だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

タグ:市川三左衛門

【箒のあと(全)・目次ページ】【現代文にするときの方針


  二
戊辰の戦争(上巻5頁)

 明治元(1868)年、明治維新で江戸城が官軍の手にわたってから、それまで水戸城にこもっていた諸生党、つまり佐幕派の朝比奈彌太郎、市川三左衛門らは、もはや幕府からの支持がなくなったので水戸城から脱出し会津軍に身を投じた。しかしその会津もまもなく落城したので、窮鼠の一軍となって再び水戸城を奪還しようとして突然水戸に押し寄せてきた。
 まず大手門の弘道館を乗っ取ったものだから城兵はたいそう驚き、藩士を集めて応戦することになったが、清水六一というつわものが夜陰に乗じて城に攻め入って暴れまわり一時はほとんど落城しそうになった。そのときには私の父なども召集を受け、同じく登城しようとしていた私の姉婿の中西重蔵が中西の父とともに父を迎えにきたが、そのとき身につけていたものはといえば、たっつけ脚絆に草履履き、腰には大小二本の刀を差していた。重蔵の父が腕試しだと言って、さっと太刀を抜いて庭のしだれ梅の枝を五、六本切り払ったその勇ましさは、今なお私の幼時の記憶として鮮明に残っている。


さいみの羽織(上巻6頁)

 水戸は藩始まって以来、党派騒ぎで有名な土地柄であるが、明治維新の直前の、いわゆる天狗党と諸生党の摩擦はひどかった。諸生党が藩政を握れば天狗党を追いやり、天狗党が勢力を占めれば諸生党を虐待するという復讐的な行動が続き、いわば恐怖時代がやってきていた。
 
 であるから、明治元年に天狗党が諸生党の朝比奈、市川らを追い払ってからの、諸生党に対する残虐行為には目も当てられないものがあった。虐殺隊は、さいみの羽織というキツネ色の麻布で作ったユニホームを着て連れだって城下を歩き回り、今日はこの家を襲っただの、あいつに天誅を加えただのという話が伝わってくる。それは、諸生党の全権時代から城下に住んでいた藩士を戦慄におとしいれる悪魔の声であった。
 私も八歳から九歳にかけてこの恐怖時代を経験し、子供ごごろにも大きな恐怖を感じたものだ。私が住んでいた水戸下市三の町は、お城から見て一の町、二の町、三の町と士族屋敷が並ぶ地域であったので、天誅執行官のやり玉に挙げられる家が多かった。昨日は何々家の門前に生首がひとつ落ちていただの、今、何々家にさいみの羽織が踏み込んで家族を惨殺中であるだのという、まがまがしいニュースが次々に飛び込んでくるものだから、士族の家庭では生きた心地もしなかった。
 このころ、うちの筋向かいに、佐野甚次郎という五十歳くらいの藩士が住んでいた。この人物は、有名な「桜田義士」のひとり佐野竹之助の一族の者で、本人も自分を曲げない硬骨なところがあったものだから、きっと天狗党ににらまれたのだろう、ある朝病気で寝ていたところに天誅組数人に押し入られてしまった。彼らは甚次郎をふとんにくるんだまま、二、三町(注・一町は約109メートル)はなれた石垣というところに連れ去り、橋の上から吊るし斬りにしたという噂が伝わってきた。
 そんなことがあるので、私の家にも、あのさいみの羽織が舞い込んで来やしまいかとびくびくして大声で話すこともできず、泣く子も黙るとはこのことかと思われた。今思い返してみても、このようなことが日本で起きたとは信じられないという隔世の感がある。


【箒のあと(全)・目次へ】【箒のあと・次ページへ】                       
                                  

                        





【箒のあと(全)・目次ページ】【現代語訳にするときの方針
 

 一、
幼時の記憶(上巻3頁)

 幼いころの最初の記憶は、人により、また経験したことにより早かったり遅かったりするだろうが、だいたい数え年で四歳ころのもののようだ。私はあるとき山県有朋公とそんな話をしたことがあったが、公爵は四歳のとき、母に抱っこされて水車小屋のあるところに行き、水車の輪がくるくる回るのを見て、なんとおもしろいのだろうと思ったことを覚えていると話しておられた。私も公爵と同じく、四歳のときに水戸で起こった戦争のことを記憶している。

 この戦争は、元治元(1864)年に、水戸藩主の中納言慶篤【よしあつ】の目付であった松平大炊頭頼徳【おおいのかみよりのり】が、当時水戸の政権を実質握っていた朝比奈彌太郎、市川三左衛門など、いわゆる諸生党【佐幕派】を、水戸城から追い出そうとしたところ、朝比奈たちは、たとえ藩主の命令であっても、その背後に武田耕雲斎、田丸稲之衛門、藤田小四郎など天狗党【尊王攘夷派】が控えている以上は、ぜったいに応じるわけにはいかないとして両軍が軍事対決するにいたり、頼徳軍は八月下旬に那珂湊方面から城下にせまり、水戸下市のいくつかの地点で諸生党の城兵と交戦することになってしまった。

 その戦場が、私の生家のあった下市三ノ町のそばだったので、銃の弾が、うちの屋敷内の竹やぶに飛んできて、かちりかちりと音を立て、居ても立ってもいられない。そのとき父は水戸城にでも出かけていたか、とにかく留守だったので、私は母に背負われ、ほかの兄弟と一緒に上市の親戚の家に避難した。
 その途中、昔の軍記物の絵巻から抜け出したような甲冑を着た武士が、槍をたずさえ走っていくのを見かけたが、これが日本で実戦において甲冑を着た最後ではなかろうか。そのとき、そのうちの一人が、右手に持った槍を杖のようについて、大息をはきながら道端で仁王立ちしていた姿が、いまでもありありと目の中に残っている。


腕白小僧(上巻4頁)

 元治元年に水戸城下で起こった戦争中に私が母に連れられて避難したのは、上市の長尾家だった。本来なら母の実家である野々山家に行くところであろうが、野々山家主人である母の兄と、私の父の党派が違ったのだ。
 事件が決着を見るまでの二か月ほどを、縁故の薄い長尾家に頼らなければならなかった母の心労は、どんなに大きかったことだろう。夫妻や家族の機嫌をそこなわないように小さくなっているときに、こんなことがあった。
 長尾家の主人は背中におできが出来ていて戦争にも行けず、秘蔵の盆栽の、きんかんの実が色づくのを眺めていた。まだ四歳の腕白ざかりだった私は、おじさんを驚かそうとしたのか、背後からおできの上をぴしゃりとたたいたので、そうでなくても痛いのをこらえていたご主人は、アッと飛び上がって悲鳴を上げた。その声をききつけて母は平謝りしなければならず、どんなに肩身の狭かったことだろう。そのうえ私が、ご主人秘蔵のきんかんの実を、いつのまにか取って逃げてしまったものだから、母の忍耐もこれまでで、私は罰のためにお灸をすえられてようやくお詫びがすんだことを、子どもごころにもありありと記憶している。
 このときの戦争のことを水戸では「子年のお騒ぎ」と称し、多くのおそろしいエピソードが残っている。

                   
 【箒のあと(全)・目次へ】  【箒のあと・次ページへ】                                 


                        

                                                                  

このページのトップヘ