だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百十   大江天也坊(下巻223頁)

 大正四(1915)年七月二十一日のことであった。大江天也坊が私の四谷天馬軒を訪問して、その主宰している弘道会のために一臂の(注・いっぴの。片方のひじの=すこしの)援助を乞いたいという相談があった。
 天也坊とは誰あろう、土佐の豪傑、大江卓の成れの果てである。
 彼は明治初年より政界で活動し、片岡健吉、林有造らとその名を並べ、板垣伯爵とともに自由民権の説を唱えた。
 後年、衆議院議員になり、あるいは東京株式取引所の理事長などになり、一時の羽振りはすこぶる豪勢なものであった。
 彼は、後藤象二郎伯爵の末娘をめとり、岩崎弥之助氏と義兄弟の縁故もあった。
 明治八、九(18756)年に岩崎弥太郎氏が金銭上の都合で政府から十万円の交付を得たいと願い出るにあたり、彼はその使者となり首尾よく大隈侯を説きつけたので、弥太郎氏はおおいにこれを徳とし、後日彼にむくいるところあるべしとの一札をおくったということである。
 さて、大江氏の末路ははなはだ振るわず、困窮の頂点に達したとき、彼の親友は見るに見かねて、君はなぜ、あのお墨付きを役立てて、この窮境からのがれようとしないのかと注意を向けると、彼は頭を左右に振り鷹は餓ゆとも穂を啄まず、僕は何程窮しても、かの一札を利用しようとは思わぬ、しかし、いよいよこれを利用する時節が到来すれば、百万円以上には物を言わせてみせるよと言って呵々大笑されたという。この一事をもっても彼の豪快さを知るに足るというものである。
 大江氏の東京株式取引所理事長時代の豪勢ぶりは、実にすさまじいものであった。あるとき、出入りの道具商を引き連れて加賀金沢に乗り込み、名家の道具をよりどりに買収しようとしたことなどもある。
 氏の所蔵品には、現在、山本達雄男爵所蔵の、一休和尚がその衣の裂で表具したという大燈国師の墨蹟や、某大家に収まっている知名な古筆手鑑などがあって、茶の湯を催すまでには至らなかったが、益田紅艶(注・益田孝の末弟英作)らを友とし、一時は美術鑑定家の巨頭になったこともあった。
 しかし、理財、実業は彼の得意とするところではなく、傲骨みずから持して(注・誇り高さを崩さず)、和協性に乏しかったため、晩年に蹉跌(注・失敗、目論見違い)が相次いだとき、翻然として大に決心するところあり、高齢六十八歳にしてはじめて曹洞宗にはいり、本郷の麟祥院で落飾式なるものを挙げた。そこには多数の知人が集まり、今道心天也坊の僧形を披露するという奇行を行ったのである。
 さて、本日の彼の訪問の要旨は、次のようなものであった。(注・一部わかりやすい表現になおした)

 「明治四(1871)年の四民平等(原文「四民同等」)の発令(注・太政官布告)では、従来身分違いだった××(注・原文どおり)を公民と認めたのであるが、それから四十年たった今日になっても、旧習はいまだに去らず、東京はさておくとしても、ある地方に行けば、いまでもまだ××を排斥し、互いに同化していない。昔、××が支配していた乞食、非人のほうが、かえって普通良民にまじって、その間に何ら区別を見ないようになったが、今や全国で百二十万を数え、かつ年々増加傾向にある××のほうはそうではない。
 特に、山陰、四国、九州などに行くと、彼らと縁組することはもちろん、そのひさしの下に立つことさえ嫌われ、融和するのが難しい状況である。これは人道的見地から、もはや片時も見過ごすことができない。
 今日、わが同胞に対してこのような区別が存在することにより、彼らが危険思想を持つおそれもある。
 いずれにせよ、発令の趣旨に照らし、少しでも早く、彼らを良民と同化させることが急務であると感じ、ここに弘道会を発足させた。
 さいわい、三井、三菱その他から、すでに若干の寄付があり相当の金額に達したので、これからその基金を使って巡回教師三名を各地に派遣し、自分もときどき出張して余生をこの教化に託すつもりである云々。」

 大江氏は明治初年に、奴隷解放(注・明治5年横浜港で中国人奴隷をペルー船から救助したのマリア・ルーズ号事件のことか?)のことに関わり、大に気焔をあげた経歴もあり、普通の経世家があまり着眼しないようなこの類の感化事業に関係することは、その性癖が普通の人とは少し違っていることを教えてくれる。
 前述した通り、氏は益田紅艶と同気相求むる親友であり、その嘲謔遊戯の中には、稚気満々であとあとまで話の種になるものも少なくない。
 大正十(1921)年、紅艶が築地の自宅で危篤の際、天也坊もまた病気で麻布の家におり、みずから往訪することができないからと、ある日私に電話をかけてきた。「紅艶がいよいよ危篤だそうだが、僕も老病で動けぬから、君がもし紅艶に会ったら、どちらが先になるか知らぬが、お互いに三途の川で待ち合わせ、堂々と閻魔の廟に乗り込もうではないかと、伝言してくれたまえ」ということであった。 天也坊の奇癖は、だいたいがこうした類のものであり、晩年には壮士の遅暮の嘆(注・ちぼのたん。老いていくことへの嘆き)がなかったとは言えないものの、それでも、豪快な一人傑たるを失わなかった。


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二百四  後藤伯と福澤翁(下)(下巻202頁)
(注・203・後藤伯と福澤翁(上)からのつづき)

 三宅豹三氏の後藤(注・象二郎)伯爵と福澤翁に関する談話は、これよりいよいよ佳境にはいり、それまで私などがおぼろげながら聞いてきた事実を明らかにしたことも少なくないので、ここに継続して記すことにする。

 「後藤象二郎伯は福澤先生と内々協議の末、明治二十八年秋、天機奉伺(注・天皇にご機嫌伺いをすること)として広島の行在所に赴いたその時は、李鴻章が講話談判のためにまさに日本に来たらんとする直前であったから、伯は、右講話に関して所見を述べ、土方(注・久元)宮内大臣を経てこれを聖聴に達した。
 その趣旨というのは、講和条件として日本はまず京釜鉄道を納め(注・この時点で京城釜山間の鉄道はまだ敷設されていない。鉄道建設の権利を手中に納めるという意味)、これを延長して、鴨緑江に達する権利を得ること、最高顧問を朝鮮に派遣して内大臣兼侍従長たらしめ、日本公使のほかに独立の顧問府を立つることであった。
 この献策は早くも朝鮮側に聞こえたので、親日派の朴泳孝、兪吉濬(注・ユ・ギルチュン)が、いわゆる最高顧問を日本より迎えんがため、さっそく来朝して福澤先生を訪い、何人がその顧問に適当なりやと問われたのに答えて、先生は後藤象二郎伯が最適任者であると言われたので、朴泳孝らは、さらに後藤伯を訪いて朝鮮の最高顧問たるべく懇請したれば、伯の悦び大方ならず、かくてこそ象二郎も、はじめてわが死処を得たとて、慨然として(注・心を奮い起こして)これに任ずるの考えがあったが、一方広島のほうでは、後藤が最高顧問となって公使以上に働くようになったらいかなる椿事をしでかすかもしれぬとて、井上馨侯を公使として朝鮮に遣わすことになったので、後藤伯最高顧問の画策はまったく水泡に帰したのであるが、井上侯が朝鮮公使となり、三浦梧楼子(注・子爵)がその後を継いで、ついにかの王妃焼殺し事件(注・閔妃殺害事件のこと)が勃発するに至ったその経過を傍観していた後藤伯は、さだめて感慨無量であったろうと思う。
 僕は、最初後藤伯の秘書役をしていた井上角五郎の後任として、明治二十四年より三十二年までの間、後藤伯に仕え、家族同様に暮らしていたが、それ以前、福澤の玄関番をしていた時と後藤の秘書役となった時と、家庭の状態が全然反対であったのには実に驚かざるを得なかった。
 先生の家は御承知のごとく、いたって静粛で行儀のよい習慣であるのに、後藤の家ときては、奥さんが吸付たばこを後藤さんに渡せば後藤さんがよろこんでこれを受ける、富貴楼や武田家などいう茶屋の女将が、始終いりびたっている、五代目菊五郎をはじめ、知名の俳優連が繰り込んできて、歌をうたうやら、歌留多を闘わすやら、その乱暴狼藉は、言語を絶するほどであった。
 そのうえ後藤さんは、非常な贅沢者で、食膳には、いわゆる山海の珍味を集むる流儀であったから、たまたま福澤先生に招かれて、その御馳走にあずかることは非常な迷惑なのであるが、後藤さんは先生に対しておおいに勉め、先生は談話が長くなると無遠慮にあぐらをかいて話さるるが、後藤さんは厳格にきちんと座ってその話を聞くというようなありさまであった。
 ある時、福澤先生が突然、後藤さんの家を訪われると、後藤家ではソラ、先生が来たとて目ざわりの者を片づけたが、ボーイが花札を戸棚の上に置き放しにしてあったのを先生が見つけて、これはなかなかお楽しみでありますな、と言われたので、さすがの後藤さんも非常に赤面したなどという珍談もあった。
 先生はおりおり、芝浦にあった後藤の妾宅を訪わるることもあったが、そのときの御馳走は、松金の鰻と定まっていた。ところが後藤さんが福澤のほうに行くと、常食の麦飯を出され、ある夏、食後に氷と鉋(注・かんな)を木鉢に入れて出されたが、先生はその鉋で氷を削って砂糖を振りかけて後藤さんに出されたので、自宅ではアイスクリームを食べて、世の中に氷を生で食べるほど野蛮なことはないと言っておらるる後藤さんが、どんな顔をして氷を食べたろうかと、大笑いをしたことがあった。
 後藤さんと福澤先生とは、かような性格の違いがあったので、あるとき後藤さんが福澤先生を評して、中上川の姪(注・福澤の姪で中上川彦次郎の妹の澄子)を、不男なる朝吹英二にめとらせたら大切にするだろうと思ったところが、この朝吹が大道楽者で、おおいに当て違いをしたこと、それから、平常、養生ということを口にしながら、ときどき河豚(注・ふぐ)を食わるること、娘さんを大切にするというので、その言うがままに任せておくこと、これが福澤の三失策であると言われたことがある。
 かく性格の反対した両雄が意気相投合したのは不思議なことで、その間に奔走してこの有様を目撃した僕は、一種の奇観として少なからず興味を感じた次第である。」


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二百三  後藤伯と福澤翁(上) (下巻199頁)

 私はここで、後藤象二郎伯爵と福澤先生の交際に関する三宅豹三氏の談話を紹介しようと思う。
 三宅氏は、備後福山は御霊村の名家の生まれで、明治十二(1879)年に出京後、福澤先生の玄関番をふりだしに、あるときは時事新報記者となり、あるときは後藤象二郎伯爵の秘書官となり、またあるときは大河内輝剛氏とともに歌舞伎座の経営にあたるなど、いたるところで愛嬌をふりまいて交わる人々に重宝がられた存在だ。しかし、いわゆる器用貧乏で、とりたてて栄達を見ることはなかった。
 ただ、その人となりがひょうきんで、文筆も達者で、座談に長じており、きわめて愉快な才子肌なので、わたしはもっとも長いあいだ親交を続けた。
 氏は井上角五郎氏の後継者として後藤象二郎伯爵の秘書役となり、伯爵と福澤先生の間の仲介をした関係から、その内情について非常によく通じていたので、氏の談話の中から、もっとも興味深い部分を抜粋して次に掲載することにしよう。(注・原文通りだが、漢字をひらがなになおした部分がある)

「僕は明治十二年に上京して、福澤先生の玄関番となったが、これは僕の兄が、寺島宗則伯の家庭教師をしていたので、兄が伯より福澤先生に頼み込んで、僕を玄関番に住み込ませたのである。
 ところが明治十七年、金玉均が朝鮮事変で日本に逃げてきたとき、前々よりの関係で、福澤先生はおおいに金玉均を庇護し、朝鮮の改革をなすには、金玉均が必要だと言っておられた(注・20「金玉均庇護」に関連記事あり)。
 このころは、袁世凱が朝鮮で権力を振り回している最中なので、王妃閔氏(注・
妃)は日本にある金玉均がいつ襲来するかもしれぬというので、しきりにこれを袁世凱に訴え、袁世凱はまたこれを李鴻章に言い送って、李鴻章より日本の外務省に突っ込んできた。

 ところで外務省は、当時シナの勢力を怖れて、金玉均を小笠原島に流し、同島の気候が金玉均に相当せぬというので、さらに北海道に移したりなどする間に、福澤先生が暗々裡に金玉均を保護したその心づくしは、実に至れり尽くせりであった。
 しかるに明治二十六年になって、東京駐箚のシナ公使、
方(注・李鴻章の甥で養子。原文では経芳となっている)が後藤象二郎伯と懇意なので、福澤先生は後藤伯を通じて李経方に説き、金玉均は朝鮮を改革するに最も必要なる人物であるから、シナにおいても彼を忌避せず、むしろこれを利用する方が宜しかろうと言わしめたのである。

 ところが李経方は李鴻章の甥であり、かつ歴代シナ公使中もっとも有為の人物であったから、すぐに後藤伯の進言を容れ、そのなかシナに帰って李鴻章を説き、金玉均と直接面会せしむべく内約するに至った。
 かくして、李経方が帰国の途次、まずその郷里なる蕪湖に帰省している間に、多年無聊に苦しんでいた金玉均は、しきりに李鴻章との会見を急ぎ、李経方のあとを追って、まさに上海に赴かんとした。
 一方、王妃の内命を受けた刺客、洪鐘宇(注・ホンジョング。李氏朝鮮末期の高官)は、この機会に乗じてその目的を達せんとし、甘言をもって金玉均に近づいてきた。
 しかるに、これまで王妃が日本に送った刺客は、ただ褒美の金を取り出さんとする者で、真実使命を果たさんとする者なければ、金玉均もまた、これを見透かし、王妃より取り出してきた刺客の金を巻きあげたことさえあり、洪鐘宇もまた、この類ならんと思い、刺客と知りつつ油断していると、洪鐘宇は従来の刺客と違って、思慮周到に計画を進め、金玉均に油断させるため、一時フランスに赴いて、しばらくかの地に滞在したれば、彼が再び日本に帰ってきても、金玉均は彼を疑う心なく、ただ彼が朝鮮服を着け、朝鮮髪を蓄えているのが、少しく変だと言っていただけで、まんまと彼の策戦計画に引っかかり、不用意にも彼とともにシナ行きを企て、最初後藤伯より二千円ばかりの旅費を借用したが、借金払いなどして、わずか二、三百円の旅費をあますに過ぎなかったのを、洪鐘宇は巧みに金玉均に説き、シナに渡れば、朝鮮の志士、尹雄烈(注・ユンウンニョル)などが待ち受けているから、金子の心配は無用なりとて、ついに上海まで同道し、金玉均が眼病を患って進退不自由なるに付け入り、上海の旅館において、ついに彼を銃殺したのである。
 このとき、金玉均の友人らは、屍体を日本に引き取りたいとて奔走したが、時の外務大臣林董伯が、この議を拒み、上海の土地で起こったことに、日本より容喙するのは不条理なりと言い張ったので、屍体はやがて朝鮮に送られ、数個に切断して、各処に曝さるるというがごとき大悲劇が演ぜられたのである。
 しかしこれらの惨状が動機となって、朝鮮に東学党の変乱が起こり、ひいて二十七八年の日清戦争が巻き起こさるるに至ったので、事実においては、金玉均の一死が、日本の世界強国の仲間入りをさせたものだといっても宜しかろうと思う。」


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二百  大隈侯懐旧談(下)(下巻188頁)

 大隈侯爵は明治十四(1881)年の政変において、いわゆる「敗軍の将」であったためか、当時の状況については前項(注・199に述べた程度であまり多くを語らなかったが、福澤先生との交際に関しては、さらに次のような懐旧談を続けた。(注・一部わかりやすい表現になおした)

「吾輩がはじめて福澤先生を知ったのは明治四年の暮れか、五年の初めか、とにかく、あの廃藩置県が実施されたときであったと思う。一度知り合ってからは非常に懇意になって、先生が吾輩のところに来ると、家内どもまで一緒になって夕食を共にすることもあった。
 先生は酒が強く食事が長いから、食っては話し、食っては話しと、だんだんと夜が更けてしまい、膳を片づけようとすると、まだまだという風で、家内を相手にして酒を飲みながら、いつまでも話をするのが常例だった。政治上の秘密談になると、この家の奥にある一室母屋の背面を指してで、他人を交えず、家内が酌をしながら話したのであるが、先生は吾輩から見れば先輩で、吾輩も先生によっていろいろと利益を得たことがある。
 たとえば、この早稲田の学校ができたのも、吾輩が先生と交際していたからだと言ってもよいのである。
 もっとも吾輩は、もともと教育には深い興味を持っていて、長崎にいたころから、いささかながら私立学校を開き人に教えていたこともある。しかし吾輩は、福澤先生のように学問をしている暇がなく、ちょうど今日の犬養や尾崎のように、政論に火花を散らして奔走していたから、まず不良少年仲間だったといってよいだろう。それで、自分は学問はしないが教育には興味を持っていたので、いつも人に向かって、福澤先生のような人は、自分の学問を人に伝えるという教育の仕方だが、吾輩は自分に学問がないから、学者を集めて生徒を教育させるというやり方で、方法は少し違うけれども、学校教育を行うという点についてはまったく同一軌道にあるのだ、と言っていたこともあるのである。
 ところで吾輩が明治十四年に政府を退くとすぐに、雉子橋の屋敷を引き払って、この早稲田に引っ込んだが、これに先立つ明治四、五年ごろに、木戸などと一緒にこの辺を散歩していると、植木屋が大きな石灯籠を運んでいたので、これはどこの屋敷かと聞くと、讃州高松と井伊掃部頭の下屋敷であるが、これから庭前の樹木を伐り払って薪にするのだという。それはあまりにも惜しいものだと言って、五万坪ばかりあるのを一万円で買うことにした。
 今日より考えてみれば、非常に安いものだったが、当時においては、銭を出して大きな屋敷を買う者はなく、例えば今日第一銀行になっている三井の地所なども、当時井上侯爵が田舎住まいを嫌って、都会の真ん中に屋敷がほしいというので、このころは誰の屋敷だったのやら、園内に池などがあり、約二万坪ほどある地面を井上にやったところ、井上が、蚊が多くて困るからこんな場所は御免したいと言いだした。そのとき三井の三野村利左衛門が、井上さんが御不用ならば、私が是非頂戴したいと言って、わずかな代価で政府から払い下げられた次第であるので、吾輩が早稲田を買ったのは当時においては非常な奮発であったのである。
 そしてこの五万坪に、さらに二万坪ばかりを買い足して、今日では早稲田の学校が三万坪、吾輩の屋敷が四万坪程度になっている。
 福澤先生は、かの正金銀行を創立するために、大きな骨折りをし、吾輩にもいろいろ相談があったが、これは堀越角次郎という甲州出の爺おやじが、無学ではあったが一見識持っていたので、先生は非常に彼を信用し、彼が横浜に正金銀行を立てようとするのを後援し、吾輩にも助力を乞われたので、ついにこれを認可することになったのである。
 それから先生はまた、後藤象二郎と懇意で、後藤の高島炭鉱処分について、先生が非常に尽力した。先生はあの炭鉱を岩崎弥太郎に買わせようと言い出し、岩崎を吾輩の家に呼びつけ、先生も列席のうえで、ぜひとも買ってやれと談判したところ、当時の後藤の借金は、百万円と言っていたのがだんだん増加し、百三十万円ほどになったので、岩崎は容易にはこれを承知しなかった。岩崎は後藤を罵り、アンナ尻抜けな男は信用ができないから、一切相手にいたさぬ、と言うのを、ふたりでようやく説きつけて、とうとう三菱に高島炭鉱を買わせたのだ。これは、いやいやながら引き受けたものだったが、今日では、むしろ三菱の金穴(注・ドル箱)となっただろうと思う。考えてみれば、人間の知恵など浅はかなもので、あとから先見だのなんの、と言っているが、その実はたいてい、まぐれ当たりに過ぎないのである云々。」


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百九十五  荘田と三菱(下巻171頁)

 荘田平五郎氏には一時期三菱の智嚢(注・知恵袋)とさえ謳われた時代があった。
 氏は九州の杵築藩士で、維新前に同藩の留学生として上京後、慶應義塾にはいり、卒業後は義塾または他校で教鞭をとったこともあった。
 明治八(1875)年に三菱汽船会社に入社し、おおいにその手腕を振るった。
 福澤先生は、氏が在塾中に、きちんとした袴をはき、一挙一動がいかにも几帳面であったことを称揚して乱暴書生に対する教訓としたほどだった。
 氏と三菱との関係について氏が私に語った経歴談の中で、氏は次のようなことを言っている。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、内容も若干わかりやすい表現になおした)

「私は明治八年に三菱汽船会社に雇われた。三菱は、明治六年の佐賀の乱で政府の海運御用を勤め、翌七年に台湾征討の運送の仕事を引き受けた。
 それ以前には、大蔵省内に蕃地事務局というものがあって、P&O会社(注・Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)、およびパシフィック(原文「パシフヰツク」)汽船会社(注・パシフィック・メイル社か?)から、千トン内外の機先七艘を買い入れた。台湾事件が終わったあと、それを三菱に貸し下げることになったので、三菱はその船を使って上海への航路を開いた。そのときの事務上、外国人に接触する必要が生じたので、英学書生を雇い入れることになり、かの浅田正文などもそのとき雇い入れられた一人であった。
 もともと、この汽船貸し下げのことは大久保利通卿の発議であるそうだが、当時、日本の海運は、第一に政府が担当するか、第二に民間に委任するか、第三に民間の当業者を保護するかの三策しかなかったのである。
 大久保卿は、その第三策を取り、三菱の上海航路を補助するにいたったので私はこのとき三菱に入社したのである。
 その口入れをしてくれたのは豊川良平君で、福澤先生にはご相談はしたが、入社については先生とはなんら関係もなかったのである。
 福澤先生と岩崎弥太郎との交際は明治十三(1880)年ごろから始まったのであるが、先生は、贔屓役者の後藤象二郎伯爵のことについて岩崎と面談する必要があり、このころから交際を開かれたのだと思う。
 その仔細は、後藤伯爵が高島炭鉱を引き受けて大借金に苦しんでいたので、これを岩崎に買入れさせようという案件であった。この高島炭鉱というのは、肥前鍋島の領分で、かの英国人グラヴァ―(原文「グラパ」)と鍋島家が共同で掘り始めたもので、後年にいたっては、ほとんどグラヴァ―ひとりの所有物になっていた。
 しかるに明治初年、後藤伯爵が政府と意見を異にして民間に下り、蓬莱橋ぎわに蓬莱社という商館をたてられたとき、そのころの日本の工業法によると、日本の鉱山は外国人が所有することができないというので、政府がグラヴァ―から高島炭鉱を買い上げたのを、後藤伯爵がさらに政府から買収したのである。
 このときの金主になったのは、横浜の英一番ジャーディン・マセソン(原文「ヂャーヂンマヂソン」)で、ジャーディンは金主となるかわりに炭鉱の機械一切をその手で売り込み、石炭の売却もまたその手を経るのであるから、こちらのほうは儲かる一方であるが、炭鉱はだんだん採掘費用がかさみ、とうとう非常に大きな損失を招き、明治十二、三(
1879
80)年ごろにおける後藤伯爵は実に窮迫の極点に達し、借金のために政治上の働きが束縛されるありさまになった。
 そのとき、後藤伯爵びいきの福澤先生はこれを見るに忍びず、岩崎弥太郎に、石炭は三菱でも入用だろうから、ぜひとも高島を買い取ってやれと説きつけたが、弥太郎は容易にはそれに応ぜず、明治十四(1881)年の春にいたり、ようやく相談がまとまったのである。
 だいたい三菱という会社は、岩崎弥太郎と、川田小一郎と、石川七財の三人の合作で、一時は三川商会といっていたこともある。川田と石川の川と、もうひとつはどういうわけで三川となったのか、それはわからないが、川田は御承知のとおりの才気ある人物で、外交のことに当たり、石川は堅実な武士気質の人で、内部の仕事に任じた。
 明治十一、二年ごろ、石川は函館にいて北海道の汽船業務にあたり、川田は大阪で関西方面の総取締をしていた。北海道から大阪、大阪から下関を経て北海道というように、北と西との航海業を始めたところ、最初は費用が多くかかり運賃が高くなったので、渋沢、益田などが帆船会社というものを興し、北海道の交通をはじめたが、明治十六(1883)年になって、品川弥二郎子爵が共同運輸会社を作り、帆船会社もそれに合流して大活躍を始めたので、そこから三菱と共同運輸との大競争が起こったのである。この両者が明治十八(1885)年に合併して、日本郵船会社ができあがったのである云々。」

以上、荘田平五郎氏の談話は、郵船会社建設以降のことにもわたっているが、今は荘田氏が三菱に入社した経緯だけにとどめ、その他は省くことにしたい。


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二十八  板垣伯の遭難(下)(上巻90頁)
板垣伯の遭難(上)からのつづき)

  板垣伯爵が岐阜で相原に胸部を刺されたという電報が東京に届くと、生死もはっきりしないなかで事件は事実よりもより大げさに言いふらされた。伯爵の友人たちが激しくいきり立ち、中でも後藤象二郎(原文「象次郎」)伯爵は政府に対して強硬な詰問をしたので、政府としても見過ごすわけにいかなくなり、ついに勅使を派遣することになった。後藤伯爵(注・話し手は後藤新平伯爵)によるとそのときの状況は次のようであった。
     ※
  このとき東京では、後藤象二郎伯爵が、文部大臣福岡孝悌子爵のところに押しかけ、政府は刺客を岐阜に送って板垣を暗殺しようとしたのか、とつめよった。政府としてはこれをそのままにしておくわけにもいかず、ついには勅使を派遣するという電報が届いた。誰であったかこの電報を板垣伯爵の枕元に持っていったとき、自由党員が四、五人立ちふさがり、政府のやり方は非常にきたないので、こんなものは断ってしまったほうがよいと騒ぎ立てた。それを静かに目をつぶってきいていた伯爵が、急にむくむくと起き上がり、「勅使が来るということは天皇のご決定であろう、『皇恩及臣退助之身』」と言われてぽろぽろと涙をこぼしたので、今まで騒いでいた連中は居場所を失い、ひとり去り、ふたり去りして私だけがその場に残った。それはまるで芝居でも見ているような光景だったが、これなどを見ても、当時の人がどのように思っていたかを察することができるだろう。
  こうして、勅使が来るという噂が広まってくると、いままでは冷淡きわまりなかった県知事や県庁の役人たちが急に浮足だち、岐阜病院長を付き添いにさせましょうなどと申し出てきた。そのやり方が、あまりに手のひらを返したような現金なものだったので、伯爵はそのとき、そのようなことは無用であると激しい調子で叱責されたという。
  さて私はそれまで名古屋の知事の許可を得ずに断で岐阜まで飛び出してきていたのだから、助手を残してその日の晩に二人挽きの人力車で名古屋に帰った。そしてすぐに知事の官舎に駆けつけた。すると、勅使が出るという知らせを受けて急に考えが変わったものとみえ、しきりに板垣伯爵の容態などについて質問し、よくぞ行ってくれたと言わんばかりの非常なる上機嫌だった。このときの衛生課長が、そのような状況を知らずに部屋に入ってきた。私に対して注意を与えるつもりでやってきたのに、知事があまりに機嫌がよいので一瞬とまどい、うやむやのままに引き上げてしまった。これなども、当時の人の態度を知ることができる喜劇の一幕であろう。
  世のひとびとは、板垣伯爵が相原に刺されたときに「板垣死すとも自由は死せず」と言われたのを永遠の名言のように思っているが、「皇恩及臣退助之身」のひとことについては伝えようとする者がいない。しかし当時の板垣伯爵を誤解していた自由党員たちが伯爵のこのひとことに驚き、おおいに態度を改めたということからもわかるように、伯爵は一方では自由を唱えながらも、国体については尽忠報国(注・真心を尽くして国恩に報いること)の人であったことは、この一瞬の言動からもはっきりとわかるのである。これは私がごく間近に見たことであり、単に板垣伯爵のためだけではなく、日本臣民の心得として長く世に伝えたいと思うことである。
 その後私は、このことを直接板垣伯爵に話したことがあったが、伯爵はすっかり忘れていて、私の話でそれを思い出し、なるほどそんなことがありましたね、と昔を思い出して感慨にふける表情をされた。
 とかく大人物の人格は、大事があったときはじめて顕れるものだ。伯爵の災難のときの言動に、若かった私は脳の芯まで大きな感動を味わったので、伯爵に対して私はいつも大きな敬意を払っているのである。
     ※
 以上、後藤新平伯爵の板垣伯爵遭難の談話は、大正七(1918)年十二月十三日に、内田信也氏が水戸高等学校設立のために百万円を寄付された美徳を称賛し、またこの寄付を勧誘して実現させた後藤伯爵の尽力に感謝するために、徳川圀順(注・くにゆき)公爵が、旧水戸藩主としてふたりを向島の徳川邸に招待された席上において話されたものである。板垣伯爵遭難史としては、もっとも正確で、かつ興味深いものである。伯爵が自分でこれを記録したか、あるいはほかの場所で発表されたかどうかについて私は知らないが、万一この事実談が埋もれかえりみられなくなっては惜しいので、ここに記録し伝えておく。
 


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