だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十三 現役大臣の茶の湯(下巻534頁)


 昭和六(1931)年四月初旬、司法大臣で子爵の渡辺千冬氏が、ある骨董商から偶然手に入れられた清朝御府(注・ぎょふ。皇帝の宝庫)伝来の茶碗は、口径四寸(注・一寸は約3センチ)、高さ一寸七、八分くらいで、春先専用の薄茶茶碗としては、このうえない寸法(注・サイズ)である。また内外は薄桃色で、ところどころに、いわゆる煎餅ぶくれがあり、口縁の外側から青釉がどろどろと一ナダレになっているのが、なんともいえない「景色」になっている。
 見込(注・茶碗内部の底)には黒金気釉で「花碗」の二大字が現れている。その筆づかいがすこぶる古雅で、古い法帖(注・ほうじょう=名筆鑑賞用の折り本)の文字を見るようなおもむきで、また、この茶碗を包んだ黄絹の風呂敷に、乾隆皇帝之章という大朱印が押されているところを見ると、あるいは幕府の什物であった可能性もある。
 ところで渡辺法相は、最近東京に「添光会」という茶会を設けて実物教育の宗匠を自任している加賀金沢の裏千家流茶人である越沢宗見と知り合いなので、彼にその茶碗を見せてみると、宗見は激賞し「閣下、もしこの茶碗がご不用なら、即座に拙者にお譲りあれ、もしまたご所蔵なさるるならば、ぜひとも、この茶碗びらき(注・披露)の一会を催さるべし」と言われたので、法相も非常にその気になり、では宗匠の才覚でその一会を催すことができるよう、それぞれの用意を整えるようにとの命令を下された。

 宗見はおおいによろこび、さっそく私にその一部始終を語ってくれた。また、その茶碗も見せてくれたが、これこそ、それまでの茶人が絵高麗と言い慣わしているものであった。絵高麗とは、はじめシナで製造されていたが、朝鮮で模造されるようになり、そちらの模様のほうがかえって世間に知られるようになって、ついには絵高麗と呼ばれるようになったものであるがこの花碗は、まちがいなくシナの窯元の製造になるもののようで、古陶器研究のうえで絶好(原文「屈竟」)の資料になるばかりでなく、じっさいの茶事に使ってもまた、しごく面白いものなので、私は、かの有名な博多文琳茶入が楊貴妃の白粉壺だと言い伝えられている例にならい、この茶碗も、楊貴妃に縁故のある品であるとみなし、これに付属するのに適当な女性的な薄手の茶杓を作り、銘を紅唇とした。その筒には、

    楊貴妃の口やふれけむ花の碗

としたため、宗見に与えた。
 こうして、茶碗と茶杓はそろったが、茶入のほうはどうしたらよいかという問題が起こった。そのとき宗見が、「先日ある機会に、貴族院議員の伊東祐弘子爵が所蔵する茶器を拝見したが、そのなかに、徳川初期の、子爵家の主人だった人が作らせたという茶入が、いくつか裸のままで残っているのを見た」という。この主人は、小堀遠州らと茶交があったらしく、その指導によって帖佐、高取その他、九州の窯に製作させたものらしい。渡辺法相は伊東子爵と懇意なので、その茶入のなかの一個を分けてもらえないか頼んでみて、今度の茶会に組み合わせるのがよい考えではなかろうか、ということだった。
 そこで、そのことを宗見から法相に進言し、法相から伊東子爵に相談してみると、それはよい廃物利用になると子爵は非常によろこんで快諾してくれた。
 これで茶会の主要品である茶碗、茶杓、茶入の三点が、あっというまに顔を揃えたことは、宗見の才覚が抜群であったからではあるものの、これこそ、花碗が世に現れる不思議の因縁と言わなくてはならないだろう。

 このような次第で花碗茶会の主要品が揃うと、渡辺子爵は四月二十三日正午に、豊多摩郡府中町の加藤(注・昭和茶会記によると加藤辰弥)氏の鳩林庵荘不識庵にて、正式な茶会を催された。
 当日の掛物は、西園寺陶庵公揮毫の色紙の表装が間に合わなかったので、同公筆の発句短冊で代用することになったが、その後ほどなく、表具のできあがった一軸は、金地色紙に、


  一枝国艶 両腋清風 
        坐茅漁荘主人時年八十有三印


という文句であった。楊貴妃と廬同(注・唐詩人)の故典を対句にしたところ(注・白居易「長恨歌」のなかの「一枝紅艶」と、廬同「七碗茶詩」のなかの「唯覚両腋習習清風生」からとったものか)など、ぴったりの(原文「寸分動かぬ」)思いつきだった。
 そのほかも、どれもが花碗を盛り立てる気の利いた飾りつけだった。懐石のときに、広間の床に掛けられた二幅対は、会主の先君子(注・亡父)である、無辺居士国武翁(注・渡辺国武)愛蔵の、


  臨済喝得口破
  徳山捧得手穿


という、清巌和尚の墨蹟中、稀有の傑作と見受けられた。
 こうして、午後四時ごろ、花碗茶会は大成功のうちに終了した。これは、茶道にとりまことに喜ばしいことであった。
 そもそも維新前においては、徳川将軍家をはじめとして、国持大名、幕府老中らが茶会を催したという例は多い。京都においても、関白諸公が、みずから茶会を開かれたということも少なくない。しかし維新後には、山県含雪公爵、井上世外侯爵が、晩年にみずから茶事を行われたということはあっても、現役大臣という立場でそれを試みた人はいなかった。それが今回、花碗の因縁により、後代の語り草ともなるような会を渡辺法相が催されたということは、いろいろな意味において、真の快挙であり浄業(注・じょうごう=善い行い)であったと思う。
 私は、法相が、この茶会をきっかけに、さらに奥深く茶道に踏み入り、政界において、ある意味、出色の大臣となるだけでなく、茶界においても、今後、より大きな足跡を残されることを、ひとえに期待する次第である。

 


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二百五十二  有栖川宮家御蔵象墜(下巻379頁)

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 大正六(1917)年、私は西園寺陶庵(注・公望)公から、頼山陽が有栖川宮家の執事に宛てた書簡の張り交ぜ巻物二巻を拝借し、山陽と有栖川宮家の間にどのような交渉があったかということを詳しく調べ(原文「つまびらかにし」)、非常な興味を感じたことがあった。
 その節に陶庵公から、有栖川宮家に山陽筆の耶馬渓図巻があったように記憶しているということを伺い、私はいかにしてもそれを拝見したいと思った。
 その後、井上勝之助侯爵夫人末子の方を経て、有栖川宮大妃故威仁親王妃殿下に同巻拝見のことを願い出たところ、はたしてその巻物があるのかどうか家職に面会して詳しく聴き取るのがよいだろうという御回答があった。
 そこで大正七(1918)年五月四日、麹町区三年町の有栖川宮家に伺候し、家職の武田尚氏に面会して、その耶馬渓図巻について質問した。すると、かつてそのような図巻を見受けたことはないが、山陽の筆蹟なら、同人筆の象墜記と、小島山(注・こじまとうざん・象牙彫刻家)作の象墜(注・しょうつい)があります、と言われたので、思いがけず、ここで象墜記と、象墜を拝見することができたのである。これは、蜀を望んで隴以上の大物を得たような感じであった。(注・慣用句は「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」=欲にきりがないことの意であるが、耶馬渓図巻を見ることができなかったことから、わざと逆に使用したものか)
 さて象墜とは、象牙彫りの根付で、厚さが一寸(注・約3センチ)、横幅一寸五分、高さ一寸ほどの象牙に、小島山が、廬生邯鄲の夢の図を彫りつけたものである。彫られた人物は蟻よりも小さく、楼閣が十五、人物八百八十人、象、馬十二頭、その他の鳥獣が無数にいる。その面貌や動作が、それぞれ変化に富んでいることが実に驚くべき技巧だといえる。これを世界的な作品だと呼んだとしても、決してほめすぎではないだろう
 また、この象墜に付属している山陽の記文は、どうやらその初稿であるらしく、山陽遺稿に載せてあるものよりも、一層、詳細なところもある。巻末には小石玄瑞の跋文まで載せてある。
 私は少年のころ山陽遺稿の象墜記を読み、このような技巧が実際に存在するものだろうかと、驚きつつも怪しんだということがあったが、今日、図らずも象墜の実物と記文とを併観し、その疑念を一掃することができたということは、実に一生の中での大眼福というべきものであろう。

 そこで私は、この大眼福を独占するに忍びず、当時、象墜拝観記を書いて新聞紙上に公表した。その後、昭和七(1932)年、日本美術協会第八十九回美術展覧会において、この象墜を高松宮家から拝借して同会場に出陳し、あまねく世間の公衆に展示したので、おそらく好事家は拝観したことと思う。
 例の象墜記は山陽遺稿に掲載されており、よく知られているものなので今ここでは省略し、この象墜の作者である小島山という人について、その略歴を掲げることにしたい。
 小島山は彫刻を専業とした人ではなく、天性器用だったので道楽でやっていたということのようである。
 かの象墜の底面には、文政己未秋、山小島旭という彫名があるが、文政己未は同六年で、山が三十歳のときの作であるそうだ。山陽遺稿には、これを作るとき、年甫めて(注・=始めて)二十、とあるが、これは山陽の誤記ではなくて、多分、版下の誤写であろうということだった。
 とにかく、このような根気のいる仕事は、二十代から三十前後の、いちばん元気な時に限るもので、聞くところによるとイタリアなどでも、彫刻で天下に名をあげるほどの人は、三十歳までに必ず一代の大作を作り上げるということだ。
 小島山については、その子息である晩が作った碑文の中に、次のような一節がある。(注・旧字を新字になおした)

 「先考諱は旭、字は子産、姓は源、小島山を以て行はる、丹後峰山の人、幼にして彫鐫(注・鐫=彫る)に巧なり、師承する所なし、而して製作超凡、細勁緻密、人其妙を賞す、生平京師(注・都)を愛し、遂に家事を弟に付して、往いて僑す、考又嘗て象墜を製し、盧生夢の図(注・「邯鄲の夢」の図)を鐫る、其径方寸、楼閣人馬悉く具はる、山陽先生記文中に詳かなり、又一谷合戦図の墜を製す、亦巧緻を極む、多作せず、但興到れば即ち刀を弄し、或は寝食を忘るるに至る、喜んで硯を製し、毎に西土妙作を見れば、輙ち(注・すなわち)意を極めて、模造殆ど真を乱る、且つ書画古玩器を嗜み、賞鑑頗る精、又琵琶を能くし、暇あれば即ち撫弾して自から娯む、性闊達にして気概あり、交る所皆一時の名流、流注病を得たり、然れども未だ嘗て此を以て意と為さず、後大阪に徒り、客至れば談諧各々歓心を尽す、此の如き者、十四年一日の如く、弘化乙巳七月十六日歿す、享年五十二、城南禅林寺に葬る、其略を碑陰に書すと云う原漢文
  以上が小島山の略歴である。昔から、彫刻家の余技として、米粒に大黒を彫るなどと言う話は聞いているが、象墜にいたっては、ほとんど人間業とも思われないものである。私は一生のうち、このような作品を再び見ることはできないだろうと思うので、世間の好事家のために私がこれを実見するにいたった経緯を示し、その参考にしてもらおうと思った次第である。(注・現在は三の丸尚蔵館所蔵になっている)


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二百四十九  白頭宰相原敬氏(下巻367頁)

 故政友会総裁元首相の原敬氏は、年齢の割に早くから白髪となったので、白頭宰相の異称を得るにいたった。
 あるとき私が西園寺公爵と雑談しているとき、公爵は次のような話をされた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分が明治十(1876)年前後パリに滞在中、原氏も来たって同地に在留していたが、そのころ原氏も青年時代で、頭髪は無論、真っ黒であったが、ただ頭の真ん中に、一筋細く白髪が通っていたので非常に早白髪だと思っていた。ところがこのころ、パリの劇場にて興行中の演劇に、ある貴族家の相続争いを仕組んだものがあって、その家の財産を相続する実子が早くより所在をくらましていたので、実父が逝去したとき、その正統なりと名乗って出ても、なんびともこれを承認しなかったが、この家の血統には、青年時代より頭の真ん中に白髪の一筋があったのに、今度実子と名乗って出た若者は、正しくこの特徴を備えていたので、とうとう相続者と認定せらるることに至るという筋合いであったから、自分は原氏に向かって、君もフランス人なれば、かの家の相続人になられるであろうにと、からかったところが、原氏は迷惑そうに苦笑していたから、自分はとんだことを口走ったなと思って、匆々(注・そうそう=早々に)その話を打ち切ったことがある云々」ということであった。つまりそうすると、原氏は青年時代から、後年白髪になる特徴を備えていたということだろう。
 私は、あるとき、白髪という和歌の兼題(注・あらかじめ出された題)で、

   黒髪にまじる白髪の一すぢは 老に入るべきさかひなりけり

と詠んだことがあったが、何やら先ほどの談話に符号するように思われたので、われながら不思議に思ったものだった。
 原氏は、頭は白髪であったが、身長が高く、顔の血色がよく、面貌の道具がよく揃っており(注・顔立ちが整っており)、盛岡出身ということで奥州弁ながら言語明晰で、いかにもきびきびとした政治家であった。
 私はいつからだったか記憶していないものの、新聞記者だったころからの馴染みで、その後仕事の方面が違ってしまったため、あまりひんぱんに会談する機会もなかったが、大正七(1918)年一月に、原氏が夫人同伴で腰越(注・鎌倉)の別荘に避寒中に偶然にも雑談する機会を得た。
 ちょうどそのころ、佐竹侯爵家の入札会に出た、信実筆三十六歌仙巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる佐竹本三十六歌仙絵巻)を切断する問題があったので、そのことから国宝保存のことに話が及び、私はかねてからの持論として、わが国に国宝を今日のように神社仏閣の保管に任せて心なき者に取り扱わせておくと、今後五十年しないうちに、その真価の半分が失われることになるであろう、だから、今日もしも真の経世家(注・政治、経済、社会の指導者、政治家)がいるならば、日本に国立美術館を作り、継続事業として年々国家から若干の金を支出し、全国の神社仏閣の所蔵する信仰に関わるもの以外の国宝を、その美術館が買い取り、完全に保護するという方法を講じなくてはならないのではないか、と述べた。
  すると原氏も非常に同感で、さきごろ山陰道に赴いたとき、かの応挙寺(注・兵庫県の大乗寺)を一覧したとき、寺内のふすま絵はすべて応挙とその門下の筆になり、すでに国宝になっているものなのに、住持(注・住職)が心ない人らしく、ねずみが襖に穴をあけてその穴から出入りしているのに一向頓着していない様子なのは、国宝保存上のはなはだしい欠陥だと感じた、と言われたところを見れば、原氏もこの点については、なかなか話せる人物だと思ったのであった。
 なお、そのときの雑談の中には、次のような話もあった。
 「自分は一向無風流で、何事にも趣味がないから、暇さえあれば読書をするのが関の山である。
 かつて国技館の角力見物に招かれて、よんどころなく出かけたとき、事務員が出迎えて、さまざまに説明してくれたが、ただ負けるか勝つかを繰り返すのみで、自分には更に(注・いっこうに)面白みを感じなかった。
 また芝居に招かれたこともあるが、これは筋書きが変化していくだけ、角力よりははるかに面白いとは思ったが、しかし自身でわざわざ見物するほどの嗜好はない。
 義太夫は、大阪滞在の節、宴席の余興としてしばしば聴かされたことがあるので、例の文楽へは行かなかったが、語り手が上手なれば、それほど迷惑せぬという程度である。
 茶の湯はもちろん承知せぬばかりでなく、狭苦しき茶室に出入りすることは、自分にとっては大禁物である。しかし茶の喫(注・の)み方だけは稽古しておきたいと思ったのは、ほかでもない、田舎地方に遊説に出かけて、諸方(注・しょほう=あちこち)の家に招かれたとき、なんらの予告もなく、その娘さんたちが正装して、目八分に茶碗を捧げて持ち出さるることがあるが、まさかに無下に突き返すこともできず、このときばかりは、平常茶の喫み方を心得て居ればよかったと思うことが度々ある。
 往時、太閤時代には、不作法なる武人までが茶室入りをしたということであるが、これは彼らが京大阪に上って、人と交際をなすに当たり、なるべくお里が知れないように、おおいに苦心する結果であろう。今日の成金連が、金を儲けるとすぐに衣食の贅沢を覚え、それより立派な家屋を造り、書画や骨董が欲しくなるまではまだよいが、その上さらに、爵位が欲しくなるというのが成り上がり者の通過する径路で、この点に至っては古今一徹といってもよかろうと思う云々」
 以上の原氏の雑談を聞けば、彼が爵位を有することを好まず、一生、平民宰相でおわったのは、みずから確乎たる信念があったからということがわかる。彼が、わが国の政治の世界で異彩を放っていたのは、ただ、その白頭だけではなかったのである。


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百八十六  伊藤公題箋文晁幅(下巻138頁)

 私は明治四十五(1912)年下期から四谷伝馬町に新宅となる天馬軒を建設中であったが、翌年の七月になってもまだ工事半ばなので、上州伊香保の木暮旅館聚遠楼に避暑にいくことにした。
 同旅館の主人、木暮武太夫【先氏は私の旧友だったので、気の合う御仁がやってきたとばかり、おりおり私を訪ねてきて雑談して過ごしたものだった。
 そんな時、氏は木暮家の「いの一番」の宝物であった谷文晁筆の墨画山水大幅を持参し次のように語った。

「これを以前あなた(原文「老兄」)にご覧にいれたとき、非常に称賛されて東京の好事家に吹聴なさったおかげで、その後大評判になり、明治二十九(1896)年、ときの総理大臣伊藤博文公爵がいつしかこの話をきかれて、ぜひとも一覧したいと所望された。そこで、そのころ衆議院議員だった拙者は、同年一月、議員開会の際にそれを持参して上京した。遼東半島還付反対の上奏案がまさに議会に提出されるというときで、伊藤公爵は非常に多忙であったにもかかわらず議会の大臣室でこれを一覧すると言われるので、拙者は部屋まで持参した。大臣室は西洋間で壁に掛物を掛ける場所がなくどうしたものかと見まわしていると、海軍大臣の西郷(注・従道)侯爵が『俺どんに好い工夫がごあす』と言って、みずから椅子の上に立ち、壁に掛けてある柱時計を取り外し掛物をその釘に掛けようとした。ところが少し高くて手が届かないので、佩剣(注・はいけん。帯剣)をはずして軸掛けのかわりにし、首尾よくこれを掛け終えることができた。それを見ていた伊藤公爵はじめ一同は、その機智に驚いたものだった。
 さて掛物を熟覧した伊藤公爵は、『これぞ文晁の中の文晁である』と、しばらく感心してみていたが、時は上奏案の議事中という大わらわの最中だったので、西郷侯爵はふたたび佩剣で掛物をはずし、これを巻き納めて拙者に返却された。
 拙者はこれを箱に納めて、そうそうに引き下がろうとしたそのとき、さきほどから硯箱を引き寄せて、せっせと墨をすっていた内務大臣の野村靖子爵が、『木暮君、その掛物の外題(注・掛物の題名)の付箋を誰かに一筆願ってはどうです。僕はさっきから、誰かが書くだろうと思って、墨をすって待っていたよ』と言われた。すると西郷侯爵がすかさず『誰彼と言わず、伊藤さんが宜しい』と言って、これを伊藤公爵に突き付けた。
 折が折であったので公爵は非常に難色を示したが、西郷侯爵は例の調子で、『これを見料と思うて書くが宜しゅうごあす』と言われたので一同大笑いとなり、公爵もすぐに筆を執り、付箋の上に、文晁筆として、下に春畝山人題と、謹直な楷書で書きつけられた。
 ちょうどそのとき、上奏案否決の知らせが大臣室に届けられたので、一同肩をなでおろし(原文「愁眉を開き」)、歓声がわいたような次第だった。

 思い返すとこれは十八年前の昔で、そこにいた三人も今は全員この世を去り、この幅だけが当時を追懐する記念の品になったのである。
 その後、衆議院書記官の林田亀太郎氏が伊香保に来たので、拙者はこの顛末を同幅の箱裏に書いてもらった。そして今度は西園寺陶庵公が避暑で来られたのを幸いに、すぐに(原文「不日」)箱の表に公爵の題字を請い、十善具足(注・非の打ちどころのない)の宝物にする考えなのだ。」
ということだった。

 聞くところによるとこの文晁幅は、木暮氏が高崎である道具店から掘り出したもので、驚くなかれ、その値はたった五円だったという。
 ところで、私には木暮氏から前にきいていた話がある。
 氏は、明治十三、四(188081)年ごろ、官吏になりたいと思い上京した。そのとき福澤先生に面会しこの志望を述べたところ、先生はその不心得を諭したという。役人などは、産業を持たない士族の子弟がやればよいことで、代々の営業を持つ君などが従事すべきことではない。とくに温泉宿というものは、時勢の進歩につれて、これから大いに繁昌するだろうことは先例を見ても明らかなので、君はまずもって家業に励むことが大切だ。そして、今日は土地の値段が法外に安いのだから、できるだけ土地を買い入れておくのがよいだろう。もし大いに威張りたいというのなら、いつか国会議員になって堂々と国政を議論するべきなのだと言われたそうだ。そこで氏は仕官するという気持ちをきっぱりと断ち、もっぱら家業に専心し、その一方で衆議院議員になって福澤先生の言われたとおりに当初の志望を達することになったのだそうだ。
 そのとき私は木暮氏に、「しかし、君が先生の教訓どおり、安価な土地を買い入れておいたとしても、この掛物を買い入れた利益には及ばないだろう」と一笑したのである。その武太夫君も今では世を去られ、私もまたほどなく寂滅するだろうから、結局残るのはこの幅ばかりとなることだろう。


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百八十五  西園寺陶庵公の雅懐(下巻134頁)

 
大正二(1913)年八月、私が伊香保の木暮武太夫の第二別荘で避暑をしていとき、西園寺陶庵公爵が第一別荘にて静養中だった。
 私はその前年から無職の自由の身になり、文芸趣味の世界で日々の無聊を慰めており、あまり得意でない俳句などをひねくり回したり連歌もどきの文句を並べたりしていた。そのなかには次のようなものがあった。

   湯の宿や隣はさきの総理どの 背戸の垣根にひるがほの咲く
   ふしながら見送る雲の行衛かな 杉の葉わけの風の涼しさ
    夕立のあとよりつづく蝉時雨 時刻たかへず来る碁がたき
    谷ひとつあなたに斧の響かな 浴衣にかをる山百合の花
    山風を土産にせばや峠茶屋 足の下より瀧の音する

 この連句中の第一句の「隣はさきの総理どの」というのは、もちろん陶庵公を指したもので、宿泊先が目と鼻の先なので、ときどき散策のついでに公爵の閑眠を驚かしたこともあったが、公爵は快く部屋に通してくださり(原文「引見せられて」)、毎度、俗世間を離れた清談に耽られた。
 公爵は聡明で博識、多方面にわたる趣味を持ち、なにごとに関しても打てば響くような返答があり、その談話には粛然と襟を正すようなものもあれば、実にここちよいものもあり、そうかと思うと軽快飄逸で頬を緩めるようなおかしな話もあった。そのひと月ばかりの間に何度か拝聴した話の中でいまでも私の記憶に残っているのは、時代の道徳問題に関する次のようなことだった。(注・わかりやすい表現になおした)

「最近、世間で、道徳が次第に衰えていくことを憂い、将来を悲観する者もあるが、かつてに比べて今日の道徳が衰えたとは思わない。自分はまだ若かったころ京都におり、周囲での道徳の腐敗している有様を見てまことに苦々しく思い、他の場所ではここまで腐敗してはいないだろうと考えていたが、その後、諸藩の内情を探ったり旧幕府の気風を察したりすると、やはり京都と変わることなく賄賂が横行し、士風は地に落ちたというありさまは今日よりもさらに甚だしいものだった。
 これは維新の前の紀綱が非常にゆるんだときだけではない。士風がもっとも凛然としていたと言われる徳川初期においても同じである。家康の臣下である某が、自分の家は代々ひとりとして御家に背いた者がありませぬ、と自慢のように語ったところ、家康もまたおおいに感心して、汝の家が代々当家に背かぬのは、まことに奇特の至りであるとして、すみやかにその禄を増加したということである。
 徳川の臣下には、本多正信などを始めとして、時に臣下となり、また仇敵になった者があったが、その中で某のような者はまことに珍しい律儀者であるということで、褒美を得たのである。
 徳川譜代の臣下ですらこのような調子であったから、今日の政事に奔走する者が、あっちにつき、こっちから離れる、というようなことがあったとしても、これを徳川時代の道徳と比較して、いたずらに悲観するべきではあるまい云々」

 さて、このとき私は公爵に対して茶掛の揮毫を願い出た。すると公爵は、昨今はリウマチ(原文「僂麻質斯」)ぎみで、筆を持つと手が震えるから、具合のいいときを見計らって執筆しようと言われたのであるが、そのついでに次のように語られた。

「リウマチについて思い出すのは、先年あるところに招かれてやはり手が震えているところに、当地に避暑中だった、かの中村歌右衛門が御盃頂戴といって自分の前にやってきた。あちらも同じく手が震えるので、左の手で右の手を動かないように押さえて盃を差し出すのを、自分もまた手が震えるので左の手を添えてそれを受ける。その酌をするのが、お粂という新橋の老妓で、それもまた震い仲間のひとりなので、徳利が盃にカチカチと当たったのを見て、これでは三震である、と大笑いになったことがある云々」

 また、このときであったかその後のことだったか忘れたが、貞奴(注・川上貞奴)とともに伊香保に来た福澤桃介氏が、私と同時に公爵を訪問して雑談したことがあった。
 桃介氏は、大同電気社長として木曽川上流に大発電所を完成させた記念に、電気の神の大立像を建設しようという計画を持っており、電気は女性で現わすべきものだと思うが、なにか適当な神像のモデルはないだろうかと真面目な顔で言い出された。
 そのとき公爵は意味ありげな笑みを浮かべて、「それこれと言わず、御携帯の美人(注・当時、貞奴は桃介の愛人だった)の像にすればいいだろう(原文「しくものはなかろう」)と言われたので、さすがの桃介氏も、正面からの不意打ちに一本参ってグウの音も出なかった。これなどは、公爵が長年のあいだ荒くれ政治家を相手にして鍛え上げられた、一刀流の鋭鋒であると納得したものだった。


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三十三 明治十年代の新橋(上)(上巻106頁)

 吉原の全盛時代が、王政復古の明治維新ともに夢のように去ると、東京の花柳界はしだいに南のほうに移動した。
  
私が上京した明治十四(
1881)年ごろは、いまでいうなら神楽坂か道玄坂くらいの位置づけだった新橋がめきめきとランクを上げ、柳橋を越えるか越えないかという勢いを示しているときだった。これは主に政府の高官や中流以上の役人、あるいは地方の長官クラスの人たちが、地理的に便利だというので新橋に足を向けるようになったからである。
 しかし茶屋や待合の設備はいたって粗末なもので、当時料理屋としては売茶亭、花月楼くらいしかなく、待合は船宿の名残りで、三十間堀に大村屋、兵庫屋のほかに二軒あるのみ。新しく開いた待合は、出雲橋ぎわの長谷川すずが女将をやっていた長谷川の一軒だけで、あとは烏森に濱野屋という料理屋があるだけだった。
 この濱野屋の女将だったお濱は、明治はじめに井上世外侯爵(注・井上馨)がひいきにしていたころに、その後亭主にした隠密の親分とのあいだにおもしろいエピソードを残した人だ。彼女一種の侠気(注・おとこぎ)があったので、頭山満翁なども上京したころにはこの女将をひいきにして常宿にしていたものだった私も貧乏書生の新聞記者で、遊蕩の世界に足を踏み入れたばかりの遊蕩学校一年生だったのに、どうやらこの女将のお眼鏡にかなったようでいつも上客として扱ってもらい、まんまとこの学校を卒業させてもらうことができた。私にとってもこの女将はいくらお礼を言っても言い切れないほどの恩人である。
 さてこのころ濱野屋に出入りしていた婀娜者(注・あだもの。色っぽい女のなかでは、有名な「洗い髪のお妻」の人気がダントツだった。このころまだ十五歳で雛妓おしゃくとなった。

 木挽町「田川」の女将である石原半女は七十二歳の現在もなお元気はつらつで現役として活躍しているが、最近できあがった五階建ての近代的なビルである新橋検番ビルの開会式にあたり、昔を思い出して感無量の面持ちで、そのおしゃく時代の新橋物語を語るのをきけば、彼女と同時代の同世代には、玉八、幸吉、小徳、お里、おしんなどがいて、芸妓の送迎は最初は女中などが勤めていたが、当時なんとかどんという気楽な男がいて、その男に三味線の箱を運ばせたのが、いわゆる揚げ箱のはじまりなのだそうだ。この揚げ箱が発展して検番になり、その検番がいまや五層の大ビルディングになったとは新橋五十年の発展は夢のようであるとのことで、いかにもそのとおりだと思う。
 この揺籃期の新橋で、その名のとおりに光り輝いていたのが玉八で、色白の美人で頭もよかったから、一時全盛をきわめていた。あるとき伊藤(注・伊東)茂右衛門氏が玉八の手にほくろ(注・原文ではホソビ。北関東の方言でほくろのこと)があるのを見つけて、

   白魚の目は玉ちゃんの手のほそび

駄句(注・あそびの軽い句を作ったところ、当時、名吟であるとして友人のあいだに伝わったとのことだ。
 そのころの花月楼の主人は平岡広高といった。まだ年若い道楽者で、朝吹英二、犬養毅、岡本貞烋、笠野吉次郎などという連中が、ここをねぐらとして気安く出入りしていた。岡本は達筆なのを表の芸とし、二上り新内(注・江戸時代の俗曲。明治時代に再流行した)を隠し芸としており、一杯のんで上機嫌なときにはその美声を張り上げるのを常としたが、仲間はほとんど芸のない猿同然で、ただそれを拝聴する側にまわった。岡本のいちばん得意としていた二上り新内は、

 「私が風邪ひいて寝ていたら、枕のそばにそっと来て、飯ま】を食べぬか薬でもと、そのやさしさに引きかえて、今の邪見はエエ何事ぞいな」

というのであった。
 西園寺陶庵公爵が、パリ帰りの「ヤング・デューク」として粋人ぶりを発揮されていたのも
のころで、その作詩だと言い伝えられている小唄に、

 「風にうらみは待合の、軒端にそよぐしのび草、そよと音も人さんに、心をおくの四畳半。」

とあるのは、当時「警八風」といって風俗係の見まわりが、ときどき待合を夜襲することがあった世相をうたったものだろう。
 このころからだんだん名古屋出身の芸妓が新橋にもやってくるようになり、最初のうちはこの「そうきゃも連」は江戸っ子芸妓に蹴落とされていたが、芸道の力がまさっているのでだんだん幅をきかすようになった。

 なかでも須磨子、若吉のふたりは長唄の三味線が抜群にうまいので、新橋でなにかの演芸会があると、ふたりであの長唄「筑摩川」の大薩摩節を弾きまくったものだ。
 その芸の高さを別にすると、全体としては今日の芸妓と比べて、諸芸ともに、いたって幼稚なレベルで、常磐津にしろ清元にしろ、今は昔とでは雲泥の差があるだろうと思う。
 


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