だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十四  隅田公園記念碑(下巻533頁)

 大正の癸亥(注・みずのとい=大正12年、1923年)の大震火災後に様々な場所で行われた復興事業により、世の中はまさに激変(原文「滄桑の変を出現」)した。
 向島の隅田公園など、その一番の例だといえよう。同公園の大部分は旧水戸徳川家の下屋敷、すなわち小梅邸であった。この地はそのむかし木母寺(注・もくぼじ)という寺があった場所で、また嬉森という大木の林もあったなど、昔からいろいろな歴史的由緒がある。
 私は大正の初年からその嬉森跡の椎林の中に嬉森庵という茶室を設計し、しばしば茶会を催してきたという縁故もあったので、この公園の過去の歴史がまったく忘れられてしまうことを残念に思うので、水戸徳川家で大正初年に編集された「梅邸史」の大要をここに摘録して、後日のために残そうと思う。(注・現代文になおした)

  〇維新前の小梅邸
 小梅邸の所在地は、もと西葛西小梅村といった。五代将軍常憲公(注・徳川綱吉)の時代の元禄六(1693)年癸酉(注・みずのととり)八月五日に、この地は、わが(注・水戸藩の)三代藩主、粛公(注・徳川綱條つなえだ)に下賜された。以来、水戸藩下屋敷となり、代々の藩公がここで鷹狩りを催した。
 藤田東湖が幕命によって幽閉されたのは、この邸内である。弘化二(1845)年二月に小石川邸からここに移され、ここで「常陸帯」を執筆し、「正気の歌」の詩を作ったのである。翌三年丙午(注・ひのえうま)十二月、東湖は蟄居を解かれ、遠慮(注・謹慎)小普請組となり、水戸に移される。

  〇維新後の小梅邸
 明治四(1871)年辛未(注・かのとひつじ)七月十四日に廃藩置県の令が出ると、わが(注・水戸藩の)十一代節公(注・徳川昭武)は、その翌日にここに転居した。
 その後、定公(注・水戸徳川家12代徳川篤敬あつよし)はイタリア風を採用して洋館を建設し、明治三十(1897)年に落成した。
 ところが、土地が低くしばしば洪水が起こるので、土を盛って屋敷も新築する必要が出てきた。そこで、当公(注・当代の当主である13代圀順くにゆき)の時代の明治四十五(1912)年五月に、それに着手し、大正二(1913)年九月に竣工した。今の日本館がそれにあたる。

 江東の周辺は、田畑が市街に変化してゆく時期にあたっており、(注・徳川邸においても)明治四十(1907)年から、邸内の田畑、鴨堀などを埋めて市街地として整備を行った。広さは一万坪余り、戸数は五百戸余り。

  〇歴代藩主ならびに夫人の廟所
 歴代の藩公、藩公夫人の尊霊を奉祀した御廟は、旧水戸藩城の中にあったものをここに移し、規模を四分の一に縮小して再建された。明治三十三(1900)年九月九日に落成した。
 廟の前にある、文明夫人(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭の夫人)による御碑は、もと駒籠(注・未詳。駒込別邸?)の庭内にあったものを、ここに移して建てられたものである。

  〇明治八年以降の行幸、行啓
 明治八(1875)年から明治二十九(1896)年までに、前後六回、行幸啓を仰ぎ奉る光栄を得た。
 明治八年四月四日、桜の花が咲き始めたころ、明治天皇が特別に御臨幸あらせられ、次のような勅語を賜る。
 「朕親臨シテ、光圀斉昭等ノ遺書ヲ観テ、其功業ヲ思フ、汝昭武遺志ヲ継ギ、其能ク益勉励セヨ」
 同時に、御製一首を賜る。


  花くはし桜もあれと此やとの 代々のこころを我はとひけり

 明治十五(1882)年十一月二十一日、同十六年六月三日には、天皇陛下が親しく臨幸あらせられ、隅田川における海軍端艇競漕(注・ボートレース)を御覧ぜさせ給う。
 同十七年四月二日には、天皇皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、同二十五年六月九日には、皇后陛下、皇太子殿下の行啓を拝し、同二十九年十二月十八日には、再度、天皇陛下の行幸を仰ぎ奉る機会を得た。このどちらも隅田川での海軍端艇競漕を御覧になった。」

 前述したとおり、隅田川公園は歴史的な由緒のある場所であるが、関東大震火災のとき、徳川邸が土蔵一戸のほかは、すべて烏有に帰してしまった。復興局では、この一万坪余りの土地を徳川家から買い取り、その他、付近の地所と合わせて新しく隅田公園を作ったのである。

 水戸家ではこのとき、明治八(1895)年の明治大帝の御臨幸の際、当主に陛下から下賜された御製の記念碑を建設することが決まり、当主の圀順公が碑面に御製を謹書し、背面にその事由を記して、これを後世に伝えることにした。今後、当園に足を運ぶ人は、この石碑によって、今昔を追懐することができるであろう。



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二百七十七  嬉森庵の命拾い(下巻472頁)

 大正五(1916)年、私は名古屋の旧家、牧野作兵衛氏から京都表千家の不審庵写しの古茶室を譲り受け、向島水戸徳川邸の東南に位置する大椎樹の森の中に移築し、これを嬉森庵と名づけた。(注・221「松方公爵の大師流」を参照のこと)
 牧野家は、当主から五代前の主人が非常な好事家で、表千家の不審庵の写しを作るにあたり、ただ茶室だけでなく、露地の樹木、飛石、石灯籠などの大小や位置までをも、ことごとく模倣したのだそうだが、それは今から約二百年前のことである。不審庵は維新後に火災にあっており、同庵の写しの中で非常に古いものは全国でもこの一席だけだということだ。
 この席は長三畳台目で、台目畳の脇に、幅四寸(注・一寸は約3センチ)ほどの長板があり、茶道口は太鼓張りの片びらきになっているのが珍しい。東京には、それまでのこれを写した茶席がなかったので、向島徳川邸の東南方に、もともと嬉森という名前の椎の大木が林立している一画があったことを幸いに、その中にこの茶室を建てたらよいと思い、とうとうこれを譲り受け、徳川家の許可を得て名古屋から本席を移したのである。
 これに五畳一間床付の広間を付属して、露地を広々ととり、曳舟通りから入って突き当りに三畳の寄付を設けた。そして、不審庵と語呂が似ていることから、嬉森庵と名づけ、扁額に松方老公(注・松方正義)の揮毫を乞い、同年末に完成を告げた。
 それ以来七年間というもの、この席においてしばしば茶会を催し、山県含雪公、徳川家達公、井上勝之助公爵らの来臨をいただいたこともあった。
 とくに山県公を招請したときには、老公が水戸徳川庭内に来られるということは今後おそらくないと思われた(原文「二度と容易にある間敷ければ」)ため、当主の徳川濤山侯爵のち公爵(注・水戸徳川家13代当主圀順くにゆき)に頼み、本館客間に明治天皇の「花くはし」の御宸翰(注・しんかん。天皇直筆の文書)をはじめ、霊元天皇ほか歴代天皇から水戸家に下賜された数々の宸翰を飾り、茶会のあと、公爵を庭園伝いにその陳列室に案内して縦覧に供したのである。
 公爵は敬虔な態度でそれらを仔細に拝観された。水戸徳川家の勤王の事蹟については天下に顕著であるが、今日数々の文献を拝見してみると、聞きしにまさる盛観で、水戸家歴代の君臣の勤王に対して、おおいに敬意を払わずにはいられないと非常に感激された。私は、水戸家の背景によって大いにこの茶会の威厳を高めたことを、まことに望外の光栄としたのである。
 さて、この嬉森庵は、建築されてから二百年たっているもので、古茶室の少ない東都(注・東京)においては、古さにおいてまちがいなく十指のうちに数えられるものだろう。今、東都の古茶室を挙げてみるならば、内田山井上侯爵邸の八窓庵、麻布今井町三井男爵(注・三井高棟)邸の如庵、上野博物館構内の六窓庵であり、その次にはこの嬉森庵を推さなくてはなるまい。

 この嬉森庵が、さいわいなことに大正十二(1923)年の震災を免れた。それはほかでもない、次のような事情によるものだった。
 そのころ向島付近がだんだんに工場地帯になり、煙突の煙が邸内を襲うようになって、邸宅地として次第に不適当になってきたので、山の手あたりにそれに替わる土地を見つけ次第、移転を断行するという意見が水戸徳川家において台頭していた。私は、この嬉森庵が長くこの場所に安住できないということを知り、どこかにこれを移転する必要を感じていた折柄、上目黒に広大な住宅を有する津村重舎翁が邸内に茶席を設けようとしているということを聞き、同翁と相談の結果、庭石もろとも嬉森庵を譲渡することになったのである。その移築工事も着々と進行して、ほどなく全部引き移った直後に九月一日の震火災があり、徳川邸は新設した土蔵一戸だけを残してすべて烏有に帰したのである。嬉森庵が、あとすこしでもこの地にとどまっていたならば無論焼失してしまったであろうに、その前に津村邸に移転したので危ういところでその厄を免れたというのは、まったく天佑と言わざるを得ないのである。

 そこで、その後津村翁から庵名を求められた時、私は、もっともありきたりに(原文「通俗に」)天佑庵と命名し、扁額に拙筆をふるったのであったが、古茶室が稀有といえる東都において、この庵がその原形を全うすることができたのは、もちろん天佑のなせるわざであったとはいえ、津村翁が折よくも、これを引き受けてくださったおかげであると言わなくてはなるまい。
 津村翁はこの茶室の移築後、その開席披露をするために数々の名器、名幅を蒐集されたばかりでなく、最初は故藤谷宗仁について裏千家の手前を習い、ついで同後継者の森谷宗勇を招いて夫婦ともに茶道を練習されながら、いまだこれを決行されていない。あるいは謙遜の結果かもしれないが、私は以上のような次第で、嬉森庵の天佑をよろこんでいる者なので、なるべくはやく開庵茶会を催して、同庵の中にはいって、その幸運を祝するという光栄を与えていただきたいものだと、(原文「得しめられんことを」)、あえて希望する次第である。



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