だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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三百  和製張子房(下巻
555頁)


 後藤新平伯爵のことを、ひところ世間で和製ルーズヴェルトと言いはやした例にならい、私は、久原房之助君に、和製張子房(注・張良=秦末前漢の政治家、軍師。劉邦に仕える)の尊称を贈ろうと思う。
 後藤伯爵は元気はつらつで、その言動が果敢であることと、鼻眼鏡がルーズヴェルトに似ていたことからその異称がついたのであろうが、私は、司馬遷が張子房を評して「籌策(注・ちゅうさく=計略)を帷幕の中に運(注・めぐ)らして、勝を千里の外に決し、而してその状婦人女子のごとし」と言ったのを、久原君になぞらえて、この尊称を贈呈したのである。
 久原君が大正初年に日立鉱山を手に入れ、その祝宴を築地の瓢家に張ったとき、田中銀之助氏が同席者に、「僕は久原君の事業の成功をうらやましいとは思わぬが、その状貌婦人のごとく、人に接して温容靄々たる(注・容貌が女性的で、人当たりが温かさとやさしさに満ち溢れている)ところが、実に健羨(注・けんせん=うらやましいこと)に堪えないよ」と言われたのが、まさに適評であると思う。
 久原君の父である庄三郎翁は、藤田鹿太郎翁を兄とし、同伝三郎男爵を弟として、三人共同して藤田組を経営された。翁は一見、好々爺のようで、いかにもおだやかで人当たりがよいため、藤田組においても常に外交方面に当たっておられた。 
 私が明治中期に大阪に滞在していたときは、しばしば翁に会う機会があったが、翁は書画什器を愛し、ことに四条派のものについては当時の鑑識者のひとりであった。

 ある日私が、翁の京都知恩院(原文「智恩院」)そばの別荘を訪ねたとき、翁は、「およそ別荘というものは、便利と閑静とを兼ねあわせていなくてはならない、どんなに静かでも、それが不便な場所にあったのでは、用をなさないではないか」と言われたが、たしかにこの別荘は、知恩院のそばの袋町にあり、門を出れば祇園、四条の繁華街に接し、門をはいれば華頂山寺の閑寂を占める景勝の地であることに感心したことがあった。
 久原君は少年時代、慶應義塾幼稚舎から進んで本科にはいり、卒業後間もなく藤田組経営の小坂銅山にはいって十三年間実地研究を積んだ。一時は非常に悲観的状況に陥った小坂銅山で、ドイツで発明された新しい精錬法を試みて、あっという間にこれを復活させた。日露戦争前後の藤田組の社運隆々なのは、久原君の鉱業での新しい工夫が成功への原動力になったそうだ。しかし、「蛟龍(雲雨を得れば)ついに池中の物にあらず(注・池に住む蛟(みずち)もチャンスをつかめば天に飛翔する)」というように、ほどなく藤田組から離れ、大正初年に日立鉱山を手に入れた。日立鉱山は時勢の運にも恵まれ、あっという間に大きな発展を遂げ、一躍、三千万円の大会社に成長した。その豪勢さに人々はやがて目を見張った(原文「瞠若(どうじゃく)たらしむ」)
 久原君は、見た目が柔和であると同時に、非常に人情味に富んでいた。とくに、母堂に対する孝養は人がうらやむほどだった。こんなこともあった。大正初年に、君が母堂に東京見物をさせようとしたとき、東京の宿を必死で探しておられた。私は、実業界から隠退後で、ちょうどこの時、一番町邸から四谷伝馬町の新宅に移ろうとしていた。それで久原君に一番町邸のほうを母堂の宿として提供したのである。このとき母堂は風邪気味で、結局、上京されなかったが、こんなことからも、ひごろの孝心がいかに深く厚かったかを知ることができるだろう。
 さて、私と久原君の間には、とてもおもしろい口約束が交わされているので、そのいきさつをここに記しておく。
 大正五年ごろであった。私は京都鷹峯の光悦寺境内に、本阿弥庵という五畳床付の一庵室を寄進した(注・223・鷹峯光悦会発端を参照のこと)。その工事の片がついたので、検分のために出かけようとすると、ちょうど久原君も京都に滞在中だったので、君を誘って光悦寺に赴いた。そこで、紙屋川をへだてて鷲ヶ峰に対面し、竹林の上に現れた比叡山を左にして、蒲団を着て寝ているような姿の東山をはるかに望見しながら、ふたり並んで腰掛けに座った。そのとき久原君が私のほうを見て、「君が林泉の間に悠遊して、茶事三昧にはいっている生涯は、まことにうらやましいものである」と言われた。そこで、私はすかさず、「さらば、君と僕と、身分を取り換えようではないか」と言った。すると、久原君も、勢い余った行きがかり上(原文「騎虎の勢いで」)、いやだとも言えず、では取り換えよう、という言質(注・誓約)を与えてくださったのである。
 私は、この言質を取ったからには、今すぐに実行する必要もないので、実行の時機については私に一任してほしいと言って、そのときはそのまま笑って別れた。
 その後、昭和三(1928)年、私が帝国ホテルで大正名器鑑の出版記念会(原文「告成式)」を開催し朝野の名士を招待したときに、君は威望隆々たる逓信大臣で、田中首相(注・田中義一)とともに来臨された。その帰途、君は私に向かって「いつぞやの約束を、この辺で決行してはどうですか」と言われたので私は首を左右に振り、「いやいや、まだその時機ではありますまい」と答えておいた。
 続いて昭和七(1932)年末、井上侯爵家に仏事があったとき同邸で君に偶然出会い、連れ立って玄関から出ていこうとしたとき、君は私に「例の約束はまだかいな」と言われたので、「だんだん近づいてきたようだが、ここまで来た以上はもうすこし辛抱したほうがよいと思う」と一笑して別れた。
 最近、君の姻戚の鮎川義介(注・鮎川の妹と久原が結婚していた)君に会った時、たわむれにこの話をすると、君は大笑して、「その約束は、この世ではとうてい果たされないでしょう」と言われた。
 しかし私は、この先に、まだおおいに期待している。久原君に、いつこの約束履行を申し込むか知れないので、君もこれ以上出世するのは、チト考えものであるかもしれない。



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 六十九
明治中期の大阪(上巻233頁)

 私は三井銀行大阪支店長として、明治二十六(1893)年五月から足かけ三年間大阪にいたが、そのころの大阪の財界はいたって小さく、工業といえば大阪紡績その他二、三の紡績会社があるだけで、金融界はわずかに百万円くらいのレベルで、コール(注・金融用語)の利息が二、三厘も上下するというありさまだったし、旧家の鴻池、平瀬、加島などが経営する銀行の預金はそれぞれ数百万円に過ぎず、そうした家の資産も、これに応じて手薄なものだった。
 そ
のころ住友の広瀬宰平が牛耳っていた修齊会【しゅうせいかい】という会合があった。これは大阪の富豪のあいだの親睦を深めるための組織で、それらのひとびとで方針を決めるために話し合いの場を持っていたが、会員資格は十万円以上の資産を持つ者だけに与えられており、その会員数がわずか数十人に過ぎず、当時の十万円長者が大正中期の千万円長者の数よりもはるかに少なかったことを見ても、そのころの大阪の財界がいかに小規模であったかということがわかるだろう。

 また中上川彦次郎氏が鐘ヶ淵紡績会社を経営する上で、大阪紡績会社と方針が食い違い、松本重太郎氏らとの確執が生まれたとき、両者が面目をかけて一歩も譲らない状況になり、中上川氏は大阪勢を圧迫するために大阪、神戸の三井銀行支店からの貸出金を回収するという手段に出たので、松本氏らは慌てに慌て、東西両軍の仲裁役として藤田伝三郎氏をにわかに立て、中上川が紡績の喧嘩に銀行を引き入れたのは非常に卑劣な手段であるとほうぼうに触れ回ったが、貸金を引き上げるという戦法を前にしてはひとたまりもなく大阪方面の降伏で終わったということをもってみても、大阪の財界の資力がいかに貧弱であったかを反証することができる。
 当時の大阪一番の活動家だった松本重太郎は第百三十銀行を、田中市兵衛氏は第四十二銀行をよりどころにして、さかんに新事業を計画していたのであるが、日清戦争が迫りくる時期であり、金融上の逼迫から事業にもいろいろな障害が出てきていた。当時の日本銀行総裁の川田小一郎氏にお百度参りをして、大阪支店での貸出の手加減を緩和してもらえるように三拝九拝するありさまだったので、川田氏が大阪に来るときは連日連夜下にも置かない歓待を繰り返していたものだ。これなどは、大阪商人のはらわたがいかにも薄っぺらであるかということが見え透いて、むしろ気の毒に思われるほどだったこのよう貧弱な大阪が日清戦争を過ぎ日露戦争を経て大正時代の大発展を見ることになろうとは、だれひとり思っても見なかったのではなかろうか。


藤田伝三郎男爵(上巻235頁)

 明治中期における大阪商人の傑物といえば、藤田伝三郎男爵を第一に数えなければならない。男爵は五尺(注・約150センチ)に満たない小柄ながら、体全体がエネルギーに満ち溢れているという感じだった。体にくらべて大きな顔に赤茶けた頬ひげをたくわえ、人を冷笑しているかのような涼し気な目には一種の愛嬌をたたえ、如才ない人の対応で一目で人を魅了するようなようすをしていた。
 道具数寄で、金融逼迫のときにあっても名器を見れば見逃さないのが常だった。小坂銅山の経営のために井上馨侯爵を介して毛利家の金を借り受けていたので、侯爵に対しては表面的には道具買収を遠慮していたが、井上には内緒だと言って道具道楽をやめなかったので、いろいろやっているうちに大コレクターとなっていった。
 私の大阪時代には、男爵は高麗橋の天五(注天王寺屋五兵衛)の旧宅に住んでいたが、やがては網島に本宅を構え、伊藤、山県、井上の公爵侯爵らと同県人の縁故のためか、大阪人も彼には特別の地位を与えていた。
 はやくに小坂その他の鉱山を開発し、また、備前の児島湾の開墾事業にも従事し、後年には台湾での木材伐採や樟脳の製造にも関係して、長兄の鹿太郎、次兄の久原庄三郎と三人兄弟共同で藤田組を経営していた。日露戦争後には小坂銅山の繁盛のおかげで家運も大きくふるい、三家が分立して財産を分け合うことになった。
 そのとき男爵の事業がすべて大阪以外のところにあったので、私はあるとき男爵に向かって、あなたはもう大阪に住む必要がないと思うけれども、なぜ東京に移らないのですかときくと、いやもっともなお尋ねである、自分は大阪にいる必要はない、しかし大阪というところは商工一方の土地柄で、それよりほかに気が散らないということが自分が大阪を去らない理由である、またもうひとつの理由は、自分がもし東京に住んでいたら、政府にいる友人たちからいろいろな世話事を頼まれて、それに奔走して疲れてしまいそうだからだ、と高くとまって他人を見下ろしているようなところに一種の気骨が感じられた。
 彼は晩年、網島に長男、次男、三男のための三邸宅を建て、ほとんど太閤秀吉の桃山御殿に匹敵するような勢いを示していたが、大正末年に起きた財界の変動によって、各事業にガタがきて、後継者もまた静養中だということだ。しかし、維新後の大阪に現われた財界の傑物として記憶され、また男爵の道具のコレクションに関しては、まださまざまな珍談や逸話があるので、これについては別項で記述することにしよう。(注・156「藤田男爵と大亀香合」など)

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