だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十七  栂尾高山寺遺香庵(下巻544頁)

 明治六(1931)年は、栂尾【とがのお】高山寺開祖の明恵(注・みょうえ)上人の七百年遠忌に当たっていた。上人は、建仁寺を開山した栄西禅師から三個の茶の実を贈られらたのを、まず栂尾の三本木に植えた。以来、その茶樹が非常に繁殖し、栂尾では狭く感じられるようになったので、上人みずからが宇治に出向き、茶園に適当な地所を視察し、駒の蹄影【あしかげ】という場所をよしとされた。その時の歌がある。

    栂山の尾上の茶の木わけ植ゑて あとぞ生ふべし駒の蹄影

 宇治の茶園がさらにふえるにつれ、それがだんだん日本全国に広がっていった。今では内地の供給を満たすだけでなく、国産品の主要品として年々海外に輸出されるようにまでなったのであるから、上人は、実に日本茶の大恩人といわざるを得ない。
 そこで、京都、大阪、宇治などの茶人、茶商らが、報恩のために、今度の遠忌に際しそれ相応の記念事業を行いたいと希望した。そして、結局、明恵上人遠忌記念(注・記念会?)というものを組織し、大久保利武侯爵を会長に推した。
 その会では一、二年前から資金募集に着手していたが、昭和五(1930)年十一月上旬に、大久保侯爵がわざわざ私の伽藍洞を訪問され次のように言われた。
「自分は先ごろ京都に滞在中、同地の有志者から、明恵上人七百年遠忌事業に関して相談を受けた。上人は島津公爵家の祖先、忠久と旧縁があり、長く栂尾高山寺に納めてあった忠久の肖像を、先年、島津家に譲り受けたことなどもある。そして自分もひごろから、上人の学徳を欽慕している。この事業が順調に進行することを希望しているので、今日は、貴下にも何分の援助を乞うために突然来訪した次第である。」
このように言われたので、私はよろこんでこの勧誘に応じた。

 そして、十一月中旬、入洛のついでに高山寺を訪問し、宮内省図書量御用掛の猪隈信男、光悦会世話役の土橋嘉兵衛の両老を同伴し、当山第一の保護建造物である石水院、そして、鎌倉初期の経巻、什器などを多数収蔵している宝庫などを巡覧した。

 今度の遠忌記念事業において、どのようなものを提供するのがいちばんふさわしいかを相談したところ、同山景勝の地に一棟の茶室を寄進するのがもっともよい計画であると思いついた。そこで、遠忌記念会とは別に茶室寄進会というものを組織し、京阪、名古屋、東京、金沢の道具商諸氏に世話人になってもらい、私が発起人総代、土橋老が世話人総代になり、ひとり百円の茶室寄進者を百三人募集することができた。
 昭和六(1931)年六月から、京都の数寄屋大工の木村清兵衛に命じて、高山寺本坊庫裡の横手に適当な場所を決め、四畳台目茶席、八畳広間の一棟と、別に待合兼用の鐘楼を建築した。また新たに、合図用も兼ねた梵鐘を鋳造した。それを茶恩鐘と名づけ、遺香庵寄進者である百三人の姓名をその周囲に鐫り(注・彫り)、その由来をのちの人に知らせる目的で、次の文句も鋳出しておいたのである。
 
今茲栂尾高山寺開基明恵上人七百年遠忌に当り、平常上人の高徳を慕ひ、其茶恩を感ずる者一百三人相謀りて、一宇の茶室を此地に寄進し、名付けて遺香庵と云ふ。聊か報謝の微志を表せんが為なり。乃ち新に梵鐘を鋳て、寄進者の姓名を其上に鐫り、以て後日の記念と為す。

   昭和六年初冬
       遺香庵寄進者総代 高橋義雄」

 また露地の築造は、京都の植木職である、植治こと小川治兵衛老に依頼した。そして茶室、露地に、万端の準備がすべて整ったので、遠忌法要に先立つこと数日、十一月十一日に遺香庵びらきの茶会を行った。

 当日は秋天快晴の上々吉の茶会日和であった。本坊正面前に受付を設け、そこで芳名録に記名をすませた賓客は、小高い丘の上に立てられた腰掛待合にはいり、自分の名前が彫り出されている、直径一尺六寸(注・一尺は約30センチ)、高さ二尺六寸の梵鐘を打ち鳴らした。すると、満山に響き渡るその音は、明恵上人の茶恩を讃嘆する声と聞こえなくもなく、まことに恰好の供養となった。
 それから順次、遺香庵にはいり、まず私の濃茶飾りつけを一覧し、次に石水院に座を移し、野村得庵君(注・野村徳七)の心のこもった薄茶席でうちくつろいだ。
 午後二時から、山腹にる開山堂で、遺香庵の引き渡し式に参列した。ここに、日本茶の大恩人である明恵上人の本山に、その茶恩を味わうべき茶室が築造されたので、来年からは京都の各茶道宗匠家が順番を決めて毎年献茶会を開くことになった。いささかなりとも遠忌への記念をとどめることができたことは、私たちにとって茶人冥利につきることだった。
 その日私は、即興の二首ができたので、末尾に蛇足として添えておく。


    高山寺
  橋似長虹飲澗横 清流聞做誦経声 白雲黄葉高山寺 人帯斜陽画裡行


    遺香庵
  扶桑到処慕遺香 渇仰上人功徳長 今日新庵修遠忌 満山茶樹是甘棠


 


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二百五十六  信実歌仙断巻式(下巻394頁)

 大正七(1918)年一月、松昌洋行の山本唯三郎氏の使者が突然私の家に、佐竹侯爵家旧蔵の信実筆三十六歌仙二巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる「佐竹本三十六歌仙絵巻」)を持参し、今度この二巻を買収するつもりであるが、付属品その他に間違いはなかろうか、貴下の一覧を乞うた上で、いよいよ決定するつもりなので、委細ご意見、この者に伝言していただきたいということであった。
 そこですぐに、これを披見(注・開いて見る)してみた。実物はもちろん、付属品一切、まったく間違いはなかったので、山本氏がこれを買収するのは国宝保存のために結構な考えで、さっそく実行していただきたいと回答しておいた。
 山本氏は、曩に(注・さきに)征虎軍を組織して朝鮮に赴き、帰ってくるや虎肉試食会を催して、朝野の紳士を招待したりするなど、その行動にはすこぶる小気味よい趣味がある。(注・238「虎肉試食会」を参照のこと)
 今回はまた、危うくばらばらに分離されそうになった国宝の三十六歌仙を、一手に買収したことは、まことに当代の船成金たるに背かず、私はその後、書簡の末尾に次の一首を書き添えて同氏に送った。

   風雲意気欲衝天 万里打囲鞭着先 昨日韓山擒虎手 更収三十六歌仙  

   (注・擒=とりこ)

 さて、人事齟齬多く(注・人のやることにはうまくいかないことも多く)、その後、二年もたたないうちに山本氏がだんだんと左前(注・経済的苦境に陥る)になり、にわかに歌仙絵巻を処分しようとしたがひとりでこれを買収する者がいなかった。
 そこで最初のときからの世話人であった服部七兵衛(注・道具商)が委託を受け、同業の土橋嘉兵衛を仲間にひきこんで(原文「語らいて」)、結局、各歌仙を分断して、一枚ずつ抽籤で全国の数寄者に分配するということで評議一決したのである。
 それにつき、是非、行司役を引き受けてほしいといって、私と益田鈍翁、野崎幻庵の三人に依頼があった。今や絵巻をどうすることもできず、かくなる上は数寄者冥利として、むしろ潔くこれを引き受け、歌仙のために安住の嫁入り先を斡旋するしかないということになり、当代の古筆道の権威である田中親美氏をその評議委員長とし、尾州(注・尾張国、現愛知県西部)の森山勘一郎氏をその補助として、大正八(1919)年十二月二十日、品川御殿山(注・益田鈍翁邸)の応挙館において、いよいよ断巻式を挙行することになった。
 この三十六歌仙は、山本氏が三十五万五千円で買収後に約二年間所有していたので、同氏には、この歌仙の中から宗于朝臣(注・源宗于むねゆき)を贈呈することになった。その代わりに住吉明神を一枚加えて、やはり三十六枚になるようにして、原価に二万三千円を足した三十七万八千円を、その三十六枚に割り振ることにした。

 ところで、この分断にあたっては、歌仙の中に人気者と不人気者とがあったり、完全なものと汚損したものとがあったり、住吉明神のように、ただ住吉の景色とその歌だけが描かれたものがあったり、貫之のように、狩野探幽がその詞書を書き添えたものがあったり、あるいは躬恒(注・凡河内躬恒おおしこうちのみつね)のように、歌仙も詞書も共に探幽の補筆がなされているものもあって、それらを評価するのは至難中の至難だった。そこは、田中、森川らが厳密な格付け比較会議を開いて、三十六歌仙を、横綱、三役、幕内、二段目、三段目(注・三段目のほうが格上だが、原文通り)と分類し、四万円を最高額、三千円を最低額にして、その平準価格となる一万円より高いものが九枚となった。それ以下のものは、九千円、八千円と、千円ずつ下げてゆき、三千円を最低額と定めたのである。
 さて、その分断の当日、すなわち十二月二十日は、午前十時が定刻で、抽籤の権利者自身が出席する場合もあれば、代理の人間を差し向ける場合もあった。
 青竹の筒に納めた銅製の香箸のような籤(注・くじ)に各歌仙の名を彫りつけてあるものを、予定した席順に順次降り出していったが、その籤の当たりはずれは、神ではない身にはどうすることもできず、最高額の品を望んでいた者に最低額のものが当たり、坊主は嫌っていた者に、あいにくその坊主が来てしまったりした。歌仙の人柄と、それが当たった人のあいだに面白い対照が見られる場合があったときなどは、拍手喝采してそれを祝するなど、一座の五十名ほどの諸大家が、この日ばかりは子供のようになって、お祭り騒ぎを演じたのであった。
 なかでも、第四番籤の業平(注・在原業平)が馬越恭平氏に当たったときなどは、ご本人はグッと脂下がって(注・やにさがって=いい気分でにたにたする)当代の色男は拙者でげす、と言わんばかりの面持ちをしているところに、一同が急霰(注・きゅうさん=いわかに降るあられ)のような大喝采を浴びせかけたなどは、この日最大の愛嬌であった。
 信実三十六歌仙断巻式は、以上のような次第で行われ、二巻は分かれて三十七幅の掛物となり変わったのである。しかし、このように分断することが余儀なくなってしまってから考えてみると、この巻物は他の絵巻物とは違って、歌仙とその詞書とが一枚一個ずつになっているので、連続している他の絵巻物を切ってしまうのとは、だいぶ趣を異にしているため、あきらめがつかないことがないでもないのである。
 ただ、当日に三好大経師が鋏を手に取って、この巻物を切断するときには、角力の横綱の断髪式に臨むのと同様、なんとなく愛惜の感を抱かずにいられなかったので、私は古歌をもじって次のような狂態一首を物し、当日列席した同行の一笑に供したのである。

    切るはうし切らねば金がまとまらぬ 捨つべきものは鋏なりけり

(注・戦国時代の武将の古歌に「取るも憂し取らぬは物の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり」=人の首を取るのはいやだ、かといって取らないと半人前と言われる。ああ弓矢を捨てたいものだ、がある)


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二百五十三  土橋無声庵の奇骨(下巻382頁)

 大正初年から関西道具商の世界に台頭して、持って生まれた奇骨と飛びぬけた機略でたちまちその名声(原文「声価」)をとどろかせた土橋嘉兵衛は、洛北鷹峯玄琢村の生まれで、十一歳のときから橘屋こと駒井卯八という道具商の丁稚になり、卯八の厳格な指導のもとでその少年時代を過ごした。
 卯八は思慮深い人物で、嘉兵衛の将来を嘱望し、他の奉公人に対しては何事にも寛容を示して簡単には叱責することはなかったのに、嘉兵衛に対しては一歩たりとも仮借しなかった。
 あるとき嘉兵衛少年が、主人の言いつけどおりに得意先への勘定書をしたため、宛名の「服部」を「八鳥」と書きつけた。すると卯八はこの馬鹿者めといって少年の横っ面をいやというほど殴りつけたので、嘉兵衛は一時非常に憤慨したものの、これはみなすべて自分を思うためのことだと気づいて、それからというもの得意先の姓名はもちろん、その住宅の町所まで暗記するにいたったということだ。
 こうして彼の年季が終わり独立して道具展を営むことになるやいなや、卯八は自家の商売の符牒である、
     コヱナクテヒトヲヨブ
というのを嘉兵衛に譲り与えた。「およそ道具商たるものは、我よりすすんで売ることを求めず、客が来たりて自然に買うように心がけねばならぬ、これ我が主となるか、客となるかの境(原文「堺」)にして、道具商の秘訣は、全く此の間に存するのである。即ち我家の符牒の意味は、こちらより声を掛けざるに、人があちらから寄り来たるよう仕向くべしというものなれば、汝もよくよくその意味を会得して、終生これを服膺せざるべからず」と言われたそうだ。土橋の商売風は、ただしくこれを実行しているから、私は彼からその茶室の庵名を乞われたとき、一も二もなく無声庵と名づけ、その扁額に拙筆を揮った(注・ふるった)次第である。
 土橋は、前述したとおり十一歳から橘屋卯八の薫陶を受け、丁稚から仕上げて、例の気性で根気強くその業界で訓練を積んでいたので、大正初年まではまだ頭角をあらわさなかったが、彼がいったん道具商界で活躍するようになるとその出世はきわめて早く、明治末期に東本願寺蔵器入札のとき、すすんでその札元になってから後はとんとん拍子で家業を振興し、大正七(1918)年十一月、京都四条通の円山応挙旧宅跡に堂々たる新道具店、仲選居を営んだ。その盛大な開業披露では、煎茶、抹茶の両方面にわたり多数の名器を陳列し東西の諸大家の来観を乞うたが、時も時、成金時代がまさに絶頂に達しようとしていた時だったので、光悦会に参会かたがた京阪、名古屋、東京、金沢から集まってきた人の数は知れず、文字通り門前市をなしたのである。
 寄付十畳の床には応挙筆の蘆に三羽の鴨の一軸を掛け、その前に染付鯉耳の花入を置き、紅白牡丹を挿し、炉辺の遠州棚には唐津水指を載せ、釜は大西五郎左衛門作で萬歳樂のの文字がついていた。香合は伊賀伽藍で、いつの間に練習したのか、主人は遠州流の手前で、まず炭手前を行い、それから運ばれてきた懐石の道具は一々名品揃いで客の目を驚かせた。
 懐石後には四畳台目席で濃茶の饗応があった。床には小大君の香紙切を掛け、唐物朱盆に唐津の香炉を置き、そのころ主人が某大名から取り出したという二百二十匁(注・825グラム)あまりもある芙蓉の名香を焚いた。
 茶碗は遊撃呉器、茶入れは橋姫手銘一本、茶杓は遠州作歌銘、水指は南蛮編簾など、珍器揃いだった。
 私がこの茶入を見て、もしや橋姫手ではなかろうか、と言うのきいて、主人は水屋から飛び出てきて、これまですでに百数十人の茶客を迎えたが、この茶入を橋姫手だと言い当てた人は、今日が初めてであります、といって、しきりに賞讃を辞を呈するなど、彼の正客に対する外交的茶略には他人の追随を許さぬものがあった。
 この仲選居開きの道具売却高が一日で四、五十万円に達したというのは、いわゆる、声なくして人を呼ぶ、の商略がいかに巧妙であるかを推しはかれるというものだ。しかしながら、これはただ商略だけでできることではない。彼の人となりが、軽快脱俗の中に一種の機略と侠気とを秘め、京洛中の風流茶事には労費を厭わずに参加し、光悦会、松花堂会、洛東会、大徳寺三斎会、栂尾高山寺会、大仏桐蔭会などにおいて、いずれもなくてはならない人物、見なくてはならない顔役になっているがためなのである。
 ひとたびこの人を失ったならば、京都の風雅界は、にわかに落莫(注・ものさびしいさま)の観を呈することになると思われるので、私はこの社会のために彼がその健康を良く保ち、長く活動を続けられることを希望してやまないのである。


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二百二十三  鷹峰光悦会発端(下巻270頁)

 京都府愛宕郡鷹峯に光悦寺という日蓮宗の寺院がある。境内には、本阿弥光悦、光瑳(注・光悦の養子)、光甫(注・
光瑳の子。空中斎)、光伝(注・光甫の子)らの墳墓がある。この辺一帯は京都から丹波に通じる街道にあたり、往時、光悦が徳川家康から広大な地面を賜り、一族多勢とともに、いわゆる光悦町を構成した場所である。

 寺院の庭先から東南をのぞむと、前面に坊主頭のような鷲ヶ峰が兀然(注・こつぜん。高く突き出ているさま)とそびえ、そのふもとを紙屋川が流れ、松樹竹林が連接し、左手には遠く叡山が控えている。
 その中間に横たわる船岡山越しに、蒲団を着て寝ている姿の東山一帯を展望する光景はいかにも明媚温雅で、洛北の名勝たるにそむかない。
 しかしながら、維新以後、訪ねる者も少なく、明治の晩年にアメリカ、デトロイトのフリーア(原文「フリヤー」)氏が、光悦を景慕してこの寺を訪ね、さかんにその絶景を賞讃するとともに、光悦の偉大な人格や業績を宣伝したために、京阪間にもようやくこの寺に注目する者が現れてきたのである。
 中でも、京都の道具商である土橋無声嘉兵衛は、当寺にほど近い玄琢村の生まれなので、光悦寺興隆のために大いに奔走し、同志を糾合して、まず光悦会を組織した。そして光悦好みの新茶室を境内に新築し、大虚庵と名づけ、大正四(1915)年十一月下旬に、その開庵披露をかねて光悦の遺作品の展覧会を本寺で催したのが、実に光悦会の発端である。
 以来、光悦会は、毎年光悦の祥月命日である十一月十三日に鷹峯で開かれている。最初に益田鈍翁が会長になり、その後、大谷尊由師が引き継ぎ、京阪、名古屋、東京の諸名家が、年々、濃薄茶席を受け持つことになった。そのため当会は、今や京都の年中行事の中で最も著名なものになったのである。
 私は大虚庵開きの茶会に出席して、はじめてこの地の光景に接した。そしてこれを愛玩するあまり、まず、光悦がいかにしてこの地に土着したかについて研究したものだ。 
 元和元(1615)年、彼が五十八歳の時、徳川家康が大阪の陣を終え京都にやってきた。そのとき所司代の板倉伊賀守(注・板倉勝重)に、「ちかごろ本阿弥光悦は何をしているのか」と質問したので、伊賀守は、「彼は異風者(注・変わり者)にて、京都に居あき申候(注・京都に住むことに飽きたと申しております)、辺土(注・へんぴな場所)に住居仕り度き由申居候」と言上した。
 これをきいた家康は、「近江丹波などより、京都への道に当り(注・近江、丹波から京都に至る道筋に)、用心悪く(注・不用心で)、辻斬、追剥などの出没する所あるべし、左様の所を広々と彼に取らせ候へ(注・そのような治安の悪い場所に、広い土地を与えよ)と言い渡した。
 そこで光悦は、鷹峯のふもとに、東西二百間余り、南北七町(注・東西約360メートル、南北約760メートル)の原地の清水が流れ出ているところを拝領し、一族の中で手に職のある者を呼び集めて、それぞれの住居を作った。
 また母の妙秀の菩提所として妙秀寺を建立するなどして、今日における、いわゆる文化村を創立したので、人呼んでこれを光悦村と称するにいたったのである。
 光悦は当時、近衛
三藐院注・さんみゃくいん。原文では「院」と表記。近衛信尹のぶただ)、松花堂昭乗とともに、三筆(注・寛永の三筆)と称せられたほどの能書家で、本業の刀剣鑑定のかたわら各種の工芸に従事していた。また茶事を好み、陶器を作り、謡曲を謡うなど、その芸術や思想がいかに秀抜卓絶していたかは、遺作の品によって容易に推察することができる。彼の門人であった灰屋紹益(注・はいやしょうえき。原文では「浄益」と表記)の「にぎはひ草」(原文では「賑ひ草」と表記。紹益の随筆)に、次のように書いてある。


「我身をかろくもてなして、一類眷族に、奢りをしりぞけんことを思ひ、住宅麁相(注・粗末)に、小さきを好みて、一所に年経て住めることもなく、茶の湯に深くすきたりければ、二畳三畳敷、いづれの宅にもかこひて、自から茶をたて、生涯の慰みとす、利休在世に近かりければにや、形なりを好み作りて、焼かせたる茶碗等、今世にかつ残りたるも、一ふりあるものとぞ云ふめる。都の乾に当りて、鷹峯と云う山あり、其麓を光悦に給はりてけり、我住所として一宇を立て、茶たて所などしつらひ、都には未だ知らざる初雪の朝は、心おもしろければ、寒さを忘れ、自から水くみ、釜仕掛け、程なく煮え音づるるも、いとど淋しく、都の方打ながめ、訪ひくる人もがなと、松の梢の雪は朝の風に吹き払ひて、木の下かげに暫し残るをおしむ。」

 光悦の茶風は千宗旦の侘び数寄に通じ、独楽閑寂の趣があった。私は、光悦の人となりとともに、この寺の風景を鍾愛(注・たいそう好き好む)したので、大正五(1916)年、境内東南方の崖地に臨む、鷲ヶ峰から東山方面をひと目に見渡す平地に、五畳敷一間床、書院付きの茅葺き一棟を寄進し、庵名は無造作に、本阿弥庵と名づけた。土間を広々と取り、天井板の竿縁がわりに朱塗りの細筋を引き渡すなど、いくぶん光悦風の意匠を取り入れた。露地には、片桐石州が所持したと言い伝えられる小形のつくばいと石灯籠を据え付け、これを毎年催す光悦会のために充てることにしたのである。
 その後大阪の八木与三郎氏が、騎牛庵という古茶室を寄進したため、光悦寺には三つの庵室がうち揃い、年々、関西の風雅をこの地に集める霊場となったのである。
 これは畢竟(注・ひっきょう。つまるところ)、光悦の遺徳のなせるわざではあるが、土橋無声らの尽力もまた、非常に大きなものがあったのであるから、光悦会の発端について記し、後の人びとの知るよすがにしておきたい。


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