だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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「箒のあと」を書き終りて(下巻559頁)
(注・旧字を新字になおした。旧仮名遣いはそのまま、途中の漢詩は省略した)

                
                 箒庵 高橋義雄

 昨年六月十八日を以て、都新聞に掲げ始めた「箒のあと」は、今や満一年を過ぎて、予定の三百篇を載せ終つた。最初都新聞整理部長渡部英夫君が、我が伽藍洞を訪ひて、同新聞に「箒のあと」を掲載すべく請求せられた時、私は渡部君に向ひ、我が作つた文は、恰も我が子の如く思はるるから、精々可愛がつて下さいと希望して置いた処が、其後同新聞写真部長中村長作君が、非常の丹精を以て、諸方より図画写真を取り集め、之を篇中に挿入して、記事に一段の興味を添へられたので、不肖の子も、幸ひ読者諸君の愛顧を辱うする事を得たのは、私の深く感銘するところである。

(漢詩中略)

 私は右様の次第で、首尾よく「箒のあと」を書き終つたので、

  まばらにも掃きあつめけり花紅葉 ふりたる筆を箒とはして

と口吟んだが、振り返つて見れば、書くべき事が、猶ほ数多く残つて居るから、追て標題を改めて、更に散りたる花紅葉を掃き尽くす事としやう。




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 七十二
古寺社の巡礼(上巻244頁)

 私が大阪に滞在した三年間の毎日曜日の日課は、畿内各地の古寺社を巡礼することだった。「是は東国方より出でたる者にて候、我未だ何々社寺を見ず候に、此度思ひ立ち一見せばやと存候(注・能「田村」の「是は東国方より出でたる僧にて候、我未だ都を見ず候・・・」のもじり)と、お能ばりに見物してまわろうとして最初から計画を立て、まず聖徳太子の法隆寺から始めることにした。

  続いては天平時代の奈良諸寺院、その次には弘仁時代の室生寺などと時代順にまわった。大和の国の古刹では、薬師寺、秋篠寺、東大寺、法華寺、当麻寺、唐招提寺などに行き、旧社では春日、三輪、多武峯など、山間の僻地であっても厭うことなく巡礼を続けた。
 河内の国では、観心寺、道明寺、誉田八幡など、和泉の国では堺の南宗寺、塩穴寺、摂津では勝尾寺、四天王寺、住吉神社。山城では洛中洛外の社寺をいちいち数えていたらきりがないほど。そのほか江州(注・近江)、紀州におよんで、一日で二か所以上は回った
 まずは建築からはじめ、仏像、仏具、絵画、彫刻など装飾関係にわたり詳細に研究していくと、時代によってその気分や特徴がはっきりしてきて、千年以上の古物に触れてその古色を味わうことになった。
 その間にふつふつと湧き上がってくるのは、まずはわが国の国体のありがたさであった。いちばん上に万世一系の天子をいただき、かつて外敵に侵入を受けたことのない国でなければ、火災に弱い木造建築が千年以上ももつことは考えられない。内地での戦乱は、武人同士の争いであって民衆のあずかり知らぬことなので、こうした惨禍は寺の塔や伽藍には及ばなかった。それで、祖先が代々残した工芸美術が完全な形で残り現在国民の模範になっている。

 このようなありがたい霊境浄土は世界のどこを探したとしてもふたつとないものだ。そう思えば、誰しも尊王愛国の気持ちを持つのではなかろうか。
 最近の悪い思想の蔓延を防止するために政治家の苦慮が大きいということには、私も非常に共鳴するのであるが、私は、学校の生徒たちの遠足の目的地を、ときどきは古社寺に向けるということが一石二鳥の妙案ではないかと思う。
 今の人たちが古社寺の境内にはいると、なんとはなしに敬虔な気持ちを持つものである。私はあるイギリス人が法隆寺の金堂の前に立ったとき、ギリシャの古い建築物に対するのと同じように、身を二千年前に置いたような感じを覚えたと言われるのをきいたことがある。またアメリカ婦人が高野山に登り弘法大師が唐から請来した金鈴を打ち振り、一千百年前に大師が聞かれたその音と自分が今聞いている音がまったく同じかと思うと、なんとなく大師に出会っているような気がすると言われたことを伝え聞いた。そのように、古寺社の巡礼はわれわれにいろいろな霊感を与えるのである。
 私は奈良地方の古寺院でいわゆる伽藍石の趣味を覚え、これをはじめて東京に運びこんで好事家たちにこの趣味を伝えた。私の現在の赤坂一ツ木町の伽藍洞でも、南都(注・奈良)における千年以上の伽藍石を数十個保有している。それは、古社寺巡礼のたまものにほかならないので、また後段でも伽藍石について語ることにしようと思う。(注・92「寸松庵開き」を参照のこと)


渡邊治の死去(上巻246頁)

 私の親友であり畏友であった渡邊治は、明治二十六(1893)年十月に肺疾患に倒れ、播州須磨の別邸で息を引き取った。三十三歳だった。渡邊は私と同じく水戸下市の士族で住まいも近かったので、幼いころからのいわゆる竹馬の友だった。彼は私より三歳年下で、才学夙成(注・幼くして学業ができあがること)、少年のころから大人びた言動をし、しかも負けず嫌いでよく勉強したので、上市の漢学先生だった寺門謹(注・会沢正志斎の甥)氏の塾に出入りするころには神童だという評判だった。彼の父親は小柄だったが剣術の達人で、仙台藩の道場破りをしたときには天狗の再来だと言われて、小天狗と呼ばれたそうだ。
 明治十一(1878)年に私と一緒に茨城中学予備校に入学し、予備校が中学となってからは同学年で三年間のあいだ彼がつねにクラスの首席を占めていたので、私はなんとか一度でも彼を越えようと必死で勉強を続け、知らず知らずのうちに得たものは大きかった。
 明治十四(1881)年には松木直巳氏のあっせんで、ふたり一緒に福澤先生の保護下に置かれることになり、翌十五年にはふたりとも慶應義塾を卒業して時事新報の記者になった。そこでまた競争になったが、私は明治二十(1887)年に時事新報を去って洋行することになり、このときだけははじめて彼に先んじたが、彼も長くは時事新報にとどまらず、翌々年の明治二十二(1889)年に山県公爵に親近し、その第一歩を政治の世界に踏み出したのだった。
 また東京では朝野新聞を乗っ取り、ついで、当時は小さかった大阪毎日新聞を買収していまでは隆盛を誇る同新聞の基礎を作ったのである。
 明治二十三(1890)年の衆議院選挙のときにはまだ三十歳に達しておらず、議員候補の資格を持たないにもかかわらず、どうにか工作したようで、うまいこと水戸市から選出された。
 議会においても、すぐに大成会を組織し、四十人あまりの議員を集めて、天下をおさめるための方策を練り、山県公爵からも将来を期待されていたものだ。
 しかし肺疾患がすでに進み、復活することなく志なかばで亡くなったことは非常に残念なことだった。それでも、短い時間のあいだにほとんど超人的ともいえる働きをし、もしももっと長く政界にあれば、大臣はもちろん、あるいは首相の任もまかされることになったのではないかと思わせたことは、病的なまでの天才のなせる業であったということだろう。

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