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二百九十三 現役大臣の茶の湯(下巻534頁)


 昭和六(1931)年四月初旬、司法大臣で子爵の渡辺千冬氏が、ある骨董商から偶然手に入れられた清朝御府(注・ぎょふ。皇帝の宝庫)伝来の茶碗は、口径四寸(注・一寸は約3センチ)、高さ一寸七、八分くらいで、春先専用の薄茶茶碗としては、このうえない寸法(注・サイズ)である。また内外は薄桃色で、ところどころに、いわゆる煎餅ぶくれがあり、口縁の外側から青釉がどろどろと一ナダレになっているのが、なんともいえない「景色」になっている。
 見込(注・茶碗内部の底)には黒金気釉で「花碗」の二大字が現れている。その筆づかいがすこぶる古雅で、古い法帖(注・ほうじょう=名筆鑑賞用の折り本)の文字を見るようなおもむきで、また、この茶碗を包んだ黄絹の風呂敷に、乾隆皇帝之章という大朱印が押されているところを見ると、あるいは幕府の什物であった可能性もある。
 ところで渡辺法相は、最近東京に「添光会」という茶会を設けて実物教育の宗匠を自任している加賀金沢の裏千家流茶人である越沢宗見と知り合いなので、彼にその茶碗を見せてみると、宗見は激賞し「閣下、もしこの茶碗がご不用なら、即座に拙者にお譲りあれ、もしまたご所蔵なさるるならば、ぜひとも、この茶碗びらき(注・披露)の一会を催さるべし」と言われたので、法相も非常にその気になり、では宗匠の才覚でその一会を催すことができるよう、それぞれの用意を整えるようにとの命令を下された。

 宗見はおおいによろこび、さっそく私にその一部始終を語ってくれた。また、その茶碗も見せてくれたが、これこそ、それまでの茶人が絵高麗と言い慣わしているものであった。絵高麗とは、はじめシナで製造されていたが、朝鮮で模造されるようになり、そちらの模様のほうがかえって世間に知られるようになって、ついには絵高麗と呼ばれるようになったものであるがこの花碗は、まちがいなくシナの窯元の製造になるもののようで、古陶器研究のうえで絶好(原文「屈竟」)の資料になるばかりでなく、じっさいの茶事に使ってもまた、しごく面白いものなので、私は、かの有名な博多文琳茶入が楊貴妃の白粉壺だと言い伝えられている例にならい、この茶碗も、楊貴妃に縁故のある品であるとみなし、これに付属するのに適当な女性的な薄手の茶杓を作り、銘を紅唇とした。その筒には、

    楊貴妃の口やふれけむ花の碗

としたため、宗見に与えた。
 こうして、茶碗と茶杓はそろったが、茶入のほうはどうしたらよいかという問題が起こった。そのとき宗見が、「先日ある機会に、貴族院議員の伊東祐弘子爵が所蔵する茶器を拝見したが、そのなかに、徳川初期の、子爵家の主人だった人が作らせたという茶入が、いくつか裸のままで残っているのを見た」という。この主人は、小堀遠州らと茶交があったらしく、その指導によって帖佐、高取その他、九州の窯に製作させたものらしい。渡辺法相は伊東子爵と懇意なので、その茶入のなかの一個を分けてもらえないか頼んでみて、今度の茶会に組み合わせるのがよい考えではなかろうか、ということだった。
 そこで、そのことを宗見から法相に進言し、法相から伊東子爵に相談してみると、それはよい廃物利用になると子爵は非常によろこんで快諾してくれた。
 これで茶会の主要品である茶碗、茶杓、茶入の三点が、あっというまに顔を揃えたことは、宗見の才覚が抜群であったからではあるものの、これこそ、花碗が世に現れる不思議の因縁と言わなくてはならないだろう。

 このような次第で花碗茶会の主要品が揃うと、渡辺子爵は四月二十三日正午に、豊多摩郡府中町の加藤(注・昭和茶会記によると加藤辰弥)氏の鳩林庵荘不識庵にて、正式な茶会を催された。
 当日の掛物は、西園寺陶庵公揮毫の色紙の表装が間に合わなかったので、同公筆の発句短冊で代用することになったが、その後ほどなく、表具のできあがった一軸は、金地色紙に、


  一枝国艶 両腋清風 
        坐茅漁荘主人時年八十有三印


という文句であった。楊貴妃と廬同(注・唐詩人)の故典を対句にしたところ(注・白居易「長恨歌」のなかの「一枝紅艶」と、廬同「七碗茶詩」のなかの「唯覚両腋習習清風生」からとったものか)など、ぴったりの(原文「寸分動かぬ」)思いつきだった。
 そのほかも、どれもが花碗を盛り立てる気の利いた飾りつけだった。懐石のときに、広間の床に掛けられた二幅対は、会主の先君子(注・亡父)である、無辺居士国武翁(注・渡辺国武)愛蔵の、


  臨済喝得口破
  徳山捧得手穿


という、清巌和尚の墨蹟中、稀有の傑作と見受けられた。
 こうして、午後四時ごろ、花碗茶会は大成功のうちに終了した。これは、茶道にとりまことに喜ばしいことであった。
 そもそも維新前においては、徳川将軍家をはじめとして、国持大名、幕府老中らが茶会を催したという例は多い。京都においても、関白諸公が、みずから茶会を開かれたということも少なくない。しかし維新後には、山県含雪公爵、井上世外侯爵が、晩年にみずから茶事を行われたということはあっても、現役大臣という立場でそれを試みた人はいなかった。それが今回、花碗の因縁により、後代の語り草ともなるような会を渡辺法相が催されたということは、いろいろな意味において、真の快挙であり浄業(注・じょうごう=善い行い)であったと思う。
 私は、法相が、この茶会をきっかけに、さらに奥深く茶道に踏み入り、政界において、ある意味、出色の大臣となるだけでなく、茶界においても、今後、より大きな足跡を残されることを、ひとえに期待する次第である。

 


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