だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十五  盛久能平家経(下巻536頁)

 昭和六(1931)年は、明治四十二(1909)年に亡くなった梅若実翁の二十三回忌に当たっていた。そこで梅若宗家の六郎氏(注・のちの二代梅若実)は、浅草厩橋の能舞台において一門の盛大な追善能楽会を催した。
 さらに素人演能会をも開かれた。生き残っている実翁の直接の門人が今では暁天の星のように少なくなっていることもあり、私にもぜひ一番出演してほしという勧誘があった。
 そこで、しまいにはそれを引き受けることになり、さて、何を演じようかと悩んだ末に「盛久」に決定した。

 その理由はこのようなものだった。私は以前、厳島神社の重宝である平家納経の副本調製を計画した。経巻模写にあたっては、その道で古今を通じて並ぶ者のいないとされていた田中親美に委嘱し、大正十四(1925)年に完成させ厳島神社に奉納した。その中には、もちろん観音経も含まれていたが、今、能楽二百番の中で、全体が経巻に関わり、とくに平家に縁故のある曲目としては、断じて「盛久」にまさるものはない。今回は追善でもあるので、それでは今度私が盛久を勤めて、平家経巻中の観音経を実際に使おうと思いついたのである。
 ところが、私が平家納経副本調製の記念として田中氏に依頼した模写経は、法華経二十八品中、厳王品、宝塔品、信解品の三巻、あいにく観音品はなかったのである。そこで仕方なく、この三品のうちの一巻を使用するほかはないと思っていた。
 さて、ここで不思議な因縁話が起こった。実翁の追善能は四月二十六日に挙行されることになっていたが、その一日前の二十五日に、品川御殿山碧雲台において、益田鈍翁が第三回遠州会を催した。そのとき、先年から翁が田中親美氏に模写してもらっていた平家経全部を披露することになった。当日私は同会場に行き、主人の鈍翁に面会して盛久の演能について話し、あいにく観音経を持ち合わせていないので、遺憾ではあるが他の経巻で代用するつもりだと言った。すると鈍翁は聞き終わりもしないうちに、能舞台で平家経を読もうとするなら本物でなければ十分に緊張した気分にならないだろうから、今日陳列している観音品をお持ちになったほうがよかろうと言われた。
 そこで私はおおいに喜び、これを借り受けたのである。そして翌日午後三時ごろ、梅若舞台で、この観音経を懐にいれるとき、巻の中のもっとも美麗な箇所を見せるように工夫した。この日は、経巻調製の本人である田中親美氏はもちろん、同の仰木魯堂、森川如春、横山雲泉、越沢宗見らの来観を願った。

 さていよいよ、観音経の一節の、

  或遭王難苦 臨刑欲寿終 念彼観音力 刀尋段々壌

とよみあげたときには、われながら異常なまでに気分が張りつめた。また、太刀取りが私の後ろに立って「御経の光、眼に塞がり、取り落したる太刀を見れば、二つに折れて段々となる」というところに至って、燦爛たる経巻の色彩がその言葉とよく調和し、いっそうの効果を現わしたように思われた。

 また、盛久能のなかの、口伝とも言える

「吾等が為めの観世音、三世の利益同じくば、斯く刑戮(注・けいりく=刑罰、死刑)に近き身の、誓ひにいかで洩るべきや、盛久が終の道よも闇からじ頼母しや」

というところでは、少し睡眠中に、あらたなる霊夢を感じるところで、左手に持っていた経巻の巻軸が手の中からすこし滑り落ちることになるのだが、それが水晶軸の重みによって、非常にうまいぐあいに運んだ。これは、実物の経巻が生み出した自然の効能であると思われた。
 それにしても、益田邸で偶然に平家副本披露会があって、そこで陳列されていた観音品を、その翌日に梅若舞台で読誦するようなことになるとは、なんという奇遇だろうか。
 ここで私は、田中親美氏と相談し、能楽に適した平家経型の観音経を調製して、それを梅若家に寄贈しようと思いたった。すぐに六郎氏に話してみたところ、六郎氏は非常に喜び、それならば、今回の亡父の二十三回忌追善会を記念するために、今後、盛久能を演じるときには、かならずその経巻を使用することにいたしますと言われた。私も非常に感激して、田中親美に委嘱して、平家経のうちで、地紋色彩のもっとも優美な部分を写して、一巻を作り上げた。そして、田中氏の勧めにしたがい、拙筆で観音経を書写し、さらに腰折(注・自分の歌を謙遜する言い方)一首を白紙に物して、経巻とともに、梅若家に寄贈した。その一首は次のようなものだった。

 梅若実翁二十三回忌追善能に盛久を勤め、其折読誦したる平家経一巻を、同家に参らすとて

  うれしくも盛り久しき梅若の 家にとどめむ法華経の声

 この和歌中の「盛り久しき」は、いうまでもなく盛久のことで「法華経の声」は、梅若に、鶯を利かせたのである。
 ところで、梅若六郎【のちに実邦と改める】氏は、翌昭和七(1932)年四月十四日、厩橋舞台で、みずから盛久を勤めた。貴賓席の床には、私の贈歌の一軸を掛け、このとき、例の平家経形観音経をはじめて舞台で読誦された。
 終演後、六郎氏は、「経巻がみごとなので、一層気分が緊張しました」と、その感想を洩らされた。こうして、今回を始めとして、梅若舞台の盛久能に、ながくこの経巻が使用されるということは、私のもっとも満足するところである。


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百七十六  銅像に就ての所感(下巻101頁)

 東京に初めて建てられた銅像がはたしてどこのものであるのか、私ははっきりとしたことを知らないが、明治二十四、五(189192)年ごろに九段の招魂社の社殿前に建立された大村益次郎氏のものはかなり早いほうだっただろう。
 その銅像は、大熊(原文「大隈」)氏広氏の製作によるものだが、私は明治二十二(1889)年の秋、ヨーロッパから大熊氏と同船で帰国したので、この銅像製作の最中にはしばしば氏と面会して製作に関する苦心談をきいたことがある。
 大村氏には満足のいく写真がなかったので、氏の知人や親族によってその容貌を研究したそうだが、非常に額が長い人で、眉毛を中心にその上下がほとんど同じ長さだったという。銅像の片手に双眼鏡を持っているのは、九段の高台から彰義隊の立てこもっていた上野方面を観望したときの姿なのだそうだ。
 その後大熊氏は、福澤先生の座像も作られた。このときは私も共同世話人のひとりで、銅像ができあがったとき大熊氏から、先生の容貌が普通の人とはかなり違っていて写実をするうえで非常に扱いにくい顔だったという理由も聞かされたが、とにかく先生の気に入らなかったので、私も非常に当惑したということがあった。
 その後いろいろな場所に建立された銅像の中には、だんだんに出来のよいものも出てきたようだが、日本では、製作する者も製作させる者も概して不慣れなために、これは、と感心するようなものが非常に少なかったものだった。
 しかし、大正元(1912)年十月十二日、品川の海晏寺で除幕式を行った梅若実の銅像は、それまで東京の各所に建てられた銅像の中で、その姿はほとんど無類の上出来だった。それもそのはずである。翁が右の手に扇を持ち今や踊り出さんとするところであり、長年鍛えに鍛えたその芸術的な態度が普通の人には及びもつかないものだったからだろう。
 この銅像の建立については、私も発起人のひとりとして当日式場列席した。その高さは五尺四寸(注・約163センチ)で、台石を合わせたら十一尺(注・3.3メートル)だった。その台石の背面には股野琢氏の撰文(注・文章を作る)で、次のように刻印されていた。

  翁少壮遇世変 独力維持能楽 演習弗懈(注・弗懈=怠らず) 遂克挽回頽勢 其功其技 古今希匹 因同志胥
(注・胥=助ける) 茲表彰之云


 本像の製作者である沼田技師が語るところによると、この銅像は当然翁の没後に設計したものだが、万三郎の姿が翁にほとんど生き写しなので、それをモデルに三回ほど写しとり、その容貌体格はもちろん、袴のひだにいたるまで、生前の翁そのままを表現することができたことは非常に幸せだったということであった。
 とにかく、銅像というものはのちのちまで残るものなので、姿かたちが似ていることだけに囚われて、実物よりも劣っている物体を遺してしまうのは、故人にたいしてまことに気の毒だ。上野台の西郷の銅像なども、ふだんの生活の様を写そうとする意匠に囚われたばかりに、陸軍大将だったこの人の威厳を顧みることがなかったのは、おおいに考えものではなかろうか。
 また、数年前に、目黒の恵比寿ビール会社の構内に馬越恭平翁の大銅像を建設してその除幕式が行われたとき、清浦奎吾伯爵が演説をして、「自分は従来銅像を好まぬ一人である。東京市中に於ても、建設その場所得ずして、頭に鳥の糞が掛かっている銅像を見受け、思わず顰蹙(注・ひんしゅく)するものがないでもないから、後来、銅像建設を発起する人々は、かような失態を招かぬよう、大に注意しなくてはなるまい。もっとも今度の銅像は当社構内に建てられて、その保護についても、大に他と異なるものがあろうから、これはまったく例外として、その他一般の銅像はなるべく必要やむべからざるものに限り、粗造濫設を戒めざるべからず」という趣旨を述べられた。
 私は、清浦伯爵の意見に同意すると同時に、銅像製作者に対してさらに希望したいことがある。先ごろ、陸軍省構内に建設された山県有朋公爵の騎馬銅像の鋳造の前に、その石膏の段階で、それぞれが所見を述べよということで、委員となっていた人たちが工作場に集合した。その際、故人の特徴を表現しようとするあまり、かえってその欠点がきわだっていることがなきにしもあらずだったので、なるべく長所や美点を目立たせるようにして、似姿とともにその品格風貌を伝えるよう特に注文をしておいたが、これ山県公爵のものにとどまらず、銅像一般についてそのような点に留意されるよう願っている。
 というのも、あるところで背の低い実業家の銅像を見かけたことがあり、小高い台の上に載っていたので、下から仰ぎ見るとまるで奇形の大黒天を見るようで、このような銅像ならむしろ作らないほうがよいのではないかと思ったことがあったからだ。
 日本では昔から、碑文によって故人の遺徳を称揚するという方法がある。中途半端な銅像を作るよりも、石碑のほうがかえって崇敬の念を深くすることがあるということは、かの清水谷公園内にある大久保利通卿の記念碑などがよい例である。
 私は、将来の参考のために、ここにいささかの所感を披歴する次第である。


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百二十八  能楽翁の神秘(上巻443頁)


 能楽では、「翁」を二百番中の首位に置き、舞台開きとか正月の舞い始めという場合に、きわめておごそかにこれを演じることとしている。かつて梅若実翁は、
 「この能は神体にかたどったもので、翁は天照皇大神宮、千歳は八幡大菩薩、三番は春日明神としてあり、また天下泰平、国土安穏の御祈祷を演じるものなれば、徳川時代には将軍家でさえ、いわゆる別火潔斎のうえで、これを演じるのを常とした。しかし時世の変遷で、近頃はだんだん簡略になってきましたが、私共は古風を守って、これを勤むる前には必ず精進潔斎いたします。旧幕時代には、将軍自身で勤めらるるほかは、観世太夫がこれを勤め、私共は家格として千歳を勤めましたが、かの天下泰平、国土安穏のところに至れば、将軍も両手を膝に置いて、少しく頭つむりを下げらるるのが常例で、能楽はこの翁によって、大に重きをなすものであります」
と語られた。
 その後、古市公威男爵から聞くところによると、「翁」という能は昔から神秘物とされ、これを勤める者は精進潔斎するのを常とするが、知らず識らずにこれを犯すことがあると不思議と何かの異変が生じるものだという。
 旧幕時代に、梅若実が観世太夫の翁のツレを勤めたとき、実夫人が当日に、翁が装束の腹巻を取り落としたことに気づき、実翁のところへ使者に届けさせた。が、その後、夫人が月経時であったことを思い出したが、もはやどうしようもなかった。いっぽうの実は、その腹巻を締めて千歳を舞ったが、大切(注・おおぎり。最後)の足拍子のとき、不思議なことにその足が大口に引っかかり拍子を踏むことができなかった。それで拍子の代わりに身をかがめて舞い納め、なんという失策をしたことかと思って観世太夫に詫びたところ、太夫はそれを咎めなかったばかりか、謹慎の形になっていてかえって上出来だったと褒めてくれたのでまずは安心しはしたが、いかにも不思議なことだと思った。帰宅して夫人から先の一部始終を聞き、実におそろしいことだと思いましたと、実翁からきいたのだそうだ。


 また私が、その後この話を梅若六郎氏に話すと、氏はさらに次のような実体験についてきかせてくれた。(注・現代表現になおし


 「という能は、私共にとっては実に恐ろしいお能で、これを勤めるときには、非常に心配になります。
 私の母が亡くなった大正五年の一月、私が翁を勤めまして、自分でも気づかずに一句飛ばして謡い終わり、あとから人に注意されて、そのようなことがあるばずなないと不審に思っておりましたところ、ほどなく母が死去しましたので、これがその前兆ではなかったかと思い合わされたのであります。
 また大正十二年、あの大震災の年に、私が翁で、梅若進が千歳を勤めましたとき、不思議にも、舞の間に、彼の差していた刀の柄が折れていたのを発見して非常に驚いておりますと、かの震火災の際に逃げ遅れて、家内と子供と三人ともども全滅しましたので、さては、と非常に驚愕したような次第で、翁ほど怖い能はありませんから、これを勤めるときは、精進潔斎して戦々兢々、舞い終わるまでは、少しも気を許すことができないものであります」
ということであった。


 以上の体験談を聞いて、おおいに思い当たるのは、古来、日本の芸術家が大切な仕事をするときには精進潔斎をして神仏に祈誓し、もろもろの不浄を遠ざけて身心を爽快にすることにつとめるということである。三日間の別火だの一週間の精進だのといって、六根清浄を旨とする習慣がある。
 刀鍛冶が名刀を鍛えるときには、仕事場の四隅に注連縄(注・しめなわ)を張り、その身も精進潔斎して鉄槌を持つということであるし、能役者が翁を勤めるときには、前記のように日を限って別火をするなどの習慣がある。これはただ、その仕事の神秘に対しての謹慎というばかりでなく、そのように身心を清浄にして十分に気根を養っておけば、意識も自然に明瞭になり、仕事を仕損じる危険率が減るはずだということからなされているのだろう。

 つまり昔の人は、神仏にかこつけてこのような習慣を作ったのだと思う。能楽のような芸術を演奏するには、謡といい型といい、また拍子といい、その関係がきわめて複雑なので、酒を飲んだり夜更かしをしたり、その他身心の倦怠を生じてしまうような不摂生があると、その結果が芸術の上に現れ思わぬ不覚を取ることになるのだろう。
 これは能楽の話というだけでなく、社会全般の仕事に当たる者がおおいに心得ておくべきことで、能役者が大切な能を勤めるときのような心をもって事に当たれば、必ず仕損じることがないはずである。上記の体験談は、誰にとっても非常に大切な教訓であろうと思う。
 


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百二十七  能楽実演の興趣(下)(上巻440頁)


 私が能楽の実演をするにあたり一番はじめに勤めたのは「猩々」だった。そのときのワキは大友信安で、明治三十五、六(19023)年ごろのことであったと思う。梅若舞台の鏡の間で面をかぶってみると非常に窮屈で、顔の中がむずがゆくなったり、ひげがさわって掻きたくなったり、そのうっとうしさはなかなか厄介だった。そのうえ、ふさふさとした猩々の蔓(注・かずら)を頭の上に載せられたときには、目がぐらついて気が気でなく、いよいよ舞台に掛かったら謡の文句や舞の手を間違いはしないかという心配も加わり、よせばいいのに、とんだことを始めたもんだと、いまさら後悔してみてももう間に合わない。是非もなく舞台に踏み出してみると脚元がふらふらして危なっかしくてたまらなかったが、そのうち少しは精神が落ち着いて、「枕の夢の覚むると思へば、泉はそのまま、つきせぬ宿こそめでたけれ」と舞い終わったときは、やれやれと思ってよみがえったような思いがした。それから楽屋に引っ込んで来ると、梅若実翁が例の調子で、最初としては上出来であると、そこここを褒めてくださった。
 褒められてみると二回目を試みたくなって、次第次第に深入りすることになったが、私が一番困ったことは、明治四十二(1909)年十一月に梅若舞台で「花筐」をつとめたときのことだった。王子製紙会社の専務取締役となって近いうちに北海道の苫小牧工場に出張することになっていたが、今や装束をつけてまさに舞台に掛かろうとしたとき、急用の電話が掛かってきたというのでその電話の内容を聞いてみると、工場におおいに関係した突発事件が起きたという知らせで、私は即刻北海道に出張しなくてはならなくなったのである。このとき、誰かが気を利かせて、しばらくこの知らせを差し控えてくれたらよかろうに、今や舞台に登らんとするときだったので、おおいに神経が乱されたばかりでなく、この能は、最近職務多忙となって稽古が十分でなかったので、あの最も難関の、「帝ふかく歎かせ給ひつつ」というクセのあたりから、われながら調子が悪くなったことを感じ出した。私は、かつて水戸黄門光圀卿が小石川水戸邸の能舞台の楽屋で、藤井紋太夫を成敗したあと五代将軍から賜った唐織の装束をつけて千手の舞を舞い、すこしも平常と変わるところがなく、ツレが絶句したときにも注意してやったということを聞いていたので、今さらのようにそれを思い出し、聖凡の差はこんなにも激しいものかと思い知ったのである。

 今のは私の演能の失敗段であるが、だんだん修業を積むにしたがって、必ずしも失敗ばかりではなかった。明治三十九(1906)年ごろ梅若舞台で「弱法師」を演じたとき、実翁の夫人が稽古中から気にかけて見ておられたそうで、この能が済んだあと稽古をしてくれた六郎にむかい、「万目青山は心にあり」というところで、扇をさっと胸に当てると同時に、二足下がって心持(注・ゆとり)のある工夫が、今日は稽古のときよりもズッとよくできました、と言われたそうだ。夫人は長年、良人や令息の演能を見ているので観能眼は非常に高く、実翁が何か難しい能を演じるときは、打合せの際、夫人に見てもらって意見をきかれたそうだ。そういうとき夫人は、どこそことは批評せず、ただ簡単に、上出来だとか、不出来だとかと言われたそうだが、実翁はこれをきいて、いろいろと工夫を凝らされたという。この夫人からこのような讃辞を受けたのは、私にとっては誠に満足なことであった。
 前に申した(注・126を参照のこと)ように、能は腹芸で、所作を簡単にして、ごく上品にその心を見せるもので、なにごとも腹の力が肝腎である。たとえば、物ひとつ見るにも、なにげなく、ただフイと見たのでは、何を見たのかその趣が現れないから、能楽において物を見るには、まず腹に力を入れて、見方がそれぞれに変化するのを見物人に見分けさせるのがもっとも難しいところである。

 葵上で「水くらき沢辺のホタルのかげよりも」と扇をやって、蛍の飛び行くさまを見るのと、松風で「沢辺の鶴こそ立ちさわげ」と、左右左と、弦の飛び行く態(注・てい。ようす)を眺めるのと、山姥で「峰に翔り(注・かけり)谷にひびきて」と、高山の峰から深谷の底まで見下ろすのと、景清で「ぬしは先へ逃げのびね」と、三尾の谷が逃げていく後ろを見送るのと、藤戸で「我が子返させ給へや」と、ワキの盛綱をにらめつけるのと、その見方はいろいろ違うが、つまり、腹に力がはいって、眼に移り、その眼の光が面から抜け出して見物人に伝わるので、ただうかうかと物を見てもその表情が発露されるものではないのである。
 私などはまだまだ未熟なものだ。ことに、一年に一度か二度の演能であるから、とうていその妙境に達することはできない。しかし、他人の演能を非常に興味深く見ることができるのは、能楽を実演をしたおかげだと思っている。
 


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百二十六  能楽実演の興趣(上)(上巻436頁)


  
私が謡曲を稽古しはじめたのは、前述(注・73を参照のことしたとおり明治二十六(1893)年からである。大阪滞在中に少し宝生流をかじり同時に仕舞も稽古し、多少は方向が見えてきたところで東京に帰ることになり、その後すぐに梅若流に改宗したのである。
 三井の同僚のなかには素謡(注・すうたい。囃子、舞をともなわず謡曲だけを謡うこと)の仲間が多かったので自然と稽古に励むことになり、明治三十六、七(19034)ごろには、重習物(注・おもならいもの。免状を得るための歌の等級のひとつ)もほとんど卒業したうえ、毎度、催能を見物しているので、素謡だけでは物足りなく感じるようになってきた。
 そこで、いよいよ能楽の稽古を始め、素人能の仲間入りをすることになった。「猩々」を演じて初めて舞台に立ったのが三十六年ごろだったと思う。
 それから一年に二、三回は演能を試みた。多くの場合は梅若舞台だったが、その後、私は、能楽会長の故蜂須賀茂韶侯爵の勧誘により能楽会役員の一員になったので、蜂須賀侯爵らとともに名古屋に赴き、同地の能舞台で弱法師(注・よろぼうし)」を演じたこともあった。

 とかく素人というものは大物に食ってかかりたいのが常で、私などもご多聞にもれず、これまでに、鉢の木、隅田川、俊寛、弱法師、井筒などという九番物を好んで実演してきた。そのほかにも、松虫、清経、女郎花、百万、三井寺、盛久、山姥、花筐、蝉丸、弦上などを勤めた。最初のうちは万三郎、六郎兄弟(注・両人とも梅若実の実子)の教授を受け、その後もっぱら六郎氏(注・のちの二世梅若実)について稽古することになった。
 さて、能楽を修業してみると、東洋術のならいで、その帰着点はいわゆる腹芸にあるということがわかる。もっと難しく言うと、能禅一味(注・能と禅は一体である)で、物我一如(注・他者と自己の境がない)であることを極致とするのだから、どこまでいっても際限がない。究めれば究めるほど、いよいよ難しくなるようである。
 もっともこれは、どんな芸道においてもみな同じである。しかし、能楽はとりわけ様式が簡単で練習によってその効果を現わすものなので、他の諸芸に比べて一段と難しいものだと思う。第一、能楽は、舞を構成している手振りが少なく、たとえば、左右、打込、披き(注・ひらき)、差廻し、差分け、飛返り、打合せ、身を替え、上げ扇、ユーケン、翳し扇、雲の扉、捲き返しなどという舞型が、全部で二十種くらいしかないので、これをさまざまに組み合わせたところで、普通の舞踏の手振りに比べれば、きわめて簡単なものなのである。
 また舞台には、芝居で使うような写実的な書割(注・舞台の背景画)がなく、たまに小道具を持ち出すことがあっても簡素な形式を示すにすぎないので、背景の力で演芸を補足する度合は芝居とは比較にならない。例えていうなら、芝居は、全幅にコテコテに描き詰めた彩色画であり、能楽は筆数が少なく一点一画に力のこもった水墨画のようなものである。彩画のほうは、画面に現れた形状によって、見る者は、その図が何を描いたものであるかを知ることができるが、墨画のほうは、その筆力ひとつによって、見る者の脳裏に、写実ではない真髄を感じさせるのである。だから、非常に多くの修練を重ねる以外には、その妙境に達するのは不可能だと思われる。
 能楽は、一口に、二百番というが、現在、各流派において通常出される演目は、おおむね五十番内外にすぎない。この道の専門家は、この五十番を少年期から老境にいたるまで、場合によっては一曲を数百回も実演するのであり、その時自分の身も魂も演じる人格になり切り、まったく物我一如となるのである。その心意気が観客の心眼に映り、大きな感動を与えることになる。これがいわゆる腹芸ということである。

 東洋の芸術の帰着点は、どれもみな同様であるが、能楽はとりわけその観が強い。つねに丹田に力をこめ、足ひとつ踏み出すにも、物ひとつ見るにも、まず腹から力が出るようにならなければ、その奥義に達することはできないのである。
 私の経験によると、一番の能には、必ず一、二か所の難関があり、これを通過するには何遍も丹念に稽古するほかはないが、練習の功を積み、その要領を会得したときのよろこびは、また格別なものである。思うに芸術とは、演じるたびに毎回同じにできることはなく、あるときには自分でも知らずにうまくできたことが、次に同じようにやろうと思っても同様の味わいを出せない場合が多い。
 かつて梅若実翁が、弟子の勇治郎が『東北』を稽古しているとき、池水に映る月かげといういうところで、扇を上げて下を見た形がいかにもよかったので、今一度そこをやってみろと申しましたところが、今度は私の思うようにいかなかった。この、いかにもうまかったのは自然にあらわれた妙所で、幾度でも同じうまさにできるようになれば、いわゆる名人となるのでありますと言われたが、能楽演奏の興趣は、このあたりのところにあるのだろう。
 


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八十八   明治能楽界の三傑(上巻300頁)

 明治時代の能楽界には宝生九郎、梅若実、桜間左陣という三傑がいた。これは演劇界に、菊、左の三優がいたのに相対し、まったく世にもまれな壮観だった。
 宝生九郎は梅若実に比べ人物も気質もやや大まかなところがあった。芸風でいうと、九郎が十郎ならば、実が菊五郎、左陣が左団次だというところか。
 実ももちろん美声で、独特の人をひきつける謡いぶりだったが、九郎は、最高の美声で名高かった。私は彼が明治二十五(1892)年ごろに芝公園内の能楽堂九段の招魂社境内に現存花筐を勤めたのを見たが、揚幕の内側から「いかにあれなる道行人、都への道おしえてたべ」と呼びかけるその声の朗々として満場に響き渡る心地よさが、今でも耳の底に残っているほどだ。
 もともと宝生流には美声家が多く、昔から地宝生といわれている。九郎が地頭(注・地謡の統括者)に座るときには、他流で聞くことができないくらいに地方(注・じかた)が揃っていた。彼は、実が円満な体格であるのに対し痩せて長身だったが、姿勢が整然として、舞ぶりも堂々として舞台を圧倒していた。
 どれかを選ぶとすると、鉢木、景清、高野物狂というような、武張った渋い型が優れていたように思う。芸の名に傷がつかないように芸人的な利欲から離れたところにいた点で、頑固で妥協を知らない古武士のようだった。
 彼はあまり多くの素人弟子を取らなかった。ただプロだけを養成して自流を後世に伝えようとしていた。そうしたところがなんとなく禅宗の僧に似ていた。
  六十一歳のときに安宅を勤めたあと、きっぱり舞台から引退したということも、彼の芸道における意志の固い信念を裏書きしている。
 私は幾度となく九郎と対話する機会を得たが、あるときに九州の安川敬一郎男爵が、山県有朋侯爵を有楽町の三井集会所に招いた席上で九郎が仕舞を舞われたことがあった。その仕舞を見終えた山県公爵は、いかにも整然たる姿勢ではないか、二個の茶碗に水を盛って、彼の双肩に載せておいても、あまりこぼれないだろうと思うがどうだろうと、そばの人に話されていたのを九郎は黙って聞いていたが、その眉間には我が意を得たりの深い満足の様が見えた。
 梅若実は、人となりが非常に怜悧で世渡りたけていた。思慮がすみずみに行き届き、単なる能楽者として群を抜いていただけでなく、何をやってもひとかどの成功を収めるだろうと思われた人だった。
 彼は座談がひじょうにうまく、話が芸道のことになると話の材料が驚くほど豊富で、とうとうと語り続けたものだ。
 あるとき時事新報に談話の連載をしたことがあった。能楽、謡曲について、これまで誰も語らなかったことについて詳しく論じた。この世界を知る参考として当時の人の大きな注目をひいた。

 彼は芸について非常に工夫をこらし、彼によって梅若流の演能に改良を加えられたものが多々ある。とくに、他流の演能では男女の差をあまり緻密に表現せず、たとえば三番目の鬘物(注・五番立ての演能で三番目に演じられる女性がシテの演目)を演じるときも、武張った型になっていたのを、けなげに両足を揃えることにしたり、女物を演じるのにときどき毛ずねが見えていたのを、ももひきをはいて隠したりした。つまり、老若男女や貴賤に応じてそれぞれの性質をあらわすことに苦心したのである。今では他流でもまねするようになった。
  かつて明治天皇の仰せを蒙り、観世流の謡曲本にみずから節付を書き入れてお手元に献納したこともあるそうだ。
 婿養子の清之(注・のちの観世清之)、実子の万三郎、六郎に対して流儀のすべてを伝え、八十二歳の高齢で没する二年前まで舞台に立った。維新後に衰亡の極致にあった能楽界においてその復興に果たした苦心の数々については、また別項を設けて記述することとしたい。
 桜間左膳とは私は深く交際しなかったので、実や九郎と同じようには、その人となりを語ることはできない。しかし芸に忠実で、それが長年にわたり洗練された結果である足さばきはみごとであった。その堅実で渋みのある芸風は他のふたりに実力肩を並べていたと思う。
 私は彼の芸風が好きで、彼の出演する舞台なら、いつでもどこでも参観するようにしていたが、彼は、特に四番目物に秀でていることと、老人物が得意なのが特徴だと言えた。
 晩年、模範的な松風を演じるという評判があったので興味を持って見物に行ったことがあった。しかし老体のため、首が肩の間に落ち込んでいる松風であった。十郎の晩年の道成寺と同じく、いくら名人とはいえ不自然なのは免れないようだった。
 実も晩年に、若手たちに手本を遺すということで、先代の観世銕之丞と蝉丸を演じたことがあったが、よせばいいのに、と思われたものだった。
 その点で、九郎はその名に傷をつけぬようにと、還暦後に舞台に立たなかったのは、ひとつの見識というものであろう。
 私は自分が明治時代に生まれあわせ、演劇界の菊左とともに能楽界の三傑を目撃することができ、芸術鑑賞のうえで非常に幸福なことだったと思うのである。


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八十七   梅若流稽古 (上巻296頁)

 私は、自分が梅若流の謡曲稽古し始めたのがいつだったかということをはっきりとは覚えていなかった。最近別の用があって梅若六郎氏を訪問したついでに、そのことを話してみたところ、六郎氏は、父上、実翁の直筆の門入帳を出して見せてくれた。その記録によると私のは、明治二十八年十月二十八日三井支配人高橋義雄とあった。
 この門入帳を最初から見てみると、明治十三(1880)年に益田孝、三井八郎次郎(注・松籟三井高弘)、十四年に古市公威、鳩山和夫、十六年に団琢磨、十七年に馬越恭平が入門している。それには驚かなかったが、十四年三月二十三日に元老院権大書記官金子堅太郎とあったのが意外だった。
 その後偶然に金子子爵に面会することがありこのことについてきいてみると、子爵は今昔の感にたえないという面持ちで次のようなことを語ってくれた。

 当時は能楽界が悲惨きわまりない窮状を示しており、厩橋の梅若能楽堂の一部を借家にでもしないと家計もまかなえない状態にあったが、「たとえ道端で謡を謡うことになるとしても、能楽堂を手放すことだけは祖先に対して申し訳が立たないという翁の嘆息をきいて同情にたえかね、ひと月にいくらあればよろしいのかと訊くと、三十円で足りるというならばわれわれが門弟になって、それに相応する月謝を提供しようということになった。僕は自宅に来てもらい、ほかの人たちは九段下の玉泉堂を稽古場にして出稽古をしてもらったのだ、ということだった。
  さて私が梅若流の稽古を始めたのは、前述のとおり明治二十八(1895)年からだった。(注・73「謡曲稽古の発端」を参照のこと二十六年の大阪滞在中に宝生流の謡曲と仕舞を習い始め師匠はそのとき大阪にいた名古屋人で、木村治一という六十歳前後の老人であった。この老人はすこぶる美声で相当な能楽の心得があったので、謡曲とともに仕舞も教授していた。

 当時まだ二十代だった、木村の息子の安吉は、以前に宝生九郎の内弟子になり、今の松本長、野口政吉らと同輩であったが、怠け者で師匠のところにいることができず、やがて老父のもとに戻ってきた。私は老父の依頼で安吉を一時三井銀行に採用してやったが、私が大阪を去ったのち今度は東京に舞い戻り、ほどなくして若死にしてしまったという。
 このように私は最初に宝生流を習ったが、明治二十八(1895)年の東京移住後には三井の主家では全員が観世流なので、わたしもさっそく改宗することになった。そのころ神田小川町に住んでいた観世清廉のところに入門した。
 そのころの清廉は三十歳くらいだったであろうか、とてもよい声で、厩橋の梅若舞台にも出演することがあったが、もともと自由気ままな性格で、能役者としての作法を守ることがなく、女房と雑談しながら、ときどき振り向いて謡曲を教授するといった不謹慎さがあった。それで私は二、三度稽古に行き、班女一番を習っただけで、弟子のほうから破門ということにしてしまった。

 そして今度は観世清之のところへ行った。この人はすこししゃがれ声で渋味のある芸風だった。梅若実の婿養子であり、万太郎、六郎がまだ生まれる前には実の片腕となって働いていたそうだ。しかし私が行ったころには梅若家を離れ、元の観世姓に戻っていた。その晩年には謡曲本を発行し、この世界における功労者であったとのことだ。
 私は明治二十八(1895)年に東京に戻ってからは、麹町上二番町四十二番地の、加藤弘之氏の隣りに住んでいたので、三井呉服店に出勤する前に隔日くらいで謡曲の稽古をした。あるとき清之が病気し梅若万三郎と六郎が交代で来てくれることになり、進歩もあまり遅いほうではなかった。
 清景を稽古していたころのある日、その日は万三郎が来宅する番の日で、朝食をとるあいだしばらく座敷で待たせておいたことがあった。そして悠々として行ってみると、なんということか、梅若実翁が師匠の風格を示して正面にどっしりと座っていた。私はおおいに恐縮し、清景の「松門ひとり閉じて年月を送り」というところを稽古してもらった。年老いた盲目の清景が孤独の庵の中でひとりごとを言う場面である。その心境の説明後、発声の練習となった。その教授法が丁寧で、かつ徹底していたためか、それからというもの自身で謡っても、または清景の能を見ても、この一段のところに来ると翁の面影が目に浮かび声がはっきりと耳に聞こえる。これが名人の芸力というものなのだろう。
 私の梅若入門は、前述したとおり明治二十八(1895)年の十月だから、翁が来宅されたのは、たぶんその十二月ごろだったのではないか。それは翁が六十八歳のいまだ壮健なときで、私は三十五歳だった。
 その後私は、謡曲とともに仕舞も稽古し、さらに、猩々をはじめ、花筐、弱法師、三井寺、弦上、百萬、松虫、鉢木、盛久、俊寛、隅田川などの演能を試みた。そのときのことについては、また追って記述することにしたい。
 


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