だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百三十一  名物男柴庵翁の易簀(下巻302頁)
  (注・えきさく。礼記で、曽子の死に際に季孫から賜った大夫用の簀[
すのこ]を身分不相応のものとして粗末なものに易[か]えたという故事から、学徳の高い人の死、死に際のこと)

 四十年の莫逆(注・ばくぎゃく。親しい友)であった朝吹柴庵英二翁は、大正七(1918)年一月三十一日、享年七十歳をもって築地木挽町の自邸で、そのもっとも波瀾多き生涯を終えられた。
 翁は豊前耶馬渓(注・現大分県)近く(原文「畔」)の、一民家の子として生まれた。つとに福澤先生の知るところとなり慶応義塾に学んだ。その後、三菱会社にはいり、社長の岩崎弥太郎氏に外交的才幹を認められた。
 だんだんに実業界で出世するうちに、時の大蔵卿であった大隈侯爵らの愛顧を得て横浜に貿易商会をおこし、ここにはじめて本邦人による生糸の直輸出の端緒を開いた。これはいわゆる商権回復の運動であったが、翁はその仕事に邁進したものの、時勢がいまだこれをゆるさず、逆境相次ぎ失敗相重なった。このことで翁は、貿易商会が政府から借用した数十万円の負債を一身に引き受けることになり、当時、日本第一の借金王になってしまったのである。
 それから十数年間、七倒八起の境遇に立ちながら翁が奮闘した武者ぶりは、その円転滑脱の才思(注・才知のすぐれた考え)とあいまって、奇談、逸事を少なからず世にのこした。
 こうして明治二十五(1992)年に、翁は鐘淵紡績会社の専務となるや、拮据経営(注・仕事に励むこと)し、ついに、その衰運を挽回し、今日の同社の隆盛を基礎を築き上げたのである。
 その幕下(注・ばっか。配下)から、和田豊治、武藤山治のふたりを輩出したことは、人のよく知るところである。
 その後、三井の工業部にはいり、ついで同家本部に転勤するころには、義兄の中上川彦次郎をシテとし、おのれはそのワキ役となって、当時の三井の両雄であった中上川、益田(注・孝)
の両者間を円滑にする油となり、いわゆる世話女房としての立場で、物事がはかばかしくないとき(原文「冥々の際」)に、その天賦の調和的技能を発揮したことは枚挙にいとまない。

 その人となりは、聡慧豁達(注・そうけいかったつ。聡明でかつ度量がある)のうちに慎み深さと慎重さを兼ねていた。数字にも強く、記憶力がよく、座談にもきわめてすぐれ、言貌(注・げんぼう。言葉と容貌)に無限の愛嬌をたたえており、円転滑脱、陳を化して新と成し(注・古くなったものを新しいものに変え)、人を笑わせる(注・原文「人の頤(おとがい)を解く」)のがうまかった。
 私は、趣味においても、性格においても、業務においても、翁と非常に近いところにいたことから、社交家として、遊冶郎(注・ゆうやろう。道楽者)としての、そして美術鑑賞家としての翁についてはよく知り、これまでもいろいろな項で記述してきたとおりである。今回は、これまで触れることがなかった翁の文才について、すこし書いてみようと思う。
 翁は、その性格から言っても、狂歌がいちばん得意だった。大正初年、私が山谷の八百善で、道具一品持ち寄りの会を催したことがあったが、そのとき翁に送った案内の返事には、次のように書かれていた。
 「高橋義雄氏より、七月九日に、何か見るべきもの、一品持ちて、山谷の八百善に来れ(注・きたれ)との案内を受けたる時の答に

   九日に八百ぜんと云ふ五あんない一品二三六で七四十も
   (注・後半「一品持参でなしとも」)

 また、名取氏に嫁した令嬢の福子に、長孫(注・本来は、長男の長男のこと)が誕生したとき、
   
   
百までもいきてゐよとは願やせぬ 爺と婆とが死んでから死ね
 

と口ずさまれた。この歌は、あとになって悪戯をしでかし、愛孫は、九歳のときに夭折したので、あんな歌を詠むからだと家内より叱られましたと、翁は当惑した顔で告白されたこともあった。
 さて、晩年にいたり、井上通泰氏について、国風(注・漢詩に対し和歌のこと)を習い始め、そのなかには一風変わった詠みぶりの、いかにも翁の和歌らしいものもあった。
 あるときは、常磐会に出詠して、満点の光栄をになわれたこともあった。その歌は、海辺の夏月という題で、

    風もなく波も音せぬ海原に 曇れる月のあつき夜半かな

というものだった。
 さて、私と翁との交誼(注・親しい交流)は、現世だけでなく、冥土においても相変わらず続くだろうと思っている理由がある。
 大正六(1917)年、私は、翁と、馬越化生(注・恭平)、根津青山(注・嘉一郎)の両老とともに、霊宝館の地鎮祭に参列するため高野山に登山したのであるが、翁はこのときに思い立つところあって、奥の院玉川の橋を渡って、まさにそこから石階段を上ろうとする左側に、朝吹家累代の墓という一基の墓石を建立された。私は、翁といっしょにこれを検分し、私もご近所に墓地を定めて、死後ともにこの山中に来て、時々大声で談笑して、おおいに奥の院を賑わせようと顔を見合わせて哄笑したことがあったので、翁の易簀(注・えきさく。死)の翌年に、私は翁との生前の約束を実行して、翁の墓石に相対する奥の院石階段右側の二本の大杉の木の下に法華寺型の石灯篭を一基立て、その棹の正面に、高野山管長土宜法龍大僧正筆で、箒庵居士塚石燈と刻して、これを墓石に代えたのである。
 その後、私は奥の院に赴き、翁の碑前にぬかずいて次のような腰折(注・自作を謙遜した呼び方)一首を手向けた。

    まてしばし我れも来りてもろともに 高野の奥の月に語らむ

 人の世は無常迅速である。私も早晩、翁の霊とともに高野山の奥の院で談笑を交える時節が到来することだろう。
 


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二百三十二   郭公落し文(下巻305頁)

 かつて高野山金剛峰寺の記室(注・記録係)を勤め、霊宝館の落成後にその館長となった井村米太郎氏には、以前から文学のたしなみがあり、真琴と号していた。和歌はほとんど作家の域に達しており、勅題の遠山雲に入選したほどの力量がある。
 高野山に、「郭公(注・文脈から、カッコウではなくホトトギス)の落とし文(注・どのようなものであるかは後述)」というものがあるのを、よい歌題であると思いたち、全国の名のある歌人に促して、その吟詠を集めていたが、それが今や数百首にもなっているということである。
 それ以前のことであるが、井村氏が御歌所長の高崎正風男爵に落とし文を送り、その吟詠を求めたところ、男爵は女官の手を経て、その落とし文を明治天皇陛下の内覧に供したこともあるそうだ。
 大正七(1918)年七月末、その落とし文を手紙に封じて私にも送ってこられたが、落とし文とは、昆虫が栗の葉が丸く巻いた内側に自分の巣を作ったもので、葉を開くと粟粒のような小さな卵があり、その形が結び文のように見えるのでこの名前で呼ばれているのである。別に郭公と関係があるわけではないが、郭公が鳴き始めるころ高野山阿弥陀ヶ岳のあたりで、栗の古木から、この落とし文がはらはらと散り落ちるのでこのように名づけたのだそうだ。
 井村氏は、毎年、六、七月ごろになると、この落とし文を書簡に同封して、自詠作品といっしょに私に寄贈するのを恒例にされるようになったが、大正八(1919)年の六月中旬には、例によって手紙を送ってこられた。「落とし文少々御覧に入れ候、若し御高吟を賜ふ事を得ば、何の幸ひか之に過ぎん、昨年御作の歌詞、定めて作曲出来上り候事と存候、雲山路隔たり、之を拝聴する事を得ざるは、遺憾限りなく候」と書かれたあと、その末尾には、次の二首が添えられていた。

   郭公たれに見よとて木の下に おきて行きけむ露の玉草
 
   ほととぎす啼きあかしてもなほつきぬ 思ひをこめし文や此ふみ

 私は、井村氏の郭公落とし文歌集編纂のことをきき、郭公のためになるべく多くの名家の吟詠を寄せ集めてやりたいと思い、その数日後、麹町五番町の新椿山荘に山県老公を訪問したときに、この落とし文を数片持参し御覧にいれた。そして、郭公のために玉詠一篇を恵まれたし、と希望した。
 すると公爵がその後、次のような一首をみごとに揮毫してくださったので、私は表装をして金剛峯寺に贈り、これを霊宝館の什物に加えてもらうことにした。
 その一首とは、次のようなものである。

     高野山より、郭公の落し文を送られけるとて、箒庵主人のおこせければ

                            新椿山荘老主
   落し文ありと知らする玉章を ひらく夕に啼くほととぎす

 山県公爵から、このような落とし文の玉吟一首を賜ったことで、私も高野山に対して大いに面目を施したので、公爵に送った感謝状の末尾に次の一首を書きつけた。

    高野山の知人より、書簡に巻込めておこせける郭公の落し文と云ふを、新椿山荘主公の尊覧に供へしに、頓て(注・やがて)歌詠みて賜はりければ
   落し文君に知られていかばかり うれしなきせむ山ほととぎす

 さて、先ほどふれた井村氏から私への書簡中に、昨年御作の御歌詞うんぬんとあったのは、私がこの落とし文に対して、例によって一歌詞を作り、東明流家元の平岡吟舟翁を煩わして節をつけてもらったと書き送ったので、井村氏がその曲を耳にしてみたいものだと希望された次第である。
 その歌詞というのは、次のようなものだった。

    郭公落し文
 高野山法のともしび、千代かけて、さやかに照す奥の院、名に流れたる玉川や、三鈷の松を吹く風も、ことさら夏は涼しきに、かたわれ月の影すごき、木の間がくれのほととぎす、声のうちより落しゆく、そのふみのなぞ解くよしもがな たのまれし、雁の使ひのそれならで、おもひのたけをしのびねに、洩しかねつつ郭公、その恋文を、エエ誰に見しよと心中立 いろはにほへと、ちりぬるを、わか世の常か、つねならぬ、その色ふかき言の葉を、封じこめたるおとし文、ソツと拾ひし主やたれ 五月まつ、花たちばなの香に匂ふ、軒端の雨のしめやかに、ふるきひじりのみいさをを、しのぶ枕の山こえて、夢みじか夜の中空に、一声名乗れ山ほととぎす


 井村氏は、昭和の初年に病没したので、生前にもっとも親交のあった現大覚寺門跡の藤村密幢師が、その追善供養のために、例の落とし文歌集を出版したいということで大いに尽力したようだが、相当な大部になる見込みなので今日までまだ刊行の運びにいたっていないのは、まことに遺憾の至りである。
 井村氏は高野山霊宝館の最初の館長であるから、同館において、そのうちこれを刊行し、井村氏のために落とし文の光彩を広く天下に示されんことを私は切に希望するものである。


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二百三十三  舞踏劇馬郎婦(下巻309頁)

 大正五(1916)年、大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)翁は八十歳の高齢で男爵への陞叙(注・しょうじょ。位があがること)の光栄をになわれた。この祝賀記念のために、翁は赤坂葵町にある大倉集古館に維持金として五十万円出し、ここを公共に提供されるものにした。
 さらに同年の十一月には帝国劇場で大祝賀会を開き、余興に岡本綺堂の新作で三浦大助脚本の三幕物を上演することになった。
 その際、時間的な都合から約一時間ほどの女性的な狂言を組み合わせたいというので、私がかつて、たわむれに書き散らした舞踏劇である「馬郎婦(注・めろうふ)」を提供せよ、という懇望があった。このときには、鶴彦翁自身からの会見の申し込みがあったので、ある日会っていろいろ相談の末、帝劇専属の作者である右田寅彦の意見もきき上演することが決まったのである。
 この馬郎婦とは本来、三十三観音化身のひとつで、井上世外(注・馨)侯爵の蔵品のなかに李竜眠筆の同図がある。それは手に、ただ観音経を持っているだけだが、ほかに白馬が手綱をつかんでいるポーズのものもあるそうだ。ともかく、美貌をもって衆生済度の功徳を施したという伝説があるもので、あの魚籃観音などとほぼ同趣向のものである。
 私は舞台を紀州の那智山に取り、白妙、実は馬郎婦の役を中村歌右衛門に、そして、その相手方の若人、那智丸を松本幸四郎に当てはめて、その他それぞれの役割を定めた。その配役は次のとおりであった。

    舞踏劇馬郎婦 一幕
     那智山麓の場 滝道草庵の場 観世音霊験の場

 一、白妙        中村歌右衛門
 一、那智丸       松本幸四郎
 一、里の子太郎松    沢村源平
 一、里の子次郎松    尾上泰次郎
 一、巡礼源内      尾上菊四郎
 一、同おくる      松本幸之助 
 一、木樵与惣      沢村長十郎
 一、里の娘田鶴     沢村由次郎
 一、天女        森律子
 一、同         藤間房子
 一、同         初瀬浪子
 一、同         宇治龍子
 一、同         小原小春
 一、同         小林延子
 一、同         東日出子

  付言、此末段天女の舞は日本歌劇に節付致候

 唄春の花は、夕の風に誘はれ、秋の紅葉は、朝の霜にうつらふ  合唱翠帳紅閨(注・すいちょうこうけい。貴婦人の寝室)に枕ならべし妹と背も  〽いつの世にかは、隔つらん  〽凡そ人間の歓楽は  ただ一時の夢の夢。

  長唄連中
   長唄        芳村伊十郎
   三味線       猿若山左衛門
   長唄        杵屋六左衛門
   同         中村兵蔵
   同         中村六三郎 
   三味線       杵屋新右衛門
   同         杵屋五三郎
   同         杵屋六一郎
  常磐津連中
             常磐津松尾太夫
             同  志妻太夫
             同  弥生太夫
             同  鳴渡太夫
   三味線       同  文字兵衛
   上調子       同  文字助
   同         同  菊三郎
   管絃楽指揮者 楽長 永井健子
             外洋楽部員一同
          振付 藤間勘右衛門

 

 この祝賀演劇に私が参加したのは十一月二十七日だったが、山県含雪公も二階ボックスに来観されたので、私はこの劇の作意をくわしく老公に説明した。老公は、女優天女の舞の一節に、「春の花は夕の風に誘はれ、秋の紅葉は朝の霜にうつらふ云々」のところで、しきりにその文意を玩味し、「凡そ人間の歓楽は唯一時の夢の夢」とは言い得てまことによし、と嘆賞されたので、私も大いに面目を施した。
 この舞踏劇は、特に祝賀会の三日間に限って演出したもので、俳優がまだ練熟しないうちに終わってしまったので出来栄えはさほど上々でもなかったようだが、このころまでには、例の豊艶にして上品なる歌右衛門の相貌が観音の化身である白妙として申し分なく、幸四郎の若人、那智丸もまた非常に適役で、上流の観客にはかなりの高評を得たのではないかと思う。
 この劇の末段は、いわゆる歌劇になっていて、短い文句ではあったが俳優みずからがこれを歌ったので、これが日本における歌劇の最初だったとは言えないにしても、ほとんどそれに近いものであったのではないかと思っている。


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二百三十四   越路太夫芸談(上)(下巻314頁)

 大正六(1917)年二月二十三日大阪に滞在中だった私は、文楽座において越路太夫(注・竹本越路太夫)の太功記十段目と津太夫(注・竹本津太夫)のお駒才三が、近来めずらしい大入りだということをきいて、同地の磯野良吉、金沢仁兵衛の両氏と午後二時ごろから文楽座に赴いた。
 まず越路のを聴いたが、彼は近来、老熟の域に達したばかりでなく、のどの具合が非常によく、健実な語り口の中に巧妙なる変化を交え、相当にきれいな美音も出ており、「浄瑠璃にかけては、彼の師匠である摂津大掾よりも一段巧者なり」という評判さえあって、この日もまた申し分のない出来栄えだった。
 ところで、磯野、金沢両氏は越路太夫の贔屓客なので、同夕、彼と津太夫を南地富田屋に招き、夕食をともにしながら彼らの芸術談を聴聞することになった。
 聴く方の私たちが熱心なので、語る彼らも興に乗り、越路の雄弁は滔々として三時間にわたった。その話には、私たちを啓発する内容が少なくなかったので、そのなかで、私の耳にとどまっているいくつかを抜摘して、彼の芸風の一斑を、同好者に伝えることにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「私は摂津大掾(注・二代目竹本摂津大掾せっつだいじょう)の弟子で、初名を文字太夫と申しました。私の修業盛りは、今日とは時勢も違って居りまして、師匠が表に出る時は、その人力車を後押しするような始末で、今日の若い者などには、とても辛抱ができぬことであります。近来浄瑠璃を習いにくる弟子どもは、少しく浄瑠璃が分かってくると、すぐに三味線の方を習って、未熟ながらに弟子を取って、まず銭を儲ける算段をいたしますから、到底、本当の浄瑠璃語りにはなれぬのであります。そこで私は大阪の旦那衆に頼み、大阪名物のこの浄瑠璃を根絶させぬよう、学校のようなものをつくり、寄宿舎に弟子を集めて、ここを卒業した者は、むやみに弟子取りをなさず、何年間かの義務年限を定めて、文楽座に出勤せしむる方法を立ててやる、そのかわり、十年か十五年は、彼らを養成してやるということにしたらば、中には物になる太夫ができるだろうと思って、近頃、折角(注・なんとか)これを旦那衆に頼みこもうと思っております。
 私は三十まで、師匠の供をして、師匠が浄瑠璃を語るときには、必ず湯を汲んで出したものであります。この湯をくんで居る間に、師匠が一生懸命になって語るのを聞き覚えるのが、第一の修業であります。近頃の若い者は、この懸命の師匠の語り口を本気になって聞いていないので、本当の芸を覚えることができないのであります。
 私はただ名人の語り口を聞くばかりでなく、素人旦那方の芸をも、よろこんで聞いておりますが、その語りぶりには人さまざまな特長があって、素人の芸でも、その中に私共の到底真似のできぬものがあります。先般、津太夫が、熊谷陣屋を語ったとき、土居通夫の旦那が、津太夫の熊谷よりも、乃公(注・おれ)のほうがうまいと申されましたが、熊谷その人になって居るという方から申せば、土居の旦那の方が津太夫よりも、確かに優って居るのであります。
 浄瑠璃は他の芸と違い、人情を語り分くるものでありますから、物によっては、相当の年配になって、段々経験を積まなくては、その妙所に達し得ぬもので、五十と六十との間が、本当の浄瑠璃を語れる時代であります。
 さてその経験を積むには、何事にも注意して、思いやりの深いということが肝腎で、往来を歩くにも、うかうかと歩くものではありません。老人子供、人さまざまの風体に気をつけ、他日これを言動に表わすことを工夫しなければなりませぬ。
 私の弟子があるとき、朝顔日記(注・「生写(しょううつし)朝顔日記」)の、かの笑い薬を売るところを語るのに、どんなふうに語ったら宜かろうかと申しますから、私は御霊神社(注・ごりょうじんじゃ)に行って、夜店の物売る声をよく聞いてこいと申したことがあります。朝顔日記のは、かの秋葉より、浜松辺に出てくる薬売りでありますが、御霊辺の夜店で物を売って居るのと、よく似通ったところがありますので、かようなことを、平常注意しておけば、必ず芸道に利用することができるものであります。
 また、弟子の中には、声自慢で、声さえよければ、それで宜いと言う者がありますが、声を自慢するようでは、浄瑠璃を語り得るものではありませぬ。浄瑠璃道においては、「下手に語れ、上手に語るな」と申すことがありまして、ピカピカと声を光らすような者では、まだまだ修業が足らぬのであります。」
 


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二百三十五  越路太夫芸談(中)(下巻317頁)(上にもどる

 故越路太夫(注・竹本越路大夫)は浄瑠璃の巧者であったほかに、一流の大将株にもなれるような頭のよく働いた男だった。本領の芸術に対しても、ふだん自覚しているところが、ありふれた世間の芸人とはかなり趣を異にしていた。彼が滔々として話し去り、話し来たる芸談の中には、さらに次のような一節もあった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「私の師匠、摂津大掾(注・竹本せっつだいじょう)は、明治十年に没した、春太夫(注・竹本はるたゆう)と申す有名な太夫の弟子であります。春太夫も近代の名人で、その語り口には学ぶべきところが多々ありまし。摂津大掾は、御承知のごとく非常な美声でありまして、中将姫(注・近松作「当麻中将姫」)、新口村(注・にのくちむら。「冥途の飛脚」その改作「傾城恋飛脚」などの最終段)、先代萩(注・伽羅(めいぼく)先代萩。原文では「千代萩」)の三つを得意とし、これは到底、他人の追従を許しませぬが、その声のよいだけに、梅川や忠兵衛(注・冥途の飛脚の恋仲の二人)はよく語っても、孫右衛門(注・忠兵衛の父親)の方は晩年まで不得意でありました。
 ところが年寄って、例の美声が出なくなってから、はじめて孫右衛門が上手に語れるようになったので、とかく、老人物は老人が語るべきもので、真似事では妙所に入ることができなかろうと思われます。
 ゆえに、芸はただ、師匠をまねるのみでは、いわゆる底力がありませんから、人を感動せしむることができません。鍛錬に鍛錬を加えて、自然に腹の中から出てくる芸でなければ、奥ゆかしい光が出てこないのであります。
 つまり、師匠のよいところを習い覚え、それに自身の工夫を加えて、自身のものにして語る間に、だんだんと苔が生えたり、寂が付いたりして、師匠は師匠、自分は自分と、変わった浄瑠璃ができるのであります。
 私は来月、文楽(注・文楽座)で紙治(注・かみじ。紙屋治兵衛(かみやじへえ)の略。浄瑠璃「心中天の網島」の通称)を語ろうと思いますが、紙治は、御承知のとおり、近松門左衛門の作でありまして、その後、近松半二が書き直し、また、後になっていろいろ改作が加わり、例の炬燵の段などが出てきたのでありますが、私は今度、近松書き下ろしの紙治を語ってみようと思います。
 そこで義太夫は、人情を人に聞かせるものでありますから、文句のわかることが大切であります。いかに上手に語っても、文句がわからんでは、意味が通じませぬから、非常にその効果を減ずるものであります。私の方のことわざに、「語れ語るな心素直に」と申してありますが、文句が十分にわかって、無理のないように語るには、心素直に語ることがもっとも必要でありまして、義太夫を語るときには、心にわだかまりのないことが必要であります。
 ところで、私などは、少しく自分勝手であるかもしれませぬが、浄瑠璃を語る前に、何か気に障るようなことでも起こると、必ず思うように語れませぬから、家内などにも、申し聞け、浄瑠璃語りの女房は、亭主の機嫌を取るのが必要で、演芸の前には、別して(注・特に)亭主の機嫌のよいようにするのが、その義務である、と申しておりますが、むしゃくしゃした時には、決して素直に語れるものではありませぬ。
 例えば、先刻お聞きに達しました太功記十段目でも、はじめの「一間に入りにけり」と申す一句の出がうまくまいりませぬと、全曲を通じて工合が悪く、到底途中でこれを取り返すことはできないのであります。
 私は昨今、別して、のどの工合がよくなりまして、滅多に声を痛めることがないようになりましたが、義太夫語りは、のどが身上で、声が悪くては、どうにもこうにもなりませぬ。そこで、私が近頃のどの工合がよくなったのは、演芸中に湯を呑むことをやめたのが、ひとつの原因だろうと思います。私も近頃まで、一段の浄瑠璃を語るのに、十回くらい湯を呑んだのであります。

 もっとも、この湯を呑むと申しますのは、がぶがぶと呑むのではなく、ただ唇を湿すがために呑むのでありますが、私は、あるとき、素人の方が、なにげなく語って居らるる話を聞いて、大いに感ずるところがあって、湯を呑むことをやめたのであります。
 その話と申すのは、先々代の片岡仁左衛門だと思いますが、大阪にまだ蔵屋敷のあったころ、伊勢音頭の貢十人斬り(注・「伊勢音頭恋寝刃(いせおんどこいのねたば)三段目で主人公の福岡貢が十人の人を斬る)を演じました、五人目まで斬るのを、蔵屋敷の御贔屓の旦那が桟敷で見て居って、いちいち、よく斬れたと申して、手を叩いておられましたが、六番目の、衝立の陰に隠れておって、そこへ出て参った女中を斬ったときに、それでは斬れぬと申して、不興の体で引き取られたと聞いて、仁左衛門は、すぐにその旦那の宅に参って、今日御見物の六番目中の人が斬れなかったと仰せられたそうでありますが、私も少し考える(ところ)がありますから、明日是非とも御見直しを願いたいと頼んでおいて、翌日よりさらに工夫を凝らしたそうでありますが、その旦那は、翌日も、翌々日も参らず、二、三日隔てて、しかも人の目に立たぬところに参って見ておられましたが、十人斬りが、十人までことごとくよく斬れたと申して、満足して帰られたということであります。」(注・次回につづく)
 


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二百三十六   越路太夫芸談(下)(下巻320頁)(上へもどる中へもどる

 越路太夫が浄瑠璃一段を語る間に、従来、十回くらい湯を呑んでいたのを全廃して、万一の用心のために湯飲みだけは備えておくが大曲を一段語るのにほとんど一滴も湯を呑まなかったことは、彼の晩年の浄瑠璃を聞いた人々はみな知っていることだが、彼がその演芸中に湯を呑まないことにした動機について、さらに語ったことは次のようなものであった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いに改めた)

「片岡仁左衛門は伊勢音頭の貢を演じ、五人目までは人がよく斬れたが、六人目に至りて、うまく斬れなかったと評されたので、おおいに工夫を凝らしたそうでありますが、彼が六人目で斬り損ないを致したのは、五人まで斬って息が続かぬところより、衝立の陰にかくれて出てくる人を待つようなふりをして、内々湯を取り寄せて、一口飲んで再び立ち上がって六人目を斬ったのであるが、その湯を呑んでいる間に張り切った気が抜け去って本当の気合が掛からなかったがため、その失態を演じたのだということであります。
 ところで私はこの話をきいて、おおいに感ずるところがありましたので、一段の浄瑠璃を語るのに、たとえ声がかすれようが、のどが疲れようが、湯を呑まずに語れぬことはない、途中で湯を呑んでいると自然に気合が抜けるであろうと考えまして、最初舞台へ出る前に充分に用意しておいて、あとは一切湯を呑まずに語り出したところが、慣れて参る間に、これがかえって語りよく、のどぐあいも非常によくなってまいりましたのは、実に不思議のようであります。
 昨年東京に参ったときにも、私は湯を呑まなかったので、あるお客さんが、越路は一段の間に湯を呑まぬ、いや、そんなはずはないと申して、賭けをなされたそうでありますが、私が湯を呑まなかったので、とうとう、一方のお客さんが、百円の損失をこうむったとて、その後私に対しておおいに小言を言われたことがありました。
 大阪の名物、文楽座は、私共の芸術道場でありますから、損益問題を別にして、真の稽古場として、是非ともこれを保存したいと思います。この道場がなくては、弟子を養成することもできず、またここで、ふだん声を出しておりませぬと、東京などへ参って広い場所で語りこなすことができませぬ。
 東京で一番語りよいのは、新富座であります。これは、一番古い舞台でありますので、語り宜くできております。次が歌舞伎座焼失前で、一番語り苦いのは帝国劇場であります。
 帝国劇場は、声が正面に打突かるところがないためか、三階のほうへ抜けてしまって、高いところで聞く方が、かえってよく聴き取れるそうでありますが、語る者のためには、まことに工合が悪いようであります。
 文楽(注・文楽座)は、専門の舞台としては甚だ工合が悪くできておりますが、私共の座って居る演台の下には甕二つを埋めてありますので、どうやら語っていくことができるのであります。
 兎角、芸道は、下へ下へと下がっていくような心地がいたしまして、私共のほうも、前申すごとくでありますが、人形使いのほうもまた、旧のごとくには参りませぬ。
 先代の玉造(注・吉田玉造)などは、八十まで人形を使っておりましたが、これは大人形を片手に持って、高い下駄をはいて、しかも、今日のごとく人形の足を下に下げずに、自分の頭が隠れるようにできていたので、これを補助する二人の者が、常に引き上げらるるようになっておりましたが、これは多年の熟練で、十分腰に力がなくては、なかなか支え切れるものではありませぬ。
 現今では、黒頭巾をかぶらずに人形を使う者もありますが、これは見物の方から見て、人形の顔と重なり合い、まことに見苦しいものでありますので、私は次回、紙治を演ずる時には、是非とも黒頭巾をかぶせて、使わせようと思っております。
 人形使いもなかなか難儀な役でありまして、これもよほど保護しなければ、あとが絶えてしまいますから、大阪名物として、大阪紳士の力をもって、文楽だけは、是非とも保存していただきたいと希望しております。」

 越路は、体格が頑丈な作りで、いつも活気あふれるような、野太い声で、滔々とよく談じるところから、一見して重鎮のひとりとしてふさわしい人物であると納得できるのであるが、その特徴は、のどが非常に太いということである。このような太筒の持ち主なので、上演の長い時間にわたって、あのような音声を継続することができるにちがいないと思われた。
 さて、彼には隠し芸がある。それは、彼一流の舞踏で、相手さえいれば、徹夜も厭わないというほどの熱心さなので、かなりまいらされた人たちもあったようである。しかし、彼にしてみれば、本業の芸にとって、なんらか資するところがあったに違いない。
 とにかく、近代の名人であることに間違いはなく、私は、彼がこの世界の最後を飾ることになる一人とならなければよいのだがと、心中はなはだ懸念をしている次第なのである。


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二百三十七  独逸狩猟談(下巻324頁)

 大正八(1919)年一月末のことであった。私はある晩、井上勝之助侯爵(注・井上馨の甥で養嗣子)に招かれて築地の瓢家に出かけたが、その席には、高田釜吉、岩原謙三、有賀長文、野崎広太諸氏の顔が並んでいたので雑談は八方に飛び広がり、興味はいやがうえにも沸き立った。
 なかでも高田釜吉君のドイツ留学中の狩猟談は興味津々たるものがあり、非常に参考になるべきところがあるので、その大要を紹介しておこう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

「私は本来、狩猟が好きなので、ドイツ留学中、ひととおり、かの国の形式を研究せんと思い、あるとき同国において名高い狩猟先生方に入門しましたが、不思議なことには、日本において囲碁の階級に、九段を名人といい、八段を上手というがごとく、ドイツにおいてもやはり、狩猟の名人を九段と呼んで居るのである。
 ところでこの先生は、いわゆる名人の称あるにそむかず、狩猟上においては、ただその目的物を撃ち取るのみをもって能事とせず、それぞれの場合に応ずる心の働きを主として、優等合格の弟子には、卒業の際、三段の免状を与うるのであります。
 私が卒業の際は、同級生が七人ありましたが、私は幸いにして、その第二番目で卒業することを得ました。しかしてその卒業試験というのが、いわゆる心の働きを主とするもので、第一番の生徒に対する試験は、小鳥が七羽飛んできたのを打ち取るべしと命じたのでありますが、さすがに第一番の位置を占めるほどなれば、二連発にて、まず最初の一羽を打ち、第二弾にてその次の一羽を打ち落としたところが、先生は非常に不機嫌で、そもそもこの小鳥は、スウェーデン(原文「瑞典」)、ノルウェー(原文「諾威」)などより独逸に飛び来たった渡り鳥である。されば、ドイツ国よりいえば、かかる外国の渡り鳥は、一羽も残さず、ドイツの国内で打ち取らなくてはならぬ。すなわち、この鳥の飛び来たった時、まずやりすごして、いずれかに落ちたところを待ち受け、時宜を見計らって打ち取らば、七羽中の四、五羽くらいは手に入るべきはずなるに、一時に二羽を打ち取って、残る五羽をドイツ国外に取りのがしたのは、狩猟者として、はなはだ無念の至りである、とて、三段の免許を与えず、それを二段に落としたのである。

 さてその次は私の順番で、ある池の中に三羽の鴨が下りて居るのを打ち取れということであったが、私は前例に懲りて居るから、なんでも三羽を残らず打ち取らなくてはならぬと思い、さまざまに工夫して、稍(注・やや=しばらく)一時間ほど小蔭に隠れて待って居ると、折よくも、二羽の鴨が一列に打ち重なったので、たちまち一発にしてこれを撃ち取り、他の一羽が驚いて飛び上がったところを、さらに撃ち取って、三羽ともにしとめたので、まず良かったと思って先生の前に出ると、先生が言わるるには、鴨は大型の鳥であり、ことに、池水に浮かみ居るところなれば、これを撃ち取るのは無造作であるが、一時間余りも辛抱して、時期の来るのを待っていたその耐忍に対して、三段の免許を与うべしとて、図らずも優等卒業の光栄を得た。
 右様の次第で、かの国の狩猟試験が、日本の剣道物語に伝わって居るがごとく、心の働きに重きを置くという一事は、東西相対して、まことに興味ある行方だろうと思います。
 またあるとき、今晩の主人である井上(注・勝之助)侯が、ドイツ皇帝(注・ヴィルヘルム2世か)から、かの禁猟地においてアワーハンスといえる名鳥(注・詳細不明)を狩猟する許可を得たことがある。このとき私は井上侯の随行員として禁猟地に赴きたるに、狩猟長官は私等にむかい、『そもそも、このアワーハンスは、ドイツ領内に五、六十羽のほか棲息せざる鳥なれば、皇帝のほか、これを狩猟することを得ないのである。しかして、その形は、七面鳥のごとく、肩に青き毛を被り(注・肩が青い毛でおおわれ)、尾は孔雀のごとく団扇形に開くもので、かなり大型の鳥ではあるが、その挙動がきわめて鋭敏で、大木の間を飛び回り、容易に人を近づけぬが、ただ、かの交尾期にあたっては、小高きところにとまって、チッチッと鳴いて居る、このときばかりは、かの耳に外物が聞こえぬものとみえ、彼に接近してこれを撃ち取ることができるのである』と説明した。
 ここにおいて私は、是非ともこれを撃ち取りくれんと決心し、井上侯と離れて諸処を徘徊する間に、折よくも、アワーハンスを認めて、一発にてこれをしとむることを得た。 ところがその翌日のベルリン(原文「伯林」)新聞紙は、皇帝陛下がかつて他国人に許したことのない狩猟を日本の大使に許されたとて大々的に特筆されたが、このアワーハンスは、はく製として日本に持ち帰り養父高田慎蔵の湯島邸に保存してありますから、そのうち一度ご覧になるが宜しかろう云々。」

 高田氏は前記のとおり、ドイツ仕込みの狩猟家なので、以前、伊豆地方で一日に二十八頭の鹿を打ちとめたことがあるそうだが、鹿は百間(注・約180メートル)以内には人を寄せつけず、また、胸先の三寸四方(注・一寸は約3センチ)くらいの、ある場所に命中しなければ、手負いのままに遠くまで逃げてしまう恐れがあるので必ず急所を打たなくてはならない。
 かくして、二十八頭の鹿を並べて猟師たちに見せたところ、その鉄砲がことごとく急所に当たっていたので、彼らも舌を巻いて感服したということである。


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二百三十八  虎肉試食会(下巻328頁)

 大正中期に、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余波で雨後のたけのこのように続出した成金連中には、「槿花一日の栄(注・きんかいちじつのえい。栄華がはかないこと」)というように一盛一衰が激しく、得意の頂点から失意のどん底に落ち込んだ者も少なくない。「貨悖(注・もと)って入る者は、また悖って出ず(注・道にはずれて手に入れた財貨は、また道にそむいて出ていくものだ。「大学」より)の諺にたがわず、栄枯があまりにも急激であり、ほとんど滑稽というしかない者もなくはなかったのである。
 中でも、一時は「虎大尽」の異名を取って有名になった船成金の山本唯三郎氏などは、そのもっともよい見本というべきだろう。
 山本氏は、風雲の会(注・龍が風と雲を得て天に昇るように英雄が願望をかなえる好機)に乗じて成金大尽の急先鋒となるや、征虎隊を組織して朝鮮に押し渡り、咸鏡道(注・かんきょうどう)その他の地方において、さかんに虎狩りを催した。
 また、その獲物をはく製にして持ち帰っただけでなく、世にも珍しい虎肉試食会なるものを帝国ホテルで開き、朝野知名の紳士を招待したのである。
 当夜の来会者は、約二百人で、田逓相(注・田健治郎逓信大臣)、仲小路農相(注・仲小路廉なかしょうじれん農務大臣、原文「中小路」)、清浦、末松両枢密顧問官、神尾大将(注・神尾光臣陸軍大将)、その他の実業家、新聞記者などであった。
 待合室から食堂に通じる廊下を竹やぶにして、岩石の間から猛虎が踊り出さんという演出にし、獲物である猛獣のはく製を陳列してあった。それは、全羅道の水虎、咸鏡道の岳羊、弥巴里【やはり】の注・のろ)、永起の豹、金剛山の熊などであったが、食堂の正面に余興の舞台を造り、その両側に、片側には利原の虎、もう片側にはタンシンの虎と北青の豺(注・ぬくでを飾られた。
 そのぬくでなるものは、大きさも形も狐に類し、眼光は金のようにピカピカで、口は耳まで裂けて、犀利な(注・鋭い)相貌で、性質もまたとても獰猛だということだ。
 当夜の晩餐の献立は、次のとおり。

  咸南虎冷肉ニコミ、トマトケチヤツプ、マリ子(注・マリネ)
  永興鷹スープ
  釜山鯛洋酒むし 注汁
  北青岳羊油煎 野菜添
  高原猪肉ロース、クランベリーソース、サラダ
  アイスクリーム 小菓子
  果物 コーヒー

 虎肉は、今夕の目玉の御馳走だったが、その肉は固くぼろぼろとして、日にちが経っていたためか、または本来の特性のためか臭気がきつく、もちろん賞美できるものではなく、ただ珍しいから試しに一口というだけだった。
 こうして食事が終わると、山本隊長が猛虎のごとき大声で挨拶された。そのなかに、「昔は虎穴に入らずんば虎児を得ず、ということでありますが、今度私等が組織した征虎隊は、山中を狩り歩いたばかりで、しかも幾頭の虎親を獲たので、まことに幸運でありました。なお、この虎狩中にひとつの処世訓を得たのは、虎を獲んとするには、武器よりも何よりも胆力が一番必要なることである。虎が堂々と進み来たるところを待ち受けて、その目を睨み詰め、間近に近寄りたる時、発砲するのが虎狩の秘伝で、もしこの胆力がなくして、虎を見て狼狽するようなことがあれば、虎の乗ずるところとなって、たちまち失敗に終わるのであるが、人事においてもまた、これに類するものがあろうと思う。また加藤清正の虎退治時代には、日本より外国に出かけて、外国の虎を打ちとめたのであるが、今や朝鮮も日本の版図に帰して、私はわが領土内において虎狩をしたのであるから、昔より虎伏す野辺と云いし、その野辺も、自国の領土なるかと思い、自ずから大国人となったような気分を生じ、進取の念が勃念と湧き起こってきましたから、今後は一層、向上発展するつもりであります」などと述べられた。
 そのとき、座中の大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)
男爵が、ここで一吟なかるべからずとばかりに、高らかに次のような歌を詠みあげた。


   虎の肉賞玩のひと二人あり 曽我の十郎富士の山本

 このとき末松謙澄子爵は
「ただ今、大倉男のお説では、虎肉賞玩者は古来天下唯二人なりということであるが、今晩は主人の好意により、われわれ一同みなその賞玩者の仲間となりたれば、

   誰も彼も皆な祐成(注・すけなり。曽我十郎のこと)となりすまし 試しにけりな虎の初味

というべきであろうと思うが如何」と披露したので、一座はいよいよ悦に入り、喝采鳴りやまなかった。
 こうして、最後に田逓相が来賓を代表して、「加藤清正の虎狩は、三百年後の今日まで錦絵となり講談となり、わが同胞に勇壮なる教訓を与えているから、今度山本氏の征虎隊も、古人の遺烈を継承して、大いに現代の惰眠を覚醒することであろう。また初物を食べれば、七十五日くらいは生きのびるであろう」など、諧謔まじりの挨拶を述べ、前代未聞の虎肉試食会を終わったのであった。
 この会なども、成金時代の一挿話として後代の語り草として残るにちがいないものだ。


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 二百三十九   
露国舞踏家スミルノワ
(下巻
331
頁)

 欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余響は、日本の財界、政界に予想外の反応を呈し、ものごとの多くの場面に「福徳の百年目(注・めったにおとずれない幸運)」とでもいうような吉祥をもたらしたが、芸術方面においてもまた思いがけない収穫があった。それは、英、仏、露、独、伊の諸大国が次第に持久戦に入ると、戦争関係以外の事物はほとんど世間から閑却されたので、ふだんのときなら簡単には外に出てこないような第一流の芸術家が、東洋の果てまで流れ流れて日本に来朝するという珍現象が起きたのである。その中で、もっとも私たちを感動させたのは、ロシアの舞踏家、スミルノワ嬢(注・エレナ・スミルノワ)と、イタリアの彫塑家ペシー(注・ペッチ)氏のふたりだった。
 よってまず、ロシアの舞踏家、スミルノワ嬢のことから語ることにしよう。

 エ・スミルノワ嬢は、ロシア帝室劇場(注・マリンスキー劇場)の第一等舞伎(注・プリンシパル)で、後年来朝したパブロワらとともに、ロシアでは最も著名な舞踏家であったという。
 大正五(1916)年、嬢は、補助オ・オブラコワ嬢(注・オリガ・オブラコワ。補助の意味はプリンシパルではないという意味か)、舞踏教師のべ・ロマノフ(注・ボリス・ロマノフ。実際には教師ではなく踊り手のようだ)、ピアニストのワンブルーのほかに一名の一座五人で、わが帝国劇場に出演することになった。
 公演の時間は三時間で十七曲が上演された。そのなかで、ロマノフの演じた「漂流民」についていうと、それは漂流の老人が路傍で憐れみを乞うても、だれも相手をせず、かえって嘲笑する者までいることに失望し、彼はついに反抗心を起こし憤然と立って世を罵るという筋書きだった。その表情の軽妙さに私たちは非常に感動したものだった。
 次はスミルノワ嬢の演じた「瀕死の白鳥」で、波静かな湖上に白鳥が悠々と遊んでいたところを猟夫に突然射られてその心臓を貫かれると、その白鳥は断末魔の苦悩を見せながら最後に静かなる眠りにつく、という一曲であった。これは、その後パプロワその他の舞踏家によって、またかというほどたびたび繰り返されたが、私は最初に見物したためか、その姿勢や表情が真に迫っており最も深い感動を与えたのはこの人ではないかと思った。
 スミルノワ嬢は当時二十六歳で、小柄で細面で、それほど美人というわけではないが、表情に限りない妙味があり、私としては、欧州諸国に大名をとどろかせた、あのパプロワなどよりも、かえって深い印象を感じたものだ。今一度見物したいものだと思っていたが、ついに再びやってくることはなかった。
 あのような舞踏家を日本にいながらにして見物する機会を持つことができたのは、すべて世界大戦の余といってもよいのではないかと思う。
 


伊国彫塑家ペシー氏(注・
Pecci
ペッチをペシーと読んでしまったものだろう)(下巻333頁)
 
 イタリアの彫塑家ペシー氏が、大正六(
1917
)年ごろ、しばらく日本に来遊し、山県元帥はじめとする数名の塑像を製作したのもまた、欧州大戦の結果、彼らの仕事が閑散になってしまったためであろう。

 ペシー氏は、イタリアの有名な彫塑家で、以前、イギリスのキッチナー元帥の肖像懸賞募集があったときに、その選に入ったこともある。
 これはよい機会であるということで、藤田平太郎男爵は、彼に山県元帥の胸像を製作してもらおうと、元帥にモデルになる同意を取り付けた。ペシーは、朝早くから、東京から小田原に出張し、三時間から四時間、塑像の製作に従事するということが約一週間にわたって行われたという。
 そのときの山県元帥の感想についての直話は、次のようなものである。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)

 「藤田より熱心に勧誘せられて、自分もとうとうペシーの望み通りモデルになることを承知したが、一、二度座ればよいというのが、一日三、四時間ずつ、一週間も継続したので、中ほどからたまらなくなって、御免蒙ると言い出したところが、枢密顧問官、安広伴一郎が監督かたがた出張してきて、仕掛けたからには、どうでも仕遂げなくてはならぬというので、とうとう辛抱して、このほどようやく期満免除となった、自分は最初椅子に倚(注・よ)って、謹直に控えていたが、あまり退屈なので、人と談話してもよいかと聞けば、更に(注・いっこうに)差し支えないというので、毎日安広を呼び出して、雑談をなしつつ退屈を忍んでいたが、だんだん彼の話をきいてみると、さすがに世界的の人らしく、およそ人の肖像を作るには、長時間これに接して、よくその精神を会得し、形似のほかに、気韻(注・品格、気品)を写し出さなくてはならぬので、自然、時日を要することとなるのだという。彼がある人に語ったというを聞くに、自分の頤の辺の骨格は、人の頭梁として部下を愛撫する骨相を備えており、また、目はドイツのカイゼル(注・ヴィルヘルム2世)、とすこぶる類似するところがあるとのことである。これはよいのか悪いのか自分には一向わからないが、世界的彫塑家となるには、骨相学上にも相当の心得がなくてはならぬのであろう云々」

 このペシー作の山県元帥塑像は、大正十二(1923)年の震火災(注・関東大震災)で焼失したが、ペシーは当時、同像を二個作り、一個は某氏が所蔵しているということを山県家が聞き込んで、その後この像を山県家が買収し、陸軍戸山学校に寄進されたそうである。
 とにかくペシーが日本にその作品を遺すことになったのは、欧州大戦の余といってもよいだろう。


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二百四十  超人間的手裏剣(下巻335頁)

 大正八(1919)年四月十三日、私は高田釜吉君の国分寺別荘に招かれ、君の、超人的な手裏剣の妙技を実見するという眼福を得た。私はこの妙技を見て、昔、楚の国の養由基(注・ようゆうき。弓の名人)が、柳葉を百歩離れたところから射て百発百中のうまさだったとか、わが国で寛永時代の武芸者が太刀先三寸で身を倒す早業があったというような伝説が、決して作り話でないということを確信するにいたった。
 高田君がドイツ留学の十年間で、工学研究のかたわら、銃術、投槍、手裏剣などを学び、抜群の技量の持ち主であることは以前に伝え聞いていたので、ある日その実演のお手際拝見を願ったところ、高田君は何度か辞退したのちに、せっかくのお望みなので、国分寺の別邸で拙技をお慰みに供しましょうということで、銃猟に以前から親しんでいる古河虎之助男爵も招請してくれた。そこで当日私は、男爵と同道して、新宿から八王子街道を経て国分寺の高田別荘(原文「別墅(べっしょ)」に向かった。
 到着してみると、高田君は私たちを広大な雑木林に導いた。そこで古河男爵はまず、その腕前を見せるべく、猟犬一匹と勢子(注・せこ。狩猟者の補助をする人。原文では「背子」と表記)七、八人を放ち、林の中の小笹竹やぶの間から、前もって飼い置かれていた鶉を狩り出させ、射撃した。男爵はこの道の鍛錬者であって、一発、また一発と、十中の六、七まで命中されたので、私たちはその腕前にしきりに感服した。
 今度は高田君が本舞台に乗り出すことになったが、霰弾(注・さんだん、散弾。多数の細かいたまが同時に発射される仕掛けの弾丸)などではおもしろくないので、実弾で試そうということになった。
 その前口上として、「鶉の雄は、胸のあたりが赤く、また雌は、ポツポツと黒い斑点があるのでこれを見分けることができる。そして、その飛び方や動作にも自然に違いが見られるので、鳥が飛び立つ瞬間に、まず、雄雌のどちらなのかを明言し、最初はその右翼を打ちとめることにします」と言い終わるや、一羽の鶉が飛び上がる見て、これは雄だと言って、すぐに打ち落としたのを拾い上げてみると、予言に間違いなく、はたしてそれは雄鶉であり、みごとに右翼を射貫かれたのであった。そして、この次は左翼を打ってみせようと宣言すると、そのとおりになったので、私は舌を巻き、その神技に驚いたのであった。
 しかし高田君は、鉄砲で鶉を打つことなど造作もないことのようで、今度は手裏剣を試そうということになった。
 櫟(注・くぬぎ)林の片隅をたどっていくと、足元から二間(注・一間は約108センチ)くらい離れたところで、一羽の鶉が飛び立った。その瞬間、さっと打ち出した手裏剣は目にも止まらず、そのとき君は勢い余って一間ばかりもよろめいて、どうとその場で倒れてしまったので、狙いははずれてしまったに違いないと思いきや、「今のは命中疑いない」と言われるので捜索してみると、尖端が鋭い三角形になっている笄(注・こうがい。かんざし)のような手裏剣が鶉の胴に串刺しになっている見事さで、実際に見ていない人に話しても、ほとんど信じてもらえないほどの妙技なのであった。
 その後この櫟林を横切り、さらに数十歩行ったところで、またまた一羽の鶉を狙われたが、これも見事に命中した。しかも、ほとんど前のときと同じ場所を貫いたその手練は、一発目の成功を裏書きして、あれが偶然ではなかったことを証明することになった。
 このとき、河原の太之という下僕が、私たちを追って来て、遥かむこうの松の梢を指さし、あそこに鳩が一羽止まっているので、これをお射止めなされませ、といって、鯨製の、長さ三尺ほどの半弓に、白羽の矢をつがえて高田君に差し出した。君は藪陰伝いにそろそろと近づき、ヨッと引きヒョウと切って放つと、その矢は飛び立とうとする瞬間の鳩を松の梢に射止めたのであった。私たちは、鳩がバタバタともがいている、その松の木を仰ぎ見て、思わず感嘆の声をあげずにはいられなかった。
 高田君は、鉄砲、手裏剣、半弓と、やってだめなものはなかったが、今日はとりわけ出来がよかったと、みずから宣言されたとおり、百発百中で余裕綽々(注・しゃくしゃく)としていた。しかも危なげも一切感じられなかった。
 さて、今日の試練はこれくらいにすることにして別荘に戻ることにした。すると、料理に堪能な高田君は、たちまちにして猟装を脱ぎ捨て料理番に早変わりした。そしてみずから台所に立って、ひとつひとつ塩加減を試していたところ、先ほどの太之が、「ただいま、畑に雁が降りています」という報告をした。それをきいた君はすぐに立ち上がって、「さらば、その雁を打ち取って御馳走のひとつに加えよう」といって、早くもわが手中におさめたような口ぶりでイギリス製実弾二連発を携えて裏手から駆け出した。すると、出て行ったと思う間もなく、大きな鴻雁【ひしくいがん】を打ちとめて持ち帰られたので立ち上がって見に行った。すると、頸部のいちばん細いところを射抜いてあるのであった。このとき高田君は、雁の胴体を打ってしまうと今夜の御馳走にならないと思い、頭部を打とう苦心したのに、少し下がってしまい頸部に当たったのだと言うのである。そこで太之に命じ、その弾道を測らせてみると、距離は百六十五間(注・約180メートル)だということだった。
 私などは、この間隔では鳥がいるかどうかもわからないほどなのに、君は超人的な眼力をそなえているものとみえる。
 とにかく、私は生まれて初めてこのような妙技を見て、おおいに驚き、かつ悟るところがあったので、その当時この話を披露したこともあったが、ここに再び記述する次第である。


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