だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十六  日本一の勉強家(下巻540頁)


 大正八、九(191920)年ごろであったろうか、東京のある実業雑誌が「日本一の百家」選を行った。このとき、徳富蘇峰翁を勉強家の日本一、私を怠け者の日本一と発表したのであった。近頃では人間の働き盛りといわれている五十一歳で風来坊の仲間入りをした私をこのように見立てたことは、あながち無理もないことだと思われたが、日本一の勉強家として蘇峰翁を推したことは、さらに一層、適切な人物評(原文「月旦」)であったといわねばなるまい。
 翁は、青年時代から東京の文壇に立ち、まず雑誌社を始めた。ついで新聞社をおこし、さらには政治界にも出入りし、時には大官のブレーン(原文「幕賓」)となった。あるときには朝鮮にまで出向き、人民の文化や知識を開発する機関(注・朝鮮総督府の機関新聞社だった日本語新聞の京城日報社のことであろう)の監督の仕事をしたこともある。
 またあるときには世界各国を遍歴し、執筆の英気を養ったこともある。その間も常に健筆をふるって、その所見や感想の執筆を続けた。まさに、飲食と睡眠の時間以外に翁が筆を手にしていなかった時間はなかったであろう。
 また読書にしても、五行を一度に読むような勢いで(原文「五行並下るの概あり」)和洋の新刊書をひもとき、絶え間なく新しい知識を取り入れて新聞紙上にその所見を発表する。まさに世の中の指導者(原文「一世の木鐸」)であった。
 ほかにも、出版事業、教育事業にも関与し、特に、全国各地に旅行して、いたるところで講演をやるときにも紙と筆を持ち歩くのであるから、普通の勉強家の二、三人分の働きをしていることになる。

 年齢がいってからも、その活動は衰えることなく、近年には「近世日本国民史」を著述しながらも、言論の文章も書いて、諸般の問題をあまねく料理しているという精力絶倫ぶりを発揮し、とても人間業とは思えない。

 翁が、文筆(原文「操觚」)をなりわいとして世に出られてから今日にいたるまでに著作した文字は、おそらく膨大になるはずで、日本開闢以来、たとえ絶無とは言わないまでも、きわめて稀有なことであるだろう。
 近世の文豪中に似たような存在を探したら、誰がいるだろうか。その時勢に通じ、事務にも通じ、政治的活動力を備えているとともに歴史家として秀でているという点で、この三百年では、ただ新井白石を挙げることしかできない。


 私が蘇峰翁と知り合ったのは、大正初年からのことである。あるときは私の伽藍洞にやってこられ、一木庵茶席にはいり、ともに一碗の茶をすすったこともある。あるいは山県含雪公について、上野の表慶館で十大仏画を一緒に観覧したこともある。あるいは、大倉聴松(注・大倉喜七郎)男爵の招待でシナ料理の相客になり、その健啖ぶりに驚かされたこともある。あるいは、水戸義公(注・水戸徳川家二代藩主光圀)の生誕三百年記念展覧会を青山会館(注・徳富蘇峰旧宅)で開くにあたり、翁のために材料集めを手伝ったこともあった。このように、各方面において、いわゆる「日本一の勉強家」である翁の勉強ぶりを目撃する機会を得たのである。これは、非常にありがたくうれしいことだった。
 さて翁は、昭和七(1932)年に、古稀の寿を迎えられたので、門下の人々で相談して、蘇峰先生古稀祝賀記念刊行会というものを組織し、各方面からの寄稿を集めた。そのとき私は、「作文趣味」と題する拙文一篇を寄せた。その内容の一部には次のように書いた(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)。


「蘇峰先生が東都の文壇に立たれたのは、余よりも四、五年後のことであろう。余は明治十九年ごろ、始(注・ママ)めて先生の書かれた「将来之日本」という題する一篇を見たが、蘇山秀霊の気を帯びたる文彩は、忽ち時人の眼に反射し、彼の蘇東坡が京師(注・みやこ)に出でて、始めて其文章を発表した時の如く、当時東都の文壇に、欧陽永叔(注・欧陽脩)の如き者があったらば、今より数年、人亦老夫を説かざるべしと、嗟嘆した事であろう。(注・欧陽脩は、若い蘇東坡の才能を高く評価した)

 徳富氏は恰も蘇氏の如く、父に老蘇に似たる淇水翁(注・徳富一敬)あり、弟に小蘇に類する蘆花子(注・徳富蘆花)あり、而して蘇峰先生は能く家学を伝えて、之に加うるには洋学を以てし、識見文章共に我が文壇を圧して、政治、宗教、文芸、紀行、随筆等、行く所として可ならざるなく、文情双絶、波瀾独り老成の観あり、殊に目下著作中の近世日本国民史に至っては、千載不朽の大文字で、聞く所に拠れば、毎日暁起、浄几に向かって執筆せらるるそうだが、時に会心の文字を獲るや、其苦心に酬ゆべき作文趣味の愉悦は、果して如何であろう。余は往時頼山陽が彼の「通議」を書き終わって、


  一窓風雪妻児臥 揮筆灯前紙有声


と口吟した時は、王侯の栄爵を受けたるよりも、連城の趙璧を獲たよりも、数倍の趣味的愉快を感じたであろうと思うが、我が蘇峰先生の如き、此点に於いて、或いは遥かに山陽に勝る者があるかも知らぬ。且つ又文筆の士は、兎角薄倖ならざれば短命であるのに反し、蘇峰先生が精力絶倫で、今や古稀の寿域に躋(注・のぼ)らんとするに拘わらず、老健壮者を凌ぐの概あるは、文徳寿福、共に円満なる者と謂うべく、天此文豪に余年を仮して、其の修史の大業を完成せしむべきは、余の固信して疑わざる所である。終わりに臨み拙吟一首を掲げ、我が蘇峰先生景仰の誠を表せんと欲す。


    奉似蘇峰先生
  一家史論挟風雲 三長如今独属君 筆底有時飜学浪 東瀛復見大蘇文 (注・瀛=うみ)


 蘇峰翁の勉強ぶりは、今もなおまったく衰えず、近世日本国民史も、間もなく明治期にはいろうとしている。これはまことに喜ばしい限りである。
 人間のならいとして、古人を偉大に見過ぎるかわりに当代の人物を軽視するという傾向がある。古歌にも、


 来て見れば左程にもなし富士の山 昔も人も斯くやありけん


というのがあるが、翁のような人は、同時代の私たちから見ても非常に偉大であるから、今後百年、二百年を経過したならば、いっそう偉大に見えることであろう、この偉大な勉強家と時を同じくして生まれ、かつ知り合うこともできた私は、まことにしあわせ者であったと思う。



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二百十一  井上世外(注・井上馨)侯の薨去(下巻227頁)

 井上世外侯は、大正四(1915)年九月一日、興津の別荘において薨去された。享年八十一歳であった。
 侯爵は、王政維新という日本未曾有の大変動が起きたときの大偉人である。
 その性格は非常に変化に富んでいた。ある時は政治の難局に立ち、伊藤
(注・博文)公爵その他の同輩のために縁の下の力持ちとなり、あえてその功を誇らぬというような美点があるかと思えば、それほど重大ではない事件を達成したときに、無遠慮に自分の働きを自慢することなどもあった。

 非常に強情で、意地が悪いようであるかと思えば、その反対にいたって涙もろく、徹底的に親切なところがあった。
 気が向かないことがあると大声で怒号し相手を叱りつけるので、雷さんだの電光伯だのという綽名(注・あだな)さえあったが、その一方で、先だった友人の後始末などを引き受けたり、芸人などをかわいがったり、また、特に婦女子や弱者に対し、まことにやさしい同情と援助を惜しまないため、私はある人に「井上侯の一身は、多種多類の合金のように、鉛もあれば金もあったり、銀、銅、亜鉛などもあり、硬軟貴賤、種々の混合物である」と評したこともあった。
 続いて、侯爵の文芸的方面をふりかえるならば、詩、書においては伊藤公爵に及ばず、和歌においては山県(注・有朋)公爵の敵ではないが、書画骨董の鑑賞においては、はるかに両公の上に出ていた。
 また時に狂歌を弄んで、その胸の内を洩らされることがあったが、ウイットもあれば、ユーモアもありで、通人ぶりにおいてもまたなかなか隅に置けないところがあった。
 井上侯爵が維新の元老として国事に尽力された功績は、薨去の際に、大正天皇陛下から賜った誄詞(注・るいし。死者の生前の功徳をたたえて述べる哀悼の言葉)の中に、炳焉として(注・へいえんとして。はっきりと)光輝をはなっているから、いまさらそれを詳説する必要もないが、私が侯爵と知り合ってから二十六年間に、生来のもので侯爵以外に見ることができない特徴だと思われたのは、侯爵の体内に充満する気魄が物事に激して爆発するときの猛烈さである。これには、維新前後の少壮時代には、この元気がいかに旺盛であっただろうかと想像するに足るものがあった。
 明治四十二(1909)年ごろ、ある事件に対し侯爵が非常に激怒しておられた最中に、私は当面の関係者ではなく、むしろ侯爵を鎮撫する使者として内田山邸に推参したことがあったそのとき侯爵は、苦り切った相貌で、たばこ盆を引き寄せ、鉈豆煙管(注・なたまめぎせる)で灰吹をポンポンと叩きながら、声をからして不平をひとくだり説き終わるや、怒気満面、眼中よりちらちらと電光のような閃きがほとばしり、私はほとんど見上げることもできないほどだった。世人が侯爵を不動尊に擬したのは、いかにももっともだと思われた。
 もともと侯爵には、外交家的な機略がないことはなかったが、どちらかと言えば直情径行の人で、物事があいまいであることを許さず、晴れでなければ雨、白でなければ黒、というやり方をした。よって、敵にはあくまで憎まれるかわりに、味方には、あくまで慕われる人物である。
 だから、侯爵の親切が過ぎて、かえって非難の口実を与えてしまい、しばしば誤解されてしまうことがあったものだ。
 その一例は、明治三十一、二(18989)年ごろ、東本願寺が侯爵に財政整理の役目を果たしてくれるよう懇請したときのことである。侯爵は京都の停車場で、本願寺から来た出迎えの馬車が立派なのを見て、人に財政の整理を頼もうとする者が、なんの余裕があって、このような贅沢をあえてするのかと、自分で辻車に乗って同寺に押しかけた。そして、朝の九時から夕方六時まで当事者から財政の状況を聞き、やがて運び出された食膳をみるなり、侯爵の癇癪玉はたちまち破裂した。「これみな、善男全女が寄進したる粒々辛苦の物ならずや、これを思えば、かかる膳部が喉を通るか」と罵倒したので、本願寺の僧侶たちは非常に驚き、その日限りで、内々で「くわばら、くわばら」と叫んで、敬遠主義を取ったものである。
 侯爵の薨去の際に、徳富蘇峰氏はこれを評し、「明治幡随院長兵衛」と呼んだことがあったが、政治でも、実業でも、頼まれて「うん」と引き受ければ、勇往邁進、水も火も避けずに進むという趣があり、いってみれば、高等な男達(注・おとこだち。侠客)の面影がないでもない。
 もともと侯爵は世話好きで、友誼(注・親しい仲間への友情)に厚かった。ある事件を処分を三浦観樹将軍(注・三浦梧楼)から頼まれて、それをさらに私に託されたことなどもあったが、伊藤博文公爵とのあいだは、また格別で、あの管鮑の仲(注・親友。中国春秋時代の管仲と鮑叔の故事から)もおよばないほどで、公爵が困難にあるのを見れば、どんなときにも駆けつけ、人足(注・力仕事をする労働者)になることを辞さなかった。
 また国家の大事とあらば、割の悪い役目をみずから買って出てこれに当たることもある。日清戦争後に朝鮮公使をつとめたのなどがそれである。
 また日露戦争の際、侯爵に軍国財政上の援助をしてもらおうとしたとき、なんでもよいから官職について尽力してはどうかと伊藤公爵から申し入れたのに対し、侯爵は、「国家に尽くすために官職は必要ない」と言い、伊藤公爵は、その高潔な心事に感嘆し、次のような和歌を贈られた。

   国の為尽す心を大君の しろしめすをもいとふ君かな

 井上侯爵は、この一首に、知己の言として非常に感激されて、生前、それを立派に表装して家宝にされたということだ。
 さて、侯爵の逸事については、すでに前項でも述べたし、ほかにまだ記述するべき資料も少なくはないが、これはまた他の機会に譲り、今は、維新の元勲たる偉人の長逝に対し、謹んで満腔の(注・全身全霊の)弔意を捧げるだけにとどめておこう。
 


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