だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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  二百二十六   

波多野長者(下巻282頁)


 大正五(1916)年下期は、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の影響がわが国の経済界に波及し、景気勃興、福運増長し、船、鉄、株の成金の萌芽がいたるところに現れはじめたころだった。
 その時代相が、私等の友人の間にも反映して、ここにさまざまな喜劇が展開した。その一例として、まず波多野長者を紹介することにしよう。
 大正五(1916)七月の初旬であった。波多野古渓【承五郎】は、少し前に時事新報で発表された五十万円以上の資産家の表に名前が掲載され、これをただ微苦笑するだけでうち過ごすのかと思いきや、いっぷう変わった古渓先生は、逆に自分から切って出て、「拙者儀此度、長者仲間に加へられたるに就き、自宅に於て一夕新長者祝を挙行すべければ、何卒奮って御参会を乞ふ」との案内状を同人の間に発送した。
 そこで当日の夕刻、上二番町にある波多野邸に推参すると、寄付の床には三井華精(注・三井高保)翁筆の恵比寿釣鯛図を掛け、床脇には、打出の槌(注・つち)と、大黒の形をした盆石を置き合わせ、まずは来客に当夜の先容(注・案内、紹介)を示してあった。その下に千両箱を三個積み重ね、二個には、箱に金沢益田の烙印があり、もう一個には御納戸用という書付があるのは、おそらく幕府御納戸方から出てきたものだろう。
 それから程なく運ばれてきた晩餐の献立は、いずれもが長者祝いに縁のある名前の材料を選んであり、その心入れが尋常でないことが示されていた。
 なお、この日の余興は、次のようなものであった。

    余興

  狂言          奥村金之助
 一、三人長者       小早川精太郎
              藤江又喜

       

       唄      吉住小三郎
              吉住小三蔵
       三味線    杵屋六四郎
  長唄          杵屋長三郎
 一、紀文大尽 笛     住田又兵衛
        小鼓    望月太左吉
        太鼓    望月長十郎
        太鼓    望月長四郎

        

        唄     吉住小三郎
  同           吉住小三蔵
 一、七福神        杵屋六四郎
              杵屋長三郎


 さらにこの席上を見回すと、ちりめん鹿の子絞りの鯛を青籠に入れ、金華山金の成る木、と染め出した古風な財布に長者通宝という新調の銅貨を入れた配り物を並べ、主人はもちろんのこと、長唄連中にも、長者通宝の紋を染め出した揃いの仕着せを着用させるなど、凝りに凝った物数寄ぶりであった。
 この宴会は三回を重ねたとのことだが、私のときの同席者は、朝吹柴庵(注・英二)、団狸山(注・琢磨)、藤山雨田(注・雷太)、岩原謙庵(注・謙三)ら十五、六名で、時代を反映したその異風な饗応には、来客一同あっと感嘆し、長者の豪勢ぶりを謳歌しない者はなかった。
 


藤原の紙成(下巻284頁)


 これも時代を反映する喜劇的茶事の一幕であったが、その主人公としてここに紹介しようとするのは、王子製紙会社専務の、藤原の紙成銀次郎君である。
 君は、明治四十四(1911)年より同専務となり、足かけ六年間、拮据(注・忙しく働くこと)経営の甲斐あり、また時局もその成功を助けて社運隆々となったので、近頃続出する船成、株成、鉄成の名称にちなみ、同人たちは君を「紙成」と呼んだ。
 一夕、築地明石町の某亭に招待したところで、その趣向と言っぱ(注・言うのは)、寄付に雷公起雲図を掛け、雷を紙成に響かせ、本席には信実(注・藤原信実)筆の猿丸太夫に、平業兼が「奥山にもみぢふみわけなく鹿の」の歌を書きつけた一幅を掛けて、業兼(注・なりかね)を成金に通じさせる。茶碗は仁清作の金銀筋大小二ツ組を用い、道具から懐石献立にいたるまで、すべて紙成の意匠をこらしてあった。そのうえ、席の隅に祝賀帖を備え置き、参会者に随意に楽書きを乞うたので、昔の歌人の苗字らしき藤原を連想して、駄句の数々ができ上ったのである。
 その中には、次のようなものもあった。
 


  紙の本の人〇

   ほのぼのと明石の町の夕ぎりに 金まうけゆく紙をしぞ思ふ


  詠人知らず
   千早振る紙のめぐみにしろかねも こがねとなりて花さきにけり


  権化 
   此度はぬしに取あへず手向山 もみぢのにしき紙のまにまに


  藤原の定価狂
   銀が金になる世なりけり 紙無月どの手すぢよりまうけそめけん

 

 このような、千早振る神代も聞かぬ名歌が、続々と書き連ねられたので、藤原君もそのままには捨て置かれず、このほど、ようやく出来上がった麻布新網町の茶席開きを兼ねて一趣向をこらすことになった。伊達家入札会にて落札した、兆殿司筆の緋衣達磨の一幅を掛け、道具、懐石にもそれぞれに応酬の深意を寓し、本来無一物といった悟り顔をしながら、悪友どもの鋭鋒を避けきった実業的手腕は、紙成大尽の初陣の大成功に終わり、目出度かりける次第であった。


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百三  中上川の業績(上巻352頁)

 中上川彦次郎氏が三井銀行の副長になりその手腕を振るい始めたのは、明治二十五(1992)年の初めからである。二年たって日清戦争が起こり、戦勝による景気でいろいろな計画が持ち上がった。

 朝吹英二氏が整理にあたっていた鐘ヶ淵紡績の株は、一時、十円台にまで下がっていたのが、たちまち払込で五十円の倍額までに値上がりした。
 渋沢子爵の手で三井に移した王子製紙会社や、三井工業部の所管になった富岡製糸場なども、それぞれ隆々たる盛況を呈しさらに規模を大きくした。
 さらに、北海道の事業にも着目し北海道炭鉱会社の株式を大いに買収した。
 東本願寺への百万円をはじめとする貸金についても、とうてい完全には回収することはできないだろうと思われていたものを案外すんなりと回収し終えることができたため、各地方に散在していた多数の支店を閉鎖し銀行の実力をおおいに充実させ、抵当流れの土地なども、たちまち数倍に値上がりした。
 このような好都合がさらなる好都合を呼び、三井の成長の勢いは予想外に大きなものだった。神戸の小野浜で十万坪の抵当流れの一坪一円の地所が、後年に一坪百円以上に値上がりしたというような例も少なくなかった。

 かくして中上川氏の画策は着々と成功し、ほとんど後光が射すような勢いだった。それが明治二十七、八(18945)年から三十一(1898)年いっぱいのことで、彼の業績の全盛期であった。日清戦争後、中上川氏の三井整理がうまくいったことと、戦後の景気拡大が合わさり、計画は着々と成功したため一時は全盛の極点に達した。

 しかし三十二(1899)年ごろから反動が見られるようになり、やがて急転直下の苦境に陥ることになる。これは財界波乱が引き起こしたことで、まったくやむを得なかったと言わなければならない。
 それ以前に、中上川氏は三井の事業統一を提唱した。それまでの三井商店は、銀行、物産、鉱山、地所、工業と、それぞれの部門に分かれ、益田孝男爵のような大人物といえども、その手腕が及ぶのは、物産もしくは鉱山という一局部に限られ、三井全体に及ぶことはなかった。それを中上川氏の入行後、各商店理事を一か所に集め、各自それぞれの議案を持ち寄り、各部の連絡を保ち、これを統一協定とすることになった。益田、中上川の両雄も毎回会議に同席して営業方針を定めたので、当分のあいだはどこにも溝はなかった。
  
しかし戦後膨張の反動が起こったとき、その影響は、まず物産の商売に現れた。大阪支店において原綿の暴落の損失が出ると同時に金融はますます急迫を告げた。
 その救済のために、井上侯爵の口添えで九州方面に三井銀行が貸し出した金を回収しようとしたところ、たちまちにして九州炭鉱業者の不平を招いた。それは、中上川氏と井上侯爵のあいだに自然と溝ができることを意味し、そればかりか、益田氏との関係も絶頂時代のようにはいかなくなった。ここへきて中上川氏を攻撃する声が四面に湧き起こったのである。
 折も折、中上川氏は三十二(1899)年ごろから腎臓病が悪くなり、機嫌も非常に悪く、ややもすると他人の感情を害するような行動も見られるようになった。
 事態が重ね重ねも難局なことに加え、長崎あたりの新聞が三井に恐慌来たるといった内容を掲載したため、関西地方のひとびとが不安視し、明治二十四年の二の舞(注・取り付け騒ぎのこと)が起きそうな状況に陥ってしまった。そこで日本銀行の総裁と協議して、取り付けはほどなく鎮静化した。しかしこのような情勢では各自がその位置を守ることばかりに必死で、他者を非難するというのが人情というものである。それで内部においても、ややもすれば悪口が広がって反中上川の情勢がみなぎるようになっていた。 

 そんなときに、折悪しく、二六新報の三井銀行攻撃事件が突発した。この事件は、かつて三井と取引関係があった三谷三九郎という人の遺族に対し、三井の待遇が非道であるという理由で攻撃の矛先を向けたものだった。しかし三井銀行が簡単には応じなかったため、秋山定輔氏が、「将をたおさんとすれは、まず馬を射よ」の戦法をとり、三井主人の人身攻撃を始めたのである。やがてその攻撃の材料が尽きると、今度は伊藤博文公爵を動かし、伊藤公爵はさらに井上侯爵を動かして、三井と二六の仲裁談が持ち上がった。中上川氏は、ついに城下の盟をなす(注・敵に首都の城下まで攻め込まれて講和の約束をする)ような苦境に陥り、まことに気の毒な状態だった。
 そのころ三井銀行で中上川氏の次官格だったのは波多野承五郎氏であったが、じっさいに各部の重役間の潤滑油になってその調和をはかる役割を果たしたのは、すでに三井工業部の理事になっていた朝吹英二氏だった。外見は磊落で無頓着のように見えるが、実は非常に敏感で苦労性なこの人は、自分が歳(注・まんざい。基本は太夫と才蔵の二人組の芸能)の才蔵役になり、八方融和のために円転滑脱の働きをしたのである。その苦心は非常に大きなものだった。
 このように、中上川は時勢が自分の不利になり、四面楚歌の中に置かれることになったが、このようなときに尻尾を巻いて逃げたり責任を他人に転嫁するような人物ではなかった。最期まで堂々とその運命を自覚し、明治三十四(1901)年十月、四十八歳にして、ついにその短い生涯を終えた。
 しかし彼の没後数年での日露戦争を経て、一陽来復の景気がやってきた。彼の施策が効果を現わしはじめ、今更ながら彼の卓見に感服した人もあったのではないかと思うものの、死者の功績を回想して、これに感謝した者があったかどうか、それはわからない。しかし三井中興の基礎は、彼の三井入りから死去にいたる、この十年間に築きあげられたものなので
ある。彼も地下にあって、みずから慰めるところがあるのではないかと思う。


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二十二 論説の執筆(上巻71頁)

  私は明治十五(1882)年四月に渡邊治とともに慶應義塾を卒業し、五月にすぐさま時事新報社に入社した。時事新報はその年の三月一日に初号を発行したばかりの創立から日の浅い新聞だった。私たちはここで最終的には論説記者になる予定だったが、当分は見習いの身分で、なにか適当な題材があったときに執筆したものを福澤先生に見てもらうということになった。私は時事新報に自分の書いた記事が掲載される栄光を夢みて、またしても渡邊との競争が始まった。
  ところがそのころは新聞が論説だけで売れる時代で、とくに時事新報は福澤先生の論説で名高いのだから、学校を出たばかりの駆け出しの書いた論説が堂々と紙面を飾るということは簡単なことではなかった。だがその十月に私の執筆した「米国の義声天下に振」という一文が福澤先生からとてもほめられ、渡邊よりひと足先に時事の社説欄に私の記事が載った(原文「我が文旗を翻へす事を得た」)ので、鬼の首でも取ったようにうれしかったものだ。
  この論説は、当時、中国が朝鮮を属国のように扱っているのを日本をはじめとする諸外国がただ指をくわえて見ていたときに、アメリカがフード将軍(注・Lucius Harwood Foote、フートが正しい発音かを駐剳使節(注・ちゅうさつ、駐在の任官のこと)として朝鮮に送りその独立を認めるという、あざやかな措置をとったことを称賛する記事だった。先生はこの記事を読んでとてもほめてくださり、その晩には夕飯をごちそうしてくださった。日本のお膳のうえに西洋料理を並べ、そばでおしゃくをしてくださっていた奥さんに「今日は高橋さんが名文を書いたので、明日は新聞の社説に載るのだが、実によくできたよ」といかにもうれしそうに話されたので、私はおおいに面目をほどこし、人生でこれほどうれしかったことはない。
  この時から先生は、私を社説記者とみなし、しばしば呼ばれて論説の代筆を命じられた。私は一心不乱に先生の言うことを書き取り、それを筆記して提出した。ときによってははじめから黒々と墨で訂正され、先生が自分で書かれるよりもよっぽど手間がかかって申し訳なかったこともあるが、ときによっては少しばかりの加筆ですむこともあった。そういうときの先生の喜び方はふつうではなく、とくにその文中になにかおもしろいところがあるときなどは、読み返してそれをほめられるので、私たちにとってはそれが大きな励みになるのだった。
  さて十五年も暮れて十六(1883)年だっただろうか、私は、西洋諸国が、当時東洋において勢力を増してきた中国に媚びるような視線(原文「秋波」)を送り、一方、ややもすると委縮がちだった日本には愛想をつかすような形勢があることについて警告を発する記事を書いた。そのなかに、「秋風起って扇寵を失ひ、春心動いて美人恩を蒙る(注・男がひとりの女から別の女に心を移していくたとえ。紈扇=がんせんとは、白い絹の扇。)」という一句があるのを見て先生は激賞され、そのときにも晩餐のごほうびをいただいた。だが、時事新報に対してしきりに神経をとがらせていた政府は、なにをうろたえたのか、この記事が掲載された新聞に一週間の発行停止を命じたので、私としては一方ではとても申し訳ない気持ちではあったものの、もう一方では非常に誇らしくもあったのである。

 その後私は、「わが日本は北海に国することを忘るべからず」という論説を書いた。これは、日本は国際競争が激しい欧州諸国からかけ離れた極東に位置しているために悠々安閑として日々を送ることができるが、日本がイギリスやドイツに近接する北海の島国であると仮定したならば、はたして今のようにのんびりしていられるだろうか、という論旨だった。末尾に「古語にいわく、志士は常にその元こうべ】(注・首のこと)を失うことを忘れずと、わが日本国もまた常に北海に国することを忘るべからずなり」とうたい上げ、これも先生のおほめにあずかった。
 そのころ内務省衛生局長で、先生と緒方塾(注・適塾のこと)で同窓の長与専斎氏が福澤先生に話されたところによると、井上毅がある人に向かって、「近頃時事新報の社説は論旨といい文章といい、その傑作にいたっては決して韓柳欧蘇(注・唐代の韓愈・柳宗元、宋代の欧陽脩・蘇軾。一流の名文家のこと)の下にあらず」と評価されていたとのことで、福澤先生は井上がこんなことを言っていたそうだと満足気だったのだが、この時先生は五十二、三歳でもっとも文章に脂がのっていたときではあったが、これをきいた波多野承五郎氏が、近頃の時事新報に活気があるのは、先生の論説だけではない、高橋、渡邊のような若者パワー(原文「若手の血気」)がまじっているからだと言ってくれたので、私たちもいささか「驥尾(注・きび)について千里を走る(注・ハエが駿馬の尾について千里はなれたところにいく。すぐれた人のあとについてそのおかげをこうむること)」ことができたという感じがしたものだ。
 このようにして私は、明治十五(1882)年から、二十年に時事新報を去るまでの六年間、渡邊治とともに福澤先生のそばにつかえてほとんど毎日手取り足取り論説の書き方を教えてもらい、力及ばずといえども少しばかりは先生の文章を書き方を身につけることができたことは望外のしあわせだった。門下生は多いが、私たちのように先生から直接の指導を受けた者の数はかなり少ないだろうと、いまさらながらにその幸運を喜んでいる次第である。

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 二十
弁士の概評(上巻64頁)

  私が初めて上京した明治十四(1881)年の東京では、慶應義塾演説館、明治会堂、両国中村楼、井生村楼などで盛んに政談演説が行われていた。私塾に通っていた学生たちは、それらを聴きにいくことが日曜日の学課のようになっていた。
 さて明治十四年からの数年間に演説壇上に立った弁士たちの顔ぶれをざっと見てみよう。 
 三田演説館では
、福澤先生が大本尊で、その演説ぶりは前述したように座談風で演説調ではなかったが、これはまったくの例外といってもよかった。

  明治会堂の一群のなかでは矢野文雄(注・矢野龍渓)氏が代表者の立場にあった。色黒でやせていて、口ひげが立派で上品な風采であったが、弁舌もなかなかのもので、あるときなどは奉書の紙をくるくる巻いて、講釈師が荒木又右衛門の御前試合を語るときのようにそれを振り回して演説されたこともあった。
 犬養毅氏は周知のように精悍であり、ときにからかいぎみな口調でシンプルさの裏側に力強い威圧を感じさせていた。
 藤田茂吉氏は小柄で色白で、鼻の下に黒々としたひげをはやしていた。いかにもきびきびしたようすだったが、この人の弁舌もなかなかのものだった。
 波多野承五郎氏はわずかにかすれ声で、弁舌というほどではなかったが、ときおり警句を吐いて聴衆を喜ばせた。
 三田以外の弁士では、福地源一郎氏が群を抜いていた。氏は東京日々新聞の主筆で、当時政府に買収されたという噂があり、御用記者として新聞の記事を書き政府擁護の独演会を催していたので、あるときには会場でやじが飛ぶこともあったものの、ふだんは少しどもるくせがあるのに演説はすらすらと力強く、大物の貫録を示していたものだった。
 嚶鳴社の一群においては、沼間守一氏が旧幕府出身でてきぱきした江戸弁でもって聴衆を魅了していた。上背はあまりなく色白で目がぎょろりとしていた。嚶鳴社の演説聴講料は十銭だったが、あるとき沼間氏が入場料を徴収する受付に座っていたことがあり、なんとなく寄席の番人のように見えたこともあった。
 島田三郎氏は、よく知られているように達弁で、討論会などでは一番目立っていた。
 草間時復、波多野伝三郎などという人たちもいた。

 田口卯吉という博士で、自由貿易論を唱えた経済学者いたが、この人は色白でおおがらで、演説はうちとけた態度で聴衆に親しみやすいものだった。
 そして、末広重恭、大石正巳、馬場辰猪、小野梓といった一騎当千の弁士もいた。なかでも馬場辰猪氏は土佐弁で非常に歯切れがよく、聴衆の人気が非常に高かった。


金玉均庇護(上巻66頁)

  明治十八(1885)年ごろと記憶しているが、日本政府は朝鮮問題について、当時李鴻章が全盛だった中国と衝突することを恐れていた。中国が、金玉均(注・朝鮮独立をめざし、前年閔妃暗殺クーデタに失敗)が日本に亡命し、閔妃政府打倒を画策していることに不快感を持っているので、日本政府としては、これなんら日本政府の意図とは関係ないことを中国に示すため、金を小笠原の島に配流する決定をした。
 このとき福澤先生は、朝鮮問題についての政府の弱腰に激怒したばかりでなく、それまで何年も先生に信頼を寄せていた金玉均が島流しになることをあわれんだ。熟慮熟考の末、この配流をのがれることのできる唯一の手段は、フランス公使館に金みずからが保護を訴え出ることだという結論にいたったようで、金の真意を訴えるフランス公使宛ての長い英文の書簡をしたためた。そしてある晩ひそかに私を自宅に呼びよせ、この英文を鉛筆でなるべくきれいに写してほしい、秘密の書類なのでなるべく人目につかないほうがいいので、うちの玄関先の座敷がいいだろうといって、丸いテーブルと椅子を貸してくださったので、私はその英文をまずていねいに西洋紙に写しとった。
 つまり、この英文は先生が書かれたものではないにしても、万が一筆者の取り調べがあったときには面倒になるということで私に複写させたのだろう。しかも鉛筆書きだったことも、よくよく考えてのことだったに違いない。
 そこで私は夜おそくまでかかってこれを写したが、それが終わるとすぐに先生はこれを白い紙袋にしまい、宛名も書かずに、ご苦労だが明日横浜に行きグランドホテルに滞在中の金玉均に目立たないように渡してもらいたい、ということだったので、翌日私は先生に命じられた通り正午前にグランドホテルに赴き、金に面会した。
 金は喜んで私を迎え、その書簡を受け取って二度ばかりありがたそうに読んだあと、私と昼食をともにするために食堂に案内してくれた。
 さらに玉突場にも誘ってくれて、私と一ゲームをしたが、彼は器用な男で、碁もうまければ日本の花がるた(注・花札のこと)もとても強かったそうで、ビリヤードの腕も150くらいだったとみえ、当時の私ははじめから敵ではなかった。
 彼は中肉中背、朝鮮風のすこし平べったい青白い顔で、朴永孝ほど家柄がよくないから品格にはとぼしいけれど、小さな目と薄い唇から機敏な性格が読み取れ、いかにも頭の回転がよさそうな才子肌だった。
 福澤先生は、金玉均らが朝鮮問題で見せる画策はいつも過激で非常識のように思えるけれど、彼らははじめから命を投げ出しているので自然に極端に走るのだろう、と言われたことがあったが、彼らの、国のために死生を顧みないその勇気は、同情と同時に畏敬にあたいする。金玉均の死が日清戦争の一端となったことも偶然ではあるまい。


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