だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十八  大津馬茶会と新曲(下巻548頁)


 根津青山【嘉一郎】翁は、明治三十七、八(190405)年ごろ大阪の老道具商である春海藤次郎の周旋で、松花堂昭乗画、沢庵和尚讃の大津馬という名物書幅を、当時のレコード破りの高値で買い入れられた(注・根津と春海の交流については110を参照のこと)。しかし、それを秘蔵するあまり、かんたんにはこれを出してくることがなかったので、私は少しでもはやくこれを同好者に見せてほしいものだと思っていた。そして昭和四(1929)年十月に、青山の根津邸の弘仁残茶茶会でそれを出させることに成功し、その書幅は非常な喝采で迎えられた。そのとき私は、これを東明流の材料にして大津馬という新曲を作った。
 もともと大津馬というのは、江州(注・近江)大津から京都まで、米俵を背負って逢坂山を往復する馬のことをそう呼ぶ。松花堂がその馬を描いて、そのころ羽州(注・出羽)上の山(注・かみのやま。山形県にある)に流されていた沢庵和尚の讃を乞うたとき、和尚が小色紙に、


 なぞもかく重荷大津の馬れきて なれも浮世に我もうきよに


と書きつけられたものだ。
 これは歳暮の茶掛けとして、このうえもない珍幅になりそうなので、私は再び、昭和五(1930)年丑年の青山歳暮茶会でもそれを使うように青山翁に勧めたのであった。
 ところで青山翁は非常に多忙な身にもかかわらず、大正十(1921)年から毎年歳暮茶会を催しており、この年は十一回目にあたっていた。
 さて、いよいよその幅を使用することになったが、私は、この茶会に何らかの余興を添えたいと思い川部緑水(注・川部太郎、根津家出入りの道具商)と相談し、平岡吟舟翁に頼んで、大蕪を背負った馬子が重荷を負った大津馬を追っていくという図柄を小色紙に描いてもらった。そして、同じ大きさの小色紙に私が、


  年の瀬や重荷大津の馬と人


としたためたものとを、筋かいに(注・斜めに重ねて並べて)張り交ぜた一幅を作り、それを寄付の床に掛けてもらった。

 この年は財界不況で、株持ち連中が大いに苦しんでいる実況をうがった(注・比喩的に表現した)茶目っ気ある趣向だった。 
 さらに茶会後には、さきほどの大津馬の新曲を吹き込んだ蓄音機レコードを広間で来客に披露するという段取りにした。その新曲の文句は、次の通りである。


逢坂の関の清水に影みえて、今や引くらん望月の、駒のひづめの音羽山、越えて都の春の花、秋の紅葉の狩鞍に、金ぷくりんのよそほひを、誇れる友もありとかや、うたてやな、我は過ぐせや悪しかりけん、同じく生を受けながら、しがなき志賀の片ほとり、大津の里に年を経て、田夫野人に追ひつかはれ、背に重荷をあふ坂や、都にかよふ憂きつとめ、誰あはれまんものなしと、思ひわびたる我が影を、八幡の御坊の写し絵に、沢庵和尚の口ずさみ、馬子唄なぞもサアかく、重荷大津のヨ―、馬れきてサアヨー、なれもサア浮世に、我もヨ―うきよにサアヨー。
 となぐさめられて今更に、生き甲斐あれや大津馬、いにしへ浮世又平が、筆の始めの大津絵は、
 大津絵ぶしげほうのあたまへ、梯子を掛け、雷太鼓で、何を釣るつもり、若衆はすまして鷹を手に、見て見ぬふりの塗笠おやま、紫にほふ藤の枝、肩のこりなら、座頭の役、杖でさぐれば、犬わんわん、棒ふり廻すあらきの鬼も、発起り【ぽっきり】をれた其角は、撞木の身がはり、鉦たたき、オツとしめたと、鯰を押へ、奴の行列アレワイサノサ、是は皆さん御存じの、釣鐘背負うた弁慶さん、目に立つ五郎の矢の根とぎ。
 そもそも仲間にはづれたる、我が午年の運びらき、人間万事塞翁の馬い処に、当り矢の、伯楽ならぬ沢庵や、八幡の御坊に見出され、彼の大津絵の又外に、大津馬とて、エンヤリヤウ、引き綱の長きほまれや残るらん。
 

 さて、青山邸の歳暮茶会では、前記の大津馬の小色紙を寄付に掛け、本席の撫松庵には、初入の床に、上半分がコゲ、下半分が白釉の伊賀花入に、白玉椿一輪と、蝋梅(注・ロウバイ=黄色の小花をつける梅)とを活けた。
 後座(注・あとざ=茶会の後半)には、中興名物の節季大海茶入、沢庵和尚共筒茶杓、高麗割高台茶碗、砂張建水などを組み合わせるという大奮発の茶会であった。
 やがて濃茶が一巡して、八畳の景文の間に座を移すと、上段床には、津軽家伝来の、浮世又平(注・岩佐又兵衛)筆の極彩色の不破、名古屋(注・「不破」という歌舞伎題目の主人公ふたり。不破伴左衛門と名古屋山三郎の傾城葛城をめぐる恋の鞘当てで有名)を掛け、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間の一間幅の通路)に、大津馬に付属した書付類を並べてあった。
 客一同が座につくのを待ち、東明流新曲の大津馬の蓄音機を披露した。こうして今回は、私が大津馬の幅を使用させた発願人であったことから、大津馬の新しい小色紙幅をはじめ、新曲レコードまで採用していただいたおかげで、いささかこの茶会に余興を添えることができた。いわゆる「蒼蝿驥尾について千里を走る(注・蝿が名馬の尾にとまって千里を走るように、優れた人のおかげでよい結果を出すこと)」の類で、まことに望外のしあわせであった。そこで、ここに大津馬茶会と、同新曲の由来を記し、昭和庚午(注・かのえうま。昭和5年)の歳暮の記念にしようと思う。 
 


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二百七十一  アインシユタイン博士の来庵(下巻450頁)

 大正十一(1922)年十一月二十九日午前十時、アインシュタイン博士が茶の湯の見学(原文「茶式見学」)のため、夫人同道で、わが伽藍洞(注・高橋箒庵の赤坂邸)の一木庵を訪問されたことは、本庵にとってまことに光栄の至りであった。
 博士夫妻は来日以来、能楽を観覧したり邦楽を聴聞したりして、日本の文芸について深い興味を感じられたということで、本邦に固有の茶の湯についても、ぜひ研究したいとのことで、福澤三八君の紹介でこの日来庵されたのである。
 私は博士をひと目見て、まずその相貌に敬服した。博士は、ドイツ人としては大兵というほどでもないが、あまり小さいほうでもなかった。髪が縮れているのが異様であり、色が白く、下膨れである。豊満な顔の道具(注・パーツ)がよく揃っており、丸い目は、切れ長で、微笑するときが現れ、得も言われぬ愛嬌をたたえる。柔和で沈着で、対面したばかりのときから私はその徳風に魅了されてしまった。
 私は、博士に訪問していただくことを幸いに、茶道の本旨をできるだけ説明して参考にしていただこうと考えていたのだが、博士の在邸時間が一時間十五分だけだったのと、茶道用語の翻訳が、なかなか容易でなかったことから、改造社の稲垣守克君が流暢なドイツ語で熱心に通訳されたにもかかわらず、思ったことの十のうちの一をも言い尽くすことができなかったことは非常に残念であった。
 しかし、ちょうど口切茶会(注・毎年11月にその年の五月に摘んで保存した新茶の封を切る茶会)を開催している最中だったので、まず寄付から案内を始め、床に掛けた松花堂(注・松花堂昭乗)の消息は、三代将軍家光が小堀遠州の品川御殿山茶会に臨まれたとき、その光栄を祝した手紙であるということや、寄付の床掛けとは、茶客が他の同席者とそこで待っているときに読んで楽しむものであることを説明した。

 次に、茶客が全員揃った時、庵主が寄付に客を出迎える時のやり方を見せた。客は、寄付から露地に出て、つくばいの清水で嗽ぎ(注・くちすすぎ)を行う。これには、入席前に口内とともに心頭を清浄にするという謂われがあることを説明した。
 つづいて、狭いにじり口から、三畳半の一木庵にはいっていただいた。そして、床に掛けた、三代将軍筆の木兎(注・みみずく)に沢庵和尚の讃がある一軸の由来を説明し終えたのち、すぐに炭手前をお見せしたのである。
 さて炭手前の最中、釜を上げて、すぐさま、長次郎焼の焙烙(注・ほうろく)に盛った湿し灰(注・しめしばい)を炉の中に振り撒くときに、私は、この湿し灰を撒くのは、ひとつには灰燼を鎮めるという目的、もうひとつには、火勢を助ける目的があることを説明した。すると博士は、四百年前の日本の茶人が、すでに物理学の原理に基づいて炭手前の湿し灰を使い始めていたという注意周到さに感心されたようすだった。
 また炭手前の終わりに染付荘子香合から銘九重という練香を取り出して、それを炉中に投じ炭臭を消すという趣向にも、一興を催されたようだった。
 その後、懐石の膳腕器具を順番に並べ、日本の茶席の懐石は、禅僧の応量器(注・禅僧の食器。托鉢)にならったもので、なるべく庵主の手を煩わさずに、はじめから終わりまで客の方で始末を行う次第を述べた。
 懐石が終ると、中立といって、いったん客を腰掛にまで立ち退かせる。そのあいだに室内を清掃し、掛物を花入と取り換え、濃茶の支度がすでに整った合図として、銅鑼七点(注・大小大小中中大と鳴らすやり方)を打ち鳴らすという方式について説明した。実際に中立はしてもらわなかったが、ためしに銅鑼を鳴らし、その風情を示したのである。
 こうして、いよいよ濃茶手前にはいった。青竹の蓋置に柄杓をおろして端座したとき、もともと濃茶手前の身構えは禅僧の結跏趺坐を変形させたもので、両足の親指を重ね合わせ、四十五度の角度に両股を開き、下腹にうんと力を入れて正座するものであること、左右に動くときにも常にこの四十五度の角度を保って、八回動けば身体が一周することになることを説明した。
 ここで、この態勢で手前に取り掛かった。心を丹田に落ちつけて、無念無想の境に入れば、百万の大敵が襲い掛かって来ようとも、百雷が一時に落ちて来ようとも、泰然自若として微動だにしないという男気が全身に満ちているのだと言ったが、それを通訳が説明し終えると、博士も、なるほどと感服したようであった。
 しかし、だんだんと濃茶器を取り出し、茶入、茶碗、茶杓などにそれぞれの名称があるのを説明したときには、博士も夫人も、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして、いっこうに合点がいかなかったのは無理もないだろう。ドイツなどで言ったら、食事中にテーブルの上に並んでいる茶碗や皿鉢に、飛鳥川とか、玉柏とか、布引とか、白波などという風雅が名前がついているわけだから、それを不思議に感じるのは、まことに当然のことであろう。日本の名物茶器は、いつもそれを擬人化して、茶器を室内に飾るのはその茶器に縁故ある故人の魂をその場に招くのと同然であるということを理解するのは、不滅衰の相対原理発見の大学者にとっても決して簡単なことではあるまいと思う。
 こうして一応、茶事の説明を終えると、庭前の利休堂に案内し、聞香の形式をお見せし、また、編纂中の名器鑑の材料などを展示したのであるが、なんといっても時間が短かったので、博士が会得されるまでの十分な説明をすることができなかったことは、まことに遺憾の至りであった。
 しかし、世界的な大学者を自庵に迎え、茶式の一端を説明することができたことは、私の一生のなかでも、もっとも愉快な出来事であった。
 


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