だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十八  大津馬茶会と新曲(下巻548頁)


 根津青山【嘉一郎】翁は、明治三十七、八(190405)年ごろ大阪の老道具商である春海藤次郎の周旋で、松花堂昭乗画、沢庵和尚讃の大津馬という名物書幅を、当時のレコード破りの高値で買い入れられた(注・根津と春海の交流については110を参照のこと)。しかし、それを秘蔵するあまり、かんたんにはこれを出してくることがなかったので、私は少しでもはやくこれを同好者に見せてほしいものだと思っていた。そして昭和四(1929)年十月に、青山の根津邸の弘仁残茶茶会でそれを出させることに成功し、その書幅は非常な喝采で迎えられた。そのとき私は、これを東明流の材料にして大津馬という新曲を作った。
 もともと大津馬というのは、江州(注・近江)大津から京都まで、米俵を背負って逢坂山を往復する馬のことをそう呼ぶ。松花堂がその馬を描いて、そのころ羽州(注・出羽)上の山(注・かみのやま。山形県にある)に流されていた沢庵和尚の讃を乞うたとき、和尚が小色紙に、


 なぞもかく重荷大津の馬れきて なれも浮世に我もうきよに


と書きつけられたものだ。
 これは歳暮の茶掛けとして、このうえもない珍幅になりそうなので、私は再び、昭和五(1930)年丑年の青山歳暮茶会でもそれを使うように青山翁に勧めたのであった。
 ところで青山翁は非常に多忙な身にもかかわらず、大正十(1921)年から毎年歳暮茶会を催しており、この年は十一回目にあたっていた。
 さて、いよいよその幅を使用することになったが、私は、この茶会に何らかの余興を添えたいと思い川部緑水(注・川部太郎、根津家出入りの道具商)と相談し、平岡吟舟翁に頼んで、大蕪を背負った馬子が重荷を負った大津馬を追っていくという図柄を小色紙に描いてもらった。そして、同じ大きさの小色紙に私が、


  年の瀬や重荷大津の馬と人


としたためたものとを、筋かいに(注・斜めに重ねて並べて)張り交ぜた一幅を作り、それを寄付の床に掛けてもらった。

 この年は財界不況で、株持ち連中が大いに苦しんでいる実況をうがった(注・比喩的に表現した)茶目っ気ある趣向だった。 
 さらに茶会後には、さきほどの大津馬の新曲を吹き込んだ蓄音機レコードを広間で来客に披露するという段取りにした。その新曲の文句は、次の通りである。


逢坂の関の清水に影みえて、今や引くらん望月の、駒のひづめの音羽山、越えて都の春の花、秋の紅葉の狩鞍に、金ぷくりんのよそほひを、誇れる友もありとかや、うたてやな、我は過ぐせや悪しかりけん、同じく生を受けながら、しがなき志賀の片ほとり、大津の里に年を経て、田夫野人に追ひつかはれ、背に重荷をあふ坂や、都にかよふ憂きつとめ、誰あはれまんものなしと、思ひわびたる我が影を、八幡の御坊の写し絵に、沢庵和尚の口ずさみ、馬子唄なぞもサアかく、重荷大津のヨ―、馬れきてサアヨー、なれもサア浮世に、我もヨ―うきよにサアヨー。
 となぐさめられて今更に、生き甲斐あれや大津馬、いにしへ浮世又平が、筆の始めの大津絵は、
 大津絵ぶしげほうのあたまへ、梯子を掛け、雷太鼓で、何を釣るつもり、若衆はすまして鷹を手に、見て見ぬふりの塗笠おやま、紫にほふ藤の枝、肩のこりなら、座頭の役、杖でさぐれば、犬わんわん、棒ふり廻すあらきの鬼も、発起り【ぽっきり】をれた其角は、撞木の身がはり、鉦たたき、オツとしめたと、鯰を押へ、奴の行列アレワイサノサ、是は皆さん御存じの、釣鐘背負うた弁慶さん、目に立つ五郎の矢の根とぎ。
 そもそも仲間にはづれたる、我が午年の運びらき、人間万事塞翁の馬い処に、当り矢の、伯楽ならぬ沢庵や、八幡の御坊に見出され、彼の大津絵の又外に、大津馬とて、エンヤリヤウ、引き綱の長きほまれや残るらん。
 

 さて、青山邸の歳暮茶会では、前記の大津馬の小色紙を寄付に掛け、本席の撫松庵には、初入の床に、上半分がコゲ、下半分が白釉の伊賀花入に、白玉椿一輪と、蝋梅(注・ロウバイ=黄色の小花をつける梅)とを活けた。
 後座(注・あとざ=茶会の後半)には、中興名物の節季大海茶入、沢庵和尚共筒茶杓、高麗割高台茶碗、砂張建水などを組み合わせるという大奮発の茶会であった。
 やがて濃茶が一巡して、八畳の景文の間に座を移すと、上段床には、津軽家伝来の、浮世又平(注・岩佐又兵衛)筆の極彩色の不破、名古屋(注・「不破」という歌舞伎題目の主人公ふたり。不破伴左衛門と名古屋山三郎の傾城葛城をめぐる恋の鞘当てで有名)を掛け、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間の一間幅の通路)に、大津馬に付属した書付類を並べてあった。
 客一同が座につくのを待ち、東明流新曲の大津馬の蓄音機を披露した。こうして今回は、私が大津馬の幅を使用させた発願人であったことから、大津馬の新しい小色紙幅をはじめ、新曲レコードまで採用していただいたおかげで、いささかこの茶会に余興を添えることができた。いわゆる「蒼蝿驥尾について千里を走る(注・蝿が名馬の尾にとまって千里を走るように、優れた人のおかげでよい結果を出すこと)」の類で、まことに望外のしあわせであった。そこで、ここに大津馬茶会と、同新曲の由来を記し、昭和庚午(注・かのえうま。昭和5年)の歳暮の記念にしようと思う。 
 


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二百九十一  松屋肩衝争奪戦(下巻522頁)


 松屋肩衝という大名物(注・おおめいぶつ)茶入は、もとは松本周室【あるいは松本珠報ともいう】が所持していたことから松本肩衝ともよばれていた。周室は、これを足利義政に献じ、義政がそれを珠光(注・村田珠光)に賜った。珠光はそれを、弟子の古市播磨守澄胤(注・ちょういん)に伝え、澄胤はそれを奈良の松屋源三郎久行に譲ったのである。
 それからは代々松屋に伝わり、松屋肩衝と呼ばれることになった。津田宗及の茶湯日記によると、永禄八(1565)年五月に松永久秀が南都焼き討ち(注・室町幕府13代将軍義輝を襲撃、殺害)の際に、あらかじめ松屋に内報して、徐熈(注・じょき。中国五代南唐の画家)の鷺の掛物と、この茶入を、よそに持ち出させたということである。
 その後、天正十五(1587)年十月の北野大茶の湯にも出陳された。また、霊元天皇の叡覧(注・天子が御覧になること)、将軍秀忠の上覧に供したこともあり、細川三斎、古田織部、小堀遠州、片桐石州といった大茶人からも多大な賞讃を博したものである。
 これより以前、利休がその袋を寄付し、三斎が象牙蓋と挽家(注・ひきや。仕覆に入れた茶入を収納する棗型の木の容器)の革袋と桐箱を寄進して、それらは今でもすべて付属している。
 この茶入は、徳川将軍家所蔵の初花肩衝と同種類の、漢作(注・唐物茶入のうちもっとも古い宋元時代のもの)で、こちらは少し背が低く胴まわりが大きいことが一風変わっているところである。
 もともと松屋では、久行、久好、久政、久重と、代々の数寄者が相続し、松屋三名物(注・徐熈筆の白鷺図、松屋肩衝、存星[ぞんせい]の長盆のこと。鷺図、存星長盆は現在所在不明)を持ち伝えた。歴代の主人たちは利休をはじめとする大宗匠のところに出入りしており、彼ら大宗匠の言行を記録したものとして「松屋会記(原文「松屋筆記」)」あるいは「四祖伝書」などといったものを残した。それらは広く京阪の茶人に知られ、松屋の三名物を見ざる者は、ほとんど茶人にあらざるがごとくに言われていた時代もあった。

 このように松屋は代々、これら名物を伝承してきたが、寛政年間(17891801年)に、松平不昧公は、いかにしても松屋肩衝を手に入れようと、お国入りの途中、伏見の旅館でこれを一覧することになり、実見が終って松屋主人が茶入を持って引き下がろうとしたとき、お供の家臣が進み出で次の間のふすまをあけると、千両箱が三個積み重ねられ置かれていた。懇望しているという内意を見せたわけだが、松屋は、これは先祖伝来の重宝なので金銭には替え難いとして最後まで応じなかった。
 当時、不昧公から松屋に送った礼状には、


 昨日は両種久々にて致一覧、大慶不過之候、別而肩衝如我等可賞品とは不被存候、不備               出羽一々
 土門源三郎様


とある。なんとなく、いやみを含んでいるように見受けられるのは、おそらく非常に失望されたからであろう。
 さて安政年間(185460年)になり、松屋の家政が傾いた(原文「不如意」)ため、これら三名物を、大阪の道具商である道勝、こと伊藤勝兵衛のところに質入れした。
 それを、島津公が一万両で買い上げられたという伝説は残っているのだが、このとき買われたのが、松屋肩衝だけだったのか、徐熈の鷺、存星長盆も一緒だったのか、その辺はさだかではない。
 私はそのことについて、以前、伊集院兼常翁を介して、島津家の方を調べてもらったことがあるが、西南戦争のときに焼失したものでもあろうか、とにかく、現存するのは茶入だけだということだった。
 さて、昭和三(1928)年の島津公爵家蔵器入札のとき、島津家の財政整理委員の樺山愛輔伯爵が、三井合名会社の理事である団琢磨男爵に、この入札の一切の世話を委託した続いて団男爵は、その宰領一切を私に依頼されたので、私は蔵器の中でもっとも高価なこの茶入の落ち着き先を探すため、まず根津青山、馬越化生の両翁を勧誘した。
 この両翁の入札の結果は、青山翁の力が勝っていた。軍配が青山にあがったとき、有力な札元であった戸田露朝が一曲の歌詞を作って私に送ってくれたので、ここに掲載しよう。


 

松屋潟月伊達引

 「むかしより、いまに常盤の色かへぬ、松の位の名物も、薩摩風に吹きよせられて、都のちまたくらぶにて、市に出でたるをりからに、引く手あまたのその中に、桜川(注・馬越のこと)とて今の世に、名うての大関力こぶ、入れて通ひし御成門、かたやは是も横綱の、緑も深き青山(注・根津のこと)と、互にきそふ土俵入、取組ありし其日には、四本柱もゆるぐ程、人気集るまつやがた、突合ふ手先、其内に、青山関の上手投、見事にきまり首尾よくも、勝星いただき帰り行く、げに勇ましきよそほひは、末の世までの語草、めでたかりける次第なり。」


 こうして、この茶入の噂は、一時はこの世界を賑わせた。(注・現在も根津美術館蔵)
 勝敗があるのは、戦う者の常、これ以上、気にするにも足らないことである。しかし、このような名器の争奪戦において、片方の大関であった化生翁が、今や、忽然として娑婆の土俵を引退された(注・亡くなられた)ということは、まことに残念きわまりないことである。



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二百六十一  高野山霊宝館落慶式(下巻412頁)

 明治四十三(1910)年に発起した高野山霊宝館は、それから十二年をついやして大正十(1921)年五月十五日に、いよいよ落慶式を挙行する運びとなった。そこで最初からこの事業に微力を尽くしてきた私たちは、この日をもってようやく肩の荷をおろすことができたのである。(注・160「高野山霊宝館の発端」を参照のこと)
 そもそもこの霊宝館は、高野鉄道社長の根津嘉一郎氏らが高野繁昌の一策として建設する必要を唱えたものだった。高野山側としても、同山の開山一千百年の記念事業の一部としてその実現をさかんに望み、大師会の発頭人として知られていた益田鈍翁(注・益田孝)や、真言寺と自称して大師崇拝者であった朝吹柴庵(注・朝吹英二)らが発起人に馳せ参じたので、ここにいよいよその計画を立て資金勧募に着手した。
 しかしそれに着手したそのとき、最初からこの事業に熱心だった高野山宝城院住職の佐伯宥純師が突然遷化(注・せんげ=高僧の死去のこと)してしまった。そのためたちまちのうちに大頓挫を生じ、一時は計画を中止しなければならないことになりかけた。しかしこれでは佐伯師の霊に対して申し訳が立たないということで、私と野崎幻庵(注・野崎広太)でその事務所を引き受け、決然として資金募集を始めた。
 その意気に馬越化生翁が共鳴し、それからは三人で、あるときは知己の誰かれを勧誘し、あるときは諸大家道具入札会の札元たちを説いてその冥加金(注・奉納金)を徴収するなど、さまざまな手段を講じて、かろうじて十一万円を募集することができた。しかし物価騰貴のため、当初十三万円であった予算が、ほとんどその倍額に達していたので、発起人中の発起人であった下記の八名が各自、最低七千円、最高一万一千円を分担し、出資総額を十七万円にまとめた。
 一方高野山側では、当初からこの事業の相談役であった文学博士の黒板勝美、荻野仲三郎の両氏が調談の結果、館内の造作備品代金の十万円余りを支弁することになったので、双方の合計の約三十万円で霊宝館第一期計画を完成し、この日めでたくこの落慶式を挙行するにいたったのである。
 霊宝館は、正殿を中心にして左右に両翼を張り、回廊でそれを連接する構造(原文「結構」)である。今回は第一期事業として、正殿すなわち紫雲館と、左翼すなわち放光閣を完成し、右翼は第二期事業として将来の竣工を待つことにしたのである。
 こうして、この日は東京から発起人総代として益田鈍翁、根津青山、馬越化生、野崎幻庵と私の五名のほかに室田義文氏が出席し、九州からは安川敬一郎男爵、京都からは日置藤夫氏などが登山した。

 益田男爵が霊宝館寄進文を読み上げ、金剛峯寺管長の土宜法龍師が受納文を、建築技師長の大江新太郎氏が報告文を、馬越化生翁が祝詞を朗読し、首尾よく落慶式は終わった。
 黒板博士の筆になった霊宝館の寄進文は次の通りであった。

 「寄進し奉る高野山霊宝館一宇の事。
右当山は弘法大師入定の聖跡、三世諸仏集会の浄域なり、上天子より下衆庶に至るまで、一心帰依の懇志を致し、三会得脱の値遇を期す、是を以て蓮峰蘿(=カズラ)窟、徳風吹くこと一千百余年、霊宝秘珍、庫の充ち蔵に溢る、惜い哉、或は祝融の災に罹り、或は蠧魚(=紙魚)の食となり、日に散し月に失ふ者、其数を知らず、而して保存の法未だ立たず、展観の便尚ほ欠く、登山の輩、参詣の衆、多くを以て恨みと為す、是に於て明治庚戌の春、始めて霊宝館造立の発願あり、我等之を隨喜し、奉加四方に勤め、功徳一切に及ぶ、而して十余星霜を経、輪奐(=建築物が広大であること)の美未だ成らざるの間、座主密門大僧正を始め奉り、佐伯権中僧正、朝吹柴庵等、忽ち黄壌(=死後の世界)の長別を告げ、前後恨み極まりなき者なり、切に浮世の夢の如きを感じ、弥よ(=いよいよ)事業の遂げ難きを歎じ、更に多少の志を集め、纔(=わずか)に土木の功を終り、殿紫雲と称し、閣放光と呼ぶ、乃ち虔んで大師の宝前に寄進し奉り、聊か以て小願を果す、庶幾(=こいねがわ)くは、遍照金剛の威光弥よ輝き、普賢行願の梵風益加り、又願くは此微善に依り、故座主以下、聖霊出離生死頓生仏果、同心緇素(注・しそ=出家者と在家者)現当安楽、願望円満、乃至法界平等利益、敬白(原漢文)
 大正十五円五月十五日

      高野山霊宝館建設発起人総代
     益田孝     根津嘉一郎
     馬越恭平    村井吉兵衛   
     原富太郎    朝吹常吉

     野崎広太    高橋義雄

 霊宝館の右翼はまだ出来上がっておらず完全に竣工してはいなかったが、正館と左翼ができあがったので、什宝保存のため、また一般の人々(原文「衆庶」)観覧のために、今後幾久しく無限の功徳と便宜を生じることになるだろう。
 山間僻地の寺院に関する事業というものは、都会での同様の事業のようには華々しく目立つようなことはないが、概して永続的なものになりやすく、少しずつであっても後世に恵沢を及ぼすものが多い。たとえば鎌倉幕府の事業は、なにひとつ見る影もなく荒廃してしまったが、尼将軍政子(注・北条政子)が高野山に寄進した多宝塔は、厳然として今もその雄姿を留めているではないか。
 霊宝館建設の議が起こってから十二年、私たちは、時には托鉢坊主のようになって、勧化(注・寄付集め)に憂き身をやつしたこともあったが、今や本館が落成しその功徳が今後長く継続するのだと思えば、いささか骨折り甲斐があったものだと衷心(注・心の底から。原文「中心」)満足している次第である。

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百六十  高野山霊宝館の発端(下巻45頁)

 私は明治四十五(1912)年から趣味に生きる人間になったので、美術、工芸、文学に関する各種の事業において、みずから進み出たり人から推されたりして奔走することになったそのようなもののひとつに、同年の六月から発足して約十年後にようやく完成した高野山霊宝館の建設事業がある。
 そもそもこの事業は高野鉄道の発起人である根津嘉一郎氏らが、この鉄道を繁昌させる方策として高野山に宝物館を設けようと提唱したことに始まる。ひとつには一般人に観覧の機会を与えようということと、もうひとつには火災の危険を防ぐ必要があると提唱したのである。弘法大師の信仰者であり、また同山の宝物の真価を知り尽くしていた益田孝、朝吹英二、高田慎蔵の諸氏が賛成し、彼らが私に趣意書の起草を非常に熱心に依頼されたので、次のような大要の一文を作りその求めに応じることになった。これが高野山霊宝館の建設のはじまりだった。

   高野山霊宝館建設趣意書(注・旧字を新字にあらためたほかは原文通り、なお、「萬象録」明治45年6月29日にも同趣意書が掲載されているが、文言が微妙に違っている。後者は、たとえば「本邦名刹はと問ふ者あれば人先づ指を高野山に屈せん」で始まっている)
 

人あり若し本邦の名刹を問ふ者あらば、必ず先づ指を高野山に屈せん、此一事開山大師の徳業が、如何に当山に集中せるやを示すと同時に、之を永遠に保存するの必要も、亦自づから明白ならん、而して此保存事業中、即今一日も捨て置く可からざるものは、高野山霊宝館の設立即ち是れなり、由来当山の宝物は、大師の唐朝より請来したる書画、法器、歴代聖僧の手に成れる仏体、仏具、各種の図像、詔勅、官符、衣裳、刀剣、凡百器具書類に至るまで、歴史に於て信拠すべく、法儀に於て尊重すべく、美術に於て鑑賞すべき者にして、既に国宝に指定せられたる者、百数十点の多きに及べりと云う。然るに此等の宝物は、総本山たる金剛峯寺の所管に属する一部分の外、或は各寺院、或は各個人の名義に属して、統一集中の道を得ず、第一火災、第二湿汚の危険あるのみならず、其取扱の不完全なるが為め、毀壊相継ぎ、遂に宝物たるの真価を失ふの恐なしとせず、聞くが如くんば高野鉄道は、早晩其工程を進めて、汽車の山頂に往来するに至るも、亦応さに(注・またまさに)遠からざるべしと。果して然らば、山上の人煙更に加り、参詣の群衆更に倍する事必然にして、此際因て生ずべき不慮の災難を防ぎ、因て要すべき観覧の便宜を謀り、茲に高野山宝物館を当山内に設立するは、豈に焦眉の急事業にあらずや。是れ啻(注・ただ)に祈願報恩の為めのみにあらず、今後永く大師以下諸名僧の遺烈を仰ぎ、又平安朝文献の余影を留め、本邦歴史文学美術の参考に資する所以にして、其関係する所重大なりと云べし。大方の諸賢、冀(注・こいねがわ)くは某等の微志を賛助せられ、速に浄財を喜捨して此発願を成就せしめ給はんことを、熱願渇望の至りに堪へず、某等敬白。
 明治四十五年六月吉祥日


 この趣旨については、高野山金剛峰寺の管長、密門宥範大僧正らももちろん大賛成で、宝城院住職の佐伯宥純師を全権委員に任命し、いよいよ資金勧化にとりかからせた。佐伯師は、僧侶の中では稀に見る敏腕家で、しかも非常に熱意をもってこれに当たられたので、事業は非常に進行した。
 ところが大正七(1919)年七月に上京のおり、腸チフスにかかり突然遷化されたので、ここでいったん頓挫することになった。その時、馬越恭平翁は非常な義侠心を発揮し、この事業を完成させなければ死んだ佐伯師に対して合わす顔がないとして、私と野崎広太氏を補佐役にして、三人が協力して資金を募集することになった。
 当時は好況な時代だったので、諸大家の蔵器入札会が頻繁に行われたのを幸いに、その入札に関係した札元などを説得して、その手数料の一部を何度も喜捨に回してもらった。そしてとうとう十二万円ほどの資金を集めることに成功したので、今回は、最初から縁故が深かった益田孝、朝吹英二、馬越恭平、根津嘉一郎、原富太郎(注・三渓)、野崎広太と私の七名が、不足分を各自七千円ほど出し合って建設費の十七万円とし、さらに高野山から補給された十万円余りと合わせて霊宝館建設に着手した。
 木材はすべて高野山から伐り出したため費用を大きく減らすことができ、結果としては五十万円程度で霊宝館ができ上ったのであった。
 なお、佐伯師遷化のあとは、金剛峯寺執事の藤村密幢師のちに大僧正大覚寺門跡がかわって尽力し、大正十(1921)年五月十五日に、ついに開館式を挙行することができた。この開館前後の様子についてはまた後段において叙述することにしたい。(注・261「高野山霊宝館落成式」を参照のこと)
 


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百十  道具買収の大手筋(上巻379頁)

 根津嘉一郎氏道具買入の陣頭に立ったのは、明治三十六(1903)年の大阪平瀬家の道具入札のころからである。それから三十年あまりこれを続けたのだからそのコレクションは豊富になった。氏は、たとえ天下第一とは言わないまでも、たしかに五指に数えられるほどの大家となりすました。
 維新後に道具の買入を行い天下屈指のコレクターになった人達は、その道具の半ばをたいてい二束三文時代に手に入れているから、道具の点数は同じでも購入額は割合少ない。しかし根津氏の出陣は割合おそく、道具がかなり値上がりした明治三十年代から買い始めているので、その購入費は意外に多い。根津氏が今日までに支出した金額は少なくとも一千万円を下ることはあるまいというのが、岡目八目の定評だった。この点においては、まさに天下の第一人者といえるであろう。
 氏の道具買入がうまくいったのは持って生まれた大物狙いの気性によるものだろうが、その初陣のときからの参謀長になり仲介役を果たした、大阪の道具商の春海藤次郎(注・はるみとうじろう)という人がいたことが非常に大きかったと思われる。いかなる道具戦陣に臨むときも雑兵原には目もくれず、必ず御大将の首を狙うというやり方によって根津氏のコレクションは豊富になったのである。明治三十九(1906)年の大阪平瀬家の入札で、一万六千五百円の八幡名物(注・やわためいぶつ、はちまんめいぶつ。松花堂昭乗の所持品)の「花の白河硯箱を獲得したというのもその功名の一例である。
 この硯箱は維新後の道具相場のレコード破りで、このときまでは、この半額にさえも達することはなかったのである。私の知るところでは、明治二十(1887)年ごろ、大善こと、伊丹善蔵が、河村家旧蔵の早苗の硯箱を六千円で森岡昌純男爵に売り込んだのが当時の最高値で、その次は、明治三十四(1901)年の加賀本多男爵家の道具入札で川部利吉が落札した遠州好みの蒔絵香棚に、七千円というのがあっただけである。

 それまで道具に一万円以上の高価なものはなかったのに、根津氏が処女的道具買収においてこの記録破りを作ったことは、氏がのちに大コレクターになる前兆となるものとしておおいに祝福すべき出来事だった。根津氏の道具談についてはほかにも数々のエピソードがあるので、また後段にて述べることとしたい。


生涯貧乏の道具商(上巻381頁)

 根津嘉一郎氏の道具買入の先陣においてつねに参謀長を勤め、根津氏をあのような大家にならしめた春海藤次郎は、先々代の戸田弥七露吟、先代の山中吉郎兵衛とともに、大阪道具界の三傑と言いはやされた人である。一風変わったところのある人物だったので、この際その一端を物語ることにしよう。
 春海藤次郎の父は、通称を藤作といった。文政六(1823)年に伏見町五丁目に道具店を開いたのが春海商店のはじまりである。藤次郎は幼いころから道具の鑑定に秀で、茶事についても各流を相伝した。癡漸、綽々子、祐叟、喝山、聞濤軒、一樹庵など、いくつもの号を持つ。機敏かつ胆略(注・大胆で計略に富む)で、伏見町に店を構えていた伊藤勝兵衛、通称を道勝といった当時大阪第一の道具屋があったが、藤次郎がまだ若いころに、そこの番頭と道で行き会ったのに気づかず挨拶をせずに通り過ぎたというので、道勝の機嫌を大きく損ねてしまったことがあった。彼はやむなく道勝のところへ無礼を詫びに出かけたにもかかわらず、番頭が傲然とした態度で応対したため彼の心中は憤慨にたえず、道勝の店先を睨みつけ、この店はいつか必ずおれのものにしてみせるぞ、と言い放って帰宅した。維新後にこの店が売りに出たとき彼はこれを買い取り、その長年の志を果たしたのだという。
 彼はこのような気概を持つ人物であったにもかかわらず金銭についてはつねに淡泊で、蓄財をするといった考えは一切なかった。しかし気に入った道具があるとどうしても買い取らなくてはおさまらないので、年中、金銭に行き詰まっていたので、豆のさやの形のなかに「生涯貧乏」の四文字を彫った実印を所持していた。
 根津氏もそのような面白い気性に惚れこんでこれは春海の親爺が買っておけと言ったから買っておいたというような品物は、ことごとくが名品なのであった。根津家の有名な大津馬なども、松花堂昭乗筆の米俵を背負った馬を曳く馬子の図に沢庵和尚が讃をした掛物で、当時の人がびっくりするような高値で買い入れたのであるが、それも春海の推薦によるものだったのである。(注・298「大津馬茶会と新曲」も参照のこと)
 根津氏はひごろ彼に感服し「藤次郎はいたって淡泊で実直で、しかも磊落なところのあるおじいさんであった。禅を学んだためか、なんとなく落ち着き払った態度があったが、道具の鑑定にかけては当時、関西にて彼に及ぶ者がなかった」と語られた。
 春海は、根津氏のような道具鑑賞家を養成した。また、ほかにも彼に導きによって茶人となった紳士は少なくなかった。明治中期において、彼が道具界に果たした功績を決して忘れてはならないであろう。


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  百九  
道具界の大鰐
(上巻370
頁)

 日露戦争前後において道具買入の大手筋(注・高額購入者)になり、後年、日本屈指の大コレクターになった二大豪傑がいた。赤星弥之助氏と根津嘉一郎氏である。もっとも赤星氏は明治二十四、五(18912))年ごろから道具収集に着手し、根津氏が台頭してきた明治三十五、六(19023)ごろにはすでに大家になり道具界の大鰐魚とさえ言われていたほどなので、まず赤星氏から書き始めよう。
 赤星氏は明治二十四、五年ごろから道具買収に取り掛かった。世間一般では道具購買力がひじょうに弱い頃のことだったので、前記のように大鰐の異名を取るにいたった。氏がいかにしてその軍資金を得たかというと、日清戦争の前に氏は軍艦の大砲に関するある種の専売特許を得て、これをイギリスのアームストロング社に売り込み、日本から同社に注文する大砲から一門ごとに若干の専売料を徴収した。これで当時の大砲成金となったのである。
 大正中期には船成金、鉄成金、株成金といった人が続出して成金もあまり珍しくなかったが、明治二十年代においては大砲成金が唯一の成金であった。しかも道具の値段が安く、名品があちこちにごろごろ転がっていたから、氏のコレクションがすぐに旧大家を追い越すことになったのははじめからわかりきった勢いだった。

 赤星氏は薩摩人で、一見するだけでは粗野で豪快な感じで道具などに趣味を持っているとは思われないような人だったが、同国出身で当時かなりの大茶人だった伊集院兼常翁などの勧誘もあったらしく、なんといっても資力が潤沢だったので、ただ大口をあけて待っていれば名器は自然に流れ込んできたので、手を濡らさずにたらふく呑み込むことができたのである。道具買入の最高の好機をつかんだ幸運児だったといえるだろう。
 氏の嗜好は、いわゆる八宗兼学(注・分野を問わず多彩)で、仏画でも、古画でも、古筆でも、茶器でもほとんどなんでもこいだった。後年になり、氏は私たちに「おれの家には名物茶入が二十八あるよ」と、こともなげに語られたこともある。
 氏は麻布鳥居坂の井上侯爵邸を買い取り、自分で大徳寺孤蓬庵の山雲床(注・さんぬんじょう。四畳半台目の茶室)の写しを作り、おりおりに茶会を催した。そこで豊富な宝庫の名器を手あたり次第に飾り立てるので、当時の東京では赤星の茶会のように立派な道具が揃っているところはなかったのである。


青磁香炉の裁判(上巻378頁)

 赤星氏は背はあまり高くなかったが色黒で頑丈な体格の持ち主で、こと道具談になると、いつも相手を下に見るような、すこし憎らしいところ(原文「憎っぷりの態度」)があったので、当時、土物の鑑定においては東都紳士中のピカ一を自任していた日本郵船会社副社長の加藤正義氏と、ときどき意見が衝突することがあった。
 明治三十六(1903)年に大阪平瀬家の蔵器入札があった直後に、赤星、加藤のほかに朝吹英二、山澄力蔵が私の一番町の寸松庵に集まった。茶事も終わり広間で雑談をしているとき、加藤氏が赤星氏に向かって君はこのまえの大阪平瀬の入札で、飛青磁袴腰香炉を落札したそうだが、君、あれは二度窯であることを知っているかと遠慮もなく言ったところ、赤星氏は鼻の先でこれをあしらい君などに青磁のことがわかるものか、あれが二度窯であったなら、おれは君ら目前で真っ二つに打破ってお目にかけようと言った。すると朝吹氏が横鎗を入れ、これはおもしろくなってきた、しからばここに控え居る山澄を審判官として、さっそく法廷を開こうではないかと言い出した。赤星も無論承諾し、四、五日後、山澄が審判官、朝吹が立会人として赤星邸に乗り込んだ。この二度窯というのは、色が悪いとか、あるいは釉切れがあるとかいう場合に、再び窯にいれてこれを補修することで、今回の香炉もこの方法で不備な点を補ったのだというのが加藤氏の主張なのであった。

 さてこの場合、非常に難しい立場に置かれたのが山澄力蔵だった。松王丸の菅秀才の首実検(注・菅原伝授手習鑑の一場面)のように、金札か、鉄札か(注・閻魔様の裁きで、善人には金札を、悪人には鉄札を渡される)、ためつすがめつこれをねめつけた。そばにいた朝吹氏は春藤玄蕃、赤星氏は武部源蔵といった様相で、一座の緊張は極点に達した。
 ややあって山澄は、この香炉は二度窯と思われる点もないことはないが、それはこの香炉の出来上がった際に行われたもので、日本に来てから二度窯にはいったものとは思われない、どちらの言い分にも、それぞれ道理があるので、引き分けということでいいでしょうという審判を下した。
 これで命拾いした飛青磁香炉は、ようやくその身を全うすることができたが、後年行われた赤星家の蔵器入札の際に、原価とほぼ同額で誰かが落札していたので、赤星氏もさだめて地下で満足していることだろう。


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