だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十一  松屋肩衝争奪戦(下巻522頁)


 松屋肩衝という大名物(注・おおめいぶつ)茶入は、もとは松本周室【あるいは松本珠報ともいう】が所持していたことから松本肩衝ともよばれていた。周室は、これを足利義政に献じ、義政がそれを珠光(注・村田珠光)に賜った。珠光はそれを、弟子の古市播磨守澄胤(注・ちょういん)に伝え、澄胤はそれを奈良の松屋源三郎久行に譲ったのである。
 それからは代々松屋に伝わり、松屋肩衝と呼ばれることになった。津田宗及の茶湯日記によると、永禄八(1565)年五月に松永久秀が南都焼き討ち(注・室町幕府13代将軍義輝を襲撃、殺害)の際に、あらかじめ松屋に内報して、徐熈(注・じょき。中国五代南唐の画家)の鷺の掛物と、この茶入を、よそに持ち出させたということである。
 その後、天正十五(1587)年十月の北野大茶の湯にも出陳された。また、霊元天皇の叡覧(注・天子が御覧になること)、将軍秀忠の上覧に供したこともあり、細川三斎、古田織部、小堀遠州、片桐石州といった大茶人からも多大な賞讃を博したものである。
 これより以前、利休がその袋を寄付し、三斎が象牙蓋と挽家(注・ひきや。仕覆に入れた茶入を収納する棗型の木の容器)の革袋と桐箱を寄進して、それらは今でもすべて付属している。
 この茶入は、徳川将軍家所蔵の初花肩衝と同種類の、漢作(注・唐物茶入のうちもっとも古い宋元時代のもの)で、こちらは少し背が低く胴まわりが大きいことが一風変わっているところである。
 もともと松屋では、久行、久好、久政、久重と、代々の数寄者が相続し、松屋三名物(注・徐熈筆の白鷺図、松屋肩衝、存星[ぞんせい]の長盆のこと。鷺図、存星長盆は現在所在不明)を持ち伝えた。歴代の主人たちは利休をはじめとする大宗匠のところに出入りしており、彼ら大宗匠の言行を記録したものとして「松屋会記(原文「松屋筆記」)」あるいは「四祖伝書」などといったものを残した。それらは広く京阪の茶人に知られ、松屋の三名物を見ざる者は、ほとんど茶人にあらざるがごとくに言われていた時代もあった。

 このように松屋は代々、これら名物を伝承してきたが、寛政年間(17891801年)に、松平不昧公は、いかにしても松屋肩衝を手に入れようと、お国入りの途中、伏見の旅館でこれを一覧することになり、実見が終って松屋主人が茶入を持って引き下がろうとしたとき、お供の家臣が進み出で次の間のふすまをあけると、千両箱が三個積み重ねられ置かれていた。懇望しているという内意を見せたわけだが、松屋は、これは先祖伝来の重宝なので金銭には替え難いとして最後まで応じなかった。
 当時、不昧公から松屋に送った礼状には、


 昨日は両種久々にて致一覧、大慶不過之候、別而肩衝如我等可賞品とは不被存候、不備               出羽一々
 土門源三郎様


とある。なんとなく、いやみを含んでいるように見受けられるのは、おそらく非常に失望されたからであろう。
 さて安政年間(185460年)になり、松屋の家政が傾いた(原文「不如意」)ため、これら三名物を、大阪の道具商である道勝、こと伊藤勝兵衛のところに質入れした。
 それを、島津公が一万両で買い上げられたという伝説は残っているのだが、このとき買われたのが、松屋肩衝だけだったのか、徐熈の鷺、存星長盆も一緒だったのか、その辺はさだかではない。
 私はそのことについて、以前、伊集院兼常翁を介して、島津家の方を調べてもらったことがあるが、西南戦争のときに焼失したものでもあろうか、とにかく、現存するのは茶入だけだということだった。
 さて、昭和三(1928)年の島津公爵家蔵器入札のとき、島津家の財政整理委員の樺山愛輔伯爵が、三井合名会社の理事である団琢磨男爵に、この入札の一切の世話を委託した続いて団男爵は、その宰領一切を私に依頼されたので、私は蔵器の中でもっとも高価なこの茶入の落ち着き先を探すため、まず根津青山、馬越化生の両翁を勧誘した。
 この両翁の入札の結果は、青山翁の力が勝っていた。軍配が青山にあがったとき、有力な札元であった戸田露朝が一曲の歌詞を作って私に送ってくれたので、ここに掲載しよう。


 

松屋潟月伊達引

 「むかしより、いまに常盤の色かへぬ、松の位の名物も、薩摩風に吹きよせられて、都のちまたくらぶにて、市に出でたるをりからに、引く手あまたのその中に、桜川(注・馬越のこと)とて今の世に、名うての大関力こぶ、入れて通ひし御成門、かたやは是も横綱の、緑も深き青山(注・根津のこと)と、互にきそふ土俵入、取組ありし其日には、四本柱もゆるぐ程、人気集るまつやがた、突合ふ手先、其内に、青山関の上手投、見事にきまり首尾よくも、勝星いただき帰り行く、げに勇ましきよそほひは、末の世までの語草、めでたかりける次第なり。」


 こうして、この茶入の噂は、一時はこの世界を賑わせた。(注・現在も根津美術館蔵)
 勝敗があるのは、戦う者の常、これ以上、気にするにも足らないことである。しかし、このような名器の争奪戦において、片方の大関であった化生翁が、今や、忽然として娑婆の土俵を引退された(注・亡くなられた)ということは、まことに残念きわまりないことである。



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二百九十 名器三十本茶杓(下巻517頁)

 私が大正元(1915)年から着手した「大正名器鑑」の編集は同十五(1926)年末に結了した。ひきつづきその再版のために二年余りを費やし、昭和三(1928)年九月に完成させることができた。
 その一部は天皇陛下に奉献し、さらに東久邇宮殿下にも献納するという光栄に浴した(原文「辱うしうした」)ので、同年十月二十七日に、帝国ホテルで本鑑の出版記念会(原文「告成会」)を催すことに決した。
 実物と対照させるため、諸大家から門外不出の大名物品を拝借し一堂に陳列することも行った。そこに、各方面の紳士、高官(原文「縉紳(しんしん)」、茶伯、文芸好事家を招待し、首尾よく記念の式典を終えた。
 さて、その翌年四月十七日に、根津青山翁の主唱に益田鈍翁、馬越化生、団狸山、原三渓の諸先輩が賛同して、さきの出版記念会に対して「箒庵翁慰労会」なるものを、東京会館で催してくださった。そこで、過分な讃辞と貴重な記念品を贈っていただいたので、私はその光栄を記念するために若干の茶杓を作り、それらに名器鑑中の茶碗、茶入にちなむ名前をつけ、ひごろ懇意にしている茶友に贈呈することを思い立った。
 さて、それを何本削ろうかと考えた末、表千家宗匠の如心斎宗左が、元文年間(注・173641年)に北野天満宮修復のために、三十本削って寄進した茶杓のことを「北野三十本」といって、今日の茶人たちにもてはやされていることから、私もそれにならい三十本製作することにした。
 寄贈しようとする人々に対しては、それぞれ縁故のある名称を選び、筒には「名器三十本之内、箒庵」と書きつけることにした。
 その名称と贈った人々の名前は次のとおりである。
 

  伊予簾  横井二王(注・横井庄太郎、名古屋道具商米萬

   走井   山田玉鳳(注・保次郎、名古屋道具商)
   橋立   中村好古堂(注・作次郎ではなく富次郎、道具商)
   花橘   近藤其日庵(注・廉平)
   春雨   加藤犀水(注・正治、正義の養子)
   思河   熊沢無想庵(注・一衛、実業家)
   大津   根津青山(注・嘉一郎)
   唐琴   林楽庵(注・新助、京都道具商)
   合甫   富田宗慶(注・重助、名古屋実業家)
   玉川   野崎幻庵(注・広太)
   玉柳   金子虎子(注・昭和茶会記に「大兵肥満の女性」とあるので瓢家女将お酉かも知れないが不詳)
   太郎坊  川部太郎(注・緑水、道具商川部利吉の養嗣子)
   茄子   益田無塵(注・益田多喜子)
   呉竹   伊丹揚山(注・信太郎、元七の息子、道具商)
   山雀   団狸山(注・琢磨)
   破衣   原三渓(注・富太郎)
   升    磯野丹庵(注・良吉)
   松島   八田円斎(注・道具商)
   猿若   益田鈍翁(注・孝)
   サビ助  仰木魯堂(注・敬一郎、建築家)
   笹枕   田中竹香(注・元京都祇園芸妓、田中竹子、「昭和茶会記」洛東竹操庵を参照)
   面壁   山中春篁堂(注・吉郎兵衛)
   宮島   田中親美
   箕面   戸田露朝(注・道具商)
   三笠山  土橋無声(注・嘉兵衛、道具商)

   四海兄弟 野村得庵(注・徳七)
   時雨   森川如春(注・勘一郎)
   白菊   越沢宗見(注・金沢呉服商、茶人、「雅会」会長)
   勢至   馬越化生(注・恭平)
   関寺   山澄静斎(注・力太郎、道具商、力蔵の息子)

 私は近年、茶杓削りに興味を覚え、天下の名竹をさがして、手に入れたら削り、ということを続け、それを同好者に寄贈することが一種の道楽になっているので、すでに作ってあったものだけでも二、三百はあったと思うが、今回も、例の道楽が頭をもたげ、この三十本の茶杓を製作したのである。
 そもそも、日本において茶杓を使い始めたのはいつのことだろうか。とにかく、抹茶を茶入から茶碗に移すには、茶杓様の器具を用いなければなるまい。鎌倉初期、シナから茶の実を持ち帰った建仁寺開山の栄西禅師の「喫茶養生記」のなかで、点茶の説明には、容器に二、三匙の抹茶を入れて、これに一杓の熱闘を注ぐべし、と書いてあるから、そのころからすでになんらかの茶杓を使用していたに違いない。
 その後、東山時代になり、天目点茶にはたいてい象牙の茶杓が使われたが、現在、足利義政、または茶祖の珠光(注・村田珠光)作と言い伝えられている竹製の茶杓があることを見れば、その時代にも竹茶杓はあったものと考えられる。
 茶杓の材料には、そのほかに桑、桜、その他の堅木が使われ、ほかにも、塗物、一閑張り、あるいは金銀なども使ったようだ。しかし紹鴎(注・武野紹鴎)、利休以後は、竹製のものが一番多く、象牙がそれに次いで多い。
しかし、象牙、塗物、木材の茶杓は、茶杓職人でないと、なかなかうまく作ることはできないので、昔から茶人の自作茶杓は、たいてい竹材に限られているのである。
 その茶杓には、その作者の人格があらわれる。貴人、僧侶、宗匠、その他どのような種類の人が作ったものであるか、ひと目見ただけでだいたいわかってしまうのは、作者の魂がその茶杓に乗り移っているからなのである。
 であるから、茶人が古人を友とし、その流風の余韻をしのぶときには、茶杓がもっともたしかな対象物となる。そして、これを鑑定することが、茶会における最大の興であるとされているのである。

 私が茶杓製作におおいに興味を持つようになったのもそのようなわけで、自分でも茶杓を作ってみれば、他人の茶杓を見て、その肝心な部分(原文「急所」)に一段と深く注意を向けることができ、ひいては鑑定もますます上達するのである。
 よって、巧拙はともかく、天下の茶人は、かならず茶杓の自製を試みてほしいものだと、私はこの機会を利用して勧めておきたいのである。


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二百八十八 医茶一途論(下巻510頁)

 私は父母から健康な身体を恵まれたので、七十年あまりのあいだのうち医者の厄介になったことが非常に少ない。医者から見れば、むしろ「有り甲斐のない代物」だと言われてしまうだろうが、そのかわり、たまに病気にかかったときにはいつも当代一流の医家に診てもらっていた。
 明治十四(1881)年に上京してから八年間はほとんど無病であったが、明治二十二(1889)年秋に欧米の来遊から帰国したのち、すぐに腸チフスにかかり帝大病院に入院した。そのときにはベルツ博士の診断を受けた。
 その後数年して、はじめて丹毒を患い赤十字病院に入院した時には、院長である橋本綱常子爵の診断を受けた。
 また明治四十二(1909)年、前妻が腎臓病にかかったときには、青山胤通博士の治療を願い、大正四(1915)年、老母が郷里で患ったときには、木村徳衛博士に往診していただいた。

 私が当代の名医と接した経験は、おおよそ以上のような数回でしかなく、とくに明治末期から大正の末年にいたる二十年間にまったく無病であったのは、この間、毎年のように伊香保に避暑入浴に出かけたためであると思われる。そのため、伊香保温泉の効能の宣伝もかねて、同地の八千代公園に、奈良地方から持ち帰った一丈二尺(注・約3.6メートル)の古石灯を寄進して、その棹に次の一首を彫りつけた。

  銷夏上毛雲木区 温泉日々濯吾躯 山霊冥助人如問 二十年間一病無
  (銷=とける、けす)

 私はこのようにもともと長く健康状態を維持してきたが、大正末年から大正名器鑑の校正に従事して極度に視力を虐使したため、視神経の衰弱をきたした。さらに消化不良にもなってしまい、一時は十七貫八百目(注・一貫は3.75キロで、67キロ弱)に達していた体重が、ほとんど十三貫目(注・49キロ弱)に減ってしまった。
 この間、もちろん床に臥せっていたわけではないが、家人らも、もしや胃癌ではなかろうかと危ぶむほどになってしまったので、そこではじめて病人のような気分を味わうことになった。そして、当代抜群の国手(注・名医。医師の敬称)として知られていた、帝大の真鍋嘉一郎君の診断を乞うことになった。
 きくところによると、君は初診の人に接するとき簡単には診察にとりかからず、長時間患者と対座して、よもやまの談話をするなかで、その容態についての一般的な観察をすることを、ふだんからの診断法としていられるそうだ。私のときも、その診断前の談話が長かった。
 その話題はといえば、さきごろ九死一生の大患にかかった馬越恭平翁に関するもので、翁が茶人で、また私も茶人であることから、とうとう医茶一途論について話をされたのである。その主旨は、次のようなものだった。

 「自分は、茶人が恭謙の態度をもって懐石の給仕をつとめ、さらに濃茶手前にはいるや、自分等の目より見れば一本の竹べらにすぎない茶杓を丁重に取り扱い、また古ぼけた茶碗を重宝のようにみなして、これを運び、これを拭い、茶を点て、客に供するその間に、万々損傷なきよう始終注意して居るその精神は、われわれ医者にとってもまた、おおいに学ぶべきところあり、この点においては医道も茶道も、全然一途なるべしと思わるる。ところでこのごろ馬越翁の病状がようやく危険区域を脱し来たるや、翁はそろそろわがままを言い出し、看護婦らが、すこぶる難渋する由、訴え出られたから、自分は一日、馬越翁に向かい、君は大茶人であるそうだが、いつごろより茶事を始めたるや、と問えば、翁はたちまち大得意となり、入門以来、五十年の茶歴を語られたから、自分はさらに一歩を進め、茶人が竹べらやら、古茶碗やらを大切丁寧に取り扱う、その注意周到は、自分のおおいに感服するところであるが、およそ天下に、わが身体より大切なる器物があろうか、しかるに、貴老は、近頃看護婦の言葉を用いず、ややもすれば、病態を虐用するきらいありという。茶人はかの竹べらや古茶碗をさえ大切に取り扱う者なるに、今、天下第一貴重なる、わが身体を、貴老のごとく粗末に取り扱う者を称して、はたして大茶人ということをえべきやいかん、と詰問したるに、さすがの馬越翁も、これには閉口して、グーの音(注・ね)も出なかった。

 自分はかつて、井伊大老茶道論を読んで、茶道の精神が、わが医道に共通して居ることを知ったので、今後は、医茶一途論を唱えて、ただにわが医道のみならず、人間社会万般のことに茶道の精神を拡充しなくてはならぬと思って居る云々。」

 以上、真鍋国手の医茶一途論は、まさに近来の名説だが、茶道の門外漢から出た説だからこそ、ますますその真価があがるものだろうと思う。そこで私は、この論法を使って、しばしば老人の冷や水を戒めているのである。
 さきごろ、益田鈍翁が大患にかかり、やがて全快の間際になって馬越翁とほぼ同じようなわがままが出てきたということを耳にしたので、さっそく医茶一途論を令息の太郎君に伝え、これを利用して翁の不摂生を防止するように勧めておいた。ここでもきっと多少の効果はあったのではないかと思うが、世間のいたるところで医茶一途論が特効をあらわす機会がありそうだと信じるので、ここにその要点を披露する次第である。


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二百八十三  平家納経副本完成(下)(下巻492頁)

 前項(注・282平家納経副本完成(上)を参照)に記述したように、平家納経は田中親美氏の五か年半の丹精によって原本にも劣らない副本ができあがった。そこで、清盛の願文に記載されている仁安元(1166)年十一月十八日という月日にちなみ、大正十四(1925)年の同月同日に、この副本を厳島神社に奉納することが決まった。
 その奉納前に、副本寄進者や一般の同好者に展示したいと思い、まず上野帝室博物館の許可を得て、十一月十一、二、三の三日間、原本と副本をあわせて同館の表慶館に展陳する運びになった。
 ところがその前日の九日に、皇后陛下(注・貞明皇后)が帝室博物館に行啓あらせられたので、原本十巻と副本全部とを御覧にいれたところ陛下はたいへんに御感心なさり(原文「御感 斜ならず」)、破格なこととして田中氏を召し出され、「さぞご苦労であったろうが、大層好く出来ました」というありがたい御言葉を賜ったのである。田中氏は、光栄身に余る思いで、陛下の美術奨励の思し召しの深いことに感泣したのであるが、これは、田中氏ひとりの光栄であるばかりでなく、寄進者一同にとってもまことにありがたいことだった。
 こうして表慶館における三日間の展観が大盛況のうちに終了すると、今度はこれを京都恩賜博物館に陳列して、十五、六の両日に東京でと同じように一般(原文「衆庶」)の観覧に供した。 
 そしていよいよ十一月十八日、午前十時に厳島神社に奉納するという段取りなので、私たちは、馬越恭平、野崎広太、田中親美、森川勘一郎、吉田丹左衛門、その他東京、京阪の道具商連中といっしょに神殿に参列した。
 御戸帳の内検に一段高く金幣を立て、その両側に供物を供えて、菊地宮司以下、神職が列座したうえで、馬越恭平翁が寄進者総代として例の奉納文を朗読し、これから一同で玉串を神前に捧げ奉納式は終了した。
 私は欣喜のあまり、次の一首を口ずさんだ。

    年を経て写し終へたる法の巻 神に捧ぐる今日の嬉しさ

 前述したように、平家納経は、まず経巻だけを奉納し、次いで原物どおりの金銅篋(注・はこ)を奉納して、はじめて国宝中の国宝たる平家納経の副本が完成したのであった。
 この副本調整には五年半を費やした。その間に、大正十二(1923)年の大震災があったので、私にとっては思い出しても身の毛がよだつような事件があった。れは次のようなできごとだった。
 副本の調整中、私と益田孝男爵が、文部省からの命令でそのその保管者となっていたので、神社から十巻ずつ東京に持ってきて、それを品川御殿山の益田男爵の倉庫に保管し、田中親美氏が必要に応じて二、三巻ずつ渋谷の自邸に持ち帰って順次模写をしていた。しかし渋谷と品川を往復するのが、あまりに遠くてたいへんなので、もう少し近場に移転してもらいたいという請求があった。そこで、私は、当時赤坂山王台下にあった平岡吟舟翁の倉庫が、翁の秘蔵の袋物類を保蔵するために、この上なく堅牢な石造りの建築になっていることを知り、納経の一部をこの倉庫に移すことを決定した。大正十二年八月二十八日にそれを決行しようとしたところ、平岡翁が国府津の別荘に行って不在であったため、翁が帰宅するまでしばらく猶予しているあいだに、例の震火災が起こったのである。
 平岡翁の倉庫は無類に堅固なものであったが、石造りだったため地震によって壁間に亀裂が生じ、その隙間から侵入した猛火の舐めつくすところとなったのである。もし平岡翁が在京していたならば、少なくとも納経の三、四巻は、この倉庫の中にあって焼失したであろう。それは思うだけでも恐ろしい危険なことだった。それが、偶然のおかげで危険を免れたのは、このような名宝に対しては不思議な神明の加護があるからなのである。
 私はこれに先立ち厳島に赴いたとき、納経を保管していた倉庫を見せていたいただいたが、その倉庫は木造で、しかもかなり粗末なものであった。そして、いつのことだか、放火によって半焼したことさえあったのである。
 さて、菊地宮司らも、厳島神社の什宝の数が非常に多いにもかかわらず、宝庫がきわめて粗末であることから、当社にもっとも関係の深い毛利公爵、浅野侯爵の両家をはじめ、その他一般の篤志家の援助を請うて、完全な宝庫と、宝物陳列館を建設しようとされている。そのために目下、熱心に勧化(注・かんげ=寺のための寄付集め)を行っておられることは、まことに時宜を得た盛挙であろう。
 およそ古代の宝物というものは、人為的であれ、自然的であれ、さまざまな障害に出遭って、破損したり、散逸したりして、完全に伝存しているものは非常に少ないものだ。にもかかわらず、平家納経は、七百年余りもの前に平家一門が奉納したときのままに、経巻、容器ともに完全に保存されてきた。このことはまさに、平家納経が国宝中の国宝であることの理由なのである。
 だから私は、前述した危険を追懐するたびに、慄然として、鳥肌が立つ(原文「肌に粟する」)思いをせざるを得ない。これこそが、私の一生のうちで、もっとも恐ろしかった思い出であるので、ついでのことながら、ここにそれを告白する次第である。



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二百七十六  大震火災と名器(下巻468頁)

 大正十二(1923)年九月一日の関東地方の大震災は日本開闢以来稀有の大事変であった。その間に起きた種々の劇的な挿話を記述していてはほとんど際限がないから「箒のあと」においてはあまり多くに触れないつもりである。ただこの震災と名器の関係についてだけ、その大略を述べることにしたい。
 私はこの年の七月下旬から上州(注・現群馬県)伊香保に避暑し、八月いっぱい同地に滞留し、大震災の当日午前八時に家族とともに帰京しようとしていた。夜来の小雨が、まだまったくやむことがなかったのであるが、そのとき十三歳になる愚息(原文「豚児」)の忠雄が急に、「僕は東京に帰る時はいつでも非常にうれしいのに今日はなんだか不愉快だ、こんなときに帰れば必ずよいことはあるまいから、今日は帰京を見合わせましょう」と異議を唱えた。
 そこで、とりとめもないこととは思ったものの、とにかく出発を午後まで延期しているうちに、正午近くにかなり強くかつ長い地震があったので、浅間山でも噴火したのだろうかと特に意に介さずにいたが、午後三時ごろいよいよ帰京しようとして停車場に行ってみると、東京方面が大震災で、大宮の鉄橋が不通だという報道に接したのである。そして、よくも午前中に出発しなかったものだと、いまさらながらに愚息の予感の的中に驚いたのであった。
 やがて、その夜九時ごろになって東京方面の空が真っ赤になった。多分、大火が起こったに違いない、いや、いかに大火だとしても、三十里もはなれたところにその光が届くはずもないだろうなどと言っている間に夜があけ、だんだんと騒ぎが大きくなっていった。
 区々の(注・まとまりのない)情報が伝わりはじめ、やれ、どこが焼けただの、ここが残ったのと噂がとりどりであったが、中でも名器所蔵者の類焼に関してが、私にとってはもっとも神経をとがらせることだった。たとえ焼けたとしても、その宝蔵は無事に違いない、もし仮に宝蔵に火が入っても、名器は別の場所に移されたに違いない、などなどと、夜も安眠できぬままに焦慮したが、四日になって急使が登山してくるまでは自宅の安否さえも分かっていないありさまであったのだから、各家の消息をはっきりと知ることなどもちろん不可能だった。
 連日のように懸念しつつ帰京を急ぎ、十日に自動車で帰宅するやいなや、まず類焼した水戸徳川家に問い合わせてみると、宝蔵の一棟が焼け残り、大名物茶入の新田肩衝、玉堂肩衝もみな無事であるとのことで、おおいに喜んだ。(注・現在ともに徳川ミュージアム蔵)
 続いて、井伊直忠伯爵の宮王肩衝はいかがであったかと訊きただすと、旧藩士の中村勝麻呂(原文「勝磨」)氏が、井伊家道具係と力を合わせて、まず家乗史料(注・一家の歴史に関する史料)を持ち出し、さらに猛火とたたかいながら、有名な又兵衛の彦根屏風、牧谿筆の猿鶴二幅対などともに、宮王も無事に他所に移されたとのことだった。(注・現在彦根城博物館蔵、現在では岩佐又兵衛の作ではないとされている)
 また名器所蔵者のうち、三井高精男爵、馬越恭平、加藤正義、浅田正吉の諸氏は、いずも宝蔵が焼け残って、さいわいに名器の安全を保たれたとのことだった。
 益田信世(注・益田孝の三男)氏は、震災の間際にいゆる虫が知らせたものか、急に茶器を小田原の新邸に移すことにしたので、あやうく災厄を免れたそうである。
 岩原謙三君は、宝蔵が焼け残ったにもかかわらず、表装を修復するために倉庫外に出していた弘法大師の肉筆金剛経を焼いてしまわれたそうで、これは取返しのつかない(原文「終古の」)遺憾であった。
 また横浜で類焼した小野哲郎氏所蔵の曜変天目茶碗は、稲葉子爵家の伝来品で、先年レコード破りの高価でもって氏の手に帰したものであったが、金庫の中にあって、これも幸いに無事だとのことだった。(注・現在は静嘉堂文庫所蔵の国宝) 
 また、郷里から鎌倉の別荘に数々の名器を取り寄せて置いていた加州金沢の松岡忠良氏方では、倉庫四つも破壊されたにもかかわらず、井戸茶碗宝樹庵、光悦七種雪片などが、さいわいに無事であったそうだ。
 これに反して、藤堂高紹伯爵の向両国百本杭本邸は数棟の宝蔵が残りなく焼け落ち有名な書画什器が焼失したことは言うに及ばず、古今の名器として知られた中興名物、古瀬戸尻膨銘破被茶入、同飛鳥川手銘雲井茶入、古井戸茶碗銘老僧、織田有楽手造茶碗銘(注・ママ)なども、おそらく火焔の中にその影を失ったという。
 松平頼壽伯爵所蔵の長次郎七種茶碗木守と、酒井清兵衛氏所蔵の光悦七種茶碗鉄壁は、ともに祝融(注・しゅくゆう=火事)の咒(注・のろ)うところとなり、駿河台の内田薫作氏方では、因果経二巻、中興名物祖母懐銘絃茶入が烏有に帰した。
 ことに悲惨をきわめたのは森岡男爵家の宝蔵で、生海鼠手茶入銘妹背山、薩摩焼茶入銘顔回、無地志野茶碗、および玉子手茶碗銘雪柳などが、いずれも火焔の舐めつくすところとなった。

 しかし、東京市の六割以上も焼失したという割に名器の被害が少なかったのは、不幸中の幸いであったろう。
 これまでの日本において火災のために一時に多数の名器を失ったのは、元和元(1615)年の大阪城落城と、明暦三(1657)年の江戸大火である。前者は太閤秀吉が蓄積した名器を烏有に帰し、後者は柳営御物(注・幕府徳川家の名物茶器)の大半を一炬(注・いっきょ=大きな火)に付した。どちらも火事の範囲はそれほど広くないにもかかわらず、多くの名器を焼き払ってしまった。大阪城のほうはその数は不明であるが、江戸城では、大名物肩衝茶入だけでも二十二点にのぼったという。
 これに比べれば、今回の火災で焼失したものは、茶入が十五、茶碗が八つであったのは、名器所蔵者の多くが山の手に住んでいたためであろう。
 私はこの震火災によって、名器の罹災状況を知り得ない人があるだろうと思い、ここに私の知り得た大略を述べて、後日の参考に供する次第である。

 


 ≪参考≫
「箒のあと」の本文ではないが、国華倶楽部編「罹災目録」(昭和8年)を参考までに載せておく。
    国会図書館デジタルライブラリー
 
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215483
 


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二百六十三  玉菊三味線供養(下巻419頁)

 大正十(1921)年七月十日ごろのこと、小泉三申、馬越化生の二老連名の招待状が机上に舞い込んできた。また結婚披露かなと思って開いてみると、珍しいことに古三味線供養と題する次のような案内状であった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「享保の遊女玉菊が持ちし古三味線一挺、伝えて老友知十子(注・
岡野知十)の許にあり、玉菊が河東節を好みしより、その追善に水調子(注・河東節の楽曲名)一曲あり、今なお伝えられる。『灯籠に亡き玉菊の来る夜かな』盆後十七日を卜し(注・ぼくし=よいと判断し)この古曲をもって、この古三味線の供養を営み、しばらく現代をのがれ、二百余年の昔の夢の世に遊びたく、御来聴被下候わば、施主の本懐不過之候敬白。」


 この案内の末尾に、会席は七月十七日夕六時、赤坂三河家に設けしめ候と書き添えてあった。
 馬越恭平翁は、それまで花柳国における千軍万馬往来の古武者なので怪しむ理由もなかったが、最近は政治界において、当代の蘇秦、張儀(注・ともに中国戦国時代の政治家)と目されつつある三申老が、通人粋士のお株を奪ってこのような会合の主人になったというのは非常に面白い出来事であるといえた。
 そこで、なにはさておき示された時刻に三河家に出かけてみると、大岡硯海(注・大岡育造)、望月圭介、大倉喜七郎、高田釜吉、山本条太郎の諸君と、岡野知十、中内蝶二、久保田米斎、西山吟平などという文芸連が顔を揃えており、取り持ち、兼、感服役として、吉原の元老であるお塩、お〆、あるいは瓢家、蜂龍、弥生の三老女将が居並んでいるその様は、十六羅漢と和尚塚の婆さんが一座に会合したような光景だった。

 そのなかに、両手に剣と縄を持った不動尊のような岡警視総監(注・岡喜七郎警視総監次席か)が泰然として着座しているのが、すこぶる異様な観を呈していたものだから、私は小声で、
    灯籠に総監殿の来る世かな
と、隣りの客に耳打ちしながら一笑したものだ。 

 この晩の趣向を見てみよう。寄付では、岡野知十著「玉菊と其三味線」と題された小冊子と、享保十一(1726)年に、玉菊追善のために竹島竹婦人が作った水調子という一曲の刷り物が配られた。本館二階広間では、正面床に古画の阿弥陀三尊来迎仏を掛け、時代根来(注・漆塗り)机に、知十翁所持の、玉菊遺愛の三味線を横たえて、そのかたわらに古銅水瓶形花入に、百合、桔梗、撫子などの草花を満々と活けてあった。右床脇の唐物箔絵卓上には、古青磁、竹の節香炉と、時代青貝香合とを置き合わせ、左床脇には、玉菊三味線の外箱やら、その三回忌に発行された「袖草紙」という追善句集、そして安政三(1856)年に宇野千万年が富本組太夫のもとめに応じて書き下ろした「其俤(注・おもかげ)伝染(うつ)る玉菊」と題する古版本を陳列してあった。この飾り付け品の大部分は三申翁の出品であったという。

 この晩、高田釜吉君は玉菊の霊に手向けるために、後の白河という伽羅の名香を持参されたが、その心入れには会主もおおいに感服し、すぐさま例の竹の節香合炉に薫じられた。
 玉菊は臨終の三日前、伽羅が欲しいといって、わざわざ知人のもとに使いを出したということだから、これは今日の会合にとって何より結構な供養となるだろう。
 さて顧みて席上を見回すと、座敷の中央天井から、せいろ形白張大灯籠を釣り下げて、その周囲に小形の切子形灯籠を十数個吊るし中に電灯をともし、河東節の紋と蓮の透かし模様をつけた白紙を、尾のように長く垂らしてあった。この紙片が風鈴につるした短冊のようにひらひらと夕風に吹きなびくところは、万斛の(注・ばんこくの=はかりきれないほど多量の)新凉、忽地(注・こっち=急に)に生ず、といった趣があった。
 本場の吉原では、年中行事の玉菊灯籠がすでにその跡を絶った今日このごろなので、赤坂方面にこの灯籠がぶら下がったのを見て、地下の玉菊もさぞかし戸惑っているのではないかと思われた。
 さて一同が座につくと、この座敷の入り口の両側に吉原仲之町の文字入りの長提灯を置き、吉原で享保のころから今日まで繁昌している竹村伊勢という巻煎餅屋の菓子箱を積み重ね、その中から昔ながらの煎餅包みを取り出して一同の前に配ったので、いよいよ一座に吉原気分がみなぎることになったのは、すこぶる振るった趣向であった。
 さて玉菊三味線供養の余興には、最初、赤坂の歌妓である澄江、小鈴の唄、三助三味線の水調子、つづいて当代河東節の家元、山彦秀次郎(注・このころにはすでに山彦秀翁)の唄、小鈴と澄江の三味線で廓八景が出てきた。昔からこの水調子を演じるときは、玉菊の幽霊が出てくるという伝説があるそうだ。
 元来玉菊は酒好きで、きわめて明るいさっぱりした気性の女で、しかもよく河東節を語ったので、その時代の粋士の人気を集めたようで、抱一上人(注・酒井抱一)が「鰹にて一つ飲むべし玉菊忌」と詠じたのは、まったく彼女のすべてを言い表したものであろう。
 最近では、世間があまりにも硬化して、会合というと、諸君よ、諸君よ、という者が多いなか、化生、三申の両翁が江戸趣味たっぷりのこの会を催されたことは、私たちにとってまことに万斛の清涼剤に値する心地がしたのものである。そこで、この夜の所見の大要をすっぱ抜いて、後日の語り草に供する次第である。


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二百六十一  高野山霊宝館落慶式(下巻412頁)

 明治四十三(1910)年に発起した高野山霊宝館は、それから十二年をついやして大正十(1921)年五月十五日に、いよいよ落慶式を挙行する運びとなった。そこで最初からこの事業に微力を尽くしてきた私たちは、この日をもってようやく肩の荷をおろすことができたのである。(注・160「高野山霊宝館の発端」を参照のこと)
 そもそもこの霊宝館は、高野鉄道社長の根津嘉一郎氏らが高野繁昌の一策として建設する必要を唱えたものだった。高野山側としても、同山の開山一千百年の記念事業の一部としてその実現をさかんに望み、大師会の発頭人として知られていた益田鈍翁(注・益田孝)や、真言寺と自称して大師崇拝者であった朝吹柴庵(注・朝吹英二)らが発起人に馳せ参じたので、ここにいよいよその計画を立て資金勧募に着手した。
 しかしそれに着手したそのとき、最初からこの事業に熱心だった高野山宝城院住職の佐伯宥純師が突然遷化(注・せんげ=高僧の死去のこと)してしまった。そのためたちまちのうちに大頓挫を生じ、一時は計画を中止しなければならないことになりかけた。しかしこれでは佐伯師の霊に対して申し訳が立たないということで、私と野崎幻庵(注・野崎広太)でその事務所を引き受け、決然として資金募集を始めた。
 その意気に馬越化生翁が共鳴し、それからは三人で、あるときは知己の誰かれを勧誘し、あるときは諸大家道具入札会の札元たちを説いてその冥加金(注・奉納金)を徴収するなど、さまざまな手段を講じて、かろうじて十一万円を募集することができた。しかし物価騰貴のため、当初十三万円であった予算が、ほとんどその倍額に達していたので、発起人中の発起人であった下記の八名が各自、最低七千円、最高一万一千円を分担し、出資総額を十七万円にまとめた。
 一方高野山側では、当初からこの事業の相談役であった文学博士の黒板勝美、荻野仲三郎の両氏が調談の結果、館内の造作備品代金の十万円余りを支弁することになったので、双方の合計の約三十万円で霊宝館第一期計画を完成し、この日めでたくこの落慶式を挙行するにいたったのである。
 霊宝館は、正殿を中心にして左右に両翼を張り、回廊でそれを連接する構造(原文「結構」)である。今回は第一期事業として、正殿すなわち紫雲館と、左翼すなわち放光閣を完成し、右翼は第二期事業として将来の竣工を待つことにしたのである。
 こうして、この日は東京から発起人総代として益田鈍翁、根津青山、馬越化生、野崎幻庵と私の五名のほかに室田義文氏が出席し、九州からは安川敬一郎男爵、京都からは日置藤夫氏などが登山した。

 益田男爵が霊宝館寄進文を読み上げ、金剛峯寺管長の土宜法龍師が受納文を、建築技師長の大江新太郎氏が報告文を、馬越化生翁が祝詞を朗読し、首尾よく落慶式は終わった。
 黒板博士の筆になった霊宝館の寄進文は次の通りであった。

 「寄進し奉る高野山霊宝館一宇の事。
右当山は弘法大師入定の聖跡、三世諸仏集会の浄域なり、上天子より下衆庶に至るまで、一心帰依の懇志を致し、三会得脱の値遇を期す、是を以て蓮峰蘿(=カズラ)窟、徳風吹くこと一千百余年、霊宝秘珍、庫の充ち蔵に溢る、惜い哉、或は祝融の災に罹り、或は蠧魚(=紙魚)の食となり、日に散し月に失ふ者、其数を知らず、而して保存の法未だ立たず、展観の便尚ほ欠く、登山の輩、参詣の衆、多くを以て恨みと為す、是に於て明治庚戌の春、始めて霊宝館造立の発願あり、我等之を隨喜し、奉加四方に勤め、功徳一切に及ぶ、而して十余星霜を経、輪奐(=建築物が広大であること)の美未だ成らざるの間、座主密門大僧正を始め奉り、佐伯権中僧正、朝吹柴庵等、忽ち黄壌(=死後の世界)の長別を告げ、前後恨み極まりなき者なり、切に浮世の夢の如きを感じ、弥よ(=いよいよ)事業の遂げ難きを歎じ、更に多少の志を集め、纔(=わずか)に土木の功を終り、殿紫雲と称し、閣放光と呼ぶ、乃ち虔んで大師の宝前に寄進し奉り、聊か以て小願を果す、庶幾(=こいねがわ)くは、遍照金剛の威光弥よ輝き、普賢行願の梵風益加り、又願くは此微善に依り、故座主以下、聖霊出離生死頓生仏果、同心緇素(注・しそ=出家者と在家者)現当安楽、願望円満、乃至法界平等利益、敬白(原漢文)
 大正十五円五月十五日

      高野山霊宝館建設発起人総代
     益田孝     根津嘉一郎
     馬越恭平    村井吉兵衛   
     原富太郎    朝吹常吉

     野崎広太    高橋義雄

 霊宝館の右翼はまだ出来上がっておらず完全に竣工してはいなかったが、正館と左翼ができあがったので、什宝保存のため、また一般の人々(原文「衆庶」)観覧のために、今後幾久しく無限の功徳と便宜を生じることになるだろう。
 山間僻地の寺院に関する事業というものは、都会での同様の事業のようには華々しく目立つようなことはないが、概して永続的なものになりやすく、少しずつであっても後世に恵沢を及ぼすものが多い。たとえば鎌倉幕府の事業は、なにひとつ見る影もなく荒廃してしまったが、尼将軍政子(注・北条政子)が高野山に寄進した多宝塔は、厳然として今もその雄姿を留めているではないか。
 霊宝館建設の議が起こってから十二年、私たちは、時には托鉢坊主のようになって、勧化(注・寄付集め)に憂き身をやつしたこともあったが、今や本館が落成しその功徳が今後長く継続するのだと思えば、いささか骨折り甲斐があったものだと衷心(注・心の底から。原文「中心」)満足している次第である。

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二百二十五  伊達家道具入札会(下巻278頁)

 私は大正元(1912)年から、日本全国の名物茶碗を調査し名器鑑を編成しようという志を持っており、当時もっとも多くの名器を所蔵していた旧国持ちの大名家に手づるを求めて、その調査を進めつつあった。
 その一方で茶会記を執筆し新聞紙上に掲載していたので、大正時代から昭和時代に及ぶまで、大きな道具入札会の世話人を依頼されることは何度あったかわからない。しかしながら、それが名器を調査するうえでの非常な便宜となったので、その都度すこしばかりの労を厭わなかったので、この間の道具移動に関しては耳にはいってくることがきわめて多かった。その件に関しては、昭和四(1929)年に私が編纂した「近代道具移動史」に詳述したので、「箒のあと」においては、このことにあまり多くは触れようと思わない。その中で、もっとも特色のあった三つの大道具入札会のことだけを紹介しようと思う。
 さて、この三大入札会とは、まず大正五(1916)年に行われた仙台伊達家の道具入札会であり、これが旧国持ち大大名家の道具入札の先駆けである。
 二番目は、同六年に行われた赤星家の入札会で、その売り上げ総額が五百万円を突破したという空前の巨額入札である。
 三番目が、同十二(1923)年に行われた若狭酒井家の入札会で、品数わずかに百二十点で二百四十円あまりに達したという無類の名品ぞろいの入札であった。

 まずは、伊達家の入札会から話を始めよう。

 大正五年五月十六日に第一回、同七月五日に第二回が挙行された仙台伊達家の道具入札会は、維新後に大大名が堂々と名乗りを挙げて、その蔵品を入札市場に送り出した最初のものだった。これは、他の道具持ちの大名家に対し非常に有力な勧誘作用を果たし、また、その模範にもなった。
 そもそも、徳川時代を通じ、日本で個人が所有する名器は、十中七、八は国持ち大名の手中にあり、残る二、三が、民間の富豪と、公卿名家の所蔵だった。
 旧国持ち大名は、明治初年の版籍奉還に次ぎ、廃藩置県に遭遇し、所持する財産のほかには新たに収入の道がないので、いわゆる「ジリ貧(原文「ぢりぢり貧乏」)」で、だんだんと窮迫に陥ったが、「古池に水絶えず」のたとえに洩れず、何とか食いつないで、簡単には先祖伝来の道具を売却するには至らなかった。中には多少売却した者もなかったわけではないが、さすがに名門の家名を惜しみ、公然と名乗って道具を入札市場に出す者はなかったのである。
 そこへ仙台伊達家のような大名家が、大っぴらに名乗って道具入札会を開いたので、これを見聞した諸大名家は、伊達家すらが、すでにかくのごとしである、われらも決して遠慮するに及ばない、ということで、このときから諸大名家が続々と道具を売却し始めた。
 その折も折、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の影響で、世間に続出した成金が、さかんに道具を欲しがり求めたので、ここに売り手と買い手の双方が出現して出会い、古今未曾有の道具大移動が発生したのである。
 かくして、伊達家の入札会は、東都(注・東京)、京阪の道具商の十五名が札元になり両国美術倶楽部で開かれた。
 これぞ、維新後における道具入札のレコード破りで、第一回の売り上げは百万円を突破し、第二回とあわせて、総額百五十万円に達した。
 そのうちで、三万円以上だったのは、次のものであった。

  名物唐物福原茄子茶入   金五万七千円
  名物唐物岩城文琳茶入   金五万六千円
  牧谿筆朝陽        金五万五千円
  青磁東福寺香炉      金五万千円
  黒地有明蒔絵硯箱     金三万六千円
  砂張淡路屋船花入     金三万三千五百円
  元信筆真山水       金三万円
  名物此世香炉       金三万円
  元信筆中布袋左右松柏猿猴三幅対 
               金三万円

 以上の入札が行われた大正五年は道具相場がまだ絶頂に達していない時期で、この落札価格の多くがレコード破りとなった。大正四年に京都で行われた、雁半こと中村氏(注・京都の織物商、中村氏雁金屋半兵衛のことと思われるが詳細不明)の入札道具の相場が高価で、これを雁半相場と呼んでいたのに、今度はそれを凌駕したので、新たに、伊達相場という熟語が流行することになった。
 伊達家は、人も知る国持ち大名の白眉で、政宗以来、家格に相応した多数の名器を受け継いだうえに、四代綱村が茶事を好み、おおいに名器を蒐集し、石州流の清水道閑のような茶博士を招聘してさかんに茶道を奨励したので、同家には多くの収蔵品があった。
 以前には大阪の炭彦こと白井家に入質後に岩崎弥之助男爵の手に移った数々の名器もあったし、この入札の数年前に伊達伯爵家から明治天皇に奉献された公任卿朗詠の二巻(注・伝藤原公任筆和漢朗詠集)のようなものもあった。このような名品が、実に山のようにあったため、同藩出身の富田鐵之助氏らの献策で、このままこれらの品々を保存することは覚束ないので、このへんで処分し、天下の数寄者たちに分配するのが名器所有者の取るべき道であろうということになり、その処分が馬越恭平氏に委嘱された。
 馬越氏は、先年三井家を離れたときに、富田氏から有力な後援を得たことに恩義を感じ快くこの委嘱を引き受け、一生懸命に周旋の労を取ったばかりでなく、自身もまた入札の大手筋(注・大口入札者)になり、おおいに景気をつけたので、それぞれの品目ごとにレコード破りが続出した。
 大正八(1919)年ごろの成金爛熟期に比べれば、まだなお絶頂に達しておらず、あるいは七、八合目の相場だったかもしれないが、とにかく、大名道具移動の先駆になったもので、大正年代における道具入札のうちで、もっとも意義あるものであろうと思う。 
 


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百七十六  銅像に就ての所感(下巻101頁)

 東京に初めて建てられた銅像がはたしてどこのものであるのか、私ははっきりとしたことを知らないが、明治二十四、五(189192)年ごろに九段の招魂社の社殿前に建立された大村益次郎氏のものはかなり早いほうだっただろう。
 その銅像は、大熊(原文「大隈」)氏広氏の製作によるものだが、私は明治二十二(1889)年の秋、ヨーロッパから大熊氏と同船で帰国したので、この銅像製作の最中にはしばしば氏と面会して製作に関する苦心談をきいたことがある。
 大村氏には満足のいく写真がなかったので、氏の知人や親族によってその容貌を研究したそうだが、非常に額が長い人で、眉毛を中心にその上下がほとんど同じ長さだったという。銅像の片手に双眼鏡を持っているのは、九段の高台から彰義隊の立てこもっていた上野方面を観望したときの姿なのだそうだ。
 その後大熊氏は、福澤先生の座像も作られた。このときは私も共同世話人のひとりで、銅像ができあがったとき大熊氏から、先生の容貌が普通の人とはかなり違っていて写実をするうえで非常に扱いにくい顔だったという理由も聞かされたが、とにかく先生の気に入らなかったので、私も非常に当惑したということがあった。
 その後いろいろな場所に建立された銅像の中には、だんだんに出来のよいものも出てきたようだが、日本では、製作する者も製作させる者も概して不慣れなために、これは、と感心するようなものが非常に少なかったものだった。
 しかし、大正元(1912)年十月十二日、品川の海晏寺で除幕式を行った梅若実の銅像は、それまで東京の各所に建てられた銅像の中で、その姿はほとんど無類の上出来だった。それもそのはずである。翁が右の手に扇を持ち今や踊り出さんとするところであり、長年鍛えに鍛えたその芸術的な態度が普通の人には及びもつかないものだったからだろう。
 この銅像の建立については、私も発起人のひとりとして当日式場列席した。その高さは五尺四寸(注・約163センチ)で、台石を合わせたら十一尺(注・3.3メートル)だった。その台石の背面には股野琢氏の撰文(注・文章を作る)で、次のように刻印されていた。

  翁少壮遇世変 独力維持能楽 演習弗懈(注・弗懈=怠らず) 遂克挽回頽勢 其功其技 古今希匹 因同志胥
(注・胥=助ける) 茲表彰之云


 本像の製作者である沼田技師が語るところによると、この銅像は当然翁の没後に設計したものだが、万三郎の姿が翁にほとんど生き写しなので、それをモデルに三回ほど写しとり、その容貌体格はもちろん、袴のひだにいたるまで、生前の翁そのままを表現することができたことは非常に幸せだったということであった。
 とにかく、銅像というものはのちのちまで残るものなので、姿かたちが似ていることだけに囚われて、実物よりも劣っている物体を遺してしまうのは、故人にたいしてまことに気の毒だ。上野台の西郷の銅像なども、ふだんの生活の様を写そうとする意匠に囚われたばかりに、陸軍大将だったこの人の威厳を顧みることがなかったのは、おおいに考えものではなかろうか。
 また、数年前に、目黒の恵比寿ビール会社の構内に馬越恭平翁の大銅像を建設してその除幕式が行われたとき、清浦奎吾伯爵が演説をして、「自分は従来銅像を好まぬ一人である。東京市中に於ても、建設その場所得ずして、頭に鳥の糞が掛かっている銅像を見受け、思わず顰蹙(注・ひんしゅく)するものがないでもないから、後来、銅像建設を発起する人々は、かような失態を招かぬよう、大に注意しなくてはなるまい。もっとも今度の銅像は当社構内に建てられて、その保護についても、大に他と異なるものがあろうから、これはまったく例外として、その他一般の銅像はなるべく必要やむべからざるものに限り、粗造濫設を戒めざるべからず」という趣旨を述べられた。
 私は、清浦伯爵の意見に同意すると同時に、銅像製作者に対してさらに希望したいことがある。先ごろ、陸軍省構内に建設された山県有朋公爵の騎馬銅像の鋳造の前に、その石膏の段階で、それぞれが所見を述べよということで、委員となっていた人たちが工作場に集合した。その際、故人の特徴を表現しようとするあまり、かえってその欠点がきわだっていることがなきにしもあらずだったので、なるべく長所や美点を目立たせるようにして、似姿とともにその品格風貌を伝えるよう特に注文をしておいたが、これ山県公爵のものにとどまらず、銅像一般についてそのような点に留意されるよう願っている。
 というのも、あるところで背の低い実業家の銅像を見かけたことがあり、小高い台の上に載っていたので、下から仰ぎ見るとまるで奇形の大黒天を見るようで、このような銅像ならむしろ作らないほうがよいのではないかと思ったことがあったからだ。
 日本では昔から、碑文によって故人の遺徳を称揚するという方法がある。中途半端な銅像を作るよりも、石碑のほうがかえって崇敬の念を深くすることがあるということは、かの清水谷公園内にある大久保利通卿の記念碑などがよい例である。
 私は、将来の参考のために、ここにいささかの所感を披歴する次第である。


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百七十二  光琳月豆幅の余興(下巻87頁)

  
大正二(1913)年五月二十五日のことだった。下條正雄、朝吹英二の両氏が、大阪府知事の高崎親章氏の依頼で、大阪天満の天神社内に貴賓館を建設する計画賛助のため、都下の紳士数十名を築地瓢家に招請した。その席上、私は参加者に向かって緊急動議を提出した。
 「数日前に両国美術倶楽部において道具入札会があった。そのとき、今夕出席している馬越恭平君が、光琳筆の有名な、月豆の一軸を獲得されたことは、まことに慶賀の至りである。元来、豆は馬の好物であるから、馬越大人が月豆の幅を手に入れたのは、まことに当然のことではあるが、私が探知したところによると、この幅の獲得には競争者がいたのである。それは古河男爵家の代表の中島久万吉男爵であった。男爵は、古河家のためにこの幅を得るため大枚五千円で入札し、これでもう月下の豆は、間違いなくわが手中のものであると安心していた。
 一方、馬越大人は、豆と見ては、なんの猶予があろう、この幅をぜひとも獲得せよと、出入りの道具商である山澄力蔵に命じ、その相場を尋ねた。すると山澄は、まずもって三千円くらいではないかと言う。
 そのとき大人は、頭を左右に振り、いやいや君、それは、時勢遅れだろう、光琳の豆は、満州の豆(注・「満州大豆」は当時の満州開墾の主力農作物だった)とは違い、天下唯一の豆である。自分は前々から光琳の絵を愛して、河秡の図、紫式部の図など、「光琳百図(注・尾形光琳に私淑した酒井抱一が光琳百年忌に編集し出版したモノクロの絵画集)」にもなった優品を持っているが、それらはどれも真面目な図柄なので、かねてから、草体(注・硬派でない、の意か?)の画の一幅を欲しいと思っていた。この月豆の図こそ、まさに自分の理想にかなっているばかりでなく、「光琳百図」の中で、紫式部と並んで掲載されている(注・刊行された「光琳百図」の同じ頁に印刷されている。下の参考写真を参照のこと)もので、離れるべきでない姉妹幅なのだ。ぜひとも、確実に落札できる札(原文「やらずの札」)をいれたいということで、最初から五千円と決め、その上にさらに端数をつけ、結局五千百十円で入札した。
 開札の結果、豆はわずか十円の高値をつけた馬大人の手に落ちた。このような深い情を持つ知己に身請けされた月豆は、さぞかし満足したことだろう。
 それにしても、わずか十円の差でこの名幅を勝ち得た『馬運長久』にいたっては、同好の友を招き披露の祝宴を催すだけの価値があるのではないかと思うが、満座の諸君にもご同意いただけるのではないだろうかどうだろうか。」

と述べたのである。
 すると一同が大賛成したことはもちろんのことだったのだが、このなかには杉山茂丸君のような大豪傑もおり、「自分は月豆問題以外にも、馬大人に対して晩餐を請求する外交問題を抱えている」と言い出す。
 ここで返事にもたもたしていると、旧悪露顕か、はたまた新罪発見か、いずれにしても事は面倒だと見て取った馬大人は機先を制して一座を見回し、「諸君、よろしゅうげす」と快諾したのであった。その期日は六月十五日と決まった。
 さて六月十五日がやってきた。馬大人は前回の出席者十数人のほかに、十円違いで月豆競争にしくじった中島久万吉男爵も招待していた。会場は同じ瓢家で、寄付き(注・はいってすぐの部屋)の床には、光琳の有名な河秡の図を掛けてあるほか、馬越家の秘蔵中の秘蔵である、師宣(注・菱川師宣)と長春(注・宮川長春)の風俗絵巻が陳列され来客は魂を奪われた。
 そのあとには、本席に光琳筆の月豆の図が飾られるという、実にいたれりつくせりの待遇であった。来賓の代表として、金子渓水(注・金子堅太郎)子爵は、懇篤な謝辞を述べた。また大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)翁は、

   友どちのまるきまとゐ枝豆の さやけき月を見する掛物

という狂句を披露した。その後、花柳小夏の手踊りなどがあり、めでたく月豆会は終了した。
 そのとき馬大人が、益田紅艶(注・英作)に次のようなひとことを洩らされたのである。
 「東京は真の闇でげす、月が出ているのに、アノ豆が誰にも見えませんよ」
つまり、世人はみな盲目で自分ひとりが具眼である、と言うに等しい啖呵を切ったわけだ。
 そこでこの晩に招かれた客側が七月二十二日に返礼の会を開くにあたり、その幹事を引き受けた私と、益田紅艶、野崎幻庵の三人で協議のうえ、加納鉄哉老人に釈迦如来が緋の衣を着て意気揚々と馬にまたがり、まわりには十六羅漢が群衆している絵を描いてもらった。その釈迦如来の容貌は、夜の主賓である馬大人にそっくりで、群衆の羅漢もまた当夜出席する人々の顔をしているのである。豆の枝と掛物をかついで先導している眉の太い人は、間違いなく山澄力蔵で、ひげに鯰の特徴があるのは加藤正義尊者、土左衛門のように太っているのは益田紅艶童子、頭髪がまばらなのは野崎幻庵、金縁の眼鏡をかけているのは箒庵(注・高橋義雄)というような図柄であった。しかしはなはだ不思議なことに、この絵では馬上の釈迦だけに目があり十六羅漢は全員盲目なのである。
 やがてその理由が明らかになると、主客ともに顔を見合わせて抱腹絶倒するしかなかった。無眼の羅漢を代表して金子渓水(注・堅太郎)尊者の挨拶があり、ついで近藤廉平尊者がこの新作の一軸を馬大人に贈呈した。

 余興には、清元の「彩色間刈豆【いろもようちょっとかりまめ】」を語らせ、晩餐の献立も豆にちなむなど、ずいぶん薬の効きすぎた趣向だった。
 ところで、わずか十円の差で月豆を落札できなかった中島男爵は、むしろその幸運を祝する意味で、八月十五日すなわち仲秋の夜を選び会を催した。
 そこにおいては、古河家が最近譲り受けた、水野子爵家伝来の元暦万葉十四冊が参加者一同のために展示された。とかく下品になり下がることの多いこの種の会合が、もっとも上品な形で千秋楽を迎えることができたことは、まことにありがたき幸せだった。

  この会合は、月豆会」という名で当時非常に有名なものだったので、ここにその大要を記しておく次第である。



 ◆参考:国会図書館デジタルコレクション「光琳百図」より
 (月豆の図と紫式部が同頁に掲載されている )

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百六十  高野山霊宝館の発端(下巻45頁)

 私は明治四十五(1912)年から趣味に生きる人間になったので、美術、工芸、文学に関する各種の事業において、みずから進み出たり人から推されたりして奔走することになったそのようなもののひとつに、同年の六月から発足して約十年後にようやく完成した高野山霊宝館の建設事業がある。
 そもそもこの事業は高野鉄道の発起人である根津嘉一郎氏らが、この鉄道を繁昌させる方策として高野山に宝物館を設けようと提唱したことに始まる。ひとつには一般人に観覧の機会を与えようということと、もうひとつには火災の危険を防ぐ必要があると提唱したのである。弘法大師の信仰者であり、また同山の宝物の真価を知り尽くしていた益田孝、朝吹英二、高田慎蔵の諸氏が賛成し、彼らが私に趣意書の起草を非常に熱心に依頼されたので、次のような大要の一文を作りその求めに応じることになった。これが高野山霊宝館の建設のはじまりだった。

   高野山霊宝館建設趣意書(注・旧字を新字にあらためたほかは原文通り、なお、「萬象録」明治45年6月29日にも同趣意書が掲載されているが、文言が微妙に違っている。後者は、たとえば「本邦名刹はと問ふ者あれば人先づ指を高野山に屈せん」で始まっている)
 

人あり若し本邦の名刹を問ふ者あらば、必ず先づ指を高野山に屈せん、此一事開山大師の徳業が、如何に当山に集中せるやを示すと同時に、之を永遠に保存するの必要も、亦自づから明白ならん、而して此保存事業中、即今一日も捨て置く可からざるものは、高野山霊宝館の設立即ち是れなり、由来当山の宝物は、大師の唐朝より請来したる書画、法器、歴代聖僧の手に成れる仏体、仏具、各種の図像、詔勅、官符、衣裳、刀剣、凡百器具書類に至るまで、歴史に於て信拠すべく、法儀に於て尊重すべく、美術に於て鑑賞すべき者にして、既に国宝に指定せられたる者、百数十点の多きに及べりと云う。然るに此等の宝物は、総本山たる金剛峯寺の所管に属する一部分の外、或は各寺院、或は各個人の名義に属して、統一集中の道を得ず、第一火災、第二湿汚の危険あるのみならず、其取扱の不完全なるが為め、毀壊相継ぎ、遂に宝物たるの真価を失ふの恐なしとせず、聞くが如くんば高野鉄道は、早晩其工程を進めて、汽車の山頂に往来するに至るも、亦応さに(注・またまさに)遠からざるべしと。果して然らば、山上の人煙更に加り、参詣の群衆更に倍する事必然にして、此際因て生ずべき不慮の災難を防ぎ、因て要すべき観覧の便宜を謀り、茲に高野山宝物館を当山内に設立するは、豈に焦眉の急事業にあらずや。是れ啻(注・ただ)に祈願報恩の為めのみにあらず、今後永く大師以下諸名僧の遺烈を仰ぎ、又平安朝文献の余影を留め、本邦歴史文学美術の参考に資する所以にして、其関係する所重大なりと云べし。大方の諸賢、冀(注・こいねがわ)くは某等の微志を賛助せられ、速に浄財を喜捨して此発願を成就せしめ給はんことを、熱願渇望の至りに堪へず、某等敬白。
 明治四十五年六月吉祥日


 この趣旨については、高野山金剛峰寺の管長、密門宥範大僧正らももちろん大賛成で、宝城院住職の佐伯宥純師を全権委員に任命し、いよいよ資金勧化にとりかからせた。佐伯師は、僧侶の中では稀に見る敏腕家で、しかも非常に熱意をもってこれに当たられたので、事業は非常に進行した。
 ところが大正七(1919)年七月に上京のおり、腸チフスにかかり突然遷化されたので、ここでいったん頓挫することになった。その時、馬越恭平翁は非常な義侠心を発揮し、この事業を完成させなければ死んだ佐伯師に対して合わす顔がないとして、私と野崎広太氏を補佐役にして、三人が協力して資金を募集することになった。
 当時は好況な時代だったので、諸大家の蔵器入札会が頻繁に行われたのを幸いに、その入札に関係した札元などを説得して、その手数料の一部を何度も喜捨に回してもらった。そしてとうとう十二万円ほどの資金を集めることに成功したので、今回は、最初から縁故が深かった益田孝、朝吹英二、馬越恭平、根津嘉一郎、原富太郎(注・三渓)、野崎広太と私の七名が、不足分を各自七千円ほど出し合って建設費の十七万円とし、さらに高野山から補給された十万円余りと合わせて霊宝館建設に着手した。
 木材はすべて高野山から伐り出したため費用を大きく減らすことができ、結果としては五十万円程度で霊宝館ができ上ったのであった。
 なお、佐伯師遷化のあとは、金剛峯寺執事の藤村密幢師のちに大僧正大覚寺門跡がかわって尽力し、大正十(1921)年五月十五日に、ついに開館式を挙行することができた。この開館前後の様子についてはまた後段において叙述することにしたい。(注・261「高野山霊宝館落成式」を参照のこと)
 


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百五十八  五世清元延寿太夫の生立(下)(下巻37頁)

(注・157・五世清元延寿太夫の生立(上)からの続き)
 

 斎藤家の主婦、お藤は、庄吉の教育についてひそかに心を配っており、高田馬場のような片田舎に長いこと置いておくのは本人のためにならないとして、庄吉は十一歳のころから神田皆川町の親戚のところに預けられることになった。
 ここでいろいろな修業をさせ明治九(1876)年、庄吉が十五歳のときに、そのころ兜町に創立された三井物産会社の小僧として住み込ませることにした。
 当時小僧はひとりだったから庄吉は、三井物産における小僧の家元だといってもよかろうと後年、本人が冗談で言っていたものだ。
 十九歳で、庄吉は三井物産の横浜支店に転勤した。そのため当時支店長だった馬越恭平氏との親密な関係がうまれた。弟の兼次郎が富貴楼の養子になっていて、またそのころの富貴楼には伊藤、井上、大隈をはじめとする高官や紳商の会合が頻繁におこなわれていたので、庄吉もしじゅう富貴楼の家に出入りしていた。
 あるとき、琴の名手だった中能島松声と清元お葉とが、「お菊幸助」を掛け合いで語ったことがあった。あの「白山さんに願かけて」のくだりに来たとき、甲高いほうを中能島が、低いほうを、お葉が唄った。その美声といい節回しといい、得も言われぬ妙味があったのに感じ入り、庄吉自身も清元が大好きになり、このときから清元の門にはいったのである。このときさかんに研鑽したことが、後年に家元になる素地を作ったということである。
 庄吉は二十四歳になるまでの足かけ十年、三井物産会社で奉公していた。そのころ横浜ではドル相場が流行し、多少の山っ気があれば、ほとんど誰でも相場に賭けてみるという状況だった。それで庄吉もたまたまやってみたところ、とんとん拍子で当たりまくり、一時は五、六万の大金を握るまでになった。
 それで奉公しているのが馬鹿馬鹿しくなり、血気盛んな年ごろだったこともあり、それから二十九歳までは、あらん限りの道楽をやり尽くしたそうだ。そのころは、一年に一万円も使えば大尽風を吹かすことができた時代だったので、自分の好きな清元お葉や先代梅吉などをひいきにして、彼らを座敷に招いたりもした。
 ある晩、お葉、梅吉などの清元連中を誘って高島町の某楼で遊んだことがあった。そのとき何かのはずみから、お葉が清元家の現状を話し始め借金はあるは、後継者はないはで、このままではどうにもならないので、あなたが養子になってくれませんかと言い出したそうだ。

 一方、庄吉はというと、二十九歳とき「座して食らえば山も空し(原文「山をも尽くす」)」のたとえにもれず、その後すっからかんの一文無しになってしまった。自分は三十までは勝手気ままに遊んでいるが、三十になったら必ず身を立てなければならないと決心していたことをそのときになって思い出した。それが来年には三十になってしまう。ここでなんとか身の振り方を決めなくてはならないと気づいたそのとき、以前お葉から養子にならないかと言われたことを思いした。
 そこで、そのころ浜町の花屋敷に住んでいた清元家を訪ねたところ、お葉はその日、浜町の岡田家の店開きの余興に呼ばれたという。そこで続けて岡田家のほうに押しかけたところ、玄関で客と間違えられてしばらく滑稽な展開となったが、とうとうお葉と梅吉が休んでいるところに乗り込むことができた。
 そこで、いつだったか自分を養子にすると言ってくれたことがあったが、私も持ち金を使い果たしてしまい一文無しになってしまったので、あなたの養子になる気になったので、どうか承知してくれないだろうかと相談した。
 そのときお葉は、しっかりとした女であるところを見せた。亭主の四代目延寿太夫にさえも相談せずに、それはありがたいことだ、でも清元の家には今、三千八百円の借財があることを承知してもらいたい、それから、あなたを養子にもらったら富貴楼から苦情が出るので、あなたは三年間ばかりは富貴楼に出入りしないという決心をしてもらいたいと言ったのだった。

 庄吉はこの条件を承諾した。そのかわり、婿養子にはなりたくないので岡村家に女子がいても、自分の妻は自分で選ばせてほしいと言った。この双方の意見が一致したので、庄吉はいよいよ清元の養子になることが決まったのである。
 さて、清元家に養子ができたということを聞いて、十一人の借金取りが一度にどっと押しかけてきた。そのときお葉夫婦はそれを庄吉に任せて、どこかに身を隠してしまうという始末だった。庄吉は、前から懇意にしていた浜町の待合である弥生の主人から、若干の金子(注・きんす)を借り受けて、借金整理に取り掛かることにした。
 ところが、最初は三千八百円と言っていたのが、だんだん増えて、四千二百円ほどになっていたので、さらに調べてみると、某高利貸しの借金など、初めは五十円だったのが、今では三千円余りになっていたのだった。そのほかは米屋、酒屋といった小口ばかりだったので、その人たちを集めて、全額の二、三割に当たる金額の金を財布ごと彼らの前に投げ出した。そして、まず、これだけを受け取ってほしい、その分配は、よろしく頼むと言った。
 そのやり方が債権者たちの気に入り、みな庄吉のことを信用した。そこで庄吉もさかんに金策に励んだ。返済するたびに若干の割引をしてもらえるようになり、半額くらいの金額で全部の借金を返済することができたのだという。
 こうして岡村家の債鬼を追い払った庄吉は芸道に一意専心精進し、明治三十(1897)年には五世延寿太夫となった。その披露のときに発表された青海波そして柏の若葉の新曲は、今でも清元の曲の中で人気のものになっている。お葉の高弟であるお若を妻にし、清元の至芸が一家に集まり、近世における清元興隆の気運を開くことになったのである。
 


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百五十 茶道十六羅漢(下巻7頁)

 私は明治四十五(1912)年の初めから無職自由の境涯にはいり、もっぱら茶事風流に没頭することとなった。
 そのころまでには東京に茶道の古老大家がうち揃い、いたるところで茶煙が上がっていた(注・茶道が興隆し茶会が開かれていた)。
 例の和敬会という順会(注・会員宅で順番に開く会)なども、十六人の定員が満員の盛況ぶりだったので十六羅漢会の異名で呼ばれていたが、その会員の顔ぶれは次のとおりであった。(注・90に関連記事あり)

  東久世通禧伯爵 竹亭(注・みちとみ)
  久松勝成伯爵  忍叟
  松浦 厚伯爵  鸞洲(注・まつら)
  石黒忠悳子爵  况翁(注・ただのり)
  伊藤雋吉男爵  宋幽(注・しゅんきち)
  三井八郎次郎男爵 松籟(注・三井南家高弘)
  三井高保男爵  華精
  益田 孝男爵  観濤(注・かんとう)
  安田善次郎氏  松翁
  馬越恭平氏   化生
  瓜生 震氏   百里
  青地幾次郎氏  湛海
  吉田丹左衛門氏 楓軒
  竹内専之助氏  寒翠
  金澤三右衛門氏 蒼夫
  高橋義雄    箒庵

 十六羅漢は上の通りであったが、一月四日(注・上に同じく明治45年)に東久世通禧伯爵が八十歳で薨去されたためひとりの欠員が生じた。その補充として、加藤正義欽堂氏に白羽の矢が立ち、十六羅漢が再び満員になったことは、東都の茶道界のためにまことに喜ばしいことだった。

 ところで、これらの茶人のことを十六羅漢と言い始めたのは、例の富永冬樹氏(注・84「富永の毒舌」を参照のこと)だった。和敬会の連中は、どれを見ても羅漢面だねと言ったのが、ついに異名になったのである。
 これより以前、氏は本所の横網に新居を造り、吉野吉水院の書院写しの茶室を作った。その新築開きに十六人の客を招き、これを十六羅漢に見立てた。大倉喜八郎男爵に鶴彦尊者、益田克徳氏に克徳尊者、また私には高義尊者などという席札をつけて、托鉢坊主の鉄鉢形応量器(注・てっぱつがたおうりょうき。飯鉢のこと)で、客にインド式の斎食(注・さいじき。食事)を配膳されたことを思うと、富永氏は、よくよく羅漢に因縁のある人なのだろう。
 このときに招待された人たちは、富永の新築開きとあっては、例の口の悪さに合わないためには大いに奮発しなくてはならないと、いずれも喜捨物(注・お布施)をはずんだ。すると益田英作(注・益田孝、益田克徳の末弟)氏がそれを見逃さず、こっそりと新築費用と喜捨物の評価計算に着手したところ、喜捨物のほうが、はるかに新築費用を越えていたという結果が出た。そのとき、飄逸なる克徳尊者は突然立ち上がって一座を見回し、諸君、ひとつできましたから、ご批評願いますと言って、

    「主人は欲阿弥陀(横網だ)、お客は皆尊者(損じゃ)」

と披露したので、さすがの富永氏も例の気焔はどこへやら、ただ微苦笑を洩らすのみだった。
 十六羅漢について、このような因縁のある富永氏が、和敬会員に対して十六羅漢の称号をつけたことはまことに不思議な巡り合わせなので、ここでその由来を記録しておく次第である。


久世通禧伯(下巻9頁)

 東久世通禧伯爵は、和敬会十六羅漢の白眉(注・特別にすぐれた存在)であった。伯爵は維新前、幕府の圧迫を逃れて京都から立ち退かれた、かの七卿の一人で、その勤王尽国の事跡は歴史にはっきりと刻まれ(原文「炳焉(へいえん)として青史に在り」)、余技である詩歌、管弦、書道などでも、またそれぞれの特長を持っておられた。
 茶人としての伯爵は、まことに真率洒脱(注・飾り気がなく洗練された)で、器具の品評をするでもなく、その組み合わせを研究するでもなく、淡々として湯を呑むがごとくに、物にこだわらない流儀だった。
 しかし生け花には深くこだわりを持ち、自邸に各種の植物を植えた。椿などは、ほとんど十数種類に及んだそうだ。
 明治四十一(1907)年ごろから、伯爵はしばしば私の寸松庵(注・高橋の一番町邸にあった茶室)におみえになったが、たいてい静淑(注・物静かでしとやかな)で上品な伯爵夫人を同伴された。
 その客ぶりは、いたって平民的で、談笑中には時々、諧謔(注・気のきいた冗談)などもまじえられた。寸松庵の露地や庵室が、いかにも質樸(注・素朴)で古雅(注・みやびやかな)なので、自分が京都にいるような心地がするといって、とても愛されたのであった。
 またあるときには、七卿が西に下ったのち太宰府にあって、しばらくさすらいの身となられた時のことに話が及ぶこともあった。初めて会ったときから旧知のようで、宮中(原文「雲井」)に近い身分の方に対座しているように感じられなかったことは、非常に奥ゆかしい限りであった。
 公卿から華族になった方には、もともと、案外率直で質素で平民的な態度の人が多いが、伯爵などは、そのなかでももっともその気風を代表する一人であろう。その痩せぎすで、あまり風采のあがらない中に、なんとなく深い印象を秘めていた。
 伯爵の薨去後に、たまたま寸松庵に出入りすると、伯爵が悠揚として(注・ゆったりと)正座されている面影が、ありあと眼前に現れるような心地がしたものだ。私は追憶のあまりに次の二首を口ずさんだ。

    とはれにし葎の宿に思出の 種をのこして君逝きぬはや

    国の為心づくしの物がたり 聞きしも今は昔なりけり



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百十四  茶人失策談 中(上巻393頁)


 茶室の中では、主客のあいだで思いがけない馬鹿げたことが起こり、頤を解く(注・おとがいをとく=あごがはずれるほど大笑いをする)ことも少なくない。どのような大家であっても、猿が木から落ちるような失敗がない、ということはない。そうしたことが世間に知らされたとしても、別段、人格に傷がつくわけでもないし、聞いた人は哄笑し当人は苦笑する程度の一座の座興になるに過ぎないので、ときどきはこうしたことを書いてみようと思うが、一度にやろうとするとあまりに煩雑なので、ここではまず、明治三十五(1902)年から四十四(1911)年までの十年間のエピソードから、なるべくおもしろいものをすっぱ抜くことにしよう。



 馬越化生翁の口禍


 明治三十八(1905)年、馬越化生が還暦を迎えた祝賀茶会が、そのころ根岸の御行の松(注・おぎょうのまつ)のかたわらにあった流水庵で開かれた。そのときには、東方朔(注・前漢の政治家)の長寿にあやかり、交趾桃の香合使われた。

 その香合がすこぶる名品なため、ある来客が翁にその伝来を尋ねた。すると翁は、「これは以前に益田鈍翁から贈られたものだが、いままで使用する機会がなく、今日はじめて取り出したのである」と言われた。座客一同は大いに驚き、「このような名品をむざむざとあなたに贈られた鈍翁の心中は、はたしてどのようなものだったのでしょう、さぞかし名残惜しかったでありましょう」と言い合った。翁は得意さのあまり、つい口をすべらし、「いやいや今の鈍翁ならばそうかもしれないが、そのころは彼もまだ『コレでゲスからネ』」と左手で両目をかくす仕種をした。
 それを面白半分に鈍翁に密告したものがあり、鈍翁は胸に一物(注・秘めたる計略)を持った。そして、これは聞き捨てならない化生翁の一言ではないか、あの香合が貴重なものであることを知らなかったはずがなかろう。無二の親友に対し、粗略な贈り物もできないからと、あのような名品を譲り渡したのに、その好意をくみ取らず、さような放言をするとはもってのほかである。今後茶道上の交際は、断然お断りしなければならないと馬越に言い送った。馬越翁もこれには困ったが、さりとて、どうすることもできず、一年あまりをむなしく過ごした。
 碁敵、ならぬ茶敵とでも言おうか、憎さは憎し、しかし会いたし、ということで、馬越翁はある機会をとらえて和解を試み、失言の代わりに、鈍翁に何なりとも一品を譲りたいと申し込んだ。
 すると鈍翁は、待っていました、とばかりに、それでは相当な代価を払うことになるが、当方の望む一品をお譲り受け申す、もともと口の罪から起きたことだから、口のある品物がふさわしいだろう、ということで、馬越家の有名な粉引の徳利を、と所望された。馬越翁も、さては一本取られたか、と一時は驚いたが、茶人の一言は金鉄のごとしであると、とうとう承知して、ふたりはふたたび無二の茶友となるに至ったのである。



 小倉色紙の用法


 小倉色紙が天下の重宝として、千鳥の香炉や菊一文字の短刀とともにお家騒動のたねになるようになってからというもの、茶人のあいだでもそれを愛でる気運が高まった。
 昔から、この色紙のじょうずな使い方により非常な名誉を得た者もある。利休がある茶会に招かれたとき、まだ待合にいたときに相客との会話がその日の掛物のことになった。「今日の露地の風情が、落ち葉をそのままにしてあるところを見ると、前から聞き及んでいた小倉色紙の八重葎(注・やえむぐら)の歌を掛けられるのではなかろうか」と言われたが、入席してみると案の定そうであったそうだ。

 明治三十八、九(19056)年ごろ、故加藤正義翁は元園町の半蔵庵の茶会で、小倉色紙の一種であるといわれる類色紙を使われた。この歌は、例の有名な、


  八重葎しげれる宿のさびしさに 人こそ見えね秋は来にけり


であったから、一座の賞玩もすさまじかった。さて中立のときに露地に出て、茶室の屋根を見上げると、ピカピカとした銅瓦で葺かれていたので、これでは八重葎が茂ることもできないだろうにとささやく者があった。すると客のひとりが、紅塵十丈(注・ほこりっぽい都会、わずらわしい世俗)の市中を野原に見立て、銅瓦葺きの茶室をあばら家と思わせるのが、主人の趣向である小倉色紙の功徳も、このあたりにあるのではないかと弁護した。一同は顔を見合わせ「なるほど」とは言ってみたものの、果たして心から納得したかどうかはさだかではない。


 完全無欠居士


 加藤翁についてはもうひとつの有名なエピソードがある。翁の茶器の好みはきわめて潔癖で、疵物(注・きずもの)は一切買わないという主義だった。青磁、祥瑞、仁清といった綺麗物を好み、所持品のほとんどが完全無欠であったことから、ある人が翁に対して「完全無欠居士」の尊称を奉った。
 その後翁が茶会を催したとき、なにがあったのか、左の親指を怪我し、白布で包帯をしておられた。それを見た茶客の中のひとりが茶目っ気を出し、


   完全無欠ただ指にきず


と一句、口ずさんだ。これがいよいよ居士の尊称を裏書きするものだとして、この話は当時の茶人のあいだに広く伝わっていったものだった。


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百十三  茶人失敗談 上(上巻389頁)


 私は明治二十五(1892)年、初めての茶室入りを果たした。それから昭和七(1932)年の今日までの四十一年間つねに茶室の中の人となっているので、あまりに慣れ過ぎて最初のような好奇心も湧かなくなりがちだ。だが明治三十六、七(19034)年ごろは、私が自分でも茶事を初めてから五、六年というころで非常に気分が乗っていたし、当時は茶友のなかにも一風変わり者が多かったから後日の語り草になるようなことがよく起こった。
 茶人の失敗というものは、だいたいにおいて茶礼中のきわめてまじめなときに起こってしまうので、その人物と場面を想像するだけで、なんともいえないおかし味が出てくる。この「箒のあと」でも、おりおり、茶室で起きた珍事を披露していくことにしよう。



 感服七種 


 茶人というものは人の前では物を褒め、蔭に回って悪く言うものだと相場が決まっているようだ。、褒められて喜ばないということはない。ゆえに、茶客としての第一の心得は、物に感服するということである。
 その感服の秘訣は、対象物に応じて、またその場面にふさわしく、その日の主人が、いかにもそのとおりであるとみずから感服してしまうようやり方でなければならない。これには、七種の方法があると言われている。私の経験から、ためしにこれを分類してみよう。
 第一は、唸り声をあげて感服すること。
 第二は、しばらく目をつぶって感服すること。
 第三は、顔を見つめて無言で感服すること。

 第四は、ヘッヘッヘーとお世辞笑いをして感服すること。
 第五は、フ―フーと鼻息を荒くして感服すること。
 第六は、尻餅をつきグニャグニャになって感服すること。
 第七は、品物を頭上まで差し上げて感服すること。
これが、いわゆる「感服七種」である。

 さてこの七種の感服の方法を、随時随処(注・いつでもどこでも)活用することのできる極意皆伝の腕前を持っていたのは、今はすでに故人となってしまったが、明治三十年代に茶人仲間のあいだで盛んに活躍した浅田正文氏である。馬越化生恭平翁もまた感服上手のひとりで、浅田氏の生前は、ふたりは東都感服係の両大関といわれたほどだった。
 浅田氏には、とくに感服に関するエピソードが多かったようだ。氏は社交辞令が非常にうまかった。それほどのことでもないのに全身を揺り動かしてカラカラと感服の高笑いを上げる声は遠く茶室の水屋にまでも突き抜けてくるので、たいての主人はこれを立ち聞きして、まずほくそ笑まざるを得ない。

 しかし時として、この感服が度を越して失敗を招いた例がないでもない。あるとき浅田氏は根岸の吉田楓軒丹左衛門氏の茶会に赴き、感服上手であるからというので、みなに推されて一座の正客になったことがあった。ここ一番と感服ぶりを発揮して、さていよいよ香合拝見となった。染付形物香合松川菱を何度か眺めて、何度か感服し、一同も見終わったあとに正客から主人に返す段になった。浅田氏は開き直って威儀を正し(注・重々しく姿勢を整え)、これは極めて珍しく、かつうるわしく、同じ形物のなかでも比類ない稀な作行きであると縷々述べ立てて、頭を畳にすりつけていた。だが、楓軒はせっかちな性分で、寡黙なばかりでなく当時は茶事についても初心者だったから、正客の挨拶には委細構わず、香合を持ってはやばやと勝手のほうにひっこんでしまった。
 一方の浅田氏は、十分に長口上を続けておもむろに頭をもたげてみると、当の相手はすでに立ち去って、主人の座にはただ炉の中の釜だけが残っていたので、さすがの感服家もあっけに取られてしまったということだ。そのようすに、ある狂歌の作者が悪口に作った、


 ほととぎす啼きつるあとにあきれたる 後徳大寺の有明の顔(注・後徳大寺左大臣は、ほととぎす…の本歌の作者)


も思い出されて、一同ドッと噴き出すことになった。これは浅田の感服損として、当時の茶人のあいだでは有名な笑い話であった。



 褒めて叱られる


 明治三十五、六(19023)ごろは、薩摩の伊集院兼常翁が赤星弥之助氏の後見役になって、茶人のあいだで大いに気勢を張っていた。私の寸松庵に茶客として訪れたある日のこと、翁が正客となり、亡くなった大元こと伊丹元蔵が末客おつめをつとめ、最初のうちはすこぶる意気投合していた。
 ところが翁が宗旦の茶杓を鑑定し、みごとに言い当てたとき、大元はここぞとばかりに感服の舌鼓を打ち、「さてさて、ご鑑定(注・鑑識眼)がお上がりになりましたナ」と言った。そのとたん伊集院翁は予想外の不機嫌となり、鑑定が上ったとはなにごとぞ、おれは自ら茶杓をつくって、大家の茶杓にどのような癖があるかは、十分にこれを会得している。四十年来斯道(注・この道)に苦労したこの拙者に、今さら、上がるの下がるのなどと、貴公の批判を受くべきやとの鋭い言葉を発した。予想がはずれた大元は、小さくなって縮み上がり、褒めて叱られるとは、感服もなかなかむつかしいものだと、他日、人にこぼしていたそうだ。


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百六  道具争奪戦の勝敗(下)(上巻366頁)

   
前項(注・105を参照のこと)で、井上世外侯爵が、福地桜痴の考えた策略で益田鈍翁の牧谿筆の蜆子図を巻き上げようとしてまんまと失敗したこと、また馬越化生翁所蔵の赤絵徳利を徴発しようとしてとうとう目的を果たせなかったことを記述した。これらは井上侯爵の完全な敗戦である。一方、今度は反対に侯爵の作戦がうまくいって、鈍翁、化生翁が敗者になって指をくわえてその奇勝をうらやましがることになったエピソードがある。
 それは明治三十四、五(19012)年ごろのことだった。深川木場の鹿島清左衛門家で、同族の誰かが三井銀行から借金した手形の保証に立っていたため、その支払いのために道具を処分する必要が生じた。そこで人を介して馬越化生翁に相談したところ、化生翁はかねてより鹿島が道具持ちであることを知っていたので、山澄力蔵(注・道具商)を、鹿島のところにやって下調べをさせた。すると、道具の点数が非常に多いだけでなく伝家の名品が少なからずある。そのうえ、質草に取ってそのまま流れ込んだ大名道具も少なくないことがわかった。

 やがて山澄による道具の調査が終わりその評価が定まったところで、化生翁はまずこの宝の山に乗り込むことにした。そして、なかでもいちばんたくさんあった宋、元時代の書幅をはじめとして、名物の勢至茶入(注・遠州蔵帳に掲載)や釘彫伊羅保茶碗などという、かずかずの名器を獲得した。
 ところで、そのころ同人のなかで馬越翁が桜川宋元の異名で呼ばれていたのは、翁が芝桜川町に住み、しかも鹿島家伝来の宋元の名幅を多数手に入れたからであった。しかし道具があまりに多すぎてひとりでは買いきれず、かつ自分には不向きなものもあったので、道具数寄仲間の益田鈍翁に耳打ちをし、山澄を手引きにして鈍翁を鹿島家に乗り込ませた。するとこれまた数々の名品を選んで手に入れることになり、両翁とも道具運に恵まれた幸運児になったと有頂天になっていた。
 しかし鹿島家には先代からの申し伝えで、名器のなかの名器と言われる三十六点を非売品としこれには初めから手を触れさせぬことになっていたため、両翁ともこれはいかんともしがたく、高嶺の花だと眺めるだけでこれを摘むことはなかったのである。
 そんなときに、横から飛び込んでその非売品をひとつかみにして去った者があった。両翁はトンビに油揚げをさらわれたように開いた口がふさがらず、山澄までもが骨折り損のくたびれもうけに終わってしまったのである。その大トンビはほかでもない、井上侯爵なのであった。

 それはこうだ。益田、馬越の両翁は鹿島家の宝蔵に飛び込み、たらふく名品を頬張ったが、最初から非売品と決定していた名物の三十六点についてはどうすることもできず、ただ舌なめずりするだけであった。でも、それ以外で自分が欲しかったものはすでに手に入れたということで、もう秘密にしておく必要もなく、化生翁はある日井上侯爵を訪問し、のろけまじりにことの次第を話したのである。
 侯爵はその話を何気なく聞いていたが、さて、鹿島家の道具処分に関して、ほかにもうひとり有力者がいることを知って、その人を案内人にして、化生翁らに気づかれないように、みずからも鹿島家に乗り込んだのである。
 井上侯爵の機敏なことといったら、あの賤ケ岳の合戦で豊臣秀吉が、佐久間盛政がまだ陣地を引き払っていないのを聞いて小躍りして進撃したのと同じであった。侯爵は鹿島の主人に面会し、家政整理の状況から不要道具の売り払いの事情までを尋ね根本的な家政立て直しを勧告したものとみえる。とにかく主人も承服して、例の非売品のなかから若干を手放そうと申し出たのである。

 つまり、益田、馬越の両翁が高嶺の花と眺めた唐代の絵画の最高の絶品である、東山御物の徽宗皇帝筆桃鳩図や、大名物木津屋肩衝茶入や、瀬戸伯庵茶碗、名物包丁正宗など、稀代の名品がたちまちのうちに内田山に移動して、侯爵が手ずから活ける花となったのである。これらは侯爵の従来のコレクションに加えられて、ここに一段と光彩を添えることになり、侯爵を一躍天下の大コレクターの巨頭にならしめたのである。
 この非売品の中には夏珪(注・南宋の画家)の山水堅幅があったそうで、あまりに名品が多かったために井上侯爵が見逃されたということを聞き、私もすこしばかりちょっかいを出してみたが、このとき藤田伝三郎男爵が井上侯爵の許可を得て、四千円内外で買収されたとのことがわかったので、私は遠くから匂いを嗅ぐだけで引き下がることになった。この幅は後年、藤田家道具入札で十余万円の高値を呼んだものである。
 とにかく、この一戦においては、井上侯爵に作戦の裏をかかれて、益田も馬越も顔色なかった。惜敗どころか、まったくの惨敗だったといえよう。道具争奪戦における三雄の一勝一敗で、今振り返ってみると非常に興味深いエピソードだと思う。  


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百五  道具争奪戦の勝敗(上)(上巻362頁)

 道具鑑賞家というものはひとりで道具を楽しむだけでは満足せず、同好者を集めてこれを展示したり、その批評をきいたりして自分の思うつぼにはまったときには、隆鼻三千丈(注・鼻たかだか)でたちまち大得意となるのは昔も今も変わらない。
 だがこの鑑賞家が、たまに争奪戦を演じることがある。たとえば、某家から某品を譲り受けようと内々に手を回し、抜け駆けの功名をなそうとすることがある。そういうときに他に競争者がいると、親しい仲間同士で密約して連合軍を組織する場合もある。
 このような興味をそそる争奪戦のエピソードは昔から数限りなくあるが、太閤秀吉(原文「豊太閤」)が神屋宗湛の博多文琳現在、黒田長成侯爵所蔵】(注・現在は福岡市美術館蔵)を彼から奪おうとした策略計画は、そのもっとも有名なものである。
 それは天正十五(1587)年の太閤秀吉の九州征伐のときのことだった。博多の神屋宗湛の茶会に臨み、宗湛秘蔵の博多文琳を奪おうと、随行の石田三成に言い含めて一計を案じた。急に帰ると申し出るから、宗湛が玄関に送りに出た隙をうかがって三成が博多文琳を懐中におさめて立ち去る、という策略だった。

 太閤は打ち合わせどおりに茶室から立って玄関に向かった。そして三成が来るのを今か今かと待っていたが、すんなり出てこないので、しきりに気にして待ちあぐんでいた。その様子を見て宗湛は、懐の中に入れた博多文琳を見せびらかし殿下の待ち受けておいでなのは、これではございませんかと言ったので、どうやら、この自分をもってしても奪うことはできないようだと太閤は笑って立ち去られたという話である。
 明治の世になり、不思議なことにこれに酷似した出来事があった。ある日、井上世外侯爵が福地桜痴、小室信夫らとともに品川御殿山の益田鈍翁の茶会に臨んだ。床の間に掛けられていた一軸を見ると、それは牧谿筆の蜆子の図だった。これは最近まで福地桜痴の所有だったものだが、彼が金に窮して、残念ながら鈍翁に譲り渡したものだった。その日これを見た桜痴はいまいましさのあまり、なんでもいいから一計をめぐらして持ち主の鼻をあかしてやろうと思った。そこで、内々に侯爵と小室と示し合わせ、侯爵が帰るときをねらってこの掛物を取り外し、その馬車に載せて持ち帰らせてしまおうとした。

 鈍翁は、桜痴の様子がふつうでないのではやくも計略に気づき、侯爵が席を立つと同時に、まず掛物を外して、倉庫の奥にしまってしまった。さて玄関に駆けつけてみると、桜痴は途中で引き返し、いそいで床の間の前まで行ったが掛物は影も形もない。さては小室が気を利かして自分より先に持ち去ったのかと急いで玄関に行ってみると、井上侯爵は馬車の中から覗き見るように福地、小室を待ち構えている。そこでおもむろに鈍翁が馬車のそばに進み出て、閣下の待ち受けられている品物は、先刻土蔵に納めて、今日は間に合いませんので、とくとくお帰りなされませと言った。侯爵は何度かため息を吐き、益田はさすがに素早い奴だと感心されたとか。福地の策略も無念、とうとう失敗に終わったのであった。
 井上侯爵に関する道具談には、もうひとつよく似たエピソードがある。明治四十(1907)年前後、侯爵が内田山の八窓庵でしばしば茶会を催されていたころのことである。今度は赤絵揃いで茶会を催そうということで、向付、肴鉢、水指、建水、花入、小皿、香合などの一切を赤絵だけで組み合わせた。ところが、ただひとつ徳利だけが不足していた。こんなに赤絵が揃ったのに徳利がないのは残念であると、いろいろ出入りの道具屋などに聞いているうちに、馬越化生翁が天下一品の赤絵徳利を所持していることを告げた人がいた。侯爵は非常に喜んでさっそく化生翁を呼びつけ、赤絵揃いの茶会の計画を話した。そして、こうなったからには君の徳利を譲ってくれ、もし譲ることができないなら借用させてもらうだけで差し支えない、と談じ込んだ。

 化生翁の当惑は、ひとかたならなかった。ほかでもない、その徳利は、形といい模様といい寸分も非の打ちどころがない品だったからである。白地の部分は玉のようで、赤絵は花のよう。しかも口縁にすこしゆがんだところがあって、いわゆる綺麗さびの最上の絶品なのである。たとえ世外侯爵の不興を買い、茶道上での絶交になったとしても、これを手放すわけにはいかない。そう決心の腹を決め、この一品は旧持ち主とのあいだで、他に譲渡すべからず、という約束もあり、門外不出としているので、どうか切にご勘弁くださいと、苦しい断り状を出した。化生翁は当分のあいだ、内田山にイタチの道をきめこんで(注・交信を絶つこと)、一年ばかりたって、このやりとりが侯爵の頭から消えた頃から、また出入りするようになったのである。
 それ以来、化生翁は茶会でこの徳利を取り出すたびに、必ず当時の危機一髪状況の演説をして、あやうく鰐魚(注・ワニ)の口をのがれましたと一笑したのであった。私たちも、この徳利のためなら、いかにも、ごもっとも千万と、相づちを打つのを常としたものであ


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九十 美術鑑賞熱(上巻306頁)

 日清戦争の結果、世界が日本を大国だと認めたのと同時に、日本人もまた自分たちが大国人になったという気持ちを持つようになった。そしてそれまで劣等感を持っていた自国のあれこれが急にありがたいものに思えてくるようになった。なかでも維新後に瓦礫同様に扱われた道具(注・骨董)や、二束三文で売買された書画に対して、一時に鑑賞熱が高まったことはもっとも顕著なあらわれだった。このことについて少し考えてみたい。
 維新の変動は日本人の心を急速にかきみだした。ひとつには社会の不安定のために、もうひとつには古いものを破壊したために、ものごとを平静な気持ちで判断することができなくなってしまった。
 昨日までは、お家の大切な宝だった「小倉色紙」も「千鳥の香炉」も、猫に小判だかなんだかのように顧みる者がなくなってしまった。
 そのようなときに、アメリカからフェノロサらがやってきて日本の美術品が非常に優秀であると説き、その当時二束三文で売買されていた数々の書画骨董を買い集め、ボストンその他の美術館に送り始めていた。
 ここで日本人もはじめて目が覚め、明治十一、二(18789)年ごろ、この世界における先覚者と言われていた佐野常民のち伯爵、塩田真、下條正雄(注・桂谷)の諸氏が、「龍池会」という書画鑑賞会を設立した。そして折にふれて展覧会を開催し、共鳴する人々を集めていった。
 その努力が実り、だんだん世間で美術の鑑賞熱が高まっていった。そこに、ちょうど日清戦争後の景気拡大の勢いが加わり、いろいろなところで美術的な会合が開催されるようになっていった。なかでも一番有力だったのが「大師会」である。
 そもそも大師会は、明治二十四、五(18912)年ごろから書画、茶器を購入しはじめた益田孝男爵が、同二十八(1895)年ごろに狩野探幽が所持していた弘法大師の真蹟の座銘断片十六字の一巻を得て、翌年の三月二十一日大師の命日に、御殿山の自邸においてその披露の会を催したのが発端である。
 それから三十年あまり、この回は連綿として継続し、最初は御殿山の益田邸でのみ開催されていたが、近年では音羽護国寺に場所を移している。毎年四月にその座右銘を本尊として、和漢の仏画、古書画など、だいたい上代の美術品そろえて陳列披露し、全国の愛好家の会員を集めることになった。このため、この会がいろいろな方面の美術鑑賞熱を喚起することになり、同時に、ひとびとの鑑識眼を向上させることになった。そうした効果については決して忘れることはできないのである。

 このころに、また別に「天狗会」という会も発足した。これは近藤廉平、加藤正義、赤星弥之助、朝吹英二、馬越恭平、浅田正文らの同人が、時に茶会的に、時に宴会的に、各家で順番に持ち回りで会を催したのものだった。名器、名幅を陳列して、集まってくる大天狗、小天狗どもを驚かそうという魂胆で、趣向もさまざまだった。
 近藤廉平男爵が牛込の佐内坂邸で開いた会では、鞍馬山というのが大まかな趣向だった。座敷の中に杉の大木でセットを作り、つぎつぎにやってくる大小の天狗が、あぜんとして目を見張っているところに、木の葉天狗の装いできちんと化粧をした者が目八分の高さにお膳を掲げてお給仕に出てきたので、一同、高い鼻を砕かれて、これはこれは、と閉口するばかりだった。
 また明治二十九(1896)年ごろから「二二会」という会も発足した。これは、会員の各自がすこしずつ書画や骨董を持ち寄り入札をする。そして、二番札の者に賞与を与え、最低額の者には罰金を課すというものだった。日本橋区浜町の常磐屋、京橋築地河岸の壽美屋などに会合したのは、鳥尾小太、富永冬樹、馬越恭平、赤星弥之助、加藤正義、近藤廉平、浅田正文、益田英作、朝吹英二の顔ぶれであった。

 私は当時、三井呉服店の理事で、仕事上の関係もあったため毎回これらの会合に出席した。あるときは鳥尾小太子爵が出品した仏画を落札し、たいそうお礼を言われたこともあった。
 このころまでは、道具がまだたくさんあったから、会員がなんの気なしに持ち寄った出品物が、後年におおいに出世して数万円の高なることもあった。
 最初のうちは出品が名品揃いだったが、だんだん品位が落ちてきたので、二二会というのは、もともと二十二日に開かれるのでそういう名前がついたのだが、がらくたの荷に、荷が重なる会だ、などという悪評が出てくるようになり、ついには崩壊することになってしまった。
 さて、茶事方面を見てみよう。当時「和敬会」という会があった。会員を十六人と定め、欠員があると補充するという仕組みになっており、別名を十六羅漢会ともいった。この会の主なメンバーは、松浦詮伯爵、東久世通禧伯爵、石黒忠悳子爵、三井八郎次郎男爵、同高保男爵、益田孝男爵、安田善次郎、加藤正義、吉田丹左衛門、馬越恭平、大住清白の諸氏であった。この会は明治中期から大正初期まで続き、東京の著名な茶人はだいたいこの会に加わっていたため、この会が原動力になり茶道の盛運が促進されることになった。その効果は、じっさいのところ非常に大きなものだった。
 このようにして、美術鑑賞熱が高まっていったが、それにともない美術品が非常に値上がりしていった。その顛末については、また後段で取り上げていきたいと思う。


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八十七   梅若流稽古 (上巻296頁)

 私は、自分が梅若流の謡曲稽古し始めたのがいつだったかということをはっきりとは覚えていなかった。最近別の用があって梅若六郎氏を訪問したついでに、そのことを話してみたところ、六郎氏は、父上、実翁の直筆の門入帳を出して見せてくれた。その記録によると私のは、明治二十八年十月二十八日三井支配人高橋義雄とあった。
 この門入帳を最初から見てみると、明治十三(1880)年に益田孝、三井八郎次郎(注・松籟三井高弘)、十四年に古市公威、鳩山和夫、十六年に団琢磨、十七年に馬越恭平が入門している。それには驚かなかったが、十四年三月二十三日に元老院権大書記官金子堅太郎とあったのが意外だった。
 その後偶然に金子子爵に面会することがありこのことについてきいてみると、子爵は今昔の感にたえないという面持ちで次のようなことを語ってくれた。

 当時は能楽界が悲惨きわまりない窮状を示しており、厩橋の梅若能楽堂の一部を借家にでもしないと家計もまかなえない状態にあったが、「たとえ道端で謡を謡うことになるとしても、能楽堂を手放すことだけは祖先に対して申し訳が立たないという翁の嘆息をきいて同情にたえかね、ひと月にいくらあればよろしいのかと訊くと、三十円で足りるというならばわれわれが門弟になって、それに相応する月謝を提供しようということになった。僕は自宅に来てもらい、ほかの人たちは九段下の玉泉堂を稽古場にして出稽古をしてもらったのだ、ということだった。
  さて私が梅若流の稽古を始めたのは、前述のとおり明治二十八(1895)年からだった。(注・73「謡曲稽古の発端」を参照のこと二十六年の大阪滞在中に宝生流の謡曲と仕舞を習い始め師匠はそのとき大阪にいた名古屋人で、木村治一という六十歳前後の老人であった。この老人はすこぶる美声で相当な能楽の心得があったので、謡曲とともに仕舞も教授していた。

 当時まだ二十代だった、木村の息子の安吉は、以前に宝生九郎の内弟子になり、今の松本長、野口政吉らと同輩であったが、怠け者で師匠のところにいることができず、やがて老父のもとに戻ってきた。私は老父の依頼で安吉を一時三井銀行に採用してやったが、私が大阪を去ったのち今度は東京に舞い戻り、ほどなくして若死にしてしまったという。
 このように私は最初に宝生流を習ったが、明治二十八(1895)年の東京移住後には三井の主家では全員が観世流なので、わたしもさっそく改宗することになった。そのころ神田小川町に住んでいた観世清廉のところに入門した。
 そのころの清廉は三十歳くらいだったであろうか、とてもよい声で、厩橋の梅若舞台にも出演することがあったが、もともと自由気ままな性格で、能役者としての作法を守ることがなく、女房と雑談しながら、ときどき振り向いて謡曲を教授するといった不謹慎さがあった。それで私は二、三度稽古に行き、班女一番を習っただけで、弟子のほうから破門ということにしてしまった。

 そして今度は観世清之のところへ行った。この人はすこししゃがれ声で渋味のある芸風だった。梅若実の婿養子であり、万太郎、六郎がまだ生まれる前には実の片腕となって働いていたそうだ。しかし私が行ったころには梅若家を離れ、元の観世姓に戻っていた。その晩年には謡曲本を発行し、この世界における功労者であったとのことだ。
 私は明治二十八(1895)年に東京に戻ってからは、麹町上二番町四十二番地の、加藤弘之氏の隣りに住んでいたので、三井呉服店に出勤する前に隔日くらいで謡曲の稽古をした。あるとき清之が病気し梅若万三郎と六郎が交代で来てくれることになり、進歩もあまり遅いほうではなかった。
 清景を稽古していたころのある日、その日は万三郎が来宅する番の日で、朝食をとるあいだしばらく座敷で待たせておいたことがあった。そして悠々として行ってみると、なんということか、梅若実翁が師匠の風格を示して正面にどっしりと座っていた。私はおおいに恐縮し、清景の「松門ひとり閉じて年月を送り」というところを稽古してもらった。年老いた盲目の清景が孤独の庵の中でひとりごとを言う場面である。その心境の説明後、発声の練習となった。その教授法が丁寧で、かつ徹底していたためか、それからというもの自身で謡っても、または清景の能を見ても、この一段のところに来ると翁の面影が目に浮かび声がはっきりと耳に聞こえる。これが名人の芸力というものなのだろう。
 私の梅若入門は、前述したとおり明治二十八(1895)年の十月だから、翁が来宅されたのは、たぶんその十二月ごろだったのではないか。それは翁が六十八歳のいまだ壮健なときで、私は三十五歳だった。
 その後私は、謡曲とともに仕舞も稽古し、さらに、猩々をはじめ、花筐、弱法師、三井寺、弦上、百萬、松虫、鉢木、盛久、俊寛、隅田川などの演能を試みた。そのときのことについては、また追って記述することにしたい。
 


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 六十四
道具入札の嚆矢(上巻215頁)

 東京において道具入札売買が始まったのは明治二十五(1892)年のことで、それには私も実は密接なかかわりを持っているのである。それはほかでもない、前記のように私が明治二十四(1891)年から三井銀行内に整理係を設けて、貸金を整理したり担保の品を処分することになったりしたことと関係する。こうしたなかに、堀田瑞松という塗物師が、その地所と家屋、道具類を抵当として六万円を借りているケースがあった。
 その抵当物のなかには、今日三井家の所有になっている三万坪の大崎別邸なども含まれていたが、彼の自作による黒塗の書棚が十数個、また中国の黒檀紫檀枠の織物張交ぜ屏風などの数々の道具類も含まれ、それらを処分することになったのである。
 また第三十三銀行頭取の河村伝衛氏の抵当だった道具の処分にあたり、その一部は、当時、山城河岸にあった堀田瑞松の住宅に陳列して三井内部の人間に売却し、その他多数の茶器は星ヶ岡茶寮において売却することになった。
  そのころ三井に出入りしていた加賀金沢出身の徳田太助という人がいて、兜町の角で鬼の念仏を看板にして薬種の店をやっていたが、この人が道具の売買にも心得があるということでその売却を任せたところ、彼は東京での従来の道具売却の方法だった競売法を使わず、加賀の入札売却法を採用したので、それからこれが東京での道具売却は入札法になったのである。そのときの荷主(注・売却主)には、三井を代表して私がなり、徳田を札元にして入札に当たった。
 このときの道具相場は驚きにたえないほど安かった。田村文琳という有名な名物唐物茶入に対して、岩崎弥之助男爵の注文を受けた小川元蔵が三百円、馬越恭平氏から依頼された山澄力蔵が三百円五銭の入札で、わずか五銭の差で馬越氏に落札した。これは維新後のわが国の道具移動史において、特筆すべき一事件だと言えよう。
 このとき出た道具の数が何百点だったのか記憶しないが、売上高が約四万円前後だったから私はとてももったいないと思い、のちに大阪三井銀行の支店長になったとき、同行の抵当になっていた長田作兵衛家の道具を処分するときには、この時の経験から思いついてそのとき売却することはせず、全部を三井各家に分配することにしたのである。

  こうした経験から私の道具鑑賞眼はおおいに培われ、茶事に対する興味も増して、とうとう病みつきになることになったのである。


東京地面の価格(上巻217頁)

 維新後明治中期にいたるまで、東京市内の地価は驚くほど安かった。維新直後には、高輪の毛利邸が二万坪以上でたったの八百円、明治四年に慶應義塾が買い取った芝三田台の島原藩邸が一万三千坪で五百円あまりであった。
 小石川の水戸藩邸は、維持困難というのでみずからすすんで政府に献納したなどというあきれるような話や、明治十年前後に馬越恭平氏が本郷弥生町の宅地八万坪を坪一円で政府から払い下げられたが、ほどなくして銘を龍田という柿のヘタ茶碗の購入資金に困り、土地をほとんど原価でほかの人に譲り、のちにその地所が坪五十円に値上がりしたときに、この茶碗は四百万円の身代わりだと言って披露したなどという奇談もある。
 番町あたりの宅地はだいたい千坪で二百五十円くらいだったので、政府の高官たちは月給の余りで買い入れ、後年の財産になった場合が少なくない。
 私が三井銀行内に貸金整理係を設け、抵当流れの地所を処分しつつあった明治二十五、六(18923)年ごろは、地価も非常に高騰して昔のような安さではなかったとはいえ、まだまだ高の知れたものだった。現在都新聞などがある五千坪のひとまとまりの土地は、小野金六氏が経営していた東京割引銀行が持て余していたのを、私が三井銀行に持ち込み一坪八円で買い取らせたものだ。
 またそのころ政府が、丸の内の土地十万坪を、一坪十六円で払い下げることになった。私は三井がこれを引き受けるかどうか三井銀行の幹部会にはかったことがあったが、同行は当時官金返却に専念している際中で中上川氏はまったく賛成しなかった。
 これを買収したのは三菱だったが、ここで思い出されることがある。明治二十二(1889)年に私がロンドンに滞在中のこと、長崎造船所建設の下調べのためにイギリスに来ていた荘田平五郎氏をサヴォイ・ホテルに訪問したことがある。そのときに、イギリスの貴族が年利2パーセントの利回りにもならないロンドンの土地をひとりで多数所有しているのは経済上の利害から見てどのように説明されるのだろうか、という話をしたとき、荘田氏は、富豪の財産はなるべく種類を多くして、ひとつのものに集中させないほうが安全だ、土地は利回りは小さいが財産品目として非常に大切なものである、と言っておられた。三菱が丸の内の土地を得たことは、堅実さで知られる弥之助男爵の考えではあったろうが、当時洋行帰りの荘田氏の提案の力も大きかったのではないかと思う。


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 三十四 明治十年代の新橋(下)(上巻109頁)
 
  明治十年代の新橋は芸妓の数も非常に少なかったし待合の料理も粗末なもので、今日とはくらべものにならない。東京の料理屋といえば、昔のなごりで
山谷の八百善、浜町の常盤屋などの名前が挙がり、新橋方面にはこれと肩を並べるものはなかったが、客層はだいたいが知識階級で、その遊蕩ぶりにもなんとなく雅趣があり後日の語り草になるようなことも多かった。

 そのような噂のタネになるのはまず朝吹君で、そのころお里というかわいい子(原文「婀娜者」)にぞっこん入れ込んでいたのに、そのお里がいつのまにか別の愛人のもとに走ったという事件が発生した。そのとき、萩の本の阿仁丸君は失望落胆のあまり、
  
  おさと
お砂糖なくてお萩あだ名やい焼いて悔い食い


と吐き出した
が、当時、これはうまいと評判になった。(注・「お萩」、「阿仁丸」というあだ名については、
25を参照のこと)
 もともと阿仁丸君は世話ずきで非常に親切だったので、廓の金には困っても親しい友人に対してはいつでも助け船の船頭役をつとめる性分だった。なかでもいちばんおもしろかったのは、長崎出身の秀才で美青年の笠野吉次郎氏が、阿仁丸君とは反対に美男なるがゆえにちょくちょく女難の祟りをうけ、夫婦の契りからも間もない阿久里という美人を振って、朝蝶という新愛人を作ったときのことだった。阿久里は激怒し、とうとう別れ話になった。そのときに、阿仁丸、犬養の両人が仲裁役になり、手切れ金の話し合いになった。笠野からは二百円を出させ、阿久里には半分の百円を渡した。残りの百円は小さなブリキ製の金庫にいれて、笠野がいないときに阿仁丸みずから笠野夫人に面会し、「この金庫には僕と犬養とご主人の三人の身の上にかかわる秘密書類がはいっていて、僕らの家に置いておけず、げんをかついでご主人にも知らせずに奥さんにお預けする次第なので、どうか秘密を守って保管してほしい、しかし後日、ご主人の身の上に何か困ったことがおきたとき、このなかの書類が物を言うから、そのときはじめてご主人に打ち明けてこの玉手箱を開けるように」と言い置き立ち去った。さてその後ほどなく、遊蕩の報いがめぐりめぐって笠野が困り果てていたときに、夫人がこのことを思い出して、朝吹さんから預かった秘密箱は、まさかのときに開けるように言われていたので今あけてみましょうと言って箱をあけてみると、なんと当時では大金だった百円札が目の前に現れたので、夫婦は喜びに喜び深い友情に感涙を流したという悲劇とも喜劇ともつかぬ話である。
 このころの新橋花月楼は平岡広高が経営者で、年が若いうえに自分自身も道楽者でいつも貧乏神にとりつかれていたから、妻のお蝶にも新橋で二度の勤めをさせるということがあった。しかし、女房がいなくては茶屋の営業も成り立たないだろうと阿仁丸君が同情し、それに馬越、犬養も同調して、とうとうお蝶をもとの花月楼に返らせたことがあった。その日、店先から大声で、「お蝶はおるか、モロ高はおるか」と呼びつつ飛び込んできたのが阿仁丸君だった。これは例のそそっかしやで、平岡の名の広高を、モロ高と間違えていたのである。それが悪友のあいだで大評判になり、このときから花月楼主人は、ヒロ高拾ったかモロ高たか】(注・貰ったか)と呼ぶようになったというおかしな話もある。
 また阿仁丸君が自分の貧乏もかえりみず道楽仲間を援助するので、悪徳新聞記者がそれにつけこみ、朝吹は貿易商会(注・25を参照のこと)の多額の金を隠匿しているのだろうと恐喝し、口止め金を出せと言って押しかけてきたとき、商会の荒川新十郎氏が憤慨して抗弁しようとしたところ、阿仁丸君はそれを制止し、君らは考えがまだ青臭い、僕が金をかくしていると言われれば、人も安心して金を貸してくれるから、ここは黙って逆に宣伝してもらったほうがいい、と平然として、いっこうに取り合わなかったそうだ。
 そのころは今日とは違い、花柳社会に出入りする者のなかには脱線者も多かったので数々の奇談が残っているが、そういうことを思い出すとなんとなく昔が恋しくなるような心地もする。

 

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 二十六  粗忽者の隊長(上巻84頁)

  朝吹英二の粗忽(注・おっちょこちょい)ぶりは、私が初めて出会った明治十五(1882)年にもすでに見えていたが、のちのちまでやわらぐことはなく、いつも逸話の種をまきちらしていた。なかでも横浜の貿易商会時代に道楽者の両雄だった馬越恭平氏を日本橋茅場町の三井物産会社に訪問した時の話がおもしろい。二階の座敷でしばらく座っているとき、なんとなく尻のあたりが痛いと言い出して振り返ってみると、それがなんと下駄をはいたまま座っていたという。いくら懇意の仲とはいえ、これには朝吹氏も赤面して言葉が出なかったそうだ。
  また貿易商会にいたころのことだったが、眼鏡をなくしたといって給仕(注・雑用係)に探させ、いつまでたっても見つからないので激しく叱りつけたとたん、給仕が「お眼鏡は貴方のお手に持っていらっしゃいます」と気づいて言ったので、「それならなぜ早くそれを知らせぬか」と叱りつけたというおかしな話もある。
 またあるときは、東京帝大の舎監(注・寄宿舎の監督者)をしていた清水彦五郎氏を小石川の私邸に訪問したとき、取次の女中にきくと、主人はただいま留守だがもうすぐ帰宅するはずだというので、ではごめん、と座敷に上がり、真夏だったので丸裸になり、うちわや氷水を持ってこいと横柄に注文するので、女中は主人とはさぞかし親しい仲に違いないと思い、煙に巻かれたような気持ちで言われるままにもてなしていたのだそうだ。ところが朝吹氏が裸のままで大の字になっているところへこの家の夫人が出てきてばかにていねいに挨拶をする。その様子がどうもおかしいと思い、朝吹氏が、こちらは清水さんのお宅ですね、と尋ねると、夫人は微笑しながら「いや清水さんならばここから五軒目のお宅です」と言われたので、氏は脱ぎ捨てた着物をかかえて一目散に表に飛び出したという曾我廼家(注・曾我廼家五郎などの喜劇役者)はだしの珍談もあるらしい。
  またもっともふるっているのは次の話だ。朝吹氏の留守中に、氏のある友人がその転居先を知らせにきて、牛込の何番地と書いた名刺を置いていった。その後二、三日して、朝吹氏がその友人を訪ねようと朝早く人力車に乗り、牛込だぞ、と言い渡した。車夫は牛込に着くと、大きな門構えの屋敷にはいり玄関前で梶棒をおろした。朝吹氏は取次の女中に名刺を渡し、かねてからの親しいあいだがらなので遠慮もせずに応接室に上がり込んでいた。そこへ、寝ているところを起こされたその家の主人が、顔も洗っていないままの様子で出てきて、片手に持った名刺と朝吹氏の顔を交互に眺めながら、「やあ君は朝吹君じゃないか、いつのまにこんな名前になったのか」と尋ねる。氏はなんのことかわからず「いや僕は改名した覚えはない、なぜ君はそんなことを言うか」と聞き返す。「でも君の名刺はこれだよ」と差し出された名刺を見ると、今朝訪問しようとしていた友人が自分の留守中に置いていった名刺だ。さすがの朝吹氏も非常に困り、照れ隠しに「ところで奥さんは、ちかごろ、ごきげんいかがですか」とその場を取り繕ったところ、主人は微苦笑して「先日、愚妻の葬式に、君はわざわざ会葬してくれたではないか」と言われたので、重ね重ねの失敗に、あいさつもそこそこに玄関へ飛んでいき、人力車に乗るなり車夫に向かって「ばかものめ、行先を間違えるやつがあるか」と怒鳴りつけた。ところがまだ半町もいかないうちに「こら待て、忘れ物をしたから後戻りせよ」と命じ、再びもとの玄関に引き返す。女中たちがさっきのそそっかしい珍客の話でまだ盛り上がっているのに見向きもせず、いきなり玄関に飛び上がって置き忘れた帽子をかぶるなり、さっさっと人力車に飛び乗りながら「おい、今度は間違わぬようにせよ」と号令をかけたそうだ。これが「朝吹さんの門違い」といって、当時大評判になった珍談である。
 このように朝吹氏は、当時ダントツの粗忽隊長だったが、その後たちと三井に勤めていたころにも、またその後隠退して茶事の風流に親しんでいたころにも、さまざまな奇談珍談を残した。そのことについては、またのちに述べることにしよう。




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