だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百一 実業懺悔著述の由来(下巻192頁)

 私は、前述(注・197)したように、大正三(1914)年に「がらくたかご」を著述した。そして、一年をへだてた翌年の四月に、さらに「実業懺悔」と題する新著を発刊した。これを著述したのには次のような由来がある。
 人は、生から死にいたるまでさまざまな境遇に出会うもので、短い時間のあいだに波瀾の多い急流を漕ぎまわるようなことがあるかと思えば、比較的長いあいだ平々坦々な単調な境涯を過ごすこともある。人物の賢愚にかかわらず、大なり小なり、みな自分の歴史を持たぬ者はない。蟻のような小さな虫であっても、もしもその履歴を語り得るならば、一匹一匹みなその経歴談があるはずだ。
 おりよく獲物を探り当てて贅沢に冬ごもりしたこともあろう、あるいは人間という怖ろしい動物の足下に踏みにじられて九死に一生を得たこともあろう。頼りにしていた木陰に大雨が漏り、ノアの洪水を思い出すような惨状に遭ったこともあろう。あるいは一片の木葉舟に取りすがって、あやうく水溜まりを乗り越えたこともあろう。
 蟻ですらこのとおりさまざまな経歴があるのだから、ましてや人間においてをや、である。たいていなら、より以上の苦楽、吉凶、得意、失意があるのではなかろうか
 下司の智恵はあとから出る(注・愚か者は、必要なときによい考えが出ず、あとから思いつく、の意)というとおり、振り返って己がなしたことを考えて、ああでもあるまい、こうでもなかった、と毎度後悔することが多いのは、十人が十人たいてい同様だろうと思う。
 故中上川彦次郎の談に、こういうものがある。サンフランシスコあたりの大成金者が、生前に自伝を書かせて知人に贈ったとき、ある知人が、君は非常な幸運者であるが、もし君が今一度生まれ変わって同じ世の中に出たならば、どうするかと聞いてみた。すると成金先生は、拙者は何度生まれ変わっても、同じことを繰り返すつもりであると答えたそうだ。およそ人間にうぬぼれということがあっても、まずこれほどのうぬぼれはないだろう。もしこの人が痩せ我慢でなく、真実このように思ったのなら、天下でこの人ほど成功した人はなく、また幸運な人はなかろうと言われた。
 なるほど、これは、中上川氏の言われるとおりであろう。古往今来、幾多の英雄豪傑があるやら知らぬが、ためしにその心事を尋ねてみたら、あのとき、ああもしたらよかったろうと、あとから悔しがることが数々あるだろうに、その生涯を顧みて、みずから完全無欠であると満足する人は、じっさい非常に少ないだろうと思う。
 さてわたしは、ふとしたことで実業界にはいり、碌々として(注・ろくろくとして何もしないまま)二十一年間この社会の厄介になったが、振り返って考えてみると毎度失策だらけである。もし私に多少の悟道心もなく、私が、死んだ子の齢を数えるように、いたずらに後悔するような人間であったなら、残念残念と百万回繰り返すことだろう。しかし私は、実業界にあったとき、初めから大きな成功を期していなかったので、いまさらその成功について語ることはもちろん、その失敗を語ることさえあまり気乗りがしないのである。
 しかしとにかく、この社会にはいって働き盛りの二十一年間を消費したからには、そのあいだにいかなる仕事に当たったか、いかなる人物と接触したか、いかなる経験をし、いかなる感想を抱いたかということを叙述し、それを読む人に多少の参考資料を提供するのも、あながち無意味ではないだろと考えたのである。この間における私の一切の行動と自信とは、次の一首に言い尽くされている。

   なしし事拙なけれどもかへりみて 疚しからぬがうれしかりけり

 さて、「実業懺悔」を刊行するにあたって、私はこれを、日本の外国貿易創設者であり、また三井財閥の中興の元勲である私たちの先輩、益田孝男爵に内示した。すると男爵は、私のために懇篤な序文を執筆して寄せてくださった。その中に次のような一節があった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)
 「明治の実業界に於ける高橋君の功名は、事珍しく吹聴する迄もなき事ながら、予が最も感服したるは、君が三井銀行より同呉服店に転じ、所謂越後屋伝来の商売に大革命を加へたるにあり、昼尚ほ暗き土蔵作りの店舗に、十数名の番頭が、火鉢を左にし、掛硯を右にし、大算盤を膝にし、客の註文を聞きては、小僧を呼んで品物を持ち来らしめ、一客又一客、繁雑窮りなく、時間を空費すること、程度を知らざる旧弊を一掃し、店舗全部を開放して陳列場となし、客の好むに従って選択するに任せ、自他共に愉快にして便利なる商売と為したるは、実に君が新工夫にして、破天荒と云はざる可らず。三井呉服店が気運に乗じて、今日の『デパートメント・ストア』を成したる、爾後日比翁助君等の経営に俟つこと多しと雖も、其端緒は高橋君の創意によりて拓かれらるなり。而して独り三越のみと云ず、白木屋、松屋等の老舗も、遂に全く面目を一新するに至れり。此他幾多の実務に於ても、亦忙中の余技に於ても、君が新意匠に感服したること屡々なりき、爾後君は三井鉱山会社の理事と為り、次いで又王子製紙株式会社の業務を担当し、到る処好印蹟を留められたりと信ず云々。」
 益田男爵の序文における過褒は、あえて当たらずといえども、知己の言としてありがたく頂戴した。
 私は、まだこのほかにも感じるところがあり、「水戸学」という一著も著述したので、ついでながら項をあらためて、その趣意を告白することにしよう。(注・「水戸学」著述については218220を参照のこと)


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二百二  香川皇后宮大夫(下巻196頁)

 皇后宮大夫、枢密顧問官、伯爵である香川敬三氏は、大正四(1915)年三月十八日に糖尿病に癰(注・はれもの)を併発し、七十七歳をもってそのもっとも波瀾の多い生涯を終えられた。
 伯爵は水戸藩領内の伊勢畑村の郷士である蓮田家に生まれ、同村の神職である鯉沼伊織の養子となり(注・未調査だが養父の名は意信で、伊織は香川自身の過去の名のようだ)、藤田東湖の塾に学んだ。慷慨(注・こうがい。正義にはずれたことに憤るさま)にして気節(注・心意気と節操)あり、当時、天下の風雲がはなはだ急であるの見ておおいに期するところがあり、撃剣を水戸藩の剣客だった松平将監(注・しょうげん。徳川慶喜の異母弟、松平武聰[たけあきら]か?)、大越伊予らに学び、つとに抜群の誉を得た。

 かくて、安政の末年、水戸藩に攘夷の密勅がくだるや、伯爵は同志三十七名とともに江戸に出て、一時、身を薩摩藩邸に寄せた。そのとき伯爵は二十歳で、浪人蓮見東太郎と名乗り、維新の大舞台に活躍すべく、すでにその第一歩を踏み出したのである。しかしそのことが世間に洩れ、ほどなくして幕吏に捕らえられ駒込の水戸藩中邸に拘禁されたが、文久三(1863)年の将軍家茂上洛のとき水戸藩主の慶篤(注・水戸徳川藩10代藩主よしあつ)に従って上洛した。ついでその弟である昭武侯が、かわって御所(原文「禁闕」)護衛の任に当たるようになると、伯爵は隊士の列に加わりながら勤王志士と気脈を通じ、薩摩、土佐に往来し、また岩倉村に蟄居中の岩倉公らとも相知るようになった。
 その後高野山において義兵を挙げたこともあったが、奥羽征討の事件がおきると、東山道の官軍に加わって東下し、有名な新撰組の隊長である近藤勇を虜にするなど、壮年時代の活躍は実にめざましいものがあった。
 伯爵は、上背は五尺(注・一尺は約30センチ)に足らず、矮躯厚肉(注・身長が低くてがっしりしている)で、一見するとその容貌は赤鬼のようであるが、温顔で人とふれあう際には機敏ななかに愛嬌がある。
 かつて岩倉大使に随行して欧米に漫遊したとき、英語、フランス語それぞれ百ほどの言葉を暗記しただけで巧みにそれを応用して、用事を済ますのにまったく差し支えがなかったということを見ても、その機転が並ではいことがわかるのである。
 人となりは清廉で親切、水戸藩志士の遺族に対しては常に率先して救援の手を差しのべ、その贈位などについて熱心に仲介の労を取ったことなどを見ても、その故旧(注・昔からの知り合い)を大事にする一端を見ることができる。
 ふだんはきわめて恪勤(注・かっきん。まじめに職務にあたること)で、ものごとの処理を緻密に行うので、宮廷においてもっとも複雑である皇后宮大夫の職に奉じ、女官たちをじょうずに心服させた。
 明治三(1870)年に宮内省にはいってから四十七年のあいだ要職にあり、七十七歳の高齢まで勤続し、正二位勲一等伯爵の地位にのぼった。
 薨去の際には特旨で従一位に叙せられたことなどは、水戸藩の出身者としては、藩主徳川公を除いてまったく例をみないことである。
 私は伯爵の生前に、しばしば行き来しあったので、伯爵も腹蔵なくその意中を語られたが、「宮内官として長くその職に奉じるためには、きわめて清廉に身を持さなくてはならないし、貨財(注・金銭や物品)からはつとめて遠ざからなければならないので、職務上の交際もあるので、なにやかやと、自分たちは極度の倹約をしないことには借財を余儀なくされる場合もあり、長年、官の道で奔走してきたのに家に余財は残っていない始末である」と述懐されたこともあった。伯爵は久しく要職にありながら、その身に問題が及ぶことがまったくなかったのは、なるほど、いわれのないことではなかったのだと思われた。
 また、伯爵の老練で用意周到なことの一例は、明治四十四、五(191112)年ごろ、私の一番町宅に故徳川昭武侯爵一家を招請したとき、伯爵および令嬢しほ子嬢(注・香川志保子、権掌侍取扱)も来会されたが、この日伯爵は、一時間もはやく来宅され、みずから席順までも指図し、自身は伯爵でありながら徳川家連枝の末座に列し、自分等の伯爵は、お大名のそれとは違いますから、今夕はここに着席しますといって、席のことも万端ぬかりなく整えられたことである。女官らとの交渉ごとが多い皇后宮大夫の職にある者は、このような緻密な用意がなくては勤まらないものなのだろうと思われた。

 香川伯爵の葬儀は四月二十五日に行われた。遺言に従い、当日午前九時から十二時までのあいだ、紀尾井町の本邸で告別式が行われた後、青山墓地で埋葬式を挙げられた。
 自宅で告別式を行うことは、このころから流行しはじめたことで、一、二の前例があるかも知れないが、今回のことがほとんど嚆矢に近いものだと思う。
 明治三十年代までは、一般の葬儀では葬列を立て、会葬者が寺院または墓地まで送棺するのが常だったが、やがてこの会葬のやり方をしなくなると、今度は寺院か斎場で法要を営み、会葬者を長時間参列させるという場合が多くなった。しかし香川伯爵が遺言で今回のような告別式の方式を採用されたのは、長く宮廷にあって各種の儀礼に熟達し、かつ普段から非常に思いやりの深い人だったので、死後に友人を煩わすことをおそれてこの葬儀法を実行させたのに違いない。
 死後のことに関してまでその用意が周到だったことからも、おのずからその平常を見ることができるのである。
 思うに、伯爵が岩倉具視公と意気投合し、公からもっとも深く信任されたのは、性格が酷似していたために違いなく、伯爵のような人は明治時代における能吏のなかの巨擘(注・きょはく。親指、転じてすぐれた人)として、おおいに尊敬し値する一人であろうと思う。
 


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二百三  後藤伯と福澤翁(上) (下巻199頁)

 私はここで、後藤象二郎伯爵と福澤先生の交際に関する三宅豹三氏の談話を紹介しようと思う。
 三宅氏は、備後福山は御霊村の名家の生まれで、明治十二(1879)年に出京後、福澤先生の玄関番をふりだしに、あるときは時事新報記者となり、あるときは後藤象二郎伯爵の秘書官となり、またあるときは大河内輝剛氏とともに歌舞伎座の経営にあたるなど、いたるところで愛嬌をふりまいて交わる人々に重宝がられた存在だ。しかし、いわゆる器用貧乏で、とりたてて栄達を見ることはなかった。
 ただ、その人となりがひょうきんで、文筆も達者で、座談に長じており、きわめて愉快な才子肌なので、わたしはもっとも長いあいだ親交を続けた。
 氏は井上角五郎氏の後継者として後藤象二郎伯爵の秘書役となり、伯爵と福澤先生の間の仲介をした関係から、その内情について非常によく通じていたので、氏の談話の中から、もっとも興味深い部分を抜粋して次に掲載することにしよう。(注・原文通りだが、漢字をひらがなになおした部分がある)

「僕は明治十二年に上京して、福澤先生の玄関番となったが、これは僕の兄が、寺島宗則伯の家庭教師をしていたので、兄が伯より福澤先生に頼み込んで、僕を玄関番に住み込ませたのである。
 ところが明治十七年、金玉均が朝鮮事変で日本に逃げてきたとき、前々よりの関係で、福澤先生はおおいに金玉均を庇護し、朝鮮の改革をなすには、金玉均が必要だと言っておられた(注・20「金玉均庇護」に関連記事あり)。
 このころは、袁世凱が朝鮮で権力を振り回している最中なので、王妃閔氏(注・
妃)は日本にある金玉均がいつ襲来するかもしれぬというので、しきりにこれを袁世凱に訴え、袁世凱はまたこれを李鴻章に言い送って、李鴻章より日本の外務省に突っ込んできた。

 ところで外務省は、当時シナの勢力を怖れて、金玉均を小笠原島に流し、同島の気候が金玉均に相当せぬというので、さらに北海道に移したりなどする間に、福澤先生が暗々裡に金玉均を保護したその心づくしは、実に至れり尽くせりであった。
 しかるに明治二十六年になって、東京駐箚のシナ公使、
方(注・李鴻章の甥で養子。原文では経芳となっている)が後藤象二郎伯と懇意なので、福澤先生は後藤伯を通じて李経方に説き、金玉均は朝鮮を改革するに最も必要なる人物であるから、シナにおいても彼を忌避せず、むしろこれを利用する方が宜しかろうと言わしめたのである。

 ところが李経方は李鴻章の甥であり、かつ歴代シナ公使中もっとも有為の人物であったから、すぐに後藤伯の進言を容れ、そのなかシナに帰って李鴻章を説き、金玉均と直接面会せしむべく内約するに至った。
 かくして、李経方が帰国の途次、まずその郷里なる蕪湖に帰省している間に、多年無聊に苦しんでいた金玉均は、しきりに李鴻章との会見を急ぎ、李経方のあとを追って、まさに上海に赴かんとした。
 一方、王妃の内命を受けた刺客、洪鐘宇(注・ホンジョング。李氏朝鮮末期の高官)は、この機会に乗じてその目的を達せんとし、甘言をもって金玉均に近づいてきた。
 しかるに、これまで王妃が日本に送った刺客は、ただ褒美の金を取り出さんとする者で、真実使命を果たさんとする者なければ、金玉均もまた、これを見透かし、王妃より取り出してきた刺客の金を巻きあげたことさえあり、洪鐘宇もまた、この類ならんと思い、刺客と知りつつ油断していると、洪鐘宇は従来の刺客と違って、思慮周到に計画を進め、金玉均に油断させるため、一時フランスに赴いて、しばらくかの地に滞在したれば、彼が再び日本に帰ってきても、金玉均は彼を疑う心なく、ただ彼が朝鮮服を着け、朝鮮髪を蓄えているのが、少しく変だと言っていただけで、まんまと彼の策戦計画に引っかかり、不用意にも彼とともにシナ行きを企て、最初後藤伯より二千円ばかりの旅費を借用したが、借金払いなどして、わずか二、三百円の旅費をあますに過ぎなかったのを、洪鐘宇は巧みに金玉均に説き、シナに渡れば、朝鮮の志士、尹雄烈(注・ユンウンニョル)などが待ち受けているから、金子の心配は無用なりとて、ついに上海まで同道し、金玉均が眼病を患って進退不自由なるに付け入り、上海の旅館において、ついに彼を銃殺したのである。
 このとき、金玉均の友人らは、屍体を日本に引き取りたいとて奔走したが、時の外務大臣林董伯が、この議を拒み、上海の土地で起こったことに、日本より容喙するのは不条理なりと言い張ったので、屍体はやがて朝鮮に送られ、数個に切断して、各処に曝さるるというがごとき大悲劇が演ぜられたのである。
 しかしこれらの惨状が動機となって、朝鮮に東学党の変乱が起こり、ひいて二十七八年の日清戦争が巻き起こさるるに至ったので、事実においては、金玉均の一死が、日本の世界強国の仲間入りをさせたものだといっても宜しかろうと思う。」


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二百四  後藤伯と福澤翁(下)(下巻202頁)
(注・203・後藤伯と福澤翁(上)からのつづき)

 三宅豹三氏の後藤(注・象二郎)伯爵と福澤翁に関する談話は、これよりいよいよ佳境にはいり、それまで私などがおぼろげながら聞いてきた事実を明らかにしたことも少なくないので、ここに継続して記すことにする。

 「後藤象二郎伯は福澤先生と内々協議の末、明治二十八年秋、天機奉伺(注・天皇にご機嫌伺いをすること)として広島の行在所に赴いたその時は、李鴻章が講話談判のためにまさに日本に来たらんとする直前であったから、伯は、右講話に関して所見を述べ、土方(注・久元)宮内大臣を経てこれを聖聴に達した。
 その趣旨というのは、講和条件として日本はまず京釜鉄道を納め(注・この時点で京城釜山間の鉄道はまだ敷設されていない。鉄道建設の権利を手中に納めるという意味)、これを延長して、鴨緑江に達する権利を得ること、最高顧問を朝鮮に派遣して内大臣兼侍従長たらしめ、日本公使のほかに独立の顧問府を立つることであった。
 この献策は早くも朝鮮側に聞こえたので、親日派の朴泳孝、兪吉濬(注・ユ・ギルチュン)が、いわゆる最高顧問を日本より迎えんがため、さっそく来朝して福澤先生を訪い、何人がその顧問に適当なりやと問われたのに答えて、先生は後藤象二郎伯が最適任者であると言われたので、朴泳孝らは、さらに後藤伯を訪いて朝鮮の最高顧問たるべく懇請したれば、伯の悦び大方ならず、かくてこそ象二郎も、はじめてわが死処を得たとて、慨然として(注・心を奮い起こして)これに任ずるの考えがあったが、一方広島のほうでは、後藤が最高顧問となって公使以上に働くようになったらいかなる椿事をしでかすかもしれぬとて、井上馨侯を公使として朝鮮に遣わすことになったので、後藤伯最高顧問の画策はまったく水泡に帰したのであるが、井上侯が朝鮮公使となり、三浦梧楼子(注・子爵)がその後を継いで、ついにかの王妃焼殺し事件(注・閔妃殺害事件のこと)が勃発するに至ったその経過を傍観していた後藤伯は、さだめて感慨無量であったろうと思う。
 僕は、最初後藤伯の秘書役をしていた井上角五郎の後任として、明治二十四年より三十二年までの間、後藤伯に仕え、家族同様に暮らしていたが、それ以前、福澤の玄関番をしていた時と後藤の秘書役となった時と、家庭の状態が全然反対であったのには実に驚かざるを得なかった。
 先生の家は御承知のごとく、いたって静粛で行儀のよい習慣であるのに、後藤の家ときては、奥さんが吸付たばこを後藤さんに渡せば後藤さんがよろこんでこれを受ける、富貴楼や武田家などいう茶屋の女将が、始終いりびたっている、五代目菊五郎をはじめ、知名の俳優連が繰り込んできて、歌をうたうやら、歌留多を闘わすやら、その乱暴狼藉は、言語を絶するほどであった。
 そのうえ後藤さんは、非常な贅沢者で、食膳には、いわゆる山海の珍味を集むる流儀であったから、たまたま福澤先生に招かれて、その御馳走にあずかることは非常な迷惑なのであるが、後藤さんは先生に対しておおいに勉め、先生は談話が長くなると無遠慮にあぐらをかいて話さるるが、後藤さんは厳格にきちんと座ってその話を聞くというようなありさまであった。
 ある時、福澤先生が突然、後藤さんの家を訪われると、後藤家ではソラ、先生が来たとて目ざわりの者を片づけたが、ボーイが花札を戸棚の上に置き放しにしてあったのを先生が見つけて、これはなかなかお楽しみでありますな、と言われたので、さすがの後藤さんも非常に赤面したなどという珍談もあった。
 先生はおりおり、芝浦にあった後藤の妾宅を訪わるることもあったが、そのときの御馳走は、松金の鰻と定まっていた。ところが後藤さんが福澤のほうに行くと、常食の麦飯を出され、ある夏、食後に氷と鉋(注・かんな)を木鉢に入れて出されたが、先生はその鉋で氷を削って砂糖を振りかけて後藤さんに出されたので、自宅ではアイスクリームを食べて、世の中に氷を生で食べるほど野蛮なことはないと言っておらるる後藤さんが、どんな顔をして氷を食べたろうかと、大笑いをしたことがあった。
 後藤さんと福澤先生とは、かような性格の違いがあったので、あるとき後藤さんが福澤先生を評して、中上川の姪(注・福澤の姪で中上川彦次郎の妹の澄子)を、不男なる朝吹英二にめとらせたら大切にするだろうと思ったところが、この朝吹が大道楽者で、おおいに当て違いをしたこと、それから、平常、養生ということを口にしながら、ときどき河豚(注・ふぐ)を食わるること、娘さんを大切にするというので、その言うがままに任せておくこと、これが福澤の三失策であると言われたことがある。
 かく性格の反対した両雄が意気相投合したのは不思議なことで、その間に奔走してこの有様を目撃した僕は、一種の奇観として少なからず興味を感じた次第である。」


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二百五  高田慎蔵氏の風骨(下巻206頁)

 明治の初期から大正末期にいたるまで陸軍御用達の貿易商を営んで内外の信用を博し、朝野(注・政府と民間)の各方面に知人多く、書画骨董を好んで、おりおり風雅の会合を催すなど、東京の紳商のなかにあって一種異様な風骨を備えていた高田慎蔵氏は、佐渡国相川の土着士族のせがれである。
 佐渡は幕府の直轄なので、王政維新の際に、幕臣で後年茨城県知事などを勤めた中山信安が、同地の士族の一団を率いて会津軍に加勢しようとしたとき、高田氏はいまだ十四、五歳の少年ながらその徒党に加わって出陣しようとした。しかしその前に裏切り者が現れて、結局これを果たすことはできなかったが、士族の子として一種の気概をたたえていたことは、後年に東都の交際裡に立つにおよんで自然とその素養をうかがうに足るものがあった。
 明治二(1869)年に、井上勝子爵が、イギリス人のガール(注・鉱山技師エラスマス・ガワ―のことだと思われる)という鉱山技師を従えて佐渡を視察したとき、高田氏はその才気を認められ、いろいろと立身出世上の助言を得、明治三年に上京してドイツ商人が経営していた商店(注・アーレンス商会)に住み込んだ。
 明治十二(1879)年に諸官庁が西洋人から品物を買わないという布達を出したので、そのドイツ商店(注・アーレンス商会ではなくベア商会に当時勤めていた)は表面上、高田商会の名前で陸軍御用達を勤めることになり、同二十二年には、高田氏が完全に私有するにいたり、以来、高田組の名声は旭日沖天の勢いを呈するにいたったのである。
 高田氏はもともと左利き(注・酒好き)であったが、とりわけ洋酒を好み、湯島にあった氏の西洋館の地下の洋酒倉には葡萄酒その他各種の洋酒類が蓄えられ、およそ百年くらい前からの生産年別に品等を分け、室内の温度をいつも六十度(注・華氏60度は摂氏約15.6度)くらいにして保存するというたいへんな手間ひまかけた入れこみようだった。
 かの世界大戦中にフランスからの葡萄酒輸出が途絶したとき、「東洋でボルドー産の古葡萄酒を保蔵するのは、ただ我が酒倉のみなり」と自慢して、各国大公使蓮を羨ましがらせたのは有名な逸話だ。
 高田氏はとくに学問をした様子もないが、佐佐木信綱氏について晩学ながらも和歌を学び、また座談に長じ、ときどき頓智をひらめかすこともあった。
 日露戦争中、曾禰子爵(注・曾禰荒助)が大蔵大臣であったが、日本で金貨の不足が憂慮されたとき、奥州気仙山に金脈があるという風説を信じて日本に大金山があると発表したことがあった。それは、たちまち外国に電報で伝えられ評判になったが、農商務省の技師たちがまじめに事実を否認したため、曾禰子爵は激怒して金鉱の管轄を農商務省から大蔵省に移した。
 この時山県公爵は、曾禰子爵が気仙の金鉱熱に浮かされているのを危ぶみ、ある宴席でそのことを語りはじめたところ、高田氏は左右を見回し、声高に「気仙に金鉱あるのは事実です、このことについては、いずれ明日参上して、委細申し上げます」といって、翌日山県公爵を訪問し、「今や大戦中にあたり、海外において日本に金鉱ありという評判があるのは、まことにもっけの幸いである。農商務省の技師が大勢に通じないままに、むやみにこれを否認するのは大馬鹿者である。閣下より、農商務大臣の清浦子爵のち伯爵に御沙汰あり、技師たちの主張を取り消させるほうが得策でありましょう」と申し出た。
 山県公爵も、いかにももっともであるとして、すぐにこの旨を清浦農相に伝え、金鉱有無論もうやむやのままに立ち消えとなったが、当時外債募集のためにイギリスに出張中だった高橋是清子爵は、この風説が募債の助けになったということである。
 この例なども、高田氏の頓才が場合によって縦横に活躍したひとつのあかしとして見られるべきではなかろうか。
 高田氏は、中年より思い立って、仏画や、宋、元、ならびに本朝の古画の蒐集をはじめ、下條桂谷画伯を顧問にしてその選別を任せた。そのため、収蔵の富は東都における一方の重鎮たるにいたったが、そのなかに弘法大師筆とされる木筆不動尊の大幅があった。
 これは、明治四十一(1908)年に、高田氏が高野山の龍光院で感得した(注・修行して手に入れた)ものなので、信仰と鑑賞の両方の意味を兼ねており、翌明治四十二年から、本郷湯島の自邸で不動祭をとりおこなうことになった。
 大正三(1914)年三月二十八日の不動祭は非常に盛大なものであった。当日、各室に陳列されたもののなかには、土佐為継(注・藤原為継)筆の在原行平像、伝信実(注・藤原信実)筆の藤原鎌足像、趙子昂筆の廬同煎茶図、崔白筆の波に群鷺図、渡辺崋山筆の富士山図など、稀代の名品が少なくなかった。
 その日主人が短冊にしたためた和歌には、

  年ごとの今日の祭にみすがたを 仰げば更に尊かりけり

とあり、また同じく短冊に物された山県含雪公爵の歌は、

  かくれゐし高野の奥のみほとけは 世に出でてこそ光ありけれ

というものだった。
 そのころの高田氏は、おそらく成功の絶頂期であっただろう。氏の没後まもなく起こった大正十二年の大震火災では湯島の本邸が烏有に帰し、上記の数々の書画を一炬に付して(注・いっきょにふして。全部燃やして)しまったが、氏が生前にこの悲惨を見ることなく亡くなったことは、むしろ幸運であったかもしれない。


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   二百六  

法螺丸翁の刀剣談(下巻210頁)

 杉山茂丸翁は、人呼んで「法螺丸」というが、自身もこれを甘受して毎度豪傑ぶりを発揮している。
 しかしながら、他のことは知らないが、その刀剣談についてはまったく真剣で、おおいに傾聴に値するものがある。
 大正四(1915)年三月二十九日の団琢磨男爵主催の山谷八百善での晩餐会に、翁は黒田家から拝領したという相模守正弘作、中身一尺二三寸、文安年号銘の一刀を持参し、これを主人の団男爵に寄贈したあと得意の長講を一席ぶった。(注・一部漢字を新字やひらがなに直したほかは原文通り)

「刀剣は古来、武士の魂としてあるので、これを扱う方法も、研究に研究を重ね、たとえば君侯の前にこれを拝見するときのごとき、ほとんど茶礼に異ならざる作法があるのである。また刀を差すときは、刃を上にして差し、これを見るときも、また刃を上にするのは太平の象(注・しょう。すがた、ありさま)である。
 しかるに、いったん事起こりて、刀を抜かんとするとき、反りを打って刃を下にするのは有事の象で、大将が軍陣に臨むとき、刃を下にして太刀を佩く(注・はく)のもまた同じ意味である。
 日本では古来刀剣をもって武器の第一としていたから、その研究はおおいに進んで、第一鍔元に鍔をつけ、切羽鎺【せっぱはばきを同処に付属するが、この切羽は、多くは銅、真鍮、金などのごとき、鋼鉄とその性質を異にするものを用い、しかもその接続の間に多少の空虚を存するのは、強烈なる打撃に耐ゆる工夫なので、もし日本の刀剣を外国のそれのごとく扱って、鍔先になんらの工夫も施さなかったら、本来堅き銅鉄とて、実戦に臨んで、たちまち打ち折られてしまうであろう。
 また刀を鞘に納むるとき、刀身が鞘の中の木質に触わるれば、必ず錆を生ずるから、刀を鞘に納めきったときには、鍔元において刀の中身が、鞘の中のどこにも触れざること、あたかも魚が水中に浮かぶがごとくに仕掛くるものである。
 この発明は、日本の鞘師が、古来秘法として伝えたものだが、往時刀剣流行の際、もし専売特許というものがあって、その発明を専売にしたならば、その発明者は非常な利益を得たであろう云々。」

 

太郎冠者の舞曲談(下巻211頁)

 太郎冠者とは、劇作家としての益田太郎の雅名(注・雅号)である。大正四(1915)年四月三十日、福澤桃介氏が築地新喜楽において珍芸会を催したとき、太郎冠者は批評家のひとりとして来会し、いろいろな芸評を行った。その中には、そのころから台頭しはじめた、西洋楽器演奏による日本の歌についてや、西洋人から見た日本舞踊の評などもあった。ここで、その断片をあげてみよう。
「日本の舞踊は、従来我も人も、きわめて丸くして、角なきものと思っていたところが、先般、ある米国人が、日本の舞踊を見て、さてさて角立ちたる踊りかな、と評したのを聞いて、はじめて気がついて考えてみれは、日本の舞踊は、一手ごとに、手や足がガクリガクリと行きどまっては、またさらに新しい運動に移るので、見ようによりては、非常に角張ったものと見られぬこともない。

 かのエジプト(原文「埃及」)やインドの踊りが、手振りはかんたんでも、接続点の明白に角立たぬのは、その特長と見るべく、日本の舞踊中、京都の片山流のごときは、一段角張ったものであるが、その角張った踊りを賞揚すべきか否かは、ひとつの研究問題であろうと思う。
 西洋の楽器に合わせて日本の唄をうたうときに、その意味が分明ならずとて毎々不平をきくことがあるが、これは最初より日本の文句に合わせて西洋音曲の節付けをしたのでなく、十中八、九は翻訳もので、たとえば西洋の言葉で「マイファーザー」というのは、三シレブル(注・シラブル。音節)であるが、これを日本の言葉に翻訳すれば、「私の父」というので、数シレブルとなる。このシレブル数の相違のあるにかかわらず、「マイファーザー」と「私の父」とを同じ間合いに唄おうとするから、言葉が詰まって、その意味が聴き取れぬようになるのである。
 されば、日本語で新たに文句を組み立て、その文句に合わせて、西洋音曲の節付けをなせば、今日のごとく意味のわからぬはずはなかろうと思う。
 近来日本では、西洋音楽趣味が普遍する傾きを生じ、第一、学校教育でピアノやヴァイオリンなどを教授するので、西洋音楽がもし男女に耳に慣れて、これをよろこぶことになるのはもちろんであるが、しかし一国の音楽は、楽器のいかんにかかわらず、まったく他国に化し去るものではない。欧州において、彼がごとく(注・あのように)接近する英、仏、伊、独、露、墺の諸国が、各自その国に歌曲を持っているのでもわかる通り、日本においても、楽器にいかんにかかわらず、無論自国の歌曲があるべきはずである。ただ日本の楽器が、西洋の楽器と相対して、日本の歌曲を発達せしむるにいかなる働きをなすべきやは、今後、年とともに決定せらるべき問題であろう云々。」


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二百七  森村翁旧懐談(上) (下巻213頁)

 明治二十五、六(18923)年ごろのことであった。松方大蔵大臣を三田の私邸に訪問して種々談話中、私は、政府が勲爵(注・勲等と爵位)の授与を政治家や軍人方面に限って、実業方面に及ばさないのは、まことに遺憾千万である、日本は今後、商工業によって国を立てなくてはならないから、その奨励の一端として、この方面にも勲爵の授与がなされるべきである、と陳述した。
 すると松方大臣は、「至極ごもっともでごあす。それは俺も賛成でごあすが、しかしそのような実業家はいたって少なく、見渡したところで真に勲爵に値する者は、米国に雑貨貿易を開いた、森村(注・森村市左衛門)くらいのものであろう」と言われた。
 私はそのときはじめて、森村翁の事業がそれほど顕著なものかということを知ったのである。
 その後、森村翁が福澤先生のお宅で一中節を語られたとき私もこれを参聴し、その一中節には閉口したが、とにかく翁と福澤先生に密接な交際があることを知り、大正初年、私が福澤先生の事歴探問を始めた際、まず翁を訪問してその談話を聴聞した次第である。
 その談話中には、維新前後における横浜の状況、米国貿易の開始、その他商業に関する福澤先生の注意などについて、当時の光景をしのぶような事実談が少なくない。そこで、翁の談話そのままを摘録し、読者の参考に供することにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらため、一部ひらがなになおした

「森村の家は、二百年以来、江戸における諸大名に出入りし、表方においては馬具、鎧、兜などの御用を勤め、奥向においては袋物、鼈甲、髪飾り類を納むるのが、その営業でありましたが、安政年間、ペルリ(注・ペリー)が渡来して、横浜に開港場ができたという噂を聞き、一日横浜見物に出かけたところが、波打ち際に漁師の家が数軒建っているばかりで、地面は何程でもつかわすから、すすんで商店を開けよという申し渡しがあっても、何人も家を建てる者がないので、政府はまず、地所割りを定めて、三井その他の商人に対して、それぞれ開店を命じたので、これらの連中は板囲いをなし、わずかに体裁をつくろっていたその中に、ささやかなる荒物屋が一、二軒あったので、試みにその店に立ち寄ってみると、当時西洋の軍艦から、ボーイなどが盗み出してきたものとおぼしく、古ぼけた兵隊の靴、または古着の羅紗服、ビール瓶、コップなどが並べてあったから、これはおもしろいと思って、これを買い取って江戸に帰り、即日店頭に飾っておいたところが、これがよほど珍しかったとみえ、馬に乗ったお武家さんが、続々来店せられた中に、板垣さんだの、後藤さんなどもあって、そんな方々が、マドロスか何かのはき古した靴を買って、よろこんでこれをはかれたというようなありさまであった。(注・じっさいには板垣退助、後藤象二郎が江戸に出るのは、横浜開港の1859年よりもずっとあとのことであるようだ)
 これにおいて、私は時勢にかんがみて唐物屋を開くこととし、金巾(注・かなきん。経糸と緯糸の密度を同等に織った薄地の綿織物)、羅紗などを横浜より仕入れて、これを発売していましたが、手前の家は当時、鉄砲洲にあった奥平家のお出入りなので、唐物をかついで時々同邸にも参りました。
 しかるに、奥平家には桑名昇というよほど進歩的の御家老があって、通常ならば手前らはとてもお目通りができぬのに、桑名さんは手前をお座敷に呼んで、じきじきによもやまの話をされた。
 その時、まだ江戸に参られたばかりの福澤先生が桑名の家を訪なわれたのを、桑名さんが手前に紹介し、これは福澤という人で蘭学の先生であると申されました。
 桑名さんは御家老、先生は奥平家の下役の子息でありますから、由良之助と平右衛門(注・仮名手本忠臣蔵の大星由良之助と足軽の寺岡平右衛門)ほどの違いがあるのだが、桑名さんは先生に対しておおいに敬意を表しておられました。
 そうして桑名さんが手前に申すには、お前などはしあわせ者である、よく見ているが宜しい、今に日本も町人の世の中になって、吾々どもは町人の台所から出入りするような時節が来るであろうと申されましたから、手前は、とんでもないことで、そんなことがあるべきはずはない、と言えば、桑名さんはイヤイヤ決してそうでないとて、インドにおけるイギリスの商人の東インド会社やら、諸国の商人が寄り集まって、ついに独立するにいたったアメリカ合衆国の実例などをあげて、日本も今に商人の世となることであろうから、お前たちも大いに勉強するが宜しい、日本の商人も蒸気船に乗って外国に出かけ、外国人と商売して金儲けをなせば、商人の格式も大いに進んで、吾々どもがその台所より出入りするようになるのであると説明せられたので、いまだ二十歳くらいで血気盛んであった手前は、この話を聞いて非常に面白く感じ、お武家さんが商人の台所から出入りするような時節が来たらさぞ面白いことであろうと、この一言が非常に手前の神経を刺激し、他日、外国貿易を始める動機となったのであります。」

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二百八   森村翁懐旧談((下巻216頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)からのつづき)

 森村市左衛門翁は上背があって体格も立派であるし、後年、白髪になってからは、なにやら絵に描いた神農氏のような、いかにも上品な相貌で、しかもその性格が律儀勤勉であった。ただし若年のころから宇治紫文の弟子になって一中節を語り、その堂奥に達したというような江戸趣味に富んだ半面もある。信仰心が深く、雲照律師に帰依し持戒を怠らなかったように、おのずから宗教家のようなところがあった。
 さて翁が前記のとおりの道をたどってついに外国貿易に着眼し、アメリカに対して日本雑貨輸出の先鞭をつけることになったのは、単に森村一家のためだけでなく、実にわが国の貿易上の幸慶というべきであろう。
 そのアメリカ貿易を開始するに至った経緯について翁がみずから語るところは次のとおりである。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)

「明治五、六年ごろのことと思いますが、手前は外国貿易のことが念頭を離れぬので、自分の弟の豊とよを慶應義塾に入れましたが、これはただ学問をさせるばかりでなく、簿記法の帳面をつけたり、外国人と会話したりすることを覚えさせようというためであった。
 このとき、福澤先生は手前に対して、それは面白い考えである、これまで塾に来る者は、みな学問をして参議になろうというようなことばかり考えているが、学問をして商売人になろうというのは、非常に面白いことであると申されました。
 かくて弟が慶應義塾を卒業するや、暫時、教師のような真似をしておりましたが、明治七年ごろ、小幡篤次郎さんが突然私の宅に参って、今日は福澤先生の使いで来たが、お前の弟の豊を、米国へ遣ってはどうであろう、先生は書生を米国に遣って、商売を見習わせ、外国貿易の基を開かなくてはならぬというので、それぞれ知人間をを説きまわった結果、早矢仕【はやし】有的をして、鈴木尾という男を米国に遣って茶のことを調べさせ、また同時に荒井領一郎に生糸貿易のことを見習わせることになったから、雑貨のほうは、お前の弟がよかろうというので、自分は先生の代理で、お前にそのことを勧めに来たということであった。
 そのとき手前はこれに答えて、それは手前の力の及ぶところではない、今、アメリカに人を遣るには、五百円か千円を要するであろう、これという目当てもないのに、そんな大金を使うことは、とても手前にはできませぬとて、断然お断りをしましたが、小幡さんが再三勧めに来らるるので、だんだん取り調べてみると、船中の寝台の下やら、または甲板の隅などに寝転んでいるような、最下等の旅客となれば、二百何十円かで紐育(注・ニューヨーク)まで行かれるということであったから、手前もついに奮発して、弟を米国に遣わすことに決したが、弟は渡米の後、五か月かかって、ポーキプシーのイーストマン学校を卒業し、それより、ささやかなる雑貨店を始むることになりました。
 ところが、かの地で売り上げた金を日本に送り、その金で仕入れた品物をかの地に送るという、この金の運搬が非常に困難であったのは、当時、為替というものがなかったからであります。
 そこで手前はこのことを先生に相談すると、先生は俺が外務省に掛け合ってやろうとて、そのころ先生は頬かむりをして、馬に乗って歩かれましたので、今度も同様の姿で外務省に参り、時の外務卿に相談せられた結果、政府が紐育で日本の領事館に支払う給料を、森村が紐育で領事館に渡し、その替金を、東京で森村が外務省より受け取るということに相談がまとまって、その金額は、一か月千ドル内外であったが、とにかく先生がその工夫をつけてくだされたので、手前どもは非常な便利を得たのであります。
 ことに、当時、森村などと申しては、政府になんの信用もなかったので、福澤先生がその談判相手となり、領事館で入金したという照会が先生のところへ回ってくると、先生は例の通り、頬かむりをして馬に乗り、外務省に出かけてその金を受け取って、手前のほうに渡すという順序でありました。
 それでは恐れ入りますから、手前どもが受け取りに出ましょうと申すと、先生は、お前のほうでは金が早く要るだろうから俺が受け取ってくると言って、いつも自分で外務省に出かけられましたが、当時、日本の一円は、米国の一ドルよりも少しく高く、かの百ドルが、日本の金で九十何円という割合でありました云々。」
 


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二百九   森村翁懐旧談(下)(下巻220頁)
(注・207・森村翁懐旧談(上)208森村翁懐旧談(中)からのつづき)

 森村市左衛門翁の懐旧談は、こんこんと尽きることがない。今日も、そのいちばん有益で興味ある部分を続けることにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした)

 「福澤先生が時事新報を発行せられた直後、手前は先生に向かって、どうも新聞に六つかしい字が多くって、読みにくくって困るから、もっとたくさん、ふりがなをつけていただきたい、と申し出たところが、先生の言に、ふりがなを多くつけようとすると、費用がかさんで新聞の経済に関係するが、しかしもしお前が読みにくいというようでは、世間一般に困る人が多かろうから今後は一層多くふりがなをつけよう、ということであった。
 それから、そのころ正金銀行が外国為替相場を秘密にして、その間にかけひきをなすので、これも先生にお願いして、為替相場表を毎日、新聞に出していただくこととしたので、正金銀行なども、もはやごまかしができなくなって、当時の外国貿易商人にとっては非常の便利でありました。
 福澤先生は、つねに独立ということを説かれ、商売人は他人に依頼せずして、みずから商売上の工夫をなさなくてはならぬ、独立の工夫のない者は、決して偉い商売人にはなれない、と言われた。
 その実例に『昔、越後屋の手代が外出して帰りが遅くなったのを番頭が大いに叱りつけたところが、その手代が申すには、私は今日、某所で非常に面白い柄の帯を締めていた女を見かけ、その柄を見届けようと思って、あとを追いつつ両国の方まで参り、その女がある家にはいったので、やっと気がついて、ただいま帰店したのであるが、その帯の柄はかくかくのものであるから、是非ともこれをお仕入れなさいませと勧めたが、番頭がこれに応ぜぬので、暫時うっちゃっておいたが、その手代が思い出しては、しきりにこれを勧むるので、とうとうこれを仕入れたところが、これが非常に人気に投じて、たちまち多額の売り上げを見たので、番頭もおおいに感心して、その手代をさっそく仕入方に回したそうだが、畢竟、商売に忠実で、平常注意を怠らず、独自に種々の工夫をするのが、商人に欠くべからざる要素である』と申されました。
 先生のそのひと言は、手前の米国雑貨商売にとって、もっとも貴重なる金言で、米国に輸出する商品を仕入れるには、常にこの心持を忘れてはならぬと、手前は毎度店員に注意している次第であります。
 また先生が、手前どもに一生涯の利益を与えてくださった教訓は、『学問というものは、本を読むばかりではない、箸の上げ下ろし、横町の曲がり角、これに注意するのが、実際の学問である』ということで、商売のことを、寝ても覚めても念頭に置き、横町の曲がり角に立って、どちらに行こうかと、ここで方針を定めて進めば、商売上に失敗することがないのである。
 商人が時勢を考え違って、とんでもない失敗を招くのは、畢竟、この工夫を怠るからのことで、手前は毎度、店の若い者に向かって、このことを申し聞け、時勢の進歩が、ますます急激になれば、箸の上げ下ろしや、横町の曲がり角で、一段深く注意しなくてはならぬと申しておりますが、これはまったく、先生のありがたい教訓であります。
 福澤先生は時として、突飛なことを言い出さるるが、これは偶然に言い出さるるのではなく、実験上の信念より発する名言で、これを味わえば、いかにももっともだと、うなずかるることがあります。
 ある時、明治政府に志を得て、参議などになった人物が、非常に偉くて凡人でないように思う者もあるが、彼らはみな、まぐれ当たりである。時勢に推されて、ただぶらぶらとその位置に紛れ込んだ者で、これなどは、道楽の僥倖というものであろう、と申されました。
 またある時、先生は手前に向かい、北里柴三郎がドイツから帰ってきて肺病研究所をたてようとするのを大学の連中が妨害するそうだが、これは学問上、非常に大切なものであるから、一時出金して補助してくれぬかと言われたので、手前は快くこれを承諾しましたが、その後、同研究所に参ってみると、政府の役人が二人ばかり来合せて、北里に勲章をやるという話を持ち込んでおった。ところが先生は、その役人らに向かって、勲章では研究所が建たないから、勲章を出すくらいならば、生でやるが宜しいではないかと彼らを揶揄っておられました。
 また、手前は雲照律師を信仰していたので、ときどき先生に宗教談を持ち込んでみたが、そのときはあまり、お気に向かないようであった。しかし、晩年、大病にかかられて後、はじめて筆をとって、私のところへ左のごとき文句を書き送られました。

    本来無一物とは云ひながら、無物の辺には自から勢力の大なるを見るべし。
     明治三十二年秋、  福病翁

 この語を味わいますと、先生も宗教については、まったく無関心ではなく、なんとやら、意味深長なるものがあるように思われます。」
 


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二百十   大江天也坊(下巻223頁)

 大正四(1915)年七月二十一日のことであった。大江天也坊が私の四谷天馬軒を訪問して、その主宰している弘道会のために一臂の(注・いっぴの。片方のひじの=すこしの)援助を乞いたいという相談があった。
 天也坊とは誰あろう、土佐の豪傑、大江卓の成れの果てである。
 彼は明治初年より政界で活動し、片岡健吉、林有造らとその名を並べ、板垣伯爵とともに自由民権の説を唱えた。
 後年、衆議院議員になり、あるいは東京株式取引所の理事長などになり、一時の羽振りはすこぶる豪勢なものであった。
 彼は、後藤象二郎伯爵の末娘をめとり、岩崎弥之助氏と義兄弟の縁故もあった。
 明治八、九(18756)年に岩崎弥太郎氏が金銭上の都合で政府から十万円の交付を得たいと願い出るにあたり、彼はその使者となり首尾よく大隈侯を説きつけたので、弥太郎氏はおおいにこれを徳とし、後日彼にむくいるところあるべしとの一札をおくったということである。
 さて、大江氏の末路ははなはだ振るわず、困窮の頂点に達したとき、彼の親友は見るに見かねて、君はなぜ、あのお墨付きを役立てて、この窮境からのがれようとしないのかと注意を向けると、彼は頭を左右に振り鷹は餓ゆとも穂を啄まず、僕は何程窮しても、かの一札を利用しようとは思わぬ、しかし、いよいよこれを利用する時節が到来すれば、百万円以上には物を言わせてみせるよと言って呵々大笑されたという。この一事をもっても彼の豪快さを知るに足るというものである。
 大江氏の東京株式取引所理事長時代の豪勢ぶりは、実にすさまじいものであった。あるとき、出入りの道具商を引き連れて加賀金沢に乗り込み、名家の道具をよりどりに買収しようとしたことなどもある。
 氏の所蔵品には、現在、山本達雄男爵所蔵の、一休和尚がその衣の裂で表具したという大燈国師の墨蹟や、某大家に収まっている知名な古筆手鑑などがあって、茶の湯を催すまでには至らなかったが、益田紅艶(注・益田孝の末弟英作)らを友とし、一時は美術鑑定家の巨頭になったこともあった。
 しかし、理財、実業は彼の得意とするところではなく、傲骨みずから持して(注・誇り高さを崩さず)、和協性に乏しかったため、晩年に蹉跌(注・失敗、目論見違い)が相次いだとき、翻然として大に決心するところあり、高齢六十八歳にしてはじめて曹洞宗にはいり、本郷の麟祥院で落飾式なるものを挙げた。そこには多数の知人が集まり、今道心天也坊の僧形を披露するという奇行を行ったのである。
 さて、本日の彼の訪問の要旨は、次のようなものであった。(注・一部わかりやすい表現になおした)

 「明治四(1871)年の四民平等(原文「四民同等」)の発令(注・太政官布告)では、従来身分違いだった××(注・原文どおり)を公民と認めたのであるが、それから四十年たった今日になっても、旧習はいまだに去らず、東京はさておくとしても、ある地方に行けば、いまでもまだ××を排斥し、互いに同化していない。昔、××が支配していた乞食、非人のほうが、かえって普通良民にまじって、その間に何ら区別を見ないようになったが、今や全国で百二十万を数え、かつ年々増加傾向にある××のほうはそうではない。
 特に、山陰、四国、九州などに行くと、彼らと縁組することはもちろん、そのひさしの下に立つことさえ嫌われ、融和するのが難しい状況である。これは人道的見地から、もはや片時も見過ごすことができない。
 今日、わが同胞に対してこのような区別が存在することにより、彼らが危険思想を持つおそれもある。
 いずれにせよ、発令の趣旨に照らし、少しでも早く、彼らを良民と同化させることが急務であると感じ、ここに弘道会を発足させた。
 さいわい、三井、三菱その他から、すでに若干の寄付があり相当の金額に達したので、これからその基金を使って巡回教師三名を各地に派遣し、自分もときどき出張して余生をこの教化に託すつもりである云々。」

 大江氏は明治初年に、奴隷解放(注・明治5年横浜港で中国人奴隷をペルー船から救助したのマリア・ルーズ号事件のことか?)のことに関わり、大に気焔をあげた経歴もあり、普通の経世家があまり着眼しないようなこの類の感化事業に関係することは、その性癖が普通の人とは少し違っていることを教えてくれる。
 前述した通り、氏は益田紅艶と同気相求むる親友であり、その嘲謔遊戯の中には、稚気満々であとあとまで話の種になるものも少なくない。
 大正十(1921)年、紅艶が築地の自宅で危篤の際、天也坊もまた病気で麻布の家におり、みずから往訪することができないからと、ある日私に電話をかけてきた。「紅艶がいよいよ危篤だそうだが、僕も老病で動けぬから、君がもし紅艶に会ったら、どちらが先になるか知らぬが、お互いに三途の川で待ち合わせ、堂々と閻魔の廟に乗り込もうではないかと、伝言してくれたまえ」ということであった。 天也坊の奇癖は、だいたいがこうした類のものであり、晩年には壮士の遅暮の嘆(注・ちぼのたん。老いていくことへの嘆き)がなかったとは言えないものの、それでも、豪快な一人傑たるを失わなかった。


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