だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百八十九 大正名器鑑の編著(下巻514頁)

 茶道が始まって以来四百五十年のあいだに、茶人によって賞玩された名物茶器の数は、ほとんど数え切れない。
 利休時代までの茶書に載せられたものを大名物(注・おおめいぶつ)といい、時代がくだって寛永時代(注・江戸時代初期162445年)にいたり、小堀遠州らがその鑑識眼で選んだ名器を、中興名物と呼ぶ。それらが代々伝えられて貴重な宝とされているのである。
 徳川時代においては、これらの名物が、将軍家、諸大名、あるいは民間の諸名家の宝蔵に秘蔵され、それらを簡単には見ることはできなかったので、数寄者の中には、なるべく広くこれらについて調査し、名物集を作ろうとするものも多かった。
 なかでも、享保時代(注・171636年、徳川吉宗の時代)には、松平左近将監乗邑(注・のりむら、のりさと。老中)が非常な努力(原文「丹精」)で「名物記」三冊(注・「乗邑名物記」)を編集し、続いて寛政年間(注・17891801年)には、松平出羽守宗納【不昧公】が九年を費やして「古今名物類聚」十八冊を編集し、その後、本屋了雲が「麟鳳亀龍」という名物記四冊を編集した。これらの名物記が、従来は名物茶器の記録として、茶人の金科玉条とするところであった。
 封建時代には、諸大名が名器を各自の藩地で保蔵しているだけでなく、いろいろな意味で極度に秘蔵する習慣があったので、松平乗邑が当時の幕府老中であったことが、その調査のうえで非常に役立った。松平不昧も、徳川の親藩であるうえに十八万石の資力があり、それを背景にして編集を行うことができた。
 にもかかわらず、実物を見ることができない場合もなきにしもあらずで、伝聞によって記録を作成したので、調査が正確を欠くだけでなく、写真のような実物を写すことができる便利なもののない時代だったので、読者が実物を思い描くことが難しいといううらみがあり、私はいつもそのことを残念に思っていた。

 ひとりの研究者の力(原文「一学究の独力」)では、満足な名物記を完成することは、いかに便利な世の中でも簡単なことではないと思いつつも、なんとか奮闘して、この事業をやりとげてみたいと私は思ったのである。私が五十一歳で実業界を引退したのも、半分はこれを実現させるためだった。
 こうして、私は実業界を引退した大正元(1921)年から、どのような順序で着手すればよいかいろいろ研究し、大正六(1917)年にはほぼその方針を決めることができたので、それからすぐに名器の検覧、そして写真撮影にとりかかった。
 しかし、一度にたくさんのことを網羅しようとすると調査に滞り(原文「不手廻り」)が生じ、あれこれやるべきことが増えて、どっちつかずの中途半端になりそうだったので(原文「共に疎漏に陥るべきを悟り」)、第一期計画として、まずは茶器の代表(原文「儀表」=模範)である、茶入、茶碗、を調査し、その全力をこの二種類のものに集中することにしたのである。
 そこで、天下の名物茶入と茶碗の七分の一を所有されている松平直亮伯爵の四谷元町邸を訪問し、私が今度名器鑑を編集しようとしているのは、寛政年間に伯爵の高祖である松平不昧公が「古今名物類聚」を編述されたのと同様に、今日の聖代の余陰によって(注・「この平和な大正の御代(みよ)に」ほどの意味か)、さらに一層精密な図録を調製しようという趣旨であると、ひたすらに伯爵の援助を懇請した。

 すると伯爵はよろこんでこれを承諾され、不昧の時代は名器を検覧することは難しく、撮影技術もなかったために、その調査を入念にきわめることはできなかったが、今日、貴下が一層綿密な名器鑑を編集しようとするのは、茶道のためにもまことに有益な企画になるので、自分は貴下の目的が果たされるようにできる限りの協力をしようと、私のことを非常に励ましてくださった。私は、伯爵のそのひと言で、百万の援軍を得るよりも力づけられ、大正七(1918)年の五月に、伯爵の東京邸に所蔵されている三十八点を検覧した。

 続いて、松江市の宝蔵にある五十五点も調査し終えることで、名器鑑の中核となる部分を構成することができた。これは、私にとってこのうえないよろこびだった。
 次いで、同年十一月には、幕府伝来の御物を保蔵されている徳川家達公爵を訪問し、本編集の趣旨を説明した。公爵もその計画に賛成してくださり、所蔵の大名物茶入十三点、茶碗六点の検覧と撮影を許可されただけでなく、同族諸家に対しても、私が、その所蔵名器を検覧できるように親切にも取りはからってくださったので、私は引き続き、徳川三家の名器を拝見することができた。その後、島津、毛利、前田、浅野、細川をはじめとする旧大名家や、民間の大家を歴訪した。
 茶入については、持ち主が百人で、品数は四百三十六点、茶碗は、持ち主が百十八人、品数は四百三十九点というところで、調査を終了した。
 大正六(1917)年から実編集の時期にはいった。それから足かけ十年を費やして、大正十五(1926)年十二月、全国に現存する名物茶入、茶碗の編集を完了した。
 「茶入之部」五編、「茶碗之部」四編を印刷にまわし、これを「大正名器鑑」と名づけた。
 この事業の遂行には、物質的にも精神的にも想像をこえる困難に遭遇したが、時勢のおかげで、かつての故人がひとりなしとげることができなかったことを成就した。さらに手前味噌の点を挙げるなら、天下の諸名家を歴訪し、茶事始まって以来の誰よりも一番多くの名器を実見することができたことは、この事業から生まれた役得だったといえよう。

 


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二百八十一  護国寺境内の茶化(下巻485頁)

 関東大震災(原文「癸亥大震災」)ののち東京市内を見渡すと、どこもかしこも荒涼(原文「満目荒涼」)として廃墟の感があった。神社仏閣も多くは烏有に帰して、東京の人々の信仰にも多少の影響を及ぼしかねないというおそれもあったことから、私は、京都の金閣や銀閣のような、参詣者に一種の清浄な気分を与えるような場所を提供する必要があるのではないかと思った。
 市内を見回しても、音羽護国寺以外にはほとんどそれに該当するところがないように思われたので、私は護国寺をそのような目的の浄境にしたいものだと思い、京都方面の実例にならって、同寺の境内を茶化する(注・茶の湯の影響を持たせる)必要があると思っていた。
 震災後のそのようなとき、麻布の天徳寺にあった松平不昧公の墓地が、道路改正のために別の場所に移転することになった。松平家では、それを旧藩地である松江の廟所に改葬する意向であるということを聞き、私は松平直亮伯爵を訪問して、その移転先の墓地を音羽護国寺にしていただけないかと乞うてみた。すると幸いにそれが承諾されたので、今度は護国寺の執事に相談し、三条公(注・三条実美)の塋域の隣地の三十坪余りの土地を提供し、これを松平家の墓域とし、その一角に不昧公ならびに、?(靜の左側に彡)楽院夫人の墓碑を、移建することになった。護国寺はここに、茶道の本尊を迎え、境内の茶化の端緒を開くことになったのである。
 さて私は、大正十四(1925)年の井上侯爵家蔵器入札会で、馬越化生翁らとともに同会の札元に対して、不昧公のために護国寺境内に茶室を寄進することを勧告し、西南にある景勝の地を選んで不昧軒、円成庵の広間と茶室を建造するということになった。これについては松平家もとても喜び、天徳寺の墓所にあった不昧公筆塚石、つくばい、石灯籠ならびに、不昧公の師家(注・禅僧の師)にあたる鎌倉円覚寺の誠拙禅師のち大用国師】筆の「弾指円成」の四字を彫りつけた門扉までをも寄贈していただいた。そこで茶室を円成と名づけ、広間を不昧とすることにした。円成庵には、護国寺貫主の小野方良行師の、不昧軒には、松平直亮伯爵揮毫の扁額を掲げ、大正十五(1926)年十月十七日に開庵茶会を催した。
 そのとき、松平伯爵家が不昧軒広間の飾りつけを引き受けてくださり、床には牧谿筆の松に叭々鳥幅を掛け、その前に中興名物の古銅象耳花入を置いて白玉椿をはさみ、床脇棚には時代片輪車手箱を飾った。また展観品として、加賀光悦茶碗を出陳してくださったばかりでなく、護国寺に対しても、不昧公の肖像ならびに同公筆による枕流の二大字幅を寄進してくださったことはまことに望外の好都合であった。
 その後、山澄静斎(注・山澄力太郎=力蔵の子)が、先祖の宗澄の追福(注・追善)のために宗澄庵を寄納し、これに先立ち私が寄進した仲麿堂、三笠亭とともに三席の茶室が並んだので、いよいよ境内に茶気分をただよわすことになった。
 私はこのほか、さらに大規模な茶事公会に使用するための大広間の必要を感じ、原六郎翁の品川御殿山邸内にあった慶長館に目をつけ、嗣子の邦造君を通じて寄進してもらえるよう懇望した。というのも、原翁は私の墓所の北隣りに終焉の地を所有し、百年の後には私らとともにこの地に永眠する人であるからで、翁の記念物として慶長館を寄進してもらえるよう願ったのである。
 すると原翁は喜んでこれを承諾され私たちの希望を叶えてくださったので、護国寺のほうでもとてもよろこんだ。さっそく仰木魯堂に委嘱して、慶長館を護国寺境内の西側の薬師堂の裏手に移建することになった。
 この慶長館というのは、もともと江州(注・近江)三井寺境内の一塔頭だった月光院というもので、現存する円満院よりも比叡山寄りの高地にあった。表十八畳二間、裏十畳二間が連続しており、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間にある一間幅の通路)もいれると約七十畳にもなる。ふすまの張り付けは狩野元信筆で、有名な水呑虎の図も、このなかにあるものである。
 明治二十(1887)年ごろに、三井寺でこのふすまだけを売却したいという相談があったとき、井上世外侯爵の勧めに従って原翁が買収されたものであった。しかし原翁は、このふすまがいかなる座敷にあったのかということを一応、実地検分しようということで、その後三井寺に赴き、とうとうその建物までも引き受けることになったのである。
 ところで、これを慶長館と呼ぶのは、慶長年間において当館に大修復を加えたためで、創立の年代は鎌倉時代か足利時代であるといわれ、まだ一定の説はない。とにかく、五百年をこえる古建築であることは疑いなく、護国寺に移建してほどなく保護建造物に指定された。護国寺ではこれを月光殿と名づけ、小野方貫主がその扁額を揮毫した。
 今では、法要や茶事などのときに、護国寺にとっては非常に大切な建物になり、大師会をはじめ、その他の茶事のためにも使用することになったので、客殿、庵室もようやく備わって、護国寺境内の茶化の理想が実現されることになったのは、私たちのおおいに満足するところである。

 この際にあって、執事として内外の交渉にあたり、これらの事業を進めたのは佐々木教純師であるが、師が小野方良行大僧正のあとをうけて最近貫主に栄進されたことは、本寺にとって、まことに幸慶のいたりだった。今後建設の必要がある多宝塔、宝物館なども、この貫主在職中に必ず完成されるに違いないと、私は注意深く観察(原文「刮目」)しながら期待している。


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二百六十五  小倉色紙披露会(下巻426頁)

 昔から、名品を獲るは易く、これを使うは難しい、とよく言われるが、私は小倉色紙を手に入れたとき、殊にこの感を深くしたのである。
 私が小倉色紙を手に入れたのは大正七、八(191819)年ごろで、そのときは箱も付属物もなく、全く丸裸のままだったが、上下が浅黄地銀襴、中(注・中廻し)が紫印金、一風(注・いっぷう=表装で一文字と風袋を合わせた略装)が上代紗の表装で、もともと並々ならぬものであることはもちろん、色紙は古筆家の、いわゆる白色紙で、砂子または地紋がないだけ文字がはっきりとして、いかにもみごとなものであった。
 その歌は、

    高砂の尾上のさくら咲きにけり とやまのかすみたたすもあらなむ

というものだった。
 そこで、だんだんと調べてみると、これは久世大和守家の伝来品で、現在は子爵久世広英氏の所蔵だったが、わけあって、中身だけが世間に出て、利休の添文と、畠山牛庵(注・畠山光政、書画鑑定家)その他古筆の外題(注・書籍,掛物,巻物などの外側につける題箋)はいまも久世家に残っているということがわかったので、その後、子爵に懇望して付属物全部をまとめることができたのである。

 さて、この色紙の伝来を見てみよう。一条殿御所持のあと、仙石兵部殿(注・仙石忠政か?)へ行ったのち、細川三斎のもとで表具に趣向が凝らされ、そこから一柳殿へゆき、同家の息女が金保安斎方への嫁入りの際に持参して、その子の道訓に伝わったということである。白河楽翁(注・松平定信の「集古十種」、松平不昧の「古今名物類聚」のどちらにも久世大和守所持とあるので、寛政年間(17891801)にはすでに同家の所蔵になっていたものと思われる。
 小倉色紙は、利休の時代から世でもっとも重んじられ、大大名家になくてはならぬ重宝として、お家騒動の種にすらなったものである。なぜこの色紙が珍重されたのかというと、それより以前には寸松庵色紙、継色紙、升色紙、俊頼大色紙などというものがあったが、それらはいずれも巻物を切ったり、歌帖をばらばらにして色紙形に作り直したもので、本物の色紙として生まれたのは小倉色紙が最初だったからである。
 この色紙がひとたび世に出たあとは、為家の色紙がこれに続き、さらに下って有名な宗祇法師の大倉色紙などが出てきた。そして、色紙の元祖が小倉であることから、自然に世の中でもてはやされるようになったものと思われる。
 またこの色紙は、山荘のふすまに張り付けたので、遠くからでも読めるように特にその字を大きくしたようで、茶人がこれを珍重するのも、その文字が大きく一見して非常にはっきりしているためであるとも思われる。
 前述した久世家の小倉色紙には、利休筆定家卿色紙弥弥秘蔵云々(注・原文では卿が郷となっている、誤植か)の添文掛物が付属していたので、大正十(1921)年四月二十二日から、赤坂一木町の一木庵において、これを披露する茶の湯を催すにあたり、私は待合の壁床にこの利休文を掛け、本席に例の色紙を掛けて連会すること十日にわたり、茶友七十人余りを招待した。

 この時の益田鈍翁の謝状に、次の一節があった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)

 「小倉の色紙でお茶を頂戴すると云事は、昔は大々名でなければ及びもない事なるに、今や箒庵子より此光栄を賜はつたのは、誠に老後の仕合である。待合で利休の添文を見たので、扨てこそと思ひつつ本席に入れば、果して小倉色紙が掛つてあつたが、表装は細川三斎好みで、久世大和守家に伝はり、出来も殊更美事にして、一見頭の下がる者であつた。斯くて庵主は此掛物に配するに、青磁桃の香合を以てし、花入は紹鴎所持古銅桃底に白玉椿を活け、茶入は金森大海、茶碗は黒光悦で、何れも名物揃えなれば、何れの茶会でも、無遠慮に勝手の事を言ひ合ふ連中も、今日ばかりは襟を正して、大々名に成り済ました心地がした。併し茶会の終りまで、客を緊張させて置く庵主でないから、濃茶が終ると、伊賀の水指、庸軒(注・藤村庸軒)好み朱棗、無地刷毛目茶碗に薩摩を取合せ、如何にも平民的気分に為したのは、庵主が苦心の存する所で、濃茶の間は、厳粛なる謡曲の如く、薄茶と為りては気の利いた清元とも謂ふべきか云々」

 鈍翁は茶道に於ける千軍万馬往来の老将なので、その品評も急所にあたり、主催者が心の底からうなずくことができるものである。
 思うに、小倉色紙は、もともと百枚あったものだろうが、寛政年間(
1789
1801)の松平不昧の調査では現存が二十八枚とされ、その中で、茶事に使用することができるのは「八重葎」、「ほととぎす」、「いにしへの」、「誰をかも」の四枚のほかは、今回の「高砂の」の一枚を合わせて、わずかに五枚を数えるに過ぎない。であるから、古宗匠がこれを使用するにあたって一世一代の工夫を凝らしたことが美談となって後世に伝えられているものもある。 

 利休が某家の茶客になったとき、その露地に落葉が掃き残してあったのを見て、さては、当家で秘蔵されているという「八重葎」の色紙が掛けられているに違いない、と予言したという逸話も残っている。
 また、ある大家は、暁の茶会を催し、「ほととぎす」の色紙を掛け、室内に灯火をともさず、四更(注・しこう。午前4時ごろまでの早朝)の月光が、突き上げ窓(注・茶室に設けられた天窓)から差し込んで、掛物の上を照らし始めると、「ただ有明の月ぞのこれる」の文字が、ありありと読めるようにしてあったということもあった。
 しかし私の色紙披露会は、前述のように平々凡々で、なんら茶興をそそるほどの趣向もなかったが、来客の方からは、さまざまの論評を寄せていただいた。ある人が、一木庵は奈良興福寺殿堂の古材を柱としているから小倉色紙とは調和しないだろうと言ったのに対し、故団狸庵翁(注・団琢磨)が、小倉色紙は仮名でこそあるが、その文字が大きく、一種独特な墨蹟であると言えるものであるから、古材の太柱席と調和しないはずはないだろうと言われたなどは、確かに傾聴すべき一説であると思う。この披露会も、おかげでお茶を濁すことができたのは、まったく茶友の厚情のおかげで、そのことに深謝せねばなるまい。


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百七十一  名器調査と雲州土産(下巻83頁)

 私は大正二(1913)年五月十一日京都を出発し、雲州(注・出雲国、現在の島根県地方)への旅に出た。その途上で、

  天涯新樹雨余稠  晴日風薫欲麦秋  笑我一禅参白足  青山影裡入雲州
  (
注・稠=茂る)

という一首を作ったことから、そのときに旅行記を「入雲日記」という題にした。旅行中のこまごましたことは省略し、なぜ雲州を訪問することにしたのか、その理由を今回は記してみたいと思う。
 明治四十五(1912)年初めから私が閑雲野鶴の(注・仕事をせず自由な)身となったひとつの理由は、東山の時代(注・足利義政の時代)以来、幾多の好事家が何度も試みながら、ついぞ完成したことのなかった全国の名器の調査をするということだった。
 この事業を完成するためには、現在日本の国中でもっとも多くの名器を所有している松平直亮(注・なおあき)伯爵の宝蔵でその調査の方法を研究し、いかにして実物を撮影するかということや、いかにして色彩を模写するかということ、また、いかにしてその付属品などをもれなく記述するかということを試験的にやってみるしかないと思った。そこで私は、松平伯爵の許しを得て、まず雲州の宝蔵を拝見することになった。
 松江には速記者の山口鉄市を伴い、松平家宝蔵主任である故米村信敬氏らの助けを借りて、器物のなかでも有名な油屋肩衝をはじめ、大名物、中興名物(注・大名物は利休時代までに知られた名物、中興名物は小堀遠州が選定した名物)の茶入や茶碗の数々を拝見した。絵画では梁楷の李白、徐熈の梅鷺、門無関の布袋などの多数の名品があった。
 これらはいずれも有名な不昧公の遺愛の品で、中興名物の茶器だけでも四十点余りある。大名物や中興名物の書画、器具を合わせれば、その数は実に百点余りになるだろう。それは、ひとつの家で、全国の名物の一割以上を所持していることになるのである。
 よって、もちろん一朝一夕で全部を見るわけにはいかない。拝見は三日にわたり、それで約三分の一程度を調査し、これで幸いにも雲州訪問の第一の目的を果たすことができたのである。
 雲州松平家の所蔵名器がこのように豊富なのは、言うまでもなく、不昧公の熱心な注力(原文「丹精」)によるものである。
 そもそも公は、徳川家康の子(注・次男)である越前秀康(注・結城秀康)の、三男直政から六代目の天隆公【宗衍むねのぶ】の第二子である。宝暦元(1751)年の生まれで、諱を治郷といい、一々斎不昧、未央庵宗納と称された。
 明和四(1767)年、十七歳で襲封するが、そのときの松江藩の財政は極度の窮迫に陥っていた。父公が隠居しその職を新しい藩主に譲ったのも、結局のところそのせいだったので、不昧公はただちに藩政立て直しを志すことになった。そのために朝日丹波茂保を抜擢して後見、兼、執行役にし、大改革に当たらせた。
 丹波は非凡な財政家であった。華奢を戒め、殖産を勧め、七万人余りを動員して、佐陀川に幅二十間(注・一間=約180センチ。20間=約36メートル)、長さ二里(注・約8キロ)の運河を造り、湖水が北の海に注ぐようにすることで、六万石の新たな耕田をひらいた。
 また幕府が経営していた日光人参栽培所からその秘法を習い、雲州人参の生産に成功した。それを長崎に送り、シナ貿易において巨額の利益を占めたのである。
 このようにして不昧公は着々と多くの成功をおさめ、在職三十年余年のあいだに、天下屈指の内福(注・みかけよりも豊かな)大名になった。五十歳で家督を子息の月潭公(注・松平斉恒)に譲り、六十八歳で薨去するまでの隠居生活十八年間は、茶事三昧に暮らした(原文「消光」)ばかりでなく、かねて蓄積してきた財力で名品名宝の買収につとめた。まるで、夜の庭でガマガエルが蚊をパクリパクリと呑みこむように、公の魔力に引き付けられた天下の名器は、争うように公の口へと向かい腹を満たしたのである。
 これが、今日、松平家に現存している不昧公の遺愛の品なのである。
 こうして私は、それらの品々を拝見して、名器の調査についての方針を決定した。そこから、松江市外の菅田庵(注・かんでんあん)やその他の茶室を次々に訪れたり、出雲大社に参拝したりなどして、漫遊の日程を重ねた。
 ある晩には、旅宿の皆美館で、例の安来節と、どじょうすくい踊りも見聞した。安来節には、

  嫁が島外に木はない私が心いつも青々松ばかり
  安来せんげん名の出たところ、社日桜に戸神山、戸神山から沖見れば、いづくの船とも知らねども、せみのもとまで帆を巻いて、ヨサホヨサホと鉄つかんでかみのぼる

というのがあって、この「鉄つかんでのぼる」というのは、不昧公時代の製鉄工業の盛況を詠み込んだものだそうだ。
 また、この土地で行われている、どじょうすくいという踊りは、いかにも素朴で愛すべきものである。ざるで、どじょうをすくう身振りをして、

  私や出雲の浜さだ生れ朝の六つから鰌(注・どじょう)や鰌

といいながら踊るのである。これにはいろいろな替え歌がある。
 私はいつも地方に旅行するたびに、必ずその土地の俗謡を聴くことにしているが、この安来節とどじょうすくいは、東北地方の追分節に匹敵するもので、その他のいろいろな地方のものと比較して、はるかに群を抜いていると思う。これを東京で宣伝したら、かなり興味を持たれるのではないかと思い、帰京後に友人に語り伝えたのだが、それから数年後には安来節が東京に進出し、茶屋小屋から浅草あたりの小劇場にいたるまで、いたるところで唄いはやされるようになった。そして、しばらくのあいだ大いに流行したのである。マサカ、私が宣伝したから、というわけではあるまいが、このことについては、いささか伯楽(注・
すぐれたもの、特に名馬を見抜く能力のある人のこと)の名誉を担ってもよい理由があるのではないかと思っており、自己満足している次第なのだ。


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百五十二  岩渓裳川翁の詩品(下巻14頁)

 私は少年時代から漢詩が好きで、「唐詩選」「詩語碎金(注・しごさいきん)」などをひねくりまわし、折にふれ吟詠をしてみることもあった。和漢古今の詩を愛読し、気に入ったものは長編のものでもかなりたくさん暗記していたくらいである。しかしなにかに取り紛れて、不惑の歳(注・数え四十歳)に達するまで師について学ぶところまでに至らなかった。ただ明治三十一(1898)年にシナに赴いたとき、上海で日本郵船会社支店長だった鷲津毅堂門の、永井禾原(注・かげん。永井荷風の父、久一郎。久一郎の妻が鷲津毅堂)氏と知り合い、その後まもなく氏が帰国して隠居するようになってから、ときどき拙詩の添削を乞うたことがあったのと、森槐南氏が星岡茶寮で開いていた杜甫の詩の講義を、あるときに二、三回聴講したことはあった。
 さて大正の初めから私は東都茶会記の記述を始めたので、自作の詩を記事の中に挿入する必要から、岩渓裳川(注・いわたにしょうせん)翁に学ぶ(原文「叱正を乞う」)ことになり、それからというもの、今日にいたるまで、おりおり翁を煩わしている次第である。
 裳川翁は丹波福知山の朽木侯の藩臣であったが、五代前の祖には、通称が帯刀で、嵩台と号した、鴻儒(注・えらい儒者)がいた。この人(注・
https://kotobank.jp/word/巌渓嵩台-1056842は京都の吉益東洞に学び、池大雅らを友に持ち、早くから京畿間で名声が高かった。当時の福知山藩主は朽木昌綱であった。古銭の収集で名高く、茶道を松平不昧公に学び、不見庵龍橋と号して深く嵩台先生の人物を敬愛した。

 そこで朽木侯は、嵩台先生を禄高二百石え召し抱えようとした。するとそのとき、高松の松平家では五百石で召し抱えようと言い、松平不昧公は千石で、と申し込まれたのだそうだ。すると嵩台先生は憤然として、「士はおのれを知る者のために死す、と言われるように、俺は禄の利益のために動く者にあらず」と言って他を断り、一番小禄だった朽木家を選んだのである。それからというもの岩渓家は、裳川翁にいたるまで五代の間、同家に仕えた。

 こうして裳川翁は、先祖からの遺伝を受けて若年のころから詩の才能を発揮し、森春濤先生に学んで、永坂石埭(注・せきたい)、森槐南らとともに、森門下の逸足(注・逸材)と呼ばれ、今ではよわい喜寿(注・77歳)を越えて、ますます詩境は進み、私の卑見をもってすれば翁と国分青厓翁とは、現今の詩壇における双璧である。不心得(原文「不倫」)なたとえになるかもしれないが、青厓が宝生九郎ならば、裳川は梅若実、また、青厓を九代目団十郎とすれば、裳川は五代目菊五郎である。さらに、明治の歌人とも比較してみると、青厓が高崎正風、裳川が小出粲というところであろうと思う。
 裳川翁は詩学への造詣が深く、才調絶倫、長作、短篇のどれをとっても、まずい作品が見当たらない。
 翁から私に贈っていただいた大作だけを見ても、伽藍洞歌、白紙行、贈箒庵長篇、読入雲日記七絶十五篇、などがある。
 そのため、翁の詩について全貌(原文「全豹」)を批評しようとすると、この場の短い文章で言い尽くすのは無理なのでそれは別の機会に譲り、ここでは翁の小品について、翁の才調がどのようなものであるか、その一端(原文「一斑」。「全豹一斑」=豹のひとつの斑を見て豹全体の姿を類推する、の意から)を示すことにしよう。
 翁の詩に、雨後凉夕と題する七言絶句がある。

  不是西風枕上伝 月明露白已凉天 中庭樹竹参差影 閉目秋声来四辺

 これは、翁がたまたま手に入れた、俳人芹舎(注・八木芹舎。やぎきんしゃ)の短冊に、「錠させば四方になりけり秋の声」という句があったので、それを転結二句に翻案したものだそうだ。

  翁がそれを森槐南に見せたところ、槐南が構想が非常に俳句に似ていると評したので、翁はしまいには種明かしをして、槐南がそうと見破った慧眼に驚きつつ敬服したそうだ。
 また、翁が穉梅(注・穉=稚。若い梅の樹?)について詠じた詩がある。
 
  曾見幺苗掀土生 数花竹外一枝横 可憐笑倚黄昏月 未解風前有笛声
  (注・曾=かつて。幺=小さい。掀=覆っているものをめくる。倚=寄りかかる。黄昏=たそがれ)

 この詩の転結は、紀貫之の「今年より春知りそむる桜花散ると云いふことは知らずやあるらん」の歌意を借用したもので、井上通泰氏もこれを見て、うまく意訳したものだと嘆賞したそうだ。
 また翁が鎌倉で作った詩に、

  春風何処訪遺蹤 唯有残僧撒手逢 花落鎌倉星月夜 五山齊打一声鐘
   注・蹤=跡)

とある。鎌倉山の星月夜というのは、昔からありふれた言葉だが、これを詩の中に挿入したのは、実に、翁が初めてだろう、
 この詩が初めてある新聞に載せられたとき、翁がたまたま別の用があって初めて渡邊国武子爵、つまり無辺侠禅(注・原文では、以下もすべて禅侠になっている)を麻布の蝦蟇池邸にたずねたところ、侠禅は、その詩が載っている新聞を手にして出てきて、花落鎌倉の星月夜は妙ですね(注・絶妙ですね)と、初対面のあいさつもまだ済まないうちに、まず感嘆の言葉を洩らされたということだ。

 また、翁が私に贈ってくださった読入雲日記十五首のうち、菅田庵を詠じた詩がある。

  壁幅瓶花賞意幽 焉知清濁有源流 一庵茶事自然趣 聞説雲州出石州
   注・焉=いずくんぞ)

これは、私が入雲日記(注・箒庵が大正259日から18日まで、松平不昧の事跡を求めて出雲に旅したときの記録。東都茶会記で発表された。管田庵は、松平不昧の指図で作られた風呂場付きの茶室。不昧が放鷹のときに使った)に、松平不昧は、片桐石州の流儀を伝えた伊佐幸琢(注・
https://kotobank.jp/word/伊佐幸琢%283代%29-1052823)に学び、別に雲州流を開いた人であると書いたのを見て、聞説雲州出石州、の句を入れられたのである。しかし雲が石から出たという言い回しは、たまたまの自然の巡り合わせで、しかもなんという絶妙な表現だろう。

 以上のように、これらの短篇をいくつか見るだけでも、いかに気が利いて軽妙な江戸趣味を含んだ才調があるかということを窺い知ることができるのである。当然ながら、それは性格から流れ出てくるもので、他人の追随を許さない翁の独擅場といってもよいだろうと思う。
 


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百二十五  九州の実業大家(下)(上巻433頁)


 九州の炭鉱業者の中の巨頭といえば、なんと言っても亡くなった貝島太助翁である。
 翁は工夫(注・炭坑夫のことか)から成り上がった人で、体格が頑丈で親分らしい容貌を備えていた。非常に寡黙であるが真摯で誠実なところがあり、おおぜいの工夫たちから神のように崇拝されるだけの徳望を備え持っていた。
 私はあるとき直方町の貝島邸を訪問し、翁がみずからの好みで建てたという和洋折衷の三階建ての奇妙な大伽藍のなかで翁の懐旧談をきいた。
 翁は明治三十一、二(189899)年ごろ炭鉱不振で非常に困窮していたが、ある日のこと数台の人力車が門前に着いたので誰が来たかと出迎えてみると、それが井上(注・馨)伯爵馨夫妻であった。驚いたり喜んだりしながら座敷に招きいれ来意をきくと、「維新前、変名してこの辺を往復した昔を思い、久しぶりで再び旅行したのであるが、家内が不浄(注・洗面所)を借りたいというので、見れば不思議な家構えなので突然立ち寄った次第だ」と言われる。これは冥加至極な(注・ありがたい)ことと思い、問われるままに自分の出生から現在の炭鉱事業の状態を物語った。すると伯爵は非常に同情し、「今、資金がどれほど必要なのかをさっそく調べて山口の宿まで申し送るように」と言われた。これは地獄で仏に会ったような思いで詳しく計算して提出したところ、伯爵は毛利家に関係のある下関第百十銀行や三井銀行などに相談して、相当額の資金融通の道を開かれた。このときの拙者にとって、轍鮒(注・てっぷ)が水を得たような思い(注・わだちにはまってあえいでいたフナが水をもらって生き返るという故事)で、伯爵の恩義にたいしては終生忘れることはできませんと、翁は非常に感激して語られた。
さらに、世には不思議なこともあるもので、拙者の考案で作られたばかばかしい家が侯爵を引き付けて私と侯爵の関係が起こったのだから、この家は拙者にとって実に大切な建物でありますと最後は大笑いになった。貝島家は、井上伯爵の指示にしたがい立派な家憲を作成し、後継者にも恵まれ、今や九州の大家として隆々たる声望を博している。これも、太助翁の長年の誠実の報いだというべきであろう。

 九州の実業大家の中には、赤銅御殿で有名な伊藤伝右衛門氏もいる。氏もやはり炭鉱業でその富をなしたひとりで、腕一本からたたき上げた人物だから、この種の人に共通する粗豪なところがないわけではない。しかし、なんら腹蔵のない率直な気質で、いかにも男らしい男である。私は東京でしばしば氏に面談する機会があったが、あるときは、かの白蓮夫人の噂も出て、すこしばかり礼讃の口吻をきかされた(注・のろけ話をされた)こともあった。
 その後に破鏡(注・離婚)の事件が起こると、世間はかの才媛に同情し、大江山(注・酒呑童子のしわざで)さらわれた姫君のように言う者もあったが、才媛ともあろうものが先方の人格を見誤っていったん嫁いだとするなら、ただありふれた離婚沙汰として終わりにするべきだ。才媛がそれについて、なにか感想談を発表したともきいたが、私はそこになにが語らているのかを知らない。しかし、楽毅(注・がくき)は国を去って悪声を放たず(注・中国戦国時代の故事。絶交した人の悪口を言わない)ということもあるので、もしそれが少しでも前夫の名誉に関係するようなことならば、あまり感心したことでもないのではないかと思う。伊藤氏はこの事件では思わぬ噂の種をまいたが、とにかく九州の大実業家であることにかわりはない。

 次に、平岡浩太郎氏は福岡の出身で、実業と政治の両方面で活躍した。日露戦争後の炭鉱業の好景気時代には政治の世界でも相当の手腕を試みた。氏は豪放ななかに無邪気な面を持ち合わせ、日露戦争がはじまり旅順の陥落が心配されたとき、我輩の部下を別働舞台として、すぐに旅順を乗っ取る成算があると人に向かって大言壮語したこともあるなど、すこぶる愉快な人物であった。
 氏は宴席で興に乗ると、田村の謡曲を謡うのが得意だった。その朗々たる音声はいまでも耳に残っているほどだ。また羽振りのよかったころに買い集めた美術品のなかに、趙氏昂筆の陶淵明の絵巻物一巻があって、私は最初にこれを見たときにはまったく気づかなかったが、その後、松平不昧公が編纂した古今名物類聚のなかに名物としてこの一巻が載せられていることを発見したので、平岡氏に知らせようと思いながら氏の物故によってそれが果たせなかったことは残念だった。
 また氏の福岡の自宅には神屋宗湛の古茶室があったので、私は氏を訪問したときに親しくこの茶室を一覧したが、今日なお現存していることだろうと思う。
 氏の壮時には、玄洋社の遠山(注・原文ママ、頭山満)、杉山(注・杉山茂丸)らと肩を並べたほどで、おのずと国士の風があった。晩年の炭鉱不況時代に長逝されたことは、まことに遺憾であったから、私は翁の訃音をきいて、霊前に次の巴調(注・自作の詩歌をへりくだっていう)一句をささげた。


   国の為め心つくしのますらをに 手向くるぬさは涙なりけり
 


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百十五 茶人失策談 下(上巻397頁)


 茶人のナンセンス珍談はいくつもあるのだが、あまり一度にご覧にいれると食傷気味になるかもしれないので、次の一篇をもって、しばらく打ち切ることにしよう。


 掛物の売り損ない


 故益田紅艶(注・益田英作)は多聞店という道具店を経営していたほどだから、相手を見ての道具を売りつける呼吸には、なんともいえない機敏さがあった。
 彼は、松平不昧公が、大阪の道具商の戸田露朝の先々代にあたる宗潮をある大名に紹介した手簡(注・手紙)を所蔵していたので、これを茶席に利用し露朝にうまく売りつけようとたくらんだ。そこであるとき大阪の紳士茶人連とともに露朝を茶会に招き、その不昧公の消息文(注・手紙)を掛けた。その文になかに、
 「谷松屋宗潮と申す者、大好事家にて随分御用も弁ずべく大方目も利き申候、但し左る怖ろしき風聞の男に御座候間、必ず必ず御油断遊ばされ間敷候云々」(注・大意は、宗潮は目利きだが、悪い噂があるので、絶対に油断しないでください

とあった。この掛物を見た同席の茶人が、怖ろしき風聞の男という文句に驚き、胸にぐっと警戒心を抱いたらしいことを戸田が見て取って、なんとも迷惑なことだと思った。そんなことも知らずに主人の紅艶はひとり大得意で、今日のようにぴったりとはまった掛物はふたつとないだろう、殿様の中でも油断ならない不昧公が、宗潮をおそろしき男だと畏敬しているこの手紙は、戸田に対する不昧公の感状(注・上位にある者が下位にある者の功績に対してあたえる賞賛の書きつけ)とみるべきものなので、戸田家における伝家の宝にしないわけないはいかないはずで、茶事がすんだら、代金は問わず、是非とも譲り受けさせてくださいと申し出てくるだろうと待ち受けていた。しかし戸田から音沙汰がないのを不審に思い、内々に大阪方面を探ってみると、戸田は、自分のお得意様の前で、あのような手紙を掛けられたことを非常に迷惑がっているというので、紅艶はハタと思い当たり、あの掛物は、掛ける前に売ってしまえばよかったのだと、おおいに後悔したという。



 藪蛇庵の命名


 益田紅艶には茶事の上での数々の珍談がある。その中のひとつは次のような話だ。
 あるとき紅艶は、小田原と箱根の中間にある風祭というところに非常に安上りの茶室を作り、それまでの長いあいだに借りがたまってしまっていた茶債(注・返礼の茶事のこと)を償おうと思い立ち、ほうぼうの名家を招待した。

 さてその茶室がどのようなものであったかというと、風祭神社に隣接している竹やぶのなかにニョキニョキと立ち並んでいる大竹を柱にして臨時の茅葺きをした茶室を作り、周囲に蛇がのたくったような一筋の流れを作ったものだった。その流れの中に置いた新しい手桶を当座のつくばいとし、席中には大囲炉裏を切って窶れ釜(注・やつれがま。口縁部に欠けがある)を掛けた。また、田舎家風の張りまぜ屏風に、さまざまなポンチ画が貼り付けてあった。その中には来客のポンチ画も少なくなく、山県椿山公の歯をむきだした漫画などもまじっていたので来客一同は抱腹絶倒し、とうとう椿山公までも引っ張り出して、その漫画をお見せすることになった。

 そのときの紅艶は有頂天になり、どうか、庵の命名と、その扁額のご染筆を願いたいと所望した。公爵は即座に快諾されたので、紅艶は、きっと風雅な庵名をつけてくださるにちがいないと一日千秋の思いで待っていた。
 ところが公爵から贈られてきた扁額を見てみると、なんたることか藪蛇庵という三字が書いてあったせっかく公爵から賜ったものを採用しないわけにもいかす、なまじっか公爵などに命名を頼んだものだから、かえって藪蛇になってしまったと、その後二度とふたたびこの庵室を使わなかったそうだ。



 無関税の名銅器


 益田鈍翁が日露戦争後間もなく、故三井三郎助(注・三井高景)氏らとともに清国の巡遊を思い立ち、長江沿いから北京に行き、やがて長崎に帰ってきたときのことである。
 ひとつ非常に気懸かりなことは、シナの某大家から出たという古銅の花入を買い求めてきたが、長崎税関を通過するにあたり、出どころは名家、買い手は鈍翁、というこの品物を、税関ではどれほどの評価額にするだろうか、ということだった。
 鈍翁はまず旅館にはいり、税関からの報告を待っていた。そこへ、随行のひょうきん者が得意満面で帰ってきた。そしてあの花入の関税の件では、褒めてもらいたいだけでなく、一度くらいはご馳走も頂戴したいくらいだと言う。鈍翁は相好を崩してにこにこ顔になり、ではいったい関税はいくらになったのかときいた。するとその者は、驚くなかれ、タッタの一文もありません、税関吏がただいま申されるには、近年シナから、にせものの銅器が輸入されているが、この花入なども、そのなかでも最も拙作な部類で、刀の先で少し触ってみるだけで、すぐに地金の新銅が出てくるので課税するに及ばない、ということでありますと答えた。その報告をきいた鈍翁は、「税関の役人などに、古銅のことがわかってたまるか」と、ただ一笑に付したが、その後何年たっても、ついにこの花入を使われたことはなかったということだ。


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