だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

タグ:松花堂昭乗

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二百九十八  大津馬茶会と新曲(下巻548頁)


 根津青山【嘉一郎】翁は、明治三十七、八(190405)年ごろ大阪の老道具商である春海藤次郎の周旋で、松花堂昭乗画、沢庵和尚讃の大津馬という名物書幅を、当時のレコード破りの高値で買い入れられた(注・根津と春海の交流については110を参照のこと)。しかし、それを秘蔵するあまり、かんたんにはこれを出してくることがなかったので、私は少しでもはやくこれを同好者に見せてほしいものだと思っていた。そして昭和四(1929)年十月に、青山の根津邸の弘仁残茶茶会でそれを出させることに成功し、その書幅は非常な喝采で迎えられた。そのとき私は、これを東明流の材料にして大津馬という新曲を作った。
 もともと大津馬というのは、江州(注・近江)大津から京都まで、米俵を背負って逢坂山を往復する馬のことをそう呼ぶ。松花堂がその馬を描いて、そのころ羽州(注・出羽)上の山(注・かみのやま。山形県にある)に流されていた沢庵和尚の讃を乞うたとき、和尚が小色紙に、


 なぞもかく重荷大津の馬れきて なれも浮世に我もうきよに


と書きつけられたものだ。
 これは歳暮の茶掛けとして、このうえもない珍幅になりそうなので、私は再び、昭和五(1930)年丑年の青山歳暮茶会でもそれを使うように青山翁に勧めたのであった。
 ところで青山翁は非常に多忙な身にもかかわらず、大正十(1921)年から毎年歳暮茶会を催しており、この年は十一回目にあたっていた。
 さて、いよいよその幅を使用することになったが、私は、この茶会に何らかの余興を添えたいと思い川部緑水(注・川部太郎、根津家出入りの道具商)と相談し、平岡吟舟翁に頼んで、大蕪を背負った馬子が重荷を負った大津馬を追っていくという図柄を小色紙に描いてもらった。そして、同じ大きさの小色紙に私が、


  年の瀬や重荷大津の馬と人


としたためたものとを、筋かいに(注・斜めに重ねて並べて)張り交ぜた一幅を作り、それを寄付の床に掛けてもらった。

 この年は財界不況で、株持ち連中が大いに苦しんでいる実況をうがった(注・比喩的に表現した)茶目っ気ある趣向だった。 
 さらに茶会後には、さきほどの大津馬の新曲を吹き込んだ蓄音機レコードを広間で来客に披露するという段取りにした。その新曲の文句は、次の通りである。


逢坂の関の清水に影みえて、今や引くらん望月の、駒のひづめの音羽山、越えて都の春の花、秋の紅葉の狩鞍に、金ぷくりんのよそほひを、誇れる友もありとかや、うたてやな、我は過ぐせや悪しかりけん、同じく生を受けながら、しがなき志賀の片ほとり、大津の里に年を経て、田夫野人に追ひつかはれ、背に重荷をあふ坂や、都にかよふ憂きつとめ、誰あはれまんものなしと、思ひわびたる我が影を、八幡の御坊の写し絵に、沢庵和尚の口ずさみ、馬子唄なぞもサアかく、重荷大津のヨ―、馬れきてサアヨー、なれもサア浮世に、我もヨ―うきよにサアヨー。
 となぐさめられて今更に、生き甲斐あれや大津馬、いにしへ浮世又平が、筆の始めの大津絵は、
 大津絵ぶしげほうのあたまへ、梯子を掛け、雷太鼓で、何を釣るつもり、若衆はすまして鷹を手に、見て見ぬふりの塗笠おやま、紫にほふ藤の枝、肩のこりなら、座頭の役、杖でさぐれば、犬わんわん、棒ふり廻すあらきの鬼も、発起り【ぽっきり】をれた其角は、撞木の身がはり、鉦たたき、オツとしめたと、鯰を押へ、奴の行列アレワイサノサ、是は皆さん御存じの、釣鐘背負うた弁慶さん、目に立つ五郎の矢の根とぎ。
 そもそも仲間にはづれたる、我が午年の運びらき、人間万事塞翁の馬い処に、当り矢の、伯楽ならぬ沢庵や、八幡の御坊に見出され、彼の大津絵の又外に、大津馬とて、エンヤリヤウ、引き綱の長きほまれや残るらん。
 

 さて、青山邸の歳暮茶会では、前記の大津馬の小色紙を寄付に掛け、本席の撫松庵には、初入の床に、上半分がコゲ、下半分が白釉の伊賀花入に、白玉椿一輪と、蝋梅(注・ロウバイ=黄色の小花をつける梅)とを活けた。
 後座(注・あとざ=茶会の後半)には、中興名物の節季大海茶入、沢庵和尚共筒茶杓、高麗割高台茶碗、砂張建水などを組み合わせるという大奮発の茶会であった。
 やがて濃茶が一巡して、八畳の景文の間に座を移すと、上段床には、津軽家伝来の、浮世又平(注・岩佐又兵衛)筆の極彩色の不破、名古屋(注・「不破」という歌舞伎題目の主人公ふたり。不破伴左衛門と名古屋山三郎の傾城葛城をめぐる恋の鞘当てで有名)を掛け、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間の一間幅の通路)に、大津馬に付属した書付類を並べてあった。
 客一同が座につくのを待ち、東明流新曲の大津馬の蓄音機を披露した。こうして今回は、私が大津馬の幅を使用させた発願人であったことから、大津馬の新しい小色紙幅をはじめ、新曲レコードまで採用していただいたおかげで、いささかこの茶会に余興を添えることができた。いわゆる「蒼蝿驥尾について千里を走る(注・蝿が名馬の尾にとまって千里を走るように、優れた人のおかげでよい結果を出すこと)」の類で、まことに望外のしあわせであった。そこで、ここに大津馬茶会と、同新曲の由来を記し、昭和庚午(注・かのえうま。昭和5年)の歳暮の記念にしようと思う。 
 


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二百七十一  アインシユタイン博士の来庵(下巻450頁)

 大正十一(1922)年十一月二十九日午前十時、アインシュタイン博士が茶の湯の見学(原文「茶式見学」)のため、夫人同道で、わが伽藍洞(注・高橋箒庵の赤坂邸)の一木庵を訪問されたことは、本庵にとってまことに光栄の至りであった。
 博士夫妻は来日以来、能楽を観覧したり邦楽を聴聞したりして、日本の文芸について深い興味を感じられたということで、本邦に固有の茶の湯についても、ぜひ研究したいとのことで、福澤三八君の紹介でこの日来庵されたのである。
 私は博士をひと目見て、まずその相貌に敬服した。博士は、ドイツ人としては大兵というほどでもないが、あまり小さいほうでもなかった。髪が縮れているのが異様であり、色が白く、下膨れである。豊満な顔の道具(注・パーツ)がよく揃っており、丸い目は、切れ長で、微笑するときが現れ、得も言われぬ愛嬌をたたえる。柔和で沈着で、対面したばかりのときから私はその徳風に魅了されてしまった。
 私は、博士に訪問していただくことを幸いに、茶道の本旨をできるだけ説明して参考にしていただこうと考えていたのだが、博士の在邸時間が一時間十五分だけだったのと、茶道用語の翻訳が、なかなか容易でなかったことから、改造社の稲垣守克君が流暢なドイツ語で熱心に通訳されたにもかかわらず、思ったことの十のうちの一をも言い尽くすことができなかったことは非常に残念であった。
 しかし、ちょうど口切茶会(注・毎年11月にその年の五月に摘んで保存した新茶の封を切る茶会)を開催している最中だったので、まず寄付から案内を始め、床に掛けた松花堂(注・松花堂昭乗)の消息は、三代将軍家光が小堀遠州の品川御殿山茶会に臨まれたとき、その光栄を祝した手紙であるということや、寄付の床掛けとは、茶客が他の同席者とそこで待っているときに読んで楽しむものであることを説明した。

 次に、茶客が全員揃った時、庵主が寄付に客を出迎える時のやり方を見せた。客は、寄付から露地に出て、つくばいの清水で嗽ぎ(注・くちすすぎ)を行う。これには、入席前に口内とともに心頭を清浄にするという謂われがあることを説明した。
 つづいて、狭いにじり口から、三畳半の一木庵にはいっていただいた。そして、床に掛けた、三代将軍筆の木兎(注・みみずく)に沢庵和尚の讃がある一軸の由来を説明し終えたのち、すぐに炭手前をお見せしたのである。
 さて炭手前の最中、釜を上げて、すぐさま、長次郎焼の焙烙(注・ほうろく)に盛った湿し灰(注・しめしばい)を炉の中に振り撒くときに、私は、この湿し灰を撒くのは、ひとつには灰燼を鎮めるという目的、もうひとつには、火勢を助ける目的があることを説明した。すると博士は、四百年前の日本の茶人が、すでに物理学の原理に基づいて炭手前の湿し灰を使い始めていたという注意周到さに感心されたようすだった。
 また炭手前の終わりに染付荘子香合から銘九重という練香を取り出して、それを炉中に投じ炭臭を消すという趣向にも、一興を催されたようだった。
 その後、懐石の膳腕器具を順番に並べ、日本の茶席の懐石は、禅僧の応量器(注・禅僧の食器。托鉢)にならったもので、なるべく庵主の手を煩わさずに、はじめから終わりまで客の方で始末を行う次第を述べた。
 懐石が終ると、中立といって、いったん客を腰掛にまで立ち退かせる。そのあいだに室内を清掃し、掛物を花入と取り換え、濃茶の支度がすでに整った合図として、銅鑼七点(注・大小大小中中大と鳴らすやり方)を打ち鳴らすという方式について説明した。実際に中立はしてもらわなかったが、ためしに銅鑼を鳴らし、その風情を示したのである。
 こうして、いよいよ濃茶手前にはいった。青竹の蓋置に柄杓をおろして端座したとき、もともと濃茶手前の身構えは禅僧の結跏趺坐を変形させたもので、両足の親指を重ね合わせ、四十五度の角度に両股を開き、下腹にうんと力を入れて正座するものであること、左右に動くときにも常にこの四十五度の角度を保って、八回動けば身体が一周することになることを説明した。
 ここで、この態勢で手前に取り掛かった。心を丹田に落ちつけて、無念無想の境に入れば、百万の大敵が襲い掛かって来ようとも、百雷が一時に落ちて来ようとも、泰然自若として微動だにしないという男気が全身に満ちているのだと言ったが、それを通訳が説明し終えると、博士も、なるほどと感服したようであった。
 しかし、だんだんと濃茶器を取り出し、茶入、茶碗、茶杓などにそれぞれの名称があるのを説明したときには、博士も夫人も、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして、いっこうに合点がいかなかったのは無理もないだろう。ドイツなどで言ったら、食事中にテーブルの上に並んでいる茶碗や皿鉢に、飛鳥川とか、玉柏とか、布引とか、白波などという風雅が名前がついているわけだから、それを不思議に感じるのは、まことに当然のことであろう。日本の名物茶器は、いつもそれを擬人化して、茶器を室内に飾るのはその茶器に縁故ある故人の魂をその場に招くのと同然であるということを理解するのは、不滅衰の相対原理発見の大学者にとっても決して簡単なことではあるまいと思う。
 こうして一応、茶事の説明を終えると、庭前の利休堂に案内し、聞香の形式をお見せし、また、編纂中の名器鑑の材料などを展示したのであるが、なんといっても時間が短かったので、博士が会得されるまでの十分な説明をすることができなかったことは、まことに遺憾の至りであった。
 しかし、世界的な大学者を自庵に迎え、茶式の一端を説明することができたことは、私の一生のなかでも、もっとも愉快な出来事であった。
 


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二百三十  薪寺の一夜(下巻298頁)

 大正五(1916)年九月二十日私は、その前月に、ある人の紹介で突然私の四谷天馬軒を訪問された城州(注・山城=現在の京都府南部)薪寺の客僧(注・修行で旅をしている僧)、月江僧正の勧誘にしたがい、奈良の道具商の柳生彦蔵を帯同して薪寺を訪問し、その夜、方丈に一泊した。はからずも禅寺の閑寂を味わうことができたことは、私の一生にとり、きわめて物珍しい思い出であるので、ここにその大略を記述することにしよう。

 薪寺は、城州綴喜つづき郡田辺村字薪(注・たきぎ)にあるので、この名がある。亀山天皇の文永年間(注13世紀後半の鎌倉時代)に円通大応国師がこの地に建立された霊瑞山妙勝禅寺が、元弘の乱(注・後醍醐天皇を中心とする1330年代の鎌倉幕府倒幕運動)の兵燹(注・へいせん。戦争による火災)で烏有に帰してから、しばらく廃墟となっていたが、国師の法孫である一休和尚が、その遺恩に報いるために開山堂と酬恩庵を建てた。そして和尚が八十二歳のときに、境内に寿塔(注・生前に建てておく塔婆)を造り、軒のひさしに「慈揚」の二字を掲げ、遷化のあとに遺骨をその塔下に埋めたことから世間では一休寺とも呼ばれている
 全体としてこぢんまりした寺院であり、きわめて気の利いた構造であるが、その特色というべき点は、方丈の前の庭園に十六羅漢遊行の形を表した巨巌(注・大きな石)や珍石が羅列されて奇観をなしているところである。
 聞くところによると、この庭園は寛永のころ、この地に退隠して黙々庵を結び、茶事風流をもって残年を送った淀藩士、佐河田喜六昌俊が、その雅友であった松花堂昭乗、石山丈山の二人に相談して構築したものだという。ややもすれば俗悪に流れ易い築庭の趣向が、まったくそのような感じを起こさせないところに、布置結構(注・配置のデザイン)の妙があるのだろうと思われた。

 さて、九月二十日、奈良から汽車で木津に赴き、そこから大阪桜ノ宮に通じる片町線に乗り換えて田辺駅で下車すると、月江和尚が停車場に出迎えてくださったので、そこから寺までの村道八丁(注・一丁は約109メートル)を歩き山門の入口に到着した。
 その突き当りの石階段の上には、一休和尚の手植えといわれる、うっそうと茂る杉の老木が三本ある。甘南備かみなび山のふもとということで位置はそれほど高くないが、森閑たる境内は、おのずから人の心神を澄みやかにさせるものがある。
 石階段を上りつめて右折すると、その正面が本堂で、むかって右手には一休和尚の墳墓と、元は京都東山にあった虎丘という禅堂があった。
 そして、酬恩庵は左手の一段低いところにあったが、庵主は田辺宗晋といって、年の頃は六十五、六歳と思われ、見るからに寡黙で朴実な老僧であった。
 私たちは、この日、境内を一覧したのち奈良まで引き返すつもりだったが、宋晋、月江両和尚が、しきりに一宿を勧めてくれるので、生まれてこのかた経験したことのない禅寺の雲水となるのも面白かろうと思い、ついにはその好意を受けることにした。しかしもともと一泊の用意をしていなかったので、柳生とともに老和尚の浴衣を借り受け入浴後に運ばれてきた食膳に向かうと、精進料理の納豆汁、椎茸、油揚げなど、都人(注・みやこびと。都会の人間)には、十にひとつも、のどを通らない御馳走だが、これもまた得難いひとつの経験だった。
 夕食後、私たちは宗晋、月江両和尚と夜更けまで対話をしたが、談話の雄は月江和尚であった。和尚は、奇警(注・発想、行動が奇抜)で飄逸であり、しばしば人の頤を解く(注・人を大笑いさせる)ところがあった。ここでそのひとつ、ふたつを紹介するならば、「過日、ある夫人から、禅とはどういうものですかと質問されたので、禅は自分の向かうところに居るものである、と答えた。すると、ならばこれに近づくことはできるのか、というので、そうだ、自分の向かうところに、どこまでも向かっていけは、必ずその禅に近づくことができる、と答えた。禅は無門関(注・無門関は、禅の公案集のことだが、ここでは文字通り門のない関所の意味だろう)である。四通八達、筒抜けにして、当意即妙であり、行くところはどこでも行けないところはない。ある人が、ンとミと書いて、一休和尚に見せたとき、和尚は、そのかたわらに、『月と風と裸体になりて角力(注・すもう)かな』と書きつけられたということだ。」などというような、奇話を連発された。
 夜がしんしんと更けてきたから、住職がどこからか借りてきたらしい、せんべい布団にくるまって、寝所にあてられた一室に横たわると、たちまちのうちに黒甜郷裡(注・こくてんきょうり。眠りの世界)の人となったが、このような山寺の気楽さは、障子一重のほかに雨戸も立てないことであり、四更(注・しこう。午前一、二時ごろ)の月あかりが射しこむのにフト目を覚まして廊下に出ると、酬恩庵のひさしのすみに、欠けた月が一痕(注・ひとつ)かかっているという物凄さは、得も言われぬ風情であった。私がもし禅坊主ででもあったならば、釈迦が暁天の明星を見て大悟したように、あるいは豁然(注・かつぜん。突然)として透徹したかも知れないなどと、脳裏に終生忘れ難い印象をとどめることになったので、またしても例の駄作を試みたのだった。
 
     宿薪寺
   残宵夢覚寂空廊 鬼気逼人杉樹荒 露冷陰蛩如有咒 一休墓畔月蒼涼
     (注・蛩=こおろぎ、咒=まじない)

 このほか、数々思い浮かべた拙句の中には、
    
   夜もすがら蟲も経よむ薪寺

というのがあり、また、

   古寺の簷端(注・のきば)にすがくささがに(注・蜘蛛)の 絲にかかれる有明の月

というのがあった。
 そうこうする間に、夜が白々と明けて、本堂のほうに、かんかんと鳴り響く鉦の音につれ読誦(注・どくじゅ。経を読むこと)の声が、さやかに聞こえ渡ったので、私たちはいつになく早起きして盥嗽(注・かんそう。手を洗い口をすすぐこと)し終えると、すぐに方丈にむかい、一休和尚の木像の前にひざまずいた。
 今日は九月二十一日で彼岸の中日にあたっており、また一休和尚の命日だというので、なにやら浅からぬ因縁があるように感じ、朝食後くまなく境内を見てまわり、また佐河田喜六の黙々庵にも立ち寄り、午前十時ごろに辞去した。
 今回の所見を詳述しようとするとあまりに煩雑にわたってしまうので、ただ禅寺で一泊した感想だけにとどめることにする。
 


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二百二十三  鷹峰光悦会発端(下巻270頁)

 京都府愛宕郡鷹峯に光悦寺という日蓮宗の寺院がある。境内には、本阿弥光悦、光瑳(注・光悦の養子)、光甫(注・
光瑳の子。空中斎)、光伝(注・光甫の子)らの墳墓がある。この辺一帯は京都から丹波に通じる街道にあたり、往時、光悦が徳川家康から広大な地面を賜り、一族多勢とともに、いわゆる光悦町を構成した場所である。

 寺院の庭先から東南をのぞむと、前面に坊主頭のような鷲ヶ峰が兀然(注・こつぜん。高く突き出ているさま)とそびえ、そのふもとを紙屋川が流れ、松樹竹林が連接し、左手には遠く叡山が控えている。
 その中間に横たわる船岡山越しに、蒲団を着て寝ている姿の東山一帯を展望する光景はいかにも明媚温雅で、洛北の名勝たるにそむかない。
 しかしながら、維新以後、訪ねる者も少なく、明治の晩年にアメリカ、デトロイトのフリーア(原文「フリヤー」)氏が、光悦を景慕してこの寺を訪ね、さかんにその絶景を賞讃するとともに、光悦の偉大な人格や業績を宣伝したために、京阪間にもようやくこの寺に注目する者が現れてきたのである。
 中でも、京都の道具商である土橋無声嘉兵衛は、当寺にほど近い玄琢村の生まれなので、光悦寺興隆のために大いに奔走し、同志を糾合して、まず光悦会を組織した。そして光悦好みの新茶室を境内に新築し、大虚庵と名づけ、大正四(1915)年十一月下旬に、その開庵披露をかねて光悦の遺作品の展覧会を本寺で催したのが、実に光悦会の発端である。
 以来、光悦会は、毎年光悦の祥月命日である十一月十三日に鷹峯で開かれている。最初に益田鈍翁が会長になり、その後、大谷尊由師が引き継ぎ、京阪、名古屋、東京の諸名家が、年々、濃薄茶席を受け持つことになった。そのため当会は、今や京都の年中行事の中で最も著名なものになったのである。
 私は大虚庵開きの茶会に出席して、はじめてこの地の光景に接した。そしてこれを愛玩するあまり、まず、光悦がいかにしてこの地に土着したかについて研究したものだ。 
 元和元(1615)年、彼が五十八歳の時、徳川家康が大阪の陣を終え京都にやってきた。そのとき所司代の板倉伊賀守(注・板倉勝重)に、「ちかごろ本阿弥光悦は何をしているのか」と質問したので、伊賀守は、「彼は異風者(注・変わり者)にて、京都に居あき申候(注・京都に住むことに飽きたと申しております)、辺土(注・へんぴな場所)に住居仕り度き由申居候」と言上した。
 これをきいた家康は、「近江丹波などより、京都への道に当り(注・近江、丹波から京都に至る道筋に)、用心悪く(注・不用心で)、辻斬、追剥などの出没する所あるべし、左様の所を広々と彼に取らせ候へ(注・そのような治安の悪い場所に、広い土地を与えよ)と言い渡した。
 そこで光悦は、鷹峯のふもとに、東西二百間余り、南北七町(注・東西約360メートル、南北約760メートル)の原地の清水が流れ出ているところを拝領し、一族の中で手に職のある者を呼び集めて、それぞれの住居を作った。
 また母の妙秀の菩提所として妙秀寺を建立するなどして、今日における、いわゆる文化村を創立したので、人呼んでこれを光悦村と称するにいたったのである。
 光悦は当時、近衛
三藐院注・さんみゃくいん。原文では「院」と表記。近衛信尹のぶただ)、松花堂昭乗とともに、三筆(注・寛永の三筆)と称せられたほどの能書家で、本業の刀剣鑑定のかたわら各種の工芸に従事していた。また茶事を好み、陶器を作り、謡曲を謡うなど、その芸術や思想がいかに秀抜卓絶していたかは、遺作の品によって容易に推察することができる。彼の門人であった灰屋紹益(注・はいやしょうえき。原文では「浄益」と表記)の「にぎはひ草」(原文では「賑ひ草」と表記。紹益の随筆)に、次のように書いてある。


「我身をかろくもてなして、一類眷族に、奢りをしりぞけんことを思ひ、住宅麁相(注・粗末)に、小さきを好みて、一所に年経て住めることもなく、茶の湯に深くすきたりければ、二畳三畳敷、いづれの宅にもかこひて、自から茶をたて、生涯の慰みとす、利休在世に近かりければにや、形なりを好み作りて、焼かせたる茶碗等、今世にかつ残りたるも、一ふりあるものとぞ云ふめる。都の乾に当りて、鷹峯と云う山あり、其麓を光悦に給はりてけり、我住所として一宇を立て、茶たて所などしつらひ、都には未だ知らざる初雪の朝は、心おもしろければ、寒さを忘れ、自から水くみ、釜仕掛け、程なく煮え音づるるも、いとど淋しく、都の方打ながめ、訪ひくる人もがなと、松の梢の雪は朝の風に吹き払ひて、木の下かげに暫し残るをおしむ。」

 光悦の茶風は千宗旦の侘び数寄に通じ、独楽閑寂の趣があった。私は、光悦の人となりとともに、この寺の風景を鍾愛(注・たいそう好き好む)したので、大正五(1916)年、境内東南方の崖地に臨む、鷲ヶ峰から東山方面をひと目に見渡す平地に、五畳敷一間床、書院付きの茅葺き一棟を寄進し、庵名は無造作に、本阿弥庵と名づけた。土間を広々と取り、天井板の竿縁がわりに朱塗りの細筋を引き渡すなど、いくぶん光悦風の意匠を取り入れた。露地には、片桐石州が所持したと言い伝えられる小形のつくばいと石灯籠を据え付け、これを毎年催す光悦会のために充てることにしたのである。
 その後大阪の八木与三郎氏が、騎牛庵という古茶室を寄進したため、光悦寺には三つの庵室がうち揃い、年々、関西の風雅をこの地に集める霊場となったのである。
 これは畢竟(注・ひっきょう。つまるところ)、光悦の遺徳のなせるわざではあるが、土橋無声らの尽力もまた、非常に大きなものがあったのであるから、光悦会の発端について記し、後の人びとの知るよすがにしておきたい。


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百四十九  実業界引退後の感想(下巻3頁)

 私は前述した通り、明治四十四(1911)年末をもち二十一年間打ち込んできた実業界を引退し、いよいよ閑散の身(注・仕事がなくひまな人)となった。このような境遇に行き当たった人のことを、文人風に形容すると「閑雲野鶴」と昔から言いならわされている。自分自身を鶴になぞらえるのは少し僭越の嫌いがあるとは思うが、とにかく、自由の身となった感想を詠じ次の一首ができた。

   飲啄樊籠二十年 老来夢到来丸皐天 一朝振翼去何処 不是雲中已即水辺
   注・樊籠=はんろう。鳥かご 丸皐天=詩経「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ=深い谷底で鳴いても、鶴の声は天に聞こえる」から)

 さて、実業界を引退したことにつき、多年深く世話になった(原文「厚誼を辱(かたじけ)なうした」)井上侯爵夫妻に感謝の気持ちを示したいと思い、明治四十四(1911)年も終わりに近づいた(原文「年の尾も早や二、三寸に迫った」)十二月二十九日に、侯爵が避寒されていた興津の別荘に夫婦そろって訪問し、先だって男の子が生まれたときに名前をつけていただいたお礼も述べた。その足ですぐに京都に向かい、祇園鳥居前の杉の井旅館に宿を取り、大晦日には次の一首を口ずさんだ。

   入相の鐘のひびきも身にしみて 真葛ヶ原に年暮れんとす

 明けて、明治四十五(1912)年元旦、勤めのない身の気楽さから、日が高くのぼってもまだ起き出さない(原文「日高きこと三竿(さんかん)、猶ほ未だ起きず」)といったありさまだったので、

   旅人の心のどけき東山 朝いの床に年立ちにけり

という一首を詠じた。
 それからゆるゆると起き出して朝食をとると、年頭にはまず嫡男の息災を祈願するため、夫婦連れだち車を男山八幡宮(注・石清水八幡宮)に飛ばした。
 そこでほがらかな日光を浴びつつ社殿に参拝後、私がかねてから隠者の見本、風流の本尊として、わが後半生のためにもっとも多くを学びたいと思っていた真言密教の隠者である松花堂昭乗の遺跡をたずねた。
 ところが維新直後の神仏分離の嵐が、瀧本坊、萩の坊をはじめとする三十六坊を吹きまくり、松花堂のありかさえも人に尋ねでもしなければわからないという状態だった。
 もともと松花堂は真言宗の僧正であるが、晩年、松花堂に引き籠り風流三昧の生活にはいった。興がわくと大師流の筆をふるい、牧谿風の絵画を描いた。また、後年「八幡名物」と呼ばれるようになった数々の名器で交流茶事を催し、遠州(注・小堀遠州)、江月(注・江月宗玩)、光悦(注・本阿弥光悦)、沢庵(注・沢庵宗彭。そうほう)、長嘯(注・ちょうしょう。木下勝俊)などの名流(注・有名人)と深く文雅(注・詩文を詠んだりする風雅な道)の交わりを行った。彼の遺した風雅の余韻を私は常に欽慕(注・敬い慕う)してやまない。あまりの惨状に茫然とし(原文「俯仰感慨のあまり」)、

    男山松吹く風にうそふきて 心澄ましし人をしぞおもふ

の一首を書き留めるだけで帰ることにしたが、後年、私たちが松花堂会を発足させて八幡山下の竹やぶの中に散乱していた墓石を拾い集め、松花堂の師である実乗のものも一緒にして今日のように修理したのは、このときに私の頭の中に湧き上がった理想が実現されたものなのである。

 翌二日には武藤山治夫妻を、播州(注兵庫県)舞子の仮住まいに訪ねた。そのときにも、次の腰折(注・自作の和歌を謙遜する言い方)を詠んだ。

    蘆田鶴の舞子の浜に住む友と 年のほぎごとかはすめでたさ

 このようにして三が日を京畿の旅で過ごして帰京した私は、それから後半生の門出を迎えることになった。
 もともと私は実業畑の人間ではない。ただ、持って生まれた趣味的な性分を満足させるためには、一時実業界に身を置き家計的な安定の基礎を作り、その上でゆるゆると趣味の林に遊ぼうという二股根性を持っていた。それで心ならずも踏み入った実業界に二十一年間を過ごし、今ようやく本街道に這い出したところなのであった。それでしばらく身体を休めて、安閑とした月日を送っていたのだが、その心境は宋の陸放翁が、家から遠く離れた成都での七年にわたる官吏の仕事をやめて郷里に帰ったときに、

   遶檐点滴和琴筑(檐=のき、遶=めぐる、点滴=雨だれ、琴筑=ともに弦楽器)
   支枕幽斎聴始奇(幽斎=静かな部屋 )

   憶在錦城歌吹海(錦城=成都の別名、歌吹海=歓楽街) 
   七年夜雨曾不知(曾=かつて)
 

(注・大意「静かな部屋で枕にもたれて雨だれの音をきいていたら、成都の歓楽街できいた弦楽器の音にきこえた。七年間、雨だれの音をきいたことがなかった」)

と詠じたのと、やや似ているところがあると思う。私はすぐに「夜の雨」という題名の新曲を作ってみた。次のようなものである。
 
  「夜の雨」
本調子玉水の軒端をつたう声すなり、琴からあらぬかほどぎにも、似たるしらべの面白や、昔陸放翁は、蜀の都のつかさを罷め、我が故郷にかえり来て、寝覚の床のつれづれに、七年知らで過ごしつる、雨の音色を愛でしとかや。
世の中の有情無情の物の音は、自からなる調べあり、峰の松風、磯の浪、枝の鶯、田の蛙、千草にすだく虫の音や、妻恋う鹿の声までも、宮商呂律の外ならず、ましてや是れは天地の、情を籠めてふる雨の。(注・宮、商は、雅楽の音階)
二上り春辺にきけば、しめやかに、鳥のねぐらをうるして、花を催すのどけさよ、又五月雨はふり暮し、或る夜ひそかに松の月、晴るる間もなく、サラサラと、小笹にそそぐわびしさも、何時か薄ぎり、うちなびき、桐の一葉に秋の来て、ころぎなきつ、村雨の、音聞く夜半に、独りかもねん。
三下りさんさ時雨か、茅野の雨か、音もせで来てぬれかかる、ヨイヨイヨイヤサ、実にりがたや、天が下、賤が伏家も、百敷の、大宮人の高殿も、へだてはあらじ、雨の音、四季りの夜の窓、心ごころに、聞くぞたのしき。

 この「夜の雨」には、平岡吟舟翁が東明流の節付けをしたので、それ以来同流の一曲となり、自分でも唄いまた人が謡うのを聞いて、自然とその年の思い出としている。


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百十  道具買収の大手筋(上巻379頁)

 根津嘉一郎氏道具買入の陣頭に立ったのは、明治三十六(1903)年の大阪平瀬家の道具入札のころからである。それから三十年あまりこれを続けたのだからそのコレクションは豊富になった。氏は、たとえ天下第一とは言わないまでも、たしかに五指に数えられるほどの大家となりすました。
 維新後に道具の買入を行い天下屈指のコレクターになった人達は、その道具の半ばをたいてい二束三文時代に手に入れているから、道具の点数は同じでも購入額は割合少ない。しかし根津氏の出陣は割合おそく、道具がかなり値上がりした明治三十年代から買い始めているので、その購入費は意外に多い。根津氏が今日までに支出した金額は少なくとも一千万円を下ることはあるまいというのが、岡目八目の定評だった。この点においては、まさに天下の第一人者といえるであろう。
 氏の道具買入がうまくいったのは持って生まれた大物狙いの気性によるものだろうが、その初陣のときからの参謀長になり仲介役を果たした、大阪の道具商の春海藤次郎(注・はるみとうじろう)という人がいたことが非常に大きかったと思われる。いかなる道具戦陣に臨むときも雑兵原には目もくれず、必ず御大将の首を狙うというやり方によって根津氏のコレクションは豊富になったのである。明治三十九(1906)年の大阪平瀬家の入札で、一万六千五百円の八幡名物(注・やわためいぶつ、はちまんめいぶつ。松花堂昭乗の所持品)の「花の白河硯箱を獲得したというのもその功名の一例である。
 この硯箱は維新後の道具相場のレコード破りで、このときまでは、この半額にさえも達することはなかったのである。私の知るところでは、明治二十(1887)年ごろ、大善こと、伊丹善蔵が、河村家旧蔵の早苗の硯箱を六千円で森岡昌純男爵に売り込んだのが当時の最高値で、その次は、明治三十四(1901)年の加賀本多男爵家の道具入札で川部利吉が落札した遠州好みの蒔絵香棚に、七千円というのがあっただけである。

 それまで道具に一万円以上の高価なものはなかったのに、根津氏が処女的道具買収においてこの記録破りを作ったことは、氏がのちに大コレクターになる前兆となるものとしておおいに祝福すべき出来事だった。根津氏の道具談についてはほかにも数々のエピソードがあるので、また後段にて述べることとしたい。


生涯貧乏の道具商(上巻381頁)

 根津嘉一郎氏の道具買入の先陣においてつねに参謀長を勤め、根津氏をあのような大家にならしめた春海藤次郎は、先々代の戸田弥七露吟、先代の山中吉郎兵衛とともに、大阪道具界の三傑と言いはやされた人である。一風変わったところのある人物だったので、この際その一端を物語ることにしよう。
 春海藤次郎の父は、通称を藤作といった。文政六(1823)年に伏見町五丁目に道具店を開いたのが春海商店のはじまりである。藤次郎は幼いころから道具の鑑定に秀で、茶事についても各流を相伝した。癡漸、綽々子、祐叟、喝山、聞濤軒、一樹庵など、いくつもの号を持つ。機敏かつ胆略(注・大胆で計略に富む)で、伏見町に店を構えていた伊藤勝兵衛、通称を道勝といった当時大阪第一の道具屋があったが、藤次郎がまだ若いころに、そこの番頭と道で行き会ったのに気づかず挨拶をせずに通り過ぎたというので、道勝の機嫌を大きく損ねてしまったことがあった。彼はやむなく道勝のところへ無礼を詫びに出かけたにもかかわらず、番頭が傲然とした態度で応対したため彼の心中は憤慨にたえず、道勝の店先を睨みつけ、この店はいつか必ずおれのものにしてみせるぞ、と言い放って帰宅した。維新後にこの店が売りに出たとき彼はこれを買い取り、その長年の志を果たしたのだという。
 彼はこのような気概を持つ人物であったにもかかわらず金銭についてはつねに淡泊で、蓄財をするといった考えは一切なかった。しかし気に入った道具があるとどうしても買い取らなくてはおさまらないので、年中、金銭に行き詰まっていたので、豆のさやの形のなかに「生涯貧乏」の四文字を彫った実印を所持していた。
 根津氏もそのような面白い気性に惚れこんでこれは春海の親爺が買っておけと言ったから買っておいたというような品物は、ことごとくが名品なのであった。根津家の有名な大津馬なども、松花堂昭乗筆の米俵を背負った馬を曳く馬子の図に沢庵和尚が讃をした掛物で、当時の人がびっくりするような高値で買い入れたのであるが、それも春海の推薦によるものだったのである。(注・298「大津馬茶会と新曲」も参照のこと)
 根津氏はひごろ彼に感服し「藤次郎はいたって淡泊で実直で、しかも磊落なところのあるおじいさんであった。禅を学んだためか、なんとなく落ち着き払った態度があったが、道具の鑑定にかけては当時、関西にて彼に及ぶ者がなかった」と語られた。
 春海は、根津氏のような道具鑑賞家を養成した。また、ほかにも彼に導きによって茶人となった紳士は少なくなかった。明治中期において、彼が道具界に果たした功績を決して忘れてはならないであろう。


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