だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十四  隅田公園記念碑(下巻533頁)

 大正の癸亥(注・みずのとい=大正12年、1923年)の大震火災後に様々な場所で行われた復興事業により、世の中はまさに激変(原文「滄桑の変を出現」)した。
 向島の隅田公園など、その一番の例だといえよう。同公園の大部分は旧水戸徳川家の下屋敷、すなわち小梅邸であった。この地はそのむかし木母寺(注・もくぼじ)という寺があった場所で、また嬉森という大木の林もあったなど、昔からいろいろな歴史的由緒がある。
 私は大正の初年からその嬉森跡の椎林の中に嬉森庵という茶室を設計し、しばしば茶会を催してきたという縁故もあったので、この公園の過去の歴史がまったく忘れられてしまうことを残念に思うので、水戸徳川家で大正初年に編集された「梅邸史」の大要をここに摘録して、後日のために残そうと思う。(注・現代文になおした)

  〇維新前の小梅邸
 小梅邸の所在地は、もと西葛西小梅村といった。五代将軍常憲公(注・徳川綱吉)の時代の元禄六(1693)年癸酉(注・みずのととり)八月五日に、この地は、わが(注・水戸藩の)三代藩主、粛公(注・徳川綱條つなえだ)に下賜された。以来、水戸藩下屋敷となり、代々の藩公がここで鷹狩りを催した。
 藤田東湖が幕命によって幽閉されたのは、この邸内である。弘化二(1845)年二月に小石川邸からここに移され、ここで「常陸帯」を執筆し、「正気の歌」の詩を作ったのである。翌三年丙午(注・ひのえうま)十二月、東湖は蟄居を解かれ、遠慮(注・謹慎)小普請組となり、水戸に移される。

  〇維新後の小梅邸
 明治四(1871)年辛未(注・かのとひつじ)七月十四日に廃藩置県の令が出ると、わが(注・水戸藩の)十一代節公(注・徳川昭武)は、その翌日にここに転居した。
 その後、定公(注・水戸徳川家12代徳川篤敬あつよし)はイタリア風を採用して洋館を建設し、明治三十(1897)年に落成した。
 ところが、土地が低くしばしば洪水が起こるので、土を盛って屋敷も新築する必要が出てきた。そこで、当公(注・当代の当主である13代圀順くにゆき)の時代の明治四十五(1912)年五月に、それに着手し、大正二(1913)年九月に竣工した。今の日本館がそれにあたる。

 江東の周辺は、田畑が市街に変化してゆく時期にあたっており、(注・徳川邸においても)明治四十(1907)年から、邸内の田畑、鴨堀などを埋めて市街地として整備を行った。広さは一万坪余り、戸数は五百戸余り。

  〇歴代藩主ならびに夫人の廟所
 歴代の藩公、藩公夫人の尊霊を奉祀した御廟は、旧水戸藩城の中にあったものをここに移し、規模を四分の一に縮小して再建された。明治三十三(1900)年九月九日に落成した。
 廟の前にある、文明夫人(注・水戸藩9代藩主徳川斉昭の夫人)による御碑は、もと駒籠(注・未詳。駒込別邸?)の庭内にあったものを、ここに移して建てられたものである。

  〇明治八年以降の行幸、行啓
 明治八(1875)年から明治二十九(1896)年までに、前後六回、行幸啓を仰ぎ奉る光栄を得た。
 明治八年四月四日、桜の花が咲き始めたころ、明治天皇が特別に御臨幸あらせられ、次のような勅語を賜る。
 「朕親臨シテ、光圀斉昭等ノ遺書ヲ観テ、其功業ヲ思フ、汝昭武遺志ヲ継ギ、其能ク益勉励セヨ」
 同時に、御製一首を賜る。


  花くはし桜もあれと此やとの 代々のこころを我はとひけり

 明治十五(1882)年十一月二十一日、同十六年六月三日には、天皇陛下が親しく臨幸あらせられ、隅田川における海軍端艇競漕(注・ボートレース)を御覧ぜさせ給う。
 同十七年四月二日には、天皇皇后両陛下の行幸啓を仰ぎ奉り、同二十五年六月九日には、皇后陛下、皇太子殿下の行啓を拝し、同二十九年十二月十八日には、再度、天皇陛下の行幸を仰ぎ奉る機会を得た。このどちらも隅田川での海軍端艇競漕を御覧になった。」

 前述したとおり、隅田川公園は歴史的な由緒のある場所であるが、関東大震火災のとき、徳川邸が土蔵一戸のほかは、すべて烏有に帰してしまった。復興局では、この一万坪余りの土地を徳川家から買い取り、その他、付近の地所と合わせて新しく隅田公園を作ったのである。

 水戸家ではこのとき、明治八(1895)年の明治大帝の御臨幸の際、当主に陛下から下賜された御製の記念碑を建設することが決まり、当主の圀順公が碑面に御製を謹書し、背面にその事由を記して、これを後世に伝えることにした。今後、当園に足を運ぶ人は、この石碑によって、今昔を追懐することができるであろう。



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百六十九 石黒子(爵)談片(下巻76頁)

 子爵、石黒忠悳(注・ただのり)翁は、明治、大正、昭和の三朝歴事(注・三代の主君に仕えた)の長老である。
 日清戦争のときの陸軍軍医総監として、広島の行在所(注・あんざいしょ。天皇の外出時の仮御所)で奉仕した経歴も持つ。明治天皇陛下の御逸事に関して、翁ほど資料を持っている人はいないのではないかと思う。
 あるとき翁は次のようなことを語られた。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
 「明治天皇陛下の御倹徳については、さまざまの美談がある中に、天皇崩御後、森林太郎(注・鷗外)氏が御所(の)衛生のことを担任して、御座所の跡片付けをなしたので、自分は森氏に依頼して、御学問所の欄間の紙と襖の腰張とを、少々頂戴したのである。頂戴といっても、もとより伺い出でたわけではなく、ただお取り捨てになるべき廃物を、係の者より手に入れたまでであった。聞くところによると、御座所の欄間は、皇居御造営後、ただ一度御張替えになったのみだということで、年経るままに真っ黒く煤けているので、係の者より時々張替えのことを伺い出づれば、陛下はいつでも、それには及ばぬとのみ仰せられて、長年張り替えなかったのであるそうだ。さて大正二年には自分も古稀になったので、亡父が出張中に自分の誕生した福島県伊達郡柳川村に罷り越し、いささか懐旧の情を慰めたついでに、土地の父老を集めて一場の講話を試みた。その講話前において、同村の小学校を訪いたる帰途、その村中で一番貧乏なる百姓家というのをたずねて、その障子の一小間を切り抜き、張替料にとて二十銭銀貨を与えて持ち帰り、その百姓家の障子紙と、かねて持参した、かの御学問所のとを比較するに、百姓家のほうがむしろ綺麗であったから、今さらながら恐れ入り、講話中、このふたつの紙を取り出して、これを来会の父老に示しつつ、陛下が世界第一御倹徳の帝にましますことを物語り、独逸(注・ドイツ)では帝室費として、一年に一千八百万円を計上され、その他欧州諸国の君主は、みな巨額の帝室費を消費しているのに、わが帝室費の年額は、僅々四百万円である、しかして国民が水火難災厄の場合に、恩賜せらるる金額は、かえって欧州の帝室に勝っているのは、畢竟、陛下が親から倹徳を守らせ給うおかげであるから、国民は肝に銘じて、その御恩徳を忘れてはならぬと述べたところが、父老の中には、声を放って泣き出した者もあった云々。」

石黒翁の談話中には、さらに次のような一節もあった。

 「日清戦争中、広島行在所において、旧八月十五夜の晩、自分が御前に伺候したところが、天皇陛下には至極の御機嫌で、自分に向かわせられ、今夜は十五夜であるが、十五夜に月を見るの法を知っているかと仰せられたので、自分はこれという思いつきもなく、御所においては高殿にのぼるか、または窓など開き給いて、御覧遊ばされ候にやと申し上げたるに、陛下は微笑を含ませられて、イヤイヤ月を見るには、苧殻(注・おがら。皮をはぎ取った麻の茎。盂蘭盆(うらぼん)の迎え火・送り火にたき、供え物に添える箸にする)にて茄子をえぐり抜き、その穴より見るものであると仰せられたれば、自分は陛下が御戯れに斯様(注・かよう)のことを仰せられたのだと思い、やがて御前を退下するや、その足にて有栖川大宮殿下(注・日清戦争中に広島大本営にいたのは参謀総長の熾仁(たるひと)親王)を訪い参らせしに、またまた月見の話が出て、ただいま陛下がかくかくと仰せられましたと申し上げたところが、殿下は打首肯せ給いて(注・うなずかれて)それはいかにもその通りである、堂上(注・公家)にては、茄子の穴より月を見るのがならいにて、十五歳にて元服する者は、その茄子の穴より月を見ているあいだに、袖を切り詰めるのが、旧来の慣例なりと仰せられたので、自分は初めて雲上方の月見の故実を承知したのである云々」

石黒況翁は官民の各方面での経歴豊富で、茶道においては、明治初年の茶道復興の黎明期から関与していた先達なので、この方面に関するエピソードは際限なくあるが、それらについては後段に譲ることにする。翁は談論の名手で、ふつうの世間話でもウイット(原文「ウエット」)に富み、ユーモアに長じ、私の記憶の残っているものの中にも、おもしろい談片は少なくない。次のような笑い話もあった。
 「先日明治四十五年、桂公爵の西伯利亜(注・シベリア)経由でヨーロッパ行きしたとき、桂公爵を見送るために新橋ステーションに出かけたら、ある人が、山県公爵は最近とても痩せられそうだから、元老は「ダシ」に使われるから、鰹節のように削られて、痩せてしまうのだと言ったら、その人が目の前に立っている桂公爵を指して、桂公爵は元老でも、あの通り太っているではないかと言うから、桂公爵も「ダシ」に使われるが、アレは昆布ダシだから、煮出されるほど、ますます太るのだよと言ったが、どうだねアハハハハ。」


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百六十七  乃木大将の殉死(下巻69頁)

 大正元(1912)年九月十三日、御大葬の御見送りのため私は帝国劇場前に出かけた。
 午後八時半ごろに、霊轜(注・れいじ。霊柩車のこと)の御通過を拝観したが、土佐絵の絵巻物に出てくるような装飾した牛がひいていく御轜車の哀しい音と、先頭の笙(注・しょう)、篳篥(注・ひちりき。縦笛)の響きが相和して、言いようもない神々しい光景であった。私は感動のあまり、

   御者の牛のあゆみもなほ早き 心地せられぬ今日の御幸は

   今はとて涙ぬぐひて見おくれば 大御車ぞ遠ざかりゆく

と口ずさんだ。
 帰宅してから、一晩ほとんど眠ることもできなかった十四日早朝、まだ布団から出てもいないころ、新聞の号外があわただしく昨夜の乃木大将夫妻の自刃を報じた。取るものも取り合えず読んでみると、

   うつし世を神去りましゝ大君のみとしたひて吾はゆくなり

という辞世が載せてあったので、まぎれもなく殉死であることがわかったものの、いわゆる晴天の霹靂の思いがけない出来事であった。私は茫然自失し、ほとんど言うべき言葉が見つからなかった。
 その後新聞紙上に発表された諸大家の感想は後日のように一定したものではなく、東京朝日新聞などは、「大将の行為は、常軌を逸したる者なれば、武人の道徳は別として、一般の道徳に於て、其人に同情するの余り、一概に之を賞讃して、後世を誤る可らず」という一説を載せていた。
  一方、万朝報の黒岩周六氏は、乃木大将を楠木正成公に比して、「楠公も大将も、ともに死なんとして死したもので、その死は生よりも貴く、遺烈を千載に留めたり」と論じ、その結末には、

   今まではすぐれし人と思ひしに 人とうまれし神にぞありける

という一首を付け加えてあった。
 大将の殉死についての所見は、日本人のあいだですら以上のようにまちまちだったのだから、西洋諸国の人々では、かりにおざなりに賞讃する人があったとしても、彼らの道徳観念においてこの事件を理解することができなかったのはまったく無理もないことだった。
 ロンドン・タイムズの東洋部長であったチロール氏(注・Valentine Chirol 18521929)が大将殉死の翌日にタイムズに寄せた一文には、「私は乃木大将とその夫人の最期について、東西の思想上に深いみぞがあるのを発見し、古い記憶を思い出さざるを得ない。十五年前、ロンドン駐在のシナ公使の羅豊禄が、シナ人としてはまれに見る欧化主義者でありながら、彼が不治の病にかかった時、シナの医師に呪文を唱えさせて、祈祷のための灰を五体に振りかけさせたのを見て、私は東洋人の心理を理解することができなかったが、今回のことも同様である」という一節があった。この見解は、ただチロール氏だけでなく、欧米人ならばきっと同じように持つものだろう。(注・瞥見では、日本在住の親日家の記者ブリンクリーが「古風な武士道精神の復興」とタイムズ916日号に書いた)
 このようなわけで、九月十四日の早朝に、乃木大将の思いがけない殉死の報を耳にした一般国民は、驚くやら戸惑うやらで、このことに対しての決定的な観念を持つまでには、いろいろと思いを巡らしたようだった。なかには、最初にこの報を聞いた時には、あまりに過激な行為なので、これが欧米各国に伝わったらどのような反応になって現れるだろうかという不安を抱いた者もあったようだ。

 また大将は旅順で二児を戦死の犠牲で失い、今では学習院在学中の三人の皇子とともに華族の子弟を預かり教育の任に当たっているという大切な立場の人間である。当然のごとく、余生を国家に尽くすべきはずなのに、その生を捨てて死を選んだのははなはだ遺憾であるという意見もあったようだ。
 また一方では、この行動によって日本国民がいかに忠君の一義において熱狂的であるかということを各国の人が知り、彼らを心底震えあがらせ、彼らは今後日本人に畏敬の気持ちを持つようになるだろうと見る者もあった。
 さて私はある日、犬養毅氏と話しているときこの話題になった。同氏の説は次のようなものであった。(注・わかりやすい表現にあらためた)
 「余は西南戦争のとき、新聞通信班として九州に出張し、乃木大将と知り合い、詩作を見せ合ったこともある。大将が、かの軍旗をなくしてしまったという苦戦の状況についても余はよく知っているが、あれはやむを得ない出来事だった。わずか百人ばかりの小倉兵が、賊軍の主力軍に遭遇して、旗手も戦死し、旗を奪われてしまったのだ。これは大将の責任として、それほどには重大なことではなかったのに、謹厳な大将のことで、ずっと気ににしていたようだ。そして、今回の殉死は、乃木大将だから意義のあることで、もちろん他人が真似するべきことではない。坂井虎山が、赤穂四十七士を詠じた詩に、
    
     
若使無茲事
     臣節何以立
     若常有茲事
     終将無王法
     王法不可廃
     臣節不可巳 
     茫々天地古今間
     茲事独許赤城士

(注・この詩は、「臣節」「王法」とはなんであるかを赤穂浪士は示したとして、作者は評価している)

とあるが、この最後の句の赤城士を乃木将軍とすれば、この詩が今回の大将の行為に対する適評になるだろう」
と言われた。私は犬養説が、大将の殉死に対する決定案(原文「鉄案」)として、動かしがたいものだと信じる。


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百六十三  明治天皇御宸翰(上)(下巻56頁)


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 明治天皇陛下は、御書道についてはふだんからお考えががあったようで、あまり多くの御宸翰(注・天皇の直筆の文書)を残されることがなかった。
 私は明治四十四(1911)年、大正天皇陛下がまだ皇太子にましまして北海道を御見学になったとき、その下検分のために王子製紙会社の苫小牧工場に来臨された子爵藤波言忠氏と一晩ゆるゆると清談を交わした。そのときに子爵が明治天皇陛下から特別に御短冊を賜ったときのことをきかせてもらい、いつかそれを見せていただく約束をした。
 その後子爵は明治天皇御記(注・明治天皇紀」のこと)編纂事業に関与し、大正六(1917)年四月七日、向島の水戸邸を訪問され、かの「花くはし」の御短冊(注・明治8年に徳川昭武邸を訪問したときの「花くはし桜もあれどこの宿のよよの心を我はとひけり」の短冊。116「明治大帝御製」を参照のこと。)を拝見して、宸筆であることは間違いないだけでなく、特にすばらしい出来栄えのものだと讃嘆された。
  その翌日の午後、私は麻布飯倉の子爵邸を訪問し、以前からの約束もあるのでご所蔵の御宸筆を拝見したいと申し入れたところ、子爵は非常に気の毒がり、御宸筆は万一の危険をおそれて他の安全な倉庫に預けてあるので今日お見せすることができないということだった。しかし子爵は、この御宸筆を賜ったいきさつをさらに詳しく話してくださったので、すこし時間的には先になるが、その話の大要をここに披露することにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
 「自分は広橋胤安の子で、祖父を広橋大納言光成といったが、やや長じて藤波家を相続することになり、明治元年、賢所付きとして京都より東京に移り、同六年明治天皇の御学友に召し出され、爾来、宮内省の諸職に歴任して、ことのほか御寵遇を蒙り、御内儀にも出入りする身分となった。かつて聞くところによれば、亡父胤安は有栖川流の書道を究め、孝明天皇の御命により有栖川幟仁(注・たかひと)親王が明治天皇の御書道教育の任に当たられたころ、父は親王の仰せを受けて、明治天皇の御手を取りて、以呂波を御手ほどき申し上げたことがあるというので、あるとき自分は陛下に対して、このことを伺い出でたるに、朕は自らこれを記憶せざれども、中山一位局(注・明治天皇の生母、中川慶子)などより、たしかにさることありと聞き伝えていると仰せられたので、明治十年ごろであったが、ある夜陛下が、表御所において御酒宴の席上、御機嫌ことにうるわしかったので、自分は再びこのことを申し出でて、父が以呂波を御手ほどき申し上げたる御縁もあれば、何にても一筆書き下し賜われかしと願い上げたるところが、陛下は暫時御考え遊ばされたのち、はや御製のできあがりたりとおぼしく、さらば書きて遣わすべしと仰せられたので、とりあえず女官に短冊を乞いしに、これを預かる者が、既に御局に下がったというので、やむなく皇后陛下の御座所にまかり出で、一枚の短冊を拝領して、有り合う硯箱とともに、陛下の御前に差し出せば、陛下は筆取り上げて、左の御製を物し賜うた。

   かけ渡す板間も広き橋の上に 色あらはして咲ける藤波

と、広橋と藤波とを一首の歌に詠み込ませ給うたのは、自分の身に余る光栄とて、ありがたく御短冊を頂戴して、大切に秘蔵しおる次第であるが、このほど、水戸徳川家に賜った御短冊を拝見すれば、彼はまた格別の御出来で、墨黒々と立派に御したためあり、ことに桜という字など、畏れながら、もっとも見事な御出来なるのみか、歌も徳川家にとりてはたとえ難なき光栄で、他に比類あるべしとも思われず、自分拝領の短冊は、御即興にて渡らせらるれば、墨色も薄く、水戸家のとはいささか相違するところがある。自分が拝見した陛下の御宸翰にては、水戸家に賜った御短冊が、畏れながら、もっとも優秀なるものと拝察し奉る。また陛下は御思し召しあって、多くの宸翰を留めさせられず、平常国風の御詠は、諸省より奏上の状袋裏に御下書き遊ばされたのを、税所(注・税所敦子)、小池(注・小池道子)など、和歌に堪能なる女官に拝写せしめ終われば、その草稿を御前にて寸裂するを常とし、年々の新年の勅題御製、および招魂社の勅額は、無論御宸筆であるが、臣下に賜ったものは、三条家に御短冊一枚あり、岩倉家には明治三年、島津、毛利の一致協同を、岩倉具視公に取り計らわしめんとの思し召しを伝えたる宸翰あり、これは同時に島津、毛利両家へも勅諚ありしものだが、御宸筆はただ岩倉家の分のみである。このほか同家には三回御臨幸があったので、その中にいつか庭前の景色を詠み出で給うた御短冊がある。このほかには中山一位局に賜った御短冊が一枚あり、また徳大寺(注・実則さねつね)公が御筆の大字を所蔵せらるるやに聞き及ぶが、自分はいまだ拝見していない、その他には自分が拝領したのと、水戸家に賜った御短冊のほか、御宸筆は絶無といってもよろしかろうと思う。」(注・次ページにつづく)


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百六十二  明治大帝の御性行(下巻52頁)

 明治大帝陛下の崩御から御大葬までは、新聞の記事は言うに及ばず、人が二人、三人寄ると触わるとこの話で持ち切りになったものだ。しかし時がたてばこの話も消え失せてしまい語り継ぐ者もいなくなってしまうと思うので、当時私が耳にした二、三の興味深い話を書き留めておくことにしよう。(注・以下、旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらため、一部の漢字をひらがなにした)

子爵、石黒忠悳氏の談話。

「大帝陛下が日清戦役中、広島の行在所(注・あんざいしょ。天皇の外出時の仮宮)に在せしとき、十畳敷きの二室にて軍務を聞き召され、隣室が御寝室となっていて、あまりに端近く外間の物音が騒々しいので、事務官らが心配のあまり、あるとき御座所と離隔するため、新たに板塀を造って置いたところ、陛下はこれを御覧みそなわして、元のままにて苦しからねば、塀は取り払ったが宜いとの御沙汰であったから、事務官は仰せ畏みて、早速その塀を取り払ったが、由なきことをしでかして、なんとも申し訳なき次第なりと、恐懼措くところを知らざりしに、その夕刻、何方よりか献上の鮎を、供御の余りなりとて、この塀を造りたる事務官に賜わりければ、事務官は案に相違して、はじめて安堵の思いをなしたりという。これを伝え聞いた人々は、陛下の大御心の隅々までも行きわたらせられて、臣下に対する思いやりの深きに、感泣せざる者はなかった。」
 

御歌所の大口鯛二氏から直接きいた話。
「陛下は宮中において、一度定めたること、一度用いたるものは、すべてこれを変更することを好ませられず、たとえば御膳部にても、時候のものは毎年先例どおりにして、さらに新しきものを差加うるを許さず、また宮中の御召使は、本人より願い出づるのほか、一切罷免の御沙汰がなかったが、陛下が政務上必要のほか、容易に宮城を出でさせられなかったのも、また皆、この変更を好ませられぬ御性格によるものであろう。しかして唯一の御楽しみは、和歌を詠じ給うことで、この最も多き時は、一日に百六十首にのぼりたることあり、あるとき宮内大臣田中光顕伯が、御歌所に来たりて、陛下よりその日御下付になった御製を拝見せしに、やはり百首以上に達していたので、かつて聞き及びたるとおりなりとて、大いに驚かれたことがあった。かく御多作のため、高崎御歌所長も即座に拝覧することあたわず、時経て遅れ馳せに拝見の分を差し出すものが多かった。そのころ御製六万首にのぼりたりといい、のちまた、七万首にのぼりたと聞きたるに、今度ある新聞には、九万首の多きにのぼれりと記したるものあり、事実如何は知られざれとも、とにかく日本開闢以来、一人にしてかくのごとき多数の和歌を詠み出でられた事例なく、御歴代においても、天皇歌を詠じ給えば、皇后に御詠なく、皇后和歌を嗜ませ給えば、天皇に御製なきが多く、明治大帝のごとく、皇后陛下とともに国風に御堪能なりしは、実に前代未聞である云々」

 

また、ある宮内官の話。
「大帝陛下の御晩年、ある者より熱帯地方の果物マンゴスチンを献上せしに、陛下はその形を愛でさせられ、中味をえぐり抜きて、外部を陰干とし、やがて固く干しあがりたるところを、漆にて塗りつぶし、みごとに蒔絵して刻みたばこ入れを作らせられ、のち、これを侍臣に賜ったことがあった。ところでその後、前例にならい、大きな西瓜をえぐり抜きて、陰干となさんとて、御学問所のひさし先に吊るし置かれしに、おりからの霖雨にて、その西瓜が腐敗せしものと見え、陛下が縁先を御運動の時、御沓の響きにて、その西瓜が地上に落ち、めちゃめちゃに砕け散ったのを、御覧になった陛下は、平常あまり笑い声などを発し給わぬのに、このときばかりはカラカラと笑わせられ、幾回も思い出しては、笑い止め給わざりとなり。」
 

御歌所長高崎正風男爵から直接きいた話だという、ある人の話。
 「明治十年ごろ、自分は岩倉右大臣に申し出でて、明治大帝御教導のため、夜話ということを始め、副島(注・種臣)、吉井(注・友実)、土方(注・久元)その他、時の老臣を御前にして、夜話の会を催すこととした。その因由いわれは、人には五倫(注・「孟子」の守るべき五つの道としての、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の親)あれど、天皇陛下だけは四倫なりというのは、陛下には朋友というものがないからである。ところで今やその欠陥を補うがため、陛下の御前に老臣を集め、畏れながら友達同士のごとき気持ちをもって、夜話会を始めた次第であるが、陛下が御座に着かせらるるや、いずれもその御威光に打たれて、老臣共もなんとなく打ち解けることができないので、つい一、二回で中止してしまった。そのとき岩倉右大臣は高崎男に向かって、君は非常に心配するようだが、陛下は大器晩成の御性質で、やがて必ず御名君とならせらるるから、永い眼で見ておられよと言われたそうで、高崎男はその後岩倉公のこのひとことを想い起こして、公の眼識の非凡なるを感嘆しておられたという。」



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 百六十一   

明治天皇崩御前(下巻48頁)

 明治四十五(1912)年七月二十日午後、新聞号外が聖上陛下の御病状を報道した。その記事には「去る三十七年末より、陛下には糖尿病に罹らせられ、三十九年一月より更に腎臓炎を併発、岡(注・玄卿)侍医等、御療養に手尽し居りしが、去る十七日より御容体宜しからず、今日に至りて、四十度五分御発熱あり、一同驚愕、三浦(注・謹之助)、青山(注・胤通)両博士をして拝診せしめしに、御病状は尿毒症なり」とあり、日本国民は初めてその報道を耳にしたその日から、同三十日早朝の「聖上陛下には、本日午前零時四十二分崩御せらる」という新聞号外を見るまでの十日間、一同憂愁に満ちて食事も喉を通らず物も手につかず、御容体書の号外が出るたびに胸をどきどきさせながらその御経過を懸念した。全国いたるところで神社仏閣に祈誓をしたり、宮城前で参集したりしてただたた御平癒を祈願するなど、見る者も聞く者も涙ぐましい光景を展開したのである。
 私はそのころに時々来宅された宮内省侍医の鈴木愛之助氏から陛下の御容体を伝聞していたが、二十六日午後の氏の話は次のようなものだった(注・文体を現代文になおす)。 
「聖上陛下の糖尿病と腎臓病は、四、五年来の慢性で、毎日大小便の分析を行わない日はなかったが、去る十九日にはどうしたことか、終日便の御下付がなかった。これは、その日に御便通がなかったためで、その晩からいよいよ御重患となられたのである。聞くところによると、日露戦争間際には、陛下の御心配は非常なものだったものとみえ、戦争がまさに起きそうになった十日ほど前から、御食事がほとんど御平常の三分の一に減ったために、侍医は御病気ではないかと、しきりに案じたが、女官から御病気ではないとの忠告があった。これは、国事に御心配の結果で、国交断絶の当日には、終日まったく御食事なさらず、侍医局でも非常に御案じ申し上げた。事が決定した翌日からは、もはや御安堵遊ばされたのか、御食事も元どおりになったが、腎臓病は非常な心配の結果で、また心配によって、その病勢が増す例が多いので、日露戦争は陛下の御健康の上に、非常に影響を及ぼしたものと思われる。今回の御病源も、おそらくそのときに萌したものだと思われ、まことに恐れ入ることなのだ云々」

私は、この話を拝聞し、いよいよ恐懼したものだったが、同二十八日に鈴木氏が来宅し、今朝、御所にて玉体の御模様を拝したとき、御容体が非常に険悪であったというのを聞き、早くも御大漸(注・帝王の病気がしだいに重くなること)なのかと失望するあまり、

  明らけく治め給へる大御代も 今がかぎりとなりやしぬらん

と口ずさみ、ただ痛嘆するほかなかった。

 

崩御後の感慟(下巻50頁)

 七月三十一日の新聞紙上は聖上御崩御に関する記事で満ちていた。その一方で改元について、公羊伝に君子大居正とあり、また易経にも大享以正天之道也とあることから、本日より大正と改元される、という記事もあった。
 陛下の盛徳大業は御一代を通じて数限りないので、今後、御大葬まではこれに関するさまざまな記事が続くだろうが、人のなすことの大小というものは世間に及ぼす反響の大小によって判断することができるものだ。池に小石を投げ込めば、その波動はわずかに一部分にとどまるが、もし大石を投げ込めば、ただ池の全面が動揺するだけでなく波は何度も繰り返し長いこと停止することはない。
 今回の御事のような、わが国においてほとんど比類のない大変な事態では、ひとびとの心に及ぼす波動の大きさは多くを語る必要もないことなのである。
 先帝は御幸運で、御聖寿(注・ご寿命)にも恵まれ(原文「万々歳」)私などは、明治の年号のあいだに一生を送ることになるのだろうと思っていたのに、今や明治は過去となってここに大正の年号を迎えたのである。古歌に、

   さくら色に染めし袂の惜しければ 衣更へうき今日にぞありける

とあるように、私たちは、明治の古い衣を脱ぎ捨てて大正の新しい服に着替えるのをとても名残惜しく感じたものである。このような感覚は、実際にあのときに出くわした人でなければ感じることができないものだと思う。
 大帝崩御の数日後に山県含雪公爵を訪問した友人の話では、ふだんは気丈な老公も今度は非常に落胆し、伊藤などは早く死んで、今日の悲痛を知らなかったのはしあわせ者であると言われたという。御大喪の歌は、普段の公爵に似合わず、

   ましまししそのおもかげは老の身の 夢にうつつにはなれざりけり

の一首だけだったということである。
 


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 三十七
客来一味(上巻119頁)
 
 明治二十(
1887)年、麻布鳥居坂の井上侯爵邸で天覧劇があったときのことである。井上侯爵は自邸に天皇陛下をお招きする光栄に際し各部屋ごとに最高の飾りつけをしたが、なかでも玉座の置かれる書院の床の間に東山御物(注・室町幕府の将軍とくに八代義正が収集した絵画や茶器などの宝物)の牧谿(注・13世紀中国の水墨画家)作「客来一味」の対幅を掛けた。

 明治天皇は、とくにこの幅に目を留められ非常にお気に召したご様子なので、井上侯爵この二幅のうちの一幅を献上し、一幅は自分の家に置いておきたい旨を奏上すると、さっそくそれでよいということになった。天覧劇が終わり夜もふけたころ、お帰りの際にさきほどの幅を宮中にお持ち帰りになったとのことだった。

 さて、この牧谿の手になる「客来一味」というのは、淡い墨で蕪を描いた作品である。貧乏な寺に客が来た時になにもごちそうするものがないので、裏の畑でとれた蕪だけで間に合わせる、というはなしにちなんで名付けられたのである。その図柄に味わい深い趣があるため、日本においてもこれにならうものは多く、元信、雪舟、探幽などにも同じ画題のものがある。この牧谿の作は東山御物のなかでも有名なもののひとつだが、維新のあとにある大名から売りに出されたときに二幅が分かれて、一幅が井上侯爵の、もう一方は神戸の川崎正蔵氏の所蔵するところとなった。しかし井上侯爵が、もともと二幅の対なのだから、ぜひともその一幅を自分に譲るようにと、川崎氏からほとんど強制(原文「徴発」)的に取り上げた品だったのである。
 さて、天覧劇から五、六か月たって、井上侯爵が家に残っているはずの客来一味の幅を取り出そうとしたところ、どこにあるのかわからず、よくよく調べてみると明治天皇がお帰りの際に二幅ともお持ち帰りになったということがわかった。
 その後侯爵は、参内のついでにこのことを申し上げ、あの掛物は、一幅を宮中に献上しもう一幅は自分の家に残すはずでしたので、どちらかの一幅をお渡しいただきたいと願い出た。すると陛下は、なにか思われたようで、声を立てて笑われ、せっかく持ち帰ったので二幅とも手元に置いておこう、と仰せになったため、そのまま宮中にとどまることになった。
 さて一方、この話をもれきいた神戸の川崎正蔵翁は、手をたたき鳴らしておおいに喜び、井上侯が拙者より取り上げたる幅を、今度は宮中に召し上げられたそうだから、これで拙者も大満足なり、と言われたそうだ。
 その後、皇后大夫の杉孫七郎子爵が皇后陛下に、そのことをよもやまばなしとしてお話ししたのであるが、杉子爵のことであるから、掛物献上の経緯をありのままにおもしろおかしくお耳にいれたのである。すると皇后陛下はこれを興味深くおききになり非常に気の毒がられ、さいわい手元に弘法大師筆の不動尊の一軸がるので、これを井上にやってください、と仰せられたので、杉子爵はありがたくお受けしさっそく井上侯爵に伝えた。
 この不動尊は弘法大師の直筆で、承和二年年於清涼殿画之という落款がある。(注・承和二年は西暦835年)。幅が一尺(注・一尺は約30センチ)、長さが三尺ほどのぶりな幅ではあるが、長く醍醐寺に伝わったものが宮中に献納されたものだったので、侯爵は皇后陛下の厚いご慈悲に感激し、その喜びもただごとではなかった。そしてこの不動尊を掛けるたびに、かならずこの経緯を物語られたので、井上侯爵と親しく交際した人のなかで、この話を一度二度聞かなかった人はいなかったであろう。


鳥差瓢箪
(上巻
121頁)

 井上侯爵の茶道具の話のついでに、もうひとつのエピソードを話しておこう。侯爵は生まれながらの道具好きとみえ、明治二(1869)年に長崎判事として九州に赴いたとき、福岡で、祥瑞沓形向付五人前をわずか数円で手に入れたのをはじめとして、名品を見つけるたびに買い集めたので、やがて蔵品豊富な大収集家になられたのである。
 明治十四(1881)年ごろ、侯爵は外務大臣として、外務省の権大書記官信局長だった中上川彦次郎氏をともない関西に出張した。大阪の旅館に一泊し、地元の道具屋(注・古美術商)が持ってきた染付鳥差瓢箪という形物香合を侯爵が喜んで買い取っているのを中上川氏が横でながめながら、そんなものに大金を投じて、なんとなさる思し召しか、私ならば糊入れ壺にでもするほかありません、と言われたので、井上侯爵は大声で笑い、君のような書生坊にかかっては、名器も三文の値打ちもない、といって、ちょうど訪問した藤田伝三郎氏にこのことを語り、「縁なき衆生は度し難いね(注・仏の慈悲があっても仏縁のないものは救えないことから、忠告に耳を貸さない者はしょうがない、の意)」とその話をして笑ったとのことだ。
 しかし中上川氏は晩年、腎臓病にかかり引きこもりがちになったとき、僕もすこし骨董いじりを覚えていたら、これほど無聊(注・退屈)を感ることもなかったろうにと、時々口にされることがあったので、私はいつもこの例を出して、友人に趣味を持つようにと勧めることあったのである。


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三十二 明治十年代東京の景物(上巻
103頁)

 
 西南戦争のあった明治十(
1877)年から、二十年ごろまでは、まだ維新からの日も浅く世の中が非常に単純で、今日に比べて明るい気分になることが多かった。

 私がはじめて上京した十四(1881)年か十五年の春であっただろうか、当時は三田にあった薩摩屋敷が空き地になっていて、ここが薩摩原と呼ばれ競馬などが行われていた。
 あるとき明治天皇がこの競馬場に臨幸になったことがあった。馬見所はかんたんな仮小屋で、私たちは、十間(注・一間は約180センチ)か十五間離れた場所から陛下がテーブルを前にして椅子に座られているお姿を仰ぎ見ることができた。当時満三十歳くらいで、色白のお顔の鼻の下に真っ黒なの字のひげをたくわえ、非常にお元気なようすでシガーをくゆらせながら、お伴の大臣たちとご談笑なさりつつ競馬を覧になっていた。
 今日から見るならば、警護などもほとんど信じられないほどに簡単なものであった。そんなことからも当時の世相がどんなであったかをうかがうことができるだろう。
 また明治十五、六(18823)年は人力車全盛の時代だった。銀座に秋葉大助という大きな人力車製造店があり、東京はもちろんのこと地方にもの車の販売を広げている時期だったそのなかに一割くらいの割合で二人乗りのものがあった。その背の部分には鯉の滝登りだとか、熊と金時だとかの色のついた絵が描かれていた。
 明治十六、七年ごろだっただろうか、時事新報社が日本橋三丁目のかどにあったときだったが、鶴のようにやせて馬のように顔が長い陸奥宗光氏のちに伯爵が、その二人乗りの人力車に年若い夫人と一緒に乗り、福澤先生を訪問されたことがあった。このときは五年間の禁獄から釈放されて、いろいろなところにあいさつ回りをされているときだったのであろうが、日本橋通りを夫人と相乗りで乗り回すなどというのは、なんだか人を食ったような行動だと思ったことだった。しかし今さらのように考えてみると、入牢中の長期間ひとりで家を守っていた夫人に対しその慰労の意味もあったのかもしれない。それでもやはり、そのときはずいぶん異様な光景だったと思われたものである。
 維新後に東京に移住した政府の高官たちは、田舎武士でないなら貧乏公卿にちがいないと言われたほどに、その邸宅はもちろんのこと室内装飾にいたってもかなり趣味が悪い場合が多かった。というのも彼らの家は、維新の前に彼らが集まって天下転覆の画策をめぐらした茶屋や待合の座敷がその見本だったのだからしかたがない。床の間には文人画の花鳥風水の軸を掛け、その前には真新しい花瓶を置き、部屋の隅には紫檀の机を飾るという具合だったのだ。
 明治十年代になってもこの状況が続いていた。大隈重信侯爵の雉子橋邸は当時もっとも豪壮な邸宅として知られていたが、明治十四(1881)年に侯爵が政府を追われて下野したとき、政府を擁護する御用新聞が侯爵の贅沢を攻撃し、座敷の壁に珊瑚珠を塗りこむなどというのは思い上がりもはなはだしいなどと批判したものだった。しかしその邸宅は、その後フランス公使館に譲渡され、私なども一、二度出入りしたことがあるが、二階建ての木造の洋館で、坪数はかなりあったが今日から見れば贅沢というほどの部分はなく、ここからも、個人住宅のその後の五十年の発展がいかにめざましかったかを知るのである。

 維新後の文化の発展は政府関係の方面で一番早く、それに比べると民間の組織の改良などは非常に遅い歩みで、小売店なども番頭や小僧が店頭で客の注文を受け、それをいちいち倉庫に取りに行くという具合だった。
 そんななか「勧工場」といって、ひとつの大きな店舗のなかに各種の雑貨を陳列し、客が自由に品物を選べるようにした小売り形態が生まれた。これはのちの百貨店の前段階と見るべきだろう。けれどもその陳列品を見ると、中流以下の生活者の需要こたえることを目的としており、俗に「勧工場品」といえば粗悪品の代名詞だった。それでも当時においては小売り方法の先端をいくやり方だったのである。
 これを見ても、町人階級の知識が役人階級の知識よりも一段低かったことや、そのころしきりに西洋から輸入されていた文化的施設にしても、政府に比べて民間では遅れがちになっていたことがわかるのである。


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   二十一
福澤先生の使者(上巻68頁)

  明治十八(1885)年の秋、明治天皇陛下が横浜から日本郵船の横浜丸に乗船せられ、まず長州(注・現在の山口県)の三田尻に上陸、そこをふりだしに山陽道を通って京都まで巡行されたとき、私は時事日報の通信記者として出張を命じられた。
  その出発の前、福澤先生は私が帰りに大阪に立ち寄ることになるため私に緒方洪庵先生の未亡人に手紙と金一封をお渡しすることを命じられた。先生はつねひごろから緒方未亡人のことを、「大阪に居る神様と呼ぶほど実母同様に敬愛され、おりおりの文通はもちろんのこと、小遣い用の金を贈ることもあった。
  私はそのことを前々から知っていたため、この機会を利用し先生の適塾在学中のエピソードをききだそうと思い、明治天皇が神戸に無事到着されるとすぐに大阪をめざし、今橋の緒方未亡人宅を訪問し、先生から預かった品々を未亡人に手渡した。
  未亡人は、年のころ六十歳を超えていると見受けられたが、小づくりで丸顔で、目がことに大きく、元気な声で弁舌さわやかにまず福澤先生の近況をたずねられたあと、私の質問に対して先生在塾当時の様子を語ってくださった。
  未亡人は先生が適塾出身であることをこのうえない誇りとされているようで、また先生が未亡人を母のように大切にしてくれることに大きな喜びを感じているようだった。そして以下のように語られた。
  「福澤さんは私を大阪にいる生神だと申しておらるるそうで、昔を忘れず親切に種々気をつけてくれます。福澤さんが塾におられたころはずいぶん豪傑ぞろいで、大村益次郎、大鳥圭介、佐野常民、長与専斎など後年出世した人がたくさんいましたが、故人(注・緒方洪庵のこと)は塾生の世話を一切私にまかせていましたから、私がまかない(注・食事の支度)から洗濯物まで引き受けて、塾生は家族のようなありさまでした。
  福澤さんは酒が好きであったが、挙動はいたっておとなしく、一度も私たちに世話を焼かせたことはありません」
  そして最後には政治の話にまでなり、非常に弁が立つので、かねてより福澤先生からきいていたとおり、この婦人は非常に行動力のある人(原文「遣り手」)だったに違いないと感服した。
  ここで昼食をごちそうになり、未亡人から福澤先生への返書をもらい、そのころようやく大津まで通じたばかりの鉄道に乗り、大津で三井寺や唐崎の松などを見て回り、さらに京都で一泊してから神戸からの汽船で東京に戻った。
  帰京後すぐに福澤先生に報告したところ、夫人がお元気そうだったことを、ことこまかにお聞ききになってとても満足されたようであった

 

演劇改良の発端(上巻70頁)

  明治十八(1885)年ころだったと思う。どういうきっかけだったか、私は盛んに演劇改良論(注・歌舞伎の近代化論)を唱え時事新報にも論述したことがあった。紙上で英語で書かれた時代物、世話物などの脚本をいくつか紹介し外国の演劇とはこのようなものだという例をしめし、その後「梨園の曙」という題名で出版した。
  そのころちょうど、のちに子爵になった末松謙澄がイギリスから帰国し、この人もまた演劇改良を主張していた。依田百川(注・依田学海)もそうした文章を書き、これまた多少の西洋思想を知っていた川尻宝岑という漢学の先生が、それらの主張に共鳴して「弁内侍」という戯曲を書いた。
  その披露をかねて、誰の主催だったか知らぬが、築地河岸の大椿楼という茶屋で脚本の読み会が開かれた。そこには伊藤博文伯爵(のちに公爵)、市川團十郎丈も出席し、脚本家(注・川尻)が脚本を読んだ。
  その後これに対して出席者が意見を述べ、依田氏がみごとなひげを撫でながら、さかんに熱弁していたことが今でも思い出される。
  そのとき伊藤伯爵は一同を見まわし、演劇改良ももちろん必要なのだが、これまでに見られたほかの改良運動はあまりに行き過ぎて、なにもかもが西洋化してしまった。振り返ってみると、古くから日本にあった大切なことや良いことも忘れられてしまい、ややもすると改良が改悪になってしまっていることもなきにしもあらずだ。このようなことはよくよく研究して、運動が盲動におちいらないように注意したほうがよいだろうという、いかにも老練な政治家らしい注意を与えてこの会をしめくくった。

  このとき末松氏はイギリスから帰国したばかりの若者で、伊藤伯爵の長女生子(原文では「幾子」)と婚約していた。かつて東京日々新聞で西南戦争の記者として名を上げ、あの「鉄壁集」という詩集を出して好評を博した人が、その後イギリスで数年の学問修行をして帰国したのだから、当時の人気には目をみはるものがあった。


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