だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十 名器三十本茶杓(下巻517頁)

 私が大正元(1915)年から着手した「大正名器鑑」の編集は同十五(1926)年末に結了した。ひきつづきその再版のために二年余りを費やし、昭和三(1928)年九月に完成させることができた。
 その一部は天皇陛下に奉献し、さらに東久邇宮殿下にも献納するという光栄に浴した(原文「辱うしうした」)ので、同年十月二十七日に、帝国ホテルで本鑑の出版記念会(原文「告成会」)を催すことに決した。
 実物と対照させるため、諸大家から門外不出の大名物品を拝借し一堂に陳列することも行った。そこに、各方面の紳士、高官(原文「縉紳(しんしん)」、茶伯、文芸好事家を招待し、首尾よく記念の式典を終えた。
 さて、その翌年四月十七日に、根津青山翁の主唱に益田鈍翁、馬越化生、団狸山、原三渓の諸先輩が賛同して、さきの出版記念会に対して「箒庵翁慰労会」なるものを、東京会館で催してくださった。そこで、過分な讃辞と貴重な記念品を贈っていただいたので、私はその光栄を記念するために若干の茶杓を作り、それらに名器鑑中の茶碗、茶入にちなむ名前をつけ、ひごろ懇意にしている茶友に贈呈することを思い立った。
 さて、それを何本削ろうかと考えた末、表千家宗匠の如心斎宗左が、元文年間(注・173641年)に北野天満宮修復のために、三十本削って寄進した茶杓のことを「北野三十本」といって、今日の茶人たちにもてはやされていることから、私もそれにならい三十本製作することにした。
 寄贈しようとする人々に対しては、それぞれ縁故のある名称を選び、筒には「名器三十本之内、箒庵」と書きつけることにした。
 その名称と贈った人々の名前は次のとおりである。
 

  伊予簾  横井二王(注・横井庄太郎、名古屋道具商米萬

   走井   山田玉鳳(注・保次郎、名古屋道具商)
   橋立   中村好古堂(注・作次郎ではなく富次郎、道具商)
   花橘   近藤其日庵(注・廉平)
   春雨   加藤犀水(注・正治、正義の養子)
   思河   熊沢無想庵(注・一衛、実業家)
   大津   根津青山(注・嘉一郎)
   唐琴   林楽庵(注・新助、京都道具商)
   合甫   富田宗慶(注・重助、名古屋実業家)
   玉川   野崎幻庵(注・広太)
   玉柳   金子虎子(注・昭和茶会記に「大兵肥満の女性」とあるので瓢家女将お酉かも知れないが不詳)
   太郎坊  川部太郎(注・緑水、道具商川部利吉の養嗣子)
   茄子   益田無塵(注・益田多喜子)
   呉竹   伊丹揚山(注・信太郎、元七の息子、道具商)
   山雀   団狸山(注・琢磨)
   破衣   原三渓(注・富太郎)
   升    磯野丹庵(注・良吉)
   松島   八田円斎(注・道具商)
   猿若   益田鈍翁(注・孝)
   サビ助  仰木魯堂(注・敬一郎、建築家)
   笹枕   田中竹香(注・元京都祇園芸妓、田中竹子、「昭和茶会記」洛東竹操庵を参照)
   面壁   山中春篁堂(注・吉郎兵衛)
   宮島   田中親美
   箕面   戸田露朝(注・道具商)
   三笠山  土橋無声(注・嘉兵衛、道具商)

   四海兄弟 野村得庵(注・徳七)
   時雨   森川如春(注・勘一郎)
   白菊   越沢宗見(注・金沢呉服商、茶人、「雅会」会長)
   勢至   馬越化生(注・恭平)
   関寺   山澄静斎(注・力太郎、道具商、力蔵の息子)

 私は近年、茶杓削りに興味を覚え、天下の名竹をさがして、手に入れたら削り、ということを続け、それを同好者に寄贈することが一種の道楽になっているので、すでに作ってあったものだけでも二、三百はあったと思うが、今回も、例の道楽が頭をもたげ、この三十本の茶杓を製作したのである。
 そもそも、日本において茶杓を使い始めたのはいつのことだろうか。とにかく、抹茶を茶入から茶碗に移すには、茶杓様の器具を用いなければなるまい。鎌倉初期、シナから茶の実を持ち帰った建仁寺開山の栄西禅師の「喫茶養生記」のなかで、点茶の説明には、容器に二、三匙の抹茶を入れて、これに一杓の熱闘を注ぐべし、と書いてあるから、そのころからすでになんらかの茶杓を使用していたに違いない。
 その後、東山時代になり、天目点茶にはたいてい象牙の茶杓が使われたが、現在、足利義政、または茶祖の珠光(注・村田珠光)作と言い伝えられている竹製の茶杓があることを見れば、その時代にも竹茶杓はあったものと考えられる。
 茶杓の材料には、そのほかに桑、桜、その他の堅木が使われ、ほかにも、塗物、一閑張り、あるいは金銀なども使ったようだ。しかし紹鴎(注・武野紹鴎)、利休以後は、竹製のものが一番多く、象牙がそれに次いで多い。
しかし、象牙、塗物、木材の茶杓は、茶杓職人でないと、なかなかうまく作ることはできないので、昔から茶人の自作茶杓は、たいてい竹材に限られているのである。
 その茶杓には、その作者の人格があらわれる。貴人、僧侶、宗匠、その他どのような種類の人が作ったものであるか、ひと目見ただけでだいたいわかってしまうのは、作者の魂がその茶杓に乗り移っているからなのである。
 であるから、茶人が古人を友とし、その流風の余韻をしのぶときには、茶杓がもっともたしかな対象物となる。そして、これを鑑定することが、茶会における最大の興であるとされているのである。

 私が茶杓製作におおいに興味を持つようになったのもそのようなわけで、自分でも茶杓を作ってみれば、他人の茶杓を見て、その肝心な部分(原文「急所」)に一段と深く注意を向けることができ、ひいては鑑定もますます上達するのである。
 よって、巧拙はともかく、天下の茶人は、かならず茶杓の自製を試みてほしいものだと、私はこの機会を利用して勧めておきたいのである。


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二百二十九   赤星家蔵器処分(下巻294頁)

 赤星鉄馬氏が、大正六(1917)年から三回にわたり先代の弥之助氏の遺品の入札売却を決行したのは、近世の道具移動史上、特筆大書すべき事件であった。
 その入札は、第一回が三百九十万円、第二回が八十九万円で、第三回とあわせて約五百十万円に達した。空前だったのは無論のこと、以後十数年を経て昭和時代にいたってもなお、その半額に達したものがなかったことを見れば、あるいは絶後といってもよいかもしれない。
 この入札がなされた事情について、赤星氏は次のように告白している。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「拙者が今回、所蔵品を売却すべく決心したのは、ほかでもない、亡父弥之助は在世中、道具の取り扱いを厳重にし、老母のほかには、なんびとにも手を触れしめなかったので、老母も非常に苦心していたが、父の没後も、あいかわらず自身一手で取り扱って居るので、かかる骨折りが、いつまで続くべきものでもないと思い、近来、しきりにその処分法を考えてみたが、拙者は道具についてまったく無趣味である。しかし、刀剣だけは愛好するので、ここに、つくづく思い合わさるるのは、心なき者が、刀剣を取り扱って居るのを見ると、拙者は往々、ハラハラして、肝を冷やすことがあるが、道具を愛好する者より見れば、拙者等がこれを取り扱うのは、定めて同様に思わるるであろう。されば、刀剣なり、道具なり、兎角、数寄者に任するにしかず、亡父の遺品も、このうえ長く老母の手を煩わさず、断然これを売却して、世間愛好者の手に渡すのが宜かろうと決心したのである。」
 赤星鉄馬氏は、このような決心をし、親戚であり親友でもあった、樺山愛助のち伯爵君に相談のうえ、三井合名会社理事長の団琢磨男爵に、この道具処分の一切の指揮を委託することになった。しかし団男爵は業務多忙のため、じっさいにその指揮に当たることができないので、私にその宰領の全権を委託されたのである。

 さては私は、このころから「大正名器鑑」の材料の蒐集をしていたので、名器の調査上きわめて好都合であると思い、すぐにその依頼に応じ、東都および京阪の道具商から十三名の札元を選び、前後三回にわたって名品揃いの入札会を挙行した。
 なんといっても、成金景気が勃興しつつあった時期のこと、人気はいやがうえにも引き立ち、仙台伊達家の入札会のときよりさらに一層めぼしい好況を示し、入札価格が八万円以上だったものが、実に次に挙げる十二点に達したのである。

     梁楷筆雪中山水       金二十一万円
     馬鱗筆布袋双福       金十三万一千円
     元信筆全身龍        金十万五千円
     名物猿若茶入        金十万円
     東山御物玉澗筆蘭      金八万七千八百円
     利休尺八花入        金八六千円
     金岡筆那智滝        金八万五千六百円  (注・この現根津美術館蔵の国宝「那智滝図」は、現在は13~14世紀の作品と考えられているが、当時は9世紀の巨勢金岡筆と考えられていた)

     砧青磁管耳花入       金八万三千三百三十六円
     俊頼古今和歌集一巻     金八万二千円
     青井戸茶碗銘こたま     金八万二千円
     行成卿和漢朗詠集二巻    金八万円
     玳玻盞天目茶碗       金八万円

 さて、この赤星家蔵品入札は、いわゆる成金時期の中間で、景気はまだ絶頂に達していなかったが、前途春海のような希望に満ちているときだった。そのため競争の結果、意外な高価を出したものも多く、このときの落札品で、その後入札市場に出て、値段が二、三割方低落したものさえもある。相場の絶頂期ではなかったにせよ、この入札会などは、赤星家にとってはもっともよい時機を得たものであったと思われる。
 この入札会では、稀世の名品を目の前にし、それを争奪しようとする虚々実々の駆け引きが行われ、のちの語り草になるような奇談も少なくない。
 私なども、ザコの魚まじりをしてこの渦中に身を投じ、年来めがけていた猿若茶入を今度こそ買い取り、一生この茶入一品で押し通そう、などという途方もない願望を抱き、京都の土橋、大阪の春海に依頼し、六万円まで入札するようにと申し付けておいた。なのに彼らは、上景気に浮かされて、私に相談もせずに、とうとう九万八千円まで入札してしまった。ところが幸いに、十万円の札があったので、わずか二千円違いで私はかろうじて虎口を免れたのである。(注・このときの落札者は益田鈍翁)
 この茶入であるが、大寂びの茶入で、私の二番札に接近するものはなく、三番札は三万八千円だったというから、私がもし入札しなかったら、この高値には達しなかったはずである。だから、六万円は私のお陰ですよ、と、赤星氏に語って、大笑いしたようなことだった。
 赤星家は、先代弥之助氏が明治二十五(1892)年ごろから名器を買い入れはじめ、ほどなく東都名器収蔵家の巨頭(原文「巨擘(きょはく」)となりすましたのである。買収の時機がよかったので、実のところ安く買って高く売ったという結果になった。
 鉄馬氏は、この入札後、百万円を割いて啓明会というものを組織した。これは毎年の収得を、学芸方面の事業奨励費に利用するというものである。家のためにも世のためにも、いわゆる一挙両得であり、道具処分において、まことによく有終の美をなしたものではないかと思う。


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   二百六  

法螺丸翁の刀剣談(下巻210頁)

 杉山茂丸翁は、人呼んで「法螺丸」というが、自身もこれを甘受して毎度豪傑ぶりを発揮している。
 しかしながら、他のことは知らないが、その刀剣談についてはまったく真剣で、おおいに傾聴に値するものがある。
 大正四(1915)年三月二十九日の団琢磨男爵主催の山谷八百善での晩餐会に、翁は黒田家から拝領したという相模守正弘作、中身一尺二三寸、文安年号銘の一刀を持参し、これを主人の団男爵に寄贈したあと得意の長講を一席ぶった。(注・一部漢字を新字やひらがなに直したほかは原文通り)

「刀剣は古来、武士の魂としてあるので、これを扱う方法も、研究に研究を重ね、たとえば君侯の前にこれを拝見するときのごとき、ほとんど茶礼に異ならざる作法があるのである。また刀を差すときは、刃を上にして差し、これを見るときも、また刃を上にするのは太平の象(注・しょう。すがた、ありさま)である。
 しかるに、いったん事起こりて、刀を抜かんとするとき、反りを打って刃を下にするのは有事の象で、大将が軍陣に臨むとき、刃を下にして太刀を佩く(注・はく)のもまた同じ意味である。
 日本では古来刀剣をもって武器の第一としていたから、その研究はおおいに進んで、第一鍔元に鍔をつけ、切羽鎺【せっぱはばきを同処に付属するが、この切羽は、多くは銅、真鍮、金などのごとき、鋼鉄とその性質を異にするものを用い、しかもその接続の間に多少の空虚を存するのは、強烈なる打撃に耐ゆる工夫なので、もし日本の刀剣を外国のそれのごとく扱って、鍔先になんらの工夫も施さなかったら、本来堅き銅鉄とて、実戦に臨んで、たちまち打ち折られてしまうであろう。
 また刀を鞘に納むるとき、刀身が鞘の中の木質に触わるれば、必ず錆を生ずるから、刀を鞘に納めきったときには、鍔元において刀の中身が、鞘の中のどこにも触れざること、あたかも魚が水中に浮かぶがごとくに仕掛くるものである。
 この発明は、日本の鞘師が、古来秘法として伝えたものだが、往時刀剣流行の際、もし専売特許というものがあって、その発明を専売にしたならば、その発明者は非常な利益を得たであろう云々。」

 

太郎冠者の舞曲談(下巻211頁)

 太郎冠者とは、劇作家としての益田太郎の雅名(注・雅号)である。大正四(1915)年四月三十日、福澤桃介氏が築地新喜楽において珍芸会を催したとき、太郎冠者は批評家のひとりとして来会し、いろいろな芸評を行った。その中には、そのころから台頭しはじめた、西洋楽器演奏による日本の歌についてや、西洋人から見た日本舞踊の評などもあった。ここで、その断片をあげてみよう。
「日本の舞踊は、従来我も人も、きわめて丸くして、角なきものと思っていたところが、先般、ある米国人が、日本の舞踊を見て、さてさて角立ちたる踊りかな、と評したのを聞いて、はじめて気がついて考えてみれは、日本の舞踊は、一手ごとに、手や足がガクリガクリと行きどまっては、またさらに新しい運動に移るので、見ようによりては、非常に角張ったものと見られぬこともない。

 かのエジプト(原文「埃及」)やインドの踊りが、手振りはかんたんでも、接続点の明白に角立たぬのは、その特長と見るべく、日本の舞踊中、京都の片山流のごときは、一段角張ったものであるが、その角張った踊りを賞揚すべきか否かは、ひとつの研究問題であろうと思う。
 西洋の楽器に合わせて日本の唄をうたうときに、その意味が分明ならずとて毎々不平をきくことがあるが、これは最初より日本の文句に合わせて西洋音曲の節付けをしたのでなく、十中八、九は翻訳もので、たとえば西洋の言葉で「マイファーザー」というのは、三シレブル(注・シラブル。音節)であるが、これを日本の言葉に翻訳すれば、「私の父」というので、数シレブルとなる。このシレブル数の相違のあるにかかわらず、「マイファーザー」と「私の父」とを同じ間合いに唄おうとするから、言葉が詰まって、その意味が聴き取れぬようになるのである。
 されば、日本語で新たに文句を組み立て、その文句に合わせて、西洋音曲の節付けをなせば、今日のごとく意味のわからぬはずはなかろうと思う。
 近来日本では、西洋音楽趣味が普遍する傾きを生じ、第一、学校教育でピアノやヴァイオリンなどを教授するので、西洋音楽がもし男女に耳に慣れて、これをよろこぶことになるのはもちろんであるが、しかし一国の音楽は、楽器のいかんにかかわらず、まったく他国に化し去るものではない。欧州において、彼がごとく(注・あのように)接近する英、仏、伊、独、露、墺の諸国が、各自その国に歌曲を持っているのでもわかる通り、日本においても、楽器にいかんにかかわらず、無論自国の歌曲があるべきはずである。ただ日本の楽器が、西洋の楽器と相対して、日本の歌曲を発達せしむるにいかなる働きをなすべきやは、今後、年とともに決定せらるべき問題であろう云々。」


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 百二十三 
三池築港の功徳
(上巻426頁)

 明治二十一(1888)年末、三井が三池炭鉱を落札したあと、団琢磨のち男爵氏が実際の経営に当たり、この炭鉱を三井の宝庫とするためにふたつの大事業を完成させた。
 そのひとつは、九州地震(注・明治22年)のために大きな浸水が生じた勝立坑に、明治二十三(1890)年に(注・詳細は未調査だが、史実は明治26年か28年ごろか?)、イギリスの、世界最大のデビーポンプ(原文「デビー卿筒」)を据え付け、その排水に成功したことである。
 ふたつめは、明治三十三(1900)年ごろから計画がはじまった、三池炭鉱から出炭した石炭を輸出するための大牟田湾の築港であった。
 私は勝立坑排水事業とはなんの関係も持たないが、明治三十一(1898)年から鉱山会社の理事を兼任したので、築港計画が起こってから完成するまでのあいだは団氏の助役になるという光栄に浴した。団氏がこの事業を成し遂げるまでにどれほど苦心したかということを十分に承知しているので、その大要をここに記すことにする。
 団氏は、イギリスから輸入したポンプで勝立坑の浸水の排除に成功したのち、さらに万田の竪坑の開削を行い三池炭鉱の出来高はますます増加してきた。この石炭を上海、香港などに輸出するには、まず小船で三池から長崎まで運び、長崎で汽船に積みかえるという二重三重の手間がかかっていた。一歩進めて、汽船を口ノ津港に寄港させて三池からの石炭運搬の距離を短縮してみたものの、例の青筒汽船(注・英国の汽船会社、ブルー・ファンネル・ライン。青い煙突のためにこの名がある)などの船がだんだん大きくなり一万トン以上になるものもあったので、三池の未来のためには大牟田港を築港することが利益になることは明らかだった。そして一万トン以上の大きな船をこの港に寄港させ、炭鉱から掘り出した石炭を港口で本船に積み込めるようにしようというのである。
 このあたりは潮流の干満が激しいというので、最初は水門を二重にする計画で予算を立てたが、費用の点を考慮し工夫を重ねた末に、最終的に一重の水門の案を採用することになった。築港費用三百万円で工事を進めたが、この港を石炭積み出し専用にしてしまうと九州全般にその恩恵が及ばなくなってしまうので、石炭は内港で積み込むこととし、外港は公共の貨物積み下ろしの便の供することになった。すなわち三池港の一部は公開港として、九州地方の運送業のために使用されることになったのである。そのため地元は繁昌し、三池町はほどなく市になるなど、三池港は公私にわたって貢献することになったのである。しかも築港の仕事は順調に進行し、なんらの支障も出なかったため、外港を築造するという臨時支出があったにもかかわらず、結局、予算三百万円の一割程度で落成した。じつに大成功であったと言えるだろう。

 団氏が技術的な知識と事務的な能力を兼ね備えていたために、第一の浸水排除事業、第二の三池築港の二大事業を完成し、三池鉱山を完璧な三井の宝庫になしとげたのである。この人材を経営者として得ることができたことは三井家の大幸運であったと言わざるをえない。
 私は以前にも、三井が三池鉱山の落札のときに団氏を併せて獲得できたことは非常に幸運だったと言ったことがある(注・57「三池炭鉱」を参照のこと)が、三井財国の総理となってからの団氏についてもまだまだ語るべきことがあるので、また後述することにしよう。


築港に対する感想(上巻428頁)

 三池築港は九州における一大土木工事だった。文禄征韓の役(注・16世紀末の朝鮮出兵)のときに太閤秀吉が肥前(注・佐賀)の名護屋(注・原文では名古屋)に施した出征準備の工事もおそらくかなり大規模であっただろうが、いまではその遺跡を確認することができない。
 そのほかの九州の大土木工事というと、その第一は熊本城になるだろう。これを三池築港と比較するとしたら、はたしてどちらが大がかりだっただろうか。私は、三池築港の工事中にたびたび三池に出張したが、そのついでにある日のこと熊本城を参観した。そのときふと頭に浮かんだのは、近代文明の施設と封建時代の事業とのあいだには、大きな違いがあるということだった。

 加藤清正が熊本城を築いたときの経費は、はたしてどれくらいだっただろう、もしかすると三池築港費以上にかかったかもしれない。しかしこの城は、築城されたのちにいかなる実効をもたらしただろうか。徳川時代には城主の威光を隣国に誇示するという功徳はあったかもしれないし、維新後の西南戦争の際に薩摩軍を食い止めるという効能も大きかったかもしれない。しかし一般の民衆に対してなにかの功徳を及ぼしたかどうかというと、かつて何一つ利益を与えたことがなく、今後もなおさらそのようなことはないだろう。
 この点にいたると、三池築港は単に現在だけでなく、炭鉱がことごとく掘りつくされたあとまでも、いや九州が存在する限り、利用厚生の恩恵を末永く子孫に残すことになる。この功徳の深さの違いは比較することすらできない。
 このように考えれば、たとえ最初の動機は利殖のためであったとしても、築港を完成させた資本主としての三井や、計画者としての団男爵の功績は非常に大きかったとしなければならない。私も、末席ながらこの工事の遂行に一員として加わり足跡を一隅に残すことができたことは、まことに望外の幸せであると思っている。
 


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百二  大家の主人公(上巻349頁)

 井上馨侯爵が三井家の家憲を制定するにあたり私たちに向かって口癖のように述べられたことを要約すると、三井のような大家の興廃は、単に一家の問題ではなく国家の利害に大きな影響があるということだった。封建時代、鎖国時代には、豪族の兼併(注・他人の土地、財産を併合すること)の弊害などという議論があったが、今日のような世界各国間の経済競争の世の中では大資本家の力で対抗するほかはない。大家は国家の機関として健全な発達を遂げてもらわなくてはならない。大家に家憲が必要なのはそのためである、というのが侯爵の論点だった。
 このような見地から考えると、創業者である祖先や、国家からの信頼に対して重大な責任を背負わされる大家の主人は、世間からは栄耀であると見られ悠長なものだと思われるだろうが、じっさいにはその反対で非常にありがたくないことなのかもしれない。現今の日本の二大大家として知られている三井家、岩崎家の主人について私の知る限りでは、三井の総領家八郎右衛門男爵(注・北家10代三井高棟たかみね)は伝統的な特質を受け継ぎ芸術的才能を備えている。能楽にあってはほとんど専門家をしのぐほどであるし、絵画を試みては、その父である福翁(注・北家8代三井高福たかよし)の遺風を受け継いで四条派の絵画に巧みな才能を示し、茶事では表千家の堂奥に入り、建築、築庭についても並々ならぬ意匠の持ち主である。長兄の高朗(注・北家9代たかあき)氏の没後に三井総領家を相続した最初のころは折々に能楽などを催し同族と娯楽をともにすることもあった。しかし明治二十四(1891)年の危機に際し自らも深く考えるところがあり、家憲制定に関して主人側を代表し井上侯爵、都築男爵もしくは家憲起草者の穂積陳重男爵らとの研鑽、研究が数年間に及んだ。そしてこれを実行するにあたり、同族統率の任に当たるために自分の責任がいかに重大であるかをはっきりと自覚しそれまでの態度を大きく改めた。自分の趣味、嗜好が同族や使用人に感染する影響をおそれ、家憲擁護のために自分の享楽を犠牲にすることも辞さなかった。その後、夫人を同伴して団琢磨らとヨーロッパ諸国を巡り、そこでの大家の行儀作法などについて研究し帰国した。その後は、営業方面においては勤勉に手腕を発揮し、家庭においては家長としての模範的な行動を示した。みずから慎重に行動し、かつて批判されたような行動をつつしみ、この三十年間まったく変わらずにそれを続けたことは、三井総領家の主人が身をもって家憲励行の責任を全うしているからにほかならない。

 世の中ひとびとは、ややもすれば大家の主人を見て羨望の的にするようだが、自分がその立場に立ったならば話はさほど簡単なことではないだろう。私は近くでよくそれを見てきたから、大家の主人になるのははなはだ大変なことだとひそかに敬服している次第である。
 大家の主人というものが、はたで想像するような安逸悠長なものでないことの例をあげる。日本の大家の横綱として三井家と相対している岩崎家においても同じようなことが言えるのである。私が明治二十一(1888)年にアメリカ、フィラデルフィアを訪問したときのことである。岩崎久弥男爵は同地の学校に遊学中だった。それ以前、男爵の厳父である太郎君は、わが子の教育のために非常に厳格な方法をとっていた。男爵の少年時代には、同郷の有望な子弟といっしょに書生部屋で寝起きさせ、大家の令息的な扱いを一切しなかったそうだ。私がアメリカを去りイギリスのロンドンに滞在中、久弥男爵が来遊されたということをきき、どこのホテルに滞在されているのか問い合わせると、三菱の仕事で滞英している和田義睦氏の下宿に泊まっているということだった。ところがその下宿がいたって粗末だったらしく、ある人が岩崎男爵を訪ねたところ、男爵は南京虫に刺されて頬のあたりが腫れあがっていたそうだ。そんな話をきいたあと、ある日、日本領事館で領事の園田孝吉氏のち男爵と会ったときにその話になった。園田氏は非常に謙虚でまじめな人だったから粛然とした面持ちになり、そうだからこそ岩崎家は代不易(注・いつまでも変わらない)なのだなあと大いに敬意を示していた。

 私は大正の中頃に、京都祇園の杉の井旅館で故朝吹英二氏といっしょに、ちょうど入洛中(注・京都に滞在中)だった岩崎男爵とおしゃべりをしたことがある。そのとき男爵は「僕はいたって無風流で、もはや親父の逝った歳に近づいたが、これまでなんらの趣味もなく、おりおり牧畜場を見廻って、牛の成長を見守るくらいのものである」と呵々一笑(注・かかいっしょう=はははと笑う)された。男爵の無風流ぶりは男爵が言われるとおりの天性のものかもしれないが、しかし幾分かは身分を顧みて謙虚にしているためで、すすんで趣味的な娯楽に触れないようにしているようなところがあるのではなかろうかと私は朝吹翁と語り合ったものである。
 かつて益田英作氏が東海道の汽車のなかで、柏木貨一郎そして岩崎弥之助男爵と乗り合わせたことがあった。そのとき、柏木と弥之助男爵が居眠りをしていたが、片方は非常にのんきで大いびきをかいているのに、もう片方の男爵は心配ありげな顔つきで眠っていたそうだ。「僕らは金持ちの弥之助男爵よりも、貧乏な柏木のほうが、はるかに気楽なことを発見した」と益田氏は言ったものだ。これなども、大家の主人に対するひとつの見方であるかもしれない。


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  九十四  

新旧思想の過渡(上巻320頁)


 私の三井呉服店改革は単にこの一店だけのものにとどまらず、一般小売店に対しても新しい方式の模範を示そうとするものだった。従って、その方法にはかなり奇抜なものも含まれていた。
 これに先立ち私がこの仕事を引き受けたようと思ったとき、長年の習慣を改めることはなかなか簡単なことではあるまいと思った。改革が進むにつれ必ず苦情が百出するだろうから、あらかじめ承知しておいてもらいたいと三井の主人や重役たちに伝え、ついては三越などというあいまいな名義ではなく、はっきりと三井呉服店と改称し、三井が率先して小売業の改革を断行するという意気込みを示すべきであろうと主張した。こうして、即時に三井呉服店と名称を変更し、丸越の商標を、丸に井桁三に改め、はじめから思い切った改革に取り掛かった。
 この改革は、これまでなんの経験も持たないおおぜいの学生あがりが、年季奉公出身の番頭、小僧と一緒になって仕事を進めるのだから、当然のことながら相性がよいわけはなった。東京高等商業学校出身の滝沢吉三郎氏が主任になり帳簿の改正を行うことになったが、そのひとつには、さまざまなトリックを使って商品をごまかし、それで薄給の埋め合わせをするという習慣があったのをストップ(原文「杜絶」)させるということがあった。これまでは反物を背中に入れて店の外に出ると、その反物がさっそく金銭に変わるルートがあったのである。
 これでは古い店員の中から物質的、感情的な両面からの不平が出てくるのは当然だった。そこで私は店員全員に向かい、大幅な増給をするかわりに不正は絶対に許さないので承知しておいてほしいと宣言した。一方で給料を上げ、一方で不正を禁じたのである。
 しかし長年のうちにしみ込んだ悪習を簡単になくすことはできなかった。さまざまなトリックが使われるたびに、その尻尾を捕らえるということが続き、彼らはついには改革に反対し、さまざまな悪い宣伝を行うようになった。またかつて店員として勤務したことのある三井の老主人などに訴え、多数の者が一丸となって同盟ストライキ(原文「罷業」)を決行するに及んだ。
 ここにおいて私はきっぱりとその関係者を免職し、新規に採用していた学卒者に一時期事務をとらせることにした。しかし定規の持ち方も知らないような新参者が、複雑な顧客の注文に応対することの困難は並大抵ではなく、いわば言語道断だった。

 私はこのとき、この問題が非常にデリケートなもので画一的に処分を断行するのでは解決できないと判断し、遺憾ではあったが滝沢氏を三井銀行に転勤させ、かわりに日比翁助氏を連れてきて局面打開に当たらせることにした。ストライキをやった番頭たちにも復職を許し、いわゆる妥協解決をはかったのである。これは非常に姑息な手段であったかもしれない。しかし、もともとが人気商売である呉服店で長い混乱状態が続くことは顧客に対して申し訳が立たないことだと思い、なまぬるいやり方でケリをつけしまったのである。
 それでも店舗改革の方針については一歩も引かず、のちの百貨店の基礎を築くことができたという点で不幸中の幸いであったというべきだろう。



実業奉公の覚悟(上巻322頁)


 私は明治三十一(1898)年から三井鉱山の理事に任命された。当時の本業は三井呉服店の理事であったが、今回さらになじみの薄い鉱山会社の理事を兼任することになったことには理由があった。
 当時、三井の整理に成功してほとんど全局面を支配するかのような勢いがあった中上川氏が、戦後の膨張の反動で三井営業店での利益が減少し銀行の金融が逼迫したことを受けて、突然、貸金の回収を命じた。すると中上川の勢力を牽制する動きが暗黙のうちに起きてきたのである。たとえば、大蔵省の役人だった早川千吉郎が三井元方に採用されたのを手始めに、官吏の天下りが続々と増員されるという気配が見えてきた。
 私が鉱山理事に任命されたというのは、中上川氏がこうした動きに警戒し、気心の知れた人物を要所に配置することで天下り組の侵入者を防ごうとしたためだろうと思われる。
 私としては、三井呉服店の整理が終わったら当然三井銀行に復帰することになると思っており、またそれを希望していた。しかし私の実業奉公に対する覚悟は、三井のような大家の使用人になった以上、ただ主人の命ずるところで働き、その仕事が自分に適しているかどうかを問うべきではない、というものだった。鉱山理事になれば、もっぱらその業務にあたり、その職分を尽くせばよいのだと思い二つ返事で応じることにした。
 三井呉服店の仕事はおおかた支配人の日比翁助に委任し、私は鉱山専務の団琢磨氏のち男爵を補佐することになり、明治四十二(1909)年まで鉱山事務に当たることになった。その間、三池築港事業が進行中だったのでしばしば九州に出張することになった。(注・日比翁助の三井呉服店改革については122を参照のこと。三池築港については123を参照のこと)
 明治四十二(1909)年に三井内部の組織改革があり、王子製紙会社の社長職を打診されたときにも二つ返事で承諾したのは前述したとおりの私の覚悟によるものである。職務はただ主人の命じるままに自分は最善を尽くすのみ、適職かどうかを自分で判断してはいけないという考えを実行したまでである。


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八十七   梅若流稽古 (上巻296頁)

 私は、自分が梅若流の謡曲稽古し始めたのがいつだったかということをはっきりとは覚えていなかった。最近別の用があって梅若六郎氏を訪問したついでに、そのことを話してみたところ、六郎氏は、父上、実翁の直筆の門入帳を出して見せてくれた。その記録によると私のは、明治二十八年十月二十八日三井支配人高橋義雄とあった。
 この門入帳を最初から見てみると、明治十三(1880)年に益田孝、三井八郎次郎(注・松籟三井高弘)、十四年に古市公威、鳩山和夫、十六年に団琢磨、十七年に馬越恭平が入門している。それには驚かなかったが、十四年三月二十三日に元老院権大書記官金子堅太郎とあったのが意外だった。
 その後偶然に金子子爵に面会することがありこのことについてきいてみると、子爵は今昔の感にたえないという面持ちで次のようなことを語ってくれた。

 当時は能楽界が悲惨きわまりない窮状を示しており、厩橋の梅若能楽堂の一部を借家にでもしないと家計もまかなえない状態にあったが、「たとえ道端で謡を謡うことになるとしても、能楽堂を手放すことだけは祖先に対して申し訳が立たないという翁の嘆息をきいて同情にたえかね、ひと月にいくらあればよろしいのかと訊くと、三十円で足りるというならばわれわれが門弟になって、それに相応する月謝を提供しようということになった。僕は自宅に来てもらい、ほかの人たちは九段下の玉泉堂を稽古場にして出稽古をしてもらったのだ、ということだった。
  さて私が梅若流の稽古を始めたのは、前述のとおり明治二十八(1895)年からだった。(注・73「謡曲稽古の発端」を参照のこと二十六年の大阪滞在中に宝生流の謡曲と仕舞を習い始め師匠はそのとき大阪にいた名古屋人で、木村治一という六十歳前後の老人であった。この老人はすこぶる美声で相当な能楽の心得があったので、謡曲とともに仕舞も教授していた。

 当時まだ二十代だった、木村の息子の安吉は、以前に宝生九郎の内弟子になり、今の松本長、野口政吉らと同輩であったが、怠け者で師匠のところにいることができず、やがて老父のもとに戻ってきた。私は老父の依頼で安吉を一時三井銀行に採用してやったが、私が大阪を去ったのち今度は東京に舞い戻り、ほどなくして若死にしてしまったという。
 このように私は最初に宝生流を習ったが、明治二十八(1895)年の東京移住後には三井の主家では全員が観世流なので、わたしもさっそく改宗することになった。そのころ神田小川町に住んでいた観世清廉のところに入門した。
 そのころの清廉は三十歳くらいだったであろうか、とてもよい声で、厩橋の梅若舞台にも出演することがあったが、もともと自由気ままな性格で、能役者としての作法を守ることがなく、女房と雑談しながら、ときどき振り向いて謡曲を教授するといった不謹慎さがあった。それで私は二、三度稽古に行き、班女一番を習っただけで、弟子のほうから破門ということにしてしまった。

 そして今度は観世清之のところへ行った。この人はすこししゃがれ声で渋味のある芸風だった。梅若実の婿養子であり、万太郎、六郎がまだ生まれる前には実の片腕となって働いていたそうだ。しかし私が行ったころには梅若家を離れ、元の観世姓に戻っていた。その晩年には謡曲本を発行し、この世界における功労者であったとのことだ。
 私は明治二十八(1895)年に東京に戻ってからは、麹町上二番町四十二番地の、加藤弘之氏の隣りに住んでいたので、三井呉服店に出勤する前に隔日くらいで謡曲の稽古をした。あるとき清之が病気し梅若万三郎と六郎が交代で来てくれることになり、進歩もあまり遅いほうではなかった。
 清景を稽古していたころのある日、その日は万三郎が来宅する番の日で、朝食をとるあいだしばらく座敷で待たせておいたことがあった。そして悠々として行ってみると、なんということか、梅若実翁が師匠の風格を示して正面にどっしりと座っていた。私はおおいに恐縮し、清景の「松門ひとり閉じて年月を送り」というところを稽古してもらった。年老いた盲目の清景が孤独の庵の中でひとりごとを言う場面である。その心境の説明後、発声の練習となった。その教授法が丁寧で、かつ徹底していたためか、それからというもの自身で謡っても、または清景の能を見ても、この一段のところに来ると翁の面影が目に浮かび声がはっきりと耳に聞こえる。これが名人の芸力というものなのだろう。
 私の梅若入門は、前述したとおり明治二十八(1895)年の十月だから、翁が来宅されたのは、たぶんその十二月ごろだったのではないか。それは翁が六十八歳のいまだ壮健なときで、私は三十五歳だった。
 その後私は、謡曲とともに仕舞も稽古し、さらに、猩々をはじめ、花筐、弱法師、三井寺、弦上、百萬、松虫、鉢木、盛久、俊寛、隅田川などの演能を試みた。そのときのことについては、また追って記述することにしたい。
 


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 八十二 
生兵法の側杖
(上巻279
頁)

 明治二十八、九(18956)年ごろから私は、仕事上のことがらで朝吹柴庵英二とたびたび会う機会がふえた。用件以外でも、私と柴庵は、たがいに道具道楽の駆け出しの意気盛んなで、寄ると触わるとしまいには道具の話でしめくくるのが常だった。
 柴庵はもともと頭もよく世渡りもうまい人だったので、明治十(1877)年前後に紳商のあいだで花がるた(注・花札)がはやった時には、いちはやく練習を積みたちまちその道の達人となった今度、三井財閥の一員になってみると主人も番頭もみな美術好きである。ならばさっそくこの道を研究しなくてなるまいという気持ちも強かったのかもしれないが、とにかく熱心に道具漁りを始めた。
 そういうところが私と一致し、日曜日になると本町の田澤静雲という道具屋に押しかけたりした。そこで最初に目をつけたのは応挙筆の松鶴図六枚折屏風一双だった。当時ひとりで買うにはあまりにも荷が重すぎるのでふたりで共有にしたのだが、これが偽物とわかったことがあった。だがこれですっかりへこたれるかと思いきや、ふたりともより一層熱心になっていったのである。

 明治三十(1897)年ごろには、ふたりとももうひとかどの鑑定家になったつもりでいた。
 さて、その二、三年前から三井鉱山会社の理事になり赤坂丹後町に住んでいた団琢磨氏
のち男爵が、遅れ馳せながら美術に関心を持ったらしい。われわれから見れば最近田舎から出てきた後進で、美術品の鑑識にかけてはわれわれはふたりともはるかに大先輩であると信じていた。

 団氏が、われわれに多少はお世辞のつもりだったのか、何かおもしろい絵画があったら僕にも知らせてほしいと言われたので、ちょうどそのころ大阪のある道具商が持ってきた宋の李迪(注・りてき)筆だったと記憶している】の山水中鷺図の二幅対が最近ではあまり見ない珍品だということでふたりの鑑定が一致したので、これを団氏に勧めることにした。
 団氏は両先輩の保証付きということで一も二もなくこれを買うことにした。ところがそれから二、三か月して大阪から続々と怪しげな宋、元の絵画が到来し、あちこちでわれわれの目に触れることになった。よくよく考えてみれば、このまえ団氏に勧めた品もやはりこの手のものなのである。柴庵と私はこっそりと顔を見合わせ非常に恐縮したものの、先輩大鑑定家としての手前、団氏に対してかくかくしかじかと打ち明けるわけにもいかないのであった。
 ふたりはしっかり口をつぐみ、団氏もこのことについては一言も語らず、最近までは三人以外にこのこと知る者はなかったのであるが、柴庵翁もすでに亡くなり、団男爵も不慮の兇変にたおれ、今は私ひとりだけが残ったから、このほど団男爵に関する座談会の席ではじめてこの話を披露したところだ狸庵(注・団琢磨)、柴庵(注・朝吹英二)の両老は、はたして地下で、どんな思いをされているだろうか。
 


道具の虎の巻
(上巻281
頁)

 朝吹柴庵翁が美術鑑定において、のちのちまでの語り草になるような数々の逸話を残したことはけっして偶然ではないのである。前項に記した宋画の偽物をあっせんしてしまったことも一層の研究意欲をかきたてたのであろうか、そのころから、私をはじめとする親しい友人にも一切無言で、両国橋近くの薬研堀の一角に住んでいた小川元蔵という道具商のところに出かけて研究に励むようになった。

 まるで張良が黄石公から兵書の六韜三略を伝授されたように柴庵は元蔵から道具鑑定の虎の巻を伝授されたのである。かたや橋、かたや両国橋の違いはあったが、その熱心さはなんら変わるところがなかった。

 この道具商の元蔵は姓を小川といい、通称は道元として知られ江戸っ子気性の強い人物だった。維新前には金座の誉田源左衛門のひいきを受けたが、その理由が普通ではない。浅草の道具市で、祥瑞沓鉢しょんずいくつはちの糶売(注・ちょうばい。競り売り)があったとき、売り手が五十両と言ったのを遠くから見ていた道元が、よしきたと競り落とし、やがてこれを手にすると、「なんのこんな偽物が…」と言うやいなや、大地にたたきつけて壊してしまった。それをひそかに見ていた誉田が気に入り、道元はそれから同家の出入りの道具商になったという経歴を持つのである。明治の初めには岩崎弥之助男爵の愛顧も受け、男爵は彼の鑑定を受けてから茶器を買ったので所蔵品には名品が多いと言われている。
 柴庵はそのような老道具商を見込んだのである。暇さえあれば同店に入りびたり、道元の講釈をきいた。そのうえ、柴庵は友人のあいだでも有名なほど記憶力がいいので、道元からきいた講釈を後日ほうぼうの茶会で実地に応用し、しばしば友人を驚かせたものだ。

 そのいちばん有名なのが、益田鈍翁【孝男爵の茶会でのことだった。その茶会で丹波焼の茶碗を出されたとき、柴庵は一見して、これは有名鬼ヶ城にちがいない、と鑑定した。鈍翁は非常に驚き、君はいかにしてそのようなことを知っているのかと尋ねると、これは前に道元に聴いたのであるが、丹波焼には、鬼ヶ城という頑丈な造りの名物茶碗が一点あるだけだということだったので、きっとそれに違いないと鑑定したのだといい、非常な名誉を博したのである。
 このような類の名誉談はいまでも友人のあいだに語り伝えられているから、またのちほどに追い追い披露させてもらうことにしよう。


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 五十七
転禍為福(上巻189頁)

 明治二十四(1891)年四月、読売新聞に当時の経済界の内幕をえぐる記事が掲載された。そのなかで、三井銀行では滞貨が山積みで内状は危機に瀕している、また第一銀行も同様であると論評された。
 また、東京朝日新聞の前身でそのころ本社が京橋区新肴町にあった、末広重恭氏が主筆の国会新聞の、経済担当記者であった桜井駿(のち森本と改姓)が、「現今経済社会の変調」という論説で、おなじく三井、第一の窮迫を論じた。(注・記事掲載は1891年7月3日から7日)
 一犬虚に吠えて万犬実を伝えた(注・ひとりがいいかげんなことを言ったのを、おおぜいが真実として伝えること)というだけではなく、じっさい少なからず事実を含んでいたので、ほかの新聞も争うようにこれを取り上げ声を大にして騒ぎ始めたので、三井、第一は非常にあわてた。
 当時三井銀行は全国二十二支店から集めた官金を、東京支店から東本願寺に百万円、三十三銀行に七十五万円貸し出している事実があった。そのほか軍人や官吏を相手に、地所を抵当にした貸付が膨大が額にのぼっていた。
 第一銀行でも、渋沢喜作氏に七十万円、浅野総一郎氏に数十万円の、回収困難な貸しがあった。
 ここで取りつけ騒ぎが起これば事態は深刻なので、三井でも第一でも対策に追われ懸念するなか、京都三井銀行で、とつぜん取りつけ騒ぎが起きてしまった。
(注・7月6日にはじまり、9日に収束)

 とうとう日本銀行総裁の川田小一郎氏に嘆願し、取りつけ騒ぎがおさまるまで同行に援助してもらうことになった。これで当面は切り抜けることができたが、一日もはやくこの噂を根絶しなければという焦りは大きく、私は新聞記者出身であり、また四か月前に入行したてであったから、いまこそ本領発揮して手柄をたてなければいけないと思い、西邑に相談のうえ新聞各社とかけあい、首尾よく諒解にこぎつけるまで奔走した。
 これで三井に対する新聞の攻撃は下火になったものの、第一のほうに火の手が盛んにあがってきた。そのため、第一銀行の行員のなかには、三井ばかりがいい子になるのはけしからんと不満を述べる者もいたが、渋沢子爵がこれをおさえているうちに、ひどかった騒ぎもやっと鎮まり、第一のほうはどうであったかわからないが、三井のダメージはあんがい軽く、京都支店でわずかに二十万円前後の取りつけが起きたに過ぎなかった。(注・高橋が奔走を始めたのは、冒頭の読売の4月の記事が出たあとの、入行から4か月後の5月ごろであったと思われる。本文では「新聞方面に奔走して首尾よく諒解を遂げた」とあるが、実際には、それにもかかわらず7月に国会新聞の記事が書かれ、取りつけ騒ぎが起きてしまったのである。しかし、第一銀行に比べれば、ダメージは小さかった。なお、中上川彦三郎の三井入行は、同年8月である)
 しかしながら、この取りつけ騒ぎがきっかけとなり、禍が転じて福となった三井家は、どこまでも幸運な家である。

 

三池炭鉱(上巻191頁)

 三井が明治二十一(1888)年に政府から三池炭鉱の払い下げを受けたことは、同家の中興事業のなかでももっとも重要なものである。
 明治九(1876)年に益田孝のち男爵氏が三井物産会社を創立したときは、日本から海外に輸出する品物が少なく、印刷局の製紙をアメリカに輸出したり、三池炭鉱の石炭を香港のバターフィールド=スワイヤー商会やジャーディン=マセソン商会に売り込むくらいが関の山で、おおいに苦心していた。
 ところが明治二十一(1888)年になり、政府が三池炭鉱を民間に払い下げることになった。益田孝らの驚きはすさまじく、もしこれを三菱やそのほかの者の手に奪われることになったら物産会社の重要な輸出品を失うことになるので、なにがあっても三井が落札しなければばらないと思った。
 そのときの大蔵大臣は
松方正義公爵であった。政府のなかで、炭鉱払い下げが議題になったとき、公爵は内心それに反対であったため予定価格を四百万円として内閣会議に提示した。列席の大臣たちはひじょうに驚き、あの炭鉱にそんな高額の入札をする者がいるわけがないと言ったが、松方公爵は、ならば拙者が必ずその相手を見つけてみせようと猛々しく言い放った。

 その発表が行われたあと、公爵は三井銀行の西邑乕四郎と日本銀行の三野村利助を三田の私邸に招き、三池炭鉱が非常に有望であることを説明し三井に入札するよう説諭したそうだが、この話は私が松方公爵から直接いたことである。その日は、夕方から夜中の二時ごろまで協議を重ねたということであった。
 この入札では虚々実々のかけひきが繰り広げられた。三井も三菱もその他の入札者も、それぞれ代表者の名で入札を行った。それは明治二十一(1888)年八月のことで、この開札が行われるまで、益田男爵らは心配のあまり連夜一睡もできないほどだった。
 開札の結果は、三井の代表者である佐々木八郎が4555000円、ある大手筋の代表者である川崎善三郎が4552500円で、その差はわずか二千五百円で三井に落札したのであった。これは実に三井家にとっての幸運であったといえよう。(注・川崎善三郎は、川崎儀三郎が正しい。「ある大手筋」とは、もちろん三菱のことで、じっさいの入札額は、4552700円であった。)
 即金百万円、残額は十五年の分割払いで、明治二十二(1889)年一月に引継ぎをすませ、当時まで炭鉱の技師長だった団琢磨のち男爵氏が、炭鉱とともに三井の人となった。 

 当時の四百五十万円は、今日の四千五百万円にも匹敵する巨額である。三井がそれを大胆にも引き受けたのは、三井中興の土台が必要だったからであった。そのためにこの入札には、益田男爵の大英断があったのだが、この落札によって炭鉱とともに三井にはいった団男爵がその後炭鉱の経営にあたり、開坑、築港を完成させ、それを三井の宝庫にしていったのであるから、それはどこまでも三井家の幸運であったと言わざるをえない。


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