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第四期 実業 明治二十四年より同三十四年まで
第五期 実業 明治三十五年より同四十四年まで
下巻目次
第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
二百六十四 益田紅艶冥土入り(下巻422頁)
東都名物男の随一であった益田紅艶【英作】氏は、持病の糖尿、腎臓病に二回の脳溢血を併発し、大正十(1921)年二月二日、享年五十七歳をもって悠然と冥土に出立した。
氏は、故益田鳳翁の末子(原文「季子」)で、伯兄(注・長兄)に孝男爵、仲兄(注・次兄)に故克徳を持ち、兄弟三人それぞれの特長をもって当世に栄達したが、中でも氏は飄逸な天才肌で、社会の各方面で数々の奇談逸事を残した。
この名物男についてはすでに何度も記述したことがある(注・80・千葉勝と紅艶、181・脱線党の一人者などを参照のこと)が、今回は永別に臨み、ここに二、三の興味ある行実を叙述してみることにしたい。
紅艶は慶応元(1865)年生まれで、明治十一(1878)年十五歳の時、遊学(原文「見学」)のためにまずフランスに行き、ついでイギリスに渡り、アメリカにはもっとも長く在留したので英語に堪能であることは言うまでもなく、英文の手紙を書かせては邦人中、彼の右に出る者はほとんどなかったという。
その後彼は三井物産会社に入り、英、米、シナの各支店に転勤したが、本来が剽軽な性質なものだから、他からの束縛を受けて規則正しく勤務することが好きになれず、三十歳ごろからはやくも気随気ままな生活に入った。
明治二十六(1893)年、彼がはじめて日本橋区浜町に構えた小宅で初陣茶会を催したときには洋行帰りのほやほやで、一半の西洋趣味を加え、来客を香水風呂に入れ、床には芭蕉の、
無惨やな兜の下のきりぎりす
という句入文を掛け、余興には河東節の邯鄲の一曲を出すなど、彼がのちのち一流を開くことになる趣向茶の処女的なひらめき見せたのである。これは、彼の茶道における魔法使いの始まりであった。
紅艶は美術鑑賞において一隻眼を有した。ふだんの金遣いは、いわゆる握り家(注・けち)の方だったが、美術的名品に対しては驚くほどに大胆不敵で、思い切った奮発を辞さないところがあった。
その所蔵品には新古さまざまなものがあり、中には観音だの阿弥陀だのといった古仏の手足の断片などもまざっていたが、彼の説によると、世界中で手足がいちばん自然に発達しているのは日本人だということで、その日本人において、生まれてからまだ何らの圧迫を受けていない子供の手足はもっとも自然美に近いものである。すなわち、古仏像の足の部分などは、それを手本に作ったものなので、土踏まずのない、むっくりした柔らかい子供の足に近い美形を保っているとのことである。その断片によって四肢顔面を想像すれば、仏像全体の美観がおのずから眼前に現れてくるので、真に古仏像を愛玩しようとする者ならば、手足の断片だけを見てもその美想を満足することができるのだという。この一事からしても、彼一流の見識を知るに足るのである。
紅艶の逸事は、茶事、美術鑑賞のほか、音曲舞踏方面で一番多いようである。
彼は、図体が大きな割には、声が細くて甲高く、その節回しのあどけなさがまるで子供のようで、しかも独りよがりの大天狗なので、さまざまな奇談を残すことになった。
彼の音曲の皮切りになったのは河東節で、十一代目山彦秀翁(注・十一代目十寸見【ますみ】河東)に弟子入りをした。例の「夜の編み笠」で、白鷺の一節を得意とし、かねがね長兄の鈍翁に自慢していた。
さて鈍翁がある日、汽車の中で秀翁に出会ったとき、ついでに、紅艶の河東節はどうですかときいてみると、もともとお世辞っ気のない秀翁は、「英作さんの調子外れときては、いやはや、まことに困りものでげす」とやっつけたので、これを伝え聞いた紅艶は、半時ばかり呆然としたのち、その日のうちに河東節をやめてしまった。
今度は転じて長唄の門にはいり、吉住小米についておおいに勉強しつつ、例の工夫沢山で、「有喜大尽」の大石(注・大石内蔵助)を、成田屋張りで語るという調子で、いたるところで喝采を受けたのを真に受けていた。ところがある時、小米の稽古場で、師匠が自分の噂をしているのを立ち聞きしてみると、「紅艶さんときたら、いつまでたってもアノ通りで、先の見込みがありませんよ」という始末で、紅艶おおいに悟るところあり、この時から河岸を振り事(注・歌舞伎舞踊)の方面に変え、さらにより多く珍談を残すことになったのである。その顛末については、長くなるので他日に譲ることにしよう。
紅艶は、その死後、築地本願寺境内に葬られ、円融院釈霊水居士という法名をつけられた。霊水とは、無論、彼の目黒の茶室である霊水庵からきた名称だが、円融とは、本願寺の和尚が勝手につけた法名で、この二字はもっともよく故人の性格をあらわしているだけでなく、あのステテコ踊りで有名だった故三遊亭円遊とその音便が似ているので、ある友人は
ステテコを地獄で踊れ円融院
と口ずさんだそうだ。紅艶が冥土でこれを聞いたなら、「敵ながらあっぱれでげす」とうなずくことだろう。
朝吹柴庵という大名物を失って間もなく、この大道具があの世に落札されてしまっては、東都の雅俗両社会は、ともに大いなる寂莫を感じないわけにはいかない。
この種の人物は、花は咲いても実は結ばぬというのが常なのに、紅艶はまったくこれに反し、生前にはあらん限りの気随気ままを尽くしながら、死後に大資産を残しているから、これこそまさに雅俗両諦に通じた完全な処世と言ってもよさそうだ。
史記に、「滑稽列伝」、「貨殖列伝」というのがあるが、大正時代の太史公(注・司馬遷)なら彼をどの列伝中に収めるであろうか。とにかく彼は、明治後期から大正時代にわたって、一種出色の名物男と称するべき者であろう。
二百四十五 古稀庵の石と竹(下巻353頁)
山県含雪(注・山県有朋)公は性来、多方面に多趣味で、文学方面における和歌では専門家を凌駕する力量があった。またさらに趣味は工芸方面にもわたり、嶄然(注・ざんぜん=ひときわ)群を抜いていたのは、公爵がもっとも得意とした築庭術であった。
公爵には、奇兵隊時代に長州において、すでに小庭園を造られたという経験がある。また明治初年には目白台に椿山荘を設計し、次いで京都の無隣庵を造った。この間に、小規模ながら、小石川水道町に新々【さらさら】亭を設け(注・134・「和歌修行の端緒」を参照のこと)、最後に小田原古稀庵を構築されたのである。いずれの庭園においても、水なき庭はその趣をなさず、という一貫した理想を実行に移された。
古稀庵の構築から数年たって、庭園の中にこれ以上新しい施設を作ってみる場所が皆無になってしまうと次第に腕がうずき(原文「髀肉(ひにく)の嘆を催し」)、同庵の崖下に五百坪余りの空き地があるのを買い取って、そこに新しい庭園を築造することになった。
さて公爵の築庭術は、水に一番の重きを置くものである。椿山荘においては、荘内にある池辺の天然湧水を利用し、無隣庵においては東山疎水(注・琵琶湖疎水)の分流を引き入れ、古稀庵においては鉄管で箱根山中の渓流を取り入れ、いわゆる「智者は水を楽しむ(注・「論語」から。知者は水の流れのように物事を円滑に行う)」の能事(注・やりとげるべきこと)を尽くされた。
築庭の要素である樹木と石類については水に対するほどの執心はなかったようで、公爵の愛顧を受けた植木屋の勝五郎老人なども、この点に関しては時々、公爵と所見を異にする場合があったらしい。もっとも、公爵が庭石についてまったく無関心でなかったことは、京都無隣庵築庭の際に、醍醐山の山奥に豊太閤(注・豊臣秀吉)が桃山築城の時に取り残したという大石があることを耳にして、ある日みずから踏査にゆき、兜型をした巨石に目をつけ数頭の牛でもって引き出したという一例からもうかがえるのである。この巨石は途中に幾多の障害があったにもかかわらず、ついには無隣庵に運び込まれ庭の主人公となったという経歴がある。
また古稀庵の庭前にも頼朝の馬蹄石というものを配置されたことがあったので、私は公爵の今回の新庭に使ってもらおうと、そのころ庭石として使い始めていた筑波山の山石の中から、もっとも雅趣のある大石三個を贈呈した。
そのときの礼状には、
「曽て(注・かつて)御話し有之候佳石三個、御恵贈を忝(注・かたじけの)うし、深謝不啻(注・ただならず)候、一昨夕草庵に罷越(注・まかりこ)し、直(注・すぐ)に一覧候処、頗(注・すこぶ)る美事なる良石にして、古色を帯び、恰好尤も宜敷(注・よろしく)、激流の尽処(注・つきるところ)に配置可致と楽居候、余而願置候庭上に建設すべき草亭之図、数葉拝見、其第三図に取極め可申含に候云々」
とあった。
このとき公爵は、高橋がせっかく佳石を贈ってくれたのだから、彼が一言もなく感服すべきところに配置しなくてならないということで、編み竹で石の模型を作って、その上に新聞紙を張りどこにでも簡単に運べるようにし、樹下へ、池辺へと据えてみて、遠近から熟覧したうえではじめてその位置を決定されたのだそうだ。
この新庭の完成後、私が公爵を訪問したとき、公爵みずからが私を案内してくださり、その苦心を語られ、大石を庭前に据え付けるにはこれが一番の方法だろうと言われた。私が、竹籠の張り抜きはいかにも新しい工夫だが、益田無為庵(注・益田克徳)は、茶席の露地に飛石を按配するときに、石型に切り抜いた新聞紙を、そこここに置き合わせていたことがありました、と言うと、それでは立体と平面の違いはあっても、吾輩より前にそんな工夫をした者があったのかねと非常に満足そうだった。
またこれより以前に、公爵が古稀庵の南端に一棟の離れ家を建設されたとき、私はその周囲に植えてくださるようにと、昔、皆川淇薗が長崎から京都に初めて輸入したと言い伝えられる苦竹を数十幹、京都から取り寄せ、「真鶴が岬に向へる園の中に千代をちぎりて茂れ若竹」という一首を添えて公爵に贈呈したことがあったが、そのときの公爵の礼状は次のとおりだった。
「御清康慶賀の至りに候、扨て嘗て御約諾致し置き候まま、過ぐる三日植木職を古稀庵に差出し候処、御恵贈被下候苦竹持参の植木屋と行き違ひに相成、昨夜植木屋帰京、芳翰落手(注・お手紙を受け取り)、猶事情細縷伝承候に付き、早速電話にて御挨拶申陳為置候、苦竹に付ては遠国より御取寄せ、不容易高配を忝うし、芳情深謝、且高詠感吟不啻、取敢へずおかへしの心を
窓近く君がおくりし竹うゑて こもれる千代のなかにすまばや
供一覧、余事拝青を期、御礼可申上候、草々拝復
七月五日朝 椿山荘朋頓首
高橋賢兄侍史
この書簡中の「窓近く君がおくりし竹うゑて」の一首は、椿山歌集編集者もその歌集の中に加えられたほどで、公爵の詠歌の中でも傑作の部類に属するものだろうと思うが、その後この竹がおおいに繁茂して公爵の清節をしのぶべく古稀庵の庭前の眺めとなっていることは、私にとってまことにこの上ない思い出なのである。
百五十 茶道十六羅漢(下巻7頁)
私は明治四十五(1912)年の初めから無職自由の境涯にはいり、もっぱら茶事風流に没頭することとなった。
そのころまでには東京に茶道の古老大家がうち揃い、いたるところで茶煙が上がっていた(注・茶道が興隆し茶会が開かれていた)。
例の和敬会という順会(注・会員宅で順番に開く会)なども、十六人の定員が満員の盛況ぶりだったので「十六羅漢会」の異名で呼ばれていたが、その会員の顔ぶれは次のとおりであった。(注・90に関連記事あり)
東久世通禧伯爵 竹亭(注・みちとみ)
久松勝成伯爵 忍叟
松浦 厚伯爵 鸞洲(注・まつら)
石黒忠悳子爵 况翁(注・ただのり)
伊藤雋吉男爵 宋幽(注・しゅんきち)
三井八郎次郎男爵 松籟(注・三井南家高弘)
三井高保男爵 華精
益田 孝男爵 観濤(注・かんとう)
安田善次郎氏 松翁
馬越恭平氏 化生
瓜生 震氏 百里
青地幾次郎氏 湛海
吉田丹左衛門氏 楓軒
竹内専之助氏 寒翠
金澤三右衛門氏 蒼夫
高橋義雄 箒庵
十六羅漢は上の通りであったが、一月四日(注・上に同じく明治45年)に東久世通禧伯爵が八十歳で薨去されたためひとりの欠員が生じた。その補充として、加藤正義【欽堂】氏に白羽の矢が立ち、十六羅漢が再び満員になったことは、東都の茶道界のためにまことに喜ばしいことだった。
ところで、これらの茶人のことを十六羅漢と言い始めたのは、例の富永冬樹氏(注・84「富永の毒舌」を参照のこと)だった。「和敬会の連中は、どれを見ても羅漢面だね」と言ったのが、ついに異名になったのである。
これより以前、氏は本所の横網に新居を造り、吉野吉水院の書院写しの茶室を作った。その新築開きに十六人の客を招き、これを十六羅漢に見立てた。大倉喜八郎男爵に鶴彦尊者、益田克徳氏に克徳尊者、また私には高義尊者などという席札をつけて、托鉢坊主の鉄鉢形応量器(注・てっぱつがたおうりょうき。飯鉢のこと)で、客にインド式の斎食(注・さいじき。食事)を配膳されたことを思うと、富永氏は、よくよく羅漢に因縁のある人なのだろう。
このときに招待された人たちは、富永の新築開きとあっては、例の口の悪さに合わないためには大いに奮発しなくてはならないと、いずれも喜捨物(注・お布施)をはずんだ。すると益田英作(注・益田孝、益田克徳の末弟)氏がそれを見逃さず、こっそりと新築費用と喜捨物の評価計算に着手したところ、喜捨物のほうが、はるかに新築費用を越えていたという結果が出た。そのとき、飄逸なる克徳尊者は突然立ち上がって一座を見回し、「諸君、ひとつできましたから、ご批評願います」と言って、
「主人は欲阿弥陀(横網だ)、お客は皆尊者(損じゃ)」
と披露したので、さすがの富永氏も例の気焔はどこへやら、ただ微苦笑を洩らすのみだった。
十六羅漢について、このような因縁のある富永氏が、和敬会員に対して十六羅漢の称号をつけたことはまことに不思議な巡り合わせなので、ここでその由来を記録しておく次第である。
東久世通禧伯(下巻9頁)
東久世通禧伯爵は、和敬会十六羅漢の白眉(注・特別にすぐれた存在)であった。伯爵は維新前、幕府の圧迫を逃れて京都から立ち退かれた、かの七卿の一人で、その勤王尽国の事跡は歴史にはっきりと刻まれ(原文「炳焉(へいえん)として青史に在り」)、余技である詩歌、管弦、書道などでも、またそれぞれの特長を持っておられた。
茶人としての伯爵は、まことに真率洒脱(注・飾り気がなく洗練された)で、器具の品評をするでもなく、その組み合わせを研究するでもなく、淡々として湯を呑むがごとくに、物にこだわらない流儀だった。
しかし生け花には深くこだわりを持ち、自邸に各種の植物を植えた。椿などは、ほとんど十数種類に及んだそうだ。
明治四十一(1907)年ごろから、伯爵はしばしば私の寸松庵(注・高橋の一番町邸にあった茶室)におみえになったが、たいてい静淑(注・物静かでしとやかな)で上品な伯爵夫人を同伴された。
その客ぶりは、いたって平民的で、談笑中には時々、諧謔(注・気のきいた冗談)などもまじえられた。寸松庵の露地や庵室が、いかにも質樸(注・素朴)で古雅(注・みやびやかな)なので、自分が京都にいるような心地がするといって、とても愛されたのであった。
またあるときには、七卿が西に下ったのち太宰府にあって、しばらくさすらいの身となられた時のことに話が及ぶこともあった。初めて会ったときから旧知のようで、宮中(原文「雲井」)に近い身分の方に対座しているように感じられなかったことは、非常に奥ゆかしい限りであった。
公卿から華族になった方には、もともと、案外率直で質素で平民的な態度の人が多いが、伯爵などは、そのなかでももっともその気風を代表する一人であろう。その痩せぎすで、あまり風采のあがらない中に、なんとなく深い印象を秘めていた。
伯爵の薨去後に、たまたま寸松庵に出入りすると、伯爵が悠揚として(注・ゆったりと)正座されている面影が、ありありと眼前に現れるような心地がしたものだ。私は追憶のあまりに次の二首を口ずさんだ。
とはれにし葎の宿に思出の 種をのこして君逝きぬはや
国の為心づくしの物がたり 聞きしも今は昔なりけり
百三十四 和歌修業の端緒(上巻463頁)
私は十歳ごろから古歌を記憶するようになり諷詠(注・詩歌を作ること)もすることがあったが、特に師について学んだことはなかった。ところが明治三十九(1906)年七月の下旬に益田鈍翁の鵠沼の別荘で山県有朋公爵と同宿し、主人と三人鼎座して話題が歌のことに移ったとき、公爵は詠歌に関する感想を述べられ「俺の父は国学者で、おりおり和歌を詠んだので、俺もその感化を受けて少年時代より和歌を好み、維新前、国事をもって京都に赴いた時、詩歌入りの『葉桜日記』を物した(注・書いた)こともあり、その後も折に触れて和歌を口ずさむことがあるので、近頃は小出粲【つばら】翁に添削してもらうことにした。君ももし歌を習うつもりならば、一度小出翁に逢ってはどうか(原文「如何」)」と言われた。
私はもともと歌が大好きで前から習いたいと思っていたところだったので、「仰せに従い、さっそく小出翁に入門して、おそまきながら稽古してみましょう」と答えると公爵はとても喜び、君がそのつもりならば、近日、俺が小出に引き合わせてやろうということになった。
こうして十日ほど過ぎたある日、公爵から小石川水道端町の別宅に招かれた。夕刻から参上すると、相客は田中光顕伯爵、鳥尾小弥太子爵、小出粲翁、井上通泰氏などの大家ばかりであった。
この別宅は、新々亭【さらさらてい】という名で、公爵が貞子夫人のために建てた(原文「構築した」)ものだった。庭は益田無為庵(注・益田克徳)と老公とが相談して造られ、神田上水が南下がりの庭を流れ去って池に注ぐという趣向だった。公爵には次のような歌がある。
さらさらと木隠れ伝ひ行く水の 流れの末に魚のとぶ見ゆ
当時は日露戦争のあとだったので、日本の国運が末広がりに発展するようすを示されたものらしく、その晩、池辺に焚かれたかがり火が青葉隠れにちらちらと水に照り添う光景を眺めながら、一代の歌人と政治家が風雅な談話を交換するという、非常に愉快な会合だった。
このとき私は、主人である公爵の紹介で初めて小出粲翁に対面した。翁は旧小浜藩士で、酒が好きなせいか鼻の先が赤く、目は象のように細く優しく、このとき七十三歳だったが、座談に長じて非常に快闊(注・快活、さっぱりした)老人と見受けられた。
この晩もいろいろな話をしたが、歌というものは、いつも思っていながら、ちょっと口に出せないようなところを言い表すのが妙所(注・表現できない味わい)で、小池道子(注・明治、大正期の御歌所歌人)の「程ふれば忘るるばかりの憂きことを嬉しく人にいはでやみにき」などは、そのよい一例であるなどと語られた。
こうして私は、山県公爵の厚い心遣いを感じ、二、三日後、水道端町の小出翁の閑居をみずから訪ね、「小出大人【うし】の和歌を乞はんとて詠める」という歌二首を持参して添削を願い、その日から贄(注・にえ)を取ることになった。(注・小出翁に入門した、の意であろう)
そのとき翁は、歌人になった来歴をみずから語ってくれた。「自分は少年のころ漢学を学び、好んで詩を作ったが、その後、歌を詠むことを習い、試作数十首をある歌人に示したところが、お前は自然の歌口があるから、歌を詠めば必ず上達するぞと言われたので、これより別段師匠にもつかず、ほとんと独力で勉強したが、本来、人には歌口というものがあって、学問の有無にかかわらず、詠み出づる言葉が、自然に歌になる人は、いわゆる歌口を持っている者である。ゆえに自分は歌を学ばんとする人に対して、まずその詠んだ百首ばかりを持参せしめ、その中にひとつでも二つでも歌口の調子があればよし、もしそれが見当たらなけれは、遠慮なく教授を断るのである。とにかく兼題(注・前もって与えられる題)をお渡しするから、ひとつ詠んで見られるがよろしい」ということで、船納涼、林蝉、蚊遣火の三題を渡された。
それから私は、翁が組織していた梔陰社【しいんしゃ】という歌の会に入り、その当座はなかなか勉強したものだ。
明治三十九(1906)年の末に、翌年の御勅題が「新年の松」というので、そのころ日露戦争がめでたく済んで日本は一等国となり、世間の景気も非常によいというめでたいことばかりが重なっていたので、私は、
よろづ代を経し老松もかくばかり 目出たき年はむかへざりけむ
と詠んで小出翁のもとに持参したところ、稽古が浅い割には、なかなか面白い詠みぶりだといって思いのほかの賞賛をいただき、それから先、私の一番町宅で、たびたび梔陰社の例会を開くことになった。
私の亡妻の千代子も会員に加わり詠歌の稽古をすることになったが、あるとき「森鶯」という題で、
鈴の音もたえて聞えぬうぶすなの 森の木がくれ鶯のなく
と詠み、そのときの秀逸となったことがあった。
これが私の歌道修業の端緒(注・はじまり)であるが、師匠についてからまだ二年とたたないうちに小出翁の物故にあい、たちまち良師を失ってしまったのは、まことに残念の至りであった。
百十七 目白椿山荘講評(上巻404頁)
私は明治二十三(1890)年に山県公爵に初めて会ってから、ほどなく三井に奉公して多忙になり公爵をあまり訪問することがなかった。公爵も日清戦争から日露戦争にかけて種々の政務があったので、この間は双方ともに接触する機会が少なかった。
明治三十五(1902)年の春、公爵は一番町(注・高橋箒庵の一番町邸)の寸松庵茶会に臨まれ益田克徳氏と同席された。そして翌年の同じころに克徳氏が鬼籍に入ったので、
まとゐせし去年の数寄屋の物がたり おもかげに立つ花の頃かな
という一首をたむけられた。このとき公爵は益田克徳氏の設計した寸松庵の庭を見てさまざまな品評を試みられたので、私も同年の秋に目白の椿山荘を訪問し庭前の紅葉を愛でた。
公爵が、この庭に対する私の所見を求められたので私は非常に当惑した。これはきわめてむずかしい役目なので、なるべく避けようとして「椿山荘の秋景はすでに賞玩したけれども、まだ春の様子を拝見していないので、追ってこれを拝見したうえで卑見を述べたい」と言い逃れをしていた。ところが明治三十八(1905)年の奉天戦が終わったばかりのとき、突然、私は次のような手紙を受け取った。
花の頃山荘を訪ふべしとの約もあれば、昨朝風光真情を
ここもまたなかば咲きけり我が山の 花こそ今は見るべかりけれ
など詠み出し、馬に鞍一鞭、直に走らせ可申と存じながら(注・馬に飛び乗って、うかがうべきところ)、軍務に取り紛れ、今朝に至ればすでに満開、急報に及び候、ゆるゆる御眺め講評を煩わし度、老生は残念ながら本営にまかり出で、御待ち致さず候、余事在面晤 早々不一
四月十三日 椿山荘主朋
高橋雅兄座下
このころ公爵は参謀総長で、戦争関連の仕事でいつもに増して忙しく参謀本部に近い五番町の別宅を使い、椿山荘には帰らず、
針金の糸のひびきに戦ひの つつの音さへ聞く心地して
と詠まれたような時節であったのに、椿山荘品評の約束を忘れず私にこのような風情ある書状を寄せられたという余裕しゃくしゃくぶりには、槊(ほこ)を横たえて詩を賦した(注・戦いのための矛を置き、詩作した)という古代の名将の故事も思い合わされ、いかにも風流であると感じたので、さっそく椿山荘を訪問した。
公爵はむろんのこと不在だったので、勝五郎という公爵お気に入りの庭師(原文「槖駝師(たくだし)」)の老人が案内に立った。彼は私にいろいろな質問をし、「この庭には、あの主人の気性もあって庭石らしい庭石も置いていないので、おそらくお気に召しますまい」などと誘い文句を発してくる。それで私もつい調子に乗り、「橋もこれでは粗末である。捨石についてももう少し奮発してほしい。」だとか、「書院に近い崖際に柿の木があるのは不似合いだが、もっとも目白の殿様だから柿がお好きなのも当然か」などと、駄洒落まじりの冗談を言ったりしながら、私が胸の内にしまっていたことも打ち明けてしまった。
この日はなにごともなく帰宅したが、その後ひと月ばかり過ぎたころに偶然公爵と同席することがあった。そこで私の椿山荘評をしようとしたところ、公爵が手をふって遮り、「いやいや、君の批評は残らず勝五郎から聴き取った、柿の木がだいぶ気に入らなかったそうだね」と言い出されたので、私は、さてはあの老庭師こそが、公爵から差し回された軍事探偵であったのか、とハタと思いいたったのであった。背中に冷や汗が流れたが、最後にはとうとう大笑いになった。
もともと山県公爵は趣味が非常に多方面にわたっていたが、なかでも築庭は青年時代からの趣味であった。奇兵隊長であったころに、萩城下の閑静な場所に、丸木橋を渡って門前に達するという趣向の小さな家を建てられたこともあるそうだ。
公爵の平素の主張は、「庭というものは、自然山水の縮図であるから、水がないことには趣が出ない、だからおれが造った庭で、天然の水がないところはない」というものだった。その通りに椿山荘もまた水に富み、庭前の池からは天然水が湧き出て、池尻には一条の小滝がかかっている。公爵はあるとき都下にある富豪の庭園を評し、「彼らは庭に水道の水を引きながら、客が来れば水を流し、客が去れば止めてしまうではないか、おれは貧乏人ではあるが、庭の水は年中流しっぱなしであるぞ」と気焔を吐かれたこともあった。
そのような次第で椿山荘は天然水に富んでいるうえに、都下には珍しい老松が池をはさんで相対峙している。雑木がその間に点在し、春よりも秋の紅葉時が優れているようなので私はあるとき、
此庭のあるじ顔なる老松も 紅葉に色をゆづる今日かな
と詠み公爵に見せたこともあった。公爵の庭園趣味についてはまだ多くの美談があるので、後段にて述べることにしたい。(注・245「古稀庵の石と竹」参照)
百十六
明治大帝御製(上巻400頁)
明治大帝の盛徳大業(注・すぐれた徳と大きな仕事。聖人君主の理想の姿とされた)はいまさら申し上げるまでもないことだが、和歌のことだけを見ても、古今の歌人のなかでも例を見ないほど多くの御製をお残し遊ばされたことは、まことに畏れ多いことである。
私は田中光顕伯爵が宮内大臣であったころ、当時、所在のわかっていた紀貫之筆の寸松庵色紙十七枚を模写し一帖にしたものを、伯爵の手を経て、大帝に献納したことがあった。そのとき伯爵はこのように語られた。自分は大帝陛下が非常に御歌にご達者なことを聞き及んでいたので、あるとき御歌所に参り、その日に陛下から高崎御歌所長にお下げになった御歌を拝見した。すると、一日で百六十首あったので、ただひたすらに驚嘆するほかはなかった、ということである。
陛下は、もちろん御若年のころから御歌をお詠み遊ばされたようで、明治八(1875)年四月、向島の水戸徳川邸に御臨幸のときには、聖算(注・天子の年齢)二十四歳であらせられたが、当時水戸家に賜った御製は、
花くはし桜もあれどこの宿の よよの心を我はとひけり
というものだった。御若年のころから御堪能であったことがうかがわれる。(注・163「明治天皇御宸翰」に画像あり)
ある人から高崎御歌所長から直接きいた話だというものによれば、陛下の御製は、日露戦争のころから大きな御進境を示されたとのことだ。これは国家未曾有の大変に当たり、御奮起遊ばされた異常なまでも勇猛心が自然に御製の上に現れたのであろうということである。その日露戦争中の御歌としては、
よもの海みなはらからとおもふ世に など波風のたちさわぐらん
敷島のやまと心のををしさは 事あるときぞあらはれにける
子等はみないくさのにはに出ではてて 翁やひとり山田もるらん
などのようなものを次々にお詠み遊ばされたので、高崎男爵は感激のあまり、このような御製を臣民に知らせないのは道理でない、しかし、もし陛下にお伺いすれば、なんと御返事があるかわからないので、自分は御歌所長として責任を持ちこれを発表するのだ、ということで、ありがたい御製を世に知らしめたのである。拝読した者たちは聖慮の広大で深遠なことに感泣したが、これがいわゆる「天地を動かし、鬼神を感ぜしむる(注・「詩経」の一節。感ぜしむる=感動させる)ようなもので、国家の隆運に無限の影響を及ぼしたことであろう。
言の葉のまことの道を月花の もてあそびとは思はざらなむ
とのたまったように、御製というのは、つまり陛下の直言であるから、国民は真の勅語としてこれを心にとどめて忘れず、万世の亀鑑(注・手本)として仰ぐべきものであると思う。
高崎御歌所長(上巻402頁)
御歌所長の高崎正風男爵は薩摩の出身で、維新のときには西郷、大久保らと国事に奔走した志士である。同じく薩摩藩士で、香川景樹の流れをくむ八田知紀に学び、明治歌仙の中で随一の存在である。
明治十六(1883)年、徳大寺侍従長が明治天皇の御内意を受け、当時の歌仙十四人から近作の三十首を奉らせた。作者の名前をかくし無名投票をしたところ、その結果で最高点を得たのが高崎男爵、次点が伊藤祐命、その次が小出粲【つばら】だったという。
当時の最高点を得た男爵の和歌三首は次のようなものである。
馬上見花
のどかにも見つつゆくべき花かげを いさめる駒に乗りてけるかな
述懐
言の葉の誠のたねとなりぬべきを さな心はいつうせにけむ
晴天鶴
青雲のかぎりも見えぬ大空に つばさをのべてたづ鳴わたる
聞くところによると、男爵は明治天皇の御製を拝見するようにという仰せをこうむったとき、みずから御前に伺候して、和歌をつれづれの友と遊ばされることは、まことにありがたいことだけれども、御嗜好のあまり、ご政務の差し障りにならないように、あらかじめ願い上げ奉ると申しあげたうえで、それをお受けしたのだそうだ。
私は明治十七(1884)年ごろ、親友の渡邊治とともに、「仮名の会【会員に伊沢修二、後藤牧太氏などがいたと記憶している】」にはいり、当時その会場になっていた数寄屋橋外の地学協会に出入りすることがあった。高崎男爵もときどきこの会に臨席されたので、さいわいにその謦咳に接する(注・声を聞く)機会を得た。私の目に映った高崎男爵は、威厳があるが荒々しさはなく寡黙で上品であった。かの俊成卿(注・藤原俊成)という人は、このような人ではなかったろうかと思われ、詠みだされる歌にも正統的な雅びさがあるにちがいがいないと思われた。
私は明治三十一(1898)年に、はじめて栃木塩原に遊んだ。そのとき高崎男爵が、奥藍田、益田無為庵(注・益田克徳)と並んで、東都紳士として、この地におよんだ草分けであったということを知った。
男爵の別荘は箒川の上にあり、そこで男爵が詠まれた即興の歌は今では世間に伝唱され、塩原の風景に一段の光彩を添える趣がある。全景を詠じたものでは、
もみぢ葉のさかりに見れば常盤木は まばらに立てり塩原の里
というものがある。また、兄弟の滝の歌としては、
いつ来ても同じ声してむつましく 語るに似たり兄弟の滝
というものがある。これらの示す典雅の格調を見ても、おのずとその作者を見るような心地がする。明治時代に、このような歌仙が御歌所長としてその歌壇を荘重にしていたということは、まことに聖世の偉観であったと思うのである。
百七 益田無為庵の茶風(上巻369頁)
益田克徳氏は非黙と号した。無為庵、撫松庵の別号もある。兄が孝男爵、弟が英作氏で、兄弟三人とも非凡な人物ぞろいだった。みな数寄者であったが、なかでも克徳氏は茶人として、また趣味愛好者として非常な天分に恵まれた人物だった。私が生まれて初めて茶席入りをしたのも彼の茶室だった(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)し、また一番町の自邸に寸松庵を移築したときの指揮をとってもらったのも彼だったので、私にとっては常に茶事のうえでの先輩であり、彼から感化を受けたことも少なくない。明治時代において、彼は忘れてはならぬ一大茶人であった。
彼は東京海上火災保険会社の支配人だったので、かつて欧米諸国の保険業の視察に行き、その帰りにカルカッタに立ち寄り、同地の古物商から一種の広東縞を一巻買ってきた。これは、国王が象の背中にかけたものだと言い伝えられており、それまで日本に渡ったことのないものだったので、益田広東(注・ますだかんとん)と名付けられ、今日でも茶人のあいだで珍重されている。
また彼はいかにも洒落もので、温和で趣味に富み、工夫が多く、しかも世話好きだったので、彼によって茶味を刺激されて知らず知らずのうちに茶人の門にはいった紳士も少なくない。渋沢栄一子爵、近藤廉平男爵、馬越恭平氏、加藤正義氏などはみなそうした連中で、兄の孝男爵、弟の英作氏の物数寄も、彼に負うところが少なくないようだ。
彼は根岸に住み、その本邸の庵を撫松庵といい、別邸のほうは無為庵と号していた。どちらもおもしろい構造だった。渋沢栄一子爵の王子邸茶室も彼の縄張りにかかっていた(注・設計であった)。また、近藤廉平男爵の牛込佐内町の其日庵、品川益田孝男爵の幽月亭、眞葛庵などもそうである。
彼の茶風は大侘びのきわみで、所蔵の道具は、雑器にいたるまで一品たりとも凡物がまじっていなかった。
その道具を愛好する熱烈さは、いったん気に入った器物を見ると、五両一分の借金をしても獲得しなければすまない、という感じだった。また、非常に巧思(注・すぐれた発想)に富み、みずから手びねりして作った茶碗の中には、気韻(注・気品、趣がある)のあらわれている名品も少なくなかった。一時期梅澤安蔵が所持し、のちに益田孝男爵に譲った「翁さび」という黒楽茶碗などは、大正名器鑑にも収録されたほどの傑作である。
彼は、侘び茶の工夫がうまく、毎回おもしろい茶会を催した。それが余りに行き過ぎることなく、茶番狂言になってしまわない範囲で行われるところに、ほかの人には及びもつかない軽妙さがあったのである。
あるとき撫松庵で、瓢箪茶会というのを催したことがあった。床に掛けた花入は、千宗旦所持の瓢(注・ふくべ)で、その横手には、朱漆で、
けふはけふ明日また風のふくべ哉
と書きつけられていた。それを見たときには、なにやら彼の人となりを、まざまざと見た(原文「道破した」)ような心地がした。
そのほかにも、香合、水指、向付、徳利などの点茶懐石道具の一切が瓢箪だった。なかでも瓢箪模様を織り出した有栖川切の袋を掛けた瀬戸大海茶入が使われていたのが、おおいに連客の好奇心をそそった。当時の評判の茶会であった。
無為庵は、茶道だけに秀でていただけでなく築庭術にも長じていた。彼の根岸御隠殿の庭は、上野の山を庭内に取り入れ、松原の下草に一面のすすきを茂らせていた。これは、彼が所蔵していた寂蓮法師筆の右衛門切に、
小倉山ふもとの野辺の糸すすき ほのかに見ゆる秋の暮かな
とある歌意を取って、上野の山を小倉山になぞらえ、その趣を現わしたものだった。その侘び趣向が、いかに徹底していたかをうかがうことができるだろう。
無為庵は明治三十六(1903)年四月、大阪平瀬家の蔵器入札の下見に行こうとして新橋駅に向かう途中、ある旗亭(注・料理屋、宿屋)で休息しているときに突然脳溢血を起こし、五十六歳で死出の山路に旅立ったのであった。私は、
極楽や花見がてらのひとり旅
という一句をささげた。彼はどこまでも風流な男で、西行法師の「願わくは花の下にて春死なむ」という理想をそのまま実行したのである。
彼はなにごとにおいてもとても器用だった。字が上手で漫画もうまく、狂歌にいたっては優に堂奥に入っていた。ある年の大師会に模擬店が出ているのを見て、
おん菜飯天ぷら蕎麦か芋陀羅尼 あな飯うまや何を空海
と口ずさみ、大いに喝采を博したこともあった。
彼が没した翌年、日本橋の福井楼で遺品の入札会が開かれた。すこぶる名品が多く、現在は兄の孝男爵が所蔵している絵瀬戸茶碗、松虫蒔絵香合、雲鶴女郎花茶碗や、益田信世氏が所蔵している八幡文琳茶入などはその優秀品であった。
時あたかも日露戦争の勃発する直前で、このような名品ぞろいの入札にもかかわらず、一品で二千円以上になったものがなく、後年の好況時代ならば、おそらく数十万円の売り上げになったであろう売立が、わずかに四、五万円で終わってしまったことは非常に残念なことだった。
しかし、彼がいつも道具買いの金に行き詰っていたことを知っていた友人たちは、生前にこの金でも持たせてやりたかった、と言い合ったほどだった。私は今日までいまだ、彼のような恬淡にして面白い茶人には出会ったことがないが、今後もまた出会うことはないと思うのである。
九十二 寸松庵開き(上巻313頁)
私が明治二十八(1895)年に大阪から東京に呼び戻され三井呉服店の理事になると、仕事柄それまでの書生生活から抜け出し、ひとかどの紳士になりすますことになった。書画、骨董、茶事、音楽、演劇、相撲、はたまた花柳界にも手を伸ばすことになり、その勉強や道楽でいくら時間があっても足りないほどだった。
その中でも、まず茶道について話そう。三井家の主人はもともと本拠地が京都だったので、茶道の流派はたいてい表千家であった。その好みは番頭たちにも伝染し、益田孝、馬越恭平、木村正幹、上田安三郎はすでに相当の数寄者になっていた。旧番頭のなかにも齋藤専蔵、今井友五郎らの茶人がいたので、朱に交われば赤くなるのたとえのとおり、私もしばしばこの人たちから招かれることが重なると天性の嗜好に油を注ぐことになり、彼らとの交際に忙殺されるようになっていった。
これに先立ち、私は益田克徳氏の茶会を皮切りに(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)大阪にいるあいだにもしばしば茶室入りしていたが、明治二十八(1895)年に東京に移ってからは病みつきになっていったのである。
明治三十一(1898)年に麹町一番町に新宅を建設したときには茶室、露地の設計を益田克徳氏に依頼した。そして、あの五か条の御誓文の起案者として有名で、当時新宿御苑の一部に住んでいた由利公正子爵から、その邸内にあった寸松庵という三畳台目の茶室を譲り受けることになった。
この茶席は寛永の昔、徳川三代の将軍の茶道師範だった佐久間将監真勝が京都紫野大徳寺境内に創建したものである。小堀遠州の孤蓬庵の向かいにあり、開基は江月和尚、初住は翠巌禅師で、異彩をはなつ唐門をはじめ建築上のさまざまな趣向が施されていたという。
この寸松庵が明治十二(1879)年に維持困難になり、ついに取り壊されたとき、石山子爵がその茶室を引き受け東京の新宿御苑の一部の土地を借りて移築された。茶席のほかに、二畳敷、中二階式の袴付席があり、庵に付属していた播知釜(注・織田信長が佐久間信盛に与えた釜)や、与次郎(注・千利休の釜師、辻与次郎)の五徳なども一緒に、杉孫七郎子爵の仲立ちで私が譲り受けることになった。そのとき杉子爵から私に送られた狂歌は、
お値段はたかはし【高橋】にてもよしを【義雄】かへ 袴つけたる佐久間将監
というのであった。
益田克徳氏は、この袴付席を、邸内の東南寄りの竹林中に建てることにし、露地の設計に非常に苦心された。私は大阪に滞在中に毎日曜日ごとに寺院を巡っているうちに伽藍石に対する愛好心を持つようになり(注・72「古社寺の巡礼」を参照のこと)、その熱が充満している時期だったので、奈良地方を中心に畿内各地にある千年以上の古寺院にあった蹲踞【つくばい】石、伽藍石、石塔などを物色し、法華寺の大伽藍石七個、海龍王寺の団扇形蹲踞石、法隆寺の煉石十三重塔などを買い取っていた。それを庭の要所要所に配置した。
益田氏は、栃木塩原の景勝の縮図を庭園内に写して作庭を行った。わずか千坪の小さな庭ながら、奈良の古石を東京に持ってくるのは、この庭が初めてだったので、東京の好事家の目を驚かすことになった。井上侯爵が内田山邸に奈良石を搬入されたのは、このあと一、二年後のことだった。
こうしてこの席は、旧名である寸松庵を襲名し、席開きの茶会のときには床の間に紀貫之筆の丹地鼈甲紋寸松庵色紙の、
年ふれはよはひはおいぬしかはあれと 花をし見れは物おもひもなし
というのを掛けた。
この色紙は、古来、古筆家が紀貫之であると認定したもので、同筆として高野切、家集切【いえのしゅうぎれ】などがあるが、この色紙が最高傑作であるとされている。最初、和泉の堺の南宗寺にあったものを、初代の古筆了佐の鑑定を経て、烏丸光広卿が買い取った。そのときには三十六枚あったが、その後、佐久間将監が中から十二枚選び出し、色紙の歌に相応する図柄の古扇面を取り合わせ、色紙を上に、扇面を下に貼りまぜて一帖を作り、寸松庵の備品にしたのである。それを世間で寸松庵色紙と呼ぶようになったために、この名前がある。
その扇面帖は、その後一枚一枚に分散し、現在の所在がわかっている二十九枚のうち扇面まで揃っているのは、わずか四、五枚に過ぎない。
私は寸松庵開きのために是非ともこの色紙がほしいと思い、三十一(1898)年に一枚手に入れた。それは千円ほどであったが、それから二、三年後にまた手に入れたときには三千円にまで値上がりしていた。その後も大正五(1916)年には二万二千円というものがあり、同十四(1925)年ごろには五万三百円というレコード破りがあった。
私は明治四十二(1909)年に、この色紙のうちの十七枚を模写して一帖を作り(注・模写したのは田中親美)、田中(注・光顕)宮内大臣の手を経て明治天皇皇后陛下に献上した。その後十数年たってから名古屋の森川勘一郎氏が模写させたときには多数の新発見があり、総数は二十九枚に達していた。
私の寸松庵開きには、例の播知釜を用い、東久世通禧、松浦詮伯爵、三井(注・松籟か)、石黒(注・忠悳)、益田(注・孝)、赤星(注・弥之助)、安田(注・善次郎)、馬越(注・恭平)などの当時の長老茶人を招待したので、たちまちこの方面の評判になり、さっそく推薦されて和敬会の会員になった。いわゆる十六羅漢の一員になり、それから今日まで茶人仲間として在籍することになったのである。これが、私の三十七、八歳のころのできごとである。
七十九
恋の破産者(上巻270頁)
益田英作は、長兄に孝男爵、次兄に克徳という大家を持ち、兄弟三人いずれも稀代の数寄者ぞろいである。中でも英作は駄々っ子で稚気に富み、若年のころから奇行が多く、その傑作に至っては人を抱腹絶倒させた。言ってみれば、明治後半から大正初期にかけて朝吹柴庵と負けず劣らずの愛嬌者の双璧であった。
英作はかつて芝公園に住んでいたので、友人が公園、公園、と呼んだため、その音に因んでみずから紅艶と称した。茶事においてはふたりの兄にすこしおくれて出発したが、趣向においてはむしろ一歩先を行き、奇抜な茶会を催して人を驚かすことが多かった。しかしそのことは後段に譲るとして、今はまず、彼が結婚前に起こした恋愛の失敗について一、二のエピソードを物語ることにしよう。
紅艶は三十前後から非常に肥満し、腹はでっぷり布袋腹、盆の窪(注・首のうしろ)の肉塊は二段になり、色白で顔が紅潮し愛嬌たっぷりの目尻が下がっていた。極度の近眼で、非常なおっちょこちょいな性格のため、よくいろんなものを見間違えてとんでもない滑稽なことをやってしまうことがあった。
ある実業家の次女を見初めたときには、おりおり彼女を訪問し、西洋風にバラの花などを贈っていい気になっていたのだが、その令嬢が逗子の別荘に避暑中、大雨で交通が途絶したことがあった。その報道を聞き、当時鎌倉にいた紅艶は、まずは逗子にいる令嬢を見舞わなくてはいけないと別荘のそばまで駆けつけたが、あたりは浸水して一面洪水のようになっている。やむをえず衣服を脱ぎ捨て頭上に載せ、真っ裸で洪水のなかを進んでいった。その姿は、布袋和尚の川渡りそのままだった。
別荘の縁先に立ってこれを眺めていた令嬢は、それがまぎれもなく紅艶だとわかると、オヤと驚いた声を残して障子の内側に逃げ込んだ。その後、紅艶から正式に結婚を申し込まれたとき令嬢は目を伏せて涙ぐみ、「わらわ(注・わたし)は尼になります」と言い出したとのことで、この恋愛はとうとう失敗に終わったのであった。
もうひとつの失敗は、明治二十九(1896)年の歌舞伎座で団十郎が助六を興行したときのことである。新橋烏森の濱野家という茶屋の主婦の養女に、おきんという美少女がいた。まだ歳は十四歳くらいだったのを紅艶が見初め、僕は今からあの娘を自宅に引き取って自分で一切の教育をし、日本において新しい結婚の手本を作ってみせよう、ということで濱野家主婦に頼み込み、とりあえず、おきんを浜町の自宅に引き取って懇切丁寧に三拝九拝のごきげんとりをして手なずけるつもりだった。ところが、おきんもなかなかのわがまま者で紅艶は大弱りしたという。
これを、ある江戸っ子の通人が見て、まだそのころまで江戸趣味の名残りで残っていた悪摺(注・あくずり。戯作者や好事家が、事件をネタにしてからかいをこめて流した印刷物)にした。大きな象の形をした紅艶の背中に普賢菩薩のようなハイカラ娘が馬乗りになっている絵の上に「今ぢゃ普賢も開化してザンギリ頭の象に乗る」といれて、硬軟とりどりの各方面にばらまいたので一時期大評判になったものだった。
この小普賢はいつしか象を置き去りにして、とうとう濱野家に逃げ帰った。それが、後年の日向きん子夫人(注・のちの林きむ子)なのである。
しかしながら、紅艶が最後には駒子夫人を得てかえって恋の大成功者になったということは、ここで付け加えておかなくてはならないだろう。
紅艶の暹羅(シャム)土産(上巻270頁)
益田紅艶は若いころ長兄がやっていた三井物産会社にはいり、ロンドン、上海の支店などに勤務していた。奇矯飄逸な人となりだったので、几帳面な会社員の仕事を続けることをよしとしなかった。ほどなく退社し独立して商売口を見つけようと、明治三十一、二(1898~99)年ごろに一商人としてシャム(注・現在のタイ)行きを試みた。
その目的は、むかし「南蛮もの」と総称されて日本に輸入された器、道具、織物のなかに産地の不明なものがあるので、それを特定したいということや、徳川時代の初期には一時伝来していた香木が、その後なぜかまったく途絶えているのは遺憾であるということで、これまで気にかかっていたそのような疑問点を解決することにあった。
さてシャムにわたり、いろいろ探ったところ、香木は現地においても非常に貴重とされているが、だいたいが沈香の類で、昔日本に渡来したような伽羅の種類は非常に少ないということがわかった。
織物のほうも、紅艶の次兄の克徳氏が少し前にヨーロッパからの帰り道にカルカッタで見つけた掘り出し物で、その後、益田広東【かんとん】と名づけたような時代ものの広東縞はほとんど一点も見つからなかった。
以上の点では失敗だったわけだが、ここにひとつの大きな発見があった。昔、茶人が宋胡録【すんころく】と呼んでいた南洋伝来の焼き物があった。土の地肌が粗く、鼠色の地に黒い釉薬が大雑把にかかって模様を作っている焼きもので、それまでこの器の産地がわかっていなかった。ところが今回、紅艶がシャムで調査したときに、同地にスンコロ―という地名があり、そのころこのあたりの古陶窯の址から宋胡録と同じような陶器が発掘されていることがわかったのである。紅艶のシャム入りのおかげで長年の疑問がついに解決を見るという偉業がなされたわけだ。
こうして鬼ヶ島に渡った桃太郎のように、かずかずの土産物を持ち帰った紅艶は、根岸の御隠殿(注・ごいんでん。輪王寺宮の別邸があった)にある次兄、克徳の無為庵において大茶会を催した。床の間には清巌筆の地獄の二字を掛け、天狗の鼻になぞらえたのか、銘を鞍馬山という茶杓を使ってさかんに気焔を吐いた。これも紅艶の独壇場で、他の追随を許さないものがあった。
五十九
実業生活の首途(上巻196頁)
前述のように、私は明治二十四(1891)年一月から、役名はなかったが客分の資格で三井銀行にはいり、それまでの半人前の生活を終えて実業生活にはいった。そこで、家庭を構えるために妻帯の必要を感じ、四月二十四日に山口県人の長谷川方省次女の千代子と結婚した。これはまったく私事であるけれども、当時の私の生活状態がどのようなものであったかを次に少し記しておきたい。
私は明治十四(1881)年に東京に出てきてから、このとき早十年になっていた。それまで実家から金の仕送りを受けたことがなく、友人から金を借りたこともなく、借金というものは私にとっては絶対に禁物だった。
慶應義塾に在学のときは福澤先生から毎月七円五十銭を与えられ、約一年で卒業したあとは時事新報にはいり、最初の月給は十円、その後次第に昇進し、明治二十(1887)年に退社したときには、社員の中で最高給の百円くらいの月給をもらっていた。
洋行時の前半は下村善右衛門氏から出資を受け、後半は旧藩主の徳川篤敬公爵からの臨時借用で間に合わせ、明治二十二(1889)年の帰国から三井にはいるまでの二年間は、前半は時事新報の社説執筆料で、後半は横浜貿易新聞の監修料で、生計には特に困るほどのこともなかった。
三井銀行では百五十円を給与される内約であったので、築地三丁目に家賃二十五円の家を借り簡単な婚礼を済ませ、自宅で披露宴を行った。
そのときに床の間にかけたのは、当時の都新聞社長で私の親友だった稲茂登長三郎氏から、偽筆と知りながら借りてきた松村景文筆の松に鶴の掛物で、その前には銀座の縁日で買ってきた万年青(注・おもと。葉を観賞する)の盆栽を一鉢飾って平気の平左衛門、そこに隣家の池田謙三夫妻や三井関係の実業家を招待したという、無頓着もいいところだった。
後年、茶事を学んだり、美術品をひねくりまわすようになり、結婚当時のことを顧みて、その大胆さにわれながらあきれ果てたものだ。池田夫妻らとも、このことを話して毎度大笑いになるのであった。
さて結婚したのは私が三十一歳、千代子が十九歳のときだった。千代子の父、長谷川方省は漢詩を作るのがうまく、同県人の杉孫七郎子爵、遠藤謹介、福原周峯などと親友のあいだがらだった。小心翼々たる君子人(注・つつしみぶかい聖人君主)で、遠藤氏が造幣局長だったときに次長を勤め、小崎利準(注・原文では「尾崎」)氏が岐阜県知事だったときに書記官をつとめたという人で、明治二十二、三(1889~90)年ころには官を退き東京の飯田橋に住んでいた。これまた同県人で三井物産会社の重役だった木村正幹氏の仲介で婚約を結び、初代大審院長の玉乃世履の長女を妻としていた医師の片桐氏が媒酌人となってくれた。
こうして千代子は十八年間私と生活をともにしたが、明治四十一(1908)年の冬に三十九歳で死去することになる。妻については、またのちに記すことにさせていただきたい。
最初の茶室入り(上巻198頁)
私は明治二十五(1892)年十二月下旬のある日、益田克徳【号を非黙、または無為庵】氏に招かれて、生まれて初めての茶室入りをした。
東京では維新のあと一時期茶の湯が衰退し、どこにも茶煙があがるところはなく、名物といわれるような茶碗が二束三文で売買される状態だったが、西南戦争のあと社会の秩序もようやく落ち着き、明治十三(1880)年ごろから、ぽつぽつ茶人が頭をもたげるようになってきた。
そのなかで益田克徳氏は、侘茶の数寄者で、その人間全体が非常に茶人向きにできていたので、兄の益田孝【号、鈍翁】男爵や弟の英作【号、紅艶】氏よりも数年はやく茶道にはいり、紳士の茶人の先輩として馬越恭平、加藤正義、近藤廉平らを感化するなど、大勢の友人を茶事に親しませたという功績を持っている。明治二十五(1892)ごろは、上根岸の、庭に老松のある邸宅の母屋につなげて建てられた、無為庵という茶室を持っていた。
その田舎家風の休憩茶室で歳暮茶会が開かれた。牛小屋のように天井を見せた茅葺きの室内の壁床(注・床板、落し掛けのない床の間)に、張即之筆鬼の大文字と、福の一字を織り込んだ唐織裂とを継ぎ合わせた一軸を掛け、大炉には、煤竹(すすだけ)の自在鉤に、大きな手取釜を釣ってある。五客には、それぞれ素焼きの焜炉(こんろ)を配り、青竹籠に、つごもり蕎麦と鴨の切り身を盛り合わせ、自分で調理していただくという趣向だった。
この日の正客は加藤正義氏で、そのころ葭町あたりに太郎という名のひいきの芸者がいたのを克徳氏がいつのまにか察知して、さりげなくぎゃふんと言わせるつもりか、最近大阪で手に入れたノンコウ(注・楽家三代目、道入)作の茶碗で、銘を太郎というものを使ったので、正客は驚くは喜ぶはで、最後には大笑いとなった。
克徳氏はつかみどころがない、ふわふわした客あしらいがうまく、いかにも無邪気で愛嬌に富む性格で、このようないたずらっぽさのある歳暮茶事に初めて出合った私は、すでに心の中にきざしていた茶の湯への好奇心の火に、一気に油を注がれたようなものだった。この夕べをきっかけにして、私は生涯、茶煙に巻きこまれることになったのである。