だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

タグ:古今名物類聚

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二百八十九 大正名器鑑の編著(下巻514頁)

 茶道が始まって以来四百五十年のあいだに、茶人によって賞玩された名物茶器の数は、ほとんど数え切れない。
 利休時代までの茶書に載せられたものを大名物(注・おおめいぶつ)といい、時代がくだって寛永時代(注・江戸時代初期162445年)にいたり、小堀遠州らがその鑑識眼で選んだ名器を、中興名物と呼ぶ。それらが代々伝えられて貴重な宝とされているのである。
 徳川時代においては、これらの名物が、将軍家、諸大名、あるいは民間の諸名家の宝蔵に秘蔵され、それらを簡単には見ることはできなかったので、数寄者の中には、なるべく広くこれらについて調査し、名物集を作ろうとするものも多かった。
 なかでも、享保時代(注・171636年、徳川吉宗の時代)には、松平左近将監乗邑(注・のりむら、のりさと。老中)が非常な努力(原文「丹精」)で「名物記」三冊(注・「乗邑名物記」)を編集し、続いて寛政年間(注・17891801年)には、松平出羽守宗納【不昧公】が九年を費やして「古今名物類聚」十八冊を編集し、その後、本屋了雲が「麟鳳亀龍」という名物記四冊を編集した。これらの名物記が、従来は名物茶器の記録として、茶人の金科玉条とするところであった。
 封建時代には、諸大名が名器を各自の藩地で保蔵しているだけでなく、いろいろな意味で極度に秘蔵する習慣があったので、松平乗邑が当時の幕府老中であったことが、その調査のうえで非常に役立った。松平不昧も、徳川の親藩であるうえに十八万石の資力があり、それを背景にして編集を行うことができた。
 にもかかわらず、実物を見ることができない場合もなきにしもあらずで、伝聞によって記録を作成したので、調査が正確を欠くだけでなく、写真のような実物を写すことができる便利なもののない時代だったので、読者が実物を思い描くことが難しいといううらみがあり、私はいつもそのことを残念に思っていた。

 ひとりの研究者の力(原文「一学究の独力」)では、満足な名物記を完成することは、いかに便利な世の中でも簡単なことではないと思いつつも、なんとか奮闘して、この事業をやりとげてみたいと私は思ったのである。私が五十一歳で実業界を引退したのも、半分はこれを実現させるためだった。
 こうして、私は実業界を引退した大正元(1921)年から、どのような順序で着手すればよいかいろいろ研究し、大正六(1917)年にはほぼその方針を決めることができたので、それからすぐに名器の検覧、そして写真撮影にとりかかった。
 しかし、一度にたくさんのことを網羅しようとすると調査に滞り(原文「不手廻り」)が生じ、あれこれやるべきことが増えて、どっちつかずの中途半端になりそうだったので(原文「共に疎漏に陥るべきを悟り」)、第一期計画として、まずは茶器の代表(原文「儀表」=模範)である、茶入、茶碗、を調査し、その全力をこの二種類のものに集中することにしたのである。
 そこで、天下の名物茶入と茶碗の七分の一を所有されている松平直亮伯爵の四谷元町邸を訪問し、私が今度名器鑑を編集しようとしているのは、寛政年間に伯爵の高祖である松平不昧公が「古今名物類聚」を編述されたのと同様に、今日の聖代の余陰によって(注・「この平和な大正の御代(みよ)に」ほどの意味か)、さらに一層精密な図録を調製しようという趣旨であると、ひたすらに伯爵の援助を懇請した。

 すると伯爵はよろこんでこれを承諾され、不昧の時代は名器を検覧することは難しく、撮影技術もなかったために、その調査を入念にきわめることはできなかったが、今日、貴下が一層綿密な名器鑑を編集しようとするのは、茶道のためにもまことに有益な企画になるので、自分は貴下の目的が果たされるようにできる限りの協力をしようと、私のことを非常に励ましてくださった。私は、伯爵のそのひと言で、百万の援軍を得るよりも力づけられ、大正七(1918)年の五月に、伯爵の東京邸に所蔵されている三十八点を検覧した。

 続いて、松江市の宝蔵にある五十五点も調査し終えることで、名器鑑の中核となる部分を構成することができた。これは、私にとってこのうえないよろこびだった。
 次いで、同年十一月には、幕府伝来の御物を保蔵されている徳川家達公爵を訪問し、本編集の趣旨を説明した。公爵もその計画に賛成してくださり、所蔵の大名物茶入十三点、茶碗六点の検覧と撮影を許可されただけでなく、同族諸家に対しても、私が、その所蔵名器を検覧できるように親切にも取りはからってくださったので、私は引き続き、徳川三家の名器を拝見することができた。その後、島津、毛利、前田、浅野、細川をはじめとする旧大名家や、民間の大家を歴訪した。
 茶入については、持ち主が百人で、品数は四百三十六点、茶碗は、持ち主が百十八人、品数は四百三十九点というところで、調査を終了した。
 大正六(1917)年から実編集の時期にはいった。それから足かけ十年を費やして、大正十五(1926)年十二月、全国に現存する名物茶入、茶碗の編集を完了した。
 「茶入之部」五編、「茶碗之部」四編を印刷にまわし、これを「大正名器鑑」と名づけた。
 この事業の遂行には、物質的にも精神的にも想像をこえる困難に遭遇したが、時勢のおかげで、かつての故人がひとりなしとげることができなかったことを成就した。さらに手前味噌の点を挙げるなら、天下の諸名家を歴訪し、茶事始まって以来の誰よりも一番多くの名器を実見することができたことは、この事業から生まれた役得だったといえよう。

 


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二百六十五  小倉色紙披露会(下巻426頁)

 昔から、名品を獲るは易く、これを使うは難しい、とよく言われるが、私は小倉色紙を手に入れたとき、殊にこの感を深くしたのである。
 私が小倉色紙を手に入れたのは大正七、八(191819)年ごろで、そのときは箱も付属物もなく、全く丸裸のままだったが、上下が浅黄地銀襴、中(注・中廻し)が紫印金、一風(注・いっぷう=表装で一文字と風袋を合わせた略装)が上代紗の表装で、もともと並々ならぬものであることはもちろん、色紙は古筆家の、いわゆる白色紙で、砂子または地紋がないだけ文字がはっきりとして、いかにもみごとなものであった。
 その歌は、

    高砂の尾上のさくら咲きにけり とやまのかすみたたすもあらなむ

というものだった。
 そこで、だんだんと調べてみると、これは久世大和守家の伝来品で、現在は子爵久世広英氏の所蔵だったが、わけあって、中身だけが世間に出て、利休の添文と、畠山牛庵(注・畠山光政、書画鑑定家)その他古筆の外題(注・書籍,掛物,巻物などの外側につける題箋)はいまも久世家に残っているということがわかったので、その後、子爵に懇望して付属物全部をまとめることができたのである。

 さて、この色紙の伝来を見てみよう。一条殿御所持のあと、仙石兵部殿(注・仙石忠政か?)へ行ったのち、細川三斎のもとで表具に趣向が凝らされ、そこから一柳殿へゆき、同家の息女が金保安斎方への嫁入りの際に持参して、その子の道訓に伝わったということである。白河楽翁(注・松平定信の「集古十種」、松平不昧の「古今名物類聚」のどちらにも久世大和守所持とあるので、寛政年間(17891801)にはすでに同家の所蔵になっていたものと思われる。
 小倉色紙は、利休の時代から世でもっとも重んじられ、大大名家になくてはならぬ重宝として、お家騒動の種にすらなったものである。なぜこの色紙が珍重されたのかというと、それより以前には寸松庵色紙、継色紙、升色紙、俊頼大色紙などというものがあったが、それらはいずれも巻物を切ったり、歌帖をばらばらにして色紙形に作り直したもので、本物の色紙として生まれたのは小倉色紙が最初だったからである。
 この色紙がひとたび世に出たあとは、為家の色紙がこれに続き、さらに下って有名な宗祇法師の大倉色紙などが出てきた。そして、色紙の元祖が小倉であることから、自然に世の中でもてはやされるようになったものと思われる。
 またこの色紙は、山荘のふすまに張り付けたので、遠くからでも読めるように特にその字を大きくしたようで、茶人がこれを珍重するのも、その文字が大きく一見して非常にはっきりしているためであるとも思われる。
 前述した久世家の小倉色紙には、利休筆定家卿色紙弥弥秘蔵云々(注・原文では卿が郷となっている、誤植か)の添文掛物が付属していたので、大正十(1921)年四月二十二日から、赤坂一木町の一木庵において、これを披露する茶の湯を催すにあたり、私は待合の壁床にこの利休文を掛け、本席に例の色紙を掛けて連会すること十日にわたり、茶友七十人余りを招待した。

 この時の益田鈍翁の謝状に、次の一節があった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)

 「小倉の色紙でお茶を頂戴すると云事は、昔は大々名でなければ及びもない事なるに、今や箒庵子より此光栄を賜はつたのは、誠に老後の仕合である。待合で利休の添文を見たので、扨てこそと思ひつつ本席に入れば、果して小倉色紙が掛つてあつたが、表装は細川三斎好みで、久世大和守家に伝はり、出来も殊更美事にして、一見頭の下がる者であつた。斯くて庵主は此掛物に配するに、青磁桃の香合を以てし、花入は紹鴎所持古銅桃底に白玉椿を活け、茶入は金森大海、茶碗は黒光悦で、何れも名物揃えなれば、何れの茶会でも、無遠慮に勝手の事を言ひ合ふ連中も、今日ばかりは襟を正して、大々名に成り済ました心地がした。併し茶会の終りまで、客を緊張させて置く庵主でないから、濃茶が終ると、伊賀の水指、庸軒(注・藤村庸軒)好み朱棗、無地刷毛目茶碗に薩摩を取合せ、如何にも平民的気分に為したのは、庵主が苦心の存する所で、濃茶の間は、厳粛なる謡曲の如く、薄茶と為りては気の利いた清元とも謂ふべきか云々」

 鈍翁は茶道に於ける千軍万馬往来の老将なので、その品評も急所にあたり、主催者が心の底からうなずくことができるものである。
 思うに、小倉色紙は、もともと百枚あったものだろうが、寛政年間(
1789
1801)の松平不昧の調査では現存が二十八枚とされ、その中で、茶事に使用することができるのは「八重葎」、「ほととぎす」、「いにしへの」、「誰をかも」の四枚のほかは、今回の「高砂の」の一枚を合わせて、わずかに五枚を数えるに過ぎない。であるから、古宗匠がこれを使用するにあたって一世一代の工夫を凝らしたことが美談となって後世に伝えられているものもある。 

 利休が某家の茶客になったとき、その露地に落葉が掃き残してあったのを見て、さては、当家で秘蔵されているという「八重葎」の色紙が掛けられているに違いない、と予言したという逸話も残っている。
 また、ある大家は、暁の茶会を催し、「ほととぎす」の色紙を掛け、室内に灯火をともさず、四更(注・しこう。午前4時ごろまでの早朝)の月光が、突き上げ窓(注・茶室に設けられた天窓)から差し込んで、掛物の上を照らし始めると、「ただ有明の月ぞのこれる」の文字が、ありありと読めるようにしてあったということもあった。
 しかし私の色紙披露会は、前述のように平々凡々で、なんら茶興をそそるほどの趣向もなかったが、来客の方からは、さまざまの論評を寄せていただいた。ある人が、一木庵は奈良興福寺殿堂の古材を柱としているから小倉色紙とは調和しないだろうと言ったのに対し、故団狸庵翁(注・団琢磨)が、小倉色紙は仮名でこそあるが、その文字が大きく、一種独特な墨蹟であると言えるものであるから、古材の太柱席と調和しないはずはないだろうと言われたなどは、確かに傾聴すべき一説であると思う。この披露会も、おかげでお茶を濁すことができたのは、まったく茶友の厚情のおかげで、そのことに深謝せねばなるまい。


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