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第四期 実業 明治二十四年より同三十四年まで
第五期 実業 明治三十五年より同四十四年まで
下巻目次
第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
二百九 森村翁懐旧談(下)(下巻220頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)、208森村翁懐旧談(中)からのつづき)
森村市左衛門翁の懐旧談は、こんこんと尽きることがない。今日も、そのいちばん有益で興味ある部分を続けることにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)
「福澤先生が時事新報を発行せられた直後、手前は先生に向かって、どうも新聞に六つかしい字が多くって、読みにくくって困るから、もっとたくさん、ふりがなをつけていただきたい、と申し出たところが、先生の言に、ふりがなを多くつけようとすると、費用がかさんで新聞の経済に関係するが、しかしもしお前が読みにくいというようでは、世間一般に困る人が多かろうから今後は一層多くふりがなをつけよう、ということであった。
それから、そのころ正金銀行が外国為替相場を秘密にして、その間にかけひきをなすので、これも先生にお願いして、為替相場表を毎日、新聞に出していただくこととしたので、正金銀行なども、もはやごまかしができなくなって、当時の外国貿易商人にとっては非常の便利でありました。
福澤先生は、つねに独立ということを説かれ、商売人は他人に依頼せずして、みずから商売上の工夫をなさなくてはならぬ、独立の工夫のない者は、決して偉い商売人にはなれない、と言われた。
その実例に『昔、越後屋の手代が外出して帰りが遅くなったのを番頭が大いに叱りつけたところが、その手代が申すには、私は今日、某所で非常に面白い柄の帯を締めていた女を見かけ、その柄を見届けようと思って、あとを追いつつ両国の方まで参り、その女がある家にはいったので、やっと気がついて、ただいま帰店したのであるが、その帯の柄はかくかくのものであるから、是非ともこれをお仕入れなさいませと勧めたが、番頭がこれに応ぜぬので、暫時うっちゃっておいたが、その手代が思い出しては、しきりにこれを勧むるので、とうとうこれを仕入れたところが、これが非常に人気に投じて、たちまち多額の売り上げを見たので、番頭もおおいに感心して、その手代をさっそく仕入方に回したそうだが、畢竟、商売に忠実で、平常注意を怠らず、独自に種々の工夫をするのが、商人に欠くべからざる要素である』と申されました。
先生のそのひと言は、手前の米国雑貨商売にとって、もっとも貴重なる金言で、米国に輸出する商品を仕入れるには、常にこの心持を忘れてはならぬと、手前は毎度店員に注意している次第であります。
また先生が、手前どもに一生涯の利益を与えてくださった教訓は、『学問というものは、本を読むばかりではない、箸の上げ下ろし、横町の曲がり角、これに注意するのが、実際の学問である』ということで、商売のことを、寝ても覚めても念頭に置き、横町の曲がり角に立って、どちらに行こうかと、ここで方針を定めて進めば、商売上に失敗することがないのである。
商人が時勢を考え違って、とんでもない失敗を招くのは、畢竟、この工夫を怠るからのことで、手前は毎度、店の若い者に向かって、このことを申し聞け、時勢の進歩が、ますます急激になれば、箸の上げ下ろしや、横町の曲がり角で、一段深く注意しなくてはならぬと申しておりますが、これはまったく、先生のありがたい教訓であります。
福澤先生は時として、突飛なことを言い出さるるが、これは偶然に言い出さるるのではなく、実験上の信念より発する名言で、これを味わえば、いかにももっともだと、うなずかるることがあります。
ある時、明治政府に志を得て、参議などになった人物が、非常に偉くて凡人でないように思う者もあるが、彼らはみな、まぐれ当たりである。時勢に推されて、ただぶらぶらとその位置に紛れ込んだ者で、これなどは、道楽の僥倖というものであろう、と申されました。
またある時、先生は手前に向かい、北里柴三郎がドイツから帰ってきて肺病研究所をたてようとするのを大学の連中が妨害するそうだが、これは学問上、非常に大切なものであるから、一時出金して補助してくれぬかと言われたので、手前は快くこれを承諾しましたが、その後、同研究所に参ってみると、政府の役人が二人ばかり来合せて、北里に勲章をやるという話を持ち込んでおった。ところが先生は、その役人らに向かって、勲章では研究所が建たないから、勲章を出すくらいならば、生でやるが宜しいではないかと彼らを揶揄っておられました。
また、手前は雲照律師を信仰していたので、ときどき先生に宗教談を持ち込んでみたが、そのときはあまり、お気に向かないようであった。しかし、晩年、大病にかかられて後、はじめて筆をとって、私のところへ左のごとき文句を書き送られました。
本来無一物とは云ひながら、無物の辺には自から勢力の大なるを見るべし。
明治三十二年秋、 福病翁
この語を味わいますと、先生も宗教については、まったく無関心ではなく、なんとやら、意味深長なるものがあるように思われます。」
二百八 森村翁懐旧談(中)(下巻216頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)からのつづき)
森村市左衛門翁は上背があって体格も立派であるし、後年、白髪になってからは、なにやら絵に描いた神農氏のような、いかにも上品な相貌で、しかもその性格が律儀勤勉であった。ただし若年のころから宇治紫文の弟子になって一中節を語り、その堂奥に達したというような江戸趣味に富んだ半面もある。信仰心が深く、雲照律師に帰依し持戒を怠らなかったように、おのずから宗教家のようなところがあった。
さて翁が前記のとおりの道をたどってついに外国貿易に着眼し、アメリカに対して日本雑貨輸出の先鞭をつけることになったのは、単に森村一家のためだけでなく、実にわが国の貿易上の幸慶というべきであろう。
そのアメリカ貿易を開始するに至った経緯について翁がみずから語るところは次のとおりである。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)
「明治五、六年ごろのことと思いますが、手前は外国貿易のことが念頭を離れぬので、自分の弟の豊【とよ】を慶應義塾に入れましたが、これはただ学問をさせるばかりでなく、簿記法の帳面をつけたり、外国人と会話したりすることを覚えさせようというためであった。
このとき、福澤先生は手前に対して、それは面白い考えである、これまで塾に来る者は、みな学問をして参議になろうというようなことばかり考えているが、学問をして商売人になろうというのは、非常に面白いことであると申されました。
かくて弟が慶應義塾を卒業するや、暫時、教師のような真似をしておりましたが、明治七年ごろ、小幡篤次郎さんが突然私の宅に参って、今日は福澤先生の使いで来たが、お前の弟の豊を、米国へ遣ってはどうであろう、先生は書生を米国に遣って、商売を見習わせ、外国貿易の基を開かなくてはならぬというので、それぞれ知人間をを説きまわった結果、早矢仕【はやし】有的をして、鈴木尾という男を米国に遣って茶のことを調べさせ、また同時に荒井領一郎に生糸貿易のことを見習わせることになったから、雑貨のほうは、お前の弟がよかろうというので、自分は先生の代理で、お前にそのことを勧めに来たということであった。
そのとき手前はこれに答えて、それは手前の力の及ぶところではない、今、アメリカに人を遣るには、五百円か千円を要するであろう、これという目当てもないのに、そんな大金を使うことは、とても手前にはできませぬとて、断然お断りをしましたが、小幡さんが再三勧めに来らるるので、だんだん取り調べてみると、船中の寝台の下やら、または甲板の隅などに寝転んでいるような、最下等の旅客となれば、二百何十円かで紐育(注・ニューヨーク)まで行かれるということであったから、手前もついに奮発して、弟を米国に遣わすことに決したが、弟は渡米の後、五か月かかって、ポーキプシーのイーストマン学校を卒業し、それより、ささやかなる雑貨店を始むることになりました。
ところが、かの地で売り上げた金を日本に送り、その金で仕入れた品物をかの地に送るという、この金の運搬が非常に困難であったのは、当時、為替というものがなかったからであります。
そこで手前はこのことを先生に相談すると、先生は俺が外務省に掛け合ってやろうとて、そのころ先生は頬かむりをして、馬に乗って歩かれましたので、今度も同様の姿で外務省に参り、時の外務卿に相談せられた結果、政府が紐育で日本の領事館に支払う給料を、森村が紐育で領事館に渡し、その替金を、東京で森村が外務省より受け取るということに相談がまとまって、その金額は、一か月千ドル内外であったが、とにかく先生がその工夫をつけてくだされたので、手前どもは非常な便利を得たのであります。
ことに、当時、森村などと申しては、政府になんの信用もなかったので、福澤先生がその談判相手となり、領事館で入金したという照会が先生のところへ回ってくると、先生は例の通り、頬かむりをして馬に乗り、外務省に出かけてその金を受け取って、手前のほうに渡すという順序でありました。
それでは恐れ入りますから、手前どもが受け取りに出ましょうと申すと、先生は、お前のほうでは金が早く要るだろうから俺が受け取ってくると言って、いつも自分で外務省に出かけられましたが、当時、日本の一円は、米国の一ドルよりも少しく高く、かの百ドルが、日本の金で九十何円という割合でありました云々。」
二百七 森村翁旧懐談(上) (下巻213頁)
明治二十五、六(1892~3)年ごろのことであった。松方大蔵大臣を三田の私邸に訪問して種々談話中、私は、政府が勲爵(注・勲等と爵位)の授与を政治家や軍人方面に限って、実業方面に及ばさないのは、まことに遺憾千万である、日本は今後、商工業によって国を立てなくてはならないから、その奨励の一端として、この方面にも勲爵の授与がなされるべきである、と陳述した。
すると松方大臣は、「至極ごもっともでごあす。それは俺も賛成でごあすが、しかしそのような実業家はいたって少なく、見渡したところで真に勲爵に値する者は、米国に雑貨貿易を開いた、森村(注・森村市左衛門)くらいのものであろう」と言われた。
私はそのときはじめて、森村翁の事業がそれほど顕著なものかということを知ったのである。
その後、森村翁が福澤先生のお宅で一中節を語られたとき私もこれを参聴し、その一中節には閉口したが、とにかく翁と福澤先生に密接な交際があることを知り、大正初年、私が福澤先生の事歴探問を始めた際、まず翁を訪問してその談話を聴聞した次第である。
その談話中には、維新前後における横浜の状況、米国貿易の開始、その他商業に関する福澤先生の注意などについて、当時の光景をしのぶような事実談が少なくない。そこで、翁の談話そのままを摘録し、読者の参考に供することにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらため、一部ひらがなになおした)
「森村の家は、二百年以来、江戸における諸大名に出入りし、表方においては馬具、鎧、兜などの御用を勤め、奥向においては袋物、鼈甲、髪飾り類を納むるのが、その営業でありましたが、安政年間、ペルリ(注・ペリー)が渡来して、横浜に開港場ができたという噂を聞き、一日横浜見物に出かけたところが、波打ち際に漁師の家が数軒建っているばかりで、地面は何程でもつかわすから、すすんで商店を開けよという申し渡しがあっても、何人も家を建てる者がないので、政府はまず、地所割りを定めて、三井その他の商人に対して、それぞれ開店を命じたので、これらの連中は板囲いをなし、わずかに体裁をつくろっていたその中に、ささやかなる荒物屋が一、二軒あったので、試みにその店に立ち寄ってみると、当時西洋の軍艦から、ボーイなどが盗み出してきたものとおぼしく、古ぼけた兵隊の靴、または古着の羅紗服、ビール瓶、コップなどが並べてあったから、これはおもしろいと思って、これを買い取って江戸に帰り、即日店頭に飾っておいたところが、これがよほど珍しかったとみえ、馬に乗ったお武家さんが、続々来店せられた中に、板垣さんだの、後藤さんなどもあって、そんな方々が、マドロスか何かのはき古した靴を買って、よろこんでこれをはかれたというようなありさまであった。(注・じっさいには板垣退助、後藤象二郎が江戸に出るのは、横浜開港の1859年よりもずっとあとのことであるようだ)
これにおいて、私は時勢にかんがみて唐物屋を開くこととし、金巾(注・かなきん。経糸と緯糸の密度を同等に織った薄地の綿織物)、羅紗などを横浜より仕入れて、これを発売していましたが、手前の家は当時、鉄砲洲にあった奥平家のお出入りなので、唐物をかついで時々同邸にも参りました。
しかるに、奥平家には桑名昇というよほど進歩的の御家老があって、通常ならば手前らはとてもお目通りができぬのに、桑名さんは手前をお座敷に呼んで、じきじきによもやまの話をされた。
その時、まだ江戸に参られたばかりの福澤先生が桑名の家を訪なわれたのを、桑名さんが手前に紹介し、これは福澤という人で蘭学の先生であると申されました。
桑名さんは御家老、先生は奥平家の下役の子息でありますから、由良之助と平右衛門(注・仮名手本忠臣蔵の大星由良之助と足軽の寺岡平右衛門)ほどの違いがあるのだが、桑名さんは先生に対しておおいに敬意を表しておられました。
そうして桑名さんが手前に申すには、お前などはしあわせ者である、よく見ているが宜しい、今に日本も町人の世の中になって、吾々どもは町人の台所から出入りするような時節が来るであろうと申されましたから、手前は、とんでもないことで、そんなことがあるべきはずはない、と言えば、桑名さんはイヤイヤ決してそうでないとて、インドにおけるイギリスの商人の東インド会社やら、諸国の商人が寄り集まって、ついに独立するにいたったアメリカ合衆国の実例などをあげて、日本も今に商人の世となることであろうから、お前たちも大いに勉強するが宜しい、日本の商人も蒸気船に乗って外国に出かけ、外国人と商売して金儲けをなせば、商人の格式も大いに進んで、吾々どもがその台所より出入りするようになるのであると説明せられたので、いまだ二十歳くらいで血気盛んであった手前は、この話を聞いて非常に面白く感じ、お武家さんが商人の台所から出入りするような時節が来たらさぞ面白いことであろうと、この一言が非常に手前の神経を刺激し、他日、外国貿易を始める動機となったのであります。」
二百四 後藤伯と福澤翁(下)(下巻202頁)
(注・203・後藤伯と福澤翁(上)からのつづき)
三宅豹三氏の後藤(注・象二郎)伯爵と福澤翁に関する談話は、これよりいよいよ佳境にはいり、それまで私などがおぼろげながら聞いてきた事実を明らかにしたことも少なくないので、ここに継続して記すことにする。
「後藤象二郎伯は福澤先生と内々協議の末、明治二十八年秋、天機奉伺(注・天皇にご機嫌伺いをすること)として広島の行在所に赴いたその時は、李鴻章が講話談判のためにまさに日本に来たらんとする直前であったから、伯は、右講話に関して所見を述べ、土方(注・久元)宮内大臣を経てこれを聖聴に達した。
その趣旨というのは、講和条件として日本はまず京釜鉄道を納め(注・この時点で京城釜山間の鉄道はまだ敷設されていない。鉄道建設の権利を手中に納めるという意味)、これを延長して、鴨緑江に達する権利を得ること、最高顧問を朝鮮に派遣して内大臣兼侍従長たらしめ、日本公使のほかに独立の顧問府を立つることであった。
この献策は早くも朝鮮側に聞こえたので、親日派の朴泳孝、兪吉濬(注・ユ・ギルチュン)が、いわゆる最高顧問を日本より迎えんがため、さっそく来朝して福澤先生を訪い、何人がその顧問に適当なりやと問われたのに答えて、先生は後藤象二郎伯が最適任者であると言われたので、朴泳孝らは、さらに後藤伯を訪いて朝鮮の最高顧問たるべく懇請したれば、伯の悦び大方ならず、かくてこそ象二郎も、はじめてわが死処を得たとて、慨然として(注・心を奮い起こして)これに任ずるの考えがあったが、一方広島のほうでは、後藤が最高顧問となって公使以上に働くようになったらいかなる椿事をしでかすかもしれぬとて、井上馨侯を公使として朝鮮に遣わすことになったので、後藤伯最高顧問の画策はまったく水泡に帰したのであるが、井上侯が朝鮮公使となり、三浦梧楼子(注・子爵)がその後を継いで、ついにかの王妃焼殺し事件(注・閔妃殺害事件のこと)が勃発するに至ったその経過を傍観していた後藤伯は、さだめて感慨無量であったろうと思う。
僕は、最初後藤伯の秘書役をしていた井上角五郎の後任として、明治二十四年より三十二年までの間、後藤伯に仕え、家族同様に暮らしていたが、それ以前、福澤の玄関番をしていた時と後藤の秘書役となった時と、家庭の状態が全然反対であったのには実に驚かざるを得なかった。
先生の家は御承知のごとく、いたって静粛で行儀のよい習慣であるのに、後藤の家ときては、奥さんが吸付たばこを後藤さんに渡せば後藤さんがよろこんでこれを受ける、富貴楼や武田家などいう茶屋の女将が、始終いりびたっている、五代目菊五郎をはじめ、知名の俳優連が繰り込んできて、歌をうたうやら、歌留多を闘わすやら、その乱暴狼藉は、言語を絶するほどであった。
そのうえ後藤さんは、非常な贅沢者で、食膳には、いわゆる山海の珍味を集むる流儀であったから、たまたま福澤先生に招かれて、その御馳走にあずかることは非常な迷惑なのであるが、後藤さんは先生に対しておおいに勉め、先生は談話が長くなると無遠慮にあぐらをかいて話さるるが、後藤さんは厳格にきちんと座ってその話を聞くというようなありさまであった。
ある時、福澤先生が突然、後藤さんの家を訪われると、後藤家では『ソラ、先生が来た』とて目ざわりの者を片づけたが、ボーイが花札を戸棚の上に置き放しにしてあったのを先生が見つけて、これはなかなかお楽しみでありますな、と言われたので、さすがの後藤さんも非常に赤面したなどという珍談もあった。
先生はおりおり、芝浦にあった後藤の妾宅を訪わるることもあったが、そのときの御馳走は、松金の鰻と定まっていた。ところが後藤さんが福澤のほうに行くと、常食の麦飯を出され、ある夏、食後に氷と鉋(注・かんな)を木鉢に入れて出されたが、先生はその鉋で氷を削って砂糖を振りかけて後藤さんに出されたので、自宅ではアイスクリームを食べて、世の中に氷を生で食べるほど野蛮なことはないと言っておらるる後藤さんが、どんな顔をして氷を食べたろうかと、大笑いをしたことがあった。
後藤さんと福澤先生とは、かような性格の違いがあったので、あるとき後藤さんが福澤先生を評して、中上川の姪(注・福澤の姪で中上川彦次郎の妹の澄子)を、不男なる朝吹英二にめとらせたら大切にするだろうと思ったところが、この朝吹が大道楽者で、おおいに当て違いをしたこと、それから、平常、養生ということを口にしながら、ときどき河豚(注・ふぐ)を食わるること、娘さんを大切にするというので、その言うがままに任せておくこと、これが福澤の三失策であると言われたことがある。
かく性格の反対した両雄が意気相投合したのは不思議なことで、その間に奔走してこの有様を目撃した僕は、一種の奇観として少なからず興味を感じた次第である。」
二百三 後藤伯と福澤翁(上) (下巻199頁)
私はここで、後藤象二郎伯爵と福澤先生の交際に関する三宅豹三氏の談話を紹介しようと思う。
三宅氏は、備後福山は御霊村の名家の生まれで、明治十二(1879)年に出京後、福澤先生の玄関番をふりだしに、あるときは時事新報記者となり、あるときは後藤象二郎伯爵の秘書官となり、またあるときは大河内輝剛氏とともに歌舞伎座の経営にあたるなど、いたるところで愛嬌をふりまいて交わる人々に重宝がられた存在だ。しかし、いわゆる器用貧乏で、とりたてて栄達を見ることはなかった。
ただ、その人となりがひょうきんで、文筆も達者で、座談に長じており、きわめて愉快な才子肌なので、わたしはもっとも長いあいだ親交を続けた。
氏は井上角五郎氏の後継者として後藤象二郎伯爵の秘書役となり、伯爵と福澤先生の間の仲介をした関係から、その内情について非常によく通じていたので、氏の談話の中から、もっとも興味深い部分を抜粋して次に掲載することにしよう。(注・原文通りだが、漢字をひらがなになおした部分がある)
「僕は明治十二年に上京して、福澤先生の玄関番となったが、これは僕の兄が、寺島宗則伯の家庭教師をしていたので、兄が伯より福澤先生に頼み込んで、僕を玄関番に住み込ませたのである。
ところが明治十七年、金玉均が朝鮮事変で日本に逃げてきたとき、前々よりの関係で、福澤先生はおおいに金玉均を庇護し、朝鮮の改革をなすには、金玉均が必要だと言っておられた(注・20「金玉均庇護」に関連記事あり)。
このころは、袁世凱が朝鮮で権力を振り回している最中なので、王妃閔氏(注・閔妃)は日本にある金玉均がいつ襲来するかもしれぬというので、しきりにこれを袁世凱に訴え、袁世凱はまたこれを李鴻章に言い送って、李鴻章より日本の外務省に突っ込んできた。
ところで外務省は、当時シナの勢力を怖れて、金玉均を小笠原島に流し、同島の気候が金玉均に相当せぬというので、さらに北海道に移したりなどする間に、福澤先生が暗々裡に金玉均を保護したその心づくしは、実に至れり尽くせりであった。
しかるに明治二十六年になって、東京駐箚のシナ公使、李経方(注・李鴻章の甥で養子。原文では経芳となっている)が後藤象二郎伯と懇意なので、福澤先生は後藤伯を通じて李経方に説き、金玉均は朝鮮を改革するに最も必要なる人物であるから、シナにおいても彼を忌避せず、むしろこれを利用する方が宜しかろうと言わしめたのである。
ところが李経方は李鴻章の甥であり、かつ歴代シナ公使中もっとも有為の人物であったから、すぐに後藤伯の進言を容れ、そのなかシナに帰って李鴻章を説き、金玉均と直接面会せしむべく内約するに至った。
かくして、李経方が帰国の途次、まずその郷里なる蕪湖に帰省している間に、多年無聊に苦しんでいた金玉均は、しきりに李鴻章との会見を急ぎ、李経方のあとを追って、まさに上海に赴かんとした。
一方、王妃の内命を受けた刺客、洪鐘宇(注・ホンジョング。李氏朝鮮末期の高官)は、この機会に乗じてその目的を達せんとし、甘言をもって金玉均に近づいてきた。
しかるに、これまで王妃が日本に送った刺客は、ただ褒美の金を取り出さんとする者で、真実使命を果たさんとする者なければ、金玉均もまた、これを見透かし、王妃より取り出してきた刺客の金を巻きあげたことさえあり、洪鐘宇もまた、この類ならんと思い、刺客と知りつつ油断していると、洪鐘宇は従来の刺客と違って、思慮周到に計画を進め、金玉均に油断させるため、一時フランスに赴いて、しばらくかの地に滞在したれば、彼が再び日本に帰ってきても、金玉均は彼を疑う心なく、ただ彼が朝鮮服を着け、朝鮮髪を蓄えているのが、少しく変だと言っていただけで、まんまと彼の策戦計画に引っかかり、不用意にも彼とともにシナ行きを企て、最初後藤伯より二千円ばかりの旅費を借用したが、借金払いなどして、わずか二、三百円の旅費をあますに過ぎなかったのを、洪鐘宇は巧みに金玉均に説き、シナに渡れば、朝鮮の志士、尹雄烈(注・ユンウンニョル)などが待ち受けているから、金子の心配は無用なりとて、ついに上海まで同道し、金玉均が眼病を患って進退不自由なるに付け入り、上海の旅館において、ついに彼を銃殺したのである。
このとき、金玉均の友人らは、屍体を日本に引き取りたいとて奔走したが、時の外務大臣林董伯が、この議を拒み、上海の土地で起こったことに、日本より容喙するのは不条理なりと言い張ったので、屍体はやがて朝鮮に送られ、数個に切断して、各処に曝さるるというがごとき大悲劇が演ぜられたのである。
しかしこれらの惨状が動機となって、朝鮮に東学党の変乱が起こり、ひいて二十七八年の日清戦争が巻き起こさるるに至ったので、事実においては、金玉均の一死が、日本の世界強国の仲間入りをさせたものだといっても宜しかろうと思う。」
二百 大隈侯懐旧談(下)(下巻188頁)
大隈侯爵は明治十四(1881)年の政変において、いわゆる「敗軍の将」であったためか、当時の状況については前項(注・199)に述べた程度であまり多くを語らなかったが、福澤先生との交際に関しては、さらに次のような懐旧談を続けた。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「吾輩がはじめて福澤先生を知ったのは明治四年の暮れか、五年の初めか、とにかく、あの廃藩置県が実施されたときであったと思う。一度知り合ってからは非常に懇意になって、先生が吾輩のところに来ると、家内どもまで一緒になって夕食を共にすることもあった。
先生は酒が強く食事が長いから、食っては話し、食っては話しと、だんだんと夜が更けてしまい、膳を片づけようとすると、まだまだという風で、家内を相手にして酒を飲みながら、いつまでも話をするのが常例だった。政治上の秘密談になると、この家の奥にある一室【母屋の背面を指して】で、他人を交えず、家内が酌をしながら話したのであるが、先生は吾輩から見れば先輩で、吾輩も先生によっていろいろと利益を得たことがある。
たとえば、この早稲田の学校ができたのも、吾輩が先生と交際していたからだと言ってもよいのである。
もっとも吾輩は、もともと教育には深い興味を持っていて、長崎にいたころから、いささかながら私立学校を開き人に教えていたこともある。しかし吾輩は、福澤先生のように学問をしている暇がなく、ちょうど今日の犬養や尾崎のように、政論に火花を散らして奔走していたから、まず不良少年仲間だったといってよいだろう。それで、自分は学問はしないが教育には興味を持っていたので、いつも人に向かって、福澤先生のような人は、自分の学問を人に伝えるという教育の仕方だが、吾輩は自分に学問がないから、学者を集めて生徒を教育させるというやり方で、方法は少し違うけれども、学校教育を行うという点についてはまったく同一軌道にあるのだ、と言っていたこともあるのである。
ところで吾輩が明治十四年に政府を退くとすぐに、雉子橋の屋敷を引き払って、この早稲田に引っ込んだが、これに先立つ明治四、五年ごろに、木戸などと一緒にこの辺を散歩していると、植木屋が大きな石灯籠を運んでいたので、これはどこの屋敷かと聞くと、讃州高松と井伊掃部頭の下屋敷であるが、これから庭前の樹木を伐り払って薪にするのだという。それはあまりにも惜しいものだと言って、五万坪ばかりあるのを一万円で買うことにした。
今日より考えてみれば、非常に安いものだったが、当時においては、銭を出して大きな屋敷を買う者はなく、例えば今日第一銀行になっている三井の地所なども、当時井上侯爵が田舎住まいを嫌って、都会の真ん中に屋敷がほしいというので、このころは誰の屋敷だったのやら、園内に池などがあり、約二万坪ほどある地面を井上にやったところ、井上が、蚊が多くて困るからこんな場所は御免したいと言いだした。そのとき三井の三野村利左衛門が、井上さんが御不用ならば、私が是非頂戴したいと言って、わずかな代価で政府から払い下げられた次第であるので、吾輩が早稲田を買ったのは当時においては非常な奮発であったのである。
そしてこの五万坪に、さらに二万坪ばかりを買い足して、今日では早稲田の学校が三万坪、吾輩の屋敷が四万坪程度になっている。
福澤先生は、かの正金銀行を創立するために、大きな骨折りをし、吾輩にもいろいろ相談があったが、これは堀越角次郎という甲州出の爺【おやじ】が、無学ではあったが一見識持っていたので、先生は非常に彼を信用し、彼が横浜に正金銀行を立てようとするのを後援し、吾輩にも助力を乞われたので、ついにこれを認可することになったのである。
それから先生はまた、後藤象二郎と懇意で、後藤の高島炭鉱処分について、先生が非常に尽力した。先生はあの炭鉱を岩崎弥太郎に買わせようと言い出し、岩崎を吾輩の家に呼びつけ、先生も列席のうえで、ぜひとも買ってやれと談判したところ、当時の後藤の借金は、百万円と言っていたのがだんだん増加し、百三十万円ほどになったので、岩崎は容易にはこれを承知しなかった。岩崎は後藤を罵り、『アンナ尻抜けな男は信用ができないから、一切相手にいたさぬ』、と言うのを、ふたりでようやく説きつけて、とうとう三菱に高島炭鉱を買わせたのだ。これは、いやいやながら引き受けたものだったが、今日では、むしろ三菱の金穴(注・ドル箱)となっただろうと思う。考えてみれば、人間の知恵など浅はかなもので、あとから先見だのなんの、と言っているが、その実はたいてい、まぐれ当たりに過ぎないのである云々。」
百九十九 大隈侯懐旧談(上)(下巻185頁)
大正の初年に、私が福澤先生の事歴を、先生と縁故ある長老の在世中に聴取しておこうと思い立ち、それから約二年間にわたり探問した人々が三、四十名に達したことは前項でも陳述したとおりである。
その大隈重信侯爵の談話については、「大隈侯の福澤談」として、すでに一部を掲載した(注・97「大隈の福澤評」を参照のこと)が、このときの大隈侯爵と私の会見は、ほとんど一時間半にわたったので、侯爵の懐旧談はほかにもいろいろある。
そこでまず、私が大隈侯爵を訪問したときの所見を述べ、その次に談話について述べることにしよう。
私が大隈侯爵を早稲田邸に訪問したのは、大正二(1913)年の五月ごろだったと思う。前もって約束していた午前十時ごろに侯爵邸を訪問すると、その日はほかに訪問客もなく、侯爵が母屋から庭前南方に張り出した温室におられ、今を盛りに咲き乱れた各種の蘭その他の南洋植物の香気の中を、例の松葉づえを突きながらゆっくり歩いておられた。
私が温室のなかに歩み入るのを前から見て手を挙げてそれを押しとどめ、やがて近づいて挨拶され、侯爵はニコニコして私を歓迎してくださった。
それというのは、私はこれに先立つこと数回侯爵と会見しており、数年前に前妻が死去したあと、音羽護国寺の境内でたまたま墓参をされていた侯爵に邂逅ししばらく立ち話をしたことなどもあったからである。侯爵はこの日は、いかにも打ちくつろいだ態度で、私を広々とした母屋の応接室に導きいれ、長卓をはさんでふたりで椅子に腰かけた。
大隈侯爵という人はもともと意思の強い人でそれが面貌にも現れていた。頬骨が高く、目が少し窪み、大きな一文字の口を結んだところは、いかにも確固たる決意をあらわしている。ある人が、「侯爵が衆人稠座(注・大勢の人が座っているようす)の中に入ってきて、中央の椅子に腰をおろすときは、大鷲が岩石の上にとまって、傲然と四方を睥睨するような風采がある」と言ったそうだが、それがいかにも適評だと思われた。
侯爵は維新後、薩長藩閥の群雄割拠の中にあって、そっくり大久保の後継者になり、明治十四(1881)年の下野ののちも屈するところはまったくなく闘志満々でその一生を貫いた、信念強固の、他人の追随を許さない人である。
かつ、日本の政治家としてはまれにみる雄弁家で、人のことを聴くというよりは、もっぱら話す一方ではあったが、博覧強記で、いつの間にか外国のことも研究していた。常に説法者の立場に立っていたあたりは、明治の功臣の中にあっては一種出色の大政治家であると言わざるを得ない。
大隈侯爵の談話では、私が探問した福澤先生の事歴から始まり、前項に述べた先生の所感のほかに、さらに次のような話があった。(注・わかりやすい表現に、一部変えてある)
「明治十一年大久保が亡くなり、吾輩がその後を引き受けたようなことになった。さしあたり、政治の上で大改革を行わなくてはならないことが数々あったが、このとき焦眉の急を要したのは、西南戦争のときに、薩摩の中で西郷にくみしなかった一派を、当時の政府が優遇し、一時東京に連れてきて、その人たちに巡査の職を授け、警視庁の配下に付属したのであるが、この巡査たちが、戦争で功労があったということを鼻にかけ、時として上司の命令に服従しない状態であったため、できるだけ早くこれを廃止したいということだった。もともと情実によって起こったものだったので、廃止するには手加減が必要だった。そこで鎮撫の意味で、大山(注・巌)大将を引っ張り出したり、山県公爵の声援を借りるなどして、ようやくこの巡査を押さえつけたのである。
しかしこれなどはほんの小細工で、政局の大勢を見渡すと薩長が相対峙して互いに牽制し合っているので、なにも改革を施すことができない状態だった。そこで吾輩は福澤先生と協議のうえ、伊藤、井上の二人を加えて、ここに根本的改革の方針を立て、国会を開設し、与論の力で、頑固連の鉾先をくじこうという決意をしたのである。
そのとき吾輩は、福澤先生に是非とも内閣の一員になってもらいたいと勧誘したが、先生はきっぱりとこれを断り、政治は乃公(注・おれ)の長所でないから、君たちがこれに当たるがよろしい、乃公は言論をもって一般民衆に政治的教育をなし、向鉢巻で君たちを声援するから、君たちも一生懸命で政治上の改良進歩を謀られたい、と言われたので、吾輩はその後先生に向かって、内閣入りを勧めないことにしたのである。」
百九十六 正金銀行創設の経緯(下巻175頁)
正金銀行の最初の頭取である中村道太氏から、私が例の福澤先生事歴談を聴取した折(注・193を参照のこと)、正金銀行の創設経緯に関する話も聞かされた。このような談話には、幾分自慢話が伴うものなので多少の割引を要するかもしれないが、おおむね事実とたがわない以上これを全部葬り去ることは忍び難いので、次にその大要を記してみることにする。(注・わかりやすい表現にかえた)
「自分は三州(注・三河国)豊橋、松平伊豆守の藩士で、万延元(1860)年に江戸に出て、奥平藩邸に先生を訪問したのが先生との交際のはじまりです。それ以来、先生と私のあいだにはいろいろな交渉がありますが、そのことについては別の機会に譲ります。
明治九(1876)年、私は日本にひとつの特殊な銀行をつくりました。平常は正金(注・貨幣、現金)を蓄え置き、万が一の(原文「一朝」)非常事態に備え、わが国の経済の根本を動かさないようにしなければならないと考えついたので、関根正直氏に依頼して漢文で意見書を書かせた。
これが今の正金銀行の創設意見書で、福澤先生もこれを見て、しごくもっともだと言われました。
しかし当時は実行の運びにいたらず、私はいったん郷里に帰り何か国家のためになるような機械を製作しようと専念していた。
明治十一(1878)年になって、先生からの手紙で、かの正金準備銀行の意見が実行されそうだから至急上京せよ、とあったので、さっそく上京してみると、先生は今夕大隈を訪ねる予定なので一緒に来いと言われる。そこで三田から人力車で雉子橋(注・現千代田区役所の場所)の大隈邸を訪問し、三人鼎座して相談を始めた。
そのころの福澤、大隈らは、ずいぶん乱暴な口のききようで、先生が、そんな馬鹿なことを言うな、などと言えば、大隈さんが口をとがらして怒り出すというような非常に元気のあるものだった。
さて、結局の話であるが、資本金を三百万円とし、二百万円を民間から募り、百万円を政府で引き受けるということになった。民間では福澤先生の懇意であった堀越角次郎に話をし、横浜では私の懇意だった木村利右衛門に相談し、政府のほうは大隈さんが斡旋するということになったが、資金募集は案外順調に進み、横浜のほうでは木村が百万円を引き受けると言い、東京では安田善次郎氏が同額が受け持とうと言い出した。
そこで、十一年末から、正金銀行の定款を作り上げ、十二年一月に開店して私が最初の頭取になったのである。
ところが明治十四(1881)年、例の政変で大隈さんが退職することになったので、政府筋から私にも退職せよと言われたが、私はきっぱりと踏みとどまっていた。
十五年になり、松方さんは大蔵省から検査官を派遣し、何か私の落ち度を見つけようとされたが、それ以前に本行には大蔵省の監督官が出張しているので、いかに探究しても免職の理由がなく、松方さんもおおいに窮してとうとう嘆願的に出てきたから、私はついにこれに応じましたが、福澤先生が承知せず『中村をやめさせるとは言語道断なり』といって、滔々とその不法を論難した文書を発表された。これが私にとっては有難迷惑で、その後思いもよらぬ迫害を一身に引き受けるような始末となった。
さて当時、私の保有株は二千株あり、そのころ百円株が八十円くらいだったから、福澤先生は私にその株を政府に返還せよと申されましたが、一年ばかり経つ間に、正金株が非常に騰貴して、払込の百円になり、さらに進んでその倍額の二百円に達したので、先生はしきりにこれを売却せよと言われました。しかし私は、『この株は三百円になりますから、これまでは頑として持ち耐えます』と言い張り、ほどなく原六郎氏が頭取になり三百円の値が出たので、私はこれを売却して借金を引き去り、手取りで三十七万円を得て、正金と完全に絶縁することになったのであります云々。」
中村氏はなにごとにも器用で、商売の思想に富み、維新前には美濃人の早矢仕有的と相談して横浜に薬種店を開き、はじめてアメリカからキニーネを輸入したというような経歴もある。
幕末に世間が物騒になり、茶釜の値段が下落するとすぐに、地金として茶釜の買収しようという相談を福澤先生に持ち込んだこともある。
また、簿記に長じて、文部省の七等出仕となり、医科大学に簿記法を教授したというような履歴もあるなど、さまざまなアイデア(原文「工夫」)に富んだ人であったが、正金銀行頭取を辞職後、鉱山業で惨敗してからは再び盛り返すことができず、大正初年に私がこの話を聞いたときには、赤坂溜池にわび住まいをして茶道の教授をしていた。老後になって陋屋に隠棲しながら屈託の色を少しも見せず、雄弁滔々として懐旧談を物語られたのは、なにはともあれ、一種の人物であると見受けられたものだった。
百九十五 荘田と三菱(下巻171頁)
荘田平五郎氏には一時期「三菱の智嚢(注・知恵袋)」とさえ謳われた時代があった。
氏は九州の杵築藩士で、維新前に同藩の留学生として上京後、慶應義塾にはいり、卒業後は義塾または他校で教鞭をとったこともあった。
明治八(1875)年に三菱汽船会社に入社し、おおいにその手腕を振るった。
福澤先生は、氏が在塾中に、きちんとした袴をはき、一挙一動がいかにも几帳面であったことを称揚して乱暴書生に対する教訓としたほどだった。
氏と三菱との関係について氏が私に語った経歴談の中で、氏は次のようなことを言っている。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、内容も若干わかりやすい表現になおした)
「私は明治八年に三菱汽船会社に雇われた。三菱は、明治六年の佐賀の乱で政府の海運御用を勤め、翌七年に台湾征討の運送の仕事を引き受けた。
それ以前には、大蔵省内に蕃地事務局というものがあって、P&O会社(注・Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)、およびパシフィック(原文「パシフヰツク」)汽船会社(注・パシフィック・メイル社か?)から、千トン内外の機先七艘を買い入れた。台湾事件が終わったあと、それを三菱に貸し下げることになったので、三菱はその船を使って上海への航路を開いた。そのときの事務上、外国人に接触する必要が生じたので、英学書生を雇い入れることになり、かの浅田正文などもそのとき雇い入れられた一人であった。
もともと、この汽船貸し下げのことは大久保利通卿の発議であるそうだが、当時、日本の海運は、第一に政府が担当するか、第二に民間に委任するか、第三に民間の当業者を保護するかの三策しかなかったのである。
大久保卿は、その第三策を取り、三菱の上海航路を補助するにいたったので、私はこのとき三菱に入社したのである。
その口入れをしてくれたのは豊川良平君で、福澤先生にはご相談はしたが、入社については先生とはなんら関係もなかったのである。
福澤先生と岩崎弥太郎との交際は明治十三(1880)年ごろから始まったのであるが、先生は、贔屓役者の後藤象二郎伯爵のことについて岩崎と面談する必要があり、このころから交際を開かれたのだと思う。
その仔細は、後藤伯爵が高島炭鉱を引き受けて大借金に苦しんでいたので、これを岩崎に買入れさせようという案件であった。この高島炭鉱というのは、肥前鍋島の領分で、かの英国人グラヴァ―(原文「グラパ」)と鍋島家が共同で掘り始めたもので、後年にいたっては、ほとんどグラヴァ―ひとりの所有物になっていた。
しかるに明治初年、後藤伯爵が政府と意見を異にして民間に下り、蓬莱橋ぎわに蓬莱社という商館をたてられたとき、そのころの日本の工業法によると、日本の鉱山は外国人が所有することができないというので、政府がグラヴァ―から高島炭鉱を買い上げたのを、後藤伯爵がさらに政府から買収したのである。
このときの金主になったのは、横浜の英一番ジャーディン・マセソン(原文「ヂャーヂンマヂソン」)で、ジャーディンは金主となるかわりに炭鉱の機械一切をその手で売り込み、石炭の売却もまたその手を経るのであるから、こちらのほうは儲かる一方であるが、炭鉱はだんだん採掘費用がかさみ、とうとう非常に大きな損失を招き、明治十二、三(1879~80)年ごろにおける後藤伯爵は実に窮迫の極点に達し、借金のために政治上の働きが束縛されるありさまになった。
そのとき、後藤伯爵びいきの福澤先生はこれを見るに忍びず、岩崎弥太郎に、石炭は三菱でも入用だろうから、ぜひとも高島を買い取ってやれと説きつけたが、弥太郎は容易にはそれに応ぜず、明治十四(1881)年の春にいたり、ようやく相談がまとまったのである。
だいたい三菱という会社は、岩崎弥太郎と、川田小一郎と、石川七財の三人の合作で、一時は三川商会といっていたこともある。川田と石川の川と、もうひとつはどういうわけで三川となったのか、それはわからないが、川田は御承知のとおりの才気ある人物で、外交のことに当たり、石川は堅実な武士気質の人で、内部の仕事に任じた。
明治十一、二年ごろ、石川は函館にいて北海道の汽船業務にあたり、川田は大阪で関西方面の総取締をしていた。北海道から大阪、大阪から下関を経て北海道というように、北と西との航海業を始めたところ、最初は費用が多くかかり運賃が高くなったので、渋沢、益田などが帆船会社というものを興し、北海道の交通をはじめたが、明治十六(1883)年になって、品川弥二郎子爵が共同運輸会社を作り、帆船会社もそれに合流して大活躍を始めたので、そこから三菱と共同運輸との大競争が起こったのである。この両者が明治十八(1885)年に合併して、日本郵船会社ができあがったのである云々。」
以上、荘田平五郎氏の談話は、郵船会社建設以降のことにもわたっているが、今は荘田氏が三菱に入社した経緯だけにとどめ、その他は省くことにしたい。
百九十四 山本伯の福澤談(下)(下巻168頁)
前項(注・193「山本権兵衛伯爵の福澤談(上)」)のとおり、山本(注・権兵衛)伯爵は福澤先生に対して自己の海軍改革案主張に関する談話を進め、ひきつづき次のように述べられたということである。
「さて自分の提出した海軍改革案を西郷(注・従道)海軍大臣が内閣会議に提出したところが、議論百出の末、閣僚中より委員を選定することとなり、山県、伊藤、井上その他の先輩がこれに当たり、自分がその説明を引き受けてついに本案成立したので、この海軍をもってほどなく日清戦争に当たり、実験上さらにまた各般の改革を施した次第を述べ、なお今後の方針についても詳細説明するところがあったので、福澤先生はおおいに満足して今度は反対に自身の来歴を語り、『俺は蘭学を修めて西洋実学の真価を知り、無遠慮に漢学者どもを罵ったので、維新前にあっても相当危険なる場合に遭遇したが、維新後にいたっては、さらにその危険を増し、いつ暗殺せらるるかもしれぬので、万一の場合に逃げ込むべく、居間のストーヴの下に逃げ道をつくったこともあった。されば一方にはおおいに人心を刺激して西洋文明の方向に向かわしめんとし、あるいは嚇し、あるいは嘲り、その論鋒があまりに過激にわたったかと思えば、今度はにわかにこれを緩和し、座を見て法を説くの筆法(注・相手によって説明の方法を変える方法)を用いたれば、福澤には一定の論旨なく、飄々として変転するものだなどと世間よりさまざまの誤解を受けたが、その実、あまり一方に熱中すれば、その身を危うする惧(注・おそれ)があったからである』という苦心談もあり、また『日本の発達が、最初は非常に気遣われたが、日本国民中には相当気力ある者もあって、俺が心配したよりも存外の好結果をきたし、国運も次第に進歩してきたが、前途を見れは、なおさまざまの困難が横たわっているので、日夜苦慮しているのである』というような所見をも述べられ、双方の意気が非常によく投合したので先生もたいそう満足せられ、やがて昼食にとて自分を案内せられた座敷は八畳敷ばかりで、片隅に引っ込んだ床になにやら掛物がかかっていた。
かくて先生の私に対する挙動は、初めより胸襟をひらいて、いさかか包み隠すところなく、食後もまた引き続き、さまざまの談話にはいった。
さて自分は従来、勝安房、西郷隆盛、同従道、大久保利通、伊藤博文などいう人物に面会しているが、考えてみれば、これらの人々のなかで福澤先生ほど大きく腹心を開いて人に接し、子供のごとき無邪気さをもって初対面よりあたかも古き友達に対するがごとく彼我の界を撤去して、愉快に語らるる雅量を持っている人に会ったことがない。
自分が大西郷より添書をもらって勝安房を訪ねたとき、まずどんな人物かと面会してみれば、小づくりな医者のような容体で、たばこ入れを提げて、ひょこひょこと現れ出で、なんとやら軽々しい挙動で、これが勝先生かと思われるようであったが、ただ目がぎょろぎょろとしているところが凡人と思われず、自分に向かってしきりに薩摩人は乱暴であるから、よほど注意しなくてはならぬと教訓を与えてくれましたが、しかし初めより人を呑んでかかって、禅宗流に、いわゆる一喝を喰わせようというやり口であった。
また西郷従道という人は、なかなか真似のできないよいところがあった人で、松方内閣が選挙干渉で、どこまでも押し通そうという場合に、前日までその評議にあずかって格別異存もなかったのに、その翌日の内閣閣議においては、彼がひとり立ち上がって、『かようなことで、お上に御迷惑をかけては重々相すまぬ訳であるから、この内閣は断然明け渡そうではないか』と切って出たので、高島鞆之助やら、その他薩摩の連中等は、あまりに突飛なるに驚いて、かれこれ異存も申し述べたが、西郷はどこまでも例の調子で、この連中を説き伏せてしまった。彼はよく、窮して通ずるの呼吸を解し、いよいよという場合には、実に俺が悪かったというように、なんらの執着もなく手のひらをかえすように翻然と態度を変えてしまうところが彼の得意で、これは容易に真似のできない芸当である。
兄の隆盛などは、その徳をもって人を服するという特長はあったが、弟のごとく翻然と態度を新たにする禅僧じみた真似はできない人であった。
これらの豪傑は、いずれも得難い人物であるが、福澤先生は学者でもあり、かつ非常に大きい人物で、自分がこれまで接触した偉人中の偉人というべき者であろうと思う云々。」
以上は山本伯爵の福澤先生に関する感想談の一部分である。その他の談話は、あまり複雑にわたってしまうので、まずこの辺で打ち切ることにしよう。
百九十三 山本伯の福澤談(上)(下巻164頁)
私は実業界を引退後、余暇に乗じて福澤先生の事歴を先生に縁故ある長老から聴取しておこうと思い、大隈重信、後藤新平、足立寛、中村道太、荘田平五郎、森村市左衛門、阿部泰蔵、北里柴三郎、犬養毅、尾崎行雄ら約三、四十人を歴訪し、各人各様の関係や感想を査問した。これは、それらの人々の在世中になるべく多くの資料を収集するということが主な目的だった。(注・3,40人を歴訪したとあるが、28名分が「福澤先生を語る・諸名士の直話」(昭和9年、岩波書店)にまとめられた。)
そのような次第で私が山本権兵衛氏を訪問したのは、福澤先生が明治三十二(1899)年に山本伯爵と会談されたあと、ある人に「このごろ、山本権兵衛という人に会うたが、イヤ実に偉い男だ、彼はただの軍人でない、学者だ、全体薩摩の奴には数学のわからぬ男が多いが、山本という男は、徹頭徹尾マセマチカルにできあがっていて、実学に根拠する話のできる男だ」と激賞されたということをきいていたからである。
また先生が脳溢血のあと、記憶力が衰えて人の名前を思い出せなかった時、「あの薩摩の奴を連れて来い」と言われたので、三田に関係ある薩摩人の名を数えあげるうちに、山本権兵衛という名前が出てくるなり、両手を打って「それだ、それだ」と言われたということも聞いていたので、私は伯爵への紹介を園田幸吉男爵に依頼したのである。
男爵はさっそく快諾され、山本伯爵は厳格な人だから自分自身が訪問して申し入れようといって、わざわざその労をとってくださったので、私は、大正三(1914)年十一月二日午前八時半から山本伯爵の高輪台町邸を訪問することになったのである。
まず日本客間に通されてみると、床に大正天皇陛下が伯爵の日本海軍建設に関する功労を嘉賞された勅作の七律の宸翰が掛けてあったので、謹んでこれを拝観していると、伯爵は悠然と座につかれ初対面の挨拶を述べられた。
そして伯爵は、私が訪問した趣旨を聞き終わるとおもむろに口を開き、まず福澤先生の事歴に関する思い出談を語り、だんだん話が進むにつれて日露戦争後にドイツを訪問して皇帝(注・ヴィルヘルム2世)に謁見した顛末から、大正政変の委細にまで及んだが、ここでは福澤先生に関することだけを記しておくことにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)
「自分が福澤先生と会見したのは、明治三十二年であった。会見の手続きは、今なお海軍に勤めておらるる木村摂津守(注・芥舟木村喜毅)の子息(注・次男の浩吉)が先生の使者として来宅し、福澤先生が閣下に会見したいということでありますが、先生が自分より会見を申し込むというのは甚だ稀なことでありますから、枉げて(注・まげて。無理にでも)ご承諾願いたいということであった。
よってすぐにこれを承諾すると木村はさらに語を継ぎ、福澤先生は年輩でもあるから、会見の場所等については先生の方にお任せくだされたいというので、それも宜しいと承諾すれば、既に時日の相談をしてきたものをみえ、何日何時より福澤宅にて会見したしとのことであったから、当日朝九時頃、先生の宅を訪問したが、当日の会談は午前九時に始まって正午になってもなお尽きないので、先生は自分に昼食の御馳走をなし、奥さんや令息たちにも紹介せられて、午餐後、午後四時ごろまで語り続け、先生も非常に満足せられたようであった。
されば当日の談話は、非常に広汎なる範囲にわたったが、今その大要をいえば、自分が十四歳の時、はじめて『西洋事情』を読んで、おおいに時勢に感発したことから始まり、大西郷(注・西郷隆盛)の添書を持って江戸に出て、勝安房(注・勝海舟)に面会して、いろいろ教訓を受けたこと、西郷従道がほしいままに台湾征討に出かけたのを憤慨して、おおいにその不当を責めたが、その後西郷より事情を聞いて自分の誤解を悟ったこと、また自分は一身を海軍にゆだねる決心で勝安房を訪問したところが、彼は自身の経歴を説いて、海軍振興をもって己が任とするには決死の覚悟がなくてはならぬと激励されたから、自分は万難を排して海軍の学術を修めてみようと彼に誓約して、ついにドイツに留学したこと、また明治二十一年、自分に対して四面攻撃が起こったとき、自分は六か月ばかりかかって、わが海軍大改革案を編成し、これを西郷(注・従道)海軍大臣に示したところが、西郷はちょっとこれを読んだばかりで、すぐに賛成の意を表したので、自分が六か月かかって調べたことを、ちょっと読んだばかりで諒解するはずはない、自分はさような大臣の下に就職することはできぬと言い出したら、西郷は例の調子で、実は一切わかっておらぬが、今日君をおいて海軍改革は不可能だから、万事万端君に任せるつもりである。しかしてこの改革案は必ず内閣の同意を得てみせるから、君も是非留まって、これを実行してくれよと切望せられたことなどであった云々。」
以上、山本伯爵の談話は、まだその蔗境(注・しゃきょう。だんだんおもしろくなっていくこと)に入っていないので、次項(注・194「山本権兵衛伯爵の福澤談・下」)においてさらに記すことにしよう。
百八十六 伊藤公題箋文晁幅(下巻138頁)
私は明治四十五(1912)年下期から四谷伝馬町に新宅となる天馬軒を建設中であったが、翌年の七月になってもまだ工事半ばなので、上州伊香保の木暮旅館聚遠楼に避暑にいくことにした。
同旅館の主人、木暮武太夫【先代】氏は私の旧友だったので、「気の合う御仁がやってきた」とばかり、おりおり私を訪ねてきて雑談して過ごしたものだった。
そんな時、氏は木暮家の「いの一番」の宝物であった谷文晁筆の墨画山水大幅を持参し次のように語った。
「これを以前あなた(原文「老兄」)にご覧にいれたとき、非常に称賛されて東京の好事家に吹聴なさったおかげで、その後大評判になり、明治二十九(1896)年、ときの総理大臣伊藤博文公爵がいつしかこの話をきかれて、ぜひとも一覧したいと所望された。そこで、そのころ衆議院議員だった拙者は、同年一月、議員開会の際にそれを持参して上京した。遼東半島還付反対の上奏案がまさに議会に提出されるというときで、伊藤公爵は非常に多忙であったにもかかわらず議会の大臣室でこれを一覧すると言われるので、拙者は部屋まで持参した。大臣室は西洋間で壁に掛物を掛ける場所がなくどうしたものかと見まわしていると、海軍大臣の西郷(注・従道)侯爵が『俺どんに好い工夫がごあす』と言って、みずから椅子の上に立ち、壁に掛けてある柱時計を取り外し掛物をその釘に掛けようとした。ところが少し高くて手が届かないので、佩剣(注・はいけん。帯剣)をはずして軸掛けのかわりにし、首尾よくこれを掛け終えることができた。それを見ていた伊藤公爵はじめ一同は、その機智に驚いたものだった。
さて掛物を熟覧した伊藤公爵は、『これぞ文晁の中の文晁である』と、しばらく感心してみていたが、時は上奏案の議事中という大わらわの最中だったので、西郷侯爵はふたたび佩剣で掛物をはずし、これを巻き納めて拙者に返却された。
拙者はこれを箱に納めて、そうそうに引き下がろうとしたそのとき、さきほどから硯箱を引き寄せて、せっせと墨をすっていた内務大臣の野村靖子爵が、『木暮君、その掛物の外題(注・掛物の題名)の付箋を誰かに一筆願ってはどうです。僕はさっきから、誰かが書くだろうと思って、墨をすって待っていたよ』と言われた。すると西郷侯爵がすかさず『誰彼と言わず、伊藤さんが宜しい』と言って、これを伊藤公爵に突き付けた。
折が折であったので公爵は非常に難色を示したが、西郷侯爵は例の調子で、『これを見料と思うて書くが宜しゅうごあす』と言われたので一同大笑いとなり、公爵もすぐに筆を執り、付箋の上に、文晁筆として、下に春畝山人題と、謹直な楷書で書きつけられた。
ちょうどそのとき、上奏案否決の知らせが大臣室に届けられたので、一同肩をなでおろし(原文「愁眉を開き」)、歓声がわいたような次第だった。
思い返すとこれは十八年前の昔で、そこにいた三人も今は全員この世を去り、この幅だけが当時を追懐する記念の品になったのである。
その後、衆議院書記官の林田亀太郎氏が伊香保に来たので、拙者はこの顛末を同幅の箱裏に書いてもらった。そして今度は西園寺陶庵公が避暑で来られたのを幸いに、すぐに(原文「不日」)箱の表に公爵の題字を請い、十善具足(注・非の打ちどころのない)の宝物にする考えなのだ。」
ということだった。
聞くところによるとこの文晁幅は、木暮氏が高崎である道具店から掘り出したもので、驚くなかれ、その値はたった五円だったという。
ところで、私には木暮氏から前にきいていた話がある。
氏は、明治十三、四(1880~81)年ごろ、官吏になりたいと思い上京した。そのとき福澤先生に面会しこの志望を述べたところ、先生はその不心得を諭したという。「役人などは、産業を持たない士族の子弟がやればよいことで、代々の営業を持つ君などが従事すべきことではない。とくに温泉宿というものは、時勢の進歩につれて、これから大いに繁昌するだろうことは先例を見ても明らかなので、君はまずもって家業に励むことが大切だ。そして、今日は土地の値段が法外に安いのだから、できるだけ土地を買い入れておくのがよいだろう。もし大いに威張りたいというのなら、いつか国会議員になって堂々と国政を議論するべきなのだ」と言われたそうだ。そこで氏は仕官するという気持ちをきっぱりと断ち、もっぱら家業に専心し、その一方で衆議院議員になって福澤先生の言われたとおりに当初の志望を達することになったのだそうだ。
そのとき私は木暮氏に、「しかし、君が先生の教訓どおり、安価な土地を買い入れておいたとしても、この掛物を買い入れた利益には及ばないだろう」と一笑したのである。その武太夫君も今では世を去られ、私もまたほどなく寂滅するだろうから、結局残るのはこの幅ばかりとなることだろう。
百七十六 銅像に就ての所感(下巻101頁)
東京に初めて建てられた銅像がはたしてどこのものであるのか、私ははっきりとしたことを知らないが、明治二十四、五(1891~92)年ごろに九段の招魂社の社殿前に建立された大村益次郎氏のものはかなり早いほうだっただろう。
その銅像は、大熊(原文「大隈」)氏広氏の製作によるものだが、私は明治二十二(1889)年の秋、ヨーロッパから大熊氏と同船で帰国したので、この銅像製作の最中にはしばしば氏と面会して製作に関する苦心談をきいたことがある。
大村氏には満足のいく写真がなかったので、氏の知人や親族によってその容貌を研究したそうだが、非常に額が長い人で、眉毛を中心にその上下がほとんど同じ長さだったという。銅像の片手に双眼鏡を持っているのは、九段の高台から彰義隊の立てこもっていた上野方面を観望したときの姿なのだそうだ。
その後大熊氏は、福澤先生の座像も作られた。このときは私も共同世話人のひとりで、銅像ができあがったとき大熊氏から、先生の容貌が普通の人とはかなり違っていて写実をするうえで非常に扱いにくい顔だったという理由も聞かされたが、とにかく先生の気に入らなかったので、私も非常に当惑したということがあった。
その後いろいろな場所に建立された銅像の中には、だんだんに出来のよいものも出てきたようだが、日本では、製作する者も製作させる者も概して不慣れなために、これは、と感心するようなものが非常に少なかったものだった。
しかし、大正元(1912)年十月十二日、品川の海晏寺で除幕式を行った梅若実の銅像は、それまで東京の各所に建てられた銅像の中で、その姿はほとんど無類の上出来だった。それもそのはずである。翁が右の手に扇を持ち今や踊り出さんとするところであり、長年鍛えに鍛えたその芸術的な態度が普通の人には及びもつかないものだったからだろう。
この銅像の建立については、私も発起人のひとりとして当日式場に列席した。その高さは五尺四寸(注・約163センチ)で、台石を合わせたら十一尺(注・3.3メートル)だった。その台石の背面には股野琢氏の撰文(注・文章を作る)で、次のように刻印されていた。
翁少壮遇世変 独力維持能楽 演習弗懈(注・弗懈=怠らず) 遂克挽回頽勢 其功其技 古今希匹 因同志胥謀(注・胥=助ける) 茲表彰之云
本像の製作者である沼田技師が語るところによると、この銅像は当然翁の没後に設計したものだが、万三郎の姿が翁にほとんど生き写しなので、それをモデルに三回ほど写しとり、その容貌体格はもちろん、袴のひだにいたるまで、生前の翁そのままを表現することができたことは非常に幸せだったということであった。
とにかく、銅像というものはのちのちまで残るものなので、姿かたちが似ていることだけに囚われて、実物よりも劣っている物体を遺してしまうのは、故人にたいしてまことに気の毒だ。上野台の西郷の銅像なども、ふだんの生活の様を写そうとする意匠に囚われたばかりに、陸軍大将だったこの人の威厳を顧みることがなかったのは、おおいに考えものではなかろうか。
また、数年前に、目黒の恵比寿ビール会社の構内に馬越恭平翁の大銅像を建設してその除幕式が行われたとき、清浦奎吾伯爵が演説をして、「自分は従来銅像を好まぬ一人である。東京市中に於ても、建設その場所得ずして、頭に鳥の糞が掛かっている銅像を見受け、思わず顰蹙(注・ひんしゅく)するものがないでもないから、後来、銅像建設を発起する人々は、かような失態を招かぬよう、大に注意しなくてはなるまい。もっとも今度の銅像は当社構内に建てられて、その保護についても、大に他と異なるものがあろうから、これはまったく例外として、その他一般の銅像はなるべく必要やむべからざるものに限り、粗造濫設を戒めざるべからず」という趣旨を述べられた。
私は、清浦伯爵の意見に同意すると同時に、銅像製作者に対してさらに希望したいことがある。先ごろ、陸軍省構内に建設された山県有朋公爵の騎馬銅像の鋳造の前に、その石膏の段階で、それぞれが所見を述べよということで、委員となっていた人たちが工作場に集合した。その際、故人の特徴を表現しようとするあまり、かえってその欠点がきわだっていることがなきにしもあらずだったので、なるべく長所や美点を目立たせるようにして、似姿とともにその品格風貌を伝えるよう特に注文をしておいたが、これ山県公爵のものにとどまらず、銅像一般についてそのような点に留意されるよう願っている。
というのも、あるところで背の低い実業家の銅像を見かけたことがあり、小高い台の上に載っていたので、下から仰ぎ見るとまるで奇形の大黒天を見るようで、このような銅像ならむしろ作らないほうがよいのではないかと思ったことがあったからだ。
日本では昔から、碑文によって故人の遺徳を称揚するという方法がある。中途半端な銅像を作るよりも、石碑のほうがかえって崇敬の念を深くすることがあるということは、かの清水谷公園内にある大久保利通卿の記念碑などがよい例である。
私は、将来の参考のために、ここにいささかの所感を披歴する次第である。
百七十三 伊東茂右衛門参禅談(下巻90頁)
大正二(1913)年十月六日の午前、私は伊東茂右衛門氏から福澤先生の経歴談を聞くために、大久保百人町にある氏の住まいを訪問した。
伊東氏は豊後(注・現大分県)中津の人である。仙骨飄然とした(注・仙人のようにひょうひょうとした)変わった人だったが、福澤先生にかわいがられた。
明治十四(1881)年に福澤先生が、東京で起きた政変を東北御巡幸に供奉(注・お供)して福島まで帰ってきていた大隈侯爵に内報するための使者に、氏を選んだことを見ても、彼がいかに先生に信頼されていたかがわかる。
伊東氏は、千葉の近くにあるある寺の住職だった大徹和尚の会下(注・えげ=修業)に参加し、この道についての造詣が非常に深いそうなので、私はついでに彼の参禅経歴についても質問した。以下はそのときに氏が語ってくれた一場の物語である。(注・わかりやすい表現になおした)
私は興津の清見寺の住職、真浄(注・坂上真浄)老師が、あるとき上京して碧厳の提唱(注・中国の仏教書「碧厳録」の講義)をしたのを聴いて非常に感ずるところがあったので、大徹和尚とも相談のうえ、その添え書きを懐にして、直接清見寺に出向いた。すると、この寺には見晴らしのよい広い座敷がいくつもあるのに、なぜか私を、三畳ばかりの、ねずみの糞がいっぱいある部屋に通された。食べ物は、朝が麦粥とケンチン汁、夜は、また冷たい麦飯と香の物というような具合で、毎日同じごちそうばかりなので、私はたまりかねて、そっとたもとに入れて持参した鰹節を食べていた。
さて、ときどき老師に会うと、老師はただ暑いとか、寒いとかいう挨拶をするだけで、なんの話もしてくれない。私もまた、座禅しようというような考えも起こらなかった。
あるとき、老師の部屋で雑談をしていたところ、ふと座ってみたいという気が起こったので、挨拶もせずに自分の部屋に戻り、いよいよ取り掛かったのは「一指の禅」という公案だった。それより前に、老師が、私に「貴方は座禅の復習に来たのだから、なんでも自分の気に入った公案を選ぶがよろしい」と言われたので、それほど難しくないこの公案を試してみたのだった。
だが、それから四、五日考え続け、老師に考えを述べると、ちょっと聞いただけで、「まだまだ」と言われる。
それでまた、さらに数日間座り続け、あるときは裏山の上に登って工夫(注・座禅に集中)したりして、もうだいたいよいだろうと思って老師の部屋に行くと、私の足音をきいただけで、障子の中から「まだまだ」と言われる。
それでさらに考えてから出直していくと、今度は大きな声で、「この部屋にはいっちゃならぬ」と言われる始末だった。
最初は二、三日滞在するだけのつもりだったのが、もはや三週間過ぎても、簡単には通ることができそうになかった。そのうえ食べ物が悪いので、もううんざりしてきた。
そのとき、私がかつて大徹和尚のところに行ったとき、和尚が、ある僧のために執筆していた、おもしろい偈(注・げ。仏の功徳をほめたたえる詩)のことを思い出した。せっかくここまでやってきて、なにも得ることなく逃げ出すのも残念なので、最後の一日は大死一番(注・一度死んだ気になって奮起)の覚悟で座禅しようと、むこう鉢巻(注・額のところに結び目を作る鉢巻)を固く締め、腹がちぎれるほどに腹帯を巻き、どっかりと座禅して考案していた。
すると突然、ねずみが一匹、天井から私の肩に飛び降りてきて、さらに膝の上に飛んできた。そのとたん、今まで考えていた公案のことなど、どこかにすっかり忘れてしまい、再び、大徹和尚の所で見た偈のことを思い出した。
そこで、さっそくそれに次韻(注・他人の詩と同じ韻字を同じ順序に用いて詩を作ること)し、疲れ果てた気持ちを取り直し、持ち合わせの矢立の筆で、この偈を自分の扇子にしたためた。そして、ふらふらとその部屋を出たときには、もう夜明け方だった。
とにかく三週間このかた、ろくろく眠っておらず、家に帰って体重を計ってみると一貫五百匁(注・約5.6キロ)減っていたようなところだったので、ふらふらしながら洗面所に出かけていくと、早起きの老師が盥漱(注・かんそう。身を清めること)をしているところだった。
そのとき老師は、めざとく私が偈を書いた扇子を見つけ、「ははあ、次韻ができましたな」と手に取り、ちょっと見て、よいとも悪いとも言わずに私に返された。
しかし私は修行のことなどすっかり忘れてしまっていて、老師に向かい「長々とご厄介になりましたが、今から帰京いたします」と言った。すると老師は「それがよかろう」と言うだけで何もほかには言わなかった。それで私はそのまま清見寺を退出したのである。
もともと禅学の修業というものは、言うに言われぬ不思議な仕事で、だんだんと鍛錬するにつれて、スリが他人の財布の中にいくらくらいの金がはいっているかを見てとるように、人が何を考えているかということを、すぐさま見てとることができるようになるのである。つまり、これは考えをひとつにまとめてしまう修業である。
だから私などは、いますぐに寝ようと思うと、すぐに寝ることができる。これはいつでも雑念を断ち切ることができるためで、修行が進んでくると、そこになんとも言えない無限の面白味があります。
以上の伊東氏の参禅談は、私にもなにやらサッパリわからないところもあるものの、またなにやら面白そうなところもあるので、ここに記して、読者の判断にお任せしようと思う。
九十八 福澤先生礼讃(上巻334頁)
私は明治四十五(1912)年に実業界を引退し、閑雲野鶴の(注・束縛のない悠々自適な)身となった。そのときに、福澤先生の伝記を書いてみようかと思い、その後約一年間にわたり、先生と生前に交際のあった大隈重信、山本権兵衛、後藤新平、北里柴三郎、森村市左衛門、足立寛、中村道太、犬養毅、尾崎行雄、鎌田栄吉ら数十人を訪問し、先生に関する談話の聞書きを行った。これはかなりの大部な記録となったので、後年、福澤諭吉伝の著者である石河幹明氏にも見せて参考にしてもらった。今回は、その談話記録の中から、全体として福澤先生を礼讃した二、三の例をピックアップ(原文「摘録」)してみる。(注・読みやすいように、一部の表現をなおした)
犬養毅氏談
「福澤先生はもともと自由主義の人で、一切の差別をしない。爵位や俸禄、階級、勲位を持たない。あるときなどは、席次の上下ができないように、客室に床の間を作らなかったこともある。
慶應義塾において一目置かれ重んじられるのは、学問、知識、人格であり、役人の肩書などは、尊敬されるというよりはむしろ卑しまれるくらいだった。
しかし明治十(1877)年の西南戦争により日本の封建的なやり方が打破されると先生は考えを改め、交詢社を作るなどして、さかんに実業論を唱えるようになった。それを見て世間には拝金宗だと言う者もあった。
ところが晩年には、ふたたび穏健な考えに戻り、あの「修身要領」を作られたりした。これは、釈迦が最初に出山(注・釈迦が修行を終え雪山をおりたこと)して華厳を説き、その後世間に触れて小乗を説き、最後には法華、涅槃を説いたのと同様である。釈迦における法華と涅槃が、福澤先生にとっての独立自尊主義にあたる。だから吾輩は、三田山の学風が福澤先生の功績を伝え、ながくその特色を失わないようにと望んでいる。」
尾崎行雄氏談
「吾輩は明治七(1874)年に慶應義塾に入門し、あるとき教授のひとりが癪にさわったので翌年にとうとう退学してしまい、福澤先生に対しても、おうおうにして反抗的な態度を取った。
しかし先生は私を見捨てることはなく、陰にまわって家族の心配までしてくださった。そういう先生の気質を考えてみると、人の感謝するようなことは表面にあらわさず、いわゆる陰徳を施すのを常としたのである。
あの榎本武揚を助けたり、朝鮮の金玉均を助けたり(注・一例として20「金玉均庇護」を参照のこと)して、なにも知らないような顔をしておられるのがそれである。
先生が亡くなられてから考えてみると、明治の社会に、先生ほど度量がありすべてを兼ね備えていた人はいなかったように思う。 世の中ではとかく西郷隆盛を大人物を言うが、それは一面的なことで、先生のように広くなにごとにも行き届いた人はほかに例がないと思う。仮に今、明治の大人物を有形的、無形的に粉々に砕いて、その長所短所をまぜこぜにして団子を作ってみたら、福澤先生の団子が、誰のよりもはるかに大きなものになると思う。」
鎌田栄吉氏談
「維新前後の政治家に『西洋事情』がどれほど大きな効果を及ぼしたかということを考えてみると、すぐに福澤先生の偉大さがわかる。
勝安房(注・かつあわ。勝海舟のこと)が、維新前に西洋から帰ってきて幕府の老中からその事情をきかれたときの答えが、西洋の事情はちょっと見聞きしたってわかるものではない、まず私の見たところで、ただひとつ日本と西洋で違っているのは、西洋では利口な人が上に立って政治を執っているということであります、というものだったので、馬鹿なことを言うなと、老中からひどく叱られたという奇談がある。もちろんこれは、勝が老中を風刺したものであろうが、しかし実際、西洋の事情に通じて、これを書物に書き表すことができたのは当時、福澤先生以外にはいなかったのである。
維新前後に西洋に行きいろいろな研究をしてきた人はいるが、それはだいたいがひとつの局面のことである。たとえは中村敬宇が書いたものはと言えば、自助論のような一部のものでしかない。銀行、会社、郵便、学校、政治、軍事、暦、その他全般のことを勉強して大要を教え広めるためには非凡な知識が必要であり、その点が他の誰にも真似できない福澤先生の偉大さなのだと思う。
また福澤先生は、最も自分の力が発揮できる場所において一生働いたということが偉い。先生は決して政治家ではない。人柄が君子なので、嘘をついたり策略を用いたりすることが絶対にできない。学者として思い切った説を吐き、いつも世の中よりも一歩進んだところから天下に警鐘を鳴らし、ひとびとを覚醒させるのが先生の得意とするところである。
先生は晩年に自伝を書き、病後には『修身要領』をまとめ、最後まで完全に学者としての生涯を全うされた。それは、いわゆる適材適所ということで、非常に幸運な人であったと思う。」
九十七 大隈の福澤評(上巻331頁)
福澤先生は稀代の偉人で稀有の時代に生まれ合わせ、しかもよく自分を知り、その時代に適応しようとして最善の働きを尽くされた。このことは新しい日本文明にとり大いなる効果をもたらした。
先生の功績には慶應義塾、交詢社、時事新報を創立したことをもちろん数える必要があるが、わが国に西洋文明を輸入した大恩人としての業績を長く礼讃しなくてはならないだろう。
弘法大師が唐の仏教文明を輸入したのと同様に、先生は日本が開国した最初の時期に、まったく流儀の違う西洋の文明、思想、文化、社会のしくみを研究し、ほどよくかみ砕き、わが国民にもわかりやすいように「西洋事情」や「学問のすゝめ」などに著述し、当時の文明、思想の問屋となって新しい為政者にも模範を示し方針を与えた。その努力はながく記憶されなければならない。
先生の没後、私は先輩諸氏より先生の偉業について直接の談話を聴き取った。順番は前後するが、まずは大正はじめに私が早稲田に大隈侯爵を訪ねたときの話を摘録することにしよう。(注・句点がないところを切るなどして、わかりやすい表現になおした)
「福澤先生は親切で、かつ注意深い人で、吾輩などの乱暴なやり口を危険に思って、たびたび忠告してくださったものだった。しかし明治十四年の国会開設論については、いつもと違って非常な勇気をもって賛成された。
木戸が明治十年に死んで、大久保がその翌年に世を去って、あとは吾輩がその後を引き受けたようなありさまになってしまった。さて政治上の改革をやらなくてはならないので、吾輩は福澤先生と協議し、伊藤、井上の二人を加えて、まずは世論の力で、当時政府の中でがんばっていた頑固な連中の矛先を挫き、いよいよ国会を開設するという相談になった。これには有栖川宮(注・熾仁親王か?)殿下、岩倉、三条公爵もみな賛成し、実行に移すことになった。
しかし明治十四(1881)年の夏に東北に御巡幸があって、吾輩も北海道まで随行(原文「供奉」)し、帰り道に福島に到着したときに、東京からの連絡を受けた。それによると、吾輩が、福澤と謀反を企てたということで、薩摩の連中が怒り出し、伊藤、井上は腰を抜かして手を引いてしまい、岩倉もへこたれてしまったというのである。それで吾輩がひとりで責任を背負うことになってしまったが、政府の連中は、なにか吾輩の落ち度を見つけて罪に陥れようとして、三井銀行に行って帳簿を調べたり、岩崎の帳簿を調べたりした。しかし、吾輩には一銭一厘の関係もなく、かえって当時の政府の役人の貸借が明からさまになってしまい、おかげで吾輩は、完全に潔白を証明され、ただ職をやめるだけにとどまったのである。
福澤先生は、父君もまた漢学者で、若いころには漢学で頭脳を作り上げた人であったから、世間が言うような唯物主義者ではない。むしろ唯心論者として、立派に世に立った人であるといえる。しかしその後十分に蘭学を勉強し、万延元(1860)年には木村摂津守らとアメリカへ、そして文久元(1861)年にはヨーロッパへも行った。このときは、1884年のフランス大革命のとき(注・原文のままの年を記す。1848年の二月革命のことであろう)で、ミルの自由論、ベンサムの功利主義といったものが流行しており、全土に革命思想がいきわたっていた。このような自由な議論が盛んにおこなわれていたところに先生は飛び込み、現状を目撃したのだから、日本の漢学者の議論が実にばからしいものだと思い、根本的に改革しなければならないと気づいたのであろう。
いつだったか先生は吾輩に向かって、俺は議論によって、なにからなにまで古い物を一掃しつくしてみせる。その後の建設をするのは政治家の仕事で、それはあなたたちにやってもらうしかないので、とにかく建設は誰かに頼むとして、俺は、破壊専門で行く、と言われたことがあった。
それが、あの楠公権助論などになって、世間の人の考えを刺激し、ずいぶんと大きな敵を作ったりもした。しかしそれに動じることがなかったのも、福澤先生ならではだった。しかしながら、功利主義一点張りではなく、漢学の素養があって忠孝仁義道徳といったことにも十分に考えがある人だったので、世の中が落ち着くにしたがい、もともとの穏健な色合いの思想に立ち戻られたのである。」
九十六
先師の捐館(注・えんかん。死去)(上巻327頁)
福澤先生は明治三十一(1898)年九月に脳溢血を起こし一時昏睡状態に陥った。この知らせをきいたとき私もちょうど東京にいたので、さっそく三田邸に駆けつけたが、東京中の名医という名医がかわるがわる来診していた。その中にはドイツの名医ベルツ博士もいた。
ベルツ博士は帰り際に、私や中上川彦次郎氏が集まっていた座敷に立ち寄ったので、中上川氏が回復の見込みがあるかどうか尋ねたところ彼は手を左右に振って、生命は一時取りとめるかもしれないが、His career is over.【彼の功業は、はや終わった】(原文「ヒズ・キヤ-リヤ-・イズ・オーバー」)と宣告して、悄然と立ち去った。
先生の病勢はすこしずつ収まり、二、三か月後には片言交じりのおしゃべりをするようになられた。しかし古いことはかえって記憶しているのにひきかえ新しいことは忘れてしまい、特に人名が思い出せないようになっていた。
ある日、山本権兵衛伯爵に会いたいと言い出されたのだが、その山本という姓が出てこず、ほかの事情から推察して、ようやく同伯爵のことだとわかったというようなこともあった。
翌年の夏ごろから気力がかなり回復し、記憶もまた復活し、自身で筆をとった大字に「病後之福翁」という印を押されたこともあった。あの「修身要領」というのも病後の産物で、この宣言によって福澤先生のいわゆる「独立自尊宗」が大成を見たといってもよいのである。
そしてついに、足かけ四年の三十四(1901)年一月に病気が再発し、二月三日に長逝された。
小幡先生をはじめ塾員総出で準備を整え、同八日に福澤邸を出て麻布の善福寺で葬儀を行い、府下大崎の墓地に葬った。
それはいかにも厳粛な葬儀であった。福澤邸から善福寺までの随行者は全員徒歩ということになったので、馬車で福澤邸に乗りつけた人はその様子に驚き、すぐに下車して葬列に加わるというありさまだった。先生の葬儀でなければ、このような例を見ることはないだろうと思われるようなもので、会葬者一同は感激したものである。
私は明治十四(1881)年から先生の庇護を受け、翌年に時事新報の記者になってからは先生の社説の口述筆記をしたり、自説の執筆をしたりするときに先生の検閲を受けるために、ほとんど毎日机のそばにいて文章の書き方をいちいち教わった。幾千もの門弟があるなかで、私は渡邊治、石河幹明の両氏とともに、例を見ない幸運にあずかったのである。
その後はそれほど近くにはいなかったが、交詢社その他で拝顔する機会は少なくなく、なんとなく厳父のように思っていた。社会に出てさまざまな働きをするにあたっても、先生がどう思われるだろうということを念頭に置き気持ちのうえの励みにしていた。先生が亡くなられたことで、その目印(原文「目当」)を失ってしまったようで、善いことも悪いことも報告する場所がなくなってしまったような気がした。
顧みて思うに、私の一生のうちで、このような稀代の大人傑のそばで特別の教訓を受ける機会があったことは二度と得難い幸運であったと思う。いまなお、ありがたく感謝している次第である。
稀代の偉人(上巻330頁)
私は福澤先生と同時代に生を受けただけでなく、浅からぬ師弟関係を結び長年にわたりそばに仕えた。そのような教えを受けたことは、ほんとうに一生の幸運であった。昔から禅宗では、かんたんには世に出てこない名僧のことを「五百年間出」などというが、福澤先生は、五百年間出か、一千年間出か、とにかく稀代の偉人であったことだけは確かで、わたしが云々する必要もないことである。
日本という国が始まって以来多くの偉人はいたが、同時代に生まれて親しいつきあいをしたら、さぞかし面白いにちがいないと思うほどの人物はそれほど多くはない。
私は個人的には、学問もあり、趣味もある、話のおもしろい人に会ってみたいと思うので、その筆頭にあげたいのは、唐の仏教文明を日本に輸入した弘法大師である。そしてその次が、鎌倉幕府の創立を計画した大江広元である。また、同じく僧侶で、禅宗を大衆化させた一休和尚にも会ってみたい。そしてさらに近いところでは、なんといっても、太閤秀吉の天空海闊な(注・度量が大きく、こだわりのない)大きな肝っ玉にぶつかってみたら面白いだろうなあと思う。徳川時代では、炒り豆を噛みながら英雄を罵ったという荻生徂徠に会ってみたいと思う。
そして維新以後の人物で誰に会ってみたいかというと、それは福澤先生ということになるのではなかろうか。ところがなんの幸いか、私はこの千年間出の大先生にお会いし、親しくそばに仕える機会を得たのである。考えてみれば、これこそこの世に生まれた甲斐があったというものだ。
しかしながら、先生の一代の業績について語ろうとするとほとんど際限がない。それに、門下生の身分では、あまり立ち入って評論するのも得策ではない。よって次項においては、先生にじかに接しその性向をよく知っておられる諸先輩のご意見を摘録することにさせていただきたい。
九十三
福澤先生の来店(上巻317頁)
私が明治二十八(1895)年から改革に着手した三井呉服店は日清戦争後の膨張に乗じて大きく発展した。百貨店の卵ともいえる「陳列場」の試み(注・76「呉服小売法の変改」を参照のこと)が非常に好評だったために旧店舗の西側に増築した木造二階建ての陳列館は、明治三十(1897)年ごろの東京において、ほかでは見ることのできない壮観を呈していた。
そのころある日、私は福澤先生を訪問し次のように述べた。
王政維新後の日本の政府の事業はおおむね西洋文明流に変わってきた。しかし民間の商業では、小売店での販売業の歩みは遅々として旧態依然だ。それを改めるために、今度三井呉服店で西洋流のデパートメント・ストアの販売法を試してみるつもりである。当分のあいだは呉服以外のものを陳列するにはいたらないと思うが、呉服についていえば、和洋の一切を網羅するに至ったので一度ご来観願いたい。
すると先生はいつものようにニコニコされ、それはさぞ面白かろう、さっそく拝見しましょうと言って、日付は忘れてしまったが、ある日の午後二時ごろから来店された。
まず西館の客室にはいり私の説明を聞いてから、新旧の売り場、意匠部、そして仕入部と、店内をくまなくご覧になった。そして再び客室に戻られたとき、鳥尾小弥太子爵が偶然来店しており同じ部屋で対面することになった。このとき鳥尾子爵はヨーロッパ諸国を巡回しての帰国後まだ間もない時であったようで、洋行前に先生と話した何かの事柄についてオーストリアの某博士のところで質問してきたが、その意見はかくかくしかじかと、滔々と述べ始めた。先生は最初から気のなさそうな顔できいていたが、話があまり長引いて非常に迷惑に感じたらしく、そのような話をいたしましたか、一向に記憶していないのですが、などといかにも不熱心な様子なので、鳥尾子爵も手持無沙汰になってしまったという一幕だった。
さて先生は私に対し感心と激励の言葉をくださった。慶應義塾を出た者は学者であるにもかかわらず俗務に就いて、旧来の商工業者に劣らぬ働きをしている。例えば、あの荘田平五郎を見てみよ、在塾中は、いつも折り目正しく袴をはき謹厳な学者風であったのに、三菱会社にはいってからは汽船の運行に関する激務に携わり、さっさっと事務処理をし立派な会社の重役になっているではないか、呉服店の営業というのは、汽船会社よりもなおいっそう煩雑な事務なのに、そこに学卒者(原文「学者」)が飛び込み、二百年間そこで事務に慣れた番頭の仕事を引き受けて、さっさっとその改革をしていくとは、なんと痛快なことだろう、と非常に喜ばれたのである。
それで私の肩身もなにやら広くなったものだった。時事新報に在社中に論説の執筆をして、先生のお気に召したときにはずいぶん褒められたこともあったが、このときほどに褒め言葉をもらったことがなかったので、私はそれまでの生涯で覚えがないほどに嬉しかった。先生はその後も人に会えば私を例にひいて、学者にできないことは何もない、と説明されていた。それを私自身も聞いたし、また人からも伝え聞き、非常にありがたいと思ったことだった。
染織業の大進歩(上巻319頁)
私が三井呉服店を改革し始めたのは、日清戦争の終わった明治二十八(1895)年八月からである。戦後の景気拡大の機運がめきめきと盛り上がり、呉服の商売にも発展の兆しが見られた。
しかし何分にも染織業者が保守的なので進んで改革を試みることがない。新しいものを製造しても問屋や小売店の好みに合わなければ、みすみす損失を招くということで、どれもこれも同じような、まったくの紋切り型の製品しか作らないのである。
私は染織製品の産地を巡回視察して製造業者に面会し、これからまさにやってくるであろう新しい時代の要求にこたえるために新しい品物を生産してくれるように勧告することを思い立った。
そこでまず京都西陣の染織工場、丹後宮津、近江長浜のちりめん織元を視察した。東北地方では桐生、足利、伊勢崎の御召糸織銘仙(原文「銘選」)、仙台、米沢、越後の各地では袴地や縮(注・ちぢみ)の製造場を歴訪した。そして、春秋二期の染織展覧会に優秀な作品を出品してもらうようにした。こうして彼らも大いに活気づき、製品の品目を一新した。
私は国内だけでなく、シナ(原文「支那」)の機業地も視察し、もしも輸入するのに適当な品があればその織元と契約をかわそうと思い、三十一(1898)年の三月に、仕入方の山岡才次郎を伴いまず上海を訪れた。ここでは三井物産支店の仲買人である袁氏に世話してもらい、蘇州、杭州、その他付近の織物工場を巡回視察した。しかし康熙、乾隆時代以降、シナの工芸美術がいちじるしく堕落した結果、織物もまたまったく進歩していなかった。あるのは簡単な緞子織物だけで、採用するに足る品物はないという実況を見きわめたうえで帰国した。
そのころは戦後の景気拡大が世間にみなぎり呉服関係の売れ行きも非常に増加した。時勢とはいいながら、私の染織業界の奨励活動により、この産業が画期的ともいえる進歩を見せた。これは、まことに予想を超える成績だったと言えるのである。
七十二
古寺社の巡礼(上巻244頁)
私が大阪に滞在した三年間の毎日曜日の日課は、畿内各地の古寺社を巡礼することだった。「是は東国方より出でたる者にて候、我未だ何々社寺を見ず候に、此度思ひ立ち一見せばやと存候(注・能「田村」の「是は東国方より出でたる僧にて候、我未だ都を見ず候・・・」のもじり)と、お能ばりに見物してまわろうとして最初から計画を立て、まず聖徳太子の法隆寺から始めることにした。
続いては、天平時代の奈良諸寺院、その次には弘仁時代の室生寺などと時代順にまわった。大和の国の古刹では、薬師寺、秋篠寺、東大寺、法華寺、当麻寺、唐招提寺などに行き、旧社では春日、三輪、多武峯など、山間の僻地であっても厭うことなく巡礼を続けた。
河内の国では、観心寺、道明寺、誉田八幡など、和泉の国では堺の南宗寺、塩穴寺、摂津では勝尾寺、四天王寺、住吉神社。山城では洛中洛外の社寺をいちいち数えていたらきりがないほど。そのほか江州(注・近江)、紀州におよんで、一日で二か所以上は回った。
まずは建築からはじめ、仏像、仏具、絵画、彫刻など装飾関係にわたり詳細に研究していくと、時代によってその気分や特徴がはっきりしてきて、千年以上の古物に触れてその古色を味わうことになった。
その間にふつふつと湧き上がってくるのは、まずはわが国の国体のありがたさであった。いちばん上に万世一系の天子をいただき、かつて外敵に侵入を受けたことのない国でなければ、火災に弱い木造建築が千年以上ももつことは考えられない。内地での戦乱は、武人同士の争いであって民衆のあずかり知らぬことなので、こうした惨禍は寺の塔や伽藍には及ばなかった。それで、祖先が代々残した工芸美術が完全な形で残り現在国民の模範になっている。
このようなありがたい霊境浄土は世界のどこを探したとしてもふたつとないものだ。そう思えば、誰しも尊王愛国の気持ちを持つのではなかろうか。
最近の悪い思想の蔓延を防止するために政治家の苦慮が大きいということには、私も非常に共鳴するのであるが、私は、学校の生徒たちの遠足の目的地を、ときどきは古社寺に向けるということが一石二鳥の妙案ではないかと思う。
今の人たちが古社寺の境内にはいると、なんとはなしに敬虔な気持ちを持つものである。私はあるイギリス人が法隆寺の金堂の前に立ったとき、ギリシャの古い建築物に対するのと同じように、身を二千年前に置いたような感じを覚えたと言われるのをきいたことがある。またアメリカ婦人が高野山に登り弘法大師が唐から請来した金鈴を打ち振り、一千百年前に大師が聞かれたその音と自分が今聞いている音がまったく同じかと思うと、なんとなく大師に出会っているような気がすると言われたことを伝え聞いた。そのように、古寺社の巡礼はわれわれにいろいろな霊感を与えるのである。
私は奈良地方の古寺院でいわゆる伽藍石の趣味を覚え、これをはじめて東京に運びこんで好事家たちにこの趣味を伝えた。私の現在の赤坂一ツ木町の伽藍洞でも、南都(注・奈良)における千年以上の伽藍石を数十個保有している。それは、古社寺巡礼のたまものにほかならないので、また後段でも伽藍石について語ることにしようと思う。(注・92「寸松庵開き」を参照のこと)
渡邊治の死去(上巻246頁)
私の親友であり畏友であった渡邊治は、明治二十六(1893)年十月に肺疾患に倒れ、播州須磨の別邸で息を引き取った。三十三歳だった。渡邊は私と同じく水戸下市の士族で住まいも近かったので、幼いころからのいわゆる竹馬の友だった。彼は私より三歳年下で、才学夙成(注・幼くして学業ができあがること)、少年のころから大人びた言動をし、しかも負けず嫌いでよく勉強したので、上市の漢学先生だった寺門謹(注・会沢正志斎の甥)氏の塾に出入りするころには神童だという評判だった。彼の父親は小柄だったが剣術の達人で、仙台藩の道場破りをしたときには天狗の再来だと言われて、小天狗と呼ばれたそうだ。
明治十一(1878)年に私と一緒に茨城中学予備校に入学し、予備校が中学となってからは同学年で三年間のあいだ彼がつねにクラスの首席を占めていたので、私はなんとか一度でも彼を越えようと必死で勉強を続け、知らず知らずのうちに得たものは大きかった。
明治十四(1881)年には松木直巳氏のあっせんで、ふたり一緒に福澤先生の保護下に置かれることになり、翌十五年にはふたりとも慶應義塾を卒業して時事新報の記者になった。そこでまた競争になったが、私は明治二十(1887)年に時事新報を去って洋行することになり、このときだけははじめて彼に先んじたが、彼も長くは時事新報にとどまらず、翌々年の明治二十二(1889)年に山県公爵に親近し、その第一歩を政治の世界に踏み出したのだった。
また東京では朝野新聞を乗っ取り、ついで、当時は小さかった大阪毎日新聞を買収していまでは隆盛を誇る同新聞の基礎を作ったのである。
明治二十三(1890)年の衆議院選挙のときには、まだ三十歳に達しておらず、議員候補の資格を持たないにもかかわらず、どうにか工作したようで、うまいこと水戸市から選出された。
議会においても、すぐに大成会を組織し、四十人あまりの議員を集めて、天下をおさめるための方策を練り、山県公爵からも将来を期待されていたものだ。
しかし肺疾患がすでに進み、復活することなく志なかばで亡くなったことは非常に残念なことだった。それでも、短い時間のあいだにほとんど超人的ともいえる働きをし、もしももっと長く政界にあれば、大臣はもちろん、あるいは首相の任もまかされることになったのではないかと思わせたことは、病的なまでの天才のなせる業であったということだろう。
四十七
貧富問題(上巻152頁)
明治十八、九(1885~6)年ごろに福澤先生が執筆された「貧富論」のなかで、江戸の祭礼を一例にひき、先生は次のように論じられた。
祭りのときには町内の若者がまっ先に踊りだし、親しい者同士、知らない者同士でも気心を合わせて山車を引き、みこしをかつぎ、木遣り(注・掛け声)をかけて祝い酒を飲む。その費用分担は、金持ちが多く貧乏人は少ない。だが、いちばん楽しい思いをするのは貧乏人のほうなので、しぜんに彼らはひごろの鬱憤を晴らすことができ、その不平をしずめることができるというなんとも微妙なバランスの効能があるのである。
いかにも人心の機微をうがった卓見だと思い、私はこのことをつねに心に留めていた。
イギリスのリバプール滞在中に、この点について思うところがあったので、一意見としてまとめ福澤先生に送った。すると先生の序言つきで、これが時事新報の紙上に発表されることになった。そのなかで私はこのようなことを書いた。(注・意訳した)
「リバプールの知事であるクックソン氏は、クリスマスの夜に、靴もズボンも持たないような貧民の児童四、五百人を狩り集め、冬服を支給する会を開いた。それが行われたのは、ある教会の庭先で、子供たちの父母や親戚は、庭の内外に群集して見ていた。
知事は、井戸綱のように太い金のチェーンにつけた、皿のように大きな印綬を胸にたらして現れた。そして、貧民の子供のなかから一番幼い子を抱き上げて支給服を着せ、三法師を抱いた秀吉さながらに周囲を見回し、冬服を支給する理由や目的について演説を行った。その姿は、見ている者に同情の気持ち(原文「惻隠の情」)を起こさせるものだった。
このときリバプール大司教(原文「大僧正」)も、敬虔な声を張り上げ宗教的な説教を行い、満場の観衆は、声もあげずに感動の涙を流したのである。ああ、この涙こそが、無数の貧民の不平の気持ちをなだめ、ささくれだって曲がってしまった心をやわらげるにちがいない。
リバプールは商工業の中心地で、貧民の数も多い一方で、財産を持つ家(原文「素封家」)も軒を並べているのであるから、他の都市に比べて、一層貧民の不平があおられることが多いはずなのに、そのころ、そうした様相がなく職工労働者の人心が意外に平和なかんじに見えるのが不思議だったが、年末クリスマスにあたり、市民が貧民を慰めることを忘れていないところを見ると、宗教的にも、市政的も、いつも、こうしたことへの用意周到な準備があるからにちがいないと思いとても感心した次第である。云々」
廃娼問題(上巻154頁)
廃娼問題はどこの国においても、是か非かをめぐって決着のついていない問題である。名を取って実を捨てるか、実をとって名を捨てるかの一利一害が錯綜し、禁酒問題と同じで、いつまでたっても一致点を見つけられないようだ。
中国の聖人が「飲食、男女は、人の大欲存す(注・礼記。食欲と性欲は人の二大欲だという意味)」と言ったように人間は食欲と色欲の餓鬼であるから、かげ(原文「陰」)かひなた(原文「陽」)か、公か私か、どのみちその欲望を満たさなければ済まされないものだろう。
私は外遊中に、ロンドンとパリを比較して、この問題が簡単に解決するようなものではないことを実感した。ロンドンでは公娼が許されていないので私娼がひじょうに繁盛し、その不夜城をめざして人が押し寄せている。私娼たちは道端、あるいは劇場や寄席を徘徊して熱心に客引きをするので、良家の女性たちはもちろんこの界隈には近づかない。もし近づく者があったとしたら、それでもし職業婦人であると思われても、その無礼をとがめることはできないことになっているのだという。
日本から旅行で来てこの界隈に遊び、それを詩にして詠じた人があるのを見て、私もそのひそみにならい、たわむれに俗謡を作り、二上り新内の達人、岡本貞烋氏に送ったことがある。
「花の帽子を手に取りて、グードナイトも口の中、またの逢瀬をネルソンの、塔のかなたで待つぞいな」
これは、ロンドン中心チャリング・クロスの、ネルソンの塔あたりの夜景を詠じたのである。
さてパリはどうかというと、世界からやってくる客を引き寄せて、絶えず黄金の雨を降らすのが国の伝統的な政策なので、カフェや劇場に化粧をした魔物が横行するのはもちろん、ひとたび花柳のちまたに足を踏み入れれば、赤い布を看板(原文「招牌」)にした妓楼が軒を連ねてひしめいている。この女護島(注・遊里)の一角は、世界の餓鬼を誘惑して、ながい夜の遊行に耽らせるのである。
これが公娼制度の特色で、風紀をうんぬんする人びとの目から見れば文明国の恥さらしだと非難することになるのだろうが、ロンドンのような私娼が横行してしまうと、その結果は病気や害毒の蔓延だ。そしてそれを防ぐ手立てがなく、世界を股にかけて流れ渡ってくる質の悪い娼婦が、悪徳のタネをまきちらして旅人に極度の不安を与えることになるのだ。イギリスには公娼がいないという美名のかげに、きわめて陰惨な罪悪がひそんでいるのが、おおうことのできない事実なのである。
日本においても、宗教家や女権論者がこの廃娼問題をさかんに取り上げているようだが、実際に即して人道上の問題を考えると、はたしてどちらが適切なのか。各国の実状を研究したうえで選択をあやまらないようにしなければならないと思う。
四十一
福澤先生の勧告(上巻132頁)
私が明治二十(1887)年十月に渡米してまだ一年足らずのうちに、日本における私のスポンサーであった下村氏が生糸相場で失敗し、私に調査させていた生糸直輸出の実現がかなわなくなってしまった。そして、非常に気の毒なのだがこの手紙を読んだら帰国してほしい、という知らせがきた。
さて、この事情を下村氏が福澤先生に話したとみえ、この手紙と同時に先生からも親切きわまりない長文の手紙が届いた。下村氏は財政的に行き詰ってしまい君の滞米費用をまかなうことができなくなってしまったのだから、この辺で外遊を打ち切り帰国し、前のように時事新報の記者に戻らないか、自分の見る限り君は実業家になるよりも、すでに何年かのあいだに習熟している新聞記者として世に立つほうが労力少なく効果が大きいと思う、もしあと半年くらいアメリカ滞在を希望するなら時事新報から通信費として若干の資金を送ってもよい、という勧告をしてくださっていた。
私はもともと、時事新報の新聞記者になるという約束で福澤先生の補助で慶應義塾を卒業した。その後すぐに時事新報にはいり、足かけ六年の記者見習いをし、言ってみればようやくひとり立ちできる地点に立ったところだったのに、そこで福澤先生の保護のもとを飛び出してしまったので非常に心苦しく思っていた。
だから本当ならば、ここで福澤先生の勧告に従うのが順当であったのだが、ふたたび文章書きの仕事に戻ることがなによりも苦痛だったので、私は先生のお気持ちは非常にありがたかったが、結局この勧告を辞退することにした。そのときの返事の最後に、次の一首を書き添えた。
米国遊学中奉呈福澤先生
師恩猶未報涓埃 忽接親書暗涙催 誰識天涯連夜夢 音容髣髴眼前来
(注・涓=少し)
さて、下村氏の送金が絶え福澤先生の援助も断ったからには、なんとかしてこれからの海外滞在費をこしらえなければならない。いろいろ考えぬいた末に、当時全権公使としてイタリアに駐在中だった旧水戸藩主の徳川篤敬(注・あつよし)侯爵に手紙を送り援助を請うてみた。すると侯爵はすぐに快諾してくださったので私は喜びで天にも昇るような気持ちだった。
こうなったうえは、日本とは非常に国情が違うアメリカに滞在するよりも一般的な商業視察を目的にしてヨーロッパに行き、イギリスを中心とした諸国を歴訪することにしようと決心した。
そして同じ年の四月末に、ニューヨークから七千トンのアンブリヤ号に乗りイギリスのリバプールに入港したのは、ロンドンシーズン(注・イギリス社交界のメンバーが夏のあいだ地方の本宅からロンドンのタウンハウスに集まる時期)の始まる五月一日のことだった。
倫敦(注・ロンドン)シーズン(上巻134頁)
私がアメリカからリバプールを経てロンドンに到着したのは五月初旬のことだった。いたるところにある公園ではチューリップ、バタカップ、オールフラワーなどが咲き誇り、ロンドンのもっとも行楽に適した時期だった。
ここのリージェント・パークの近所に自宅のあるサーン(注・原文ではセルン。未詳)という学者が、アイルランド人の著名な文学者の某女史の娘と結婚してテムズ川上流にある別荘に住んでおり、そのころロンドンに遊学中だった金港堂の原亮三郎氏の長男の亮一郎が、この人について英語の勉強していたのを幸いに、私も彼といっしょにその別荘にしばらく滞在させてもらうことになった。
テムズ川の上流は両岸にお金持ちの別荘が立ち並び、柳の下にはハウスボートという、日本の屋形船を何倍か大きくして内部に寝室や料理場までも備えてある美しい遊覧船がつながれている。別荘に住む家族は、この船で川を上下し、時々場所を変えて気分転換するという趣向である。別荘とこの遊覧船との往復には、一人乗りのカヌー(原文「カヌン」)という小さなボートの船尾に座り二本のオールで操縦する。
私も毎日亮一郎君と、このカヌーでサーン家のハウスボートへ行ったりきたりしたが、河岸の平原は例の草花の咲き乱れるあいだに牛や羊の群れや遠くの教会の塔などが見渡せ、その風景はじつに絵画的なものだった。
私はイギリスに到着そうそう、この光景をおもしろく文章にして福澤先生に送ったところ、先生はさっそくこれを時事新報に掲載し、これからの外国滞在中、時事新報記者として通信してほしい、といって若干の通信料をくださった。私はかさねがさねの恩恵に感謝し、それから二年間不自由なくイギリスに滞在することができたのである。これはほんとうに願ってもないしあわせだった。
三十九
洋行の準備(上巻126頁)
私は新聞記者をやめて実業界に進むと決心したが、それと同時に、まず洋行したいという希望を持っていた。洋行は必要があってのことでもあった。というのは、明治初期の西洋文明輸入は洋学者の一手にになわれており、官吏の世界ではもちろんのこと、どのような分野においても、同じことを言っていても、一度洋行したことのある者でなければ人は耳を傾けなかったのである。また同じ学力で役人になったとしても、洋行者とそうでない者のあいだには月給の差が二倍あるというような時代だった。だから何をするのでも、一度洋行して箔をつけなくては始まらないのが当時の情勢で、わたしも是非とも洋行したいという希望を持ったのである。
ところがここに願ったりかなったりの機会が訪れた。親友の下村万太郎君の父、善右衛門氏が、明治十九(1886)年ごろ生糸の商売で巨額の利益を得、当時の懸案であった生糸の直輸出を計画することになり、まずアメリカの状況を視察しなくてはならないというので適当な人材を選んで派遣しようとしていたのだ。そのとき万太郎が、父に私を推薦してくれたのだ。
そのころの生糸の輸出業は維新以来すべて外国人の手に握られていた。わが国の生糸商は横浜に商館を構える外国商人に生糸を売り込むだけで、輸出に関してはすべて外国商人が行っており、日本人にとって不利益であることがだんだん明らかになっていたのである。
明治八、九(1875~6)年ごろから商権回復運動というものが起き、日本の産物を海外輸出する場合には、日本人が直接これに携わるという試みがなされたのであるが、なにかと失敗が多かった。最初に朝吹英二氏らが、大隈重信氏【のち侯爵】の大蔵卿時代に政府から資金を借り生糸の直輸出を企てたものの、時期尚早でさんざんの失敗に終わっていた。そのあとは、これを継続した日本生糸直輸出会社というところがわずかに残っているだけだった。
下村善右衛門氏が、今回、生糸の直輸出を企てたのも、このような欠陥を補うためのもので、私はその直輸出の事業視察使として渡米の相談を受けたのである。むろんのこと二つ返事で快諾し、福澤先生にそのことを話すと、先生は、私を新聞記者としてとどめおきたい気持ちと、下村の資力が目的を達するまでもつのかどうかを心配する気持ちから、簡単には承諾していただけなかった。だが、私があまりに熱心で矢も楯もたまらないという様子なのを見て、とうとう許可してくれた。
それで、明治二十(1887)年五月、私は時事新報社を退職した。渡米に先立って日本の生糸生産地を視察するため、群馬の前橋、富岡をはじめとして信州の上田、松本、諏訪などの製糸工場を訪問し、さらに横浜の生糸取引の実況も視察した。九月中旬に一応の調査を終え、同月末に、おおいなる希望を抱いて当時アメリカに就航していた3500トンの汽船、ゲ―リック号で渡米の途についたのである。
在米の本邦人(上巻128頁)
私が明治二十(1887)年九月末にゲ―リック号で渡米したときの同船者には、印刷局長の得能通昌、同技師の大山某、在英日本公使館書記官の鍋島桂次郎(原文「銈次郎」)、寺島誠一郎【寺島宗則伯爵の長男でのちに伯爵をつぎ貴族院議員】、副島道正【副島種臣伯爵の長男でのち伯爵をつぐ】、徳大寺公弘【徳大寺実則公爵の長男でのち公爵をつぐ】、など十余名だった。
私は生糸直輸出業を視察するのに先立ちアメリカの商習慣を調査する必要があると思い、まずアメリカの商業学校にはいり、その原則を研究するのが早道だと思った。そこでニューヨークから七十マイル(注・一マイルは約1.6キロ)はなれた、ハドソン河上流のポキプシーというところにある、イーストマン商業学校に入学し、翌年三月ごろまで同地に滞在し、同月同校を卒業した。そしてニューヨークにうつり、いよいよアメリカの商業の状況を視察することになった。
当時アメリカに滞在していた日本人には、ポキプシーに、川崎金太郎【のちに八右衛門】、大三輪奈良太郎【のち名古屋明治銀行頭取】、福澤一太郎【のち慶應義塾塾頭】などがいた。ニューヨークには正金銀行に山川勇木【のち正金銀行取締役】がおり、印刷業視察の星野錫、森村組の村井安固、生糸貿易商会の新井領一郎氏などがいた。またフィラデルフィアには、留学中の岩崎久弥、福澤捨次郎、福澤桃介らがおり、ワシントンには、当時日本政府から圧迫を受けて渡米中だった馬場辰猪氏がおられ、日本公使館には、海軍武官として斎藤実【のち子爵、総理大臣】が滞在しておられた。斎藤氏は当時、美青年将校だったので、ワシントンのモガたちのあこがれの的で、同地の交際場の裏の花形だという評判も耳にした。
なおそのときには、日本から同船した得能通昌氏が、当地において造幣事務の調査中だったから、氏に日々随行して、私の視察のうえでも大きな便宜を得たことは好都合であった。
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三十八
下村と団十郎(上巻122頁)
上州前橋の下村善右衛門氏は私と同年配で、明治十七、八(1884~5)年ごろ東京に遊学していた。正式には慶應義塾に入学しなかったものの、時々福澤先生のところに出入りして、学校外の弟子としてその教えを受ける機会があった。当時は万太郎といい、厳父の善右衛門氏は前橋の生糸製造業者だった。父はそのころ相場でかなりの利益をあげ【四十万円ともいう】、当時の四十万円は相当の大金だったので、万太郎氏も大得意で市川団十郎をひいきにし、団十郎のほうもまた、彼が金持ちの若旦那らしい無邪気なかわいげがあることにほれ込み、下村さんのほうも金銭関係を離れてほとんど親類同様につきあっていたから、私も下村氏に連れられて築地の団十郎の家によく遊びにいった。
あるとき団十郎が十八番の「暫」をやったとき、下村氏は団十郎に顔の隈取りをしてもらい、彼の衣装を着こんで写真を撮った。撮ったはいいが、あまりに着物が重たいので、非力の下村氏はよろよろして歩くこともできず一同大笑いになったのだった。
このころ私は末松謙澄氏と話し合って盛んに演劇改良論を唱えていたので、団十郎に面会する機会が多く、同時に先代守田勘彌氏とも懇意になった。
あるときトルコの軍艦が紀伊半島沖で沈没したことがあり、それを守田勘彌が中幕物(注・第一、第二狂言のあいだに出される一幕の狂言)に仕立てたいということで私に脚色を依頼してきたので、私は以前に福澤先生からきいていた、尺振八が渡米の際に暴風雨に遭い汽船から逃げ出そうとしたという逸話(注・23を参照のこと)をそのなかに入れ込んだ脚本を作り、おかしみを出したりしたのであるが、政府が外交上の問題があるということで、この上演を許可してくれず、そのまま中止になってしまったのは残念だった。
私と市川団十郎の交際はこのときから始まり、後年かなり親密に行き来することになったので、そのことはまた、おいおい記すことにしよう。
売文生活(上巻124頁)
私は母に似て、容貌も性格もいちばん多く母からの遺伝を受けていたが、文芸好きという点でもその影響を受け、少年時代から読書や作文に、とことんの興味を持っていたので、新聞記者という職業は私の天職で、人から後ろ指さされるようなこと(原文「不倫」)ではないと信じていた。
さて、私の時事新報在職もすでに足かけ六年、新聞の論説欄の執筆も、福澤先生に指導され、今では先生の口述筆記でも自筆の論説でも、ほとんど先生の目を通さずに時事新報の社説欄に掲載されるようになっていて、俸給もかなり多額になっていた。
何の不満もない、というべきところだったが、私はうまれつき、よくいえば趣味、悪くいえば道楽が高じがちで、衣食住に関して贅沢をすることが多かった。そのため、新聞記者として文章書き(原文「売文生活」)を続けたのでは、とてもこの性分を満足させることができないことに気づき出した。また同時に、新聞記者として短時間にいそいで文章を書くということには、快感を感じるというより、むしろ苦痛を覚えることのほうが多く、ときとして、明日掲載のための論説の内容を考えるために夜遅くまで頭を使わなくてはならないこともあり、健康にさわることも出てきた。
文章を書くということは、衣食にこと欠かず、「五日一石、十日一水」(注・画家が五日かけてひとつの石を、十日かけてひとつの川を描くように、じっくりていねいに、の意味)というように、気持ち安らかにやってこそ趣味を感じるというもので、仕事に束縛され、いやいやながら筆をとるのはむしろ苦痛だと感じ始めていた。そこで私は、一時期実業界に寄り道して生活の安定を得てから、また文芸生活に戻って気楽に文筆の趣味を楽しまなくてはならないと、ここに新聞記者をやめる決心を固めるにいたったのである。
私が福澤先生の勧告に従わずに、まず生活の安定に必要な資を蓄えるために新聞記者を早くにやめ、いっとき実業界に寄り道したということは、言うまでもなく失策だった。二兎を得ようとしている者さえ一兎を得ないのが世のならいなのに、私には、往々にして数兎を得ようとする悪い癖がある。自己満足をすることはあっても、後世に足跡を残すような何ごともなしえなかったのはこのためだったのである。私がもしも先師の訓告に従って一心に文筆業者(原文「操͡觚業者」)として働き続けたなら、東京の文壇で、貧弱ながら、なにがしかの者になりえたであろうに、実際には、なにをやってもそこそこ器用なせいで趣味は十個以上にわたり、実業界にはいってからも、銀行、紡績、鉱山、製紙、百貨店の各方面に身を置き、使う側からは重宝がられたが、さて、なにが私の仕事なのかと問われると、これだ、と答えられるものがなにもない。結局人生の成功は自分の持つ力を一点に集中することで得られるもので、わたしのような八百屋主義では大成することはないのである。ここに、これを懺悔し、これからの人たちの参考にしてもらえればと思う。
三十一
福澤先生の感情(上巻100頁)
明治十七、八(1884~5)ごろ、時事新報は南鍋町二丁目のかどにあり北側の裏手が交詢社とつながっていた。時事新報社がどうにも手狭なものだから、福澤先生は交詢社の赤煉瓦の二階の一室を編集所と定め毎日そこに行って論説の執筆をなさっていた。
さてこの部屋が当時「鶴仙」という寄席と背中合わせになっており、しかもその舞台が交詢社がわにあったので、落語や音楽などの音が全部筒抜けになって交詢社に聞こえてくるのだった。
当時は竹本摂津大掾(注・せっつだいじょう。義太夫の太夫)が、まだ越路太夫といっていた時代で、はじめて東京にやってきたか二回目くらいのときだったので、すごい人気だった。そのころの寄席の木戸銭(注・入場料)は三、四銭だったのに越路が出れば十銭取るというので、そのころは驚きの的だった。
この越路が鶴仙の寄席に出演し「阿波の鳴門」を語ったちょうどそのとき福澤先生は編集所にいた。越路が美声を張り上げ十兵衛がおつるを殺して金を奪おうとする場面にいたったとき、先生は感激のあまり、「悪い奴だ…悪い奴だ」と繰り返してひとりごとを言った。これは越路の芸がすぐれていたので先生を感動させたということもあろうが、悪事に対する先生の憤りの気持ちが知らず知らずのうちに盛り上がったせいでもあろう。
私は隣りの部屋にいたので盗み聞きしてしまい、あまりにおかしかったのでクスクスと噴き出してしまったが、考えてみるとこんなことからも先生の純粋な気持ちが見えてくるというもので、かえって非常に尊敬したのだった。
宇都宮の警語(上巻101頁)
宇都宮三郎氏は福澤先生の友人で、先生がいつも敬い意見を重んじた学者だった。氏は世俗にまみれず飄々として、禅僧のような風貌だった。南鍋町の自宅だった煉瓦の建物を交詢社に寄付し、自分は別のみすぼらしい家に引っ越した。肺疾患を持ち医師から死を宣告されたので自分で棺桶を作ったが、その後病気から快復するとそれを本棚に代用した、というような奇談の持ち主だった。
毎日のように交詢社にやってきては福澤先生と一緒に談話の中心になっていた。あるとき宇都宮先生は次のような話をされた。イエス・キリスト(原文「耶蘇」)が自分を神だと信じたのは無理もないことだ、生まれながらにして預言者などから「君は前世の約束でこの世に生まれたたったひとりの救世主だ」と宣告され成長するまで周囲のひとびとからも同じように生神扱いされたら、どうも自分は神らしいぞと信じるようになるのは当然だ、しかし最後に十字架にかけられ脇腹に槍を突きさされたときに神ならこんなに痛いはずはないと気がついて、はじめて人間だったことに気づいただろう。そう言って大笑いしていた。先生はやせぎすで、火薬の実験中に顔にやけどを負われたので、一見、異様な風貌であったが、座談がうまくとてもおもしろい科学者であった。
新聞の広告(上巻102頁)
新聞の広告は新聞社の収入の大きな細目である。と同時に広告の依頼者にとっても宣伝効果の高い媒体であるので、今日では双方ともにその利益を知り尽くしているが、時事新報の創立された明治十五(1882)年ごろは新聞というものは論説の内容のよさで売るものだとされていおり、広告などに着目する人は少なかった。
そういうときに、発刊当時から福澤先生の片腕となり表面的には社長として時事新報を経営していた中上川彦次郎氏は、イギリス留学中に研究してきたらしく新聞の経営には広告を取るのが一番必要だということでいろいろな新しい工夫を生み出した。
明治十六、七(1883~4)ごろに、時事新報が一時日本橋三丁目のかどに移ったとき、中上川氏はその二階の窓から、風船に「広告するなら日本一の時事新報に広告するに限る」という宣伝ビラを結びつけて大空に放ったことがあった。これがかなり遠くまでまき散らされ、それからというもの東京の新聞のなかでは時事新報の広告が一番多かった。
その後、ほかの新聞もこれにならって広告取りを熱心にやるようになったが、中上川氏がこれに着眼したということは、氏がのちに実業方面で大きな足跡を残したことの第一歩であったといってもよいであろう。
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三十
福澤先生の喜怒(上巻97頁)
福澤先生は、思ったことをすぐに行動に移す直情径行型の人である。もちろん高い理性があるうえに学問の力で自分を節制することができる人だったから軽率な行動に走るようなことは決してなかったけれども、うれしいときには顔をくしゃくしゃにして喜び怒る時には大声をあげて叱責するということが少なくない。いわゆる天空快闊の気質で、感情を押さえて無理に喜怒哀楽を隠すようなことはなかった。
明治十七(1884)年ごろ、慶應義塾の東側の崖にあった長屋に住み塾内の管理の仕事を行っていた中津出身者の東條軍平という人がいた。この人が、前々から先生が不当であると主張していた塾内家屋への課税を、なんともなしにうかうか承諾してしまったものだから先生の立腹ははなはだしかった。先生は東條の長屋の前に立ちふさがり、俺があれほど言いつけておいたのに自分で勝手に承知してしまうとはとんでもないことだと、火の出るような勢いで叱りつけていたのは、私が先生の激昂ぶりを目撃したただ一度の機会だった。
しかしあるとき先生は私に向かい、自分は若いころからどんなに腹が立っても手を出して人を殴りつけたことはないと話されたこともあり、上にあげた例の場合は、相手が相手だったので遠慮なくその怒りをぶちまけたのであろう。そのようなときにも、雷のあとにすぐ晴天がやってくるような感があったのは、先生に邪気がなく胸中にはなんのわだかまりもないことを示しているのだろうと思う。
福澤先生の雅量(上巻98頁)
明治十八、九(1885~6)年のころだったろうか。井上伯爵【のち侯爵】が外務大臣で条約改正という仕事があり、政略上、外国人に日本の文化を知ってもらうために鹿鳴館を作り、高官たちを集めて仮装パーティを開いたことがあった。山県有朋伯爵【のち公爵】などはそのとき、陣羽織を着て、騎兵隊長、山県狂介のいでたちで出席した。
このとき、誰の悪ふざけかは知らないが、伊藤博文伯爵【のち公爵】が、ある伯爵夫人に対して失礼な振る舞いをし、その夫人が夜更けの鹿鳴館から自宅まで逃げ帰ったなどという噂を流したのである。時事新報は、そのころイギリスの人気政治家であった、チャールズ・ディルク(注・原文「チャーレス・ヂルク」)が姦通問題にかかわり大攻撃を受けロンドンの新聞にその一部始終が報道されていたものを、その肖像写真と一緒にそれとなく転載した。すると末松謙澄【のち子爵】氏が大きなステッキを手に南鍋町の交詢社の二階に突然福澤先生に面会に訪れ、やってくるなり真っ赤な顔をして次のようなことを言った。「時事新報は先生のやっている新聞だから先生は記事に関する全責任を負っているのだろう、伊藤伯爵に対して嘘のスキャンダルを流そうというやつがいるというときに、まるでこれを裏書きするようにディルク事件を掲載したということは、先生もこのスキャンダルを事実と認められたということなのか、その返事のよっては、わたしのほうにも、いささかの決心があります。」
その形相がふつうではないことに先生も驚き、時事新報の記事については自分がもちろん責任を負うが、あの記事は編集者がたまたま掲載したのであり、現在世間で噂されている伊藤伯爵のはなしに引き比べようとしたわけではない、だから明日の新聞紙上で弁明するすることにしよう、と言って、この一件はおだやかに落着し、翌日の時事新報でディルク事件と鹿鳴館パーティでの噂にはなんら関係がないことを弁明した。同時に次のような論説も掲載した。日本の高官たちは、維新当時、生きるか死ぬかの瀬戸際にいることが少なくなかったので、品行のよしあしなどにかまっている場合ではなかったが、それが習慣になり今日でも続いて、ややもすると、大きなことをするときは小さな間違いは問題にしなくてもよいなどと豪語する傾向があることは、おおいに改めるべきことである。
しかしながら先生は、末松氏が帰ったあと、私たちに向かい、末松は実に感心な男だ、知人のために自分が動いて真剣に弁護するというその心意気には見上げたものがある、と語られた。今にもステッキを振り上げてかかってきそうな権幕だった末松氏に対して、先生がこうした感嘆の言葉を惜しまず寛容な態度を見せたことに、私をおおいに感激したものである。
二十四
福澤先生の思想(上巻77頁)
福沢先生は少年時代に漢学を修め、その後長崎に出て蘭学を学び、ついで大阪の緒方塾に行って緒方洪庵先生の指導を受けた。二十五歳のときには、すでに江戸に出て幕府の翻訳方に出仕した。また、渡米、渡欧の外国旅行もしているので、若いころに腰をおちつけて勉学する時間が少なかったのではないかと思うのだが、それにもかかわらず、誰もが言い出したこともなかったような新しい考えを発表されることが多かったのは、生まれながらにして学問的な思考力にすぐれていたからだろう。どんなことについても、いいかげんに見過ごすことをせず、根本的に疑問の眼をむけて研究していくという態度を持っておられた。
伊東茂右衛門(原文「伊藤」)氏の話である。「先生が明治三年に中津に帰られたとき、父親の墓参りをして、つくづく考えこみ、父は死んで、この土の下にはただ物質的な遺骨がうまっているだけだ、その墓にお詣りするというのは、どうかんがえても意味がないのではないかと自問自答されていたが、その後、この問題についての先生の結論をきくにはいたらなかった」とのことである。
また、井上角五郎氏の話はこうだ。「わたしは福澤先生からの依頼で、お子様がたの家庭教師をしていたが、あるとき三八さんがまだ三歳くらいのいたずら盛りのときに、先生が食事をなさっているそばで、ごはんのはいったおひつからシャモジを取り出して、おもちゃにしているのを見て先生はこう言った。『人間に長幼の序(注・年長者と年少者のあいだには守るべき秩序がある、の意)があるというのは、こういうことを言うのだ。三八が成長しても、子供のときに、こんなことがあったと、あなたが話してくれれば、そういうことに関して、あなたには自然と頭があがらないようになるのが人間の常というものだ。どんな豪傑であっても、年少の者は、年長者にたいして敬意を表さなくてはならない。これが人間の世の約束である。』 このように、先生は、なにごとにおいても軽々しくものごとを見逃すことをしない思想家である」と言われたのだった。
また明治十七、八(1884,5)年ころのことだったか、先生は、正月そうそうの、理学博士の安永義章という人との談話の中でこのようなことを言われた。「日本の和歌や俳句は、かな四十七文字の数学的な順列組み合わせによって、すべて割り出しうるものだ、その組み合わせは膨大な数になることは言うまでもないけれども、和歌の三十一文字、俳句の十七文字に、占いの八卦のように、かなをすべて順番に載せていくことで、とにかく、どのような名歌や名句も、この組み合わせの中には含まれていることになるはずではないか、安永さんは数学者だから、この説をよく数学的に研究してみてほしい」。
その結果を見るにはいたらなかったが、この考えだけは、論説として時事新報に発表なさったのだった。このほかのことでも、先生はなにごとにおいても思案にすぐれており、私たちがなにかの新説を考えて先生に話すと、先生は、さらにこれを引きのばしたり改造したりして、かえって先生のほうからその考えをきかされることが少なくなかった。
先師の家庭(上巻79頁)
福澤先生が、わが国の学者にとって従来禁物とされた音曲(注・音楽)と舞踏を家庭内にもちこみ一家だんらんの手本として示されたことは、非常にすぐれた見識であったと思う。私は、音曲や舞踏といったものには絶対に没交渉をつらぬく水戸士族の家に生まれたので、三味線の音をきくと、習慣的に、なんとなく悪魔の声でもきくような恥ずかしいような罪を犯しているような気持ちになったものだった。だが、福澤先生が長女のお里さんに清元や長唄を習わせ、おしゅんさんや、おみつさんにも、それぞれ皆に音曲を習わせて、おりにふれて自宅でおさらい会を開いたりされた。
明治三十(1897)年前後に、イギリスの詩人で「ライト・オブ・アジア【亜細亜の光】」の著者であるエドウィン・アーノルド(原文では「ウヰドウヰン・アルノルド」。慶應義塾の客員講師になる)氏が福澤家の客となられたとき、令嬢たちに楽器を弾かせ踊りを踊らせ、一晩の饗応とされたこともあった。
また亡くなった堀越角次郎氏が、令嬢ふたりに踊りをしこんだことが大の自慢だったときに、そういうことならといって慶應義塾の講堂広間を貸して、その舞踏披露会を開かせたことがあった。当時堀越の娘さんは、長女のほうが十二、三歳で道成寺を踊られたが、私たち観客は、夜がふけるにつれ、こそこそと逃げ出そうとするので、先生が広間の入り口に立ちはだかり、見物人の退席を監視しておられた姿が目に浮かんでくる。
ともあれ、日本の家庭に音楽がないことは、一家団らんに楽しみが欠けていることを意味する。家庭の悲劇の多くが、このような欠陥から生まれてくることを、するどく見越し、音楽というものを家庭の中に誰に恥じることなく大胆に導入した先生は、私たちをおおいに感化したのである。私などが音楽に興味を持つようになったのは、まったくのところ、先生からの影響なのである。
二十三 福澤先生の雑話
私は、明治十五(1882)年から二十(1887)年まで時事新報の記者としての仕事がら、毎日のように福澤先生のそばにおり、また、はじめてお目にかかってからの二十年間には、いろいろな機会に先生からおききしたことも多い。印象に残ることも数え切れないのであるが、そのうちの二、三を書いておきたい。
「大村益次郎のこと」
緒方(注・緒方洪庵)の塾生のなかには、のちの世に名をあげた人物は少なくないが、長州の大村益次郎などは、その中でも一風かわった男だった。ちょっとしたことにも意地悪で、陰湿で、塾生たちがときどき生意気な女中をこらしめる(原文「征伐」)という名目で、ふとんでぐるぐる巻きにしていじめるようなときにも、自分で言い出しておきながら知らん顔をするような、蔭にまわって、殴らずにひねるというような男だった。そんな具合だから人に憎まれたのだろうか、京都で暗殺されてしまい、とうとう非業の最後をとげてしまった。
「緒方洪庵のこと」
緒方先生は学者風で、俗世間のことには無頓着で、塾生の世話は一切を夫人に任せ、もっぱら講義や翻訳にかかりきっておられた。先生の翻訳はじつに大胆というのか不敵というのか、はじめに原文の意味をかみくだいて十分に消化したところで、その言わんとするところをはっきりさせるために、流暢な表現に置き換えるので、原文と比べてみると言葉がまったく違っているようだが、その元の意味をわからせるという点ではいたれりつくせりで、私などもその翻訳法にはとても感心して、のちのちまでこの方法をまねることが多かったのである。
「高野長英のこと」
福澤先生は、蘭学者の先輩諸氏が体験した苦労と自分自身の境遇を比べ、先輩に非常に深く同情されていた。あるとき三田演説館で、蘭学の先輩諸氏の伝記の連続公演をされたことがあった。そのなかで高野長英のことを述べられたときには、感無量でほとんど涙を流さんばかりの表情で、「長英が脱獄後、先輩【名前は忘れた】の家を訪れたとき、主人はそれを察し、取次の者に、高野長英などという者がこのあたりにいるはずはない、さっさと立ち去れ、と大声で叱りつけさせたあと、台所のほうにまわらせて、カミソリ一挺(注・一本)と、なにがしかの金を与えられたそうだ。私などは、おそく生まれ、緒方の塾を出たころには蘭学に対する禁制もゆるんでいたから長英のような苦労もしなかったが、もしも私が長英の時代に生まれていたら、もしかしたら脱獄や人殺しもしたかもしれないと思うので、先輩が学問の道のために苦心したことを思うとまったく同情を禁じ得ない」と述べられた。この講話は二、三回にわたったもので、原稿もあったはずなのに、その後どうしたものか新聞などにも発表されなかったようである。
「尺振八のこと」
福澤先生が二度目に幕府使節に従って渡米したときのことである。(注・これは、慶應三(1867)年の幕府の軍艦引き取り交渉のときに渡米したときのこと。福澤の一度目の渡米は、1860年、万延遣米使節の従者として。またそれら二回の渡米のあいだに、文久元(1863)年遣欧使節の通訳としてヨーロッパにも行っている)。そのときの話として先生は、「この航海中、ひどく激しい暴風に遭い、長い航海にはもともと慣れない日本人のなかには、いまにも船が転覆するのではないかとうろたえる者もあった。そのなかに尺振八(注・原本には【しゃく】」とルビがふってあるが、「せきしんぱち」が正しいようだ)という男がいた。その男がなにを思ったか、急に身の周りの品をまとめて今にも駆け出すようなそぶりを見せたので、私は酒を飲みながら『尺さん、あなたはそんなようすをして、どこへ逃げていくつもりですか』と言うと、尺もそのときはじめて船の中にいることに気がついて、なるほどと観念して、あとで大笑いしたことがあった」と語られた。尺振八は帰国後に英語塾を開き(注・明治三年に設立された共立学舎)、明治初期の洋学者として知られた人物である。
二十二 論説の執筆(上巻71頁)
私は明治十五(1882)年四月に渡邊治とともに慶應義塾を卒業し、五月にすぐさま時事新報社に入社した。時事新報は、その年の三月一日に初号を発行したばかりの創立から日の浅い新聞だった。私たちはここで最終的には論説記者になる予定だったが、当分は見習いの身分で、なにか適当な題材があったときに執筆したものを福澤先生に見てもらうということになった。私は時事新報に自分の書いた記事が掲載される栄光を夢みて、またしても渡邊との競争が始まった。
ところがそのころは新聞が論説だけで売れる時代で、とくに時事新報は福澤先生の論説で名高いのだから、学校を出たばかりの駆け出しの書いた論説が堂々と紙面を飾るということは簡単なことではなかった。だがその十月に、私の執筆した「米国の義声天下に振ふ」という一文が福澤先生からとてもほめられ、渡邊よりひと足先に、時事の社説欄に私の記事が載った(原文「我が文旗を翻へす事を得た」)ので、鬼の首でも取ったようにうれしかったものだ。
この論説は、当時、中国が朝鮮を属国のように扱っているのを日本をはじめとする諸外国がただ指をくわえて見ていたときに、アメリカがフード将軍(注・Lucius Harwood Foote、フートが正しい発音か)を駐剳使節(注・ちゅうさつ、駐在の任官のこと)として朝鮮に送りその独立を認めるという、あざやかな措置をとったことを称賛する記事だった。先生はこの記事を読んでとてもほめてくださり、その晩には夕飯をごちそうしてくださった。日本のお膳のうえに西洋料理を並べ、そばでおしゃくをしてくださっていた奥さんに「今日は高橋さんが名文を書いたので、明日は新聞の社説に載るのだが、実によくできたよ」と、いかにもうれしそうに話されたので、私はおおいに面目をほどこし、人生でこれほどうれしかったことはない。
この時から先生は、私を社説記者とみなし、しばしば呼ばれて論説の代筆を命じられた。私は一心不乱に先生の言うことを書き取り、それを筆記して提出した。ときによっては、はじめから黒々と墨で訂正され、先生が自分で書かれるよりもよっぽど手間がかかって申し訳なかったこともあるが、ときによっては少しばかりの加筆ですむこともあった。そういうときの先生の喜び方はふつうではなく、とくにその文中になにかおもしろいところがあるときなどは、読み返してそれをほめられるので、私たちにとってはそれが大きな励みになるのだった。
さて十五年も暮れて十六(1883)年だっただろうか、私は、西洋諸国が、当時、東洋において勢力を増してきた中国に媚びるような視線(原文「秋波」)を送り、一方、ややもすると委縮がちだった日本には愛想をつかすような形勢があることについて警告を発する記事を書いた。そのなかに、「秋風起って紈扇寵を失ひ、春心動いて美人恩を蒙る(注・男がひとりの女から別の女に心を移していくたとえ。紈扇=がんせんとは、白い絹の扇。)」という一句があるのを見て先生は激賞され、そのときにも晩餐のごほうびをいただいた。だが、時事新報に対してしきりに神経をとがらせていた政府は、なにをうろたえたのか、この記事が掲載された新聞に一週間の発行停止を命じたので、私としては、一方ではとても申し訳ない気持ちではあったものの、もう一方では非常に誇らしくもあったのである。
その後私は、「わが日本は北海に国することを忘るべからず」という論説を書いた。これは、日本は国際競争が激しい欧州諸国からかけ離れた極東に位置しているために、悠々安閑として日々を送ることができるが、日本が、イギリスやドイツに近接する北海の島国であると仮定したならば、はたして今のようにのんびりしていられるだろうか、という論旨だった。末尾に「古語にいわく、志士は常にその元【こうべ】(注・首のこと)を失うことを忘れずと、わが日本国もまた常に北海に国することを忘るべからずなり」とうたい上げ、これも先生のおほめにあずかった。
そのころ内務省衛生局長で、先生と緒方塾(注・適塾のこと)で同窓の長与専斎氏が福澤先生に話されたところによると、井上毅がある人に向かって、「近頃、時事新報の社説は、論旨といい、文章といい、その傑作にいたっては、決して韓柳欧蘇(注・唐代の韓愈・柳宗元、宋代の欧陽脩・蘇軾。一流の名文家のこと)の下にあらず」と評価されていたとのことで、福澤先生は、井上がこんなことを言っていたそうだと満足気だったのだが、この時先生は五十二、三歳で、もっとも文章に脂がのっていたときではあったが、これをきいた波多野承五郎氏が、近頃の時事新報に活気があるのは、先生の論説だけではない、高橋、渡邊のような若者パワー(原文「若手の血気」)がまじっているからだと言ってくれたので、私たちもいささか、「驥尾(注・きび)について千里を走る(注・ハエが駿馬の尾について千里はなれたところにいく。すぐれた人のあとについてそのおかげをこうむること)」ことができたという感じがしたものだ。
このようにして私は、明治十五(1882)年から、二十年に時事新報を去るまでの六年間、渡邊治とともに福澤先生のそばにつかえて、ほとんど毎日、手取り足取り論説の書き方を教えてもらい、力及ばずといえども少しばかりは先生の文章を書き方を身につけることができたことは望外のしあわせだった。門下生は多いが、私たちのように先生から直接の指導を受けた者の数はかなり少ないだろうと、いまさらながらにその幸運を喜んでいる次第である。
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十八 福澤先生の演説(上巻58頁)
福澤先生は日本で初めて西洋流のスピーチ、つまり演説というものを始めた開祖にあたる。明治六年ごろ、当時西洋の学問の大家だった、西周、中村敬宇、箕作秋坪、神田孝平などの面々により明六社という学会が組織されたとき、日本語で西洋流の演説ができるのかどうか、という問題が起こった。そのとき福澤先生は、日本語で演説できないわけがない、という理由をよどみなく述べまくったあと、一同を見まわして、これが演説のできる、なによりの証拠ではないか、と言われたそうだ。
その後明治八年に、三田台上に今も残る、あの演説館が完成し、当時の慶應義塾の先輩たちが、先生を本命の演者として毎週一回、傍聴無料で演説会を開催した。これが三田の名物になり、東京中の学生はもちろん各地から聴きに来る人で、いつも大入り満員の盛況となった。
明治十四年、私たちも上京するやいなや、これを聴きに行くのがなによりもの関心事で、毎回ほとんど聴き逃さなかった。
福澤先生の演説ぶりは、壇上のテーブルの前に立ち、顔見知りの仲間に話しかけるような親しげな態度で、言葉使いもふだんの会話とかわらなかった。談話中に聴衆にも考えてもらうように、自分もまた考えているというふうに、まずうつむいて腕組みをし、ワンポーズおいてから、またよどみなくその問題の説明を続ける。その間のとり方のうまさに聴衆はいやおうなく魅了され、親しみを感じたものだった。
しかし先生が一番強調したい主張の部分にくると、表情も険しく真剣みを帯び、それがまた聴衆を感激させるのである。
明治十五年の秋だったと思うが、ある日先生が演説館で宗教論を演説した。その当時の仏教の僧侶の堕落ぶりを激しく批判し、「僧は俗より出でて俗よりも俗なり(注・俗界をはなれて模範的であるべき僧の行いが、一般大衆よりも卑俗だ)」という警句を吐いて、おおいに熱弁された。そのとき聴衆のひとりに僧侶がおり、怒りが高ぶり卒倒してしまうというハプニングもあった。
その後この議論は「時事新報」にも掲載され、その文章や論旨がしびれるようにうまく、私たちに影響を与えた。先生の演説は、時々ウイットとユーモアで聴衆を笑わせ、きいていて飽きるということがなかった。
三田演説館はもともと学校付属の施設なので、演説では政治論議は避け、社会問題や学説についての内容を取り上げた。福澤先生が登壇する前の前座として、義塾出身の先輩が四、五人演説を行うことになっていたので、私などもたびたび壇に上がった。のちに山下亀三郎氏が語るところによると、氏は明治十七年に上京したその当日に三田演説館に駆けつけたが、そのときの福澤先生の演説は養子論というもので、学生が都会にあこがれて中央に集まることばかりを考えるのはよくない、故郷に戻り適当な養子先でも見つかれば、さっさと応じて養家の資力をもとにして養家を盛り立てるのが出世の早道であると論じられ、また私の演題が「ハンス先生伝」というものだったが、その論旨がなんだったかは覚えていないとのことだった。
そのころの学生は演説というものを重視し、学校でもこれが奨励された。それは今日でいうところの、野球、ラグビーなどのスポーツと同じである。ともかくも、明治の初めから中期にかけて、慶應義塾の演説館が社会教育においてしるした大きな功績は、いまさら力説するまでもないことであろう。
十七 初謁の福澤先生(下)(上巻55頁)
田舎から出てきた学生である私と渡邊治は、松木直巳氏に伴われ福澤先生に初にお目にかかったが、そのとき先生は、さも楽しそうな様子であぐら座りをなさり、遠くから帰ってきた子供を歓迎する老父のようにいろいろなことを話してくれた。その態度は無邪気そのもので私たちは深く感じ入った。談話はほとんど一時間半にも及んだが、そのなかで今もなお記憶に残っていることを記しておこう。
先生は座につかれるなり、「ああ、これはこれはよく来られた、委細は松木さんからきいています。これからは、なかなか面白い世の中になってくるから、若い者は大いに勉強するがよい。きくところによると、とても文章が上手だそうだが、水戸は光圀公以来、文学を奨励して学者が多く出たところだから、藩士のなかにその遺伝があって、自然に文学に優れた者が出てくることは当然だ。慶應義塾を出た者にも、なかなか文章を上手に書く者がいる。いま報知新聞にいる、藤田茂吉とか箕浦勝人などは、なかなかよく筆が立つ。藤田は書くのは達者だが、気が短いので、これは三日分の論説にするんだよといって、ひとつひとつ分けて話してやっても、それを一日分に書いてしまって、せっかくのネタを無駄遣いするような癖がある。箕浦は私の言ったとおりに筋を立ててよく書くので、私の代筆をさせて箕浦に勝てるものはありません。どんな文章でも、第一にわかりやすく書かなくてはなりません。議論を文章にするのはそれほどでもないが、見たところを、文字になおしてわかりやすく書くことはまことに難しい。例えば今、南洋諸島かどこかの人力車というものをまだ見たことがない人に、人力車がどんなものであるかということを細かく書いたとしよう。梶棒が前に二本出て、大きな車がふたつあり、幌がうしろについていて、車夫が梶棒を握ってひきまわすものである、というその様子がはっきりわかるように書くのはなかなか難しいことなので、それをよく練習しなくてはならない。私は最近「時事小言」という著書を書き、ようやく完成したところだが、貍蕎麦の別宅(注・現在の幼稚舎がある場所にあった福澤の別宅、近くに狸蕎麦という名前の蕎麦屋があった)にひきこもり、なるべく人に会わないようにして執筆したが、書き物をするには夜が一番いい。昼でも室内を閉め切って、ろうそくの灯で書き物をすれば気が散らないので一番だ。精神を集中して十分に書き物をするには、心広く、体ゆたかに、ということが肝心で、着物がごそごそ体に触れるようだと、それがなんとなく気になって静思熟考を妨げるので、私はそういうときには、絹かなにかのすべすべしたものを裏につけて、からだを動かしても肌触りのよい着物をじかに着て書き物をするようにしました。」
などなどと、私たちを未来の新聞記者とみなし、その心得になるようなことを多く語られた。私たちはお会いした初日に先生の作文指導を受け、非常にありがたい教訓を得た思いがしたものである。
先生は、新著「時事小言」の一節で、国権論の見地からの仏教擁護を説を唱えておられた。仏教は、外国の宗教であるが、はるか昔に日本に伝わり、それが日本化し、仏教の言葉が民間の俗語にも多く使われるようになっている。いわば日本の宗教のようになっているのだから、キリスト教とはずいぶん違っていて、対外関係の事柄について人心を導くためには、おおいに仏教に力を発揮してもらわなければならないという説を滔々と述べられた。
その後私の見たところによると、先生は何かの新説を考えついたときは、自分を訪問してきた人にその説をよどみなく述べたあと、反対意見を述べてもらうようにしむけるのが常で、反対意見があれば、できるかぎりは反論するものの、もしその反対意見に採用すべきよいところがある場合には、おおいにそれを参考にされるのだ。つまり、自分の説を世間に発表したときに各方面から起きる攻撃に備えて、自説を公表するときは事前に十分に反対意見をきき集めておき、このように攻撃されたら、このように応じる、というふうに、十分研究をされていたのである。
「時事小言」もこのときまだ刊行される前だったから、先生はいつものように私たちに対して、さかんにその論説を述べられたに違いない。まだそのときは明治十四年の政変前だったから、先生はまるで政治家をあやつる傀儡師のように立ち回り、大隈、伊藤、井上らと相談して、明治十六年に立憲政治を実現しようという勢いの時期だったのだ。松木氏に対しては特に当時の政治状況について話されたが、私たち田舎の学生は急に天下の大先生の前に出てきたので、ただ胸が躍るだけで思うように返事もできず、ひたすらに先生の話を傾聴するにとどまった。そして、とにかく、明日から慶應義塾の塾舎にはいって修学しなさい、ということになり、首尾よく先生との初めての会見を終えたのである。
第三期 青年 明治十四年より二十年まで
十六
上京の端緒(上巻51頁)
明治十四(1881)年、私は数え年で二十一歳、満年齢で二十歳で成人した。加えてこの年は、実際の身の上にも大きな変化の起きた年だった。足かけ四年在学し、あと三、四か月で卒業するはずだった中学校を退学して上京し、慶應義塾に入学することになったからだ。
この上京のきっかけを作ってくれたのは、松木直巳氏だった。当時福澤先生は、政府の大隈重信、伊藤博文、井上馨の各参議と協議し、立憲政党の樹立の前に民間における政治思想の高まりを開発するために、先生を主筆とする新聞を発行することを計画されていた。
先生は、そのために新聞記者にふさわしい文章の書ける人材を養成する必要があると思っていたのだが、松木氏が、水戸の中学に文章の書ける若者が四、五人いると申し出たのをきき、それもそうだろう、水戸は徳川光圀公の時代から、大日本史の編纂のために文筆を奨励したから、今でもそのなごりがあるだろう、遺伝というのはこわいもので、先祖代々伝えられた体質は、その血族に伝わるもので、体の大きい両親からは、おおがらな子が生まれて顔つきも似るものだし、目には見えない知能も遺伝し、文学者の子孫には文学者がいるのは当然だ、もちろん例外もあろうが、だいたいにおいてそういうものだから、水戸の学生に文章がうまい者が多いのは当然だろう、と述べられたそうだ。
そのころ先生は西洋から伝わったばかりだった英国人ガルトン(注・フランシス・ゴルトン、遺伝学者)の遺伝論を読んで大いに啓発され、執筆中の「時事小言」の中でもそのことに触れられたほどだったから、いっそうその思いを強くされたのであろう。
先生は松木氏に対し、水戸の学生のなかにそれほどの文章家がいるなら、慶應義塾に入学させ、卒業後に新聞の仕事に携わってもらうのはどうだろう、その間の学費は自分もちでもよいと言われたので、松木氏は大喜びで水戸に帰り、まず私と渡邊にこのことを伝えてくれたので、私と渡邊は二つ返事で承諾した。そのときには、石川幹明、井坂直幹のふたりにも同様に話がいき、私たちからすこし遅れてこのふたりも上京し、福澤先生の庇護のもとに慶應義塾に入学することになったのである。
初謁の福澤先生(上)(上巻52頁)
私と渡邊治は、思いがけない松木氏の紹介により、福澤先生の慶應義塾に入学することになったので、明治十四年の六月ごろ、東京、水戸間を運行していた乗り合い馬車で上京した。松木氏はその二、三日前に東京に出ていたので、翌日の午前十時ごろに松木氏に連れられて三田台上の福澤先生のお宅にうかがった。先生のお宅は、現在は令息である一太郎君が住まわれているが、先生のご存命中にも模様替えをしたり、その後も増改築が行われているので、当時のようすからはだいぶ変わっているようであるが、玄関はやはり今と同じところで、むかって左側に洋間の応接室があり、その奥に三間つづきの大広間があった。そこで先生にはじめてお目にかかったのである。
先生は左手に丁字型の手のついた煙草盆を持ち、上手のほうに無造作に座られた。当時私は二十一歳、渡邊は十九歳、福澤先生は四十八歳で、はじめて私の目に映った先生の印象は次のようなものだった。まず大きな顔の輪郭がはっきりしていて顔のすべてのパーツがよく整っており、ひたいが広く、眉毛は濃く太く、目が大きかった。眼光は人を射るというほど鋭くはないが、喜怒哀楽の変化に富んでいるように感じられた。形のよい鼻は高く、口は一文字に大きく決断力が強そうだった。左の頬にやや大きなほくろがあり、髪はまんなかよりすこし左に分け目があり、ひげは濃そうだが、すべてそり落としてあり痕跡をとどめなかった。
居合術を好み、また運動のために米つきをされたような先生であるから、筋骨たくましく、写真で見たことがある西郷隆盛と似ている点があるように思った。そして、先生がうれしくて顔を崩して笑われるときと、談話中にちょっとまじめになって、つんとすまされたようにされるときの違いはとても大きく、顔がこれほど変化するとはいっても、先生ほど変化の多い人もめずらしいだろう。
のちに大熊氏廣氏が福澤先生の銅像を作られたときのことである。私はヨーロッパから帰国したときに同船した縁で大熊氏と親しく、先生の銅像製作の世話係のはしくれとして大熊氏からしじゅう苦労話をきかされたのだが、非常に喜んでいるときの先生と、なにか深い考えに沈んでおられるときの先生の顔つきには非常に大きな違いがあるため、先生のまじめで、ごく落ち着いた顔を像にすると、しょっちゅうじかに先生に会っている人から、先生とは違うという不満が出るのだそうだ。木彫りの人形のように変化の少ないお顔でないだけに、像を作るのは非常に難しく、誰から見てもこれは福澤先生に似ている、という顔かたちを作りあげるのは、とてもたいへんだとのことであった。
松木氏にきいていた話からは、先生はぐずぐずしているとすぐに叱るりつけるような方のように思っていたのに、だんだん話をしているあいだに、脚をくずしてあぐらになるような具合で、初めて会ったのに、長年なじんだ伯父さんに対するような親しみを感じたのには、つくづく感心してしまった。
十五 未見の福澤先生(上巻45頁)
前述したように私は、多賀郡相田村の福田屋の若主人が東京から持ち返る土産話によって初めて福澤諭吉の名前を知った。それは明治七年、私が十四歳のときのことだった。その後、明治十年、十七歳で漢学塾の自強舎に通学しているときに、塾にあった唯一の新刊出版物であった「文明論之概略」を読んだときは、好奇心と反抗心が半々で、福澤とはいったい何者だ、尻尾をつかんでやる、くらいの気持ちであったから、もちろん心服していたわけではなかった。
だからその翌年に、松木直巳氏が茨城師範学校長と中学予備校教授を兼任し、私たちにさかんに福澤崇拝論を吹き込んだときにも、私たちは、ああ、また例の大騒ぎが始まった、くらいに思って上の空できいていたものだが、それが度重なるに従い、ついに福澤びいきのひとりになっていったのである。
当時の松木氏の福澤先生に関する話のなかにこんなものがあった。先生は、慶應義塾の講義や演説や著書や、たえまない接客などなどで目の回りそうなくらいに忙しい方だ、たまたま先生にお目にかかることができても、ゆっくり話している時間はない、だから質問することがあるときには、前もって順序よく整理しておき、廊下の立ち話のような機会でも、すばやく話しかけて要領よく答えをききださなくてはならない。また先生は、自身でも新しい英語の本を読まれるが、英書を読むのは浜野定四郎氏が一番得意にしていることなので、まずは浜野氏に読ませてその要点をききとり、それを自身で消化して日本の国情にあてはめ、たちまち堂々たる議論に仕立てあげてしまう。また先生は、直情径行(注・感情のままに行動するタイプ)で、うれしいときには顔をくしゃくしゃにして喜び、怒るときには大声を上げて怒鳴るので、教師や弟子のなかにはとても怖がっている人もあるが、小幡先生は温厚な人柄で、非常に物静かで親切なので、福澤先生と教授のあいだに意見の食い違いがあるときなどには、小幡先生があいだに立ち、双方の意見をとりもつのだそうだ。福澤先生を孔子とすれば、小幡先生は顔淵にたとえることができ、福澤先生も、小幡先生にはいつも遠慮し、話に耳を傾けられるようだ、などと語られた。
このように、松木氏があまりにも福澤先生のことを持ち上げるので、同僚からも反感を買うようなこともあったものの、その熱心さは、しまいには水戸人の心を動かして、まるで水戸に「福澤宗」の信仰グループができたかのようになった。
このようなときに、佐々木籌先生など数名の漢学者が、上京のついでに福澤先生に面会したいというので、それを松木氏が取り次ぎ、佐々木氏らは、あるとき福澤先生に会いに行くことになった。面会後、佐々木氏らは鬼の首でも取ったように、たいそう得意になっていたが、その後松木先生のところに届いた福澤先生の手紙にあった評を内々に見せてもらったところ、「釣り鐘も提灯でたたいたのでは大きな音が出るわけにはいかぬ」というようなことが書いてあり、私はこれはいかにも名句だ、福澤先生はさすがにうまいことを言われるものだと、かえすがえすもおかしかった。このようなことが、私の上京以前に福澤先生に関して知ることのできたことの一端だ。
十三
少年の願望(上巻40ページ)
むかしから身分の低い者が世の中に出ようとするとき、どんな豪傑とて最初からとてつもなく大きな望みを持っているわけではないことは、豊臣秀吉が丹羽、柴田の出世をうらやみ、姓を羽柴と名乗ったということからもよくわかる。
私が、亡くなった安田善兵衛翁にその出世物語をうかがったところ、翁の望みは、郷里の越中富山では千両の金持ちが千両分限と呼ばれて尊敬を受けていたので、自分の代で千両分限になってみたい、ということだったそうだ。安田翁は一代で一億円前後の大分限者になった人であるから、この点においてはわが国で随一であるのに、幼いころの望みはただの千両だったのである。
ならばわたしのように貧乏士族に生まれて金に縁の薄い者の望みなど、いたって小さくて当然だった。母の地道な働きぶりで丁稚奉公から引き戻してくれたその恩に報いたく、十八歳ではじめて中学校に入学したときは、この学校を卒業し少しでもはやく就職して老父母の生計上の心配をなくしてやりたいというのが精一杯の望みだった。
私は、生家の裏手に祀ってあった笠間の紋三郎稲荷の小さな祠に毎朝おまいりして、この願望成就を祈念したものだ。当時の師範学校の校長の月給は五十円ほどだったので、せめてはその半分くらいの収入のある教師にでもなりたい、というのが望みのすべてだった。
今日振り返ってみると、その小心ぶりに驚くほどだが、少年時代にあのような苦境に立ち、勉強にも真剣さが増したことはとても貴重な経験で、ぬくぬくと育ち(原文「温飽(おんぽう)に狎(な)れて」)人生の窮苦を体験する機会がなかった人たちに比べると、いってみれば「苦は楽の種」で、むしろ幸福だったのではないかと思う。
新人の感化(上巻41頁)
明治十一年、水戸上市の師範学校構内に中学予備校が設立された。その翌年度からの中学校を開設するための準備であり、そのときの師範学校校長は、慶應義塾の塾員である松木直巳で、予備校の英学教授も兼任していた。松木氏は中津の出身で、浜野定四郎氏に一番ちかいところにいて、慶應義塾には入学しなかったようだが、福澤、小幡の両先生とも同郷という関係があったために、東京にいるころにはもちろん、水戸に赴任してからも、つねに音信が続いていた。浜野氏の薫陶によって、英学もそうとうにできていたが、人となりも機敏で、話すのがうまく、福澤先生直伝という漢学排斥論や、民権論、国権論などをさかんにふりかざして、私たちを煙に巻こうとするので、私たちもいつも難問を出して、議論を戦わせようとしたが、まったく子ども扱いされて切り込むすきがなかった。
この間に、ミルの代議政体、ギゾーの文明論、アダム・スミスの経済論などという、きいたこともないような新論を、私たちは断片的ながらも吹き込まれ、おおいに啓発された。このように、当時の水戸において、松木氏はただひとりの新知識の持ち主で、そのひとことひとことに、私たちは耳をそばだてたものだった。
こうして私たちは、明治十一年から十四年までの足かけ四年のあいだ中学校に在学し、校長の町田則史、教授の大矢透、そして松木氏の指導を受けたわけだが、明治十四年に、あと三、四か月で中学卒業という間際の時期に、私たちは松木氏から、天使の知らせかと思われるようなことをきかされた。その朗報を耳にするや、私たちは中学の卒業証書などは無駄な反故紙以下だといって、すぐに退学してしまったのであるが、それはほかでもない、次のような知らせだったからだ。松木氏からきかされたのは、私たちが、福澤先生の庇護のもとで慶應義塾に入学しないかという誘いを受けているということだったのである。
こうして私と渡邊治は、明治十四年の六月に、そのころ水戸と東京の間を往復していたガタクリ馬車に乗り、松木氏に伴われて上京することになった。松木氏は当時水戸における新しい知識人として水戸人を啓発しただけでなく、私たちにとっては、まさに上京という出世の道を開いてくれた大恩人なのである。
九
福澤の風評(上巻27頁)
私が福田屋に奉公していたしていたころは、五、六月の田植えの季節になると、近村の農家が忙しいので店は非常にひまになるのであるが、この福田屋自身がもちろんのこと、村に田畑を所有し作男に耕作させていたから、田植え前になると一里ほど離れた内野山【うつのやま】という山から芝草を刈り取り、馬の背に載せて水田まで運び肥料にするという仕事があった。これは「刈敷【かつしき】」と呼ばれ、農繁期になると猫の手も借りたいほど忙しいので、小僧の私なども手伝いに出かけ、刈敷を背負った馬をひいて水田までを往復したこともあった。この季節ちょうど馬に盛りがついていて、ほかの刈敷馬と道ですれ違うときにヒンヒンないて暴れ出すので、十三、四歳の私の細腕では、これを止めるのが難しく、遠くからほかの馬がいななく声がきこえてくるだけで身震いするほど怖かったものだ。
ところであるとき私は、馬をひいて内野山にのぼり、磯原から桜井にかけての遠くの海岸の松原を見渡しているときに、自分が丁稚、そして牧童となり、このような草深い田舎で年をとっていくのは、まったく無念であると思った。少しでもはやく水戸に戻り、やがては東京にも出ていきたいという希望が、潮のごとくに沸き立ってきた。人間というものは高いところにのぼって目の前に広大な景色が展開するのを見ると、自然にこのような気持ちになるものなのかもしれない。
この気持ちが起こってからというもの、水戸や東京からのニュースに関心を持ち、福田屋の若主人である秀次郎が、春と秋の二回、呉服ものの仕入れのために東京に出かけ、小網町あたりの宿で四、五日滞在して戻ってくるときなどは、そのつど根掘り葉掘り東京の土産話を聞くのを楽しみにしていた。
あるとき秀次郎の話で、福澤諭吉という人が最近東京で評判であるときいた。この人は、西洋の学問ができて口もたつので、誰が議論に行ってもしゃべり負かされてしまう。それで、世間では彼に「猪口才(注・ちょこざい)諭吉」というあだ名をつけているのだそうだ。
最近では、彼は楠公権助論というのを世間に公にして、楠公(注・楠木正成)が湊川で討ち死にしたのは、くだらぬ犬死で、権助(注・下男のこと)が主人の使いに出て金を落としてしまったのを苦に首をくくったのと同じだと言い出したので、勤王の志士の激しい怒りを買い、たびたび暗殺が企てられているという。その話をきいて私はこの上なく好奇心が湧くのを感じた。なぜ楠公が権助と同じなのか、その議論のつながりがわからないので、どういうことだろうとしきりに考えたが、ついに理由がわからなかったので、なんとかして、この福澤の書いた書物を見てみたいと思いながらも、片田舎の悲しさで、ついにその目的を達することはできなかった。私が福澤先生の名前を耳にしたのはこれが初めてで、それは明治七年、十四歳の時であった。
白石の前鑑(上巻29頁)
私は相田村の福田屋に、十三歳から十六歳までの足掛け四年、正味三年の丁稚奉公をしていたが、いっしょに働いていた田舎小僧よりもすこしはましなところがあったらしく、しきりに近隣の評判小僧となった。そして、相田村から一里半(注・約6キロ)の桜井村で、元松岡藩士で、家禄奉還後にも所領の田地があるのを幸いに土着して裕福に暮らしていた郡司という士族が、私を婿養子にほしいと申し込んできた。福田屋は旧藩時代から郡司家のひいきを受けていたものだから、この時を逃すものかと私にこの話をすすめる。私も一時は迷ったのだが、聞き知っていた話から、ことに教訓を得てこの話は断ることにした。それは、女性としては物知りで、太平記や太閤記などの中から私にいろいろ話聞かせてくれていた母からきいた話のひとつであったのだが、私はそのような話をよく記憶して、十一、二歳のころには、口づてに周囲に話してきかせたりしたので、近所の知り合いから講談を頼まれることもあったのである。
それは、新井白石の「おりたく柴の記」の中に出てくる、彼の書生時代の話である。ある富豪の町人から養子になってほしいと頼まれたとき、蛇がまだ小さいときに小さな傷をつけられたが、それがやがて大蛇になったときに、とても大きな傷になったという例があるので、今町人の養子になって、のちに出世した場合に、その傷が大きくなるのはまっぴらごめんだと言って断ったという。私も、今、郡司家の養子になったら、このように草深い田舎で一生を過ごさなくてはならないと気がつき、両親に相談するまでもなく、きっぱりとこの話を断ったのである。もしあのときに養子になっていたら、今の姿がいかに貧弱なものであるとはいえ、今日ある姿とは相当違っていただろうと思い、われながらよくぞ運命の虎口を逃れたものだと思う。新井白石の物語がこの運命から私を救ってくれたのだと感じることである。
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