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第四期 実業 明治二十四年より同三十四年まで
第五期 実業 明治三十五年より同四十四年まで
下巻目次
第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
二百九十五 盛久能平家経(下巻536頁)
昭和六(1931)年は、明治四十二(1909)年に亡くなった梅若実翁の二十三回忌に当たっていた。そこで梅若宗家の六郎氏(注・のちの二代梅若実)は、浅草厩橋の能舞台において一門の盛大な追善能楽会を催した。
さらに素人演能会をも開かれた。生き残っている実翁の直接の門人が、今では暁天の星のように少なくなっていることもあり、私にもぜひ一番出演してほしという勧誘があった。
そこで、しまいにはそれを引き受けることになり、さて、何を演じようかと悩んだ末に「盛久」に決定した。
その理由はこのようなものだった。私は以前、厳島神社の重宝である平家納経の副本調製を計画した。経巻模写にあたっては、その道で古今を通じて並ぶ者のいないとされていた田中親美に委嘱し、大正十四(1925)年に完成させて厳島神社に奉納した。その中には、もちろん観音経も含まれていたが、今、能楽二百番の中で、全体が経巻に関わり、とくに平家に縁故のある曲目としては、断じて「盛久」にまさるものはない。今回は追善でもあるので、それでは今度私が盛久を勤めて、平家経巻中の観音経を実際に使おうと思いついたのである。
ところが、私が平家納経副本調製の記念として田中氏に依頼した模写経は、法華経二十八品中、厳王品、宝塔品、信解品の三巻で、あいにく観音品はなかったのである。そこで仕方なく、この三品のうちの一巻を使用するほかはないと思っていた。
さて、ここで不思議な因縁話が起こった。実翁の追善能は四月二十六日に挙行されることになっていたが、その一日前の二十五日に、品川御殿山碧雲台において、益田鈍翁が第三回遠州会を催した。そのとき、先年から翁が田中親美氏に模写してもらっていた平家経全部を披露することになった。当日私は同会場に行き、主人の鈍翁に面会して盛久の演能について話し、あいにく観音経を持ち合わせていないので、遺憾ではあるが他の経巻で代用するつもりだと言った。すると鈍翁は聞き終わりもしないうちに、「能舞台で平家経を読もうとするなら、本物でなければ十分に緊張した気分にならないだろうから、今日陳列している観音品をお持ちになったほうがよかろう」と言われた。
そこで私はおおいに喜び、これを借り受けたのである。そして翌日午後三時ごろ、梅若舞台で、この観音経を懐にいれるとき、巻の中のもっとも美麗な箇所を見せるように工夫した。この日は、経巻調製の本人である田中親美氏はもちろん、同好の仰木魯堂、森川如春、横山雲泉、越沢宗見らの来観を願った。
さていよいよ、観音経の一節の、
或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段々壌
とよみあげたときには、われながら異常なまでに気分が張りつめた。また、太刀取りが私の後ろに立って「御経の光、眼に塞がり、取り落したる太刀を見れば、二つに折れて段々となる」というところに至って、燦爛たる経巻の色彩がその言葉とよく調和し、いっそうの効果を現わしたように思われた。
また、盛久能のなかの、口伝とも言える
「吾等が為めの観世音、三世の利益同じくば、斯く刑戮(注・けいりく=刑罰、死刑)に近き身の、誓ひにいかで洩るべきや、盛久が終の道よも闇からじ頼母しや」
というところでは、少し睡眠中に、あらたなる霊夢を感じるところで、左手に持っていた経巻の巻軸が手の中からすこし滑り落ちることになるのだが、それが水晶軸の重みによって、非常にうまいぐあいに運んだ。これは、実物の経巻が生み出した自然の効能であると思われた。
それにしても、益田邸で偶然に平家経副本披露会があって、そこで陳列されていた観音品を、その翌日に梅若舞台で読誦するようなことになるとは、なんという奇遇だろうか。
ここで私は、田中親美氏と相談し、能楽に適した平家経型の観音経を調製して、それを梅若家に寄贈しようと思いたった。すぐに六郎氏に話してみたところ、六郎氏は非常に喜び、「それならば、今回の亡父の二十三回忌追善会を記念するために、今後、盛久能を演じるときには、かならずその経巻を使用することにいたします」と言われた。私も非常に感激して、田中親美に委嘱して、平家経のうちで、地紋色彩のもっとも優美な部分を写して、一巻を作り上げた。そして、田中氏の勧めにしたがい、拙筆で観音経を書写し、さらに腰折(注・自分の歌を謙遜する言い方)一首を白紙に物して、経巻とともに、梅若家に寄贈した。その一首は次のようなものだった。
梅若実翁二十三回忌追善能に盛久を勤め、其折読誦したる平家経一巻を、同家に参らすとて
うれしくも盛り久しき梅若の 家にとどめむ法華経の声
この和歌中の「盛り久しき」は、いうまでもなく盛久のことで「法華経の声」は、梅若に、鶯を利かせたのである。
ところで、梅若六郎【のちに実邦と改める】氏は、翌昭和七(1932)年四月十四日、厩橋舞台で、みずから盛久を勤めた。貴賓席の床には、私の贈歌の一軸を掛け、このとき、例の平家経形観音経をはじめて舞台で読誦された。
終演後、六郎氏は、「経巻がみごとなので、一層気分が緊張しました」と、その感想を洩らされた。こうして、今回を始めとして、梅若舞台の盛久能に、ながくこの経巻が使用されるということは、私のもっとも満足するところである。
二百九十二 三十六人集分譲(下巻525頁)
西本願寺大谷伯爵家は昭和四(1929)年、武蔵野女学校建設資金の調達のため、その資金寄贈者に、同家に伝来する三十六人家集三十五帖のうちの二帖「伊勢集」と「貫之集、下」を分譲することになった。
全部で二千七百四十四ページのなかから三百三十ページを割き、その各十ページを一口にし、資金となる二万円を寄贈した人々に抽選で頒布することになった。抽選は、七月二十七日、品川御殿山、碧雲台(注・益田鈍翁邸)で滞りなくおこなわれた。
思いかえせば大正十四(1925)年のころだったか、当時の西本願寺法主摂理、大谷尊由師が、あるとき私に「現在わが国には、まだ真正の日本女子教育を行う女学校がないが、そのなかで、やや目につくのがキリスト(原文「耶蘇」)教宣教師の経営するもので、日本の女子を薫陶するには精神的な面での欠陥が少なくない、もしも日本の国情にふさわしい淑女を養成し、将来、女子が参政権を持つようになったときに、穏健な素養で危険思想の緩和剤となるような役割を果たすことができるようになるためには、自分たち仏教者の手によって理想的な女子教育を行う学校を建設しなければならないのである」と述べられたことがあった。
その後私は、本願寺の教育事業について、尊由師と同志一体ともいえる高楠順次郎博士に面会したとき、博士も同じ問題について話され、本願寺が女子学校を建設するためには、少なくとも三百万円必要だが、どうやってその資金を得たらよいだろうかと言われた。そこでわたしは、今もしも三百万円集めるならば、本願寺自身がまず非常な決意を示して、宗祖である親鸞の一衣一鉢の昔に戻り、伝来の什器も処分して、少なくとも資金の半分でも調達すれば、世の人もその真摯な態度に同情して、必ずやあとの半分を寄付(原文「義捐」)してくれるだろう、と述べたことがあった。
このたび大谷光明師が新法主に就任されると(注・実際にはゴタゴタがあり、光明ではなく、光明の4歳の息子光照が就任している)、いよいよ武蔵野女子学校の建設に着手されることになった。その資金に充てるために、当山第一の什器である三十六人集を分譲することを決心されたことは、宗教家の殉教的な事業に対する態度として至極当然のなりゆきであったと言わなくてはなるまい。
そもそも三十六人集とは、今から九百三十年前、一条天皇の長保年間(999~1004年)に大納言藤原公任が撰した、人麻呂(原文「人麿」)」、赤人以下、三十六歌仙の歌集を、当時の名筆家が尽善尽美(注・善と美を尽くした完璧な)の台紙に物し(注・書いて)、時の太政大臣道長の息女である彰子が一条天皇の中宮に入内するときに持参したものだと伝えられている。(注・現在は、天永3(1112)年3月18日の白河法皇六十賀の贈り物として制作されたという説が有力)
しかし現在大谷伯爵家に存在しているのは、その原本ではなくて、当時から、あまりはなれていない時代に複写したものであるというのが現代の古筆家の意見である。(注・現在は、大部分が原本で、天文18(1549)年に、後奈良天皇より本願寺第10世の証如に下賜されたと見られている)
しかし、その辺の説明はとりあえずおくとして、大谷家が今回、これを分譲することになったことについて世間には反対意見もあるようだが、とにかく、殉教的な目的達成のためには忍んでこれを分譲しなければならないのだという理由のもと、これを決行されることになったのである。ほかに適当な方法がないのに、いたずらにそれを止めさせようとするのは、非常に無理な注文だと言わなくてはなるまい。
かつ、この歌集は、大谷家に伝来する以前、すでに世間に分散してしまったものもある。古筆鑑定の権威である田中親美氏の語るところによると、本帖は、その名のとおり、三十六人の歌集だが、そのなかで、一人で、上下二集あるのが二家あるため、もともと三十八帖あった。だが、人麻呂、業平、小町、兼輔の四帖が、すでに早くから散逸し、また、順(注・源順、みなもとのしたごう)集の一部も、すでに世間に出ている。
このうち、兼輔集だけは、鎌倉初期の模写本があり、古筆家は、筆写したのは寂連法師と断定している。
さて、これら世間に散逸した歌集切には、およそ四つの呼び名がある。
順(注・したごう)集切は、「糟色紙(かすじきし)」と呼ばれ、現存するものが二ページあるのを、関戸守彦、池田成彬の両氏がそれぞれ一ページずつ所持している。
また同集の「岡寺切」三ページは、古河虎之助家、根津嘉一郎家、および学士院が所持している。
人麻呂集の「室町切」二ページは、近衛(注・文麿)公爵、古河(注・虎之助)男爵の所持であり、業平集の「尾形切」ページは、益田孝男爵二ページ、三井高精男爵、藤田平太郎男爵、原六郎氏、関戸守彦氏、安田善次郎氏が、それぞれ一ページずつ所持している。
しかしながら、小町集は、現在、一ページも見当たらない。
以上の歌切のなかで、これまでもっとも高かったのは、二万円三千円、もっとも安かったののでも一万五千円をくだらなかった。ところが今、にわかに、三百三十ページもの同歌切が世に出たのであるから、従来の所有者は大恐慌を起こしてもおかしくはなかった。しかし、今度の分譲を受けた者の中には、ひとりで一口、二口をまとめて、新たに手ごろな歌帖を調製する者もあるようだ。
そのほか日本全国に、名古屋のように古筆愛好家が激増した地方もあるので、この歌切を所望する者は多く、争ってこれを得ようとした。したがって、これから古筆市場の市価が、従来に比べてひどく下落するといったことはなさそうだ。
それはさておき、歌集二帖に六十万円余りの値がついたことは、維新以来の道具相場のレコード破りのことであった。日本もこれで、世界大国の仲間入りをしたような気持ちになる。これは、昭和年代におけるわが国の道具移動史上に、特筆されるべきことだろうと思う。
二百九十 名器三十本茶杓(下巻517頁)
私が大正元(1915)年から着手した「大正名器鑑」の編集は同十五(1926)年末に結了した。ひきつづきその再版のために二年余りを費やし、昭和三(1928)年九月に完成させることができた。
その一部は天皇陛下に奉献し、さらに東久邇宮殿下にも献納するという光栄に浴した(原文「辱うしうした」)ので、同年十月二十七日に、帝国ホテルで本鑑の出版記念会(原文「告成会」)を催すことに決した。
実物と対照させるため、諸大家から門外不出の大名物品を拝借し一堂に陳列することも行った。そこに、各方面の紳士、高官(原文「縉紳(しんしん)」、茶伯、文芸好事家を招待し、首尾よく記念の式典を終えた。
さて、その翌年四月十七日に、根津青山翁の主唱に益田鈍翁、馬越化生、団狸山、原三渓の諸先輩が賛同して、さきの出版記念会に対して「箒庵翁慰労会」なるものを、東京会館で催してくださった。そこで、過分な讃辞と貴重な記念品を贈っていただいたので、私はその光栄を記念するために若干の茶杓を作り、それらに名器鑑中の茶碗、茶入にちなむ名前をつけ、ひごろ懇意にしている茶友に贈呈することを思い立った。
さて、それを何本削ろうかと考えた末、表千家宗匠の如心斎宗左が、元文年間(注・1736~41年)に北野天満宮修復のために、三十本削って寄進した茶杓のことを「北野三十本」といって、今日の茶人たちにもてはやされていることから、私もそれにならい三十本製作することにした。
寄贈しようとする人々に対しては、それぞれ縁故のある名称を選び、筒には「名器三十本之内、箒庵」と書きつけることにした。
その名称と贈った人々の名前は次のとおりである。
伊予簾 横井二王(注・横井庄太郎、名古屋道具商米萬)
走井 山田玉鳳(注・保次郎、名古屋道具商)
橋立 中村好古堂(注・作次郎ではなく富次郎、道具商)
花橘 近藤其日庵(注・廉平)
春雨 加藤犀水(注・正治、正義の養子)
思河 熊沢無想庵(注・一衛、実業家)
大津 根津青山(注・嘉一郎)
唐琴 林楽庵(注・新助、京都道具商)
合甫 富田宗慶(注・重助、名古屋実業家)
玉川 野崎幻庵(注・広太)
玉柳 金子虎子(注・昭和茶会記に「大兵肥満の女性」とあるので瓢家女将お酉かも知れないが不詳)
太郎坊 川部太郎(注・緑水、道具商川部利吉の養嗣子)
茄子 益田無塵(注・益田多喜子)
呉竹 伊丹揚山(注・信太郎、元七の息子、道具商)
山雀 団狸山(注・琢磨)
破衣 原三渓(注・富太郎)
升 磯野丹庵(注・良吉)
松島 八田円斎(注・道具商)
猿若 益田鈍翁(注・孝)
サビ助 仰木魯堂(注・敬一郎、建築家)
笹枕 田中竹香(注・元京都祇園芸妓、田中竹子、「昭和茶会記」洛東竹操庵を参照)
面壁 山中春篁堂(注・吉郎兵衛)
宮島 田中親美
箕面 戸田露朝(注・道具商)
三笠山 土橋無声(注・嘉兵衛、道具商)
四海兄弟 野村得庵(注・徳七)
時雨 森川如春(注・勘一郎)
白菊 越沢宗見(注・金沢呉服商、茶人、「雅会」会長)
勢至 馬越化生(注・恭平)
関寺 山澄静斎(注・力太郎、道具商、力蔵の息子)
私は近年、茶杓削りに興味を覚え、天下の名竹をさがして、手に入れたら削り、ということを続け、それを同好者に寄贈することが一種の道楽になっているので、すでに作ってあったものだけでも二、三百はあったと思うが、今回も、例の道楽が頭をもたげ、この三十本の茶杓を製作したのである。
そもそも、日本において茶杓を使い始めたのはいつのことだろうか。とにかく、抹茶を茶入から茶碗に移すには、茶杓様の器具を用いなければなるまい。鎌倉初期、シナから茶の実を持ち帰った建仁寺開山の栄西禅師の「喫茶養生記」のなかで、点茶の説明には、容器に二、三匙の抹茶を入れて、これに一杓の熱闘を注ぐべし、と書いてあるから、そのころからすでになんらかの茶杓を使用していたに違いない。
その後、東山時代になり、天目点茶にはたいてい象牙の茶杓が使われたが、現在、足利義政、または茶祖の珠光(注・村田珠光)作と言い伝えられている竹製の茶杓があることを見れば、その時代にも竹茶杓はあったものと考えられる。
茶杓の材料には、そのほかに桑、桜、その他の堅木が使われ、ほかにも、塗物、一閑張り、あるいは金銀なども使ったようだ。しかし紹鴎(注・武野紹鴎)、利休以後は、竹製のものが一番多く、象牙がそれに次いで多い。
しかし、象牙、塗物、木材の茶杓は、茶杓職人でないと、なかなかうまく作ることはできないので、昔から茶人の自作茶杓は、たいてい竹材に限られているのである。
その茶杓には、その作者の人格があらわれる。貴人、僧侶、宗匠、その他どのような種類の人が作ったものであるか、ひと目見ただけでだいたいわかってしまうのは、作者の魂がその茶杓に乗り移っているからなのである。
であるから、茶人が古人を友とし、その流風の余韻をしのぶときには、茶杓がもっともたしかな対象物となる。そして、これを鑑定することが、茶会における最大の興であるとされているのである。
私が茶杓製作におおいに興味を持つようになったのもそのようなわけで、自分でも茶杓を作ってみれば、他人の茶杓を見て、その肝心な部分(原文「急所」)に一段と深く注意を向けることができ、ひいては鑑定もますます上達するのである。
よって、巧拙はともかく、天下の茶人は、かならず茶杓の自製を試みてほしいものだと、私はこの機会を利用して勧めておきたいのである。
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二百八十八 医茶一途論(下巻510頁)
私は父母から健康な身体を恵まれたので、七十年あまりのあいだのうち医者の厄介になったことが非常に少ない。医者から見れば、むしろ「有り甲斐のない代物」だと言われてしまうだろうが、そのかわり、たまに病気にかかったときにはいつも当代一流の医家に診てもらっていた。
明治十四(1881)年に上京してから八年間はほとんど無病であったが、明治二十二(1889)年秋に欧米の来遊から帰国したのち、すぐに腸チフスにかかり帝大病院に入院した。そのときにはベルツ博士の診断を受けた。
その後数年して、はじめて丹毒を患い赤十字病院に入院した時には、院長である橋本綱常子爵の診断を受けた。
また明治四十二(1909)年、前妻が腎臓病にかかったときには、青山胤通博士の治療を願い、大正四(1915)年、老母が郷里で患ったときには、木村徳衛博士に往診していただいた。
私が当代の名医と接した経験は、おおよそ以上のような数回でしかなく、とくに明治末期から大正の末年にいたる二十年間にまったく無病であったのは、この間、毎年のように伊香保に避暑入浴に出かけたためであると思われる。そのため、伊香保温泉の効能の宣伝もかねて、同地の八千代公園に、奈良地方から持ち帰った一丈二尺(注・約3.6メートル)の古石灯を寄進して、その棹に次の一首を彫りつけた。
銷夏上毛雲木区 温泉日々濯吾躯 山霊冥助人如問 二十年間一病無
(銷=とける、けす)
私はこのように、もともと長く健康状態を維持してきたが、大正末年から大正名器鑑の校正に従事して極度に視力を虐使したため、視神経の衰弱をきたした。さらに消化不良にもなってしまい、一時は十七貫八百目(注・一貫は3.75キロで、67キロ弱)に達していた体重が、ほとんど十三貫目(注・49キロ弱)に減ってしまった。
この間、もちろん床に臥せっていたわけではないが、家人らも、もしや胃癌ではなかろうかと危ぶむほどになってしまったので、そこではじめて病人のような気分を味わうことになった。そして、当代抜群の国手(注・名医。医師の敬称)として知られていた、帝大の真鍋嘉一郎君の診断を乞うことになった。
きくところによると、君は初診の人に接するとき簡単には診察にとりかからず、長時間患者と対座して、よもやまの談話をするなかで、その容態についての一般的な観察をすることを、ふだんからの診断法としていられるそうだ。私のときも、その診断前の談話が長かった。
その話題はといえば、さきごろ九死一生の大患にかかった馬越恭平翁に関するもので、翁が茶人で、また私も茶人であることから、とうとう医茶一途論について話をされたのである。その主旨は、次のようなものだった。
「自分は、茶人が恭謙の態度をもって懐石の給仕をつとめ、さらに濃茶手前にはいるや、自分等の目より見れば一本の竹べらにすぎない茶杓を丁重に取り扱い、また古ぼけた茶碗を重宝のようにみなして、これを運び、これを拭い、茶を点て、客に供するその間に、万々損傷なきよう始終注意して居るその精神は、われわれ医者にとってもまた、おおいに学ぶべきところあり、この点においては医道も茶道も、全然一途なるべしと思わるる。ところでこのごろ馬越翁の病状がようやく危険区域を脱し来たるや、翁はそろそろわがままを言い出し、看護婦らが、すこぶる難渋する由、訴え出られたから、自分は一日、馬越翁に向かい、君は大茶人であるそうだが、いつごろより茶事を始めたるや、と問えば、翁はたちまち大得意となり、入門以来、五十年の茶歴を語られたから、自分はさらに一歩を進め、茶人が竹べらやら、古茶碗やらを大切丁寧に取り扱う、その注意周到は、自分のおおいに感服するところであるが、およそ天下に、わが身体より大切なる器物があろうか、しかるに、貴老は、近頃看護婦の言葉を用いず、ややもすれば、病態を虐用するきらいありという。茶人はかの竹べらや古茶碗をさえ大切に取り扱う者なるに、今、天下第一貴重なる、わが身体を、貴老のごとく粗末に取り扱う者を称して、はたして大茶人ということをえべきやいかん、と詰問したるに、さすがの馬越翁も、これには閉口して、グーの音(注・ね)も出なかった。
自分はかつて、井伊大老茶道論を読んで、茶道の精神が、わが医道に共通して居ることを知ったので、今後は、医茶一途論を唱えて、ただにわが医道のみならず、人間社会万般のことに茶道の精神を拡充しなくてはならぬと思って居る云々。」
以上、真鍋国手の医茶一途論は、まさに近来の名説だが、茶道の門外漢から出た説だからこそ、ますますその真価があがるものだろうと思う。そこで私は、この論法を使って、しばしば老人の冷や水を戒めているのである。
さきごろ、益田鈍翁が大患にかかり、やがて全快の間際になって馬越翁とほぼ同じようなわがままが出てきたということを耳にしたので、さっそく医茶一途論を令息の太郎君に伝え、これを利用して翁の不摂生を防止するように勧めておいた。ここでもきっと多少の効果はあったのではないかと思うが、世間のいたるところで医茶一途論が特効をあらわす機会がありそうだと信じるので、ここにその要点を披露する次第である。
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二百八十二 平家納経副本完成(上)(下巻489頁)
今から七百六、七十年前の長寛、仁安(注・ともに西暦1160年代)の昔、平相国(注・へいしょうこく=平清盛のこと)清盛以下、同族の三十二人が厳島神社に奉納した「平家納経【あるいは、厳島経ともいう】」は、わが国の国宝中の国宝として、もっとも貴重なものである。
近来、拝観者の数が非常に多くなり、これを巻舒(注・けんじょ=巻いたり広げたり)するたびに、胡粉や金箔の剥落が起こり、ひどい場合には折り目を生じるなど、汚損の度合いが加速している。そのことを時の厳島神社宮司の高山昇氏が憂慮し、副本を製作(原文「調製」)する計画を立てた。
しかし神社の経済的な事情でその費用を捻出することができないので、大正九(1920)年二月、高山氏は古社寺保存会員の文学博士である福井利吉郎氏と相談のうえ、同十三日に両人揃ってわが伽藍洞を訪問され、副本調整費用調達の件について愚見を問われた。
この年四月十八日、御殿山益田孝男爵邸で例の大師会を開き、その会場に古経巻を陳列することになっていたので、その機会を利用して平家納経の四、五巻を陳列し、当日来会する人々に、この無二の国宝の汚損を防ぐために副本製作がいかに緊要であるかを納得してもらい、ひとりにつき副本一巻の製作費用の寄進を願い出てはどうかと発案した。すると、両氏ともに、それはもっともな話であると同意されたので、すぐに益田男爵の同意も得てこの計画を実行に移したのである。
これが意外なほどに来会者の同情を引き、特に時期が例の好景気時代の頂点にもあたっていたため、二、三時間しかたたないうちに、すぐに三十人余りの寄進者が出そろってしまい、副本製作費用が難なく集まってしまった。これはまことに幸慶のいたりであった。
こうして副本調整の事業は、すべて田中親美氏に委嘱することになったが、平家美術の精粋をきわめたこの納経を、田中氏がいかに天才的技能者(原文「神工鬼手」)であるとしても、はたして原本どおりに調整できるものなのだろうかということは私たちの大きな心配の種だった。しかし試しにまず製作された提婆品(注・第12、だいばほん)、巌王品(注・第27、ごんのうほん)を見てみると、それらは原本に優るとも劣らない出来栄えであったので、さっそく田中氏を督励して、その製作に着手してもらった。
これが国宝の中でも最貴重品であるので、文部省から私と益田孝男爵にその保管責任を命じられたので、一度に十巻ずつ品川御殿山の益田家宝庫に納めておき、田中氏が必要に応じて二、三巻ずつ取り出して模写することになった。
経文はもちろんのこと、地紙の金銀砂子、表裏の絵図、装飾の巻金軸銀透かし彫りなど、平家美術の極致を原本通りに模写しようというのであるから、五年半の歳月がかかった。そのあいだには、癸亥(注・干支の、みずのとい=大正12年)の大震災などもあったが、大正十四(1925)年についに完成し、十一月十八日、まず経巻だけを厳島神社に奉納する運びとなった。それは、私たちにとってこの上ない喜び(原文「欣快措く能はざる所」)であった。
この副本には、願文一巻を添えることになり、私がその文を作り、益田男爵がそれをしたためた。それは、次のとおりである。(注・旧字を新字にあらためた)
「伏て惟る(注・おもんみる=考えてみる)に、長寛仁安の際、平相国清盛以下同族三十二人、厳島神祠に奉納の法華経一部廿(注・二十)八品、無量義、観普賢、阿弥陀、般若心経各一巻は、願文(注・がんもん。冒頭に書かれた趣旨)所載の如く、花敷蓮現之文、玉軸綵牋之典、尽善尽美(注・経文の内容も、使われた材料も善美のきわみを尽くし。なお、原文では誤植らしく蓮の字が連に、牋の字が䏼になっている)にして、天下無比の霊宝たり、而して奉納後七百六十余年をへて、儀容儼存嘗て(注・かつて)残欠磨損の痕跡を留めざるは(注・威厳を保ったままに破損欠損していないのは)、偏に(注・ひとえに)神明の呵護にして、人天の幸慶、何物か之に加へん、然るに近年令聞遠邇に敷き(注・近年その評判がほうぼうに伝わり)、群衆争うて拝観を希ひ、巻舒愈々繁くして、汚損漸く加はらんとす、厳島宮司高山昇、夙に此に見る所あり、速に副本を製して、平常衆庶展観の便に供せんとし、大正九年二月、古社寺保存委員福井利吉郎に諮り、相携へて高橋義雄を訪ひ、問ふに副本調整資金醵集の事を以てす、偶ま男爵益田孝、弘法大師会を、品川御殿山碧雲台に営むに会ふ、義雄乃ち益田男と謀りて、当日平家納経数巻を会場に披展し、事由を臨場の士女に告げて、一人一巻調整費の喜捨を乞ひしに、来衆欣んで之に応じ、未だ半日ならずして、三十四人の浄施を獲たるのみならず、其後更に賛加を望む者あり、応募者実に下記連名の多きに達したるは、誠に稀覯の盛事と謂ふべきなり、斯くて、副本調整の資已に整ふや製作一切の事を挙げて、田中親美に託し、爾来数星霜、結据労作、備さに艱苦を嘗め、又其中間癸亥の大震劫火に遭遇したりと雖も、幸ひに何等の障害を蒙らず、既にして菊地武文、高山宮司に代りたるも、亦能く其意緒を継ぎ、今茲大正十四年初冬に至りて、願文一巻、経文三十二巻の複写全く成り、神工鬼手、殆ど前倫を絶ち、精緻優麗、将に原本を凌がんとするの慨あり、是に於て浄施の士女相棒持して、親しく厳島神祠に賽し、隨喜渇仰して、謹んで之を宝前に奉納す、冀(注・こいねがわ)くは神明大慈眼を垂れ、我等の微衷を照覧し給はん事を、誠恐誠惶頓首敬白
大正十四年十一月十八日 (連名略)」
二百七十八
中京の茶風一変(下巻475頁)
大正癸亥(注・みずのとい。大正12年。1923年)の大震災は、単に罹災地だけでなく、はるかに距離を隔てた名古屋、すなわち中京の茶界にまでも思いも寄らない影響を及ぼした。その次第は次のようなものである。
今や茶道の第一人者と言われている益田鈍翁が、震災直後に家族の一部とともにしばらく避難していた。そのとき同地方の数寄者連は、鈍翁慰安のために争って茶会を催し翁を招いた。その数は多く、翁はひっぱり凧となり、一日に五、六回の茶会に出席したことさえあったという。
そのうちに、ようやく物情がおさまってくると、鈍翁は、さいわいに無難だった品川御殿山、相州(注・現神奈川)小田原の両方の宝蔵から茶器を取り寄せて、返茶(注・返礼の茶事)を催し、かたっぱしから中京の数寄者を招待したので、同地方の人びとは、はじめて東京の茶事に触れることになったのである。
それまでの中京の茶事がどのようなものであったかというと、その多くは同地方で勢力をもっていた久田流ないしは松尾流の宗匠の指導を受けていた。掛物には、それら流祖の筆跡を珍重し、久田宗全作の楽茶碗などをこの上ない名品として満足していた。茶席において、宋元の書画や上代の古筆を用いる者はなく、すべてが地方の低級な田舎茶に過ぎなかったのである。
それが今や、天下の大宗匠が主人になり東京の茶風を煽揚したので、同地方は、関東大震火災によって経済的にも膨張発展した事情ともあいまって、たちまちのうちに茶風が一変し、それまでの低級な茶流から脱皮し、一躍、東京流に同化することになったのである。これは不慮の震災から生じた鈍翁の感化だといえよう。
このときから、中京と鈍翁のあいだには親密な茶的関係が生じ、中京の数寄者が東京や小田原の鈍翁の茶会に間断なく参加するようになった。そしていよいよその流風に感化された。もしも普通の経路をたどっていたならば、何十年かけても到達することは難しかったに違いないような進境を示したのである。中京茶人は、ながく鈍翁の感化が偉大であったことを忘れてはならないであろう。
中京の古筆流行(下巻476頁)
前述したように、名古屋地方においては茶風が一変したが、それとともに、ここで非常に注目すべきことには、同地方において上代古筆物の流行をきたしたという事実がある。もともと同地には関戸家という旧大家があった。主人は守彦といって、伝来の名物茶器も少なくなかったのであるが、とりわけ知名な古筆物を豊富に収蔵していることでも、天下のなんびとにも劣らないほどの大家だった。だが大正初年までは土地に古筆物を賞玩する者がなかったために、所蔵品を見せようというような意志もなく、誰言うともなく、「関戸家の天の岩戸は、なんびともこれを開くことを得ず」という評判だった。
私は大正名器鑑の編纂のために、いかにしても同家の名品を検覧しなくてはならないと思っていたので、あるとき関戸主人に懇請し、ついに初めてその所蔵品を拝見することができた。それで、同地の人々のなかには私のことを、関戸の岩戸を開いたタヂカラオ(原文「手力雄命」)であるという者さえいた。
このころから、同地の森川如春【勘一郎】氏が、年若いのに似ず、田中親美氏について古筆物を研究し、頭脳明哲で一を聞いて十を悟り、短い間に(原文「未だ幾ならず)立派な鑑識家となったので、中京茶人の組織である敬和会という順回茶会(注・各家で持ち回りの茶会)の先導役となり(原文「牛耳を執り」)、大いに古筆熱をあおった。
その結果、関戸家を中心に、同地には多数の古筆研究家が誕生し、にわかに蒐集者の増加を見たのである。
そこで、大正十四(1926)年五月、名古屋市立図書館長の阪谷俊作氏を催主にして、十七、八、九の三日間、同市立図書館で上代仮名展覧会を開催することになった。これには、中京側では関戸、森川の両氏、東京側では益田孝男爵、田中親美氏が賛助した。
同図書館では、新館の階上全部を展覧会場とし、壁に掛物を列掲し、陳列箱に、帖、巻および残片を披陳(注・ひらいて陳列)した。
その数といい品質といい、これほどの有名な古筆物を一堂に集めたことはかつてないことであった。東京、中京の諸大家から出品されたものを挙げてみると、井上勝之助侯爵の藻塩草、三井八郎右衛門男爵(注・三井北家10代高棟たかみね)の高松帖、益田孝男爵の翰墨城、原富太郎氏の落葉帖、岡谷清治朗氏の鳳台帖といったもので、天下有数の古筆手鑑を展観したのである。
このことで、いっそう古筆愛好者が増え、それ以来、東京や京阪の入札会においても、めぼしい古筆物は、往々にして名古屋地方にさらわれるという傾向が見られるようになった。古筆物の相場が維新以降に騰貴した書画骨董の中にあって、きわだって群を抜いているが、それは、中京における古筆の流行が、その原因の一半をなしたようである。
これが全国の好事家の間にも波及し、近年では古筆物の価格はうなぎのぼりで、貫之の高野切が、一行二千円するというのが常識になり、歌柄によっては、あるいは三千円の値がつくものすらあるのである。
このような流行は、東京側からの益田男爵や田中氏の声援にあずかったという力が大きかったこともあるにせよ、古筆鑑定において、はやくから一隻眼をそなえていたばかりでなく口も八丁、手も八丁で中京一帯に好事家を勧誘した、森川如春の功労が大きかったといわねばならない。
茶事と古筆が関連しあって、ともに大いに向上し、中京が、西の京阪や東の東京と、対抗しうる位置につけるほどになったことは、同地のためには、おおいに祝福すべきことであっただろうと思う。
二百七十五 若州酒井家名器(下巻464頁)
若州(注・若狭、現福井県)酒井家、空印忠勝は、小堀遠州とのあいだに茶に関することでの交渉事が持ったことがある。遠州が茶器買収のために公用金を使い込んでしまったとき、三代将軍は国持大名に内命して援助させたかわりに、遠州からそれぞれの大名に茶器を分譲したのだそうで、このとき酒井家では、有名な飛鳥川の茶入を引き取ったという伝説が残っている。
そのように本来名器に富んだ家柄であるところにもってきて、安政年間に京都所司代を勤めた忠義公が有名な名器蒐集家で、当時、名器に関して「大鰐」の異名を持っていた。実際、柳営御物(注・幕府徳川家の所持する名物茶道具)中の名品である青磁吉野山花入を手に入れようとしたのであるが、幕府にあってはどうすることもできない。そこで、和宮降嫁の際に、幕府からこれを天朝(注・天皇家)に献納させ、天朝から所司代への周旋へのねぎらいとして、これを酒井家に下賜させたという逸話が残る。
そのほか、京都の本願寺、あるいは三井家から譲り受けた名器の数も少なくなく、維新の際には多数の蔵器を処分したけれども、名器に関してはそのまま保蔵されていたので、大正八、九(1919~20)年になって、同家旧臣のうちで、その処分論がなされたとき、和田維四郎(注・つなしろう)氏の提議で、家祖が家康公から拝領したというような伝来の名器は論外であるが、歴代主人が自己の嗜好で蒐集した道具に関しては、それを処分しても差し支えないだろう、たとえば、当家には、狩猟を好んで鹿の頭を多数収蔵された主人がいるが、その鹿の頭を永世保存しなくてはならないという理由はないのと同時に、後年になってから蒐集した茶器を処分してはならないという理由もないはずだ、という意見に賛成者が多かった。
そこで、大正十二(1923)年、益田鈍翁に宰領を委託することになり、最初は、大阪の戸田露朝を盟主とした道具商連合団体に対して、約百二十点を百二十万円で譲渡しようとした。しかし道具商団体のほうが尻込みして応じなかったため、同年六月中旬、とうとう入札売却することになったのである。
そうしたところが、この売上総高が、実に二百四十万円に達し、一品平均で二万円に相当したのであるから、これはまったく空前にして、おそらく絶後の道具入札会であったということができるだろう。
この入札会においては、五万円以上の名品が十三点の多数にのぼったが、その名称と落札価格を次に示しておく。
大名物国司茄子茶入 金二十万円
光長筆吉備大臣入唐絵巻物 金十八万八千九百円
大名物北野肩衝茶入 金十五万九千二百円
大名物角木花入 金九万八千円
名物玉柏茶入 金九万千百円
名物畠山茶入 金九万円
名物木下丸壺茶入 金八万三千九百円
名物二徳三島茶碗 金七万六千二百円
名物粉引三島茶碗 金七万六千二百円
名物橋姫茶入 金七万四千九百円
名物坂部井戸茶碗 金七万千九百十円
大名物寺沢丸壺茶入 金五万七千九百十円
名物割高台茶碗 金五万千九百十円
以上の入札では、最初に道具屋連合での買収をやろうとした大阪の戸田が、第一番の大手筋(注・大口落札者)となった。戸田は、土佐光長筆の吉備大臣入唐絵巻物や、名物橋姫茶入などを主なものとして、一手に、実に七十万円に達する落札を行ったということだ。これぞ、戸田露朝一代の晴れ業として、後日の語り草となるであろう。
また、紳士好事家の側では、北三井家が大手筋だったが、これは安政年間に酒井家から買い上げられた品々を、今回買い戻されたもので、大名物北野肩衝茶入(注・現国宝)、名物粉引茶碗、二徳三島茶碗などがそれである。(注・三点とも、現在も三井記念館蔵)
またこの入札会の宰領であった益田鈍翁は、名物玉柏茶入、梁楷筆鶏骨、名物夕陽天目などを買収され、大阪の藤田男爵(注・藤田平太郎、伝三郎の長男)は、大名物国司茄子茶入、同角木花入を買収されたが、この国司茄子は、実に茶入のレコード破りであった。(注・国司茄子茶入、古銅角木花入ともに、現在も藤田美術館蔵)
その他、横浜の原三渓氏が、名物畠山茶入を(注・現在は畠山記念館蔵)、名古屋の富田重助氏が、利休鶴首茶入を、岩原謙庵氏が大名物羽室文琳茶入を、馬越化生翁が瀬戸黄河茶入を、それぞれ落札されたので、この入札会は大成功をもって終局したのである。
それだけではなく、この入札代金が酒井家に収納されて間もなく、あの大震火災(注・関東大震災)が起こったので、道具社会が一時混乱状態に陥っても酒井家は取引上なんらの支障も蒙らなかったことは、くれぐれも同家の幸運であったということで、同家は震火災罹災者に対し、即時金三十万円の寄付を行われたということだ。
とかく道具入札売却には、その場合に応じて、非常な幸となる場合と、不幸となる場合があるものであるが、酒井家の場合は、もちろん無上の幸運だったといえよう。これは、単に同家にとってというばかりでなく、長年愛蔵されていた名器にとっても、しあわせなことだったのである。名器もまた格外に出世して、おおいに面目を施した。この入札会は、大正初年以来の幾多の大入札会の中において、長く記憶されることになるだろう。
二百六十五 小倉色紙披露会(下巻426頁)
昔から、名品を獲るは易く、これを使うは難しい、とよく言われるが、私は小倉色紙を手に入れたとき、殊にこの感を深くしたのである。
私が小倉色紙を手に入れたのは大正七、八(1918~19)年ごろで、そのときは箱も付属物もなく、全く丸裸のままだったが、上下が浅黄地銀襴、中(注・中廻し)が紫印金、一風(注・いっぷう=表装で一文字と風袋を合わせた略装)が上代紗の表装で、もともと並々ならぬものであることはもちろん、色紙は古筆家の、いわゆる白色紙で、砂子または地紋がないだけ文字がはっきりとして、いかにもみごとなものであった。
その歌は、
高砂の尾上のさくら咲きにけり とやまのかすみたたすもあらなむ
というものだった。
そこで、だんだんと調べてみると、これは久世大和守家の伝来品で、現在は子爵久世広英氏の所蔵だったが、わけあって、中身だけが世間に出て、利休の添文と、畠山牛庵(注・畠山光政、書画鑑定家)その他古筆の外題(注・書籍,掛物,巻物などの外側につける題箋)はいまも久世家に残っているということがわかったので、その後、子爵に懇望して付属物全部をまとめることができたのである。
さて、この色紙の伝来を見てみよう。一条殿御所持のあと、仙石兵部殿(注・仙石忠政か?)へ行ったのち、細川三斎のもとで表具に趣向が凝らされ、そこから一柳殿へゆき、同家の息女が金保安斎方への嫁入りの際に持参して、その子の道訓に伝わったということである。白河楽翁(注・松平定信)の「集古十種」、松平不昧の「古今名物類聚」のどちらにも久世大和守所持とあるので、寛政年間(1789~1801)にはすでに同家の所蔵になっていたものと思われる。
小倉色紙は、利休の時代から世でもっとも重んじられ、大大名家になくてはならぬ重宝として、お家騒動の種にすらなったものである。なぜこの色紙が珍重されたのかというと、それより以前には寸松庵色紙、継色紙、升色紙、俊頼大色紙などというものがあったが、それらはいずれも巻物を切ったり、歌帖をばらばらにして色紙形に作り直したもので、本物の色紙として生まれたのは小倉色紙が最初だったからである。
この色紙がひとたび世に出たあとは、為家の色紙がこれに続き、さらに下って有名な宗祇法師の大倉色紙などが出てきた。そして、色紙の元祖が小倉であることから、自然に世の中でもてはやされるようになったものと思われる。
またこの色紙は、山荘のふすまに張り付けたので、遠くからでも読めるように特にその字を大きくしたようで、茶人がこれを珍重するのも、その文字が大きく一見して非常にはっきりしているためであるとも思われる。
前述した久世家の小倉色紙には、利休筆定家卿色紙弥弥秘蔵云々(注・原文では卿が郷となっている、誤植か)の添文掛物が付属していたので、大正十(1921)年四月二十二日から、赤坂一木町の一木庵において、これを披露する茶の湯を催すにあたり、私は待合の壁床にこの利休文を掛け、本席に例の色紙を掛けて連会すること十日にわたり、茶友七十人余りを招待した。
この時の益田鈍翁の謝状に、次の一節があった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)
「小倉の色紙でお茶を頂戴すると云ふ事は、昔は大々名でなければ及びもない事なるに、今や箒庵子より此光栄を賜はつたのは、誠に老後の仕合である。待合で利休の添文を見たので、扨てこそと思ひつつ本席に入れば、果して小倉色紙が掛つてあつたが、表装は細川三斎好みで、久世大和守家に伝はり、出来も殊更美事にして、一見頭の下がる者であつた。斯くて庵主は此掛物に配するに、青磁桃の香合を以てし、花入は紹鴎所持古銅桃底に白玉椿を活け、茶入は金森大海、茶碗は黒光悦で、何れも名物揃えなれば、何れの茶会でも、無遠慮に勝手の事を言ひ合ふ連中も、今日ばかりは襟を正して、大々名に成り済ました心地がした。併し茶会の終りまで、客を緊張させて置く庵主でないから、濃茶が終ると、伊賀の水指、庸軒(注・藤村庸軒)好み朱棗、無地刷毛目茶碗に薩摩を取合せ、如何にも平民的気分に為したのは、庵主が苦心の存する所で、濃茶の間は、厳粛なる謡曲の如く、薄茶と為りては気の利いた清元とも謂ふべきか云々」
鈍翁は茶道に於ける千軍万馬往来の老将なので、その品評も急所にあたり、主催者が心の底からうなずくことができるものである。
思うに、小倉色紙は、もともと百枚あったものだろうが、寛政年間(1789~1801)の松平不昧の調査では現存が二十八枚とされ、その中で、茶事に使用することができるのは「八重葎」、「ほととぎす」、「いにしへの」、「誰をかも」の四枚のほかは、今回の「高砂の」の一枚を合わせて、わずかに五枚を数えるに過ぎない。であるから、古宗匠がこれを使用するにあたって一世一代の工夫を凝らしたことが美談となって後世に伝えられているものもある。
利休が某家の茶客になったとき、その露地に落葉が掃き残してあったのを見て、さては、当家で秘蔵されているという「八重葎」の色紙が掛けられているに違いない、と予言したという逸話も残っている。
また、ある大家は、暁の茶会を催し、「ほととぎす」の色紙を掛け、室内に灯火をともさず、四更(注・しこう。午前4時ごろまでの早朝)の月光が、突き上げ窓(注・茶室に設けられた天窓)から差し込んで、掛物の上を照らし始めると、「ただ有明の月ぞのこれる」の文字が、ありありと読めるようにしてあったということもあった。
しかし私の色紙披露会は、前述のように平々凡々で、なんら茶興をそそるほどの趣向もなかったが、来客の方からは、さまざまの論評を寄せていただいた。ある人が、一木庵は奈良興福寺殿堂の古材を柱としているから小倉色紙とは調和しないだろうと言ったのに対し、故団狸庵翁(注・団琢磨)が、「小倉色紙は仮名でこそあるが、その文字が大きく、一種独特な墨蹟であると言えるものであるから、古材の太柱席と調和しないはずはないだろう」と言われたなどは、確かに傾聴すべき一説であると思う。この披露会も、おかげでお茶を濁すことができたのは、まったく茶友の厚情のおかげで、そのことに深謝せねばなるまい。
二百六十四 益田紅艶冥土入り(下巻422頁)
東都名物男の随一であった益田紅艶【英作】氏は、持病の糖尿、腎臓病に二回の脳溢血を併発し、大正十(1921)年二月二日、享年五十七歳をもって悠然と冥土に出立した。
氏は、故益田鳳翁の末子(原文「季子」)で、伯兄(注・長兄)に孝男爵、仲兄(注・次兄)に故克徳を持ち、兄弟三人それぞれの特長をもって当世に栄達したが、中でも氏は飄逸な天才肌で、社会の各方面で数々の奇談逸事を残した。
この名物男についてはすでに何度も記述したことがある(注・80・千葉勝と紅艶、181・脱線党の一人者などを参照のこと)が、今回は永別に臨み、ここに二、三の興味ある行実を叙述してみることにしたい。
紅艶は慶応元(1865)年生まれで、明治十一(1878)年十五歳の時、遊学(原文「見学」)のためにまずフランスに行き、ついでイギリスに渡り、アメリカにはもっとも長く在留したので英語に堪能であることは言うまでもなく、英文の手紙を書かせては邦人中、彼の右に出る者はほとんどなかったという。
その後彼は三井物産会社に入り、英、米、シナの各支店に転勤したが、本来が剽軽な性質なものだから、他からの束縛を受けて規則正しく勤務することが好きになれず、三十歳ごろからはやくも気随気ままな生活に入った。
明治二十六(1893)年、彼がはじめて日本橋区浜町に構えた小宅で初陣茶会を催したときには洋行帰りのほやほやで、一半の西洋趣味を加え、来客を香水風呂に入れ、床には芭蕉の、
無惨やな兜の下のきりぎりす
という句入文を掛け、余興には河東節の邯鄲の一曲を出すなど、彼がのちのち一流を開くことになる趣向茶の処女的なひらめき見せたのである。これは、彼の茶道における魔法使いの始まりであった。
紅艶は美術鑑賞において一隻眼を有した。ふだんの金遣いは、いわゆる握り家(注・けち)の方だったが、美術的名品に対しては驚くほどに大胆不敵で、思い切った奮発を辞さないところがあった。
その所蔵品には新古さまざまなものがあり、中には観音だの阿弥陀だのといった古仏の手足の断片などもまざっていたが、彼の説によると、世界中で手足がいちばん自然に発達しているのは日本人だということで、その日本人において、生まれてからまだ何らの圧迫を受けていない子供の手足はもっとも自然美に近いものである。すなわち、古仏像の足の部分などは、それを手本に作ったものなので、土踏まずのない、むっくりした柔らかい子供の足に近い美形を保っているとのことである。その断片によって四肢顔面を想像すれば、仏像全体の美観がおのずから眼前に現れてくるので、真に古仏像を愛玩しようとする者ならば、手足の断片だけを見てもその美想を満足することができるのだという。この一事からしても、彼一流の見識を知るに足るのである。
紅艶の逸事は、茶事、美術鑑賞のほか、音曲舞踏方面で一番多いようである。
彼は、図体が大きな割には、声が細くて甲高く、その節回しのあどけなさがまるで子供のようで、しかも独りよがりの大天狗なので、さまざまな奇談を残すことになった。
彼の音曲の皮切りになったのは河東節で、十一代目山彦秀翁(注・十一代目十寸見【ますみ】河東)に弟子入りをした。例の「夜の編み笠」で、白鷺の一節を得意とし、かねがね長兄の鈍翁に自慢していた。
さて鈍翁がある日、汽車の中で秀翁に出会ったとき、ついでに、紅艶の河東節はどうですかときいてみると、もともとお世辞っ気のない秀翁は、「英作さんの調子外れときては、いやはや、まことに困りものでげす」とやっつけたので、これを伝え聞いた紅艶は、半時ばかり呆然としたのち、その日のうちに河東節をやめてしまった。
今度は転じて長唄の門にはいり、吉住小米についておおいに勉強しつつ、例の工夫沢山で、「有喜大尽」の大石(注・大石内蔵助)を、成田屋張りで語るという調子で、いたるところで喝采を受けたのを真に受けていた。ところがある時、小米の稽古場で、師匠が自分の噂をしているのを立ち聞きしてみると、「紅艶さんときたら、いつまでたってもアノ通りで、先の見込みがありませんよ」という始末で、紅艶おおいに悟るところあり、この時から河岸を振り事(注・歌舞伎舞踊)の方面に変え、さらにより多く珍談を残すことになったのである。その顛末については、長くなるので他日に譲ることにしよう。
紅艶は、その死後、築地本願寺境内に葬られ、円融院釈霊水居士という法名をつけられた。霊水とは、無論、彼の目黒の茶室である霊水庵からきた名称だが、円融とは、本願寺の和尚が勝手につけた法名で、この二字はもっともよく故人の性格をあらわしているだけでなく、あのステテコ踊りで有名だった故三遊亭円遊とその音便が似ているので、ある友人は
ステテコを地獄で踊れ円融院
と口ずさんだそうだ。紅艶が冥土でこれを聞いたなら、「敵ながらあっぱれでげす」とうなずくことだろう。
朝吹柴庵という大名物を失って間もなく、この大道具があの世に落札されてしまっては、東都の雅俗両社会は、ともに大いなる寂莫を感じないわけにはいかない。
この種の人物は、花は咲いても実は結ばぬというのが常なのに、紅艶はまったくこれに反し、生前にはあらん限りの気随気ままを尽くしながら、死後に大資産を残しているから、これこそまさに雅俗両諦に通じた完全な処世と言ってもよさそうだ。
史記に、「滑稽列伝」、「貨殖列伝」というのがあるが、大正時代の太史公(注・司馬遷)なら彼をどの列伝中に収めるであろうか。とにかく彼は、明治後期から大正時代にわたって、一種出色の名物男と称するべき者であろう。
二百六十一 高野山霊宝館落慶式(下巻412頁)
明治四十三(1910)年に発起した高野山霊宝館は、それから十二年をついやして大正十(1921)年五月十五日に、いよいよ落慶式を挙行する運びとなった。そこで最初からこの事業に微力を尽くしてきた私たちは、この日をもってようやく肩の荷をおろすことができたのである。(注・160「高野山霊宝館の発端」を参照のこと)
そもそもこの霊宝館は、高野鉄道社長の根津嘉一郎氏らが高野繁昌の一策として建設する必要を唱えたものだった。高野山側としても、同山の開山一千百年の記念事業の一部としてその実現をさかんに望み、大師会の発頭人として知られていた益田鈍翁(注・益田孝)や、真言寺と自称して大師崇拝者であった朝吹柴庵(注・朝吹英二)らが発起人に馳せ参じたので、ここにいよいよその計画を立て資金勧募に着手した。
しかしそれに着手したそのとき、最初からこの事業に熱心だった高野山宝城院住職の佐伯宥純師が突然遷化(注・せんげ=高僧の死去のこと)してしまった。そのためたちまちのうちに大頓挫を生じ、一時は計画を中止しなければならないことになりかけた。しかしこれでは佐伯師の霊に対して申し訳が立たないということで、私と野崎幻庵(注・野崎広太)でその事務所を引き受け、決然として資金募集を始めた。
その意気に馬越化生翁が共鳴し、それからは三人で、あるときは知己の誰かれを勧誘し、あるときは諸大家道具入札会の札元たちを説いてその冥加金(注・奉納金)を徴収するなど、さまざまな手段を講じて、かろうじて十一万円を募集することができた。しかし物価騰貴のため、当初十三万円であった予算が、ほとんどその倍額に達していたので、発起人中の発起人であった下記の八名が各自、最低七千円、最高一万一千円を分担し、出資総額を十七万円にまとめた。
一方高野山側では、当初からこの事業の相談役であった文学博士の黒板勝美、荻野仲三郎の両氏が調談の結果、館内の造作備品代金の十万円余りを支弁することになったので、双方の合計の約三十万円で霊宝館第一期計画を完成し、この日めでたくこの落慶式を挙行するにいたったのである。
霊宝館は、正殿を中心にして左右に両翼を張り、回廊でそれを連接する構造(原文「結構」)である。今回は第一期事業として、正殿すなわち紫雲館と、左翼すなわち放光閣を完成し、右翼は第二期事業として将来の竣工を待つことにしたのである。
こうして、この日は東京から発起人総代として益田鈍翁、根津青山、馬越化生、野崎幻庵と私の五名のほかに室田義文氏が出席し、九州からは安川敬一郎男爵、京都からは日置藤夫氏などが登山した。
益田男爵が霊宝館寄進文を読み上げ、金剛峯寺管長の土宜法龍師が受納文を、建築技師長の大江新太郎氏が報告文を、馬越化生翁が祝詞を朗読し、首尾よく落慶式は終わった。
黒板博士の筆になった霊宝館の寄進文は次の通りであった。
「寄進し奉る高野山霊宝館一宇の事。
右当山は弘法大師入定の聖跡、三世諸仏集会の浄域なり、上天子より下衆庶に至るまで、一心帰依の懇志を致し、三会得脱の値遇を期す、是を以て蓮峰蘿(=カズラ)窟、徳風吹くこと一千百余年、霊宝秘珍、庫の充ち蔵に溢る、惜い哉、或は祝融の災に罹り、或は蠧魚(=紙魚)の食となり、日に散し月に失ふ者、其数を知らず、而して保存の法未だ立たず、展観の便尚ほ欠く、登山の輩、参詣の衆、多くを以て恨みと為す、是に於て明治庚戌の春、始めて霊宝館造立の発願あり、我等之を隨喜し、奉加四方に勤め、功徳一切に及ぶ、而して十余星霜を経、輪奐(=建築物が広大であること)の美未だ成らざるの間、座主密門大僧正を始め奉り、佐伯権中僧正、朝吹柴庵等、忽ち黄壌(=死後の世界)の長別を告げ、前後恨み極まりなき者なり、切に浮世の夢の如きを感じ、弥よ(=いよいよ)事業の遂げ難きを歎じ、更に多少の志を集め、纔(=わずか)に土木の功を終り、殿紫雲と称し、閣放光と呼ぶ、乃ち虔んで大師の宝前に寄進し奉り、聊か以て小願を果す、庶幾(=こいねがわ)くは、遍照金剛の威光弥よ輝き、普賢行願の梵風益加り、又願くは此微善に依り、故座主以下、聖霊出離生死頓生仏果、同心緇素(注・しそ=出家者と在家者)現当安楽、願望円満、乃至法界平等利益、敬白(原漢文)
大正十五円五月十五日
高野山霊宝館建設発起人総代
益田孝 根津嘉一郎
馬越恭平 村井吉兵衛
原富太郎 朝吹常吉
野崎広太 高橋義雄
霊宝館の右翼はまだ出来上がっておらず完全に竣工してはいなかったが、正館と左翼ができあがったので、什宝保存のため、また一般の人々(原文「衆庶」)観覧のために、今後幾久しく無限の功徳と便宜を生じることになるだろう。
山間僻地の寺院に関する事業というものは、都会での同様の事業のようには華々しく目立つようなことはないが、概して永続的なものになりやすく、少しずつであっても後世に恵沢を及ぼすものが多い。たとえば鎌倉幕府の事業は、なにひとつ見る影もなく荒廃してしまったが、尼将軍政子(注・北条政子)が高野山に寄進した多宝塔は、厳然として今もその雄姿を留めているではないか。
霊宝館建設の議が起こってから十二年、私たちは、時には托鉢坊主のようになって、勧化(注・寄付集め)に憂き身をやつしたこともあったが、今や本館が落成しその功徳が今後長く継続するのだと思えば、いささか骨折り甲斐があったものだと衷心(注・心の底から。原文「中心」)満足している次第である。
二百五十六 信実歌仙断巻式(下巻394頁)
大正七(1918)年一月、松昌洋行の山本唯三郎氏の使者が突然私の家に、佐竹侯爵家旧蔵の信実筆三十六歌仙二巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる「佐竹本三十六歌仙絵巻」)を持参し、今度この二巻を買収するつもりであるが、付属品その他に間違いはなかろうか、貴下の一覧を乞うた上で、いよいよ決定するつもりなので、委細ご意見、この者に伝言していただきたいということであった。
そこですぐに、これを披見(注・開いて見る)してみた。実物はもちろん、付属品一切、まったく間違いはなかったので、山本氏がこれを買収するのは国宝保存のために結構な考えで、さっそく実行していただきたいと回答しておいた。
山本氏は、曩に(注・さきに)征虎軍を組織して朝鮮に赴き、帰ってくるや虎肉試食会を催して、朝野の紳士を招待したりするなど、その行動にはすこぶる小気味よい趣味がある。(注・238「虎肉試食会」を参照のこと)
今回はまた、危うくばらばらに分離されそうになった国宝の三十六歌仙を、一手に買収したことは、まことに当代の船成金たるに背かず、私はその後、書簡の末尾に次の一首を書き添えて同氏に送った。
風雲意気欲衝天 万里打囲鞭着先 昨日韓山擒虎手 更収三十六歌仙
(注・擒=とりこ)
さて、人事齟齬多く(注・人のやることにはうまくいかないことも多く)、その後、二年もたたないうちに山本氏がだんだんと左前(注・経済的苦境に陥る)になり、にわかに歌仙絵巻を処分しようとしたが、ひとりでこれを買収する者がいなかった。
そこで最初のときからの世話人であった服部七兵衛(注・道具商)が委託を受け、同業の土橋嘉兵衛を仲間にひきこんで(原文「語らいて」)、結局、各歌仙を分断して、一枚ずつ抽籤で全国の数寄者に分配するということで評議一決したのである。
それにつき、是非、行司役を引き受けてほしいといって、私と益田鈍翁、野崎幻庵の三人に依頼があった。今や絵巻をどうすることもできず、かくなる上は数寄者冥利として、むしろ潔くこれを引き受け、歌仙のために安住の嫁入り先を斡旋するしかないということになり、当代の古筆道の権威である田中親美氏をその評議委員長とし、尾州(注・尾張国、現愛知県西部)の森山勘一郎氏をその補助として、大正八(1919)年十二月二十日、品川御殿山(注・益田鈍翁邸)の応挙館において、いよいよ断巻式を挙行することになった。
この三十六歌仙は、山本氏が三十五万五千円で買収後に約二年間所有していたので、同氏には、この歌仙の中から宗于朝臣(注・源宗于むねゆき)を贈呈することになった。その代わりに住吉明神を一枚加えて、やはり三十六枚になるようにして、原価に二万三千円を足した三十七万八千円を、その三十六枚に割り振ることにした。
ところで、この分断にあたっては、歌仙の中に人気者と不人気者とがあったり、完全なものと汚損したものとがあったり、住吉明神のように、ただ住吉の景色とその歌だけが描かれたものがあったり、貫之のように、狩野探幽がその詞書を書き添えたものがあったり、あるいは躬恒(注・凡河内躬恒おおしこうちのみつね)のように、歌仙も詞書も共に探幽の補筆がなされているものもあって、それらを評価するのは至難中の至難だった。そこは、田中、森川らが厳密な格付け比較会議を開いて、三十六歌仙を、横綱、三役、幕内、二段目、三段目(注・三段目のほうが格上だが、原文通り)と分類し、四万円を最高額、三千円を最低額にして、その平準価格となる一万円より高いものが九枚となった。それ以下のものは、九千円、八千円と、千円ずつ下げてゆき、三千円を最低額と定めたのである。
さて、その分断の当日、すなわち十二月二十日は、午前十時が定刻で、抽籤の権利者自身が出席する場合もあれば、代理の人間を差し向ける場合もあった。
青竹の筒に納めた銅製の香箸のような籤(注・くじ)に各歌仙の名を彫りつけてあるものを、予定した席順に順次降り出していったが、その籤の当たりはずれは、神ではない身にはどうすることもできず、最高額の品を望んでいた者に最低額のものが当たり、坊主は嫌っていた者に、あいにくその坊主が来てしまったりした。歌仙の人柄と、それが当たった人のあいだに面白い対照が見られる場合があったときなどは、拍手喝采してそれを祝するなど、一座の五十名ほどの諸大家が、この日ばかりは子供のようになって、お祭り騒ぎを演じたのであった。
なかでも、第四番籤の業平(注・在原業平)が馬越恭平氏に当たったときなどは、ご本人はグッと脂下がって(注・やにさがって=いい気分でにたにたする)当代の色男は拙者でげす、と言わんばかりの面持ちをしているところに、一同が急霰(注・きゅうさん=いわかに降るあられ)のような大喝采を浴びせかけたなどは、この日最大の愛嬌であった。
信実三十六歌仙断巻式は、以上のような次第で行われ、二巻は分かれて三十七幅の掛物となり変わったのである。しかし、このように分断することが余儀なくなってしまってから考えてみると、この巻物は他の絵巻物とは違って、歌仙とその詞書とが一枚一個ずつになっているので、連続している他の絵巻物を切ってしまうのとは、だいぶ趣を異にしているため、あきらめがつかないことがないでもないのである。
ただ、当日に三好大経師が鋏を手に取って、この巻物を切断するときには、角力の横綱の断髪式に臨むのと同様、なんとなく愛惜の感を抱かずにいられなかったので、私は古歌をもじって次のような狂態一首を物し、当日列席した同行の一笑に供したのである。
切るはうし切らねば金がまとまらぬ 捨つべきものは鋏なりけり
(注・戦国時代の武将の古歌に「取るも憂し取らぬは物の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり」=人の首を取るのはいやだ、かといって取らないと半人前と言われる。ああ弓矢を捨てたいものだ、がある)
二百三十一 名物男柴庵翁の易簀(下巻302頁)
(注・えきさく。礼記で、曽子の死に際に季孫から賜った大夫用の簀[すのこ]を身分不相応のものとして粗末なものに易[か]えたという故事から、学徳の高い人の死、死に際のこと)
四十年の莫逆(注・ばくぎゃく。親しい友)であった朝吹柴庵【英二】翁は、大正七(1918)年一月三十一日、享年七十歳をもって築地木挽町の自邸で、そのもっとも波瀾多き生涯を終えられた。
翁は豊前耶馬渓(注・現大分県)近く(原文「畔」)の、一民家の子として生まれた。つとに福澤先生の知るところとなり慶応義塾に学んだ。その後、三菱会社にはいり、社長の岩崎弥太郎氏に外交的才幹を認められた。
だんだんに実業界で出世するうちに、時の大蔵卿であった大隈侯爵らの愛顧を得て横浜に貿易商会をおこし、ここにはじめて本邦人による生糸の直輸出の端緒を開いた。これはいわゆる商権回復の運動であったが、翁はその仕事に邁進したものの、時勢がいまだこれをゆるさず、逆境相次ぎ失敗相重なった。このことで翁は、貿易商会が政府から借用した数十万円の負債を一身に引き受けることになり、当時、日本第一の借金王になってしまったのである。
それから十数年間、七倒八起の境遇に立ちながら翁が奮闘した武者ぶりは、その円転滑脱の才思(注・才知のすぐれた考え)とあいまって、奇談、逸事を少なからず世にのこした。
こうして明治二十五(1992)年に、翁は鐘淵紡績会社の専務となるや、拮据経営(注・仕事に励むこと)し、ついに、その衰運を挽回し、今日の同社の隆盛を基礎を築き上げたのである。
その幕下(注・ばっか。配下)から、和田豊治、武藤山治のふたりを輩出したことは、人のよく知るところである。
その後、三井の工業部にはいり、ついで同家本部に転勤するころには、義兄の中上川彦次郎をシテとし、おのれはそのワキ役となって、当時の三井の両雄であった中上川、益田(注・孝)の両者間を円滑にする油となり、いわゆる世話女房としての立場で、物事がはかばかしくないとき(原文「冥々の際」)に、その天賦の調和的技能を発揮したことは枚挙にいとまない。
その人となりは、聡慧豁達(注・そうけいかったつ。聡明でかつ度量がある)のうちに慎み深さと慎重さを兼ねていた。数字にも強く、記憶力がよく、座談にもきわめてすぐれ、言貌(注・げんぼう。言葉と容貌)に無限の愛嬌をたたえており、円転滑脱、陳を化して新と成し(注・古くなったものを新しいものに変え)、人を笑わせる(注・原文「人の頤(おとがい)を解く」)のがうまかった。
私は、趣味においても、性格においても、業務においても、翁と非常に近いところにいたことから、社交家として、遊冶郎(注・ゆうやろう。道楽者)としての、そして美術鑑賞家としての翁についてはよく知り、これまでもいろいろな項で記述してきたとおりである。今回は、これまで触れることがなかった翁の文才について、すこし書いてみようと思う。
翁は、その性格から言っても、狂歌がいちばん得意だった。大正初年、私が山谷の八百善で、道具一品持ち寄りの会を催したことがあったが、そのとき翁に送った案内の返事には、次のように書かれていた。
「高橋義雄氏より、七月九日に、何か見るべきもの、一品持ちて、山谷の八百善に来れ(注・きたれ)との案内を受けたる時の答に
九日に八百ぜんと云ふ五あんない一品二三六で七四十も
(注・後半「一品持参でなしとも」)
また、名取氏に嫁した令嬢の福子に、長孫(注・本来は、長男の長男のこと)が誕生したとき、
百までもいきてゐよとは願やせぬ 爺と婆とが死んでから死ね
と口ずさまれた。この歌は、あとになって悪戯をしでかし、愛孫は、九歳のときに夭折したので、あんな歌を詠むからだと家内より叱られましたと、翁は当惑した顔で告白されたこともあった。
さて、晩年にいたり、井上通泰氏について、国風(注・漢詩に対し和歌のこと)を習い始め、そのなかには一風変わった詠みぶりの、いかにも翁の和歌らしいものもあった。
あるときは、常磐会に出詠して、満点の光栄をになわれたこともあった。その歌は、海辺の夏月という題で、
風もなく波も音せぬ海原に 曇れる月のあつき夜半かな
というものだった。
さて、私と翁との交誼(注・親しい交流)は、現世だけでなく、冥土においても相変わらず続くだろうと思っている理由がある。
大正六(1917)年、私は、翁と、馬越化生(注・恭平)、根津青山(注・嘉一郎)の両老とともに、霊宝館の地鎮祭に参列するため高野山に登山したのであるが、翁はこのときに思い立つところあって、奥の院玉川の橋を渡って、まさにそこから石階段を上ろうとする左側に、朝吹家累代の墓という一基の墓石を建立された。私は、翁といっしょにこれを検分し、私もご近所に墓地を定めて、死後ともにこの山中に来て、時々大声で談笑して、おおいに奥の院を賑わせようと顔を見合わせて哄笑したことがあったので、翁の易簀(注・えきさく。死)の翌年に、私は翁との生前の約束を実行して、翁の墓石に相対する奥の院石階段右側の二本の大杉の木の下に法華寺型の石灯篭を一基立て、その棹の正面に、高野山管長土宜法龍大僧正筆で、箒庵居士塚石燈と刻して、これを墓石に代えたのである。
その後、私は奥の院に赴き、翁の碑前にぬかずいて次のような腰折(注・自作を謙遜した呼び方)一首を手向けた。
まてしばし我れも来りてもろともに 高野の奥の月に語らむ
人の世は無常迅速である。私も早晩、翁の霊とともに高野山の奥の院で談笑を交える時節が到来することだろう。
二百一 「実業懺悔」著述の由来(下巻192頁)
私は、前述(注・197)したように、大正三(1914)年に「がらくたかご」を著述した。そして、一年をへだてた翌年の四月に、さらに「実業懺悔」と題する新著を発刊した。これを著述したのには次のような由来がある。
人は、生から死にいたるまでさまざまな境遇に出会うもので、短い時間のあいだに波瀾の多い急流を漕ぎまわるようなことがあるかと思えば、比較的長いあいだ平々坦々な単調な境涯を過ごすこともある。人物の賢愚にかかわらず、大なり小なり、みな自分の歴史を持たぬ者はない。蟻のような小さな虫であっても、もしもその履歴を語り得るならば、一匹一匹みなその経歴談があるはずだ。
おりよく獲物を探り当てて贅沢に冬ごもりしたこともあろう、あるいは人間という怖ろしい動物の足下に踏みにじられて九死に一生を得たこともあろう。頼りにしていた木陰に大雨が漏り、ノアの洪水を思い出すような惨状に遭ったこともあろう。あるいは一片の木葉舟に取りすがって、あやうく水溜まりを乗り越えたこともあろう。
蟻ですらこのとおりさまざまな経歴があるのだから、ましてや人間においてをや、である。たいていなら、より以上の苦楽、吉凶、得意、失意があるのではなかろうか。
下司の智恵はあとから出る(注・愚か者は、必要なときによい考えが出ず、あとから思いつく、の意)というとおり、振り返って己がなしたことを考えて、ああでもあるまい、こうでもなかった、と毎度後悔することが多いのは、十人が十人たいてい同様だろうと思う。
故中上川彦次郎の談に、こういうものがある。「サンフランシスコあたりの大成金者が、生前に自伝を書かせて知人に贈ったとき、ある知人が、『君は非常な幸運者であるが、もし君が今一度生まれ変わって同じ世の中に出たならば、どうするか』と聞いてみた。すると成金先生は、『拙者は何度生まれ変わっても、同じことを繰り返すつもりである』と答えたそうだ。およそ人間にうぬぼれということがあっても、まずこれほどのうぬぼれはないだろう。もしこの人が痩せ我慢でなく、真実このように思ったのなら、天下でこの人ほど成功した人はなく、また幸運な人はなかろう」と言われた。
なるほど、これは、中上川氏の言われるとおりであろう。古往今来、幾多の英雄豪傑があるやら知らぬが、ためしにその心事を尋ねてみたら、あのとき、ああもしたらよかったろうと、あとから悔しがることが数々あるだろうに、その生涯を顧みて、みずから完全無欠であると満足する人は、じっさい非常に少ないだろうと思う。
さてわたしは、ふとしたことで実業界にはいり、碌々として(注・ろくろくとして=何もしないまま)二十一年間この社会の厄介になったが、振り返って考えてみると毎度失策だらけである。もし私に多少の悟道心もなく、私が、死んだ子の齢を数えるように、いたずらに後悔するような人間であったなら、残念残念と百万回繰り返すことだろう。しかし私は、実業界にあったとき、初めから大きな成功を期していなかったので、いまさらその成功について語ることはもちろん、その失敗を語ることさえあまり気乗りがしないのである。
しかしとにかく、この社会にはいって働き盛りの二十一年間を消費したからには、そのあいだにいかなる仕事に当たったか、いかなる人物と接触したか、いかなる経験をし、いかなる感想を抱いたかということを叙述し、それを読む人に多少の参考資料を提供するのも、あながち無意味ではないだろと考えたのである。この間における私の一切の行動と自信とは、次の一首に言い尽くされている。
なしし事拙なけれどもかへりみて 疚しからぬがうれしかりけり
さて、「実業懺悔」を刊行するにあたって、私はこれを、日本の外国貿易創設者であり、また三井財閥の中興の元勲である私たちの先輩、益田孝男爵に内示した。すると男爵は、私のために懇篤な序文を執筆して寄せてくださった。その中に次のような一節があった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)
「明治の実業界に於ける高橋君の功名は、事珍しく吹聴する迄もなき事ながら、予が最も感服したるは、君が三井銀行より同呉服店に転じ、所謂越後屋伝来の商売に大革命を加へたるにあり、昼尚ほ暗き土蔵作りの店舗に、十数名の番頭が、火鉢を左にし、掛硯を右にし、大算盤を膝にし、客の註文を聞きては、小僧を呼んで品物を持ち来らしめ、一客又一客、繁雑窮りなく、時間を空費すること、程度を知らざる旧弊を一掃し、店舗全部を開放して陳列場となし、客の好む所に従って選択するに任せ、自他共に愉快にして便利なる商売と為したるは、実に君が新工夫にして、破天荒と云はざる可らず。三井呉服店が気運に乗じて、今日の『デパートメント・ストア』を成したるは、爾後日比翁助君等の経営に俟つこと多しと雖も、其端緒は高橋君の創意によりて拓かれらるなり。而して独り三越のみと云はず、白木屋、松屋等の老舗も、遂に全く面目を一新するに至れり。此他幾多の実務に於ても、亦忙中の余技に於ても、君が新意匠に感服したること屡々なりき、爾後君は三井鉱山会社の理事と為り、次いで又王子製紙株式会社の業務を担当し、到る処好印蹟を留められたりと信ず云々。」
益田男爵の序文における過褒は、あえて当たらずといえども、知己の言としてありがたく頂戴した。
私は、まだこのほかにも感じるところがあり、「水戸学」という一著も著述したので、ついでながら項をあらためて、その趣意を告白することにしよう。(注・「水戸学」著述については218~220を参照のこと)
百八十八 白紙庵構築の由来(下巻145頁)
私は、しばしば述べてきたように明治四十五(1912)年からその身を文芸界に投じることになったので、十年余り住み慣れた麹町区一番町の邸宅を中井新右衛門氏に譲渡し、四谷伝馬町に新しい境涯向きの住居を建てることにした。
そこの新築の茶室に、なにか人を驚かすような趣向を加えたいと思い考えた末、それまでに三百年以上たった白紙を収集しておいたので、新しい三畳台目の新席の壁を全部その白紙で張りつめることにした。
ところが同じ白紙といっても、それぞれ多少の濃淡があるので、まるで地図のような模様が現れ出た。これならば、必ずや好事家の一粲を博す(注・謙遜の意味で、お笑い種になる)に違いないと思い、自分ひとりで得意がり、名前も当然のごとく「白紙庵」と命名した。そして大正三(1914)年三月八日から新席開きの茶会を催し東京の同好者たちを招待した。
さて、この新席に掛ける一軸は、徳川慶喜公の大字一行物にしようとかねがね思っていた。そのことには、ほかでもない次のような理由があった。
先年の御殿山の大師会で私が禅居庵の一席を受け持ったとき、慶喜公が渋沢栄一子爵同伴で来臨された。東道役(注・来客の世話人)で台主の益田鈍翁も同座してしばし清談を交わした後、私は慶喜公に「御序(注・ついで)の節、何がな御染筆を願いたし」と申し出たところ、公はすぐに快諾してくださった。
そこでその後、白紙に縁故のある文句を二つ、三つ選んで、公の末女である徳川圀順公爵夫人の手元に渡し、夫人を経て重ねて願い出たときには、公はすでに病床にありもはや執筆はかなわなくなってしまったので、公の生前にその墨蹟を拝領する機会を失ってしまった。これははなはだ遺憾なことだった。
そこで私はやむを得ず、藤村庸軒筆の白紙の讃を得て、これを開庵の床に掛けたのである。
その文句は次の通りであった。
題白紙 庸軒子
無画無詩掲一行 不看赤青兼黒黄 這中風致凛乎冷 楮国乾坤雪又霜
白紙庵の懐石茶会は十数回を重ねた。来客には記念として、この庸軒白紙讃を染め付けて新調した六角火入を配りなどした。この記念品は、同人のあいだでなかなかの評判になり、松原瑜洲【松江藩士、通称新之助】翁からは、大心和尚筆の白紙讃一軸に添えて次の五絶を贈られた。
箒庵兄鼎新白紙庵 余贈大心和尚所書白紙偈幅 更賦此以為慶
瑜洲松原新拝
心清如白紙 性浄似流泉 白紙庵中主 汲泉茶自煎
このほか、同人数名からは詩歌の寄贈をいただいたが、なかでも岩渓裳川翁の白紙行古体一篇は、新しい庵に一段の光輝を添えるものとなった。
箒庵先生、新築茶室 名曰白紙庵、 即賦一篇古体以博粲
裳川岩渓晋
茆庵新著白紙字 窺得平生尚素意 満壁糊貼千百張 番々足写博物志
谷泉詩偈趙州茶 三白相得雪月花 久矣二陸伝経具 風流未曾帰驕奢
維摩丈室有縄墨 軽楹不用珠翠飾 個中悟到一味禅 豈止賓主参語黙(注・楹=柱)
石丈偶座如点頭 傍有臨風瀟洒侯 唐昌姑射女仙対 蒼髯老叟皆同流
聞道旧儀其客五 多驚人目物為主 不掃胸裡万斛塵 床頭空挂玉柄塵
請見高情陶令琴 無絃能解弾旨深 廬家七椀在知趣 徒競茗器終何心
幽鼎松風払々入 清泉一杓古可汲 世俗好事紫奪朱 悲糸誰作墨子泣
浮碧殷紅金花箋 敢説日辺天上伝 茶煙色映白紙白 白衣人結浄因縁
このとき、私もまた、次の腰折(注・自作を謙遜した言い方)を物して、新庵で茶禅一味(注・茶道は禅から起こり求めるところは同一であるということ)を味わいつつあった。
花の朝月の夕に木の芽烹て(注・煮て)浮世のことは白紙の庵
白紙の壁に向ひて松風の 音を聞きつつ我が世をや経む
ところがこの茶会のあと一か月余りすぎた四月十七日に、徳川圀順公爵の家令、福原脩氏が来宅して語るところによれば、私がさきに公爵夫人を経て慶喜公に願い出た揮毫が、昨年十一月二十二日に公が薨去されために果たされなかったことを夫人がことのほか遺憾に思召され、その次第を慶喜公の嗣子、慶久公に申し入れて、私のために公の遺墨一枚を請われた。すると慶久公はこころよくそれを承諾され、遺墨の中から適当なものを選択するようにと福原氏に沙汰があったので、福原氏は白紙庵に縁故のある文句を選び、唐紙半切に次の二句があるものを持参した、とのことであった。
私にとっても思いがけないことで慶喜公の遺墨を拝領することができたので、よろこんで(原文「欣然」)これを開いてみると、
素志与白雲同悠
真情与青松共爽
というもので、不思議にも、素志、白雲などという文字があり、ただ白紙庵に縁故があるだけでなく、なんとやら、私のような隠逸者の境遇にぴったりの語句で、願ってもない好記念物なので、厚く公爵夫人の御好意に感謝した。さらに徳川邸へもまかり出て、慶久公にもお礼申し上げたのである。
この白紙庵は、幸いに癸亥(注・みずのとい。大正12年)の震火災にもあわず、今は斎藤浩介氏の住居になっている。微々たる一庵室に関連して以上のような因縁話があったので、追憶の一端にもと、ここにその由来を記し置く次第である。
(注・原文で、146頁の最終行[ー人であった三輪君が、・・・布袋腹を抱へ]は、前項の144頁の最終行に来るべきものである。)
百八十一 脱線党の一人者(下巻119頁)
「箒のあと」も、最近少し堅苦しい話題が続いたので、合いの楔(注・中間のつなぎ)に、この辺で無邪気なナンセンス物語を挿入しようと思う。
そんな「脱線党」の第一人者といえば、なんといっても、わが益田紅艶(注・益田英作)である。雅俗の両方面でいろいろな珍談があるので、その二、三を紹介しよう。
汽車の中で近善を生け捕りにした話
益田紅艶が関係していた道具商である多聞店は、同業の近善と、一番多くの取引をしていた。近善というのは竹内広太郎の店の名で、彼の親父が名古屋出身だったので、その道具の買い出し先が特に名古屋方面に多かった。
紅艶は、名古屋の某家が所蔵していたある名器を買い取ろうとして、ずっと前から近善に依頼しておいたのだが、道具取引の上で近善のことを毎度のようにたしなめていたので、いつか近善が、かの名器を取り出しても(注・道具商が売り主から品物を手に入れても、という意味)、もしかすると自分を袖にして、他の得意先に持っていってしまうのではないかという疑心暗鬼に陥ってしまった。
そのような折のことであった。近善はある日、道具を包んだ風呂敷を抱えて名古屋から帰京する夜汽車に乗り込んだ。そして、豊橋のあたりにさしかかったときである。大阪から帰京する途中の紅艶が偶然にも同じ汽車に乗り合わせており、便所に向かった。そして思いがけなく、近善と彼が携帯していた道具の風呂敷包みを発見したのである。
さては、いよいよ思ったとおりのことが起きてしまったと思った紅艶は、列車中に響き渡るような大音声で、「見つけた、見つけた」と怒鳴りながら、近善の首筋をつかみ、猫の子でも吊るしあげるように、風呂敷包みもろとも、隣室の自席(注・コンパートメントがあったのだろうか、それとも隣りの車両のことか?)まで引き摺っていってしまった。
同乗していた旅客たちは非常に驚き、近善のことを、てっきりスリだと思ったらしい。どうりで目つきの険しい男だったと思っていたが、さては、あのでぶでぶした男の風呂敷を掏り取ったに違いない、おのおのがたは、何か紛失物はござらぬかと、上を下への大騒ぎになったという。
やがて近善がもとの席に戻ってきたあとも、みな警戒を解かず、とうとう彼はスリにされてしまったということだ。
新発明の湯たんぽの破裂
紅艶の汽車の中での珍談には、さらに振るっているものがある。
彼は大正初年の冬、加賀金沢の道具入札会に行こうとして、上野駅(原文「停車場」)から、寝台車の二階に乗り込んだ。
彼は、大仏といわれるくらいの大兵の肥満体だったので、二階に何度も昇ったり降りたりするのが不便だと、前々から用意してあったゴム製の小便袋を携帯していた。その小便袋は、用便のあとには、湯たんぽに変身するという彼の新発明もあって、彼は「寒中の旅行は、これに限りやす」と得意がっていた。
さて汽車が高崎あたりを通過したころ、彼が寝返りを打ち、ゴム袋を尻の下に敷いた。その途端、袋が破裂して、寝台は大洪水となってしまい、着ていたものもびしょ濡れになってしまった。
さすがの紅艶もいたたまれずに、汽車がやがて軽井沢に着くと、同伴していた店員に助けられてプラットフォームに飛び出した。そこの洗面場の水を、衣服の上からザアザアとかけ、ちょっと絞っただけで、もとの寝台に立ち戻り、平気で寝込んでしまった。
翌朝金沢に到着したときには、からだの熱で、みごとに衣が乾きあがっていたとは、紅艶ならではの人に真似のできない珍芸で、話を聞いた人はみな鼻をつまんだという。
警句とポンチの天才
紅艶は、近善に行ってめぼしい道具を買い取るときはいつも、紙切れにその道具の絵を描き、横に代価を書き込んで伝票がわりにし、それを多聞店のほうに持ってきてもらうという習慣があった。
あるとき、仁清(注・野々村仁清)の茶碗を五十円で買い取り、例によって紙片にその図を描き、その横に、
仁清わづか五十円、二十五円は直(注・すぐ)でくさし
と書きつけた。
これは、「人生わずか五十年、二十五年は寝て暮らし(注・桃中軒雲右衛門の浪花節。「朝寝十年うたた寝十年残り五年を居眠りすれば人生しまいにゃゼロになる」と続く)」のだじゃれ(原文「地口」)であり、紅艶の生涯中でも一番の傑作だった。彼が死去したときには、香典返しの袱紗に、この文句が染め出されたが、それなども、いかにも故人にふさわしい、しゃれた思いつきだった。
また明治四十(1907)年ごろであったか、名古屋の道具数寄者であった織田徳兵衛老が、私の寸松庵で同席した誰かと濃茶茶碗を品評して、萩焼か、唐津焼かとあれこれ考えていた。そのとき紅艶が横から口を出し、「鷺を烏と争うのでゲスか」という洒落を言った(注・さぎ=萩、からす=唐津)。すると織田老は、茶室で洒落を言うとはけしからんと非常に不満の色を表わしたのであるが、相客一同は喝采し、その傑作を賞讃したものだった。
またあるときには、長唄研精会(注・明治35年に結成された長唄演奏会。112・長唄研精会来歴を参照のこと)で、「長唄の囃子というのは古い妾のようで、あれば煩わしいが、なければ淋しい」と評し、まわりにいた人たちは、いかにもその通りだとうなずいたものだった。
さらに、紅艶の頓智の才能は、口舌だけに限ったものではなく、ポンチ画を描かせても、また独特の才能を発揮した。令兄である鈍翁(注・益田孝)や、山県老公などの似顔絵には、実に非凡の傑作がある。
しかし天下一品というべきものは、彼が日光遊覧中に小西旅館に泊まったときに描いたものだ。
泥棒の用心に、ということで、紙入(注・財布)を花生(注・花瓶)の中に隠した椿事を、みずからポンチ画にして、詞書を添えたものである。
最初は、大兵肥満で近眼眼鏡をかけた大入道が、花生の中に紙入を隠している図、次は、その花入の中に水が残っていて、入れた紙入がびしょ濡れになったところ、その次は、濡れたお札に火熨斗(注・ひのし=炭火を入れて使うアイロン)をかけて、「これなら大丈夫、使えるな」と、ニコニコして喜んでいるところの図。
それを順番にたどって描いた巧妙さは、プロの画家も顔負けであったし、自分を上手に滑稽化して描いた、自画像の見本のような出来ばえだった。
このように、この方面での彼の頓才(注・臨機応変な頓智)は、彼の警句とともに、まだまだほかにも語り伝えられている。それらについては、またのちに記述することにしよう。
百六十 高野山霊宝館の発端(下巻45頁)
私は明治四十五(1912)年から趣味に生きる人間になったので、美術、工芸、文学に関する各種の事業において、みずから進み出たり人から推されたりして奔走することになった。そのようなもののひとつに、同年の六月から発足して約十年後にようやく完成した高野山霊宝館の建設事業がある。
そもそもこの事業は高野鉄道の発起人である根津嘉一郎氏らが、この鉄道を繁昌させる方策として高野山に宝物館を設けようと提唱したことに始まる。ひとつには一般人に観覧の機会を与えようということと、もうひとつには火災の危険を防ぐ必要があると提唱したのである。弘法大師の信仰者であり、また同山の宝物の真価を知り尽くしていた益田孝、朝吹英二、高田慎蔵の諸氏が賛成し、彼らが私に趣意書の起草を非常に熱心に依頼されたので、次のような大要の一文を作りその求めに応じることになった。これが高野山霊宝館の建設のはじまりだった。
高野山霊宝館建設趣意書(注・旧字を新字にあらためたほかは原文通り、なお、「萬象録」明治45年6月29日にも同趣意書が掲載されているが、文言が微妙に違っている。後者は、たとえば「本邦名刹はと問ふ者あれば人先づ指を高野山に屈せん」で始まっている)
人あり若し本邦の名刹を問ふ者あらば、必ず先づ指を高野山に屈せん、此一事開山大師の徳業が、如何に当山に集中せるやを示すと同時に、之を永遠に保存するの必要も、亦自づから明白ならん、而して此保存事業中、即今一日も捨て置く可からざるものは、高野山霊宝館の設立即ち是れなり、由来当山の宝物は、大師の唐朝より請来したる書画、法器、歴代聖僧の手に成れる仏体、仏具、各種の図像、詔勅、官符、衣裳、刀剣、凡百器具書類に至るまで、歴史に於て信拠すべく、法儀に於て尊重すべく、美術に於て鑑賞すべき者にして、既に国宝に指定せられたる者、百数十点の多きに及べりと云う。然るに此等の宝物は、総本山たる金剛峯寺の所管に属する一部分の外、或は各寺院、或は各個人の名義に属して、統一集中の道を得ず、第一火災、第二湿汚の危険あるのみならず、其取扱の不完全なるが為め、毀壊相継ぎ、遂に宝物たるの真価を失ふの恐なしとせず、聞くが如くんば高野鉄道は、早晩其工程を進めて、汽車の山頂に往来するに至るも、亦応さに(注・またまさに)遠からざるべしと。果して然らば、山上の人煙更に加り、参詣の群衆更に倍する事必然にして、此際因て生ずべき不慮の災難を防ぎ、因て要すべき観覧の便宜を謀り、茲に高野山宝物館を当山内に設立するは、豈に焦眉の急事業にあらずや。是れ啻(注・ただ)に祈願報恩の為めのみにあらず、今後永く大師以下諸名僧の遺烈を仰ぎ、又平安朝文献の余影を留め、本邦歴史文学美術の参考に資する所以にして、其関係する所重大なりと云ふべし。大方の諸賢、冀(注・こいねがわ)くは某等の微志を賛助せられ、速に浄財を喜捨して此発願を成就せしめ給はんことを、熱願渇望の至りに堪へず、某等敬白。
明治四十五年六月吉祥日
この趣旨については、高野山金剛峰寺の管長、密門宥範大僧正らももちろん大賛成で、宝城院住職の佐伯宥純師を全権委員に任命し、いよいよ資金勧化にとりかからせた。佐伯師は、僧侶の中では稀に見る敏腕家で、しかも非常に熱意をもってこれに当たられたので、事業は非常に進行した。
ところが大正七(1919)年七月に上京のおり、腸チフスにかかり突然遷化されたので、ここでいったん頓挫することになった。その時、馬越恭平翁は非常な義侠心を発揮し、この事業を完成させなければ死んだ佐伯師に対して合わす顔がないとして、私と野崎広太氏を補佐役にして、三人が協力して資金を募集することになった。
当時は好況な時代だったので、諸大家の蔵器入札会が頻繁に行われたのを幸いに、その入札に関係した札元などを説得して、その手数料の一部を何度も喜捨に回してもらった。そしてとうとう十二万円ほどの資金を集めることに成功したので、今回は、最初から縁故が深かった益田孝、朝吹英二、馬越恭平、根津嘉一郎、原富太郎(注・三渓)、野崎広太と私の七名が、不足分を各自七千円ほど出し合って建設費の十七万円とし、さらに高野山から補給された十万円余りと合わせて霊宝館建設に着手した。
木材はすべて高野山から伐り出したため費用を大きく減らすことができ、結果としては五十万円程度で霊宝館ができ上ったのであった。
なお、佐伯師遷化のあとは、金剛峯寺執事の藤村密幢師【のちに大僧正大覚寺門跡】がかわって尽力し、大正十(1921)年五月十五日に、ついに開館式を挙行することができた。この開館前後の様子についてはまた後段において叙述することにしたい。(注・261「高野山霊宝館落成式」を参照のこと)
百五十 茶道十六羅漢(下巻7頁)
私は明治四十五(1912)年の初めから無職自由の境涯にはいり、もっぱら茶事風流に没頭することとなった。
そのころまでには東京に茶道の古老大家がうち揃い、いたるところで茶煙が上がっていた(注・茶道が興隆し茶会が開かれていた)。
例の和敬会という順会(注・会員宅で順番に開く会)なども、十六人の定員が満員の盛況ぶりだったので「十六羅漢会」の異名で呼ばれていたが、その会員の顔ぶれは次のとおりであった。(注・90に関連記事あり)
東久世通禧伯爵 竹亭(注・みちとみ)
久松勝成伯爵 忍叟
松浦 厚伯爵 鸞洲(注・まつら)
石黒忠悳子爵 况翁(注・ただのり)
伊藤雋吉男爵 宋幽(注・しゅんきち)
三井八郎次郎男爵 松籟(注・三井南家高弘)
三井高保男爵 華精
益田 孝男爵 観濤(注・かんとう)
安田善次郎氏 松翁
馬越恭平氏 化生
瓜生 震氏 百里
青地幾次郎氏 湛海
吉田丹左衛門氏 楓軒
竹内専之助氏 寒翠
金澤三右衛門氏 蒼夫
高橋義雄 箒庵
十六羅漢は上の通りであったが、一月四日(注・上に同じく明治45年)に東久世通禧伯爵が八十歳で薨去されたためひとりの欠員が生じた。その補充として、加藤正義【欽堂】氏に白羽の矢が立ち、十六羅漢が再び満員になったことは、東都の茶道界のためにまことに喜ばしいことだった。
ところで、これらの茶人のことを十六羅漢と言い始めたのは、例の富永冬樹氏(注・84「富永の毒舌」を参照のこと)だった。「和敬会の連中は、どれを見ても羅漢面だね」と言ったのが、ついに異名になったのである。
これより以前、氏は本所の横網に新居を造り、吉野吉水院の書院写しの茶室を作った。その新築開きに十六人の客を招き、これを十六羅漢に見立てた。大倉喜八郎男爵に鶴彦尊者、益田克徳氏に克徳尊者、また私には高義尊者などという席札をつけて、托鉢坊主の鉄鉢形応量器(注・てっぱつがたおうりょうき。飯鉢のこと)で、客にインド式の斎食(注・さいじき。食事)を配膳されたことを思うと、富永氏は、よくよく羅漢に因縁のある人なのだろう。
このときに招待された人たちは、富永の新築開きとあっては、例の口の悪さに合わないためには大いに奮発しなくてはならないと、いずれも喜捨物(注・お布施)をはずんだ。すると益田英作(注・益田孝、益田克徳の末弟)氏がそれを見逃さず、こっそりと新築費用と喜捨物の評価計算に着手したところ、喜捨物のほうが、はるかに新築費用を越えていたという結果が出た。そのとき、飄逸なる克徳尊者は突然立ち上がって一座を見回し、「諸君、ひとつできましたから、ご批評願います」と言って、
「主人は欲阿弥陀(横網だ)、お客は皆尊者(損じゃ)」
と披露したので、さすがの富永氏も例の気焔はどこへやら、ただ微苦笑を洩らすのみだった。
十六羅漢について、このような因縁のある富永氏が、和敬会員に対して十六羅漢の称号をつけたことはまことに不思議な巡り合わせなので、ここでその由来を記録しておく次第である。
東久世通禧伯(下巻9頁)
東久世通禧伯爵は、和敬会十六羅漢の白眉(注・特別にすぐれた存在)であった。伯爵は維新前、幕府の圧迫を逃れて京都から立ち退かれた、かの七卿の一人で、その勤王尽国の事跡は歴史にはっきりと刻まれ(原文「炳焉(へいえん)として青史に在り」)、余技である詩歌、管弦、書道などでも、またそれぞれの特長を持っておられた。
茶人としての伯爵は、まことに真率洒脱(注・飾り気がなく洗練された)で、器具の品評をするでもなく、その組み合わせを研究するでもなく、淡々として湯を呑むがごとくに、物にこだわらない流儀だった。
しかし生け花には深くこだわりを持ち、自邸に各種の植物を植えた。椿などは、ほとんど十数種類に及んだそうだ。
明治四十一(1907)年ごろから、伯爵はしばしば私の寸松庵(注・高橋の一番町邸にあった茶室)におみえになったが、たいてい静淑(注・物静かでしとやかな)で上品な伯爵夫人を同伴された。
その客ぶりは、いたって平民的で、談笑中には時々、諧謔(注・気のきいた冗談)などもまじえられた。寸松庵の露地や庵室が、いかにも質樸(注・素朴)で古雅(注・みやびやかな)なので、自分が京都にいるような心地がするといって、とても愛されたのであった。
またあるときには、七卿が西に下ったのち太宰府にあって、しばらくさすらいの身となられた時のことに話が及ぶこともあった。初めて会ったときから旧知のようで、宮中(原文「雲井」)に近い身分の方に対座しているように感じられなかったことは、非常に奥ゆかしい限りであった。
公卿から華族になった方には、もともと、案外率直で質素で平民的な態度の人が多いが、伯爵などは、そのなかでももっともその気風を代表する一人であろう。その痩せぎすで、あまり風采のあがらない中に、なんとなく深い印象を秘めていた。
伯爵の薨去後に、たまたま寸松庵に出入りすると、伯爵が悠揚として(注・ゆったりと)正座されている面影が、ありありと眼前に現れるような心地がしたものだ。私は追憶のあまりに次の二首を口ずさんだ。
とはれにし葎の宿に思出の 種をのこして君逝きぬはや
国の為心づくしの物がたり 聞きしも今は昔なりけり
百四十六 王子製紙の二年半(上巻506頁)
私は明治四十二(1909)年の秋、三井を代表して王子製紙会社社長に就任することになった。そのいきさつを記す。
明治四十(1907)年、益田孝男爵が三井三郎助(注・小石川三井家高景)とともに欧米諸国を巡回して商業大家の情勢を調査し、帰国後に三井営業店の組織変更をすることになった。その結果、人員のやりくりの関係で、それまで三井鉱山理事だった私が、王子製紙会社の社長に任命されたのである。
そもそも王子製紙会社は、明治初年に政府の事業として成立している。その後、日本の新興事業の発展に全力を注いだ渋沢栄一子爵が継承し、谷敬三氏を社長に、大川平三郎氏を技術長として一時は相当の成績をあげた。
明治二十五(1892)年ごろには三井の所有株が多数を占め、また融通資金も巨額にのぼったので、中上川氏が三井に引き取り藤山雷太氏に経営の任に当たらせた。
ほどなく鈴木梅四郎氏がそのあとを継ぎ、北海道官有林の木材で新聞用紙を製造するため苫小牧に分工場を設けた。そこでは支笏湖を利用し、水力発電事業を計画し、取締役の前山久吉氏が現場監督の任に当たっていたが、三井の出資はおよそ一千万円以上にのぼっていたので、三井家において、この際私を社長にしてこの計画を完了させようとしたのである。
このとき私は四十八歳で、三井家に奉公してから早くも十八年が経過していた。本来私は文筆の世界に生息するべき人間だと自覚していたので、五十歳になったら実業社会から身を引くことが、この社会に身を投じた最初の時からの予定だった。ところが王子製紙会社の苫小牧工場はこれから二年半で落成するという計画だったので、この仕事を私の最期の奉公にして、工場が完成次第、実業界から身を引くということを思いつき、こころよく任命を承諾したのである。
このような次第で、私が王子製紙会社社長になってから、明治四十四(1911)年末に、今の王子製紙会社社長である藤原銀次郎氏を後任として同社を辞し同時に実業界を退くまでの期間は、約二年半だった。
苫小牧工場の建設監督には前山氏が、製紙機械の据え付けには現在重役である高田直屹氏が当たった。アメリカから製紙技術者一名を雇い、みごとな新聞用紙を生産できるようになった。
その一方で、山上に周囲四里(注・一里は約4キロメートル)の湖水をたたえ、一か所だけに落下口があるという水力発電にとっての天然の利を持つ支笏湖において発電事業が完成した。これは、王子製紙会社の基礎を盤石にするものであったと思う。
さてこの事業が完成した明治四十四(1911)年の夏、当時皇太子でましました大正天皇が北海道に行啓された。宮内大臣の波多野敬直子爵、北海道長官の石原健三氏らの随行で、苫小牧工場に台臨(注・皇族が来ること)の光栄をたまわったので、私は社長としてつつしんでご案内の役目を勤めた。
私は明治三十二(1899)年ごろ、皇太子殿下が富岡製糸場に行啓されたとき、三井源右衛門(注・新町三井家8代高堅)氏とともにご案内申し上げたことがあった。そのときには、ほかにご覧にいれるものもないので、製糸場の一室に生糸を積み上げ富士山の形にしたものを用意したところ、殿下が物珍しくご覧遊ばされたことがあった。今回再び殿下をご案内申し上げることになったのは身に余る光栄で感激の至りにたえなかった。
殿下は新設の工場をくまなく御巡覧遊ばされ、第一室では木材が機械で粉砕され、次室ではそれがたちまち抄紙(注・紙をすく)台の上に流れ出て、やがて純白の新聞用紙になる様子を興味深く思われたようで、いろいろなご下問があった。その晩は工場内のクラブにおいてご一泊されたので、私は次のような腰折(注・へたくそな和歌と謙遜するいいかた)を懐紙にしたため、畏れ多くも殿下の台覧の記念にしたのである。(注・原文では「涜(けが)し奉る」)
白妙にすき出す紙を時ならぬ 蝦夷の雪とやみそなはすらむ
このような次第で、王子製紙会社の心臓ともいうべき苫小牧工場ならびに支笏湖水力電気事業が完成したのは明治四十四(1911)年の上半期の終わりだった。その下半期において、私はいよいよ引退の決心をした。
後任者については、当時本社の事業に大きな関心を持たれていた井上世外侯爵や三井幹部の意向を察して藤原銀次郎氏が適任であるということになり、私をはじめとするそれまでの役員は総辞職し、藤原氏を新社長と組織する新内閣が組織された。
藤原氏はそれまで三井物産会社の小樽支店長を勤め、北海道の木材の海外輸出事業などに当たっており長年の経験を積まれていた。その実業的な才覚で着々と本社事業を拡大して、今日見る大会社を作り上げたのであるが、私がわずかな期間なりとも足跡をとどめた会社がますます隆盛を誇っているのを見るのは、まことに欣快の至り(注・気分がよい)である。
百三十四 和歌修業の端緒(上巻463頁)
私は十歳ごろから古歌を記憶するようになり諷詠(注・詩歌を作ること)もすることがあったが、特に師について学んだことはなかった。ところが明治三十九(1906)年七月の下旬に益田鈍翁の鵠沼の別荘で山県有朋公爵と同宿し、主人と三人鼎座して話題が歌のことに移ったとき、公爵は詠歌に関する感想を述べられ「俺の父は国学者で、おりおり和歌を詠んだので、俺もその感化を受けて少年時代より和歌を好み、維新前、国事をもって京都に赴いた時、詩歌入りの『葉桜日記』を物した(注・書いた)こともあり、その後も折に触れて和歌を口ずさむことがあるので、近頃は小出粲【つばら】翁に添削してもらうことにした。君ももし歌を習うつもりならば、一度小出翁に逢ってはどうか(原文「如何」)」と言われた。
私はもともと歌が大好きで前から習いたいと思っていたところだったので、「仰せに従い、さっそく小出翁に入門して、おそまきながら稽古してみましょう」と答えると公爵はとても喜び、君がそのつもりならば、近日、俺が小出に引き合わせてやろうということになった。
こうして十日ほど過ぎたある日、公爵から小石川水道端町の別宅に招かれた。夕刻から参上すると、相客は田中光顕伯爵、鳥尾小弥太子爵、小出粲翁、井上通泰氏などの大家ばかりであった。
この別宅は、新々亭【さらさらてい】という名で、公爵が貞子夫人のために建てた(原文「構築した」)ものだった。庭は益田無為庵(注・益田克徳)と老公とが相談して造られ、神田上水が南下がりの庭を流れ去って池に注ぐという趣向だった。公爵には次のような歌がある。
さらさらと木隠れ伝ひ行く水の 流れの末に魚のとぶ見ゆ
当時は日露戦争のあとだったので、日本の国運が末広がりに発展するようすを示されたものらしく、その晩、池辺に焚かれたかがり火が青葉隠れにちらちらと水に照り添う光景を眺めながら、一代の歌人と政治家が風雅な談話を交換するという、非常に愉快な会合だった。
このとき私は、主人である公爵の紹介で初めて小出粲翁に対面した。翁は旧小浜藩士で、酒が好きなせいか鼻の先が赤く、目は象のように細く優しく、このとき七十三歳だったが、座談に長じて非常に快闊(注・快活、さっぱりした)老人と見受けられた。
この晩もいろいろな話をしたが、歌というものは、いつも思っていながら、ちょっと口に出せないようなところを言い表すのが妙所(注・表現できない味わい)で、小池道子(注・明治、大正期の御歌所歌人)の「程ふれば忘るるばかりの憂きことを嬉しく人にいはでやみにき」などは、そのよい一例であるなどと語られた。
こうして私は、山県公爵の厚い心遣いを感じ、二、三日後、水道端町の小出翁の閑居をみずから訪ね、「小出大人【うし】の和歌を乞はんとて詠める」という歌二首を持参して添削を願い、その日から贄(注・にえ)を取ることになった。(注・小出翁に入門した、の意であろう)
そのとき翁は、歌人になった来歴をみずから語ってくれた。「自分は少年のころ漢学を学び、好んで詩を作ったが、その後、歌を詠むことを習い、試作数十首をある歌人に示したところが、お前は自然の歌口があるから、歌を詠めば必ず上達するぞと言われたので、これより別段師匠にもつかず、ほとんと独力で勉強したが、本来、人には歌口というものがあって、学問の有無にかかわらず、詠み出づる言葉が、自然に歌になる人は、いわゆる歌口を持っている者である。ゆえに自分は歌を学ばんとする人に対して、まずその詠んだ百首ばかりを持参せしめ、その中にひとつでも二つでも歌口の調子があればよし、もしそれが見当たらなけれは、遠慮なく教授を断るのである。とにかく兼題(注・前もって与えられる題)をお渡しするから、ひとつ詠んで見られるがよろしい」ということで、船納涼、林蝉、蚊遣火の三題を渡された。
それから私は、翁が組織していた梔陰社【しいんしゃ】という歌の会に入り、その当座はなかなか勉強したものだ。
明治三十九(1906)年の末に、翌年の御勅題が「新年の松」というので、そのころ日露戦争がめでたく済んで日本は一等国となり、世間の景気も非常によいというめでたいことばかりが重なっていたので、私は、
よろづ代を経し老松もかくばかり 目出たき年はむかへざりけむ
と詠んで小出翁のもとに持参したところ、稽古が浅い割には、なかなか面白い詠みぶりだといって思いのほかの賞賛をいただき、それから先、私の一番町宅で、たびたび梔陰社の例会を開くことになった。
私の亡妻の千代子も会員に加わり詠歌の稽古をすることになったが、あるとき「森鶯」という題で、
鈴の音もたえて聞えぬうぶすなの 森の木がくれ鶯のなく
と詠み、そのときの秀逸となったことがあった。
これが私の歌道修業の端緒(注・はじまり)であるが、師匠についてからまだ二年とたたないうちに小出翁の物故にあい、たちまち良師を失ってしまったのは、まことに残念の至りであった。
百三十二 金色平沼の真相(上巻456頁)
明治時代に横浜に盤踞(注・ばんきょ。根を張ること)して、その屈指の富豪と呼ばれた平沼専蔵は、一時、高利貸しだの華族倒しだのと非難された挙句、その高利貸し問題でとうとう獄舎の人となるに至ったので、「彼のように世間から爪はじきになっては、金持ちといっても、ちっともその甲斐がないではないか」と言う人もあったが、とにかく、天秤棒一本から何百万円の大身代に成り上がったその粒々辛苦を察しないで一概に悪魔視することを、私はしない。
彼の金だって、やはり日本国の富の一部で、いかにたくさん貯まったとしても別に卑しむべきものでもなかろう。
昔から日本には金を貯める者を卑しむ習慣があって、ややもすると、これを守銭奴と罵る者も多い。しかし金を貯めるのもまた、一種の趣味であろう。
世間では往々に、あの男は子供もないのにむやみに金を貯め込んで、死んだあとにどうするのだろうというようなことを聞くが、この種の人物は金を貯めること自体が無上の趣味で、魚を釣る人が、釣るのがおもしろいので、その魚を食べるか食べないかは別問題であるのと同じく、金を釣る趣味がある人は、釣った金が貯まっていくのがこのうえもない道楽なのである。平沼氏などは、もっともこの種類に属する人なので、あまりに彼を憎悪するのはおそらく偏見ではないかと思う。
わたしは明治二十二、三(1889~90)年ごろ横浜貿易新聞を監督した関係上、平沼氏と知り合いになり、会えば時候のあいさつをする程度の懇意になった。
例の高利貸し問題で入獄した平沼氏が、ようやく娑婆の風に吹かれた当時、私は品川の益田孝男爵を訪問する途中に、新橋、品川間の汽車の中で平沼氏に邂逅したので、「貴方は先ごろ、とんでもない災難に出合われたそうだが、本来、東京だの横浜だのは、貴方のような商人の住むべき場所ではあるまい。納得ずくで金を借りながら、そのあとで貸した人を憎むというのは、借りた方が卑怯である。仮に貴方が大阪にでも住んでいたら、岡橋治助翁のような、貴方に一層輪をかけたような豪傑が控えているから、貴方などは一向に目立たず、したがって人からの指斥(注・非難)も受けなかっただろう。貴方はもはや関東を見限って、河岸を関西に替えたほうがよろしいのではありませんか。」と冗談半分に話したところ、平沼氏は、ただ「なるほどな」と言ったばかりで、別に異存も言わなかった。
私はその足で益田邸に赴くと、富永冬樹(注・益田孝の義兄)氏が来ていたから、たった今汽車のなかで平沼氏とかくかくしかじかの話をしてきたと語ると、富永氏は例を毒舌をふるい、「それは平沼が頭を横に振っただろう、なぜなら、大阪には華族がいないではないか」と言って呵々大笑するのだった。
私と平沼氏とは、このような通りいっぺんの関係だけであったが、明治四十三(1910)年ごろ、平沼氏が非常に大きな菓子折をたずさえて私の一番町宅を訪ねてきた。なにごとだろうと怪しみながら来意を聞くと、彼が抵当に取った木材を王子製紙会社の製紙用材に使ってくれないかという相談であったので、一応その用談を片づけたあと、かねてからきこうと思っていた彼の立志談を話してもらった。その大要を次に記す。(注・一部をわかりやすい表現にかえた)
「私は若年のころ、渡邊治右衛門のところで奉公しておりましたが、身体が強壮なので、非常な勉強家(注・勤勉な人)でありました。酒はもとより飲まず、朝飯は味噌汁と煮豆を菜(注・おかず)にしてすまし、朝は四時ごろから起き出して、井戸端で水を浴び、神信心をすましたあと、夜遅くまで働くというところを主人に見込まれ、少し元手ができたので、そのころ黒船が横浜に来て石炭を買い取るのを幸いに、茨城地方から常州炭を仕入れ、小船で横浜に廻送し黒船に売り渡すのです。当時天保銭二枚くらいで仕入れた一俵の石炭を一朱で売ることができたので、実におもしろい商売でした。またそのころ生糸輸出が始まって、間もなく一時幕府でそれを禁止したとき、私は生糸を石炭箱の中に入れ、その上に石炭を盛り上げて外国人に売り渡し、これでは大儲けをいたしたのであります。」
と、平気で秘密を語ってしまうところに、平沼氏の面目躍如たるところがあった。
彼は一時伊藤博文公爵に接近して、その愛顧を受けたこともあり、その後、彼が従五位に叙せられると、従五位ということが、なにやら彼を卑しむ一種の標語であるかのようにききならわされたこともあるが、このような平沼氏から私は菓子折ひとつを貰いっぱなしになったままで、今でも気の毒に思っている次第である。
百十八
日露戦争の衝動(上巻408頁)
維新後六十年余りにおいて何が一番激しく日本国民にショック(原文「衝動」)を与えたかといえば、誰もが異口同音に日露戦争と答えるだろう。
しかし、その心配が一番強かったのはむしろ宣戦布告までのあいだで、旅順襲撃の口火が切られてからは、皇国一体、死なばもろともと覚悟したためか度胸が据わり、かえって気持ちが軽くなったようである。とはいえ実地戦局にあたっての国運を双肩にになっていた軍人の心境は、はたしていかなるものだったろうか。私はそのことを思うたびに、粛然として感激の念に打たれるばかりだ。
日露戦争が、幸いにも海陸ともに勝利を得たからよかったものの、もし反対に敗北していたら、わが国は果たしてどのようになっただろうと想像すると今でも身の毛がよだつような感じがする。
明治三十八(1905)年奉天戦争の直後、児玉(注・源太郎)大将が政府の要人と相談するためにしばらくのあいだ帰京されたとき、三井家のひとびとは慰労の気持ちを表すために、ある晩伊藤博文公爵らとともに大将を三井集会所に招待したことがあった。
そのとき児玉大将が洋館の広間に入ってきてキョロキョロと席を見回したその目を見ると真っ赤に血走り、神経が極度に興奮している様子がうかがわれた。彼が日露戦争の参謀長としていかに心労したかを如実に物語っていた。
当時奉天戦の前後の様子を熟知していた軍人から私が聞いたところによれば、総司令官の大山(注・巌)元帥は、奉天戦がいよいよ迫ってきたときになっても泰然として、まったく動じる気配がなく「勝戦のことは、児玉さんに任せてあるから、俺どんは何も知らないが、しかし敗戦となったら、俺どんが出て引き受けるつもりだよ」と呵々大笑(注・高らかに笑う)されたということである。皇国の興廃を決める大戦を前にして、大山元帥の沈着ぶりはいかにも見上げたものであるが、その作戦の全責任を負っていた児玉大将の心労は、はたしてどのようなものであっただろう。大将がその後まもなく脳溢血で急死したのは、まちがいなくこの過労の結果で、完全に国に殉じたといってよいだろう。
その急死について杉山茂丸氏の語るところによると、当時杉山氏は大将に報告することがあって大阪から参謀本部に電報を打ったが、その文言に諧謔(注・冗談)をまじえてあったのを大将はベッドの上に寝転んだまま読み終わり、大笑いしたその瞬間に溢血(注・いっけつ=出血)したので、電報用紙を片手に大口を開いて、笑ったまま死んでいたのだそうだ。
とにかく、この戦争の最初に国民の心配の程度が大きかった分、吉報が来るたびに喜ばしかったその度合いは無類に大きかったものだ。このような気分は、この大事件に直面した人でないととうてい感じることができないだろうと思うので、ここに書き残しておく次第である。
戦後の気分(上巻410頁)
日露戦争が国民に与えた衝撃が特別に大きかった分、戦後の気分は、口では言い表せないほどにのどかなものとなった。とくにこの戦争中に参謀総長であった山県有朋公爵などは、その双肩にかかった重荷をおろした心地がして、さぞかし愉快な気分になったことだろう。
明治三十九(1906)年七月下旬、大磯の別荘である小淘庵にいた山県公爵は、ある日夫人同伴で鵠沼の益田別荘に来遊された。私は主人の鈍翁に誘われて公爵と清談(注・趣味、芸術、学問などのおしゃべり)をともにしたあと、とうとう別荘に宿泊することになってしまったが、翌朝公爵は寝室にあてられていた二階の窓から富士山を見て、
目なれてもめでたきものは朝窓に おちくる富士の高根なりけり
という和歌を詠まれた。そのとき私が公爵に対して非常に強く感じたのは、そのきわめて謹厳な態度のことなのである。私たちは別荘に滞在しているのだから、風呂上がりには着流しに三尺帯などを締めているのだが、公爵はいかなる場合においても袴をつけていないことがなく、談話がどんなに長くなっても脇息に寄り掛かるくらいで膝ひとつ崩さないのである。これは持って生まれた人格というもので、努力しなくてもこうなるのだろうと思われた。
このとき公爵には、小田原に隠居所である古稀庵を造る計画があった。明けて四十(1907)年の一月に私に手紙が届き、その後私がご覧にいれた家屋の図面が非常に気に入ったということ、また小出粲、高島九峰のふたりが来訪したので、新年の歌を二、三首詠みだされたことなどが書かれており、末尾に次に二首が書き添えられていた。
去年も来て遊びしところ年立てば また新しき旅路なりけり
つづみ打つ声面白し万歳の うたひ出でたる門松のかげに
日露戦争後、古今にも稀なるおめでたい新年を迎え、門松のかげに万歳(注・まんざい芸人)の鼓の音を聞くのどかな気分は、私たちの生涯で二度と感じることができないものではないかと思う。
百十五 茶人失策談 下(上巻397頁)
茶人のナンセンス珍談はいくつもあるのだが、あまり一度にご覧にいれると食傷気味になるかもしれないので、次の一篇をもって、しばらく打ち切ることにしよう。
掛物の売り損ない
故益田紅艶(注・益田英作)は多聞店という道具店を経営していたほどだから、相手を見ての道具を売りつける呼吸には、なんともいえない機敏さがあった。
彼は、松平不昧公が、大阪の道具商の戸田露朝の先々代にあたる宗潮をある大名に紹介した手簡(注・手紙)を所蔵していたので、これを茶席に利用し露朝にうまく売りつけようとたくらんだ。そこであるとき大阪の紳士茶人連とともに露朝を茶会に招き、その不昧公の消息文(注・手紙)を掛けた。その文になかに、
「谷松屋宗潮と申す者、大好事家にて随分御用も弁ずべく大方目も利き申候、但し左る怖ろしき風聞の男に御座候間、必ず必ず御油断遊ばされ間敷候云々」(注・大意は、「宗潮は目利きだが、悪い噂があるので、絶対に油断しないでください」)
とあった。この掛物を見た同席の茶人が、「怖ろしき風聞の男」という文句に驚き、胸にぐっと警戒心を抱いたらしいことを戸田が見て取って、なんとも迷惑なことだと思った。そんなことも知らずに主人の紅艶はひとり大得意で、今日のようにぴったりとはまった掛物はふたつとないだろう、殿様の中でも油断ならない不昧公が、宗潮をおそろしき男だと畏敬しているこの手紙は、戸田に対する不昧公の感状(注・上位にある者が下位にある者の功績に対してあたえる賞賛の書きつけ)とみるべきものなので、戸田家における伝家の宝にしないわけないはいかないはずで、茶事がすんだら、代金は問わず、是非とも譲り受けさせてくださいと申し出てくるだろうと待ち受けていた。しかし戸田から音沙汰がないのを不審に思い、内々に大阪方面を探ってみると、戸田は、自分のお得意様の前で、あのような手紙を掛けられたことを非常に迷惑がっているというので、紅艶はハタと思い当たり、あの掛物は、掛ける前に売ってしまえばよかったのだと、おおいに後悔したという。
藪蛇庵の命名
益田紅艶には茶事の上での数々の珍談がある。その中のひとつは次のような話だ。
あるとき紅艶は、小田原と箱根の中間にある風祭というところに非常に安上りの茶室を作り、それまでの長いあいだに借りがたまってしまっていた茶債(注・返礼の茶事のこと)を償おうと思い立ち、ほうぼうの名家を招待した。
さてその茶室がどのようなものであったかというと、風祭神社に隣接している竹やぶのなかにニョキニョキと立ち並んでいる大竹を柱にして臨時の茅葺きをした茶室を作り、周囲に蛇がのたくったような一筋の流れを作ったものだった。その流れの中に置いた新しい手桶を当座のつくばいとし、席中には大囲炉裏を切って窶れ釜(注・やつれがま。口縁部に欠けがある)を掛けた。また、田舎家風の張りまぜ屏風に、さまざまなポンチ画が貼り付けてあった。その中には来客のポンチ画も少なくなく、山県椿山公の歯をむきだした漫画などもまじっていたので来客一同は抱腹絶倒し、とうとう椿山公までも引っ張り出して、その漫画をお見せすることになった。
そのときの紅艶は有頂天になり、「どうか、庵の命名と、その扁額のご染筆を願いたい」と所望した。公爵は即座に快諾されたので、紅艶は、きっと風雅な庵名をつけてくださるにちがいないと一日千秋の思いで待っていた。
ところが公爵から贈られてきた扁額を見てみると、なんたることか「藪蛇庵」という三字が書いてあった。せっかく公爵から賜ったものを採用しないわけにもいかす、なまじっか公爵などに命名を頼んだものだから、かえって藪蛇になってしまったと、その後二度とふたたびこの庵室を使わなかったそうだ。
無関税の名銅器
益田鈍翁が日露戦争後間もなく、故三井三郎助(注・三井高景)氏らとともに清国の巡遊を思い立ち、長江沿いから北京に行き、やがて長崎に帰ってきたときのことである。
ひとつ非常に気懸かりなことは、シナの某大家から出たという古銅の花入を買い求めてきたが、長崎税関を通過するにあたり、出どころは名家、買い手は鈍翁、というこの品物を、税関ではどれほどの評価額にするだろうか、ということだった。
鈍翁はまず旅館にはいり、税関からの報告を待っていた。そこへ、随行のひょうきん者が得意満面で帰ってきた。そして「あの花入の関税の件では、褒めてもらいたいだけでなく、一度くらいはご馳走も頂戴したいくらいだ」と言う。鈍翁は相好を崩してにこにこ顔になり、「ではいったい関税はいくらになったのか」ときいた。するとその者は、「驚くなかれ、タッタの一文もありません、税関吏がただいま申されるには、近年シナから、にせものの銅器が輸入されているが、この花入なども、そのなかでも最も拙作な部類で、刀の先で少し触ってみるだけで、すぐに地金の新銅が出てくるので課税するに及ばない、ということであります」と答えた。その報告をきいた鈍翁は、「税関の役人などに、古銅のことがわかってたまるか」と、ただ一笑に付したが、その後何年たっても、ついにこの花入を使われたことはなかったということだ。
百八 天下仏画の圧巻(上巻373頁)
明治初年から長いあいだ紙屑同然の安値に沈んでいた古書画の値段は、日清戦争後のインフレ(原文「膨張」)によって、たちまち画期的な値上がりを見せた。そうはいっても、まだまだ高の知れたもので、明治三十四、五(1901~02)ごろまでは一幅が一万円という書画は世間に出ていなかった。ところが明治三十五年になり、初めてレコード破りの一万円の相場が出たのである。
それは私が、井上世外侯爵の依頼で横浜の原三渓【富太郎】氏にあっせんした孔雀明王の一幅であった。このころ井上侯爵は、例の書画骨董好きで明治初年から買い集めていた八宗兼学の(注・多彩な)品々が、すでに鬱然たる大量のコレクションになっていた。なかでも仏画は、ほとんど天下一睨みの位置を占めるほどだった。
ところがまたしても某氏が所蔵する古仏画の虚空菩薩を買収したいというので、それまで所蔵していた孔雀明王を売り払いたいから誰かに世話してもらえないか、というのであった。
私は虚空菩薩がどれほどの名画であるのかは知らなかったが、仏画として天下屈指の孔雀明王を手放されるのはなんとも惜しいことだと思った。しかし、侯爵からのせっかくの依頼なので委細承知し、まず相談をもちかけたのは益田鈍翁【孝】であった。
鈍翁は、もちろんこの名画の価値を知っているから譲り受けたいのはやまやまだったが、当時としては破天荒の一万円という提示額にいささか尻込みせざるを得ず、ほかに買い入れる人がいなければもう一度考えることにしようという返事だった。
そこで次に、明治三十一(1898)年ごろからそれまでの文人趣味をやめて、ようやく古画あるいは仏画の分野に足を踏み入れられていた横浜の原氏に交渉してみた。すると原氏は、とにかく一覧してみたいと言われたので、私はかの孔雀明王を井上家から借り出し、麹町一番町の自宅に持ち帰り、原氏が見に来られるまでの三日間、広間の床に掛けておいた。
この仏画の彩色には、すべて鉱物の粉末を使用してあり、夜に電灯の光が当たると五彩絢爛まばゆいばかりになる。その荘厳美麗なさまは、この世のものとも思われないほどだった。私は自家の所蔵品のすべてを売り払って、この一幅を所持しようかと考えてみるほどだった。しかし井上侯爵に対する思惑もあり、また商家の使用人の身分として、あまりにも僭越なことだと思いなおし、とうとう原氏を勧誘して井上侯爵の希望どおりに一万円で買い取ってもらうことになった。
さてその顛末を鈍翁の令弟、英作がききつけた。彼は、「兄貴はなんという意気地のないことか、いやしくも数寄者として、あれほどの名画を見逃すことがあるだろうか、こうなったからは、なんとしても、井上侯爵家にある、あれ以上の仏画である、十一面観世音を、この機会に譲り受けるほかはない」と、とうとう鈍翁を説得したのであった。
英作はみずから井上侯爵を訪問し、「孔雀明王を原氏に譲られたのなら、十一面観世音を兄貴に手放してほしい、ただし、代償は、ウンと奮発いたします。きくところによると、あの観世音は三百五十円でお買入れになったそうだから、拙者はそれを百倍にして、三万五千円で引き受けようと思いますが、いかがでしょうか」と持ちかけた。
これには侯爵もびっくりして、それほど熱心に言うなら、ほかでもない益田のことでもあるから望みどおりに任せよう、ということになった。英作は、そのひと言を聞くなり、井上家の道具係に頼んで、さっそく十一面観世音を取り出してもらい、それを小脇に抱えて、芝居がかりの「だんまり」そのままに、「奪い取ったるこの一軸」というような見えの構えをしながら井上家の門を駆け出したという。
これが、現在益田孝男爵が所蔵する十一面観世音幅である。絹本の画面の長さ五尺五寸五分(注・170センチ弱)、幅二尺九寸六分(注・90センチ弱)、仏体二尺六寸(注・80センチ弱)の、仏画としてもっとも優美なものである。気格が崇高で、筆致も霊妙、いったんこれと向き合ったら、たちまちにしてその威厳、霊感に打たれて、目前に観世音の出現を見るような感覚を生じるのである。
頭上の正面の三面は寂静の相、左側の三面は威怒の相、右側の三面は利牙出現(注・鋭い牙を見せる)で、後方の一面は忿怒の容、最上段の一面は如来の相をなすという配置になっている。その表情の巧緻なことや、色彩の艶麗なさまから、絶世の作品というべきものである。
この画幅はもともと大和国(注・奈良)の伝燈寺にあり、龍田新宮の本地仏だったが、のちに法起寺の所有するところとなり、さらに井上家の所蔵になったという。
この十一面観世音と、かの孔雀明王の二仏画は、いずれも藤原盛時の名画で、後年、上野帝室博物館付属の表慶館で全国十大仏画展覧会があったとき、ともに出品され、ともに天下仏画の五指に数えられ好評を博した。
このような名幅が、あのような値段でレコード破りとなったのを見ても、当時の状況がおのずと知られるのである。また偶然にも、このような名画の授受に私が関係したことも二度と得難い思い出であるから、ここにこれを記録しておく次第である。
百七 益田無為庵の茶風(上巻369頁)
益田克徳氏は非黙と号した。無為庵、撫松庵の別号もある。兄が孝男爵、弟が英作氏で、兄弟三人とも非凡な人物ぞろいだった。みな数寄者であったが、なかでも克徳氏は茶人として、また趣味愛好者として非常な天分に恵まれた人物だった。私が生まれて初めて茶席入りをしたのも彼の茶室だった(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)し、また一番町の自邸に寸松庵を移築したときの指揮をとってもらったのも彼だったので、私にとっては常に茶事のうえでの先輩であり、彼から感化を受けたことも少なくない。明治時代において、彼は忘れてはならぬ一大茶人であった。
彼は東京海上火災保険会社の支配人だったので、かつて欧米諸国の保険業の視察に行き、その帰りにカルカッタに立ち寄り、同地の古物商から一種の広東縞を一巻買ってきた。これは、国王が象の背中にかけたものだと言い伝えられており、それまで日本に渡ったことのないものだったので、益田広東(注・ますだかんとん)と名付けられ、今日でも茶人のあいだで珍重されている。
また彼はいかにも洒落もので、温和で趣味に富み、工夫が多く、しかも世話好きだったので、彼によって茶味を刺激されて知らず知らずのうちに茶人の門にはいった紳士も少なくない。渋沢栄一子爵、近藤廉平男爵、馬越恭平氏、加藤正義氏などはみなそうした連中で、兄の孝男爵、弟の英作氏の物数寄も、彼に負うところが少なくないようだ。
彼は根岸に住み、その本邸の庵を撫松庵といい、別邸のほうは無為庵と号していた。どちらもおもしろい構造だった。渋沢栄一子爵の王子邸茶室も彼の縄張りにかかっていた(注・設計であった)。また、近藤廉平男爵の牛込佐内町の其日庵、品川益田孝男爵の幽月亭、眞葛庵などもそうである。
彼の茶風は大侘びのきわみで、所蔵の道具は、雑器にいたるまで一品たりとも凡物がまじっていなかった。
その道具を愛好する熱烈さは、いったん気に入った器物を見ると、五両一分の借金をしても獲得しなければすまない、という感じだった。また、非常に巧思(注・すぐれた発想)に富み、みずから手びねりして作った茶碗の中には、気韻(注・気品、趣がある)のあらわれている名品も少なくなかった。一時期梅澤安蔵が所持し、のちに益田孝男爵に譲った「翁さび」という黒楽茶碗などは、大正名器鑑にも収録されたほどの傑作である。
彼は、侘び茶の工夫がうまく、毎回おもしろい茶会を催した。それが余りに行き過ぎることなく、茶番狂言になってしまわない範囲で行われるところに、ほかの人には及びもつかない軽妙さがあったのである。
あるとき撫松庵で、瓢箪茶会というのを催したことがあった。床に掛けた花入は、千宗旦所持の瓢(注・ふくべ)で、その横手には、朱漆で、
けふはけふ明日また風のふくべ哉
と書きつけられていた。それを見たときには、なにやら彼の人となりを、まざまざと見た(原文「道破した」)ような心地がした。
そのほかにも、香合、水指、向付、徳利などの点茶懐石道具の一切が瓢箪だった。なかでも瓢箪模様を織り出した有栖川切の袋を掛けた瀬戸大海茶入が使われていたのが、おおいに連客の好奇心をそそった。当時の評判の茶会であった。
無為庵は、茶道だけに秀でていただけでなく築庭術にも長じていた。彼の根岸御隠殿の庭は、上野の山を庭内に取り入れ、松原の下草に一面のすすきを茂らせていた。これは、彼が所蔵していた寂蓮法師筆の右衛門切に、
小倉山ふもとの野辺の糸すすき ほのかに見ゆる秋の暮かな
とある歌意を取って、上野の山を小倉山になぞらえ、その趣を現わしたものだった。その侘び趣向が、いかに徹底していたかをうかがうことができるだろう。
無為庵は明治三十六(1903)年四月、大阪平瀬家の蔵器入札の下見に行こうとして新橋駅に向かう途中、ある旗亭(注・料理屋、宿屋)で休息しているときに突然脳溢血を起こし、五十六歳で死出の山路に旅立ったのであった。私は、
極楽や花見がてらのひとり旅
という一句をささげた。彼はどこまでも風流な男で、西行法師の「願わくは花の下にて春死なむ」という理想をそのまま実行したのである。
彼はなにごとにおいてもとても器用だった。字が上手で漫画もうまく、狂歌にいたっては優に堂奥に入っていた。ある年の大師会に模擬店が出ているのを見て、
おん菜飯天ぷら蕎麦か芋陀羅尼 あな飯うまや何を空海
と口ずさみ、大いに喝采を博したこともあった。
彼が没した翌年、日本橋の福井楼で遺品の入札会が開かれた。すこぶる名品が多く、現在は兄の孝男爵が所蔵している絵瀬戸茶碗、松虫蒔絵香合、雲鶴女郎花茶碗や、益田信世氏が所蔵している八幡文琳茶入などはその優秀品であった。
時あたかも日露戦争の勃発する直前で、このような名品ぞろいの入札にもかかわらず、一品で二千円以上になったものがなく、後年の好況時代ならば、おそらく数十万円の売り上げになったであろう売立が、わずかに四、五万円で終わってしまったことは非常に残念なことだった。
しかし、彼がいつも道具買いの金に行き詰っていたことを知っていた友人たちは、生前にこの金でも持たせてやりたかった、と言い合ったほどだった。私は今日までいまだ、彼のような恬淡にして面白い茶人には出会ったことがないが、今後もまた出会うことはないと思うのである。
百六 道具争奪戦の勝敗(下)(上巻366頁)
前項(注・105を参照のこと)で、井上世外侯爵が、福地桜痴の考えた策略で益田鈍翁の牧谿筆の蜆子図を巻き上げようとしてまんまと失敗したこと、また馬越化生翁所蔵の赤絵徳利を徴発しようとしてとうとう目的を果たせなかったことを記述した。これらは井上侯爵の完全な敗戦である。一方、今度は反対に侯爵の作戦がうまくいって、鈍翁、化生翁が敗者になって指をくわえてその奇勝をうらやましがることになったエピソードがある。
それは明治三十四、五(1901~2)年ごろのことだった。深川木場の鹿島清左衛門家で、同族の誰かが三井銀行から借金した手形の保証に立っていたため、その支払いのために道具を処分する必要が生じた。そこで人を介して馬越化生翁に相談したところ、化生翁はかねてより鹿島が道具持ちであることを知っていたので、山澄力蔵(注・道具商)を、鹿島のところにやって下調べをさせた。すると、道具の点数が非常に多いだけでなく伝家の名品が少なからずある。そのうえ、質草に取ってそのまま流れ込んだ大名道具も少なくないことがわかった。
やがて山澄による道具の調査が終わりその評価が定まったところで、化生翁はまずこの宝の山に乗り込むことにした。そして、なかでもいちばんたくさんあった宋、元時代の書幅をはじめとして、名物の勢至茶入(注・遠州蔵帳に掲載)や釘彫伊羅保茶碗などという、かずかずの名器を獲得した。
ところで、そのころ同人のなかで馬越翁が桜川宋元の異名で呼ばれていたのは、翁が芝桜川町に住み、しかも鹿島家伝来の宋元の名幅を多数手に入れたからであった。しかし道具があまりに多すぎてひとりでは買いきれず、かつ自分には不向きなものもあったので、道具数寄仲間の益田鈍翁に耳打ちをし、山澄を手引きにして鈍翁を鹿島家に乗り込ませた。するとこれまた数々の名品を選んで手に入れることになり、両翁とも道具運に恵まれた幸運児になったと有頂天になっていた。
しかし鹿島家には先代からの申し伝えで、名器のなかの名器と言われる三十六点を非売品としこれには初めから手を触れさせぬことになっていたため、両翁ともこれはいかんともしがたく、高嶺の花だと眺めるだけでこれを摘むことはなかったのである。
そんなときに、横から飛び込んでその非売品をひとつかみにして去った者があった。両翁はトンビに油揚げをさらわれたように開いた口がふさがらず、山澄までもが骨折り損のくたびれもうけに終わってしまったのである。その大トンビはほかでもない、井上侯爵なのであった。
それはこうだ。益田、馬越の両翁は鹿島家の宝蔵に飛び込み、たらふく名品を頬張ったが、最初から非売品と決定していた名物の三十六点についてはどうすることもできず、ただ舌なめずりするだけであった。でも、それ以外で自分が欲しかったものはすでに手に入れたということで、もう秘密にしておく必要もなく、化生翁はある日井上侯爵を訪問し、のろけまじりにことの次第を話したのである。
侯爵はその話を何気なく聞いていたが、さて、鹿島家の道具処分に関しては、ほかにもうひとり有力者がいることを知って、その人を案内人にして、化生翁らに気づかれないように、みずからも鹿島家に乗り込んだのである。
井上侯爵の機敏なことといったら、あの賤ケ岳の合戦で豊臣秀吉が、佐久間盛政がまだ陣地を引き払っていないのを聞いて小躍りして進撃したのと同じであった。侯爵は鹿島の主人に面会し、家政整理の状況から不要道具の売り払いの事情までを尋ね根本的な家政立て直しを勧告したものとみえる。とにかく主人も承服して、例の非売品のなかから若干を手放そうと申し出たのである。
つまり、益田、馬越の両翁が高嶺の花と眺めた唐代の絵画の最高の絶品である、東山御物の徽宗皇帝筆桃鳩図や、大名物木津屋肩衝茶入や、瀬戸伯庵茶碗、名物包丁正宗など、稀代の名品がたちまちのうちに内田山に移動して、侯爵が手ずから活ける花となったのである。これらは侯爵の従来のコレクションに加えられて、ここに一段と光彩を添えることになり、侯爵を一躍天下の大コレクターの巨頭にならしめたのである。
この非売品の中には夏珪(注・南宋の画家)の山水堅幅があったそうで、あまりに名品が多かったために井上侯爵が見逃されたということを聞き、私もすこしばかりちょっかいを出してみたが、このとき藤田伝三郎男爵が井上侯爵の許可を得て、四千円内外で買収されたとのことがわかったので、私は遠くから匂いを嗅ぐだけで引き下がることになった。この幅は後年、藤田家道具入札で十余万円の高値を呼んだものである。
とにかく、この一戦においては、井上侯爵に作戦の裏をかかれて、益田も馬越も顔色なかった。惜敗どころか、まったくの惨敗だったといえよう。道具争奪戦における三雄の一勝一敗で、今振り返ってみると非常に興味深いエピソードだと思う。
百五 道具争奪戦の勝敗(上)(上巻362頁)
道具鑑賞家というものはひとりで道具を楽しむだけでは満足せず、同好者を集めてこれを展示したり、その批評をきいたりして自分の思うつぼにはまったときには、隆鼻三千丈(注・鼻たかだか)でたちまち大得意となるのは昔も今も変わらない。
だがこの鑑賞家が、たまに争奪戦を演じることがある。たとえば、某家から某品を譲り受けようと内々に手を回し、抜け駆けの功名をなそうとすることがある。そういうときに他に競争者がいると、親しい仲間同士で密約して連合軍を組織する場合もある。
このような興味をそそる争奪戦のエピソードは昔から数限りなくあるが、太閤秀吉(原文「豊太閤」)が神屋宗湛の博多文琳【現在、黒田長成侯爵所蔵】(注・現在は福岡市美術館蔵)を彼から奪おうとした策略計画は、そのもっとも有名なものである。
それは天正十五(1587)年の太閤秀吉の九州征伐のときのことだった。博多の神屋宗湛の茶会に臨み、宗湛秘蔵の博多文琳を奪おうと、随行の石田三成に言い含めて一計を案じた。急に帰ると申し出るから、宗湛が玄関に送りに出た隙をうかがって三成が博多文琳を懐中におさめて立ち去る、という策略だった。
太閤は打ち合わせどおりに茶室から立って玄関に向かった。そして三成が来るのを今か今かと待っていたが、すんなり出てこないので、しきりに気にして待ちあぐんでいた。その様子を見て宗湛は、懐の中に入れた博多文琳を見せびらかし「殿下の待ち受けておいでなのは、これではございませんか」と言ったので、「どうやら、この自分をもってしても奪うことはできないようだ」と太閤は笑って立ち去られたという話である。
明治の世になり、不思議なことにこれに酷似した出来事があった。ある日、井上世外侯爵が福地桜痴、小室信夫らとともに品川御殿山の益田鈍翁の茶会に臨んだ。床の間に掛けられていた一軸を見ると、それは牧谿筆の蜆子の図だった。これは最近まで福地桜痴の所有だったものだが、彼が金に窮して、残念ながら鈍翁に譲り渡したものだった。その日これを見た桜痴はいまいましさのあまり、なんでもいいから一計をめぐらして持ち主の鼻をあかしてやろうと思った。そこで、内々に侯爵と小室と示し合わせ、侯爵が帰るときをねらってこの掛物を取り外し、その馬車に載せて持ち帰らせてしまおうとした。
鈍翁は、桜痴の様子がふつうでないのではやくも計略に気づき、侯爵が席を立つと同時に、まず掛物を外して、倉庫の奥にしまってしまった。さて玄関に駆けつけてみると、桜痴は途中で引き返し、いそいで床の間の前まで行ったが掛物は影も形もない。さては小室が気を利かして自分より先に持ち去ったのかと急いで玄関に行ってみると、井上侯爵は馬車の中から覗き見るように福地、小室を待ち構えている。そこでおもむろに鈍翁が馬車のそばに進み出て、「閣下の待ち受けられている品物は、先刻土蔵に納めて、今日は間に合いませんので、とくとくお帰りなされませ」と言った。侯爵は何度かため息を吐き、益田はさすがに素早い奴だと感心されたとか。福地の策略も無念、とうとう失敗に終わったのであった。
井上侯爵に関する道具談には、もうひとつよく似たエピソードがある。明治四十(1907)年前後、侯爵が内田山の八窓庵でしばしば茶会を催されていたころのことである。今度は赤絵揃いで茶会を催そうということで、向付、肴鉢、水指、建水、花入、小皿、香合などの一切を赤絵だけで組み合わせた。ところが、ただひとつ徳利だけが不足していた。こんなに赤絵が揃ったのに徳利がないのは残念であると、いろいろ出入りの道具屋などに聞いているうちに、馬越化生翁が天下一品の赤絵徳利を所持していることを告げた人がいた。侯爵は非常に喜んでさっそく化生翁を呼びつけ、赤絵揃いの茶会の計画を話した。そして、こうなったからには君の徳利を譲ってくれ、もし譲ることができないなら借用させてもらうだけで差し支えない、と談じ込んだ。
化生翁の当惑は、ひとかたならなかった。ほかでもない、その徳利は、形といい模様といい寸分も非の打ちどころがない品だったからである。白地の部分は玉のようで、赤絵は花のよう。しかも口縁にすこしゆがんだところがあって、いわゆる綺麗さびの最上の絶品なのである。たとえ世外侯爵の不興を買い、茶道上での絶交になったとしても、これを手放すわけにはいかない。そう決心の腹を決め、この一品は旧持ち主とのあいだで、他に譲渡すべからず、という約束もあり、門外不出としているので、どうか切にご勘弁くださいと、苦しい断り状を出した。化生翁は当分のあいだ、内田山にイタチの道をきめこんで(注・交信を絶つこと)、一年ばかりたって、このやりとりが侯爵の頭から消えた頃から、また出入りするようになったのである。
それ以来、化生翁は茶会でこの徳利を取り出すたびに、必ず当時の危機一髪状況の演説をして、あやうく鰐魚(注・ワニ)の口をのがれましたと一笑したのであった。私たちも、「この徳利のためなら、いかにも、ごもっとも千万」と、相づちを打つのを常としたものである。
百三 中上川の業績(上巻352頁)
中上川彦次郎氏が三井銀行の副長になりその手腕を振るい始めたのは、明治二十五(1992)年の初めからである。二年たって日清戦争が起こり、戦勝による景気でいろいろな計画が持ち上がった。
朝吹英二氏が整理にあたっていた鐘ヶ淵紡績の株は、一時、十円台にまで下がっていたのが、たちまち払込で五十円の倍額までに値上がりした。
渋沢子爵の手で三井に移した王子製紙会社や、三井工業部の所管になった富岡製糸場なども、それぞれ隆々たる盛況を呈しさらに規模を大きくした。
さらに、北海道の事業にも着目し北海道炭鉱会社の株式を大いに買収した。
東本願寺への百万円をはじめとする貸金についても、とうてい完全には回収することはできないだろうと思われていたものを案外すんなりと回収し終えることができたため、各地方に散在していた多数の支店を閉鎖し銀行の実力をおおいに充実させ、抵当流れの土地なども、たちまち数倍に値上がりした。
このような好都合がさらなる好都合を呼び、三井の成長の勢いは予想外に大きなものだった。神戸の小野浜で十万坪の抵当流れの一坪一円の地所が、後年に一坪百円以上に値上がりしたというような例も少なくなかった。
かくして中上川氏の画策は着々と成功し、ほとんど後光が射すような勢いだった。それが明治二十七、八(1894~5)年から三十一(1898)年いっぱいのことで、彼の業績の全盛期であった。日清戦争後、中上川氏の三井整理がうまくいったことと、戦後の景気拡大が合わさり、計画は着々と成功したため一時は全盛の極点に達した。
しかし三十二(1899)年ごろから反動が見られるようになり、やがて急転直下の苦境に陥ることになる。これは財界波乱が引き起こしたことで、まったくやむを得なかったと言わなければならない。
それ以前に、中上川氏は三井の事業統一を提唱した。それまでの三井商店は、銀行、物産、鉱山、地所、工業と、それぞれの部門に分かれ、益田孝男爵のような大人物といえども、その手腕が及ぶのは、物産もしくは鉱山という一局部に限られ、三井全体に及ぶことはなかった。それを中上川氏の入行後、各商店理事を一か所に集め、各自それぞれの議案を持ち寄り、各部の連絡を保ち、これを統一協定とすることになった。益田、中上川の両雄も毎回会議に同席して営業方針を定めたので、当分のあいだはどこにも溝はなかった。
しかし戦後膨張の反動が起こったとき、その影響は、まず物産の商売に現れた。大阪支店において原綿の暴落の損失が出ると同時に金融はますます急迫を告げた。
その救済のために、井上侯爵の口添えで九州方面に三井銀行が貸し出した金を回収しようとしたところ、たちまちにして九州炭鉱業者の不平を招いた。それは、中上川氏と井上侯爵のあいだに自然と溝ができることを意味し、そればかりか、益田氏との関係も絶頂時代のようにはいかなくなった。ここへきて中上川氏を攻撃する声が四面に湧き起こったのである。
折も折、中上川氏は三十二(1899)年ごろから腎臓病が悪くなり、機嫌も非常に悪く、ややもすると他人の感情を害するような行動も見られるようになった。
事態が重ね重ねも難局なことに加え、長崎あたりの新聞が三井に恐慌来たるといった内容を掲載したため、関西地方のひとびとが不安視し、明治二十四年の二の舞(注・取り付け騒ぎのこと)が起きそうな状況に陥ってしまった。そこで日本銀行の総裁と協議して、取り付けはほどなく鎮静化した。しかしこのような情勢では各自がその位置を守ることばかりに必死で、他者を非難するというのが人情というものである。それで内部においても、ややもすれば悪口が広がって反中上川の情勢がみなぎるようになっていた。
そんなときに、折悪しく、二六新報の三井銀行攻撃事件が突発した。この事件は、かつて三井と取引関係があった三谷三九郎という人の遺族に対し、三井の待遇が非道であるという理由で攻撃の矛先を向けたものだった。しかし三井銀行が簡単には応じなかったため、秋山定輔氏が、「将をたおさんとすれは、まず馬を射よ」の戦法をとり、三井主人の人身攻撃を始めたのである。やがてその攻撃の材料が尽きると、今度は伊藤博文公爵を動かし、伊藤公爵はさらに井上侯爵を動かして、三井と二六の仲裁談が持ち上がった。中上川氏は、ついに城下の盟をなす(注・敵に首都の城下まで攻め込まれて講和の約束をする)ような苦境に陥り、まことに気の毒な状態だった。
そのころ三井銀行で中上川氏の次官格だったのは波多野承五郎氏であったが、じっさいに各部の重役間の潤滑油になってその調和をはかる役割を果たしたのは、すでに三井工業部の理事になっていた朝吹英二氏だった。外見は磊落で無頓着のように見えるが、実は非常に敏感で苦労性なこの人は、自分が万歳(注・まんざい。基本は太夫と才蔵の二人組の芸能)の才蔵役になり、八方融和のために円転滑脱の働きをしたのである。その苦心は非常に大きなものだった。
このように、中上川は時勢が自分の不利になり、四面楚歌の中に置かれることになったが、このようなときに尻尾を巻いて逃げたり責任を他人に転嫁するような人物ではなかった。最期まで堂々とその運命を自覚し、明治三十四(1901)年十月、四十八歳にして、ついにその短い生涯を終えた。
しかし彼の没後数年での日露戦争を経て、一陽来復の景気がやってきた。彼の施策が効果を現わしはじめ、今更ながら彼の卓見に感服した人もあったのではないかと思うものの、死者の功績を回想して、これに感謝した者があったかどうか、それはわからない。しかし三井中興の基礎は、彼の三井入りから死去にいたる、この十年間に築きあげられたものなのである。彼も地下にあって、みずから慰めるところがあるのではないかと思う。
九十二 寸松庵開き(上巻313頁)
私が明治二十八(1895)年に大阪から東京に呼び戻され三井呉服店の理事になると、仕事柄それまでの書生生活から抜け出し、ひとかどの紳士になりすますことになった。書画、骨董、茶事、音楽、演劇、相撲、はたまた花柳界にも手を伸ばすことになり、その勉強や道楽でいくら時間があっても足りないほどだった。
その中でも、まず茶道について話そう。三井家の主人はもともと本拠地が京都だったので、茶道の流派はたいてい表千家であった。その好みは番頭たちにも伝染し、益田孝、馬越恭平、木村正幹、上田安三郎はすでに相当の数寄者になっていた。旧番頭のなかにも齋藤専蔵、今井友五郎らの茶人がいたので、朱に交われば赤くなるのたとえのとおり、私もしばしばこの人たちから招かれることが重なると天性の嗜好に油を注ぐことになり、彼らとの交際に忙殺されるようになっていった。
これに先立ち、私は益田克徳氏の茶会を皮切りに(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)大阪にいるあいだにもしばしば茶室入りしていたが、明治二十八(1895)年に東京に移ってからは病みつきになっていったのである。
明治三十一(1898)年に麹町一番町に新宅を建設したときには茶室、露地の設計を益田克徳氏に依頼した。そして、あの五か条の御誓文の起案者として有名で、当時新宿御苑の一部に住んでいた由利公正子爵から、その邸内にあった寸松庵という三畳台目の茶室を譲り受けることになった。
この茶席は寛永の昔、徳川三代の将軍の茶道師範だった佐久間将監真勝が京都紫野大徳寺境内に創建したものである。小堀遠州の孤蓬庵の向かいにあり、開基は江月和尚、初住は翠巌禅師で、異彩をはなつ唐門をはじめ建築上のさまざまな趣向が施されていたという。
この寸松庵が明治十二(1879)年に維持困難になり、ついに取り壊されたとき、石山子爵がその茶室を引き受け東京の新宿御苑の一部の土地を借りて移築された。茶席のほかに、二畳敷、中二階式の袴付席があり、庵に付属していた播知釜(注・織田信長が佐久間信盛に与えた釜)や、与次郎(注・千利休の釜師、辻与次郎)の五徳なども一緒に、杉孫七郎子爵の仲立ちで私が譲り受けることになった。そのとき杉子爵から私に送られた狂歌は、
お値段はたかはし【高橋】にてもよしを【義雄】かへ 袴つけたる佐久間将監
というのであった。
益田克徳氏は、この袴付席を、邸内の東南寄りの竹林中に建てることにし、露地の設計に非常に苦心された。私は大阪に滞在中に毎日曜日ごとに寺院を巡っているうちに伽藍石に対する愛好心を持つようになり(注・72「古社寺の巡礼」を参照のこと)、その熱が充満している時期だったので、奈良地方を中心に畿内各地にある千年以上の古寺院にあった蹲踞【つくばい】石、伽藍石、石塔などを物色し、法華寺の大伽藍石七個、海龍王寺の団扇形蹲踞石、法隆寺の煉石十三重塔などを買い取っていた。それを庭の要所要所に配置した。
益田氏は、栃木塩原の景勝の縮図を庭園内に写して作庭を行った。わずか千坪の小さな庭ながら、奈良の古石を東京に持ってくるのは、この庭が初めてだったので、東京の好事家の目を驚かすことになった。井上侯爵が内田山邸に奈良石を搬入されたのは、このあと一、二年後のことだった。
こうしてこの席は、旧名である寸松庵を襲名し、席開きの茶会のときには床の間に紀貫之筆の丹地鼈甲紋寸松庵色紙の、
年ふれはよはひはおいぬしかはあれと 花をし見れは物おもひもなし
というのを掛けた。
この色紙は、古来、古筆家が紀貫之であると認定したもので、同筆として高野切、家集切【いえのしゅうぎれ】などがあるが、この色紙が最高傑作であるとされている。最初、和泉の堺の南宗寺にあったものを、初代の古筆了佐の鑑定を経て、烏丸光広卿が買い取った。そのときには三十六枚あったが、その後、佐久間将監が中から十二枚選び出し、色紙の歌に相応する図柄の古扇面を取り合わせ、色紙を上に、扇面を下に貼りまぜて一帖を作り、寸松庵の備品にしたのである。それを世間で寸松庵色紙と呼ぶようになったために、この名前がある。
その扇面帖は、その後一枚一枚に分散し、現在の所在がわかっている二十九枚のうち扇面まで揃っているのは、わずか四、五枚に過ぎない。
私は寸松庵開きのために是非ともこの色紙がほしいと思い、三十一(1898)年に一枚手に入れた。それは千円ほどであったが、それから二、三年後にまた手に入れたときには三千円にまで値上がりしていた。その後も大正五(1916)年には二万二千円というものがあり、同十四(1925)年ごろには五万三百円というレコード破りがあった。
私は明治四十二(1909)年に、この色紙のうちの十七枚を模写して一帖を作り(注・模写したのは田中親美)、田中(注・光顕)宮内大臣の手を経て明治天皇皇后陛下に献上した。その後十数年たってから名古屋の森川勘一郎氏が模写させたときには多数の新発見があり、総数は二十九枚に達していた。
私の寸松庵開きには、例の播知釜を用い、東久世通禧、松浦詮伯爵、三井(注・松籟か)、石黒(注・忠悳)、益田(注・孝)、赤星(注・弥之助)、安田(注・善次郎)、馬越(注・恭平)などの当時の長老茶人を招待したので、たちまちこの方面の評判になり、さっそく推薦されて和敬会の会員になった。いわゆる十六羅漢の一員になり、それから今日まで茶人仲間として在籍することになったのである。これが、私の三十七、八歳のころのできごとである。
九十 美術鑑賞熱(上巻306頁)
日清戦争の結果、世界が日本を大国だと認めたのと同時に、日本人もまた自分たちが大国人になったという気持ちを持つようになった。そしてそれまで劣等感を持っていた自国のあれこれが急にありがたいものに思えてくるようになった。なかでも維新後に瓦礫同様に扱われた道具(注・骨董)や、二束三文で売買された書画に対して、一時に鑑賞熱が高まったことはもっとも顕著なあらわれだった。このことについて少し考えてみたい。
維新の変動は日本人の心を急速にかきみだした。ひとつには社会の不安定のために、もうひとつには古いものを破壊したために、ものごとを平静な気持ちで判断することができなくなってしまった。
昨日までは、お家の大切な宝だった「小倉色紙」も「千鳥の香炉」も、猫に小判だかなんだかのように顧みる者がなくなってしまった。
そのようなときに、アメリカからフェノロサらがやってきて日本の美術品が非常に優秀であると説き、その当時二束三文で売買されていた数々の書画骨董を買い集め、ボストンその他の美術館に送り始めていた。
ここで日本人もはじめて目が覚め、明治十一、二(1878~9)年ごろ、この世界における先覚者と言われていた佐野常民【のち伯爵】、塩田真、下條正雄(注・桂谷)の諸氏が、「龍池会」という書画鑑賞会を設立した。そして折にふれて展覧会を開催し、共鳴する人々を集めていった。
その努力が実り、だんだん世間で美術の鑑賞熱が高まっていった。そこに、ちょうど日清戦争後の景気拡大の勢いが加わり、いろいろなところで美術的な会合が開催されるようになっていった。なかでも一番有力だったのが「大師会」である。
そもそも大師会は、明治二十四、五(1891~2)年ごろから書画、茶器を購入しはじめた益田孝男爵が、同二十八(1895)年ごろに狩野探幽が所持していた弘法大師の真蹟の座銘断片十六字の一巻を得て、翌年の三月二十一日【大師の命日】に、御殿山の自邸においてその披露の会を催したのが発端である。
それから三十年あまり、この回は連綿として継続し、最初は御殿山の益田邸でのみ開催されていたが、近年では音羽護国寺に場所を移している。毎年四月にその座右銘を本尊として、和漢の仏画、古書画など、だいたい上代の美術品をそろえて陳列披露し、全国の愛好家の会員を集めることになった。このため、この会がいろいろな方面の美術鑑賞熱を喚起することになり、同時に、ひとびとの鑑識眼を向上させることになった。そうした効果については決して忘れることはできないのである。
このころに、また別に「天狗会」という会も発足した。これは近藤廉平、加藤正義、赤星弥之助、朝吹英二、馬越恭平、浅田正文らの同人が、時に茶会的に、時に宴会的に、各家で順番に持ち回りで会を催したのものだった。名器、名幅を陳列して、集まってくる大天狗、小天狗どもを驚かそうという魂胆で、趣向もさまざまだった。
近藤廉平男爵が牛込の佐内坂邸で開いた会では、鞍馬山というのが大まかな趣向だった。座敷の中に杉の大木でセットを作り、つぎつぎにやってくる大小の天狗が、あぜんとして目を見張っているところに、木の葉天狗の装いできちんと化粧をした者が目八分の高さにお膳を掲げてお給仕に出てきたので、一同、高い鼻を砕かれて、これはこれは、と閉口するばかりだった。
また明治二十九(1896)年ごろから「二二会」という会も発足した。これは、会員の各自がすこしずつ書画や骨董を持ち寄り入札をする。そして、二番札の者に賞与を与え、最低額の者には罰金を課すというものだった。日本橋区浜町の常磐屋、京橋築地河岸の壽美屋などに会合したのは、鳥尾小弥太、富永冬樹、馬越恭平、赤星弥之助、加藤正義、近藤廉平、浅田正文、益田英作、朝吹英二の顔ぶれであった。
私は当時、三井呉服店の理事で、仕事上の関係もあったため毎回これらの会合に出席した。あるときは鳥尾小弥太子爵が出品した仏画を落札し、たいそうお礼を言われたこともあった。
このころまでは、道具がまだたくさんあったから、会員がなんの気なしに持ち寄った出品物が、後年におおいに出世して数万円の高値になることもあった。
最初のうちは出品が名品揃いだったが、だんだん品位が落ちてきたので、二二会というのは、もともと二十二日に開かれるのでそういう名前がついたのだが、がらくたの荷に、荷が重なる会だ、などという悪評が出てくるようになり、ついには崩壊することになってしまった。
さて、茶事方面を見てみよう。当時「和敬会」という会があった。会員を十六人と定め、欠員があると補充するという仕組みになっており、別名を十六羅漢会ともいった。この会の主なメンバーは、松浦詮伯爵、東久世通禧伯爵、石黒忠悳子爵、三井八郎次郎男爵、同高保男爵、益田孝男爵、安田善次郎、加藤正義、吉田丹左衛門、馬越恭平、大住清白の諸氏であった。この会は明治中期から大正初期まで続き、東京の著名な茶人はだいたいこの会に加わっていたため、この会が原動力になり茶道の盛運が促進されることになった。その効果は、じっさいのところ非常に大きなものだった。
このようにして、美術鑑賞熱が高まっていったが、それにともない美術品が非常に値上がりしていった。その顛末については、また後段で取り上げていきたいと思う。
八十七 梅若流稽古 (上巻296頁)
私は、自分が梅若流の謡曲を稽古し始めたのがいつだったかということをはっきりとは覚えていなかった。最近別の用があって梅若六郎氏を訪問したついでに、そのことを話してみたところ、六郎氏は、父上、実翁の直筆の門入帳を出して見せてくれた。その記録によると私のは、明治二十八年十月二十八日三井支配人高橋義雄とあった。
この門入帳を最初から見てみると、明治十三(1880)年に益田孝、三井八郎次郎(注・松籟三井高弘)、十四年に古市公威、鳩山和夫、十六年に団琢磨、十七年に馬越恭平が入門している。それには驚かなかったが、十四年三月二十三日に元老院権大書記官金子堅太郎とあったのが意外だった。
その後偶然に金子子爵に面会することがありこのことについてきいてみると、子爵は今昔の感にたえないという面持ちで次のようなことを語ってくれた。
当時は能楽界が悲惨きわまりない窮状を示しており、厩橋の梅若能楽堂の一部を借家にでもしないと家計もまかなえない状態にあったが、「たとえ道端で謡を謡うことになるとしても、能楽堂を手放すことだけは祖先に対して申し訳が立たない」という翁の嘆息をきいて同情にたえかね、ひと月にいくらあればよろしいのかと訊くと、三十円で足りるという。ならばわれわれが門弟になって、それに相応する月謝を提供しようということになった。僕は自宅に来てもらい、ほかの人たちは九段下の玉泉堂を稽古場にして出稽古をしてもらったのだ、ということだった。
さて私が梅若流の稽古を始めたのは、前述のとおり明治二十八(1895)年からだった。(注・73「謡曲稽古の発端」を参照のこと)二十六年の大阪滞在中に宝生流の謡曲と仕舞を習い始め、師匠はそのとき大阪にいた名古屋人で、木村治一という六十歳前後の老人であった。この老人はすこぶる美声で相当な能楽の心得があったので、謡曲とともに仕舞も教授していた。
当時まだ二十代だった、木村の息子の安吉は、以前に宝生九郎の内弟子になり、今の松本長、野口政吉らと同輩であったが、怠け者で師匠のところにいることができず、やがて老父のもとに戻ってきた。私は老父の依頼で安吉を一時三井銀行に採用してやったが、私が大阪を去ったのち今度は東京に舞い戻り、ほどなくして若死にしてしまったという。
このように私は最初に宝生流を習ったが、明治二十八(1895)年の東京移住後には三井の主家では全員が観世流なので、わたしもさっそく改宗することになった。そのころ神田小川町に住んでいた観世清廉のところに入門した。
そのころの清廉は三十歳くらいだったであろうか、とてもよい声で、厩橋の梅若舞台にも出演することがあったが、もともと自由気ままな性格で、能役者としての作法を守ることがなく、女房と雑談しながら、ときどき振り向いて謡曲を教授するといった不謹慎さがあった。それで私は二、三度稽古に行き、班女一番を習っただけで、弟子のほうから破門ということにしてしまった。
そして今度は観世清之のところへ行った。この人は、すこししゃがれ声で渋味のある芸風だった。梅若実の婿養子であり、万太郎、六郎がまだ生まれる前には、実の片腕となって働いていたそうだ。しかし私が行ったころには梅若家を離れ、元の観世姓に戻っていた。その晩年には謡曲本を発行し、この世界における功労者であったとのことだ。
私は明治二十八(1895)年に東京に戻ってからは、麹町上二番町四十二番地の、加藤弘之氏の隣りに住んでいたので、三井呉服店に出勤する前に隔日くらいで謡曲の稽古をした。あるとき清之が病気し梅若万三郎と六郎が交代で来てくれることになり、進歩もあまり遅いほうではなかった。
清景を稽古していたころのある日、その日は万三郎が来宅する番の日で、朝食をとるあいだしばらく座敷で待たせておいたことがあった。そして悠々として行ってみると、なんということか、梅若実翁が師匠の風格を示して正面にどっしりと座っていた。私はおおいに恐縮し、清景の「松門ひとり閉じて年月を送り」というところを稽古してもらった。年老いた盲目の清景が孤独の庵の中でひとりごとを言う場面である。その心境の説明後、発声の練習となった。その教授法が丁寧で、かつ徹底していたためか、それからというもの自身で謡っても、または清景の能を見ても、この一段のところに来ると翁の面影が目に浮かび声がはっきりと耳に聞こえる。これが名人の芸力というものなのだろう。
私の梅若入門は、前述したとおり明治二十八(1895)年の十月だから、翁が来宅されたのは、たぶんその十二月ごろだったのではないか。それは翁が六十八歳のいまだ壮健なときで、私は三十五歳だった。
その後私は、謡曲とともに仕舞も稽古し、さらに、猩々をはじめ、花筐、弱法師、三井寺、弦上、百萬、松虫、鉢木、盛久、俊寛、隅田川などの演能を試みた。そのときのことについては、また追って記述することにしたい。
八十四 助六の古式(上巻286頁)
平岡吟舟翁が平岡大尽と呼ばれるようになったのは、江戸気分がたっぷりで、文化文政のころ(注・文化1804~18、文政1818~31)の江戸で大通ぶりを見せた浅草札差旦那のように、みずから作詩、作曲、振付までやり、新柳二橋(注・新橋と柳橋の花柳界)の茶屋という茶屋で何年にもわたり遊興し、自作の新曲を謡わせ舞わせるということがあったからでもあろう。しかし大尽の名に一番ふさわしかったのが次の一事である。
九代目市川団十郎が歌舞伎座で助六を演じたときのことである。文化年間に、抱一上人(注・酒井抱一)がみずから興行を行ったと言い伝えられている古式にならい、助六地方(注・じかた)河東節連中を繰り出させたのである。抱一上人は姫路酒井家の次男ながら、大名家の窮屈さを嫌い、浄土真宗の僧籍にはいり、上手に琳派の絵を描くかたわら河東節も好んでいた。
文化年間に助六の興行があったとき、自画の牡丹の花を表紙にした助六の歌本を発行し、谷文晁といっしょに、真ん中が助六、左右に富士山と筑波山という三幅対を寄せ合い描きした。その幅はいまでも好事家の手元に残り当時の豪勢ぶりを伝えている。
明治二十九(1896)年の助六には、当時の古式をそのままに採用するというので、その手始めが、団十郎から平岡の旦那に河東節御連中の依頼状を送る、というものだった。連中会場として歌舞伎座の茶屋、三洲家を使い、その二階に陣取っている吟舟翁のもとに、助六芝居の頭取である団八がその依頼状を持参する。するとそこで吟舟翁が「願是通聞届候(注・願いの通り聞き届けそうろう)」という指令を発するという、まことに豪勢な威光を示したのである。
こうして平岡の選抜した、いわゆる河東節連中には、三味線方の河東節家元、山彦秀次郎をタテとして、そのほかに婦人が二名、地語りは芳村伊十郎、都魚中、清元弥生太夫、清元魚見太夫など。それに素人連中として、のろま人形頭取の三富、浜町の小常盤主人の依田らが加わった。
指物師の浪花家も三洲家に陣取り、興行中には連日、抹茶のお点前を引き受けることになった。
また総ざらいは築地の瓢家で行った。連中それぞれの語り場所をすべて吟舟翁が指示し、いよいよ万端の準備が整った。
この連中一同には、魚葉牡丹(注・杏葉牡丹、ぎょようぼたんのことか。杏葉牡丹は、助六で用いる成田屋の替え紋)の紋付に、金色とお納戸色の市松模様の帯を配り、楽屋入りのときには高さ四寸(注・約12センチ)の草履をはかせた。
ここまで古式そのままを採用したのは、このときの狂言が最後だったと思われる。これまた江戸気分の最後の名残りだった。
このときの歌舞伎座の座主は田村成義で、二番目狂言では、五代目菊五郎が斗々屋の茶碗(注・三題噺魚屋茶碗)を出した。福地桜痴居士がその摺り物の讃を書いたのに対して、吟舟翁は団十郎に次のような新作の端唄を贈った。
「春霞たつや名に負ふ江戸桜、だてな姿に鉢巻を、すぎし頃より待ちわびし、其甲斐ありておちこちに、噂もよしやよし原に、思ひそめたる仲の町、箱提灯も色めきて、ぬしのゑがほを三升うれしさ」
富永の毒舌(上巻288頁)
富永冬樹氏は旧幕府旗本の家系で、この人もまた生粋の江戸っ子だった。明治四(1871)年に平岡吟舟と同船でアメリカに渡り帰国後は長年裁判官を勤めていた。一族には、東京高等商業学校の初代校長で銅像もできている令弟の矢野次郎(注・二郎とも)氏があり、令妹は、内助の功の多かった益田孝男爵夫人(注・益田栄子)である。みな江戸前の才子肌で、口から生まれたような人間だったが、なかでも富永氏は皮肉な批評の名人で、すこし毒を含んでいるのだがあとあとまで話のたねになる名言が多かった。
明治三十(1897)年私が麹町区一番町に住んでいたとき、隣家の米倉一平氏を見舞っての帰り道に私の家に寄られたことがあった。そのときも、まじめな顔をして私に、今、米倉を見舞ってきたが、からだじゅうに毒気が回っているので、蛭を掛けてもその蛭がみなポロポロと落ちてしまう、ところでその蛭を顕微鏡で覗いてみたら、みな鼻をつまんでいたそうだ、と言って、からからと笑われた。
また、大江卓、加藤正義、近藤廉平、益田克徳などという連中が、自宅で一品持ち寄りの会を順番にやっていたことがあったが、あるとき木挽町の梅浦精一氏の会に出席した富永氏は声をひそめて私たちに向かい、「梅浦の家の玄関には、なにやら仏像が一体飾ってあるが、その印の結び方がどうも変だ。右の手は親指と人差し指で丸を作り、左のほうは手のひらを前に差し出しているので、なんとやら、丸をくれろと言っているようだが、君たちはどう思うね」と言い終わるや、微苦笑を洩らされた。ほかにも、富永氏には数々の名言があるが、この二例は富永流の毒舌として、もっとも有名なものであった。
八十二
生兵法の側杖(上巻279頁)
明治二十八、九(1895~6)年ごろから私は、仕事上のことがらで朝吹柴庵【英二】とたびたび会う機会がふえた。用件以外でも、私と柴庵は、たがいに道具道楽の駆け出しの意気盛んな頃で、寄ると触わるとしまいには道具の話でしめくくるのが常だった。
柴庵はもともと頭もよく世渡りもうまい人だったので、明治十(1877)年前後に紳商のあいだで花がるた(注・花札)がはやった時には、いちはやく練習を積みたちまちその道の達人となった。今度、三井財閥の一員になってみると主人も番頭もみな美術好きである。ならばさっそくこの道を研究しなくてなるまいという気持ちも強かったのかもしれないが、とにかく熱心に道具漁りを始めた。
そういうところが私と一致し、日曜日になると本町の田澤静雲という道具屋に押しかけたりした。そこで最初に目をつけたのは応挙筆の松鶴図六枚折屏風一双だった。当時ひとりで買うにはあまりにも荷が重すぎるのでふたりで共有にしたのだが、これが偽物とわかったことがあった。だがこれですっかりへこたれるかと思いきや、ふたりともより一層熱心になっていったのである。
明治三十(1897)年ごろには、ふたりとももうひとかどの鑑定家になったつもりでいた。
さて、その二、三年前から三井鉱山会社の理事になり赤坂丹後町に住んでいた団琢磨氏【のち男爵】が、遅れ馳せながら美術に関心を持ったらしい。われわれから見れば最近田舎から出てきた後進で、美術品の鑑識にかけてはわれわれはふたりともはるかに大先輩であると信じていた。
団氏が、われわれに多少はお世辞のつもりだったのか、何かおもしろい絵画があったら僕にも知らせてほしいと言われたので、ちょうどそのころ大阪のある道具商が持ってきた宋の李迪(注・りてき)筆【だったと記憶している】の山水中鷺図の二幅対が最近ではあまり見ない珍品だということでふたりの鑑定が一致したので、これを団氏に勧めることにした。
団氏は両先輩の保証付きということで一も二もなくこれを買うことにした。ところがそれから二、三か月して大阪から続々と怪しげな宋、元の絵画が到来し、あちこちでわれわれの目に触れることになった。よくよく考えてみれば、このまえ団氏に勧めた品もやはりこの手のものなのである。柴庵と私はこっそりと顔を見合わせ非常に恐縮したものの、先輩大鑑定家としての手前、団氏に対してかくかくしかじかと打ち明けるわけにもいかないのであった。
ふたりはしっかり口をつぐみ、団氏もこのことについては一言も語らず、最近までは三人以外にこのこと知る者はなかったのであるが、柴庵翁もすでに亡くなり、団男爵も不慮の兇変にたおれ、今は私ひとりだけが残ったから、このほど団男爵に関する座談会の席ではじめてこの話を披露したところだ。狸庵(注・団琢磨)、柴庵(注・朝吹英二)の両老は、はたして地下で、どんな思いをされているだろうか。
道具の虎の巻(上巻281頁)
朝吹柴庵翁が美術鑑定において、のちのちまでの語り草になるような数々の逸話を残したことはけっして偶然ではないのである。前項に記した宋画の偽物をあっせんしてしまったことも一層の研究意欲をかきたてたのであろうか、そのころから、私をはじめとする親しい友人にも一切無言で、両国橋近くの薬研堀の一角に住んでいた小川元蔵という道具商のところに出かけて研究に励むようになった。
まるで張良が黄石公から兵書の六韜三略を伝授されたように、柴庵は元蔵から道具鑑定の虎の巻を伝授されたのである。かたや圯橋、かたや両国橋の違いはあったが、その熱心さはなんら変わるところがなかった。
この道具商の元蔵は姓を小川といい、通称は道元として知られ江戸っ子気性の強い人物だった。維新前には金座の誉田源左衛門のひいきを受けたが、その理由が普通ではない。浅草の道具市で、祥瑞沓鉢【しょんずいくつはち】の糶売(注・ちょうばい。競り売り)があったとき、売り手が五十両と言ったのを遠くから見ていた道元が、よしきたと競り落とし、やがてこれを手にすると、「なんのこんな偽物が…」と言うやいなや、大地にたたきつけて壊してしまった。それをひそかに見ていた誉田が気に入り、道元はそれから同家の出入りの道具商になったという経歴を持つのである。明治の初めには岩崎弥之助男爵の愛顧も受け、男爵は彼の鑑定を受けてから茶器を買ったので所蔵品には名品が多いと言われている。
柴庵はそのような老道具商を見込んだのである。暇さえあれば同店に入りびたり、道元の講釈をきいた。そのうえ、柴庵は友人のあいだでも有名なほど記憶力がいいので、道元からきいた講釈を後日ほうぼうの茶会で実地に応用し、しばしば友人を驚かせたものだ。
そのいちばん有名なのが、益田鈍翁【孝男爵】の茶会でのことだった。その茶会で丹波焼の茶碗を出されたとき、柴庵は一見して、これは有名な鬼ヶ城にちがいない、と鑑定した。鈍翁は非常に驚き、君はいかにしてそのようなことを知っているのかと尋ねると、これは前に道元に聴いたのであるが、丹波焼には、鬼ヶ城という頑丈な造りの名物茶碗が一点あるだけだということだったので、きっとそれに違いないと鑑定したのだ、といい、非常な名誉を博したのである。
このような類の名誉談はいまでも友人のあいだに語り伝えられているから、またのちほどに追い追い披露させてもらうことにしよう。
八十一 渡辺の鬼の腕(上巻275頁)
渡辺驥(注・わたなべき、わたなべすすむ)氏は信州松代の出身で、明治のはじめに検事総長になり大久保利通卿の信任を得て飛ぶ鳥を落とす勢いを示していた。先代の安田善次郎氏と懇意で金銭的にも余裕があったようで、明治十二、三(1879~80)年ごろの茶道具買入れの大物だった。茶道の宗徧流の大宗匠を気取り、骨ばったやせ形で精悍なようすが顔にも現れ、傲慢に人の上に立つというふうだった。
取り巻きのひとりだった先々代の古筆了仲などは「御前(注・ごぜん)が当代の豊太閤ならば、拙は表向き、利休でげしょう」と持ち上げ、どこの茶会でも無条件に正客になるという豪勢ぶりだった。
そういう渡辺に、いまに伝えられているふたつの逸話がある。
ひとつは、彼が明治十三(1880)年に、報知新聞社長の小西義敬氏の茶会に臨席したときのことだ。いつものように正客の座に着き、主人が、呉須赤絵四方入【よういり】椿という、ふたの四隅が内側に入り込んで、甲に椿の赤絵のある香合を取り出した。それを見た渡辺がすかさず、ぐっと反り身になって一同を見渡し、「諸君、これは呉須赤絵四方入【よもにゅう】椿という香合で、いたって稀なるものであるから、とくと見ておかるるがよろしい」と、ものしり顔に説明した。それを末座できいていた道具商の梅澤安蔵は吹き出したいのを我慢して、その場はことなく終わったが、そのあとたちまちうわさを流した。いつも憎らしいと思っている渡辺のことなので茶人どもはおおいに喜び、このときから渡辺のことを「よもにゅう先生」と呼んだそうだ。(注・「四方入」は、「よほういり」と呼ばれるようだ。通は、音をつづめて「よういり」と呼んだものか。https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_05/02087_001.html )
もう一つの話は、同じころに安田松翁【善次郎】の茶会に臨んだときのことだ。主人である翁が、当時の二百円で買いたてのほやほやだった染付張鼈甲牛の香合を一覧にいれた。すると渡辺は、主人とはとりわけ親しい間柄ということもあり、またいつものように悪態をつき、「ご主人、この香合は偽物だよ」と言い放った。それをきいた安田翁は静かに香合を取り戻し「さらばこの香合めが、ふたたび人を化かさぬよう、私が成敗いたします」と言うやいなや膝の下に敷き、粉々に打ち砕いてしまったそうだ。
渡辺は前述したとおり明治初期における新進茶人の巨頭で茶器の大口購入者だったので、しぜんと名器を見せに行く者も多かったのだろう。明治十九(1886)年ごろ、小堀宗中の家に伝わった、いわゆる「遠州蔵帳(注・えんしゅうくらちょう)」の二つの長持を買い取った。
そもそも小堀遠州の家は、五代目(注・じっさいには六代)の政方(注・まさみち)が伏見奉行の失敗(注・御用金を不正に着服)で、一時、闕所(注・けっしょ。領地財産を没収される刑)になっていた。(注・天明八(1788)年のこと)
それが、天保年間(注・じっさいには文政十一(1828)年)に、政方の甥の政優(注・まさやす)宗中の時代に幕府の旗本に召し出されてその時に伝家の名器も返還された。これがいわゆる遠州蔵帳品であった。
渡辺はこの二長持を四千円で譲り受けたのである。そのときの気焔といったら、先祖の渡辺の綱が、羅生門の鬼の腕を斬り落としたのと同じくらいのすごさであった。このときから宗徧流を遠州流に改め、茶器収蔵家として世間を下に見おろす勢いを見せたものだった。
さて明治二十九(1896)年、彼の臨終の間際になり、道具商の梅澤安蔵、池田江村が札元になり、星ヶ岡茶寮においてその蔵器の一部を売却することになった。その価格はまだ非常に安く、私の記憶するところでは次のような落札品が見られた。
一、清拙禅師筆平心二大字 金弐千円
一、牧谿筆青黄牛 金壱千参百円
一、古銅雲耳花入 金五百余円
一、雪舟筆竹に雀竪幅 金五百余円
一、土佐光信下絵蘆屋霰馬地紋釜 金三百五十円
これでも明治二十五(1892)年の河村家入札よりは三、四倍は値上がりしたようである。しかし大正中期に比較すると二十分の一にも満たない相場だった。(注・河村家入札については64に記事あり)
この渡辺家入札では、染付大壺に納めてあった有名な初音の香木があり、これが一悶着をおこした。その香木は、大壺と別々に入札するようにと付記してあったのだが、井上馨侯爵が壺と香木を一品とみなして入札してしまった。それで札元と議論になり、最後には井上対渡辺の交渉に持ち越されるという道具界始まって以来の騒動になった。この事件について、札元だった東京の道具商梅澤安蔵はこのように語っている。
「渡辺さんの道具売立は明治二十九年で、このなかに小堀遠州が秘蔵していた初音の香木がありました。この香木は藤四郎(注・瀬戸焼開祖)作の瀬戸水指の中に入れ、その香気の失せざるよう、さらにこれを染付の大壺に納めておきましたので、入札の際、染付大壺と香木入り水指を別々にし、香木に千六百円の止札(注・最低希望価格)を入れておいたところ、井上侯が染付大壺を七百円ばかりで落札し、香木もその中に含んでいるはずだと言い張るので、札元はその事由を弁明し、いかに井上侯のご請求でも、これに応ずるわけにはいかぬと跳び付くれば、侯は烈火のごとくに怒って、ここに大悶着が起こったのである。このとき益田孝さんが中に立って、調停を試みられたが、話が容易にまとまらず、大に閉口せられましたが、もともと井上侯の言い分が無理なので、ほどふるにしたがって、とうとう泣き寝入りとなり、染付大壺を札元方に引き取って、ようやくけりがつきましたが、このとき、かの清拙禅師の「平心」二大字幅を落札した益田さんは、私等にむかい、なにごとも「平心、平心」と言って笑われました云々」
この渡辺入札は香木事件で一段と有名になったが、明治中期における唯一の大入札でもあって、維新後のわが国の道具移動史のなかで特筆すべきものであろう。
七十九
恋の破産者(上巻270頁)
益田英作は、長兄に孝男爵、次兄に克徳という大家を持ち、兄弟三人いずれも稀代の数寄者ぞろいである。中でも英作は駄々っ子で稚気に富み、若年のころから奇行が多く、その傑作に至っては人を抱腹絶倒させた。言ってみれば、明治後半から大正初期にかけて朝吹柴庵と負けず劣らずの愛嬌者の双璧であった。
英作はかつて芝公園に住んでいたので、友人が公園、公園、と呼んだため、その音に因んでみずから紅艶と称した。茶事においてはふたりの兄にすこしおくれて出発したが、趣向においてはむしろ一歩先を行き、奇抜な茶会を催して人を驚かすことが多かった。しかしそのことは後段に譲るとして、今はまず、彼が結婚前に起こした恋愛の失敗について一、二のエピソードを物語ることにしよう。
紅艶は三十前後から非常に肥満し、腹はでっぷり布袋腹、盆の窪(注・首のうしろ)の肉塊は二段になり、色白で顔が紅潮し愛嬌たっぷりの目尻が下がっていた。極度の近眼で、非常なおっちょこちょいな性格のため、よくいろんなものを見間違えてとんでもない滑稽なことをやってしまうことがあった。
ある実業家の次女を見初めたときには、おりおり彼女を訪問し、西洋風にバラの花などを贈っていい気になっていたのだが、その令嬢が逗子の別荘に避暑中、大雨で交通が途絶したことがあった。その報道を聞き、当時鎌倉にいた紅艶は、まずは逗子にいる令嬢を見舞わなくてはいけないと別荘のそばまで駆けつけたが、あたりは浸水して一面洪水のようになっている。やむをえず衣服を脱ぎ捨て頭上に載せ、真っ裸で洪水のなかを進んでいった。その姿は、布袋和尚の川渡りそのままだった。
別荘の縁先に立ってこれを眺めていた令嬢は、それがまぎれもなく紅艶だとわかると、オヤと驚いた声を残して障子の内側に逃げ込んだ。その後、紅艶から正式に結婚を申し込まれたとき令嬢は目を伏せて涙ぐみ、「わらわ(注・わたし)は尼になります」と言い出したとのことで、この恋愛はとうとう失敗に終わったのであった。
もうひとつの失敗は、明治二十九(1896)年の歌舞伎座で団十郎が助六を興行したときのことである。新橋烏森の濱野家という茶屋の主婦の養女に、おきんという美少女がいた。まだ歳は十四歳くらいだったのを紅艶が見初め、僕は今からあの娘を自宅に引き取って自分で一切の教育をし、日本において新しい結婚の手本を作ってみせよう、ということで濱野家主婦に頼み込み、とりあえず、おきんを浜町の自宅に引き取って懇切丁寧に三拝九拝のごきげんとりをして手なずけるつもりだった。ところが、おきんもなかなかのわがまま者で紅艶は大弱りしたという。
これを、ある江戸っ子の通人が見て、まだそのころまで江戸趣味の名残りで残っていた悪摺(注・あくずり。戯作者や好事家が、事件をネタにしてからかいをこめて流した印刷物)にした。大きな象の形をした紅艶の背中に普賢菩薩のようなハイカラ娘が馬乗りになっている絵の上に「今ぢゃ普賢も開化してザンギリ頭の象に乗る」といれて、硬軟とりどりの各方面にばらまいたので一時期大評判になったものだった。
この小普賢はいつしか象を置き去りにして、とうとう濱野家に逃げ帰った。それが、後年の日向きん子夫人(注・のちの林きむ子)なのである。
しかしながら、紅艶が最後には駒子夫人を得てかえって恋の大成功者になったということは、ここで付け加えておかなくてはならないだろう。
紅艶の暹羅(シャム)土産(上巻270頁)
益田紅艶は若いころ長兄がやっていた三井物産会社にはいり、ロンドン、上海の支店などに勤務していた。奇矯飄逸な人となりだったので、几帳面な会社員の仕事を続けることをよしとしなかった。ほどなく退社し独立して商売口を見つけようと、明治三十一、二(1898~99)年ごろに一商人としてシャム(注・現在のタイ)行きを試みた。
その目的は、むかし「南蛮もの」と総称されて日本に輸入された器、道具、織物のなかに産地の不明なものがあるので、それを特定したいということや、徳川時代の初期には一時伝来していた香木が、その後なぜかまったく途絶えているのは遺憾であるということで、これまで気にかかっていたそのような疑問点を解決することにあった。
さてシャムにわたり、いろいろ探ったところ、香木は現地においても非常に貴重とされているが、だいたいが沈香の類で、昔日本に渡来したような伽羅の種類は非常に少ないということがわかった。
織物のほうも、紅艶の次兄の克徳氏が少し前にヨーロッパからの帰り道にカルカッタで見つけた掘り出し物で、その後、益田広東【かんとん】と名づけたような時代ものの広東縞はほとんど一点も見つからなかった。
以上の点では失敗だったわけだが、ここにひとつの大きな発見があった。昔、茶人が宋胡録【すんころく】と呼んでいた南洋伝来の焼き物があった。土の地肌が粗く、鼠色の地に黒い釉薬が大雑把にかかって模様を作っている焼きもので、それまでこの器の産地がわかっていなかった。ところが今回、紅艶がシャムで調査したときに、同地にスンコロ―という地名があり、そのころこのあたりの古陶窯の址から宋胡録と同じような陶器が発掘されていることがわかったのである。紅艶のシャム入りのおかげで長年の疑問がついに解決を見るという偉業がなされたわけだ。
こうして鬼ヶ島に渡った桃太郎のように、かずかずの土産物を持ち帰った紅艶は、根岸の御隠殿(注・ごいんでん。輪王寺宮の別邸があった)にある次兄、克徳の無為庵において大茶会を催した。床の間には清巌筆の地獄の二字を掛け、天狗の鼻になぞらえたのか、銘を鞍馬山という茶杓を使ってさかんに気焔を吐いた。これも紅艶の独壇場で、他の追随を許さないものがあった。
七十三
謡曲稽古の発端(上巻243頁)
三井銀行大阪支店長として足かけ三年間大阪にいたときに、私は二種類の道楽に入門した。ひとつは能楽で、もうひとつは茶道である。
まず謡曲のほうから話すと、それは明治二十六(1893)年の暮れのことだったと思うが、岩崎久弥男爵が三菱銀行支店の視察のために来阪したときのことだ。当時の支店長の荘清次郎、同理事の寺西成器、日本銀行支店長の鶴原定吉氏と私が、大阪の料理店、灘万楼に招待された。
寺西氏は加賀の出身で加賀宝生流の達人だったから、宴もたけなわになると、久弥男爵が寺西氏に何か一曲謡ってはどうかと言われた。しかし寺西氏がしきりに謙遜しているので久弥男爵は高圧的な態度に出て、拙者の命令なのだからとくと謡われよ、と言い出される。そこで寺西氏は「松風」のロンギを謡ったのであるが、加賀流の少し鼻にかかる癖はあるものの、梁の上の塵も動かすようなすばらしい美声だった(注・中国の故事。魯(ろ)の虞公(ぐこう)という声のよい人が歌をうたうと、梁(はり)の上のちりまでが動いたという)。これには一同みな感心して喝采し、このときから私と鶴原氏、荘氏も謡曲を習ってみようという気になったのである。
このころ大阪に、宝生九郎の門下で名古屋出身の木村治一という六十歳くらいの専門家がいたのですぐに入門し、鶴原氏は謡曲だけを、私は仕舞も併せて稽古することになった。
それからは寺西氏を先生格にして、私、荘、鶴原の三人の自宅で順番に、約一年間練習を続けもした。そのあいだに、だんだんうまくなってきたと天狗になっていったが、松風のロンギのなかの「灘の汐くむうき身ぞ」というところを、宝生流では甲繰り(注・かんぐり=高音)で謡うので、初心者にはなかなかむずかしい。さすがの大天狗どももこれには閉口で、松風の謡曲が始まると、うまく灘を越せればいいのだがと、食べるものにまで注意し、前もって喉の養生をするというような大騒ぎだった。
私はこれをきっかけとして、謡曲から仕舞へ、仕舞から能楽へと深入りすることになった。その後東京に移ってからは、三井一家がみな梅若流なので、私も宝生から梅若に改宗することになった。
なお、このころに大阪の紳士のなかで謡曲を好まれたなかでは平瀬亀之助氏が群を抜いてすばらしく、氏は金剛流の家元を補佐したほどの玄人だったが、痩せぎすの体格に似ず、勧進帳などを謡えば、音吐朗々として一座を圧するほどであった。
藤田伝三郎男爵は、小柄で身長も五尺(注・約150センチ)に満たない小男だったので、その声もか細い低音で、あるときに平瀬亀之助氏と同席で「景清」の「松門ひとり閉ぢて」の一節を謡ったときなどは、平瀬の耳をつんざくような大声に対し、藤田の蚊の鳴くような低音が両極端の対照をなしていた。
藤田男爵はまた好んで仕舞を舞い、あるときに私が益田孝男爵と一緒に男爵の網島邸を訪問したとき、大得意で「遊行柳」の曲舞を見せられたものだが、地を謡っていた生一佐兵衛という先生の声が非常にききとりにくくほとんどきこえないところにもってきて、藤田男爵の声もまた例の蚊声であるから、一生懸命ふたりに耳を傾けても何を謡っているのやらわからず、藤田の門を辞しての帰り道、今日は親戚以上のおつとめをさせられたと、顔を見合わせて笑ったなどということもあった。
道具道楽の萌芽(上巻250頁)
私は母方の血筋を受けて子供のころから文学を好み、書画もきらいではなかったようで、十一、二歳のころ、生家にあった唯一の宝物だった立原杏所(注・たちはらきょうしょ。江戸後期の水戸藩の南画家)の秋山独歩の着色図が大好きで、これを床の間に掛けるときにはその前に座ってじっと見つめていたことがあったことを覚えている。
その後イギリスのリバプールに滞在中、名誉領事だったボウズ氏の日本美術館で、日本の書画骨董を勉強したことで絵画が非常に好きになった。十分とはいえない旅費の中からいくらかを割いて、イギリス、フランスの骨董店で油絵を三点買い、今でも記念に持っている。
明治二十三(1890)年三月ごろにはじめて井上馨侯爵の麻布鳥居坂を訪問し、床の間になにやら極彩色の仏画が掛かっていたのを熱心に見入っていた私を侯爵が見つけて、君はそんなに仏画が好きなのかと、怪訝さ半分、うれしさ半分の顔できかれたこともあった。
二十四(1891)年に三井銀行にはいり、東京本店で河村伝衛家の骨董品を処分する機会があったときに、そうしたものに一層の興味を覚えると同時におおいに鑑識眼も養うことができた。
その後大阪三井銀行支店長となって、平瀬、藤田、鴻池などの旧家に出入りするたびに、床の間にめずらしい幅が掛かっているのをみると自分でも欲しいと思うようになり、ソロソロと骨董狩りへ乗り出すことになった。
給料の余りでぼつぼつ絵画を買い始めたが、最初は当たり前に四条派のものから始めた。よく好んで藻刈舟を描き「儲かる一方(一鳳)」の語呂合わせで喜ばれて大阪で人気を博した森一鳳の「岩上の猿猴落花を眺むるの図」の、尺五絹本極彩色のまたとない傑作を四十円で手に入れたのだから、そのほかの道具の価格は推して知るべしであった。見つければ買い、見つければ買いしているうちに大阪滞在中にいっぱしの書画鑑定家になり、またコレクター(原文「収蔵家」)にもなったのである。
七十一
名家に名器保蔵(上巻241頁)
われわれの先祖が数百年来保存してきた名物といわれる道具類は、じっさいどのようなものなのだろうか。難しく言うなら、わが国の国体に関連し、祖先崇拝の上での標的になり、国民道徳を維持するうえで欠かせないものだと思うが、いかがなものであろう。だがその辺の解説はしばらく置くことにして、今はわかりやすい説明をしよう。
名物道具はだれが所有しているかにかかわらず、すべて国家の工芸美術の模範である。国民がこれを重要視せずに、これらの大切な見本を失うことになれば、単に国宝が消滅するだけでなく、その国の工芸美術が衰亡してしまうということは当然の帰結だ。
維新の前には、将軍家や三百の大名家がこれらの名物を保護してくれていたが、将軍や大名がなくなってしまった今、誰がこれを保護するのであろうか。言うまでもなく国家、もしくは富豪や名家のほかにはそれができるものはないだろう。
私は欧米を巡歴している最中に各国の実状に触れてこの意見を持つようになった。そして今、規模は小さいながら、この主張を実現する機会に遭遇したのでそれをここに紹介してみることにする。
私が大阪の三井銀行支店に在勤中、三井家と姻戚関係のあった長田作兵衛の所蔵する道具が抵当流れになり、同店の二階建ての大きな土蔵に足の踏み場もないほどに詰め込んであった。この道具をどのように処分するかということが、私の赴任後まもなく持ち上がった問題だった。
私は名家の道具について前述のような意見を持っていただけでなく、本店にいたときに、河村(注・64に前出、第三十三銀行の河村伝衛)の道具を処分して、例の田村文琳が三百五銭に過ぎず、これらの名物を含んだ道具数百点の売上高がわずか数万円であったことから、長田の道具も今すぐに売却するとせいぜい十万円前後にしかならないだろうと思った。
三井も今では整理が軌道に乗り始め二十四(1891)年の恐慌のときとはだいぶようすが変わってきているので、わが国の名家であるという家格から言ってもそれ相応の書画骨董を所蔵すべきであると思った。
ついては、この抵当になった美術品を売却せずに全部三井に引き取り、同族十一家に分配するのが名器を保存する上策だとして長々とした意見書を書いた。これを中上川には送らずに、美術品についてもっとも理解のある物産会社首脳であった益田孝男爵に送ったところ、それが三井重役会の議題にのぼり全会一致で賛成を得た。
そこで道具を全部、京都の三井呉服店の倉庫に移し、三井八郎次郎男爵(注・南家、高弘、号松籟)が取り仕切り、抽選で十一家に分配することになった。
その抵当品のなかには、砧青磁袴腰香炉、応挙の郭公早苗三幅対、直径六寸(注・一寸は約三センチ)の水晶玉など、稀代の名品の数々があり、また藤田伝三郎男爵がかつて長田家で見て非常に称賛していた倪元璐(注・げいげんろ。明末の政治家、文人画家)の書幅もあり、今日の相場で見れば、おそらく当時の数十倍にはなっていることだろう。
幸いにも分散することもなく三井同族のなかにとどめておくことができたのも、そのころ私のなかに芽生え始めた道具愛好の気持ちが動いたもので、偶然のことではあったが今思っても快心の出来事だったと思うのである。
銀行に女子採用(上巻243頁)
私は明治二十七(1894)年、大阪の三井銀行支店に女子店員を採用するというアイデアを試験的に実行した。これは、前にアメリカのフィラデルフィアのワナメーカー百貨店を訪問したとき多くの女子店員を採用しているのを見て、日本でも商店で婦女子を採用する習慣を作らなくてはならないと思ったことがきっかけだ。その後、ヨーロッパ各国の商店でも同じような状況であったので、当時の日本においてはすこしばかり突飛な考えではあったが、まずは三井銀行で試験的にやってみようと思い立った。
年齢十六、七歳から二十五歳までの女子で、小学校卒業以上の学力のある者を募集し、まず勘定方に入れて、そろばん、紙幣の勘定に熟練させることを目標に、最初は七、八名採用し約一か月訓練を行った。その成績は予想外によく、紙幣の勘定などは男性店員に比べてもはるかに正確で速かったので、いよいよ実務にもついてもらうことになった。
ところが、公然と言う者はいないが、男性店員の中に女子の髪の毛のにおいが鼻について困るというような苦情が出てきた。私は店員全員を集めて欧米諸国の実状を説明し、日本においても国家経済の見地から女子の就業をすすめていかなければならないとして、断固として女子の雇用を進めた。
しかし女子店員の多くは未婚で、婚期が来ると退職してしまう者が多く、私が大阪支店を引き揚げたあとはあまり長く続かなかった。
しかし私がこのアイデアを大阪の三井銀行で試みたことは評判となって、高橋は西洋帰りの新知識人でいろいろな工夫をやるようなので、そのころ問題になっていた三越呉服店改革の適任者だということで三井幹部の意見が一致し、私は三井理事の資格で三越呉服店の改革の任に当たることになったのである。
六十五
両川の智恵競べ(上巻219頁)
明治二十五(1992)年ごろは、日本銀行の川田と三井銀行の中上川が対峙して、貫録という点ではすこしばかり不釣り合いではあったものの、なんとなく敵国同士の観があった。その一方である三井銀行の中上川は、官金中毒の治療のためにまずは滞貨金の回収などの整理に没頭していた。
そのなかに、三井銀行の横浜支店長から正金銀行貸付係長の角堅吉に預け入れした三十六万円に関する係争問題があった。正金銀行にはこの預かりの事実がないということなので調査してみると、角が、私用で競馬などにつぎこんでしまったものらしい。角は金を預かったとき、細長い手形のような紙に預金高を書き入れそのつど三井銀行の支店に渡していたらしく、法律の上でなかなか複雑な問題になってしまった。
しかし中上川はその紙手形の中に正金銀行の便箋があるのを発見してこれを重要視し、岡村輝彦を弁護士として訴訟を開始しようとした。
そのとき川田総裁が、正金と三井の両銀行が法廷で争うのは非常によくないので、自分に仲裁を任せてもらえればなんらかの力になれると思うと言い出した。
正金も三井も、これ幸いと異存はなかったが、川田がどのようにこれに裁きをつけるのか、その手並みにみなが注目することになった。
川田が双方の代表者に提示した仲裁案は、正金銀行が海外為替用に日本銀行から年に二朱(注・未調査)で融通している資金のなかから百万円を割き、二年間、三井銀行での使用を許可せよ、というものだった。
正金銀行でも損にならず、三井も横浜支店長に多少の手落ちがあったわけだから、この仲裁案を双方が受け入れ円満に解決した。
それにしても、中上川が手形の紙のなかから正金銀行の便箋を見つけた目のつけどころと、川田が双方が受け入れる可能性のある裁断を下したところには、さすがに当時の財界の両巨頭の知恵比べの観があった。いまではこのときのことを知る人も少ないので、両雄の面影をとどめるためにここに書き留めておく次第である。
渋沢の八方美人(上巻220頁)
渋沢栄一は、明治、大正にまたがり、わが国の財界にもっとも偉大な足跡を残した大経世家であるばかりでなく、学識や経験にも富み、智徳円満な君子である。福禄寿(注・子孫、財産、長寿)のいずれにも恵まれ、維新後のわが国の商工業の草創期にその発展を助けた功績は、どんな讃辞をもってしても言い尽くせないほどである。
ところで、明治中期以降の渋沢子爵だけを知る人は、子爵を円満で老熟した、いわゆる八方美人の見本のように思うかもしれない。しかしそれ以前の渋沢子爵は、必ずしも浜辺の貝殻のようにすべすべして尖ったところがないというわけではなかったのである。
子爵が明治の初年に大蔵省に出仕したときはかなり気骨のある議論家だった。大久保利通卿らとも相当の議論を戦わせ、結局井上侯爵とともに連帯辞職するに至ったのである。
民間にくだってからは第一銀行の頭取になり、その翼を財界に伸ばすことになった。三菱の岩崎弥太郎とその一派に対峙し、さながら敵対国同士のようになっていた。
共同運輸会社と三菱汽船会社の競争では、渋沢子爵が正面に出ていたわけではないが、三菱一派と、渋沢、益田らとが対決の情勢を見せていたことは誰の目にも明らかだった。
そういう渋沢子爵の世渡りぶりが、明治中期以降に目だって変わってきたように見えたことについては、なにか理由があったにちがいない。
私の見るところでは、前述した明治二十四(1891)年四月(注・じっさいは七月か?)に起きた三井銀行、第一銀行の恐慌に際し、渋沢子爵が第一銀行に対する責任上やむをえず川田総裁に頭を下げて援助を請わなくてはならなかったことがあったと思う。
この事件は渋沢子爵にとり、一生でも一、二を争う不愉快な出来事であったと思うが、同時におおいに悟るところがあった事件でもあったのではなかろうか。
実業家が、銀行や会社などの事業に当たり責任のある地位にある場合には、なによりもまずその仕事に対する責任を負わなくてはならない。自分の権力を増大させようとか、名声に注目してもらおうなどという自己本位の考えは一切投げ捨てなけれはならないものなのだ、というような、子爵の覚悟ができたのではないだろうか。
渋沢子爵が関係した事業は非常に広範囲にわたっているので、子爵の利己的な意地だとか好き嫌いが原因で財界有力者と衝突を起こしたり事業になんらかの損害を受けるようなことは、事業の従事する人間として申し訳が立たないという考えが、このときに子爵の胸中に湧き起こってきたのではないかと思うのである。
もちろんそのとき渋沢子爵は五十歳を過ぎ、いずれにせよ老熟円満の境地に達する年齢ではあったけれども、このことが一層、子爵の心境に変化を及ぼしたのではないかと、私は当時見ていて思ったものだった。むろんこれは、凡人の浅はかな観察に過ぎぬかもしれない。記して識者の教えを待ちたい。
五十七
転禍為福(上巻189頁)
明治二十四(1891)年四月、読売新聞に当時の経済界の内幕をえぐる記事が掲載された。そのなかで、三井銀行では滞貨が山積みで内状は危機に瀕している、また第一銀行も同様であると論評された。
また、東京朝日新聞の前身でそのころ本社が京橋区新肴町にあった、末広重恭氏が主筆の国会新聞の、経済担当記者であった桜井駿(のち森本と改姓)が、「現今経済社会の変調」という論説で、おなじく三井、第一の窮迫を論じた。(注・記事掲載は1891年7月3日から7日)
一犬虚に吠えて万犬実を伝えた(注・ひとりがいいかげんなことを言ったのを、おおぜいが真実として伝えること)というだけではなく、じっさい少なからず事実を含んでいたので、ほかの新聞も争うようにこれを取り上げ声を大にして騒ぎ始めたので、三井、第一は非常にあわてた。
当時三井銀行は、全国二十二支店から集めた官金を、東京支店から東本願寺に百万円、三十三銀行に七十五万円貸し出している事実があった。そのほか軍人や官吏を相手に、地所を抵当にした貸付が膨大が額にのぼっていた。
第一銀行でも、渋沢喜作氏に七十万円、浅野総一郎氏に数十万円の、回収困難な貸しがあった。
ここで取りつけ騒ぎが起これば事態は深刻なので、三井でも第一でも対策に追われ懸念するなか、京都三井銀行で、とつぜん取りつけ騒ぎが起きてしまった。(注・7月6日にはじまり、9日に収束)
とうとう日本銀行総裁の川田小一郎氏に嘆願し、取りつけ騒ぎがおさまるまで同行に援助してもらうことになった。これで当面は切り抜けることができたが、一日もはやくこの噂を根絶しなければ、という焦りは大きく、私は新聞記者出身であり、また四か月前に入行したてであったから、いまこそ本領発揮して手柄をたてなければいけないと思い、西邑に相談のうえ新聞各社とかけあい、首尾よく諒解にこぎつけるまで奔走した。
これで三井に対する新聞の攻撃は下火になったものの、第一のほうに火の手が盛んにあがってきた。そのため、第一銀行の行員のなかには、三井ばかりがいい子になるのはけしからんと不満を述べる者もいたが、渋沢子爵がこれをおさえているうちに、ひどかった騒ぎもやっと鎮まり、第一のほうはどうであったかわからないが、三井のダメージはあんがい軽く、京都支店でわずかに二十万円前後の取りつけが起きたに過ぎなかった。(注・高橋が奔走を始めたのは、冒頭の読売の4月の記事が出たあとの、入行から4か月後の5月ごろであったと思われる。本文では「新聞方面に奔走して首尾よく諒解を遂げた」とあるが、実際には、それにもかかわらず7月に国会新聞の記事が書かれ、取りつけ騒ぎが起きてしまったのである。しかし、第一銀行に比べれば、ダメージは小さかった。なお、中上川彦三郎の三井入行は、同年8月である)
しかしながら、この取りつけ騒ぎがきっかけとなり、禍が転じて福となった三井家は、どこまでも幸運な家である。
三池炭鉱(上巻191頁)
三井が明治二十一(1888)年に政府から三池炭鉱の払い下げを受けたことは、同家の中興事業のなかでももっとも重要なものである。
明治九(1876)年に、益田孝【のち男爵】氏が三井物産会社を創立したときは、日本から海外に輸出する品物が少なく、印刷局の製紙をアメリカに輸出したり、三池炭鉱の石炭を香港のバターフィールド=スワイヤー商会やジャーディン=マセソン商会に売り込むくらいが関の山で、おおいに苦心していた。
ところが明治二十一(1888)年になり、政府が三池炭鉱を民間に払い下げることになった。益田孝らの驚きはすさまじく、もしこれを三菱やそのほかの者の手に奪われることになったら物産会社の重要な輸出品を失うことになるので、なにがあっても三井が落札しなければばらないと思った。
そのときの大蔵大臣は松方正義公爵であった。政府のなかで、炭鉱払い下げが議題になったとき、公爵は内心それに反対であったため予定価格を四百万円として内閣会議に提示した。列席の大臣たちはひじょうに驚き、あの炭鉱にそんな高額の入札をする者がいるわけがないと言ったが、松方公爵は、ならば拙者が必ずその相手を見つけてみせようと猛々しく言い放った。
その発表が行われたあと、公爵は三井銀行の西邑乕四郎と日本銀行の三野村利助を三田の私邸に招き、三池炭鉱が非常に有望であることを説明し三井に入札するよう説諭したそうだが、この話は私が松方公爵から直接きいたことである。その日は、夕方から夜中の二時ごろまで協議を重ねたということであった。
この入札では虚々実々のかけひきが繰り広げられた。三井も三菱もその他の入札者も、それぞれ代表者の名で入札を行った。それは明治二十一(1888)年八月のことで、この開札が行われるまで、益田男爵らは心配のあまり、連夜一睡もできないほどだった。
開札の結果は、三井の代表者である佐々木八郎が455万5000円、ある大手筋の代表者である川崎善三郎が455万2500円で、その差はわずか二千五百円で三井に落札したのであった。これは実に三井家にとっての幸運であったといえよう。(注・川崎善三郎は、川崎儀三郎が正しい。「ある大手筋」とは、もちろん三菱のことで、じっさいの入札額は、455万2700円であった。)
即金百万円、残額は十五年の分割払いで、明治二十二(1889)年一月に引継ぎをすませ、当時まで炭鉱の技師長だった団琢磨【のち男爵】氏が、炭鉱とともに三井の人となった。
当時の四百五十万円は、今日の四千五百万円にも匹敵する巨額である。三井がそれを大胆にも引き受けたのは、三井中興の土台が必要だったからであった。そのためにこの入札には、益田男爵の大英断があったのだが、この落札によって炭鉱とともに三井にはいった団男爵がその後炭鉱の経営にあたり、開坑、築港を完成させ、それを三井の宝庫にしていったのであるから、それはどこまでも三井家の幸運であったと言わざるをえない。
第四期 実業 明治二十四年より三十四年まで
五十四
三井入りの経緯(上巻179頁)
私が三井にはいるという話は、明治二十三(1890)年十月ごろに、その端緒が開かれた。それより以前、私は欧米商業視察の結果を「商政一新」という著書にして、日本の商業組織革新を論じて発表していた。当時としてはかなり先端的な実業論だったが、それを井上馨侯爵が読んで共鳴され、しばしば私を自邸に招きわが国の財政に関するこれまでの経験や将来の方針について語られていたのであるが、もともと世話好きな侯爵であるから、まずはわたしの結婚相手に有名な実業家の娘を紹介しようと言い出して、その相談のために当時侯爵が建てられたばかりの上州(注・現群馬県)の磯部の温泉別荘に呼びつけられたのである。
この別荘は侯爵の気に入らなかったようで、ほどなく興津に移られることになり建物も移築したのだが、わたしの結婚問題も先方に先約がありそのまま立ち消えとなってしまった。
しかし侯爵は私に何か世話してやりたいと思われたのか、そのころ侯爵が三井家の当主から同家の財政革新を依頼されていたのをさいわいに、私をこの任の先頭に当たらせるということで同家に採用してもらおうとしたのである。
十一月上旬私は侯爵に招かれ、三井家の歴史や維新における同家の行動、また維新後に侯爵が大蔵大輔だったときの三井の大番頭だった三野村利左衛門との関係から現在の状況にいたるまでの話を、ほとんど三時間にわたってきくことになった。
そして侯爵が「あまり思わしい働き場所ではないかもしれないが、とにかく日本屈指の旧大家であるから、君が一骨折ってみようと思うならさっそく三井家に交渉してみよう」と言う。侯爵が三井家のことを「思わしい働き場所でもなかろう」と言われたことからも、当時の三井が腐った大木のように、ともすれば崩壊してしまいそうな状態であったことがわかるだろう。
私はこのような勧誘を受けて、日本の長者番付の横綱である三井の家運の挽回のために力を貸すのは非常におもしろい仕事だと思ったので、とにかくひと働きしてみましょう、と快諾したのである。
井上侯爵は喜色満面で、ならばそのことを三井と深い関係のある渋沢栄一と三井物産会社の益田孝に伝えておくから、そのうちふたりに会見しなさい、ということになり、これでわたしの三井入りが決まったのである。
三井入りの試験(上巻180頁)
井上馨侯爵は三井の財政革新の先頭に立つ者として、私を三井に入社させようとした。さっそく私のことを渋沢、益田の両人に伝え、一度高橋の面接をし三井においてどのような仕事を担当させるかを考えてほしいと申し渡した。
明治二十三(1890)十二月二十日ごろだったと思う。このふたりが焼失前の帝国ホテルで三井関係の実業家たち十数名を集めて小宴会を開いた。その席で、欧米の商業視察報告をしてほしいと私に依頼されたので、だいたい「商政一新」の中で述べたことを話し、日本の各商業機関が、その年に始まる議会政治と足並みをそろえて円滑に発展する必要がある理由を三、四十分演説した。
渋沢、益田の両人をはじめ列席ののひとびとは、それはしごくもっともな話だと同意し非常に好感を持たれたようだった。こうしてこのふたりにより、私の試験結果が三井の主人や、そのときの総理であった西邑乕四郎(注・にしむらとらしろう)らに報告されたようで、暮れも押しつまった二十七日の午前十時ごろだったと思うが、渋沢子爵が私を兜町の渋沢事務所に呼び、「君の三井入りがいよいよ決定したから、拙者が同道して紹介することにしよう」と言って、用意してあった馬車で、当時の東京で屈指の西洋館で「ハウス」と呼ばれていた駿河町の三井銀行に連れていってくれた。その二階の大広間で、私は総長の三井高喜、副長の西邑乕四郎、幹事の石川良平と今井友五郎、支配人の斎藤専蔵との会見を行った。
そのときの渋沢子爵はいつもどおりの懇切丁寧な調子で、三井家の歴史から、自分と三井家、あるいは、同家の大番頭である三野村利左衛門と自分の関係などを説明した。また列席の重役に向かい、井上侯爵がわざわざ三井家のために洋行帰りの新人である高橋氏を入行させようと好意を示してくれているのだから、諸君は決して反感などを持たずに高橋氏が働きやすいようにしてほしい、という希望を述べながら私のことを紹介してくれた。
さまざまな協議の上、私は翌年の一月はじめから出勤することになった。そのことにより私はようやく職業にありつき、それまでの書生放浪生活を明治二十三(1890)末で打ち切ることになったのである。