だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百九十 名器三十本茶杓(下巻517頁)

 私が大正元(1915)年から着手した「大正名器鑑」の編集は同十五(1926)年末に結了した。ひきつづきその再版のために二年余りを費やし、昭和三(1928)年九月に完成させることができた。
 その一部は天皇陛下に奉献し、さらに東久邇宮殿下にも献納するという光栄に浴した(原文「辱うしうした」)ので、同年十月二十七日に、帝国ホテルで本鑑の出版記念会(原文「告成会」)を催すことに決した。
 実物と対照させるため、諸大家から門外不出の大名物品を拝借し一堂に陳列することも行った。そこに、各方面の紳士、高官(原文「縉紳(しんしん)」、茶伯、文芸好事家を招待し、首尾よく記念の式典を終えた。
 さて、その翌年四月十七日に、根津青山翁の主唱に益田鈍翁、馬越化生、団狸山、原三渓の諸先輩が賛同して、さきの出版記念会に対して「箒庵翁慰労会」なるものを、東京会館で催してくださった。そこで、過分な讃辞と貴重な記念品を贈っていただいたので、私はその光栄を記念するために若干の茶杓を作り、それらに名器鑑中の茶碗、茶入にちなむ名前をつけ、ひごろ懇意にしている茶友に贈呈することを思い立った。
 さて、それを何本削ろうかと考えた末、表千家宗匠の如心斎宗左が、元文年間(注・173641年)に北野天満宮修復のために、三十本削って寄進した茶杓のことを「北野三十本」といって、今日の茶人たちにもてはやされていることから、私もそれにならい三十本製作することにした。
 寄贈しようとする人々に対しては、それぞれ縁故のある名称を選び、筒には「名器三十本之内、箒庵」と書きつけることにした。
 その名称と贈った人々の名前は次のとおりである。
 

  伊予簾  横井二王(注・横井庄太郎、名古屋道具商米萬

   走井   山田玉鳳(注・保次郎、名古屋道具商)
   橋立   中村好古堂(注・作次郎ではなく富次郎、道具商)
   花橘   近藤其日庵(注・廉平)
   春雨   加藤犀水(注・正治、正義の養子)
   思河   熊沢無想庵(注・一衛、実業家)
   大津   根津青山(注・嘉一郎)
   唐琴   林楽庵(注・新助、京都道具商)
   合甫   富田宗慶(注・重助、名古屋実業家)
   玉川   野崎幻庵(注・広太)
   玉柳   金子虎子(注・昭和茶会記に「大兵肥満の女性」とあるので瓢家女将お酉かも知れないが不詳)
   太郎坊  川部太郎(注・緑水、道具商川部利吉の養嗣子)
   茄子   益田無塵(注・益田多喜子)
   呉竹   伊丹揚山(注・信太郎、元七の息子、道具商)
   山雀   団狸山(注・琢磨)
   破衣   原三渓(注・富太郎)
   升    磯野丹庵(注・良吉)
   松島   八田円斎(注・道具商)
   猿若   益田鈍翁(注・孝)
   サビ助  仰木魯堂(注・敬一郎、建築家)
   笹枕   田中竹香(注・元京都祇園芸妓、田中竹子、「昭和茶会記」洛東竹操庵を参照)
   面壁   山中春篁堂(注・吉郎兵衛)
   宮島   田中親美
   箕面   戸田露朝(注・道具商)
   三笠山  土橋無声(注・嘉兵衛、道具商)

   四海兄弟 野村得庵(注・徳七)
   時雨   森川如春(注・勘一郎)
   白菊   越沢宗見(注・金沢呉服商、茶人、「雅会」会長)
   勢至   馬越化生(注・恭平)
   関寺   山澄静斎(注・力太郎、道具商、力蔵の息子)

 私は近年、茶杓削りに興味を覚え、天下の名竹をさがして、手に入れたら削り、ということを続け、それを同好者に寄贈することが一種の道楽になっているので、すでに作ってあったものだけでも二、三百はあったと思うが、今回も、例の道楽が頭をもたげ、この三十本の茶杓を製作したのである。
 そもそも、日本において茶杓を使い始めたのはいつのことだろうか。とにかく、抹茶を茶入から茶碗に移すには、茶杓様の器具を用いなければなるまい。鎌倉初期、シナから茶の実を持ち帰った建仁寺開山の栄西禅師の「喫茶養生記」のなかで、点茶の説明には、容器に二、三匙の抹茶を入れて、これに一杓の熱闘を注ぐべし、と書いてあるから、そのころからすでになんらかの茶杓を使用していたに違いない。
 その後、東山時代になり、天目点茶にはたいてい象牙の茶杓が使われたが、現在、足利義政、または茶祖の珠光(注・村田珠光)作と言い伝えられている竹製の茶杓があることを見れば、その時代にも竹茶杓はあったものと考えられる。
 茶杓の材料には、そのほかに桑、桜、その他の堅木が使われ、ほかにも、塗物、一閑張り、あるいは金銀なども使ったようだ。しかし紹鴎(注・武野紹鴎)、利休以後は、竹製のものが一番多く、象牙がそれに次いで多い。
しかし、象牙、塗物、木材の茶杓は、茶杓職人でないと、なかなかうまく作ることはできないので、昔から茶人の自作茶杓は、たいてい竹材に限られているのである。
 その茶杓には、その作者の人格があらわれる。貴人、僧侶、宗匠、その他どのような種類の人が作ったものであるか、ひと目見ただけでだいたいわかってしまうのは、作者の魂がその茶杓に乗り移っているからなのである。
 であるから、茶人が古人を友とし、その流風の余韻をしのぶときには、茶杓がもっともたしかな対象物となる。そして、これを鑑定することが、茶会における最大の興であるとされているのである。

 私が茶杓製作におおいに興味を持つようになったのもそのようなわけで、自分でも茶杓を作ってみれば、他人の茶杓を見て、その肝心な部分(原文「急所」)に一段と深く注意を向けることができ、ひいては鑑定もますます上達するのである。
 よって、巧拙はともかく、天下の茶人は、かならず茶杓の自製を試みてほしいものだと、私はこの機会を利用して勧めておきたいのである。


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百七十五  東京の庭石(下巻97頁)

 小石川後楽園の話が出た(注・174「小石川後楽園について」を参照のこと)ついでに、東京の庭石についての所感を若干述べてみたい。
 東京は武蔵野の原で、もともと石類にとぼしいところである。徳川氏が天正十八(1590)年八月に江戸に入府し、江戸城を築くためにほかの地方から石類を取り寄せたのをはじめに、ほうぼうに続々と建設された大名屋敷に遠国から庭石を運び込んだ。その数は相当多く、費用も多額にのぼったであろう。
 しかし交通が不便な時代であったから、たいてい運搬は海路で伊豆石や房州石を取り寄せたのである。かの根府川石のような、すべすべして雅趣に乏しいものや、磯石のような粗くて(原文「粗鬆」)打ち水が乾きやすいものが多かった。奈良や京都の庭石と比べて、一見してきわめて殺風景なのはそのためであった。
 その中にあって、小石川後楽園の庭石がほかの庭園より幾分優秀だったのは、その築庭者に石に対する造詣があったからであろう。
 この庭のあとは、徳川時代を通じて江戸府内に築造された庭園のいずれを見ても、駄石ばかりで見るに値するものはない。有名な本所の佐竹侯爵の庭でさえ、ただ大きな石があっただけで雅趣のある石は皆無だった。
 さて、どのような庭石を上等とし、下等とするのか。どこにある庭石を標準にして、その優劣を判断すべきなのか。
 私は、奈良、京都の石をもって、その答えにしたいと思う。
 明治二十七、八(189495)年ごろ、中上川彦次郎氏が永田町に邸宅を新築したとき、そのさきに、ボテボテした新造の大石灯籠を据え付けた。するとある人が、こんな新しい石灯籠は、ありがたくありませんねと批評したのであるが、中上川氏は例の調子で、「君はこの石を、古いの、新しいのと言われるが、これが果たしていつごろできたものであるかを知っているか」と言って、相手を大いに困らせたということだ。しかし、本来、庭石の新古というのは庭に移されてからおよそ何年と数えるべきものなのである。
 日本で一番古いものは、奈良、京都を中心とする五畿内(注・山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)の神社仏閣や古宮殿にあるような庭石のことをさすのである。なかには千年以上を経ている古いものも少なくない。
 私は明治二十六(1893)年から大阪に滞在した三年間に、五畿内各地の古社寺、名所旧蹟を歴訪し、その庭さきにある飛石、捨石、つくばい、石灯籠、塔石などを見てまわった。そしてそれらの研究をするなかで尽きない興味を感じたので、明治三十一(1898)年に麹町一番町に家を建てたとき、奈良法華寺の大伽藍石を七個、法華寺形石灯籠本歌、鶴石、亀石、法華寺十三重煉石塔を一基、海龍王寺の団扇形つくばいなど、奈良にある数多くの古名石を買い取り、七トン貨車で東京に取り寄せたのである。これがおそらく奈良石を東京に移入した始まり(原文「嚆矢」)だろう。
 その後、向島徳川邸内の嬉森庵、四谷伝馬町の天馬軒、私が現在住む赤坂一ツ木の伽藍洞の庭園築造のときには、奈良の法隆寺、栄山寺、久米寺、山田寺、秋篠寺など、十七の寺の伽藍石を集め、飛石、捨石用に使った。
 それ以前に、岩崎弥太郎氏が深川清澄町の庭園を造られたときは、お手のものの船舶を使い伊豆地方から非常に大きな石を取り寄せた。それは現存する庭を見てもわかるように大勢の人の知るところではある。しかしながらそれらの石は、ただ大きな石というだけで。奈良石などに比べると、羊の皮千枚でも狐の皮一枚に及ばない(注・「千羊の皮は一狐の腋にしかず」)という、たとえの通りになってしまっているのである。


 私が一番町邸のために奈良石を取り寄せた約一年後、井上世外侯爵が内田山邸を築造するために奈良石を取り寄せた。横浜の原三渓氏が、桃山旧構の移築をしたときにも、同地方の石を搬入した。
 また大阪でも、藤田香雪男爵が網島邸の造営に当たり最大規模の蒐集を行ったので、古い庭石がほとんど底をつくという事態が起きた。
 そのときに至り、各地方自治体が史蹟保存の名目で、庭石、伽藍石の譲渡を禁止する方針を採り始めたため、もっとも雅趣に富む古名石は、もはやほとんど手に入れることができなくなったのである。
 このように奈良、京都の石が欠乏したので、私は、石理(注・せきり。石の構成組織)が細かく打ち水の乾きが遅い山石を探すことになった。
 関西においては、それまでに若干東京に搬入されていた鞍馬石、貴船石などのほか、新たに生駒石を採用した。関東では加波、筑波の山石が生駒とやや類似しているのでそれを東京に運んだ。
 その後、田中平八君が葺手町(注・現虎ノ門)邸の築庭を行う際、実に貨車七千トンの筑波山石を取り寄せたということだ。
 またほかにも、甲州石を取り寄せた者もあった。故村井吉兵衛氏の永田町邸のいくつかの大石などがそれである。
 このようなわけで、徳川初期以来現在にいたるまで、武蔵野の原に、他の地方から庭石を搬入した数量は、実に大きな石山をひとつ築くくらいはあっただろう。原っぱのどこにそれらの石が隠れているのかほとんど人目につかないのは、武蔵野が広いからでもあるが、庭石というのは使用するとき半分以上を土中に埋めてしまうからでもあろう。これからもどれだけ搬入されても特別に目立つということはないだろう。
 ただ、私のような庭石そのものを鑑賞の対象にする者が鑑賞者として希望を述べるとすれば、今後石を運び入れる人々が、石の質をも十分に研究してくだらない駄石を大量に搬入することがないようひとえに願いたいものである。


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  百二十一 

製糸工場の処分(上巻419頁)


 三井には、明治二十四(1991)年よりも前に政府から払い下げをうけた富岡製糸場と、三十三銀行の抵当流れだった大嶹(注・おおしま)製糸場という二大製糸工場があり三井工業部の所管に属していた。(注・史実では、三井が富岡製場を手に入れたのは明治二十六年)
 中上川氏が鐘淵紡績や王子製紙を拡張したとき、製糸工場も三井の事業として大幅に拡張し、名古屋と四日市に二大工場を創設することになった。
 しかしこの計画は中上川氏のさまざまな拡張計画のなかで、いわゆる千慮の一失(注・思いがけない失敗)に終わってしまった。というのも、本来製糸の仕事は農閑期の工業で、農家が農間に養蚕をして、繭ができると自分たちで繰り上げるというのが従来のやり方だったからだ。上州(注・群馬)、信州、甲州(注・山梨)には多少は大規模な工場がなかったわけでもないが、言ってみれば一家の手内職であり費用のあまりかからないものだったのに、三井のような大きな会社が繭の買い入れから工場の操業までを給与の高い人を使ってやるしくみでは、結果として費用倒れになってしまったのである。
 特に明治三十二、三(18991900)年ごろは製糸の商況が悪かったので中上川氏も持て余していた。そこで私は中上川氏と協議したうえで、かねてから親しくしていた横浜の原富太郎(注・三渓)氏に交渉し、富岡、大嶹、名古屋、三重の製糸工場を、総額でいくらだったかははっきりとは記憶していないものの、とにかく十か年の分割払いで譲渡することになった。

 原氏は日露戦争後、この工場で大儲けをしたこともあったが、その後そうとうな損失を招いたこともある。大家が経営することが非常に困難な工業であるようだ。三井がこれを処分したのは私が三井呉服店在勤中で、中上川氏がまだ生存中のできごとであった。



絹糸工場の合同(上巻420頁)


 三井が三十三銀行の抵当流れとして引き取った物件のなかに、新町絹糸紡績工場と、前橋の同工場のふたつがあった。絹糸紡績というのは屑繭から糸をつむぐ工業のことで、日本においてはフランスの工場にならって建設したものである。中上川時代には、やはり三井工業部の所管に属しており、柳荘太郎氏が主任者として苦心して経営に当たっていた。
 その工業部が三井呉服店と合わさったので、私は明治三十五(1902)年ごろからその工業の全国的な合同計画に当たることになった。当時、経営が困難だった岡山、京都、程ヶ谷の三つの絹糸紡績工場をまとめ京都を本社にして団結する協定が成立したので、藤田四郎氏を社長に推し、私も取締役のひとりに加わった。
 それ以降かなりの成績をおさめ続けていたが、日露戦争のあとに諸工業が景気づいて、この合同絹糸紡績会社の株が払込の倍額以上に達した。もともと工業関連には執着をもたない三井では、これをだんだん売却し、約百万円ほどの利益が出るまでに売りつくした。
 この件が落着すると、私は三井から感謝状とともに金一封の褒美を頂戴した。そこで、当時の住まいであった一番町の家の東北部分に能舞台を造ることにした。それを稽古場、兼、運動場にした。しかしほどなく私の先妻が死に、ある人の説によると、これは鬼門に向かって能舞台を建設した祟りであるということであった。また私邸に能舞台を造るということは、昔であれば大名でなければなし得ないことで、三井の奉公人としては僭上の沙汰(注・身分をわきまえない贅沢)だと言いまわる人も出てきた。

 いずれにしても、あまりいい考えではなかったようである。しかし一生のうちに一度、自宅に能舞台を造ったというのも、私が趣味にふけった生活を送った一端を示すもので、必ずしも意味がなかったとは思わない。この舞台は、震災前に観世流の橋岡久次郎氏が引き受け、今でも赤坂榎坂町の橋岡方に残っている。



三越呉服店の独立(上巻421頁)


 上記の製糸、絹糸の両工場の処分に続き、私が三井在勤中にうまいぐあいに整理することができた案件は、三越呉服店のちに、三越と改称の独立であった。
 当店は明治二十八(1895)年に私が改革に着手したころから、三井営業店として経営するべきではない、という議論があった。しかし当時の老主人のなかには、少年時代から同店に勤めていた者もいたし、また先祖が始めた事業として二百年あまり継続してきたのだから、という意見もあり、いずれにしても一度改革したうえで、あとのことを決めようということになっていた。
 まずは販売法を西洋百貨店方式に改め、それから十年の歳月がたったので、主人連中の考えもすでに変化しており、今では、処分することに反対する者もいなくなっていた。そこで、当時三井管理部の首脳であった益田孝男爵からの発案で、三井呉服店を三井から分離し五十万円の株式会社にすることになった。そしてこれを、高橋、日比(注・翁助)、藤村(注・喜七)、益田英作の四人に、それぞれ五千株ずつ持たせ、他の五千株を三井関係者から募集した。
 店名も三越呉服店と改め、明治三十七(1904)年にはいよいよ独立して株式会社となり、日比翁助が専務として海外の百貨店の情況視察にあたった。そして同三十九(1906)年には、日本の百貨店の先鞭をつけて今や資本金三千万円の大事業会社になったのである。


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