二百三十一 名物男柴庵翁の易簀(下巻302頁)
(注・えきさく。礼記で、曽子の死に際に季孫から賜った大夫用の簀[すのこ]を身分不相応のものとして粗末なものに易[か]えたという故事から、学徳の高い人の死、死に際のこと)
四十年の莫逆(注・ばくぎゃく。親しい友)であった朝吹柴庵【英二】翁は、大正七(1918)年一月三十一日、享年七十歳をもって築地木挽町の自邸で、そのもっとも波瀾多き生涯を終えられた。
翁は豊前耶馬渓(注・現大分県)近く(原文「畔」)の、一民家の子として生まれた。つとに福澤先生の知るところとなり慶応義塾に学んだ。その後、三菱会社にはいり、社長の岩崎弥太郎氏に外交的才幹を認められた。
だんだんに実業界で出世するうちに、時の大蔵卿であった大隈侯爵らの愛顧を得て横浜に貿易商会をおこし、ここにはじめて本邦人による生糸の直輸出の端緒を開いた。これはいわゆる商権回復の運動であったが、翁はその仕事に邁進したものの、時勢がいまだこれをゆるさず、逆境相次ぎ失敗相重なった。このことで翁は、貿易商会が政府から借用した数十万円の負債を一身に引き受けることになり、当時、日本第一の借金王になってしまったのである。
それから十数年間、七倒八起の境遇に立ちながら翁が奮闘した武者ぶりは、その円転滑脱の才思(注・才知のすぐれた考え)とあいまって、奇談、逸事を少なからず世にのこした。
こうして明治二十五(1992)年に、翁は鐘淵紡績会社の専務となるや、拮据経営(注・仕事に励むこと)し、ついに、その衰運を挽回し、今日の同社の隆盛を基礎を築き上げたのである。
その幕下(注・ばっか。配下)から、和田豊治、武藤山治のふたりを輩出したことは、人のよく知るところである。
その後、三井の工業部にはいり、ついで同家本部に転勤するころには、義兄の中上川彦次郎をシテとし、おのれはそのワキ役となって、当時の三井の両雄であった中上川、益田(注・孝)の両者間を円滑にする油となり、いわゆる世話女房としての立場で、物事がはかばかしくないとき(原文「冥々の際」)に、その天賦の調和的技能を発揮したことは枚挙にいとまない。
その人となりは、聡慧豁達(注・そうけいかったつ。聡明でかつ度量がある)のうちに慎み深さと慎重さを兼ねていた。数字にも強く、記憶力がよく、座談にもきわめてすぐれ、言貌(注・げんぼう。言葉と容貌)に無限の愛嬌をたたえており、円転滑脱、陳を化して新と成し(注・古くなったものを新しいものに変え)、人を笑わせる(注・原文「人の頤(おとがい)を解く」)のがうまかった。
私は、趣味においても、性格においても、業務においても、翁と非常に近いところにいたことから、社交家として、遊冶郎(注・ゆうやろう。道楽者)としての、そして美術鑑賞家としての翁についてはよく知り、これまでもいろいろな項で記述してきたとおりである。今回は、これまで触れることがなかった翁の文才について、すこし書いてみようと思う。
翁は、その性格から言っても、狂歌がいちばん得意だった。大正初年、私が山谷の八百善で、道具一品持ち寄りの会を催したことがあったが、そのとき翁に送った案内の返事には、次のように書かれていた。
「高橋義雄氏より、七月九日に、何か見るべきもの、一品持ちて、山谷の八百善に来れ(注・きたれ)との案内を受けたる時の答に
九日に八百ぜんと云ふ五あんない一品二三六で七四十も
(注・後半「一品持参でなしとも」)
また、名取氏に嫁した令嬢の福子に、長孫(注・本来は、長男の長男のこと)が誕生したとき、
百までもいきてゐよとは願やせぬ 爺と婆とが死んでから死ね
と口ずさまれた。この歌は、あとになって悪戯をしでかし、愛孫は、九歳のときに夭折したので、あんな歌を詠むからだと家内より叱られましたと、翁は当惑した顔で告白されたこともあった。
さて、晩年にいたり、井上通泰氏について、国風(注・漢詩に対し和歌のこと)を習い始め、そのなかには一風変わった詠みぶりの、いかにも翁の和歌らしいものもあった。
あるときは、常磐会に出詠して、満点の光栄をになわれたこともあった。その歌は、海辺の夏月という題で、
風もなく波も音せぬ海原に 曇れる月のあつき夜半かな
というものだった。
さて、私と翁との交誼(注・親しい交流)は、現世だけでなく、冥土においても相変わらず続くだろうと思っている理由がある。
大正六(1917)年、私は、翁と、馬越化生(注・恭平)、根津青山(注・嘉一郎)の両老とともに、霊宝館の地鎮祭に参列するため高野山に登山したのであるが、翁はこのときに思い立つところあって、奥の院玉川の橋を渡って、まさにそこから石階段を上ろうとする左側に、朝吹家累代の墓という一基の墓石を建立された。私は、翁といっしょにこれを検分し、私もご近所に墓地を定めて、死後ともにこの山中に来て、時々大声で談笑して、おおいに奥の院を賑わせようと顔を見合わせて哄笑したことがあったので、翁の易簀(注・えきさく。死)の翌年に、私は翁との生前の約束を実行して、翁の墓石に相対する奥の院石階段右側の二本の大杉の木の下に法華寺型の石灯篭を一基立て、その棹の正面に、高野山管長土宜法龍大僧正筆で、箒庵居士塚石燈と刻して、これを墓石に代えたのである。
その後、私は奥の院に赴き、翁の碑前にぬかずいて次のような腰折(注・自作を謙遜した呼び方)一首を手向けた。
まてしばし我れも来りてもろともに 高野の奥の月に語らむ
人の世は無常迅速である。私も早晩、翁の霊とともに高野山の奥の院で談笑を交える時節が到来することだろう。
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