だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

タグ:新井領一郎

箒のあと(全)目次ページへ】【現代文になおすときの方針

二百八   森村翁懐旧談((下巻216頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)からのつづき)

 森村市左衛門翁は上背があって体格も立派であるし、後年、白髪になってからは、なにやら絵に描いた神農氏のような、いかにも上品な相貌で、しかもその性格が律儀勤勉であった。ただし若年のころから宇治紫文の弟子になって一中節を語り、その堂奥に達したというような江戸趣味に富んだ半面もある。信仰心が深く、雲照律師に帰依し持戒を怠らなかったように、おのずから宗教家のようなところがあった。
 さて翁が前記のとおりの道をたどってついに外国貿易に着眼し、アメリカに対して日本雑貨輸出の先鞭をつけることになったのは、単に森村一家のためだけでなく、実にわが国の貿易上の幸慶というべきであろう。
 そのアメリカ貿易を開始するに至った経緯について翁がみずから語るところは次のとおりである。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)

「明治五、六年ごろのことと思いますが、手前は外国貿易のことが念頭を離れぬので、自分の弟の豊とよを慶應義塾に入れましたが、これはただ学問をさせるばかりでなく、簿記法の帳面をつけたり、外国人と会話したりすることを覚えさせようというためであった。
 このとき、福澤先生は手前に対して、それは面白い考えである、これまで塾に来る者は、みな学問をして参議になろうというようなことばかり考えているが、学問をして商売人になろうというのは、非常に面白いことであると申されました。
 かくて弟が慶應義塾を卒業するや、暫時、教師のような真似をしておりましたが、明治七年ごろ、小幡篤次郎さんが突然私の宅に参って、今日は福澤先生の使いで来たが、お前の弟の豊を、米国へ遣ってはどうであろう、先生は書生を米国に遣って、商売を見習わせ、外国貿易の基を開かなくてはならぬというので、それぞれ知人間をを説きまわった結果、早矢仕【はやし】有的をして、鈴木尾という男を米国に遣って茶のことを調べさせ、また同時に荒井領一郎に生糸貿易のことを見習わせることになったから、雑貨のほうは、お前の弟がよかろうというので、自分は先生の代理で、お前にそのことを勧めに来たということであった。
 そのとき手前はこれに答えて、それは手前の力の及ぶところではない、今、アメリカに人を遣るには、五百円か千円を要するであろう、これという目当てもないのに、そんな大金を使うことは、とても手前にはできませぬとて、断然お断りをしましたが、小幡さんが再三勧めに来らるるので、だんだん取り調べてみると、船中の寝台の下やら、または甲板の隅などに寝転んでいるような、最下等の旅客となれば、二百何十円かで紐育(注・ニューヨーク)まで行かれるということであったから、手前もついに奮発して、弟を米国に遣わすことに決したが、弟は渡米の後、五か月かかって、ポーキプシーのイーストマン学校を卒業し、それより、ささやかなる雑貨店を始むることになりました。
 ところが、かの地で売り上げた金を日本に送り、その金で仕入れた品物をかの地に送るという、この金の運搬が非常に困難であったのは、当時、為替というものがなかったからであります。
 そこで手前はこのことを先生に相談すると、先生は俺が外務省に掛け合ってやろうとて、そのころ先生は頬かむりをして、馬に乗って歩かれましたので、今度も同様の姿で外務省に参り、時の外務卿に相談せられた結果、政府が紐育で日本の領事館に支払う給料を、森村が紐育で領事館に渡し、その替金を、東京で森村が外務省より受け取るということに相談がまとまって、その金額は、一か月千ドル内外であったが、とにかく先生がその工夫をつけてくだされたので、手前どもは非常な便利を得たのであります。
 ことに、当時、森村などと申しては、政府になんの信用もなかったので、福澤先生がその談判相手となり、領事館で入金したという照会が先生のところへ回ってくると、先生は例の通り、頬かむりをして馬に乗り、外務省に出かけてその金を受け取って、手前のほうに渡すという順序でありました。
 それでは恐れ入りますから、手前どもが受け取りに出ましょうと申すと、先生は、お前のほうでは金が早く要るだろうから俺が受け取ってくると言って、いつも自分で外務省に出かけられましたが、当時、日本の一円は、米国の一ドルよりも少しく高く、かの百ドルが、日本の金で九十何円という割合でありました云々。」
 


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

【箒のあと(全) 目次ページへ】【現代文になおすときの方針

 四十
米国人の学問(上巻129頁)

 私ポキプシーのイーストマン商業学校に在学中、アメリカ人の学問に対する考え方が、われわれとはかなり違っているということを知った。
 学生たちは下宿屋に滞在するという方法のほかに、イーストマン商業学校がホプキシーの土地の繁栄に寄与しているため普通のお金持ちの家庭で縁故のある学生を紹介で二、三人下宿させるということが広く行われており、そのような家庭に下宿する場合も多かった。福澤一太郎氏の下宿していたオートンという未亡人のところには年頃の娘さんがふたりいて非常に上品な家庭だった。私の下宿していたところもそれなりの家庭で、もうひとりアメリカ人の学生がいた。
 この学生があるとき私にアメリカ各地の商業学校の事情について話してくれたところによると、ある学校では入学金に三十ドルから五十ドル取られる。またある学校では百ドル取られたうえに、月謝もちょっとした高額なのだそうだ。しかし、今入学金や月謝の安い学校を卒業してニューヨークなどの商店に住み込もうとすると、初任給がこれこれとなり、ほかの高等学校を卒業すれば、その入学から卒業までの学費が、しめてこれこれくらいの高額になるかわり、卒業後の収入がこれこれとなる。つまり、学費を多く払って卒業後の収入が多くなるか、学費は安いかわりに卒業後の収入も少ないかを比較して、どちらが得になるかについては学生の入学時のふところぐあいと相談し、また卒業後の収入の差などを検討して決めるべき問題であるという。
 この人の口ぶりから、日本で学問をするというのは自分自身の義務であって、はじめから利益計算は度外視しているのに対し、アメリカ人は学問を一種の商品のように考えて、価値の高いものや値段の安いものを選んでいることがわかった。これはまるで商品売買と同じで、使った金にたいし、どれだけの収入があるかを計算するのであり、つまり学問も買い物なのである。さすがに拝金宗の国だけあって、金銭に対する打算は日本人とは根本から違っていると思った。
 それからというもの、他の学生たちの考えにも注意していると、かれらはこれをふつうのことだと疑いもなく考えていることがわかり、学校に入学する者は最初から将来の計算をしていることがわかった。
 私のような日本流が正しいのか、それともアメリカ流が道理にかなっているのか。すなおに考えればアメリカ人の考えがむしろ妥当だと思ったのであるが、これは、私がアメリカでしばらく学校生活をしているときに得た感想なのである。


ワナメーカー百貨店(上巻131頁)

 私はポキプシー商業学校を卒業後、学校の先生でハスキンという親切な教授が各地の商業機関宛ての紹介状を書いてくれたので、これに非常に助けられた。
 明治二十一(1888)年三月にポキプシーからニューヨークに移り、ハスキンの紹介により株式取引所の調査をした。また生糸貿易会社の新井領一郎氏らの紹介を得て、生糸織物のいちばん盛んなパターソン地方を視察した。

 さらにフィラデルフィアに赴き、そのころアメリカ一とされていたワナメーカー百貨店を見学した。百貨店は当時アメリカでもまだ珍しい小売り業態であったが、これはそのうち必ず日本にもやってくるにちがいないと思ったので、私は四、五日にわたり調査を続けた。

 このころはまだアメリカでチェーン・ストアの仕組みが発達していなかったので、百貨店が地方からの注文を受けて荷物を発送するということがかなり多く、当時のワナメーカーの支配人の話によると、同店が一日に地方に発送する貨物は約三万六千個にのぼるということだった。
 今日ではあまり珍しくないことだが、店員が客に売った勘定書と現金を離れたところにある帳場に送り、その受け取りやつり銭などを、例の針金づたいにやりとりする方法を、当時非常にめずらしく思った。また、特に女性の店員が大活躍しているのを見て、これはわれわれがまだ見たことのない女性の職業で、いつかきっと日本にも輸入されるされるにちがいないと思った。私が明治二十六(1893)年に三井銀行大阪支店長時代にはじめて女性を銀行の金銭出納係に採用したのも、また三井呉服店改革して百貨店のはしりとなったのもみな、このワナメーカー視察があったおかげで、たまさか実現したものなのである。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ

このページのトップヘ