だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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  高橋義雄 箒のあと(全) 目次  
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 第一期 幼時 文久元年より明治三年まで
1   幼時の記憶、腕白小僧 (上巻3、4頁)//
5  党争の余毒 (上巻14頁)//
6  元喜按摩、水戸の家塾 (上巻16、17頁)


 第二期 少年 明治四年より同十三年まで
7   麗人の栄枯、家禄の奉還 (上巻21、22頁)//
8   武士の訓言、異様の丁稚 (上巻24、25頁)//
10 慈母の奮闘、自炊の生活 (上巻30、32頁)//
11 共同の学塾、水戸の学者 (上巻33、35頁)//
13 少年の願望、新人の感化 (上巻40、41頁)//
14 地方中学の三年間 (上巻43頁)//
15 未見の福澤先生 (上巻45頁)//

   第三期 青年 明治十四年より同二十三年まで
18 福澤先生の演説 (上巻58頁)//
22 論説の執筆(上巻71頁)//
23 福澤先生の雑話(上巻75頁)//
25 道楽者の親玉(上巻81頁)朝吹英二//
26 粗忽者の隊長(上巻84頁)朝吹英二//
29 相馬事件初回の顛末(上巻94頁)後藤新平談//
43 外遊中の知人(上巻139頁)//
44 外国名優の印象(上巻142頁)//
47 貧富問題、廃娼問題(上巻152、154頁)//
49 副島種臣伯、老伯の歌才(上巻159、161頁)//
50 薩摩の豪傑、商政一新(上巻162、164頁)奈良原繁//
52 初見の井上馨侯(上巻169頁)//
 
  第四期 実業 明治二十四年より同三十四年まで
57 転禍為福、三池炭鉱(上巻189、191頁)//
58 三井中興の第一歩(上巻192頁)//
61 君民共楽、御前素人能(上巻204、205頁)
62 後の相馬事件(上巻208頁)//
66 吉原謳歌の名残、応挙屏風の割愛(上巻222、225頁)川田小一郎、森村市左衛門//
67 関西の探題、生仏の雨曝(上巻226、228頁)東本願寺//
68 大阪の商傑(上巻230頁)松本重太郎、田中市兵衛、広瀬宰平、土居通夫、平瀬亀之助、鴻池善右衛門//
70 在阪知友の思い出(上巻237頁)岩下清周、武藤山治、小林一三ほか//
74 三越呉服店の改革(上巻251頁)//
75 九代目団十郎(上巻254頁)//
76 呉服小売法の変更(上巻257頁)//
77 東北機場廻り(上巻261頁)
80 千葉勝と紅艶(上巻272頁)千葉勝五郎、益田英作//
82 生兵法の側杖、道具の虎の巻(上巻279、281頁)朝吹英二//
83 江戸気分の名残(上巻283頁)平岡吟舟//
84 助六の古式、富永の毒舌(上巻286、288頁)*平岡吟舟、富永冬樹//
85 明治中期の芸人(上) (上巻290頁)団菊左、三遊亭円朝、桃川如燕、松林伯円ほか//
86 明治中期の芸人(下) (上巻293頁)常盤津林中、清元延寿大夫、竹本摂津大掾ほか//
87 梅若流稽古(上巻296頁)//
88 明治能楽界の三傑(上巻299頁)宝生九郎、梅若実、桜間左陣//
89 下條桂谷画伯(上巻303頁)//
90 美術鑑賞熱(上巻306頁)龍池会、大師会、天狗会、二二会、和敬会//
92 寸松庵開き(上巻313頁)//
96 先師の捐館、稀代の偉人(上巻327頁)*福沢諭吉//
97 大隈の福澤評(上巻331頁)//
101 三井宗竺遺書(上巻345頁)//
102 大家の主人公(上巻349頁)三井八郎右衛門//
103 中上川の業蹟(上巻352頁)//

  第五期 実業 明治三十五年より同四十四年まで
104 杉聴雨先生(上巻359頁)杉孫七郎//
105 道具争奪戦の勝敗(上) (上巻362頁)井上馨、福地桜痴、益田孝、馬越恭平//
106 道具争奪戦の勝敗(下) (上巻365頁)井上馨、益田孝、馬越恭平//
107 益田無為庵の茶風(上巻369頁)益田克徳//
108 天下仏画の圧巻(上巻372頁)井上馨、原三渓、益田孝//
109 道具界の大鰐、青磁香炉の裁判(上巻376、378頁)赤星弥之助、加藤正義、山澄力蔵//
110 道具買収の大手筋、生涯貧乏の道具商(上巻379、381頁)根津嘉一郎、春海藤次郎//
111 東明流発端、東明流端書、月の霜夜(上巻383、384、385頁)平岡吟舟//
112 長唄研精会来歴(上巻386頁)吉住小三郎、稀音家六四郎//
113 茶人失策談(上)感服七種、褒めて叱られる(上巻389頁)浅田正文、馬越恭平、伊集院兼常、伊丹元蔵//
117 目白椿山荘講評(上巻404頁)//
119 箒庵と箒の歌(上巻411頁)//
120 元禄模様の流行(上巻415頁)//
122 日本百貨店の先鞭(上巻422頁)//
124 九州の実業大家(上) (上巻429頁)野田卯太郎、永井純一、安田敬一郎、麻生太吉//
125 九州の実業大家(下) (下巻433頁)貝島太助、伊藤伝右衛門、平岡浩太郎//
128 能楽翁の神秘(上巻443頁)梅若実、梅若六郎//
130 安田松翁出世談(上) (上巻450頁)安田善次郎//
132 金色平沼の真相(上巻456頁)平沼専蔵//
134 和歌修業の端緒(上巻463頁)小出粲//
135 小出粲翁の和歌(上巻466頁)//
136 大日本史の完成(上巻470頁)//
139 河東節稽古初め、清元師匠お若(上巻781頁)山彦秀次郎//
140   老少無常(上巻484頁) 高橋常彦、高橋千代子//
142 家族の消長、家庭の音曲(上巻492、494頁)//
143 音羽護国寺、高城大僧正(上巻496、498頁)//
144 帝国劇場の使命(上巻499頁)//
145 北海道の雪見(上巻503頁)//
146 王子製紙の二年半(上巻506頁)//
148 実業社会に告別(上巻523頁)//



下巻目次
  第六期 文芸 明治四十五年より大正十年まで
151 茶道記と万象録(下巻10頁)//
153 裳川詩老の俳味(下巻18頁)//
167 乃木大将の殉死(下巻69頁)//
170 顔輝の寒山拾得(下巻80頁)//
175 東京の庭石(下巻97頁)//
177 群書索引 広文庫(下巻104頁)//
179 内田山掛物揃い(下巻112頁)//
180 実験上の宿命観(下巻115頁)//
181 脱線党の一人者(下巻119頁)紅艶益田英作(汽車中で近善を捕虜にする、新発明湯タンポの破裂、警句とポンチの天才)//
182 三井松籟翁の茶品(下巻123頁)//
183 朝吹柴庵道具逸話(下巻126頁)朝吹英二//
184 大倉鶴彦喜寿狂歌集(下巻130頁)大倉喜八郎//
187 京都の三曲界(下巻142頁)//
188 白紙庵構築の由来(下巻146頁)//
196 正金銀行創設の経緯(下巻174頁)中村道太//
198 花柳国の女将軍(下巻182頁)//
199 大隈(重信)侯爵懐旧談(上) (下巻185頁)//
202 香川皇后宮大夫(下巻196頁)香川敬三//
205 高田慎蔵氏の風骨(下巻206頁)//
206 法螺丸翁の刀剣談、太郎冠者の舞曲談(下巻210、211頁)杉山茂丸、益田太郎//
210 大江天也坊(下巻223頁)大江卓//
212 老母の永眠(下巻230頁)//
216 古稀庵の観楓(下巻245頁)//
217 元老の忠勤(下巻249頁)山県有朋//
222 木瓜唐花、大江定基(下巻267、268頁)//
223 鷹峯光悦会発端(下巻270頁)//
224 龍年の余興(下巻274頁)平岡吟舟//
225 伊達家道具入札会(下巻278頁)//
226 波多野長者、藤原の紙成(下巻282、284頁)波多野承五郎、藤原銀次郎//
228 秋山真之将軍(下巻290頁)//
229 赤星家蔵器処分(下巻294頁)//
230 薪寺の一夜(下巻298頁)//
231 名物男柴庵翁の易簀(下巻302頁)朝吹英二//
232 郭公落し文(下巻305頁)//
233 舞踏劇馬郎婦(下巻309頁)//
234 越路太夫芸談(上) (下巻314頁)//
235 越路太夫芸談(中) (下巻317頁)//
236 越路太夫芸談(下) (下巻320頁)//
237 独逸狩猟談 高田釜吉//
238 虎肉試食会(下巻328頁)山本唯三郎//
240 超人的手裏剣(下巻335頁)高田釜吉//
241 蛙の行列(下巻339頁)平岡吟舟//
242 水国飛将軍(下巻342頁)高田釜吉//
243 決闘実験談(上)(下巻346頁)高田釜吉//
244 決闘実験談(下)(下巻349頁)高田釜吉//
245 古稀庵の石と竹(下巻352頁)
247 往生極楽院山門(下巻360頁)大原三千院//
248 梅幸の人形(下巻363頁)//
249 白頭宰相原敬氏(下巻367頁)//
250 山県元帥の対支観(下巻371頁)//
251 角田竹冷宗匠(下巻375頁)//
254 正倉院拝観新例(下巻386頁)//
255 犬養木堂翁刀剣談(下巻390頁)//
256 信実歌仙断簡式(下巻394頁)佐竹本三十六歌仙絵巻//
257 山県公の大西郷評(下巻397頁)//
258 鴻池家名器(下巻401頁)//
259 大口御歌所寄人(下巻405頁)大口鯛二//
262 名笛大獅子(下巻416頁)杉山立枝//
263 玉菊三味線供養(下巻419頁)小泉三申、馬越恭平//
264 益田紅艶冥土入り(下巻422頁)益田英作//
265 小倉色紙披露会(下巻427頁)//
 
  第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
266 山県有朋公の薨去(下巻433頁)//
267 伏見大宮御殿の一夕(上)(下巻436頁)藤田彦三郎//
269 大倉翁の値切じまい(下巻444頁)大倉喜八郎//
270 名物形石灯籠供養(下巻447頁)//
275 若州酒井家名器(下巻465頁)
276 大震火災と名器(下巻468頁)
277 嬉森庵の命拾い(下巻472頁)
279 中村画伯の遺物(下巻478頁)中村彜(つね)//
282 平家納経副本完成(上) (下巻489頁) 田中親美//
284 東郷元帥懐旧談(下巻496頁)
285 仏法僧(下巻500頁)
286 延寿大夫芸談(下巻503頁)
287 延寿達磨(下巻507頁)//
288 医茶一途論(下巻510頁)真鍋嘉一郎//
289 大正名器鑑の編著(下巻514頁)//
290 名器三十本茶杓(下巻517頁)//
291 松屋肩衝争奪戦(下巻522頁)//
292 三十六人集分譲(下巻525頁)西本願寺三十六人家集//
293 現役大臣の茶の湯(下巻529頁)渡辺千冬司法大臣//
294 隅田公園記念碑(下巻533頁)//
295 盛久能平家経(下巻536頁)//
296 日本一の勉強家(下巻540頁)徳富蘇峰//
297 栂尾高山寺遺香庵(下巻544頁)//
298 大津馬茶会と新曲(下巻548頁)根津嘉一郎//
299 故犬養首相遺事(下巻551頁)
300 和製張子房(下巻555頁)久原房之助//



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二百六十四  益田紅艶冥土入り(下巻422頁)

 東都名物男の随一であった益田紅艶英作氏は、持病の糖尿、腎臓病に二回の脳溢血を併発し、大正十(1921)年二月二日、享年五十七歳をもって悠然と冥土に出立した。
 氏は、故益田鳳翁の末子(原文「季子」)で、伯兄(注・長兄)に孝男爵、仲兄(注・次兄)に故克徳を持ち、兄弟三人それぞれの特長をもって当世に栄達したが、中でも氏は飄逸な天才肌で、社会の各方面で数々の奇談逸事を残した。
 この名物男についてはすでに何度も記述したことがある(注・
80・千葉勝と紅艶181・脱線党の一人者などを参照のこと)が、今回は永別に臨み、ここに二、三の興味ある行実を叙述してみることにしたい。

 紅艶は慶応元(1865)年生まれで、明治十一(1878)年十五歳の時、遊学(原文「見学」)のためにまずフランスに行き、ついでイギリスに渡り、アメリカにはもっとも長く在留したので英語に堪能であることは言うまでもなく、英文の手紙を書かせては邦人中、彼の右に出る者はほとんどなかったという。
 その後彼は三井物産会社に入り、英、米、シナの各支店に転勤したが、本来が剽軽な性質なものだから、他からの束縛を受けて規則正しく勤務することが好きになれず、三十歳ごろからはやくも気随気ままな生活に入った。
 明治二十六(1893)年、彼がはじめて日本橋区浜町に構えた小宅で初陣茶会を催したときには洋行帰りのほやほやで、一半の西洋趣味を加え、来客を香水風呂に入れ、床には芭蕉の、

    無惨やな兜の下のきりぎりす

という句入文を掛け、余興には河東節の邯鄲の一曲を出すなど、彼がのちのち一流を開くことになる趣向茶の処女的なひらめき見せたのである。これは、彼の茶道における魔法使いの始まりであった。

 紅艶は美術鑑賞において一隻眼を有した。ふだんの金遣いは、いわゆる握り家(注・けち)の方だったが、美術的名品に対しては驚くほどに大胆不敵で、思い切った奮発を辞さないところがあった。
 その所蔵品には新古さまざまなものがあり、中には観音だの阿弥陀だのといった古仏の手足の断片などもまざっていたが、彼の説によると、世界中で手足がいちばん自然に発達しているのは日本人だということで、その日本人において、生まれてからまだ何らの圧迫を受けていない子供の手足はもっとも自然美に近いものである。すなわち、古仏像の足の部分などは、それを手本に作ったものなので、土踏まずのない、むっくりした柔らかい子供の足に近い美形を保っているとのことである。その断片によって四肢顔面を想像すれば、仏像全体の美観がおのずから眼前に現れてくるので、真に古仏像を愛玩しようとする者ならば、手足の断片だけを見てもその美想を満足することができるのだという。この一事からしても、彼一流の見識を知るに足るのである。

 紅艶の逸事は、茶事、美術鑑賞のほか、音曲舞踏方面で一番多いようである。
 彼は、図体が大きな割には、声が細くて甲高く、その節回しのあどけなさがまるで子供のようで、しかも独りよがりの大天狗なので、さまざま奇談を残すことになった。
 彼の音曲の皮切りになったのは河東節で、十一代目山彦秀翁(注・十一代目十寸見【ますみ】河東)に弟子入りをした。例の「夜の編み笠」で、白鷺の一節を得意とし、かねがね長兄の鈍翁に自慢していた。
 さて鈍翁がある日、汽車の中で秀翁に出会ったとき、ついでに、紅艶の河東節はどうですかときいてみると、もともとお世辞っ気のない秀翁は、「英作さんの調子外れときては、いやはや、まことに困りものでげす」とやっつけたので、これを伝え聞いた紅艶は、半時ばかり呆然としたのち、その日のうちに河東節をやめてしまった。
 今度は転じて長唄の門にはいり、吉住小米についておおいに勉強しつつ、例の工夫沢山で、「有喜大尽」の大石(注・大石内蔵助)を、成田屋張りで語るという調子で、いたるところで喝采を受けたのを真に受けていた。ところがある時、小米の稽古場で、師匠が自分の噂をしているのを立ち聞きしてみると、「紅艶さんときたら、いつまでたってもアノ通りで、先の見込みがありませんよ」という始末で、紅艶おおいに悟るところあり、この時から河岸を振り事(注・歌舞伎舞踊)の方面に変え、さらにより多く珍談を残すことになったのである。その顛末については、長くなるので他日に譲ることにしよう。
 紅艶は、その死後、築地本願寺境内に葬られ、円融院釈霊水居士という法名をつけられた。霊水とは、無論、彼の目黒の茶室である霊水庵からきた名称だが、円融とは、本願寺の和尚が勝手につけた法名で、この二字はもっともよく故人の性格をあらわしているだけでなく、あのステテコ踊りで有名だった故三遊亭円遊とその音便が似ているので、ある友人は

    ステテコを地獄で踊れ円融院

と口ずさんだそうだ。紅艶が冥土でこれを聞いたなら、「敵ながらあっぱれでげす」とうなずくことだろう。
 朝吹柴庵という大名物を失って間もなく、この大道具があの世に落札されてしまっては、東都の雅俗両社会は、ともに大いなる寂莫を感じないわけにはいかない。
 この種の人物は、花は咲いても実は結ばぬというのが常なのに、紅艶はまったくこれに反し、生前にはあらん限りの気随気ままを尽くしながら、死後に大資産を残しているから、これこそまさに雅俗両諦に通じた完全な処世と言ってもよさそうだ。
 史記に、滑稽列伝貨殖列伝というのがあるが、大正時代の太史公(注・司馬遷)なら彼をどの列伝中に収めるであろうか。とにかく彼は、明治後期から大正時代にわたって、一種出色の名物男と称するべき者であろう。
 


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二百四十八  梅幸の人形(下巻363頁)

 大正九(1920)年のことだった。当時、船成金の巨魁として相州(注・現神奈川県)小田原に対潮閣という広壮な別邸を控えていた山下亀三郎君は、その人となり豪放磊落で茶目っ気に富み、みずから脱仙居士、またときには紺足袋生などと名乗り、時の大官長者に対しても無邪気、無遠慮にふるまうのが山下式として名高かった。 
 彼はそのころ、梅幸という楳茂都(注・うめもと。原文「梅茂都」)流の舞踏に堪能な神戸の美人を贔屓にしており、彼女の妙芸である踊りが東京の芸道数寄者に知られていないことを遺憾の至りだと考えた。そこでまず、そのいわゆる数寄者なるものを選考することにし、同じ小田原提灯村(注・当時小田原に名士の邸宅や別荘が多数点在していたのを、小田原名産の提灯のあかりがともっている様子にたとえたものか)の古稀庵に高臥されている山県含雪(注・山県有朋)公に白羽の矢を立てた。次いで、装束付きで時雨西行を踊ったことがあるという素人舞踏の大天狗、益田紅艶(注・益田英作)、を指名した。そのほか提灯村在籍の、田健次郎、木村清四郎、野崎広太らを招待して梅幸の艶姿と舞型とを紹介することになったのである。
 余もまた、その寵招(注・特別な招待)をいただいたのであるが、当日間際になって含雪公が急に風邪に冒されたのでやむなく延期となった。

 ところが脱仙君は、そこでたちまち例の茶目っ気を出し、京都を物色して梅幸に生き写しの京人形を取り寄せ、病気御見舞いとしてこれを古稀庵に贈り届けた。
 ここで、その人形を届けた使者が山下家の運転手で、これが美貌の青年だったため、「梅幸人形をお届け申し上げます」と言ったその口上を取次の書生が聞き間違え、運転手を役者の梅幸と思い込んで人形を公爵の枕元に持参し、「ただいま、役者の梅幸がこの品物を持参いたしました」と取り次いでしまった。
 そのとき公爵はもちろん臥床中、貞子夫人は上京して不在なので、何が何だかさっぱりわからないままに、とにかく面会するのを断ったとき、貞子夫人が帰庵され、梅幸と梅幸の間違いを発見したため、公爵もおおいに笑われて山下氏に次のような礼状を送られた。

 先夜は老人病気御尋問を辱うせし耳(注・のみ)ならず、京都土産祇園名物の舞妓人形を御恵贈被下、直に床頭に侍らせ日夜看護相勤めさせ候、御一笑即左に、


  すすみ行く世にもかはらぬかみ園の 舞子のすがた見るぞうれしき


忽ち五十年前の壮雄を憶起し、快感不堪、此に謝意を表し候、老生風気は減退致候へ共、于今医戒を守り、対客を謝絶し、静養罷在候、御省念是祈候、不日万可期面晤候、草々不一
             古稀庵老朋

  山下賢兄梧下

 こうして、梅幸の舞踏見物はしばらく中止になっていたが、含雪公の病気全快とともにいよいよ開催することになり、三月二十一日の午後、小田原の山下別荘に前記の顔ぶれを招集すると、一同は楽しみにやってきた。
 すると、さきほどの含雪公の書簡(原文「手簡」)が、時代物の匹田に鹿の子絞りの打掛模様裂で表装され寄付の床に掛けられていた。
 やがて、善美を尽くした大広間に通されると、ほどなくして梅幸の舞踏の開演となった。
 梅幸は関西美人に似ず、意気な(注・粋な)細面で、目元に無限の愛嬌をたたえ、年は三十四、五歳だそうだが、見たところ二十五、六歳のようだ。扇を手にしてスラリと立ち上がっただけで、すでに平凡な踊り手とは違った姿勢を見せていた。
 こうして当夜は、神戸の老妓、政子と小浜が地方(注・じかた=音楽演奏者)になって、「新縁の綱」「常磐津松島」「からくり的(注・まと)」の三番が舞われたが、とくに最後の「からくり的」で、その妙技が発揮された。
 「からくり的」は、関東で行われている傀儡師に類するもので、その文句は次のようなものである。
 「おもしろや、人の往来のけしきにて、世は皆花の盛りとも、的のちかはぬ星兜、先駈したる武者一騎、仰々しくもほだばかり、そりやうごかぬは、曳けやとて、彼の念仏にあらはれし、例の鍾巻道成寺、祈らぬものの、ふはふはと、なんばうをかし物語、それは娘気、これは又廓をぬけた頬冠、おやまのあとの色男、立ち止りては、あぶなもの、見つけられたら、淡雪の、浮名も消えて、元の水、流れ汲む身にあらねども、かはる勤めの大鳥毛、台傘、立傘、挟箱、皆一様に振り出す、列を乱さぬ張肘のかたいは、実にも作りつけ、さて其次は、鬼の手のぬつと出したは、見る人の笠つかむかと思はるる、それを笑ひの手拍子に、切狂言は下り蛛、うらよしひよし、道しるべ、よいことばかりえ」

 「からくり的」の舞は、扇を楊弓(注・ようきゅう=遊び用の小弓)を擬して、一回矢を放つごとに、種々の人形が現れ出て、それぞれの身振りをするという趣向で、梅幸の、人物をあらわす姿勢の優美さと、もともとの容姿の秀麗さで、観ている者を実に魅了したのである。
 さて梅幸の踊りが済むと、待っていました、とばかりに、益田紅艶が装束付きで保名狂乱を踊り出したのには、一同驚き唖然とするしかなかった(原文「喫驚の外なかつた」)。紅艶が、二十貫(注・約75キログラム)という丸々と太った図体で、近眼眼鏡の上に紫鉢巻を締めたところを含雪公がつくづくと見て、「初荷の飾り牛のようだね」と評されたのは、あまりにその通りで文句なし(原文「評し得て寸分動かぬ所」)だと、しばらくは鳴りもやまなかった。
 これで、関西楳茂都流の達人梅幸と、関東藤間流の名手紅艶との舞踏競技の展覧会が開かれたわけだが、その妙技のいかんは知らず、舞踏の終わったあとの喝采は紅艶のほうがはるかに大きかったのは、時にとっての一興で(注・その時とても盛り上がり)、当時のことを思い出すと、その光景が今でも眼前に浮かぶようである。


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二百四十六  岩原謙庵の空中水指割(下巻356頁)

 岩原謙庵【謙三】君は、実業家としては日常事務の上で綿密すぎるほどだと言われているにもかかわらず、いったん茶事方面に乗り出すと、益田鈍翁が彼に「素骨【粗忽】庵」の尊称を贈ったほどの愛嬌家で、故意【わざ】とでなく、自然に椿談(注・珍談)を生み出す特徴を持ち、謙庵茶会を催すときは必ずなんらかの語り草を残すと言われている。 

 謙庵の茶事は大正初年から始まったのであるが、あるとき自庵に茶客を招いたときのことである。帰宅が遅くなってしまい、急いで帽子をかぶりながら飛び込んできて、挨拶も半ばにそのことに気づき、イヤこれは失敬、と、その帽子を脱ごうとしたのを、正客の三井松籟(注・三井南家、八郎次郎高弘)翁が、からかい半分で、そのまま、そのまま、と差し止めたので、どうしたものかと思い惑って、帽子に手をかけながら引き下がったという椿事がある。
 またあるときは、大阪の磯野良吉氏が正客となり、今や主人に相対して、お辞儀を交換しているところに、令閨(注・令夫人)がかわいがっていた愛犬の狆が、主人のうしろから現れて正客の頭に飛びつき、ひどく驚かせてしまったということがあり、一時は、謙庵を狆庵に改称すべきであるという動議が起こったこともあった。
 またあるときは、茶会の劈頭(注・一番最初)に初心者である素人茶客を招いて、試験的にやってみるという目的で、後藤新平、杉山茂丸、金杉英五郎などという豪傑連を案内したことがあったのだが、その前日に、ある人が、明日から茶会が始まるそうですね、と質問すると、謙庵は鼻であしらいつつ、「明日の連中などは茶客と言うべき者ではない、彼らには、ただ物を食わせてやるだけだ」と放言した。その放言が、いつしか、かの豪傑連に嗅ぎ出されてしまったから、ことはいよいよ面倒になり、とうとうお詫び茶会が開かれることになり、芭蕉翁の、「物言へば唇寒し秋の風」の一軸を掛けて、かろうじて口禍の難関を切り抜けたなどということもあった。
 これらの数々の椿事を編集したならば、たちまちにして謙庵奇談集が一部できあがるであろうが、ここに、謙庵の失策の中でも、もっとも有名になった話を紹介しよう。
 大正七(1918)年の四月下旬、益田鈍翁が御殿山為楽庵で催した茶会のことである。本阿弥空中(注・光悦の孫、光甫)作の水指を拝見中、お供【そなえ】形の撮【つま】みのある共蓋を取り上げて見回している間に、例の粗忽で、その蓋を、水指の中に滑り落としてしまった。その瞬間、カーンという響きを立てて(原文「かつ然として響きあり」)蓋は二、三片に割れてしまったので、今の今までは大得意に角を伸ばしていたカタツムリが、何かに触れてにわかに縮こまったように、これは、これは、と恐れ入るという、開いた口がふさがらないような笑止のありさまなのであった。
 相客の益田紅艶は、拙者の働きはこのような時にこそ必要であろう、と言わんばかりに、ひと膝乗り出し、ここで、次のようなお詫びのための一案を提出したのである。
 この茶会の前に、私の旧蔵の松花堂(注・松花堂昭乗)筆の長恨歌の一巻の市場入札があった。そのとき、鈍翁と謙庵が偶然にも競争して、首尾よく謙庵の手に落ちたので、釣り落とした魚を惜しむように鈍翁がしきりに残念がっているという時だったので、今回の不調法のお詫びのために、その長恨歌の一巻を、入札原価そのままで、謙庵から鈍翁に譲り渡してはどうか、というのである。
 ここにおいて、謙庵もこれを拒み得ず、不平の気持ちを押さえて、その提議に応じることになったので、事件はすらすらと解決したのであった。
 このとき紅艶は、
   空中でテツペンかけたほととぎす
と詠み出でた。時も時、名に負う(注・有名な)「目に青葉、山ほととぎす」の時節に、空中作の水指蓋のてっぺんが欠けたのを、巧みに言い表した面白さに、主人の鈍翁も、やがて下の句に、
   ながき恨みの夢やさむらぬ
とつけたのは、恋しと思っていた長恨歌の一巻が、夢のごとくに我が手に落ちてきたためだったろう。(注・蛇足でつけくわえれば、ほととぎすの鳴き声はテッペンカケタカと言い慣わす)
 ところが、その後ほどなく、益田鈍翁の御殿山幽月亭で催された初風炉(注・しょぶろ)茶会で、三井華精(注・室町三井家、高保)男爵、馬越化生、加藤正義、根津青山の諸氏という、いずれも悪口達者の連中だけを招いた中に、謙庵をはさんだのは、鈍翁の胸に一物あったのであろう。やがて濃茶手前になり、例の空中水指が道具畳に現れたのを見ると、最近では土物の破損修復が上達して、たいていの疵物は、玄人でも見分けがつかないほどうまく繕えるようになっているので、先夜謙庵が打ちこぼした破損の痕跡など、どこを見ても見つけられないほどの手際で直されているのだった。その精妙さに驚くと同時に、この水指がここまで修繕されうるものだったのなら、何を苦しみ、せっかく手に入れた長恨歌の巻物を投げ出した上に、平身低頭して自分の粗忽を詫びる必要があったのかと、謙庵はにわかに不平の色を浮かべた。その反対に、鈍翁は得意の微笑を洩らし、空中水指蓋割りの一件から、いったんは競争に負けた長恨歌巻を、まんまと我が手に分捕った次第を、その後、一座の悪口連中に披露したので、そのことはたちまちにして、東都(注・東京)の同人連に知れ渡り、さらに全国の茶人仲間にも喧伝されることになったのである。
 そのおかげで、この水指は、図らずも一種の名物となり、その後鈍翁がこれを鷹峯の光悦会に出品したときには、今述べてきたような歴史的水指として、大勢の来客の注目を引くに至ったのである。大正茶番劇の圧巻ともいうべき、空中水指割りの一埒(注・いちらつ=一部始終)、ここにあらあら、かくのごとし。


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二百十   大江天也坊(下巻223頁)

 大正四(1915)年七月二十一日のことであった。大江天也坊が私の四谷天馬軒を訪問して、その主宰している弘道会のために一臂の(注・いっぴの。片方のひじの=すこしの)援助を乞いたいという相談があった。
 天也坊とは誰あろう、土佐の豪傑、大江卓の成れの果てである。
 彼は明治初年より政界で活動し、片岡健吉、林有造らとその名を並べ、板垣伯爵とともに自由民権の説を唱えた。
 後年、衆議院議員になり、あるいは東京株式取引所の理事長などになり、一時の羽振りはすこぶる豪勢なものであった。
 彼は、後藤象二郎伯爵の末娘をめとり、岩崎弥之助氏と義兄弟の縁故もあった。
 明治八、九(18756)年に岩崎弥太郎氏が金銭上の都合で政府から十万円の交付を得たいと願い出るにあたり、彼はその使者となり首尾よく大隈侯を説きつけたので、弥太郎氏はおおいにこれを徳とし、後日彼にむくいるところあるべしとの一札をおくったということである。
 さて、大江氏の末路ははなはだ振るわず、困窮の頂点に達したとき、彼の親友は見るに見かねて、君はなぜ、あのお墨付きを役立てて、この窮境からのがれようとしないのかと注意を向けると、彼は頭を左右に振り鷹は餓ゆとも穂を啄まず、僕は何程窮しても、かの一札を利用しようとは思わぬ、しかし、いよいよこれを利用する時節が到来すれば、百万円以上には物を言わせてみせるよと言って呵々大笑されたという。この一事をもっても彼の豪快さを知るに足るというものである。
 大江氏の東京株式取引所理事長時代の豪勢ぶりは、実にすさまじいものであった。あるとき、出入りの道具商を引き連れて加賀金沢に乗り込み、名家の道具をよりどりに買収しようとしたことなどもある。
 氏の所蔵品には、現在、山本達雄男爵所蔵の、一休和尚がその衣の裂で表具したという大燈国師の墨蹟や、某大家に収まっている知名な古筆手鑑などがあって、茶の湯を催すまでには至らなかったが、益田紅艶(注・益田孝の末弟英作)らを友とし、一時は美術鑑定家の巨頭になったこともあった。
 しかし、理財、実業は彼の得意とするところではなく、傲骨みずから持して(注・誇り高さを崩さず)、和協性に乏しかったため、晩年に蹉跌(注・失敗、目論見違い)が相次いだとき、翻然として大に決心するところあり、高齢六十八歳にしてはじめて曹洞宗にはいり、本郷の麟祥院で落飾式なるものを挙げた。そこには多数の知人が集まり、今道心天也坊の僧形を披露するという奇行を行ったのである。
 さて、本日の彼の訪問の要旨は、次のようなものであった。(注・一部わかりやすい表現になおした)

 「明治四(1871)年の四民平等(原文「四民同等」)の発令(注・太政官布告)では、従来身分違いだった××(注・原文どおり)を公民と認めたのであるが、それから四十年たった今日になっても、旧習はいまだに去らず、東京はさておくとしても、ある地方に行けば、いまでもまだ××を排斥し、互いに同化していない。昔、××が支配していた乞食、非人のほうが、かえって普通良民にまじって、その間に何ら区別を見ないようになったが、今や全国で百二十万を数え、かつ年々増加傾向にある××のほうはそうではない。
 特に、山陰、四国、九州などに行くと、彼らと縁組することはもちろん、そのひさしの下に立つことさえ嫌われ、融和するのが難しい状況である。これは人道的見地から、もはや片時も見過ごすことができない。
 今日、わが同胞に対してこのような区別が存在することにより、彼らが危険思想を持つおそれもある。
 いずれにせよ、発令の趣旨に照らし、少しでも早く、彼らを良民と同化させることが急務であると感じ、ここに弘道会を発足させた。
 さいわい、三井、三菱その他から、すでに若干の寄付があり相当の金額に達したので、これからその基金を使って巡回教師三名を各地に派遣し、自分もときどき出張して余生をこの教化に託すつもりである云々。」

 大江氏は明治初年に、奴隷解放(注・明治5年横浜港で中国人奴隷をペルー船から救助したのマリア・ルーズ号事件のことか?)のことに関わり、大に気焔をあげた経歴もあり、普通の経世家があまり着眼しないようなこの類の感化事業に関係することは、その性癖が普通の人とは少し違っていることを教えてくれる。
 前述した通り、氏は益田紅艶と同気相求むる親友であり、その嘲謔遊戯の中には、稚気満々であとあとまで話の種になるものも少なくない。
 大正十(1921)年、紅艶が築地の自宅で危篤の際、天也坊もまた病気で麻布の家におり、みずから往訪することができないからと、ある日私に電話をかけてきた。「紅艶がいよいよ危篤だそうだが、僕も老病で動けぬから、君がもし紅艶に会ったら、どちらが先になるか知らぬが、お互いに三途の川で待ち合わせ、堂々と閻魔の廟に乗り込もうではないかと、伝言してくれたまえ」ということであった。 天也坊の奇癖は、だいたいがこうした類のものであり、晩年には壮士の遅暮の嘆(注・ちぼのたん。老いていくことへの嘆き)がなかったとは言えないものの、それでも、豪快な一人傑たるを失わなかった。


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百八十一  脱線党の一人者(下巻119頁)

 「箒のあと」も、最近少し堅苦しい話題が続いたので、合いの楔(注・中間のつなぎ)に、この辺で無邪気なナンセンス物語を挿入しようと思う。
 そんな「脱線党」の第一人者といえば、なんといっても、わが益田紅艶(注・益田英作)である。雅俗の両方面でいろいろな珍談があるので、その二、三を紹介しよう。
   

 汽車の中で近善を生け捕りにした話

 益田紅艶が関係していた道具商である多聞店は、同業の近善と、一番多くの取引をしていた。近善というのは竹内広太郎の店の名で、彼の親父が名古屋出身だったので、その道具の買い出し先が特に名古屋方面に多かった。
 紅艶は、名古屋の某家が所蔵していたある名器を買い取ろうとして、ずっと前から近善に依頼しておいたのだが、道具取引の上で近善のことを毎度のようにたしなめていたので、いつか近善が、かの名器を取り出しても(注・道具商が売り主から品物を手に入れても、という意味)、もしかすると自分を袖にして、他の得意先に持っていってしまうのではないかという疑心暗鬼に陥ってしまった。
 そのような折のことであった。近善はある日、道具を包んだ風呂敷を抱えて名古屋から帰京する夜汽車に乗り込んだ。そして、豊橋のあたりにさしかかったときである。大阪から帰京する途中の紅艶が偶然にも同じ汽車に乗り合わせており、便所に向かった。そして思いがけなく、近善と彼が携帯していた道具の風呂敷包みを発見したのである。
 さては、いよいよ思ったとおりのことが起きてしまったと思った紅艶は、列車中に響き渡るような大音声で、「見つけた、見つけた」と怒鳴りながら、近善の首筋をつかみ、猫の子でも吊るしあげるように、風呂敷包みもろとも、隣室の自席(注・コンパートメントがあったのだろうか、それとも隣りの車両のことか?)まで引き摺っていってしまった。
 同乗していた旅客たちは非常に驚き、近善のことを、てっきりスリだと思ったらしい。どうりで目つきの険しい男だったと思っていたが、さては、あのでぶでぶした男の風呂敷を掏り取ったに違いない、おのおのがたは、何か紛失物はござらぬかと、上を下への大騒ぎになったという。
 やがて近善がもとの席に戻ってきたあとも、みな警戒を解かず、とうとう彼はスリにされてしまったということだ。


 新発明の湯たんぽの破裂

 紅艶の汽車の中での珍談には、さらに振るっているものがある。
 彼は大正初年の冬、加賀金沢の道具入札会に行こうとして、上野駅(原文「停車場」)から、寝台車の二階に乗り込んだ。
 彼は、大仏といわれるくらいの大兵の肥満体だったので、二階に何度も昇ったり降りたりするのが不便だと前々から用意してあったゴム製の小便袋を携帯していた。その小便袋は、用便のあとには、湯たんぽに変身するという彼の新発明もあって、彼は「寒中の旅行は、これに限りやす」と得意がっていた。
 さて汽車が高崎あたりを通過したころ、彼が寝返りを打ち、ゴム袋を尻の下に敷いた。その途端、袋が破裂して、寝台は大洪水となってしまい、着ていたものもびしょ濡れになってしまった。
 さすがの紅艶もいたたまれずに、汽車がやがて軽井沢に着くと、同伴していた店員に助けられてプラットフォームに飛び出した。そこの洗面場の水を、衣服の上からザアザアとかけ、ちょっと絞っただけで、もとの寝台に立ち戻り、平気で寝込んでしまった。
 翌朝金沢に到着したときには、からだの熱で、みごとに衣が乾きあがっていたとは、紅艶ならではの人に真似のできない珍芸で、話を聞いた人はみな鼻をつまんだという。


 警句とポンチの天才

 紅艶は、近善に行ってめぼしい道具を買い取るときはいつも、紙切れにその道具の絵を描き、横に代価を書き込んで伝票がわりにし、それを多聞店のほうに持ってきてもらうという習慣があった。
 あるとき、仁清(注・野々村仁清)の茶碗を五十円で買い取り、例によって紙片にその図を描き、その横に、

  仁清わづか五十円、二十五円は直(注・すぐ)でくさし

と書きつけた。
 これは、「人生わずか五十年、二十五年は寝て暮らし(注・桃中軒雲右衛門の浪花節。「朝寝十年うたた寝十年残り五年を居眠りすれば人生しまいにゃゼロになる」と続く)」のだじゃれ(原文「地口」)であり、紅艶の生涯中でも一番の傑作だった。彼が死去したときには、香典返しの袱紗に、この文句が染め出されたが、それなども、いかにも故人にふさわしい、しゃれた思いつきだった。
 また明治四十(1907)年ごろであったか、名古屋の道具数寄者であった織田徳兵衛老が、私の寸松庵で同席した誰かと濃茶茶碗を品評して、萩焼か、唐津焼かとあれこれ考えていた。そのとき紅艶が横から口を出し、「鷺を烏と争うのでゲスか」という洒落を言った(注・さぎ=萩、からす=唐津)。すると織田老は、茶室で洒落を言うとはけしからんと非常に不満の色を表わしたのであるが、相客一同は喝采し、その傑作を賞讃したものだった。
 またあるときには、長唄研精会(注・明治35年に結成された長唄演奏会。112・長唄研精会来歴
参照のこと)で、長唄の囃子というのは古い妾のようで、あれば煩わしいが、なければ淋しいと評し、まわりにいた人たちは、いかにもその通りだとうなずいたものだった。

 さらに、紅艶の頓智の才能は、口舌だけに限ったものではなく、ポンチ画を描かせても、また独特の才能を発揮した。令兄である鈍翁(注・益田孝)や、山県老公などの似顔絵には、実に非凡の傑作がある。
 しかし天下一品というべきものは、彼が日光遊覧中に小西旅館に泊まったときに描いたものだ。
 泥棒の用心に、ということで、紙入(注・財布)を花生(注・花瓶)の中に隠した椿事を、みずからポンチ画にして、詞書を添えたものである。
 最初は、大兵肥満で近眼眼鏡をかけた大入道が、花生の中に紙入を隠している図、次は、その花入の中に水が残っていて、入れた紙入がびしょ濡れになったところ、その次は、濡れたお札に火熨斗(注・ひのし=炭火を入れて使うアイロン)をかけて、「これなら大丈夫、使えるな」と、ニコニコして喜んでいるところの図。
 それを順番にたどって描いた巧妙さは、プロの画家も顔負けであったし、自分を上手に滑稽化して描いた、自画像の見本のような出来ばえだった。
 このように、この方面での彼の頓才(注・臨機応変な頓智)は、彼の警句とともに、まだまだほかにも語り伝えられている。それらについては、またのちに記述することにしよう。


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  百二十一 

製糸工場の処分(上巻419頁)


 三井には、明治二十四(1991)年よりも前に政府から払い下げをうけた富岡製糸場と、三十三銀行の抵当流れだった大嶹(注・おおしま)製糸場という二大製糸工場があり三井工業部の所管に属していた。(注・史実では、三井が富岡製場を手に入れたのは明治二十六年)
 中上川氏が鐘淵紡績や王子製紙を拡張したとき、製糸工場も三井の事業として大幅に拡張し、名古屋と四日市に二大工場を創設することになった。
 しかしこの計画は中上川氏のさまざまな拡張計画のなかで、いわゆる千慮の一失(注・思いがけない失敗)に終わってしまった。というのも、本来製糸の仕事は農閑期の工業で、農家が農間に養蚕をして、繭ができると自分たちで繰り上げるというのが従来のやり方だったからだ。上州(注・群馬)、信州、甲州(注・山梨)には多少は大規模な工場がなかったわけでもないが、言ってみれば一家の手内職であり費用のあまりかからないものだったのに、三井のような大きな会社が繭の買い入れから工場の操業までを給与の高い人を使ってやるしくみでは、結果として費用倒れになってしまったのである。
 特に明治三十二、三(18991900)年ごろは製糸の商況が悪かったので中上川氏も持て余していた。そこで私は中上川氏と協議したうえで、かねてから親しくしていた横浜の原富太郎(注・三渓)氏に交渉し、富岡、大嶹、名古屋、三重の製糸工場を、総額でいくらだったかははっきりとは記憶していないものの、とにかく十か年の分割払いで譲渡することになった。

 原氏は日露戦争後、この工場で大儲けをしたこともあったが、その後そうとうな損失を招いたこともある。大家が経営することが非常に困難な工業であるようだ。三井がこれを処分したのは私が三井呉服店在勤中で、中上川氏がまだ生存中のできごとであった。



絹糸工場の合同(上巻420頁)


 三井が三十三銀行の抵当流れとして引き取った物件のなかに、新町絹糸紡績工場と、前橋の同工場のふたつがあった。絹糸紡績というのは屑繭から糸をつむぐ工業のことで、日本においてはフランスの工場にならって建設したものである。中上川時代には、やはり三井工業部の所管に属しており、柳荘太郎氏が主任者として苦心して経営に当たっていた。
 その工業部が三井呉服店と合わさったので、私は明治三十五(1902)年ごろからその工業の全国的な合同計画に当たることになった。当時、経営が困難だった岡山、京都、程ヶ谷の三つの絹糸紡績工場をまとめ京都を本社にして団結する協定が成立したので、藤田四郎氏を社長に推し、私も取締役のひとりに加わった。
 それ以降かなりの成績をおさめ続けていたが、日露戦争のあとに諸工業が景気づいて、この合同絹糸紡績会社の株が払込の倍額以上に達した。もともと工業関連には執着をもたない三井では、これをだんだん売却し、約百万円ほどの利益が出るまでに売りつくした。
 この件が落着すると、私は三井から感謝状とともに金一封の褒美を頂戴した。そこで、当時の住まいであった一番町の家の東北部分に能舞台を造ることにした。それを稽古場、兼、運動場にした。しかしほどなく私の先妻が死に、ある人の説によると、これは鬼門に向かって能舞台を建設した祟りであるということであった。また私邸に能舞台を造るということは、昔であれば大名でなければなし得ないことで、三井の奉公人としては僭上の沙汰(注・身分をわきまえない贅沢)だと言いまわる人も出てきた。

 いずれにしても、あまりいい考えではなかったようである。しかし一生のうちに一度、自宅に能舞台を造ったというのも、私が趣味にふけった生活を送った一端を示すもので、必ずしも意味がなかったとは思わない。この舞台は、震災前に観世流の橋岡久次郎氏が引き受け、今でも赤坂榎坂町の橋岡方に残っている。



三越呉服店の独立(上巻421頁)


 上記の製糸、絹糸の両工場の処分に続き、私が三井在勤中にうまいぐあいに整理することができた案件は、三越呉服店のちに、三越と改称の独立であった。
 当店は明治二十八(1895)年に私が改革に着手したころから、三井営業店として経営するべきではない、という議論があった。しかし当時の老主人のなかには、少年時代から同店に勤めていた者もいたし、また先祖が始めた事業として二百年あまり継続してきたのだから、という意見もあり、いずれにしても一度改革したうえで、あとのことを決めようということになっていた。
 まずは販売法を西洋百貨店方式に改め、それから十年の歳月がたったので、主人連中の考えもすでに変化しており、今では、処分することに反対する者もいなくなっていた。そこで、当時三井管理部の首脳であった益田孝男爵からの発案で、三井呉服店を三井から分離し五十万円の株式会社にすることになった。そしてこれを、高橋、日比(注・翁助)、藤村(注・喜七)、益田英作の四人に、それぞれ五千株ずつ持たせ、他の五千株を三井関係者から募集した。
 店名も三越呉服店と改め、明治三十七(1904)年にはいよいよ独立して株式会社となり、日比翁助が専務として海外の百貨店の情況視察にあたった。そして同三十九(1906)年には、日本の百貨店の先鞭をつけて今や資本金三千万円の大事業会社になったのである。


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百十五 茶人失策談 下(上巻397頁)


 茶人のナンセンス珍談はいくつもあるのだが、あまり一度にご覧にいれると食傷気味になるかもしれないので、次の一篇をもって、しばらく打ち切ることにしよう。


 掛物の売り損ない


 故益田紅艶(注・益田英作)は多聞店という道具店を経営していたほどだから、相手を見ての道具を売りつける呼吸には、なんともいえない機敏さがあった。
 彼は、松平不昧公が、大阪の道具商の戸田露朝の先々代にあたる宗潮をある大名に紹介した手簡(注・手紙)を所蔵していたので、これを茶席に利用し露朝にうまく売りつけようとたくらんだ。そこであるとき大阪の紳士茶人連とともに露朝を茶会に招き、その不昧公の消息文(注・手紙)を掛けた。その文になかに、
 「谷松屋宗潮と申す者、大好事家にて随分御用も弁ずべく大方目も利き申候、但し左る怖ろしき風聞の男に御座候間、必ず必ず御油断遊ばされ間敷候云々」(注・大意は、宗潮は目利きだが、悪い噂があるので、絶対に油断しないでください

とあった。この掛物を見た同席の茶人が、怖ろしき風聞の男という文句に驚き、胸にぐっと警戒心を抱いたらしいことを戸田が見て取って、なんとも迷惑なことだと思った。そんなことも知らずに主人の紅艶はひとり大得意で、今日のようにぴったりとはまった掛物はふたつとないだろう、殿様の中でも油断ならない不昧公が、宗潮をおそろしき男だと畏敬しているこの手紙は、戸田に対する不昧公の感状(注・上位にある者が下位にある者の功績に対してあたえる賞賛の書きつけ)とみるべきものなので、戸田家における伝家の宝にしないわけないはいかないはずで、茶事がすんだら、代金は問わず、是非とも譲り受けさせてくださいと申し出てくるだろうと待ち受けていた。しかし戸田から音沙汰がないのを不審に思い、内々に大阪方面を探ってみると、戸田は、自分のお得意様の前で、あのような手紙を掛けられたことを非常に迷惑がっているというので、紅艶はハタと思い当たり、あの掛物は、掛ける前に売ってしまえばよかったのだと、おおいに後悔したという。



 藪蛇庵の命名


 益田紅艶には茶事の上での数々の珍談がある。その中のひとつは次のような話だ。
 あるとき紅艶は、小田原と箱根の中間にある風祭というところに非常に安上りの茶室を作り、それまでの長いあいだに借りがたまってしまっていた茶債(注・返礼の茶事のこと)を償おうと思い立ち、ほうぼうの名家を招待した。

 さてその茶室がどのようなものであったかというと、風祭神社に隣接している竹やぶのなかにニョキニョキと立ち並んでいる大竹を柱にして臨時の茅葺きをした茶室を作り、周囲に蛇がのたくったような一筋の流れを作ったものだった。その流れの中に置いた新しい手桶を当座のつくばいとし、席中には大囲炉裏を切って窶れ釜(注・やつれがま。口縁部に欠けがある)を掛けた。また、田舎家風の張りまぜ屏風に、さまざまなポンチ画が貼り付けてあった。その中には来客のポンチ画も少なくなく、山県椿山公の歯をむきだした漫画などもまじっていたので来客一同は抱腹絶倒し、とうとう椿山公までも引っ張り出して、その漫画をお見せすることになった。

 そのときの紅艶は有頂天になり、どうか、庵の命名と、その扁額のご染筆を願いたいと所望した。公爵は即座に快諾されたので、紅艶は、きっと風雅な庵名をつけてくださるにちがいないと一日千秋の思いで待っていた。
 ところが公爵から贈られてきた扁額を見てみると、なんたることか藪蛇庵という三字が書いてあったせっかく公爵から賜ったものを採用しないわけにもいかす、なまじっか公爵などに命名を頼んだものだから、かえって藪蛇になってしまったと、その後二度とふたたびこの庵室を使わなかったそうだ。



 無関税の名銅器


 益田鈍翁が日露戦争後間もなく、故三井三郎助(注・三井高景)氏らとともに清国の巡遊を思い立ち、長江沿いから北京に行き、やがて長崎に帰ってきたときのことである。
 ひとつ非常に気懸かりなことは、シナの某大家から出たという古銅の花入を買い求めてきたが、長崎税関を通過するにあたり、出どころは名家、買い手は鈍翁、というこの品物を、税関ではどれほどの評価額にするだろうか、ということだった。
 鈍翁はまず旅館にはいり、税関からの報告を待っていた。そこへ、随行のひょうきん者が得意満面で帰ってきた。そしてあの花入の関税の件では、褒めてもらいたいだけでなく、一度くらいはご馳走も頂戴したいくらいだと言う。鈍翁は相好を崩してにこにこ顔になり、ではいったい関税はいくらになったのかときいた。するとその者は、驚くなかれ、タッタの一文もありません、税関吏がただいま申されるには、近年シナから、にせものの銅器が輸入されているが、この花入なども、そのなかでも最も拙作な部類で、刀の先で少し触ってみるだけで、すぐに地金の新銅が出てくるので課税するに及ばない、ということでありますと答えた。その報告をきいた鈍翁は、「税関の役人などに、古銅のことがわかってたまるか」と、ただ一笑に付したが、その後何年たっても、ついにこの花入を使われたことはなかったということだ。


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百八  天下仏画の圧巻(上巻373頁)

 明治初年からいあいだ紙屑同然の安値に沈んでいた古書画の値段は、日清戦争後のインフレ(原文「膨張」)によって、たちまち画期的な値上がりを見せた。そうはいっても、まだまだ高の知れたもので、明治三十四、五(190102)ごろまでは一幅が一万円という書画は世間に出ていなかった。ところが明治三十五年になり、初めてレコード破りの一万円の相場が出たのである。
 それは私が、井上世外侯爵の依頼で横浜の原三渓富太郎氏にあっせんした孔雀明王の一幅であった。このころ井上侯爵は、例の書画骨董好きで明治初年から買い集めていた八宗兼学の(注・多彩な)品々が、すでに鬱然たる大量のコレクションになっていた。なかでも仏画は、ほとんど天下一睨みの位置を占めるほどだった。
 ところがまたしても某氏が所蔵する古仏画の虚空菩薩を買収したいというので、それまで所蔵していた孔雀明王を売り払いたいから誰かに世話してもらえないか、というのであった。

 私は虚空菩薩がどれほどの名画であるのかは知らなかったが、仏画として天下屈指の孔雀明王を手放されるのはなんとも惜しいことだと思った。しかし、侯爵からのせっかくの依頼なので委細承知し、まず相談をもちかけたのは益田鈍翁であった。
 鈍翁は、もちろんこの名画の価値を知っているから譲り受けたいのはやまやまだったが、当時としては破天荒の一万円という提示額にいささか尻込みせざるを得ず、ほかに買い入れる人がいなければもう一度考えることにしようという返事だった。

 そこで次に、明治三十一(1898)年ごろからそれまでの文人趣味をやめて、ようやく古画あるいは仏画の分野に足を踏み入れられていた横浜の原氏に交渉してみた。すると原氏は、とにかく一覧してみたいと言われたので、私はかの孔雀明王を井上家から借り出し、麹町一番町の自宅に持ち帰り、原氏が見にられるまでの三日間、広間の床に掛けておいた。
 この仏画の彩色には、すべて鉱物の粉末を使用してあり、夜に電灯の光が当たると五彩絢爛まばゆいばかりになる。その荘厳美麗なさまは、この世のものとも思われないほどだった私は自家の所蔵品のすべてを売り払って、この一幅を所持しようかと考えてみるほどだった。しかし井上侯爵に対する思惑もあり、また商家の使用人の身分として、あまりにも僭越なことだと思いなおし、とうとう原氏を勧誘して井上侯爵の希望どおりに一万円で買い取ってもらうことになった。

 さてその顛末を鈍翁の令弟、英作がききつけた。彼は、兄貴はなんという意気地のないことか、いやしくも数寄者として、あれほどの名画を見逃すことがあるだろうか、こうなったからは、なんとしても、井上侯爵家にある、あれ以上の仏画である、十一面観世音を、この機会に譲り受けるほかはないとうとう鈍翁を説得したのであった。
 英作はみずから井上侯爵を訪問し、孔雀明王を原氏に譲られたのなら、十一面観世音を兄貴に手放してほしい、ただし、代償は、ウンと奮発いたします。きくところによると、あの観世音は三百五十円でお買入れになったそうだから、拙者はそれを百倍にして、三万五千円で引き受けようと思いますが、いかがでしょうかと持ちかけた。
 これには侯爵もびっくりして、それほど熱心に言うなら、ほかでもない益田のことでもあるから望みどおりに任せよう、ということになった。英作は、そのひと言を聞くなり、井上家の道具係に頼んで、さっそく十一面観世音を取り出してもらい、それを小脇に抱えて、芝居がかりの「だんまり」そのままに、「奪い取ったるこの一軸」というような見えの構えをしながら井上家の門を駆け出したという。
 これが、現在益田孝男爵が所蔵する十一面観世音幅である。絹本の画面の長さ五尺五寸五分(注・170センチ弱)、幅二尺九寸六分(注・90センチ弱)、仏体二尺六寸(注・80センチ弱)の、仏画としてもっとも優美なものである。気格が崇高で、筆致も霊妙、いったんこれと向き合ったら、たちまちにしてその威厳、霊感に打たれて、目前に観世音の出現を見るような感覚を生じるのである。

 頭上の正面の三面は寂静の相、左側の三面は威怒の相、右側の三面は利牙出現(注・鋭い牙を見せる)で、後方の一面は忿怒の容、最上段の一面は如来の相をなすという配置になっている。その表情の巧緻なことや、色彩の艶麗なさまから、絶世の作品というべきものである。
 この画幅はもともと大和国(注・奈良)の伝燈寺にあり、龍田新宮の本地仏だったが、のちに法起寺の所有するところとなり、さらに井上家の所蔵になったという。
 この十一面観世音と、かの孔雀明王の二仏画は、いずれも藤原盛時の名画で、後年、上野帝室博物館付属の表慶館で全国十大仏画展覧会があったとき、ともに出品され、ともに天下仏画の五指に数えられ好評を博した。
 このような名幅が、あのような値段でレコード破りとなったのを見ても、当時の状況がおのずと知られるのである。また偶然にも、このような名画の授受に私が関係したことも二度と得難い思い出であるから、ここにこれを記録しておく次第である。


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百七   益田無為庵の茶風(上巻369頁)

 益田克徳氏は非黙と号した。無為庵、撫松庵の別号もある。兄が孝男爵、弟が英作氏で、兄弟三人とも非凡な人物ぞろいだった。みな数寄者であったが、なかでも克徳氏は茶人として、また趣味愛好者として非常な天分に恵まれた人物だった。私が生まれて初めて茶席入りをしたのも彼の茶室だった(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)し、また一番町の自邸に寸松庵を移築したときの指揮をとってもらったのも彼だったので、私にとっては常に茶事のうえでの先輩であり、彼から感化を受けたことも少なくない。明治時代において、彼は忘れてはならぬ一大茶人であった。
 彼は東京海上火災保険会社の支配人だったので、かつて欧米諸国の保険業の視察に行き、その帰りにカルカッタに立ち寄り、同地の古物商から一種の広東縞を一巻買ってきた。これは、国王が象の背中にかけたものだと言い伝えられており、それまで日本に渡ったことのないものだったので、益田広東(注・ますだかんとん)と名付けられ、今日でも茶人のあいだで珍重されている。
 また彼はいかにも洒落もので、温和で趣味に富み、工夫が多く、しかも世話好きだったので、彼によって茶味を刺激されて知らず知らずのうちに茶人の門にはいった紳士も少なくない。渋沢栄一子爵、近藤廉平男爵、馬越恭平、加藤正義氏などはみなそうした連中で、兄の孝男爵、弟の英作氏の物数寄も、彼に負うところが少なくないようだ。

 彼は根岸に住み、その本邸の庵を撫松庵といい、別邸のほうは無為庵と号していた。どちらもおもしろい構造だった。渋沢栄一子爵の王子邸茶室も彼の縄張りにかかっていた(注・設計であった)。また、近藤廉平男爵の牛込佐内町の其日庵、品川益田孝男爵の幽月亭、眞葛庵などもそうである。
 彼の茶風は大侘びのきわみで、所蔵の道具は、雑器にいたるまで一品たりとも凡物がまじっていなかった。
 その道具を愛好する熱烈さは、いったん気に入った器物を見ると、五両一分の借金をしても獲得しなければすまない、という感じだった。また、非常に巧思(注・すぐれた発想)に富み、みずから手びねりして作った茶碗の中には、気韻(注・気品、趣がある)のあらわれている名品も少なくなかった。一時期梅澤安蔵が所持し、のちに益田孝男爵に譲った「翁さび」という黒楽茶碗などは、大正名器鑑にも収録されたほどの傑作である。
 彼は、侘び茶の工夫がうまく、毎回おもしろい茶会を催した。それが余りに行き過ぎることなく、茶番狂言になってしまわない範囲で行われるところに、ほかの人には及びもつかない軽妙さがあったのである。

 あるとき撫松庵で、瓢箪茶会というのを催したことがあった。床に掛けた花入は、千宗旦所持の瓢(注・ふくべ)で、その横手には、朱漆で、
   けふはけふ明日また風のふくべ哉
と書きつけられていた。それを見たときには、なにやら彼の人となりを、まざまざと見た(原文「道破した」)ような心地がした。

 そのほかにも、香合、水指、向付、徳利などの点茶懐石道具の一切が瓢箪だった。なかでも瓢箪模様を織り出した有栖川切の袋を掛けた瀬戸大海茶入が使われていたのが、おおいに連客の好奇心をそそった。当時の評判の茶会であった。

 無為庵は、茶道だけに秀でていただけでなく築庭術にも長じていた。彼の根岸御隠殿の庭は、上野の山を庭内に取り入れ、松原の下草に一面のすすきを茂らせていた。これは、彼が所蔵していた寂蓮法師筆の右衛門切に、

       小倉山ふもとの野辺の糸すすき ほのかに見ゆる秋の暮かな

とある歌意を取って、上野の山を小倉山になぞらえ、その趣を現わしたものだった。その侘び趣向が、いかに徹底していたかをうかがうことができるだろう。
 無為庵は明治三十六(1903)年四月、大阪平瀬家の蔵器入札の下見に行こうとして新橋駅に向かう途中、ある旗亭(注・料理屋、宿屋)で休息しているときに突然脳溢血を起こし、五十六歳で死出の山路に旅立ったのであった。私は、

    極楽や花見がてらのひとり旅

という一句をささげた。彼はどこまでも風流な男で、西行法師の「願わくは花の下にて春死なむ」という理想をそのまま実行したのである。
 彼はなにごとにおいてもとても器用だった。字が上手で漫画もうまく、狂歌にいたっては優に堂奥に入っていた。ある年の大師会に模擬店が出ているのを見て、

    おん菜飯天ぷら蕎麦か芋陀羅尼 あな飯うまや何を空海

と口ずさみ、大いに喝采を博したこともあった。
 彼が没した翌年、日本橋の福井楼で遺品の入札会が開かれた。すこぶる名品が多く、現在は兄の孝男爵が所蔵している絵瀬戸茶碗、松虫蒔絵香合、雲鶴女郎花茶碗や、益田信世氏が所蔵している八幡文琳茶入などはその優秀品であった。
 時あたかも日露戦争の勃発する直前で、このような名品ぞろいの入札にもかかわらず、一品で二千円以上になったものがなく、後年の好況時代ならば、おそらく数十万円の売り上げになったであろう売立が、わずかに四、五万円で終わってしまったことは非常に残念なことだった。
 しかし、彼がいつも道具買いの金に行き詰っていたことを知っていた友人たちは、生前にこの金でも持たせてやりたかった、と言い合ったほどだった。私は今日までいまだ、彼のような恬淡にして面白い茶人には出会ったことがないが、今後もまた出会うことはないと思うのである。



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百二  大家の主人公(上巻349頁)

 井上馨侯爵が三井家の家憲を制定するにあたり私たちに向かって口癖のように述べられたことを要約すると、三井のような大家の興廃は、単に一家の問題ではなく国家の利害に大きな影響があるということだった。封建時代、鎖国時代には、豪族の兼併(注・他人の土地、財産を併合すること)の弊害などという議論があったが、今日のような世界各国間の経済競争の世の中では大資本家の力で対抗するほかはない。大家は国家の機関として健全な発達を遂げてもらわなくてはならない。大家に家憲が必要なのはそのためである、というのが侯爵の論点だった。
 このような見地から考えると、創業者である祖先や、国家からの信頼に対して重大な責任を背負わされる大家の主人は、世間からは栄耀であると見られ悠長なものだと思われるだろうが、じっさいにはその反対で非常にありがたくないことなのかもしれない。現今の日本の二大大家として知られている三井家、岩崎家の主人について私の知る限りでは、三井の総領家八郎右衛門男爵(注・北家10代三井高棟たかみね)は伝統的な特質を受け継ぎ芸術的才能を備えている。能楽にあってはほとんど専門家をしのぐほどであるし、絵画を試みては、その父である福翁(注・北家8代三井高福たかよし)の遺風を受け継いで四条派の絵画に巧みな才能を示し、茶事では表千家の堂奥に入り、建築、築庭についても並々ならぬ意匠の持ち主である。長兄の高朗(注・北家9代たかあき)氏の没後に三井総領家を相続した最初のころは折々に能楽などを催し同族と娯楽をともにすることもあった。しかし明治二十四(1891)年の危機に際し自らも深く考えるところがあり、家憲制定に関して主人側を代表し井上侯爵、都築男爵もしくは家憲起草者の穂積陳重男爵らとの研鑽、研究が数年間に及んだ。そしてこれを実行するにあたり、同族統率の任に当たるために自分の責任がいかに重大であるかをはっきりと自覚しそれまでの態度を大きく改めた。自分の趣味、嗜好が同族や使用人に感染する影響をおそれ、家憲擁護のために自分の享楽を犠牲にすることも辞さなかった。その後、夫人を同伴して団琢磨らとヨーロッパ諸国を巡り、そこでの大家の行儀作法などについて研究し帰国した。その後は、営業方面においては勤勉に手腕を発揮し、家庭においては家長としての模範的な行動を示した。みずから慎重に行動し、かつて批判されたような行動をつつしみ、この三十年間まったく変わらずにそれを続けたことは、三井総領家の主人が身をもって家憲励行の責任を全うしているからにほかならない。

 世の中ひとびとは、ややもすれば大家の主人を見て羨望の的にするようだが、自分がその立場に立ったならば話はさほど簡単なことではないだろう。私は近くでよくそれを見てきたから、大家の主人になるのははなはだ大変なことだとひそかに敬服している次第である。
 大家の主人というものが、はたで想像するような安逸悠長なものでないことの例をあげる。日本の大家の横綱として三井家と相対している岩崎家においても同じようなことが言えるのである。私が明治二十一(1888)年にアメリカ、フィラデルフィアを訪問したときのことである。岩崎久弥男爵は同地の学校に遊学中だった。それ以前、男爵の厳父である太郎君は、わが子の教育のために非常に厳格な方法をとっていた。男爵の少年時代には、同郷の有望な子弟といっしょに書生部屋で寝起きさせ、大家の令息的な扱いを一切しなかったそうだ。私がアメリカを去りイギリスのロンドンに滞在中、久弥男爵が来遊されたということをきき、どこのホテルに滞在されているのか問い合わせると、三菱の仕事で滞英している和田義睦氏の下宿に泊まっているということだった。ところがその下宿がいたって粗末だったらしく、ある人が岩崎男爵を訪ねたところ、男爵は南京虫に刺されて頬のあたりが腫れあがっていたそうだ。そんな話をきいたあと、ある日、日本領事館で領事の園田孝吉氏のち男爵と会ったときにその話になった。園田氏は非常に謙虚でまじめな人だったから粛然とした面持ちになり、そうだからこそ岩崎家は代不易(注・いつまでも変わらない)なのだなあと大いに敬意を示していた。

 私は大正の中頃に、京都祇園の杉の井旅館で故朝吹英二氏といっしょに、ちょうど入洛中(注・京都に滞在中)だった岩崎男爵とおしゃべりをしたことがある。そのとき男爵は「僕はいたって無風流で、もはや親父の逝った歳に近づいたが、これまでなんらの趣味もなく、おりおり牧畜場を見廻って、牛の成長を見守るくらいのものである」と呵々一笑(注・かかいっしょう=はははと笑う)された。男爵の無風流ぶりは男爵が言われるとおりの天性のものかもしれないが、しかし幾分かは身分を顧みて謙虚にしているためで、すすんで趣味的な娯楽に触れないようにしているようなところがあるのではなかろうかと私は朝吹翁と語り合ったものである。
 かつて益田英作氏が東海道の汽車のなかで、柏木貨一郎そして岩崎弥之助男爵と乗り合わせたことがあった。そのとき、柏木と弥之助男爵が居眠りをしていたが、片方は非常にのんきで大いびきをかいているのに、もう片方の男爵は心配ありげな顔つきで眠っていたそうだ。「僕らは金持ちの弥之助男爵よりも、貧乏な柏木のほうが、はるかに気楽なことを発見した」と益田氏は言ったものだ。これなども、大家の主人に対するひとつの見方であるかもしれない。


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八十 千葉勝と紅艶(上巻272頁)

 千葉勝と紅艶(注・益田英作。益田鈍翁の末弟)は、道具の取引における奇人どうしの鉢合わせともいうべきものだった。なかには今日もなお友人のあいだで思い出として残るエピソードがあるので、その最たるものをいくつか紹介してみたい。
 千葉勝五郎というのは、明治の初めから中期まで、先代の守田勘彌の資金提供者として新富座や歌舞伎座での興行を後援した高利貸のことだと思っている人も多いと思うが、じっさいには質屋もしくは金貸しであると同時に、押しも押されぬ相当の茶人でもあった。
 明治十三(
1880
)年ごろの茶道復興の黎明期に、小西義敬、安田善次郎、渡辺驥らと茶を介しての交際があった。
 質屋業で名器の質流れがあるとそれを自分で所蔵したため、おりにふれてこれを使用し、当時においては人が目をみはるような茶会を催したこともあった。
 この人がいっぷう変わっていたのは、質屋、金貸しという極度に俗人的な身分でありながら、あるときには悟りきった禅坊主のような行動がある一方で、金をためることにかけては、いわゆる爪に灯をともすようなやり方をすることだった。塵ひとつといえども無駄にすることはなかったし、奉公人にも非常にやかましくいさめていたということだった。
 金を借りに来る人があると、その望みをき、この人に金を貸すに足る資格があるかどうかを見極めたうえで承諾するのを常をした。

 その試験というのは、口の小さい菓子壺に金平糖をいれお茶といっしょに出す。事情をわきまえた客は絶対に手を出さないが、もしも金平糖をひとつでも食べたが最後、もはやその金貸談判は成立しなかったそうだ。
 また千葉勝は、ふだんよく土蔵にはいって、そのころたくさん流通していた一円紙幣のしわを伸ばすのを楽しみにしていたという。そして、しわを伸ばした紙幣は、ある名器のはいっていた鎌倉時代の蒔絵手箱のなかに積み重ね、それがいっぱいになるとまたその次にとりかかるのを日課としていた。その手箱というのが非常な名器なので、のちにある道具商が譲り受け、今の加藤正治君の先代である加藤正義翁におさめたそうだ。
 またすこし大げさな話をしよう。彼が大病にかかりほとんど死にかけているときに医者が注射をしようとしたところ、彼はむっくりと起き上がり、その注射代はいくらかと尋ねたところそれがあまりにも高いので見合わせてほしいと言い出したそうで、一同唖然として二の句が継げなかったという。
 このようにして彼は一代のあいだに何百万円という財産を積み上げたのであるが、これを継ぐ実子がいない。ある人が彼に向かい、君のように大金を残す場合、後始末について遺言しないのは賢明ではないのではないかと忠告したところ、彼は、いや、この金は私が楽しんだあとのカスなので、死んだあとは誰が取ろうと私は構いません、と平然としていたのだそうだ。
  
以上は千葉勝について、知人のあいだに伝えられているエピソードである。彼は質屋だったので、維新後に二束三文で売買された大名道具の質流れであるとか、今の大善の祖父にあたる当時の東京で一級の目利きだと言われていた道具商から買い入れた道具などを多数所持していた。(注・「今の大善」とは道具商、伊丹元七の子である揚山・伊丹信太郎のことだろう。その祖父とは、元七の父である大和屋・伊丹善蔵、通称大善。伊丹元七は、通称大元[だいもと]と呼ばれた)

 それを見込んだのがかの益田紅艶だ。彼は根っからの道具好きで、若年にもかかわらず名器にかけては大胆不敵な離れ業を演じいつも玄人を驚かせていた。彼は胸にある思いを秘め、へりくだった言葉で千葉勝に近づいた。それから何年にもわたり幾多の名器を譲りうけたのである。
 紅艶もまた一種の変人であり人の気心を非常に鋭く察することができる男だったから、例の金平糖などにはもちろん手をつけたりしなかった。着物もごつごつした木綿ものを着用し、言葉遣いや物腰などすべてにおいて千葉勝の気に入るようにして、ご所蔵のお道具を拝見したいと申し込む。そして、欲しくないものは非常にほめ、是非とも買い取ろうというものは鼻先であしらう、というような虚々実々の駆け引きをくりひろげ、さすがの千葉勝をも煙に巻いて、とうとう紅艶を養子にしたいと言わせるまでに惚れこませることに成功した。
 こうして彼が千葉勝から譲り受けた道具はほとんど数が知れないほどだったが、なかでも伊賀擂座(注・るいざ)花入は、この種類の品のなかでももっとも優秀なもので、紅艶は自分でも天下第一であると言っていた。
 この花入から思いついて、その後伊賀焼の陶器の収集に着手し、茶入、茶碗、水指、建水などのすべてを伊賀揃いにした茶会を催して、客に「伊賀にも」と言わせて感服させた。なんといっても主役にあの擂座花入が控えているのだから、これ以上の伊賀揃えはありえないだろうと思われたものだ。
 この花入は、紅艶が「わが魂」だとも見なしたほどの愛器だったので、相続した弘君もこれを大切に保存して長く家宝として伝えるということだ。
 この花入だけでなく、ほかに千葉と紅艶のあいだに授受のあった名器の数々は、明治中期における道具移動史を語るうえで、けっして軽く見過ごすことができないものであると思う。
 


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 七十九
恋の破産者(上巻270頁)

 益田英作は、長兄に孝男爵、次兄に克徳という大家を持ち、兄弟三人いずれも稀代の数寄者ぞろいである。中でも英作は駄々っ子で稚気に富み、若年のころから奇行が多く、その傑作に至っては人を抱腹絶倒させた。言ってみれば、明治後半から大正初期にかけて朝吹柴庵と負けず劣らずの愛嬌者の双璧であった。
 英作はかつて芝公園に住んでいたので、友人が公園、公園、と呼んだため、その音に因んでみずから紅艶と称した。茶事においてはふたりの兄にすこしおくれて出発したが、趣向においてはむしろ一歩先を行き、奇抜な茶会を催して人を驚かすことが多かった。しかしそのことは後段に譲るとして、はまず、彼が結婚前に起こした恋愛の失敗について一、二のエピソードを物語ることにしよう。
 紅艶は三十前後から非常に肥満し、腹はでっぷり布袋腹、盆の窪(注・首のうしろ)の肉塊は二段になり、色白で顔が紅潮し愛嬌たっぷりの目尻が下がっていた。極度の近眼で、非常なおっちょこちょいな性格のため、よくいろんなものを見間違えてとんでもない滑稽なことをやってしまうことがあった。

 ある実業家の次女を見初めたときには、おりおり彼女を訪問し、西洋風にバラの花などを贈っていい気になっていたのだが、その令嬢が逗子の別荘に避暑中、大雨で交通が途絶したことがあった。その報道を聞き、当時鎌倉にいた紅艶は、まずは逗子にいる令嬢を見舞わなくてはいけないと別荘のそばまで駆けつけたが、あたりは浸水して一面洪水のようになっている。やむをえず衣服を脱ぎ捨て頭上に載せ、真っ裸で洪水のなかを進んでいった。その姿は、布袋和尚の川渡りそのままだった。
 別荘の縁先に立ってこれを眺めていた令嬢は、それがまぎれもなく紅艶だとわかると、オヤと驚いた声を残して障子の内側に逃げ込んだ。その後、紅艶から正式に結婚を申し込まれたとき令嬢は目を伏せて涙ぐみ、「わらわ(注・わたし)は尼になります」と言い出したとのことで、この恋愛はとうとう失敗に終わったのであった。
 もうひとつの失敗は、明治二十九(1896)年の歌舞伎座で十郎が助六を興行したときのことである。新橋烏森の濱野家という茶屋の主婦の養女に、おきんという美少女がいた。まだ歳は十四歳くらいだったのを紅艶が見初め、僕は今からあの娘を自宅に引き取って自分で一切の教育をし、日本において新しい結婚の手本を作ってみせよう、ということで濱野家主婦に頼み込み、とりあえずおきんを浜町の自宅に引き取って懇切丁寧に三拝九拝のごきげんとりをして手なずけるつもりだった。ところがおきんもなかなかのわがまま者で紅艶は大弱りしたという。

 これを、ある江戸っ子の通人が見て、まだそのころまで江戸趣味の名残りで残っていた悪摺(注・あくずり。戯作者や好事家が、事件をネタにしてからかいをこめて流した印刷物)にした。大きな象の形をした紅艶の背中に普賢菩薩のようなハイカラ娘が馬乗りになっている絵の上に「今ぢゃ普賢も開化してザンギリ頭の象に乗る」といれて、硬軟とりどりの各方面にばらまいたので一時期大評判になったものだった。
 この小普賢はいつしか象を置き去りにして、とうとう濱野家に逃げ帰った。それが、後年の日向きん子夫人(注・のちの林きむ子)なのである。
 しかしながら、紅艶が最後には駒子夫人を得てかえって恋の大成功者になったということは、ここで付け加えておかなくてはならないだろう。


紅艶の暹羅
(シャム)土産(上巻270
頁)

 益田紅艶は若いころ長兄がやっていた三井物産会社にはいり、ロンドン、上海の支店などに勤務していた。奇矯飄逸な人となりだったので、几帳面な会社員の仕事を続けることをよしとしなかった。ほどなく退社し独立して商売口を見つけようと、明治三十一、二(189899)年ごろに一商人としてシャム(注・現在のタイ)行きを試みた。

 その目的は、むかし「南蛮もの」と総称されて日本に輸入された器、道具、織物のなかに産地の不明なものがあるので、それを特定したいということや、徳川時代の初期には一時伝来していた香木が、その後なぜかまったく途絶えているのは遺憾であるということで、これまで気にかかっていたそのような疑問点を解決することにあった。
 さてシャムにわたり、いろいろ探ったところ、香木は現地においても非常に貴重とされているが、だいたいが沈香の類で、昔日本に渡来したような伽羅の種類は非常に少ないということがわかった。
 織物のほうも、紅艶の次兄の克徳氏が少し前にヨーロッパからの帰り道にカルカッタで見つけた掘り出し物で、その後、益田広東【かんとん】と名づけたような時代ものの広東縞はほとんど一点も見つからなかった。
 以上の点では失敗だったわけだが、ここにひとつの大きな発見があった。昔、茶人が宋胡録すんころくと呼んでいた南洋伝来の焼き物があった。土の地肌が粗く、鼠色の地に黒い釉薬が大雑把にかかって模様を作っている焼きもので、それまでこの器の産地がわかっていなかった。ところが今回、紅艶がシャムで調査したときに、同地にスンコロ―という地名があり、そのころこのあたりの古陶窯の址から宋胡録と同じような陶器が発掘されていることがわかったのである。紅艶のシャム入りのおかげで長年の疑問がついに解決を見るという偉業がなされたわけだ。

 こうして鬼ヶ島に渡った桃太郎のように、かずかずの土産物を持ち帰った紅艶は、根岸の御隠殿(注・ごいんでん。輪王寺宮の別邸があった)にある次兄、克徳の無為庵において大茶会を催した。床の間には清巌筆の地獄の二字を掛け、天狗の鼻になぞらえたのか、銘を鞍馬山という茶杓を使ってさかんに気焔を吐いた。これも紅艶の独壇場で、他の追随を許さないものがあった。


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