だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十八  大津馬茶会と新曲(下巻548頁)


 根津青山【嘉一郎】翁は、明治三十七、八(190405)年ごろ大阪の老道具商である春海藤次郎の周旋で、松花堂昭乗画、沢庵和尚讃の大津馬という名物書幅を、当時のレコード破りの高値で買い入れられた(注・根津と春海の交流については110を参照のこと)。しかし、それを秘蔵するあまり、かんたんにはこれを出してくることがなかったので、私は少しでもはやくこれを同好者に見せてほしいものだと思っていた。そして昭和四(1929)年十月に、青山の根津邸の弘仁残茶茶会でそれを出させることに成功し、その書幅は非常な喝采で迎えられた。そのとき私は、これを東明流の材料にして大津馬という新曲を作った。
 もともと大津馬というのは、江州(注・近江)大津から京都まで、米俵を背負って逢坂山を往復する馬のことをそう呼ぶ。松花堂がその馬を描いて、そのころ羽州(注・出羽)上の山(注・かみのやま。山形県にある)に流されていた沢庵和尚の讃を乞うたとき、和尚が小色紙に、


 なぞもかく重荷大津の馬れきて なれも浮世に我もうきよに


と書きつけられたものだ。
 これは歳暮の茶掛けとして、このうえもない珍幅になりそうなので、私は再び、昭和五(1930)年丑年の青山歳暮茶会でもそれを使うように青山翁に勧めたのであった。
 ところで青山翁は非常に多忙な身にもかかわらず、大正十(1921)年から毎年歳暮茶会を催しており、この年は十一回目にあたっていた。
 さて、いよいよその幅を使用することになったが、私は、この茶会に何らかの余興を添えたいと思い川部緑水(注・川部太郎、根津家出入りの道具商)と相談し、平岡吟舟翁に頼んで、大蕪を背負った馬子が重荷を負った大津馬を追っていくという図柄を小色紙に描いてもらった。そして、同じ大きさの小色紙に私が、


  年の瀬や重荷大津の馬と人


としたためたものとを、筋かいに(注・斜めに重ねて並べて)張り交ぜた一幅を作り、それを寄付の床に掛けてもらった。

 この年は財界不況で、株持ち連中が大いに苦しんでいる実況をうがった(注・比喩的に表現した)茶目っ気ある趣向だった。 
 さらに茶会後には、さきほどの大津馬の新曲を吹き込んだ蓄音機レコードを広間で来客に披露するという段取りにした。その新曲の文句は、次の通りである。


逢坂の関の清水に影みえて、今や引くらん望月の、駒のひづめの音羽山、越えて都の春の花、秋の紅葉の狩鞍に、金ぷくりんのよそほひを、誇れる友もありとかや、うたてやな、我は過ぐせや悪しかりけん、同じく生を受けながら、しがなき志賀の片ほとり、大津の里に年を経て、田夫野人に追ひつかはれ、背に重荷をあふ坂や、都にかよふ憂きつとめ、誰あはれまんものなしと、思ひわびたる我が影を、八幡の御坊の写し絵に、沢庵和尚の口ずさみ、馬子唄なぞもサアかく、重荷大津のヨ―、馬れきてサアヨー、なれもサア浮世に、我もヨ―うきよにサアヨー。
 となぐさめられて今更に、生き甲斐あれや大津馬、いにしへ浮世又平が、筆の始めの大津絵は、
 大津絵ぶしげほうのあたまへ、梯子を掛け、雷太鼓で、何を釣るつもり、若衆はすまして鷹を手に、見て見ぬふりの塗笠おやま、紫にほふ藤の枝、肩のこりなら、座頭の役、杖でさぐれば、犬わんわん、棒ふり廻すあらきの鬼も、発起り【ぽっきり】をれた其角は、撞木の身がはり、鉦たたき、オツとしめたと、鯰を押へ、奴の行列アレワイサノサ、是は皆さん御存じの、釣鐘背負うた弁慶さん、目に立つ五郎の矢の根とぎ。
 そもそも仲間にはづれたる、我が午年の運びらき、人間万事塞翁の馬い処に、当り矢の、伯楽ならぬ沢庵や、八幡の御坊に見出され、彼の大津絵の又外に、大津馬とて、エンヤリヤウ、引き綱の長きほまれや残るらん。
 

 さて、青山邸の歳暮茶会では、前記の大津馬の小色紙を寄付に掛け、本席の撫松庵には、初入の床に、上半分がコゲ、下半分が白釉の伊賀花入に、白玉椿一輪と、蝋梅(注・ロウバイ=黄色の小花をつける梅)とを活けた。
 後座(注・あとざ=茶会の後半)には、中興名物の節季大海茶入、沢庵和尚共筒茶杓、高麗割高台茶碗、砂張建水などを組み合わせるという大奮発の茶会であった。
 やがて濃茶が一巡して、八畳の景文の間に座を移すと、上段床には、津軽家伝来の、浮世又平(注・岩佐又兵衛)筆の極彩色の不破、名古屋(注・「不破」という歌舞伎題目の主人公ふたり。不破伴左衛門と名古屋山三郎の傾城葛城をめぐる恋の鞘当てで有名)を掛け、入側(注・いりがわ=濡れ縁と座敷の間の一間幅の通路)に、大津馬に付属した書付類を並べてあった。
 客一同が座につくのを待ち、東明流新曲の大津馬の蓄音機を披露した。こうして今回は、私が大津馬の幅を使用させた発願人であったことから、大津馬の新しい小色紙幅をはじめ、新曲レコードまで採用していただいたおかげで、いささかこの茶会に余興を添えることができた。いわゆる「蒼蝿驥尾について千里を走る(注・蝿が名馬の尾にとまって千里を走るように、優れた人のおかげでよい結果を出すこと)」の類で、まことに望外のしあわせであった。そこで、ここに大津馬茶会と、同新曲の由来を記し、昭和庚午(注・かのえうま。昭和5年)の歳暮の記念にしようと思う。 
 


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二百四十一  蛙の行列(下巻339頁)


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 大正七(1918)年の成金現象としては道具入札市場も空前の盛況を示した。書画、什器はもちろんのこと、金具、根付、緒締(注・印籠と根付などを結ぶ二本の紐を通し、印籠などの蓋があかないようにする留め玉)などの、いわゆる袋物の類も値段が倍化した。その名品にいたっては、娘一人に婿八人の引く手あまたのありさまだった。
 平岡吟舟翁は、長年袋物を取集する趣味(原文「癖」)を持ち、この世界の珍品という珍品はたいてい翁の手中に納まっていたため、袋物商は日々翁のもとに詰めかけ、さかんにお払い下げを嘆願していた。
 そのころ大流行していた加納夏雄の作品の中で天下一品とされていた「蛙の行列」は、細長い金具の表に十五匹の蛙が彫られ、裏座に御婆子(注・オオバコ。別名ガエルッパ、ゲーロッパ、オンバコ。弱ったカエルをこの葉陰におくと元気になるという俗説からカエルバともいう)の葉をあしらい、裏座止めに一匹の蛙を置き、全部で十六匹の蛙が大名行列をなすという図案である。
 夏雄はその意匠を、鳥羽僧正の動物絵巻物(注・鳥獣戯画)から借りてきたものとおぼしく、オオバコの葉で作られた駕籠に乗っている親蛙を中心にして、タンポポ(原文「蒲公英」)、オオバコなど、さまざまな草花を、槍や馬印(注・うまじるし。武将のいる場所を示すための装飾物をつけた棹など)とした同勢が、ぞろぞろと練りゆく姿を、赤銅や、素銅、金銀、四分一(注・しぶいち。銅3、銀1の割合で作った日本固有の合金)などのさまざまな金属材に彫刻してある彩色配合の妙は得も言われないもので、夏雄がこれを製作したときには、いかに苦心を費やしただろうかということがよくわかる。つまりは、夏雄作の金具のうちの白眉といえるものであるから、たとえほうぼうから懇望されたからといって、翁は簡単に手放すことはなかったのだった。
 しかし、京都の道具商である林新兵衛の子、政次郎が、近江八幡の大家である浅見氏(注・実業家浅見又造の子孫か)の依頼を受け、一万円でぜひともこれを譲り受けたいという申し込みがあったとき、父の代からの出入りの道具商でもあり、またこの青年のために花を持たせてやろうという思いやりもあって、翁もついにこれを手放すことを決心したのである。
 この金具はまさに天下一品の品であったので、いたるところで大手を振って、なんびとにも土下座をさせなくてはいけない、ということで、紙片に即座に書きつけて渡された端唄は、次のようなものだった。

    天下御免の行列が、お江戸を立って、上方へ、行く先々は、下に居ろ。

 こうして、政次郎はこの蛙の行列を得て、同業の先輩さえも舌を巻いた光栄を祝うために、新旧の所有主をはじめ、その他の袋物を趣味とする連中を招いて、一夕、この金具披露会を催すことにした。それにあたり、私に「蛙の行列」という歌詞を注文されたので、私は、吟舟翁の次のような端唄を土台にして、さっそく新曲を物した。その文句の中では、蛙の言い分として、

  わしがししをば、何と見た、おありがたやのお婆さん、蓮のうてなにころげ出た、釈迦の涙と手を合す。

という一節があるので、その披露会を釈迦降誕の四月八日(注・翌年の大正8年)に決め、蛙に縁のある三十間堀の某旗亭(注・料理屋。会場は「蜂龍」だった。)を会場とし、会の名を観蛙会と名づけた。そして新旧の所有主のほかに、岡田雨香、今村繁蔵、戸田音一、伊丹揚山ほか、袋物屋連中の数名を加え、行列の蛙の数と同じく、来客を十六人にとした。 さて当夜は、会場の床には、潅仏会(注・かんぶつえ。釈迦の誕生日に甘茶などを釈迦仏像の頭頂から注ぐ法会)の花見堂が安置され、中に、かの蛙の行列金具を陳列し、鳥羽僧正の蛙の合戦絵巻の一部を写した献立書には、蛙に縁のある川や池に産した料理の献立が列記された。水菓子に蛙卵とあるのは何かと思えば、葡萄の実をひとつもぎとって、これをおたまじゃくしに見立てるなど、ずいぶん奇抜な意匠のものもあった。
 さて、この観蛙会の余興は食前食後にわたり珍芸がいろいろあったが、真っ先にあったのは柳家小さんの素人芝居と、蛙が青大将に恐れ入る落語の一席で、次は、猫八(注・江戸家猫八)の物まね鳥獣虫類の声色で、各種の蛙の鳴き分けから多数の蛙合戦の喧騒乱雑の状態を活写する頃には、一座は蛙気分に包まれた。
 こうして余興が進むうちに、つぎの間に掛け渡されていた踊り舞台の引幕が両側に開かれた。すると当夜の主人である政次郎が常磐津地語の首席に座り、老妓連中をワキ、ツレにして、「忍夜孝事寄」(注・しのびよるこうにことよせ)、すなわち平親王将門の娘、滝夜叉の一曲を語り出し、まず来客の度肝を抜いた。
 光国(注・朝廷から滝夜叉姫の成敗を命じられた大宅太郎光国)と滝夜叉の大立ち回りになったとき、張り子の大蝦蟇が舞台に飛び出し、相馬錦の旗を両人で引っ張るという見得を切ると、その旗には一万両の文字がありありと現れるという趣向などは、さすがに凝りに凝った思い付きであった。
 さてその次は、いよいよ新曲の蛙踊りだった。雛妓十五人が子蛙になり、親蛙一匹がその中央に立って統率するというものだ。髪は天平式の双髻(注・そうけい。髻=もとどりがふたつある)で、衣服も天平時代のもので、上に色衣詰袖の服を着け、下に袴をはいていた。五彩燦爛の(注・色彩豊かであでやかな)、見目麗しい(原文「辺り目映き」)十六人の蛙姫が、まず舞台に平伏し、いっせいにヒョコヒョコと這い出し、四人一組、八人一組、文句に応じてさまざまな手振りをする。そして最後には十六匹がいっせいに総踊りをして幕となるという面白さで、まったくのところ、春宵一刻値千金(注・蘇軾「春夜詩」から)ともいうべき朧月夜に、粋客が一堂に会したこの会のことを今日振り返ってみると、ほとんど隔世の感を覚えざるを得ない。
 畢竟(注・つまるところ)、成金時代の好景気を反映する一喜劇として、当時の世相を知る一端ともなると思われるので、ナンセンスな蛙物語を、くどくど書き連ねた次第だ。




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二百三十二   郭公落し文(下巻305頁)

 かつて高野山金剛峰寺の記室(注・記録係)を勤め、霊宝館の落成後にその館長となった井村米太郎氏には、以前から文学のたしなみがあり、真琴と号していた。和歌はほとんど作家の域に達しており、勅題の遠山雲に入選したほどの力量がある。
 高野山に、「郭公(注・文脈から、カッコウではなくホトトギス)の落とし文(注・どのようなものであるかは後述)」というものがあるのを、よい歌題であると思いたち、全国の名のある歌人に促して、その吟詠を集めていたが、それが今や数百首にもなっているということである。
 それ以前のことであるが、井村氏が御歌所長の高崎正風男爵に落とし文を送り、その吟詠を求めたところ、男爵は女官の手を経て、その落とし文を明治天皇陛下の内覧に供したこともあるそうだ。
 大正七(1918)年七月末、その落とし文を手紙に封じて私にも送ってこられたが、落とし文とは、昆虫が栗の葉が丸く巻いた内側に自分の巣を作ったもので、葉を開くと粟粒のような小さな卵があり、その形が結び文のように見えるのでこの名前で呼ばれているのである。別に郭公と関係があるわけではないが、郭公が鳴き始めるころ高野山阿弥陀ヶ岳のあたりで、栗の古木から、この落とし文がはらはらと散り落ちるのでこのように名づけたのだそうだ。
 井村氏は、毎年、六、七月ごろになると、この落とし文を書簡に同封して、自詠作品といっしょに私に寄贈するのを恒例にされるようになったが、大正八(1919)年の六月中旬には、例によって手紙を送ってこられた。「落とし文少々御覧に入れ候、若し御高吟を賜ふ事を得ば、何の幸ひか之に過ぎん、昨年御作の歌詞、定めて作曲出来上り候事と存候、雲山路隔たり、之を拝聴する事を得ざるは、遺憾限りなく候」と書かれたあと、その末尾には、次の二首が添えられていた。

   郭公たれに見よとて木の下に おきて行きけむ露の玉草
 
   ほととぎす啼きあかしてもなほつきぬ 思ひをこめし文や此ふみ

 私は、井村氏の郭公落とし文歌集編纂のことをきき、郭公のためになるべく多くの名家の吟詠を寄せ集めてやりたいと思い、その数日後、麹町五番町の新椿山荘に山県老公を訪問したときに、この落とし文を数片持参し御覧にいれた。そして、郭公のために玉詠一篇を恵まれたし、と希望した。
 すると公爵がその後、次のような一首をみごとに揮毫してくださったので、私は表装をして金剛峯寺に贈り、これを霊宝館の什物に加えてもらうことにした。
 その一首とは、次のようなものである。

     高野山より、郭公の落し文を送られけるとて、箒庵主人のおこせければ

                            新椿山荘老主
   落し文ありと知らする玉章を ひらく夕に啼くほととぎす

 山県公爵から、このような落とし文の玉吟一首を賜ったことで、私も高野山に対して大いに面目を施したので、公爵に送った感謝状の末尾に次の一首を書きつけた。

    高野山の知人より、書簡に巻込めておこせける郭公の落し文と云ふを、新椿山荘主公の尊覧に供へしに、頓て(注・やがて)歌詠みて賜はりければ
   落し文君に知られていかばかり うれしなきせむ山ほととぎす

 さて、先ほどふれた井村氏から私への書簡中に、昨年御作の御歌詞うんぬんとあったのは、私がこの落とし文に対して、例によって一歌詞を作り、東明流家元の平岡吟舟翁を煩わして節をつけてもらったと書き送ったので、井村氏がその曲を耳にしてみたいものだと希望された次第である。
 その歌詞というのは、次のようなものだった。

    郭公落し文
 高野山法のともしび、千代かけて、さやかに照す奥の院、名に流れたる玉川や、三鈷の松を吹く風も、ことさら夏は涼しきに、かたわれ月の影すごき、木の間がくれのほととぎす、声のうちより落しゆく、そのふみのなぞ解くよしもがな たのまれし、雁の使ひのそれならで、おもひのたけをしのびねに、洩しかねつつ郭公、その恋文を、エエ誰に見しよと心中立 いろはにほへと、ちりぬるを、わか世の常か、つねならぬ、その色ふかき言の葉を、封じこめたるおとし文、ソツと拾ひし主やたれ 五月まつ、花たちばなの香に匂ふ、軒端の雨のしめやかに、ふるきひじりのみいさをを、しのぶ枕の山こえて、夢みじか夜の中空に、一声名乗れ山ほととぎす


 井村氏は、昭和の初年に病没したので、生前にもっとも親交のあった現大覚寺門跡の藤村密幢師が、その追善供養のために、例の落とし文歌集を出版したいということで大いに尽力したようだが、相当な大部になる見込みなので今日までまだ刊行の運びにいたっていないのは、まことに遺憾の至りである。
 井村氏は高野山霊宝館の最初の館長であるから、同館において、そのうちこれを刊行し、井村氏のために落とし文の光彩を広く天下に示されんことを私は切に希望するものである。


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二百二十四  龍年の余興(下巻274頁)

 大正五(1916)年は丙辰(注・ひのえたつ)という龍年であった。龍年には王政復古(注・明治維新)などもあったように、昔から天下多事の年回りだと言われているが、この龍年には欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余熱がわが国の経済界にまで及んで、ほうぼうで成金(注・なりきん)のつぼみがほころびかけるという形勢が見られたりと、何やらいい気分が感じられるころだった。
 そのような新年そうそうに、私は小田原古稀庵に山県含雪公爵を訪問した。公爵は、金地の色紙にしたためられた次のような一首を見せてくださった。

      大正丙辰の元旦に雨降りければ
   雨雲の晴るる浪間にあらはれて 空ゆく龍の年立ちにけり

 そして、公爵は私に、新年の作は、と問われたので、その朝途中で考えた次のような腰折(注・自作を謙遜していう)を御覧にいれた。

   天翔る心なき身は朝寝して のどかに迎ふ龍の年かな

 すると侯爵は一笑して、無精な龍先生じゃのうと評された。
 さてその翌日、下條桂谷翁を番町邸にも訪問したが、翁は新年の試筆に今朝こんなものを書いたよといって牧谿風の雲中龍を見せてくださった。私は、割愛(注・譲ってもらうこと。この場合は有償であろう)を乞い、そのまま自宅に持ち帰ったのであるが、この時翁は、次のような話をされた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「拙者の龍は、米沢藩御抱画師で、拙者が青年時代の恩師である目賀田雲川先生の画風である。先生は平常、人に教えて、龍の絵は、鼻と目と角と、一直線に並行するのが、宋元大家の画風なれば、必ずこの法則に背くべからず、と言われた。
 しかるに近来、日本の画家は、往々、この法則を無視し、橋本雅邦のごときも、いつぞや角を逆立てて、鼻と目を並行せざる龍を描いたから、画龍の古法は、かくかくなりと注意したるに、雅邦は、さる法則ありしか、とて、初めて心づいたようすであった。けだし古人が、多年の経験において、斯くするのが、龍の神霊を示すべき描法なるを発明したためであろう。
 また龍の爪は、普通三本に描くようだが、宋人陳所翁は自ら、一機軸を出して、これを四本に描いて居る。もっとも、天子の黄袍(注・黄色い上着)その他、御物の模様には、五爪の龍とて、これを五本にする慣例があるが、雲川先生は、陳所翁を学んで、常に四爪の龍を描いたから、拙者もまた、その例に倣って居る。また龍に関する画題は様々あるが、黄帝若しくは観音が龍に乗るの図、馬師皇(注・ばしこう。黄帝のころの馬の名医)が龍を癒すの図などが、その最も著名なるものである。
 ところが最近の一奇談は、旧臘(注・きゅうろう。去年の十二月の意)、孫女(注・まごむすめ)が咽喉に鯛の骨を立てて、いかにしても取れないので、急ぎ咽喉科医師坂口吉之進氏を招ぎたるに、氏は早速かけつけて、なんの苦もなくその骨を抜き取られたので、厚くその好意に謝したるに、坂口氏は、手をふりて、先生、その御礼にはおよびませんから、何か一幅画いてください、と言わるるので、さらば御需め(注・お求め)に応ずべしとて、馬師皇が龍を癒すの図をしたためたのはほかでもない。列仙伝に『馬師皇なる者は、黄帝の時の馬医なり、後龍あり下向、耳を垂れ口を張る。師皇曰く此龍病あり、我が能く之を癒すを知ると、乃ち其唇下に針し、甘草湯を飲ましむ。龍負ふて而して去る』とあり、馬師皇が龍に針して、その病を癒したるを、坂口氏が孫女の咽喉の刺を抜きたるに比して、此画題を選みたるに、本年が、恰も龍年に当たっているので、われながら当意即妙と思って居る。」

といって、桂谷翁は、まず得意の一笑をもらされたものだ。さらに次のような話もされた。
「明治四十二年の事なり、先帝陛下より、龍の絵を描いて差し出すよう御沙汰があったので、丹精をこめてこれを揮毫し居る折柄、旧藩主上杉茂憲老伯が来訪して之を見るや、我れにも同図を描いてくれよと懇望せられたれば、二つ返事で応諾しながら、事に紛れて、これを果たさず、旧臘二十四日にいたり、来年は龍年なれば、もはや猶予すべきにあらずと、にわかに思い立ってこれを描き、約束後七年ぶりで上杉邸に持参すれば、老伯は大いに喜んで、硯蓋の上に載せた紙包みと、ほかに目録を賜ったから、その紙包みをひらいてみると、これなん、上杉家の定紋、竹に雀を染め出したる黒羽二重五つ紋付き羽織で、老伯の言葉に、君が龍の絵を持参したらば与えんとて、七年前よりこれを仕立てて待っていたのが、今日役立って、誠に重畳のいたりであるとありければ、多年疎慢の罪を重ねたるが、いまさら思えばそら恐ろしく、このときばかりは、拙者も穴にも入りたき心地した云々。」
 このほか、もうひとつの龍物語は、平岡吟舟翁が辰年生まれで、大正五(1916)年はまさに還暦の年であったが、昔から、辰年の還暦の人が、新年一月の辰の日に描く龍が火伏せ(注・火事よけ)の呪いになるということで、翁に龍の絵を所望する人が続出して、どんどん数が多くなってしまった。
 そこで翁は、たちまちのうちに一計を案じ、まず、大刷毛で、塗抹した黒雲の中に、金銀の玉をつかんだ龍の爪を描くことにし、新年八日の辰の日山王山下の自邸で画龍会を催すことに決定した。そして、みるみるうちに百幅あまりを描きまくり、たった一日で埒をあけた(注・片をつけた)とは、いかにも奇想天外であったが、表具は筆者持ちとなったので、洛陽の紙価はいざ知らず、都下の表具料は、さぞかし暴騰したことだろう。
 龍年の余興、あらあらかくのごとく、めでたく候、かしこ。


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二百十四  権八郎調子外しの段(下巻238頁)

 歌舞伎座での「春日神話妹背の鹿笛(注・前項の213を参照のこと)」は、河東節と同様、簾内語り式で、最初はきわめて大事をとり清元延寿太夫一門の玄人連だけで興行したが、中日ごろから、そのころ清元もしくは東明節を稽古していた高窪喜八郎、花月主人の平岡権八郎をはじめ、自称「天狗」の連中が数名簾内に割り込み、玄人連にまじってそれぞれの受け持ちの場所を語るということになっていた。
 そこで、いろいろな場所に集まり猛練習を続けいよいよこれでなら大丈夫ということになったので、私も無論その連中に加わり、延寿太夫張りの四本という高調子で、「山の端いづる月さえて」と謡い出したのが案外好評を得た。すると、われもわれもと連中がどんどん増えていった。
 さて、私がこの連中に加わったことについては、いささか思うところがあったのである。従来の日本の芸術家には、封建時代の遺習で自尊心の持ち合わせがなく、一種下級の人種であるかのように、みずから甘んじてそう心得ており、芸術そのものに対する崇高な観念が薄弱であった。試みに西洋諸国を見れば、芸術のたしなみある紳士が家庭内や公開の席上で、随時その余技を演奏することは当座の清興(注・上品で風流なたしなみ)を助けるだけでなく、健羨(注・非常に羨ましく思うこと)の的とさえなるほどなのである。ところが日本においては、音曲をたしなむ者が一種の道楽人のようにみなされ、芸事は外聞をはばかり隠蔽するものであるという弊害がある。
 そこで私は、この際すすんでこれを打破しようと思ったのである。旧習を革新する一端として、先ず隗より始めよ、の先例を示したわけだ。
 こうして私がこの決意を同好者に告げると、延寿太夫は私に、今度のような紳士の演芸は世間の耳目を一新するのはもちろん、玄人どもにも、わが芸術の価値を知らしめることになり、従って、その風紀を振粛(注・奮い起こし、引き締める)する端緒ともなるので、この道のため、幸慶のいたりであると語られたものだ。
 これが、素人連の簾内語りの始まりの次第であったが、興行が始まるや、「権八郎調子外しの段」という、舞台以上に面白い一幕が演じられることになったので、その話もしなくてはならない。
 花月楼主人の平岡権八郎は、義弟の高橋某と共に連中に加わった。高橋は最初の「山の端いづる月さえて」を、平岡は「みだれし髪をかきあげて」の一節を引き受けたのだが、高橋が太鼓の掛け声に釣り込まれてカッとなり、「山の端いづる」を一調子高いところから謡い出したため、桂寿郎が助け船を出してこれを救った。すると、今度は平岡がその例にならい、「みだれし髪を」というところを、またまた高調子で謡い出してしまった。これも桂寿郎が取り繕い大穴をあけずには済んだものの、こういう場面ではなにかが起こるのではないかと待ち構えていた連中の喜びようは普通ではなく、さっそく平岡や高橋の妻たちに、「君たちは今朝、金神様にお参りして、良人の無難を祈られたというのに、マンマと調子をはずされたのは、誠にお気の毒千万である」と丁重な弔詞を述べる始末で、本人たちは近所に居ることもできずに一時影を隠したという噂も出、ひょっとしたら身投げでもしはしないだろうかなどと案じる者もあらわれ、時ならぬ悲喜劇の一幕が演じられたのである。これは、この狂言にまつわる大愛嬌であった。
 ところで、家元である吟舟翁はこれを興がることと思い(注・おもしろがって)、連中を集め、その善後策を講じたのであるが、その席上、次のような話をされた。
 「往時(注・むかし)、浅草の札差の某が、河東節の隅田川を一中節と掛け合いで謡ったとき、某は河東節で狂女の出を語り出したが、三度ほど出直してもなお三味線の調子に乗らなかったので、その場はそのまま引き下がった。翌日みずから悪摺りを作り、隅田川の渡船の上に、笹を担いで乗り込んだ狂女が舷によりかかってヘドを吐いている図を、当日の連中に配布したので、さすがに某は洒落者なりとて、かえって好評を博したのだった。されば今度も、その例にならい、花月と高橋と両人より、自発の悪摺りを配布するが宜しかろう」
ということで、翁が即座にしたためた図案は、高い山の上から顔を出している者がいるところに、上の方から長い手を出して、その頭を押さえている者がいる。その山の下に、本街道という制札(注・せいさつ。注意書きの立て札)があるのを、山の上の人が見下ろして、「あれが本街道かいな」と言っているところであった。そして、平岡のほうは、平岡の似顔絵である男が背中に金神様の御札を背負い、乱れ髪の逆立っている頭の上に手をのせているところで、その口上書きには「乱れし髪を掻き上げ過ぎて、今更何とも……」とある趣向だった。
 この平岡は、油絵や水彩画もうまく帝展に入選するほどの技量を持っているので、その後、自筆でこの図案の悪摺りを描き、それを連中に配布し、外れてしまった調子を取り直したということだ。まことに珍事であったというべきであろう。
 この時は、欧州大戦の影響で、日本に好景気の波が盛り上がりはじめ、人の気持ちも自然にうきうきしていたので、このような喜劇も飛び出したわけで、これもまた、時代の相のひとつをあらわすものだったと言えるだろう。


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二百十三   春日神話妹背の鹿笛(下巻234頁)

 大正四(1915)年十月の歌舞伎座の興行で、一番目に同座付き作者である榎本虎彦(注・原文では寅彦)作「春日神話妹背の鹿笛」が上演されることになった。
 この狂言は、昔、奈良の春日山で若い男女が密会をしようとして合図の笛を吹き鳴らしたが、妻を恋う鹿が集まってきてその密会を妨げた。それに怒って、あやまってその鹿を打ち殺したのが娘に祟り狂乱してしまった、という伝説を、あの妹背山の狂言(注・妹背山婦女庭訓)の求女とお三輪の情事に結びつけたもので時代がかった甘い筋書きであったが、中村歌右衛門がお三輪をつとめるので、狂乱する場面で東明節を使用したいと家元の平岡吟舟に懇請した。
 ところが平岡翁は、明治二十九(1896)年に九代目団十郎の助六興行のときに河東節連中を引き受けたという経験もあり、年をとってからそのような面倒を見るのはまっぴら御免であると断られた。
 そこで歌右衛門は次に私夫婦を訪ない、翁に勧めてくれるようにと頼まれたので、九月二十六日、私たちは酒匂に滞在中の吟舟翁をたずね、段々熟議の末におおよそ引き受けてもらえることになり、清元延寿太夫一門を東明節連中とすることと東明流節付けのために開場を十月三日にすることを条件に、座元の松竹の承諾を得た。
 助六の興行の河東節連中のときを例にとり、芝居茶屋の武田家を連中席にあて、裏千家流の藤谷宗匠(注・「萬象録」によれば藤谷宗中)が毎日同家に出張して薄茶席を受け持った。床には、抱一上人筆の鹿に葛の花の二幅対を掛け、一方の壁床には、家元吟舟の雅号にちなみ、藤村庸軒筆の老人舟中に吟ずるの図を掛けたりして、飾り付けにも万端善美を尽くした。
 この時東明節社中として名前をつらねたのは、唄が二十一人、三味線が二十二人で、中日ごろから、この素人社中が飛び入りしようという計画になった。
 初日の唄は、清元延寿太夫、清元桂寿郎、清元魚見太夫、三味線は梅吉、梅之助、菊之助の顔ぶれで開場した。
 歌右衛門はこのころ五十歳前後で芸道熟練の最高潮に達した時であるから、例の鉛毒症で身体はいくぶん不自由ではあったが、東明節と、つかず離れず、振り少なく上品に踊りこなした。
 特に、吟舟翁の好みで入れた狂乱の幕切れに、お三輪が石灯籠にたおれながら向こうを指す姿が、前例のない良い型であるとして非常な人気を博すことになった。
 この東明節の文句は、次のとおりである。

 本調子山の端いづる月さえて、笛のしべもしめやかに、音すみわたる想夫恋 ゆうしでかくる神垣に、神灯のひかり、こうこうと、照す木のまに、ちらちらと、見えつ、かくれつ、さをしかの、思ひは同じ、鳴くこゑに、妻をしたふて来りけり。
 みだれし髪をかきあげて、むすぶえにしは、をだまきの、糸よりながきおもひだけ、 合ふえの歌口、音をとめて、より来る鹿を、てうとうつ 合笛は二つにせみをれのもろき命のさをしかや 合こゑも一時になきやみて、夜嵐ばかりぞのこりける あはれなり、いつしか狂女と 合なる鐘の、雲のひびきのあとたえて、こひしき人ぞしのばるる。
 二上り春日野に、むらさきにほふ、袖のつゆ 合なさけは、君を思ひでの、鏡にうつるおもかげは、心のまよひヲ、それそれよ、イヤイヤそこにいやしやんす 合花にもまさるわが君の、すがたはきえて、かげろふの、なぎの落葉や、まぼろしの、夢かうつつか、白雲の、ちぎれちぎれは、秋のそら、こずゑを鳴らす、ねぐら鳥、つまよつまよと、きこゆるを、若しやと思ふ恋のよく 合わけゆく蔦の細道を、たどりたどりて、三笠山 合手向の紅葉くれなゐの 合焔にまがふ棹鹿は、笛のしもとに、世を去りし 合うらみをここに、ゆふだすき、神のむくいを ナヲルおもひしれ。
 本調子すがたみだるる、花のつゆ、おもき呵責も、恋ゆゑに、くるひくるふぞ、あはれなる。
 

 この狂言では、お三輪狂乱の場で、結城孫三郎の操り鹿が八匹あらわれて、そのうちの一匹が、お三輪の笛でうち殺される趣向だった。総ざらいの時、この鹿が滑稽に見えないだろうかと心配する向きもあったが、実演においては案外好成績をあげ連日満員の盛況を呈した。
 その一方、家元の吟舟翁が負担した東明流連中席の武田家は、例の花柳国の女将軍らが押しかけて大入り満員であったばかりでなく、最後の三日間は、この連中が大そそり(注・歌舞伎の千秋楽などで、筋や配役を変えて滑稽に演じること。そそり芝居)を演じて、さまざまな談柄(注・だんぺい。話の種)を残した。これは、大正初期の演劇界における、ひとつの異彩だったのではないかと思う。

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百八十四 大倉鶴彦喜寿狂歌集(下巻130頁)

 大倉鶴彦喜八郎翁は維新の前から実業方面で活動し、粒々辛苦して最後には当代随一の富豪となったという経歴を持つ。言うまでもなく、まさに立志伝中の人である。
 少壮時代から余裕しゃくしゃくと一中節をたしなみ、六十の手習いで光悦流の書家になった。また狂歌を好み独特な感吟を連発するなど、その余技においても色々と伝えられていることが多い。
 大正二(1913)年、翁が七十七歳になるとき、喜の字の祝いとして狂歌募集の趣意書を発表した。七月十九日がその締め切りだったが、その趣意書というのは次のようなものだった。(注・よみやすいように少し手を入れてある)

 「天に七曜の輝きあれば、地に七宝のうつくしきあり、人に七賢の洒落者あれば、鳥に七面鳥の替りものあり、神に七社、仏に七堂伽藍の具はるあり、義礼の整ふ七教七経七書の七面倒なるは暫く措き、七音七情は人学ばずして之を能くすべし、おのれ七歩の詩才なきも、歳七秩を越えてまた七年、七ころび八起きのあしたの心やすく、質の心配もなくて、七十七度くり返す、七くさ粥のたび重り、ここに目出度喜字の齢を得たり、乃ち四方の風流男みやびをに請申て、七の字に因る兼題十七首を撰み、狂歌の雅会に無邪気の興を催し、共に聖代を楽しみ、太平をうたはんとほつす、冀(注・乞い願わく)は、大かたの歌人、七わたの玉の言の葉、あまた寄せたまはん事を、七重のひざを八重に折り、七くどくもねきまうすになむ。
  大正二年初夏       
和歌廼家あるじ 鶴彦

                                                  

   兼題
七福神 七曜 七里ヶ浜 七面鳥 七本槍 
七堂伽藍 
七騎落 七夕 七不思議 七賢人 七草 七小町 
七変化 
七五三祝 七色唐辛子 七里法華 七ころび八起

      撰者 澤の屋青淵
         和歌の屋鶴彦

 
そこで私は、兼題の中から五題を選び、次のような駄句を寄せた。

    七夕
  飛行機を見て彦星のひとりごと 今年はあれで天の河原を

    七騎落
  八騎では不吉とかつぐ大将も 八幡殿の末と知らずや
    
    
七福神
   六福のにこりにこりを弁天へ 御世辞笑ひと見たは僻目か
  (注・萬象録では「御世辞きらひ」)

    七賢人
  七けんにいざ言とはむ御別荘 時に藪蚊はありやなしやと

    七ころび八起き
  七ころび八起きを十たびくりかへし 七十七となれる鶴彦
 

 鶴彦翁の狂歌は、天性の流露にまかせて連発する流儀で、これという師匠がいるわけではないが、上州伊香保出身の、俳号を文廼家といった松村秀茂老を相談相手にしていた。非常な速吟家で、巧拙はさておき、即座に何首でも連発するというやり方である。しかも持って生まれた歌才で、時によって秀逸なできのものを吐き出すこともある。独特の大胆不敵な言い回しの中に鶴彦式のおもしろみがあった。
 さて同年十月二十七日には、帝国劇場で盛大なる喜寿祝賀会を催し、幸田露伴氏の新作「名和長年」、および私の作詩、平岡吟舟作曲の東明流「那智丸」の歌劇を興行した。

 その日に翁が来賓に配られた扇子には、

  老ぬとも思はぬうちに梓弓 八十路に近くなりし鶴彦

と書きつけられた。
 当日は、衆議院議長の大岡育造氏が祝辞を演説されたが、そのなかには次のような一節があった。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「大倉氏の祖父某は、越後新発田の産で、商売をもって一家を興した人物であるが、その没後、頼山陽が執筆した碑文には、大倉氏が新発田のごとき僻邑に一生を過ごしたのは、誠に惜しむべきことである、彼がもし大都会にあって活動したならば、さらに観るべきものがあったであろう、と述べている。しかるに、今や、その孫たる鶴彦翁が、東京において赫々たる(注・かっかくたる。華々しい)成功を告げ、さらに海外にまで発展し、シナ満州などにおいて、種々の事業を経営しているのは、よく乃祖(注・ないそ祖先)の志を成し、いわゆる身を立て父母を顕したものである云々」

 これはいかにも、事実その通りである。
 また、翁の、あるときの述懐のなかに、

  わたり来しうきよの橋のあとみれば 命にかけてあやうかりけり

という歌があった。後年、山下亀三郎氏が、私の家でこの歌の記念額を見て、自分の経験からもおおいに感じ入るところがあったとみえ何度も感吟して「実にしかり、実にしかり」と讃嘆した。両人の経歴が似ていたためであろう。私はこのとき山下氏を見ながら、名歌は天地を動かし、鬼神を感ぜしむるというが、君のような鉄骨漢を感動させる鶴彦翁の狂歌は、さてさて偉いものであるなと言って一笑したのである。

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百七十九  内田山掛物揃い(下巻112頁)

 井上世外侯爵は大正二(1913)年一月二十六日の早朝、自邸の湯殿(注・風呂場)で冷水浴中に軽度の脳溢血にかかった。発病当時は左の手足がきかず、談話も不明瞭になった。
 同二十九日、私が吉本博士の許可を得て侯爵に面会したときには、「あまり悪口などを利くものさに、とうとう病気になってしまったよ」と打ち笑い、左手を上下して「どうしてもまだ自由にならず、ものをつかんでも感覚がない」と訴えられた。
 しかし二月にはいっておおいに元気を回復し「相手欲しやの状態になられたので、なんとか病中のつれづれを慰めてさしあげたいと思った。侯爵はかねてから清元が好きで、お若をひいきにされていたので、私は河東節の「東山掛物揃い」にならって「内田山掛物揃い」という曲の作詩をして、五世延寿太夫に節付けを依頼した。
 三月上旬にその曲ができ上がったので、いよいよ演奏の準備を整えることになった。築地瓢家の女将(注・お酉)を世話人にして、三味線はお若、丸子、唄は〆子、花吉、やま子に振り当てて、九日の午前十時から、侯爵の病床がある光琳の間で、掛物揃いの新曲披露をすることになったのである。
 その日の陪聴者として、平岡吟舟、野崎幻庵、原田次郎(注・軍人の原田次郎ではなく、第74銀行頭取の原田二郎のように思われる)、今村繁三、その他婦人客数名を案内した。
 侯爵は、床に銭舜挙(注・銭選)筆の宮女牡丹花の一軸を掛け、砧青磁の筍形花入に白玉椿を活けなどして喜色満面。耳を澄ましてこれを傾聴された。歌詞、曲は次のとおりであった。

   内田山掛物揃い
(エドカカリ)久方の月まつ山の (合)下庵いほに (合)数寄をこらせし故事を、今も都の内田山 (オトス)けふまれ人をむかひつつ、掛けつらねたる名画の数々、あたりまばゆき (スエル)ばかりなり。

先ず周文の間に掛けたるは、むかし蒙古の大軍が、皇国に仇せし其時に (合)土佐の長隆一心に、敵国降伏の祈誓をこめ、画ける不動の尊像にて (合)降魔の剣を打ふつて (合)雲を蹴立てて飛びゆく有様 (合)如何なる天魔おにがみも、畏れつべうぞ見えにける。
(クドキ合)また光琳の間に掛けたるは (合)徽宗皇帝の御筆にて、(カン)桃の梢に鳩ひとつ、春の日かげのやはらかく、羽色にうつる (合)筆のあや、(オトス)風情をここにとどめたり。
(イロ)さて御居間は一休が、悟りごころの面白く、杖をかたげて (合)丸木橋を渡る旅人、下は谷底 (合オット)あぶない (合)すでのこと、浮いた浮世の綱渡り、さつてもこのよなものかいな、粋な和尚の筆すさみ。
(ウキギン)八窓庵は、西行が江口の里に行きくれて、賤が軒端にただずみつ、一夜のやどりを乞ひけるに、あるじと見えし、あそびめが、情なぎさのことはりに (詞)『世の中をいとふまでこそかたからめ仮りのやどりを惜む君かな』と口吟めば、あるじは之を聞くよりも (山田)『世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ』と心ありげの言の葉に、露をもやどす草枕、仮寝の夢ぞ奇特なる (二上り)面白や、さしも江口の河船に、遊女のうたふ棹の歌、うたへやうたへ、うたかたの、あはれ昔の恋しさよ (ツツミウタ)是までなりといふ浪に、浮べる舟は、忽ちに六牙の象の姿となり、普賢は之れに打乗りて、西の空へと行き給ふ有りがたかりける次第なり。
(カカリ)花月の間には、南蘋か朝日に鳳凰をぞ掛けにける (ウタヒ)まことや聖人ひじり世に出づれば、此鳥奇瑞をあらはして豊栄とよさかのぼる朝日子の影に羽をのす豊けさは、実に治まれる大御代の、姿もかくやと、一同に感ぜぬものこそなかりけれ。

 河東節の「東山掛物揃い」は、近松門左衛門の作であると言い伝えられ、河東節の中の白眉であるが、作者は、君台観(注・足利義政東山御殿内の装飾に関して能阿弥や相阿弥が記録した美術工芸史「君台観左右帳記」)を参考にしたとは思われず、とにかく、事実に即した文句ではない。
 しかし私のものは、井上家の秘蔵品の中から五幅を選んだものである。 
 周文の間には、土佐長隆筆の蒙古退治不動(注・蒙古襲来絵詞の一部か?)、光琳の間には徽宗皇帝の桃鳩図、御居間の床には一休和尚の丸木橋渡り、八窓庵には西行法師の江口の歌、花月の間には沈南蘋筆の朝日に鳳凰の図を掛けて、めでたく一曲を語り納めるという構成であった。
 作曲者も歌意をくみ取り、発端では勇壮、中間は上品かつ艶麗。その後、幽幻清寂にはいり、典雅荘重の趣をもって終局を迎えるよう苦心したようだった。
 そのころは、新橋の清元が美声ぞろいで同流の最高潮に達したときだったから、曲が終わるや、世外侯爵夫妻をはじめ一同は感じ入り、ヤンヤの喝采がしばらく鳴りやまなかったものだ。
 場所といい場面といい、またその演奏者といい、すべてに非の打ちどころがなく、このときのような女流演奏家たちの清らかな調べを聴くことは、私の生涯にもう二度とないだろうと思われた。


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百四十二  家族の消長(上巻492頁)


 私は明治四十(1907)年に老父を失い、四十二年に前妻を亡くしたが、同四十三年に後妻を迎え翌年に初めて嫡男を得た。つまり四年のあいだに、ふたりを失い、ふたりを得たというわけで、人生の加減乗除からは逃れられない運命だと思われた。
 老父と前妻についてはすでに触れた(注・140「老少無常」を参照のこと)ので、その後の私の家庭生活に関することに、些事であるがちょっとだけ言及させていただくことをお許し願いたい。
 私の前妻は子宝に恵まれなかったので、晩年に横浜貿易商会常務の山田松三郎氏の三男を養子にもらい、その寂しさを慰めていた。しかし前妻が早世したので、私は麹町区一番町の比較的規模の大きい家に養子とたったふたりで住むことになり、家事の面で非常に不便を感じたので、翌年の十一月に、平岡熈翁の次女、楊子を後妻に迎えた。
 媒酌は井上馨侯爵夫妻で築地精養軒で結婚披露宴を催した。そのときには清浦奎吾伯爵が祝辞を述べてくださった。
 このときの余興で青海波を舞った藤間政弥の地方の唄い手は清元お若であったが、これがお若が公開の場で唄った最後になった。
 その翌年四十四(1911)年十月二十六日に、私は思いがけなく一男児を得た。媒酌人だった井上侯爵は、一昨年、伊藤がハルピンで亡くなった日に、君の息子が生まれるというのも妙なので、自分が名付け親になってやるが、君が義だから、せがれは忠として、忠雄というのがよろしかろうということで、奉書に麗々としたためて届けてくださった。相も変わらない徹底的な親切で、まことにありがたく思われた。

 私の兄弟は六人で、私を除くと、みな子福者が多く、なかには七、八人の親となっている者もあるのに、私は妻帯以来約二十年たっても、まだ一子も得ていなかったので、もはや子供はないものと思っていた。だから忠雄が誕生したときにも満足な子供が生まれるとは思えなかったのに、その子が幸いにも男子であったので、いつもながらの腰折(注・へたくそな和歌という謙遜表現)を口ずさんで、自分のために祝ったのである。


  国の為めつはもの一人捧げ得て 人数に入る心地こそすれ



家庭の音曲(上巻494頁)


 私が明治二十四(1991)年に前妻を迎えたときは、なんの考えもなかったのに彼女が音楽好きで、琴を弾き、胡弓を引き、謡曲を謡い、鼓、太鼓を打ち、しまいに三味線曲もやって河東節まで練習したというのは、もちろん夫唱婦和で趣味を同じくするためであっただろう。ところが私がまたこの上なく音楽好きであったので、一家で共に楽しみ慰め合う趣味を持てたことは人生における幸福のひとつだったと思う。
 そのため後妻を選ぶにあたっても、第一条件としてまずは音楽の趣味がある者ということで、伝統的な音楽の家庭に育った平岡熈の次女が、いいなずけの相手が病気で亡くなったことで偶然にも婚期が遅れていたのを迎えることにしたのである。それ以来、それまで以上に家庭が音楽的になることになった。
 音楽が風俗や習慣を良い方向に導いたり(注・原文「風を移し俗を和げ」=詩経の一節「移風易俗」から)、社会の融合させるのに役立つということは今さら多くを語る必要もない。シナの聖人も口を開けば礼楽(注・れいがく。礼儀と音楽。中国で尊重された)ということをうんぬんしたほどだが、私の生まれた水戸においては儒教主義が盛んだったにもかかわらず音楽を悪魔の声として嫌悪したので、私の少年時代は家庭内で音楽を聞くなどということは夢にも思わなかった。はじめて東京に出て宴会の席で三味線を聞いたときには、何やら座っていることに耐えられないような気持ちになったものだった。

 しかしその後洋行し、ホームというものを知り、中流階級の家でピアノなどの楽器が置かれていないところはなく、どうということもない近親者の集まりにもおしゃべりのほかに音楽が加わり家の中に和気あいあいとした雰囲気が漂うのを見て、なるほど家庭に音楽が必要なのはこういうことだと認識し、帰国後にはみずからの家庭でもそれを実現しようとしたのである。
 私の岳父の平岡翁が東明流の家元であり、その娘である楊子、つまり私の妻が、父親の嗜好を受け継ぎ、時には作曲をすることもあるので、私も調子に乗って(原文「興に乗じて」)ときどきそれに詞をつけたりした。
 またこれを演奏することも楽しみ、その後、稀音家六四郎にいて長唄を稽古するようになると、私の作詞したものに節付けをしてくれるよう彼に頼んだものも十曲くらいになった。私はこの世を去るまで自分が音楽を楽しむだけでなく、歌詞も節付けも、わが国の上流階級に適し品行に悪い影響を及ぼさないような新しい曲を作って、これまで夫唱婦和でともに楽しむということがなかったために無味乾燥に陥り、ひいてはさまざまな不幸が起こってしまう日本の家庭の欠陥を匡正(注・きょうせい。正しくすること)することにつとめたい。
 僭越ながら、私の家庭を見本にして、近いところから始めて、ゆくゆくは、家庭で音楽を楽しむ趣味を、遠く全国までにも普及させたいと思っている次第である。


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 百三十七
伊藤公の文藻(注・文才)
(上巻474
頁)

 伊藤(注・博文)公爵は長州出身の高官のなかでももっとも文才に秀でたひとりであった。詩を作り書も巧みで文章も達者なほうであったが、特に書簡文は群を抜いて立派なものだった。素人のことでもあり詩も書も出来不出来がおおいにあるようだが、その傑作ともなれば持って生まれた春畝山人(注・春畝は伊藤の号)の気分が発露して、他人の追随を許さぬものがあった。
 詩については、秘書役である森塊南が多少の添削を加えたかもしれないが、非常に緊張したときの作品はことさらに面白いように思う。明治二十(1997)年前後の、内閣が始まった時期だったと思うが、官邸から芝山内の末松謙澄子爵の家に立ち寄り所感(注・気持ち)を綴った作を示されたということで、その後ほどなく私が末松氏から伝承した七言絶句は次のようなものであったと記憶している。

  騫凌霄志己非 老来豈復憶高飛 孤雲一片秋天外 満目江山帯夕暉 
 (注・騫=傷つく。鳥の翼。霄=空。暉=輝く)

 この作品などは、割合に野心が感じられなくて、公爵の詩としてはもっとも老熟しているものではないだろうか。
 公爵はまた時々、戯文(注・ふざけた文章)を試みられることもあったが、半分以上は漢文の思想で和臭がはなはだ少ないため、とにかく堅苦しい感じからは逃がれられなかったものの、そのなかに幾分かは洒落っ気が感じられたのは、さすがに公爵の快活なうまれつきから来るものだったのだろう。

 明治三十五、六(19023)年ごろ築地瓢家の楼上で長夜の宴を張られたとき、公爵が巻紙を取り上げてすらすらと書きつけられた俗謡は次のようなものであった。

 「位置(一)は固より高く、荷(二)は甚だ軽し、産(三)は営む所に非ず、詩(四)碁(五)二つながら学ばず、禄(六)は今受けず、質(七)も亦(注・また)置かず、蜂(八)には時々藪の中にて刺され、苦(九)も亦免れず、住(十)は大磯の辺に在り。」

 公爵はこの文句を同席していた平岡吟舟に見せ、君、この唄に節付けができるかと言われたので、翁が手に取ってこれを見てみると、俗謡としては堅苦しいし語調もはなはだ悪いのでこれに節付けするのは難題だったが、翁も例の負けん気からお安い御用でございますと三十分で節付けをしたばかりか、その唄に踊りの手もつけて、侍座(注・じざ。貴人のかたわらに控えている)の若吉(注・33に既出した名古屋出身の芸妓と同一人物か?)が三味線で弾けるようにし、藤間政弥に振りつけを教えて即席料理の舞踏を演奏したので、伊藤公爵も吟舟翁の音楽的奇才には感心したそうだ。これがおそらく公爵の俗謡の絶品で、短いながら公爵の身上をきっちり表現しているところに、公爵の文才(原・文藻)の一端を見ることができるのではないだろうか。

 

小村侯爵の警句(上巻475頁)

 小村寿太郎侯爵は五尺(注・約150センチ)に満たない小男で、しかも痩せぎすだった。身体の割に頭が大きく、頬はこけ目はつりあがって、西洋人の漫画に見受けられる東洋人の顔ソックリであった。
 しかし「蛇(注・じゃ)は寸にして物を呑むの概あり」(注・人を呑むが普通。蛇は一寸の幼いときから人を呑みこもうとするように、若いころから気迫があること)というたとえにもれず、外交上の駆け引きにおいては土俵際で人を驚かせるような技量を持っていたそうだ。
 明治三十三(1900)年の北清事変の際、シナの外交団のなかでその技量をおおいに発揮し、そのきびきびした言動は各国の外交官の肝っ玉をくじき、彼らに日本に小村という外交官あり、ということを初めて知らしめたということである。

 侯爵は無愛想な顔つきで談話中に皮肉な警句をまじえ、それが往々にして毒舌となってしまうのだが、これにショックを受けて相手が驚くのを見て呵々と(注・ワハハと)笑うところは、いかにも人を食ったような様子であった。
 ポーツマス条約締結後のことであったが、三井銀行専務の早川千吉郎が小村侯爵を主賓として実業家連中を十数名浜町の常盤屋に招待したときのことである。早川氏は酒を飲むとかなり酔っぱらって同じことを繰り返す癖があったので、その晩も主人役をがんばって勤めたあと例の繰り言のメートルを上げ(注・激しくなり)主賓の小村氏の前に進み出た。「私は無遠慮に談論はするが腹には何もありませんから、決してお気遣いなされように願います」と言ったのだが、小村氏は侯爵の左右を見ながら、腹だけでなく、頭にも何もないだろうとはっきり言って(原文「喝破して」)例のごとくにからからと笑われたので、一座の人間は冷や汗を流して危ぶんだが、当の早川氏はすでにお酒が回っていたのでその意味に気づかなかったようで、一緒にからから笑って事は終わったものだった。しかし小村氏が外交談判では往々にして相手の武器を奪って逆に刺す、というような辣腕ぶりを発揮したことが、この一事をもっても推し量れるだろう。
 日本の政治家では、小村侯爵と犬養毅氏は小男の二幅対であるが、いずれ劣らぬ弁論の雄で、時に毒舌を吐いて人を罵殺するあたりが非常に似ているところは一種の奇観であるといえそうだ。


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百十一  東明流発端(上巻383頁)

 平岡吟舟翁を家元とする東明流(注・三味線歌曲の流派)は、明治時代に一流派をなした唯一の家庭音楽として最近だんだん世間に広がりを見せていている。派手で上品で変化に富み、しかも大曲よりも短篇のほう気がいている曲目が多いところが当世風であるといえよう。育て方次第では、将来的にも、おおいに発展の望みがあるだろうと思う。
 さてこの流派の家元である平岡吟舟翁は、宝生晋作を師として宝生流を謡われた熈一翁を父に持つ。母は都以中の妹で、一中節はもちろん、薗八、端唄その他の俗曲にも堪能だった柴崎はる女であった。この両親から音楽好きが遺伝し、少年時代にアメリカにいたときには当地の歌曲を口ずさみ、帰国後には本業の余暇に、謡曲や各種の邦楽を究めた。なかでも河東節は、家元の山彦秀次郎についてほとんど全部を習いつくした。そのうえ自ら三味線を弾いたり、諸流の節回しを真似したりして、自分でも作詞作曲を試みたり踊りの振付までもやるという器用さだった。
 そんなわけで、翁が作った小唄で現在も世間に流布しているものも少なくない。毎年の新年には新曲を作り、それを披露するというのが常だったが、それはある時に、某新聞社の依頼で向島八景という新曲を作ったのがはじまりだった。その後、大磯八景、産屋、月の霜夜、三番叟、松の功、石橋、海人、檜垣、紅葉狩、三九年川などに、得意の自己流の節付けをしたものが、いまではほとんど五十曲ほどに達し、東明流の一派をなすことになったのである。この東明流とはいかなるものか翁は次のように説明している。
    
 東明流端書(注・
最初にわかりやすい表現になおしたもの、次に原文を記す

 「自分は、生まれつき音楽が好きで、これまでずっと聞いたり、人に習ったりしてきた。そしてつらつら思う。
 わが国の音楽は、はじめ京都で生まれ、それが次第に東に移ってきた。そのなかで、いろいろな流派に分かれていくにつれ、曲節もさまざまに変化し、それぞれの特徴を持つようになった。しかし、そのなかで、聞いて楽しいものには品がなく、品のいいものには面白みがない。渋すぎたり、甘すぎたりと、一長一短で、全曲を通じて自分の気持ちにぴったりくるものがほとんどなかった。

 そこで、試しに各流派から自分の好きな節だけを寄せ集め、さらに自分で工夫した曲節を加えて、自己流の新曲を作ってみたのである。それを、他流派と区別するために東明流と名付けてみたが、自分は浅学で才能もなく、一流派を創始するなどという、おこがましい野望を持っているわけではない。ただ、自分が好きで、楽しめるような曲を、花晨月夕(注・かしんげっせき。春の朝、月の夜)の自分の楽しみのために作っているに過ぎない。どうか、お手柔らかに願いたい。江児庵吟舟


(以下原文。ただし、旧字を新字になおした)

「おのれ天性音曲を嗜み、年頃聞きもし習ひもして、つらつら惟ふに、我国の音曲は、当初京洛の間に起り、其後次第に東漸して、門流ますます分かるるに随ひ、曲節も亦様々に変化し、おのおの其特長を現したれども、趣味あるものは品あしく、品よきものは面白からず、或は渋すぎ、或は甘すぎ、互に一長一短ありて、全曲悉くおのが心に協ふ者稀なり、因って試みに、各流に渉りておのが好める節のみを寄せ集め、更におのが新に工夫せる曲節を加味して、茲に自己流の新曲を作り、他流と区別する為め、之を東明流とは名けたり、おのれ浅学短才にして、烏滸がましくも一流を創むるなど云ふ野望あるにあらず、唯おのが好みおのが楽む一曲を、花晨月夕の独楽に供するに過ぎず、世の人幸に咎め給ひそ。  江児庵吟舟」


 すでに紹介したように、東明流に、「月の霜夜」という一曲がある。荒木古童の弟子、鎗田倉之助という天才的な尺八奏者がおり、吟舟翁が非常にひいきにしてその人のために作って与えたものだった。処女作でしかも短いものだが、東明流の代表作として同好者にもっとも愛好されているものである。その歌詞を次に掲げる。

    月の霜夜
 小夜ふけて衣うつなり玉川の、岸の枯草さらさらと、霜にふぜいをなやまされ、やるせなみまに生ひ茂る、短き蘆のふしのまに、昨日鳴く音もけふ(注・今日)はせず、妻こ鹿の声さへも、いとどあはれ(注・哀れ)に聞こえける  〽アレあの雁は、何所尋ねてナア、行雲のかげとおもてに姿をうつし、羽袖に月をかくしつつ、顔は見せねど便りはままと、翼にほこるにくらしさ  〽アラ面白の浮世かな、かの邯鄲(注・かんたん)は夢さめて、栄華のほども五十年、年立ちかへる春あれば、又来る夏に秋やきて、冬の寒さに(注・きぬた)うつ、水の流れと清き瀬に、かわるまもなき楽さは、賤が伏屋と人ぞしる  〽さらす細布手にくるくるくると、月の霜夜にわが家をさして、望み叶ひて帰りゆく


 さて音楽はこのところ和洋ともに非常に勢いよく流行してきたが、徳川の末期に清元が起こったあとは、明治の太平の世に新しい流派が生まれたといえるのは、この東明流だけである。

 最近この流派が、家庭音楽としてようやく世間に流行してきた。今では、長唄、常盤津、清元、新内などの、徳川時代から残っている曲が唄い尽くされ、弾き尽くされ、どれも行き詰まりの様相を見せ、新しいもの好きの人情として東明流を習ってみようとする人が多くなっているからである。諸流の専門家の中にも、自流の行き詰まりを感じて、新作に節付けするときに東明流を利用しようとする傾向がままあるので、いたるところで東明流が発展する余地がありそうだ。なのに家元になんの欲望もなく、気の向くままに、ただみずからの楽しみのためにやっていてあまり多くの人に伝授したがらないので、今では、習い手は多いのに教え手が少ないというのが実状で、それがこの流派があまり広がっていかない理由なのである。すこしでも早く、よい専門家の第二世代が生まれ、東明流を広く宣伝し、かつ、続々と新曲を作っていくようになれば、明治時代に生まれた邦楽の一派として、東明流はながく後世に伝わっていくことになるだろうと思うのである。


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八十四   助六の古式(上巻286頁)

 平岡吟舟翁が平岡大尽と呼ばれるようになったのは、江戸気分がたっぷりで、文化文政のころ(注・文化180418、文政181831の江戸で大通ぶりを見せた浅草札差旦那のように、みずから作詩、作曲、振付までやり、新柳二橋(注・新橋と柳橋の花柳界)の茶屋という茶屋で何年にもわたり遊興し、自作の新曲を謡わせ舞わせるということがあったからでもあろう。しかし大尽の名に一番ふさわしかったのが次の一事である。
 九代目市川十郎が歌舞伎座で助六を演じたときのことである。文化年間に、抱一上人(注・酒井抱一)がみずから興行を行ったと言い伝えられている古式にならい、助六地方(注・じかた)河東節連中を繰り出させたのである。抱一上人は姫路酒井家の次男ながら、大名家の窮屈さを嫌い、浄土真宗の僧籍にはいり、上手に琳派の絵を描くかたわら河東節も好んでいた。

 文化年間に助六の興行があったとき、自画の牡丹の花を表紙にした助六の歌本を発行し、谷文晁といっしょに、真ん中が助六、左右に富士山と筑波山という三幅対を寄せ合い描きした。その幅はいまでも好事家の手元に残り当時の豪勢ぶりを伝えている。
 明治二十九(1896)年の助六には、当時の古式をそのままに採用するというので、その手始めが、十郎から平岡の旦那に河東節御連中の依頼状を送る、というものだった。連中会場として歌舞伎座の茶屋、三洲家を使い、その二階に陣取っている吟舟翁のもとに、助六芝居の頭取である八がその依頼状を持参する。するとそこで吟舟翁が「願是通聞届候(注・願いの通り聞き届けそうろう)」という指令を発するという、まことに豪勢な威光を示したのである。
 こうして平岡の選抜した、いわゆる河東節連中には、三味線方の河東節家元、山彦秀次郎をタテとして、そのほかに婦人が二名、地語りは芳村伊十郎、都魚中、清元弥生太夫、清元魚見太夫など。それに素人連中として、のろま人形頭取の三富、浜町の小常盤主人の依田らが加わった。

 指物師の浪花家も三洲家に陣取り、興行中には連日、抹茶のお点前を引き受けることになった。
 また総ざらいは築地の瓢家で行った。連中それぞれの語り場所をすべて吟舟翁が指示し、いよいよ万端の準備が整った。
 この連中一同には、魚葉牡丹(注・杏葉牡丹、ぎょようぼたんのことか。杏葉牡丹は、助六で用いる成田屋の替え紋)の紋付に、金色とお納戸色の市松模様の帯を配り、楽屋入りのときには高さ四寸(注・約12センチ)の草履をはかせた。
 ここまで古式そのままを採用したのは、このときの狂言が最後だったと思われる。これまた江戸気分の最後の名残りだった。
 このときの歌舞伎座の座主は田村成義で、二番目狂言では、五代目菊五郎が斗々屋の茶碗(注・三題噺魚屋茶碗)を出した。福地桜痴居士がその摺り物の讃を書いたのに対して、吟舟翁は十郎に次のような新作の端唄を贈った。

 春霞たつや名に負ふ江戸桜、だてな姿に鉢巻を、すぎし頃より待ちわびし、甲斐ありておちこちに、噂もよしやよし原に、思ひそめたる仲の町、箱提灯も色めきて、ぬしのゑがほを三升うれしさ


富永の毒舌(上巻288頁)

 富永冬樹氏は旧幕府旗本の家系で、この人もまた生粋の江戸っ子だった。明治四(1871)年に平岡吟舟と同船でアメリカに渡り帰国後は長年裁判官を勤めていた。一族には、東京高等商業学校の初代校長で銅像もできている令弟の矢野次郎(注・二郎とも)氏があり、令妹は、内助の功の多かった益田孝男爵夫人(注・益田栄子)である。みな江戸前の才子肌で、口から生まれたような人間だったが、なかでも富永氏は皮肉な批評の名人で、すこし毒を含んでいるのだがあとあとまで話のたねになる名言が多かった。
 明治三十(1897)年私が麹町区一番町に住んでいたとき、隣家の米倉一平氏を見舞っての帰り道に私の家に寄られたことがあった。そのときも、まじめな顔をして私に、今、米倉を見舞ってきたが、からだじゅうに毒気が回っているので、蛭を掛けてもその蛭がみなポロポロと落ちてしまう、ところでその蛭を顕微鏡で覗いてみたら、みな鼻をつまんでいたそうだ、と言って、からからと笑われた。
 また、大江卓、加藤正義、近藤廉平、益田克徳などという連中が、自宅で一品持ち寄りの会を順番にやっていたことがあったが、あるとき木挽町の梅浦精一氏の会に出席した富永氏は声をひそめて私たちに向かい、「梅浦の家の玄関には、なにやら仏像が一体飾ってあるが、その印の結び方がどうも変だ。右の手は親指と人差し指で丸を作り、左のほうは手のひらを前に差し出しているので、なんとやら、丸をくれろと言っているようだが、君たちはどう思うね」と言い終わるや、微苦笑を洩らされた。ほかにも、富永氏には数々の名言があるが、この二例は富永流の毒舌として、もっとも有名なものであった。
 


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 七十八
美人立看板(上巻264頁)

 私が三井呉服店の改革を始めて内部の仕事が軌道に乗り始めたので、今度は広告の方面に力を入れることになった。欧米を遊歴した際に見聞きしてきたアイデアを日本風に焼き直したものが多かった。 
 私が洋行中だった明治二十一、二(18889)年ごろは、あちらでもその後のような広告の方法がまだ発達していなかったそれでもロンドンの目立つ場所で建築中の店は、通りに面した空き地を広告屋に貸して、その料金で建築費の一部がまかなえると言われていた。
 そうした広告にはいろいろな工夫が見られた。私が今でも覚えているのは「ペイヤス・ソープ(注・現在もつづく石鹸メーカーPears Soapーペアーズ・ソープーだろう)」という石鹸屋の看板で、とても愛嬌のある金髪の青年が青い服を着てシャボン玉を吹いている図だった。綺麗で斬新だったから普通の人の目にとまった。
 私はこれを三井呉服店の広告に利用しようと思った。呉服店の看板なので、美人が正装している図柄でなければならない。そのモデルを誰にしようかと探したところ、そのころの新橋に、小ふみという芸者がいて、ほっそりとした昔の辰巳芸者のようである。つぶしの島田に、着物にも髪飾りにもはやりを取り入れてどこからみても完璧な身なりをしていた。

  それであるとき、小ふみにその話を伝え、凝りに凝った衣服を作らせた。それを、呉服店意匠部の美人画担当、島崎柳塢氏が、彼女の等身大の立看板に描き、それを新橋駅の客室の壁に飾ることにしたのである。これこそが、東京、いや日本に出現した、初めての広告立看板だろうと思う。
 小ふみは、日清戦争後の好景気の時代に、新橋でいちばんの売れっ子だった。細くすらりとした粋な姿に加え、一種、江戸っ子風な気性の持ち主で、ある銀行重役のひいきを受けて、着物や髪飾りなどは思いのままに贅沢三昧できたので、こうしたことで当時の新橋の仲間うちで肩を並べる者はなく、まだそのころは年頃だった桂公爵ごひいきのお鯉なども、小ふみ姐さんの好みを目標としてまねをしていたということである。
 小ふみは尾上梅幸のことが好きになり、一時は妻も同然になったが、性格が合わなかったのか「落花心あるも、流水その情なく(注・一方の気持ちが他方に通じないことのたとえ)」、彼女のほうがやがて肺病にかかり臨終のときまで愛人の名を呼んで死んだという。この劇的な最期も、いよいよ美人薄命の見本だと評判になった。
 すこし不謹慎かもしれないが、私はいつも彼女のことを、九条武子夫人とよく似ている点が多いと思っている。その容貌が、またその好みや境遇が非常に似ているだけでなく、若くして亡くなり、人から惜しまれたという点も同じで、一方は華冑(注・華族)界、一方は花柳界という違いはあったものの、ともにいつまでもひとびとの印象に残る麗人であった。身分においては雲泥の差があるが、ちょっとついでに私の感想を記しておく次第である。

 

伊達模様踊り(上巻267頁)

 世間の景気がよくなれば衣服の模様が派手になり不景気になれば地味になるということは、呉服商が長年の経験から明言するところである。明治二十九(1896)年ごろは、日清戦争後の景気膨張時代だったから、むろん世の中の人の好みが派手になろうとしていた。この機に乗じ、私は「伊達模様」という名前をつけた揃いの衣装を作って、新橋の若手の売れっ子芸者たちに贈った。
 この模様は、黄色地に柳桜と胡蝶を染め出した柄で、これを贈ったのは、おきん、きや、清香、五郎ら五人だった。彼女たちは高島田にこの衣装で着飾り、地方(注・じかた=舞いを踊る立方に対し、音楽の演奏者)には、そのころの姐さん格で幅を利かせた喜代治を首席にして、ほうぼうの座敷で踊りまわった。

 そのときの「伊達模様」の一曲は、次のような文句だった。(注・旧字を新字になおした)
 

   「伊達模様」
「これやこの盛り久しき三つ組の、小袖模様の蝶桜、朝な夕なに乙女子が、心の錦身に飾り、裾ふきかえす春風に、誘うて出づる初駒の、勇めば花や匂うらん
「時を経て開くや花の山続き、四方の恵みもいや高き、富士の根仰ぐ駿河町、朝日にうつる白雪は、田子の浦わの水鏡、四海波風おだやかに、鄙も都もおしなべて、つけて目出度くまい納む伊達の模様の数々


 以上の文句は、私が立案したものに平岡吟舟翁が加筆し、節付けも振付も翁が担当した。そういう時代の成り行きだったのか、山室保嘉検校がこの歌に琴の旋律をつけて、ひところ非常に流行しただけでなく今日でもときどき演奏されることがある。当時の記念として私にはもっとも興味のある思い出である。
 また三越呉服店が日露戦争後に元禄踊り、元禄模様を流行させ、明治風俗史にもっとも華やかな一ページを飾ったが、これもこの伊達模様の延長上に位置するものにほかならないのである。


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