だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十九  故犬養首相遺事(下巻551頁) 

 犬養木堂翁が昭和七(1932)年五月十五日に永田町の首相官邸で青天白日のもと兇徒の毒手にたおれたことは、日本開闢以来の大椿事であった。これに関して世相の批判をすることは歴史的な意味からも重要なことではあるが、そのことについては他日に譲る。
 私はこの兇変により五十年の知己を突然失うことになった。驚愕哀傷、まことに言語道断のできごとだった。
 大政治家である以外に、書道、刀剣、古硯、筆、墨など、幅広い趣味を持っておられたこの翁との交遊を、今、回顧すると、数々の追懐が湧き起こってくる。私は、先輩に対する哀悼の情を慰めるため、ここでその想い出の二、三を記し読者の同情にうったえようと思う。
 木堂翁の余技の中で、もっとも得意としたのは書道だろう。かつて、何流を究められたのかと聞いても、「我に師承なし、ただ古法帖を研究したのみだ」と言われていたが、その書体は、木堂その人のように、痩硬勁抜(注・けいばつ=抜きん出ている)としていた。これは、翁が非常に精通していた刀剣の鑑定からヒントを得たのではないかという感じがしたものだ。
 翁は親友の榊原鉄硯君のために、その文人画を世間に紹介するために、みずからがその讃を書かれたことがあった。私も翁の墨蹟をひとつ持っておきたいと思い、あるとき八木岡春山に孤舟独釣図を描かせて、翁にその讃を乞うたことがあった。翁は、長上幅の上方に、


  雲水平生一釣綸 扁舟来往楚江浜 自焼緑竹炊新飯 誰道煙消不見人
       是徐幼文詩也 木堂散人書


としたため、さらにこれに添えて、次の一書を送ってくださった。


 「敬啓、字がユガミ甚だ見苦し、御勘弁可被下候、此詩は明初の徐賁(注・じょほん。元末明初の文人画家)の作、柳子厚の日出煙消不見人 乃一声山水緑』の翻案にして、尤も傑作と存候に付、認め候。」


 翁がみずから詩作をされたのかどうか、私はついにこれを見たことがなかったが、榊原鉄硯君の画に讃するときは、図柄に応じて、たいてい古人の詩を書かれていたようなので、ふだん好んで唐宋時代以降の諸大家の詩集を読破されていたのだろう。 
 さて画讃についてであるが、これは翁のもっとも苦心するところで、その布置按配の妙は専門家といえども遠く及ばないほどだった。
 翁は書道に深く通じていたので、古硯、筆、墨などについても非常に精密な研究を重ねられていた。例の、直截で簡明な毒舌で滔々と説明されるところには、おおいに傾聴する価値があった。
 翁はもともと皮肉屋で、相手の急所を突くのがうまく、ウイットに富んだ批評で相手を一言で降伏させる技量を持っていた。これは、長年政壇の勇将として攻勢弁論に当たった鍛錬から来たものであろう。時に友人と会って談話をすると、翁はたちまちその中心になり、その話の中には、必ず何か人を驚かすようなことがなければ気が済まないというところがあった。時として悪ふざけが混じることもあったが、どこか独特な愛嬌があって、毒舌の毒を、その後に残さないところに木堂一流の特長が見受けられたのである。
 たとえばある人が老大政治家を指して、「某氏も近頃少し箍(注・たが)が弛んだようだね」と言うのを聞くなり、翁は口元に微笑を浮かべて、「某氏に箍があったのかね」と反問した、などというのはいちばんの例である。
 また翁が大茶目を発揮した一例は、親友の朝吹柴庵【英二】翁が、以前親しくしていた婦人に大阪で旅館を開かせた時、翁は軽石を奉書に包み、水引をかけて、うやうやしくこれをその婦人に贈り、暗に柴庵翁のあばた面を諷したというものだ。これなどは、すこし薬が強すぎた感じがあった。

 私は、翁が首相になってから、ある日翁に会ってゆるゆると談話する機会があったので、次のように言ってみたことがある。「貴下はシナの要人の中に、年来懇意にしている人が多いようだが、彼らと親しく胸襟を開いて、日支の親善の気運を盛り上げるのは、今日、貴下のほかにはいないと思われる、むかし、伊藤公、大久保侯らが李鴻章と会見して直接意見交換をし、その都度、東洋の平和が破綻せずにすんだことがあったが、その後の日支交渉は、いつも公使や領事任せで、大官が直接交渉をするのを避ける傾向があるが、これは全くそうする必要がないことである。貴下は、今や、我が国内閣の首班であるのだから、それを利用して、蒋介石その他のシナ大官と会見して、おおいに東洋問題について論じ、これ以上事態を悪化させないように懇談してみてはどうだろう」と。

 すると木堂翁は、「貴説はいかにもごもっともであると思うが、いかんせん、今日のシナには、時局について懇談をする相手がいないということが困りものである。といって、心ある者は、今日の事態が最上策だとは考えているわけもないだろう。彼らの勢力は、今ではどれも小さな部分に限られており、しかも対内関係を重視し、衆愚に媚びつつ、一時的な安楽(原文「一日の苟安[こうあん]」)をむさぼっているありさまだ。よって今はその時機ではない、もし近い将来、せめてシナの半分だけでも背負って立つほどの人物が出て来たならば、胸襟を開いて、その人とともに東洋百年の長計を熟議したいものである」と述べられた。
 今や、日本側で、この会談の適役を勤めるべき木堂翁を失ったことは、まことに千載の恨事である。私は、翁の長逝に対し、挽歌一首を詠じたので、これを掲げて、哀悼の微志を表することにしよう。


  大丈夫児鉄石膓 稜々気節挟風霜 天皇賜誄哀長逝 死有余栄老木堂

 


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二百五十五  犬養木堂翁刀剣談(下巻390頁)

 犬養木堂翁(注・犬養毅)に関する二、三の遺事についてはすでに叙述してきたが、翁の余技のなかでも抜群であった刀剣鑑賞のことにはまだ触れていなかったから、京極正宗を同観したときに翁が洩らされた刀剣談義について、ここに紹介することにしよう。 
 それは大正八(1919)年四月二十七日のことだった。京極高徳子爵は、当時、刀剣鑑定で有名であった松平頼平子爵の勧誘で、京極家伝来の正宗在銘の短刀を、内幸町の華族会館に陳列し、愛刀家の一覧に供せられた。私は松平子爵の案内により、午後一時ごろから同館に推参した。
 その日、日本座敷に飾られていた銘刀は、例の京極正宗のほかには、青江定次(注・正しくは青江貞次か)大脇差と、吉光短刀の二点で、その付箋には次のように書かれていた。

  正宗短刀  長さ七寸五分強(注・約23センチ)
     豊臣秀吉より京極高次拝領
  

  ニツカリ(注・にっかり)青江大脇差  長さ一尺九寸九分(注・約60センチ)
     豊臣秀頼より京極高次拝領
 

  吉光短刀  長さ七寸八分(注・約24センチ)
     徳川家康より京極高次拝領
 

 この三点中、まず正宗短刀を拝見した。多年のうちに、しばしば研磨したためだろうか、その身が細くすり減って、鍔元に少し詰め上げがあり、目貫孔にかけて、温和な字体の正宗の二字がある。短刀の両側には、刃から身全体にわたって、龍(注・みずち=雨龍)が雲に浮かぶような、あるいは白糸が風に乱れるような光線を反射してちらちらと変化する焼刃の乱れがある。一見して非凡の名作と思われたが、そのとき同席の木堂翁は、私や浅田徳則氏などに向かって、ここに、一場の刀剣談をされたのである。その説は次のようなものであった。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「拙者は多年多数の刀剣を見たが、今日拝見するがごとき在銘正宗を見たことがない。先年、刀剣鑑定家、今村長賀、別役正義等が、正宗は自ら刀剣を打ちたるにあらず、彼は刀工の総元締めで、多くの職人を支配したるまでなり、その証拠には、正確なる正宗在銘の刀剣がないではないかと主張した。

 そのとき拙者はこれに反対して、正宗は普通の刀工にあらず、関東足利の命を受け、諸国を遍歴して名刀を調べ、また名工を抱えて、これを我が門下に拉致し、さかんに刀剣を作りたる(原文「作りにる」誤植か)ものにて、世に相州十哲と云えるは、すなわち彼の門下中、優秀なる者を称したのである。
 此の時にあたり、正宗在銘の刀剣は、いまだ世に出でなかったかも知らぬが、相州刀中に、一種非凡な作物があるのを、もし正宗でないとすれば、果してなんびとの作であろうか、たとえば、井上侯爵家の秘蔵、包丁正宗のごとき、正宗の銘こそなけれ、その作行きは、かの十哲輩の及ぶところにあらず、これらは正宗が自ら鍛えたもので、かの正宗に自作なしというのは、はなはだ不当の説なりと抗論したことがあったが、今日この短刀を見るに及んで、はじめて前説の正確なるを証明することを得た。
 もしかの議論のあった時、この短刀を発見していたらば、無論、議論などあるべきはずがなかったのに、これが今日まで世に知られなかったのは、必ず相当の理由があろう。けだし徳川時代においては、名刀を秘蔵して、容易に世に発表せざるを常とした。ことに徳川四代将軍家綱時代、明暦の大火で、幕府が所蔵の名刀を焼失せしにより、諸大名より、しきりに名刀を徴発せしことあり、その後八代吉宗将軍時代にも、また同様のことがあったので、京極家にても、かの正宗を極秘したのであろう。そのため正宗に関して、種々の説が行われたのであろうが、今日この短刀が世に知られた以上は、正宗論はもはや確定したるものと言ってもよかろう。
 またニッカリ青江大脇差は、青江定次(注・貞次か)の作である。彼は元暦年中、後鳥羽天皇がさかんに全国の刀鍛冶を招集せられたときの名工で、青江は備前の地名である。この地は砂鉄の流れ出る川筋なれば、備前物の名工は、多くは根拠をここに置いて、さかんに名刀を製作したのである。
 しかして、この青江脇差は、古刀に似合わず、毫も(注・ごうも=少しも)疲れたる痕跡がないので、実に稀有の名刀なのである。またニッカリというのは、ニッコリのことで、ある人がこの刀をもって道行く人を斬ったところが、あまりによく斬れたので、斬られた者もみずから気づかず、顧みてニッコリ笑いたり、という伝説があるので、この名を得たということである。
 しかしてその小身に、羽柴五郎左衛門長とあって、その下の秀の字は見えないが、これは丹羽長秀が、その差料(注・さしりょう=自分がさすための刀)を豊臣家に献じ、豊臣秀頼がさらにこれを、京極高次に与えたのである。
 高次は、関ケ原戦争の節、大津城にあって、非常に重要の地を占めていたので、大阪方も、徳川方も、しきりにこれを味方せんと苦労し、徳川家康が吉光の短刀を高次に与えたのも、このときであった。
 すなわち、今日陳列の三名刀は、京極家と最も歴史的関係のある名品で、中にも正宗在銘の短刀は、刀剣界の疑問を一掃すべき名品なれば、お互いに、近来容易に得べからざる眼福を得たのである云々」

 以上、犬養木堂翁の談話は、その普段の刀剣に対する蘊蓄(注・うんちく)を発揮したものである。よって私は、これを同好の知友に知らせるために、ここにそれを記述した次第である。


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百六十七  乃木大将の殉死(下巻69頁)

 大正元(1912)年九月十三日、御大葬の御見送りのため私は帝国劇場前に出かけた。
 午後八時半ごろに、霊轜(注・れいじ。霊柩車のこと)の御通過を拝観したが、土佐絵の絵巻物に出てくるような装飾した牛がひいていく御轜車の哀しい音と、先頭の笙(注・しょう)、篳篥(注・ひちりき。縦笛)の響きが相和して、言いようもない神々しい光景であった。私は感動のあまり、

   御者の牛のあゆみもなほ早き 心地せられぬ今日の御幸は

   今はとて涙ぬぐひて見おくれば 大御車ぞ遠ざかりゆく

と口ずさんだ。
 帰宅してから、一晩ほとんど眠ることもできなかった十四日早朝、まだ布団から出てもいないころ、新聞の号外があわただしく昨夜の乃木大将夫妻の自刃を報じた。取るものも取り合えず読んでみると、

   うつし世を神去りましゝ大君のみとしたひて吾はゆくなり

という辞世が載せてあったので、まぎれもなく殉死であることがわかったものの、いわゆる晴天の霹靂の思いがけない出来事であった。私は茫然自失し、ほとんど言うべき言葉が見つからなかった。
 その後新聞紙上に発表された諸大家の感想は後日のように一定したものではなく、東京朝日新聞などは、「大将の行為は、常軌を逸したる者なれば、武人の道徳は別として、一般の道徳に於て、其人に同情するの余り、一概に之を賞讃して、後世を誤る可らず」という一説を載せていた。
  一方、万朝報の黒岩周六氏は、乃木大将を楠木正成公に比して、「楠公も大将も、ともに死なんとして死したもので、その死は生よりも貴く、遺烈を千載に留めたり」と論じ、その結末には、

   今まではすぐれし人と思ひしに 人とうまれし神にぞありける

という一首を付け加えてあった。
 大将の殉死についての所見は、日本人のあいだですら以上のようにまちまちだったのだから、西洋諸国の人々では、かりにおざなりに賞讃する人があったとしても、彼らの道徳観念においてこの事件を理解することができなかったのはまったく無理もないことだった。
 ロンドン・タイムズの東洋部長であったチロール氏(注・Valentine Chirol 18521929)が大将殉死の翌日にタイムズに寄せた一文には、「私は乃木大将とその夫人の最期について、東西の思想上に深いみぞがあるのを発見し、古い記憶を思い出さざるを得ない。十五年前、ロンドン駐在のシナ公使の羅豊禄が、シナ人としてはまれに見る欧化主義者でありながら、彼が不治の病にかかった時、シナの医師に呪文を唱えさせて、祈祷のための灰を五体に振りかけさせたのを見て、私は東洋人の心理を理解することができなかったが、今回のことも同様である」という一節があった。この見解は、ただチロール氏だけでなく、欧米人ならばきっと同じように持つものだろう。(注・瞥見では、日本在住の親日家の記者ブリンクリーが「古風な武士道精神の復興」とタイムズ916日号に書いた)
 このようなわけで、九月十四日の早朝に、乃木大将の思いがけない殉死の報を耳にした一般国民は、驚くやら戸惑うやらで、このことに対しての決定的な観念を持つまでには、いろいろと思いを巡らしたようだった。なかには、最初にこの報を聞いた時には、あまりに過激な行為なので、これが欧米各国に伝わったらどのような反応になって現れるだろうかという不安を抱いた者もあったようだ。

 また大将は旅順で二児を戦死の犠牲で失い、今では学習院在学中の三人の皇子とともに華族の子弟を預かり教育の任に当たっているという大切な立場の人間である。当然のごとく、余生を国家に尽くすべきはずなのに、その生を捨てて死を選んだのははなはだ遺憾であるという意見もあったようだ。
 また一方では、この行動によって日本国民がいかに忠君の一義において熱狂的であるかということを各国の人が知り、彼らを心底震えあがらせ、彼らは今後日本人に畏敬の気持ちを持つようになるだろうと見る者もあった。
 さて私はある日、犬養毅氏と話しているときこの話題になった。同氏の説は次のようなものであった。(注・わかりやすい表現にあらためた)
 「余は西南戦争のとき、新聞通信班として九州に出張し、乃木大将と知り合い、詩作を見せ合ったこともある。大将が、かの軍旗をなくしてしまったという苦戦の状況についても余はよく知っているが、あれはやむを得ない出来事だった。わずか百人ばかりの小倉兵が、賊軍の主力軍に遭遇して、旗手も戦死し、旗を奪われてしまったのだ。これは大将の責任として、それほどには重大なことではなかったのに、謹厳な大将のことで、ずっと気ににしていたようだ。そして、今回の殉死は、乃木大将だから意義のあることで、もちろん他人が真似するべきことではない。坂井虎山が、赤穂四十七士を詠じた詩に、
    
     
若使無茲事
     臣節何以立
     若常有茲事
     終将無王法
     王法不可廃
     臣節不可巳 
     茫々天地古今間
     茲事独許赤城士

(注・この詩は、「臣節」「王法」とはなんであるかを赤穂浪士は示したとして、作者は評価している)

とあるが、この最後の句の赤城士を乃木将軍とすれば、この詩が今回の大将の行為に対する適評になるだろう」
と言われた。私は犬養説が、大将の殉死に対する決定案(原文「鉄案」)として、動かしがたいものだと信じる。


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九十八  福澤先生礼讃(上巻334頁)

 私は明治四十五(1912)年に実業界を引退し、閑雲野鶴の(注・束縛のない悠々自適な)身となった。そのときに、福澤先生の伝記を書いてみようかと思い、その後約一年間にわたり、先生と生前に交際のあった大隈重信、山本権兵衛、後藤新平、北里柴三郎、森村市左衛門、足立寛、中村道太、犬養毅、尾崎行雄、鎌田栄吉ら数十人を訪問し、先生に関する談話の聞書きを行った。これはかなりの大部な記録となったので、後年、福澤諭吉伝の著者である石河幹明氏にも見せて参考にしてもらった。今回は、その談話記録の中から、全体として福澤先生を礼讃した二、三の例をピックアップ(原文「摘録」)してみる。(注・読みやすいように、一部の表現をなおした)

犬養毅氏談
 「福澤先生はもともと自由主義の人で、一切の差別をしない。爵位や俸禄、階級、勲位を持たない。あるときなどは、席次の上下ができないように、客室に床の間を作らなかったこともある。
 慶應義塾において一目置かれ重んじられるのは、学問、知識、人格であり、役人の肩書などは、尊敬されるというよりはむしろ卑しまれるくらいだった。

 しかし明治十(1877)年の西南戦争により日本の封建的なやり方が打破されると先生は考えを改め、交詢社を作るなどして、さかんに実業論を唱えるようになった。それを見て世間には拝金宗だと言う者もあった。
 ところが晩年には、ふたたび穏健な考えに戻り、あの「修身要領」を作られたりした。これは、釈迦が最初に出山(注・釈迦が修行を終え雪山をおりたこと)して華厳を説き、その後世間に触れて小乗を説き、最後には法華、涅槃を説いたのと同様である。釈迦における法華と涅槃が、福澤先生にとっての独立自尊主義にあたる。だから吾輩は、三田山の学風が福澤先生の功績を伝え、ながくその特色を失わないようにと望んでいる。」
 

尾崎行雄氏談
 「吾輩は明治七(1874)年に慶應義塾に入門し、あるとき教授のひとりが癪にさわったので翌年にとうとう退学してしまい、福澤先生に対しても、おうおうにして反抗的な態度を取った。
 しかし先生は私を見捨てることはなく、陰にまわって家族の心配までしてくださった。そういう先生の気質を考えてみると、人の感謝するようなことは表面にあらわさず、いわゆる陰徳を施すのを常としたのである。
 あの榎本武揚を助けたり、朝鮮の金玉均を助けたり(注・一例として20「金玉均庇護」を参照のこと)して、なにも知らないような顔をしておられるのがそれである。
 先生が亡くなられてから考えてみると、明治の社会に、先生ほど度量がありすべてを兼ね備えていた人はいなかったように思う。 世の中ではとかく西郷隆盛を大人物を言うが、それは一面的なことで、先生のように広くなにごとにも行き届いた人はほかに例がないと思う。仮に今、明治の大人物を有形的、無形的に粉々に砕いて、その長所短所をまぜこぜにして団子を作ってみたら、福澤先生の団子が、誰のよりもはるかに大きなものになると思う。」


鎌田栄吉氏談
 「維新前後の政治家に『西洋事情』がどれほど大きな効果を及ぼしたかということを考えてみると、すぐに福澤先生の偉大さがわかる。
 勝安房(注・かつあわ。勝海舟のこと)が、維新前に西洋から帰ってきて幕府の老中からその事情をきかれたときの答えが、西洋の事情はちょっと見聞きしたってわかるものではない、まず私の見たところで、ただひとつ日本と西洋で違っているのは、西洋では利口な人が上に立って政治を執っているということであります、というものだったので、馬鹿なことを言うなと、老中からひどく叱られたという奇談がある。もちろんこれは、勝が老中を風刺したものであろうが、しかし実際、西洋の事情に通じて、これを書物に書き表すことができたのは当時、福澤先生以外にはいなかったのである。
 維新前後に西洋に行きいろいろな研究をしてきた人はいるが、それはだいたいがひとつの局面のことである。たとえは中村敬宇が書いたものはと言えば、自助論のような一部のものでしかない。銀行、会社、郵便、学校、政治、軍事、暦、その他全般のことを勉強して大要を教え広めるためには非凡な知識が必要であり、その点が他の誰にも真似できない福澤先生の偉大さなのだと思う。
 また福澤先生は、最も自分の力が発揮できる場所において一生働いたということが偉い。先生は決して政治家ではない。人柄が君子なので、嘘をついたり策略を用いたりすることが絶対にできない。学者として思い切った説を吐き、いつも世の中よりも一歩進んだところから天下に警鐘を鳴らし、ひとびとを覚醒させるのが先生の得意とするところである。
 先生は晩年に自伝を書き、病後には『修身要領』をまとめ、最後まで完全に学者としての生涯を全うされた。それは、いわゆる適材適所ということで、非常に幸運な人であったと思う。」


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 三十四 明治十年代の新橋(下)(上巻109頁)
 
  明治十年代の新橋は芸妓の数も非常に少なかったし待合の料理も粗末なもので、今日とはくらべものにならない。東京の料理屋といえば、昔のなごりで
山谷の八百善、浜町の常盤屋などの名前が挙がり、新橋方面にはこれと肩を並べるものはなかったが、客層はだいたいが知識階級で、その遊蕩ぶりにもなんとなく雅趣があり後日の語り草になるようなことも多かった。

 そのような噂のタネになるのはまず朝吹君で、そのころお里というかわいい子(原文「婀娜者」)にぞっこん入れ込んでいたのに、そのお里がいつのまにか別の愛人のもとに走ったという事件が発生した。そのとき、萩の本の阿仁丸君は失望落胆のあまり、
  
  おさと
お砂糖なくてお萩あだ名やい焼いて悔い食い


と吐き出した
が、当時、これはうまいと評判になった。(注・「お萩」、「阿仁丸」というあだ名については、
25を参照のこと)
 もともと阿仁丸君は世話ずきで非常に親切だったので、廓の金には困っても親しい友人に対してはいつでも助け船の船頭役をつとめる性分だった。なかでもいちばんおもしろかったのは、長崎出身の秀才で美青年の笠野吉次郎氏が、阿仁丸君とは反対に美男なるがゆえにちょくちょく女難の祟りをうけ、夫婦の契りからも間もない阿久里という美人を振って、朝蝶という新愛人を作ったときのことだった。阿久里は激怒し、とうとう別れ話になった。そのときに、阿仁丸、犬養の両人が仲裁役になり、手切れ金の話し合いになった。笠野からは二百円を出させ、阿久里には半分の百円を渡した。残りの百円は小さなブリキ製の金庫にいれて、笠野がいないときに阿仁丸みずから笠野夫人に面会し、「この金庫には僕と犬養とご主人の三人の身の上にかかわる秘密書類がはいっていて、僕らの家に置いておけず、げんをかついでご主人にも知らせずに奥さんにお預けする次第なので、どうか秘密を守って保管してほしい、しかし後日、ご主人の身の上に何か困ったことがおきたとき、このなかの書類が物を言うから、そのときはじめてご主人に打ち明けてこの玉手箱を開けるように」と言い置き立ち去った。さてその後ほどなく、遊蕩の報いがめぐりめぐって笠野が困り果てていたときに、夫人がこのことを思い出して、朝吹さんから預かった秘密箱は、まさかのときに開けるように言われていたので今あけてみましょうと言って箱をあけてみると、なんと当時では大金だった百円札が目の前に現れたので、夫婦は喜びに喜び深い友情に感涙を流したという悲劇とも喜劇ともつかぬ話である。
 このころの新橋花月楼は平岡広高が経営者で、年が若いうえに自分自身も道楽者でいつも貧乏神にとりつかれていたから、妻のお蝶にも新橋で二度の勤めをさせるということがあった。しかし、女房がいなくては茶屋の営業も成り立たないだろうと阿仁丸君が同情し、それに馬越、犬養も同調して、とうとうお蝶をもとの花月楼に返らせたことがあった。その日、店先から大声で、「お蝶はおるか、モロ高はおるか」と呼びつつ飛び込んできたのが阿仁丸君だった。これは例のそそっかしやで、平岡の名の広高を、モロ高と間違えていたのである。それが悪友のあいだで大評判になり、このときから花月楼主人は、ヒロ高拾ったかモロ高たか】(注・貰ったか)と呼ぶようになったというおかしな話もある。
 また阿仁丸君が自分の貧乏もかえりみず道楽仲間を援助するので、悪徳新聞記者がそれにつけこみ、朝吹は貿易商会(注・25を参照のこと)の多額の金を隠匿しているのだろうと恐喝し、口止め金を出せと言って押しかけてきたとき、商会の荒川新十郎氏が憤慨して抗弁しようとしたところ、阿仁丸君はそれを制止し、君らは考えがまだ青臭い、僕が金をかくしていると言われれば、人も安心して金を貸してくれるから、ここは黙って逆に宣伝してもらったほうがいい、と平然として、いっこうに取り合わなかったそうだ。
 そのころは今日とは違い、花柳社会に出入りする者のなかには脱線者も多かったので数々の奇談が残っているが、そういうことを思い出すとなんとなく昔が恋しくなるような心地もする。

 

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 二十
弁士の概評(上巻64頁)

  私が初めて上京した明治十四(1881)年の東京では、慶應義塾演説館、明治会堂、両国中村楼、井生村楼などで盛んに政談演説が行われていた。私塾に通っていた学生たちは、それらを聴きにいくことが日曜日の学課のようになっていた。
 さて明治十四年からの数年間に演説壇上に立った弁士たちの顔ぶれをざっと見てみよう。 
 三田演説館では
、福澤先生が大本尊で、その演説ぶりは前述したように座談風で演説調ではなかったが、これはまったくの例外といってもよかった。

  明治会堂の一群のなかでは矢野文雄(注・矢野龍渓)氏が代表者の立場にあった。色黒でやせていて、口ひげが立派で上品な風采であったが、弁舌もなかなかのもので、あるときなどは奉書の紙をくるくる巻いて、講釈師が荒木又右衛門の御前試合を語るときのようにそれを振り回して演説されたこともあった。
 犬養毅氏は周知のように精悍であり、ときにからかいぎみな口調でシンプルさの裏側に力強い威圧を感じさせていた。
 藤田茂吉氏は小柄で色白で、鼻の下に黒々としたひげをはやしていた。いかにもきびきびしたようすだったが、この人の弁舌もなかなかのものだった。
 波多野承五郎氏はわずかにかすれ声で、弁舌というほどではなかったが、ときおり警句を吐いて聴衆を喜ばせた。
 三田以外の弁士では、福地源一郎氏が群を抜いていた。氏は東京日々新聞の主筆で、当時政府に買収されたという噂があり、御用記者として新聞の記事を書き政府擁護の独演会を催していたので、あるときには会場でやじが飛ぶこともあったものの、ふだんは少しどもるくせがあるのに演説はすらすらと力強く、大物の貫録を示していたものだった。
 嚶鳴社の一群においては、沼間守一氏が旧幕府出身でてきぱきした江戸弁でもって聴衆を魅了していた。上背はあまりなく色白で目がぎょろりとしていた。嚶鳴社の演説聴講料は十銭だったが、あるとき沼間氏が入場料を徴収する受付に座っていたことがあり、なんとなく寄席の番人のように見えたこともあった。
 島田三郎氏は、よく知られているように達弁で、討論会などでは一番目立っていた。
 草間時復、波多野伝三郎などという人たちもいた。

 田口卯吉という博士で、自由貿易論を唱えた経済学者いたが、この人は色白でおおがらで、演説はうちとけた態度で聴衆に親しみやすいものだった。
 そして、末広重恭、大石正巳、馬場辰猪、小野梓といった一騎当千の弁士もいた。なかでも馬場辰猪氏は土佐弁で非常に歯切れがよく、聴衆の人気が非常に高かった。


金玉均庇護(上巻66頁)

  明治十八(1885)年ごろと記憶しているが、日本政府は朝鮮問題について、当時李鴻章が全盛だった中国と衝突することを恐れていた。中国が、金玉均(注・朝鮮独立をめざし、前年閔妃暗殺クーデタに失敗)が日本に亡命し、閔妃政府打倒を画策していることに不快感を持っているので、日本政府としては、これなんら日本政府の意図とは関係ないことを中国に示すため、金を小笠原の島に配流する決定をした。
 このとき福澤先生は、朝鮮問題についての政府の弱腰に激怒したばかりでなく、それまで何年も先生に信頼を寄せていた金玉均が島流しになることをあわれんだ。熟慮熟考の末、この配流をのがれることのできる唯一の手段は、フランス公使館に金みずからが保護を訴え出ることだという結論にいたったようで、金の真意を訴えるフランス公使宛ての長い英文の書簡をしたためた。そしてある晩ひそかに私を自宅に呼びよせ、この英文を鉛筆でなるべくきれいに写してほしい、秘密の書類なのでなるべく人目につかないほうがいいので、うちの玄関先の座敷がいいだろうといって、丸いテーブルと椅子を貸してくださったので、私はその英文をまずていねいに西洋紙に写しとった。
 つまり、この英文は先生が書かれたものではないにしても、万が一筆者の取り調べがあったときには面倒になるということで私に複写させたのだろう。しかも鉛筆書きだったことも、よくよく考えてのことだったに違いない。
 そこで私は夜おそくまでかかってこれを写したが、それが終わるとすぐに先生はこれを白い紙袋にしまい、宛名も書かずに、ご苦労だが明日横浜に行きグランドホテルに滞在中の金玉均に目立たないように渡してもらいたい、ということだったので、翌日私は先生に命じられた通り正午前にグランドホテルに赴き、金に面会した。
 金は喜んで私を迎え、その書簡を受け取って二度ばかりありがたそうに読んだあと、私と昼食をともにするために食堂に案内してくれた。
 さらに玉突場にも誘ってくれて、私と一ゲームをしたが、彼は器用な男で、碁もうまければ日本の花がるた(注・花札のこと)もとても強かったそうで、ビリヤードの腕も150くらいだったとみえ、当時の私ははじめから敵ではなかった。
 彼は中肉中背、朝鮮風のすこし平べったい青白い顔で、朴永孝ほど家柄がよくないから品格にはとぼしいけれど、小さな目と薄い唇から機敏な性格が読み取れ、いかにも頭の回転がよさそうな才子肌だった。
 福澤先生は、金玉均らが朝鮮問題で見せる画策はいつも過激で非常識のように思えるけれど、彼らははじめから命を投げ出しているので自然に極端に走るのだろう、と言われたことがあったが、彼らの、国のために死生を顧みないその勇気は、同情と同時に畏敬にあたいする。金玉均の死が日清戦争の一端となったことも偶然ではあるまい。


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