二百二十一 松方公の大師流(下巻263頁)
松方海東(注・松方正義)老公は、六十六歳のときから弘法大師流を習い始め、晩年にはほとんど玄人の域にまで上達された。
大正四(1915)年十一月二十三日に、私は田中親美氏とともに、老公を京都嵯峨の川崎別荘(注・川崎正蔵の延命閣のことだろう)に訪問した。さらに随伴し、御池と東洞院の山田長左衛門氏宅に行き、主人が所蔵する文筆眼心抄(注・弘法大師空海が編著したといわれる平安時代前期の漢詩文評論書)という、長さ二丈(注・一丈は約3メートル)あまり、文字の大きさの径が五分(注・一分は約3ミリ)ほどの一巻を一緒に拝見する眼福の機会を得た。
この一巻は、詩文章の体例(注・形式)を論述したもので、大師自作の文章なのか、あるいは唐人の所説を書写したものなのかはすぐさま判定することはできないが、文中に「王維云積水不可極、安知滄海東云々(注・王維が、阿倍仲麻呂が日本に帰国するときに送った詩の一部を指す)という句があることから、大師とほぼ同時代に作文されたものであることは明白である。その字数が幾千幾万あるかはわからないが、かつては東寺の宝物であったということで、大師の筆蹟のうちでも稀に見る名巻であると思われた。
山田長左衛門氏は、京都の旧家で、三井家や家原家などと姻戚関係にあり、代々文学や美術をたしなむ者を出してきた。当代の厳父である永年翁が書画の眼識に長じ、維新の際、名家や寺院の書画を狙い撃ちにして買い取ったものの中に、この名巻があったのだという。海東公は、この名巻を前にして、自身の大師流研究の経歴について、一場の談話を試みられた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「自分が大師流を研究し始めたのは、明治三十三(1900)年ごろであったが、そのころまでは、筆の使い方を会得せず、筆を立てんか、また伏せんか、堅く握らんか、軽く持たんか、その辺の呼吸が分からぬので、専門家について質問したしと思い居る折柄、京都に横井某といえる名古屋産の老僧あり、自ら大師流に悟入せりと称していたので、一日面会して、その説をきけば、彼の筆使いは、従来自分等の行方とは正反対で、例えば、自分は字を書くときは、懸腕直筆(注・筆を垂直に持ち、腕やひじを机から離し、ひじを脇から離して字を書く書道の運筆)で、指を動かしてはならぬと思っていたのに、横井は、拇指、食指、中指ともども活動させて、筆の変化を助けざるべからず、というのである。即ち、一の字を書くには、最初落筆のとき、拇指を下にして、食指を上にし、それよりだんだん一文字を引き行くにしたがって、拇指は上の方に向かいつつ、筆を押し行きて、最後に筆を抜くときは、食指は下に、拇指は上になるようにすれば、筆に力を加えざるも、一文字は、みずからまっすぐに引けて、しかもその結尾に力のはいるものなりという。その他、筆使いに陰陽のあること、右に取りたる筆を抜く時、逆にこれを左に取るなどいう、従来の自分の筆法と、まったく逆行していたが、これが全く大師の筆法で、晋、唐の入木道(注・じゅぼくどう=書道)も、また、みなこの筆法に外ならざるを悟った。けだし大師の入唐は、晋代を距たること遠からず、王義之の筆法の、伝えて唐人に存したのを、親しく研鑽せしものなれば、大師流は、実に王義之の筆法直伝というべきものである。大師の歌に、
知らぬ身か知る身となりて知りて又 知らぬ身となる身こそやすけれ
というものがあるが、これは筆を下ろすとき、神あるがごとく、渾然として無我の境に入るという極所を言い表したもので、書道に限らず、百芸の奥儀はみな同様であろう。林道春(注・林羅山)は、王義之の筆法は、蘇東坡(注・蘇軾。北宋の政治家、詩人)、黄山谷(注・黄庭堅こうていきん。北宋の詩人)に至って、破壌し尽くし、かえって遠く日本に伝存せりといえる宋人の説を引用して、日本の書道が今なお、晋、唐の遺風を存するを賞揚して居るが、畢竟、大師のごとき者があって、彼の筆法を日本に伝えたからであろうと思う。」
という話もされた。
海東公は、大師流の研究に熱中し、大師の書といえば、必ずそれを手に入れようとし、もしも手に入れることができないときには、それを借り受けて書写していたので、私はあるとき、松花堂昭乗筆の大師流長恨歌の巻を公の清覧に供し、大いに鑑賞していただいたこともあった。
このような公の不撓不屈の練習が、ついには大いにその功を奏し、今では専門家といえども真似できない域に達し、帰京後ほどなくして半切に物された揮毫の中に、次のようなものがあった。
高野之作
数里攀峻坂 深更叩寺門 老僧眉似雲 只説大師恩
老公の、寛厚純潔の資質は、謹直に大師流を恪守(注・かくしゅ。まじめに守り従う)して、覇気を留めず、我流を交えず、まことによく、その面目を発揮せられるので、私はすぐに、その韻を歩して(注・他人の詩の韻字を用いて詩を作ること)、感謝の意を表した。
臨池天授妙 悟入大師門 為我揮霊腕 伝家長感恩
私が老公に揮毫を願い出たのは、一再にとどまらないが(注・一度や二度ではないが)、大正五(1916)年に向島の徳川庭内に構築した嬉森庵の扁額も公爵の筆蹟で、そのころは、書風もいよいよ老熟して、ようやく模写の域も脱せられていた。維新後に大師流を会得した人を論じるときは、まず老公を筆頭にあげなければならないだろう(原文「まず指を老公に屈せざるを得なかろう」)。
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「箒のあと」222 木瓜唐花、大江定基
二百二十二
木瓜唐花(下巻267頁)
大正四(1915)年の御即位御大典の際、私は石黒況翁(注・石黒忠悳)、下條桂谷の両翁からおもしろい故実異聞を耳にした。まずは況翁の談話を紹介しよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)
「御大典の節、二条城中舞楽殿に引き廻されたる、だんだら幕の木瓜唐花は、織田家の紋所と同様であるが、織田信長は、つとに王室の式微(注・非常な衰え)を慨し、上洛の際、物資を献じて、朝廷の大礼を事故なく挙行せしめられたその時、舞楽殿に織田家の紋所幕を引き廻したので、かかる場合にこれを用ゆることになったという。
しかるに、他の一説には、信長は当時の記念として、かの紋所を用い始めたので、木瓜唐花は、古来、朝廷の御儀式に使用せられたものだ、ともいうことである。
以上二説の当否はいずれにしても、信長が天朝尊崇の志篤く、王室式微の時に当たりて、その古典旧式を復興したのは、蔽うべからざる事実であるから、今度の御大典の盛時を承知したならば、定めて地下で欣躍することだろうと思い、自分は、御大典の翌日、紫野大徳寺の総見院を訪い、信長の木像を礼拝し、また、その墓碑に香花を手向けて、古英雄の遺烈を追慕したが、総見院は、今や聚光院の預かり寺となって、境内荒廃、人影を見ず、誠に物淋しき光景であった。
それより聚光院に立ち寄って、利休の墓に参詣すると、早朝より早や墓参せし者があったとみえ、香煙縷々として、新鮮の花さえ手向けられてあったから、当年天下を震撼した信長の墓畔よりも、かえって微々たる一茶博士の方が、賑やかなるかと、深く自ら感慨した次第である。」
大江定基(下巻268頁)
下條桂谷翁は、大正四(1915)年四月初旬、宮中大饗宴の余興として、「石橋」(注・しゃっきょう)の御能を拝見したところが、「これは大江定基といわれし寂昭法師にて候、我れ入唐渡天し、初めて彼方此方をおがみ廻り、只今清凉山に参り候」という名乗りのところに至り、二十五、六年前、明治天皇陛下の御沙汰を蒙り、この大江定基、寂昭法師の履歴を調べた時、様々に苦心したにもかかわらず充分にその事蹟を確かめることができなかったのに、当夜、はからずもこの名乗りを聞いて当年のことに思いいたり、七十余歳となって謡曲から学問のよい資料を得たという。その談話の大要は次のようなものだった。
「二十五、六年前、自分はある日、明治天皇陛下より、書画鑑定を仰せつけられて参内せしに、御廊下にて、ふと、杉(注・杉孫七郎)子爵に邂逅した。ところで子爵は、自分の顔を見るや、『よきところにて出会いにり(注・けり、か?)、実はただいま、谷文晁筆西園雅集図一幅を御買い上げにならんとするところだが、陛下より、図中に一人の僧侶あるは何人なりや』との御尋ねあり、ハタと当惑せし次第なるが、『貴下には定めて御承知ならん』と言わるるので、『自分も深くは心得ぬが、かの僧侶は大江定基の後身で、宋時代、かの国に渡り、高宗皇帝より円通大師の称号を賜った者だ』と答えたところが、杉子(注・子爵)は大いに悦んで、さらばその旨、徳大寺侍従長に説明してもらいたいと言うので、すぐに侍従長に面会して、右文晁幅を一覧するに、如何様、非凡の出来なれば、まず西園雅集なる画題について説明をなし、宋の米芾(注・べいふつ、北宋の文化人)、字は元章とて、当時、書画風流をもって天下に鳴りたる大文人が西園雅集なるものを催し、王義之の蘭亭修禊(注・らんていしゅうけつ)に倣って天下の名流を会合したその中に、日本人たる円通大師が加わって居るのは、当時、大師の名声がいかに彼の国に響き渡っていたかを知るに足る。されば、日本人より見れば、西園雅集中にこの一僧形あるのは、実にこの図の眼目というべきものであると述べたところが、徳大寺侍従長は委細聞き終わりて、御前に罷り出で、下條の説明はかくかくと言上したので、陛下にも至極御満足に思召され、なおとくと円通大師の履歴を調べて、申し出でよとの御沙汰があったので、仰せ畏みて早速取り調べたが、定かにそれと明記したる者を見ず、当惑のあまり、おりから上京した京都の富岡鉄斎翁に問えば、翁はすぐにこれに答えて、『大江定基は弱年の頃、三河国に在任中、長者の娘と契りしに、娘がほどなく身まかったので、纏綿(注・てんめん。深い愛情)の情止み難く、二十余日間、屍体の傍に座して、これを葬むらんともせぬので、あまりのこととて、僧侶が来たって、諸行無常の理を説いたところが、定基大いに悟るところあり、差添(注・脇差)を抜いて、我れと我が髻(注・もとどり)を切って仏門に入り、七十二歳の時、入宋して(注・史実ではもっと若いときのようだ)、ついに帰朝せず、宋の天子より円通大師の称号を賜り、八十余歳で彼の地に遷化したということである』と物語られたから、自分はこのことを聞くや、鬼の首でも取ったように悦んで、これを徳大寺侍従長の手許まで報告したが、この報告は、明治天皇陛下でも叡覧の上、右文晁幅に添え置かれたと承る。しかるに、今度宮中御能にて、図らず定基の事蹟を見当たり、明治大帝御在世中のありしことどもを回想して、いまさら今昔の感に堪えざる次第である云々。」
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「箒のあと」223 鷹峯光悦会発端
二百二十三 鷹峰光悦会発端(下巻270頁)
京都府愛宕郡鷹峯に光悦寺という日蓮宗の寺院がある。境内には、本阿弥光悦、光瑳(注・光悦の養子)、光甫(注・光瑳の子。空中斎)、光伝(注・光甫の子)らの墳墓がある。この辺一帯は京都から丹波に通じる街道にあたり、往時、光悦が徳川家康から広大な地面を賜り、一族多勢とともに、いわゆる光悦町を構成した場所である。
寺院の庭先から東南をのぞむと、前面に坊主頭のような鷲ヶ峰が兀然(注・こつぜん。高く突き出ているさま)とそびえ、そのふもとを紙屋川が流れ、松樹竹林が連接し、左手には遠く叡山が控えている。
その中間に横たわる船岡山越しに、蒲団を着て寝ている姿の東山一帯を展望する光景はいかにも明媚温雅で、洛北の名勝たるにそむかない。
しかしながら、維新以後、訪ねる者も少なく、明治の晩年にアメリカ、デトロイトのフリーア(原文「フリヤー」)氏が、光悦を景慕してこの寺を訪ね、さかんにその絶景を賞讃するとともに、光悦の偉大な人格や業績を宣伝したために、京阪間にもようやくこの寺に注目する者が現れてきたのである。
中でも、京都の道具商である土橋無声【嘉兵衛】は、当寺にほど近い玄琢村の生まれなので、光悦寺興隆のために大いに奔走し、同志を糾合して、まず光悦会を組織した。そして光悦好みの新茶室を境内に新築し、大虚庵と名づけ、大正四(1915)年十一月下旬に、その開庵披露をかねて光悦の遺作品の展覧会を本寺で催したのが、実に光悦会の発端である。
以来、光悦会は、毎年光悦の祥月命日である十一月十三日に鷹峯で開かれている。最初に益田鈍翁が会長になり、その後、大谷尊由師が引き継ぎ、京阪、名古屋、東京の諸名家が、年々、濃薄茶席を受け持つことになった。そのため当会は、今や京都の年中行事の中で最も著名なものになったのである。
私は大虚庵開きの茶会に出席して、はじめてこの地の光景に接した。そしてこれを愛玩するあまり、まず、光悦がいかにしてこの地に土着したかについて研究したものだ。
元和元(1615)年、彼が五十八歳の時、徳川家康が大阪の陣を終え京都にやってきた。そのとき所司代の板倉伊賀守(注・板倉勝重)に、「ちかごろ本阿弥光悦は何をしているのか」と質問したので、伊賀守は、「彼は異風者(注・変わり者)にて、京都に居あき申候(注・京都に住むことに飽きたと申しております)、辺土(注・へんぴな場所)に住居仕り度き由申居候」と言上した。
これをきいた家康は、「近江丹波などより、京都への道に当り(注・近江、丹波から京都に至る道筋に)、用心悪く(注・不用心で)、辻斬、追剥などの出没する所あるべし、左様の所を広々と彼に取らせ候へ(注・そのような治安の悪い場所に、広い土地を与えよ)」と言い渡した。
そこで光悦は、鷹峯のふもとに、東西二百間余り、南北七町(注・東西約360メートル、南北約760メートル)の原地の清水が流れ出ているところを拝領し、一族の中で手に職のある者を呼び集めて、それぞれの住居を作った。
また母の妙秀の菩提所として妙秀寺を建立するなどして、今日における、いわゆる文化村を創立したので、人呼んでこれを光悦村と称するにいたったのである。
光悦は当時、近衛三藐院(注・さんみゃくいん。原文では「三邈院」と表記。近衛信尹のぶただ)、松花堂昭乗とともに、三筆(注・寛永の三筆)と称せられたほどの能書家で、本業の刀剣鑑定のかたわら各種の工芸に従事していた。また茶事を好み、陶器を作り、謡曲を謡うなど、その芸術や思想がいかに秀抜卓絶していたかは、遺作の品によって容易に推察することができる。彼の門人であった灰屋紹益(注・はいやしょうえき。原文では「浄益」と表記)の「にぎはひ草」(原文では「賑ひ草」と表記。紹益の随筆)に、次のように書いてある。
「我身をかろくもてなして、一類眷族に、奢りをしりぞけんことを思ひ、住宅麁相(注・粗末)に、小さきを好みて、一所に年経て住めることもなく、茶の湯に深くすきたりければ、二畳三畳敷、いづれの宅にもかこひて、自から茶をたて、生涯の慰みとす、利休在世に近かりければにや、形【なり】を好み作りて、焼かせたる茶碗等、今世にかつ残りたるも、一ふりあるものとぞ云ふめる。都の乾に当りて、鷹峯と云う山あり、其麓を光悦に給はりてけり、我住所として一宇を立て、茶たて所などしつらひ、都には未だ知らざる初雪の朝は、心おもしろければ、寒さを忘れ、自から水くみ、釜仕掛け、程なく煮え音づるるも、いとど淋しく、都の方打ながめ、訪ひくる人もがなと、松の梢の雪は朝の風に吹き払ひて、木の下かげに暫し残るをおしむ。」
光悦の茶風は千宗旦の侘び数寄に通じ、独楽閑寂の趣があった。私は、光悦の人となりとともに、この寺の風景を鍾愛(注・たいそう好き好む)したので、大正五(1916)年、境内東南方の崖地に臨む、鷲ヶ峰から東山方面をひと目に見渡す平地に、五畳敷一間床、書院付きの茅葺き一棟を寄進し、庵名は無造作に、本阿弥庵と名づけた。土間を広々と取り、天井板の竿縁がわりに朱塗りの細筋を引き渡すなど、いくぶん光悦風の意匠を取り入れた。露地には、片桐石州が所持したと言い伝えられる小形のつくばいと石灯籠を据え付け、これを毎年催す光悦会のために充てることにしたのである。
その後大阪の八木与三郎氏が、騎牛庵という古茶室を寄進したため、光悦寺には三つの庵室がうち揃い、年々、関西の風雅をこの地に集める霊場となったのである。
これは畢竟(注・ひっきょう。つまるところ)、光悦の遺徳のなせるわざではあるが、土橋無声らの尽力もまた、非常に大きなものがあったのであるから、光悦会の発端について記し、後の人びとの知るよすがにしておきたい。
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「箒のあと」224 龍年の余興
二百二十四 龍年の余興(下巻274頁)
大正五(1916)年は丙辰(注・ひのえたつ)という龍年であった。龍年には王政復古(注・明治維新)などもあったように、昔から天下多事の年回りだと言われているが、この龍年には欧州大戦(注・第一次世界大戦)の余熱がわが国の経済界にまで及んで、ほうぼうで成金(注・なりきん)のつぼみがほころびかけるという形勢が見られたりと、何やらいい気分が感じられるころだった。
そのような新年そうそうに、私は小田原古稀庵に山県含雪公爵を訪問した。公爵は、金地の色紙にしたためられた次のような一首を見せてくださった。
大正丙辰の元旦に雨降りければ
雨雲の晴るる浪間にあらはれて 空ゆく龍の年立ちにけり
そして、公爵は私に、新年の作は、と問われたので、その朝途中で考えた次のような腰折(注・自作を謙遜していう)を御覧にいれた。
天翔る心なき身は朝寝して のどかに迎ふ龍の年かな
すると侯爵は一笑して、「無精な龍先生じゃのう」と評された。
さてその翌日、下條桂谷翁を番町邸にも訪問したが、翁は「新年の試筆に今朝こんなものを書いたよ」といって牧谿風の雲中龍を見せてくださった。私は、割愛(注・譲ってもらうこと。この場合は有償であろう)を乞い、そのまま自宅に持ち帰ったのであるが、この時翁は、次のような話をされた。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「拙者の龍は、米沢藩御抱画師で、拙者が青年時代の恩師である目賀田雲川先生の画風である。先生は平常、人に教えて、龍の絵は、鼻と目と角と、一直線に並行するのが、宋元大家の画風なれば、必ずこの法則に背くべからず、と言われた。
しかるに近来、日本の画家は、往々、この法則を無視し、橋本雅邦のごときも、いつぞや角を逆立てて、鼻と目を並行せざる龍を描いたから、画龍の古法は、かくかくなりと注意したるに、雅邦は、さる法則ありしか、とて、初めて心づいたようすであった。けだし古人が、多年の経験において、斯くするのが、龍の神霊を示すべき描法なるを発明したためであろう。
また龍の爪は、普通三本に描くようだが、宋人陳所翁は自ら、一機軸を出して、これを四本に描いて居る。もっとも、天子の黄袍(注・黄色い上着)その他、御物の模様には、五爪の龍とて、これを五本にする慣例があるが、雲川先生は、陳所翁を学んで、常に四爪の龍を描いたから、拙者もまた、その例に倣って居る。また龍に関する画題は様々あるが、黄帝若しくは観音が龍に乗るの図、馬師皇(注・ばしこう。黄帝のころの馬の名医)が龍を癒すの図などが、その最も著名なるものである。
ところが最近の一奇談は、旧臘(注・きゅうろう。去年の十二月の意)、孫女(注・まごむすめ)が咽喉に鯛の骨を立てて、いかにしても取れないので、急ぎ咽喉科医師坂口吉之進氏を招ぎたるに、氏は早速かけつけて、なんの苦もなくその骨を抜き取られたので、厚くその好意に謝したるに、坂口氏は、手をふりて、先生、その御礼にはおよびませんから、何か一幅画いてください、と言わるるので、さらば御需め(注・お求め)に応ずべしとて、馬師皇が龍を癒すの図をしたためたのはほかでもない。列仙伝に『馬師皇なる者は、黄帝の時の馬医なり、後龍あり下向、耳を垂れ口を張る。師皇曰く此龍病あり、我が能く之を癒すを知ると、乃ち其唇下に針し、甘草湯を飲ましむ。龍負ふて而して去る』とあり、馬師皇が龍に針して、その病を癒したるを、坂口氏が孫女の咽喉の刺を抜きたるに比して、此画題を選みたるに、本年が、恰も龍年に当たっているので、われながら当意即妙と思って居る。」
といって、桂谷翁は、まず得意の一笑をもらされたものだ。さらに次のような話もされた。
「明治四十二年の事なり、先帝陛下より、龍の絵を描いて差し出すよう御沙汰があったので、丹精をこめてこれを揮毫し居る折柄、旧藩主上杉茂憲老伯が来訪して之を見るや、我れにも同図を描いてくれよと懇望せられたれば、二つ返事で応諾しながら、事に紛れて、これを果たさず、旧臘二十四日にいたり、来年は龍年なれば、もはや猶予すべきにあらずと、にわかに思い立ってこれを描き、約束後七年ぶりで上杉邸に持参すれば、老伯は大いに喜んで、硯蓋の上に載せた紙包みと、ほかに目録を賜ったから、その紙包みをひらいてみると、これなん、上杉家の定紋、竹に雀を染め出したる黒羽二重五つ紋付き羽織で、老伯の言葉に、『君が龍の絵を持参したらば与えんとて、七年前よりこれを仕立てて待っていたのが、今日役立って、誠に重畳のいたりである』とありければ、多年疎慢の罪を重ねたるが、いまさら思えばそら恐ろしく、このときばかりは、拙者も穴にも入りたき心地がした云々。」
このほか、もうひとつの龍物語は、平岡吟舟翁が辰年生まれで、大正五(1916)年はまさに還暦の年であったが、昔から、辰年の還暦の人が、新年一月の辰の日に描く龍が火伏せ(注・火事よけ)の呪いになるということで、翁に龍の絵を所望する人が続出して、どんどん数が多くなってしまった。
そこで翁は、たちまちのうちに一計を案じ、まず、大刷毛で、塗抹した黒雲の中に、金銀の玉をつかんだ龍の爪を描くことにし、新年八日の辰の日に山王山下の自邸で画龍会を催すことに決定した。そして、みるみるうちに百幅あまりを描きまくり、たった一日で埒をあけた(注・片をつけた)とは、いかにも奇想天外であったが、表具は筆者持ちとなったので、洛陽の紙価はいざ知らず、都下の表具料は、さぞかし暴騰したことだろう。
龍年の余興、あらあらかくのごとく、めでたく候、かしこ。
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「箒のあと」225 伊達家道具入札会
二百二十五 伊達家道具入札会(下巻278頁)
私は大正元(1912)年から、日本全国の名物茶碗を調査して名器鑑を編成しようという志を持っており、当時もっとも多くの名器を所蔵していた旧国持ちの大名家に手づるを求めて、その調査を進めつつあった。
その一方で茶会記を執筆し新聞紙上に掲載していたので、大正時代から昭和時代に及ぶまで、大きな道具入札会の世話人を依頼されることは何度あったかわからない。しかしながら、それが名器を調査するうえでの非常な便宜となったので、その都度すこしばかりの労を厭わなかったので、この間の道具移動に関しては耳にはいってくることがきわめて多かった。その件に関しては、昭和四(1929)年に私が編纂した「近代道具移動史」に詳述したので、「箒のあと」においては、このことにあまり多くは触れようと思わない。その中で、もっとも特色のあった三つの大道具入札会のことだけを紹介しようと思う。
さて、この三大入札会とは、まず大正五(1916)年に行われた仙台伊達家の道具入札会であり、これが旧国持ち大大名家の道具入札の先駆けである。
二番目は、同六年に行われた赤星家の入札会で、その売り上げ総額が五百万円を突破したという空前の巨額入札である。
三番目が、同十二(1923)年に行われた若狭酒井家の入札会で、品数わずかに百二十点で二百四十円あまりに達したという無類の名品ぞろいの入札であった。
まずは、伊達家の入札会から話を始めよう。
大正五年五月十六日に第一回、同七月五日に第二回が挙行された仙台伊達家の道具入札会は、維新後に大大名が堂々と名乗りを挙げて、その蔵品を入札市場に送り出した最初のものだった。これは、他の道具持ちの大名家に対し非常に有力な勧誘作用を果たし、また、その模範にもなった。
そもそも、徳川時代を通じ、日本で個人が所有する名器は、十中七、八は国持ち大名の手中にあり、残る二、三が、民間の富豪と、公卿名家の所蔵だった。
旧国持ち大名は、明治初年の版籍奉還に次ぎ、廃藩置県に遭遇し、所持する財産のほかには新たに収入の道がないので、いわゆる「ジリ貧(原文「ぢりぢり貧乏」)」で、だんだんと窮迫に陥ったが、「古池に水絶えず」のたとえに洩れず、何とか食いつないで、簡単には先祖伝来の道具を売却するには至らなかった。中には多少売却した者もなかったわけではないが、さすがに名門の家名を惜しみ、公然と名乗って道具を入札市場に出す者はなかったのである。
そこへ仙台伊達家のような大名家が、大っぴらに名乗って道具入札会を開いたので、これを見聞した諸大名家は、伊達家すらが、すでにかくのごとしである、われらも決して遠慮するに及ばない、ということで、このときから諸大名家が続々と道具を売却し始めた。
その折も折、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の影響で、世間に続出した成金が、さかんに道具を欲しがり求めたので、ここに売り手と買い手の双方が出現して出会い、古今未曾有の道具大移動が発生したのである。
かくして、伊達家の入札会は、東都(注・東京)、京阪の道具商の十五名が札元になり両国美術倶楽部で開かれた。
これぞ、維新後における道具入札のレコード破りで、第一回の売り上げは百万円を突破し、第二回とあわせて、総額百五十万円に達した。
そのうちで、三万円以上だったのは、次のものであった。
名物唐物福原茄子茶入 金五万七千円
名物唐物岩城文琳茶入 金五万六千円
牧谿筆朝陽 金五万五千円
青磁東福寺香炉 金五万千円
黒地有明蒔絵硯箱 金三万六千円
砂張淡路屋船花入 金三万三千五百円
元信筆真山水 金三万円
名物此世香炉 金三万円
元信筆中布袋左右松柏猿猴三幅対
金三万円
以上の入札が行われた大正五年は道具相場がまだ絶頂に達していない時期で、この落札価格の多くがレコード破りとなった。大正四年に京都で行われた、雁半こと中村氏(注・京都の織物商、中村氏雁金屋半兵衛のことと思われるが詳細不明)の入札道具の相場が高価で、これを雁半相場と呼んでいたのに、今度はそれを凌駕したので、新たに、伊達相場という熟語が流行することになった。
伊達家は、人も知る国持ち大名の白眉で、政宗以来、家格に相応した多数の名器を受け継いだうえに、四代綱村が茶事を好み、おおいに名器を蒐集し、石州流の清水道閑のような茶博士を招聘してさかんに茶道を奨励したので、同家には多くの収蔵品があった。
以前には大阪の炭彦こと白井家に入質後に岩崎弥之助男爵の手に移った数々の名器もあったし、この入札の数年前に伊達伯爵家から明治天皇に奉献された公任卿朗詠の二巻(注・伝藤原公任筆和漢朗詠集)のようなものもあった。このような名品が、実に山のようにあったため、同藩出身の富田鐵之助氏らの献策で、このままこれらの品々を保存することは覚束ないので、このへんで処分し、天下の数寄者たちに分配するのが名器所有者の取るべき道であろうということになり、その処分が馬越恭平氏に委嘱された。
馬越氏は、先年三井家を離れたときに、富田氏から有力な後援を得たことに恩義を感じ快くこの委嘱を引き受け、一生懸命に周旋の労を取ったばかりでなく、自身もまた入札の大手筋(注・大口入札者)になり、おおいに景気をつけたので、それぞれの品目ごとにレコード破りが続出した。
大正八(1919)年ごろの成金爛熟期に比べれば、まだなお絶頂に達しておらず、あるいは七、八合目の相場だったかもしれないが、とにかく、大名道具移動の先駆になったもので、大正年代における道具入札のうちで、もっとも意義あるものであろうと思う。
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「箒のあと」226 波多野長者、藤原の紙成
二百二十六
波多野長者(下巻282頁)
大正五(1916)年下期は、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の影響がわが国の経済界に波及し、景気勃興、福運増長し、船、鉄、株の成金の萌芽がいたるところに現れはじめたころだった。
その時代相が、私等の友人の間にも反映して、ここにさまざまな喜劇が展開した。その一例として、まず波多野長者を紹介することにしよう。
大正五(1916)七月の初旬であった。波多野古渓【承五郎】は、少し前に時事新報で発表された五十万円以上の資産家の表に名前が掲載され、これをただ微苦笑するだけでうち過ごすのかと思いきや、いっぷう変わった古渓先生は、逆に自分から切って出て、「拙者儀此度、長者仲間に加へられたるに就き、自宅に於て一夕新長者祝を挙行すべければ、何卒奮って御参会を乞ふ」との案内状を同人の間に発送した。
そこで当日の夕刻、上二番町にある波多野邸に推参すると、寄付の床には三井華精(注・三井高保)翁筆の恵比寿釣鯛図を掛け、床脇には、打出の槌(注・つち)と、大黒の形をした盆石を置き合わせ、まずは来客に当夜の先容(注・案内、紹介)を示してあった。その下に千両箱を三個積み重ね、二個には、箱に金沢益田の烙印があり、もう一個には御納戸用という書付があるのは、おそらく幕府御納戸方から出てきたものだろう。
それから程なく運ばれてきた晩餐の献立は、いずれもが長者祝いに縁のある名前の材料を選んであり、その心入れが尋常でないことが示されていた。
なお、この日の余興は、次のようなものであった。
余興
狂言 奥村金之助
一、三人長者 小早川精太郎
藤江又喜
唄 吉住小三郎
吉住小三蔵
三味線 杵屋六四郎
長唄 杵屋長三郎
一、紀文大尽 笛 住田又兵衛
小鼓 望月太左吉
太鼓 望月長十郎
太鼓 望月長四郎
唄 吉住小三郎
同 吉住小三蔵
一、七福神 杵屋六四郎
杵屋長三郎
さらにこの席上を見回すと、ちりめん鹿の子絞りの鯛を青籠に入れ、金華山金の成る木、と染め出した古風な財布に長者通宝という新調の銅貨を入れた配り物を並べ、主人はもちろんのこと、長唄連中にも、長者通宝の紋を染め出した揃いの仕着せを着用させるなど、凝りに凝った物数寄ぶりであった。
この宴会は三回を重ねたとのことだが、私のときの同席者は、朝吹柴庵(注・英二)、団狸山(注・琢磨)、藤山雨田(注・雷太)、岩原謙庵(注・謙三)ら十五、六名で、時代を反映したその異風な饗応には、来客一同あっと感嘆し、長者の豪勢ぶりを謳歌しない者はなかった。
藤原の紙成(下巻284頁)
これも時代を反映する喜劇的茶事の一幕であったが、その主人公としてここに紹介しようとするのは、王子製紙会社専務の、藤原の紙成【銀次郎】君である。
君は、明治四十四(1911)年より同専務となり、足かけ六年間、拮据(注・忙しく働くこと)経営の甲斐あり、また時局もその成功を助けて社運隆々となったので、近頃続出する船成、株成、鉄成の名称にちなみ、同人たちは君を「紙成」と呼んだ。
一夕、築地明石町の某亭に招待したところで、その趣向と言っぱ(注・言うのは)、寄付に雷公起雲図を掛け、雷を紙成に響かせ、本席には信実(注・藤原信実)筆の猿丸太夫に、平業兼が「奥山にもみぢふみわけなく鹿の」の歌を書きつけた一幅を掛けて、業兼(注・なりかね)を成金に通じさせる。茶碗は仁清作の金銀筋大小二ツ組を用い、道具から懐石献立にいたるまで、すべて紙成の意匠をこらしてあった。そのうえ、席の隅に祝賀帖を備え置き、参会者に随意に楽書きを乞うたので、昔の歌人の苗字らしき藤原を連想して、駄句の数々ができ上ったのである。
その中には、次のようなものもあった。
紙の本の人〇
ほのぼのと明石の町の夕ぎりに 金まうけゆく紙をしぞ思ふ
詠人知らず
千早振る紙のめぐみにしろかねも こがねとなりて花さきにけり
権化
此度はぬしに取あへず手向山 もみぢのにしき紙のまにまに
藤原の定価狂
銀が金になる世なりけり 紙無月どの手すぢよりまうけそめけん
このような、千早振る神代も聞かぬ名歌が、続々と書き連ねられたので、藤原君もそのままには捨て置かれず、このほど、ようやく出来上がった麻布新網町の茶席開きを兼ねて一趣向をこらすことになった。伊達家入札会にて落札した、兆殿司筆の緋衣達磨の一幅を掛け、道具、懐石にもそれぞれに応酬の深意を寓し、本来無一物といった悟り顔をしながら、悪友どもの鋭鋒を避けきった実業的手腕は、紙成大尽の初陣の大成功に終わり、目出度かりける次第であった。
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「箒のあと」227 松方公財政談
二百二十七 松方公財政談(下巻286頁)
大正五(1916)年九月二十八日、私は鎌倉で死去した三井物産会社専務、渡辺専次郎氏の別荘を訪問し夫人に弔辞を述べた帰途、同地に滞留中の松方老公(注・松方正義)を訪問した。
老公は折よく在荘で、さっそく私を客間に通してくださった。老公はこのとき八十四歳(注・1835年生まれなので、実際には数え年で82歳、満81歳)で、前頭は禿げ上がり、頭髪、口ひげともに純白だった。
例の、大柄な頑丈づくりの体格を揺らしながら満面に愛嬌をたたえて出てこられ、薩摩弁丸出しで音吐朗々と語るところは、九十以上の高齢を保たれた特別製の健康体であると思われたものだ。
私は、このほど公爵が私のために「嬉森庵」(注・向島の水戸徳川邸の茶室の名。277「嬉森庵の命拾ひ」を参照のこと)という扁額を揮毫してくださった好意に感謝し、室内飾り付けの書画や仏像について、ひとわたり問答をしたあと、話題はすぐに明治時代の経済政策についてに転じた。
このとき公爵がじゅんじゅんと語られた談話の中には、このような一節があった。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)
「明治九(1876)年、自分は大蔵次官であったが、三井の三野村利左衛門が、進取的の気性を備えた人物ではあるが、とかく仕事にしめくくりがないやり方なのを見て、かくては三井がながく繁栄を保つの道にあらずと思い、ここに三井一家の銀行を作らせ、この銀行に財力を集中して、家政のしめくくりをなさしむにしかず、と考えついたから、それとなく三野村に説いて、ついに三百万円の三井銀行を創立せしめたが、そのころ三井では、横浜の外国商館より百万円ほどの借金をしていたようなわけで、実際それだけの金を所有していたわけではない。
しかるに翌十年、三野村が死去するや養子の利助がこれに代わったが、この男は気の小さいほうで、利左衛門の尻くくりをなすにはまことに適当な男なので、幸いに破たんをきたさず明治十五年に及んだが、自分はその前年、大隈に代わって大蔵大臣となり、大隈の発行した不換紙幣を整理するの必要を感じた。
ところで米国その他各国の前例を見るに、不換紙幣を兌換状態に引き戻すには、一時経済界に非常なる緊迫をきたし、世間一般の不景気を招くのおそれあり、現に米国のごとき南北戦争後、不換紙幣の始末については非常に苦い経験をなめたことがある。
この時、かの大財政家シャーマン(注・財務長官ジョン・シャーマン。原文では「シェルマン」)が、その局に当たって紙幣整理の事業を始めたが、果せるかな物論沸騰して、ほとんどこれを中止せざるべからざるに至った。
それを、グラント(原文「グランド」)大統領は教書を発して、蹶然(注・けつぜん。きっぱりと)シャーマンの政策を支持し、みずから保障してこれを実行せしめたので、ついに有名なる不換紙幣の始末を完了することを得たのである。(注・シャーマンが財務長官だったのはヘイズ大統領時代なので、松方公の記憶違いか)
自分はこの事情を熟知して居るから、明治十四年、いよいよ紙幣兌換政策を樹てんとするに当たり、三条(注・三条実美)、岩倉(注・岩倉具視)両公に談じ、不換紙幣始末は、かくかくの径路を辿らなくてはならぬ、もし、その終局に達する前に、両公の御決心が動揺すれは、到底その目的を達することを得ぬが、この儀、果して如何、と言いたるに、岩倉公は、慨然として、わが不換紙幣を今日のごとくして経過せば、ついにエジプト(原文「埃及」)、トルコ(原文「土耳古」)のごとき状態に陥るべければ、断乎として、君の自説を実行すべしとて、大いに賛成の意を表された。
しかし自分は、なお安心することを得ず、明治天皇陛下に謁見して、陛下の勅裁を得ざるべからずとて、岩倉、三条、両公らに伺候して、細々と(注・詳細に)紙幣償却の方法を説明し、かくのごとくせざれば、ついに国家を危うするべし、陛下は明治初年において、太政官紙幣を明治十三年に兌換すべしと宣言せられながら、今日これを引き換え給わざるは、すでに綸言(注・りんげん。君主のことば)にたがわせらるるものにて、聖代の汚点、これより甚だしきはなし。されば、いかにしても、この紙幣の整理を実行せざるべからず、と述べたるに、陛下は、汝が申すごとく実行せよ、他日、なにようのことありとも、決して異議あるべからず、と誓わせられたので、自分はこれより、紙幣整理に取り掛かり、明治二十年、銀紙の平均を得るにいたるまで、非常なる苦境に立ち、伊藤(注・伊藤博文)、井上(注・井上馨)その他の諸公さえ、松方には困るとて、なかなか攻撃論があったが、自分は陛下の御誓言を得て居るので、断然これを決行して、ついにその目的を達したのである。
そのとき自分は、
銀の世となりてなほ思ふかな 黄金花さく春を見るべく
と詠じて、いつかは日本を金貨本位国となし、はじめて世界一等国の伍伴(注・仲間)に列すべく希望したが、日清戦争後、かの賠償金を得たのを幸い、これまた非常の論戦難関を切り抜けて目的通り金貨本位の制度を立て、爾来、日本の外国貿易上に、銀貨時代のごとき動揺を見ざるようになったので、自ら顧みて、いささか国家に微功を効したかと、ひそかに満足して居る次第である。」
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「箒のあと」228 秋山真之将軍
二百二十八 秋山真之将軍(下巻290頁)
日露戦争のとき東郷司令官の幕僚として、三笠艦上で、あの「舷々相摩す」の名文報告を作り、その名がたちまちにして当代に響き渡った秋山真之将軍は伊予松山の出身で、兄に好古将軍がいる。
頭脳明晰で、武略とともに文才を兼ね、第一艦隊付きの参謀としての画策がよく図に当たり対露軍略において貢献するところが非常に多かったことは、後年、当時の参謀官であった島村速雄将軍が極力賞揚しておられた証言を見ても、その一端を知ることができる。
私は秋山将軍と、二、三度対話したことがあるが、その最初は交詢社で初見の際に、「僕は茶のことは一切分からぬが、文章が面白いので君の茶会記は始終愛読して居るよ」と言われたときで、私はその知己の言葉に感激したものだった。
さて大正五(1916)年十二月、欧州大戦(注・第一次世界大戦)の戦況視察を終えて帰国された将軍が同気倶楽部(注・築地にあった会館か)で行った視察談は、単に当時の戦況を正視していたばかりでなく、その後の形勢をも予断していた。滞りなく肯綮にあたり(注・こうけいにあたり。本質をついていること)、今日から振りかえって、その先見に感服することが多々あるので、ここにその一節を示したい。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「ドイツが今度の戦争を惹起したのは、近時、かの国の哲学者が、しきりに自我主義を唱え出したのを、カイゼルはじめ、ドイツ国民が共鳴して、ドイツは世界を統一する使命を帯びたる者なりと慢心したのが、その一原因である。
また今ひとつは、近頃ドイツの人心がようやく浮誇安逸に傾かんとするので、これを真面目にするには戦争を行うにしかずという一種の高等政策が、その動機となったのだともいう。
ところでドイツが、平押しに進んで手もなくパリを陥落し得れば当初の目的を達し得るのであるが、そううまくは問屋が卸さず、たちまち周囲の障害に出遭って時日が予想外に遷延したのは、全くドイツの失敗であった。
しかしてこの当初の失敗は、結局、最終の失敗となるであろう。されば、独、墺(注・オーストリア)両軍は今や兵数の減少をきたし、物資、金融ともに極度の窮乏を告げ、今後一年くらいは、あるいは支え得べしとするも、それ以上に持続するあたわざるは数字において明白である。
ゆえに今後、連合国側において、単独講和などの変態が起これば格別、もし連合が強硬なるにおいては、遠からず独、墺屈服の時機が到来するのは万々疑いなきところである。
また仏国は建国以来、今日ほど国民の真面目になったことがないが、この国は一種不思議の国柄で、いざという場合には、軍人にも、政治家にも、経済家にも、非凡の天才が現れ出でて、狂瀾(注・手のほどこしようのない情勢)を、まさに倒れんとするにまわした例が少なくない。
しかして今や、仏国は興国の機運が隆々として居るから、自分はある仏国人に向かい、今日になって君らが真面目になるのは、すでに遅い。なぜ今日の覚悟をもって、戦争以前より内輪喧嘩を罷(注・や)め、軍備を整え、人口減少の弊を防ぎ、ドイツをして、これに乗ずるの機会を得ざらしめなかったか、と直言してやった。仏国人はこの点において、まことによく日本人に類似し、ことあれば真面目になり、ことなければ目前の利害に眩惑して、永遠の謀(注・はかりごと)を忘却するの弊あり、殷鑑遠からず(注・戒めは身近にある)、日本は最も、今日の仏国に鑑戒(注・戒めとすること)するところなかるべからず云々。」
秋山将軍は明治元年生まれで、大正七(1918)年、五十一歳で鬼籍にのぼられたので、無論、欧州大戦の結末を見るに及ばなかったが、前記の演説などには、ほとんど後世を透視したかのような趣がある。私は当時を回想し、いまさらながら将軍の達観に感服せざるを得ないのである。
聞くところによると、将軍は大学予備門時代、正岡子規と莫逆の親友で、時に俳句を吐かれたこともあるそうだが、和歌は本格的に学ばれたので、青年時代からおりにふれて数々の詠吟がある。そのなかで、歌人らしい句調を帯びたものに次のようなものがある。
漁村夕
風の音も身にしむ秋の夕暮に さびしくかへる海士の釣舟
また、ときどき画筆を弄んだこともあるようだが、なんといっても文章が最も得意なので、意図せずしてかの名文ができ上ったのであろう。
私は前述のように将軍とは深い交際もないので、特にその遺事を記述するつもりもなかったが、昭和八(1933)年二月十六日、山下亀三郎君から「秋山真之」と題する将軍の伝記を寄贈されたので、とりあえずその中に掲げられていた、将軍から山下君に送られた二通の書簡を通読し、将軍にいかによく人を見るの明があり、またよく事に処する断があったかということをつまびらかにし、帝国海軍のためにこのような才能ある人が早逝したことを悼み、かつ世間でまだよく将軍を知らない人たちのためにここに神龍の片鱗を示そうと、いささか古くなった記憶を呼び起こしてこの一篇を綴った次第である。
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「箒のあと」229 赤星家蔵器処分
二百二十九 赤星家蔵器処分(下巻294頁)
赤星鉄馬氏が、大正六(1917)年から三回にわたり先代の弥之助氏の遺品の入札売却を決行したのは、近世の道具移動史上、特筆大書すべき事件であった。
その入札は、第一回が三百九十万円、第二回が八十九万円で、第三回とあわせて約五百十万円に達した。空前だったのは無論のこと、以後十数年を経て昭和時代にいたってもなお、その半額に達したものがなかったことを見れば、あるいは絶後といってもよいかもしれない。
この入札がなされた事情について、赤星氏は次のように告白している。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらためた)
「拙者が今回、所蔵品を売却すべく決心したのは、ほかでもない、亡父弥之助は在世中、道具の取り扱いを厳重にし、老母のほかには、なんびとにも手を触れしめなかったので、老母も非常に苦心していたが、父の没後も、あいかわらず自身一手で取り扱って居るので、かかる骨折りが、いつまで続くべきものでもないと思い、近来、しきりにその処分法を考えてみたが、拙者は道具についてまったく無趣味である。しかし、刀剣だけは愛好するので、ここに、つくづく思い合わさるるのは、心なき者が、刀剣を取り扱って居るのを見ると、拙者は往々、ハラハラして、肝を冷やすことがあるが、道具を愛好する者より見れば、拙者等がこれを取り扱うのは、定めて同様に思わるるであろう。されば、刀剣なり、道具なり、兎角、数寄者に任するにしかず、亡父の遺品も、このうえ長く老母の手を煩わさず、断然これを売却して、世間愛好者の手に渡すのが宜かろうと決心したのである。」
赤星鉄馬氏は、このような決心をし、親戚であり親友でもあった、樺山愛助【のち伯爵】君に相談のうえ、三井合名会社理事長の団琢磨男爵に、この道具処分の一切の指揮を委託することになった。しかし団男爵は業務多忙のため、じっさいにその指揮に当たることができないので、私にその宰領の全権を委託されたのである。
さては私は、このころから「大正名器鑑」の材料の蒐集をしていたので、名器の調査上きわめて好都合であると思い、すぐにその依頼に応じ、東都および京阪の道具商から十三名の札元を選び、前後三回にわたって名品揃いの入札会を挙行した。
なんといっても、成金景気が勃興しつつあった時期のこと、人気はいやがうえにも引き立ち、仙台伊達家の入札会のときよりさらに一層めぼしい好況を示し、入札価格が八万円以上だったものが、実に次に挙げる十二点に達したのである。
梁楷筆雪中山水 金二十一万円
馬鱗筆布袋双福 金十三万一千円
元信筆全身龍 金十万五千円
名物猿若茶入 金十万円
東山御物玉澗筆蘭 金八万七千八百円
利休尺八花入 金八六千円
金岡筆那智滝 金八万五千六百円 (注・この現根津美術館蔵の国宝「那智滝図」は、現在は13~14世紀の作品と考えられているが、当時は9世紀の巨勢金岡筆と考えられていた)
砧青磁管耳花入 金八万三千三百三十六円
俊頼古今和歌集一巻 金八万二千円
青井戸茶碗銘こたま 金八万二千円
行成卿和漢朗詠集二巻 金八万円
玳玻盞天目茶碗 金八万円
さて、この赤星家蔵品入札は、いわゆる成金時期の中間で、景気はまだ絶頂に達していなかったが、前途春海のような希望に満ちているときだった。そのため競争の結果、意外な高価を出したものも多く、このときの落札品で、その後入札市場に出て、値段が二、三割方低落したものさえもある。相場の絶頂期ではなかったにせよ、この入札会などは、赤星家にとってはもっともよい時機を得たものであったと思われる。
この入札会では、稀世の名品を目の前にし、それを争奪しようとする虚々実々の駆け引きが行われ、のちの語り草になるような奇談も少なくない。
私なども、ザコの魚まじりをしてこの渦中に身を投じ、年来めがけていた猿若茶入を今度こそ買い取り、一生この茶入一品で押し通そう、などという途方もない願望を抱き、京都の土橋、大阪の春海に依頼し、六万円まで入札するようにと申し付けておいた。なのに彼らは、上景気に浮かされて、私に相談もせずに、とうとう九万八千円まで入札してしまった。ところが幸いに、十万円の札があったので、わずか二千円違いで私はかろうじて虎口を免れたのである。(注・このときの落札者は益田鈍翁)
この茶入であるが、大寂びの茶入で、私の二番札に接近するものはなく、三番札は三万八千円だったというから、私がもし入札しなかったら、この高値には達しなかったはずである。だから、六万円は私のお陰ですよ、と、赤星氏に語って、大笑いしたようなことだった。
赤星家は、先代弥之助氏が明治二十五(1892)年ごろから名器を買い入れはじめ、ほどなく東都名器収蔵家の巨頭(原文「巨擘(きょはく」)となりすましたのである。買収の時機がよかったので、実のところ安く買って高く売ったという結果になった。
鉄馬氏は、この入札後、百万円を割いて啓明会というものを組織した。これは毎年の収得を、学芸方面の事業奨励費に利用するというものである。家のためにも世のためにも、いわゆる一挙両得であり、道具処分において、まことによく有終の美をなしたものではないかと思う。
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「箒のあと」230 薪寺の一夜
二百三十 薪寺の一夜(下巻298頁)
大正五(1916)年九月二十日私は、その前月に、ある人の紹介で突然私の四谷天馬軒を訪問された城州(注・山城=現在の京都府南部)薪寺の客僧(注・修行で旅をしている僧)、月江僧正の勧誘にしたがい、奈良の道具商の柳生彦蔵を帯同して薪寺を訪問し、その夜、方丈に一泊した。はからずも禅寺の閑寂を味わうことができたことは、私の一生にとり、きわめて物珍しい思い出であるので、ここにその大略を記述することにしよう。
薪寺は、城州綴喜【つづき】郡田辺村字薪(注・たきぎ)にあるので、この名がある。亀山天皇の文永年間(注・13世紀後半の鎌倉時代)に円通大応国師がこの地に建立された霊瑞山妙勝禅寺が、元弘の乱(注・後醍醐天皇を中心とする1330年代の鎌倉幕府倒幕運動)の兵燹(注・へいせん。戦争による火災)で烏有に帰してから、しばらく廃墟となっていたが、国師の法孫である一休和尚が、その遺恩に報いるために開山堂と酬恩庵を建てた。そして和尚が八十二歳のときに、境内に寿塔(注・生前に建てておく塔婆)を造り、軒のひさしに「慈揚」の二字を掲げ、遷化のあとに遺骨をその塔下に埋めたことから世間では一休寺とも呼ばれている。
全体としてこぢんまりした寺院であり、きわめて気の利いた構造であるが、その特色というべき点は、方丈の前の庭園に十六羅漢遊行の形を表した巨巌(注・大きな石)や珍石が羅列されて奇観をなしているところである。
聞くところによると、この庭園は寛永のころ、この地に退隠して黙々庵を結び、茶事風流をもって残年を送った淀藩士、佐河田喜六昌俊が、その雅友であった松花堂昭乗、石山丈山の二人に相談して構築したものだという。ややもすれば俗悪に流れ易い築庭の趣向が、まったくそのような感じを起こさせないところに、布置結構(注・配置のデザイン)の妙があるのだろうと思われた。
さて、九月二十日、奈良から汽車で木津に赴き、そこから大阪桜ノ宮に通じる片町線に乗り換えて田辺駅で下車すると、月江和尚が停車場に出迎えてくださったので、そこから寺までの村道八丁(注・一丁は約109メートル)を歩き山門の入口に到着した。
その突き当りの石階段の上には、一休和尚の手植えといわれる、うっそうと茂る杉の老木が三本ある。甘南備【かみなび】山のふもとということで位置はそれほど高くないが、森閑たる境内は、おのずから人の心神を澄みやかにさせるものがある。
石階段を上りつめて右折すると、その正面が本堂で、むかって右手には一休和尚の墳墓と、元は京都東山にあった虎丘という禅堂があった。
そして、酬恩庵は左手の一段低いところにあったが、庵主は田辺宗晋といって、年の頃は六十五、六歳と思われ、見るからに寡黙で朴実な老僧であった。
私たちは、この日、境内を一覧したのち奈良まで引き返すつもりだったが、宋晋、月江両和尚が、しきりに一宿を勧めてくれるので、生まれてこのかた経験したことのない禅寺の雲水となるのも面白かろうと思い、ついにはその好意を受けることにした。しかしもともと一泊の用意をしていなかったので、柳生とともに老和尚の浴衣を借り受け入浴後に運ばれてきた食膳に向かうと、精進料理の納豆汁、椎茸、油揚げなど、都人(注・みやこびと。都会の人間)には、十にひとつも、のどを通らない御馳走だが、これもまた得難いひとつの経験だった。
夕食後、私たちは宗晋、月江両和尚と夜更けまで対話をしたが、談話の雄は月江和尚であった。和尚は、奇警(注・発想、行動が奇抜)で飄逸であり、しばしば人の頤を解く(注・人を大笑いさせる)ところがあった。ここでそのひとつ、ふたつを紹介するならば、「過日、ある夫人から、禅とはどういうものですかと質問されたので、禅は自分の向かうところに居るものである、と答えた。すると、ならばこれに近づくことはできるのか、というので、そうだ、自分の向かうところに、どこまでも向かっていけは、必ずその禅に近づくことができる、と答えた。禅は無門関(注・無門関は、禅の公案集のことだが、ここでは文字通り門のない関所の意味だろう)である。四通八達、筒抜けにして、当意即妙であり、行くところはどこでも行けないところはない。ある人が、ンとミと書いて、一休和尚に見せたとき、和尚は、そのかたわらに、『月と風と裸体になりて角力(注・すもう)かな』と書きつけられたということだ。」などというような、奇話を連発された。
夜がしんしんと更けてきたから、住職がどこからか借りてきたらしい、せんべい布団にくるまって、寝所にあてられた一室に横たわると、たちまちのうちに黒甜郷裡(注・こくてんきょうり。眠りの世界)の人となったが、このような山寺の気楽さは、障子一重のほかに雨戸も立てないことであり、四更(注・しこう。午前一、二時ごろ)の月あかりが射しこむのにフト目を覚まして廊下に出ると、酬恩庵のひさしのすみに、欠けた月が一痕(注・ひとつ)かかっているという物凄さは、得も言われぬ風情であった。私がもし禅坊主ででもあったならば、釈迦が暁天の明星を見て大悟したように、あるいは豁然(注・かつぜん。突然)として透徹したかも知れないなどと、脳裏に終生忘れ難い印象をとどめることになったので、またしても例の駄作を試みたのだった。
宿薪寺
残宵夢覚寂空廊 鬼気逼人杉樹荒 露冷陰蛩如有咒 一休墓畔月蒼涼
(注・蛩=こおろぎ、咒=まじない)
このほか、数々思い浮かべた拙句の中には、
夜もすがら蟲も経よむ薪寺
というのがあり、また、
古寺の簷端(注・のきば)にすがくささがに(注・蜘蛛)の 絲にかかれる有明の月
というのがあった。
そうこうする間に、夜が白々と明けて、本堂のほうに、かんかんと鳴り響く鉦の音につれ読誦(注・どくじゅ。経を読むこと)の声が、さやかに聞こえ渡ったので、私たちはいつになく早起きして盥嗽(注・かんそう。手を洗い口をすすぐこと)し終えると、すぐに方丈にむかい、一休和尚の木像の前にひざまずいた。
今日は九月二十一日で彼岸の中日にあたっており、また一休和尚の命日だというので、なにやら浅からぬ因縁があるように感じ、朝食後くまなく境内を見てまわり、また佐河田喜六の黙々庵にも立ち寄り、午前十時ごろに辞去した。
今回の所見を詳述しようとするとあまりに煩雑にわたってしまうので、ただ禅寺で一泊した感想だけにとどめることにする。