だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十三 現役大臣の茶の湯(下巻534頁)


 昭和六(1931)年四月初旬、司法大臣で子爵の渡辺千冬氏が、ある骨董商から偶然手に入れられた清朝御府(注・ぎょふ。皇帝の宝庫)伝来の茶碗は、口径四寸(注・一寸は約3センチ)、高さ一寸七、八分くらいで、春先専用の薄茶茶碗としては、このうえない寸法(注・サイズ)である。また内外は薄桃色で、ところどころに、いわゆる煎餅ぶくれがあり、口縁の外側から青釉がどろどろと一ナダレになっているのが、なんともいえない「景色」になっている。
 見込(注・茶碗内部の底)には黒金気釉で「花碗」の二大字が現れている。その筆づかいがすこぶる古雅で、古い法帖(注・ほうじょう=名筆鑑賞用の折り本)の文字を見るようなおもむきで、また、この茶碗を包んだ黄絹の風呂敷に、乾隆皇帝之章という大朱印が押されているところを見ると、あるいは幕府の什物であった可能性もある。
 ところで渡辺法相は、最近東京に「添光会」という茶会を設けて実物教育の宗匠を自任している加賀金沢の裏千家流茶人である越沢宗見と知り合いなので、彼にその茶碗を見せてみると、宗見は激賞し「閣下、もしこの茶碗がご不用なら、即座に拙者にお譲りあれ、もしまたご所蔵なさるるならば、ぜひとも、この茶碗びらき(注・披露)の一会を催さるべし」と言われたので、法相も非常にその気になり、では宗匠の才覚でその一会を催すことができるよう、それぞれの用意を整えるようにとの命令を下された。

 宗見はおおいによろこび、さっそく私にその一部始終を語ってくれた。また、その茶碗も見せてくれたが、これこそ、それまでの茶人が絵高麗と言い慣わしているものであった。絵高麗とは、はじめシナで製造されていたが、朝鮮で模造されるようになり、そちらの模様のほうがかえって世間に知られるようになって、ついには絵高麗と呼ばれるようになったものであるがこの花碗は、まちがいなくシナの窯元の製造になるもののようで、古陶器研究のうえで絶好(原文「屈竟」)の資料になるばかりでなく、じっさいの茶事に使ってもまた、しごく面白いものなので、私は、かの有名な博多文琳茶入が楊貴妃の白粉壺だと言い伝えられている例にならい、この茶碗も、楊貴妃に縁故のある品であるとみなし、これに付属するのに適当な女性的な薄手の茶杓を作り、銘を紅唇とした。その筒には、

    楊貴妃の口やふれけむ花の碗

としたため、宗見に与えた。
 こうして、茶碗と茶杓はそろったが、茶入のほうはどうしたらよいかという問題が起こった。そのとき宗見が、「先日ある機会に、貴族院議員の伊東祐弘子爵が所蔵する茶器を拝見したが、そのなかに、徳川初期の、子爵家の主人だった人が作らせたという茶入が、いくつか裸のままで残っているのを見た」という。この主人は、小堀遠州らと茶交があったらしく、その指導によって帖佐、高取その他、九州の窯に製作させたものらしい。渡辺法相は伊東子爵と懇意なので、その茶入のなかの一個を分けてもらえないか頼んでみて、今度の茶会に組み合わせるのがよい考えではなかろうか、ということだった。
 そこで、そのことを宗見から法相に進言し、法相から伊東子爵に相談してみると、それはよい廃物利用になると子爵は非常によろこんで快諾してくれた。
 これで茶会の主要品である茶碗、茶杓、茶入の三点が、あっというまに顔を揃えたことは、宗見の才覚が抜群であったからではあるものの、これこそ、花碗が世に現れる不思議の因縁と言わなくてはならないだろう。

 このような次第で花碗茶会の主要品が揃うと、渡辺子爵は四月二十三日正午に、豊多摩郡府中町の加藤(注・昭和茶会記によると加藤辰弥)氏の鳩林庵荘不識庵にて、正式な茶会を催された。
 当日の掛物は、西園寺陶庵公揮毫の色紙の表装が間に合わなかったので、同公筆の発句短冊で代用することになったが、その後ほどなく、表具のできあがった一軸は、金地色紙に、


  一枝国艶 両腋清風 
        坐茅漁荘主人時年八十有三印


という文句であった。楊貴妃と廬同(注・唐詩人)の故典を対句にしたところ(注・白居易「長恨歌」のなかの「一枝紅艶」と、廬同「七碗茶詩」のなかの「唯覚両腋習習清風生」からとったものか)など、ぴったりの(原文「寸分動かぬ」)思いつきだった。
 そのほかも、どれもが花碗を盛り立てる気の利いた飾りつけだった。懐石のときに、広間の床に掛けられた二幅対は、会主の先君子(注・亡父)である、無辺居士国武翁(注・渡辺国武)愛蔵の、


  臨済喝得口破
  徳山捧得手穿


という、清巌和尚の墨蹟中、稀有の傑作と見受けられた。
 こうして、午後四時ごろ、花碗茶会は大成功のうちに終了した。これは、茶道にとりまことに喜ばしいことであった。
 そもそも維新前においては、徳川将軍家をはじめとして、国持大名、幕府老中らが茶会を催したという例は多い。京都においても、関白諸公が、みずから茶会を開かれたということも少なくない。しかし維新後には、山県含雪公爵、井上世外侯爵が、晩年にみずから茶事を行われたということはあっても、現役大臣という立場でそれを試みた人はいなかった。それが今回、花碗の因縁により、後代の語り草ともなるような会を渡辺法相が催されたということは、いろいろな意味において、真の快挙であり浄業(注・じょうごう=善い行い)であったと思う。
 私は、法相が、この茶会をきっかけに、さらに奥深く茶道に踏み入り、政界において、ある意味、出色の大臣となるだけでなく、茶界においても、今後、より大きな足跡を残されることを、ひとえに期待する次第である。

 


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二百七十五  若州酒井家名器(下巻464頁)

 若州(注・若狭、現福井県)酒井家、空印忠勝は、小堀遠州とのあいだに茶に関することでの交渉事が持ったことがある。遠州が茶器買収のために公用金を使い込んでしまったとき、三代将軍は国持大名に内命して援助させたかわりに、遠州からそれぞれの大名に茶器を分譲したのだそうで、このとき酒井家では、有名な飛鳥川の茶入を引き取ったという伝説が残っている。

 そのように本来名器に富んだ家柄であるところにもってきて、安政年間に京都所司代を勤めた忠義公が有名な名器蒐集家で、当時、名器に関して「大鰐」の異名を持っていた。実際、柳営御物(注・幕府徳川家の所持する名物茶道具)中の名品である青磁吉野山花入を手に入れようとしたのであるが、幕府にあってはどうすることもできない。そこで、和宮降嫁の際に、幕府からこれを天朝(注・天皇家)に献納させ、天朝から所司代への周旋へのねぎらいとして、これを酒井家に下賜させたという逸話が残る。
 そのほか、京都の本願寺、あるいは三井家から譲り受けた名器の数も少なくなく、維新の際には多数の蔵器を処分したけれども、名器に関してはそのまま保蔵されていたので、大正八、九(191920)年になって、同家旧臣のうちで、その処分論がなされたとき、和田維四郎(注・つなしろう)氏の提議で、家祖が家康公から拝領したというような伝来の名器は論外であるが、歴代主人が自己の嗜好で蒐集した道具に関しては、それを処分しても差し支えないだろう、たとえば、当家には、狩猟を好んで鹿の頭を多数収蔵された主人がいるが、その鹿の頭を永世保存しなくてはならないという理由はないのと同時に、後年になってから蒐集した茶器を処分してはならないという理由もないはずだ、という意見に賛成者が多かった。
 そこで、大正十二(1923)年、益田鈍翁に宰領を委託することになり、最初は、大阪の戸田露朝を盟主とした道具商連合団体に対して、約百二十点を百二十万円で譲渡しようとした。しかし道具商団体のほうが尻込みして応じなかったため、同年六月中旬、とうとう入札売却することになったのである。
 そうしたところが、この売上総高が、実に二百四十万円に達し、一品平均で二万円に相当したのであるから、これはまったく空前にして、おそらく絶後の道具入札会であったということができるだろう。
 この入札会においては、五万円以上の名品が十三点の多数にのぼったが、その名称と落札価格を次に示しておく。

  大名物国司茄子茶入    金二十万円
  光長筆吉備大臣入唐絵巻物 金十八万八千九百円
  大名物北野肩衝茶入    金十五万九千二百円
  大名物角木花入      金九万八千円
  名物玉柏茶入       金九万千百円
  名物畠山茶入       金九万円
  名物木下丸壺茶入     金八万三千九百円
  名物二徳三島茶碗     金七万六千二百円
  名物粉引三島茶碗     金七万六千二百円
  名物橋姫茶入       金七万四千九百円
  名物坂部井戸茶碗     金七万千九百十円
  大名物寺沢丸壺茶入    金五万七千九百十円
  名物割高台茶碗      金五万千九百十円


 以上の入札では、最初に道具屋連合での買収をやろうとした大阪の戸田が、第一番の大手筋(注・大口落札者)となった。戸田は、土佐光長筆の吉備大臣入唐絵巻物や、名物橋姫茶入などを主なものとして、一手に、実に七十万円に達する落札を行ったということだ。これぞ、戸田露朝一代の晴れ業として、後日の語り草となるであろう。
 また、紳士好事家の側では、北三井家が大手筋だったが、これは安政年間に酒井家から買い上げられた品々を、今回買い戻されたもので、大名物北野肩衝茶入(注・国宝、名物粉引茶碗、二徳三島茶碗などがそれである。(注・三点とも、現在も三井記念館蔵)
 またこの入札会の宰領であった益田鈍翁は、名物玉柏茶入、梁楷筆鶏骨、名物夕陽天目などを買収され、大阪の藤田男爵(注・藤田平太郎、伝三郎の長男)は、大名物国司茄子茶入、同角木花入を買収されたが、この国司茄子は、実に茶入のレコード破りであった。(注・国司茄子茶入、古銅角木花入ともに、現在も藤田美術館蔵)
 その他、横浜の原三渓氏が、名物畠山茶入を(注・現在は畠山記念館蔵)、名古屋の富田重助氏が、利休鶴首茶入を、岩原謙庵氏が大名物羽室文琳茶入を、馬越化生翁が瀬戸黄河茶入を、それぞれ落札されたので、この入札会は大成功をもって終局したのである。
 それだけではなく、この入札代金が酒井家に収納されて間もなく、あの大震火災(注・関東大震災)が起こったので、道具社会が一時混乱状態に陥っても酒井家は取引上なんらの支障も蒙らなかったことは、くれぐれも同家の幸運であったということで、同家は震火災罹災者に対し、即時金三十万円の寄付を行われたということだ。
 とかく道具入札売却には、その場合に応じて、非常な幸となる場合と、不幸となる場合があるものであるが、酒井家の場合は、もちろん無上の幸運だったといえよう。これは、単に同家にとってというばかりでなく、長年愛蔵されていた名器にとっても、しあわせなことだったのである。名器もまた格外に出世して、おおいに面目を施した。この入札会は、大正初年以来の幾多の大入札会の中において、長く記憶されることになるだろう。

 


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二百七十一  アインシユタイン博士の来庵(下巻450頁)

 大正十一(1922)年十一月二十九日午前十時、アインシュタイン博士が茶の湯の見学(原文「茶式見学」)のため、夫人同道で、わが伽藍洞(注・高橋箒庵の赤坂邸)の一木庵を訪問されたことは、本庵にとってまことに光栄の至りであった。
 博士夫妻は来日以来、能楽を観覧したり邦楽を聴聞したりして、日本の文芸について深い興味を感じられたということで、本邦に固有の茶の湯についても、ぜひ研究したいとのことで、福澤三八君の紹介でこの日来庵されたのである。
 私は博士をひと目見て、まずその相貌に敬服した。博士は、ドイツ人としては大兵というほどでもないが、あまり小さいほうでもなかった。髪が縮れているのが異様であり、色が白く、下膨れである。豊満な顔の道具(注・パーツ)がよく揃っており、丸い目は、切れ長で、微笑するときが現れ、得も言われぬ愛嬌をたたえる。柔和で沈着で、対面したばかりのときから私はその徳風に魅了されてしまった。
 私は、博士に訪問していただくことを幸いに、茶道の本旨をできるだけ説明して参考にしていただこうと考えていたのだが、博士の在邸時間が一時間十五分だけだったのと、茶道用語の翻訳が、なかなか容易でなかったことから、改造社の稲垣守克君が流暢なドイツ語で熱心に通訳されたにもかかわらず、思ったことの十のうちの一をも言い尽くすことができなかったことは非常に残念であった。
 しかし、ちょうど口切茶会(注・毎年11月にその年の五月に摘んで保存した新茶の封を切る茶会)を開催している最中だったので、まず寄付から案内を始め、床に掛けた松花堂(注・松花堂昭乗)の消息は、三代将軍家光が小堀遠州の品川御殿山茶会に臨まれたとき、その光栄を祝した手紙であるということや、寄付の床掛けとは、茶客が他の同席者とそこで待っているときに読んで楽しむものであることを説明した。

 次に、茶客が全員揃った時、庵主が寄付に客を出迎える時のやり方を見せた。客は、寄付から露地に出て、つくばいの清水で嗽ぎ(注・くちすすぎ)を行う。これには、入席前に口内とともに心頭を清浄にするという謂われがあることを説明した。
 つづいて、狭いにじり口から、三畳半の一木庵にはいっていただいた。そして、床に掛けた、三代将軍筆の木兎(注・みみずく)に沢庵和尚の讃がある一軸の由来を説明し終えたのち、すぐに炭手前をお見せしたのである。
 さて炭手前の最中、釜を上げて、すぐさま、長次郎焼の焙烙(注・ほうろく)に盛った湿し灰(注・しめしばい)を炉の中に振り撒くときに、私は、この湿し灰を撒くのは、ひとつには灰燼を鎮めるという目的、もうひとつには、火勢を助ける目的があることを説明した。すると博士は、四百年前の日本の茶人が、すでに物理学の原理に基づいて炭手前の湿し灰を使い始めていたという注意周到さに感心されたようすだった。
 また炭手前の終わりに染付荘子香合から銘九重という練香を取り出して、それを炉中に投じ炭臭を消すという趣向にも、一興を催されたようだった。
 その後、懐石の膳腕器具を順番に並べ、日本の茶席の懐石は、禅僧の応量器(注・禅僧の食器。托鉢)にならったもので、なるべく庵主の手を煩わさずに、はじめから終わりまで客の方で始末を行う次第を述べた。
 懐石が終ると、中立といって、いったん客を腰掛にまで立ち退かせる。そのあいだに室内を清掃し、掛物を花入と取り換え、濃茶の支度がすでに整った合図として、銅鑼七点(注・大小大小中中大と鳴らすやり方)を打ち鳴らすという方式について説明した。実際に中立はしてもらわなかったが、ためしに銅鑼を鳴らし、その風情を示したのである。
 こうして、いよいよ濃茶手前にはいった。青竹の蓋置に柄杓をおろして端座したとき、もともと濃茶手前の身構えは禅僧の結跏趺坐を変形させたもので、両足の親指を重ね合わせ、四十五度の角度に両股を開き、下腹にうんと力を入れて正座するものであること、左右に動くときにも常にこの四十五度の角度を保って、八回動けば身体が一周することになることを説明した。
 ここで、この態勢で手前に取り掛かった。心を丹田に落ちつけて、無念無想の境に入れば、百万の大敵が襲い掛かって来ようとも、百雷が一時に落ちて来ようとも、泰然自若として微動だにしないという男気が全身に満ちているのだと言ったが、それを通訳が説明し終えると、博士も、なるほどと感服したようであった。
 しかし、だんだんと濃茶器を取り出し、茶入、茶碗、茶杓などにそれぞれの名称があるのを説明したときには、博士も夫人も、鳩が豆鉄砲を食らったように目を丸くして、いっこうに合点がいかなかったのは無理もないだろう。ドイツなどで言ったら、食事中にテーブルの上に並んでいる茶碗や皿鉢に、飛鳥川とか、玉柏とか、布引とか、白波などという風雅が名前がついているわけだから、それを不思議に感じるのは、まことに当然のことであろう。日本の名物茶器は、いつもそれを擬人化して、茶器を室内に飾るのはその茶器に縁故ある故人の魂をその場に招くのと同然であるということを理解するのは、不滅衰の相対原理発見の大学者にとっても決して簡単なことではあるまいと思う。
 こうして一応、茶事の説明を終えると、庭前の利休堂に案内し、聞香の形式をお見せし、また、編纂中の名器鑑の材料などを展示したのであるが、なんといっても時間が短かったので、博士が会得されるまでの十分な説明をすることができなかったことは、まことに遺憾の至りであった。
 しかし、世界的な大学者を自庵に迎え、茶式の一端を説明することができたことは、私の一生のなかでも、もっとも愉快な出来事であった。
 


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百四十九  実業界引退後の感想(下巻3頁)

 私は前述した通り、明治四十四(1911)年末をもち二十一年間打ち込んできた実業界を引退し、いよいよ閑散の身(注・仕事がなくひまな人)となった。このような境遇に行き当たった人のことを、文人風に形容すると「閑雲野鶴」と昔から言いならわされている。自分自身を鶴になぞらえるのは少し僭越の嫌いがあるとは思うが、とにかく、自由の身となった感想を詠じ次の一首ができた。

   飲啄樊籠二十年 老来夢到来丸皐天 一朝振翼去何処 不是雲中已即水辺
   注・樊籠=はんろう。鳥かご 丸皐天=詩経「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ=深い谷底で鳴いても、鶴の声は天に聞こえる」から)

 さて、実業界を引退したことにつき、多年深く世話になった(原文「厚誼を辱(かたじけ)なうした」)井上侯爵夫妻に感謝の気持ちを示したいと思い、明治四十四(1911)年も終わりに近づいた(原文「年の尾も早や二、三寸に迫った」)十二月二十九日に、侯爵が避寒されていた興津の別荘に夫婦そろって訪問し、先だって男の子が生まれたときに名前をつけていただいたお礼も述べた。その足ですぐに京都に向かい、祇園鳥居前の杉の井旅館に宿を取り、大晦日には次の一首を口ずさんだ。

   入相の鐘のひびきも身にしみて 真葛ヶ原に年暮れんとす

 明けて、明治四十五(1912)年元旦、勤めのない身の気楽さから、日が高くのぼってもまだ起き出さない(原文「日高きこと三竿(さんかん)、猶ほ未だ起きず」)といったありさまだったので、

   旅人の心のどけき東山 朝いの床に年立ちにけり

という一首を詠じた。
 それからゆるゆると起き出して朝食をとると、年頭にはまず嫡男の息災を祈願するため、夫婦連れだち車を男山八幡宮(注・石清水八幡宮)に飛ばした。
 そこでほがらかな日光を浴びつつ社殿に参拝後、私がかねてから隠者の見本、風流の本尊として、わが後半生のためにもっとも多くを学びたいと思っていた真言密教の隠者である松花堂昭乗の遺跡をたずねた。
 ところが維新直後の神仏分離の嵐が、瀧本坊、萩の坊をはじめとする三十六坊を吹きまくり、松花堂のありかさえも人に尋ねでもしなければわからないという状態だった。
 もともと松花堂は真言宗の僧正であるが、晩年、松花堂に引き籠り風流三昧の生活にはいった。興がわくと大師流の筆をふるい、牧谿風の絵画を描いた。また、後年「八幡名物」と呼ばれるようになった数々の名器で交流茶事を催し、遠州(注・小堀遠州)、江月(注・江月宗玩)、光悦(注・本阿弥光悦)、沢庵(注・沢庵宗彭。そうほう)、長嘯(注・ちょうしょう。木下勝俊)などの名流(注・有名人)と深く文雅(注・詩文を詠んだりする風雅な道)の交わりを行った。彼の遺した風雅の余韻を私は常に欽慕(注・敬い慕う)してやまない。あまりの惨状に茫然とし(原文「俯仰感慨のあまり」)、

    男山松吹く風にうそふきて 心澄ましし人をしぞおもふ

の一首を書き留めるだけで帰ることにしたが、後年、私たちが松花堂会を発足させて八幡山下の竹やぶの中に散乱していた墓石を拾い集め、松花堂の師である実乗のものも一緒にして今日のように修理したのは、このときに私の頭の中に湧き上がった理想が実現されたものなのである。

 翌二日には武藤山治夫妻を、播州(注兵庫県)舞子の仮住まいに訪ねた。そのときにも、次の腰折(注・自作の和歌を謙遜する言い方)を詠んだ。

    蘆田鶴の舞子の浜に住む友と 年のほぎごとかはすめでたさ

 このようにして三が日を京畿の旅で過ごして帰京した私は、それから後半生の門出を迎えることになった。
 もともと私は実業畑の人間ではない。ただ、持って生まれた趣味的な性分を満足させるためには、一時実業界に身を置き家計的な安定の基礎を作り、その上でゆるゆると趣味の林に遊ぼうという二股根性を持っていた。それで心ならずも踏み入った実業界に二十一年間を過ごし、今ようやく本街道に這い出したところなのであった。それでしばらく身体を休めて、安閑とした月日を送っていたのだが、その心境は宋の陸放翁が、家から遠く離れた成都での七年にわたる官吏の仕事をやめて郷里に帰ったときに、

   遶檐点滴和琴筑(檐=のき、遶=めぐる、点滴=雨だれ、琴筑=ともに弦楽器)
   支枕幽斎聴始奇(幽斎=静かな部屋 )

   憶在錦城歌吹海(錦城=成都の別名、歌吹海=歓楽街) 
   七年夜雨曾不知(曾=かつて)
 

(注・大意「静かな部屋で枕にもたれて雨だれの音をきいていたら、成都の歓楽街できいた弦楽器の音にきこえた。七年間、雨だれの音をきいたことがなかった」)

と詠じたのと、やや似ているところがあると思う。私はすぐに「夜の雨」という題名の新曲を作ってみた。次のようなものである。
 
  「夜の雨」
本調子玉水の軒端をつたう声すなり、琴からあらぬかほどぎにも、似たるしらべの面白や、昔陸放翁は、蜀の都のつかさを罷め、我が故郷にかえり来て、寝覚の床のつれづれに、七年知らで過ごしつる、雨の音色を愛でしとかや。
世の中の有情無情の物の音は、自からなる調べあり、峰の松風、磯の浪、枝の鶯、田の蛙、千草にすだく虫の音や、妻恋う鹿の声までも、宮商呂律の外ならず、ましてや是れは天地の、情を籠めてふる雨の。(注・宮、商は、雅楽の音階)
二上り春辺にきけば、しめやかに、鳥のねぐらをうるして、花を催すのどけさよ、又五月雨はふり暮し、或る夜ひそかに松の月、晴るる間もなく、サラサラと、小笹にそそぐわびしさも、何時か薄ぎり、うちなびき、桐の一葉に秋の来て、ころぎなきつ、村雨の、音聞く夜半に、独りかもねん。
三下りさんさ時雨か、茅野の雨か、音もせで来てぬれかかる、ヨイヨイヨイヤサ、実にりがたや、天が下、賤が伏家も、百敷の、大宮人の高殿も、へだてはあらじ、雨の音、四季りの夜の窓、心ごころに、聞くぞたのしき。

 この「夜の雨」には、平岡吟舟翁が東明流の節付けをしたので、それ以来同流の一曲となり、自分でも唄いまた人が謡うのを聞いて、自然とその年の思い出としている。


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九十二  寸松庵開き(上巻313頁)


 私が明治二十八(1895)年に大阪から東京に呼び戻され三井呉服店の理事になると、仕事柄それまでの書生生活から抜け出し、ひとかどの紳士になりすますことになった。書画、骨董、茶事、音楽、演劇、相撲、はたまた花柳界にも手を伸ばすことになり、その勉強や道楽でいくら時間があっても足りないほどだった。
 その中でも、まず茶道について話そう。三井家の主人はもともと本拠地が京都だったので、茶道の流派はたいてい表千家であった。その好みは番頭たちにも伝染し、益田孝、馬越恭平、木村正幹、上田安三郎はすでに相当の数寄者になっていた。旧番頭のなかにも齋藤専蔵、今井友五郎らの茶人がいたので、朱に交われば赤くなるのたとえのとおり、私もしばしばこの人たちから招かれることが重なると天性の嗜好油を注ぐことになり、彼らとの交際に忙殺されるようになっていった。
 これに先立ち、私は益田克徳氏の茶会を皮切りに(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)大阪にいるあいだにもしばしば茶室入りしていたが、明治二十八(1895)年に東京に移ってからは病みつきになっていったのである。
 明治三十一(1898)年に麹町一番町に新宅を建設したときには茶室、露地の設計を益田克徳氏に依頼した。そして、あの五か条の御誓文の起案者として有名で、当時新宿御苑の一部に住んでいた由利公正子爵から、その邸内にあった寸松庵という三畳台目の茶室を譲り受けることになった。

 この茶は寛永の昔、徳川三代の将軍の茶道師範だった佐久間将監真勝が京都紫野大徳寺境内に創建したものである。小堀遠州の孤蓬庵の向かいにあり、開基は江月和尚、初住は翠巌禅師で、異彩をはなつ唐門をはじめ建築上のさまざまな趣向が施されていたという。
 この寸松庵が明治十二(1879)年に維持困難になり、ついに取り壊されたとき、石山子爵がその茶室を引き受け東京の新宿御苑の一部の土地を借りて移築された。茶席のほかに、二畳敷、中二階式の袴付席があり、庵に付属していた播知釜(注・織田信長が佐久間信盛に与えた釜)や、与次郎(注・千利休の釜師、辻与次郎)の五徳なども一緒に、杉孫七郎子爵の仲立ちで私が譲り受けることになった。そのとき杉子爵から私に送られた狂歌は、


 お値段はたかはし【高橋にてもよしを義雄かへ 袴つけたる佐久間将監


というのであった。
 益田克徳氏は、この袴付席を、邸内の東南寄りの竹林中に建てることにし、露地の設計に非常に苦心された。私は大阪に滞在中に毎日曜日ごとに寺院を巡っているうちに伽藍石に対する愛好心を持つようになり(注・72「古社寺の巡礼」を参照のこと)、その熱が充満している時期だったので、奈良地方を中心に畿内各地にある千年以上の古寺院にあった蹲踞【つくばい】石、伽藍石、石塔などを物色し、法華寺の大伽藍石七個、海龍王寺の団扇形蹲踞石、法隆寺の煉石十三重塔などを買い取っていた。それを庭の要所要所に配置した。
 益田氏は、栃木塩原の景勝の縮図を庭園内に写して作庭を行った。わずか千坪の小さな庭ながら、奈良の古石を東京に持ってくるのは、この庭が初めてだったので、東京の好事家の目を驚かすことになった。井上侯爵が内田山邸に奈良石を搬入されたのは、このあと一、二年後のことだった。

 こうしてこの席は、旧名である寸松庵を襲名し、席開きの茶会のときには床の間に紀貫之筆の丹地鼈甲紋寸松庵色紙の、


 年ふれはよはひはおいぬしかはあれと 花をし見れは物おもひもなし 


というのを掛けた。
 この色紙は、古来、古筆家が紀貫之であると認定したもので、同筆として高野切、家集切【いえのしゅうぎれ】などがあるが、この色紙が最高傑作であるとされている。最初、和泉の堺の南宗寺にあったものを、初代の古筆了佐の鑑定を経て、烏丸光広卿が買い取った。そのときには三十六枚あったが、その後、佐久間将監が中から十二枚選び出し、色紙の歌に相応する図柄の古扇面を取り合わせ、色紙を上に、扇面を下に貼りまぜて一帖を作り、寸松庵の備品にしたのである。それを世間で寸松庵色紙と呼ぶようになったために、この名前がある。
 その扇面帖は、その後一枚一枚に分散し、現在の所在がわかっている二十九枚のうち扇面まで揃っているのは、わずか四、五枚に過ぎない。
 私は寸松庵開きのために是非ともこの色紙がほしいと思い、三十一(1898)年に一枚手に入れた。それは千円ほどであったが、それから二、三年後にまた手に入れたときには三千円にまで値上がりしていた。その後も大正五(1916)年には二万二千円というものがあり、同十四(1925)年ごろには五万三百円というレコード破りがあった。
 私は明治四十二(1909)年に、この色紙のうちの十七枚を模写して一帖を作り(注・模写したのは田中親美)、田中(注・光顕)宮内大臣の手を経て明治天皇皇后陛下に献上した。その後十数年たってから名古屋の森川勘一郎氏が模写させたときには多数の新発見があり、総数は二十九枚に達していた。
 私の寸松庵開きには、例の播知釜を用い、東久世通禧、松浦詮伯爵、三井(注・松籟か)、石黒(注・忠悳)、益田(注・孝)、赤星(注・弥之助)、安田(注・善次郎)、馬越(注・恭平)などの当時の長老茶人を招待したので、たちまちこの方面の評判になり、さっそく推薦されて和敬会の会員になった。いわゆる十六羅漢の一員になり、それから今日まで茶人仲間として在籍することになったのである。これが、私の三十七、八歳のころのできごとである。


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八十一  渡辺の鬼の腕(上巻275頁)

 渡辺(注・わたなべき、わたなべすすむ)氏は信州松代の出身で、明治のはじめに検事総長になり大久保利通卿の信任を得て飛ぶ鳥を落とす勢いを示していた。先代の安田善次郎氏と懇意で金銭的にも余裕があったようで、明治十二、三(187980)年ごろの茶道具買入れだった。茶道の宗流の大宗匠を気取り、骨ばったやせ形で精悍なようすが顔にも現れ、傲慢に人の上に立つというふうだった。
 取り巻きのひとりだった先々代の古筆了仲などは「御前(注・ごぜん)が当代の豊太閤ならば、拙は表向き、利休でげしょう」と持ち上げ、どこの茶会でも無条件に正客になるという豪勢ぶりだった。

 そういう渡辺に、いまに伝えられているふたつの逸話がある。
 ひとつは、彼が明治十三(1880)年に報知新聞社長の小西義敬の茶会に臨席したときのことだ。いつものように正客の座に着き、主人が、呉須赤絵四方入よういり椿という、ふたの四隅が内側に入り込んで、甲に椿の赤絵のある香合を取り出した。それを見た渡辺がすかさず、ぐっと反り身になって一同を見渡し、「諸君、これは呉須赤絵四方入よもにゅう椿という香合で、いたって稀なるものであるから、とくと見ておかるるがよろしい」と、ものしり顔に説明した。それを末座できいていた道具商の梅澤安蔵は吹き出したいのを我慢して、その場はことなく終わったが、そのあとたちまちうわさを流した。いつも憎らしいと思っている渡辺のことなので茶人どもはおおいに喜び、このときから渡辺のことを「よもにゅう先生」と呼んだそうだ。(注・「四方入」は、「よほういり」と呼ばれるようだ。通は、音をつづめて「よういり」と呼んだものか。https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_05/02087_001.html )

 もう一つの話は、同じころに安田松翁【善次郎】の茶会に臨んだときのことだ。主人である翁が、当時の二百円で買いたてのほやほやだった染付張鼈甲牛の香合を一覧にいれた。すると渡辺は、主人とはとりわけ親しい間柄ということもあり、またいつものように悪態をつき、「ご主人、この香合は偽物だよ」と言い放った。それをきいた安田翁は静かに香合を取り戻し「さらばこの香合めが、ふたたび人を化かさぬよう、私が成敗いたします」と言うやいなや膝の下に敷き、粉々に打ち砕いてしまったそうだ。

 渡辺は前述したとおり明治初期における新進茶人の巨頭で茶器の大口購入者だったので、しぜんと名器を見せに行く者も多かったのだろう。明治十九(1886)年ごろ、小堀宗中の家に伝わった、いわゆる「遠州蔵帳(注・えんしゅうくらちょう)」の二つの長持を買い取った。

 そもそも小堀遠州の家は、五代目(注・じっさいには六代)の政方(注・まさみち)が伏見奉行の失敗(注・御用金を不正に着服)で、一時、闕所(注・けっしょ。領地財産を没収される刑)になっていた。(注・天明八(1788)年のこと

 それが、天保年間(注・じっさいには文政十一(1828)年に、政方甥の政優(注・まさやす)宗中の時代に幕府の旗本に召し出されてその時に伝家の名器も返還された。これがいわゆる遠州蔵帳品であった。
 渡辺はこの二長持を四千円で譲り受けたのである。そのときの気焔といったら、先祖の渡辺の綱が、羅生門の鬼の腕を斬り落としたのと同じくらいのすごさであった。このときから宗流を遠州流に改め、茶器収蔵家として世間を下に見おろす勢いを見せたものだった。

 さて明治二十九(1896)年、彼の臨終の間際になり、道具商の梅澤安蔵、池田江村が札元になり、星ヶ岡茶寮においてその蔵器の一部を売却することになった。その価格はまだ非常に安く、私の記憶するところでは次のような落札品が見られた。

 一、清拙禅師筆平心二大字    金弐千円
 一、牧谿筆青黄牛        金壱千参百円

 一、古銅雲耳花入        金五百余円
 一、雪舟筆竹に雀竪幅      金五百余円
 一、土佐光信下絵蘆屋霰馬地紋釜 金三百五十円 

これでも明治二十五(1892)年の河村家入札よりは三、四倍は値上がりしたようである。しかし大正中期に比較すると二十分の一にも満たない相場だった。(注・河村家入札については64に記事あり)
 

 この渡辺家入札で、染付大壺に納めてあった有名な初音の香木があり、これが一悶着をおこした。その香木は、大壺と別々に入札するようにと付記してあったのだが、井上馨侯爵が壺と香木を一品とみなして入札してしまった。それで札元と議論になり、最後には井上対渡辺の交渉に持ち越されるという道具界始まって以来の騒動になった。この事件について、札元だった東京の道具商梅澤安蔵はこのように語っている。
 「渡辺さんの道具売立は明治二十九年で、このなかに小堀遠州が秘蔵していた初音の香木がありました。この香木は藤四郎(注・瀬戸焼開祖)作の瀬戸水指の中に入れ、その香気の失せざるよう、さらにこれを染付の大に納めておきましたので、入札の際、染付大壺と香木入り水指を別々にし、香木に千六百円の止札(注・最低希望価格)を入れておいたところ、井上侯が染付大壺を七百円ばかりで落札し、香木もその中に含んでいるはずだと言い張るので、札元はその事由を弁明し、いかに井上侯のご請求でも、これに応ずるわけにはいかぬと跳び付くれば、侯は烈火のごとくに怒って、ここに大悶着が起こったのである。このとき益田孝さんが中に立って、調停を試みられたが、話が容易にまとまらず、大に閉口せられましたが、もともと井上侯の言い分が無理なので、ほどふるにしたがって、とうとう泣き寝入りとなり、染付大を札元方に引き取って、ようやくけりがつきましたが、このとき、かの清拙禅師の平心二大字幅を落札した益田さんは、私等にむかい、なにごとも「平心、平心」と言って笑われました云々」
 この渡入札は香木事件で一段と有名になったが、明治中期における唯一の大入札でもあって、維新後のわが国の道具移動史のなかで特筆すべきものであろう。


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