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第四期 実業 明治二十四年より同三十四年まで
第五期 実業 明治三十五年より同四十四年まで
下巻目次
第七期 文芸 大正十一年より昭和七年まで
二百九十九 故犬養首相遺事(下巻551頁)
犬養木堂翁が昭和七(1932)年五月十五日に永田町の首相官邸で青天白日のもと兇徒の毒手にたおれたことは、日本開闢以来の大椿事であった。これに関して世相の批判をすることは歴史的な意味からも重要なことではあるが、そのことについては他日に譲る。
私はこの兇変により五十年の知己を突然失うことになった。驚愕哀傷、まことに言語道断のできごとだった。
大政治家である以外に、書道、刀剣、古硯、筆、墨など、幅広い趣味を持っておられたこの翁との交遊を、今、回顧すると、数々の追懐が湧き起こってくる。私は、先輩に対する哀悼の情を慰めるため、ここでその想い出の二、三を記し読者の同情にうったえようと思う。
木堂翁の余技の中で、もっとも得意としたのは書道だろう。かつて、何流を究められたのかと聞いても、「我に師承なし、ただ古法帖を研究したのみだ」と言われていたが、その書体は、木堂その人のように、痩硬勁抜(注・けいばつ=抜きん出ている)としていた。これは、翁が非常に精通していた刀剣の鑑定からヒントを得たのではないかという感じがしたものだ。
翁は親友の榊原鉄硯君のために、その文人画を世間に紹介するために、みずからがその讃を書かれたことがあった。私も翁の墨蹟をひとつ持っておきたいと思い、あるとき八木岡春山に孤舟独釣図を描かせて、翁にその讃を乞うたことがあった。翁は、長上幅の上方に、
雲水平生一釣綸 扁舟来往楚江浜 自焼緑竹炊新飯 誰道煙消不見人
是徐幼文詩也 木堂散人書
としたため、さらにこれに添えて、次の一書を送ってくださった。
「敬啓、字がユガミ甚だ見苦し、御勘弁可被下候、此詩は明初の徐賁(注・じょほん。元末明初の文人画家)の作、柳子厚の『日出煙消不見人 欵乃一声山水緑』の翻案にして、尤も傑作と存候に付、認め候。」
翁がみずから詩作をされたのかどうか、私はついにこれを見たことがなかったが、榊原鉄硯君の画に讃するときは、図柄に応じて、たいてい古人の詩を書かれていたようなので、ふだん好んで唐宋時代以降の諸大家の詩集を読破されていたのだろう。
さて画讃についてであるが、これは翁のもっとも苦心するところで、その布置按配の妙は専門家といえども遠く及ばないほどだった。
翁は書道に深く通じていたので、古硯、筆、墨などについても非常に精密な研究を重ねられていた。例の、直截で簡明な毒舌で滔々と説明されるところには、おおいに傾聴する価値があった。
翁はもともと皮肉屋で、相手の急所を突くのがうまく、ウイットに富んだ批評で相手を一言で降伏させる技量を持っていた。これは、長年政壇の勇将として攻勢弁論に当たった鍛錬から来たものであろう。時に友人と会って談話をすると、翁はたちまちその中心になり、その話の中には、必ず何か人を驚かすようなことがなければ気が済まないというところがあった。時として悪ふざけが混じることもあったが、どこか独特な愛嬌があって、毒舌の毒を、その後に残さないところに木堂一流の特長が見受けられたのである。
たとえばある人が老大政治家を指して、「某氏も近頃少し箍(注・たが)が弛んだようだね」と言うのを聞くなり、翁は口元に微笑を浮かべて、「某氏に箍があったのかね」と反問した、などというのはいちばんの例である。
また翁が大茶目を発揮した一例は、親友の朝吹柴庵【英二】翁が、以前親しくしていた婦人に大阪で旅館を開かせた時、翁は軽石を奉書に包み、水引をかけて、うやうやしくこれをその婦人に贈り、暗に柴庵翁のあばた面を諷したというものだ。これなどは、すこし薬が強すぎた感じがあった。
私は、翁が首相になってから、ある日翁に会ってゆるゆると談話する機会があったので、次のように言ってみたことがある。「貴下はシナの要人の中に、年来懇意にしている人が多いようだが、彼らと親しく胸襟を開いて、日支の親善の気運を盛り上げるのは、今日、貴下のほかにはいないと思われる、むかし、伊藤公、大久保侯らが李鴻章と会見して直接意見交換をし、その都度、東洋の平和が破綻せずにすんだことがあったが、その後の日支交渉は、いつも公使や領事任せで、大官が直接交渉をするのを避ける傾向があるが、これは全くそうする必要がないことである。貴下は、今や、我が国内閣の首班であるのだから、それを利用して、蒋介石その他のシナ大官と会見して、おおいに東洋問題について論じ、これ以上事態を悪化させないように懇談してみてはどうだろう」と。
すると木堂翁は、「貴説はいかにもごもっともであると思うが、いかんせん、今日のシナには、時局について懇談をする相手がいないということが困りものである。といって、心ある者は、今日の事態が最上策だとは考えているわけもないだろう。彼らの勢力は、今ではどれも小さな部分に限られており、しかも対内関係を重視し、衆愚に媚びつつ、一時的な安楽(原文「一日の苟安[こうあん]」)をむさぼっているありさまだ。よって今はその時機ではない、もし近い将来、せめてシナの半分だけでも背負って立つほどの人物が出て来たならば、胸襟を開いて、その人とともに東洋百年の長計を熟議したいものである」と述べられた。
今や、日本側で、この会談の適役を勤めるべき木堂翁を失ったことは、まことに千載の恨事である。私は、翁の長逝に対し、挽歌一首を詠じたので、これを掲げて、哀悼の微志を表することにしよう。
大丈夫児鉄石膓 稜々気節挟風霜 天皇賜誄哀長逝 死有余栄老木堂
二百六十四 益田紅艶冥土入り(下巻422頁)
東都名物男の随一であった益田紅艶【英作】氏は、持病の糖尿、腎臓病に二回の脳溢血を併発し、大正十(1921)年二月二日、享年五十七歳をもって悠然と冥土に出立した。
氏は、故益田鳳翁の末子(原文「季子」)で、伯兄(注・長兄)に孝男爵、仲兄(注・次兄)に故克徳を持ち、兄弟三人それぞれの特長をもって当世に栄達したが、中でも氏は飄逸な天才肌で、社会の各方面で数々の奇談逸事を残した。
この名物男についてはすでに何度も記述したことがある(注・80・千葉勝と紅艶、181・脱線党の一人者などを参照のこと)が、今回は永別に臨み、ここに二、三の興味ある行実を叙述してみることにしたい。
紅艶は慶応元(1865)年生まれで、明治十一(1878)年十五歳の時、遊学(原文「見学」)のためにまずフランスに行き、ついでイギリスに渡り、アメリカにはもっとも長く在留したので英語に堪能であることは言うまでもなく、英文の手紙を書かせては邦人中、彼の右に出る者はほとんどなかったという。
その後彼は三井物産会社に入り、英、米、シナの各支店に転勤したが、本来が剽軽な性質なものだから、他からの束縛を受けて規則正しく勤務することが好きになれず、三十歳ごろからはやくも気随気ままな生活に入った。
明治二十六(1893)年、彼がはじめて日本橋区浜町に構えた小宅で初陣茶会を催したときには洋行帰りのほやほやで、一半の西洋趣味を加え、来客を香水風呂に入れ、床には芭蕉の、
無惨やな兜の下のきりぎりす
という句入文を掛け、余興には河東節の邯鄲の一曲を出すなど、彼がのちのち一流を開くことになる趣向茶の処女的なひらめき見せたのである。これは、彼の茶道における魔法使いの始まりであった。
紅艶は美術鑑賞において一隻眼を有した。ふだんの金遣いは、いわゆる握り家(注・けち)の方だったが、美術的名品に対しては驚くほどに大胆不敵で、思い切った奮発を辞さないところがあった。
その所蔵品には新古さまざまなものがあり、中には観音だの阿弥陀だのといった古仏の手足の断片などもまざっていたが、彼の説によると、世界中で手足がいちばん自然に発達しているのは日本人だということで、その日本人において、生まれてからまだ何らの圧迫を受けていない子供の手足はもっとも自然美に近いものである。すなわち、古仏像の足の部分などは、それを手本に作ったものなので、土踏まずのない、むっくりした柔らかい子供の足に近い美形を保っているとのことである。その断片によって四肢顔面を想像すれば、仏像全体の美観がおのずから眼前に現れてくるので、真に古仏像を愛玩しようとする者ならば、手足の断片だけを見てもその美想を満足することができるのだという。この一事からしても、彼一流の見識を知るに足るのである。
紅艶の逸事は、茶事、美術鑑賞のほか、音曲舞踏方面で一番多いようである。
彼は、図体が大きな割には、声が細くて甲高く、その節回しのあどけなさがまるで子供のようで、しかも独りよがりの大天狗なので、さまざまな奇談を残すことになった。
彼の音曲の皮切りになったのは河東節で、十一代目山彦秀翁(注・十一代目十寸見【ますみ】河東)に弟子入りをした。例の「夜の編み笠」で、白鷺の一節を得意とし、かねがね長兄の鈍翁に自慢していた。
さて鈍翁がある日、汽車の中で秀翁に出会ったとき、ついでに、紅艶の河東節はどうですかときいてみると、もともとお世辞っ気のない秀翁は、「英作さんの調子外れときては、いやはや、まことに困りものでげす」とやっつけたので、これを伝え聞いた紅艶は、半時ばかり呆然としたのち、その日のうちに河東節をやめてしまった。
今度は転じて長唄の門にはいり、吉住小米についておおいに勉強しつつ、例の工夫沢山で、「有喜大尽」の大石(注・大石内蔵助)を、成田屋張りで語るという調子で、いたるところで喝采を受けたのを真に受けていた。ところがある時、小米の稽古場で、師匠が自分の噂をしているのを立ち聞きしてみると、「紅艶さんときたら、いつまでたってもアノ通りで、先の見込みがありませんよ」という始末で、紅艶おおいに悟るところあり、この時から河岸を振り事(注・歌舞伎舞踊)の方面に変え、さらにより多く珍談を残すことになったのである。その顛末については、長くなるので他日に譲ることにしよう。
紅艶は、その死後、築地本願寺境内に葬られ、円融院釈霊水居士という法名をつけられた。霊水とは、無論、彼の目黒の茶室である霊水庵からきた名称だが、円融とは、本願寺の和尚が勝手につけた法名で、この二字はもっともよく故人の性格をあらわしているだけでなく、あのステテコ踊りで有名だった故三遊亭円遊とその音便が似ているので、ある友人は
ステテコを地獄で踊れ円融院
と口ずさんだそうだ。紅艶が冥土でこれを聞いたなら、「敵ながらあっぱれでげす」とうなずくことだろう。
朝吹柴庵という大名物を失って間もなく、この大道具があの世に落札されてしまっては、東都の雅俗両社会は、ともに大いなる寂莫を感じないわけにはいかない。
この種の人物は、花は咲いても実は結ばぬというのが常なのに、紅艶はまったくこれに反し、生前にはあらん限りの気随気ままを尽くしながら、死後に大資産を残しているから、これこそまさに雅俗両諦に通じた完全な処世と言ってもよさそうだ。
史記に、「滑稽列伝」、「貨殖列伝」というのがあるが、大正時代の太史公(注・司馬遷)なら彼をどの列伝中に収めるであろうか。とにかく彼は、明治後期から大正時代にわたって、一種出色の名物男と称するべき者であろう。
二百六十一 高野山霊宝館落慶式(下巻412頁)
明治四十三(1910)年に発起した高野山霊宝館は、それから十二年をついやして大正十(1921)年五月十五日に、いよいよ落慶式を挙行する運びとなった。そこで最初からこの事業に微力を尽くしてきた私たちは、この日をもってようやく肩の荷をおろすことができたのである。(注・160「高野山霊宝館の発端」を参照のこと)
そもそもこの霊宝館は、高野鉄道社長の根津嘉一郎氏らが高野繁昌の一策として建設する必要を唱えたものだった。高野山側としても、同山の開山一千百年の記念事業の一部としてその実現をさかんに望み、大師会の発頭人として知られていた益田鈍翁(注・益田孝)や、真言寺と自称して大師崇拝者であった朝吹柴庵(注・朝吹英二)らが発起人に馳せ参じたので、ここにいよいよその計画を立て資金勧募に着手した。
しかしそれに着手したそのとき、最初からこの事業に熱心だった高野山宝城院住職の佐伯宥純師が突然遷化(注・せんげ=高僧の死去のこと)してしまった。そのためたちまちのうちに大頓挫を生じ、一時は計画を中止しなければならないことになりかけた。しかしこれでは佐伯師の霊に対して申し訳が立たないということで、私と野崎幻庵(注・野崎広太)でその事務所を引き受け、決然として資金募集を始めた。
その意気に馬越化生翁が共鳴し、それからは三人で、あるときは知己の誰かれを勧誘し、あるときは諸大家道具入札会の札元たちを説いてその冥加金(注・奉納金)を徴収するなど、さまざまな手段を講じて、かろうじて十一万円を募集することができた。しかし物価騰貴のため、当初十三万円であった予算が、ほとんどその倍額に達していたので、発起人中の発起人であった下記の八名が各自、最低七千円、最高一万一千円を分担し、出資総額を十七万円にまとめた。
一方高野山側では、当初からこの事業の相談役であった文学博士の黒板勝美、荻野仲三郎の両氏が調談の結果、館内の造作備品代金の十万円余りを支弁することになったので、双方の合計の約三十万円で霊宝館第一期計画を完成し、この日めでたくこの落慶式を挙行するにいたったのである。
霊宝館は、正殿を中心にして左右に両翼を張り、回廊でそれを連接する構造(原文「結構」)である。今回は第一期事業として、正殿すなわち紫雲館と、左翼すなわち放光閣を完成し、右翼は第二期事業として将来の竣工を待つことにしたのである。
こうして、この日は東京から発起人総代として益田鈍翁、根津青山、馬越化生、野崎幻庵と私の五名のほかに室田義文氏が出席し、九州からは安川敬一郎男爵、京都からは日置藤夫氏などが登山した。
益田男爵が霊宝館寄進文を読み上げ、金剛峯寺管長の土宜法龍師が受納文を、建築技師長の大江新太郎氏が報告文を、馬越化生翁が祝詞を朗読し、首尾よく落慶式は終わった。
黒板博士の筆になった霊宝館の寄進文は次の通りであった。
「寄進し奉る高野山霊宝館一宇の事。
右当山は弘法大師入定の聖跡、三世諸仏集会の浄域なり、上天子より下衆庶に至るまで、一心帰依の懇志を致し、三会得脱の値遇を期す、是を以て蓮峰蘿(=カズラ)窟、徳風吹くこと一千百余年、霊宝秘珍、庫の充ち蔵に溢る、惜い哉、或は祝融の災に罹り、或は蠧魚(=紙魚)の食となり、日に散し月に失ふ者、其数を知らず、而して保存の法未だ立たず、展観の便尚ほ欠く、登山の輩、参詣の衆、多くを以て恨みと為す、是に於て明治庚戌の春、始めて霊宝館造立の発願あり、我等之を隨喜し、奉加四方に勤め、功徳一切に及ぶ、而して十余星霜を経、輪奐(=建築物が広大であること)の美未だ成らざるの間、座主密門大僧正を始め奉り、佐伯権中僧正、朝吹柴庵等、忽ち黄壌(=死後の世界)の長別を告げ、前後恨み極まりなき者なり、切に浮世の夢の如きを感じ、弥よ(=いよいよ)事業の遂げ難きを歎じ、更に多少の志を集め、纔(=わずか)に土木の功を終り、殿紫雲と称し、閣放光と呼ぶ、乃ち虔んで大師の宝前に寄進し奉り、聊か以て小願を果す、庶幾(=こいねがわ)くは、遍照金剛の威光弥よ輝き、普賢行願の梵風益加り、又願くは此微善に依り、故座主以下、聖霊出離生死頓生仏果、同心緇素(注・しそ=出家者と在家者)現当安楽、願望円満、乃至法界平等利益、敬白(原漢文)
大正十五円五月十五日
高野山霊宝館建設発起人総代
益田孝 根津嘉一郎
馬越恭平 村井吉兵衛
原富太郎 朝吹常吉
野崎広太 高橋義雄
霊宝館の右翼はまだ出来上がっておらず完全に竣工してはいなかったが、正館と左翼ができあがったので、什宝保存のため、また一般の人々(原文「衆庶」)観覧のために、今後幾久しく無限の功徳と便宜を生じることになるだろう。
山間僻地の寺院に関する事業というものは、都会での同様の事業のようには華々しく目立つようなことはないが、概して永続的なものになりやすく、少しずつであっても後世に恵沢を及ぼすものが多い。たとえば鎌倉幕府の事業は、なにひとつ見る影もなく荒廃してしまったが、尼将軍政子(注・北条政子)が高野山に寄進した多宝塔は、厳然として今もその雄姿を留めているではないか。
霊宝館建設の議が起こってから十二年、私たちは、時には托鉢坊主のようになって、勧化(注・寄付集め)に憂き身をやつしたこともあったが、今や本館が落成しその功徳が今後長く継続するのだと思えば、いささか骨折り甲斐があったものだと衷心(注・心の底から。原文「中心」)満足している次第である。
二百三十一 名物男柴庵翁の易簀(下巻302頁)
(注・えきさく。礼記で、曽子の死に際に季孫から賜った大夫用の簀[すのこ]を身分不相応のものとして粗末なものに易[か]えたという故事から、学徳の高い人の死、死に際のこと)
四十年の莫逆(注・ばくぎゃく。親しい友)であった朝吹柴庵【英二】翁は、大正七(1918)年一月三十一日、享年七十歳をもって築地木挽町の自邸で、そのもっとも波瀾多き生涯を終えられた。
翁は豊前耶馬渓(注・現大分県)近く(原文「畔」)の、一民家の子として生まれた。つとに福澤先生の知るところとなり慶応義塾に学んだ。その後、三菱会社にはいり、社長の岩崎弥太郎氏に外交的才幹を認められた。
だんだんに実業界で出世するうちに、時の大蔵卿であった大隈侯爵らの愛顧を得て横浜に貿易商会をおこし、ここにはじめて本邦人による生糸の直輸出の端緒を開いた。これはいわゆる商権回復の運動であったが、翁はその仕事に邁進したものの、時勢がいまだこれをゆるさず、逆境相次ぎ失敗相重なった。このことで翁は、貿易商会が政府から借用した数十万円の負債を一身に引き受けることになり、当時、日本第一の借金王になってしまったのである。
それから十数年間、七倒八起の境遇に立ちながら翁が奮闘した武者ぶりは、その円転滑脱の才思(注・才知のすぐれた考え)とあいまって、奇談、逸事を少なからず世にのこした。
こうして明治二十五(1992)年に、翁は鐘淵紡績会社の専務となるや、拮据経営(注・仕事に励むこと)し、ついに、その衰運を挽回し、今日の同社の隆盛を基礎を築き上げたのである。
その幕下(注・ばっか。配下)から、和田豊治、武藤山治のふたりを輩出したことは、人のよく知るところである。
その後、三井の工業部にはいり、ついで同家本部に転勤するころには、義兄の中上川彦次郎をシテとし、おのれはそのワキ役となって、当時の三井の両雄であった中上川、益田(注・孝)の両者間を円滑にする油となり、いわゆる世話女房としての立場で、物事がはかばかしくないとき(原文「冥々の際」)に、その天賦の調和的技能を発揮したことは枚挙にいとまない。
その人となりは、聡慧豁達(注・そうけいかったつ。聡明でかつ度量がある)のうちに慎み深さと慎重さを兼ねていた。数字にも強く、記憶力がよく、座談にもきわめてすぐれ、言貌(注・げんぼう。言葉と容貌)に無限の愛嬌をたたえており、円転滑脱、陳を化して新と成し(注・古くなったものを新しいものに変え)、人を笑わせる(注・原文「人の頤(おとがい)を解く」)のがうまかった。
私は、趣味においても、性格においても、業務においても、翁と非常に近いところにいたことから、社交家として、遊冶郎(注・ゆうやろう。道楽者)としての、そして美術鑑賞家としての翁についてはよく知り、これまでもいろいろな項で記述してきたとおりである。今回は、これまで触れることがなかった翁の文才について、すこし書いてみようと思う。
翁は、その性格から言っても、狂歌がいちばん得意だった。大正初年、私が山谷の八百善で、道具一品持ち寄りの会を催したことがあったが、そのとき翁に送った案内の返事には、次のように書かれていた。
「高橋義雄氏より、七月九日に、何か見るべきもの、一品持ちて、山谷の八百善に来れ(注・きたれ)との案内を受けたる時の答に
九日に八百ぜんと云ふ五あんない一品二三六で七四十も
(注・後半「一品持参でなしとも」)
また、名取氏に嫁した令嬢の福子に、長孫(注・本来は、長男の長男のこと)が誕生したとき、
百までもいきてゐよとは願やせぬ 爺と婆とが死んでから死ね
と口ずさまれた。この歌は、あとになって悪戯をしでかし、愛孫は、九歳のときに夭折したので、あんな歌を詠むからだと家内より叱られましたと、翁は当惑した顔で告白されたこともあった。
さて、晩年にいたり、井上通泰氏について、国風(注・漢詩に対し和歌のこと)を習い始め、そのなかには一風変わった詠みぶりの、いかにも翁の和歌らしいものもあった。
あるときは、常磐会に出詠して、満点の光栄をになわれたこともあった。その歌は、海辺の夏月という題で、
風もなく波も音せぬ海原に 曇れる月のあつき夜半かな
というものだった。
さて、私と翁との交誼(注・親しい交流)は、現世だけでなく、冥土においても相変わらず続くだろうと思っている理由がある。
大正六(1917)年、私は、翁と、馬越化生(注・恭平)、根津青山(注・嘉一郎)の両老とともに、霊宝館の地鎮祭に参列するため高野山に登山したのであるが、翁はこのときに思い立つところあって、奥の院玉川の橋を渡って、まさにそこから石階段を上ろうとする左側に、朝吹家累代の墓という一基の墓石を建立された。私は、翁といっしょにこれを検分し、私もご近所に墓地を定めて、死後ともにこの山中に来て、時々大声で談笑して、おおいに奥の院を賑わせようと顔を見合わせて哄笑したことがあったので、翁の易簀(注・えきさく。死)の翌年に、私は翁との生前の約束を実行して、翁の墓石に相対する奥の院石階段右側の二本の大杉の木の下に法華寺型の石灯篭を一基立て、その棹の正面に、高野山管長土宜法龍大僧正筆で、箒庵居士塚石燈と刻して、これを墓石に代えたのである。
その後、私は奥の院に赴き、翁の碑前にぬかずいて次のような腰折(注・自作を謙遜した呼び方)一首を手向けた。
まてしばし我れも来りてもろともに 高野の奥の月に語らむ
人の世は無常迅速である。私も早晩、翁の霊とともに高野山の奥の院で談笑を交える時節が到来することだろう。
百八十三 朝吹柴庵道具逸話(下巻126頁)
朝吹柴庵(注・朝吹英二)翁は多方面に多趣味な人である。才思横溢(注・才能にあふれ)、愛嬌たっぷり、いたるところに奇談の種を宿している。書画骨董方面での逸話が特に多く、なかでも他の人がまねできないところは、「蛇の道はへび(注・専門家にとってお手のものであること)」以上の敏感さで珍器、名物のありかを嗅ぎつけ、海老で鯛を釣るような掘り出し物を見つける能力を持っているということであった。翁のことを私が「道具釣りの名人」と名づけたのは、その抜群の技量を何度も目撃したからである。
さて、翁がいわゆる道具釣りに出かけるための決まった場所は、下谷仲町の斎藤琳琅閣、四谷見附の伊藤平山堂、その他何軒かの道具店であった。あるとき翁は、琳琅閣で天下の大名物、古銅青海波の花入と、古太刀中の古太刀といわれる「天の座」の名刀を釣り上げたことがあった。
この琳琅閣の主人は、名前を斎藤といい、本業は古本屋である。旧大名家に出入りするついでに道具類も買い取るようになった一種の変わり種であったが、なぜか世間では彼のことをバイブルと呼んでいた。
柴庵翁は、彼が古本の横に大名家から仕入れた道具を陳列していることを嗅ぎつけ、ときどき訪問するうちに彼の常連の得意客のひとりになった。今回翁が掘り出した青海波の花入は、茶書のいくつかに水戸殿御所持として挙げられている大名物で、徳川二代、三代将軍がいっしょに水戸邸にお成りになった折に、二代将軍みずからこの花入に緋木瓜の一枝を活けられた、という来歴のあるものだ。後年、水戸家の分家である守山藩主松平大学殿(注・松平頼貞)に伝わっていたものを、琳琅閣主人が、かの天の座の名剣とともに同家より取り出したものだった。
翁がかねがね垂れておいた釣り針に運よく稀代の大魚がかかったわけで、琳琅閣主人がおそるおそる申し出たその値段というのは、ほとんど二束三文だったので、翁は二つ返事でこれを買い上げた。
しかし、鼻高々で歓びにひたっている間もなく(原文「隆鼻天に冲して得々自ら悦びたる間もなく」)、それを垣間見た益田鈍翁から熱烈な懇望があった。
もともと柴庵翁の道楽は、道具を釣ることにあって用いる方にはないのだから、造作もなく譲ってもよいはずなのだが、この花入だけには未練が残り簡単には手放さなかった。その様子は次の譲状によって察することができるのである。
拝啓青海波花入 御懇望に依り御譲申候、永く御愛蔵賜はり度、希望の至りに奉存候
東京三十四年除夜
真言寺拝具
観濤先生玉机下
嫁入はめでたけれども親心 嬉しくもあり悲しくもあり
御一笑可被下候
(注・高橋義雄著「近世道具移動史」では、「嫁入りは是非なけれども」となっている)
この青海波という花入は、高さ一尺(注・約30センチ)ほど、伝世銅の作、管耳下蕪である。全面が鮮明で、優美高尚な形式は、言語に絶するものがある。銅色も油のごとくで、古謡に「絵かげもうつるなる青海波とはこれやらん」とあるのにちなみ、誰かがこの名をつけたのだろう。とにかく、これは柴庵翁の一世一代の大獲物であった。
翁には、このほかにも四谷の道具店、黒田琢磨のところから利休丸壺という名物茶入を釣り上げるという大手柄もあった。
また、古経巻に関心を持たれてからは、扇面経やら久能寺経やらを手に入れたこともあり、晩年には、文人画の方面にも猿臂(注・えんぴ。猿のような長い腕)を伸ばして、頼山陽筆の耶馬渓詩画二幅対を獲得したこともあった。
翁は石田三成に同情したためか、その相棒であった安国寺恵瓊が所持していた直径八分(注・約2センチ)ほどの純金透かし彫りの印子(注・金塊)を数珠つなぎにした、長さ一丈(注・約3メートル)余りの鎖を買収したこともあった。これは、旧忍藩主松平忠敬子爵の所蔵品だった。
ともかく、翁の趣味は八宗兼学(注・幅広いこと)であった。広範な方面で釣り針を垂れて、根気強く獲物を釣り上げるというやり方だったので、後代の語り草になるような大収穫があったことも決して偶然ではなかったのである。
朝吹柴庵翁はあるとき私に向かって、大隈侯爵が井上世外侯爵を評して「井上はあまり学問をしたというわけでもないが、なにか事あるにあたって恐ろしい知恵の出る男である」と言われたと語ってくれたことがあったが、この世外侯爵への大隈侯爵の見立ては、そのままそっくり柴庵翁に当てはめることができると思う。
翁がどれほど奇智頓才に富んでいるかということは、ある事件に当面したときに、あっという間に名案をひねり出し、周囲の人をその奇想で感心させることが多かったことからもわかる。
一例としては、馬越化生翁が、かつて小堀遠州銘の有来という茶碗を使ったときに、有来とはどういう意味かということについて、化生翁は「有り来たり」という意味だろうと説明されたのであるが、柴庵翁は簡単には承服せず、帰宅してから沈思百端、夜更けにいたって大悟したという。その説によれば、論語のなかに、
有朋自遠方来不亦楽乎
とあるが、もともとこの「有来」という茶碗は、前田侯爵家所蔵の「楚白」という茶碗と同手のものなので、小堀遠州が楚白の茶碗の朋(注・友)と見て、論語の冒頭の一句の中から、有の字と、来の字を取り合わせて、その銘にしたのだろう、ということで、「遠州の死後に、遠州の心を知る者は、ただ自分ひとりである」と得意満面で、即刻これを茶友に宣伝し、それを聞いた者たちはその奇智に敬服したのである。
その後しばらくして、遠州が寵愛した陶器師に、有来新兵衛(注・うらいしんべえ。https://kotobank.jp/word/新兵衛-1083231#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus)という者がいて、その茶碗を所蔵したために遠州がこのよう命名したことがわかり、柴庵翁の沽券は、すこしばかり下落したのであるが、翁にはこのほかにも各種の発明があり、翁の生前は茶界が非常に賑やかであったというのは事実である。翁は、茶の世界における一種の天才であったというべきであろう。
百九
道具界の大鰐(上巻370頁)
日露戦争前後において道具買入の大手筋(注・高額購入者)になり、後年、日本屈指の大コレクターになった二大豪傑がいた。赤星弥之助氏と根津嘉一郎氏である。もっとも赤星氏は明治二十四、五(1891~2))年ごろから道具収集に着手し、根津氏が台頭してきた明治三十五、六(1902~3)ごろにはすでに大家になり道具界の大鰐魚とさえ言われていたほどなので、まず赤星氏から書き始めよう。
赤星氏は明治二十四、五年ごろから道具買収に取り掛かった。世間一般では道具購買力がひじょうに弱い頃のことだったので、前記のように大鰐の異名を取るにいたった。氏がいかにしてその軍資金を得たかというと、日清戦争の前に氏は軍艦の大砲に関するある種の専売特許を得て、これをイギリスのアームストロング社に売り込み、日本から同社に注文する大砲から一門ごとに若干の専売料を徴収した。これで当時の大砲成金となったのである。
大正中期には船成金、鉄成金、株成金といった人が続出して成金もあまり珍しくなかったが、明治二十年代においては大砲成金が唯一の成金であった。しかも道具の値段が安く、名品があちこちにごろごろ転がっていたから、氏のコレクションがすぐに旧大家を追い越すことになったのははじめからわかりきった勢いだった。
赤星氏は薩摩人で、一見するだけでは粗野で豪快な感じで道具などに趣味を持っているとは思われないような人だったが、同国出身で当時かなりの大茶人だった伊集院兼常翁などの勧誘もあったらしく、なんといっても資力が潤沢だったので、ただ大口をあけて待っていれば名器は自然に流れ込んできたので、手を濡らさずにたらふく呑み込むことができたのである。道具買入の最高の好機をつかんだ幸運児だったといえるだろう。
氏の嗜好は、いわゆる八宗兼学(注・分野を問わず多彩)で、仏画でも、古画でも、古筆でも、茶器でも、ほとんどなんでもこいだった。後年になり、氏は私たちに「おれの家には名物茶入が二十八あるよ」と、こともなげに語られたこともある。
氏は麻布鳥居坂の井上侯爵邸を買い取り、自分で大徳寺孤蓬庵の山雲床(注・さんぬんじょう。四畳半台目の茶室)の写しを作り、おりおりに茶会を催した。そこで豊富な宝庫の名器を手あたり次第に飾り立てるので、当時の東京では赤星の茶会のように立派な道具が揃っているところはなかったのである。
青磁香炉の裁判(上巻378頁)
赤星氏は背はあまり高くなかったが色黒で頑丈な体格の持ち主で、こと道具談になると、いつも相手を下に見るような、すこし憎らしいところ(原文「憎っぷりの態度」)があったので、当時、土物の鑑定においては東都紳士中のピカ一を自任していた日本郵船会社副社長の加藤正義氏と、ときどき意見が衝突することがあった。
明治三十六(1903)年に大阪平瀬家の蔵器入札があった直後に、赤星、加藤のほかに朝吹英二、山澄力蔵が私の一番町の寸松庵に集まった。茶事も終わり広間で雑談をしているとき、加藤氏が赤星氏に向かって「君はこのまえの大阪平瀬の入札で、飛青磁袴腰香炉を落札したそうだが、君、あれは二度窯であることを知っているか」と遠慮もなく言ったところ、赤星氏は鼻の先でこれをあしらい「君などに青磁のことがわかるものか、あれが二度窯であったなら、おれは君ら目前で真っ二つに打破ってお目にかけよう」と言った。すると朝吹氏が横鎗を入れ、「これはおもしろくなってきた、しからばここに控え居る山澄を審判官として、さっそく法廷を開こうではないか」と言い出した。赤星も無論承諾し、四、五日後、山澄が審判官、朝吹が立会人として赤星邸に乗り込んだ。この二度窯というのは、色が悪いとか、あるいは釉切れがあるとかいう場合に、再び窯にいれてこれを補修することで、今回の香炉もこの方法で不備な点を補ったのだというのが加藤氏の主張なのであった。
さてこの場合、非常に難しい立場に置かれたのが山澄力蔵だった。松王丸の菅秀才の首実検(注・菅原伝授手習鑑の一場面)のように、金札か、鉄札か(注・閻魔様の裁きで、善人には金札を、悪人には鉄札を渡される)、ためつすがめつ、これをねめつけた。そばにいた朝吹氏は春藤玄蕃、赤星氏は武部源蔵といった様相で、一座の緊張は極点に達した。
ややあって山澄は、「この香炉は二度窯と思われる点もないことはないが、それはこの香炉の出来上がった際に行われたもので、日本に来てから二度窯にはいったものとは思われない、どちらの言い分にも、それぞれ道理があるので、引き分けということでいいでしょう」という審判を下した。
これで命拾いした飛青磁香炉は、ようやくその身を全うすることができたが、後年行われた赤星家の蔵器入札の際に、原価とほぼ同額で誰かが落札していたので、赤星氏もさだめて地下で満足していることだろう。
百三 中上川の業績(上巻352頁)
中上川彦次郎氏が三井銀行の副長になりその手腕を振るい始めたのは、明治二十五(1992)年の初めからである。二年たって日清戦争が起こり、戦勝による景気でいろいろな計画が持ち上がった。
朝吹英二氏が整理にあたっていた鐘ヶ淵紡績の株は、一時、十円台にまで下がっていたのが、たちまち払込で五十円の倍額までに値上がりした。
渋沢子爵の手で三井に移した王子製紙会社や、三井工業部の所管になった富岡製糸場なども、それぞれ隆々たる盛況を呈しさらに規模を大きくした。
さらに、北海道の事業にも着目し北海道炭鉱会社の株式を大いに買収した。
東本願寺への百万円をはじめとする貸金についても、とうてい完全には回収することはできないだろうと思われていたものを案外すんなりと回収し終えることができたため、各地方に散在していた多数の支店を閉鎖し銀行の実力をおおいに充実させ、抵当流れの土地なども、たちまち数倍に値上がりした。
このような好都合がさらなる好都合を呼び、三井の成長の勢いは予想外に大きなものだった。神戸の小野浜で十万坪の抵当流れの一坪一円の地所が、後年に一坪百円以上に値上がりしたというような例も少なくなかった。
かくして中上川氏の画策は着々と成功し、ほとんど後光が射すような勢いだった。それが明治二十七、八(1894~5)年から三十一(1898)年いっぱいのことで、彼の業績の全盛期であった。日清戦争後、中上川氏の三井整理がうまくいったことと、戦後の景気拡大が合わさり、計画は着々と成功したため一時は全盛の極点に達した。
しかし三十二(1899)年ごろから反動が見られるようになり、やがて急転直下の苦境に陥ることになる。これは財界波乱が引き起こしたことで、まったくやむを得なかったと言わなければならない。
それ以前に、中上川氏は三井の事業統一を提唱した。それまでの三井商店は、銀行、物産、鉱山、地所、工業と、それぞれの部門に分かれ、益田孝男爵のような大人物といえども、その手腕が及ぶのは、物産もしくは鉱山という一局部に限られ、三井全体に及ぶことはなかった。それを中上川氏の入行後、各商店理事を一か所に集め、各自それぞれの議案を持ち寄り、各部の連絡を保ち、これを統一協定とすることになった。益田、中上川の両雄も毎回会議に同席して営業方針を定めたので、当分のあいだはどこにも溝はなかった。
しかし戦後膨張の反動が起こったとき、その影響は、まず物産の商売に現れた。大阪支店において原綿の暴落の損失が出ると同時に金融はますます急迫を告げた。
その救済のために、井上侯爵の口添えで九州方面に三井銀行が貸し出した金を回収しようとしたところ、たちまちにして九州炭鉱業者の不平を招いた。それは、中上川氏と井上侯爵のあいだに自然と溝ができることを意味し、そればかりか、益田氏との関係も絶頂時代のようにはいかなくなった。ここへきて中上川氏を攻撃する声が四面に湧き起こったのである。
折も折、中上川氏は三十二(1899)年ごろから腎臓病が悪くなり、機嫌も非常に悪く、ややもすると他人の感情を害するような行動も見られるようになった。
事態が重ね重ねも難局なことに加え、長崎あたりの新聞が三井に恐慌来たるといった内容を掲載したため、関西地方のひとびとが不安視し、明治二十四年の二の舞(注・取り付け騒ぎのこと)が起きそうな状況に陥ってしまった。そこで日本銀行の総裁と協議して、取り付けはほどなく鎮静化した。しかしこのような情勢では各自がその位置を守ることばかりに必死で、他者を非難するというのが人情というものである。それで内部においても、ややもすれば悪口が広がって反中上川の情勢がみなぎるようになっていた。
そんなときに、折悪しく、二六新報の三井銀行攻撃事件が突発した。この事件は、かつて三井と取引関係があった三谷三九郎という人の遺族に対し、三井の待遇が非道であるという理由で攻撃の矛先を向けたものだった。しかし三井銀行が簡単には応じなかったため、秋山定輔氏が、「将をたおさんとすれは、まず馬を射よ」の戦法をとり、三井主人の人身攻撃を始めたのである。やがてその攻撃の材料が尽きると、今度は伊藤博文公爵を動かし、伊藤公爵はさらに井上侯爵を動かして、三井と二六の仲裁談が持ち上がった。中上川氏は、ついに城下の盟をなす(注・敵に首都の城下まで攻め込まれて講和の約束をする)ような苦境に陥り、まことに気の毒な状態だった。
そのころ三井銀行で中上川氏の次官格だったのは波多野承五郎氏であったが、じっさいに各部の重役間の潤滑油になってその調和をはかる役割を果たしたのは、すでに三井工業部の理事になっていた朝吹英二氏だった。外見は磊落で無頓着のように見えるが、実は非常に敏感で苦労性なこの人は、自分が万歳(注・まんざい。基本は太夫と才蔵の二人組の芸能)の才蔵役になり、八方融和のために円転滑脱の働きをしたのである。その苦心は非常に大きなものだった。
このように、中上川は時勢が自分の不利になり、四面楚歌の中に置かれることになったが、このようなときに尻尾を巻いて逃げたり責任を他人に転嫁するような人物ではなかった。最期まで堂々とその運命を自覚し、明治三十四(1901)年十月、四十八歳にして、ついにその短い生涯を終えた。
しかし彼の没後数年での日露戦争を経て、一陽来復の景気がやってきた。彼の施策が効果を現わしはじめ、今更ながら彼の卓見に感服した人もあったのではないかと思うものの、死者の功績を回想して、これに感謝した者があったかどうか、それはわからない。しかし三井中興の基礎は、彼の三井入りから死去にいたる、この十年間に築きあげられたものなのである。彼も地下にあって、みずから慰めるところがあるのではないかと思う。
百二 大家の主人公(上巻349頁)
井上馨侯爵が三井家の家憲を制定するにあたり私たちに向かって口癖のように述べられたことを要約すると、三井のような大家の興廃は、単に一家の問題ではなく国家の利害に大きな影響があるということだった。封建時代、鎖国時代には、豪族の兼併(注・他人の土地、財産を併合すること)の弊害などという議論があったが、今日のような世界各国間の経済競争の世の中では大資本家の力で対抗するほかはない。大家は国家の機関として健全な発達を遂げてもらわなくてはならない。大家に家憲が必要なのはそのためである、というのが侯爵の論点だった。
このような見地から考えると、創業者である祖先や、国家からの信頼に対して重大な責任を背負わされる大家の主人は、世間からは栄耀であると見られ悠長なものだと思われるだろうが、じっさいにはその反対で非常にありがたくないことなのかもしれない。現今の日本の二大大家として知られている三井家、岩崎家の主人について私の知る限りでは、三井の総領家八郎右衛門男爵(注・北家10代三井高棟たかみね)は伝統的な特質を受け継ぎ芸術的才能を備えている。能楽にあってはほとんど専門家をしのぐほどであるし、絵画を試みては、その父である福翁(注・北家8代三井高福たかよし)の遺風を受け継いで四条派の絵画に巧みな才能を示し、茶事では表千家の堂奥に入り、建築、築庭についても並々ならぬ意匠の持ち主である。長兄の高朗(注・北家9代たかあき)氏の没後に三井総領家を相続した最初のころは折々に能楽などを催し同族と娯楽をともにすることもあった。しかし明治二十四(1891)年の危機に際し自らも深く考えるところがあり、家憲制定に関して主人側を代表し井上侯爵、都築男爵もしくは家憲起草者の穂積陳重男爵らとの研鑽、研究が数年間に及んだ。そしてこれを実行するにあたり、同族統率の任に当たるために自分の責任がいかに重大であるかをはっきりと自覚しそれまでの態度を大きく改めた。自分の趣味、嗜好が同族や使用人に感染する影響をおそれ、家憲擁護のために自分の享楽を犠牲にすることも辞さなかった。その後、夫人を同伴して団琢磨らとヨーロッパ諸国を巡り、そこでの大家の行儀作法などについて研究し帰国した。その後は、営業方面においては勤勉に手腕を発揮し、家庭においては家長としての模範的な行動を示した。みずから慎重に行動し、かつて批判されたような行動をつつしみ、この三十年間まったく変わらずにそれを続けたことは、三井総領家の主人が身をもって家憲励行の責任を全うしているからにほかならない。
世の中のひとびとは、ややもすれば大家の主人を見て羨望の的にするようだが、自分がその立場に立ったならば話はさほど簡単なことではないだろう。私は近くでよくそれを見てきたから、大家の主人になるのははなはだ大変なことだとひそかに敬服している次第である。
大家の主人というものが、はたで想像するような安逸悠長なものでないことの例をあげる。日本の大家の横綱として三井家と相対している岩崎家においても同じようなことが言えるのである。私が明治二十一(1888)年にアメリカ、フィラデルフィアを訪問したときのことである。岩崎久弥男爵は同地の学校に遊学中だった。それ以前、男爵の厳父である弥太郎君は、わが子の教育のために非常に厳格な方法をとっていた。男爵の少年時代には、同郷の有望な子弟といっしょに書生部屋で寝起きさせ、大家の令息的な扱いを一切しなかったそうだ。私がアメリカを去りイギリスのロンドンに滞在中、久弥男爵が来遊されたということをきき、どこのホテルに滞在されているのか問い合わせると、三菱の仕事で滞英している和田義睦氏の下宿に泊まっているということだった。ところがその下宿がいたって粗末だったらしく、ある人が岩崎男爵を訪ねたところ、男爵は南京虫に刺されて頬のあたりが腫れあがっていたそうだ。そんな話をきいたあと、ある日、日本領事館で領事の園田孝吉氏【のち男爵】と会ったときにその話になった。園田氏は非常に謙虚でまじめな人だったから粛然とした面持ちになり、そうだからこそ岩崎家は万代不易(注・いつまでも変わらない)なのだなあと大いに敬意を示していた。
私は大正の中頃に、京都祇園の杉の井旅館で故朝吹英二氏といっしょに、ちょうど入洛中(注・京都に滞在中)だった岩崎男爵とおしゃべりをしたことがある。そのとき男爵は「僕はいたって無風流で、もはや親父の逝った歳に近づいたが、これまでなんらの趣味もなく、おりおり牧畜場を見廻って、牛の成長を見守るくらいのものである」と呵々一笑(注・かかいっしょう=はははと笑う)された。男爵の無風流ぶりは男爵が言われるとおりの天性のものかもしれないが、しかし幾分かは身分を顧みて謙虚にしているためで、すすんで趣味的な娯楽に触れないようにしているようなところがあるのではなかろうかと私は朝吹翁と語り合ったものである。
かつて益田英作氏が東海道の汽車のなかで、柏木貨一郎、そして岩崎弥之助男爵と乗り合わせたことがあった。そのとき、柏木と弥之助男爵が居眠りをしていたが、片方は非常にのんきで大いびきをかいているのに、もう片方の男爵は心配ありげな顔つきで眠っていたそうだ。「僕らは金持ちの弥之助男爵よりも、貧乏な柏木のほうが、はるかに気楽なことを発見した」と益田氏は言ったものだ。これなども、大家の主人に対するひとつの見方であるかもしれない。
九十九 中上川の半面(上巻238頁)
中上川彦次郎氏はなんといっても明治中期の実業界の偉才だった。私は不思議なめぐりあわせで明治十四(1881)年十一月に初めて氏と面会して以来、時事新報で六年間、三井入りしてからも十年間、机を並べて事務を共にしたので、彼に関する思い出は非常に多い。その中で、今回は風雅的な方面のことを記すことにする。
私が明治十四年十一月に三田四国町の中上川家を訪問したときは、酒井良明氏に駄々をこねて、どうしても貰ってくれとせがみにせがんだ江川氏(注・江川常之助)の娘である新婦(注・勝)と結婚したばかりで、夫婦がお雛様のように並んでいるところは、そばで見ていてうらやましいほどだった。
その当時の中上川氏は色白の長身で、後年のように肥満していなかったから、当世風ハイカラの美丈夫だった。体格の割に声が小さく、ふだんの話し声も喃々(注・小声)として女性のようだった。
社会問題を恋愛関係の例を使ってたくみに解説する傾向があり、あるとき、私とふたりで埼玉の久喜町の演説会に呼ばれたとき、来会者の多くが小学校の教員だったのに、いつものように恋愛的な説明をふりまわした。傍聴者は煙に巻かれたようになって、不思議な演説家がいるものだと唖然とした顔になっていたのがおかしく、また気の毒だった。
氏はまた、ときどき狂歌を詠んだ。このときもまた、往々にして例の恋愛的な傾向が出てきた。一例をあげると、
名古屋の旅宿にて川島某の情妓小六に与ふ
川といふ字を横ちやうに寝かせ 二つ並べて六とよむ
米子と云う歌妓を愛する山田某に与ふ
野に山に選り食う物は多けれど 山田の米にます味ぞなき
などがある。また、三井銀行員の高野栄次郎が鰻飯の重箱を三年間毎日食い続けたと自慢するのを聞いて、
重箱を三年かじる歯の強さ さすが三井の白鼠なり
と詠んだ。これは氏の狂歌の中で、第一の傑作だろう。
氏はまた、ときどき詩を作ることもあって、明治十四(1881)年十月、官を辞めたときの作に次のような一首があった。
面壁会知可九年 此身況又髪猶玄 城南夜々無人到 灯火蒲団学座禅
これには、達磨の「面壁九年」に学んで、十年後の国会開設を待とうという含みがあり、氏の作中ではいちばんおもしろいものである。
中上川氏はユーモアとするにはすこし毒気の多い警句を吐き人を驚かす傾向があったが、ある場合には相手を必要以上に刺激して、はからずも敵を作ってしまうこともあった。
あるとき蜂須賀茂韶侯爵から招かれ、同家自慢の刀剣小道具類がところせましと並べられているのを見て、「さすがにお家柄だけに、たくさん集められましたね」と言ったのは、当家が山賊の親玉、蜂須賀小六の子孫だからだという風刺なので、侯爵は少しも意に介されなかったが、同行した者たちは内心手に汗を握ったそうだ。
また三井家において宮内大臣の土方久元伯爵を招待したときのこと、伯爵の話がたまたま家系図のことになり、「三井家は近江源氏佐々木の支流だということだが、吾輩の先祖は戦国時代に遠州(注・現在の静岡)土方村の城主だったということだ、ところで中上川君の系図は」ときかれたとき、中上川はまじめな顔をして、「私の先祖はなんでも相撲取りで、中上川といったそうであります」と言い放った。せっかくの系図談も、このひとことで腰を折られてしまったとのことである。
また中上川氏が永田町に新宅を建てられたとき、岡本貞烋氏が、ある一軸を持参し、「私はおもしろいものだと思うが、一応、朝吹に鑑定させてからお買いになったらどうですか」と言ったところ、中上川は、「骨董品を買うのは妾を置くのと同じで、他人に問うべきものではない、この掛物は、私が自分で見て、自分でよいと思うので、さっそく買うことにしましょう」と答えた。
またある人が中上川氏に対し、「あなたは非常に聡明で、八面玲瓏(注・どこから見ても無傷)で、ほとんど取りつく島がないが、水清ければ魚棲まずで、あまりに智恵づくめだと人が寄り付かないのではないか」と忠告したところ、いかにももっともだとして、例の恋愛談だけは自分の暗黒面であると言ったそうだ。人は氏を訪問して、話の種が尽きることがあれば、この方面に水を向けて取りつく島を作るのを常としていた。
氏は酒豪で、また例の恋愛談の実行者でもあったから、日本人には稀に見る体格でありながら腎臓病にかかり、働き盛りの四十八歳で早逝した。これはまことに惜しむべきことではあったが、普通の人間が七十、八十までのあいだにやるだろうという仕事を短い年月のあいだにやり遂げたのであるから、自ら振り返っても別に遺憾でもなかったのではないかと思う。
八十二
生兵法の側杖(上巻279頁)
明治二十八、九(1895~6)年ごろから私は、仕事上のことがらで朝吹柴庵【英二】とたびたび会う機会がふえた。用件以外でも、私と柴庵は、たがいに道具道楽の駆け出しの意気盛んな頃で、寄ると触わるとしまいには道具の話でしめくくるのが常だった。
柴庵はもともと頭もよく世渡りもうまい人だったので、明治十(1877)年前後に紳商のあいだで花がるた(注・花札)がはやった時には、いちはやく練習を積みたちまちその道の達人となった。今度、三井財閥の一員になってみると主人も番頭もみな美術好きである。ならばさっそくこの道を研究しなくてなるまいという気持ちも強かったのかもしれないが、とにかく熱心に道具漁りを始めた。
そういうところが私と一致し、日曜日になると本町の田澤静雲という道具屋に押しかけたりした。そこで最初に目をつけたのは応挙筆の松鶴図六枚折屏風一双だった。当時ひとりで買うにはあまりにも荷が重すぎるのでふたりで共有にしたのだが、これが偽物とわかったことがあった。だがこれですっかりへこたれるかと思いきや、ふたりともより一層熱心になっていったのである。
明治三十(1897)年ごろには、ふたりとももうひとかどの鑑定家になったつもりでいた。
さて、その二、三年前から三井鉱山会社の理事になり赤坂丹後町に住んでいた団琢磨氏【のち男爵】が、遅れ馳せながら美術に関心を持ったらしい。われわれから見れば最近田舎から出てきた後進で、美術品の鑑識にかけてはわれわれはふたりともはるかに大先輩であると信じていた。
団氏が、われわれに多少はお世辞のつもりだったのか、何かおもしろい絵画があったら僕にも知らせてほしいと言われたので、ちょうどそのころ大阪のある道具商が持ってきた宋の李迪(注・りてき)筆【だったと記憶している】の山水中鷺図の二幅対が最近ではあまり見ない珍品だということでふたりの鑑定が一致したので、これを団氏に勧めることにした。
団氏は両先輩の保証付きということで一も二もなくこれを買うことにした。ところがそれから二、三か月して大阪から続々と怪しげな宋、元の絵画が到来し、あちこちでわれわれの目に触れることになった。よくよく考えてみれば、このまえ団氏に勧めた品もやはりこの手のものなのである。柴庵と私はこっそりと顔を見合わせ非常に恐縮したものの、先輩大鑑定家としての手前、団氏に対してかくかくしかじかと打ち明けるわけにもいかないのであった。
ふたりはしっかり口をつぐみ、団氏もこのことについては一言も語らず、最近までは三人以外にこのこと知る者はなかったのであるが、柴庵翁もすでに亡くなり、団男爵も不慮の兇変にたおれ、今は私ひとりだけが残ったから、このほど団男爵に関する座談会の席ではじめてこの話を披露したところだ。狸庵(注・団琢磨)、柴庵(注・朝吹英二)の両老は、はたして地下で、どんな思いをされているだろうか。
道具の虎の巻(上巻281頁)
朝吹柴庵翁が美術鑑定において、のちのちまでの語り草になるような数々の逸話を残したことはけっして偶然ではないのである。前項に記した宋画の偽物をあっせんしてしまったことも一層の研究意欲をかきたてたのであろうか、そのころから、私をはじめとする親しい友人にも一切無言で、両国橋近くの薬研堀の一角に住んでいた小川元蔵という道具商のところに出かけて研究に励むようになった。
まるで張良が黄石公から兵書の六韜三略を伝授されたように、柴庵は元蔵から道具鑑定の虎の巻を伝授されたのである。かたや圯橋、かたや両国橋の違いはあったが、その熱心さはなんら変わるところがなかった。
この道具商の元蔵は姓を小川といい、通称は道元として知られ江戸っ子気性の強い人物だった。維新前には金座の誉田源左衛門のひいきを受けたが、その理由が普通ではない。浅草の道具市で、祥瑞沓鉢【しょんずいくつはち】の糶売(注・ちょうばい。競り売り)があったとき、売り手が五十両と言ったのを遠くから見ていた道元が、よしきたと競り落とし、やがてこれを手にすると、「なんのこんな偽物が…」と言うやいなや、大地にたたきつけて壊してしまった。それをひそかに見ていた誉田が気に入り、道元はそれから同家の出入りの道具商になったという経歴を持つのである。明治の初めには岩崎弥之助男爵の愛顧も受け、男爵は彼の鑑定を受けてから茶器を買ったので所蔵品には名品が多いと言われている。
柴庵はそのような老道具商を見込んだのである。暇さえあれば同店に入りびたり、道元の講釈をきいた。そのうえ、柴庵は友人のあいだでも有名なほど記憶力がいいので、道元からきいた講釈を後日ほうぼうの茶会で実地に応用し、しばしば友人を驚かせたものだ。
そのいちばん有名なのが、益田鈍翁【孝男爵】の茶会でのことだった。その茶会で丹波焼の茶碗を出されたとき、柴庵は一見して、これは有名な鬼ヶ城にちがいない、と鑑定した。鈍翁は非常に驚き、君はいかにしてそのようなことを知っているのかと尋ねると、これは前に道元に聴いたのであるが、丹波焼には、鬼ヶ城という頑丈な造りの名物茶碗が一点あるだけだということだったので、きっとそれに違いないと鑑定したのだ、といい、非常な名誉を博したのである。
このような類の名誉談はいまでも友人のあいだに語り伝えられているから、またのちほどに追い追い披露させてもらうことにしよう。
三十九
洋行の準備(上巻126頁)
私は新聞記者をやめて実業界に進むと決心したが、それと同時に、まず洋行したいという希望を持っていた。洋行は必要があってのことでもあった。というのは、明治初期の西洋文明輸入は洋学者の一手にになわれており、官吏の世界ではもちろんのこと、どのような分野においても、同じことを言っていても、一度洋行したことのある者でなければ人は耳を傾けなかったのである。また同じ学力で役人になったとしても、洋行者とそうでない者のあいだには月給の差が二倍あるというような時代だった。だから何をするのでも、一度洋行して箔をつけなくては始まらないのが当時の情勢で、わたしも是非とも洋行したいという希望を持ったのである。
ところがここに願ったりかなったりの機会が訪れた。親友の下村万太郎君の父、善右衛門氏が、明治十九(1886)年ごろ生糸の商売で巨額の利益を得、当時の懸案であった生糸の直輸出を計画することになり、まずアメリカの状況を視察しなくてはならないというので適当な人材を選んで派遣しようとしていたのだ。そのとき万太郎が、父に私を推薦してくれたのだ。
そのころの生糸の輸出業は維新以来すべて外国人の手に握られていた。わが国の生糸商は横浜に商館を構える外国商人に生糸を売り込むだけで、輸出に関してはすべて外国商人が行っており、日本人にとって不利益であることがだんだん明らかになっていたのである。
明治八、九(1875~6)年ごろから商権回復運動というものが起き、日本の産物を海外輸出する場合には、日本人が直接これに携わるという試みがなされたのであるが、なにかと失敗が多かった。最初に朝吹英二氏らが、大隈重信氏【のち侯爵】の大蔵卿時代に政府から資金を借り生糸の直輸出を企てたものの、時期尚早でさんざんの失敗に終わっていた。そのあとは、これを継続した日本生糸直輸出会社というところがわずかに残っているだけだった。
下村善右衛門氏が、今回、生糸の直輸出を企てたのも、このような欠陥を補うためのもので、私はその直輸出の事業視察使として渡米の相談を受けたのである。むろんのこと二つ返事で快諾し、福澤先生にそのことを話すと、先生は、私を新聞記者としてとどめおきたい気持ちと、下村の資力が目的を達するまでもつのかどうかを心配する気持ちから、簡単には承諾していただけなかった。だが、私があまりに熱心で矢も楯もたまらないという様子なのを見て、とうとう許可してくれた。
それで、明治二十(1887)年五月、私は時事新報社を退職した。渡米に先立って日本の生糸生産地を視察するため、群馬の前橋、富岡をはじめとして信州の上田、松本、諏訪などの製糸工場を訪問し、さらに横浜の生糸取引の実況も視察した。九月中旬に一応の調査を終え、同月末に、おおいなる希望を抱いて当時アメリカに就航していた3500トンの汽船、ゲ―リック号で渡米の途についたのである。
在米の本邦人(上巻128頁)
私が明治二十(1887)年九月末にゲ―リック号で渡米したときの同船者には、印刷局長の得能通昌、同技師の大山某、在英日本公使館書記官の鍋島桂次郎(原文「銈次郎」)、寺島誠一郎【寺島宗則伯爵の長男でのちに伯爵をつぎ貴族院議員】、副島道正【副島種臣伯爵の長男でのち伯爵をつぐ】、徳大寺公弘【徳大寺実則公爵の長男でのち公爵をつぐ】、など十余名だった。
私は生糸直輸出業を視察するのに先立ちアメリカの商習慣を調査する必要があると思い、まずアメリカの商業学校にはいり、その原則を研究するのが早道だと思った。そこでニューヨークから七十マイル(注・一マイルは約1.6キロ)はなれた、ハドソン河上流のポキプシーというところにある、イーストマン商業学校に入学し、翌年三月ごろまで同地に滞在し、同月同校を卒業した。そしてニューヨークにうつり、いよいよアメリカの商業の状況を視察することになった。
当時アメリカに滞在していた日本人には、ポキプシーに、川崎金太郎【のちに八右衛門】、大三輪奈良太郎【のち名古屋明治銀行頭取】、福澤一太郎【のち慶應義塾塾頭】などがいた。ニューヨークには正金銀行に山川勇木【のち正金銀行取締役】がおり、印刷業視察の星野錫、森村組の村井安固、生糸貿易商会の新井領一郎氏などがいた。またフィラデルフィアには、留学中の岩崎久弥、福澤捨次郎、福澤桃介らがおり、ワシントンには、当時日本政府から圧迫を受けて渡米中だった馬場辰猪氏がおられ、日本公使館には、海軍武官として斎藤実【のち子爵、総理大臣】が滞在しておられた。斎藤氏は当時、美青年将校だったので、ワシントンのモガたちのあこがれの的で、同地の交際場の裏の花形だという評判も耳にした。
なおそのときには、日本から同船した得能通昌氏が、当地において造幣事務の調査中だったから、氏に日々随行して、私の視察のうえでも大きな便宜を得たことは好都合であった。
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三十四 明治十年代の新橋(下)(上巻109頁)
明治十年代の新橋は芸妓の数も非常に少なかったし待合の料理も粗末なもので、今日とはくらべものにならない。東京の料理屋といえば、昔のなごりで山谷の八百善、浜町の常盤屋などの名前が挙がり、新橋方面にはこれと肩を並べるものはなかったが、客層はだいたいが知識階級で、その遊蕩ぶりにもなんとなく雅趣があり後日の語り草になるようなことも多かった。
そのような噂のタネになるのは、まず朝吹君で、そのころお里というかわいい子(原文「婀娜者」)にぞっこん入れ込んでいたのに、そのお里が、いつのまにか別の愛人のもとに走ったという事件が発生した。そのとき、萩の本の阿仁丸君は失望落胆のあまり、
おさと【お砂糖】なくてお萩【あだ名】やい【焼い】て悔い【食い】
と吐き出したが、当時、これはうまいと評判になった。(注・「お萩」、「阿仁丸」というあだ名については、25を参照のこと)
もともと阿仁丸君は世話ずきで非常に親切だったので、廓の金には困っても親しい友人に対してはいつでも助け船の船頭役をつとめる性分だった。なかでもいちばんおもしろかったのは、長崎出身の秀才で美青年の笠野吉次郎氏が、阿仁丸君とは反対に美男なるがゆえに、ちょくちょく女難の祟りをうけ、夫婦の契りからも間もない阿久里という美人を振って、朝蝶という新愛人を作ったときのことだった。阿久里は激怒し、とうとう別れ話になった。そのときに、阿仁丸、犬養の両人が仲裁役になり、手切れ金の話し合いになった。笠野からは二百円を出させ、阿久里には半分の百円を渡した。残りの百円は小さなブリキ製の金庫にいれて、笠野がいないときに阿仁丸みずから笠野夫人に面会し、「この金庫には、僕と犬養とご主人の三人の身の上にかかわる秘密書類がはいっていて、僕らの家に置いておけず、げんをかついでご主人にも知らせずに、奥さんにお預けする次第なので、どうか秘密を守って保管してほしい、しかし後日、ご主人の身の上に何か困ったことがおきたとき、このなかの書類が物を言うから、そのときはじめてご主人に打ち明けて、この玉手箱を開けるように」と言い置き立ち去った。さてその後ほどなく、遊蕩の報いがめぐりめぐって笠野が困り果てていたときに、夫人がこのことを思い出して、朝吹さんから預かった秘密箱は、まさかのときに開けるように言われていたので今あけてみましょう、と言って箱をあけてみると、なんと当時では大金だった百円札が目の前に現れたので、夫婦は喜びに喜び深い友情に感涙を流したという悲劇とも喜劇ともつかぬ話である。
このころの新橋花月楼は平岡広高が経営者で、年が若いうえに自分自身も道楽者でいつも貧乏神にとりつかれていたから、妻のお蝶にも新橋で二度の勤めをさせるということがあった。しかし、女房がいなくては茶屋の営業も成り立たないだろうと阿仁丸君が同情し、それに馬越、犬養も同調して、とうとうお蝶をもとの花月楼に返らせたことがあった。その日、店先から大声で、「お蝶はおるか、モロ高はおるか」と呼びつつ飛び込んできたのが阿仁丸君だった。これは例のそそっかしやで、平岡の名の広高を、モロ高と間違えていたのである。それが悪友のあいだで大評判になり、このときから花月楼主人は、ヒロ高【拾ったか】モロ高【貰うたか】(注・貰ったか)と呼ぶようになったというおかしな話もある。
また阿仁丸君が自分の貧乏もかえりみず道楽仲間を援助するので、悪徳新聞記者がそれにつけこみ、朝吹は、貿易商会(注・25を参照のこと)の多額の金を隠匿しているのだろうと恐喝し、口止め金を出せと言って押しかけてきたとき、商会の荒川新十郎氏が憤慨して抗弁しようとしたところ、阿仁丸君はそれを制止し、君らは考えがまだ青臭い、僕が金をかくしていると言われれば、人も安心して金を貸してくれるから、ここは黙って逆に宣伝してもらったほうがいい、と平然として、いっこうに取り合わなかったそうだ。
そのころは今日とは違い、花柳社会に出入りする者のなかには脱線者も多かったので数々の奇談が残っているが、そういうことを思い出すとなんとなく昔が恋しくなるような心地もする。
二十六 粗忽者の隊長(上巻84頁)
朝吹英二の粗忽(注・おっちょこちょい)ぶりは、私が初めて出会った明治十五(1882)年にもすでに見えていたが、のちのちまでやわらぐことはなく、いつも逸話の種をまきちらしていた。なかでも横浜の貿易商会時代に、道楽者の両雄だった馬越恭平氏を日本橋茅場町の三井物産会社に訪問した時の話がおもしろい。二階の座敷でしばらく座っているとき、なんとなく尻のあたりが痛いと言い出して振り返ってみると、それがなんと下駄をはいたまま座っていたという。いくら懇意の仲とはいえ、これには朝吹氏も赤面して言葉が出なかったそうだ。
また貿易商会にいたころのことだったが、眼鏡をなくしたといって、給仕(注・雑用係)に探させ、いつまでたっても見つからないので激しく叱りつけたとたん、給仕が「お眼鏡は、貴方のお手に持っていらっしゃいます」と気づいて言ったので、「それなら、なぜ早くそれを知らせぬか」と叱りつけたというおかしな話もある。
またあるときは、東京帝大の舎監(注・寄宿舎の監督者)をしていた清水彦五郎氏を小石川の私邸に訪問したとき、取次の女中にきくと、主人はただいま留守だが、もうすぐ帰宅するはずだというので、ではごめん、と座敷に上がり、真夏だったので丸裸になり、うちわや氷水を持ってこいと横柄に注文するので、女中は、主人とはさぞかし親しい仲に違いないと思い、煙に巻かれたような気持ちで言われるままにもてなしていたのだそうだ。ところが朝吹氏が裸のままで大の字になっているところへ、この家の夫人が出てきてばかにていねいに挨拶をする。その様子がどうもおかしいと思い、朝吹氏が、こちらは清水さんのお宅ですね、と尋ねると、夫人は微笑しながら「いや清水さんならばここから五軒目のお宅です」と言われたので、氏は脱ぎ捨てた着物をかかえて一目散に表に飛び出したという曾我廼家(注・曾我廼家五郎などの喜劇役者)はだしの珍談もあるらしい。
またもっともふるっているのは次の話だ。朝吹氏の留守中に、氏のある友人が、その転居先を知らせにきて、牛込の何番地と書いた名刺を置いていった。その後二、三日して、朝吹氏がその友人を訪ねようと朝早く人力車に乗り、牛込だぞ、と言い渡した。車夫は牛込に着くと、大きな門構えの屋敷にはいり玄関前で梶棒をおろした。朝吹氏は取次の女中に名刺を渡し、かねてからの親しいあいだがらなので遠慮もせずに応接室に上がり込んでいた。そこへ、寝ているところを起こされたその家の主人が、顔も洗っていないままの様子で出てきて、片手に持った名刺と朝吹氏の顔を交互に眺めながら、「やあ君は朝吹君じゃないか、いつのまにこんな名前になったのか」と尋ねる。氏はなんのことかわからず「いや僕は改名した覚えはない、なぜ君はそんなことを言うか」と聞き返す。「でも君の名刺はこれだよ」と差し出された名刺を見ると、今朝訪問しようとしていた友人が自分の留守中に置いていった名刺だ。さすがの朝吹氏も非常に困り、照れ隠しに「ところで奥さんは、ちかごろ、ごきげんいかがですか」とその場を取り繕ったところ、主人は微苦笑して「先日、愚妻の葬式に、君はわざわざ会葬してくれたではないか」と言われたので、重ね重ねの失敗に、あいさつもそこそこに玄関へ飛んでいき、人力車に乗るなり車夫に向かって「ばかものめ、行先を間違えるやつがあるか」と怒鳴りつけた。ところがまだ半町もいかないうちに「こら待て、忘れ物をしたから後戻りせよ」と命じ、再びもとの玄関に引き返す。女中たちが、さっきのそそっかしい珍客の話でまだ盛り上がっているのに見向きもせず、いきなり玄関に飛び上がって置き忘れた帽子をかぶるなり、さっさっと人力車に飛び乗りながら「おい、今度は間違わぬようにせよ」と号令をかけたそうだ。これが「朝吹さんの門違い」といって、当時大評判になった珍談である。
このように朝吹氏は、当時ダントツの粗忽隊長だったが、その後、私たちと三井に勤めていたころにも、またその後隠退して茶事の風流に親しんでいたころにも、さまざまな奇談珍談を残した。そのことについては、またのちに述べることにしよう。
二十五 道楽者の親玉(上巻81頁)
私は、時事新報記者となった明治十五(1882)年の十一月、同社の先輩記者で、福澤先生の秘書と交詢社の幹事を兼務していた岡本貞烋氏に連れられて初めて横浜に出かけ、「貿易商会」の朝吹英二氏を訪問した。
そのころより以前の日本の生糸輸出貿易は横浜居留の外国人に独占され、日本人には取り扱いの機関がないため、外国商人は日本人を見下し、取引のうえでも非常に横暴をきわめていた。そのことを憤慨するひとびとが、ここに商権回復運動という運動を始め、大隈大蔵卿を説きふせ、まず国庫から二十万円を借り受けた。そして岩崎弥太郎氏も八万円を出資し、朝吹氏を会長とする貿易商会が成立することになった。
しかしながら、外国商人らは連合して商会の取引をできる限り妨害しようとしたし、商会のほうも全員が経験のない者(原文「無経験の書生」)ばかりだったうえ、当時ドル相場の変動が激しく、営業するのには非常な困難がともなった。またそうしたことに加えて、明治十四(1881)年に大隈大蔵卿が辞任したため、商会の営業はほとんど完全に行き詰まってしまった。
そのため氏は当時、首も回らぬ借金の時代だったのだが、私たちを横浜にある千歳楼に招待し、おおぜいの芸者を呼んでの大尽遊びの一幕を展開した。
このとき氏はまだ三十四歳の血気盛りで、おおいに粋人ぶりを発揮し、だみ声を張り上げ、お得意の新内節「蘭蝶」の蘭蝶物狂いの、「ソリャ誰ゆゑぞへこなさんゆゑ」の一節を唸るのだった。もともとこうしたことに不慣れだった私は、なんと不思議な光景だろうと目をみはったものだが、今思えば、これが朝吹氏生涯中いちばん貧乏でいちばん豪快な時代だったのではないだろうか。
横浜の貿易商会時代に、借金王、兼、道楽王とうたわれた朝吹英二氏であったが、氏はまた一方で「お萩」と呼ばれていた。それは氏の顔面が、あばたでおおわれており、花がるたの萩の絵に似ているから、ということでついたあだ名だろう。それで、本人もまた、俳名を「萩の本の阿仁丸」と名乗ったのは、その花札の萩の絵の下のほうに猪がいるのを「柿の本の人丸(注・原文通り)」にかけてつくった呼び名だった。
当時は花札が大流行していて、花を引かなくては紳商(注・一流の商人)のあいだの交際ができない時代だった。器用で根気強い朝吹氏は、たちまち花札の腕前も上達した。それまでの花札は二組とも裏が黒かったのを、片方を黒に、もう片方を赤にして、ふたつがまじってしまうのを防ぐことにしたのは、実は阿仁丸先生の大発明なのである。
このようなありさまだったので、当時の朝吹氏の道楽ぶりは、新聞の三面記事をにぎわした。なかでもいちばんふるっているのは、中上川彦次郎氏の令妹である澄子夫人と男女ふたりの子供を自宅に放りっぱなしにして、茶屋待合(注・芸妓をよんで遊行する座敷)にいりびたっていたので、ときには三、四か月も帰宅しないことがあり、令嬢の福子さんが父親の顔を忘れて、たまに帰宅したときに顔を見て泣き出した、というものだった。
またあるとき、玄関から、「奥さんはうちにいるか」と大声で呼びながら座敷にはいってきた朝吹氏を見た女中がびっくりして、「奥様奥様たいへんですよ、変な男が案内もなしにあがってきましたよ」と叫んだので、なにごとかと夫人が駆けつけると、ほかでもない、久しぶりに帰宅した主人だったので、夫人は怒るかわりに笑い出してしまったというエピソードもある。
またそのころ、浅草観音の裏手に、釣堀という待合があり、吉原通いの朝吹氏が、ときどき泊まることがあった。ある晩、吉原の芸妓で、おちゃらという名の、これまた朝吹氏と同様のあばた面だった人と朝吹氏が釣堀に同宿したときのことだ。当時「警八風(けいはちかぜ)」といって、待合茶屋を吹き荒らしていた風俗とりしまりの係がいたのだが、それが襲来したという警報があった。そのとき朝吹氏は、窮余の一策で、とうとう風呂場に飛び込み真っ裸になって雑巾がけをしているところに警官が現れた。貴様は何者だ、と警官に尋ねられ、「私はこの家の権助(注・下働きの下男のこと)であります」と答えた氏の顔をつくづくと見た警官は、なるほどと納得して、氏はピンチをきりぬけたそうである。これは、わがあばた面のおかげなり、という朝吹氏ご自慢のひとつばなし(注・何度も同じ話を人にきかせること)だった。
朝吹氏がかつて三菱会社に奉公していたころ、岩崎弥之助氏【のちに男爵】といちばんの懇意だったので、弥之助氏は、朝吹氏のあまりの道楽ぶりを耳にし、親切にも、すこし差し控えたほうがいいだろうと忠告した。朝吹氏も、以後かならず慎みます、と返事をしたのだが、その同じ日の晩に、弥之助氏がある料理屋に出かけると、廊下でばったり出会ったのが、ほかならぬ朝吹氏だったものだから、忠告したほうもきまりが悪く、忠告されたほうも恐縮して、やあやあ、と言い合っただけで黙りこくってしまったという一幕もあったそうだ。これなどは、当時の廊下鳶(注・ろうかとんび。妓楼などで廊下をうろうろする客のこと)のあいだでは有名な話であった。
朝吹氏の道楽については、ほかにもたくさんおもしろい逸話があるが、私はこの天真爛漫、愛嬌たっぷりの道楽ぶりを見て、もしこの人にありあまる金を持たせたら、さぞおもしろいことをするだろうと思ったものだ。だが後年、朝吹氏が相当の資産家となってみれば、それが思ったほどでもなかったので、人間というものは、年が若くて貧乏でそれで道楽するときが、いちばんおもしろいものだと知ったのであった。