だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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三百  和製張子房(下巻
555頁)


 後藤新平伯爵のことを、ひところ世間で和製ルーズヴェルトと言いはやした例にならい、私は、久原房之助君に、和製張子房(注・張良=秦末前漢の政治家、軍師。劉邦に仕える)の尊称を贈ろうと思う。
 後藤伯爵は元気はつらつで、その言動が果敢であることと、鼻眼鏡がルーズヴェルトに似ていたことからその異称がついたのであろうが、私は、司馬遷が張子房を評して「籌策(注・ちゅうさく=計略)を帷幕の中に運(注・めぐ)らして、勝を千里の外に決し、而してその状婦人女子のごとし」と言ったのを、久原君になぞらえて、この尊称を贈呈したのである。
 久原君が大正初年に日立鉱山を手に入れ、その祝宴を築地の瓢家に張ったとき、田中銀之助氏が同席者に、「僕は久原君の事業の成功をうらやましいとは思わぬが、その状貌婦人のごとく、人に接して温容靄々たる(注・容貌が女性的で、人当たりが温かさとやさしさに満ち溢れている)ところが、実に健羨(注・けんせん=うらやましいこと)に堪えないよ」と言われたのが、まさに適評であると思う。
 久原君の父である庄三郎翁は、藤田鹿太郎翁を兄とし、同伝三郎男爵を弟として、三人共同して藤田組を経営された。翁は一見、好々爺のようで、いかにもおだやかで人当たりがよいため、藤田組においても常に外交方面に当たっておられた。 
 私が明治中期に大阪に滞在していたときは、しばしば翁に会う機会があったが、翁は書画什器を愛し、ことに四条派のものについては当時の鑑識者のひとりであった。

 ある日私が、翁の京都知恩院(原文「智恩院」)そばの別荘を訪ねたとき、翁は、「およそ別荘というものは、便利と閑静とを兼ねあわせていなくてはならない、どんなに静かでも、それが不便な場所にあったのでは、用をなさないではないか」と言われたが、たしかにこの別荘は、知恩院のそばの袋町にあり、門を出れば祇園、四条の繁華街に接し、門をはいれば華頂山寺の閑寂を占める景勝の地であることに感心したことがあった。
 久原君は少年時代、慶應義塾幼稚舎から進んで本科にはいり、卒業後間もなく藤田組経営の小坂銅山にはいって十三年間実地研究を積んだ。一時は非常に悲観的状況に陥った小坂銅山で、ドイツで発明された新しい精錬法を試みて、あっという間にこれを復活させた。日露戦争前後の藤田組の社運隆々なのは、久原君の鉱業での新しい工夫が成功への原動力になったそうだ。しかし、「蛟龍(雲雨を得れば)ついに池中の物にあらず(注・池に住む蛟(みずち)もチャンスをつかめば天に飛翔する)」というように、ほどなく藤田組から離れ、大正初年に日立鉱山を手に入れた。日立鉱山は時勢の運にも恵まれ、あっという間に大きな発展を遂げ、一躍、三千万円の大会社に成長した。その豪勢さに人々はやがて目を見張った(原文「瞠若(どうじゃく)たらしむ」)
 久原君は、見た目が柔和であると同時に、非常に人情味に富んでいた。とくに、母堂に対する孝養は人がうらやむほどだった。こんなこともあった。大正初年に、君が母堂に東京見物をさせようとしたとき、東京の宿を必死で探しておられた。私は、実業界から隠退後で、ちょうどこの時、一番町邸から四谷伝馬町の新宅に移ろうとしていた。それで久原君に一番町邸のほうを母堂の宿として提供したのである。このとき母堂は風邪気味で、結局、上京されなかったが、こんなことからも、ひごろの孝心がいかに深く厚かったかを知ることができるだろう。
 さて、私と久原君の間には、とてもおもしろい口約束が交わされているので、そのいきさつをここに記しておく。
 大正五年ごろであった。私は京都鷹峯の光悦寺境内に、本阿弥庵という五畳床付の一庵室を寄進した(注・223・鷹峯光悦会発端を参照のこと)。その工事の片がついたので、検分のために出かけようとすると、ちょうど久原君も京都に滞在中だったので、君を誘って光悦寺に赴いた。そこで、紙屋川をへだてて鷲ヶ峰に対面し、竹林の上に現れた比叡山を左にして、蒲団を着て寝ているような姿の東山をはるかに望見しながら、ふたり並んで腰掛けに座った。そのとき久原君が私のほうを見て、「君が林泉の間に悠遊して、茶事三昧にはいっている生涯は、まことにうらやましいものである」と言われた。そこで、私はすかさず、「さらば、君と僕と、身分を取り換えようではないか」と言った。すると、久原君も、勢い余った行きがかり上(原文「騎虎の勢いで」)、いやだとも言えず、では取り換えよう、という言質(注・誓約)を与えてくださったのである。
 私は、この言質を取ったからには、今すぐに実行する必要もないので、実行の時機については私に一任してほしいと言って、そのときはそのまま笑って別れた。
 その後、昭和三(1928)年、私が帝国ホテルで大正名器鑑の出版記念会(原文「告成式)」を開催し朝野の名士を招待したときに、君は威望隆々たる逓信大臣で、田中首相(注・田中義一)とともに来臨された。その帰途、君は私に向かって「いつぞやの約束を、この辺で決行してはどうですか」と言われたので私は首を左右に振り、「いやいや、まだその時機ではありますまい」と答えておいた。
 続いて昭和七(1932)年末、井上侯爵家に仏事があったとき同邸で君に偶然出会い、連れ立って玄関から出ていこうとしたとき、君は私に「例の約束はまだかいな」と言われたので、「だんだん近づいてきたようだが、ここまで来た以上はもうすこし辛抱したほうがよいと思う」と一笑して別れた。
 最近、君の姻戚の鮎川義介(注・鮎川の妹と久原が結婚していた)君に会った時、たわむれにこの話をすると、君は大笑して、「その約束は、この世ではとうてい果たされないでしょう」と言われた。
 しかし私は、この先に、まだおおいに期待している。久原君に、いつこの約束履行を申し込むか知れないので、君もこれ以上出世するのは、チト考えものであるかもしれない。



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百七十五  東京の庭石(下巻97頁)

 小石川後楽園の話が出た(注・174「小石川後楽園について」を参照のこと)ついでに、東京の庭石についての所感を若干述べてみたい。
 東京は武蔵野の原で、もともと石類にとぼしいところである。徳川氏が天正十八(1590)年八月に江戸に入府し、江戸城を築くためにほかの地方から石類を取り寄せたのをはじめに、ほうぼうに続々と建設された大名屋敷に遠国から庭石を運び込んだ。その数は相当多く、費用も多額にのぼったであろう。
 しかし交通が不便な時代であったから、たいてい運搬は海路で伊豆石や房州石を取り寄せたのである。かの根府川石のような、すべすべして雅趣に乏しいものや、磯石のような粗くて(原文「粗鬆」)打ち水が乾きやすいものが多かった。奈良や京都の庭石と比べて、一見してきわめて殺風景なのはそのためであった。
 その中にあって、小石川後楽園の庭石がほかの庭園より幾分優秀だったのは、その築庭者に石に対する造詣があったからであろう。
 この庭のあとは、徳川時代を通じて江戸府内に築造された庭園のいずれを見ても、駄石ばかりで見るに値するものはない。有名な本所の佐竹侯爵の庭でさえ、ただ大きな石があっただけで雅趣のある石は皆無だった。
 さて、どのような庭石を上等とし、下等とするのか。どこにある庭石を標準にして、その優劣を判断すべきなのか。
 私は、奈良、京都の石をもって、その答えにしたいと思う。
 明治二十七、八(189495)年ごろ、中上川彦次郎氏が永田町に邸宅を新築したとき、そのさきに、ボテボテした新造の大石灯籠を据え付けた。するとある人が、こんな新しい石灯籠は、ありがたくありませんねと批評したのであるが、中上川氏は例の調子で、「君はこの石を、古いの、新しいのと言われるが、これが果たしていつごろできたものであるかを知っているか」と言って、相手を大いに困らせたということだ。しかし、本来、庭石の新古というのは庭に移されてからおよそ何年と数えるべきものなのである。
 日本で一番古いものは、奈良、京都を中心とする五畿内(注・山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)の神社仏閣や古宮殿にあるような庭石のことをさすのである。なかには千年以上を経ている古いものも少なくない。
 私は明治二十六(1893)年から大阪に滞在した三年間に、五畿内各地の古社寺、名所旧蹟を歴訪し、その庭さきにある飛石、捨石、つくばい、石灯籠、塔石などを見てまわった。そしてそれらの研究をするなかで尽きない興味を感じたので、明治三十一(1898)年に麹町一番町に家を建てたとき、奈良法華寺の大伽藍石を七個、法華寺形石灯籠本歌、鶴石、亀石、法華寺十三重煉石塔を一基、海龍王寺の団扇形つくばいなど、奈良にある数多くの古名石を買い取り、七トン貨車で東京に取り寄せたのである。これがおそらく奈良石を東京に移入した始まり(原文「嚆矢」)だろう。
 その後、向島徳川邸内の嬉森庵、四谷伝馬町の天馬軒、私が現在住む赤坂一ツ木の伽藍洞の庭園築造のときには、奈良の法隆寺、栄山寺、久米寺、山田寺、秋篠寺など、十七の寺の伽藍石を集め、飛石、捨石用に使った。
 それ以前に、岩崎弥太郎氏が深川清澄町の庭園を造られたときは、お手のものの船舶を使い伊豆地方から非常に大きな石を取り寄せた。それは現存する庭を見てもわかるように大勢の人の知るところではある。しかしながらそれらの石は、ただ大きな石というだけで。奈良石などに比べると、羊の皮千枚でも狐の皮一枚に及ばない(注・「千羊の皮は一狐の腋にしかず」)という、たとえの通りになってしまっているのである。


 私が一番町邸のために奈良石を取り寄せた約一年後、井上世外侯爵が内田山邸を築造するために奈良石を取り寄せた。横浜の原三渓氏が、桃山旧構の移築をしたときにも、同地方の石を搬入した。
 また大阪でも、藤田香雪男爵が網島邸の造営に当たり最大規模の蒐集を行ったので、古い庭石がほとんど底をつくという事態が起きた。
 そのときに至り、各地方自治体が史蹟保存の名目で、庭石、伽藍石の譲渡を禁止する方針を採り始めたため、もっとも雅趣に富む古名石は、もはやほとんど手に入れることができなくなったのである。
 このように奈良、京都の石が欠乏したので、私は、石理(注・せきり。石の構成組織)が細かく打ち水の乾きが遅い山石を探すことになった。
 関西においては、それまでに若干東京に搬入されていた鞍馬石、貴船石などのほか、新たに生駒石を採用した。関東では加波、筑波の山石が生駒とやや類似しているのでそれを東京に運んだ。
 その後、田中平八君が葺手町(注・現虎ノ門)邸の築庭を行う際、実に貨車七千トンの筑波山石を取り寄せたということだ。
 またほかにも、甲州石を取り寄せた者もあった。故村井吉兵衛氏の永田町邸のいくつかの大石などがそれである。
 このようなわけで、徳川初期以来現在にいたるまで、武蔵野の原に、他の地方から庭石を搬入した数量は、実に大きな石山をひとつ築くくらいはあっただろう。原っぱのどこにそれらの石が隠れているのかほとんど人目につかないのは、武蔵野が広いからでもあるが、庭石というのは使用するとき半分以上を土中に埋めてしまうからでもあろう。これからもどれだけ搬入されても特別に目立つということはないだろう。
 ただ、私のような庭石そのものを鑑賞の対象にする者が鑑賞者として希望を述べるとすれば、今後石を運び入れる人々が、石の質をも十分に研究してくだらない駄石を大量に搬入することがないようひとえに願いたいものである。


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百五十六  藤田男と大亀香合(下巻30頁)

 大阪の大実業家である藤田伝三郎男爵は、明治四十五(1912)年三月三十日、藤田組の経営する小坂銅山が成功し家運隆々の真っ最中に、その波乱多き七十二年の生涯を終えられた。実業家としての男爵についてはすでに以前に記述したことがある(注・69「藤田伝三郎男」を参照のこと)ので、ここでは美術品鑑賞家そして美術品収蔵家としての男爵について語ってみることにしたい。
 藤田男爵は美術品の鑑賞、収蔵において、明治時代の第一人者であるとは言わないまでも、まさに傑出した一人であることはまちがいない。
 コレクションは多岐にわたって(原文「八宗兼学」)いた。天平時代の品物から宋元の古画、和漢の仏画、古筆、古墨蹟、陶器、銅器、蒔絵、近代の各流の書画にいたるまで、類別的に収集した品数の多さでは全国でも肩を並べる者はないであろう。
 あるときに、私と益田男爵とが藤田男爵に所蔵の宋元の古画を一覧させていただきたいと申し込んだところ、男爵からの答えはご覧には入れるが、ただ、宋、元とだけ言われても困ってしまう、宋元の馬氏とか、夏氏とか、李氏とかと分類して御所望願いたい」と、このように大きく出たので、ふたりとも実に驚いたものだった。
 男爵が私たちにこのような大言を放ったのは、少しばかり相手を見損なっていたからだともいえるが、とにかく、男爵のコレクションがいかに豊富なものだったかを証明するに足る話だろう。
 男爵が大阪の網島邸に宝蔵を建てるとすぐに内部一面には木版を張り合わせ、その間には乾砂を詰め込み、さらに銅板を張り巡らすなど建設の最初の段階から完全に湿気防止をした。この宝蔵が落成したときには私たちに向かって拙者の倉庫は即日名器を入れても差し支えないように構造したと、その苦労談を語られていたものだ。
 男爵は、名器を購入するにあたり一度もその値段をきいたことがなかった。道具屋が品物を持参すると、それを見て、ただいるとかいらないとかと言うだけなので、出入りの道具商はその買いっぷりを喜んで、名品が出てくるや必ず藤田家にそれを持参し、まずはいるかいらないかを確かめた上で、はじめて他家に持ちまわるようになったのだそうだ。
 ところで男爵の道具鑑定においての天狗ぶりは天下無敵で、誰をも眼下に見下すような傾向があった。たまたま上京したときに好事家の道具を鑑賞するようなことがあっても、この品はかなり上手ではあるが、俺の家にはもっと出来のよいものがあるとか、この品は無傷だが、俺の家のに比べたら、少し見劣りするところがあるなどと言い、どんな品物でも俺の家にないものはなく、俺の家のものより好きになるものはないというのが男爵の器物鑑定における建前なのだった。

 そういうわけで、私はいささか小癪にさわる思いもしたものだから、その揚げ句にいたずらっ気を出し、あるとき男爵を牛込矢来町の酒井忠道伯爵邸に案内し、同家の道具の虫干しを拝見させてもらいに連れて行ったことがあった。
 このときに酒井家の書院に陳列されていた品物には、次のようなものがあった。
 茶入では、飛鳥川、橋姫、畠山、国司茄子、木下丸壺、利休鶴首、寺沢丸壺、玉柏、北野肩付、羽室文琳の十点があり、天目には、油滴、虹、夕陽。花入には、青磁吉野山、古胴角木があった。墨蹟には、無準(注・ぶじゅん。牧谿の師、無準禅師)、兀庵(注・ごったん)。絵巻物には、伴大納言、吉備大臣入唐があった。
 このような銘器、名幅の三十六点が、所せましと並んでいたものだから、さすがの男爵も唖然として、世間には「俺が家」以上のコレクターがいることを初めて知ったのであった。また、大阪に住んでいるためふだん大名道具を間近に見る機会がなかったので、自分のコレクションに宋元、あるいは、日本の古画が不備であることを自覚したのだった。
 このときから、この不備を埋めるために急に私などにも依頼が来たので、私の手だけでも、前後、数幅を周旋したし、また男爵が井上侯爵に頼んで深川鹿島家所蔵の夏珪の山水幅を譲り受けたのもこのような動機から出たものだったのである。(注・106にこの経緯の短い説明あり)
 藤田男爵の道具好きについては、ここにもっとも有名なエピソードがある。明治四十五(1912)年の三月末大阪で行われた、生島家蔵器入札のときのことである。
 出品されたものの中に交趾焼の大亀香合があった。この香合は、名物香合番付で昔から大関(注・横綱はなく大関が最高位)の位置を占めているもので、松平直亮伯爵所蔵の不昧公遺愛の同香合と、天下の双璧として知られているものである。それに先立つこと藤田男爵は、道具好きの割には、みずから茶会を催すことがあまりなかったので、適当な名品が揃ったら生前に一度は会心の茶会を催してみたい、ということで、だんだんに器物を集め始めた。そして、あとは交趾の大亀香合さえ手に入れたら、思い通りの道具仕立てができるからといって何度もこれを所望したのだが、生島氏がこれに応じることはなかった。そんなことで、なすすべもなく月日を送るうちに、藤田男爵は大病にかかってしまった。
 生島家蔵器入札の当日は、まさに、男爵の臨終の日だった。男爵は、前々から欲しくてたまらなかった(原文「兼て執心の」)大亀がいよいよ入札市場に出たので、是非ともこれを買おうとしたが、その入札金額が、生島氏の希望額に達していなかったために、親引(注・売立を請け負っている道具商に戻ること)になってしまった。
 そこで藤田家のお出入り道具商であった戸田弥七露朝は、藤田男爵の病床に進み出てその指示を待った。そしてとうとう示談で、当時のレコード破りの九万円で売買の相談がまとまったのであった。

 この吉報のたずさえて戸田が男爵の病床に駆けつけたときは、今や男爵が最期の息を引き取らんとする時だった。耳元で声高に大亀を取りましたから、ご安心なされませと伝えたところ、その声がよく心根に徹したとみえて、男爵はニコリとして安らかに瞑目されたという。
 この一事は、男爵のふだんからの道具への執心が臨終の際までも変わることがなかったことの証拠で、後世にも伝えてゆくべき美談である。藤田家が大正時代において天下屈指の大コレクターになったのは、男爵にこの意気があったからであろう。


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百四十七  明治実業の六雄八将(上巻510頁)


 私の二十一年間の実業生活のあいだに知り合った先輩実業大家について見聞した事実を述べたり、その批評をしてみたいと思うが、「箒のあと」の体裁としてあまり一方に偏ることもできない。そこで、ひとりひとりについてではなく、何人かを古人に比較してその輪郭を示してみることにしよう。
 私がひごろ日本の歴史を読んでつらつらと考えることは、天正時代(注・信長、秀吉の時代)の英雄豪傑が、強い意気込みで(原文「手に唾して」)諸侯に列せられて封土を得ようとしたのと、明治時代の実業大家が時運に乗じて資産を作ろうとしたのとには、非常に類似するところがあるということだ。
 ならば天正と明治の人物について、その出身や成功失敗の足跡を対照してみれば、その人物像を想像することができるであろう。
 そこで今回は、水戸の儒臣、青山延光著「六雄八将論」を使わせてもらい、明治の実業大家と比較対照してみることにしよう。だいたい次のような顔ぶれになるのではないか。
 
 まず六雄は、


    上杉謙信    渋沢栄一
    武田信玄    大倉喜八郎
    毛利元就    安川敬一郎
    北条早雲    安田善次郎
    織田信長    岩崎弥太郎
    豊臣秀吉    藤田伝三郎


 そして八将は、
    蒲生氏郷    中上川彦次郎
    佐々成正    松本太郎
    小早川隆景   益田孝
    加藤清正    森村市左衛門
    加藤嘉明    近藤廉平
    黒田如水    川田小一郎
    前田利家    古河市兵衛
    伊達政宗    浅野総一郎


 さて以上のように見立てたところで、この比較の理由を説明しようとすると、あまりにも冗長になってしまう。そこで、主だった四、五人についてごく簡単な短評を試みてみよう。

 明治時代、わが国の実業界に雄飛した渋沢栄一子爵は、資産はあまり大きくなく、もしも富だけを比較するならば、世間にはその何倍もの資産を持つ者もあるだろう。しかし、その徳望が大きいことにかけては当世の第一人者であり、まるで上杉謙信が領地もあまり広くはなく、人数もそれほど多くはないのに、侠名義声(注・義侠心が強いという評判)が天下を動かし、隣国もみな畏敬していたのと非常に似通ったところがある。敵の塩がなくなったときいて車に積んで送り、敵の大将が死んだときいて箸を投げて泣いたというほどの義侠心を現代の実業家に探してみるならば、渋沢子爵をおいてほかにはいないと思う。

 織田信長に見立てた岩崎弥太郎氏は、人となりが闊達果敢(注・大胆でのびのびとしている)である。相手の機先を制することに長け、かの共同運輸会社との競争で、ついにはこれを三菱汽船会社と合併させるに至ったときの作戦ぶりなどは、信長が桶狭間の夜襲で今川義元を打ち負かし、浅井、朝倉を滅ぼして京都に攻め上がった軍略と非常に似通っている。また、酒をかぶって意気込み、古今の英雄を睥睨(注・へいげい。にらみまわす)するあたりもほぼ同じだ。信長がとんだ災難で身を滅ぼし、弥太郎が胃癌にかかって早死にしたのも多少似ているところがあるかと思う。

 豊臣秀吉に藤田伝三郎を比較したのはいささか不真面目かもしれないが、藤田が大阪を根城に、網島に桃山式の大伽藍を造営し、書画骨董品の富で天下に匹敵する者がなかったこと、また太閤秀吉の豪奢を明治に継いで、五尺の小柄な体は一見したところ子猿のような見かけでありながら、その胆力の天下を圧するところも、いささか秀吉公に類似していると言えようか。

 八将のほうでは、蒲生氏郷を中上川彦次郎に比擬した。蒲生が群雄の中にあって、人品骨柄が一段とすぐれ、いったん采配を握ったならば百万の大軍をも指揮するというその大将ぶりと、中上川が白皙長身(注・色白で背が高い)の堂々とした風采で、明治実業家の中で異彩を放っていた点に類似点があるからである。氏郷が信長を舅に持ち、名門の威力で諸侯を圧倒したことも、中上川が福澤先生を叔父に持ち、背景に一層の重みが加わったことに似ている。また氏郷と秀吉の遭遇は、中上川と井上侯爵との遭遇に、やや似ていると言えないこともない。氏郷の述懐に、


   限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風


と詠じたものがあるが、これは中上川の心境とまさしく同じだったのではないだろうか。

 明治実業界の六雄八将については、拙著の「実業懺悔」に詳述してあるので今はこの辺でやめることにし、その他はすべて読者の比較研究にお任せする。なお、以上の六雄八将のうちで私がまったく会うことのなかった人物は、岩崎弥太郎のひとりだけである。


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百六  道具争奪戦の勝敗(下)(上巻366頁)

   
前項(注・105を参照のこと)で、井上世外侯爵が、福地桜痴の考えた策略で益田鈍翁の牧谿筆の蜆子図を巻き上げようとしてまんまと失敗したこと、また馬越化生翁所蔵の赤絵徳利を徴発しようとしてとうとう目的を果たせなかったことを記述した。これらは井上侯爵の完全な敗戦である。一方、今度は反対に侯爵の作戦がうまくいって、鈍翁、化生翁が敗者になって指をくわえてその奇勝をうらやましがることになったエピソードがある。
 それは明治三十四、五(19012)年ごろのことだった。深川木場の鹿島清左衛門家で、同族の誰かが三井銀行から借金した手形の保証に立っていたため、その支払いのために道具を処分する必要が生じた。そこで人を介して馬越化生翁に相談したところ、化生翁はかねてより鹿島が道具持ちであることを知っていたので、山澄力蔵(注・道具商)を、鹿島のところにやって下調べをさせた。すると、道具の点数が非常に多いだけでなく伝家の名品が少なからずある。そのうえ、質草に取ってそのまま流れ込んだ大名道具も少なくないことがわかった。

 やがて山澄による道具の調査が終わりその評価が定まったところで、化生翁はまずこの宝の山に乗り込むことにした。そして、なかでもいちばんたくさんあった宋、元時代の書幅をはじめとして、名物の勢至茶入(注・遠州蔵帳に掲載)や釘彫伊羅保茶碗などという、かずかずの名器を獲得した。
 ところで、そのころ同人のなかで馬越翁が桜川宋元の異名で呼ばれていたのは、翁が芝桜川町に住み、しかも鹿島家伝来の宋元の名幅を多数手に入れたからであった。しかし道具があまりに多すぎてひとりでは買いきれず、かつ自分には不向きなものもあったので、道具数寄仲間の益田鈍翁に耳打ちをし、山澄を手引きにして鈍翁を鹿島家に乗り込ませた。するとこれまた数々の名品を選んで手に入れることになり、両翁とも道具運に恵まれた幸運児になったと有頂天になっていた。
 しかし鹿島家には先代からの申し伝えで、名器のなかの名器と言われる三十六点を非売品としこれには初めから手を触れさせぬことになっていたため、両翁ともこれはいかんともしがたく、高嶺の花だと眺めるだけでこれを摘むことはなかったのである。
 そんなときに、横から飛び込んでその非売品をひとつかみにして去った者があった。両翁はトンビに油揚げをさらわれたように開いた口がふさがらず、山澄までもが骨折り損のくたびれもうけに終わってしまったのである。その大トンビはほかでもない、井上侯爵なのであった。

 それはこうだ。益田、馬越の両翁は鹿島家の宝蔵に飛び込み、たらふく名品を頬張ったが、最初から非売品と決定していた名物の三十六点についてはどうすることもできず、ただ舌なめずりするだけであった。でも、それ以外で自分が欲しかったものはすでに手に入れたということで、もう秘密にしておく必要もなく、化生翁はある日井上侯爵を訪問し、のろけまじりにことの次第を話したのである。
 侯爵はその話を何気なく聞いていたが、さて、鹿島家の道具処分に関して、ほかにもうひとり有力者がいることを知って、その人を案内人にして、化生翁らに気づかれないように、みずからも鹿島家に乗り込んだのである。
 井上侯爵の機敏なことといったら、あの賤ケ岳の合戦で豊臣秀吉が、佐久間盛政がまだ陣地を引き払っていないのを聞いて小躍りして進撃したのと同じであった。侯爵は鹿島の主人に面会し、家政整理の状況から不要道具の売り払いの事情までを尋ね根本的な家政立て直しを勧告したものとみえる。とにかく主人も承服して、例の非売品のなかから若干を手放そうと申し出たのである。

 つまり、益田、馬越の両翁が高嶺の花と眺めた唐代の絵画の最高の絶品である、東山御物の徽宗皇帝筆桃鳩図や、大名物木津屋肩衝茶入や、瀬戸伯庵茶碗、名物包丁正宗など、稀代の名品がたちまちのうちに内田山に移動して、侯爵が手ずから活ける花となったのである。これらは侯爵の従来のコレクションに加えられて、ここに一段と光彩を添えることになり、侯爵を一躍天下の大コレクターの巨頭にならしめたのである。
 この非売品の中には夏珪(注・南宋の画家)の山水堅幅があったそうで、あまりに名品が多かったために井上侯爵が見逃されたということを聞き、私もすこしばかりちょっかいを出してみたが、このとき藤田伝三郎男爵が井上侯爵の許可を得て、四千円内外で買収されたとのことがわかったので、私は遠くから匂いを嗅ぐだけで引き下がることになった。この幅は後年、藤田家道具入札で十余万円の高値を呼んだものである。
 とにかく、この一戦においては、井上侯爵に作戦の裏をかかれて、益田も馬越も顔色なかった。惜敗どころか、まったくの惨敗だったといえよう。道具争奪戦における三雄の一勝一敗で、今振り返ってみると非常に興味深いエピソードだと思う。  


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 七十三
謡曲稽古の発端(上巻243頁)

 三井銀行大阪支店長として足かけ三年間大阪にいたときに、私は二種類の道楽に入門した。ひとつは能楽で、もうひとつは茶道である。
 まず謡曲のほうから話すと、それは明治二十六(
1893
)年の暮れのことだったと思うが、岩崎久弥男爵三菱銀行支店の視察のために来阪したときのことだ。当時の支店長の荘清次郎、同理事の寺西成器、日本銀行支店長の鶴原定吉氏と私が、大阪の料理店、灘万楼に招待された。
 寺西氏は加賀の出身で加賀宝生流の達人だったから、宴もたけなわになると、久弥男爵が寺西氏に何か一曲謡ってはどうかと言われた。しかし寺西氏がしきりに謙遜しているので久弥男爵は高圧的な態度に出て、拙者の命令なのだからとくと謡われよ、と言い出される。そこで寺西氏は「松風」のロンギを謡ったのであるが、加賀流の少し鼻にかかる癖はあるものの、梁の上の塵も動かすようなすばらしい美声だった(注・中国の故事。魯()の虞公(ぐこう)という声のよい人が歌をうたうと、梁(はり)の上のちりまでが動いたという)。これには一同みな感心して喝采し、このときから私と鶴原氏、荘氏も謡曲を習ってみようという気になったのである。
 このころ大阪に、宝生九郎の門下で名古屋出身の木村治一という六十歳くらいの専門家がいたのですぐに入門し、鶴原氏は謡曲だけを、私は仕舞も併せて稽古することになった。
 それからは寺西氏を先生格にして、私、荘、鶴原の三人の自宅で順番に、約一年間練習を続けもした。そのあいだに、だんだんうまくなってきたと天狗になっていったが、松風のロンギのなかの「灘の汐くむうき身ぞ」というところを、宝生流では甲繰り(注・かんぐり高音)で謡うので、初心者にはなかなかむずかしい。さすがの大天狗どももこれには閉口で、松風の謡曲が始まると、うまく灘を越せればいいのだがと、食べるものにまで注意し、前もって喉の養生をするというような大騒ぎだった。
 私はこれをきっかけとして、謡曲から仕舞、仕舞から能楽へと深入りすることになった。その後東京に移ってからは、三井一家がみな梅若流なので、私も宝生から梅若に改宗することになった。
 なお、このころに大阪の紳士のなかで謡曲を好まれたなかでは平瀬亀之助氏が群を抜いてすばらしく、氏は金剛流の家元を補佐したほどの玄人だったが、痩せぎすの体格に似ず、勧進帳などを謡えば、音吐朗々として一座を圧するほどであった。

 藤田伝三郎男爵は、小柄で身長も五尺(注・約150センチ)に満たない小男だったので、その声もか細い低音で、あるときに平瀬亀之助氏と同席で「景清」の「松門ひとり閉ぢて」の一節を謡ったときなどは、平瀬の耳をつんざくような大声に対し、藤田の蚊の鳴くような低音が両極端の対照をなしていた。
 藤田男爵はまた好んで仕舞を舞い、あるときに私が益田孝男爵と一緒に男爵の網島邸を訪問したとき、大得意で「遊行柳」の曲舞を見せられたものだが、地を謡っていた生一佐兵衛という先生の声が非常にききとりにくくほとんどきこえないところにもってきて、藤田男爵の声もまた例の蚊声であるから、一生懸命ふたりに耳を傾けても何を謡っているのやらわからず、藤田の門を辞しての帰り道、今日は親戚以上のおつとめをさせられたと、顔を見合わせて笑ったなどということもあった。


道具道楽の萌芽(上巻250頁)

 
 私は母方の血筋を受けて子供のころから文学を好み、書画もきらいではなかったようで、十一、二歳のころ、生家にあった唯一の宝物だった立原杏所(注・たちはらきょうしょ。江戸後期の水戸藩の南画家)の秋山独歩の着色図が大好きで、これを床の間に掛けるときにはその前に座ってじっと見つめていたことがあったことを覚えている。
 その後イギリスのリバプールに滞在中、名誉領事だったボウズ氏の日本美術館で、日本の書画骨董を勉強したことで絵画が非常に好きになった。十分とはいえない旅費の中からいくらかを割いて、イギリス、フランスの骨董店で油絵を三点買い、今でも記念に持っている。
 明治二十三(1890)年三月ごろにはじめて井上馨侯爵の麻布鳥居坂を訪問し、床の間になにやら極彩色の仏画が掛かっていたのを熱心に見入っていた私を侯爵が見つけて、君はそんなに仏画が好きなのかと、怪訝さ半分、うれしさ半分の顔できかれたこともあった。
 二十四(
1891
)年に三井銀行にはいり、東京本店で河村伝衛家の骨董品を処分する機会があったときに、そうしたものに一層の興味を覚えると同時におおいに鑑識眼も養うことができた。
 その後大阪三井銀行支店長となって平瀬、藤田、鴻池などの旧家に出入りするたびに、床の間にめずらしい幅が掛かっているのをみると自分でも欲しいと思うようになり、ソロソロと骨董狩りへ乗り出すことになった。
 給料の余りでぼつぼつ絵画を買い始めたが、最初は当たり前に
四条派のものから始めた。よく好んで藻刈舟を描き「儲かる一方(一鳳)」の語呂合わせで喜ばれて大阪で人気を博した森一鳳の「岩上の猿猴落花を眺むるの図」の、尺五絹本極彩色の
またとない傑作を四十円で手に入れたのだから、そのほかの道具の価格は推して知るべしであった。見つければ買い、見つければ買いしているうちに大阪滞在中にいっぱしの書画鑑定家になり、またコレクター(原文「収蔵家」)にもなったのである。


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 七十一
名家に名器保蔵(上巻241頁)

 われわれの先祖が数百年来保存してきた名物といわれる道具類は、じっさいどのようなものなのだろうか。難しく言うなら、わが国の国体に関連し、祖先崇拝の上での標的になり、国民道徳を維持するうえで欠かせないものだと思うが、いかがなものであろう。だがその辺の解説はしばらく置くことにして、今はわかりやすい説明をしよう。
 名物道具はだれが所有しているかにかかわらず、すべて国家の工芸美術の模範である。国民がこれを重要視せずに、これらの大切な見本を失うことになれば、単に国宝が消滅するだけでなく、その国の工芸美術が衰亡してしまうということは当然の帰結だ。
 維新の前には将軍家や三百の大名家がこれらの名物を保護してくれていたが、将軍や大名がなくなってしまった今、誰がこれを保護するのであろうか言うまでもなく国家、もしくは富豪や名家のほかにはそれができるものはないだろう。
 私は欧米を巡歴している最中に各国の実状に触れてこの意見を持つようになった。そして今、規模は小さいながら、この主張を実現する機会に遭遇したのでそれをここに紹介してみることにする。
 私が大阪の三井銀行支店に在勤中、三井家と姻戚関係のあった長田作兵衛の所蔵する道具が抵当流れになり、同店の二階建ての大きな土蔵に足の踏み場もないほどに詰め込んであった。この道具をどのように処分するかということが、私の赴任後まもなく持ち上がった問題だった。
 私は名家の道具について前述のような意見を持っていただけでなく、本店にいたときに河村(注・64に前出、第三十三銀行の河村伝衛)の道具を処分して、例の田村文琳が三百五銭に過ぎず、これらの名物を含んだ道具数百点の売上高がわずか数万円であったことから、長田の道具も今すぐに売却するとせいぜい十万円前後にしかならないだろうと思った。

 三井も今では整理が軌道に乗り始め二十四(1891)年の恐慌のときとはだいぶようすが変わってきているので、わが国の名家であるという家格から言ってもそれ相応の書画骨董を所蔵すべきであると思った。
 ついては、この抵当になった美術品を売却せずに全部三井に引き取り、同族十一家に分配するのが名器を保存する上策だとして長々とした意見書を書いた。これを中上川には送らずに、美術品についてもっとも理解のある物産会社首脳であった益田孝男爵に送ったところ、それが三井重役会の議題にのぼり全会一致で賛成を得た。
 そこで道具を全部、京都の三井呉服店の倉庫に移し、三井八郎次郎男爵(注・南家、高弘、号松籟)が取り仕切り、抽選で十一家に分配することになった。
 その抵当品のなかには、砧青磁袴腰香炉、応挙の郭公早苗三幅対、直径六寸(注・一寸は約三センチ)の水晶玉など、稀代の名品の数々があり、また藤田伝三郎男爵がかつて長田家で見て非常に称賛していた倪元璐(注・げいげんろ。明末の政治家、文人画家)の書幅もあり、今日の相場で見れば、おそらく当時の数十倍にはなっていることだろう。

 幸いにも分散することもなく三井同族のなかにとどめておくことができたのも、そのころ私のなかに芽生え始めた道具愛好の気持ちが動いたもので、偶然のことではあったが今思っても快心の出来事だったと思うのである。


銀行に女子採用(上巻243頁)

 私は明治二十七(1894)年、大阪の三井銀行支店に女子店員を採用するというアイデアを試験的に実行した。これは、前にアメリカのフィラデルフィアのワナメーカー百貨店を訪問したとき多くの女子店員を採用しているのを見て、日本でも商店で婦女子を採用する習慣を作らなくてはならないと思ったことがきっかけだ。その後、ヨーロッパ各国の商店でも同じような状況であったので、当時の日本においてはすこしばかり突飛な考えではあったが、まずは三井銀行で試験的にやってみようと思い立った。
 年齢十六、七歳から二十五歳までの女子で、小学校卒業以上の学力のある者を募集し、まず勘定方に入れて、そろばん、紙幣の勘定に熟練させることを目標に、最初は七、八名採用し約一か月訓練を行った。その成績は予想外によく、紙幣の勘定などは男性店員に比べてもはるかに正確で速かったので、いよいよ実務にもついてもらうことになった。
 ところが、公然と言う者はいないが、男性店員の中に女子の髪の毛のにおいが鼻について困るというような苦情が出てきた私は店員全員を集めて欧米諸国の実状を説明し、日本においても国家経済の見地から女子の就業をすすめていかなければならないとして、断固として女子の雇用を進めた。
 しかし女子店員の多くは未婚で、婚期が来ると退職してしまう者が多く、私が大阪支店を引き揚げたあとはあまり長く続かなかった。
 しかし私がこのアイデアを大阪の三井銀行で試みたことは評判となって、高橋は西洋帰りの新知識人でいろいろな工夫をやるようなので、そのころ問題になっていた三越呉服店改革の適任者だということで三井幹部の意見が一致し、私は三井理事の資格で三越呉服店の改革の任に当たることになったのである。

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七十 在阪知友の思い出(上巻237頁)

 私が三井銀行支店長として足かけ三年間大阪に仮寓していたとき、歳のころが三十前後で元気はつらつな知友が少なからずいた。今日から振り返ってみると、高青邱の詩に「十載悲歓故旧分、或帰黄土或青雲」とあるように、この栄枯盛衰の変転はきわまりなく実に感慨無量とならざるをえない。
 私らが発起人となって創立した大阪紳士社交団体の二水会というのが、昭和七(
1932)年に創立四十年を記念して会をやるというので私も参列するよう頼まれたが、当時の会員で東京に残っているのは私と岩原謙三君のふたりだけなので、私が東京を代表して出席したところ、同会員は四十年間に五十六人亡くなったのだそうだ。そういうなかでこの祭典が行われたことに私は驚き、霊前に腰折(注・自作の短歌を謙遜するときに使う)を一首捧げるとともに、昔の思い出のために次の七言絶句を口吟した。

なき友のみたま祭りて月花を 共にながめし春をしぞおもふ
 
  鴻爪留痕四十春 重遊今日感前塵
  鬢華怕照澱江水 曾是尋花訪柳人


 それらの知友のなかで非常に毛色が変わっていたのが、私の後任として三井銀行の大阪支店長になった岩下清周氏である。
 
 氏は信州人で、鼻っ柱が強く、とかく人を怒らせるような言動が少なくなかった。高等商業学校出身で、まず三井物産会社にはいってパリ支店に勤務、帰国後にも非常に突飛なハイカラぶりを見せて物産会社の重役が持てあましていたのを中上川彦次郎氏が引き受けて、この暴れ馬を御してみせようというつもりらしく、私の後任として三井銀行大阪支店長に採用したのである。
 氏は非常にシャープかと思うと、またオネストなところがあり、剛情かと思えば非常に親切なところがあるという矛盾した二面を持つ合金のような人柄だった。
 支店長になった披露に大阪の経営者たちを招待するときにも、それまでの慣例に従えば、堺卯楼などで饗応の宴をもつのが通例なのに、中之島ホテルに彼らを招待し、晩餐の席上で楽隊による演奏を行うなどのハイカラぶりを発揮し、最初から大阪人を驚かせた。
 暴れ馬には自分のほうから人を蹴る癖がある。ほどなくして三井銀行を飛び出し、藤田伝三郎男爵と握手して北浜銀行を設立した。そのころは一時的に大阪を制覇したように見え、また大阪、奈良間の電車鉄道敷設のような永久に残る事業も残したが、大胆で突飛な性格がとうとう失敗の原因となり最後まで事業の面倒を見られなかったのは気の毒であった。
 しかし彼はそれほど落胆するでもなく、引退後は富士の裾野で農園を経営し、死ぬまで鼻っ柱を曲げなかったというような一種の変人であった。
 武藤山治君。後年、鐘淵紡績会社社長として紡績王の栄冠を得るが、彼も当時交流のあった一人である。彼は当時、神戸の三井銀行から鐘淵紡績の神戸支配人になりたてのほやほやで、現在の令室である千勢子夫人と結婚されたのは明治二十七(1894)年ごろであったろう。夫人は、当時京都に閑居していた長州の詩人である福原周峰翁の孫娘で、私の前妻と友達だった。日清戦争のさなかに、日本軍がいまにも北京を占領しそうだという噂があったとき、千勢子令嬢はある会合の席で杉の箸をふたつに折って「これをペキン(北京)と折れば二本(日本)になりますよ」という洒落で喝采を博したことがあるという。いかにも朗らかな女性で、私たち夫婦が媒酌人になり大阪の堺卯楼で結婚披露宴を催したときには朝吹英二翁も東京から参会されたものだが、その武藤君が今日のような大物になられるまでのことを思い出すといろいろなことがあり非常に愉快でめでたいことである。

 また、当時の旧友の中でもっとも出世のめざましいのは、今の阪急社長、東電(注・のちの東京電力の前身のひとつである東京電燈)副社長として東西の実業界を股にかけるもうひとりの猛将、小林一三君である。
 彼は当時、三井銀行大阪支店に勤務していたが、明治三十一(1898)年に岩下清周君の北浜銀行に招かれ、まさに同行に移ろうとした直前にたまたま上京し私を訪ねてこられたので、私は彼に、今後もしも実業界に雄飛しようとするなら、あまり急がずに翼が十分に整うまではしばらく安全な場所にいるほうがいいのではないか、という意見を述べたのだが、そのひとことで彼は北浜銀行行きを思いとどまったということだった。 

 私はそのことを忘れていたが、古い付き合いを大切にする小林君は昭和六(1931)年の暮れに、私がそのときに彼に送った意見書の手紙を表具して麹町永田町の仮住まいの弦月庵の床の間に掛け、きわめて味わい深い記念茶会を開かれた。そのとき、拙者がもし、当時ご忠告によって三井銀行にとどまることをせずに、北浜銀行に転職していたら、岩下氏の部下と運命をともにしただろうことは当然の成り行きで、私が今日あるかどうかわからない、それを思うと、人生の岐路に立ったとき右に行くか、左に行くかの吉凶は、あとになってわかるもので、拙者などは幸いに魔の手を免れることができたような心持ちで、実に感慨無量である、と述懐された。これは、後進者にとっても非常に有益な体験談ではないかと思う。
 当時の大阪で私と親しくしていた友人のなかで、日本銀行支店長の鶴原定吉、三菱銀行支店長の荘清次郎のふたりはすでに亡くなり、三井物産支店長の岩原謙三だけが健在である。なお、今の東拓(注・東洋拓殖株式会社)総裁の高山長幸君も三井銀行支店に在勤していたと思うが、ともかくも、暁天の星のようにまばらに残っている友人たちが現在大物として存在していることはとても愉快なことである。


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六十八 大阪の商傑(上巻230頁)

 維新の前まで諸国大名の蔵屋敷を相手に封建的な商取引を長く続けていた大阪町人の大店が、維新の変動で将棋倒しに崩壊すると、一般の大阪人の元気も衰えてしまった。
 明治の初めに大阪で起業、興産ののろしをあげたのは、五代才助、中野梧一、藤田伝三郎、磯野小右衛門などの薩長人だった。また短い間ではあったが、井上世外侯爵が明治六(1873)年に下野したあとに藤田伝三郎、益田孝、木村正幹、馬越恭平らを取り込んでできた先収社という商会が大阪にあったこともこの情勢を物語るものである。
 それから十数年後にあたる明治中期の、私の三年間の大阪滞在中に接触した商工業界の巨頭には、以前からずっと続いて活動していた先輩あり、あるいは近年に台頭してきた新顔もあったが、とにかく近世大阪の財政史に特筆されるべき人物たちなので、ここで、もっとも傑出している数名についての短評を試みたい。
 明治中期における浪華財界の花形は、なんといっても第百三十銀行頭取の松本重太郎である。丹波間人町の出身で、頑丈な作りの身体はさながら力士のよう。顔つきもまことに大づくりで、眉毛が太く目も大きいといった感じで、それが大声で話をする、そのさばさばとした中に機略を感じさせるものがあった。第百三十銀行をバックに、大阪紡績をはじめとする新規の工業のほとんどに手を出し、大阪は一時、松本氏の天下のように思われた。しかしあまりに手を広げ過ぎたため、日露戦争の反動でまず銀行が破たんし、最後はあまり振るわなかった。養子の松蔵氏が後継者になり、それほどまでには零落の憂き目を見なかったことは不幸中の幸いだったと思う。
 次に、この松本氏のワキ役というべき存在は田中市兵衛氏であった。白髪巨眼に一文字の大口という、人形浄瑠璃に出てくる鬼一法眼そっくりの容貌だった。大阪旧大家の旦那であったため、どことなく鷹揚なところがあり、義太夫は堂にいり、玄人はだしであったそうだ。有望な市太郎という子息が早死にしてしまい、遺った事業を継続する人がいないようだが、干鰯問屋が本業で大阪米穀取引所の頭取をつとめ、大阪築港地付近に所有する土地が十万坪あり、のちに値上がりしたので遺族は裕福であるという。娘は中橋徳五郎夫人になっており、父の血をひいたためか長唄やその他の音曲に堪能だそうだ。
 もうひとり、大阪の大家を背景にして当時の重鎮のひとりだったのが、住友の広瀬宰平氏である。そのころ六十過ぎくらいだったが、維新のときに住友家が別子銅山を失わずにすんだのはこの人の尽力であったというから、住友家の今日があるのは彼に負うところが大きいのだろう。この人もまた大柄で、老体の紳士風に見える人だった。
 鴻池家の顧問だった土居通夫氏は伊予伊達家の藩士で、鴻池家と伊達家の関係から、同家の顧問になり、外交上の代表となっている人だった。この人もまた大きな身体で、素人としてはかなりうまく義太夫を語った。しかし田中市兵衛氏のような老巧者ではなかったので、聞き苦しいことがままあったらしく友人たちはできる限りこれを避けようとしたそうだ。しかしながら本人だけは大天狗で、「義経千本桜の熊谷を語らせたら、先代の津太夫よりも俺のほうがうまい、なぜなら、津太夫は努力して熊谷になろうとするが、俺は自分がすでに熊谷だからだ」と主張したのを摂津大掾が持ち上げて、「素人義太夫には玄人の及ばない特色があって、熊谷のようなものはまったく仰せの通りでございます」と言ったものだから、土居老人は鼻高々で、毎度のようにこれを自慢していた。
 大阪の旧大家である平瀬亀之助氏は当時五十歳あまりの旦那衆だった。この人は能楽、茶事、書画、骨董、音曲などの幅広い趣味を持ち、妙な習慣で昼間は寝通し、午後四時ごろに起き出して南地の富田屋はじめ一流のお茶屋に赴き、自分は一滴の酒も飲まず、取り巻き連中に芸尽くしをさせて長夜の宴を張るのを常とした。茶器の鑑定にかけては一見識を持ち、維新後に二束三文になっていた名器を多数買い込んでおいたために、明治三十五、六(19023)年ごろに同家の番頭の失策で家政が困難におちいったとき、所蔵の道具を売却することでみごとその欠損を埋め、ひごろは道具旦那と軽蔑していた番頭どもの失敗を、その道具旦那が尻ぬぐいすることになったというのは、まったく驚くべき話だったといえよう。
 鴻池善右衛門男爵はそのころ三十前後で、ときどき銀行業者の宴会などに出席されたが、その後はほとんど社交を絶ち、業務は番頭まかせであった。しかしきわめて器用な人で、自分で押絵を作ったり、古扇面の収集でもその数は二千本に達したという。
 私は大正十(1921)年五月に「大正名器鑑」編纂のために、同家の茶器の一覧させていただくお願いをし、鴻池新田の別荘で久しぶりに男爵と会見したが、新聞などで世間の動向をよくご存じで、道具入札の話になるとその記憶が確かなことには実に驚かされたものだった。
 以上の何人かは、明治中期における大阪大家のなかの主だった人物である。


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五十二  初見の井上馨侯(上巻169頁)

  私のことは渡邊治からすでに井上侯爵の耳にはいっていたが、まだ会見にはいたっていなかった。そのころ私は吉川泰次郎氏に連れられ、明治二十二(1889)年の暮れに大阪に赴いた。翌二十三年の一月、私は年初を須磨の保養館で四、五日休養しようと大阪か汽車に乗った。するとその汽車に偶然井上侯爵が乗っていたので、神戸までの車中で吉川泰次郎氏が私を侯爵に紹介してくれた。
 侯爵は何年か前に伯爵になったとき、藤田伝三郎、松本重太郎、田中市兵衛、磯野小右衛門ら、侯爵といちばん親しい大阪の会社経営者から、むかしの殿様が着ていたような鼠地綾形模様紋付と仙台平の袴、黒の五つ紋付羽織を贈られていた。それを今回、彼らに見せようということで着用されていたが、私に対してはいたってていねいに挨拶してくださり、かねてからお名前をきいているので腰をおちつけてお目にかかりたいと思っているが、これから三月ごろまで長州(注・現山口県)に行っているつもりだから、東京に戻ったらゆっくりお話ししましょう、と言われた。
 侯爵とは神戸で別れたが、その後予定通り三月になり帰京されたので、約束どおりに侯爵の麻布鳥居坂邸を訪問した。このときは鳥居坂西側の邸宅の改築中で、向かい側にある邸宅に仮住まいされていた。その庭は一面青々とした芝生で、客間の床の間に何やら大きな仏画がかかっていた。
 私はイギリス滞在中にボウズ氏の美術館で日本画の研究をしてきたので、さっそく、その仏画の前に座りそれに見惚れていた。するとそこへ井上侯爵がはいってきて、君はそんなものが好きなのか、と不思議そうな顔をされ、同時に、ずいぶん話のわかる奴ではないかと言わんばかりに、非常に好意的に私を迎えてくれたのである。
 侯爵は、自分はいたって単純な性格で、初対面のときから腹の中を打ち明けて話をする流儀なので今日もなにもかも隠し立てせずに話す、と言われた。
 「俺は、元来友人となれば、どこまでも親切にする。また敵となれば、これを打倒しなければすまないという、もって生まれた性質があって、いいのか悪いのか自分にもわからぬが、とにかく今日まで少しもかわるところがない。そのために敵から憎まれるばかりでなく、あまりに親切が過ぎて、こうだと思うと、口を割ってでも薬を飲ませるようにするので、味方からもよく嫌われるようなことがある。つい先ごろも、黒田(注・黒田清隆)が、酒に酔って俺のところに押しかけてきて、玄関で声高に、国賊と口走ったことを聞き、そのときは留守であったが、帰宅ののちさっそく短刀を懐にして、黒田のうちに押しかけていったが、実は彼と刺し違えるつもりであった。しかし彼が留守であったから、よんどころなく引き返してきたところへ、西郷(注・西郷従道)が中にはいってしきりに詫びを言うものだから、俺はとうとう容赦してやったが、相手が強ければ強いほど、俺はますます強く出るのが持って生まれた性癖である。」
というようなことであった。
 それから十日ほどのち、一度ゆっくり会いたいと言われたので再び侯爵を訪問した。すると、今日はすべての来客を断ったからのんびり話すことにしよう、君はすでに外国の商業事情を視察してきて、これから日本の経済界で活躍するつもりだろうから、俺が維新のはじめに大蔵大輔として日本の財政整理をしたときのことを詳しく君に話しておこうと言って、それから維新後の財政状況や、諸藩札の始末についての苦労談をきかせてくれた。
 また太政官札(注・慶應四年五月から発行された政府紙幣)が信用をなくして
紙幣同士に大きな価値の差が出てしまったとき、内閣会議の席上で三日以内に紙幣の相場を同一にしてみせると断言し、その夜、横浜から糸平田中平八を呼び寄せて、彼に内々に太政官札を買い上げさせ、同時にほうぼうに手を回して太政官札の取引に差つける者を懲罰する方法を考え、予言したとおりに
太政官札を額面通りの価値で流通させることに成功した苦心談を話された。
 その日は午前十時ごろから話しはじめ、昼食をともにしたあと再び話し続け、三時半になっても侯爵の談話はまだ終わらなかった。それを見て、私は侯爵の気力の旺盛さに感服したものだった。この時の侯爵は五十八歳で、これが私と井上侯爵とが知り合った最初のころの話(原文「序幕」)である。


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 五十一
大阪の紳商(上巻166頁)

 明治二十二(1889)年の暮れ、日本郵船会社副社長の吉川泰次郎氏は私を大阪の実業家(原文「紳商諸氏」)たちに紹介しようということで、私を連れて大阪に出かけた。
 そのとき私は北浜の花外楼に宿泊した。吉川氏は当時網島にあった立派な自邸のちに藤田伝三郎男爵の邸宅になるに宿泊したので宿は別だったが、毎日連れ立って諸氏を訪問した。
 ある晩吉川氏が大阪の経営者たちを招き、私のための、いわゆる顔つなぎの会合を北浜の専崎楼で開いてくれたことがあった。そのとき集まったのは、藤田伝三郎の三兄弟(注・兄藤田鹿太郎、弟・久原庄三郎)、磯野小右衛門、平瀬亀之助、松本重太郎、田中市兵衛、土居通夫、広瀬宰平、岡橋治助らだった。
 藤田氏は山口の出身で、井上馨侯爵とごく親しく、あの偽札事件で有名になったが、三兄弟の共同経営事業は当時まだ微々たるものだった。そのころ伝三郎氏は北浜の天王寺屋五兵衛、すなわち天五の旧宅に住んでいた。
 平瀬亀之助氏は大阪の旧家で、骨董の鑑賞に非常にすぐれ、金剛流の能楽に堪能で、当時の大阪旧大家の代表的存在とみなされていた。

 松本重太郎氏は丹波間人町の出身で、第百三十銀行の頭取。大阪随一の活動家として知られていた。
 田中市兵衛氏は、干鰯(注・ほしか)問屋が本業で、大阪米商会所の頭取で、松本氏とともに浪華(注・なにわ)実業界の両雄と称されていた。
 土居通夫氏は鴻池の顧問として評判が高かった。
 岡橋治助氏は質屋タイプの金融業と地所の所有で知られていた。 
 広瀬宰平は住友を代表して、維新の際の同家の危急を救った功労者である。
 

 当時の日本の経済界は非常に規模が小さく、日本第一の金蔵である大阪で十万円以上の資産をもっている者で組織した「修齊会」の会員がわずかに三十人前後に過ぎなかったことを見てもその状況はおしはかれるだろう。(注・修齊会については、69にも記述あり)
 こうして私は吉川氏のおかげでいっぺんに大阪の大会社の経営者たちと知り合いになることができ、数年後に三井銀行の大阪支店長になったとき期せずして非常に大きな便宜を得ることになった。これは予期せぬしあわせであった。
 


川田の漫画
(上巻167頁)


 私をひきたててくれた日本郵船会社副社長の吉川泰次郎氏は川田小一郎のち男爵氏の支持者だった。川田氏は新しく日本銀行の総裁になったばかりで、当時の東京の財界の覇権を握っていた渋沢一派に敵対する存在として対峙していたから、ひとりでも多く支配下に人材を集める作戦であったようだ。それで吉川氏は川田氏に私を推薦して日本銀行に採用してもらうように働きかけたのである。

 一度川田氏に面会するようにということだったので、ある日、小石川江戸川町の川田邸を訪問することになった。氏は大柄の肥満体で、相撲の親方のようだった。もともと難しい性格なのに、このころ腎臓病を患いときどき気分が悪くなることがあるため、いつ機嫌が悪くなるか予測できないようなときだった。私が訪問した日は特に気分が悪かったようで、いかにも無愛想で取りつく島もないありさまだった。
 私は外国で視察してきた商業上のしくみについて、いささかの所見を述べるつもりであったのに、その日はすっかり当てがはずれてしまった。それでどうにも癪にさわり不愉快で、こんな男のために働くものかと、初対面のあいさつだけ済ませてはやばやと退散したのである。
 ところが明治二十三(1890)年にはいり、私が横浜貿易新聞を主宰することになったときにこんなことがあった。当時の横浜では、地主と商人が二派にわかれて対立しており、この貿易新聞は商人派の頭領であった小野光景、安西徳兵衛、田中茂らの機関新聞になっていた。その主宰を頼まれたので腰掛け程度の気持ちではあったが引きうけ、東京から横浜に毎日出勤してその編集を指揮することになった。
 ある日のこと、大付録をつけることになり、私の考えた漫画を載せることになった。それは、日本丸という船に乗った船頭が、艪(注・船を操縦するへらのついたさお)にすがりついたまま首を垂れ途方に暮れているという図だった。以前、三菱汽船会社の大番頭だった川田が、勝手のちがう日本銀行という金融機関を操縦するのは大いに骨の折れることだろうと風刺したもので、これは日銀総裁になりたての川田にすれば非常に不快であったにちがいない。
 翌日、吉川泰次郎氏に呼ばれて向島の家を訪問すると、平家蟹のような顔を烈火のごとくいからせて、君はとんでもないことをしてくれた、僕は川田さんに対してなんとも申し訳がないではないか、と言う。言われてみれば張り切りすぎの若気のいたりで、すこし悪ふざけの度が過ぎたようだ。後悔したが、もうどうすることもできないので二度とこのようなことをやらないようにすると約束してほうほうのていで逃げ帰った。 
 川田という人は土佐風の政治家肌の人で、臨機応変な機知に非常に富んだ策略家だったが、私はどうも肌が合わなかった。のちに三井銀行にはいってからも用件以外のことではあまり近づくことはなかった。
 しかし明治二十四(1891)年に三井銀行、第一銀行に取付け騒ぎが起こったとき、川田氏は最後には渋沢さえも黙らせ、いっときは日本の経済界全体が川田氏の動向を注視するほかはないような状況になった。これなどは、やはり川田氏が偉才であったことを証明しているであろう。



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 三十七
客来一味(上巻119頁)
 
 明治二十(
1887)年、麻布鳥居坂の井上侯爵邸で天覧劇があったときのことである。井上侯爵は自邸に天皇陛下をお招きする光栄に際し各部屋ごとに最高の飾りつけをしたが、なかでも玉座の置かれる書院の床の間に東山御物(注・室町幕府の将軍とくに八代義正が収集した絵画や茶器などの宝物)の牧谿(注・13世紀中国の水墨画家)作「客来一味」の対幅を掛けた。

 明治天皇は、とくにこの幅に目を留められ非常にお気に召したご様子なので、井上侯爵この二幅のうちの一幅を献上し、一幅は自分の家に置いておきたい旨を奏上すると、さっそくそれでよいということになった。天覧劇が終わり夜もふけたころ、お帰りの際にさきほどの幅を宮中にお持ち帰りになったとのことだった。

 さて、この牧谿の手になる「客来一味」というのは、淡い墨で蕪を描いた作品である。貧乏な寺に客が来た時になにもごちそうするものがないので、裏の畑でとれた蕪だけで間に合わせる、というはなしにちなんで名付けられたのである。その図柄に味わい深い趣があるため、日本においてもこれにならうものは多く、元信、雪舟、探幽などにも同じ画題のものがある。この牧谿の作は東山御物のなかでも有名なもののひとつだが、維新のあとにある大名から売りに出されたときに二幅が分かれて、一幅が井上侯爵の、もう一方は神戸の川崎正蔵氏の所蔵するところとなった。しかし井上侯爵が、もともと二幅の対なのだから、ぜひともその一幅を自分に譲るようにと、川崎氏からほとんど強制(原文「徴発」)的に取り上げた品だったのである。
 さて、天覧劇から五、六か月たって、井上侯爵が家に残っているはずの客来一味の幅を取り出そうとしたところ、どこにあるのかわからず、よくよく調べてみると明治天皇がお帰りの際に二幅ともお持ち帰りになったということがわかった。
 その後侯爵は、参内のついでにこのことを申し上げ、あの掛物は、一幅を宮中に献上しもう一幅は自分の家に残すはずでしたので、どちらかの一幅をお渡しいただきたいと願い出た。すると陛下は、なにか思われたようで、声を立てて笑われ、せっかく持ち帰ったので二幅とも手元に置いておこう、と仰せになったため、そのまま宮中にとどまることになった。
 さて一方、この話をもれきいた神戸の川崎正蔵翁は、手をたたき鳴らしておおいに喜び、井上侯が拙者より取り上げたる幅を、今度は宮中に召し上げられたそうだから、これで拙者も大満足なり、と言われたそうだ。
 その後、皇后大夫の杉孫七郎子爵が皇后陛下に、そのことをよもやまばなしとしてお話ししたのであるが、杉子爵のことであるから、掛物献上の経緯をありのままにおもしろおかしくお耳にいれたのである。すると皇后陛下はこれを興味深くおききになり非常に気の毒がられ、さいわい手元に弘法大師筆の不動尊の一軸がるので、これを井上にやってください、と仰せられたので、杉子爵はありがたくお受けしさっそく井上侯爵に伝えた。
 この不動尊は弘法大師の直筆で、承和二年年於清涼殿画之という落款がある。(注・承和二年は西暦835年)。幅が一尺(注・一尺は約30センチ)、長さが三尺ほどのぶりな幅ではあるが、長く醍醐寺に伝わったものが宮中に献納されたものだったので、侯爵は皇后陛下の厚いご慈悲に感激し、その喜びもただごとではなかった。そしてこの不動尊を掛けるたびに、かならずこの経緯を物語られたので、井上侯爵と親しく交際した人のなかで、この話を一度二度聞かなかった人はいなかったであろう。


鳥差瓢箪
(上巻
121頁)

 井上侯爵の茶道具の話のついでに、もうひとつのエピソードを話しておこう。侯爵は生まれながらの道具好きとみえ、明治二(1869)年に長崎判事として九州に赴いたとき、福岡で、祥瑞沓形向付五人前をわずか数円で手に入れたのをはじめとして、名品を見つけるたびに買い集めたので、やがて蔵品豊富な大収集家になられたのである。
 明治十四(1881)年ごろ、侯爵は外務大臣として、外務省の権大書記官信局長だった中上川彦次郎氏をともない関西に出張した。大阪の旅館に一泊し、地元の道具屋(注・古美術商)が持ってきた染付鳥差瓢箪という形物香合を侯爵が喜んで買い取っているのを中上川氏が横でながめながら、そんなものに大金を投じて、なんとなさる思し召しか、私ならば糊入れ壺にでもするほかありません、と言われたので、井上侯爵は大声で笑い、君のような書生坊にかかっては、名器も三文の値打ちもない、といって、ちょうど訪問した藤田伝三郎氏にこのことを語り、「縁なき衆生は度し難いね(注・仏の慈悲があっても仏縁のないものは救えないことから、忠告に耳を貸さない者はしょうがない、の意)」とその話をして笑ったとのことだ。
 しかし中上川氏は晩年、腎臓病にかかり引きこもりがちになったとき、僕もすこし骨董いじりを覚えていたら、これほど無聊(注・退屈)を感ることもなかったろうにと、時々口にされることがあったので、私はいつもこの例を出して、友人に趣味を持つようにと勧めることあったのである。


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