻訳に間違いが出る可能性が高いので、危険を冒さずそのまま記した。ただし、旧字はおおむね新字に改めた。

5、支那という表現は、本書が書かれた当時、時代を問わず、現在の中国を指す言葉として使われていたので、中国、清などしても定義やニュアンスが違ってくる場合が多い。よって本文では、断りを入れない限り「シナ」という表現で統一した。

6、この著作は高橋箒庵の手記であり、今日の一般的な歴史認識とは相いれないと思われる部分も散見されたが、そのまま残した。あくまで「おもしろい読み物」としてお読みいただきたいと思う。

7、(注)で、難しい読み方のルビを振ったり、その他の注意事項を示したりした。

8、現代語訳を進めていく過程で、原文の表現をより多く残すべきではないかと葛藤することが多くなったため、後半に進むに従い、現代語訳をしない部分が多くなっていることをお断りしておく。

なお、校正上のミス、翻訳上の間違いなどが多々あると思います。もしも見つけてくださったときには、ご連絡いただけると幸いです。

        


あとだし庵主人


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  高橋義雄 箒のあと(全) 目次  
   人名索引を追加しました


 第一期 幼時 文久元年より明治三年まで
1   幼時の記憶、腕白小僧 (上巻3、4頁)//
5  党争の余毒 (上巻14頁)//
6  元喜按摩、水戸の家塾 (上巻16、17頁)


 第二期 少年 明治四年より同十三年まで
7   麗人の栄枯、家禄の奉還 (上巻21、22頁)//
8   武士の訓言、異様の丁稚 (上巻24、25頁)//
10 慈母の奮闘、自炊の生活 (上巻30、32頁)//
11 共同の学塾、水戸の学者 (上巻33、35頁)//
13 少年の願望、新人の感化 (上巻40、41頁)//
14 地方中学の三年間 (上巻43頁)//
15 未見の福澤先生 (上巻45頁)//

   第三期 青年 明治十四年より同二十三年まで
18 福澤先生の演説 (上巻58頁)//
22 論説の執筆(上巻71頁)//
23 福澤先生の雑話(上巻75頁)//
25 道楽者の親玉(上巻81頁)朝吹英二//
26 粗忽者の隊長(上巻84頁)朝吹英二//
29 相馬事件初回の顛末(上巻94頁)後藤新平談//
43 外遊中の知人(上巻139頁)//
44 外国名優の印象(上巻142頁)//
47 貧富問題、廃娼問題(上巻152、154頁)//
49 副島種臣伯、老伯の歌才(上巻159、161頁)//
50 薩摩の豪傑、商政一新(上巻162、164頁)奈良原繁//
52 初見の井上馨侯(上巻169頁)//
 
  第四期 実業 明治二十四年より同三十四年まで
57 転禍為福、三池炭鉱(上巻189、191頁)//
58 三井中興の第一歩(上巻192頁)//
61 君民共楽、御前素人能(上巻204、205頁)
62 後の相馬事件(上巻208頁)//
66 吉原謳歌の名残、応挙屏風の割愛(上巻222、225頁)川田小一郎、森村市左衛門//
67 関西の探題、生仏の雨曝(上巻226、228頁)東本願寺//
68 大阪の商傑(上巻230頁)松本重太郎、田中市兵衛、広瀬宰平、土居通夫、平瀬亀之助、鴻池善右衛門//
70 在阪知友の思い出(上巻237頁)岩下清周、武藤山治、小林一三ほか//
74 三越呉服店の改革(上巻251頁)//
75 九代目団十郎(上巻254頁)//
76 呉服小売法の変更(上巻257頁)//
77 東北機場廻り(上巻261頁)
80 千葉勝と紅艶(上巻272頁)千葉勝五郎、益田英作//
82 生兵法の側杖、道具の虎の巻(上巻279、281頁)朝吹英二//
83 江戸気分の名残(上巻283頁)平岡吟舟//
84 助六の古式、富永の毒舌(上巻286、288頁)*平岡吟舟、富永冬樹//
85 明治中期の芸人(上) (上巻290頁)団菊左、三遊亭円朝、桃川如燕、松林伯円ほか//
86 明治中期の芸人(下) (上巻293頁)常盤津林中、清元延寿大夫、竹本摂津大掾ほか//
87 梅若流稽古(上巻296頁)//
88 明治能楽界の三傑(上巻299頁)宝生九郎、梅若実、桜間左陣//
89 下條桂谷画伯(上巻303頁)//
90 美術鑑賞熱(上巻306頁)龍池会、大師会、天狗会、二二会、和敬会//
92 寸松庵開き(上巻313頁)//
96 先師の捐館、稀代の偉人(上巻327頁)*福沢諭吉//
97 大隈の福澤評(上巻331頁)//
101 三井宗竺遺書(上巻345頁)//
102 大家の主人公(上巻349頁)三井八郎右衛門//
103 中上川の業蹟(上巻352頁)//

  第五期 実業 明治三十五年より同四十四年まで
104 杉聴雨先生(上巻359頁)杉孫七郎//
105 道具争奪戦の勝敗(上) (上巻362頁)井上馨、福地桜痴、益田孝、馬越恭平//
106 道具争奪戦の勝敗(下) (上巻365頁)井上馨、益田孝、馬越恭平//
107 益田無為庵の茶風(上巻369頁)益田克徳//
108 天下仏画の圧巻(上巻372頁)井上馨、原三渓、益田孝//
109 道具界の大鰐、青磁香炉の裁判(上巻376、378頁)赤星弥之助、加藤正義、山澄力蔵//
110 道具買収の大手筋、生涯貧乏の道具商(上巻379、381頁)根津嘉一郎、春海藤次郎//
111 東明流発端、東明流端書、月の霜夜(上巻383、384、385頁)平岡吟舟//
112 長唄研精会来歴(上巻386頁)吉住小三郎、稀音家六四郎//
113 茶人失策談(上)感服七種、褒めて叱られる(上巻389頁)浅田正文、馬越恭平、伊集院兼常、伊丹元蔵//
117 目白椿山荘講評(上巻404頁)//
119 箒庵と箒の歌(上巻411頁)//
120 元禄模様の流行(上巻415頁)//
122 日本百貨店の先鞭(上巻422頁)//
124 九州の実業大家(上) (上巻429頁)野田卯太郎、永井純一、安田敬一郎、麻生太吉//
125 九州の実業大家(下) (下巻433頁)貝島太助、伊藤伝右衛門、平岡浩太郎//
128 能楽翁の神秘(上巻443頁)梅若実、梅若六郎//
130 安田松翁出世談(上) (上巻450頁)安田善次郎//
132 金色平沼の真相(上巻456頁)平沼専蔵//
134 和歌修業の端緒(上巻463頁)小出粲//
135 小出粲翁の和歌(上巻466頁)//
136 大日本史の完成(上巻470頁)//
139 河東節稽古初め、清元師匠お若(上巻781頁)山彦秀次郎//
140   老少無常(上巻484頁) 高橋常彦、高橋千代子//
142 家族の消長、家庭の音曲(上巻492、494頁)//
143 音羽護国寺、高城大僧正(上巻496、498頁)//
144 帝国劇場の使命(上巻499頁)//
145 北海道の雪見(上巻503頁)//
146 王子製紙の二年半(上巻506頁)//
148 実業社会に告別(上巻523頁)//



下巻目次
  第六期 文芸 明治四十五年より大正十年まで
151 茶道記と万象録(下巻10頁)//
153 裳川詩老の俳味(下巻18頁)//
167 乃木大将の殉死(下巻69頁)//
170 顔輝の寒山拾得(下巻80頁)//
175 東京の庭石(下巻97頁)//
177 群書索引 広文庫(下巻104頁)//
179 内田山掛物揃い(下巻112頁)//
180 実験上の宿命観(下巻115頁)//
181 脱線党の一人者(下巻119頁)紅艶益田英作(汽車中で近善を捕虜にする、新発明湯タンポの破裂、警句とポンチの天才)//
182 三井松籟翁の茶品(下巻123頁)//
183 朝吹柴庵道具逸話(下巻126頁)朝吹英二//
184 大倉鶴彦喜寿狂歌集(下巻130頁)大倉喜八郎//
187 京都の三曲界(下巻142頁)//
188 白紙庵構築の由来(下巻146頁)//
196 正金銀行創設の経緯(下巻174頁)中村道太//
198 花柳国の女将軍(下巻182頁)//
199 大隈(重信)侯爵懐旧談(上) (下巻185頁)//
202 香川皇后宮大夫(下巻196頁)香川敬三//
205 高田慎蔵氏の風骨(下巻206頁)//
206 法螺丸翁の刀剣談、太郎冠者の舞曲談(下巻210、211頁)杉山茂丸、益田太郎//
210 大江天也坊(下巻223頁)大江卓//
212 老母の永眠(下巻230頁)//
216 古稀庵の観楓(下巻245頁)//
217 元老の忠勤(下巻249頁)山県有朋//
222 木瓜唐花、大江定基(下巻267、268頁)//
223 鷹峯光悦会発端(下巻270頁)//
224 龍年の余興(下巻274頁)平岡吟舟//
225 伊達家道具入札会(下巻278頁)//
226 波多野長者、藤原の紙成(下巻282、284頁)波多野承五郎、藤原銀次郎//
228 秋山真之将軍(下巻290頁)//
229 赤星家蔵器処分(下巻294頁)//
230 薪寺の一夜(下巻298頁)//
231 名物男柴庵翁の易簀(下巻302頁)朝吹英二//
232 郭公落し文(下巻305頁)//
233 舞踏劇馬郎婦(下巻309頁)//
234 越路太夫芸談(上) (下巻314頁)//
235 越路太夫芸談(中) (下巻317頁)//
236 越路太夫芸談(下) (下巻320頁)//
237 独逸狩猟談 高田釜吉//
238 虎肉試食会(下巻328頁)山本唯三郎//
240 超人的手裏剣(下巻335頁)高田釜吉//
241 蛙の行列(下巻339頁)平岡吟舟//
242 水国飛将軍(下巻342頁)高田釜吉//
243 決闘実験談(上)(下巻346頁)高田釜吉//
244 決闘実験談(下)(下巻349頁)高田釜吉//
245 古稀庵の石と竹(下巻352頁)
247 往生極楽院山門(下巻360頁)大原三千院//
248 梅幸の人形(下巻363頁)//
249 白頭宰相原敬氏(下巻367頁)//
250 山県元帥の対支観(下巻371頁)//
251 角田竹冷宗匠(下巻375頁)//
254 正倉院拝観新例(下巻386頁)//
255 犬養木堂翁刀剣談(下巻390頁)//
256 信実歌仙断簡式(下巻394頁)佐竹本三十六歌仙絵巻//
257 山県公の大西郷評(下巻397頁)//
258 鴻池家名器(下巻401頁)//
259 大口御歌所寄人(下巻405頁)大口鯛二//
262 名笛大獅子(下巻416頁)杉山立枝//
263 玉菊三味線供養(下巻419頁)小泉三申、馬越恭平//
264 益田紅艶冥土入り(下巻422頁)益田英作//
265 小倉色紙披露会(下巻427頁)//
 
  第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
266 山県有朋公の薨去(下巻433頁)//
267 伏見大宮御殿の一夕(上)(下巻436頁)藤田彦三郎//
269 大倉翁の値切じまい(下巻444頁)大倉喜八郎//
270 名物形石灯籠供養(下巻447頁)//
275 若州酒井家名器(下巻465頁)
276 大震火災と名器(下巻468頁)
277 嬉森庵の命拾い(下巻472頁)
279 中村画伯の遺物(下巻478頁)中村彜(つね)//
282 平家納経副本完成(上) (下巻489頁) 田中親美//
284 東郷元帥懐旧談(下巻496頁)
285 仏法僧(下巻500頁)
286 延寿大夫芸談(下巻503頁)
287 延寿達磨(下巻507頁)//
288 医茶一途論(下巻510頁)真鍋嘉一郎//
289 大正名器鑑の編著(下巻514頁)//
290 名器三十本茶杓(下巻517頁)//
291 松屋肩衝争奪戦(下巻522頁)//
292 三十六人集分譲(下巻525頁)西本願寺三十六人家集//
293 現役大臣の茶の湯(下巻529頁)渡辺千冬司法大臣//
294 隅田公園記念碑(下巻533頁)//
295 盛久能平家経(下巻536頁)//
296 日本一の勉強家(下巻540頁)徳富蘇峰//
297 栂尾高山寺遺香庵(下巻544頁)//
298 大津馬茶会と新曲(下巻548頁)根津嘉一郎//
299 故犬養首相遺事(下巻551頁)
300 和製張子房(下巻555頁)久原房之助//



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「箒のあと」を書き終りて(下巻559頁)
(注・旧字を新字になおした。旧仮名遣いはそのまま、途中の漢詩は省略した)

                
                 箒庵 高橋義雄

 昨年六月十八日を以て、都新聞に掲げ始めた「箒のあと」は、今や満一年を過ぎて、予定の三百篇を載せ終つた。最初都新聞整理部長渡部英夫君が、我が伽藍洞を訪ひて、同新聞に「箒のあと」を掲載すべく請求せられた時、私は渡部君に向ひ、我が作つた文は、恰も我が子の如く思はるるから、精々可愛がつて下さいと希望して置いた処が、其後同新聞写真部長中村長作君が、非常の丹精を以て、諸方より図画写真を取り集め、之を篇中に挿入して、記事に一段の興味を添へられたので、不肖の子も、幸ひ読者諸君の愛顧を辱うする事を得たのは、私の深く感銘するところである。

(漢詩中略)

 私は右様の次第で、首尾よく「箒のあと」を書き終つたので、

  まばらにも掃きあつめけり花紅葉 ふりたる筆を箒とはして

と口吟んだが、振り返つて見れば、書くべき事が、猶ほ数多く残つて居るから、追て標題を改めて、更に散りたる花紅葉を掃き尽くす事としやう。




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三百  和製張子房(下巻
555頁)


 後藤新平伯爵のことを、ひところ世間で和製ルーズヴェルトと言いはやした例にならい、私は、久原房之助君に、和製張子房(注・張良=秦末前漢の政治家、軍師。劉邦に仕える)の尊称を贈ろうと思う。
 後藤伯爵は元気はつらつで、その言動が果敢であることと、鼻眼鏡がルーズヴェルトに似ていたことからその異称がついたのであろうが、私は、司馬遷が張子房を評して「籌策(注・ちゅうさく=計略)を帷幕の中に運(注・めぐ)らして、勝を千里の外に決し、而してその状婦人女子のごとし」と言ったのを、久原君になぞらえて、この尊称を贈呈したのである。
 久原君が大正初年に日立鉱山を手に入れ、その祝宴を築地の瓢家に張ったとき、田中銀之助氏が同席者に、「僕は久原君の事業の成功をうらやましいとは思わぬが、その状貌婦人のごとく、人に接して温容靄々たる(注・容貌が女性的で、人当たりが温かさとやさしさに満ち溢れている)ところが、実に健羨(注・けんせん=うらやましいこと)に堪えないよ」と言われたのが、まさに適評であると思う。
 久原君の父である庄三郎翁は、藤田鹿太郎翁を兄とし、同伝三郎男爵を弟として、三人共同して藤田組を経営された。翁は一見、好々爺のようで、いかにもおだやかで人当たりがよいため、藤田組においても常に外交方面に当たっておられた。 
 私が明治中期に大阪に滞在していたときは、しばしば翁に会う機会があったが、翁は書画什器を愛し、ことに四条派のものについては当時の鑑識者のひとりであった。

 ある日私が、翁の京都知恩院(原文「智恩院」)そばの別荘を訪ねたとき、翁は、「およそ別荘というものは、便利と閑静とを兼ねあわせていなくてはならない、どんなに静かでも、それが不便な場所にあったのでは、用をなさないではないか」と言われたが、たしかにこの別荘は、知恩院のそばの袋町にあり、門を出れば祇園、四条の繁華街に接し、門をはいれば華頂山寺の閑寂を占める景勝の地であることに感心したことがあった。
 久原君は少年時代、慶應義塾幼稚舎から進んで本科にはいり、卒業後間もなく藤田組経営の小坂銅山にはいって十三年間実地研究を積んだ。一時は非常に悲観的状況に陥った小坂銅山で、ドイツで発明された新しい精錬法を試みて、あっという間にこれを復活させた。日露戦争前後の藤田組の社運隆々なのは、久原君の鉱業での新しい工夫が成功への原動力になったそうだ。しかし、「蛟龍(雲雨を得れば)ついに池中の物にあらず(注・池に住む蛟(みずち)もチャンスをつかめば天に飛翔する)」というように、ほどなく藤田組から離れ、大正初年に日立鉱山を手に入れた。日立鉱山は時勢の運にも恵まれ、あっという間に大きな発展を遂げ、一躍、三千万円の大会社に成長した。その豪勢さに人々はやがて目を見張った(原文「瞠若(どうじゃく)たらしむ」)
 久原君は、見た目が柔和であると同時に、非常に人情味に富んでいた。とくに、母堂に対する孝養は人がうらやむほどだった。こんなこともあった。大正初年に、君が母堂に東京見物をさせようとしたとき、東京の宿を必死で探しておられた。私は、実業界から隠退後で、ちょうどこの時、一番町邸から四谷伝馬町の新宅に移ろうとしていた。それで久原君に一番町邸のほうを母堂の宿として提供したのである。このとき母堂は風邪気味で、結局、上京されなかったが、こんなことからも、ひごろの孝心がいかに深く厚かったかを知ることができるだろう。
 さて、私と久原君の間には、とてもおもしろい口約束が交わされているので、そのいきさつをここに記しておく。
 大正五年ごろであった。私は京都鷹峯の光悦寺境内に、本阿弥庵という五畳床付の一庵室を寄進した(注・223・鷹峯光悦会発端を参照のこと)。その工事の片がついたので、検分のために出かけようとすると、ちょうど久原君も京都に滞在中だったので、君を誘って光悦寺に赴いた。そこで、紙屋川をへだてて鷲ヶ峰に対面し、竹林の上に現れた比叡山を左にして、蒲団を着て寝ているような姿の東山をはるかに望見しながら、ふたり並んで腰掛けに座った。そのとき久原君が私のほうを見て、「君が林泉の間に悠遊して、茶事三昧にはいっている生涯は、まことにうらやましいものである」と言われた。そこで、私はすかさず、「さらば、君と僕と、身分を取り換えようではないか」と言った。すると、久原君も、勢い余った行きがかり上(原文「騎虎の勢いで」)、いやだとも言えず、では取り換えよう、という言質(注・誓約)を与えてくださったのである。
 私は、この言質を取ったからには、今すぐに実行する必要もないので、実行の時機については私に一任してほしいと言って、そのときはそのまま笑って別れた。
 その後、昭和三(1928)年、私が帝国ホテルで大正名器鑑の出版記念会(原文「告成式)」を開催し朝野の名士を招待したときに、君は威望隆々たる逓信大臣で、田中首相(注・田中義一)とともに来臨された。その帰途、君は私に向かって「いつぞやの約束を、この辺で決行してはどうですか」と言われたので私は首を左右に振り、「いやいや、まだその時機ではありますまい」と答えておいた。
 続いて昭和七(1932)年末、井上侯爵家に仏事があったとき同邸で君に偶然出会い、連れ立って玄関から出ていこうとしたとき、君は私に「例の約束はまだかいな」と言われたので、「だんだん近づいてきたようだが、ここまで来た以上はもうすこし辛抱したほうがよいと思う」と一笑して別れた。
 最近、君の姻戚の鮎川義介(注・鮎川の妹と久原が結婚していた)君に会った時、たわむれにこの話をすると、君は大笑して、「その約束は、この世ではとうてい果たされないでしょう」と言われた。
 しかし私は、この先に、まだおおいに期待している。久原君に、いつこの約束履行を申し込むか知れないので、君もこれ以上出世するのは、チト考えものであるかもしれない。



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二百九十九  故犬養首相遺事(下巻551頁) 

 犬養木堂翁が昭和七(1932)年五月十五日に永田町の首相官邸で青天白日のもと兇徒の毒手にたおれたことは、日本開闢以来の大椿事であった。これに関して世相の批判をすることは歴史的な意味からも重要なことではあるが、そのことについては他日に譲る。
 私はこの兇変により五十年の知己を突然失うことになった。驚愕哀傷、まことに言語道断のできごとだった。
 大政治家である以外に、書道、刀剣、古硯、筆、墨など、幅広い趣味を持っておられたこの翁との交遊を、今、回顧すると、数々の追懐が湧き起こってくる。私は、先輩に対する哀悼の情を慰めるため、ここでその想い出の二、三を記し読者の同情にうったえようと思う。
 木堂翁の余技の中で、もっとも得意としたのは書道だろう。かつて、何流を究められたのかと聞いても、「我に師承なし、ただ古法帖を研究したのみだ」と言われていたが、その書体は、木堂その人のように、痩硬勁抜(注・けいばつ=抜きん出ている)としていた。これは、翁が非常に精通していた刀剣の鑑定からヒントを得たのではないかという感じがしたものだ。
 翁は親友の榊原鉄硯君のために、その文人画を世間に紹介するために、みずからがその讃を書かれたことがあった。私も翁の墨蹟をひとつ持っておきたいと思い、あるとき八木岡春山に孤舟独釣図を描かせて、翁にその讃を乞うたことがあった。翁は、長上幅の上方に、


  雲水平生一釣綸 扁舟来往楚江浜 自焼緑竹炊新飯 誰道煙消不見人
       是徐幼文詩也 木堂散人書


としたため、さらにこれに添えて、次の一書を送ってくださった。


 「敬啓、字がユガミ甚だ見苦し、御勘弁可被下候、此詩は明初の徐賁(注・じょほん。元末明初の文人画家)の作、柳子厚の日出煙消不見人 乃一声山水緑』の翻案にして、尤も傑作と存候に付、認め候。」


 翁がみずから詩作をされたのかどうか、私はついにこれを見たことがなかったが、榊原鉄硯君の画に讃するときは、図柄に応じて、たいてい古人の詩を書かれていたようなので、ふだん好んで唐宋時代以降の諸大家の詩集を読破されていたのだろう。 
 さて画讃についてであるが、これは翁のもっとも苦心するところで、その布置按配の妙は専門家といえども遠く及ばないほどだった。
 翁は書道に深く通じていたので、古硯、筆、墨などについても非常に精密な研究を重ねられていた。例の、直截で簡明な毒舌で滔々と説明されるところには、おおいに傾聴する価値があった。
 翁はもともと皮肉屋で、相手の急所を突くのがうまく、ウイットに富んだ批評で相手を一言で降伏させる技量を持っていた。これは、長年政壇の勇将として攻勢弁論に当たった鍛錬から来たものであろう。時に友人と会って談話をすると、翁はたちまちその中心になり、その話の中には、必ず何か人を驚かすようなことがなければ気が済まないというところがあった。時として悪ふざけが混じることもあったが、どこか独特な愛嬌があって、毒舌の毒を、その後に残さないところに木堂一流の特長が見受けられたのである。
 たとえばある人が老大政治家を指して、「某氏も近頃少し箍(注・たが)が弛んだようだね」と言うのを聞くなり、翁は口元に微笑を浮かべて、「某氏に箍があったのかね」と反問した、などというのはいちばんの例である。
 また翁が大茶目を発揮した一例は、親友の朝吹柴庵【英二】翁が、以前親しくしていた婦人に大阪で旅館を開かせた時、翁は軽石を奉書に包み、水引をかけて、うやうやしくこれをその婦人に贈り、暗に柴庵翁のあばた面を諷したというものだ。これなどは、すこし薬が強すぎた感じがあった。

 私は、翁が首相になってから、ある日翁に会ってゆるゆると談話する機会があったので、次のように言ってみたことがある。「貴下はシナの要人の中に、年来懇意にしている人が多いようだが、彼らと親しく胸襟を開いて、日支の親善の気運を盛り上げるのは、今日、貴下のほかにはいないと思われる、むかし、伊藤公、大久保侯らが李鴻章と会見して直接意見交換をし、その都度、東洋の平和が破綻せずにすんだことがあったが、その後の日支交渉は、いつも公使や領事任せで、大官が直接交渉をするのを避ける傾向があるが、これは全くそうする必要がないことである。貴下は、今や、我が国内閣の首班であるのだから、それを利用して、蒋介石その他のシナ大官と会見して、おおいに東洋問題について論じ、これ以上事態を悪化させないように懇談してみてはどうだろう」と。

 すると木堂翁は、「貴説はいかにもごもっともであると思うが、いかんせん、今日のシナには、時局について懇談をする相手がいないということが困りものである。といって、心ある者は、今日の事態が最上策だとは考えているわけもないだろう。彼らの勢力は、今ではどれも小さな部分に限られており、しかも対内関係を重視し、衆愚に媚びつつ、一時的な安楽(原文「一日の苟安[こうあん]」)をむさぼっているありさまだ。よって今はその時機ではない、もし近い将来、せめてシナの半分だけでも背負って立つほどの人物が出て来たならば、胸襟を開いて、その人とともに東洋百年の長計を熟議したいものである」と述べられた。
 今や、日本側で、この会談の適役を勤めるべき木堂翁を失ったことは、まことに千載の恨事である。私は、翁の長逝に対し、挽歌一首を詠じたので、これを掲げて、哀悼の微志を表することにしよう。


  大丈夫児鉄石膓 稜々気節挟風霜 天皇賜誄哀長逝 死有余栄老木堂

 


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二百九十八  大津馬茶会と新曲(下巻548頁)


 根津青山【嘉一郎】翁は、明治三十七、八(190405)年ごろ大阪の老道具商である春海藤次郎の周旋で、松花堂昭乗画、沢庵和尚讃の大津馬という名物書幅を、当時のレコード破りの高値で買い入れられた(注・根津と春海の交流については110を参照のこと)。しかし、それを秘蔵するあまり、かんたんにはこれを出してくることがなかったので、私は少しでもはやくこれを同好者に見せてほしいものだと思っていた。そして昭和四(1929)年十月に、青山の根津邸の弘仁残茶茶会でそれを出させることに成功し、その書幅は非常な喝采で迎えられた。そのとき私は、これを東明流の材料にして大津馬という新曲を作った。
 もともと大津馬というのは、江州(注・近江)大津から京都まで、米俵を背負って逢坂山を往復する馬のことをそう呼ぶ。松花堂がその馬を描いて、そのころ羽州(注・出羽)上の山(注・かみのやま。山形県にある)に流されていた沢庵和尚の讃を乞うたとき、和尚が小色紙に、


 なぞもかく重荷大津の馬れきて なれも浮世に我もうきよに


と書きつけられたものだ。
 これは歳暮の茶掛けとして、このうえもない珍幅になりそうなので、私は再び、昭和五(1930)年丑年の青山歳暮茶会でもそれを使うように青山翁に勧めたのであった。
 ところで青山翁は非常に多忙な身にもかかわらず、大正十(1921)年から毎年歳暮茶会を催しており、この年は十一回目にあたっていた。
 さて、いよいよその幅を使用することになったが、私は、この茶会に何らかの余興を添えたいと思い川部緑水(注・川部太郎、根津家出入りの道具商)と相談し、平岡吟舟翁に頼んで、大蕪を背負った馬子が重荷を負った大津馬を追っていくという図柄を小色紙に描いてもらった。そして、同じ大きさの小色紙に私が、


  年の瀬や重荷大津の馬と人


としたためたものとを、筋かいに(注・斜めに重ねて並べて)張り交ぜた一幅を作り、それを寄付の床に掛けてもらった。

 この年は財界不況で、株持ち連中が大いに苦しんでいる実況をうがった(注・比喩的に表現した)茶目っ気ある趣向だった。 
 さらに茶会後には、さきほどの大津馬の新曲を吹き込んだ蓄音機レコードを広間で来客に披露するという段取りにした。その新曲の文句は、次の通りである。


逢坂の関の清水に影みえて、今や引くらん望月の、駒のひづめの音羽山、越えて都の春の花、秋の紅葉の狩鞍に、金ぷくりんのよそほひを、誇れる友もありとかや、うたてやな、我は過ぐせや悪しかりけん、同じく生を受けながら、しがなき志賀の片ほとり、大津の里に年を経て、田夫野人に追ひつかはれ、背に重荷をあふ坂や、都にかよふ憂きつとめ、誰あはれまんものなしと、思ひわびたる我が影を、八幡の御坊の写し絵に、沢庵和尚の口ずさみ、馬子唄なぞもサアかく、重荷大津のヨ―、馬れきてサアヨー、なれもサア浮世に、我もヨ―うきよにサアヨー。
 となぐさめられて今更に、生き甲斐あれや大津馬、いにしへ浮世又平が、筆の始めの大津絵は、
 大津絵ぶしげほうのあたまへ、梯子を掛け、雷太鼓で、何を釣るつもり、若衆はすまして鷹を手に、見て見ぬふりの塗笠おやま、紫にほふ藤の枝、肩のこりなら、座頭の役、杖でさぐれば、犬わんわん、棒ふり廻すあらきの鬼も、発起り【ぽっきり】をれた其角は、撞木の身がはり、鉦たたき、オツとしめたと、鯰を押へ、奴の行列アレワイサノサ、是は皆さん御存じの、釣鐘背負うた弁慶さん、目に立つ五郎の矢の根とぎ。
 そもそも仲間にはづれたる、我が午年の運びらき、人間万事塞翁の馬い処に、当り矢の、伯楽ならぬ沢庵や、八幡の御坊に見出され、彼の大津絵の又外に、大津馬とて、エンヤリヤウ、引き綱の長きほまれや残るらん。
 

 さて、青山邸の歳暮茶会では、前記の大津馬の小色紙を寄付に掛け、本席の撫松庵には、初入の床に、上半分がコゲ、下半分が白釉の伊賀花入に、白玉椿一輪と、蝋梅(注・ロウバイ=黄色の小花をつける梅)とを活けた。
 後座(注・あとざ=茶会の後半)には、中興名物の節季大海茶入、沢庵和尚共筒茶杓、高麗割高台茶碗、砂張建水などを組み合わせるという大奮発の茶会であった。
 やがて濃茶が一巡して、八畳の景文の間に座を移すと、上段床には、津軽家伝来の、浮世又平(注・岩佐又兵衛)筆の極彩色の不破、名古屋(注・「不破」という歌舞伎題目の主人公ふたり。不破伴左衛門と名古屋山三郎の傾城葛城をめぐる恋の鞘当てで有名)を掛け、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間の一間幅の通路)に、大津馬に付属した書付類を並べてあった。
 客一同が座につくのを待ち、東明流新曲の大津馬の蓄音機を披露した。こうして今回は、私が大津馬の幅を使用させた発願人であったことから、大津馬の新しい小色紙幅をはじめ、新曲レコードまで採用していただいたおかげで、いささかこの茶会に余興を添えることができた。いわゆる「蒼蝿驥尾について千里を走る(注・蝿が名馬の尾にとまって千里を走るように、優れた人のおかげでよい結果を出すこと)」の類で、まことに望外のしあわせであった。そこで、ここに大津馬茶会と、同新曲の由来を記し、昭和庚午(注・かのえうま。昭和5年)の歳暮の記念にしようと思う。 
 


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二百九十七  栂尾高山寺遺香庵(下巻544頁)

 明治六(1931)年は、栂尾【とがのお】高山寺開祖の明恵(注・みょうえ)上人の七百年遠忌に当たっていた。上人は、建仁寺を開山した栄西禅師から三個の茶の実を贈られらたのを、まず栂尾の三本木に植えた。以来、その茶樹が非常に繁殖し、栂尾では狭く感じられるようになったので、上人みずからが宇治に出向き、茶園に適当な地所を視察し、駒の蹄影【あしかげ】という場所をよしとされた。その時の歌がある。

    栂山の尾上の茶の木わけ植ゑて あとぞ生ふべし駒の蹄影

 宇治の茶園がさらにふえるにつれ、それがだんだん日本全国に広がっていった。今では内地の供給を満たすだけでなく、国産品の主要品として年々海外に輸出されるようにまでなったのであるから、上人は、実に日本茶の大恩人といわざるを得ない。
 そこで、京都、大阪、宇治などの茶人、茶商らが、報恩のために、今度の遠忌に際しそれ相応の記念事業を行いたいと希望した。そして、結局、明恵上人遠忌記念(注・記念会?)というものを組織し、大久保利武侯爵を会長に推した。
 その会では一、二年前から資金募集に着手していたが、昭和五(1930)年十一月上旬に、大久保侯爵がわざわざ私の伽藍洞を訪問され次のように言われた。
「自分は先ごろ京都に滞在中、同地の有志者から、明恵上人七百年遠忌事業に関して相談を受けた。上人は島津公爵家の祖先、忠久と旧縁があり、長く栂尾高山寺に納めてあった忠久の肖像を、先年、島津家に譲り受けたことなどもある。そして自分もひごろから、上人の学徳を欽慕している。この事業が順調に進行することを希望しているので、今日は、貴下にも何分の援助を乞うために突然来訪した次第である。」
このように言われたので、私はよろこんでこの勧誘に応じた。

 そして、十一月中旬、入洛のついでに高山寺を訪問し、宮内省図書量御用掛の猪隈信男、光悦会世話役の土橋嘉兵衛の両老を同伴し、当山第一の保護建造物である石水院、そして、鎌倉初期の経巻、什器などを多数収蔵している宝庫などを巡覧した。

 今度の遠忌記念事業において、どのようなものを提供するのがいちばんふさわしいかを相談したところ、同山景勝の地に一棟の茶室を寄進するのがもっともよい計画であると思いついた。そこで、遠忌記念会とは別に茶室寄進会というものを組織し、京阪、名古屋、東京、金沢の道具商諸氏に世話人になってもらい、私が発起人総代、土橋老が世話人総代になり、ひとり百円の茶室寄進者を百三人募集することができた。
 昭和六(1931)年六月から、京都の数寄屋大工の木村清兵衛に命じて、高山寺本坊庫裡の横手に適当な場所を決め、四畳台目茶席、八畳広間の一棟と、別に待合兼用の鐘楼を建築した。また新たに、合図用も兼ねた梵鐘を鋳造した。それを茶恩鐘と名づけ、遺香庵寄進者である百三人の姓名をその周囲に鐫り(注・彫り)、その由来をのちの人に知らせる目的で、次の文句も鋳出しておいたのである。
 
今茲栂尾高山寺開基明恵上人七百年遠忌に当り、平常上人の高徳を慕ひ、其茶恩を感ずる者一百三人相謀りて、一宇の茶室を此地に寄進し、名付けて遺香庵と云ふ。聊か報謝の微志を表せんが為なり。乃ち新に梵鐘を鋳て、寄進者の姓名を其上に鐫り、以て後日の記念と為す。

   昭和六年初冬
       遺香庵寄進者総代 高橋義雄」

 また露地の築造は、京都の植木職である、植治こと小川治兵衛老に依頼した。そして茶室、露地に、万端の準備がすべて整ったので、遠忌法要に先立つこと数日、十一月十一日に遺香庵びらきの茶会を行った。

 当日は秋天快晴の上々吉の茶会日和であった。本坊正面前に受付を設け、そこで芳名録に記名をすませた賓客は、小高い丘の上に立てられた腰掛待合にはいり、自分の名前が彫り出されている、直径一尺六寸(注・一尺は約30センチ)、高さ二尺六寸の梵鐘を打ち鳴らした。すると、満山に響き渡るその音は、明恵上人の茶恩を讃嘆する声と聞こえなくもなく、まことに恰好の供養となった。
 それから順次、遺香庵にはいり、まず私の濃茶飾りつけを一覧し、次に石水院に座を移し、野村得庵君(注・野村徳七)の心のこもった薄茶席でうちくつろいだ。
 午後二時から、山腹にる開山堂で、遺香庵の引き渡し式に参列した。ここに、日本茶の大恩人である明恵上人の本山に、その茶恩を味わうべき茶室が築造されたので、来年からは京都の各茶道宗匠家が順番を決めて毎年献茶会を開くことになった。いささかなりとも遠忌への記念をとどめることができたことは、私たちにとって茶人冥利につきることだった。
 その日私は、即興の二首ができたので、末尾に蛇足として添えておく。


    高山寺
  橋似長虹飲澗横 清流聞做誦経声 白雲黄葉高山寺 人帯斜陽画裡行


    遺香庵
  扶桑到処慕遺香 渇仰上人功徳長 今日新庵修遠忌 満山茶樹是甘棠


 


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二百九十六  日本一の勉強家(下巻540頁)


 大正八、九(191920)年ごろであったろうか、東京のある実業雑誌が「日本一の百家」選を行った。このとき、徳富蘇峰翁を勉強家の日本一、私を怠け者の日本一と発表したのであった。近頃では人間の働き盛りといわれている五十一歳で風来坊の仲間入りをした私をこのように見立てたことは、あながち無理もないことだと思われたが、日本一の勉強家として蘇峰翁を推したことは、さらに一層、適切な人物評(原文「月旦」)であったといわねばなるまい。
 翁は、青年時代から東京の文壇に立ち、まず雑誌社を始めた。ついで新聞社をおこし、さらには政治界にも出入りし、時には大官のブレーン(原文「幕賓」)となった。あるときには朝鮮にまで出向き、人民の文化や知識を開発する機関(注・朝鮮総督府の機関新聞社だった日本語新聞の京城日報社のことであろう)の監督の仕事をしたこともある。
 またあるときには世界各国を遍歴し、執筆の英気を養ったこともある。その間も常に健筆をふるって、その所見や感想の執筆を続けた。まさに、飲食と睡眠の時間以外に翁が筆を手にしていなかった時間はなかったであろう。
 また読書にしても、五行を一度に読むような勢いで(原文「五行並下るの概あり」)和洋の新刊書をひもとき、絶え間なく新しい知識を取り入れて新聞紙上にその所見を発表する。まさに世の中の指導者(原文「一世の木鐸」)であった。
 ほかにも、出版事業、教育事業にも関与し、特に、全国各地に旅行して、いたるところで講演をやるときにも紙と筆を持ち歩くのであるから、普通の勉強家の二、三人分の働きをしていることになる。

 年齢がいってからも、その活動は衰えることなく、近年には「近世日本国民史」を著述しながらも、言論の文章も書いて、諸般の問題をあまねく料理しているという精力絶倫ぶりを発揮し、とても人間業とは思えない。

 翁が、文筆(原文「操觚」)をなりわいとして世に出られてから今日にいたるまでに著作した文字は、おそらく膨大になるはずで、日本開闢以来、たとえ絶無とは言わないまでも、きわめて稀有なことであるだろう。
 近世の文豪中に似たような存在を探したら、誰がいるだろうか。その時勢に通じ、事務にも通じ、政治的活動力を備えているとともに歴史家として秀でているという点で、この三百年では、ただ新井白石を挙げることしかできない。


 私が蘇峰翁と知り合ったのは、大正初年からのことである。あるときは私の伽藍洞にやってこられ、一木庵茶席にはいり、ともに一碗の茶をすすったこともある。あるいは山県含雪公について、上野の表慶館で十大仏画を一緒に観覧したこともある。あるいは、大倉聴松(注・大倉喜七郎)男爵の招待でシナ料理の相客になり、その健啖ぶりに驚かされたこともある。あるいは、水戸義公(注・水戸徳川家二代藩主光圀)の生誕三百年記念展覧会を青山会館(注・徳富蘇峰旧宅)で開くにあたり、翁のために材料集めを手伝ったこともあった。このように、各方面において、いわゆる「日本一の勉強家」である翁の勉強ぶりを目撃する機会を得たのである。これは、非常にありがたくうれしいことだった。
 さて翁は、昭和七(1932)年に、古稀の寿を迎えられたので、門下の人々で相談して、蘇峰先生古稀祝賀記念刊行会というものを組織し、各方面からの寄稿を集めた。そのとき私は、「作文趣味」と題する拙文一篇を寄せた。その内容の一部には次のように書いた(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)。


「蘇峰先生が東都の文壇に立たれたのは、余よりも四、五年後のことであろう。余は明治十九年ごろ、始(注・ママ)めて先生の書かれた「将来之日本」という題する一篇を見たが、蘇山秀霊の気を帯びたる文彩は、忽ち時人の眼に反射し、彼の蘇東坡が京師(注・みやこ)に出でて、始めて其文章を発表した時の如く、当時東都の文壇に、欧陽永叔(注・欧陽脩)の如き者があったらば、今より数年、人亦老夫を説かざるべしと、嗟嘆した事であろう。(注・欧陽脩は、若い蘇東坡の才能を高く評価した)

 徳富氏は恰も蘇氏の如く、父に老蘇に似たる淇水翁(注・徳富一敬)あり、弟に小蘇に類する蘆花子(注・徳富蘆花)あり、而して蘇峰先生は能く家学を伝えて、之に加うるには洋学を以てし、識見文章共に我が文壇を圧して、政治、宗教、文芸、紀行、随筆等、行く所として可ならざるなく、文情双絶、波瀾独り老成の観あり、殊に目下著作中の近世日本国民史に至っては、千載不朽の大文字で、聞く所に拠れば、毎日暁起、浄几に向かって執筆せらるるそうだが、時に会心の文字を獲るや、其苦心に酬ゆべき作文趣味の愉悦は、果して如何であろう。余は往時頼山陽が彼の「通議」を書き終わって、


  一窓風雪妻児臥 揮筆灯前紙有声


と口吟した時は、王侯の栄爵を受けたるよりも、連城の趙璧を獲たよりも、数倍の趣味的愉快を感じたであろうと思うが、我が蘇峰先生の如き、此点に於いて、或いは遥かに山陽に勝る者があるかも知らぬ。且つ又文筆の士は、兎角薄倖ならざれば短命であるのに反し、蘇峰先生が精力絶倫で、今や古稀の寿域に躋(注・のぼ)らんとするに拘わらず、老健壮者を凌ぐの概あるは、文徳寿福、共に円満なる者と謂うべく、天此文豪に余年を仮して、其の修史の大業を完成せしむべきは、余の固信して疑わざる所である。終わりに臨み拙吟一首を掲げ、我が蘇峰先生景仰の誠を表せんと欲す。


    奉似蘇峰先生
  一家史論挟風雲 三長如今独属君 筆底有時飜学浪 東瀛復見大蘇文 (注・瀛=うみ)


 蘇峰翁の勉強ぶりは、今もなおまったく衰えず、近世日本国民史も、間もなく明治期にはいろうとしている。これはまことに喜ばしい限りである。
 人間のならいとして、古人を偉大に見過ぎるかわりに当代の人物を軽視するという傾向がある。古歌にも、


 来て見れば左程にもなし富士の山 昔も人も斯くやありけん


というのがあるが、翁のような人は、同時代の私たちから見ても非常に偉大であるから、今後百年、二百年を経過したならば、いっそう偉大に見えることであろう、この偉大な勉強家と時を同じくして生まれ、かつ知り合うこともできた私は、まことにしあわせ者であったと思う。



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二百九十五  盛久能平家経(下巻536頁)

 昭和六(1931)年は、明治四十二(1909)年に亡くなった梅若実翁の二十三回忌に当たっていた。そこで梅若宗家の六郎氏(注・のちの二代梅若実)は、浅草厩橋の能舞台において一門の盛大な追善能楽会を催した。
 さらに素人演能会をも開かれた。生き残っている実翁の直接の門人が今では暁天の星のように少なくなっていることもあり、私にもぜひ一番出演してほしという勧誘があった。
 そこで、しまいにはそれを引き受けることになり、さて、何を演じようかと悩んだ末に「盛久」に決定した。

 その理由はこのようなものだった。私は以前、厳島神社の重宝である平家納経の副本調製を計画した。経巻模写にあたっては、その道で古今を通じて並ぶ者のいないとされていた田中親美に委嘱し、大正十四(1925)年に完成させ厳島神社に奉納した。その中には、もちろん観音経も含まれていたが、今、能楽二百番の中で、全体が経巻に関わり、とくに平家に縁故のある曲目としては、断じて「盛久」にまさるものはない。今回は追善でもあるので、それでは今度私が盛久を勤めて、平家経巻中の観音経を実際に使おうと思いついたのである。
 ところが、私が平家納経副本調製の記念として田中氏に依頼した模写経は、法華経二十八品中、厳王品、宝塔品、信解品の三巻、あいにく観音品はなかったのである。そこで仕方なく、この三品のうちの一巻を使用するほかはないと思っていた。
 さて、ここで不思議な因縁話が起こった。実翁の追善能は四月二十六日に挙行されることになっていたが、その一日前の二十五日に、品川御殿山碧雲台において、益田鈍翁が第三回遠州会を催した。そのとき、先年から翁が田中親美氏に模写してもらっていた平家経全部を披露することになった。当日私は同会場に行き、主人の鈍翁に面会して盛久の演能について話し、あいにく観音経を持ち合わせていないので、遺憾ではあるが他の経巻で代用するつもりだと言った。すると鈍翁は聞き終わりもしないうちに、能舞台で平家経を読もうとするなら本物でなければ十分に緊張した気分にならないだろうから、今日陳列している観音品をお持ちになったほうがよかろうと言われた。
 そこで私はおおいに喜び、これを借り受けたのである。そして翌日午後三時ごろ、梅若舞台で、この観音経を懐にいれるとき、巻の中のもっとも美麗な箇所を見せるように工夫した。この日は、経巻調製の本人である田中親美氏はもちろん、同の仰木魯堂、森川如春、横山雲泉、越沢宗見らの来観を願った。

 さていよいよ、観音経の一節の、

  或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段々壌

とよみあげたときには、われながら異常なまでに気分が張りつめた。また、太刀取りが私の後ろに立って「御経の光、眼に塞がり、取り落したる太刀を見れば、二つに折れて段々となる」というところに至って、燦爛たる経巻の色彩がその言葉とよく調和し、いっそうの効果を現わしたように思われた。

 また、盛久能のなかの、口伝とも言える

「吾等が為めの観世音、三世の利益同じくば、斯く刑戮(注・けいりく=刑罰、死刑)に近き身の、誓ひにいかで洩るべきや、盛久が終の道よも闇からじ頼母しや」

というところでは、少し睡眠中に、あらたなる霊夢を感じるところで、左手に持っていた経巻の巻軸が手の中からすこし滑り落ちることになるのだが、それが水晶軸の重みによって、非常にうまいぐあいに運んだ。これは、実物の経巻が生み出した自然の効能であると思われた。
 それにしても、益田邸で偶然に平家副本披露会があって、そこで陳列されていた観音品を、その翌日に梅若舞台で読誦するようなことになるとは、なんという奇遇だろうか。
 ここで私は、田中親美氏と相談し、能楽に適した平家経型の観音経を調製して、それを梅若家に寄贈しようと思いたった。すぐに六郎氏に話してみたところ、六郎氏は非常に喜び、それならば、今回の亡父の二十三回忌追善会を記念するために、今後、盛久能を演じるときには、かならずその経巻を使用することにいたしますと言われた。私も非常に感激して、田中親美に委嘱して、平家経のうちで、地紋色彩のもっとも優美な部分を写して、一巻を作り上げた。そして、田中氏の勧めにしたがい、拙筆で観音経を書写し、さらに腰折(注・自分の歌を謙遜する言い方)一首を白紙に物して、経巻とともに、梅若家に寄贈した。その一首は次のようなものだった。

 梅若実翁二十三回忌追善能に盛久を勤め、其折読誦したる平家経一巻を、同家に参らすとて

  うれしくも盛り久しき梅若の 家にとどめむ法華経の声

 この和歌中の「盛り久しき」は、いうまでもなく盛久のことで「法華経の声」は、梅若に、鶯を利かせたのである。
 ところで、梅若六郎【のちに実邦と改める】氏は、翌昭和七(1932)年四月十四日、厩橋舞台で、みずから盛久を勤めた。貴賓席の床には、私の贈歌の一軸を掛け、このとき、例の平家経形観音経をはじめて舞台で読誦された。
 終演後、六郎氏は、「経巻がみごとなので、一層気分が緊張しました」と、その感想を洩らされた。こうして、今回を始めとして、梅若舞台の盛久能に、ながくこの経巻が使用されるということは、私のもっとも満足するところである。


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二百九十四  隅田公園記念碑(下巻533頁)

 大正の癸亥(注・みずのとい=大正12年、1923年)の大震火災後に様々な場所で行われた復興事業により、世の中はまさに激変(原文「滄桑の変を出現」)した。
 向島の隅田公園など、その一番の例だといえよう。同公園の大部分は旧水戸徳川家の下屋敷、すなわち小梅邸であった。この地はそのむかし木母寺(注・もくぼじ)という寺があった場所で、また嬉森という大木の林もあったなど、昔からいろいろな歴史的由緒がある。
 私は大正の初年からその嬉森跡の椎林の中に嬉森庵という茶室を設計し、しばしば茶会を催してきたという縁故もあったので、この公園の過去の歴史がまったく忘れられてしまうことを残念に思うので、水戸徳川家で大正初年に編集された「梅邸史」の大要をここに摘録して、後日のために残そうと思う。(注・現代文になおした)

  〇維新前の小梅邸
 小梅邸の所在地は、もと西葛西小梅村といった。五代将軍常憲公(注・徳川綱吉)の時代の元禄六(1693)年癸酉(注・みずのととり)八月五日に、この地は、わが(注・水戸藩の)三代藩主、粛公(注・徳川綱條つなえだ)に下賜された。以来、水戸藩下屋敷となり、代々の藩公がここで鷹狩りを催した。
 藤田東湖が幕命によって幽閉されたのは、この邸内である。弘化二(1845)年二月に小石川邸からここに移され、ここで「常陸帯」を執筆し、「正気の歌」の詩を作ったのである。翌三年丙午(注・ひのえうま)十二月、東湖は蟄居を解かれ、遠慮(注・謹慎)小普請組となり、水戸に移される。

  〇維新後の小梅邸
 明治四(1871)年辛未(注・かのとひつじ)七月十四日に廃藩置県の令が出ると、わが(注・水戸藩の)十一代節公(注・徳川昭武)は、その翌日にここに転居した。
 その後、定公(注・水戸徳川家12代徳川篤敬あつよし)はイタリア風を採用して洋館を建設し、明治三十(1897)年に落成した。
 ところが、土地が低くしばしば洪水が起こるので、土を盛って屋敷も新築する必要が出てきた。そこで、当公(注・当代の当主である13代圀順くにゆき)の時代の明治四十五(1912)年五月に、それに着手し、大正二(1913)年九月に竣工した。今の日本館がそれにあたる。

 江東の周辺は、田畑が市街に変化してゆく時期にあたっており、(注・徳川邸においても)明治四十(1907)年から、邸内の田畑、鴨堀などを埋めて市街地として整備を行った。広さは一万坪余り、戸数は五百戸余り。

  〇歴代藩主ならびに夫人の廟所
 歴代の藩公、藩公夫人の尊霊を奉祀した御廟は、旧水戸藩城の中にあったものをここに移し、規模を四分の一に縮小して再建された。明治三十三(1900)年九月九日に落成した。
 廟の前にある、文明夫人(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭の夫人)による御碑は、もと駒籠(注・未詳。駒込別邸?)の庭内にあったものを、ここに移して建てられたものである。

  〇明治八年以降の行幸、行啓
 明治八(1875)年から明治二十九(1896)年までに、前後六回、行幸啓を仰ぎ奉る光栄を得た。
 明治八年四月四日、桜の花が咲き始めたころ、明治天皇が特別に御臨幸あらせられ、次のような勅語を賜る。
 「朕親臨シテ、光圀斉昭等ノ遺書ヲ観テ、其功業ヲ思フ、汝昭武遺志ヲ継ギ、其能ク益勉励セヨ」
 同時に、御製一首を賜る。


  花くはし桜もあれと此やとの 代々のこころを我はとひけり

 明治十五(1882)年十一月二十一日、同十六年六月三日には、天皇陛下が親しく臨幸あらせられ、隅田川における海軍端艇競漕(注・ボートレース)を御覧ぜさせ給う。
 同十七年四月二日には、天皇皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、同二十五年六月九日には、皇后陛下、皇太子殿下の行啓を拝し、同二十九年十二月十八日には、再度、天皇陛下の行幸を仰ぎ奉る機会を得た。このどちらも隅田川での海軍端艇競漕を御覧になった。」

 前述したとおり、隅田川公園は歴史的な由緒のある場所であるが、関東大震火災のとき、徳川邸が土蔵一戸のほかは、すべて烏有に帰してしまった。復興局では、この一万坪余りの土地を徳川家から買い取り、その他、付近の地所と合わせて新しく隅田公園を作ったのである。

 水戸家ではこのとき、明治八(1895)年の明治大帝の御臨幸の際、当主に陛下から下賜された御製の記念碑を建設することが決まり、当主の圀順公が碑面に御製を謹書し、背面にその事由を記して、これを後世に伝えることにした。今後、当園に足を運ぶ人は、この石碑によって、今昔を追懐することができるであろう。



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二百九十三 現役大臣の茶の湯(下巻534頁)


 昭和六(1931)年四月初旬、司法大臣で子爵の渡辺千冬氏が、ある骨董商から偶然手に入れられた清朝御府(注・ぎょふ。皇帝の宝庫)伝来の茶碗は、口径四寸(注・一寸は約3センチ)、高さ一寸七、八分くらいで、春先専用の薄茶茶碗としては、このうえない寸法(注・サイズ)である。また内外は薄桃色で、ところどころに、いわゆる煎餅ぶくれがあり、口縁の外側から青釉がどろどろと一ナダレになっているのが、なんともいえない「景色」になっている。
 見込(注・茶碗内部の底)には黒金気釉で「花碗」の二大字が現れている。その筆づかいがすこぶる古雅で、古い法帖(注・ほうじょう=名筆鑑賞用の折り本)の文字を見るようなおもむきで、また、この茶碗を包んだ黄絹の風呂敷に、乾隆皇帝之章という大朱印が押されているところを見ると、あるいは幕府の什物であった可能性もある。
 ところで渡辺法相は、最近東京に「添光会」という茶会を設けて実物教育の宗匠を自任している加賀金沢の裏千家流茶人である越沢宗見と知り合いなので、彼にその茶碗を見せてみると、宗見は激賞し「閣下、もしこの茶碗がご不用なら、即座に拙者にお譲りあれ、もしまたご所蔵なさるるならば、ぜひとも、この茶碗びらき(注・披露)の一会を催さるべし」と言われたので、法相も非常にその気になり、では宗匠の才覚でその一会を催すことができるよう、それぞれの用意を整えるようにとの命令を下された。

 宗見はおおいによろこび、さっそく私にその一部始終を語ってくれた。また、その茶碗も見せてくれたが、これこそ、それまでの茶人が絵高麗と言い慣わしているものであった。絵高麗とは、はじめシナで製造されていたが、朝鮮で模造されるようになり、そちらの模様のほうがかえって世間に知られるようになって、ついには絵高麗と呼ばれるようになったものであるがこの花碗は、まちがいなくシナの窯元の製造になるもののようで、古陶器研究のうえで絶好(原文「屈竟」)の資料になるばかりでなく、じっさいの茶事に使ってもまた、しごく面白いものなので、私は、かの有名な博多文琳茶入が楊貴妃の白粉壺だと言い伝えられている例にならい、この茶碗も、楊貴妃に縁故のある品であるとみなし、これに付属するのに適当な女性的な薄手の茶杓を作り、銘を紅唇とした。その筒には、

    楊貴妃の口やふれけむ花の碗

としたため、宗見に与えた。
 こうして、茶碗と茶杓はそろったが、茶入のほうはどうしたらよいかという問題が起こった。そのとき宗見が、「先日ある機会に、貴族院議員の伊東祐弘子爵が所蔵する茶器を拝見したが、そのなかに、徳川初期の、子爵家の主人だった人が作らせたという茶入が、いくつか裸のままで残っているのを見た」という。この主人は、小堀遠州らと茶交があったらしく、その指導によって帖佐、高取その他、九州の窯に製作させたものらしい。渡辺法相は伊東子爵と懇意なので、その茶入のなかの一個を分けてもらえないか頼んでみて、今度の茶会に組み合わせるのがよい考えではなかろうか、ということだった。
 そこで、そのことを宗見から法相に進言し、法相から伊東子爵に相談してみると、それはよい廃物利用になると子爵は非常によろこんで快諾してくれた。
 これで茶会の主要品である茶碗、茶杓、茶入の三点が、あっというまに顔を揃えたことは、宗見の才覚が抜群であったからではあるものの、これこそ、花碗が世に現れる不思議の因縁と言わなくてはならないだろう。

 このような次第で花碗茶会の主要品が揃うと、渡辺子爵は四月二十三日正午に、豊多摩郡府中町の加藤(注・昭和茶会記によると加藤辰弥)氏の鳩林庵荘不識庵にて、正式な茶会を催された。
 当日の掛物は、西園寺陶庵公揮毫の色紙の表装が間に合わなかったので、同公筆の発句短冊で代用することになったが、その後ほどなく、表具のできあがった一軸は、金地色紙に、


  一枝国艶 両腋清風 
        坐茅漁荘主人時年八十有三印


という文句であった。楊貴妃と廬同(注・唐詩人)の故典を対句にしたところ(注・白居易「長恨歌」のなかの「一枝紅艶」と、廬同「七碗茶詩」のなかの「唯覚両腋習習清風生」からとったものか)など、ぴったりの(原文「寸分動かぬ」)思いつきだった。
 そのほかも、どれもが花碗を盛り立てる気の利いた飾りつけだった。懐石のときに、広間の床に掛けられた二幅対は、会主の先君子(注・亡父)である、無辺居士国武翁(注・渡辺国武)愛蔵の、


  臨済喝得口破
  徳山捧得手穿


という、清巌和尚の墨蹟中、稀有の傑作と見受けられた。
 こうして、午後四時ごろ、花碗茶会は大成功のうちに終了した。これは、茶道にとりまことに喜ばしいことであった。
 そもそも維新前においては、徳川将軍家をはじめとして、国持大名、幕府老中らが茶会を催したという例は多い。京都においても、関白諸公が、みずから茶会を開かれたということも少なくない。しかし維新後には、山県含雪公爵、井上世外侯爵が、晩年にみずから茶事を行われたということはあっても、現役大臣という立場でそれを試みた人はいなかった。それが今回、花碗の因縁により、後代の語り草ともなるような会を渡辺法相が催されたということは、いろいろな意味において、真の快挙であり浄業(注・じょうごう=善い行い)であったと思う。
 私は、法相が、この茶会をきっかけに、さらに奥深く茶道に踏み入り、政界において、ある意味、出色の大臣となるだけでなく、茶界においても、今後、より大きな足跡を残されることを、ひとえに期待する次第である。

 


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二百九十二 三十六人集分譲(下巻525頁)


 西本願寺大谷伯爵家は昭和四(1929)年、武蔵野女学校建設資金の調達のため、その資金寄贈者に、同家に伝来する三十六人家集三十五帖のうちの二帖「伊勢集」と「貫之集、下」を分譲することになった。
 全部で二千七百四十四ページのなかから三百三十ページを割き、その各十ページを一口にし、資金となる二万円を寄贈した人々に抽選で頒布することになった。抽選は、七月二十七日、品川御殿山、碧雲台(注・益田鈍翁邸)で滞りなくおこなわれた。
 思いかえせば大正十四(1925)年のころだったか、当時の西本願寺法主摂理、大谷尊由師が、あるとき私に現在わが国には、まだ真正の日本女子教育を行う女学校がないが、そのなかで、やや目につくのがキリスト(原文「耶蘇」)教宣教師の経営するもので、日本の女子を薫陶するには精神的な面での欠陥が少なくない、もしも日本の国情にふさわしい淑女を養成し、将来、女子が参政権を持つようになったときに、穏健な素養で危険思想の緩和剤となるような役割を果たすことができるようになるためには、自分たち仏教者の手によって理想的な女子教育を行う学校を建設しなければならないのであると述べられたことがあった。
 その後私は、本願寺の教育事業について、尊由師と同志一体ともいえる高楠順次郎博士に面会したとき、博士も同じ問題について話され、本願寺が女子学校を建設するためには、少なくとも三百万円必要だが、どうやってその資金を得たらよいだろうかと言われた。そこでわたしは、今もしも三百万円集めるならば、本願寺自身がまず非常な決意を示して、宗祖である親鸞の一衣一鉢の昔に戻り、伝来の什器も処分して、少なくとも資金の半分でも調達すれば、世の人もその真摯な態度に同情して、必ずやあとの半分を寄付(原文「義捐」)してくれるだろう、と述べたことがあった。

 このたび大谷光明師が新法主に就任されると(注・実際にはゴタゴタがあり、光明ではなく、光明の4歳の息子光照が就任している)、いよいよ武蔵野女子学校の建設に手されることになった。その資金に充てるために、当山第一の什器である三十六人集を分譲することを決心されたことは、宗教家の殉教的な事業に対する態度として至極当然のなりゆきであったと言わなくてはなるまい。
 そもそも三十六人集とは、今から九百三十年前、一条天皇の長保年間(9991004年)に納言藤原公任が撰した、人麻呂(原文「人麿」)」、赤人以下三十六歌仙の歌集を、当時の名筆家が尽善尽美(注・善と美を尽くした完璧な)の台紙に物し(注・書いて)、時の太政大臣道長の息女である彰子が一条天皇の中宮に入内するときに持参したものだと伝えられている。(注・現在は、天永31112318日の白河法皇六十賀贈り物として制作されたという説が有力)
 しかし現在大谷伯爵家に存在しているのは、その原本ではなくて、当時から、あまりはなれていない時代に複写したものであるというのが現代の古筆家の意見である。(注・現在は、大部分が原本で、天文18(1549)に、後奈良天皇より本願寺第10世の証如に下賜されたと見られている)

 しかし、その辺の説明はとりあえずおくとして、大谷家が今回、これを分譲することになったことについて世間には反対意見もあるようだが、とにかく、殉教的な目的達成のためには忍んでこれを分譲しなければならないのだという理由のもと、これを決行されることになったのである。ほかに適当な方法がないのに、いたずらにそれを止めさせようとするのは、非常に無理な注文だと言わなくてはなるまい。
 かつ、この歌集は、大谷家に伝来する以前、すでに世間に分散してしまったものもある。古筆鑑定の権威である田中親美氏の語るところによると、本帖は、その名のとおり、三十六人の歌集だが、そのなかで、一人で、上下二集あるのが二家あるため、もともと三十八帖あった。だが、人麻呂、業平、小町、兼輔の四帖が、すでに早くから散逸し、また、順(注・源順、みなもとのしたごう)集の一部も、すでに世間に出ている。
 このうち、兼輔集だけは、鎌倉初期の模写本があり、古筆家は、筆写したのは寂連法師と断定している。
 さて、これら世間に散逸した歌集切には、およそ四つの呼び名がある。
 順(注・したごう)集切は、「糟色紙(かすじきし)」と呼ばれ、現存するものが二ページあるのを、関戸守彦、池田成彬の両氏がそれぞれ一ページずつ所持している。
 また同集の「岡寺切」三ページは、古河虎之助家、根津嘉一郎家、および学士院が所持している。

 人麻呂集の「室町切」二ページは、近衛(注・文麿)公爵、古河(注・虎之助)男爵の所持であり、業平集の「尾形切」ページは、益田孝男爵二ページ、三井高精男爵、藤田平太郎男爵、原六郎氏、関戸守彦氏、安田善次郎氏が、それぞれ一ページずつ所持している。
 しかしながら、小町集は、現在、一ページも見当たらない。
 以上の歌切のなかで、これまでもっとも高かったのは、二万円三千円、もっとも安かったののでも一万五千円をくだらなかった。ところが今、にわかに、三百三十ページもの同歌切が世に出たのであるから、従来の所有者は大恐慌を起こしてもおかしくはなかった。しかし、今度の分譲を受けた者の中には、ひとりで一口、二口をまとめて、新たに手ごろな歌帖を調製する者もあるようだ。
 そのほか日本全国に、名古屋のように古筆愛好家が激増した地方もあるので、この歌切を所望する者は多く、争ってこれを得ようとした。したがって、これから古筆市場の市価が、従来に比べてひどく下落するといったことはなさそうだ。
 それはさておき、歌集二帖に六十万円余りの値がついたことは、維新以来の道具相場のレコード破りのことであった。日本もこれで、世界大国の仲間入りをしたような気持ちになる。これは、昭和年代におけるわが国の道具移動史上に、特筆されるべきことだろうと思う。

 


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二百九十一  松屋肩衝争奪戦(下巻522頁)


 松屋肩衝という大名物(注・おおめいぶつ)茶入は、もとは松本周室【あるいは松本珠報ともいう】が所持していたことから松本肩衝ともよばれていた。周室は、これを足利義政に献じ、義政がそれを珠光(注・村田珠光)に賜った。珠光はそれを、弟子の古市播磨守澄胤(注・ちょういん)に伝え、澄胤はそれを奈良の松屋源三郎久行に譲ったのである。
 それからは代々松屋に伝わり、松屋肩衝と呼ばれることになった。津田宗及の茶湯日記によると、永禄八(1565)年五月に松永久秀が南都焼き討ち(注・室町幕府13代将軍義輝を襲撃、殺害)の際に、あらかじめ松屋に内報して、徐熈(注・じょき。中国五代南唐の画家)の鷺の掛物と、この茶入を、よそに持ち出させたということである。
 その後、天正十五(1587)年十月の北野大茶の湯にも出陳された。また、霊元天皇の叡覧(注・天子が御覧になること)、将軍秀忠の上覧に供したこともあり、細川三斎、古田織部、小堀遠州、片桐石州といった大茶人からも多大な賞讃を博したものである。
 これより以前、利休がその袋を寄付し、三斎が象牙蓋と挽家(注・ひきや。仕覆に入れた茶入を収納する棗型の木の容器)の革袋と桐箱を寄進して、それらは今でもすべて付属している。
 この茶入は、徳川将軍家所蔵の初花肩衝と同種類の、漢作(注・唐物茶入のうちもっとも古い宋元時代のもの)で、こちらは少し背が低く胴まわりが大きいことが一風変わっているところである。
 もともと松屋では、久行、久好、久政、久重と、代々の数寄者が相続し、松屋三名物(注・徐熈筆の白鷺図、松屋肩衝、存星[ぞんせい]の長盆のこと。鷺図、存星長盆は現在所在不明)を持ち伝えた。歴代の主人たちは利休をはじめとする大宗匠のところに出入りしており、彼ら大宗匠の言行を記録したものとして「松屋会記(原文「松屋筆記」)」あるいは「四祖伝書」などといったものを残した。それらは広く京阪の茶人に知られ、松屋の三名物を見ざる者は、ほとんど茶人にあらざるがごとくに言われていた時代もあった。

 このように松屋は代々、これら名物を伝承してきたが、寛政年間(17891801年)に、松平不昧公は、いかにしても松屋肩衝を手に入れようと、お国入りの途中、伏見の旅館でこれを一覧することになり、実見が終って松屋主人が茶入を持って引き下がろうとしたとき、お供の家臣が進み出で次の間のふすまをあけると、千両箱が三個積み重ねられ置かれていた。懇望しているという内意を見せたわけだが、松屋は、これは先祖伝来の重宝なので金銭には替え難いとして最後まで応じなかった。
 当時、不昧公から松屋に送った礼状には、


 昨日は両種久々にて致一覧、大慶不過之候、別而肩衝如我等可賞品とは不被存候、不備               出羽一々
 土門源三郎様


とある。なんとなく、いやみを含んでいるように見受けられるのは、おそらく非常に失望されたからであろう。
 さて安政年間(185460年)になり、松屋の家政が傾いた(原文「不如意」)ため、これら三名物を、大阪の道具商である道勝、こと伊藤勝兵衛のところに質入れした。
 それを、島津公が一万両で買い上げられたという伝説は残っているのだが、このとき買われたのが、松屋肩衝だけだったのか、徐熈の鷺、存星長盆も一緒だったのか、その辺はさだかではない。
 私はそのことについて、以前、伊集院兼常翁を介して、島津家の方を調べてもらったことがあるが、西南戦争のときに焼失したものでもあろうか、とにかく、現存するのは茶入だけだということだった。
 さて、昭和三(1928)年の島津公爵家蔵器入札のとき、島津家の財政整理委員の樺山愛輔伯爵が、三井合名会社の理事である団琢磨男爵に、この入札の一切の世話を委託した続いて団男爵は、その宰領一切を私に依頼されたので、私は蔵器の中でもっとも高価なこの茶入の落ち着き先を探すため、まず根津青山、馬越化生の両翁を勧誘した。
 この両翁の入札の結果は、青山翁の力が勝っていた。軍配が青山にあがったとき、有力な札元であった戸田露朝が一曲の歌詞を作って私に送ってくれたので、ここに掲載しよう。


 

松屋潟月伊達引

 「むかしより、いまに常盤の色かへぬ、松の位の名物も、薩摩風に吹きよせられて、都のちまたくらぶにて、市に出でたるをりからに、引く手あまたのその中に、桜川(注・馬越のこと)とて今の世に、名うての大関力こぶ、入れて通ひし御成門、かたやは是も横綱の、緑も深き青山(注・根津のこと)と、互にきそふ土俵入、取組ありし其日には、四本柱もゆるぐ程、人気集るまつやがた、突合ふ手先、其内に、青山関の上手投、見事にきまり首尾よくも、勝星いただき帰り行く、げに勇ましきよそほひは、末の世までの語草、めでたかりける次第なり。」


 こうして、この茶入の噂は、一時はこの世界を賑わせた。(注・現在も根津美術館蔵)
 勝敗があるのは、戦う者の常、これ以上、気にするにも足らないことである。しかし、このような名器の争奪戦において、片方の大関であった化生翁が、今や、忽然として娑婆の土俵を引退された(注・亡くなられた)ということは、まことに残念きわまりないことである。



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二百九十 名器三十本茶杓(下巻517頁)

 私が大正元(1915)年から着手した「大正名器鑑」の編集は同十五(1926)年末に結了した。ひきつづきその再版のために二年余りを費やし、昭和三(1928)年九月に完成させることができた。
 その一部は天皇陛下に奉献し、さらに東久邇宮殿下にも献納するという光栄に浴した(原文「辱うしうした」)ので、同年十月二十七日に、帝国ホテルで本鑑の出版記念会(原文「告成会」)を催すことに決した。
 実物と対照させるため、諸大家から門外不出の大名物品を拝借し一堂に陳列することも行った。そこに、各方面の紳士、高官(原文「縉紳(しんしん)」、茶伯、文芸好事家を招待し、首尾よく記念の式典を終えた。
 さて、その翌年四月十七日に、根津青山翁の主唱に益田鈍翁、馬越化生、団狸山、原三渓の諸先輩が賛同して、さきの出版記念会に対して「箒庵翁慰労会」なるものを、東京会館で催してくださった。そこで、過分な讃辞と貴重な記念品を贈っていただいたので、私はその光栄を記念するために若干の茶杓を作り、それらに名器鑑中の茶碗、茶入にちなむ名前をつけ、ひごろ懇意にしている茶友に贈呈することを思い立った。
 さて、それを何本削ろうかと考えた末、表千家宗匠の如心斎宗左が、元文年間(注・173641年)に北野天満宮修復のために、三十本削って寄進した茶杓のことを「北野三十本」といって、今日の茶人たちにもてはやされていることから、私もそれにならい三十本製作することにした。
 寄贈しようとする人々に対しては、それぞれ縁故のある名称を選び、筒には「名器三十本之内、箒庵」と書きつけることにした。
 その名称と贈った人々の名前は次のとおりである。
 

  伊予簾  横井二王(注・横井庄太郎、名古屋道具商米萬

   走井   山田玉鳳(注・保次郎、名古屋道具商)
   橋立   中村好古堂(注・作次郎ではなく富次郎、道具商)
   花橘   近藤其日庵(注・廉平)
   春雨   加藤犀水(注・正治、正義の養子)
   思河   熊沢無想庵(注・一衛、実業家)
   大津   根津青山(注・嘉一郎)
   唐琴   林楽庵(注・新助、京都道具商)
   合甫   富田宗慶(注・重助、名古屋実業家)
   玉川   野崎幻庵(注・広太)
   玉柳   金子虎子(注・昭和茶会記に「大兵肥満の女性」とあるので瓢家女将お酉かも知れないが不詳)
   太郎坊  川部太郎(注・緑水、道具商川部利吉の養嗣子)
   茄子   益田無塵(注・益田多喜子)
   呉竹   伊丹揚山(注・信太郎、元七の息子、道具商)
   山雀   団狸山(注・琢磨)
   破衣   原三渓(注・富太郎)
   升    磯野丹庵(注・良吉)
   松島   八田円斎(注・道具商)
   猿若   益田鈍翁(注・孝)
   サビ助  仰木魯堂(注・敬一郎、建築家)
   笹枕   田中竹香(注・元京都祇園芸妓、田中竹子、「昭和茶会記」洛東竹操庵を参照)
   面壁   山中春篁堂(注・吉郎兵衛)
   宮島   田中親美
   箕面   戸田露朝(注・道具商)
   三笠山  土橋無声(注・嘉兵衛、道具商)

   四海兄弟 野村得庵(注・徳七)
   時雨   森川如春(注・勘一郎)
   白菊   越沢宗見(注・金沢呉服商、茶人、「雅会」会長)
   勢至   馬越化生(注・恭平)
   関寺   山澄静斎(注・力太郎、道具商、力蔵の息子)

 私は近年、茶杓削りに興味を覚え、天下の名竹をさがして、手に入れたら削り、ということを続け、それを同好者に寄贈することが一種の道楽になっているので、すでに作ってあったものだけでも二、三百はあったと思うが、今回も、例の道楽が頭をもたげ、この三十本の茶杓を製作したのである。
 そもそも、日本において茶杓を使い始めたのはいつのことだろうか。とにかく、抹茶を茶入から茶碗に移すには、茶杓様の器具を用いなければなるまい。鎌倉初期、シナから茶の実を持ち帰った建仁寺開山の栄西禅師の「喫茶養生記」のなかで、点茶の説明には、容器に二、三匙の抹茶を入れて、これに一杓の熱闘を注ぐべし、と書いてあるから、そのころからすでになんらかの茶杓を使用していたに違いない。
 その後、東山時代になり、天目点茶にはたいてい象牙の茶杓が使われたが、現在、足利義政、または茶祖の珠光(注・村田珠光)作と言い伝えられている竹製の茶杓があることを見れば、その時代にも竹茶杓はあったものと考えられる。
 茶杓の材料には、そのほかに桑、桜、その他の堅木が使われ、ほかにも、塗物、一閑張り、あるいは金銀なども使ったようだ。しかし紹鴎(注・武野紹鴎)、利休以後は、竹製のものが一番多く、象牙がそれに次いで多い。
しかし、象牙、塗物、木材の茶杓は、茶杓職人でないと、なかなかうまく作ることはできないので、昔から茶人の自作茶杓は、たいてい竹材に限られているのである。
 その茶杓には、その作者の人格があらわれる。貴人、僧侶、宗匠、その他どのような種類の人が作ったものであるか、ひと目見ただけでだいたいわかってしまうのは、作者の魂がその茶杓に乗り移っているからなのである。
 であるから、茶人が古人を友とし、その流風の余韻をしのぶときには、茶杓がもっともたしかな対象物となる。そして、これを鑑定することが、茶会における最大の興であるとされているのである。

 私が茶杓製作におおいに興味を持つようになったのもそのようなわけで、自分でも茶杓を作ってみれば、他人の茶杓を見て、その肝心な部分(原文「急所」)に一段と深く注意を向けることができ、ひいては鑑定もますます上達するのである。
 よって、巧拙はともかく、天下の茶人は、かならず茶杓の自製を試みてほしいものだと、私はこの機会を利用して勧めておきたいのである。


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二百八十九 大正名器鑑の編著(下巻514頁)

 茶道が始まって以来四百五十年のあいだに、茶人によって賞玩された名物茶器の数は、ほとんど数え切れない。
 利休時代までの茶書に載せられたものを大名物(注・おおめいぶつ)といい、時代がくだって寛永時代(注・江戸時代初期162445年)にいたり、小堀遠州らがその鑑識眼で選んだ名器を、中興名物と呼ぶ。それらが代々伝えられて貴重な宝とされているのである。
 徳川時代においては、これらの名物が、将軍家、諸大名、あるいは民間の諸名家の宝蔵に秘蔵され、それらを簡単には見ることはできなかったので、数寄者の中には、なるべく広くこれらについて調査し、名物集を作ろうとするものも多かった。
 なかでも、享保時代(注・171636年、徳川吉宗の時代)には、松平左近将監乗邑(注・のりむら、のりさと。老中)が非常な努力(原文「丹精」)で「名物記」三冊(注・「乗邑名物記」)を編集し、続いて寛政年間(注・17891801年)には、松平出羽守宗納【不昧公】が九年を費やして「古今名物類聚」十八冊を編集し、その後、本屋了雲が「麟鳳亀龍」という名物記四冊を編集した。これらの名物記が、従来は名物茶器の記録として、茶人の金科玉条とするところであった。
 封建時代には、諸大名が名器を各自の藩地で保蔵しているだけでなく、いろいろな意味で極度に秘蔵する習慣があったので、松平乗邑が当時の幕府老中であったことが、その調査のうえで非常に役立った。松平不昧も、徳川の親藩であるうえに十八万石の資力があり、それを背景にして編集を行うことができた。
 にもかかわらず、実物を見ることができない場合もなきにしもあらずで、伝聞によって記録を作成したので、調査が正確を欠くだけでなく、写真のような実物を写すことができる便利なもののない時代だったので、読者が実物を思い描くことが難しいといううらみがあり、私はいつもそのことを残念に思っていた。

 ひとりの研究者の力(原文「一学究の独力」)では、満足な名物記を完成することは、いかに便利な世の中でも簡単なことではないと思いつつも、なんとか奮闘して、この事業をやりとげてみたいと私は思ったのである。私が五十一歳で実業界を引退したのも、半分はこれを実現させるためだった。
 こうして、私は実業界を引退した大正元(1921)年から、どのような順序で着手すればよいかいろいろ研究し、大正六(1917)年にはほぼその方針を決めることができたので、それからすぐに名器の検覧、そして写真撮影にとりかかった。
 しかし、一度にたくさんのことを網羅しようとすると調査に滞り(原文「不手廻り」)が生じ、あれこれやるべきことが増えて、どっちつかずの中途半端になりそうだったので(原文「共に疎漏に陥るべきを悟り」)、第一期計画として、まずは茶器の代表(原文「儀表」=模範)である、茶入、茶碗、を調査し、その全力をこの二種類のものに集中することにしたのである。
 そこで、天下の名物茶入と茶碗の七分の一を所有されている松平直亮伯爵の四谷元町邸を訪問し、私が今度名器鑑を編集しようとしているのは、寛政年間に伯爵の高祖である松平不昧公が「古今名物類聚」を編述されたのと同様に、今日の聖代の余陰によって(注・「この平和な大正の御代(みよ)に」ほどの意味か)、さらに一層精密な図録を調製しようという趣旨であると、ひたすらに伯爵の援助を懇請した。

 すると伯爵はよろこんでこれを承諾され、不昧の時代は名器を検覧することは難しく、撮影技術もなかったために、その調査を入念にきわめることはできなかったが、今日、貴下が一層綿密な名器鑑を編集しようとするのは、茶道のためにもまことに有益な企画になるので、自分は貴下の目的が果たされるようにできる限りの協力をしようと、私のことを非常に励ましてくださった。私は、伯爵のそのひと言で、百万の援軍を得るよりも力づけられ、大正七(1918)年の五月に、伯爵の東京邸に所蔵されている三十八点を検覧した。

 続いて、松江市の宝蔵にある五十五点も調査し終えることで、名器鑑の中核となる部分を構成することができた。これは、私にとってこのうえないよろこびだった。
 次いで、同年十一月には、幕府伝来の御物を保蔵されている徳川家達公爵を訪問し、本編集の趣旨を説明した。公爵もその計画に賛成してくださり、所蔵の大名物茶入十三点、茶碗六点の検覧と撮影を許可されただけでなく、同族諸家に対しても、私が、その所蔵名器を検覧できるように親切にも取りはからってくださったので、私は引き続き、徳川三家の名器を拝見することができた。その後、島津、毛利、前田、浅野、細川をはじめとする旧大名家や、民間の大家を歴訪した。
 茶入については、持ち主が百人で、品数は四百三十六点、茶碗は、持ち主が百十八人、品数は四百三十九点というところで、調査を終了した。
 大正六(1917)年から実編集の時期にはいった。それから足かけ十年を費やして、大正十五(1926)年十二月、全国に現存する名物茶入、茶碗の編集を完了した。
 「茶入之部」五編、「茶碗之部」四編を印刷にまわし、これを「大正名器鑑」と名づけた。
 この事業の遂行には、物質的にも精神的にも想像をこえる困難に遭遇したが、時勢のおかげで、かつての故人がひとりなしとげることができなかったことを成就した。さらに手前味噌の点を挙げるなら、天下の諸名家を歴訪し、茶事始まって以来の誰よりも一番多くの名器を実見することができたことは、この事業から生まれた役得だったといえよう。

 


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二百八十八 医茶一途論(下巻510頁)

 私は父母から健康な身体を恵まれたので、七十年あまりのあいだのうち医者の厄介になったことが非常に少ない。医者から見れば、むしろ「有り甲斐のない代物」だと言われてしまうだろうが、そのかわり、たまに病気にかかったときにはいつも当代一流の医家に診てもらっていた。
 明治十四(1881)年に上京してから八年間はほとんど無病であったが、明治二十二(1889)年秋に欧米の来遊から帰国したのち、すぐに腸チフスにかかり帝大病院に入院した。そのときにはベルツ博士の診断を受けた。
 その後数年して、はじめて丹毒を患い赤十字病院に入院した時には、院長である橋本綱常子爵の診断を受けた。
 また明治四十二(1909)年、前妻が腎臓病にかかったときには、青山胤通博士の治療を願い、大正四(1915)年、老母が郷里で患ったときには、木村徳衛博士に往診していただいた。

 私が当代の名医と接した経験は、おおよそ以上のような数回でしかなく、とくに明治末期から大正の末年にいたる二十年間にまったく無病であったのは、この間、毎年のように伊香保に避暑入浴に出かけたためであると思われる。そのため、伊香保温泉の効能の宣伝もかねて、同地の八千代公園に、奈良地方から持ち帰った一丈二尺(注・約3.6メートル)の古石灯を寄進して、その棹に次の一首を彫りつけた。

  銷夏上毛雲木区 温泉日々濯吾躯 山霊冥助人如問 二十年間一病無
  (銷=とける、けす)

 私はこのようにもともと長く健康状態を維持してきたが、大正末年から大正名器鑑の校正に従事して極度に視力を虐使したため、視神経の衰弱をきたした。さらに消化不良にもなってしまい、一時は十七貫八百目(注・一貫は3.75キロで、67キロ弱)に達していた体重が、ほとんど十三貫目(注・49キロ弱)に減ってしまった。
 この間、もちろん床に臥せっていたわけではないが、家人らも、もしや胃癌ではなかろうかと危ぶむほどになってしまったので、そこではじめて病人のような気分を味わうことになった。そして、当代抜群の国手(注・名医。医師の敬称)として知られていた、帝大の真鍋嘉一郎君の診断を乞うことになった。
 きくところによると、君は初診の人に接するとき簡単には診察にとりかからず、長時間患者と対座して、よもやまの談話をするなかで、その容態についての一般的な観察をすることを、ふだんからの診断法としていられるそうだ。私のときも、その診断前の談話が長かった。
 その話題はといえば、さきごろ九死一生の大患にかかった馬越恭平翁に関するもので、翁が茶人で、また私も茶人であることから、とうとう医茶一途論について話をされたのである。その主旨は、次のようなものだった。

 「自分は、茶人が恭謙の態度をもって懐石の給仕をつとめ、さらに濃茶手前にはいるや、自分等の目より見れば一本の竹べらにすぎない茶杓を丁重に取り扱い、また古ぼけた茶碗を重宝のようにみなして、これを運び、これを拭い、茶を点て、客に供するその間に、万々損傷なきよう始終注意して居るその精神は、われわれ医者にとってもまた、おおいに学ぶべきところあり、この点においては医道も茶道も、全然一途なるべしと思わるる。ところでこのごろ馬越翁の病状がようやく危険区域を脱し来たるや、翁はそろそろわがままを言い出し、看護婦らが、すこぶる難渋する由、訴え出られたから、自分は一日、馬越翁に向かい、君は大茶人であるそうだが、いつごろより茶事を始めたるや、と問えば、翁はたちまち大得意となり、入門以来、五十年の茶歴を語られたから、自分はさらに一歩を進め、茶人が竹べらやら、古茶碗やらを大切丁寧に取り扱う、その注意周到は、自分のおおいに感服するところであるが、およそ天下に、わが身体より大切なる器物があろうか、しかるに、貴老は、近頃看護婦の言葉を用いず、ややもすれば、病態を虐用するきらいありという。茶人はかの竹べらや古茶碗をさえ大切に取り扱う者なるに、今、天下第一貴重なる、わが身体を、貴老のごとく粗末に取り扱う者を称して、はたして大茶人ということをえべきやいかん、と詰問したるに、さすがの馬越翁も、これには閉口して、グーの音(注・ね)も出なかった。

 自分はかつて、井伊大老茶道論を読んで、茶道の精神が、わが医道に共通して居ることを知ったので、今後は、医茶一途論を唱えて、ただにわが医道のみならず、人間社会万般のことに茶道の精神を拡充しなくてはならぬと思って居る云々。」

 以上、真鍋国手の医茶一途論は、まさに近来の名説だが、茶道の門外漢から出た説だからこそ、ますますその真価があがるものだろうと思う。そこで私は、この論法を使って、しばしば老人の冷や水を戒めているのである。
 さきごろ、益田鈍翁が大患にかかり、やがて全快の間際になって馬越翁とほぼ同じようなわがままが出てきたということを耳にしたので、さっそく医茶一途論を令息の太郎君に伝え、これを利用して翁の不摂生を防止するように勧めておいた。ここでもきっと多少の効果はあったのではないかと思うが、世間のいたるところで医茶一途論が特効をあらわす機会がありそうだと信じるので、ここにその要点を披露する次第である。


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二百八十七 延寿達磨(下巻507頁)

 五世清元寿大夫、岡村庄吉翁は大器晩成で、古稀(注・数え年70歳)を過ぎても声量がそれほど衰えず、芸の技はますます老熟した。その凄艶秀絶な清調(注・澄んだ声)は、目下のところ、浄瑠璃界全体を見まわしても他の追随を許さないものがある。それはもちろん天性の才能(原文「天稟=てんぴん」)のなせるわざではあるが、翁は芸術にのみ忠実で、もっぱら自身の健康に留意し、ほかの音曲師匠のように多くの門弟に稽古をつけることがなく、つねに医戒(注・健康に関する教え)を厳守しているからである
 適度な睡眠と食事を守り、十数年前から伊豆の伊東に別荘(原文「別業」)を構え、一回の劇場出演が終るとすぐにそこに赴き、呼吸疾患に特効がある同地の温泉につかる。そして一切の俗用を避けて、おのれの至宝である音声の保養につとめるのである。だからこそ、その芸術が老衰をきたすということがないのであろう。
 このように翁は芸術本位で保養を大切にしているため、その余暇のなぐさみに(原文「消閑の為め」)、最近では絵画に指を染めている。ひまさえあれば一室に閉じこもり、さかんに揮毫を行っているようだが、これまで師について学んだということはなく、古画を研究したり実物を写生したりして、いつもの根気よさで熱心に続けている(原文「孜々として倦まぬ」)ので、上達もはやく、近作の中には一種独特の風格があらわれているものもあるそうだ。
 もっともはじめのうちは失敗だらけで、竹が芦に見えたり、虎が猫と間違えられてしまうくらいはまだよくて、あるときは、ひと刷毛描きの鷺を描いて、大自慢でそれを田舎出身の下働きの女(原文「下婢」かひ)に見せたところ、女は不思議そうな顔をして、「旦那様、これはおかめの面でござんすか」とききかえしたので、さすがの大画伯も答えにつまって、ただただ苦笑を洩らすばかりだったそうだ。
 しかしその後画題のうち、馬、うぐいすなどには、かなりの佳作もあった。とくに鰹(注・かつお)は、伊東滞在中に毎日漁場に出かけ、解剖するようにさまざまな写生を行い、独特な新感覚のあらわれた作品になっているものもあって、翁の新画の十八番物のなかでも随一だということだ。
 さらに最近は、だんだん人物画にも興味を持ち、鍾馗や達磨などを描き始めた。なかでも達磨はもっとも得意とするところだそうだ。
 その苦心談をきいてみると、達磨はインドで聖者であり、あの毛のちぢれた黒人ではなく、容貌はコケ―ジャン(原文「コーケシヤン」=白人のこと)系の北欧人に近いはずなので、描くときには、達磨の顔をいくぶん西洋顔にして、独特な風格を描き出したのだという。
  翁は、その絵画には必ず自讃をつけるが、書については、翁が明治九1876)年から十八(1885)年まで三井物産会社の少年書記時代に鍛えた腕前に、その後多年の修練が加わり、剛健で抜群(原文「勁抜」けいばつ)な筆づかいで、ほとんど作家の域に達している。
 昭和四(1929)年の一月に、翁の達磨の評判を耳にして、荊妻(注・けいさい=妻のことを謙遜していう表現)の柳舟(注・高橋楊子。東明柳舟)が、新年の試し書きを所望すると、翁はおおいに乗り気になって、描きも画いたり、二百余枚のその中から会心の一枚を選んで贈られたので、さっそく表装に取り掛かり、一月二十八日に赤坂伽藍洞(注・高橋箒庵邸)で達磨びらきの茶会を催すことになった。この達磨画讃は、次のようなものだった。

    心外無別法
   我影も動かぬさまや冬の月
         五世延寿並題印

 この延寿達磨画讃の表装は、上下が萌黄地丸龍紋緞子、一風(注・一文字と風帯)と中廻しが丹地金襴で、それを書院の九尺床にかけ、荊妻の柳舟主催の茶会に来洞した人々は、延寿、栄寿(注・清元栄寿太夫)の両夫婦、稀音家六四郎、清元栄治郎の面々で、達磨幅の前には時代物唐物黒塗卓に青磁四方香炉を置き、名香蘭奢待(注・らんじゃたい)を薫じた。書院には、青貝入波に片輪車蒔絵手箱、床脇棚には厳島経(注・平家納経)の写し二巻、琵琶棚には土佐光信の胴革絵の平家琵琶を飾り、私は床の中にいる達磨を礼讃するために、六四郎をワキとして、栄治郎の三味線で、平岡吟舟翁節付けの東明流「道八達磨」の一曲を演奏した。
 この道八達磨というのは、東福寺の兆殿司(注・室町時代の画僧、ちょうでんす)筆で、織田信長の実弟である有楽斎長益の子、左門頼長、俗称、道八の旧蔵であるために、この名称がある。道八は、飄逸奇抜な茶人で、この達磨をみずからの肖像とみなし、画像の上に虚空元年月日の日付で、

     我影と眺めながらも余のうさを 知らぬ顔こそ羨ましけれ

と自讃して、終生これを秘蔵したそうである。
 この達磨を道八というならば、今度の達磨は、延寿達磨といってもよいだとうということで、私は延寿達磨という清元曲の新曲を作って翁に贈った。

 このようにして、和気あいあいの中に延寿達磨びらきの茶会は終わったが、この日、晩からの雪は鵞毛(注・ガチョウの毛)のようにひらひらと舞い、このまま降り続ければ、翌朝には庭に大きな雪だるまができそうに思われた。



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二百八十六  延寿大夫芸談(下巻503頁)

 若いころに三井物産の手代として働いていた五世清元延寿大夫は、清元お葉の至芸に魅せられて、だんだんと清元に深入りしていった。とうとうしまいには、お葉の夫の四世延寿大夫の養子になり五世を相続することになったが、その経緯については前述したとおりである。(注・157158「清元延寿大夫の生い立ち」を参照のこと)
 延寿は大器晩成のほうで、実力を発揮し始めたのは、実に大正初年ごろからである。そして今ではすでに古稀(注・数え年70歳)をこえるという高齢ながら、強弩の末勢(きょうどのすえのいきおい=強い弓の最後の勢い。強弩の末魯縞を穿つ能わず、という成句で用いられ、本来は肯定的な意味では使われない)を維持し、当代音曲界の第一人者と目されている。
 その理由はいろいろであるが、それはまたの機会に譲り、ここでは、彼の演芸上の努力が並々ならぬものであることの一端をしめすひとつのエピソードを紹介したい。
 延寿の声は非常に強く、高く、かつ清らかで、しかも音量が豊富であるので、清調(注・清らかな調べ)を本旨とする清元語りの太夫としては申し分がない。しかしこの種の太夫は、時としてその美声に邪魔されて、老人物を語るときに苦しむことが少なくないのである。現に、近世、その美声でその名声をほしいままにした摂津大掾(注・竹本せっつだいじょう)の場合にも、しばしばその欠点を感じることがあった。
 延寿大夫も同じであったが、彼の場合はそのことを自覚し、どうすればこれを補うことができるかを考えていた。梅川忠兵衛(注・「冥途の飛脚」の主人公名で、作品の通称)の浄瑠璃のなかにあらわれる老人、孫右衛門(注・忠兵衛の父親)を語るにあたっての苦心談などは、そのもっとも興味深いものであると思われる。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 「私は三十代で延寿大夫を相続して間もなく、梅川忠兵衛の孫右衛門を語らんと思い、老人の気分を出すべく、その語り口を研究して、当時横浜に隠居していた、岡太夫(注・豊竹おかたゆうか?)という義太夫語りに相談した。彼は、そのころ、大分の老体であったが、その道にかけては、すこぶるつきの老練者で、団十郎、菊五郎のごときも、時代物のせりふまわしについては、彼の教えを乞うたことが度々あり、現に団十郎が妹背山(注・「妹背山婦女庭訓」いもせやまおんなていきん)の大判事を演じた時は、彼よりその口跡を習われたが、団十郎ほどの者でも、そのころまでは、未だ声を呑むということを会得しなかったので、なんびとにも遠慮せぬ岡太夫は、団十郎を子ども扱いにして『それじゃ、まるでなっていねえよ』といったような口調で、彼に種々の工夫を授けたので、団十郎もこのときより、口跡の緩急(注・メリハリ)に大進歩を示したということであった。
 私はかねてそのことを承知していたので、一日、岡太夫を訪い、今度私は、梅忠の孫右衛門を語ろうと思うが、そのせりふまわしを教えてくださいと申し出たところが、岡太夫はせせら笑って、『おまえは、五十を越えないうちに、孫右衛門を語ろうと思うのか、そんな心得なれば、清元の養子などはやめてしまうがよろしい』と、さんざんに度肝を抜かれたが、さて、やむにやまれぬ場合とて、彼の忠言もききいれず、とうとう孫右衛門を語ったところが、案の定、大失敗に終わったので、私はそれより五十を越えないうちは、断じて孫右衛門を語らぬ決心をしたのであります。」と述懐された。

 ところが延寿が五十六、七歳のころ、癸亥(注・干支の、みずのとい=大正12年)の震災前で、まだ有楽町に有楽座があったときに、同座で行われた清元会で、清元梅吉の三味線で孫右衛門を語ったことがあった。
 延寿はもともと芸道熱心で、しかも非常に入念だった。毎日の芝居の出語りのときでも、登場前に必ず一回全曲をさらってから登場することにしているくらいだから、今回の孫右衛門についても非常に工夫をこらしたにちがいない。多少は美声が災いしたところはあったが、とにかく彼としては上々の出来で、観客からも好評を得たのである。
 しかし彼の得意は、累(注・かさね)、お俊伝兵衛(注・「近頃河原の達引ちかごろかわらのたてひき)で心中する男女)、三千歳(注・みちとせ。お葉作曲の清元)、十六夜清心(注・いざよいせいしん。歌舞伎)などである。その息の長い美声をじゅうぶんに発揮することができる曲において、他の追随を許さないものがある。
 とくに、彼は女性の声色を得意とし、江戸前の女気分をあらわす妙味は、どの流派を見まわしても当代に肩を並べる者はないだろう。そのような声の持ち主の太夫であるから、老人物を得意とするはずもなく、この点においては摂津大掾と同類である。
 私はかつて、越路太夫(注・三代目竹本越路太夫)から、梅川を語っては、摂津大掾が天下一品だが、孫右衛門はまだ不得意で、晩年になって美声が衰えてきたとき、はじめてこれを語れるようになりましたときかされたことがあったが、延寿もまた同じであろうと思う。
 彼は有楽座で孫右衛門を語った後、約十年間、これを出さなかった。昭和三(1928)年になり、三越会場での清元会で、めずらしくもこれを再び語ったが、古稀を過ぎてもなお枯渇していない彼の美声では、いくら苦心してもやはり難しいようであった(原文「終に其苦心に伴はざる憾なきに非ず。」)
 おそらく彼は、清調美音で成功する太夫であり、終生、老人物を得意にすることはなさそうだ。ただ、彼自身が、不得意であることを知りながら、あくまでもこれを研究する熱心さを持つことを、おおいに評価しなければなるまい。



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二百八十五  仏法僧(下巻500頁)

 仏法僧は、またの名を三宝鳥という(注・コノハズクのこと)。私は多年その声にあこがれて、紀州高野山で三回、大和室生寺で一回、聴聞を企画しながら毎度失敗したので、今度は木曽の福島興禅寺に出かけ声を聞こうとして、このときもそれを果たすことができなかった。
 ところが大正十五(1926)年七月、名古屋の茶友である森川如春が、先日三河国鳳来寺で仏法僧をきいてきたが、そこでは、宵の内から、ふんだんに鳴きだすので、簡単に聞くことができると言われた。ここにおいて、私は長年の宿望を達する時が来たと非常によろこび、愚息の忠雄、田中親美、稀音家六四郎(注・当時は杵屋六四郎)を同伴し、ちょうど上京中だった森川如春を案内人(原文「東道」)にして、同十七日に、三州(注・三河国、現在の愛知県)鳳来寺に参詣し、その夜、まさにはっきりと鳥の声を聞くことができたのである。
 七月十七日の朝、私は同行の五人で東京を出発、午後三時に豊橋着、すぐに豊川電車に乗り換えて、約三十分で長篠駅についた。駅から自動車で約二十分で門谷村に到着したが、この村は戸数が四、五十あるかどうかという規模で、そのなかほどに小松屋という旅人宿があった。この宿でも仏法僧を聞くことができるそうだが、私たちは、前もって鳳来寺に一泊の依頼状を出しておいたので、そこで登山の支度を整えた。
 そこから鳳来寺の奥の院までは、石の階段が千二百段だと知らされた(原文「註された」)が、鳳来寺はその手前の八百段のところにあるので、一同はおおわらわで石段を登り、夕刻に鳳来寺に到着した。 

 寺の住持である田畑賢修師は、私たちを非常に優待してくださり、夕食後庭前に出て、仏法僧を聞くための涼み台などを用意してくださったので、一同は今か今かと待っていたところ、午後九時ごろになって、前山の杉の木の間からブッポーソーという声が聞こえ始めた。
 最初のブッポーの二音の部分は非常に短く、あとのソーの部分がやや長くて尻上がりとなり、鼓(注・つづみ)の裏皮に抜ける音のように、ポンと余韻を残して響き渡る。それが山谷に反響して朗らかで、フクロウか鳩に似ているが、それよりもやや甲高く力強い感じがした。
 こうして一羽が鳴き始めると、反対側の山でも他の一羽が鳴きだし、シテ、ワキの掛け合いとなったが、そのようなことは、この山でもかなり珍しいことであるそうだ。
 その後私は、朝鮮で捕獲した仏法僧のはく製を見たが、大きさは、頭から尾までが七寸強(注・一寸は約3センチ)で、鳩よりもやや小さい。くちばしは黄色で、胸が孔雀のような瑠璃色を帯びて、美麗な斑変わり(注・まだら模様)がある。足の指は、前が三本、うしろが一本で、一見、とて九官鳥に似ているが、この鳥は夏季だけ日本にやってきて、秋口には南洋に飛んで帰るのだそうだ。
 さて私はこの仏法僧を聞いて年来の希望を果たしたが、今回稀音家六四郎を同伴したのは、森川如春が、「天下の音楽家は、必ず仏法僧を聞かねばならない」と言われたからだった。そんなことで彼を誘ったのであるから、その後、「仏法僧」という新曲を書いて、ためしに六四郎に見せてみると、彼は例の凝り性であるから、わずか四、五日で作曲を完成させたのである。その文句は次の通り。

    新曲仏法僧
 三下り妄執の雲立ちおほひ、法のともしび影暗き、浮世をよそに三河路や、鳳来山の山奥に、仏法僧といふ鳥の、棲むとし聞きて思ふどち、誘ひ合せつ水無月の、八日の朝、鳥がなく、あづまの都あとになし、耳の幸さへ豊橋を、渡る日脚の長篠を、過ぎて麓の門谷より、嶮しき山路よぢ登り、夕涼しき杉間もる、弓張月の影高き、峰の御寺に着きにけり。
 本調子見あぐれば、巌峨々たる奥の院、見下す谷は数千丈、月の光もほの暗く、早や初夏過ぐる折こそあれ、峙(注・そばだ)つ峰の彼方より、仏法僧と啼く声に、連れて聞ゆる又一つ、同じ其名を呼子鳥、しらべ合する声々の、こだまに響くぞ物すごき。
 三メリ更け渡る、夜風にゆらぐ、方丈の、灯の影かすかにも、夢か、うつつか、唱歌の声。心して聞けや人々、三宝の声は、心に通ふなり、声か、心か、心か、声か、声も心も、元ひとつ、アラ有り難の声や心や。
 本調子繰返し繰返し、近寄る影は、老いたる人、白髯長く胸に垂れ、頭に烏帽子を冠りつつ是れはいにしへ高野にて、開山大師に仕えし者なり、我今此山にありと聞き、遥々尋ね来りたつ、其信心に酬いんと、聖の御歌を唄つつ、夢中に姿を願はすなり、ゆめゆめ人にな語りそと、言ふかと思へば、一睡の南柯の夢は、覚めにけり。
頼母しや頼母しや、山の奥には、三宝の昔ながらの声すなり、末世にてはなかりけり、心に掛けし年月の、願ひも満ちし嬉しさを、峰の薬師の御利生と、伏し拝みつつ打つれて、麓の方にぞ下りける。
 

 これは、六四郎が興に乗って、速作、力作したものである。曲風は、幽玄体の、あの長唄の枕慈童(注・まくらじどう)などに匹敵するものであろう。
 ところでその当座は、東都のまんなかでも、しばしばこの仏法僧が鳴き始めたので、川柳でいうところの「河東節親類だけに二段聞き」(注・素人のひとりよがりの歌の披露に、身近な人が義理でつきあわされること)の類のお相伴を食った友人も少なくなかったようだった。


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二百八十四  東郷元帥懐旧談(下巻496頁)

 私は明治三十八(1905)年の末に、島崎柳塢(注・りゅうう)に追儺厄鬼図を描かせ、東郷元帥
(注・東郷平八郎)に五字讃を乞い、同年の歳暮掛けにしたことがあった(注・129「東郷元帥の五字讃」参照のこと)が、大正十四(1925)年、またすこしばかり思いたつところがあり、自作の茶杓に「山櫻」という筒書付を乞い、また茶室掛けとして「淸寂」二大字の揮毫を願い出た。

 すると元帥は、早速執筆のうえ、取次人である下條桂谷の門弟、八木岡春山に下付してくださったので、私は同十二月十日の午前九時半ごろから八木岡春山を連れて上六番町の東郷邸に推参し、うやうやしく御礼を述べた。
 東郷邸は、木造一階建ての簡素な西洋館で、玄関にはいると、右手に三間四方(注・一間は約1.8メートル)ほどの応接間がある。中央のテーブルのまわりに四脚の椅子があり、片隅にはソファ一脚が置いてあった。北向きの窓の内側に、はく製の鳥類や、石膏の人形、あるいは葵の紋散らしのある飾り太刀などが雑然と並べられていた。
 やがて女中が私たちふたりに番茶を運んできたあと、元帥は、ねずみ色のセル地無紋の羽織に、手織りらしいブツブツとした粗末な袴を着けて部屋にはいってこられた。ひげはもはや真っ白になっていて、鼻の下とあご(原文「腮」)に少々刈り残しがあり、頭髪にはいくぶん黒いところも残っているというかんじだった。
 元帥は気軽(原文「無造作」)に応接されたので、主客はそれぞれ椅子にすわり、まず私からの御礼を申し述べたあと、よもやまの雑談に移った。
 そのなかで、元帥が私の質問に対して率直に物語られたバルチック艦隊の動静についての談話はすでに前述(注・同じく129参照のこと)したので、ここではその他のことについていくつか記述しようと思う。
 私が元帥に対して、閣下はお若い時に禅学を修められましたか、と訊いたのに対する元帥の答えは次のようなものであった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分の少年時代は、尊王攘夷論が天下に充満していたときで、薩摩のはしばしに至るまで、人心おのずから穏やかならず、西郷、大久保等が先達となって、しきりに国事に奔走する折柄とて、自分が読書の稽古をしたのは、十七歳のときまでであった。
 そのころ自分の隣家に、伊藤という陽明学の先生があったが、この人は藩中でも、すこぶる高名で、西郷も大久保も講義をきいたり教えを受けたりしたことがあった。
 しかるに、自分はその隣家なので、始終その門に出入りして陽明学の講義を聴いたので、禅学を研究したとか僧侶の提唱(注・説法)を聴いたとかいうことはないが、心学の大要はこの伊藤先生より聞知することを得たのである。
 鹿児島では、このころより、海軍振興の藩論が起こり、自分等は少年ながらも、進んでこれを練習せんとする志を立てたが、一方京都において、倒幕論が進行し、薩長連合の結果、形勢いよいよ急迫したので、自分等は薩摩の軍艦春日丸に乗り込んで大阪に赴き、すぐに上陸して京都に向かわんとしたところが、それが慶応四(1868)年正月二日のことで、伏見鳥羽の朝幕衝突戦が、まさに勃発せんとするときであったから、乗ってきた軍艦を棄てておくわけにもいかず、中途より引き返して、軍艦に乗り移らんがため大阪の方より押し寄せ来る幕軍と、京都の方より進出する薩長軍の間を通り抜けて、ほどなく戦争が始まるならんと思いつつ、同志とともに大阪に立ち戻り、小船に乗って天保山沖に繋いでおいた春日丸へ漕ぎつけたが、二日の晩より三日にかけて、大阪方面に火の手があがったり砲声が聞こえたりするので、いよいよ戦争が始まったことを知り、春日丸と運送船二艘を率いて大阪沖を抜錨し、一路鹿児島に向かわんとしたところが、榎本武揚の率いていた幕府の軍艦数艘がその進路を横切って居るので、運送船の中一艘をまず四国の方に放ちやり、春日丸は他の運送船一艘とともに紀州海峡の方に避けたのを、榎本等の軍艦が追いかけてきて、三日より四日にわたって、しきりに砲戦を交えたが、榎本等は大阪方面のことが気にかかったとみえ、いまだ勝敗の決しないうちに引き上げたので、春日丸は運送船を引き連れて無事に鹿児島に帰着することを得た。
 それより官軍が江戸城を受け取って、東北佐幕藩の征討となり、黒田清隆、山県有朋の連合軍が越後の長岡を討伐する際、海上応援として軍艦に乗り込み、最初に能登の七尾に到着し、引き続き越後の海岸を巡航して海上より官軍に加勢した。
 また函館五稜郭追討の際は、やはり軍艦で北海道に赴き、かの戦争は約七か月ばかり続いたので、五稜郭降伏まで北海道沿岸の諸処で佐幕海軍と砲戦を交えたこともあった。
 その後明治四(1771)年にいたり、日本おおいに海軍を拡張しなくてはならぬという形勢になったので、自分は十二人の同僚とともに、海軍練習のため英国に渡航することとなったが、その十二人中、今日生き残って居る者は、自分と八田祐次郎(注・はったゆうじろう。裕次郎が正しいか?)の二人のみである。
 さて自分が英国滞在の七年間には、日本において種々の事変があった。ことに西南戦争のごとき、薩州出身の自分等としては、その際帰国して国事に尽くすべきはずであったが、先輩よりの勧告に、国に尽くすはそれぞれの道がある、今日帰国して、中途で海軍の研究を棄ててはなんにもならぬから、十分研究しをとげて、他日国家の用に立つ方がよかろう、と言われて、いかにももっともだと思ったので、爾来、水夫のことより始めて、躬行実践の修業を続け、明治十一(1878)年になって首尾よく帰国したのである。」

 私はこのような東郷元帥の直談をきいて、多大な感興を催した。向寒の際(注・寒い季節に向かう折柄)、一層ご自愛あらんことを乞う、と申し述べて、西洋応接間をあとにした。すると元帥は私たちを玄関まで送り出されたので、深く元帥の好意に感謝して、八木岡とともに同邸を退出したのである。 

 


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二百八十二  平家納経副本完成(上)(下巻489頁)

 今から七百六、七十年前の長寛、仁安(注・ともに西暦1160年代)の昔、平相国(注・へいしょうこく=平清盛のこと)清盛以下、同族の三十二人が厳島神社に奉納した「平家納経あるいは、厳島経ともいう」は、わが国の国宝中の国宝として、もっとも貴重なものである。
 近来、拝観者の数が非常に多くなり、これを巻舒(注・けんじょ=巻いたり広げたり)するたびに、胡粉や金箔の剥落が起こり、ひどい場合には折り目を生じるなど、汚損の度合いが加速している。そのことを時の厳島神社宮司の高山昇氏が憂慮し、副本を製作(原文「調製」)する計画を立てた。
 しかし神社の経済的な事情でその費用を捻出することができないので、大正九(1920)年二月、高山氏は古社寺保存会員の文学博士である福井利吉郎氏と相談のうえ、同十三日に両人揃ってわが伽藍洞を訪問され、副本調整費用調達の件について愚見を問われた。
 この年四月十八日、御殿山益田孝男爵邸で例の大師会を開き、その会場に古経巻を陳列することになっていたので、その機会を利用して平家納経の四、五巻を陳列し、当日来会する人々に、この無二の国宝の汚損を防ぐために副本製作がいかに緊要であるかを納得してもらい、ひとりにつき副本一巻の製作費用の寄進を願い出てはどうかと発案した。すると、両氏ともに、それはもっともな話であると同意されたので、すぐに益田男爵の同意も得てこの計画を実行に移したのである。
 これが意外なほどに来会者の同情を引き、特に時期が例の好景気時代の頂点にもあたっていたため、二、三時間しかたたないうちに、すぐに三十人余りの寄進者が出そろってしまい、副本製作費用が難なく集まってしまった。これはまことに幸慶のいたりであった。
 こうして副本調整の事業は、すべて田中親美氏に委嘱することになったが、平家美術の精粋をきわめたこの納経を、田中氏がいかに天才的技能者(原文「神工鬼手」)であるとしても、はたして原本どおりに調整できるものなのだろうかということは私たちの大きな心配の種だった。しかし試しにまず製作された提婆品(注・第12、だいばほん)、巌王品(注・第27、ごんのうほん)を見てみると、それらは原本に優るとも劣らない出来栄えであったので、さっそく田中氏を督励して、その製作に着手してもらった。
 これが国宝の中でも最貴重品であるので、文部省から私と益田孝男爵にその保管責任を命じられたので、一度に十巻ずつ品川御殿山の益田家宝庫に納めておき、田中氏が必要に応じて二、三巻ずつ取り出して模写することになった。
 経文はもちろんのこと、地紙の金銀砂子、表裏の絵図、装飾の巻金軸銀透かし彫りなど、平家美術の極致を原本通りに模写しようというのであるから、五年半の歳月がかかった。そのあいだには、癸亥(注・干支の、みずのとい=大正12年)の大震災などもあったが、大正十四(1925)年についに完成し、十一月十八日、まず経巻だけを厳島神社に奉納する運びとなった。それは、私たちにとってこの上ない喜び(原文「欣快措く能はざる所」)であった。
 この副本には、願文一巻を添えることになり、私がその文を作り、益田男爵がそれをしたためた。それは、次のとおりである。(注・旧字を新字にあらためた)


 「伏て惟る(注・おもんみる=考えてみる)に、長寛仁安の際、平相国清盛以下同族三十二人、厳島神祠に奉納の法華経一部廿(注・二十)八品、無量義、観普賢、阿弥陀、般若心経各一巻は、願文(注・がんもん。冒頭に書かれた趣旨)所載の如く、花敷蓮現之文、玉軸綵之典、尽善尽美(注・経文の内容も、使われた材料も善美のきわみを尽くし。なお、原文では誤植らしく蓮の字が連に、の字が䏼になっている)にして、天下無比の霊宝たり、而して奉納後七百六十余年をへて、儀容儼存嘗て(注・かつて)残欠磨損の痕跡を留めざるは(注・威厳を保ったままに破損欠損していないのは)、偏に(注・ひとえに)神明の呵護にして、人天の幸慶、何物か之に加へん、然るに近年令聞遠邇に敷き(注・近年その評判がほうぼうに伝わり)、群衆争うて拝観を希ひ、巻舒愈々繁くして、汚損漸く加はらんとす、厳島宮司高山昇、夙に此に見る所あり、速に副本を製して、平常衆庶展観の便に供せんとし、大正九年二月、古社寺保存委員福井利吉郎に諮り、相携へて高橋義雄を訪ひ、問ふに副本調整資金醵集の事を以てす、偶ま男爵益田孝、弘法大師会を、品川御殿山碧雲台に営むに会ふ、義雄乃ち益田男と謀りて、当日平家納経数巻を会場に披展し、事由を臨場の士女に告げて、一人一巻調整費の喜捨を乞ひしに、来衆欣んで之に応じ、未だ半日ならずして、三十四人の浄施を獲たるのみならず、其後更に賛加を望む者あり、応募者実に下記連名の多きに達したるは、誠に稀覯の盛事と謂ふべきなり、斯くて、副本調整の資已に整ふや製作一切の事を挙げて、田中親美に託し、爾来数星霜、結据労作、備さに艱苦を嘗め、又其中間癸亥の大震劫火に遭遇したりと雖も、幸ひに何等の障害を蒙らず、既にして菊地武文、高山宮司に代りたるも、亦能く其意緒を継ぎ、今茲大正十四年初冬に至りて、願文一巻、経文三十二巻の複写全く成り、神工鬼手、殆ど前倫を絶ち、精緻優麗、将に原本を凌がんとするの慨あり、是に於て浄施の士女相棒持して、親しく厳島神祠に賽し、隨喜渇仰して、謹んで之を宝前に奉納す、冀(注・こいねがわ)くは神明大慈眼を垂れ、我等の微衷を照覧し給はん事を、誠恐誠惶頓首敬白

 大正十四年十一月十八日   (連名略)」



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二百八十一  護国寺境内の茶化(下巻485頁)

 関東大震災(原文「癸亥大震災」)ののち東京市内を見渡すと、どこもかしこも荒涼(原文「満目荒涼」)として廃墟の感があった。神社仏閣も多くは烏有に帰して、東京の人々の信仰にも多少の影響を及ぼしかねないというおそれもあったことから、私は、京都の金閣や銀閣のような、参詣者に一種の清浄な気分を与えるような場所を提供する必要があるのではないかと思った。
 市内を見回しても、音羽護国寺以外にはほとんどそれに該当するところがないように思われたので、私は護国寺をそのような目的の浄境にしたいものだと思い、京都方面の実例にならって、同寺の境内を茶化する(注・茶の湯の影響を持たせる)必要があると思っていた。
 震災後のそのようなとき、麻布の天徳寺にあった松平不昧公の墓地が、道路改正のために別の場所に移転することになった。松平家では、それを旧藩地である松江の廟所に改葬する意向であるということを聞き、私は松平直亮伯爵を訪問して、その移転先の墓地を音羽護国寺にしていただけないかと乞うてみた。すると幸いにそれが承諾されたので、今度は護国寺の執事に相談し、三条公(注・三条実美)の塋域の隣地の三十坪余りの土地を提供し、これを松平家の墓域とし、その一角に不昧公ならびに、?(靜の左側に彡)楽院夫人の墓碑を、移建することになった。護国寺はここに、茶道の本尊を迎え、境内の茶化の端緒を開くことになったのである。
 さて私は、大正十四(1925)年の井上侯爵家蔵器入札会で、馬越化生翁らとともに同会の札元に対して、不昧公のために護国寺境内に茶室を寄進することを勧告し、西南にある景勝の地を選んで不昧軒、円成庵の広間と茶室を建造するということになった。これについては松平家もとても喜び、天徳寺の墓所にあった不昧公筆塚石、つくばい、石灯籠ならびに、不昧公の師家(注・禅僧の師)にあたる鎌倉円覚寺の誠拙禅師のち大用国師】筆の「弾指円成」の四字を彫りつけた門扉までをも寄贈していただいた。そこで茶室を円成と名づけ、広間を不昧とすることにした。円成庵には、護国寺貫主の小野方良行師の、不昧軒には、松平直亮伯爵揮毫の扁額を掲げ、大正十五(1926)年十月十七日に開庵茶会を催した。
 そのとき、松平伯爵家が不昧軒広間の飾りつけを引き受けてくださり、床には牧谿筆の松に叭々鳥幅を掛け、その前に中興名物の古銅象耳花入を置いて白玉椿をはさみ、床脇棚には時代片輪車手箱を飾った。また展観品として、加賀光悦茶碗を出陳してくださったばかりでなく、護国寺に対しても、不昧公の肖像ならびに同公筆による枕流の二大字幅を寄進してくださったことはまことに望外の好都合であった。
 その後、山澄静斎(注・山澄力太郎=力蔵の子)が、先祖の宗澄の追福(注・追善)のために宗澄庵を寄納し、これに先立ち私が寄進した仲麿堂、三笠亭とともに三席の茶室が並んだので、いよいよ境内に茶気分をただよわすことになった。
 私はこのほか、さらに大規模な茶事公会に使用するための大広間の必要を感じ、原六郎翁の品川御殿山邸内にあった慶長館に目をつけ、嗣子の邦造君を通じて寄進してもらえるよう懇望した。というのも、原翁は私の墓所の北隣りに終焉の地を所有し、百年の後には私らとともにこの地に永眠する人であるからで、翁の記念物として慶長館を寄進してもらえるよう願ったのである。
 すると原翁は喜んでこれを承諾され私たちの希望を叶えてくださったので、護国寺のほうでもとてもよろこんだ。さっそく仰木魯堂に委嘱して、慶長館を護国寺境内の西側の薬師堂の裏手に移建することになった。
 この慶長館というのは、もともと江州(注・近江)三井寺境内の一塔頭だった月光院というもので、現存する円満院よりも比叡山寄りの高地にあった。表十八畳二間、裏十畳二間が連続しており、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間にある一間幅の通路)もいれると約七十畳にもなる。ふすまの張り付けは狩野元信筆で、有名な水呑虎の図も、このなかにあるものである。
 明治二十(1887)年ごろに、三井寺でこのふすまだけを売却したいという相談があったとき、井上世外侯爵の勧めに従って原翁が買収されたものであった。しかし原翁は、このふすまがいかなる座敷にあったのかということを一応、実地検分しようということで、その後三井寺に赴き、とうとうその建物までも引き受けることになったのである。
 ところで、これを慶長館と呼ぶのは、慶長年間において当館に大修復を加えたためで、創立の年代は鎌倉時代か足利時代であるといわれ、まだ一定の説はない。とにかく、五百年をこえる古建築であることは疑いなく、護国寺に移建してほどなく保護建造物に指定された。護国寺ではこれを月光殿と名づけ、小野方貫主がその扁額を揮毫した。
 今では、法要や茶事などのときに、護国寺にとっては非常に大切な建物になり、大師会をはじめ、その他の茶事のためにも使用することになったので、客殿、庵室もようやく備わって、護国寺境内の茶化の理想が実現されることになったのは、私たちのおおいに満足するところである。

 この際にあって、執事として内外の交渉にあたり、これらの事業を進めたのは佐々木教純師であるが、師が小野方良行大僧正のあとをうけて最近貫主に栄進されたことは、本寺にとって、まことに幸慶のいたりだった。今後建設の必要がある多宝塔、宝物館なども、この貫主在職中に必ず完成されるに違いないと、私は注意深く観察(原文「刮目」)しながら期待している。


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二百八十  護国寺仲磨堂縁起(下巻482頁)

 仲麿堂とは、私が音羽護国寺の弘法大師堂の前に建立した一宇の(注・一棟の)小堂である。
 ここでこの堂の縁起を述べようとするならば、まず私がその堂前の老松の下に移築した、阿倍仲麻呂(原文「安倍仲麿)」塚古碑の由来を物語らなくてはならない。
 私は大正の初年に奈良において、高さ四尺(注・一尺は約30センチ)、幅二尺四寸、厚さ一尺ほどの自然石に、安倍仲麿塚と彫りつけてある古碑を見つけた。古色蒼然として、一見して七、八百年以上はたったものと思われた。
 碑面の文字は温秀高雅で、藤原時代の名家の筆蹟であることにまったく疑いはなかったので、出どころを問うてみたところ、大和国磯城郡安倍村(注・現奈良県桜井市)の、安倍文殊堂(注・安倍文殊院か?)の前にあったのだという。安倍村は、安倍一族の発祥の地なので、仲麻呂が唐において物故したのち、招魂碑としてこれをこの地に建てたものにちがいない。
 そのような古碑が、いまや道具屋の手に渡ってその店頭にさらされることになったのは、いかにも怪訝にたえないが、既に市場に出ている以上、早晩、誰かの手に渡っていくだろうから、心なき人の手に渡らぬ前にとにかく自分が買い取り、いったん自邸の伽藍洞に引き取っておいた次第である。
 仲麻呂は弘法大師よりも先輩で、しかも年代にはそれほどの違いもなく、また同じように入唐しているという縁もある(注・仲麻呂が入唐したのは8世紀、弘法大師空海は9世紀である)ので、この碑を護国寺の大師堂前に移建するのは、決して不届きなこと(原文「不倫」)ではないと思うと同時に、そのままにしておいたのでは、後世になってからその由来がわからなるだろうと考え、はなはだおこがましいことではあったが、碑陰に、次のような引(注・ひき=案内文)と詩を彫りつけたのである。

    此碑旧在大和国安倍村 久没蒿莱 無人剥蘚者 大正十三年甲子仲秋 移植斯地
     (注・蒿=よもぎ、莱=あかざ、蘚=こけ)
 

      題詩于其陰     箒庵逸人

    恋闕葵心欲愬誰 向東拝賦望郷詞 千秋唯有天辺月 猶照招魂苔字碑
     (注・愬=うったえる)

 この題詩は、はなはだ拙劣なものではあるが、しかし私はこの機会に阿部仲麻呂のために、すこしばかり冤を雪ぐ(注・名誉を挽回する)つもりであったのである。
 なぜならば、仲麻呂は霊亀二(716)年、十六歳のとき選ばれて遣唐留学生となり唐に行って学問をした。姓名も変えて、朝衡と名のり、玄宗皇帝の治世下で秘書監という役儀を勤めたという。そのことから維新前後の攘夷論が盛んだったころ、彼は唐に仕えた売国奴であるとして、藤田東湖などでさえもが彼を罵り、俗儒曲学と呼んだのである。
 仲麻呂は、あの「三笠の山に出でし月かも」の歌からも容易に推察できるように、自分が留学生として遣わされた朝廷を忘れたり、故郷に残した父母を顧みなかったような人間ではない。彼が唐の朝廷に立って官職を帯びたのは、留学生として唐の儀礼典章を研究するためだったのであり、また唐朝のほうでも、日本の秀才に花を持たせて名誉職を授けたということなのだ。これは、今日各国の朝廷から外臣に勲章を贈与するのとほとんど大差ないものだっただろう。

 彼は日本に帰ろうとして明州に至り、あの「天の原ふりさけ見れば」の望郷歌を詠まれたにもかかわらず、海上で台風にあい安南(注・現ベトナム)に漂泊し、結局恨みを抱きながら異郷で没することになった。そのことには大いに同情すべき点があるので、私は碑陰にさきほどの拙詩を題して雪辱の気持ちを表明したのであった。
 私はこのように仲麻呂塚石を護国寺境内の大師堂前に安置したので、それまで参詣人の休息所になっていた建物に接続する形で、六畳広間と三畳台目茶席と瓦敷辻堂形一室を増築し、それを仲麿堂と名づけた。そして、円窓龕(注・がん=厨子)内に設置するため、彫刻の大家である内藤伸氏に仲麻呂の木像彫刻を依頼した。すると内藤氏は熱心に古図を研究し、仲麻呂の服装などを調べ上げ、高さ一尺(注・約30センチ)ほどの木像を制作してくださったので、それを当堂の本尊にし、大正十四(1925)年五月九日に仲麿堂開扉茶会を催し、献茶式を行った。
 このとき小間を箒庵と名づけ、これに千宗旦筆の弘法大師画讃を掛けたが、それは、宗旦の、大師が曲(注・きょくろく=僧侶が法会のときに使う椅子)に座った図を、まるで子供のらくがきのように粗筆でしたためた上に、

     空海中主 日本弘法 在高野山 多少参人

の四言偈(注・げ=詩句)を書きつけてあるもので、この一軸の前には、時代朱塗四方盆に御本蓮形染付獅子蓋香炉を置いて、名香初音を薫じ、表に三笠山月の図、裏に仲麿堂の三字入りの楽焼菓子皿に青竹串三色団子を載せ、独楽盆には唐もろこし煎餅を盛って薄茶をすすめた。
 またこのときから三笠亭と命名した広間では、今回仲麿堂の堂守となった裏千家の藤谷宗仁が、この場にふさわしい道具組で来客の接待に当たった。
 そして、遠路奈良(原文「奈良三界」)から背負い込んできた仲麻呂石を、図らずも最適の地に安置することができたので、これならば地下の仲麻呂からもあまり苦情は言われないだろうと、はじめて安堵の思いをなしたのである。これが、すなわち護国寺仲麿堂の縁起である。



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二百七十九  中村画伯の遺物(下巻478頁)

 近年、洋画家の鬼才としてその将来を嘱望され、洋画界において嘖々たる(注・さくさくたる=口々に人が褒める)名声のあった中村彝(注・つね)君は、大正十三(1924)年末、三十六歳で周囲の哀惜のうちに白玉楼中の人となった(注・逝去した)。
 私は生前の君に面識を得る機会を持たなかったが、大正五(1916)年ごろに君が市外下落合に新画室を作られたとき、君の親友であった水戸徳川家家令の福原脩氏を通じて、その建築費を少額、寄進したことがあった。
 ところが君は非常に物堅い(注・律儀な)性質で、大正九(1920)年に、君の病気が悪化したとき、奈良新薬師寺十二神将の模像銅面を一個、私のもとに届け、病気が癒えたら、恩に報いるために、ぜひとも貴下の肖像を描きたいと思っていたが、今ははなはだ覚束ないので、まずこの小品を机右に捧げるという伝言がなされた。これで、君の私に対する物質的な応酬はすでに十分に完了されたはずなのに、君の没後に親戚、故旧(注・旧知の、なじみの人)がその遺言状を開いてみると、君がひごろ最も敬慕していたフランスの油絵の大家であるシスレーの田園秋景図の模写の、縦一尺八寸(注・約53センチ)、幅二尺四寸(注・約73センチ)の油絵一枚を、遺品として私に贈るようにしたためてあったそうで、君の愛弟である鈴木良三氏みずからが、これをわが伽藍洞に持参された。私は、君が志操高潔で情誼に厚い君子人であったことを知ると同時に、その芸術の霊光もまた、この性情から発露したものであることを知り、今さらながら非常に感激したのである。
 中村彜君は、水戸藩士、中村三五右衛門の末子で、明治二十(1887)年に同市上市寺町に生まれた。君の祖父は、厳父と同名の三五右衛門といい、藤田東湖先生の回天詩史に、小官而有志、則中村皆一時之選之、とあるのがその人で、小身(注・低い身分)ながら気節のある志士であったとみえる。
 君は少年のころ軍人を志したが、ほどなく病を得てこれを断念し、それからは洋画を志した。白馬会の中村(注・中村不折のことだろうが、不折は白馬会には参加しておらず、のちに太平洋画会に参加した。なお白馬会は、太平洋画会の前身である明治美術会から分裂したグループである)、満谷(注・満谷国四郎。満谷も白馬会には参加しておらず、太平洋画会の創立メンバー)両氏に師事し、太平洋洋画会にはいるころには、技能もますます進んだが、大正五(1916)年下落合に画室を設けたころには、数年前からすでに痼疾となっていた肺患が昂進して、時として画筆を持てないこともあった。この期に及んで、今村繁三氏が、君の天才を見込んでそのパトロンになり、また福原脩氏の伯母が、君の看護役を引き受けて肉親も及ばない介抱を継続したのは、いずれも感心な美談である。君の晩年の傑作である老母像は、この伯母をモデルにしたものであるそうだ。

 このほか、エロシェンコや田中館愛橘博士、室田義文氏の肖像などは、みな不朽の名作として知られている。
 さて、君が遺品として私に贈ってくれたシスレーの田園秋景図の原画は、今村繁三氏の所蔵だそうであるが、私に贈られたほうの図は、いわゆる意写というのか、原画の筆が細やかなのにひきかえ、非常に剛健な筆致で描かれている。
 向かって左手に一軒の田舎家があり、右手には、紅緑点綴(注・赤や緑の散らばった)の森林がある。その中ほどに通っている小径を、村の女が、子供の手を引いて歩いて来るという図柄で、田舎家と樹林のあいだから遠い山の景色を見せている。概して平凡な風景で、なにひとつ目標になるような偉観はなく、ただその秋晴れの空が澄み渡っていて気分のよいところがその特色となっているというものである。
 故人の愛弟の鈴木氏によれば、シスレーは今から四、五十年前に物故した大家で、名利の観念に淡い人となりであり、自分の画壇における評判などにはまったく頓着しなかったそうだ。またつねに清貧に安んじたため、世間からは貧乏シスレーと言われ、三十代で早死にしたとのことである。
 もともと天才肌で、人とは一風変わったところがあった。パリ近くのモレ―という湖水と森林の景色絶佳なところに隠棲した。そして、水と空との研究に没頭し、特に雲色水光を描くことに長じたため、当時は仲間から空の魔手と呼ばれていたそうだ。
 さきほどの田園風景なども、ことさらに平凡な景色を選んで、観る者の胸中に、しぜんと余情を描かせるものである。この田舎家や樹林の奥には山村を抱いた湖水があるとか、野花に満ちた牧場があるとか、天を突く寺院の高塔があるとかといった、見えないところにあるかもしれないさまざまな風景を目に思い浮かばせる意匠がこもっている。これは、東洋の省筆画、破墨山水画などと同じく、茶的精神を含蓄した絵画の一種であるというべきだろう。
 中村君が遺品としてこれを私に贈られたことにも、そういった意味があっただろうと思われたので、私はこれを伽藍洞の什器として、ながく故人の好意を記念するつもりである。
 拙作の一詩があるので、ここに掲げる。

   昨夜寒風摧蕙闌 妬才天意太辛酸 贈吾一幅高秋景 髣髴遺容画裡看
       (注・摧=くじく、蕙=かおりぐさ、闌=たけなわ)



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二百七十六  大震火災と名器(下巻468頁)

 大正十二(1923)年九月一日の関東地方の大震災は日本開闢以来稀有の大事変であった。その間に起きた種々の劇的な挿話を記述していてはほとんど際限がないから「箒のあと」においてはあまり多くに触れないつもりである。ただこの震災と名器の関係についてだけ、その大略を述べることにしたい。
 私はこの年の七月下旬から上州(注・現群馬県)伊香保に避暑し、八月いっぱい同地に滞留し、大震災の当日午前八時に家族とともに帰京しようとしていた。夜来の小雨が、まだまったくやむことがなかったのであるが、そのとき十三歳になる愚息(原文「豚児」)の忠雄が急に、「僕は東京に帰る時はいつでも非常にうれしいのに今日はなんだか不愉快だ、こんなときに帰れば必ずよいことはあるまいから、今日は帰京を見合わせましょう」と異議を唱えた。
 そこで、とりとめもないこととは思ったものの、とにかく出発を午後まで延期しているうちに、正午近くにかなり強くかつ長い地震があったので、浅間山でも噴火したのだろうかと特に意に介さずにいたが、午後三時ごろいよいよ帰京しようとして停車場に行ってみると、東京方面が大震災で、大宮の鉄橋が不通だという報道に接したのである。そして、よくも午前中に出発しなかったものだと、いまさらながらに愚息の予感の的中に驚いたのであった。
 やがて、その夜九時ごろになって東京方面の空が真っ赤になった。多分、大火が起こったに違いない、いや、いかに大火だとしても、三十里もはなれたところにその光が届くはずもないだろうなどと言っている間に夜があけ、だんだんと騒ぎが大きくなっていった。
 区々の(注・まとまりのない)情報が伝わりはじめ、やれ、どこが焼けただの、ここが残ったのと噂がとりどりであったが、中でも名器所蔵者の類焼に関してが、私にとってはもっとも神経をとがらせることだった。たとえ焼けたとしても、その宝蔵は無事に違いない、もし仮に宝蔵に火が入っても、名器は別の場所に移されたに違いない、などなどと、夜も安眠できぬままに焦慮したが、四日になって急使が登山してくるまでは自宅の安否さえも分かっていないありさまであったのだから、各家の消息をはっきりと知ることなどもちろん不可能だった。
 連日のように懸念しつつ帰京を急ぎ、十日に自動車で帰宅するやいなや、まず類焼した水戸徳川家に問い合わせてみると、宝蔵の一棟が焼け残り、大名物茶入の新田肩衝、玉堂肩衝もみな無事であるとのことで、おおいに喜んだ。(注・現在ともに徳川ミュージアム蔵)
 続いて、井伊直忠伯爵の宮王肩衝はいかがであったかと訊きただすと、旧藩士の中村勝麻呂(原文「勝磨」)氏が、井伊家道具係と力を合わせて、まず家乗史料(注・一家の歴史に関する史料)を持ち出し、さらに猛火とたたかいながら、有名な又兵衛の彦根屏風、牧谿筆の猿鶴二幅対などともに、宮王も無事に他所に移されたとのことだった。(注・現在彦根城博物館蔵、現在では岩佐又兵衛の作ではないとされている)
 また名器所蔵者のうち、三井高精男爵、馬越恭平、加藤正義、浅田正吉の諸氏は、いずも宝蔵が焼け残って、さいわいに名器の安全を保たれたとのことだった。
 益田信世(注・益田孝の三男)氏は、震災の間際にいゆる虫が知らせたものか、急に茶器を小田原の新邸に移すことにしたので、あやうく災厄を免れたそうである。
 岩原謙三君は、宝蔵が焼け残ったにもかかわらず、表装を修復するために倉庫外に出していた弘法大師の肉筆金剛経を焼いてしまわれたそうで、これは取返しのつかない(原文「終古の」)遺憾であった。
 また横浜で類焼した小野哲郎氏所蔵の曜変天目茶碗は、稲葉子爵家の伝来品で、先年レコード破りの高価でもって氏の手に帰したものであったが、金庫の中にあって、これも幸いに無事だとのことだった。(注・現在は静嘉堂文庫所蔵の国宝) 
 また、郷里から鎌倉の別荘に数々の名器を取り寄せて置いていた加州金沢の松岡忠良氏方では、倉庫四つも破壊されたにもかかわらず、井戸茶碗宝樹庵、光悦七種雪片などが、さいわいに無事であったそうだ。
 これに反して、藤堂高紹伯爵の向両国百本杭本邸は数棟の宝蔵が残りなく焼け落ち有名な書画什器が焼失したことは言うに及ばず、古今の名器として知られた中興名物、古瀬戸尻膨銘破被茶入、同飛鳥川手銘雲井茶入、古井戸茶碗銘老僧、織田有楽手造茶碗銘(注・ママ)なども、おそらく火焔の中にその影を失ったという。
 松平頼壽伯爵所蔵の長次郎七種茶碗木守と、酒井清兵衛氏所蔵の光悦七種茶碗鉄壁は、ともに祝融(注・しゅくゆう=火事)の咒(注・のろ)うところとなり、駿河台の内田薫作氏方では、因果経二巻、中興名物祖母懐銘絃茶入が烏有に帰した。
 ことに悲惨をきわめたのは森岡男爵家の宝蔵で、生海鼠手茶入銘妹背山、薩摩焼茶入銘顔回、無地志野茶碗、および玉子手茶碗銘雪柳などが、いずれも火焔の舐めつくすところとなった。

 しかし、東京市の六割以上も焼失したという割に名器の被害が少なかったのは、不幸中の幸いであったろう。
 これまでの日本において火災のために一時に多数の名器を失ったのは、元和元(1615)年の大阪城落城と、明暦三(1657)年の江戸大火である。前者は太閤秀吉が蓄積した名器を烏有に帰し、後者は柳営御物(注・幕府徳川家の名物茶器)の大半を一炬(注・いっきょ=大きな火)に付した。どちらも火事の範囲はそれほど広くないにもかかわらず、多くの名器を焼き払ってしまった。大阪城のほうはその数は不明であるが、江戸城では、大名物肩衝茶入だけでも二十二点にのぼったという。
 これに比べれば、今回の火災で焼失したものは、茶入が十五、茶碗が八つであったのは、名器所蔵者の多くが山の手に住んでいたためであろう。
 私はこの震火災によって、名器の罹災状況を知り得ない人があるだろうと思い、ここに私の知り得た大略を述べて、後日の参考に供する次第である。

 


 ≪参考≫
「箒のあと」の本文ではないが、国華倶楽部編「罹災目録」(昭和8年)を参考までに載せておく。
    国会図書館デジタルライブラリー
 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215483
 


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二百七十三  吉住小三郎芸談(下)(下巻457頁)(注・上にもどる

 二代目小三郎は目に一丁字がなかった(注・字を知らなかった、無学だった)が記憶力がよく、芸道熱心で音曲に関してはなんでも研究していた。
 そのころ岡安喜三郎が、小三郎とは互角の長唄語りで、彼のほうが家格が優れているため、あるとき小三郎が常勤していた芝居小屋で勧進帳をやるというとき(注・天保111840)年江戸河原崎座で勧進帳初演)、喜三郎がタテ唄(注・長唄の首席の唄い手)をやるらしいとい聞いた小三郎はそれを承知せず、自分の芸が、もしも彼よりも劣るというならば、自分は甘んじて彼の下に就くべきだろうが、そうとは思われない、自分の持ち場で、彼がタテ唄になるということは、はなはだ当を得ていないと言い出した。
 それならば、甲乙なく、両床で語らせようということになり、このときから芝居の長唄地語りに両床ということが始まったのだそうだ。
 小三郎と喜三郎は、このようなライバル(原文「競争者」)でありながら、芸道に対する小三郎の熱心さは、見栄も外聞も顧みることはなく、喜三郎の長所については彼から習うことを恥とはしなかった。
 あるとき喜三郎が、吾妻八景の「ふくむ矢立の隅田川」というところを唄うのを聞いて、それを真似しようとしたが、それが簡単にはできないことを知って、みずから喜三郎のところにのこのこと出かけ、彼の細君に面会し、「隅田川の一節は、われ、喜三郎殿に及ばざれば、謹んでその教えを乞わんとて、今日、罷り出でたるなり」と告げたところ、喜三郎の女房は、そのような奇特な心掛けがあったとは気づかずに、「あれは当流の秘伝でありますから、御伝授はできませぬ」と断ったので、小三郎は本意なくも引き取り、ならば、自分で工夫してみようということで、今日の吉住流で唄っている通り、「すみだがは」の五文字を、三味線の切れ目切れ目にはさんで唄うということにしたのだそうだ。
 小三郎はこのほかにも、唄いぶりにおいて、いろいろな考案を凝らして、その芸風が今に残っているものも少なくない。
 越後獅子の「そこなおけさに異なこと言はれ」という文句の中の「異な」の上に、「ン」という間を置くのも、この人の語り方で、現に今日でも吉住流で行われ、この一段に一種の風雅を添えていることなどもその一例であるそうだ。
 二代目小三郎は芸道熱心で、すこしでも自分の芸に勝るものがあれば、恥も外聞もなく自分を曲げて屈服するかわりに、江戸っ児の負けじ魂で、相手が強ければ強いほど一歩も後には引かないという勝気の持ち主だった。だから、この人の逸事は数々あるが、そのなかでも一番おもしろいのは次のようなものだ。
 あるとき三島神社の祭礼に江戸から長唄連中を迎えることになり、小三郎が招かれた。そこで、そこに赴く途中に箱根の関所を通りがかったときのこと、そのころ関所の役人は、徒然のあまり、芸人などが通りがかれば、慰み半分にその芸を演じさせるということがあったそうで、小三郎にも長唄を一曲演じてみよと命じたのである。そこで小三郎は望まれるままに、正式に一段を語り聴かせたそうだ。すると名人の芸であるので、関所の役人もことのほか感服して、続いてもう一曲、と所望した。そこで小三郎はもう一曲演じ終えたのであるが、そこで関所役人に向かって、「さて最初の一曲は長唄芸人のお調べのためなれば、無料にてよろしけれども、その後の一曲は御所望にて演じたるものなれば、なにとぞ御祝儀を頂戴いたしたし」と申し出た。しかし関所役人がこれに取り合う様子がないため、小三郎は彼らに向かって、「さらば、われわれは小田原に引き返し、大久保加賀守殿(注・小田原城主)まで願い出でて、御祝儀の埒(注・らち)明け申すべきに就き、左様御承知相成りたし」と申したので、彼らも非常に閉口して、とうとう、いくばくかの祝儀を奮発したのだそうだ。小三郎のこのような機転胆略は、この逸話からもほぼうかがい知ることができるであろう。
 さて、この小三郎に師事し、堅実な芸風でおりおり芝居などに現れたのが、三代目小三郎である。今の六四郎(注・杵屋六四郎、のちの稀音家六四郎)がまだ若年のころに、その三味線を弾いている左手がよく利くのを見込んで今の小三郎と提携させたのが、この人であったことからもわかるように、芸道には一見識あった人物だと思う。
 また、この晩に六四郎が語った芸談の中に、幕末の長唄界における大作曲家である杵屋勝三郎についての話があった。
 杵屋勝三郎は、有名な芸道熱心の奇人である。ある日外出中に、それまで近づきのなかった長唄師匠の門前を通り過ぎた。そのときちょうど、自分が作った「鞍馬山」を、師匠がその弟子に稽古している最中であった。聞いていると、だいぶ違っているところがあるので、彼は見も知らぬ師匠の家に飛び込み、自分は杵屋勝三郎でその曲を作った者であるが、ただ今のは少し間違っているところがあります、と言って、師匠の手から三味線を引き取って鞍馬山を一段弾き終え、これからはこんな風に教えてください、と言って平気で去ったということだ。
 このような熱心さを持っていたからこそ、その作曲した曲も後世に伝わり、今日までさかんに行われているのであろう、云々、という話であったが、これなども、大いに味わうべき名人の逸話であろうと思う。



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二百七十二  吉住小三郎芸談(上)(下巻454頁)

 大正十一(1922)年十二月二十三日夕刻より、わが国の長唄界の双璧である吉住小三郎と稀音家六四郎(注・大正時代は杵屋六四郎)が私の伽藍洞に揃ってやって来られ、晩餐ののち、ふたりともくつろいで芸談に耽られた。小三郎が古今の芸人の逸事について、こんこんと話を進めると、六四郎もまた例の洒落まじりに種々の思い出話を織り込んで、深更まで語り続けたのであった。
 そのなかで小三郎が語った吉住流の起源についての話が非常に興味深かった。昔の名人のおもかげをしのび、後進の者の奮起を促すに足る内容であったので、このような伝説がもしもすっかり消えてしまっては惜しいので、ここにその大要を書き留めておこうと思う。 (注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 

「天保時代を中心とし、その前後にわたって、江戸の長唄界に名人の名をとどめた者は少なくないが、吉住流の開祖で綽名を『芋ころ』と言われた、二代小三郎などは、そのもっとも著しい者である。
 この芋ころ小三郎は吉住流二代目であるが、その実は開祖であって、古名人風の奇行に富んだ人であったそうだ。元は芋屋で、青物市場から芋を買い出して市中を売り歩いていたが、生来音曲好きで、長唄師匠の門前に立ってその稽古を立ち聞きするようなことさえあった。 
 ある時、芋の荷をかついで、当時、桜田門外にあった葭簀(注・よしず)張りの掛茶屋に憩んで居る前を通ったのが、そのころ番町に住んでいた旗本(原文「旗下」)で吉村幸次郎という長唄の上手で、頭を奴のように剃り落としていたため、世人呼んで『奴の幸次』といった者であった。
 この人は旗本でありながら猿若町の芝居に出で、その美声を轟かし、当時長唄の名人という評判が高かったから、芋屋の小三郎は、彼があたかもその目前を通り過ぐるのを見て、芋をかついでも一代なり、長唄を唄っても一代なり、俺は今より芋屋をやめて、かの幸次の門弟となり、長唄語りとなって一生を送ろうと、ここに一念発起して、それより番町の吉村方に赴き、ついに彼の弟子となったが、その時の名を五郎次といったので、吉村の門弟になってより、吉村五郎次と称せしにかかわらず、彼が元、芋屋なりしため仲間では芋ころ五郎次と呼んだが、彼はむしろこれを得意としていたそうである。

 芋ころ五郎次は、吉村幸次郎、あだ名奴の幸次』の門下となって一心に長唄を勉強していたが、好きこそ物の上手なれで、暫時の間にめきめきと上達したので、当時、斯界に高名であった杵屋六左衛門の知るところとなり、芸名を吉村伊十郎(注・芳村が正しいか?)と名乗ったところが、この芸名について種々の苦情が持ち上がった。そのとき五郎次は人に向かって、『俺は芸をもって立つのであるから、名などはどうでも構うものか、吉村伊十郎が悪いなら、元の芋ころ五郎次でたくさんであると言い放ったが、六左衛門が、それではあまりに体裁が悪かろうとて、元禄ごろの長唄語りで、吉住小三郎と名乗り、その芸風も伝わらず、ただ一代で中絶した者があった、その跡を相続せしむることとなり、これより、芋ころ五郎次は、二代目吉住小三郎と称したが、その次が、今の小三郎の親、三代目小三郎で、当代は、すなわち四代目である。

 かくて、二代目小三郎は芋屋出身なれば、もとより文字もなかったが、江戸児風の負け嫌いで、思い立ったことは一気にこれを貫かねばやまぬという気性であったから、さまざまの面白い逸話をとどめた、そのなかでもっとも名高いのは、かの長唄の角兵衛が、杵屋六左衛門によって節付けせられ、猿若町の芝居で初めてこれを上演した時、小三郎は、そのころ六左衛門の引き立てで、ようやく三枚目に列することができたばかりなのに、この角兵衛中の山というべき新発田五万石荒さうとままよという一節を語らせてもらいたいと申し出たそうである。
 しかるにここは、すでに他の太夫に語らせてみたが、なにぶん六左衛門の気にかなわないので、はなはだ不快に思っていた折柄なれば、小三郎が自ら唄わんと申し出たのをきいて、六左衛門もその気になり、さらば、いつより試むるかと聞けば、小三郎は明日より語らんと言うにぞ、六左衛門はすこぶるこれを危ぶんだが、かつて小三郎の気性を知って居るので、よしそれならば、勝手に語ってみろと言い渡すや、小三郎は自身大酒家であったから、たちまち一升徳利を提げて、そのころ越後より出てきた米搗き男のいる米屋に赴き、持参の酒を米搗き等に振舞って、しきりに新発田五万石を唄わせたが、彼はこの間において、おおいに自得するところあり、翌日芝居においてこれを唄い出づるや、見物の評判は言うに及ばず、六左衛門も大いに感服したので、吉住流は今日まで、その唄いぶりを伝えて居るそうだ。」次ページへ「下」に続く)
 


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二百七十一  アインシユタイン博士の来庵(下巻450頁)

 大正十一(1922)年十一月二十九日午前十時、アインシュタイン博士が茶の湯の見学(原文「茶式見学」)のため、夫人同道で、わが伽藍洞(注・高橋箒庵の赤坂邸)の一木庵を訪問されたことは、本庵にとってまことに光栄の至りであった。
 博士夫妻は来日以来、能楽を観覧したり邦楽を聴聞したりして、日本の文芸について深い興味を感じられたということで、本邦に固有の茶の湯についても、ぜひ研究したいとのことで、福澤三八君の紹介でこの日来庵されたのである。
 私は博士をひと目見て、まずその相貌に敬服した。博士は、ドイツ人としては大兵というほどでもないが、あまり小さいほうでもなかった。髪が縮れているのが異様であり、色が白く、下膨れである。豊満な顔の道具(注・パーツ)がよく揃っており、丸い目は、切れ長で、微笑するときが現れ、得も言われぬ愛嬌をたたえる。柔和で沈着で、対面したばかりのときから私はその徳風に魅了されてしまった。
 私は、博士に訪問していただくことを幸いに、茶道の本旨をできるだけ説明して参考にしていただこうと考えていたのだが、博士の在邸時間が一時間十五分だけだったのと、茶道用語の翻訳が、なかなか容易でなかったことから、改造社の稲垣守克君が流暢なドイツ語で熱心に通訳されたにもかかわらず、思ったことの十のうちの一をも言い尽くすことができなかったことは非常に残念であった。
 しかし、ちょうど口切茶会(注・毎年11月にその年の五月に摘んで保存した新茶の封を切る茶会)を開催している最中だったので、まず寄付から案内を始め、床に掛けた松花堂(注・松花堂昭乗)の消息は、三代将軍家光が小堀遠州の品川御殿山茶会に臨まれたとき、その光栄を祝した手紙であるということや、寄付の床掛けとは、茶客が他の同席者とそこで待っているときに読んで楽しむものであることを説明した。

 次に、茶客が全員揃った時、庵主が寄付に客を出迎える時のやり方を見せた。客は、寄付から露地に出て、つくばいの清水で嗽ぎ(注・くちすすぎ)を行う。これには、入席前に口内とともに心頭を清浄にするという謂われがあることを説明した。
 つづいて、狭いにじり口から、三畳半の一木庵にはいっていただいた。そして、床に掛けた、三代将軍筆の木兎(注・みみずく)に沢庵和尚の讃がある一軸の由来を説明し終えたのち、すぐに炭手前をお見せしたのである。
 さて炭手前の最中、釜を上げて、すぐさま、長次郎焼の焙烙(注・ほうろく)に盛った湿し灰(注・しめしばい)を炉の中に振り撒くときに、私は、この湿し灰を撒くのは、ひとつには灰燼を鎮めるという目的、もうひとつには、火勢を助ける目的があることを説明した。すると博士は、四百年前の日本の茶人が、すでに物理学の原理に基づいて炭手前の湿し灰を使い始めていたという注意周到さに感心されたようすだった。
 また炭手前の終わりに染付荘子香合から銘九重という練香を取り出して、それを炉中に投じ炭臭を消すという趣向にも、一興を催されたようだった。
 その後、懐石の膳腕器具を順番に並べ、日本の茶席の懐石は、禅僧の応量器(注・禅僧の食器。托鉢)にならったもので、なるべく庵主の手を煩わさずに、はじめから終わりまで客の方で始末を行う次第を述べた。
 懐石が終ると、中立といって、いったん客を腰掛にまで立ち退かせる。そのあいだに室内を清掃し、掛物を花入と取り換え、濃茶の支度がすでに整った合図として、銅鑼七点(注・大小大小中中大と鳴らすやり方)を打ち鳴らすという方式について説明した。実際に中立はしてもらわなかったが、ためしに銅鑼を鳴らし、その風情を示したのである。
 こうして、いよいよ濃茶手前にはいった。青竹の蓋置に柄杓をおろして端座したとき、もともと濃茶手前の身構えは禅僧の結跏趺坐を変形させたもので、両足の親指を重ね合わせ、四十五度の角度に両股を開き、下腹にうんと力を入れて正座するものであること、左右に動くときにも常にこの四十五度の角度を保って、八回動けば身体が一周することになることを説明した。
 ここで、この態勢で手前に取り掛かった。心を丹田に落ちつけて、無念無想の境に入れば、百万の大敵が襲い掛かって来ようとも、百雷が一時に落ちて来ようとも、泰然自若として微動だにしないという男気が全身に満ちているのだと言ったが、それを通訳が説明し終えると、博士も、なるほどと感服したようであった。
 しかし、だんだんと濃茶器を取り出し、茶入、茶碗、茶杓などにそれぞれの名称があるのを説明したときには、博士も夫人も、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして、いっこうに合点がいかなかったのは無理もないだろう。ドイツなどで言ったら、食事中にテーブルの上に並んでいる茶碗や皿鉢に、飛鳥川とか、玉柏とか、布引とか、白波などという風雅が名前がついているわけだから、それを不思議に感じるのは、まことに当然のことであろう。日本の名物茶器は、いつもそれを擬人化して、茶器を室内に飾るのはその茶器に縁故ある故人の魂をその場に招くのと同然であるということを理解するのは、不滅衰の相対原理発見の大学者にとっても決して簡単なことではあるまいと思う。
 こうして一応、茶事の説明を終えると、庭前の利休堂に案内し、聞香の形式をお見せし、また、編纂中の名器鑑の材料などを展示したのであるが、なんといっても時間が短かったので、博士が会得されるまでの十分な説明をすることができなかったことは、まことに遺憾の至りであった。
 しかし、世界的な大学者を自庵に迎え、茶式の一端を説明することができたことは、私の一生のなかでも、もっとも愉快な出来事であった。
 


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二百七十  名物形石灯籠供養(下巻447頁)

 私は明治二十六(1893)年、大阪に仮住まい(原文「僑居」)したころから、奈良、京都を中心に、五畿内各地の神社仏閣にある著名な古石灯籠観賞めぐりをしていた。そしてその古色を愛し、また時代によって製作を異にする形式の変化を研究し、おおいに興味を感じるあまり、奈良の石工に命じて各所の名物石灯籠を原形そのままに模造するまでになった。
 大正十一(1922)年に、それが既に二十基に達したので、私はこれを前妻の墓所である音羽護国寺に寄進し、観音堂東南の鐘楼と銅仏のあいだに建て並べることにした。
 同年の五月にその工事が完成したので、六日午後一時から五時まで、同好の人を案内して、ちょっとした石灯籠供養を営んだので、その縁起について今ここで大略を述べることにしよう。
 私は多年、築庭が趣味で、したがって、古い庭石を手に入れるために、おりおり奈良あたりに出かけ、古い石塔、伽藍石、あるいは石灯籠などを多数買い入れた。
 明治三十二(1899)年ごろ、奈良法華寺の書院の前にあった法華寺形という古石灯籠を譲り受けてからは、ことに石灯籠に興味を持ち、その後さかんに探索を続けたが、本歌は容易には手にはいらないので、奈良の石工である石田太次郎に委嘱して、まず最初に、元興寺形、般若寺形、祓戸形などを模作してもらった。現物と寸分の違いもないようにするために、奈良の道具商の柳生彦蔵に依頼して、その工事を監督してもらった。
 最初は四、五本作るつもりであったのが、だんだんに増加して、ついに二十本に達したので、この上は、それらを分散するのも惜しいことだと思い、ある景勝の場所に建て並べて、ひと目に併観できるようにする方法を種々考えたが、熟考の末、前述のように音羽護国寺境内を選定した次第である。
 音羽護国寺は、東京市中において一番の景勝の地を占め、境内は広々とした高台にあり(原文「高敞」)、老樹が多く、名物の石灯籠を設置するには無類の好適地だと思った。執事のち貫主の佐々木教純師に相談したところ、石灯籠は除闇遍明(注・じょあんへんみょう。闇を消しあまねく照らす)の意義にかない、境内の装飾として、まことに恰好のものであるので喜んで受納したいと言われたので、大正十一(1922)年初夏より工事に着手し、秋の中頃にすべての設置を終えたのであった。

 石灯籠というものは本来、年を経るにつれて古色を加えて価格も増すものであるから、杉の苗を植えるのと同じく、知らず知らずのうちに、将来は相当の寺の財産になるだろうと思う。
 そのあたりのことも十分に考えて、地盤も十分に堅固にし、周囲には鉄柵を設けた。また後人がその来歴についてわかるように、かたわらに一基の石碑を建てて、西園寺陶庵公の「除闇」という二字の篆額の下方に自の碑文を彫りつけた。その文句は次のとおりである。

 神齢山護国寺は、皇城の乾位を占めて、新義真言宗の道場たり。予曩(注・さき)に前室の物故に遭ひて墓域を此地に定む、其後護国寺維持財団の設立せらるるや、選ばれて理事長と為る、乃ち宿縁の浅からざるを思ひ、南都付近著名の石灯二十基を模造し、之を観音堂の東南に駢置して、記念を他日に留めんとす。惟ふに石灯は久しきに耐えて色を増し、除闇遍明、能く真言の教理と符号し且その上代名匠の典型は、観音をして自から矜式する所あらしむるに足る。是れ予の敢て此挙ある所以なり。因て碑を建て事由を録して後人に告ぐ。

       国まもる寺のゆくすゑ照さなむ 万代ふべきこれのともし火

     大正十一年歳次壬戌十一月

                        箒庵 高橋義雄


 なお、その背面に列記した二十基灯籠の名称は、次の通りである。

  般若寺形 多武峰形 元興寺形 三月堂形 栄山寺形 蝉丸形 灯明寺形 
  太秦形 当麻形 西之屋形 平等院形 法華寺形、八幡形、柚之木形 
  奥之院形 道明寺形 飛鳥形 祓戸形 蓮華寺形 雲卜形

 さて私はこの石灯籠を護国寺に寄進すると同時に、維持費として金五千円を付け、百年の期限でこれを三井信託会社に預けておいた。それから十二年間に、複利がほとんど三千円にまでなり、これを百年すえおけば約五百万円に達する計算になる今後だんだんと利息が下がるとしても、まだ三、四百万円にはなるはずなので、そのときには、護国寺境内に大仏殿でも建てたらどうだろうというのが、私の道楽なのである。
 今、世間の事柄については、来年のことを言えば鬼が笑うというけれども、寺院の問題に関しては、百年先の話をしてもあまり可笑しく思われないのが不思議である。


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二百四十七  往生極楽院山門(下巻360頁)

 私には庭園趣味があり(原文「平素林泉の癖あり」)、ことに京都の名勝を愛して、ほとんどの庭を訪れたことがあるほどである。あるとき大原の三千院に行ったとき、その境内が幽寂なことや、堂宇(注・堂の建物)が古雅であることが気に入り、機会があればまた参詣したいと思っていた。
 大正六(1917)年五月のある日、京都の植木職である、植治こと小川治兵衛老が上京して私の伽藍洞にやってきた。そのときたままた話が三千院のことに及ぶと、同院の門跡、梅谷孝永上人が、境内阿弥陀堂の庭園の門塀が見る影もなく荒廃しているのを嘆き補修したいという長年の願いを持っているが、場所が山間の僻地であることもあって篤志者の参詣も非常に少なく、補修を援助してくれる人がいないので非常に当惑しているという話をしてくれた。
 私はすぐに、かつて三千院に遊んだときのことを思い浮かべ、庭園の補修については少しばかり思う仔細もあったので、微力ながらも助力することにやぶさかではない(原文「敢て一臂(いっぴ)を吝(おし)まざるべし」)と口約しておいた。
 ところがその後ほどなくして他用で京都に赴く(原文「入洛」)機会があったので、ある日植治を同伴して自動車を大原に走らせた。
 京都から約五十分ほどで三千院に到着すると、かねて申し入れてあったことであったので、すぐに本坊の上段の間に通された。そして待つ間もなく、梶井三千院門跡(注・梶井門跡は三千院の旧称、門跡とは格式ある寺院の位階、またはその住職のこと)である権大僧正梅谷孝永上人が立ち現れた。
 上人は、五十の坂を四つ、五つ上がった年の頃で、やや小づくりの身体に紫衣をまとい、梶井門跡に特有の、有名な萌黄の地に金菊の紋がついた幅の狭い袈裟を掛けており、愛想のよい応対をされた。
 ではご案内しましょうということで、われわれは本坊の庭前におり立った。庭は、中央の池のまわりに一面のつつじが花盛りであった。その間を通り抜け、つづいて一段高い平面地に登ってゆくと、そこに恵心僧都(注・源信。10世紀の天台僧)の遺構と言い伝えられている阿弥陀堂の建物(原文「一宇」)がある。すなわちこれが、往生極楽院である。
 これは藤原時代の宸殿(注・しんでん=門跡寺院に特有の建物)式仏堂で、ひさしの先が深く垂れ、優美、古雅で、比類のないものであったが、周囲の門塀や庭園が見る影もなく荒廃し、すでに一日たりとも捨て置けないような状況になっていた。とりあえず、これを修築することが梅谷上人の宿願だということで、この日上人は、私たちに往生極楽院の内外の実状を見せてくれた。
 当院は、七、八間四方(注・約14メートル四方)の仏堂で、回り縁の周囲には高欄がめぐらされている。階段を登って内陣にはいると、中央正面に丈六(注・じょうろく=身長一丈六尺、約4.8メートル)の阿弥陀如来像があり、その両側に蓮坐を捧げて端座する来迎仏が純然日本式に座っているが、ほかではあまり見ない一種風変りな座り方に見える。
 製作したのは恵心僧都という伝来であるが、その面相を観察すると藤原末期の作ではないかとも思われる。今からおよそ二百年前に、本尊があまりにも燻って(注・くすぶって=すすけて)しまったので、心ない僧侶の発議で、新たに金箔を塗り立てそうだが、それはまことに無惨な結果になっている。
 さてこの仏像の背面は、これも恵心僧都の筆だということで、胎、金両部の曼陀羅(注・胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅)を書き詰めた木版を張りまわしてある。藤原時代の建造物で、壁画がこのようにはっきりと現存しているのは、宇治の平等院、日野の法界寺、醍醐の五重塔以外には、ほとんど例を見ない国宝であるから、好古家ならば一度は必ず見ておくべきものだろうと思われた。
 そもそもこの三千院は、大覚寺、仁和寺、青蓮院、妙法院とともに叡山五門跡の随一で、伝教大師が平安王城鎮護のために勅命を奉じて延暦寺を建設しようとしたときに、その常住坊として比叡山に建造したもので、最初は三千院円融坊と称していた。
 当院は、今生天皇からさかのぼる五代前の天皇、皇后のご冥福を奉修する御懺法講(注・おせんぼうこう)というものを行うしきたりになっている(注・御懺法講じたいは平安末期から断続的に続く皇室行事)。それには、奥行き十間(注・一間は約1.8メートル)、幅十三間の、荘厳な宸殿が必要なため、後年、山上から現在の場所に移築したものである。
 しかし維新後の旧物破壊の暴風は当院にも激しく襲来し、今ではその宸殿の影さえも見られない状態になってしまった。
 けれども御懺法講は、こと、皇室に関する大法要であるので、一日も早くその宸殿を復旧することが当院第一の急務なのだということだ。
 しかしこの問題はまずおくとして、当面の問題として、往生極楽院の荒廃した様を見苦しくないように補修したいというのが梅谷上人の希望なので、私は植治に命じてまず庭園の掃除に当たらせ、往生極楽院周囲の門塀については、将来に適当な山門が建設されるまで、仮設の意味で、僭越ながら私が、小さな山門を寄進すると申し出た。すると梅谷上人は非常に喜んでこれを受納されたので、これも植治に任せて、それぞれの職人に申し付けることにした。
 最初は、屋根を檜皮葺にしたところ、その後十数年たって、山中の湿気のために、だいぶ破損を生じたというので、永久保存のために、さらに銅瓦で葺き替えを行ったのである。
 このような縁で、梅谷上人はその後、私を伽藍洞に訪問されたこともあった。上人は天台宗における偉才で、ほどなく妙法院門跡になり、さらに進んで、今は比叡山延暦寺の門主大僧正になられたそうである。
 上人はまた、非常に文藻(注・詩をつくる才能)にも富み、故杉聴雨(注・杉孫七郎)、福原周峰らと、しばしば唱酬したこともあったということである。そこで私はこの時、上人に謝する(原文「道謝する」)ために、次の七絶一首を贈呈した。

      訪小原三千院賦呈梅谷上人
   花木禅房苔径深 清談半日快吾心 澄潭応有魚龍聴 出定高僧得意吟


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二百二十   水戸学著述の由来(下)(下巻260頁)(上へもどる中へもどる

 私は前項において、水戸義公(注・徳川光圀)が伯夷伝を読んで感得した、兄弟推譲の第一義を説明した。そこで今回は、「君、君たらずといえども、臣、臣たらずんばあらず」という、第二義について述べようと思う。

 義公が、伯夷伝から感得した第二義は、伯夷、叔斉が、周の武王が殷の紂を討つのをいさめて、「以レ臣弑レ君可謂レ仁乎(注・臣下の身で君主を殺すのが、仁と言えるのか)」と曰い、武王が殷の乱を平らげてのち、天下周を宗とするにあたり、「義不レ食2周粟1(注・義として、周の粟を食べない)」といって、首陽山に隠れたという行実である。
 古来、シナにおいては、禅譲放伐(注・中国古代に唱えだされた王朝交代の二つの型。中国の君主は天帝の命によってその地位にあるものと信じられていた。禅譲は一王朝一代で、前の王が天命の下りた天下の最有徳者に平和的に王位を譲るという理想型。放伐は、世襲王朝の失徳の王を天下の有徳者が武力で討って代る革命。漢以後の王朝革命では、形式的に禅譲に似せるものが少くなかった。[ブリタニカ国際大百科事典小項目事典より]。高橋は、ここでは、放伐の意味で使用していると思われる。)が常道とされた。君子が君子らしくなければ、臣下がそれに取ってかわることも少なくなかったのである。
 孟子なども、「聞レ誅2一夫紂1矣、未レ聞レ弑レ君也(注・紂(=殷の王)という一人の男を武王が誅殺したとは聞くが、臣下が君主を殺したとは聞いていない)」と明言したほどであるのは、その建国の根本とする義が、すでにこのようなところにあったからである。
 伯夷、叔斉は、君臣の大義というものは決してこのようなものであってはならないということで、武王の馬を叩いて、その非をいさめたのである。そして、孔子は後世になってこれを「仁を求めて仁を得たり」と称賛したのである。

 古来、禅譲放伐(注・前述のとおり、放伐の意味であると思われる)を常習としてきたシナにおいても、すでにこのような義人がおり、聖人である孔子もその義を激賞したのである。
 わが日本国においては、国初以来、万世一系の天子を戴いており、革命の事例を求めることはできないのはもちろんのこと、君臣の大義は明確に万世にわたって不変なはずなのに、中世以降、禍乱(注・災いや戦乱)が相次ぎ、王政ははなはだしく衰え(原文「王室式微」)、政権は武門(注・武家)に移った。
 天下の人民は、将軍がいることを知ってはいても、天子がいることを知らない。北条義時の不臣行為、足利尊氏の奸猾行為があっても、世の中にはそれに気づく者がないというありさまなのであった。
 さいわいに、織田、豊臣の二氏が王室に関心を向け、徳川氏もその先鞭に従い、天朝尊崇の礼を失わなかったが、御水尾天皇のように、関東の情勢に心穏やかでなく幕府の措置に憤りを感じる志のある朝廷人もいたのである。しかし、俗儒曲学の者たちは、その仕えている幕府に媚びて、ややもすると名分を誤るおそれが出てきた。
 武門の驕慢が極点に達し、日本の建国の本義にたがうことがあったならば、徳川氏が長く不臣の汚名をかぶることになってしまうということが、義公のおおいに憂慮するところとなった。日本国民はみな、伯夷、叔斉の心をもって心とし、たとえ君が君らしくなくとも、臣は臣らしくなくてはならないという大義を、みずからのつとめとした。この大義に当たって、「親を滅するも、猶ほ辞さず(注・親をつぶすことも辞さない)」としたゆえんがここにある。
 公が、元禄三(1690)年十月に隠居して、翌月に水戸に赴くことになったとき、当主の粛公(注・水戸徳川家三代藩主、徳川綱條つなえだ)に授けられた留別の詩の結句は、次のようなものであった。

  古謂君雖以不君  臣不可不臣

これは、公が粛公に対して、家学の根本議を示したものである。公は、造次顛沛(注・ぞうじてんぱい。とっさの場合、危難の迫った場合)でも、このことを忘れなかったようだ。

 それゆえ、公はいつも、伯夷、叔斉を敬慕してやまず、かつて、小石川後楽園に得仁堂を作ったとき、そのふたりの木像を安置し、また水戸領内に隠棲することを決めたときに、久慈郡西山にやってきて、その地名を聞き、伯夷と叔斉が「登2彼西山1兮采2其薇(注・ぜんまい)1矣」の遺意を得たりとして、この場所を選定し、自らも西山と号したことなどは、すべてみな、ふたりへの欽仰思慕の一端と見るべきなのである。

 さて最後に、第三義「後人観感の為、修史の必要欠くべからざる事」についても述べてみよう。
 大日本史の序文に、「載籍あらずんば、虞夏の分、得て見る可らず」とある。義公が十八歳のとき伯夷伝を読んで、決然としてその高義を慕い、兄弟推譲の礼を知り、また君臣の大義名分をつまびらかにして、みずから矜式(注・きょうしき。謹んで手本にすること)するところを得ることができたのは、すべてみな、これらを記載する書籍があったためであった。
 だがわが日本においては、六国史(注・奈良から平安時代の修史事業で完成した歴史書。『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)以降、史実を著したものが非常に少なく、稗官野乗(注・民間の歴史書)では毀誉褒貶が一定せず、事実を誤り虚を伝えている。名分についても順逆をわきまえず、ひどいものでは天皇御謀反であるとか親王を京師(注・けいし。都)に流す、などと言う。当時の林家の博学をもってしても、わが国の朝廷の始祖を呉の太伯の末裔であるとし、それがわが国の建国の大本にもとることがわかっていない。
 「春秋」にあるような、厳正な筆法(注・春秋の筆法=孔子の書いた「春秋」のような厳しい批判の態度)で王覇の弁を明らかにし、乱臣賊子たちが、みずから鑑戒(注・いましめの手本)とするようなものがないという事態は見過ごすことのできない欠陥であるとして、義公は憤然と志を立てたのである。そして、万難を排し、漢土(注・中国の古い呼び方)の史記の実例にならい、本朝の正史編纂の大業を開くにいたったのである。

 以上の三大義は、義公が、伯夷伝を読んで感発なさり、以来、みずから率先実行されたもので、水戸学の根本義はすべてこの中に含まれているということになる。
 この水戸学の精神は、歴代の水戸藩主に伝わり、ことあるごとに発露された。幕府の末期に、公武の間で問題が起こりそうな形勢になったとき、武公(注・水戸徳川家七代藩主、治紀)は、この精神で烈公(注・同九代藩主、斉昭)を戒め、烈公は、この精神で慶喜公を諭した。そのおかげで、王政維新の際、徳川家がその方針を誤らなかったということは、すでに前述したとおりである。(注・191「徳川慶喜公に関する史実」を参照のこと)
 このようなわけで、今回の大正天皇の御即位御大典が盛大に行われたのを見て、感激に堪えず、私心を記念しようと、ついに一冊子をなしたものが、すなわち、この「水戸学」なのである。



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二百十九  水戸学著述の由来(中)(218・「上」からのつづき)

 水戸義公(注・徳川光圀)が十八歳のとき、史記の伯夷伝を読んでおおいに感奮した事実については、水戸家の第三世粛公(注・徳川綱條つなえだ)が、大日本史の序において記している。
「先人十八歳、適ま(注・たまたま)史記の伯夷伝を読んで、蹶然として(注・けつぜん。勢いよく行動を起こすさま)その高義を慕い、巻を撫して嘆じて曰く、載籍あらずんば、虞夏(注・虞は舜帝、夏は禹王。ともに中国の神話的な君主)の文、得て見るべからず、史筆によらずんんば、何をもってか、後の人をして観感するところあらしめんと、これにおいて慨焉として、始めて修史の志あり。原漢文

 義公が伯夷伝から感得したのは、ただ修史(注・史書の編纂)の必要のみだっただろうか、いや、義公一代の道義観もこのなかから出て来て、水戸学の全精神も実にこのなかに含まれているのである。
 この一義は、私の発見ではないかもしれないが、明白にこれを道破(注・はっきり言うこと)している先輩がないようなので、私は小著の「水戸学」の中で、特にこの所見を発表した。

 今、史記の伯仲伝を見ると、その冒頭に、
「それ学は載籍きわめて博し、なお信を六芸に考う、詩書欠けたりといえども、しかも虞夏の文、知るべきなり。原漢文
とあり、さらにその伝記には次のように書かれている。

(注: 
伯夷、叔斉の故事についてはhttps://dictionary.goo.ne.jp/word/伯夷叔斉/などを参照のこと)
 

「伯夷叔斉は、孤竹君の二子なり、父叔斉を立てんと欲す、父卒するに及んで、叔斉伯夷に譲る。伯夷が曰く、父の命なりと、遂に逃れ去る、叔斉また立つを肯んぜすしてこれを逃る、国人その中子を立つ、これにおいて伯夷叔斉、西伯昌の善く老を養うと聞き、盍ぞ(注・なんぞ)往いて帰せざると、至るに及んで、西伯卒す、武王木主を載せて、号して文王となし、東の方、紂を伐つ、伯夷叔斉馬を叩えてしかして諫めて曰く、父死して葬らず、ここに干戈(注・かんか。武器)に及ぶ、孝と謂うべけんや、臣をもって君を弑(注・しい)す(注・目上の者を殺す)、仁と謂うべけんや、左右これを兵せんと欲す、太公の曰く、これ義人なり、扶(注・たす)けてしかしてこれを去らしむ、武王すでに殷の乱を平らげて、天下周を宗とす、しかして伯夷叔斉これを耻ず(注・恥じる)、義周の粟を食わず、首陽の山に隠れぬ。原漢文
とある。

 私がこの文章を読んで思い当たったのは、義公が伯夷伝から受けた感発(注・発奮材料となったこと)は次にあげる三つの大義である。第一に、公自身が弟の身でありながら兄に先んじて封を継いだということ、第二に、君が君らしくないとしても、臣は臣らしくなければならないということ、第三に、史書の編纂がものごとを後世の人に伝えるために欠くことのできないものであるということである。これらを実現することを終生の目的とされたということである。水戸学の根底は、そこにあると言え、また義公一代の大節もまた、この中にあると言えよう。
 

 そこでまず第一の、弟の身で、兄んに先じて封を継いだ、という点から説明しよう。
 義公は、徳川家康の十一子の、権中納言源頼房、諡して威公と呼ばれた水戸藩祖の第三子である。母は、藩臣谷左馬之助重則の娘、靖定夫人である。諱は光圀、字は子龍、小字は長丸といい、のちに千代松に改めた。日新齋、常山人、卒然子などの号を持つ。また梅里と称し、退隠後に西山と号した。
 寛永五(1628)年戊申六月十日に、水戸藩士、三木仁兵衛之次(注・にへえゆきつぐ)の、柵町の家に生まれた。
 容貌端麗、気格俊邁で、六歳のとき、威公(注・水戸藩初代藩主徳川頼房、家康の11男)の世子がまだ決まらず、将軍家光は水戸家家老の中山備前守信吉に命じて、水戸公の子供のなかから世子を選ばせた。信吉は、義公が幼いながら人君の器量を備えていると見て、江戸に帰って復命したので、公は世子として小石川藩邸に迎えられた。
 七歳で将軍家光に謁見したが、その挙動に異常なく、将軍の手ずから文昌星の銅像を賜った。
 九歳で江戸城において元服した時、一字を賜り光圀と名づけ、従五位下から従四位下に叙して左衛門尉の任じられた。
 十三歳で従三位にのぼり、右近衛中将を拝した。
 義公が伯夷伝を読み、兄弟推譲の義を感じたのは、すでに十八歳に達した正保二年で、位階官爵のすべてで世子に相当するまでにのぼっており、今さら兄の頼重に譲ろうにも、事実として実行できない情勢になっていた。
 ここにおいて、公は自ら深く決意するところがあり、寛文元年七月二十九日、威公が享年四十五歳で水戸に薨じると、儒礼をもって久慈郡太田郷の瑞龍山に葬った。

 翌八月十八日に、将軍家綱の命により家督を相続する場に臨み、義公は、兄頼重、弟頼隆を威公神主の前に会して、「某(注・それがし=自分)は、常に兄を超えて家を継ぐことを本意なく思っているから、今、兄君の長子、千代松を養って、わが継嗣となすことにしたい、兄君が、もしこれを許諾するならば、某、今日命を受けようが、もししからずんば、某は別に思うところあり」といって、その決心を兄頼重に告げた。 
 またここで、二弟の頼元も、頼隆もとともに辞を尽くして頼重に説いたので、頼重もついにこれを承諾することになった。そこで公は、松千代を継嗣と定め、名を綱方と改め、その弟の綱條をも、あわせて養うことにしたが、その後、綱方が早世したので、綱條が水戸家第三世になり、こうして義公は、伯夷伝から感得した兄弟推譲の道を全うしたのである。
 


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二百十八  水戸学著述の由来(上)(下巻253頁)

 私の出生地である水戸下市三の町は、水戸義公、すなわち黄門光圀卿(注・水戸徳川家2代藩主)の降誕地である柵町から、わずかに数丁(注・一丁は約110メートル)のところにある。
 七、八歳のころ、よく柵町のあたりまで遊びに行き、この町外れにあった老木の下に小高い古塚があるのを見て、あるときそれについて先人に質問すると、その人はその由来を詳細に説明し、また義公の藩主としての、そして勤王家としての偉大な行状を話し聞かせてくれた。私は子供心にも非常に感激し、この時から義公を敬慕する気持ちが一層切実なものになっていったのである。
 その後数年して、私は久慈郡太田町に近い西山に行き、義公が隠棲していた山荘が非常に狭い場所だった(原文「わずかに膝を容るるに足るばかり)のを見て、感慨を禁じ得なかった。
 また、瑞龍山に登り、その墳塋(注・ふんえい墓)を拝し、また、梅里先生の碑文(注・光圀が大日本史編纂をすることになった事由が書かれている。梅里先生=光圀)を読んで、その出処進退の大節について知り、公の行実について、おりおり古老に尋ねたりした。すると彼らはみな容を改めて(注・いずまいを正して)義公様と敬称を用いて語るのをきき、その道徳が人心に深く浸潤していることを知った。
 さらに年がいってから彰考館に出入りするようになると、大日本史の編纂資料が豊富であるのを見て、水戸藩の修史事業が絶大であり、義公のような大気根、大見識の持ち主でなければ、とうていこれを大成することはできないことを知った。

 すでに東京で小石川後楽園の規模の雄大なことを知ったのちには、あの西山隠棲の質素簡朴さと対比して、その間に霄壌(注・しょうじょう。天と地)の違いがあるのを見て、義公が、時と場合に応じて、顕晦(注・けんかい。世に出ることと、世から隠れること)の軽重を異にする、高雅な風懐(注・風流な心)を持っていることに感服した。
 こうして明治三十九(1906)年にいたって大日本史がすべて完成した。当主の徳川濤山侯爵のち公爵】(注・水戸徳川家13代圀順くにゆき)がこれを天皇家に奉献なさり、義公の宿志が、代を重ねること十二代、年を積むこと二百五十年にして、はじめて報いられたことを悦び、私はいつか義公伝を編纂し、多年にわたる義公への欽慕の誠をあらわそうと決心した。
 水戸の学友だった清水正健、雨谷毅らに委嘱して、義公の伝記材料を数百巻に積みあがるほど収集したものの、私は当時、実業界に在籍していたため、それを編纂する余暇がなく、荏苒(注・じんぜん。物事がはかどらず)歳月を経過している間に、大正四(1915)年十一月に大正天皇陛下が御即位の大礼を行わせらるることになった。
 往時、朝廷色が弱まって長らく廃絶されていた盛儀を再興することになり、荘厳偉麗な悠紀(注・ゆき。原文「悠基」)、主基(注・すき)の二殿や、舞楽殿などは、まことに、大八洲(注・おおやしま。日本の古名)を知ろしめす(注・統治なさる)天津日嗣(注・あまつひつぎ。皇位のこと)の登極(注・即位)の大典たるにそむかなかった。
 率土普天(注・普天率土。天下のあまねくところ)、心を一にして、天壌(注・天下)とともに、きわまることのない、宝祚(注・ほうそ。天皇の位)の隆盛を祝し、赫々(注・かっかく。はなばなしい)たる皇威の八紘(注・全世界)の外に照徹するのを見て、手が舞い、足が踏むところを知らず、これ、もとより、皇祖皇宗の徳を樹つる宏遠、万国無比の国体によりて、しかるものではあるが、往時、皇化陵夷(注・天皇の徳化が次第に衰退すること)天日暗雲に隠れるに当たり、水戸義公を始めとして、その他、天下の志士仁人が、大義名分を明らかにして、王政維新の素地をなしたる努力の結晶で、徳川幕府の大政返上となり、明治時代の大発展となり、ついに、大正聖代の隆運をひらいて、この荘厳無比なる、御即位の大礼を挙行せらるるに至ったかと思えば、私等のごとく、旧水戸藩に生まれ、その臣籍に列し、父祖代々、名公の訓化に浴し、その主義主張を熟聞する者は、豈(注・あに。どうして)黙々として已む(注・やむ。済ませる)べけんやと思い、とりあえず、大体の綱領だけを叙述して、これを水戸学と名づけ、大正五(1916)年十月に、小著として刊行した次第である。

 水戸徳川家第二世、権中納言源光圀卿は、諡(注・おくりな)して義公という。学問淵博、識見超邁、中世以降、皇化陵夷、大義名分の明らかならざるを慨し(注・天皇の徳化が弱まり、大義名分が実現していないことを嘆き)、これを覚醒、啓発するをもって、乱臣賊子の心胆を寒からしめたるのみならず、躬親から(注・きゅうしんから。みずから)尊王の模範を示して、天下人心の帰嚮(注・親しみを抱くこと)を定め、明儒、朱舜水を聘して、大いに倫常の学を講じ、漢土聖賢の教えを資(と)って、もって本邦固有の道義を扶植し、みずから一家の学風を開かれたので、水戸藩の君主臣僚は、代々これを継承し、修史の遺業を紹述して始終渝(か)わらざりしがため、その感化いよいよ深く、ますます広く、幕府の末造、慶喜公の将軍職に就くや、その所出なる水戸家の学風理想を体現して、大政返上の英断に出でて、謹慎恭順、よく臣節を全うして、滑らかに王政維新の鴻業を完成せしめたのは、義公幕初に首唱を、慶喜が幕末に実現したるもので、これを水戸学説の終始一貫というべきであろう。しかし幕府全盛の際にあって、義公が右のごとき理想を樹立したについては、みずからその原由がなくてはならぬ。私は次項において、さらにその大要を陳述することとしよう。

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二百十二  老母の永眠(下巻230頁)

 私の老母は、大正四(1915)年九月六日に享年八十九歳で永眠した。このことはもちろん一家庭の私事ではあるが、老母は高橋家に対して並々ならぬ勤労を尽くした婦人なので、その死去の前後の状況につきここに一筆することを許されたい。
 老母は水戸上市の士族、野々山正健の妹で、八十子といった。高橋家に嫁して四男二女を産み、維新前後の国難に当たって内助の功が多かったということは前述したとおりである。(注・10「慈母の奮闘」を参照のこと)
 野々山家は長命の血統で、祖母は九十六歳の高齢を保ったということであるから、老母も疑似赤痢にかからなければもっと長く生存したのかもしれない。
 私は八月三十一日に老母が発病した知らせを耳にし、さっそく医学博士の木村徳衛氏を同伴して看護婦とともに水戸に駆けつけたが、その翌日の九月一日に、興津において井上世外侯爵が薨去されたので、老母の病間をうかがって、いったん帰京して井上家を訪問し、老母危篤の状況を述べて侯爵夫人の諒解を得たうえで再び郷里に立ち帰った。
 すると老母は、例の謙遜な性分のため、井上さんの葬式は何日かと問い、自分には構わずにそちらに参加するがよろしいと、縷々私に注意されるので、私はとても当惑した。
 医師の内話によると、臨終はもはや一両日に迫っているというので、意を決しもっぱら老母の看護にあたることにした。
 こうして、九月六日に老母が永眠した。最初に来診した水戸の侍医が、すでに赤痢と診断しているので、法規に従い荼毘に付すほかはなく、死去後ほどなく市外佛日山常照寺の火葬場に送り、翌日遺骨を拾って小甕に納め、一週間後すなわち九月十三日に、水戸士族の墓地である酒門(注・水戸市内の地名)の蓮乗寺に埋葬した。
 私は、明治四十(1907)年の老父の葬儀のときに老母が生造花の行列を非常に喜んだことを思い起こし、今回は、いろいろなところから贈られた香華料のすべてをもって生造花六、七十対の行列を作ったので、水戸では空前にして、おそらく絶後であろうと言う者さえあった。
 水戸士族の葬式は、会葬者がまずその名刺を玄関の受付に差し出した後、門前の両側に立って並ぶ。すると喪主がその前にやってきて挨拶し、そこから棺の前に進み、親戚一同とともに黙礼しながら会葬者の面前を通過し、会葬者も棺のあとに従って粛々として墓地まで徒歩で行く。そして墓地の受付に名刺を置き引き取る、というのが常例となっている。このときの葬儀では、もちろん伯兄(注・長兄)の純が喪主で、まことにつつがなくすべてが済んだ。
 私の両親は、双方とも八十九歳の高齢を保った。今回試しに数えてみると、老母の子、孫、曾孫、玄孫(注・やしゃご)合わせて六十四人だった。
 しかもこれがみな正系本腹の子女なので、ずいぶん多いと思われるが、それもさることながら、存命中に玄孫を見たということは、とても珍しいことだろう。
 私の兄弟姉妹(原文「同胞」)は、姉が一番上で、これが中主氏に嫁いで、長女雪子を産み、雪子が三木氏に嫁いで長女をあげ、その長女がさらに他に嫁いで一子を産んだ。これが老母にとっての玄孫である。
 女子が二十歳で子供を産むとして、これが四代、つまり八十年たたないと玄孫を持つことはできない計算なので、生前に玄孫を見る者は特別に子福者の系統だといえるだろう。
 老母の歌に 
    月花のながめもあれどすごやかに おたつうまご見るがうれしさ

というのがある。老母も、非常にこの多福をよろこんでいたのである。
 私は、相貌、性格、嗜好のどれもが老母に酷似しており、また男子四人の中では私が末子なので、母はいつも私を秘蔵っ子としていたらしい。したがって、私の愛慕も一層深いものになった。
 老母の死去する十か月前、つまり大正三(1914)年の十二月に私が帰省した際に詠んだ十吟は次のようなものであった。
  
   
 あなたにぞ母は住むなる見るたびに 恋しき山は小筑波の山
    冬さればいとど身にしむ故郷の ははその森の木枯の声
    門に立ち我を待つらむたらちねの その面影のまづ浮びつつ
    語らむと思ひしことは忘られて ただあひ見ればうれしかりけり
    今もなほ我を幼き児のごとく 思ひなすこそ親心なれ
    ふりし事とひつとはれつするほどに 幼な心に我もなりけり
    故郷の昔をしのぶ片岡の 松も薪となる世なりけり
    むかし我が釣せし池をよこぎりて かなぢ車の走りゆく見ゆ
    かへり来てしばしやすらふ故郷の 柞の蔭ぞ立ちうかりける
      (注・柞=ははそ。コナラ。母の意味とかけて秋の季語として用いる)

    来む春は又ともなひて花を見む 冬籠りしてすごやかにませ

 昔、在原業平が、長岡に住んでいた老母に、

    世の中にさらぬ別のなくもがな 千代もと祈る人の子のため

と詠み送った例もあるように、どんなに高齢であろうとも母の死去を遺憾に感じないという者はないだろう。しかし五十五歳まで老母を持っていた私のような者は、あまり不足を言うことは、できないかもしれない。


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百七十五  東京の庭石(下巻97頁)

 小石川後楽園の話が出た(注・174「小石川後楽園について」を参照のこと)ついでに、東京の庭石についての所感を若干述べてみたい。
 東京は武蔵野の原で、もともと石類にとぼしいところである。徳川氏が天正十八(1590)年八月に江戸に入府し、江戸城を築くためにほかの地方から石類を取り寄せたのをはじめに、ほうぼうに続々と建設された大名屋敷に遠国から庭石を運び込んだ。その数は相当多く、費用も多額にのぼったであろう。
 しかし交通が不便な時代であったから、たいてい運搬は海路で伊豆石や房州石を取り寄せたのである。かの根府川石のような、すべすべして雅趣に乏しいものや、磯石のような粗くて(原文「粗鬆」)打ち水が乾きやすいものが多かった。奈良や京都の庭石と比べて、一見してきわめて殺風景なのはそのためであった。
 その中にあって、小石川後楽園の庭石がほかの庭園より幾分優秀だったのは、その築庭者に石に対する造詣があったからであろう。
 この庭のあとは、徳川時代を通じて江戸府内に築造された庭園のいずれを見ても、駄石ばかりで見るに値するものはない。有名な本所の佐竹侯爵の庭でさえ、ただ大きな石があっただけで雅趣のある石は皆無だった。
 さて、どのような庭石を上等とし、下等とするのか。どこにある庭石を標準にして、その優劣を判断すべきなのか。
 私は、奈良、京都の石をもって、その答えにしたいと思う。
 明治二十七、八(189495)年ごろ、中上川彦次郎氏が永田町に邸宅を新築したとき、そのさきに、ボテボテした新造の大石灯籠を据え付けた。するとある人が、こんな新しい石灯籠は、ありがたくありませんねと批評したのであるが、中上川氏は例の調子で、「君はこの石を、古いの、新しいのと言われるが、これが果たしていつごろできたものであるかを知っているか」と言って、相手を大いに困らせたということだ。しかし、本来、庭石の新古というのは庭に移されてからおよそ何年と数えるべきものなのである。
 日本で一番古いものは、奈良、京都を中心とする五畿内(注・山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)の神社仏閣や古宮殿にあるような庭石のことをさすのである。なかには千年以上を経ている古いものも少なくない。
 私は明治二十六(1893)年から大阪に滞在した三年間に、五畿内各地の古社寺、名所旧蹟を歴訪し、その庭さきにある飛石、捨石、つくばい、石灯籠、塔石などを見てまわった。そしてそれらの研究をするなかで尽きない興味を感じたので、明治三十一(1898)年に麹町一番町に家を建てたとき、奈良法華寺の大伽藍石を七個、法華寺形石灯籠本歌、鶴石、亀石、法華寺十三重煉石塔を一基、海龍王寺の団扇形つくばいなど、奈良にある数多くの古名石を買い取り、七トン貨車で東京に取り寄せたのである。これがおそらく奈良石を東京に移入した始まり(原文「嚆矢」)だろう。
 その後、向島徳川邸内の嬉森庵、四谷伝馬町の天馬軒、私が現在住む赤坂一ツ木の伽藍洞の庭園築造のときには、奈良の法隆寺、栄山寺、久米寺、山田寺、秋篠寺など、十七の寺の伽藍石を集め、飛石、捨石用に使った。
 それ以前に、岩崎弥太郎氏が深川清澄町の庭園を造られたときは、お手のものの船舶を使い伊豆地方から非常に大きな石を取り寄せた。それは現存する庭を見てもわかるように大勢の人の知るところではある。しかしながらそれらの石は、ただ大きな石というだけで。奈良石などに比べると、羊の皮千枚でも狐の皮一枚に及ばない(注・「千羊の皮は一狐の腋にしかず」)という、たとえの通りになってしまっているのである。


 私が一番町邸のために奈良石を取り寄せた約一年後、井上世外侯爵が内田山邸を築造するために奈良石を取り寄せた。横浜の原三渓氏が、桃山旧構の移築をしたときにも、同地方の石を搬入した。
 また大阪でも、藤田香雪男爵が網島邸の造営に当たり最大規模の蒐集を行ったので、古い庭石がほとんど底をつくという事態が起きた。
 そのときに至り、各地方自治体が史蹟保存の名目で、庭石、伽藍石の譲渡を禁止する方針を採り始めたため、もっとも雅趣に富む古名石は、もはやほとんど手に入れることができなくなったのである。
 このように奈良、京都の石が欠乏したので、私は、石理(注・せきり。石の構成組織)が細かく打ち水の乾きが遅い山石を探すことになった。
 関西においては、それまでに若干東京に搬入されていた鞍馬石、貴船石などのほか、新たに生駒石を採用した。関東では加波、筑波の山石が生駒とやや類似しているのでそれを東京に運んだ。
 その後、田中平八君が葺手町(注・現虎ノ門)邸の築庭を行う際、実に貨車七千トンの筑波山石を取り寄せたということだ。
 またほかにも、甲州石を取り寄せた者もあった。故村井吉兵衛氏の永田町邸のいくつかの大石などがそれである。
 このようなわけで、徳川初期以来現在にいたるまで、武蔵野の原に、他の地方から庭石を搬入した数量は、実に大きな石山をひとつ築くくらいはあっただろう。原っぱのどこにそれらの石が隠れているのかほとんど人目につかないのは、武蔵野が広いからでもあるが、庭石というのは使用するとき半分以上を土中に埋めてしまうからでもあろう。これからもどれだけ搬入されても特別に目立つということはないだろう。
 ただ、私のような庭石そのものを鑑賞の対象にする者が鑑賞者として希望を述べるとすれば、今後石を運び入れる人々が、石の質をも十分に研究してくだらない駄石を大量に搬入することがないようひとえに願いたいものである。


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百七十一  名器調査と雲州土産(下巻83頁)

 私は大正二(1913)年五月十一日京都を出発し、雲州(注・出雲国、現在の島根県地方)への旅に出た。その途上で、

  天涯新樹雨余稠  晴日風薫欲麦秋  笑我一禅参白足  青山影裡入雲州
  (
注・稠=茂る)

という一首を作ったことから、そのときに旅行記を「入雲日記」という題にした。旅行中のこまごましたことは省略し、なぜ雲州を訪問することにしたのか、その理由を今回は記してみたいと思う。
 明治四十五(1912)年初めから私が閑雲野鶴の(注・仕事をせず自由な)身となったひとつの理由は、東山の時代(注・足利義政の時代)以来、幾多の好事家が何度も試みながら、ついぞ完成したことのなかった全国の名器の調査をするということだった。
 この事業を完成するためには、現在日本の国中でもっとも多くの名器を所有している松平直亮(注・なおあき)伯爵の宝蔵でその調査の方法を研究し、いかにして実物を撮影するかということや、いかにして色彩を模写するかということ、また、いかにしてその付属品などをもれなく記述するかということを試験的にやってみるしかないと思った。そこで私は、松平伯爵の許しを得て、まず雲州の宝蔵を拝見することになった。
 松江には速記者の山口鉄市を伴い、松平家宝蔵主任である故米村信敬氏らの助けを借りて、器物のなかでも有名な油屋肩衝をはじめ、大名物、中興名物(注・大名物は利休時代までに知られた名物、中興名物は小堀遠州が選定した名物)の茶入や茶碗の数々を拝見した。絵画では梁楷の李白、徐熈の梅鷺、門無関の布袋などの多数の名品があった。
 これらはいずれも有名な不昧公の遺愛の品で、中興名物の茶器だけでも四十点余りある。大名物や中興名物の書画、器具を合わせれば、その数は実に百点余りになるだろう。それは、ひとつの家で、全国の名物の一割以上を所持していることになるのである。
 よって、もちろん一朝一夕で全部を見るわけにはいかない。拝見は三日にわたり、それで約三分の一程度を調査し、これで幸いにも雲州訪問の第一の目的を果たすことができたのである。
 雲州松平家の所蔵名器がこのように豊富なのは、言うまでもなく、不昧公の熱心な注力(原文「丹精」)によるものである。
 そもそも公は、徳川家康の子(注・次男)である越前秀康(注・結城秀康)の、三男直政から六代目の天隆公【宗衍むねのぶ】の第二子である。宝暦元(1751)年の生まれで、諱を治郷といい、一々斎不昧、未央庵宗納と称された。
 明和四(1767)年、十七歳で襲封するが、そのときの松江藩の財政は極度の窮迫に陥っていた。父公が隠居しその職を新しい藩主に譲ったのも、結局のところそのせいだったので、不昧公はただちに藩政立て直しを志すことになった。そのために朝日丹波茂保を抜擢して後見、兼、執行役にし、大改革に当たらせた。
 丹波は非凡な財政家であった。華奢を戒め、殖産を勧め、七万人余りを動員して、佐陀川に幅二十間(注・一間=約180センチ。20間=約36メートル)、長さ二里(注・約8キロ)の運河を造り、湖水が北の海に注ぐようにすることで、六万石の新たな耕田をひらいた。
 また幕府が経営していた日光人参栽培所からその秘法を習い、雲州人参の生産に成功した。それを長崎に送り、シナ貿易において巨額の利益を占めたのである。
 このようにして不昧公は着々と多くの成功をおさめ、在職三十年余年のあいだに、天下屈指の内福(注・みかけよりも豊かな)大名になった。五十歳で家督を子息の月潭公(注・松平斉恒)に譲り、六十八歳で薨去するまでの隠居生活十八年間は、茶事三昧に暮らした(原文「消光」)ばかりでなく、かねて蓄積してきた財力で名品名宝の買収につとめた。まるで、夜の庭でガマガエルが蚊をパクリパクリと呑みこむように、公の魔力に引き付けられた天下の名器は、争うように公の口へと向かい腹を満たしたのである。
 これが、今日、松平家に現存している不昧公の遺愛の品なのである。
 こうして私は、それらの品々を拝見して、名器の調査についての方針を決定した。そこから、松江市外の菅田庵(注・かんでんあん)やその他の茶室を次々に訪れたり、出雲大社に参拝したりなどして、漫遊の日程を重ねた。
 ある晩には、旅宿の皆美館で、例の安来節と、どじょうすくい踊りも見聞した。安来節には、

  嫁が島外に木はない私が心いつも青々松ばかり
  安来せんげん名の出たところ、社日桜に戸神山、戸神山から沖見れば、いづくの船とも知らねども、せみのもとまで帆を巻いて、ヨサホヨサホと鉄つかんでかみのぼる

というのがあって、この「鉄つかんでのぼる」というのは、不昧公時代の製鉄工業の盛況を詠み込んだものだそうだ。
 また、この土地で行われている、どじょうすくいという踊りは、いかにも素朴で愛すべきものである。ざるで、どじょうをすくう身振りをして、

  私や出雲の浜さだ生れ朝の六つから鰌(注・どじょう)や鰌

といいながら踊るのである。これにはいろいろな替え歌がある。
 私はいつも地方に旅行するたびに、必ずその土地の俗謡を聴くことにしているが、この安来節とどじょうすくいは、東北地方の追分節に匹敵するもので、その他のいろいろな地方のものと比較して、はるかに群を抜いていると思う。これを東京で宣伝したら、かなり興味を持たれるのではないかと思い、帰京後に友人に語り伝えたのだが、それから数年後には安来節が東京に進出し、茶屋小屋から浅草あたりの小劇場にいたるまで、いたるところで唄いはやされるようになった。そして、しばらくのあいだ大いに流行したのである。マサカ、私が宣伝したから、というわけではあるまいが、このことについては、いささか伯楽(注・
すぐれたもの、特に名馬を見抜く能力のある人のこと)の名誉を担ってもよい理由があるのではないかと思っており、自己満足している次第なのだ。


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百二十七  能楽実演の興趣(下)(上巻440頁)


 私が能楽の実演をするにあたり一番はじめに勤めたのは「猩々」だった。そのときのワキは大友信安で、明治三十五、六(19023)年ごろのことであったと思う。梅若舞台の鏡の間で面をかぶってみると非常に窮屈で、顔の中がむずがゆくなったり、ひげがさわって掻きたくなったり、そのうっとうしさはなかなか厄介だった。そのうえ、ふさふさとした猩々の蔓(注・かずら)を頭の上に載せられたときには、目がぐらついて気が気でなく、いよいよ舞台に掛かったら謡の文句や舞の手を間違いはしないかという心配も加わり、よせばいいのに、とんだことを始めたもんだと、いまさら後悔してみてももう間に合わない。是非もなく舞台に踏み出してみると脚元がふらふらして危なっかしくてたまらなかったが、そのうち少しは精神が落ち着いて、「枕の夢の覚むると思へば、泉はそのまま、つきせぬ宿こそめでたけれ」と舞い終わったときは、やれやれと思ってよみがえったような思いがした。それから楽屋に引っ込んで来ると、梅若実翁が例の調子で、最初としては上出来であると、そこここを褒めてくださった。
 褒められてみると二回目を試みたくなって、次第次第に深入りすることになったが、私が一番困ったことは、明治四十二(1909)年十一月に梅若舞台で「花筐」をつとめたときのことだった。王子製紙会社の専務取締役となって近いうちに北海道の苫小牧工場に出張することになっていたが、今や装束をつけてまさに舞台に掛かろうとしたとき、急用の電話が掛かってきたというのでその電話の内容を聞いてみると、工場におおいに関係した突発事件が起きたという知らせで、私は即刻北海道に出張しなくてはならなくなったのである。このとき、誰かが気を利かせて、しばらくこの知らせを差し控えてくれたらよかろうに、今や舞台に登らんとするときだったので、おおいに神経が乱されたばかりでなく、この能は、最近職務多忙となって稽古が十分でなかったので、あの最も難関の、「帝ふかく歎かせ給ひつつ」というクセのあたりから、われながら調子が悪くなったことを感じ出した。私は、かつて水戸黄門光圀卿が小石川水戸邸の能舞台の楽屋で、藤井紋太夫を成敗したあと五代将軍から賜った唐織の装束をつけて千手の舞を舞い、すこしも平常と変わるところがなく、ツレが絶句したときにも注意してやったということを聞いていたので、今さらのようにそれを思い出し、聖凡の差はこんなにも激しいものかと思い知ったのである。

 今のは私の演能の失敗段であるが、だんだん修業を積むにしたがって、必ずしも失敗ばかりではなかった。明治三十九(1906)年ごろ梅若舞台で「弱法師」を演じたとき、実翁の夫人が稽古中から気にかけて見ておられたそうで、この能が済んだあと稽古をしてくれた六郎にむかい、「万目青山は心にあり」というところで、扇をさっと胸に当てると同時に、二足下がって心持(注・ゆとり)のある工夫が、今日は稽古のときよりもズッとよくできました、と言われたそうだ。夫人は長年、良人や令息の演能を見ているので観能眼は非常に高く、実翁が何か難しい能を演じるときは、打合せの際、夫人に見てもらって意見をきかれたそうだ。そういうとき夫人は、どこそことは批評せず、ただ簡単に、上出来だとか、不出来だとかと言われたそうだが、実翁はこれをきいて、いろいろと工夫を凝らされたという。この夫人からこのような讃辞を受けたのは、私にとっては誠に満足なことであった。
 前に申した(注・126を参照のこと)ように、能は腹芸で、所作を簡単にして、ごく上品にその心を見せるもので、なにごとも腹の力が肝腎である。たとえば、物ひとつ見るにも、なにげなく、ただフイと見たのでは、何を見たのかその趣が現れないから、能楽において物を見るには、まず腹に力を入れて、見方がそれぞれに変化するのを見物人に見分けさせるのがもっとも難しいところである。

 葵上で「水くらき沢辺のホタルのかげよりも」と扇をやって、蛍の飛び行くさまを見るのと、松風で「沢辺の鶴こそ立ちさわげ」と、左右左と、弦の飛び行く態(注・てい。ようす)を眺めるのと、山姥で「峰に翔り(注・かけり)谷にひびきて」と、高山の峰から深谷の底まで見下ろすのと、景清で「ぬしは先へ逃げのびね」と、三尾の谷が逃げていく後ろを見送るのと、藤戸で「我が子返させ給へや」と、ワキの盛綱をにらめつけるのと、その見方はいろいろ違うが、つまり、腹に力がはいって、眼に移り、その眼の光が面から抜け出して見物人に伝わるので、ただうかうかと物を見てもその表情が発露されるものではないのである。
 私などはまだまだ未熟なものだ。ことに、一年に一度か二度の演能であるから、とうていその妙境に達することはできない。しかし、他人の演能を非常に興味深く見ることができるのは、能楽を実演をしたおかげだと思っている。
 


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  百二十  元禄模様の流行(上巻415頁)


 私は以前にフランスのパリに旅行したとき、洋服店が毎年のように洋服の新作を出し、単にパリだけでなく、ヨーロッパだけでもなく、遠くアメリカの流行にまでも影響を及ぼしているということを聞いた。祖母の着たものを孫娘が受け継いだりすることさえあるわが国では、まったく考えも及ばないことだった。貧富の度合いが違っているからでもあったからかもしれないが、世界の競争から取り残されたような島国の日本では、人はそのようなことに無頓着で、のんびりしているためだろうと思われた。
 もっとも徳川幕府の盛時には、おりおりで衣服の流行が変化し、人気俳優や、評判の妓女たちがその手本になったということはある。あの市松模様(注・江戸時代の歌舞伎役者、佐野川市松がはやらせた)であるとか、菊五郎格子であるとか、何々絣という名前があることからもわかる。
 しかし維新の変動は、極端にひとびとの気持ちを萎縮させ、かんたんにはもとに戻らず、そんなわけで衣服の流行などを気にする者はいなかった。
 しかし日清戦争後の景気拡大で世間では好況が来たと騒いでいたから、私は、あの伊達模様というものを染め出して、はやらせてみようと試みた。だがまだ時期が早すぎて、そのときはあまり反響がなかった。
 そんななかで日露戦争が始まった。まもなくこの戦争は大勝利のうちに終わり、今度こそ三井呉服店が奮発し、明治ごのみの新しいもので衣服の模様の流行のさきがけになり一世を風靡してみようと思い立った。
 それに先だち私が三井呉服店を改革し始めたとき、新たに意匠係というものを設置していた。そこに何人かの画家を招き、新しい模様をデザイン(原文「立案」)してもらうと同時に、古い絵画を残らずあたり、優れた衣服の模様を収集していた。古いところでは古土佐、住吉派にはじまり、又平(注・岩佐又兵衛)、宗達(注・俵屋宗達)、光琳(注・尾形光琳)、新しいところでは、師宣(注・菱川師宣)、春章(注・勝川春章)、歌麿(注・喜多川歌麿)、雪鼎(注・月岡雪鼎)、栄之(注・鳥文斎栄之)にいたるまで、なんでも図柄のおもしろいものなら、風俗絵巻であろうが、小袖屏風であろうが、はては春画までをも、くまなく写して、模様集帖(注・デザイン帖)を作っておいたものがあったのである。これを実地に応用するのは、まさにこのときだと思われた。

 かねてより古老から聞くところによれば、世間の景気がよくなるときは衣服の模様が派手になり、不景気になるときは概して好みが地味になるという。日本は今や戦争に勝ち世界屈指の大国となり、好景気到来がしきりに叫ばれる時期だったので、世の人の好みも派手になり、自然に大がらな模様が歓迎されていた。元禄時代が再来することは、もはや疑いをいれないと思われた。
 そもそも徳川の元禄時代は、関ケ原の戦いが終わり、大阪も落城し、弓は袋に、刀は鞘に収まった元和元(1615)年(注・大阪夏の陣の年)から七十年の歳月がたったいる(注・元禄時代は、16881704年)。しかし明治はまだ四十年弱しかたっておらず、維新後まだ非常に日が浅かったが、鎖国をやっていた昔とは違い時代も駆け足で進み、このあたりで元禄時代が再現されてもいいころだろうと思われた。
 そこで私は、例の模様集帖から、もっともすぐれた模様を選び、まず十数種類の衣装をこしらえた。
 次に元禄花見踊りという曲を作り、新橋の人気芸者から踊り手と地方(注・じかた。音楽の演奏者)を選び、ひとつの舞踏団を組織した。その踊り手のなかでは、のちに伊井蓉峰の女房になった叶屋清香や、河合武雄の宿の妻となった栄龍などが光っており、たちまち東京中の大評判になった。のちにその当時のことを書いた実録に、つぎのような記事がある。(注・内容を多少わかりやすくなおした)
 「元禄衣装というのは、最初、新橋一流の歌妓である松寿、清香、五郎、栄龍、ひさ、実子などが、めいめいに別々の意匠をこらして、帯や紐はいうまでもなく、髷の結い方や、櫛、笄(注・こうがい)の好みまで、それぞれに昔の型を追ったものだった。その発表の方法としては、高橋箒庵の書きおろした新曲である元禄舞に、杵屋勘五郎が節を、藤間勘右衛門が振りをつけたものがあった。それが、三井呉服店が三越呉服店と改まった三十八(1905)年の春から、浮世絵そのままの姿で交際場に現れたので、雑誌も新聞も筆をそろえてこれを報じたのだった。戦争以来さかんに流行していた絵葉書の図柄にもなり、それが八方に飛んだ。また歌舞伎座の三月狂言の、大切の所作事(注・舞踏)にも元禄踊が演じられた。流行はほどなく大阪南新地にも伝染し、戦後には、人心が華麗で大きなものを好む傾向にあったから、元禄模様は、単に衣服や髪飾りだけでなく、調度器具、日常全般の品々にまでおよんだ。この流行に乗じて、元禄の名を冠するものは、元禄櫛、元禄下駄、元禄足袋、元禄煙管、元禄団扇、元禄手ぬぐい、元禄ネクタイ、元禄友禅などなど、数えきれないほどだった。そのうえ、元禄料理の再現が試みられ、元禄出版の古書籍が値上がりし、また元禄研究会が作られ、これに関する著書も刊行されるという具合で、このころの元禄流行は、実にすさまじいものだった。」

 
 元禄模様のはじまりは、私が三井呉服店の理事を兼任していた明治三十七(
1904
)年からで、翌年には同店が組織を改め三越呉服店となり、その翌年の三十九年に私が同店を去るまでも流行は一向に衰えなかった。戦後の景気拡大がようやく沈静化した四十年ごろまで、その勢いは継続したのである。これは明治時代の風俗を語るうえで特筆すべきことがらであると思う。


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百十七  目白椿山荘講評(上巻404頁)


 私は明治二十三(1890)年に山県公爵に初めて会ってから、ほどなく三井に奉公して多忙になり公爵をあまり訪問することがなかった。公爵も日清戦争から日露戦争にかけて種々の政務があったので、この間は双方ともに接触する機会が少なかった。
 明治三十五(1902)年の春、公爵は一番町(注・高橋箒庵の一番町邸)の寸松庵茶会に臨まれ益田克徳氏と同席された。そして翌年の同じころに克徳氏が鬼籍に入ったので、


   まとゐせし去年の数寄屋の物がたり おもかげに立つ花の頃かな


という一首をたむけられた。このとき公爵は益田克徳氏の設計した寸松庵の庭を見てさまざまな品評を試みられたので、私も同年の秋に目白の椿山荘を訪問し庭前の紅葉を愛でた。
 公爵が、この庭に対する私の所見を求められたので私は非常に当惑した。これはきわめてむずかしい役目なので、なるべく避けようとして椿山荘の秋景はすでに賞玩したけれども、まだ春の様子を拝見していないので、追ってこれを拝見したうえで卑見を述べたいと言い逃れをしていた。ところが明治三十八(1905)年奉天戦が終わったばかりのとき、突然、私は次のような手紙を受け取った。


   花の頃山荘を訪ふべしとの約もあれば、昨朝風光真情を

   ここもまたなかば咲きけり我が山の 花こそ今は見るべかりけれ


など詠み出し、馬に鞍一鞭、直に走らせ可申と存じながら(注・馬に飛び乗って、うかがうべきところ)、軍務に取り紛れ、今朝に至ればすでに満開、急報に及び候、ゆるゆる御眺め講評を煩わし度、老生は残念ながら本営にまかり出で、御待ち致さず候、余事在面晤 早々不一
 四月十三日  椿山荘主朋
  高橋雅兄座下

 このころ公爵は参謀総長で、戦争関連の仕事でいつもに増して忙しく参謀本部に近い五番町の別宅を使い、椿山荘には帰らず、


   針金の糸のひびきに戦ひの つつの音さへ聞く心地して


と詠まれたような時節であったのに、椿山荘品評の約束を忘れず私にこのような風情ある書状を寄せられたという余裕しゃくしゃくぶりには、槊(ほこ)を横たえて詩を賦した(注・戦いのための矛を置き、詩作した)という古代の名将の故事も思い合わされ、いかにも風流であると感じたので、さっそく椿山荘を訪問した。

 公爵はむろんのこと不在だったので、勝五郎という公爵お気に入りの庭師(原文「槖駝師(たくだし)」)の老人が案内に立った。彼は私にいろいろな質問をし、この庭には、あの主人の気性もあって庭石らしい庭石も置いていないので、おそらくお気に召しますまいなどと誘い文句を発してくる。それで私もつい調子に乗り、橋もこれでは粗末である捨石についてももう少し奮発してほしい。」だとか、「書院に近い崖際に柿の木があるのは不似合いだが、もっとも目白の殿様だから柿がお好きなのも当然かなどと、駄洒落まじりの冗談を言ったりしながら、私が胸の内にしまっていたことも打ち明けてしまった。
 この日はなにごともなく帰宅したが、その後ひと月ばかり過ぎたころに偶然公爵と同席することがあった。そこで私の椿山荘評をしようとしたところ、公爵が手をふって遮り、いやいや、君の批評は残らず勝五郎から聴き取った、柿の木がだいぶ気に入らなかったそうだねと言い出されたので、私は、さてはあの老師こそが、公爵から差し回された軍事探偵であったのか、とハタと思いいたったのであった。背中に冷や汗が流れたが、最後にはとうとう大笑いになった。
 もともと山県公爵は趣味が非常に多方面にわたっていたが、なかでも築庭は青年時代からの趣味であった。奇兵隊長であったころに、萩城下の閑静な場所に、丸木橋を渡って門前に達するという趣向の小さな家を建てられたこともあるそうだ。
 公爵の平素の主張は、庭というものは、自然山水の縮図であるから、水がないことには趣が出ない、だからおれが造った庭で、天然の水がないところはないというものだった。その通りに椿山荘もまた水に富み、庭前の池からは天然水が湧き出て、池尻には一条の小滝がかかっている。公爵はあるとき都下にある富豪の庭園を評し、彼らは庭に水道の水を引きながら、客が来れば水を流し、客が去れば止めてしまうではないか、おれは貧乏人ではあるが、庭の水は年中流しっぱなしであるぞと気焔を吐かれたこともあった。
 そのような次第で椿山荘は天然水に富んでいるうえに、都下には珍しい老松が池をはさんで相対峙している。雑木がその間に点在し、春よりも秋の紅葉時が優れているようなので私はあるとき、


   此庭のあるじ顔なる老松も 紅葉に色をゆづる今日かな


と詠み公爵に見せたこともあった。公爵の庭園趣味についてはまだ多くの美談があるので、後段にて述べることにしたい。(注・245「古稀庵の石と竹」参照)


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 第二期 少年 明治四年より一三年まで

 七
麗人の栄枯(上巻21頁)

 私の生家である水戸下市市三ノ町の筋向いに大内源右衛門という二百石取りのさむらいが住んでいた。那珂港で船主をやっていて水戸藩に献金した功をみとめられ士族に成り上がった人物で欅づくりの大門は町内一の壮観をほこっていた。

 この家のひとり娘の芳子は、わたしが十一歳のとき十三で、うまれながらの美しさはまだつぼみが開く前から人を魅了するほどだった。
 あるとき私は、大内家の庭先の芝生でこの令嬢と遊びながら相撲を取っていて、自分よりもずっと背の高かった芳子嬢を振り回して投げ出したところ、なんの手ごたえもなく、彼女が芝生の上にころころ転がってしまったことがあった。まるで半開きの牡丹の花の一枝を地面に投げつけたような感じがして、子供ながらどうしていいかわからなくなってしまったものだ。
 この令嬢はもともと色白で目鼻立ちが整い利発であったから、十七、八歳のころには藩で並ぶ者のいない麗人となっていた。
 ところがその父の源五右衛門酒飲みがたたりほどなく死んでしまったために、令嬢は石岡あたりの資産家の次男を養子にもらったのであるが、もともと財産のための結婚であったから、美しい馬がいやらしい男を乗せて走っているような感じはいなめず、家禄を返還したあと、出身地である那珂港にひっこんで家政を切りまわしたその苦労はたいへんなものだったのではなかったろうか。その後私は芳子夫人に会う機会がなかったが、幼いころを思い出すたびに令嬢の美貌を思い出したものだった。
 ところが不思議な縁で、私の伯父の三女が芳子夫人のひとり息子の大内義比氏と結婚することになったためにその披露宴で芳子夫人とひさかたぶりに会ったところ、むかしのおもかげはどこへやら、目の前に現れたのは年老いて白髪頭になった老女で、これがあのみめうるわしかった芳子嬢であるとは、どうやっても信じられないほどだった。
 このことがあって私は、漢代に、李夫人が病気のあとに武帝に会うことを拒み、「病気の前の姿を覚えていてください」と言ったことや、茶事において、入席の際に一度見た花は二度と見返ってはいけないとされていることには相応の理由があるものだと実感し、年取った旧知の美人などにはなるべく会わない方が良いものだと深く悟ったものだった。


家禄の奉還(上巻22頁)

 明治二年に版籍奉還が、四年に廃藩置県が行われ、旧藩士族は家禄を奉還するかわりに朝廷から秩禄公債を頂戴することになった。
 当時の水戸藩では、その当事者たちが新朝廷に対してあまりに遠慮しすぎた結果藩につかえる中士の家禄を基準に、一律で一家につき玄米四十七俵を給付するということになっていたので、これを秩禄公債に置き換えた金額では、とうてい一家を養うには不足で、とくに我が家のように両親と六人の子供のいるような大家族では困窮の度が激しかった。
 長男は家に残して学問修行をさせなければならないが、そのほかは外に出して、まず人減らしをしなくてはならない。そこで次男の喜徳を旧松岡藩士である桑名氏の養子に、三男の秀夫を久慈郡小中の佐藤氏の養子に出し、さて私は、桑名氏の仲介で茨城県下多賀郡相田村の福田屋という呉服荒物を扱う小売店の丁稚小僧住み込ませることが決まった。

 これが明治六年、私が十三歳のときのことであったが、水戸士族の子弟は、十三参りといって、十三歳になると城下から四里(注:一里は約4キロメートル)ほどはなれた海岸にある村松村虚空蔵菩薩に参詣するという習慣があったので、この年の五月に父に連れられて村松に出かけ、はじめて海というものを見て帰宅したところ、士族の子である自分が町人になるという一身上の大きな変化があることを知らされ、子供ながらに大きなショックを受けた。
 そのころ町人と言えば、恥や道徳の観念もなくただ金儲けのために生きている一段低い階級の人間だと思っていたので、武士の誇りを捨ててこのような階級に身を落とすことは道徳上の一巻の終わりのように感じられたからだ。商家の丁稚になってしまえば奉公第一となって学問修行もやめなくてはならない。それはそれで悲しいことだったが、それよりもなお悲しいのは、木刀とはいえ腰に一刀をさしていた身分であった自分が刀を捨てて丸腰にならねばならぬことだった。それは身を切られるよりも情けないことだった。そのことを思い出しては涙にくれていることに母が非常に同情して、「決して長いことではない、自分が働いてそのうちに引き戻して学問修行をさせてやるから」というそのひとことを心の頼りに、私はとうとう丁稚奉公に出かけたのである。


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 六
元喜按摩(上巻16頁)

 私は父母が健康で、ともに八十九歳の高齢を保ったし、母方の祖母も九十六まで生きたほどで、生まれてからほとんど病気らしい病気をしたことがない。そして非常な腕白小僧であったらしい。
 その腕白ぶりが手に負えないので、それを止めるために、あまりいたずらをすると元喜按摩のところにやってしまうぞ、というのが私の怖がらせるたったひとつの方法だったそうだ。
 元喜按摩というのは水戸の士族町を流しでまわっていた指圧師で、そのころ三十歳くらいだったと思う。顔じゅうがあばただらけで目玉が飛び出ていて見るからにグロテスクな恐ろしい怪物のようだったために、私がとても怖がるのをいいことに、その人のところにやってしまう、というのを脅し文句にしたものとみえる。私はこれが何よりもおそろしく、元喜按摩の笛が遠くでピーッと鳴るのをきくだけでたちまち身震いして小さくなるのだった。

 子供のときの習慣というのはこわいもので、この恐怖心を終生消すことができず、今でも按摩の笛をきくと襟から水でもかけられたような感じになってしまう。世間で子供に雷やおばけを怖がらせるというのは、おそらく同じような大人の理屈から生まれるのだろうが、わたしの体験からいえば、少々のいたずらは押さえつけることなくのびのびと自然に教育するほうがよいのではないだろうか。


水戸の家塾(上巻17頁)

 水戸には烈公(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭)の建てられた弘道館という文武練習所があり、ここで水戸藩士の子弟は明治維新のはじめまで文武両道の稽古をしたそのほかに水戸上市、下市にも家塾があり、年少者はたいていそれらの家塾に通学した。

 私の住んでいた下市三ノ町には横山先生が私塾を開いていた。先生は通称を喜右衛門、諱を高堅といい、いかにも漢学の先生らしい厳格な風采であり、太平記がお好きで、書斎でときどきそれを朗読されていた声はいまでも私の耳に残っている。
 家塾の授業は朝昼晩の三回に分かれていた。朝げいこでは先生が塾の広間に出てこられ、そのまわりを生徒が取り囲んで座り、順番に漢文の読み方を教わった。質問があるときには指の先でその場所を示すと、先生は細い竹の棒でその字句を押さえながら読み方を教えてくれるのである。
 書き方の稽古は
もっぱら習字だった。生徒のレベルに合わせてあらかじめ先生が用意されたお手本の稽古をした。

 夜学には先生は出ていらっしゃらず、塾頭かその他の先輩が代理をつとめた。ときに詩作をこころみる生徒がいた場合などは、紙に書いて先生にあとで添削してもらう。
 もっとも夜学のときに先生が突然みえる場合もあって、そういうときには塾頭らを相手に教訓めいたお話をされることもあった。塾の人数がすくないこともあり、子弟のあいだがらは親子のように和気あいあいとしていた。 

 ところで、私たち少年がおおいに得意がっていたのは、塾の夜学からの帰り道に、高下駄をからからと踏み鳴らしながら「月落鳥啼霜満天」だとか、「鞭粛々夜通河」などと声高らかに吟じながら歩くことだった。月の明るい夜などは帰路があまりに短いことを物足りなく思うのだった。

 このような家塾の様子は今日の学校からみると想像もできないことだろう。当時の師弟間の濃密なかかわり合いを思い出すと、こうした教育法にはなんともいえない独特の味があったことを思い返さずにはいられない。

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    五
党争の余毒(上巻14頁)

 水戸の党争といえば有名だが、最初は学問上の党派争いだった。それがやがて政治問題に移り、さらには感情問題に発展して、長いこと歩み寄ることができないでいるあいだに、次第に残虐性を帯びるようになり、何度かの殺戮行為を繰り返すようになったという、深刻な負の副産物を生じてしまった。
 私が記憶している維新後の水戸の様子を述べてみよう。水戸は、佐竹時代(注・豊臣政権時代に水戸城は佐竹氏の居城だった)にあった古い城域を拡大して、四方に新しい城郭を築いたもので、士族屋敷と市街とが城郭をはさみ、南には仙波湖があり、北には那珂川が流れている。城の東側は一段さがった低地で下市といい、西側は高く水はけのよいテーブルランドで、上市といった。
 この上市と下市の士族のあいだには、例の党派的反目があった。それが子供ごころにも浸透して、上市では下市の者を「あひる」と呼び、下市では上市の者を「いなご」と呼んだ。一方は高いところで、つんつん威張り、一方は低いところで、泥水を飲んでいるという、嘲笑的な呼び名である。
 両市の士族のこどもたちは、いつもグループを作って石合戦をしたり、道で会えば殴り合いをしたりと、とにかく喧嘩は土地の名物くらいに思われるありさまだったので、私などはひとりで上市のほうに行くこともできず、上市のこどもたちもまた、気軽に下市に来ることができなかった。
 もともと水戸の士族の家庭は儒教主義で固まっていたので、夫婦のあいだで笑ったりすることもなく、こどもも、ひっそりと籠り、喪中のように陰鬱な空気の中にいつも閉ざされたようになっていたが、明治初年の恐怖時代には、それがさらにひどくなり、天狗だの、諸生だの、という噂は、ぜったいに口にしてはならず、そんな名前を耳にするのは、身の毛がよだつようで、大声で快活に話す者さえもいない状態だった。
 このような情勢であったので、いつも人を疑うようなことになり、ほんの偶然に起こってしまったあやまちでも、なにかの下心があったに違いないと思われるようになってしまった。
 あるとき、うちの町内であったことだが、士族の子供が弓で遊んでいるときに、誤って隣りの家の台所に矢が飛び込んでしまった。そのとき隣家の主人は、うちになんの恨みがあるのだと言って非常に怒り、その矢を取りに来たこどもを、大人気もなく追い返したという。これひとつをとっても、その当時の士族の気分が、いかにぴりぴりしておかしくなり、内心疑いに満ちていたかということがわかるだろう。 

 水戸には歴史学者が多かったが、その他のことを趣味にする人は、非常に少なかった。とくに、音楽を趣味とする人はほとんどおらず、水戸藩主の屋敷を除いては、市中どこをさがしても、一台の琴さえもなかっただろう。
 明治三年ころにわたしが住んでいた三ノ町に、飯島という士族がいて、病気の娘の気晴らしのために、町人の師匠を呼んで常磐津の稽古をさせていた。それが私などにはとても興味深く、毎日稽古の始まる時間になると、その家の門のところに立ってきいていたので「継信殿の胸板へ、ハッシと立って真逆さま」などという歌詞を全部覚えてしまったくらいだ。
 その当時は、士族の屋敷で三味線の音をさせるなどは、悪魔の声をきくのと同じだという扱いだったので、後年、東京に出てきて、宴会の席で三味線をきいたときは、座っているのがなにやら恥ずかしいように思えたものだった。だがその後、福澤諭吉先生のお宅で、令嬢たちに三味線をひかせて、踊りを踊らせているのを見てから、ようやく、そういう感じを忘れることができるようになった。このことだけを見ても、水戸士族の家庭の雰囲気が、いかに味気なく、暗いものだったかがわかるだろう。


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 三
閉門の家庭(上巻8頁)

 明治二年から三年にかけての水戸は恐怖の時代だった。藩政に秩序はなく、壮年の血気あふれる天狗党は、諸生党に対しすさまじい復讐行為におよんだ。

 私の父はもともとが竹を割ったような正直でさっぱりした性格だったので党派色はすくなかったが、諸生党の全盛期に矢倉奉行という水戸藩武器倉庫の主任を勤めたことがあるので、このころにはすでに閉門を申し渡された身の上で、いつ天狗党の襲撃を受けてもおかしくない状況に置かれていた。

 同僚の中には復讐を恐れて脱藩する者も次々にあらわれた。だが、脱藩すればその日から家名断絶となり家族は路頭に迷うほかはないよほど危険でない限りは運を天に任せて踏みとどまり家名を存続させようとしたのはもっともなことだった。

 とくにうちには六人の子供があったので、脱藩は死活問題だった。

 私の長兄はすでに十七歳になっていたから、さいみの羽織(注・2を参照のこと)の襲撃を受けたら父ともども惨殺されることは確実だったので、なにもせずにやりすごすよりはやはり脱藩して危険を避けるほうがよいのではないかと一時は途方に暮れた。母が柴山の不動尊と笠間の紋三郎稲荷に寒中水垢離の祈願をして一家の無難を祈るなか、父と兄は脱藩の準備を整え何晩かは草履をはいたまま寝たこともあった。


斬首の実見 (上巻9頁)

 しかしそうするうちに天誅事件も下火になり、おそろしい襲撃もなくなってきたので、ようやく我が家でも悪夢から目覚めることができた。でもあのころの針のむしろのような不安な日々のことは今でもはっきりと記憶している。

 明治二年、私が九歳のときのことだ。このころの藩政はまだ藩主が行っていたので、刑罰の執行は旧幕時代と同様で、泥棒の場合、盗んだ金が高額であれば斬首の刑となり、殺人の場合は当然のごとく死刑となっていた。

 当時の水戸藩の牢獄は下市赤沼というところにありときどき斬首刑が行われていた刑場になっている場所は空堀の上に板塀がめぐらされているだけの非常に無造作なものだったので、空堀をわたって板塀の節穴から覗けば中の様子を見ることができた。

 塀から刑場まではわずかに二、三間(注:いっけんは約180センチ)で、こわいもの見たさのためにこっそりやってきて、すぐ眼前で刑を執行を見たものだ。

 ある日、私の漢学の師で藩の裁判官を勤めていた横山高堅先生が門人に、明日は秦彌一という者の斬首があると告げた。この人物は友人と言い争いをしてその友人を殺してしまったもので、先生が死刑を宣告したのだという。そこで私はその当日に例により刑場に出かけて見物をした。

 地面の平らなところに深さ二尺(注:一尺は約30センチ)、直径三尺ほどの穴を掘り、そのへりに敷かれた荒菰の上に白布で目隠しをされて牢屋から連れてこられた囚人たちを座らせる。番太郎と呼ばれるひとりの××(注・原文伏字)が、囚人の首を穴のほうに突き出すと、執刀者が狙いをさだめて掛け声もろとも首を斬り落とす。首を斬ってわずかに喉の皮だけを残すのが熟練の技なのだそうだ。 
  ところでその秦彌一は、その日三番目に引き出されたが、落ち着いて名を名乗り声高らかに、

   啼かざれば とらはれまじを鶯の なく音あだなる春の初聲

と、辞世の詩を二度までくりかえし、すこしも悪びれた様子を見せなかったのはなかなか度胸のすわった男であったのだろう。

 それから次の囚人も、名前は知らないが荒菰に座るなり、

   春風に 高くあがりしあの鳶凧 どこの加減で切れたやら

と声高に都都逸を唄ったそのほかの者たちはただ黙々として斬られてしまった。

 このように私は何回も斬首刑を見たことがあるその様子はというと、首は斬られると前の穴に落ち、血が徳利を横にしたようにしばらく勢いよくこんこんと流れる。やがて出血が止まると首の切り口がむくむくと動いて、ものを包むかのように内側に収れんする。このとき番太郎が首と胴を運び去り、以後同様に次の人へと刑が執行されるのである。

 さてこの死者たちの衣服はもちろん番太郎が役の報酬として処分するので、やがて古着屋の店頭に売り出されることになる。だから当時古着を買っていた人々は、よくよくその出どころには注意をはらっていたらしい。

 以上が私が幼いころに実際に見たできごとである。今日の人には想像さえできないことだと思うので、猟奇的な一資料としてここに書き残しておくことにする。
     
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  二
戊辰の戦争(上巻5頁)

 明治元(1868)年、明治維新で江戸城が官軍の手にわたってから、それまで水戸城にこもっていた諸生党、つまり佐幕派の朝比奈彌太郎、市川三左衛門らは、もはや幕府からの支持がなくなったので水戸城から脱出し会津軍に身を投じた。しかしその会津もまもなく落城したので、窮鼠の一軍となって再び水戸城を奪還しようとして突然水戸に押し寄せてきた。
 まず大手門の弘道館を乗っ取ったものだから城兵はたいそう驚き、藩士を集めて応戦することになったが、清水六一というつわものが夜陰に乗じて城に攻め入って暴れまわり一時はほとんど落城しそうになった。そのときには私の父なども召集を受け、同じく登城しようとしていた私の姉婿の中西重蔵が中西の父とともに父を迎えにきたが、そのとき身につけていたものはといえば、たっつけ脚絆に草履履き、腰には大小二本の刀を差していた。重蔵の父が腕試しだと言って、さっと太刀を抜いて庭のしだれ梅の枝を五、六本切り払ったその勇ましさは、今なお私の幼時の記憶として鮮明に残っている。


さいみの羽織(上巻6頁)

 水戸は藩始まって以来、党派騒ぎで有名な土地柄であるが、明治維新の直前の、いわゆる天狗党と諸生党の摩擦はひどかった。諸生党が藩政を握れば天狗党を追いやり、天狗党が勢力を占めれば諸生党を虐待するという復讐的な行動が続き、いわば恐怖時代がやってきていた。
 
 であるから、明治元年に天狗党が諸生党の朝比奈、市川らを追い払ってからの、諸生党に対する残虐行為には目も当てられないものがあった。虐殺隊は、さいみの羽織というキツネ色の麻布で作ったユニホームを着て連れだって城下を歩き回り、今日はこの家を襲っただの、あいつに天誅を加えただのという話が伝わってくる。それは、諸生党の全権時代から城下に住んでいた藩士を戦慄におとしいれる悪魔の声であった。
 私も八歳から九歳にかけてこの恐怖時代を経験し、子供ごごろにも大きな恐怖を感じたものだ。私が住んでいた水戸下市三の町は、お城から見て一の町、二の町、三の町と士族屋敷が並ぶ地域であったので、天誅執行官のやり玉に挙げられる家が多かった。昨日は何々家の門前に生首がひとつ落ちていただの、今、何々家にさいみの羽織が踏み込んで家族を惨殺中であるだのという、まがまがしいニュースが次々に飛び込んでくるものだから、士族の家庭では生きた心地もしなかった。
 このころ、うちの筋向かいに、佐野甚次郎という五十歳くらいの藩士が住んでいた。この人物は、有名な「桜田義士」のひとり佐野竹之助の一族の者で、本人も自分を曲げない硬骨なところがあったものだから、きっと天狗党ににらまれたのだろう、ある朝病気で寝ていたところに天誅組数人に押し入られてしまった。彼らは甚次郎をふとんにくるんだまま、二、三町(注・一町は約109メートル)はなれた石垣というところに連れ去り、橋の上から吊るし斬りにしたという噂が伝わってきた。
 そんなことがあるので、私の家にも、あのさいみの羽織が舞い込んで来やしまいかとびくびくして大声で話すこともできず、泣く子も黙るとはこのことかと思われた。今思い返してみても、このようなことが日本で起きたとは信じられないという隔世の感がある。


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