だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百四十一  蛙の行列(下巻339頁)


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 大正七(1918)年の成金現象としては道具入札市場も空前の盛況を示した。書画、什器はもちろんのこと、金具、根付、緒締(注・印籠と根付などを結ぶ二本の紐を通し、印籠などの蓋があかないようにする留め玉)などの、いわゆる袋物の類も値段が倍化した。その名品にいたっては、娘一人に婿八人の引く手あまたのありさまだった。
 平岡吟舟翁は、長年袋物を取集する趣味(原文「癖」)を持ち、この世界の珍品という珍品はたいてい翁の手中に納まっていたため、袋物商は日々翁のもとに詰めかけ、さかんにお払い下げを嘆願していた。
 そのころ大流行していた加納夏雄の作品の中で天下一品とされていた「蛙の行列」は、細長い金具の表に十五匹の蛙が彫られ、裏座に御婆子(注・オオバコ。別名ガエルッパ、ゲーロッパ、オンバコ。弱ったカエルをこの葉陰におくと元気になるという俗説からカエルバともいう)の葉をあしらい、裏座止めに一匹の蛙を置き、全部で十六匹の蛙が大名行列をなすという図案である。
 夏雄はその意匠を、鳥羽僧正の動物絵巻物(注・鳥獣戯画)から借りてきたものとおぼしく、オオバコの葉で作られた駕籠に乗っている親蛙を中心にして、タンポポ(原文「蒲公英」)、オオバコなど、さまざまな草花を、槍や馬印(注・うまじるし。武将のいる場所を示すための装飾物をつけた棹など)とした同勢が、ぞろぞろと練りゆく姿を、赤銅や、素銅、金銀、四分一(注・しぶいち。銅3、銀1の割合で作った日本固有の合金)などのさまざまな金属材に彫刻してある彩色配合の妙は得も言われないもので、夏雄がこれを製作したときには、いかに苦心を費やしただろうかということがよくわかる。つまりは、夏雄作の金具のうちの白眉といえるものであるから、たとえほうぼうから懇望されたからといって、翁は簡単に手放すことはなかったのだった。
 しかし、京都の道具商である林新兵衛の子、政次郎が、近江八幡の大家である浅見氏(注・実業家浅見又造の子孫か)の依頼を受け、一万円でぜひともこれを譲り受けたいという申し込みがあったとき、父の代からの出入りの道具商でもあり、またこの青年のために花を持たせてやろうという思いやりもあって、翁もついにこれを手放すことを決心したのである。
 この金具はまさに天下一品の品であったので、いたるところで大手を振って、なんびとにも土下座をさせなくてはいけない、ということで、紙片に即座に書きつけて渡された端唄は、次のようなものだった。

    天下御免の行列が、お江戸を立って、上方へ、行く先々は、下に居ろ。

 こうして、政次郎はこの蛙の行列を得て、同業の先輩さえも舌を巻いた光栄を祝うために、新旧の所有主をはじめ、その他の袋物を趣味とする連中を招いて、一夕、この金具披露会を催すことにした。それにあたり、私に「蛙の行列」という歌詞を注文されたので、私は、吟舟翁の次のような端唄を土台にして、さっそく新曲を物した。その文句の中では、蛙の言い分として、

  わしがししをば、何と見た、おありがたやのお婆さん、蓮のうてなにころげ出た、釈迦の涙と手を合す。

という一節があるので、その披露会を釈迦降誕の四月八日(注・翌年の大正8年)に決め、蛙に縁のある三十間堀の某旗亭(注・料理屋。会場は「蜂龍」だった。)を会場とし、会の名を観蛙会と名づけた。そして新旧の所有主のほかに、岡田雨香、今村繁蔵、戸田音一、伊丹揚山ほか、袋物屋連中の数名を加え、行列の蛙の数と同じく、来客を十六人にとした。 さて当夜は、会場の床には、潅仏会(注・かんぶつえ。釈迦の誕生日に甘茶などを釈迦仏像の頭頂から注ぐ法会)の花見堂が安置され、中に、かの蛙の行列金具を陳列し、鳥羽僧正の蛙の合戦絵巻の一部を写した献立書には、蛙に縁のある川や池に産した料理の献立が列記された。水菓子に蛙卵とあるのは何かと思えば、葡萄の実をひとつもぎとって、これをおたまじゃくしに見立てるなど、ずいぶん奇抜な意匠のものもあった。
 さて、この観蛙会の余興は食前食後にわたり珍芸がいろいろあったが、真っ先にあったのは柳家小さんの素人芝居と、蛙が青大将に恐れ入る落語の一席で、次は、猫八(注・江戸家猫八)の物まね鳥獣虫類の声色で、各種の蛙の鳴き分けから多数の蛙合戦の喧騒乱雑の状態を活写する頃には、一座は蛙気分に包まれた。
 こうして余興が進むうちに、つぎの間に掛け渡されていた踊り舞台の引幕が両側に開かれた。すると当夜の主人である政次郎が常磐津地語の首席に座り、老妓連中をワキ、ツレにして、「忍夜孝事寄」(注・しのびよるこうにことよせ)、すなわち平親王将門の娘、滝夜叉の一曲を語り出し、まず来客の度肝を抜いた。
 光国(注・朝廷から滝夜叉姫の成敗を命じられた大宅太郎光国)と滝夜叉の大立ち回りになったとき、張り子の大蝦蟇が舞台に飛び出し、相馬錦の旗を両人で引っ張るという見得を切ると、その旗には一万両の文字がありありと現れるという趣向などは、さすがに凝りに凝った思い付きであった。
 さてその次は、いよいよ新曲の蛙踊りだった。雛妓十五人が子蛙になり、親蛙一匹がその中央に立って統率するというものだ。髪は天平式の双髻(注・そうけい。髻=もとどりがふたつある)で、衣服も天平時代のもので、上に色衣詰袖の服を着け、下に袴をはいていた。五彩燦爛の(注・色彩豊かであでやかな)、見目麗しい(原文「辺り目映き」)十六人の蛙姫が、まず舞台に平伏し、いっせいにヒョコヒョコと這い出し、四人一組、八人一組、文句に応じてさまざまな手振りをする。そして最後には十六匹がいっせいに総踊りをして幕となるという面白さで、まったくのところ、春宵一刻値千金(注・蘇軾「春夜詩」から)ともいうべき朧月夜に、粋客が一堂に会したこの会のことを今日振り返ってみると、ほとんど隔世の感を覚えざるを得ない。
 畢竟(注・つまるところ)、成金時代の好景気を反映する一喜劇として、当時の世相を知る一端ともなると思われるので、ナンセンスな蛙物語を、くどくど書き連ねた次第だ。




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二百四十二  水国飛将軍(下巻342頁)

 高田釜吉君が、ドイツじこみの狩猟に堪能で、空を翔ける鳥や地を走る獣、水を泳ぐ魚を、小銃、半弓、投槍、手裏剣、投網、銛などで狙撃すると百発百中の腕前であると聞き、大正八(1919)年四月十三日に君の国分寺別荘でその技量を実見した。(注・240「超人的手裏剣」を参照のこと)すると、それが聞きしにまさる腕前なので、私は君に、「大正養由基(注・養由基は楚国の弓の名手)」の称号を奉り、無上の敬意を表した。
 それからわずか一か月後の同年五月十七日に、君は三井養之助君を荒川の鯉猟に案内され、私にも同遊を勧めてくれたので、私にとってはまさに願ったり叶ったりで大喜びでその日を待ち受けた。
 当日の待合に決めてあった向島の香浮園に出向くと、当園の女将は、かつて新橋の花柳国におり、わが国開闢以来の指折りの名妓と謳われた清香の、成れの果てと言っては失敬かもしれないが、当時は伊井容峰の恋女房となって香浮園の経営にあたっているのは彼女であったので、この待合の並々ならぬ飾り付けには高田君も非常に苦心したようで、床に掛けてある文晁(注・谷文晁)と抱一(注・酒井抱一)の合作の一軸は、文晁の庵室のかたわらに一本柳を描き、その柳の枝にぶらさげてある短冊に、抱一が、

  からかさに柳をわくる庵かな

という一句をしたためたものだった。これは、生粋の江戸趣味を発揮したのもので、憎らしいまでに、よくこの待合に当てはまっているのだった。
 こうして、午後三時くらいかと思われるころ、香浮園の裏手の繋船場に出て、屋形船一艘と曳舟用のモーターボートそして網船の各一艘に乗り移り、曳舟はポッポッと音を立てて上流にさかのぼった。千住の大橋の下を潜り、十数丁(注・一丁=一町は約109メートル)上手にいたると、右岸は蒹葭菰蒲(注・水辺の植物)が一帯に生い茂り、左岸は榛(注・はしばみ。カバノキ科)の林が空を覆い、見渡す限りの新緑が入り交じり、水国の風光は清快限りなかった。流れの上手から下手に向かって、約千尺(注・約300メートル。一尺は約30センチ)ほどの麻糸に五、六尺ずつの間隔で、高田流一子相伝の香餌をつけた釣り針を垂らしておいたものを上流から順番に手繰って調べてみると、二、三寸から、大きいものでは五寸ほどの鯉がその釣り針に掛かって水際で溌剌として跳ね回っているのを手網ですくい取っていく。そして、千尺の糸を引き上げ終わったときには、十六匹の鯉が掛かっていた。
 そこまではそれほど驚くほどでもなかったが、さてそれからが高田君の離れ技を見せてくれるところで、今度は銛で水中の魚を刺すところ御覧にいれよう、ということになった。長さ四尺(注・約120センチ)ほどの樫棒の下の端に、長い菅糸(注・すがいと。生糸を練る前の状態の一本のままの糸)をつけた銛をはめて、蓋と底の両方にガラスを張った、縦が七、八寸で横一尺ほどの長方形の箱の半分を水中に入れ、そのガラスごしに川底を覗き込むのだが、この日は雨のあとで河の水がやや濁っており、私たちには一尺以下でさえ見分けられないのに、君のそのガラス箱をとおして八尺くらいの水底をはっきりと見ることができるそうで、左手にこの箱を持ち、右手で銛の柄を持ちながら、舷(注・げん。船の側面)に寄ってしばらく水底を眺めていたが、やがて狙いを定めて銛を突きさすと、はたして手応えがあったようだった。まず銛から外れて浮き上がってきた樫棒を納め、刺した魚を菅糸で手繰りあげると、獲物はすこぶる大きな魚だった。簡単には引き上げられないのを徐々に引き寄せて、手綱ですくい上げてみると、銛が五寸ほどの大鯉の背中を斜めに突き通しているという手練れの見事さなのであった。手裏剣で飛び立つ鶉をしとめるのと同様に人間業とは思われず、私たちは驚嘆のあまり、そのみごとな命中をヤンヤと賞嘆してやまなかった。
 高田君の演技は、この離れ技でもまだあきたらないもののようで、今度はその一番得意だという投網の実演を私たちに見せてくれることになった。
 投網に取り掛かろうとして、洋服の上に黒いゴム(原文「護謨」)製の筒袖着を着け、下にはやはりゴム製の茶色いズボンをはいて、海水浴用の大編み笠をあみだ(注・前をあげて阿弥陀の後光のように)にかぶり、投網を持って船の舳(注・へさき)に立っている武者ぶりを、三井養之助君は、例の諧謔によって曾我廼家(注・曾我廼家五郎か)の太田道灌に見立てたが、敵ながらあっぱれ、と言いたいくらいの適評であった。
 投網の打ち方については高田君一流の工夫があって、普通より少し高めに網を上げて、腰の呼吸でエイヤッと投げ入れる。その網は、あらん限りに広く四角く広がって水中に落ちていったが、これは長年の手練れで、当日高田君の幕僚として船中に同伴していた築地の網屋藤兵衛、すなわち網藤老人も、ただいま網は、まことによく打てましたな、と感嘆の声を発したほどだった。
 こうして水国の余興が続く間に、暮色は蒼然として川面をおおい、腹には北山時雨(注・きたやましぐれ。空腹のこと)を催してきた。すると水国の飛将軍は、たちまち船中の大膳頭(注・料理長)となって、鯉こく、すっぽん汁、手長海老の天ぷらなどが、所狭しと運び出され、近来無類の御馳走となった。
 折柄、旧暦の十八日の月も昇ってきて、江上は一層の眺めになり、舳艫相ふくんで(注・じぐろあいふくんで=多くの船が続いて進むこと)そろそろと川をくだった。
 やがて香浮園に帰り着くと、ここにもまた、茶目っ気あふれる主人の風流が現れて、床に掛けられた頼山陽の半切には、

  打魚航去入菰蒲 昏黒帰来網不虚 溌剌満籃飛不定 挙灯難弁是何魚

という七絶があった。
 今日の趣向も、どうやらこの一軸から割り出されたのではないかとさえ感じられたものだから、私は帰宅後に、それに和韻して、礼状とともに次の一首を高田君に贈ったのである。
  
  
風弄軽柔入緑蒲 我心縹渺欲凌虚 依稀移得泰准景 画舫掲簾観打魚
 
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二百四十三  決闘実験談(上)(下巻346頁)

 高田釜吉君が狩猟において、超人的な妙技で各種の武器をいずれ劣らず使いこなすということは、これまで披露してきたとおりである(注・237「独逸狩猟談」240「超人的手裏剣談」
242「水国飛将軍」参照)が、君の先人に当たる「天下の糸平」(注・釜吉は糸平田中平八の三男で、高田家の婿養子になった)の血統を伝える者で、信州ばりの負けじ魂と秘めているからでもなかろうが、ドイツ留学中に、かの国で流行していた決闘を実行するにいたった経験を持つとなれば、これは日本人としてはほとんど他に例を見ないことではなかろうか。その君が、なんらの誇張もなく、ありのままに事実を語る談話をきくだけで、血湧き肉躍るの感をもよおすので、次にその大要を紹介することにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)


「私は明治二十五(1892)年より三十五年まで、十年間ドイツに留学しましたが、私の通っていた学校の助教授で、オルフという男が、平常卑怯者で、かつ意地悪であったから、学生側より常にげじげじのごとく思われていたが、私は一級二十五人の級長となっていたので、オルフが時間通りに出席しなかったとき、私は彼の室に参って催促をしたところが、彼はなにやら婦人のもとに送る手紙を書いている様子なので、生徒が非常に待っていますから至急ご出席くださいと言えば、ただいま手紙を書いて居るから書きおわったら出席するとばかりでいつまで待っても出て来ぬので、私は再び彼の室へ押しかけ、貴方は私用の手紙を書いていながら予定の時間に出席せぬのは教師として甚だ不都合ではありませぬか、と詰責したところが、彼は非常に横幕(注・横柄と権幕の造語?)で、私を叱りつけましたが、この時よりして彼は私に含むところがあった様子で、何か落ち度を見つけて私を追い出そうと企んでいたらしい。その時学校において貴重な品物が紛失した事件がありましたが、彼は私の下宿を訪ねて、私が試験用に書き溜めておいた書類を見せよと言いますから、何心なく戸棚を開けて見せますと、その書類には目をつけず、かの紛失した貴重品を見出さんとするもののごとく、何かしきりにきょろきょろと見まわして、とうとう諸方(注・しょほう=あちこち)の引き出しなどまで開けかけたので、あまりの無礼に私もたまらず片手で彼を押しのけたところが、彼は私の足につまづいて、すってんころりと横倒れになった。このとき彼は血相を変えて私に名刺を差し出しましたが、これは無論、私に決闘を申し込んだわけでありますから、私もこの場に臨んで引き下がるわけにもいかず、同じく名刺を彼に渡したのであります。
  これにおいて私は、図らずも彼と決闘をしなくてならぬこととなったが、これを日本人に話せば必ず引き留めらるるから、一切無言で熟考の末、私の友達であったドイツの軍人にこのことを話すと、この男は軍人のこととて、事ここに至っては、断然決闘するほうが宜かろうと勧めたばかりでなく、自ら進んで立会人になろうと言い出されたので、このほか、さらに今一人の軍人を頼んで証人となし、時日を定めて郊外の原中で決闘することとなりました。
 かくして、この決闘までには約二週間ばかりの余裕がありましたが、ドイツでは決闘を申し込まれた方に武器選定の権利がありますから、私は双方武器を使用せずに決闘しようと申し出たところが、当国ではさようなことは行われないというので、しからば先方の好み次第にしようとて、とうとう短銃と定めたので、私の友人らは私に対して、至急短銃の打ち方を稽古せよと申しましたが、私は二週間くらい習ったところで格別の進境もなかろうから、別に稽古するにも及ばぬとて、このまま時日の来るのを待ちました。
 そこで決闘の前夜、宮岡恒次郎氏その他、私と同宿の日本人を招集して、シャンペンを飲んで、それとなく訣別したのでありますが、私が何も言わぬので、なんのために、かような会合を催したのか、いずれも不思議に思っておりました。
 さていよいよ当日となって現場に赴けば、先方は二人の立会人を連れてすでに出張しておりましたが、立会人は双方ともに正服着用で、決闘の場所は、十間(注・一間は約1.8メートル)の間隔を置き、双方号令をかけて三回までこころむる(注・試す)のであります。しかして、今や決闘の始まらんとするとき、先方の立会人が使者に立って、このたびの決闘は、もともと格別の原因もないことだから、双方弾丸を空中に放って、散会しようということでありました。よって当方も、その意を諒とし快くこれに応じたのでありますが、これは先方が私を騙してその身を全うしようという狡猾な手段なのでありました。」(注・次ページにつづく)


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二百四十四  決闘実験談(下)(下巻349頁)(注・上へもどる

 高田君の決闘実験談はいよいよ劇的場面にはいって興味津々たるものがあったが、つづいて要所のみ叙述することにしよう。
 「今度の決闘は、双方、形式だけに止め、弾丸を空中に放って散会しよう、と申し込まれたので、私はこれに感じて、短銃を手にし、まず先方の様子を見ると、もはや決闘を実行する決心がないので、先方の銃先が当方に向かっていることだけは見えても、相手の身体がちらちらして、はっきり私に見えなかったのは、かかる場合に度胸の据わらぬためでありましょう。
 さて号令がかかったので、私は約束通り、空中に向かって打ち放したところが、相手は真剣に私を狙ったものとみえ、弾丸が私のかぶっていた高帽子を打ち貫いて、はるか後ろに射飛ばしたのであります。そこでその帽子を取り上げてみると、弾丸が私の頭より五分(注・一分は約3ミリ)ばかり上をかすっていたので、まことに危険なことでありましたが、私の方の立会人は非常にこれを憤慨し、かかる場合には、こちらから決闘を取り消すことができるが、いかにしたものだろうかと私に尋ねますから、私はまだ弾丸が二回分残っているから、最後まで試みることにしようとて、今度は私も狙いをつけて打ちましたが、私の弾丸は外れて当たらず、かつ、私がまだ決闘に慣れず、左の手を広げていたため、相手の弾丸が私の腕を打ち貫きましたが、幸い骨に掛からなかったので、格別の傷ではなかったのであります。
 よって、さっそくその傷を包帯して、第三回目の勝負となりました。
 私はすでに二回まで、危ないところを打たれておりますので、この度は十分覚悟をしたものとみえ、先方の姿が分明に見えて、さらに(注・全く)怖るる心がなかったのはいよいよ度胸が据わったのでありましょう。
 しかして最後の仕合は、先方の弾丸は私に当たらず、私の弾丸は見事に先方の肺部を打ち貫いたのであります。
 このとき、先方が真倒【まっさかさま】にひっくり返ったの見て、私もまた、後ろにどうと倒れて腰が抜けたというのでありましょうか、いかにしても立つことができませぬ。また手にした短銃を自分で離そうと思っても指が利かず、これを離すことができませぬので、介添え人が私の指を揉んで短銃を離し、腰が抜けて歩けないので二人に助けられて現場を引き上げたという始末で、実にお恥ずかしい話でありますが、これは実際の話であります。
 しかるに、先方のオルフという男が、私に面会したいというので、彼が倒れて居るところに行ってみますと、肺部より泡が立って、呼吸するごとに、血がブクブクと流れ出るので、まことに気の毒に感じました。そのとき彼は、この度のことは、私がまことに悪いのであるから、学校やその他の人々には何卒秘密にしてもらいたいと言わるるので、私は、日本人はさような卑怯なことは致さぬ、決して他言は致さぬ、と言って引き取りましたが、この噂が他の人々から洩れたとみえ新聞などに書きたてられたので、彼は即日学校より免職せられ、二週間ばかりたって傷所も癒えたとか言って、アメリカに渡ろうとしたその船中で吐血して死んだということであります。
 同時に先方の立会人二人も卑怯の振る舞いをしたという評判が立ってドイツにいることができず、やはりアメリカへ逃げ出したということであります。
 ドイツの政府では決闘を禁じておりますが、その実は内々奨励して居るので、決闘した者は形式上、五日間牢に入れられますが、皇帝がさっそく特赦するという慣例で、ドイツでは士気を鼓舞するという方法としてこの決闘を奨励するのであります。
 そこで私は牢に入るべきところでありましたが、この時の日本公使は子爵青木周蔵氏で、私が決闘したというので、日本人はかくのごときものであるとして、しきりにドイツ人に自慢したような次第で、公使より皇帝(注・ヴィルヘルム2世)に申し上げて牢にも入らずに済みましたが、その後私はドイツにおいて非常な尊敬を受け、上級の学生でも私に会えば帽子を脱いで挨拶するというありさまでした。
 ドイツ人の決闘は、多くは長くて薄っぺらな剣をもって闘い、決闘倶楽部というものが諸処(注・しょしょ=あちらこちら)にあって、申し合わせて決闘をなし、面部に数か所の疵を受けて居る者が婦人連にもてはやさるるという始末である。ドイツは、かくのごとき蛮的武勇を奨励して戦争の準備をなしたわけでありますが、今後この種の武勇奨励が、ながくドイツ国に継続すべしや否やは未知数であります。」


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二百四十五  古稀庵の石と竹(下巻353頁)

 山県含雪(注・山県有朋)公は性来、多方面に多趣味で、文学方面における和歌では専門家を凌駕する力量があった。またさらに趣味は工芸方面にもわたり、嶄然(注・ざんぜん=ひときわ)群を抜いていたのは、公爵がもっとも得意とした築庭術であった。
 公爵には、奇兵隊時代に長州において、すでに小庭園を造られたという経験がある。また明治初年には目白台に椿山荘を設計し、次いで京都の無隣庵を造った。この間に、小規模ながら、小石川水道町に新々【さらさら】亭を設け(注・134・「和歌修行の端緒」を参照のこと)、最後に小田原古稀庵を構築されたのである。いずれの庭園においても、水なき庭はその趣をなさず、という一貫した理想を実行に移された。
 古稀庵の構築から数年たって、庭園の中にこれ以上新しい施設を作ってみる場所が皆無になってしまうと次第に腕がうずき(原文「髀肉(ひにく)の嘆を催し」)、同庵の崖下に五百坪余りの空き地があるのを買い取って、そこに新しい庭園を築造することになった。
 さて公爵の築庭術は、水に一番の重きを置くものである。椿山荘においては、荘内にある池辺の天然湧水を利用し、無隣庵においては東山疎水(注・琵琶湖疎水)の分流を引き入れ、古稀庵においては鉄管で箱根山中の渓流を取り入れ、いわゆる「智者は水を楽しむ(注・「論語」から。知者は水の流れのように物事を円滑に行う)」の能事(注・やりとげるべきこと)を尽くされた。
 築庭の要素である樹木と石類については水に対するほどの執心はなかったようで、公爵の愛顧を受けた植木屋の勝五郎老人なども、この点に関しては時々、公爵と所見を異にする場合があったらしい。もっとも、公爵が庭石についてまったく無関心でなかったことは、京都無隣庵築庭の際に、醍醐山の山奥に豊太閤(注・豊臣秀吉)が桃山築城の時に取り残したという大石があることを耳にして、ある日みずから踏査にゆき、兜型をした巨石に目をつけ数頭の牛でもって引き出したという一例からもうかがえるのである。この巨石は途中に幾多の障害があったにもかかわらず、ついには無隣庵に運び込まれ庭の主人公となったという経歴がある。
  また古稀庵の庭前にも頼朝の馬蹄石というものを配置されたことがあったので、私は公爵の今回の新庭に使ってもらおうと、そのころ庭石として使い始めていた筑波山の山石の中から、もっとも雅趣のある大石三個を贈呈した。
 そのときの礼状には、
 「曽て(注・かつて)御話し有之候佳石三個、御恵贈を忝(注・かたじけの)うし、深謝不啻(注・ただならず)候、一昨夕草庵に罷越(注・まかりこ)し、直(注・すぐ)に一覧候処、頗(注・すこぶ)る美事なる良石にして、古色を帯び、恰好尤も宜敷(注・よろしく)、激流の尽処(注・つきるところ)に配置可致と楽居候、余而願置候庭上に建設すべき草亭之図、数葉拝見、其第三図に取極め可申含に候云々」
とあった。
 このとき公爵は、高橋がせっかく佳石を贈ってくれたのだから、彼が一言もなく感服すべきところに配置しなくてならないということで、編み竹で石の模型を作って、その上に新聞紙を張りどこにでも簡単に運べるようにし、樹下へ、池辺へと据えてみて、遠近から熟覧したうえではじめてその位置を決定されたのだそうだ。
 この新庭の完成後、私が公爵を訪問したとき、公爵みずからが私を案内してくださり、その苦心を語られ、大石を庭前に据え付けるにはこれが一番の方法だろうと言われた。私が、竹籠の張り抜きはいかにも新しい工夫だが、益田無為庵(注・益田克徳)は、茶席の露地に飛石を按配するときに、石型に切り抜いた新聞紙を、そこここに置き合わせていたことがありました、と言うと、それでは立体と平面の違いはあっても、吾輩より前にそんな工夫をした者があったのかねと非常に満足そうだった。
 またこれより以前に、公爵が古稀庵の南端に一棟の離れ家を建設されたとき、私はその周囲に植えてくださるようにと、昔、皆川淇薗が長崎から京都に初めて輸入したと言い伝えられる苦竹を数十幹、京都から取り寄せ、「真鶴が岬に向へる園の中に千代をちぎりて茂れ若竹」という一首を添えて公爵に贈呈したことがあったが、そのときの公爵の礼状は次のとおりだった。
 「御清康慶賀の至りに候、扨て嘗て御約諾致し置き候まま、過ぐる三日植木職を古稀庵に差出し候処、御恵贈被下候苦竹持参の植木屋と行き違ひに相成、昨夜植木屋帰京、芳翰落手(注・お手紙を受け取り)、猶事情細縷伝承候に付き、早速電話にて御挨拶申陳為置候、苦竹に付ては遠国より御取寄せ、不容易高配を忝うし、芳情深謝、且高詠感吟不啻、取敢へずおかへしの心を

   窓近く君がおくりし竹うゑて こもれる千代のなかにすまばや

供一覧、余事拝青を期、御礼可申上候、草々拝復
 七月五日朝     椿山荘朋頓首
高橋賢兄侍史
 

 この書簡中の「窓近く君がおくりし竹うゑて」の一首は、椿山歌集編集者もその歌集の中に加えられたほどで、公爵の詠歌の中でも傑作の部類に属するものだろうと思うが、その後この竹がおおいに繁茂して公爵の清節をしのぶべく古稀庵の庭前の眺めとなっていることは、私にとってまことにこの上ない思い出なのである。


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二百四十六  岩原謙庵の空中水指割(下巻356頁)

 岩原謙庵【謙三】君は、実業家としては日常事務の上で綿密すぎるほどだと言われているにもかかわらず、いったん茶事方面に乗り出すと、益田鈍翁が彼に「素骨【粗忽】庵」の尊称を贈ったほどの愛嬌家で、故意【わざ】とでなく、自然に椿談(注・珍談)を生み出す特徴を持ち、謙庵茶会を催すときは必ずなんらかの語り草を残すと言われている。 

 謙庵の茶事は大正初年から始まったのであるが、あるとき自庵に茶客を招いたときのことである。帰宅が遅くなってしまい、急いで帽子をかぶりながら飛び込んできて、挨拶も半ばにそのことに気づき、イヤこれは失敬、と、その帽子を脱ごうとしたのを、正客の三井松籟(注・三井南家、八郎次郎高弘)翁が、からかい半分で、そのまま、そのまま、と差し止めたので、どうしたものかと思い惑って、帽子に手をかけながら引き下がったという椿事がある。
 またあるときは、大阪の磯野良吉氏が正客となり、今や主人に相対して、お辞儀を交換しているところに、令閨(注・令夫人)がかわいがっていた愛犬の狆が、主人のうしろから現れて正客の頭に飛びつき、ひどく驚かせてしまったということがあり、一時は、謙庵を狆庵に改称すべきであるという動議が起こったこともあった。
 またあるときは、茶会の劈頭(注・一番最初)に初心者である素人茶客を招いて、試験的にやってみるという目的で、後藤新平、杉山茂丸、金杉英五郎などという豪傑連を案内したことがあったのだが、その前日に、ある人が、明日から茶会が始まるそうですね、と質問すると、謙庵は鼻であしらいつつ、「明日の連中などは茶客と言うべき者ではない、彼らには、ただ物を食わせてやるだけだ」と放言した。その放言が、いつしか、かの豪傑連に嗅ぎ出されてしまったから、ことはいよいよ面倒になり、とうとうお詫び茶会が開かれることになり、芭蕉翁の、「物言へば唇寒し秋の風」の一軸を掛けて、かろうじて口禍の難関を切り抜けたなどということもあった。
 これらの数々の椿事を編集したならば、たちまちにして謙庵奇談集が一部できあがるであろうが、ここに、謙庵の失策の中でも、もっとも有名になった話を紹介しよう。
 大正七(1918)年の四月下旬、益田鈍翁が御殿山為楽庵で催した茶会のことである。本阿弥空中(注・光悦の孫、光甫)作の水指を拝見中、お供【そなえ】形の撮【つま】みのある共蓋を取り上げて見回している間に、例の粗忽で、その蓋を、水指の中に滑り落としてしまった。その瞬間、カーンという響きを立てて(原文「かつ然として響きあり」)蓋は二、三片に割れてしまったので、今の今までは大得意に角を伸ばしていたカタツムリが、何かに触れてにわかに縮こまったように、これは、これは、と恐れ入るという、開いた口がふさがらないような笑止のありさまなのであった。
 相客の益田紅艶は、拙者の働きはこのような時にこそ必要であろう、と言わんばかりに、ひと膝乗り出し、ここで、次のようなお詫びのための一案を提出したのである。
 この茶会の前に、私の旧蔵の松花堂(注・松花堂昭乗)筆の長恨歌の一巻の市場入札があった。そのとき、鈍翁と謙庵が偶然にも競争して、首尾よく謙庵の手に落ちたので、釣り落とした魚を惜しむように鈍翁がしきりに残念がっているという時だったので、今回の不調法のお詫びのために、その長恨歌の一巻を、入札原価そのままで、謙庵から鈍翁に譲り渡してはどうか、というのである。
 ここにおいて、謙庵もこれを拒み得ず、不平の気持ちを押さえて、その提議に応じることになったので、事件はすらすらと解決したのであった。
 このとき紅艶は、
   空中でテツペンかけたほととぎす
と詠み出でた。時も時、名に負う(注・有名な)「目に青葉、山ほととぎす」の時節に、空中作の水指蓋のてっぺんが欠けたのを、巧みに言い表した面白さに、主人の鈍翁も、やがて下の句に、
   ながき恨みの夢やさむらぬ
とつけたのは、恋しと思っていた長恨歌の一巻が、夢のごとくに我が手に落ちてきたためだったろう。(注・蛇足でつけくわえれば、ほととぎすの鳴き声はテッペンカケタカと言い慣わす)
 ところが、その後ほどなく、益田鈍翁の御殿山幽月亭で催された初風炉(注・しょぶろ)茶会で、三井華精(注・室町三井家、高保)男爵、馬越化生、加藤正義、根津青山の諸氏という、いずれも悪口達者の連中だけを招いた中に、謙庵をはさんだのは、鈍翁の胸に一物あったのであろう。やがて濃茶手前になり、例の空中水指が道具畳に現れたのを見ると、最近では土物の破損修復が上達して、たいていの疵物は、玄人でも見分けがつかないほどうまく繕えるようになっているので、先夜謙庵が打ちこぼした破損の痕跡など、どこを見ても見つけられないほどの手際で直されているのだった。その精妙さに驚くと同時に、この水指がここまで修繕されうるものだったのなら、何を苦しみ、せっかく手に入れた長恨歌の巻物を投げ出した上に、平身低頭して自分の粗忽を詫びる必要があったのかと、謙庵はにわかに不平の色を浮かべた。その反対に、鈍翁は得意の微笑を洩らし、空中水指蓋割りの一件から、いったんは競争に負けた長恨歌巻を、まんまと我が手に分捕った次第を、その後、一座の悪口連中に披露したので、そのことはたちまちにして、東都(注・東京)の同人連に知れ渡り、さらに全国の茶人仲間にも喧伝されることになったのである。
 そのおかげで、この水指は、図らずも一種の名物となり、その後鈍翁がこれを鷹峯の光悦会に出品したときには、今述べてきたような歴史的水指として、大勢の来客の注目を引くに至ったのである。大正茶番劇の圧巻ともいうべき、空中水指割りの一埒(注・いちらつ=一部始終)、ここにあらあら、かくのごとし。


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二百四十七  往生極楽院山門(下巻360頁)

 私には庭園趣味があり(原文「平素林泉の癖あり」)、ことに京都の名勝を愛して、ほとんどの庭を訪れたことがあるほどである。あるとき大原の三千院に行ったとき、その境内が幽寂なことや、堂宇(注・堂の建物)が古雅であることが気に入り、機会があればまた参詣したいと思っていた。
 大正六(1917)年五月のある日、京都の植木職である、植治こと小川治兵衛老が上京して私の伽藍洞にやってきた。そのときたままた話が三千院のことに及ぶと、同院の門跡、梅谷孝永上人が、境内阿弥陀堂の庭園の門塀が見る影もなく荒廃しているのを嘆き補修したいという長年の願いを持っているが、場所が山間の僻地であることもあって篤志者の参詣も非常に少なく、補修を援助してくれる人がいないので非常に当惑しているという話をしてくれた。
 私はすぐに、かつて三千院に遊んだときのことを思い浮かべ、庭園の補修については少しばかり思う仔細もあったので、微力ながらも助力することにやぶさかではない(原文「敢て一臂(いっぴ)を吝(おし)まざるべし」)と口約しておいた。
 ところがその後ほどなくして他用で京都に赴く(原文「入洛」)機会があったので、ある日植治を同伴して自動車を大原に走らせた。
 京都から約五十分ほどで三千院に到着すると、かねて申し入れてあったことであったので、すぐに本坊の上段の間に通された。そして待つ間もなく、梶井三千院門跡(注・梶井門跡は三千院の旧称、門跡とは格式ある寺院の位階、またはその住職のこと)である権大僧正梅谷孝永上人が立ち現れた。
 上人は、五十の坂を四つ、五つ上がった年の頃で、やや小づくりの身体に紫衣をまとい、梶井門跡に特有の、有名な萌黄の地に金菊の紋がついた幅の狭い袈裟を掛けており、愛想のよい応対をされた。
 ではご案内しましょうということで、われわれは本坊の庭前におり立った。庭は、中央の池のまわりに一面のつつじが花盛りであった。その間を通り抜け、つづいて一段高い平面地に登ってゆくと、そこに恵心僧都(注・源信。10世紀の天台僧)の遺構と言い伝えられている阿弥陀堂の建物(原文「一宇」)がある。すなわちこれが、往生極楽院である。
 これは藤原時代の宸殿(注・しんでん=門跡寺院に特有の建物)式仏堂で、ひさしの先が深く垂れ、優美、古雅で、比類のないものであったが、周囲の門塀や庭園が見る影もなく荒廃し、すでに一日たりとも捨て置けないような状況になっていた。とりあえず、これを修築することが梅谷上人の宿願だということで、この日上人は、私たちに往生極楽院の内外の実状を見せてくれた。
 当院は、七、八間四方(注・約14メートル四方)の仏堂で、回り縁の周囲には高欄がめぐらされている。階段を登って内陣にはいると、中央正面に丈六(注・じょうろく=身長一丈六尺、約4.8メートル)の阿弥陀如来像があり、その両側に蓮坐を捧げて端座する来迎仏が純然日本式に座っているが、ほかではあまり見ない一種風変りな座り方に見える。
 製作したのは恵心僧都という伝来であるが、その面相を観察すると藤原末期の作ではないかとも思われる。今からおよそ二百年前に、本尊があまりにも燻って(注・くすぶって=すすけて)しまったので、心ない僧侶の発議で、新たに金箔を塗り立てそうだが、それはまことに無惨な結果になっている。
 さてこの仏像の背面は、これも恵心僧都の筆だということで、胎、金両部の曼陀羅(注・胎蔵界、金剛界の両界曼荼羅)を書き詰めた木版を張りまわしてある。藤原時代の建造物で、壁画がこのようにはっきりと現存しているのは、宇治の平等院、日野の法界寺、醍醐の五重塔以外には、ほとんど例を見ない国宝であるから、好古家ならば一度は必ず見ておくべきものだろうと思われた。
 そもそもこの三千院は、大覚寺、仁和寺、青蓮院、妙法院とともに叡山五門跡の随一で、伝教大師が平安王城鎮護のために勅命を奉じて延暦寺を建設しようとしたときに、その常住坊として比叡山に建造したもので、最初は三千院円融坊と称していた。
 当院は、今生天皇からさかのぼる五代前の天皇、皇后のご冥福を奉修する御懺法講(注・おせんぼうこう)というものを行うしきたりになっている(注・御懺法講じたいは平安末期から断続的に続く皇室行事)。それには、奥行き十間(注・一間は約1.8メートル)、幅十三間の、荘厳な宸殿が必要なため、後年、山上から現在の場所に移築したものである。
 しかし維新後の旧物破壊の暴風は当院にも激しく襲来し、今ではその宸殿の影さえも見られない状態になってしまった。
 けれども御懺法講は、こと、皇室に関する大法要であるので、一日も早くその宸殿を復旧することが当院第一の急務なのだということだ。
 しかしこの問題はまずおくとして、当面の問題として、往生極楽院の荒廃した様を見苦しくないように補修したいというのが梅谷上人の希望なので、私は植治に命じてまず庭園の掃除に当たらせ、往生極楽院周囲の門塀については、将来に適当な山門が建設されるまで、仮設の意味で、僭越ながら私が、小さな山門を寄進すると申し出た。すると梅谷上人は非常に喜んでこれを受納されたので、これも植治に任せて、それぞれの職人に申し付けることにした。
 最初は、屋根を檜皮葺にしたところ、その後十数年たって、山中の湿気のために、だいぶ破損を生じたというので、永久保存のために、さらに銅瓦で葺き替えを行ったのである。
 このような縁で、梅谷上人はその後、私を伽藍洞に訪問されたこともあった。上人は天台宗における偉才で、ほどなく妙法院門跡になり、さらに進んで、今は比叡山延暦寺の門主大僧正になられたそうである。
 上人はまた、非常に文藻(注・詩をつくる才能)にも富み、故杉聴雨(注・杉孫七郎)、福原周峰らと、しばしば唱酬したこともあったということである。そこで私はこの時、上人に謝する(原文「道謝する」)ために、次の七絶一首を贈呈した。

      訪小原三千院賦呈梅谷上人
   花木禅房苔径深 清談半日快吾心 澄潭応有魚龍聴 出定高僧得意吟


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二百四十八  梅幸の人形(下巻363頁)

 大正九(1920)年のことだった。当時、船成金の巨魁として相州(注・現神奈川県)小田原に対潮閣という広壮な別邸を控えていた山下亀三郎君は、その人となり豪放磊落で茶目っ気に富み、みずから脱仙居士、またときには紺足袋生などと名乗り、時の大官長者に対しても無邪気、無遠慮にふるまうのが山下式として名高かった。 
 彼はそのころ、梅幸という楳茂都(注・うめもと。原文「梅茂都」)流の舞踏に堪能な神戸の美人を贔屓にしており、彼女の妙芸である踊りが東京の芸道数寄者に知られていないことを遺憾の至りだと考えた。そこでまず、そのいわゆる数寄者なるものを選考することにし、同じ小田原提灯村(注・当時小田原に名士の邸宅や別荘が多数点在していたのを、小田原名産の提灯のあかりがともっている様子にたとえたものか)の古稀庵に高臥されている山県含雪(注・山県有朋)公に白羽の矢を立てた。次いで、装束付きで時雨西行を踊ったことがあるという素人舞踏の大天狗、益田紅艶(注・益田英作)、を指名した。そのほか提灯村在籍の、田健次郎、木村清四郎、野崎広太らを招待して梅幸の艶姿と舞型とを紹介することになったのである。
 余もまた、その寵招(注・特別な招待)をいただいたのであるが、当日間際になって含雪公が急に風邪に冒されたのでやむなく延期となった。

 ところが脱仙君は、そこでたちまち例の茶目っ気を出し、京都を物色して梅幸に生き写しの京人形を取り寄せ、病気御見舞いとしてこれを古稀庵に贈り届けた。
 ここで、その人形を届けた使者が山下家の運転手で、これが美貌の青年だったため、「梅幸人形をお届け申し上げます」と言ったその口上を取次の書生が聞き間違え、運転手を役者の梅幸と思い込んで人形を公爵の枕元に持参し、「ただいま、役者の梅幸がこの品物を持参いたしました」と取り次いでしまった。
 そのとき公爵はもちろん臥床中、貞子夫人は上京して不在なので、何が何だかさっぱりわからないままに、とにかく面会するのを断ったとき、貞子夫人が帰庵され、梅幸と梅幸の間違いを発見したため、公爵もおおいに笑われて山下氏に次のような礼状を送られた。

 先夜は老人病気御尋問を辱うせし耳(注・のみ)ならず、京都土産祇園名物の舞妓人形を御恵贈被下、直に床頭に侍らせ日夜看護相勤めさせ候、御一笑即左に、


  すすみ行く世にもかはらぬかみ園の 舞子のすがた見るぞうれしき


忽ち五十年前の壮雄を憶起し、快感不堪、此に謝意を表し候、老生風気は減退致候へ共、于今医戒を守り、対客を謝絶し、静養罷在候、御省念是祈候、不日万可期面晤候、草々不一
             古稀庵老朋

  山下賢兄梧下

 こうして、梅幸の舞踏見物はしばらく中止になっていたが、含雪公の病気全快とともにいよいよ開催することになり、三月二十一日の午後、小田原の山下別荘に前記の顔ぶれを招集すると、一同は楽しみにやってきた。
 すると、さきほどの含雪公の書簡(原文「手簡」)が、時代物の匹田に鹿の子絞りの打掛模様裂で表装され寄付の床に掛けられていた。
 やがて、善美を尽くした大広間に通されると、ほどなくして梅幸の舞踏の開演となった。
 梅幸は関西美人に似ず、意気な(注・粋な)細面で、目元に無限の愛嬌をたたえ、年は三十四、五歳だそうだが、見たところ二十五、六歳のようだ。扇を手にしてスラリと立ち上がっただけで、すでに平凡な踊り手とは違った姿勢を見せていた。
 こうして当夜は、神戸の老妓、政子と小浜が地方(注・じかた=音楽演奏者)になって、「新縁の綱」「常磐津松島」「からくり的(注・まと)」の三番が舞われたが、とくに最後の「からくり的」で、その妙技が発揮された。
 「からくり的」は、関東で行われている傀儡師に類するもので、その文句は次のようなものである。
 「おもしろや、人の往来のけしきにて、世は皆花の盛りとも、的のちかはぬ星兜、先駈したる武者一騎、仰々しくもほだばかり、そりやうごかぬは、曳けやとて、彼の念仏にあらはれし、例の鍾巻道成寺、祈らぬものの、ふはふはと、なんばうをかし物語、それは娘気、これは又廓をぬけた頬冠、おやまのあとの色男、立ち止りては、あぶなもの、見つけられたら、淡雪の、浮名も消えて、元の水、流れ汲む身にあらねども、かはる勤めの大鳥毛、台傘、立傘、挟箱、皆一様に振り出す、列を乱さぬ張肘のかたいは、実にも作りつけ、さて其次は、鬼の手のぬつと出したは、見る人の笠つかむかと思はるる、それを笑ひの手拍子に、切狂言は下り蛛、うらよしひよし、道しるべ、よいことばかりえ」

 「からくり的」の舞は、扇を楊弓(注・ようきゅう=遊び用の小弓)を擬して、一回矢を放つごとに、種々の人形が現れ出て、それぞれの身振りをするという趣向で、梅幸の、人物をあらわす姿勢の優美さと、もともとの容姿の秀麗さで、観ている者を実に魅了したのである。
 さて梅幸の踊りが済むと、待っていました、とばかりに、益田紅艶が装束付きで保名狂乱を踊り出したのには、一同驚き唖然とするしかなかった(原文「喫驚の外なかつた」)。紅艶が、二十貫(注・約75キログラム)という丸々と太った図体で、近眼眼鏡の上に紫鉢巻を締めたところを含雪公がつくづくと見て、「初荷の飾り牛のようだね」と評されたのは、あまりにその通りで文句なし(原文「評し得て寸分動かぬ所」)だと、しばらくは鳴りもやまなかった。
 これで、関西楳茂都流の達人梅幸と、関東藤間流の名手紅艶との舞踏競技の展覧会が開かれたわけだが、その妙技のいかんは知らず、舞踏の終わったあとの喝采は紅艶のほうがはるかに大きかったのは、時にとっての一興で(注・その時とても盛り上がり)、当時のことを思い出すと、その光景が今でも眼前に浮かぶようである。


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二百四十九  白頭宰相原敬氏(下巻367頁)

 故政友会総裁元首相の原敬氏は、年齢の割に早くから白髪となったので、白頭宰相の異称を得るにいたった。
 あるとき私が西園寺公爵と雑談しているとき、公爵は次のような話をされた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「自分が明治十(1876)年前後パリに滞在中、原氏も来たって同地に在留していたが、そのころ原氏も青年時代で、頭髪は無論、真っ黒であったが、ただ頭の真ん中に、一筋細く白髪が通っていたので非常に早白髪だと思っていた。ところがこのころ、パリの劇場にて興行中の演劇に、ある貴族家の相続争いを仕組んだものがあって、その家の財産を相続する実子が早くより所在をくらましていたので、実父が逝去したとき、その正統なりと名乗って出ても、なんびともこれを承認しなかったが、この家の血統には、青年時代より頭の真ん中に白髪の一筋があったのに、今度実子と名乗って出た若者は、正しくこの特徴を備えていたので、とうとう相続者と認定せらるることに至るという筋合いであったから、自分は原氏に向かって、君もフランス人なれば、かの家の相続人になられるであろうにと、からかったところが、原氏は迷惑そうに苦笑していたから、自分はとんだことを口走ったなと思って、匆々(注・そうそう=早々に)その話を打ち切ったことがある云々」ということであった。つまりそうすると、原氏は青年時代から、後年白髪になる特徴を備えていたということだろう。
 私は、あるとき、白髪という和歌の兼題(注・あらかじめ出された題)で、

   黒髪にまじる白髪の一すぢは 老に入るべきさかひなりけり

と詠んだことがあったが、何やら先ほどの談話に符号するように思われたので、われながら不思議に思ったものだった。
 原氏は、頭は白髪であったが、身長が高く、顔の血色がよく、面貌の道具がよく揃っており(注・顔立ちが整っており)、盛岡出身ということで奥州弁ながら言語明晰で、いかにもきびきびとした政治家であった。
 私はいつからだったか記憶していないものの、新聞記者だったころからの馴染みで、その後仕事の方面が違ってしまったため、あまりひんぱんに会談する機会もなかったが、大正七(1918)年一月に、原氏が夫人同伴で腰越(注・鎌倉)の別荘に避寒中に偶然にも雑談する機会を得た。
 ちょうどそのころ、佐竹侯爵家の入札会に出た、信実筆三十六歌仙巻(注・伝藤原信実筆の、いわゆる佐竹本三十六歌仙絵巻)を切断する問題があったので、そのことから国宝保存のことに話が及び、私はかねてからの持論として、わが国に国宝を今日のように神社仏閣の保管に任せて心なき者に取り扱わせておくと、今後五十年しないうちに、その真価の半分が失われることになるであろう、だから、今日もしも真の経世家(注・政治、経済、社会の指導者、政治家)がいるならば、日本に国立美術館を作り、継続事業として年々国家から若干の金を支出し、全国の神社仏閣の所蔵する信仰に関わるもの以外の国宝を、その美術館が買い取り、完全に保護するという方法を講じなくてはならないのではないか、と述べた。
  すると原氏も非常に同感で、さきごろ山陰道に赴いたとき、かの応挙寺(注・兵庫県の大乗寺)を一覧したとき、寺内のふすま絵はすべて応挙とその門下の筆になり、すでに国宝になっているものなのに、住持(注・住職)が心ない人らしく、ねずみが襖に穴をあけてその穴から出入りしているのに一向頓着していない様子なのは、国宝保存上のはなはだしい欠陥だと感じた、と言われたところを見れば、原氏もこの点については、なかなか話せる人物だと思ったのであった。
 なお、そのときの雑談の中には、次のような話もあった。
 「自分は一向無風流で、何事にも趣味がないから、暇さえあれば読書をするのが関の山である。
 かつて国技館の角力見物に招かれて、よんどころなく出かけたとき、事務員が出迎えて、さまざまに説明してくれたが、ただ負けるか勝つかを繰り返すのみで、自分には更に(注・いっこうに)面白みを感じなかった。
 また芝居に招かれたこともあるが、これは筋書きが変化していくだけ、角力よりははるかに面白いとは思ったが、しかし自身でわざわざ見物するほどの嗜好はない。
 義太夫は、大阪滞在の節、宴席の余興としてしばしば聴かされたことがあるので、例の文楽へは行かなかったが、語り手が上手なれば、それほど迷惑せぬという程度である。
 茶の湯はもちろん承知せぬばかりでなく、狭苦しき茶室に出入りすることは、自分にとっては大禁物である。しかし茶の喫(注・の)み方だけは稽古しておきたいと思ったのは、ほかでもない、田舎地方に遊説に出かけて、諸方(注・しょほう=あちこち)の家に招かれたとき、なんらの予告もなく、その娘さんたちが正装して、目八分に茶碗を捧げて持ち出さるることがあるが、まさかに無下に突き返すこともできず、このときばかりは、平常茶の喫み方を心得て居ればよかったと思うことが度々ある。
 往時、太閤時代には、不作法なる武人までが茶室入りをしたということであるが、これは彼らが京大阪に上って、人と交際をなすに当たり、なるべくお里が知れないように、おおいに苦心する結果であろう。今日の成金連が、金を儲けるとすぐに衣食の贅沢を覚え、それより立派な家屋を造り、書画や骨董が欲しくなるまではまだよいが、その上さらに、爵位が欲しくなるというのが成り上がり者の通過する径路で、この点に至っては古今一徹といってもよかろうと思う云々」
 以上の原氏の雑談を聞けば、彼が爵位を有することを好まず、一生、平民宰相でおわったのは、みずから確乎たる信念があったからということがわかる。彼が、わが国の政治の世界で異彩を放っていたのは、ただ、その白頭だけではなかったのである。


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二百五十  山県元帥の対支観(下巻371頁)

 清国(原文「支那」)が中華民国となってから、自国の統一や改善を二の次にして、ひたすらに対外的な威信を高めようとすることに熱中するあまり、しゃにむに排外思想を激発して、相手が下手に出れば出るほど、つけあがって和協の道をふさぎ、伝統的な、「夷をもって夷を制する(注・敵を利用して他の敵を制し自分は戦わずに利益を得る)」の策略をめぐらし、諸外国に種々の利権口実を与え、のちのちに取り返しのつかぬようなはめに陥りつつあることは、まことに気の毒な次第である。
 このことは、ただシナ(原文「支那」)一国の不利であるばかりでなく、対岸に位置して、もっとも頻繁な交渉のある日本のためにも、はなはだ迷惑千万な事態であるといえる。
 山県元帥は、ひごろからこの点を気にかけ、日支関係を改善したいと願い、シナの政治家、孫逸仙(注・そんいっせん。孫文)、梁士詒(注・りょうしい)、唐紹儀らの来日(原文「渡日」)に際し、親しく面陳(注・面前で陳述)された。そのたびに、私は公爵からその談話の概略を聴聞する光栄を得たが、今日から振り返ってみると、先見というのだろうか、達識というのだろうか、とにかく、私たちが今日シナに対して言いたいと思うところを直言されているのである。
 わが国の経世家の対支観は今でも当時とほとんど違いがない。そこで私は、大正六(1917)年十二月十七日に五番町の新椿山荘において公爵から聴取した、シナの政治家、梁士詒との会談の要旨をここに掲げることにする。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「自分は今日、梁士詒と会見したが、彼は袁世凱の幕僚として、もっとも有力な人だったということだから、最初より率直に所懐を陳述すべく前提して談話を進め、貴国が南北朝和せずして、比年(注・年々)紛々擾々(注・ふんぷんじょうじょう=ごたごたしていること)の間にあるのは、まことに痛嘆の至りであるが、その南北の主張なるものを聞くに、一国の利害よりも、むしろ各自の手前勝手が多いようである。
 顧みて世界の大勢を見れば、今や支那はかかる内争に没頭するときではない。少しも早く挙国一致して、第一に強固(原文「鞏固」)なる政府を作り、第二に財政を確立して国防を充実しなくてはならぬ。聞くがごとくんば(注・聞くところによると)、貴下は北京政治家中にて、もっとも声望実力ある人なりといえば、同志を糾合して、紛擾を一掃し、一死もって国家百年の大計を樹立しなくてはなるまいとて、ことにその一死というところに力をこめて、通訳にこれを繰り返させたが、梁はこの談話中に、二度までも、お説ごもっともなり、と明言した。
 それより自分は一歩進め、数年前、孫逸仙(注・孫文)が自分と会談したとき、日本は近年武力をもって発展したる国なりと言われたから、自分はこれを聞きとがめ、ただいま貴下は、日本が武力をもって発展したる国なりと言われたが、かくては日本がアジア中に侵略主義を実行する国なるがごとくに聞こえて、はなはだ穏やかならぬと思う。そもそも貴下は、日露戦争をなんと見らるるや、露国は極東に向かって、侵略の矛先を向け、すでに満州を圧して北京に迫り、明らかに支那併呑の下地をなしたのではないか、このときにあたり、もし日本が手をむなしうして(注・何もせず)傍観したならば、支那は露国の配下となり、日本は露国と接壤(注・境界を接する)せざるを得ぬのである。

 今やアジア州において、もっとも重要なる位地に立つ者は、日本と支那の二国なるに、今、支那が滅亡するにおいては、日本ひとり安閑たるを得ぬ、すなわち日本が一国の興廃を賭して、やむをえず剣を抜いて立ったゆえんで、その危険困難は、実に名状すべからざるほどであったが、一国千年の安危にはかえられず、万やむを得ずしてこの挙に出でたのである。
 しかして、幸いにも露国の矛先をくじき、日本とともに貴国も、かの爪牙をまぬがれた次第で、その成績よりみれば、あるいは日本が武力をもって発展したりと言わるるかも知らぬが、日本がこの決心をなしたのは、領土を広げんがためなどの野心にあらず、真に自国の安危、東洋の安危を双肩に担うて、万々やむを得ずして立ったのである。
 全体、アジア人はアジアに棲まざるべからずというのが、自分の主義だが、このアジア州において、もっとも重要なる位地にある日本と支那とのうち、いずれか一国が滅亡するにおいては、他の一国もまた独立しあたわざるは火を見るよりも明らかである。
 すなわち、自分が支那に対して、平常、親善云々を大声疾呼するのは、まったくこれがためにほかならぬのである。これは、先年自分が孫逸仙に語ったところであるが、その趣意は十年一日のごとく、かつて変わるところなく、自分の対支政策は、この主義より割り出して、親善を眼目とするものなれば、貴下もこの意を諒して、両国提携もって極東の危急を救うべく、尽力せられたい、と述べたところが、梁もしきりに感謝の意を表していたから、支那の要人連に、充分この意見を徹底するに至らば、まことにしあわせなことだと思って居る云々」
 以上、山県元帥の対支観は、今日といえども、否、百年千年ののちであっても、まさに適切不動のものであろうと思うが、シナの政治家が、いったいいつになったらこのことをよく理解するのか。それを理解したときには、すでに手遅れだったということがなければ、まことに幸い(原文「僥倖」)であると思うのである。


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