だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百五十一  角田竹冷宗匠(下巻375頁)


 角田竹冷(注・かくたちくれい)氏は静岡県の出身である。角田真平と称して明治の後年から大正時代にかけ政治、経済の両方面で活動し若干の功績を残されたが、竹冷宗匠として俳諧道に遺された足跡は、それよりはるかに大きかったのではなかろうか。
 大正七(1918)年一月六日のことであった。私が避寒していた大磯の長生館に、同地に滞在中の安田善次郎氏と角田真平氏が突然訪問されたので、とりあえず持参の茶箱をひらいて、大阪鶴屋の羊羹で薄茶一服をすすめつつ、三人で鼎座して、暫時、風流談にふけった。
 このとき角田氏は、今、安田翁を訪問して、新作の狂歌を頂戴してきましたといって、絹地に今年の干支である馬二疋が描かれた上に書きつけてある狂歌を見せてくれた。その文句は、


  さちあれと振る塞翁の馬の年 世はかけくらのまはり双六


とあり、また、他の一枚には、大黒が俵の上に立って、小づちを振っている図に、


  槌の柄をあげてさづくる福の神 打出のたから得るもうま年


とあった。
 竹冷氏はさかんに「さちあれ」の狂歌をほめて、これは近来の名吟だと思います、などと、おおいにお世辞をふりまかれた。
 私が角田氏に、新年のお作は、ときくと、今朝の口吟であります、といって、


  初風呂や番茶をのめば日が上る


という一句を示されたので、では新年の御題の海辺の松のほうは、と言うと、どれも駄作でありますと断ったうえで、次の三首を示された。


  左ればここより年はたちなむ千松島


  松に漁火にまづ年あけし日ざしかな


  枝ぶりやわかざりかけん磯馴松


 このとき私は角田氏に、貴下はかつて沼間守一らと嚶鳴社で政談演説を試み、法律家、政治家として政客の群に出入りし、今や東京株式取引所の理事として、塵俗なる(注・けがれた俗世の)商業社会に奔走しているにもかかわらず、当代一流の宗匠として俳名が世間に知れわたっている(原文「喧(かまびす)しい」)のは両極端なはなしで、ずいぶんと変化に富んだご身分でありますな、と言うと、イヤ、拙者のような雅俗両性動物は、世間にその例がすくないほうだろう、拙者は静岡県人で、父も伯父も発句(注・俳句)が好きだったので、少年時代から見よう見まねでこれを学び、明治七(1873)年、岩倉右大臣が熱海に来浴(注・温泉を訪問)されたとき、図らずも右大臣に拝謁し、そのころはまだ黄吻(注・くちばしが黄色い=若くて経験がない)の少年だったが、「うごきなき巌ありての清水かな」という即吟を御覧に入れたところ、右大臣はすこぶるこれを奇(注・すぐれている)とせられたと同時に、あるいはあらかじめ詠み置いてあったものではないかと思われた様子で、ほかにも即席の題を出して試みられたが、いかなる題でも、とにかく即座に詠み出でるので、右大臣も、自分を詞才のある小童と思われたものであろう、とにかく東京に出て来いと言われたので、その後ほどなく上京して、一時、岩倉家の厄介になっていたが、もしこのときから右大臣家を離れず、その系統を追って、伊藤(注・博文)公などに接近していたならば、自分と同年の伊東巳代治子爵のち伯爵らと同じく、伊藤系統の役人連中にはいって、今は、男爵か子爵の仲間入りができたであろうが、しかし自分はわがまま者で、窮屈なことが大嫌いなため、ほどなく岩倉家を辞して静岡に帰り、二度目に東京に出てきた時、図らず河野敏鎌、沼間守一らに接近する機会を得て、ついに彼らの仲間にはいり、民間政論家となって今日までもこのように俗界に奔走している次第である、しかし発句は性来の嗜好なので、かつてこれをやめたることなく、いかなる俗間にあっても胸中より発句を取り去ったことなく、日常道路を歩いていても、あるいは室内に寝ころんでいても、目前に横たわる器物の取り合わせを見ても、すべて発句道より調和を得ているや否やを思い起こすのは、われながら不思議な気がする。たとえば今朝この部屋にはいってきて、床に「紅爐一點雲」の五字一行がかかっているのを見れは、この前にはなるべく、銀の花入などを置きたくないな、と思うのは、発句道より出てくるところの自分の癇癖であろうが、思うに、貴下の好まるる茶事なども、やはりこれと同様ではあるまいか、本来、発句は字数が少ないので、古人がことごとく詠み尽くしているから、たとえば梅の句を詠もうとするのに、句中に梅という字を使うと、たいてい古人と衝突することになるから、自分は弟子どもに、梅を詠もうとしたら、梅を詠むな、と教え、何か他字をもって、梅の心を詠み出すように心がけないと、決して新しい句を作ることはできぬぞ、と申して居る。かくて発句には、往々にして暗合(注・偶然に一致すること)するものがあるが、その場合が違えば、必ずしもこれを咎めるに及ばない。たとえば、加賀の千代が、夫の死んだときに詠んだ句に、有名な「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」というのがあるが、京都島原の八橋太夫にも同じ句があって、その前書きに、「まろうどの来まさぬ宵に」と書いてある。今、この二つの場合を比較すれば、同句ながら、八橋のほうが、ことに風情が多いように思われるのである」など、竹冷宗匠の俳談は、滾々(注・こんこん)と、尽きるところがなかった。

 彼もまた、明治から大正にかけて存在した、いわゆる雅俗両性動物中の一奇物といってよいだろう。


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二百五十二  有栖川宮家御蔵象墜(下巻379頁)

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 大正六(1917)年、私は西園寺陶庵(注・公望)公から、頼山陽が有栖川宮家の執事に宛てた書簡の張り交ぜ巻物二巻を拝借し、山陽と有栖川宮家の間にどのような交渉があったかということを詳しく調べ(原文「つまびらかにし」)、非常な興味を感じたことがあった。
 その節に陶庵公から、有栖川宮家に山陽筆の耶馬渓図巻があったように記憶しているということを伺い、私はいかにしてもそれを拝見したいと思った。
 その後、井上勝之助侯爵夫人末子の方を経て、有栖川宮大妃故威仁親王妃殿下に同巻拝見のことを願い出たところ、はたしてその巻物があるのかどうか家職に面会して詳しく聴き取るのがよいだろうという御回答があった。
 そこで大正七(1918)年五月四日、麹町区三年町の有栖川宮家に伺候し、家職の武田尚氏に面会して、その耶馬渓図巻について質問した。すると、かつてそのような図巻を見受けたことはないが、山陽の筆蹟なら、同人筆の象墜記と、小島山(注・こじまとうざん・象牙彫刻家)作の象墜(注・しょうつい)があります、と言われたので、思いがけず、ここで象墜記と、象墜を拝見することができたのである。これは、蜀を望んで隴以上の大物を得たような感じであった。(注・慣用句は「隴(ろう)を得て蜀(しょく)を望む」=欲にきりがないことの意であるが、耶馬渓図巻を見ることができなかったことから、わざと逆に使用したものか)
 さて象墜とは、象牙彫りの根付で、厚さが一寸(注・約3センチ)、横幅一寸五分、高さ一寸ほどの象牙に、小島山が、廬生邯鄲の夢の図を彫りつけたものである。彫られた人物は蟻よりも小さく、楼閣が十五、人物八百八十人、象、馬十二頭、その他の鳥獣が無数にいる。その面貌や動作が、それぞれ変化に富んでいることが実に驚くべき技巧だといえる。これを世界的な作品だと呼んだとしても、決してほめすぎではないだろう
 また、この象墜に付属している山陽の記文は、どうやらその初稿であるらしく、山陽遺稿に載せてあるものよりも、一層、詳細なところもある。巻末には小石玄瑞の跋文まで載せてある。
 私は少年のころ山陽遺稿の象墜記を読み、このような技巧が実際に存在するものだろうかと、驚きつつも怪しんだということがあったが、今日、図らずも象墜の実物と記文とを併観し、その疑念を一掃することができたということは、実に一生の中での大眼福というべきものであろう。

 そこで私は、この大眼福を独占するに忍びず、当時、象墜拝観記を書いて新聞紙上に公表した。その後、昭和七(1932)年、日本美術協会第八十九回美術展覧会において、この象墜を高松宮家から拝借して同会場に出陳し、あまねく世間の公衆に展示したので、おそらく好事家は拝観したことと思う。
 例の象墜記は山陽遺稿に掲載されており、よく知られているものなので今ここでは省略し、この象墜の作者である小島山という人について、その略歴を掲げることにしたい。
 小島山は彫刻を専業とした人ではなく、天性器用だったので道楽でやっていたということのようである。
 かの象墜の底面には、文政己未秋、山小島旭という彫名があるが、文政己未は同六年で、山が三十歳のときの作であるそうだ。山陽遺稿には、これを作るとき、年甫めて(注・=始めて)二十、とあるが、これは山陽の誤記ではなくて、多分、版下の誤写であろうということだった。
 とにかく、このような根気のいる仕事は、二十代から三十前後の、いちばん元気な時に限るもので、聞くところによるとイタリアなどでも、彫刻で天下に名をあげるほどの人は、三十歳までに必ず一代の大作を作り上げるということだ。
 小島山については、その子息である晩が作った碑文の中に、次のような一節がある。(注・旧字を新字になおした)

 「先考諱は旭、字は子産、姓は源、小島山を以て行はる、丹後峰山の人、幼にして彫鐫(注・鐫=彫る)に巧なり、師承する所なし、而して製作超凡、細勁緻密、人其妙を賞す、生平京師(注・都)を愛し、遂に家事を弟に付して、往いて僑す、考又嘗て象墜を製し、盧生夢の図(注・「邯鄲の夢」の図)を鐫る、其径方寸、楼閣人馬悉く具はる、山陽先生記文中に詳かなり、又一谷合戦図の墜を製す、亦巧緻を極む、多作せず、但興到れば即ち刀を弄し、或は寝食を忘るるに至る、喜んで硯を製し、毎に西土妙作を見れば、輙ち(注・すなわち)意を極めて、模造殆ど真を乱る、且つ書画古玩器を嗜み、賞鑑頗る精、又琵琶を能くし、暇あれば即ち撫弾して自から娯む、性闊達にして気概あり、交る所皆一時の名流、流注病を得たり、然れども未だ嘗て此を以て意と為さず、後大阪に徒り、客至れば談諧各々歓心を尽す、此の如き者、十四年一日の如く、弘化乙巳七月十六日歿す、享年五十二、城南禅林寺に葬る、其略を碑陰に書すと云う原漢文
  以上が小島山の略歴である。昔から、彫刻家の余技として、米粒に大黒を彫るなどと言う話は聞いているが、象墜にいたっては、ほとんど人間業とも思われないものである。私は一生のうち、このような作品を再び見ることはできないだろうと思うので、世間の好事家のために私がこれを実見するにいたった経緯を示し、その参考にしてもらおうと思った次第である。(注・現在は三の丸尚蔵館所蔵になっている)


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二百五十三  土橋無声庵の奇骨(下巻382頁)

 大正初年から関西道具商の世界に台頭して、持って生まれた奇骨と飛びぬけた機略でたちまちその名声(原文「声価」)をとどろかせた土橋嘉兵衛は、洛北鷹峯玄琢村の生まれで、十一歳のときから橘屋こと駒井卯八という道具商の丁稚になり、卯八の厳格な指導のもとでその少年時代を過ごした。
 卯八は思慮深い人物で、嘉兵衛の将来を嘱望し、他の奉公人に対しては何事にも寛容を示して簡単には叱責することはなかったのに、嘉兵衛に対しては一歩たりとも仮借しなかった。
 あるとき嘉兵衛少年が、主人の言いつけどおりに得意先への勘定書をしたため、宛名の「服部」を「八鳥」と書きつけた。すると卯八はこの馬鹿者めといって少年の横っ面をいやというほど殴りつけたので、嘉兵衛は一時非常に憤慨したものの、これはみなすべて自分を思うためのことだと気づいて、それからというもの得意先の姓名はもちろん、その住宅の町所まで暗記するにいたったということだ。
 こうして彼の年季が終わり独立して道具展を営むことになるやいなや、卯八は自家の商売の符牒である、
     コヱナクテヒトヲヨブ
というのを嘉兵衛に譲り与えた。「およそ道具商たるものは、我よりすすんで売ることを求めず、客が来たりて自然に買うように心がけねばならぬ、これ我が主となるか、客となるかの境(原文「堺」)にして、道具商の秘訣は、全く此の間に存するのである。即ち我家の符牒の意味は、こちらより声を掛けざるに、人があちらから寄り来たるよう仕向くべしというものなれば、汝もよくよくその意味を会得して、終生これを服膺せざるべからず」と言われたそうだ。土橋の商売風は、ただしくこれを実行しているから、私は彼からその茶室の庵名を乞われたとき、一も二もなく無声庵と名づけ、その扁額に拙筆を揮った(注・ふるった)次第である。
 土橋は、前述したとおり十一歳から橘屋卯八の薫陶を受け、丁稚から仕上げて、例の気性で根気強くその業界で訓練を積んでいたので、大正初年まではまだ頭角をあらわさなかったが、彼がいったん道具商界で活躍するようになるとその出世はきわめて早く、明治末期に東本願寺蔵器入札のとき、すすんでその札元になってから後はとんとん拍子で家業を振興し、大正七(1918)年十一月、京都四条通の円山応挙旧宅跡に堂々たる新道具店、仲選居を営んだ。その盛大な開業披露では、煎茶、抹茶の両方面にわたり多数の名器を陳列し東西の諸大家の来観を乞うたが、時も時、成金時代がまさに絶頂に達しようとしていた時だったので、光悦会に参会かたがた京阪、名古屋、東京、金沢から集まってきた人の数は知れず、文字通り門前市をなしたのである。
 寄付十畳の床には応挙筆の蘆に三羽の鴨の一軸を掛け、その前に染付鯉耳の花入を置き、紅白牡丹を挿し、炉辺の遠州棚には唐津水指を載せ、釜は大西五郎左衛門作で萬歳樂のの文字がついていた。香合は伊賀伽藍で、いつの間に練習したのか、主人は遠州流の手前で、まず炭手前を行い、それから運ばれてきた懐石の道具は一々名品揃いで客の目を驚かせた。
 懐石後には四畳台目席で濃茶の饗応があった。床には小大君の香紙切を掛け、唐物朱盆に唐津の香炉を置き、そのころ主人が某大名から取り出したという二百二十匁(注・825グラム)あまりもある芙蓉の名香を焚いた。
 茶碗は遊撃呉器、茶入れは橋姫手銘一本、茶杓は遠州作歌銘、水指は南蛮編簾など、珍器揃いだった。
 私がこの茶入を見て、もしや橋姫手ではなかろうか、と言うのきいて、主人は水屋から飛び出てきて、これまですでに百数十人の茶客を迎えたが、この茶入を橋姫手だと言い当てた人は、今日が初めてであります、といって、しきりに賞讃を辞を呈するなど、彼の正客に対する外交的茶略には他人の追随を許さぬものがあった。
 この仲選居開きの道具売却高が一日で四、五十万円に達したというのは、いわゆる、声なくして人を呼ぶ、の商略がいかに巧妙であるかを推しはかれるというものだ。しかしながら、これはただ商略だけでできることではない。彼の人となりが、軽快脱俗の中に一種の機略と侠気とを秘め、京洛中の風流茶事には労費を厭わずに参加し、光悦会、松花堂会、洛東会、大徳寺三斎会、栂尾高山寺会、大仏桐蔭会などにおいて、いずれもなくてはならない人物、見なくてはならない顔役になっているがためなのである。
 ひとたびこの人を失ったならば、京都の風雅界は、にわかに落莫(注・ものさびしいさま)の観を呈することになると思われるので、私はこの社会のために彼がその健康を良く保ち、長く活動を続けられることを希望してやまないのである。


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二百五十四  正倉院拝観新例(下巻386頁)

 奈良の正倉院は世界に無比の奇跡的な一大宝庫である。好古鑑賞家は必ず、まずはこれを拝観しなくてはならないはずなのに、これまで秋季の御虫干しの際に、相当の位階勲などのある者でなければその拝観が許可されていなかった。私なども、しばしば拝観を希望したけれども、大正八(1919)年になるまで、ついにその目的を果たすことはできなかった。
 そこで、私は同年九月、山県老公(注・山県有朋)を小田原の古稀庵に訪問したとき、正倉院拝観を位階勲などを有する者だけに限られることは、帝室の民間美術工芸文学家に対する一視同人の思し召しとは相いれないと述べた。今もし、宮内大臣か帝室博物館総長などの奏請で、長年この道に篤志を持つ者に拝観の機会を与えられることになったら、大正聖代において、もっとも有難い新しい一例となるはずだと述べると、公爵は同感として傾聴せられたのである。
 そして「いかにももっともの次第なれば、なんとか尽力してみましょう」といって、ほどなく宮内大臣(注・波多野敬直)に懇談されたところ、この方面の慣例を改めることは非常に億劫(注・一劫の一億倍。非常に長い時間)なことのようで、宮内大臣は公爵に「御趣意は了承いたしたれども、それぞれ手続きを要すべきにつき、とにかく、来年までお待ちくだされたし」と回答された。
 このとき公爵は、「来年まで自分が生きて居るや否やも分からぬから、善は急げでぜひとも実行せられたし」と希望したところ、廷議(注・朝廷の論議)はにわかに進行して、本年から帝室博物館総長の奏請によって、位階勲がない者でも特別に御倉拝観を許可してもらえることになった。

 最初に約十人ほどが、この特別許可を受けられることになったので、丸腰無冠太夫の私が、いの一番にこの恩典にあずかり(原文「霑(うるお)ひて」、多年の宿望を果たすことができたのである。
 前述した篤志の人々に対しては、早晩、御倉拝観が許可されることになるらしいが、その時機を幾年か早めてくれた山県公爵の尽力に対しては、私ひとりでなく、多数の篤志者もまた感謝せねばなるまい。
 このような次第で、私は十一月十四日に、田中親美氏を同伴して午前十時前、正倉院の事務所に到着し、勅封庫開扉のために当地に出張中の帝室博物館総長、森林太郎(注・森鴎外)氏に面会した。その後、案内され、事務所から数十間(注・一間は約180センチ)ほどはなれた正倉院の正面に進み、眼前に千百余年を経た(原文「閲(けみ)した」、世界無比の宝庫を仰ぎ見た時には、わけもなく(原文「何かは知らず」)ただ、かたじけなさに涙がこぼれるばかりだった。
 そもそもこの正倉院は、天平勝宝八(756)年、光明皇后が、先帝の御遺物を奉納しようと建造された宝庫である。幅六間、奥行き五間一尺の倉庫が二戸、約六間の間隔で南北に相対して建てられたもので、その後、収蔵品の品類が増加したので、この南北二つの倉の間に新たに一倉を増築し、内部ではつながっていないが、三倉を一棟の下に連結したものである。
 床下は漆喰で固められ、その上に直径二尺(注・一尺は約30センチ)、高さ九尺の円柱を立て、そのまた上に約三尺ほどの框縁板を張ってあるので、空気の流通に申し分ないだけでなく、地面から倉庫扉の下端まで約一丈二尺(注・一丈は約3メートル)の高さがあって、簡単に近づくことができない。かつ、普段ははしごを設けず、御虫干し開扉の時だけ東面に回廊を作り、ここに段はしごをかけて昇降用とするのである。

 今、この段はしごを踏み、まず北倉の入り口まで登っていくと、千年余りの風雨にさらされた校倉あぜくらの古色が蒼然として、掬す(注・きくす=味わう)べきなのは倉庫そのものであり、これが、すでに無上の国宝なのである。
 正倉院の宝物は聖武天皇の御遺物を主として、その他、当時の尊貴なる方がたの献納品が収蔵されたものなので、朝廷、もしくは上流社会に関係するものが多数であることはもちろん、その種類は、当時の社会百般の物類をあますところなく含み、美術、工芸、歴史、風俗、宗教、政治、文学の各方面の資料を宝物によって拝覧者に供する。それらが、いろいろな意味において無類の貴重品であるということは、いまさら私の多言を要しない。私は拝観後、正倉院拝観記を新聞紙上に掲載したことがあるので今またここでは繰り返さないが、千余年を経た木造の宝庫が、そのまま今日に現存するということは、万世一系の皇室をいただく、わが国体が尊厳であるためで、非常に小さな(原文「爾たる」)一倉庫であるが、見にきてみれば、有形の国宝とともに精神的な無形の国宝も包蔵するもので、わが歴朝列聖の遺烈余沢が、いかに深く、かつ広いかを如実に現わしている。 
 ことに、当院に収蔵してある薬草、薬品などは、最初は庶民救済のために供せられたもので、わが歴代天皇の、民を憐れみ世を救う聖慮をうかがい知ることができるので、私は日本国民になるべく広くこの宝庫を拝観してもらい、そのありがたさを知ってもらいたいと思っている。だからといって、宝物保存上、開扉期間を長くするわけにもいかないならば、同じ品が多数あるものに限り、それぞれ見本を分類して、別に展観館を設けるなどといった工夫をしてはどうかと希望してやまないものである。
 私は御倉宝物がいかに貴重で、いかにのちの人々に利益になるかということを、ここに細記する余裕がないことが残念だが、私が拝観したときに、聖武天皇の御製に、

   青丹よし奈良の都の黒木もて 造れる宿は居れとあかぬかも

とあったことにちなみ、

   青丹よし奈良の都に千とせ経し 御倉のたから見れどあかぬかも

とたたえて奉った。そのことから、これがいかに豊富偉麗なものであったかということを推察していただければと思う。


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二百五十五  犬養木堂翁刀剣談(下巻390頁)

 犬養木堂翁(注・犬養毅)に関する二、三の遺事についてはすでに叙述してきたが、翁の余技のなかでも抜群であった刀剣鑑賞のことにはまだ触れていなかったから、京極正宗を同観したときに翁が洩らされた刀剣談義について、ここに紹介することにしよう。 
 それは大正八(1919)年四月二十七日のことだった。京極高徳子爵は、当時、刀剣鑑定で有名であった松平頼平子爵の勧誘で、京極家伝来の正宗在銘の短刀を、内幸町の華族会館に陳列し、愛刀家の一覧に供せられた。私は松平子爵の案内により、午後一時ごろから同館に推参した。
 その日、日本座敷に飾られていた銘刀は、例の京極正宗のほかには、青江定次(注・正しくは青江貞次か)大脇差と、吉光短刀の二点で、その付箋には次のように書かれていた。

  正宗短刀  長さ七寸五分強(注・約23センチ)
     豊臣秀吉より京極高次拝領
  

  ニツカリ(注・にっかり)青江大脇差  長さ一尺九寸九分(注・約60センチ)
     豊臣秀頼より京極高次拝領
 

  吉光短刀  長さ七寸八分(注・約24センチ)
     徳川家康より京極高次拝領
 

 この三点中、まず正宗短刀を拝見した。多年のうちに、しばしば研磨したためだろうか、その身が細くすり減って、鍔元に少し詰め上げがあり、目貫孔にかけて、温和な字体の正宗の二字がある。短刀の両側には、刃から身全体にわたって、龍(注・みずち=雨龍)が雲に浮かぶような、あるいは白糸が風に乱れるような光線を反射してちらちらと変化する焼刃の乱れがある。一見して非凡の名作と思われたが、そのとき同席の木堂翁は、私や浅田徳則氏などに向かって、ここに、一場の刀剣談をされたのである。その説は次のようなものであった。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「拙者は多年多数の刀剣を見たが、今日拝見するがごとき在銘正宗を見たことがない。先年、刀剣鑑定家、今村長賀、別役正義等が、正宗は自ら刀剣を打ちたるにあらず、彼は刀工の総元締めで、多くの職人を支配したるまでなり、その証拠には、正確なる正宗在銘の刀剣がないではないかと主張した。

 そのとき拙者はこれに反対して、正宗は普通の刀工にあらず、関東足利の命を受け、諸国を遍歴して名刀を調べ、また名工を抱えて、これを我が門下に拉致し、さかんに刀剣を作りたる(原文「作りにる」誤植か)ものにて、世に相州十哲と云えるは、すなわち彼の門下中、優秀なる者を称したのである。
 此の時にあたり、正宗在銘の刀剣は、いまだ世に出でなかったかも知らぬが、相州刀中に、一種非凡な作物があるのを、もし正宗でないとすれば、果してなんびとの作であろうか、たとえば、井上侯爵家の秘蔵、包丁正宗のごとき、正宗の銘こそなけれ、その作行きは、かの十哲輩の及ぶところにあらず、これらは正宗が自ら鍛えたもので、かの正宗に自作なしというのは、はなはだ不当の説なりと抗論したことがあったが、今日この短刀を見るに及んで、はじめて前説の正確なるを証明することを得た。
 もしかの議論のあった時、この短刀を発見していたらば、無論、議論などあるべきはずがなかったのに、これが今日まで世に知られなかったのは、必ず相当の理由があろう。けだし徳川時代においては、名刀を秘蔵して、容易に世に発表せざるを常とした。ことに徳川四代将軍家綱時代、明暦の大火で、幕府が所蔵の名刀を焼失せしにより、諸大名より、しきりに名刀を徴発せしことあり、その後八代吉宗将軍時代にも、また同様のことがあったので、京極家にても、かの正宗を極秘したのであろう。そのため正宗に関して、種々の説が行われたのであろうが、今日この短刀が世に知られた以上は、正宗論はもはや確定したるものと言ってもよかろう。
 またニッカリ青江大脇差は、青江定次(注・貞次か)の作である。彼は元暦年中、後鳥羽天皇がさかんに全国の刀鍛冶を招集せられたときの名工で、青江は備前の地名である。この地は砂鉄の流れ出る川筋なれば、備前物の名工は、多くは根拠をここに置いて、さかんに名刀を製作したのである。
 しかして、この青江脇差は、古刀に似合わず、毫も(注・ごうも=少しも)疲れたる痕跡がないので、実に稀有の名刀なのである。またニッカリというのは、ニッコリのことで、ある人がこの刀をもって道行く人を斬ったところが、あまりによく斬れたので、斬られた者もみずから気づかず、顧みてニッコリ笑いたり、という伝説があるので、この名を得たということである。
 しかしてその小身に、羽柴五郎左衛門長とあって、その下の秀の字は見えないが、これは丹羽長秀が、その差料(注・さしりょう=自分がさすための刀)を豊臣家に献じ、豊臣秀頼がさらにこれを、京極高次に与えたのである。
 高次は、関ケ原戦争の節、大津城にあって、非常に重要の地を占めていたので、大阪方も、徳川方も、しきりにこれを味方せんと苦労し、徳川家康が吉光の短刀を高次に与えたのも、このときであった。
 すなわち、今日陳列の三名刀は、京極家と最も歴史的関係のある名品で、中にも正宗在銘の短刀は、刀剣界の疑問を一掃すべき名品なれば、お互いに、近来容易に得べからざる眼福を得たのである云々」

 以上、犬養木堂翁の談話は、その普段の刀剣に対する蘊蓄(注・うんちく)を発揮したものである。よって私は、これを同好の知友に知らせるために、ここにそれを記述した次第である。


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二百五十六  信実歌仙断巻式(下巻394頁)

 大正七(1918)年一月、松昌洋行の山本唯三郎氏の使者が突然私の家に、佐竹侯爵家旧蔵の信実筆三十六歌仙二巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる「佐竹本三十六歌仙絵巻」)を持参し、今度この二巻を買収するつもりであるが、付属品その他に間違いはなかろうか、貴下の一覧を乞うた上で、いよいよ決定するつもりなので、委細ご意見、この者に伝言していただきたいということであった。
 そこですぐに、これを披見(注・開いて見る)してみた。実物はもちろん、付属品一切、まったく間違いはなかったので、山本氏がこれを買収するのは国宝保存のために結構な考えで、さっそく実行していただきたいと回答しておいた。
 山本氏は、曩に(注・さきに)征虎軍を組織して朝鮮に赴き、帰ってくるや虎肉試食会を催して、朝野の紳士を招待したりするなど、その行動にはすこぶる小気味よい趣味がある。(注・238「虎肉試食会」を参照のこと)
 今回はまた、危うくばらばらに分離されそうになった国宝の三十六歌仙を、一手に買収したことは、まことに当代の船成金たるに背かず、私はその後、書簡の末尾に次の一首を書き添えて同氏に送った。

   風雲意気欲衝天 万里打囲鞭着先 昨日韓山擒虎手 更収三十六歌仙  

   (注・擒=とりこ)

 さて、人事齟齬多く(注・人のやることにはうまくいかないことも多く)、その後、二年もたたないうちに山本氏がだんだんと左前(注・経済的苦境に陥る)になり、にわかに歌仙絵巻を処分しようとしたがひとりでこれを買収する者がいなかった。
 そこで最初のときからの世話人であった服部七兵衛(注・道具商)が委託を受け、同業の土橋嘉兵衛を仲間にひきこんで(原文「語らいて」)、結局、各歌仙を分断して、一枚ずつ抽籤で全国の数寄者に分配するということで評議一決したのである。
 それにつき、是非、行司役を引き受けてほしいといって、私と益田鈍翁、野崎幻庵の三人に依頼があった。今や絵巻をどうすることもできず、かくなる上は数寄者冥利として、むしろ潔くこれを引き受け、歌仙のために安住の嫁入り先を斡旋するしかないということになり、当代の古筆道の権威である田中親美氏をその評議委員長とし、尾州(注・尾張国、現愛知県西部)の森山勘一郎氏をその補助として、大正八(1919)年十二月二十日、品川御殿山(注・益田鈍翁邸)の応挙館において、いよいよ断巻式を挙行することになった。
 この三十六歌仙は、山本氏が三十五万五千円で買収後に約二年間所有していたので、同氏には、この歌仙の中から宗于朝臣(注・源宗于むねゆき)を贈呈することになった。その代わりに住吉明神を一枚加えて、やはり三十六枚になるようにして、原価に二万三千円を足した三十七万八千円を、その三十六枚に割り振ることにした。

 ところで、この分断にあたっては、歌仙の中に人気者と不人気者とがあったり、完全なものと汚損したものとがあったり、住吉明神のように、ただ住吉の景色とその歌だけが描かれたものがあったり、貫之のように、狩野探幽がその詞書を書き添えたものがあったり、あるいは躬恒(注・凡河内躬恒おおしこうちのみつね)のように、歌仙も詞書も共に探幽の補筆がなされているものもあって、それらを評価するのは至難中の至難だった。そこは、田中、森川らが厳密な格付け比較会議を開いて、三十六歌仙を、横綱、三役、幕内、二段目、三段目(注・三段目のほうが格上だが、原文通り)と分類し、四万円を最高額、三千円を最低額にして、その平準価格となる一万円より高いものが九枚となった。それ以下のものは、九千円、八千円と、千円ずつ下げてゆき、三千円を最低額と定めたのである。
 さて、その分断の当日、すなわち十二月二十日は、午前十時が定刻で、抽籤の権利者自身が出席する場合もあれば、代理の人間を差し向ける場合もあった。
 青竹の筒に納めた銅製の香箸のような籤(注・くじ)に各歌仙の名を彫りつけてあるものを、予定した席順に順次降り出していったが、その籤の当たりはずれは、神ではない身にはどうすることもできず、最高額の品を望んでいた者に最低額のものが当たり、坊主は嫌っていた者に、あいにくその坊主が来てしまったりした。歌仙の人柄と、それが当たった人のあいだに面白い対照が見られる場合があったときなどは、拍手喝采してそれを祝するなど、一座の五十名ほどの諸大家が、この日ばかりは子供のようになって、お祭り騒ぎを演じたのであった。
 なかでも、第四番籤の業平(注・在原業平)が馬越恭平氏に当たったときなどは、ご本人はグッと脂下がって(注・やにさがって=いい気分でにたにたする)当代の色男は拙者でげす、と言わんばかりの面持ちをしているところに、一同が急霰(注・きゅうさん=いわかに降るあられ)のような大喝采を浴びせかけたなどは、この日最大の愛嬌であった。
 信実三十六歌仙断巻式は、以上のような次第で行われ、二巻は分かれて三十七幅の掛物となり変わったのである。しかし、このように分断することが余儀なくなってしまってから考えてみると、この巻物は他の絵巻物とは違って、歌仙とその詞書とが一枚一個ずつになっているので、連続している他の絵巻物を切ってしまうのとは、だいぶ趣を異にしているため、あきらめがつかないことがないでもないのである。
 ただ、当日に三好大経師が鋏を手に取って、この巻物を切断するときには、角力の横綱の断髪式に臨むのと同様、なんとなく愛惜の感を抱かずにいられなかったので、私は古歌をもじって次のような狂態一首を物し、当日列席した同行の一笑に供したのである。

    切るはうし切らねば金がまとまらぬ 捨つべきものは鋏なりけり

(注・戦国時代の武将の古歌に「取るも憂し取らぬは物の数ならず捨つべきものは弓矢なりけり」=人の首を取るのはいやだ、かといって取らないと半人前と言われる。ああ弓矢を捨てたいものだ、がある)


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二百五十七   山県公の大西郷評(下巻397頁)

 大正九(1910)年の末、私は小田原の古稀庵に山県含雪公(注・山県有朋)を訪問し長時間の対談を行ったことがあった。そのときたまたま大西郷(注・西郷隆盛)のことに話が及び、公爵は「自分はしばしば大西郷に接触しては居るが、いたって寡言な人物であるから、取り立ててこれという談柄(注・話題)もない。しかし今、自分が直感した一斑を述べてみよう」と言って、次のようなことを語られたので、ここに大略を示してみよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「自分と大西郷との初対面は、維新前数年元治元年か上国の形勢を視察するがため、毛利公の内命を受けて、京都に上ったときであった。(注・元治元年は1864年。上国とは都に近い国々。幕末の長州藩主は毛利敬親たかちか)
 このときのことを、自分は葉桜日記という記行文に書き綴っておいたが、西郷とは京都の薩摩邸で会見して、薩長連合、王政復古の意見を交換したのである。
 当時、徳川慶喜公は京都に滞留せられたが、その輔佐に、原市之進とて、なかなか有力な人物がいて、八方に眼を配っていたから、容易に事を挙ぐるを得ず、このうえ京都に滞在しても無益なりと思い、自分は近々帰国せんとして、そのことを西郷に通ずるや、西郷は毛利家に対する会釈として、自分を島津薩摩守(注・島津茂久)に謁見せしめようと言うので、とうとう同君公に謁見することとなったが、これはもちろん儀式上の挨拶だけで、胸襟を開いて意見を陳述するようなわけではなかった。
 そのとき薩摩公は自分に向かって、万事西郷吉之助(注・西郷隆盛)と小松帯刀とに委任してあるから、委細両人と協議を遂げらよと言い渡された。ところで自分は、右両人その他、当時薩摩有力家と時事について種々協議したが、そのとき西郷は、なにごとも、人事を尽くして天命を待つのほかありますまい、と言われたから、自分はさらに、その人事を尽くして成らざる時はいかにせらるる考えなりや、と問うたところが、西郷は、ただ死をもってその道に殉ずるべきのみ、と言い放って、口をつぐまれた。
  察するところ、西郷はよく人言を聞き、またよくこれを採用し、しかも一旦承認した以上は、義を泰山の重きに比して、断じてこの決心を動かさぬという流儀なれば、彼を取り巻く者に智恵分別があれば格別、不幸にして時勢を知らず、機宜を解せざる者に乗せらるれば、あるいはその方針を過(注・あやま)つことなきやと懸念されたが、他年、彼が部下に引きずられて、その終わりを全うするあたわなかったのは、まことに遺憾千万である。
 さて維新後になって、自分が西郷に接触したのは、明治三年、彼が東京を引き払って鹿児島に帰っていたときである。しかして当時の廟議は、彼を起こして陸軍大輔となし、自分を少輔となさんとするにあって、岩倉公より自分にその旨を伝えられたから、自分は非才その任にあらずとて、しきりにこれを辞退したれども、公らの容るるところとならなかったから、さらば、まず西郷に談じて、彼が就職するにおいては自分も微力をいたすこととしようとて、あたかも島津家先君(注・島津斉彬)の祭事に、朝廷より勅使を立てらるる都合であったから、自分は表面上、勅使となって鹿児島に赴き、さて西郷に面会するや、自分は劈頭第一(注・まずはじめ)に、君らは、天子の御輿を、武蔵野原中に担ぎ出したまま、これを置き去りにして、鹿児島に帰って居るということは実に不都合千万ではないかと一本突っ込んだところが、これには西郷もすこぶる参ったようで、結局彼は上京して陸軍方面の重寄(注・ちょうき。重い責任の委託)に当たることとなったのである。
 その前後、自分は彼に面接して、たびたび談話したことがあるが、彼は最も藤田東湖の為人(注・人となり)に感服せしばかりでく、ほとんど心酔というほどの崇拝者で、談東湖に及ぶ時は、彼は容を改めて、必ず先生と呼び、東湖は人に対してきわめて磊落に応答するが、切先三寸をあらわさぬ人であったと評していた。その意味は、胸中に秘略を蔵して、容易におのれの奥底を看破せられざる、底の含蓄ありということであろう。長州人でも吉田松陰をはじめ、その他水戸に遊んで帰ってきた者はおおいにその感化を受けて、藩中の子弟などより見識が一格高くなるように思われたが、薩摩においても、西郷が東湖に対してかがごとく感服していたから、水戸の学風勢力が、当時各藩に影響したところは、すこぶる多大で、王政維新は水戸がその原因をなしたといっても決して過言であるまいと思う。

 西郷は平常、大局を支配する人で、計数に当たったり、もしくは些事に立ち入ったりすることをなさず、いったん決心すれば善悪ともにこれを決行して、その責任をむなしうせず、という風の人物で、その輪郭が非常に大きく、ムックリとして要領を得ざる間に、毅然として動かすべからざる大丈夫の魂を蔵した者というべきであろう云々。」
 以上、山県公爵の大西郷に対する観察談は、もちろんその一端に過ぎないが、今日、大西郷に対する生きた証言を聞くことができるのは、山県、松方、大隈諸公のほかには、もはや幾人もいない。私はあのとき、山県公からこの談片を聞くことができたことを、非常な欣幸だと思っているのである。


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二百五十八  鴻池家名器(下巻401頁)

 私は大正元(1912)年に大正名器鑑の編集を思い立ってから、その下準備には数年間を要したが、その後いよいよ目算も立ったので大正六(1917)年から実物の検覧や撮影などに着手し、日本全国いたるところの諸名家を歴訪した。
 大阪の鴻池善右衛門家は、二百年来の自家の道具を他人に見せたことがなく、ことに、維新後には、お出入り道具商といえども、ほとんどこれを見た者がないという噂を耳にしていた。だから、今回これを拝見しようとするなら、頭を使った臨機応変な調整(原文「大いに手加減」)が必要だろうと、百方考慮の末に、鴻池家の大番頭であった蘆田順三郎氏に頼み、まず大正名器鑑の目的を説明してもらうことにし、もしも鴻池家の名器を収録することができないようなことがあると、名器鑑の編纂そのものが、ほとんど無意味になってしまうので、本事業のために、是非とも男爵の援助を乞いたい旨を申し出た。
 すると善右衛門男爵は乗り気になり、「さらば、これが名器の国勢調査であるな」と戯れ(注・ざれ)つつ、快く承諾された。そこで大正九(1910)年五月四日午前九時から、大阪市瓦屋橋鴻池別荘において同家の名器を拝見する段取りとなり、私は、名器鑑編集員および写真班一行の四人を帯同して同別荘に出かけた。
 男爵はいたって綿密な人で、前日にはみずから出向いて展観する名器はもちろんのこと、接待方面にまで万端の指揮をされていた。当日の接待は蘆田氏に命じ、内事係の草間繁三と、お出入り茶器商の砂元吉老を接伴役にして、私たちをまず唐子の間に案内された。
 この唐子の間というのは、六畳敷きの広間で、これに続いて四畳に三尺四方床付(注・一尺は約30センチ)の茶室がある。その間のふすまの腰張りが、足利末期の名家によって描かれた極彩色唐子遊びの図なので、当家ではこのように呼んでいるのだそうだ。(注・唐子とは、唐風の服装と髪型のこども)
 さて案内にしたがい、この四畳茶席にはいり、その三尺四方床を見ると、珍しいことに寸松庵色紙がかかっていた。
 その歌は、

   色も香もおなじ昔にさくらめと 年ふる人そあらたまりける

というもので、私は今日はじめて当家にこの色紙があることを発見した。
 そして、その下に置かれた花入は、高さ尺二寸ほど(注・約36センチ)、底の方がやや張っており、轆轤(注・ろくろ)のあとがキリキリとねじ上がり口縁のあたりにまで達している。その口縁の一端から一端まで、反橋(注・そりはし=太鼓橋)のような取っ手がついているという極めて珍しい(原文「異常なる」)伊賀焼である。そこに、純白の大山蓮花(注・オオヤマレンゲ)を活け、根〆(注・生け花で挿した花や枝の根本を整える花材)に、都忘れという紫色の花を添えてある。その風情は、なんとも筆舌に尽くしがたいものであった。
 こうして、御道具拝見の前に、炭手前から始まり、正式の懐石ならびに濃茶の御馳走があり、そのあとにいよいよ展観席に入り名物の拝見となった。

 その日拝見したものは三十点を数えたので、そのひとつひとつについて今述べることができない。よって、その中で、もっとも高名な古田高麗茶碗に関する挿話だけを紹介することにしよう。

 鴻池家所蔵の古田高麗茶碗は、昔から最も有名なものであるが、この茶碗が当家に伝来した逸話についてきくことになった。
 それは、天明年間(注・1782-1788年)のことで、この茶碗を買い入れた主人は、当男爵の曽祖父で、炉雪と号した数寄者であった。そのころ大阪の加島屋(原文「鹿島屋」)広岡家に、紅葉呉須と称する茶碗昭和三年、広岡家蔵器入札売却の節、十八万九千九百円で落札、維新後に売買された茶碗の最高額であるがあって、関西第一という評判であったが、炉雪翁はあるとき、お出入り道具商の加賀屋作左衛門に、「方今(注・ほうこん=現在)、世間に、広岡の紅葉呉須に勝る茶碗があるか」と問うたところ、加賀作は一議に及ばず(注・議論するまでもなく)「古田織部所持の古田高麗茶碗は、只今江戸吉原、扇屋宇右衛門が所持しておりますが、かの茶碗ならば、たしかに紅葉呉須に勝っております」と答えたので、炉雪翁の喜びは並ではなく、「さらば、代価にかかわらず、その茶碗を買い取り来たれ」と、加賀作に申し付けた。
 さてその茶碗は、天明のころ、古筆了泉の所蔵だったが、了泉が廓通いの金に窮して、当時、吉原の見番、大黒屋に質入れし、ほどなく扇屋宇右衛門の手に渡ったのである。
 加賀作は、上方の物持ち主人のような扮装で扇屋に乗り込み、花扇という傾城(注・おいらん)を揚げ詰めにして、一か月ほど流連(注・いつづけ)する間に、持参の茶箱を開いて主人を招き、次第に接近して、ある日、扇屋の田中の茶寮で、古田高麗を実見する機会を得た。
 その時は、あたかも年末で、扇屋に金の入用があったので、折よくだんだんと相談を進め、古田高麗を千二百両、ノンコウ(注・楽家三代目道入)の初雪茶碗を八百両、あわせて二千両で譲り受けるという相談をまとめた。これが決定するやいなや、加賀作は、あらかじめ用意してあった小判二箱を扇屋に運び込み、その二茶碗を受け取るとすぐ、炉雪翁が首を長くして江戸の吉左右(注・きっそう=知らせ)を待ち受けているに違いないと、東海道五十三次を早駕籠で突きぬけ、身請けの茶碗を恋焦がれている炉雪翁の見参に供え、首尾よく、手活けの花(注・身請けして自分のものにした遊女のこと)としたのである。その後、この一部始終を聞き込んだ江戸の金持ち十人衆は、鳶に油揚げをさらわれたような気分になり、おおいに残念がったということだ。
 炉雪翁がこれほどまでに執心したこの茶碗は、白地御所丸手に属し、小堀遠州筆の箱書きに、古田高麗とあり、関西ではこの茶碗の上をいくものがないので、この一点を加えた鴻池家の宝蔵は、このこのときからさらに一段の権威を持つようになったということである。


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二百五十九  大口御歌所寄人(下巻404頁)

 明治時代から大正時代にかけて、わが国に和歌界の重鎮であった御歌所寄人の大口鯛二氏が、大正九(1910)年八月中旬に、信州山田温泉風景館に避暑中に脳溢血にかかり長野病院に入院し、十月十三日に病勢が急変して享年五十七歳で溘焉(注・こうえん=死が急であること)白玉楼中の人となった(注・文人が死ぬこと)ことは、惜しんでも惜しみきれないものがある。
 氏は名古屋出身で、通称、鯛二の鯛の字を分けて、周魚といい、また旅師、あるいは多比之と称した。また、住居は白檮舎しらかしのやと号した。
 はじめ伊東祐命翁に学び、のちに御歌所にはいり高崎正風翁に親炙した。和歌に堪能で、勅題の「寄山祝」の一首は、当時、入選の光栄にあずかった。
 和歌に堪能な者は、概して歌学にくわしくないものであるが、氏は博覧強記で、歌学の知識がきわめて広汎なうえに、詠歌もまたうまかった。
 さらにその他にも、書道は嶄然として(注・ひときわ目立って)一家をなしていた。ふだんは、行成(注・藤原行成)風の書体を好まれたが、その源流を同じくすることから、近衛予楽院(注・このえよらくいん=近衛家煕いえひろ)の筆跡を愛重した。その書翰(注・書簡)などは、往々にして、本物に迫るほどで、このように書道に堪能であるために、平からあまねく古筆物の研究をして、その鑑識眼は並々ならず(原文「凡を超え」)、歌人として、才、学、識の三長をほとんど兼ね備えていた点、近来稀にみる大家であった。
 氏は名古屋出身であるがため、さまざまな風流趣味を解し、みずから茶会を催したことはないようだが、茶客になると巧妙な辞令で書画器具を品評したもの
だった。その会の趣向を観察しては、それに対する臨機の挨拶をするその客ぶりの殊勝であるところなどは、ほとんど専門家をしのぐものがあった。

 氏はまた、すこぶる勉強家で孜々(注・しし=熱心に、せっせと)として後進を誘掖(注・ゆうえき=導き助ける)したので、全国にわたって和歌の門弟が非常に多く、「ちくさの花」という雑誌を通じて、間接直接に、天下の歌学者を薫陶したその数は、幾万人になるか知れない。
 近年、御歌所を辞して門下の教導に専念しようとしたとき、明治天皇の御歌集編纂委員を命じられ、その編纂が終わるというときに、今度は昭憲皇太后御歌集編纂委員に取り掛かることになった。それでその前に、来年が十回忌に当たる高崎正風男爵の歌集の手写をして、それを今年中に完成しようとして、七月ごろから習字を始め、山田温泉で心静かに歌集の手書きに着手しようとして同地に滞在中に脳溢血にかかり、ついに易簀(注・えきさく=学徳ある人が死ぬこと)するに至ったのである。
 大口氏は、行成流の書道に深く通じ、好んで古筆物を研究していたため、京都西本願寺において、あの有名な三十六人家集(原文「歌集」)を発見した大功績を持つ。
 明治二十九(1896)年八月、大口氏は西本願寺法主、大谷光尊伯爵の依頼を受け、同寺の古文書類の整理のため、約一週間を費やして、くまなく宝庫を捜索したのであるが、古筆物としては、わずかに藍紙万葉の一片を発見しただけだったので、失望のあまり、まだ何かほかに見つけようと根気よく探索している最中に、古ぼけた小箱の中から、思いがけなく天下の名宝、三十六人家集が光明赫燿(注・かくやく=光り輝いて)として出現したので、大口氏は夢ではないかと驚き、早速、光尊伯に見せ、この名宝の発見を祝したのである。そして許可を得てその一部を東京に持ち帰り、同行者を自宅に集めこれを展示せられたが、私はこのときはじめてその古筆帖を一覧したのであった。
 その三十六人家集が、いかにして本願寺に伝来したかを取り調べたところ、これは後奈良天皇御即位のとき、当時の王室は式微の極み(注・非常に衰えていること)で、その費用を用立てることができなかったため、本願寺が見るに見兼ねて、献金を申し出たので、その御会釈(注・天皇のあいさつ)として、当時の門主である証如上人に天皇から下賜されたものである。
 女房奉書ならびに付属の目録があり、さらに証如上人の日記、天文十八(1549)年正月の条にこの歌集拝領の文言があり、古筆物として天下第一と称せられたにもかかわらず、久しく本願寺の倉庫中に埋没して誰もこれに気づかずに、大口氏が発見しなかったならばどうなっていたのかもわからなかったのであるから、この歌集が存在する限り、大口氏の発見の功績は決して没却してはならないのである。
 大口氏は能書であるうえに筆まめで、私などが作歌の添削を頼むと、長文の手紙で諄々としてお返事くださるということを常とした。また詠歌は多作なほうだったので、その一代の和歌は、おそらく幾万首かに達していたであろう。
 その歌風は人物、気質ともに、温雅流暢であった。その一例を挙げる。

      春朝
    窓の戸をあけはなちても寒からぬ あしたとおもへば鶯のなく
      春雨
    庭見れば松のかげまでぬれたれど いまだ音せぬ春の雨かな
      松間の月
    山松のかけふむみちのつづらをり をりをり月にそむきけるかな
      魚
    いくそたびおしながされて山川の はやせを魚ののぼりゆくらむ

 大口氏は、詠歌と書道に堪能であったほかに、歌学の講義もまた決して人後に落ちず、大正初年に私の一番町邸で源氏講義を開かれたときには、山県老公、同人らも参聴され、永眠の際には、公爵も非常にその歌才能を痛惜された。氏が比較的短命で逝去されたことは、歌道のために、まことに惜しむべきことであった。

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二百六十  武井守正男懐旧談(下巻408頁)


 武井守正男爵は旧姫路酒井家の家臣で、維新前に勤王論を唱え、反対党のために迫害されて六年間入牢の身となり、非常な困難をしのいで維新の際にはじめて天日を見ることを得たのである。
 私が大正九(1910)年十月下旬に、本郷湯島の武井邸で男爵と四方山(注・よもやま)話の雑談中に、男爵は八十一歳の老齢にもかかわらず、かくしゃくとして、壮健な者をもしのぐように滔々と自身のことや姫路藩に関する懐旧談を物語られた。後人の参考になるべきものも少なくないので、ここに大要を述べよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
 「自分は、維新前、姫路藩で勤王論を唱えたがため、執政より重譴(注・重いけん責)をこうむり、とうとう牢舎を申し付けられたが、その牢というのは、大阪にあった三重牢の模本によって建てられたもので、最後の一重は切り石を積み上げ、その石をはさんで栗の角材を組み合わせたものだから、その中は、ほとんど暗夜のように暗く、しかも三畳敷きに便所その他の設けがあるので、その長さ五尺(注・約150センチ)に足らず、平常精一杯に足を伸ばすあたわざるこの牢内に、仲間が三人同舎するので、背中を抱き合って臥するのほかなく、寝返りをなすときは、三人協議して、同じ方向に身体を転換する始末である。
 食事はひき割り(注・ひきわり麦の飯か?)の上に、たくあんの切れ端などを細く刻んで振りかけたくらいで、粗食きわまったものであるが、その粗食ならざれば、六年間もこの牢内に生存することはできぬのである。
 しかし自分等は、孟子のいわゆる浩然の気が満身に充溢して、文天祥(注・宋末の政治家。征服者の元からの出仕勧誘に従わず処刑される)気取りで、意気揚々としていたので、壮年の時でもあり、まったく気をもって生命を取りとめたものである。
 しかるにかかる悲惨事に遭遇した自分が、兄弟等のあとまで生き残って今年八十一歳の長寿を保っているのは、考えてみれば実に不思議なものではある。
 自分は性来、道具(注・骨董品)が好きなので、姫路酒井家が、いかにしてかがごとく多数の道具を集められたかにつき、しばしば古老の説をきいたが、同家は文化文政時代、かの抱一上人の令兄に、宗雅(注・そうが=忠以ただざね)公という君公あり、松平不昧公などの茶友で名器を愛好せられたためでもあるが、その実は、当時の一家老であった河合隼之介が、一見識をもって名器買収の藩是を立てたがためである。

 彼は学者政治家肌で、姫路藩執政らと意見を異にし、しばらく京都に潜匿していたが、君公が彼を呼び返して一家老となるに及んで、財政上に大手腕を振るい、種々の物産を興して、いまだ数年ならざるに酒井を富裕の大名となした。
 ところで彼は、一策を献じ、いたずらに金銀を後代にのこせば、馬鹿者が出で来たりて、これを浪費するのおそれあり、ためにかえって酒井家の安泰を害するべければ、この金をもって、ことごとく名器を買い置くにしかずとて、ここの名器買収の方針を定め、酒井家においては世間相場の倍額をもって、さかんに名器を買い入るるべしと触れまわったので、現今内務省になって居る、かの酒井家の通用門は、毎日道具屋の市をなし、当時の風説に、雲州家(注・出雲松平家)は金を吝(注・おし)むがため道具屋の方に人気なく、第一流の品物は金放れよき酒井家の方に集まったという。
 かくて、当時もし月並み的に藩庫に金銀を保蔵しておいたならば、とうてい永続するあたわず、元も子もなくなってあろうに、幸い名器を買っておいたので、今なお酒井家の宝庫に残って居るのは、まったく河合の卓識と言わずばなるまい。
 河合については、さまざまの事蹟が残っているその中で、彼は姫路の城下をへだたる一里ばかりなる仁寿山に学校を設け、そのかたわらに水楼と号する文人風の瀟洒なる住居を構造し、なお少しく離れて、風景絶佳なる高所に、六一亭といえる遊覧所をも備え、すべてこれを貴賓接待用に供されたが、この六一亭というのは、一望中に十一箇国を見渡すことができるので、日本六十六州の六分の一を眺望しうるという意味で、かく名づけたのである。
 また水楼には、河合と最も懇親であった頼山陽が長時日寄宿していて、姫路藩書生のために縷々(注・るる)講義をなしたこともあるので、同楼中には頼山陽の間と名づくる一室がある。
 また河合の自宅には竹楼という書斎があって、一切竹をもって構造したものだが、その記文は山陽遺稿に載せられてある。
 河合は右のごとく、学問好きの苦労人であったから、江戸においてもすこぶる高名で、水野出羽守の土方縫殿介ぬいのすけ、二本松丹羽家の丹羽粂之介と、あわせて、天下の三介と呼ばれたということである云々」

 武井男爵は書画骨董を好み、ことに印籠収蔵家として名高かった。酒井家から拝領品中には名品も少なくなく、中でも、銘「夏山」という伊羅保片身替茶碗は、茶人間には非常によく知られている。
 とにかく、維新の前後の国難にあたって鍛錬した気魄は老年にいたるまで衰えず、なんとなくドッシリとして、古武士の風格を備えた人物であった。


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