だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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二百十一  井上世外(注・井上馨)侯の薨去(下巻227頁)

 井上世外侯は、大正四(1915)年九月一日、興津の別荘において薨去された。享年八十一歳であった。
 侯爵は、王政維新という日本未曾有の大変動が起きたときの大偉人である。
 その性格は非常に変化に富んでいた。ある時は政治の難局に立ち、伊藤
(注・博文)公爵その他の同輩のために縁の下の力持ちとなり、あえてその功を誇らぬというような美点があるかと思えば、それほど重大ではない事件を達成したときに、無遠慮に自分の働きを自慢することなどもあった。

 非常に強情で、意地が悪いようであるかと思えば、その反対にいたって涙もろく、徹底的に親切なところがあった。
 気が向かないことがあると大声で怒号し相手を叱りつけるので、雷さんだの電光伯だのという綽名(注・あだな)さえあったが、その一方で、先だった友人の後始末などを引き受けたり、芸人などをかわいがったり、また、特に婦女子や弱者に対し、まことにやさしい同情と援助を惜しまないため、私はある人に「井上侯の一身は、多種多類の合金のように、鉛もあれば金もあったり、銀、銅、亜鉛などもあり、硬軟貴賤、種々の混合物である」と評したこともあった。
 続いて、侯爵の文芸的方面をふりかえるならば、詩、書においては伊藤公爵に及ばず、和歌においては山県(注・有朋)公爵の敵ではないが、書画骨董の鑑賞においては、はるかに両公の上に出ていた。
 また時に狂歌を弄んで、その胸の内を洩らされることがあったが、ウイットもあれば、ユーモアもありで、通人ぶりにおいてもまたなかなか隅に置けないところがあった。
 井上侯爵が維新の元老として国事に尽力された功績は、薨去の際に、大正天皇陛下から賜った誄詞(注・るいし。死者の生前の功徳をたたえて述べる哀悼の言葉)の中に、炳焉として(注・へいえんとして。はっきりと)光輝をはなっているから、いまさらそれを詳説する必要もないが、私が侯爵と知り合ってから二十六年間に、生来のもので侯爵以外に見ることができない特徴だと思われたのは、侯爵の体内に充満する気魄が物事に激して爆発するときの猛烈さである。これには、維新前後の少壮時代には、この元気がいかに旺盛であっただろうかと想像するに足るものがあった。
 明治四十二(1909)年ごろ、ある事件に対し侯爵が非常に激怒しておられた最中に、私は当面の関係者ではなく、むしろ侯爵を鎮撫する使者として内田山邸に推参したことがあったそのとき侯爵は、苦り切った相貌で、たばこ盆を引き寄せ、鉈豆煙管(注・なたまめぎせる)で灰吹をポンポンと叩きながら、声をからして不平をひとくだり説き終わるや、怒気満面、眼中よりちらちらと電光のような閃きがほとばしり、私はほとんど見上げることもできないほどだった。世人が侯爵を不動尊に擬したのは、いかにももっともだと思われた。
 もともと侯爵には、外交家的な機略がないことはなかったが、どちらかと言えば直情径行の人で、物事があいまいであることを許さず、晴れでなければ雨、白でなければ黒、というやり方をした。よって、敵にはあくまで憎まれるかわりに、味方には、あくまで慕われる人物である。
 だから、侯爵の親切が過ぎて、かえって非難の口実を与えてしまい、しばしば誤解されてしまうことがあったものだ。
 その一例は、明治三十一、二(18989)年ごろ、東本願寺が侯爵に財政整理の役目を果たしてくれるよう懇請したときのことである。侯爵は京都の停車場で、本願寺から来た出迎えの馬車が立派なのを見て、人に財政の整理を頼もうとする者が、なんの余裕があって、このような贅沢をあえてするのかと、自分で辻車に乗って同寺に押しかけた。そして、朝の九時から夕方六時まで当事者から財政の状況を聞き、やがて運び出された食膳をみるなり、侯爵の癇癪玉はたちまち破裂した。「これみな、善男全女が寄進したる粒々辛苦の物ならずや、これを思えば、かかる膳部が喉を通るか」と罵倒したので、本願寺の僧侶たちは非常に驚き、その日限りで、内々で「くわばら、くわばら」と叫んで、敬遠主義を取ったものである。
 侯爵の薨去の際に、徳富蘇峰氏はこれを評し、「明治幡随院長兵衛」と呼んだことがあったが、政治でも、実業でも、頼まれて「うん」と引き受ければ、勇往邁進、水も火も避けずに進むという趣があり、いってみれば、高等な男達(注・おとこだち。侠客)の面影がないでもない。
 もともと侯爵は世話好きで、友誼(注・親しい仲間への友情)に厚かった。ある事件を処分を三浦観樹将軍(注・三浦梧楼)から頼まれて、それをさらに私に託されたことなどもあったが、伊藤博文公爵とのあいだは、また格別で、あの管鮑の仲(注・親友。中国春秋時代の管仲と鮑叔の故事から)もおよばないほどで、公爵が困難にあるのを見れば、どんなときにも駆けつけ、人足(注・力仕事をする労働者)になることを辞さなかった。
 また国家の大事とあらば、割の悪い役目をみずから買って出てこれに当たることもある。日清戦争後に朝鮮公使をつとめたのなどがそれである。
 また日露戦争の際、侯爵に軍国財政上の援助をしてもらおうとしたとき、なんでもよいから官職について尽力してはどうかと伊藤公爵から申し入れたのに対し、侯爵は、「国家に尽くすために官職は必要ない」と言い、伊藤公爵は、その高潔な心事に感嘆し、次のような和歌を贈られた。

   国の為尽す心を大君の しろしめすをもいとふ君かな

 井上侯爵は、この一首に、知己の言として非常に感激されて、生前、それを立派に表装して家宝にされたということだ。
 さて、侯爵の逸事については、すでに前項でも述べたし、ほかにまだ記述するべき資料も少なくはないが、これはまた他の機会に譲り、今は、維新の元勲たる偉人の長逝に対し、謹んで満腔の(注・全身全霊の)弔意を捧げるだけにとどめておこう。
 


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二百十二  老母の永眠(下巻230頁)

 私の老母は、大正四(1915)年九月六日に享年八十九歳で永眠した。このことはもちろん一家庭の私事ではあるが、老母は高橋家に対して並々ならぬ勤労を尽くした婦人なので、その死去の前後の状況につきここに一筆することを許されたい。
 老母は水戸上市の士族、野々山正健の妹で、八十子といった。高橋家に嫁して四男二女を産み、維新前後の国難に当たって内助の功が多かったということは前述したとおりである。(注・10「慈母の奮闘」を参照のこと)
 野々山家は長命の血統で、祖母は九十六歳の高齢を保ったということであるから、老母も疑似赤痢にかからなければもっと長く生存したのかもしれない。
 私は八月三十一日に老母が発病した知らせを耳にし、さっそく医学博士の木村徳衛氏を同伴して看護婦とともに水戸に駆けつけたが、その翌日の九月一日に、興津において井上世外侯爵が薨去されたので、老母の病間をうかがって、いったん帰京して井上家を訪問し、老母危篤の状況を述べて侯爵夫人の諒解を得たうえで再び郷里に立ち帰った。
 すると老母は、例の謙遜な性分のため、井上さんの葬式は何日かと問い、自分には構わずにそちらに参加するがよろしいと、縷々私に注意されるので、私はとても当惑した。
 医師の内話によると、臨終はもはや一両日に迫っているというので、意を決しもっぱら老母の看護にあたることにした。
 こうして、九月六日に老母が永眠した。最初に来診した水戸の侍医が、すでに赤痢と診断しているので、法規に従い荼毘に付すほかはなく、死去後ほどなく市外佛日山常照寺の火葬場に送り、翌日遺骨を拾って小甕に納め、一週間後すなわち九月十三日に、水戸士族の墓地である酒門(注・水戸市内の地名)の蓮乗寺に埋葬した。
 私は、明治四十(1907)年の老父の葬儀のときに老母が生造花の行列を非常に喜んだことを思い起こし、今回は、いろいろなところから贈られた香華料のすべてをもって生造花六、七十対の行列を作ったので、水戸では空前にして、おそらく絶後であろうと言う者さえあった。
 水戸士族の葬式は、会葬者がまずその名刺を玄関の受付に差し出した後、門前の両側に立って並ぶ。すると喪主がその前にやってきて挨拶し、そこから棺の前に進み、親戚一同とともに黙礼しながら会葬者の面前を通過し、会葬者も棺のあとに従って粛々として墓地まで徒歩で行く。そして墓地の受付に名刺を置き引き取る、というのが常例となっている。このときの葬儀では、もちろん伯兄(注・長兄)の純が喪主で、まことにつつがなくすべてが済んだ。
 私の両親は、双方とも八十九歳の高齢を保った。今回試しに数えてみると、老母の子、孫、曾孫、玄孫(注・やしゃご)合わせて六十四人だった。
 しかもこれがみな正系本腹の子女なので、ずいぶん多いと思われるが、それもさることながら、存命中に玄孫を見たということは、とても珍しいことだろう。
 私の兄弟姉妹(原文「同胞」)は、姉が一番上で、これが中主氏に嫁いで、長女雪子を産み、雪子が三木氏に嫁いで長女をあげ、その長女がさらに他に嫁いで一子を産んだ。これが老母にとっての玄孫である。
 女子が二十歳で子供を産むとして、これが四代、つまり八十年たたないと玄孫を持つことはできない計算なので、生前に玄孫を見る者は特別に子福者の系統だといえるだろう。
 老母の歌に 
    月花のながめもあれどすごやかに おたつうまご見るがうれしさ

というのがある。老母も、非常にこの多福をよろこんでいたのである。
 私は、相貌、性格、嗜好のどれもが老母に酷似しており、また男子四人の中では私が末子なので、母はいつも私を秘蔵っ子としていたらしい。したがって、私の愛慕も一層深いものになった。
 老母の死去する十か月前、つまり大正三(1914)年の十二月に私が帰省した際に詠んだ十吟は次のようなものであった。
  
   
 あなたにぞ母は住むなる見るたびに 恋しき山は小筑波の山
    冬さればいとど身にしむ故郷の ははその森の木枯の声
    門に立ち我を待つらむたらちねの その面影のまづ浮びつつ
    語らむと思ひしことは忘られて ただあひ見ればうれしかりけり
    今もなほ我を幼き児のごとく 思ひなすこそ親心なれ
    ふりし事とひつとはれつするほどに 幼な心に我もなりけり
    故郷の昔をしのぶ片岡の 松も薪となる世なりけり
    むかし我が釣せし池をよこぎりて かなぢ車の走りゆく見ゆ
    かへり来てしばしやすらふ故郷の 柞の蔭ぞ立ちうかりける
      (注・柞=ははそ。コナラ。母の意味とかけて秋の季語として用いる)

    来む春は又ともなひて花を見む 冬籠りしてすごやかにませ

 昔、在原業平が、長岡に住んでいた老母に、

    世の中にさらぬ別のなくもがな 千代もと祈る人の子のため

と詠み送った例もあるように、どんなに高齢であろうとも母の死去を遺憾に感じないという者はないだろう。しかし五十五歳まで老母を持っていた私のような者は、あまり不足を言うことは、できないかもしれない。


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二百十三   春日神話妹背の鹿笛(下巻234頁)

 大正四(1915)年十月の歌舞伎座の興行で、一番目に同座付き作者である榎本虎彦(注・原文では寅彦)作「春日神話妹背の鹿笛」が上演されることになった。
 この狂言は、昔、奈良の春日山で若い男女が密会をしようとして合図の笛を吹き鳴らしたが、妻を恋う鹿が集まってきてその密会を妨げた。それに怒って、あやまってその鹿を打ち殺したのが娘に祟り狂乱してしまった、という伝説を、あの妹背山の狂言(注・妹背山婦女庭訓)の求女とお三輪の情事に結びつけたもので時代がかった甘い筋書きであったが、中村歌右衛門がお三輪をつとめるので、狂乱する場面で東明節を使用したいと家元の平岡吟舟に懇請した。
 ところが平岡翁は、明治二十九(1896)年に九代目団十郎の助六興行のときに河東節連中を引き受けたという経験もあり、年をとってからそのような面倒を見るのはまっぴら御免であると断られた。
 そこで歌右衛門は次に私夫婦を訪ない、翁に勧めてくれるようにと頼まれたので、九月二十六日、私たちは酒匂に滞在中の吟舟翁をたずね、段々熟議の末におおよそ引き受けてもらえることになり、清元延寿太夫一門を東明節連中とすることと東明流節付けのために開場を十月三日にすることを条件に、座元の松竹の承諾を得た。
 助六の興行の河東節連中のときを例にとり、芝居茶屋の武田家を連中席にあて、裏千家流の藤谷宗匠(注・「萬象録」によれば藤谷宗中)が毎日同家に出張して薄茶席を受け持った。床には、抱一上人筆の鹿に葛の花の二幅対を掛け、一方の壁床には、家元吟舟の雅号にちなみ、藤村庸軒筆の老人舟中に吟ずるの図を掛けたりして、飾り付けにも万端善美を尽くした。
 この時東明節社中として名前をつらねたのは、唄が二十一人、三味線が二十二人で、中日ごろから、この素人社中が飛び入りしようという計画になった。
 初日の唄は、清元延寿太夫、清元桂寿郎、清元魚見太夫、三味線は梅吉、梅之助、菊之助の顔ぶれで開場した。
 歌右衛門はこのころ五十歳前後で芸道熟練の最高潮に達した時であるから、例の鉛毒症で身体はいくぶん不自由ではあったが、東明節と、つかず離れず、振り少なく上品に踊りこなした。
 特に、吟舟翁の好みで入れた狂乱の幕切れに、お三輪が石灯籠にたおれながら向こうを指す姿が、前例のない良い型であるとして非常な人気を博すことになった。
 この東明節の文句は、次のとおりである。

 本調子山の端いづる月さえて、笛のしべもしめやかに、音すみわたる想夫恋 ゆうしでかくる神垣に、神灯のひかり、こうこうと、照す木のまに、ちらちらと、見えつ、かくれつ、さをしかの、思ひは同じ、鳴くこゑに、妻をしたふて来りけり。
 みだれし髪をかきあげて、むすぶえにしは、をだまきの、糸よりながきおもひだけ、 合ふえの歌口、音をとめて、より来る鹿を、てうとうつ 合笛は二つにせみをれのもろき命のさをしかや 合こゑも一時になきやみて、夜嵐ばかりぞのこりける あはれなり、いつしか狂女と 合なる鐘の、雲のひびきのあとたえて、こひしき人ぞしのばるる。
 二上り春日野に、むらさきにほふ、袖のつゆ 合なさけは、君を思ひでの、鏡にうつるおもかげは、心のまよひヲ、それそれよ、イヤイヤそこにいやしやんす 合花にもまさるわが君の、すがたはきえて、かげろふの、なぎの落葉や、まぼろしの、夢かうつつか、白雲の、ちぎれちぎれは、秋のそら、こずゑを鳴らす、ねぐら鳥、つまよつまよと、きこゆるを、若しやと思ふ恋のよく 合わけゆく蔦の細道を、たどりたどりて、三笠山 合手向の紅葉くれなゐの 合焔にまがふ棹鹿は、笛のしもとに、世を去りし 合うらみをここに、ゆふだすき、神のむくいを ナヲルおもひしれ。
 本調子すがたみだるる、花のつゆ、おもき呵責も、恋ゆゑに、くるひくるふぞ、あはれなる。
 

 この狂言では、お三輪狂乱の場で、結城孫三郎の操り鹿が八匹あらわれて、そのうちの一匹が、お三輪の笛でうち殺される趣向だった。総ざらいの時、この鹿が滑稽に見えないだろうかと心配する向きもあったが、実演においては案外好成績をあげ連日満員の盛況を呈した。
 その一方、家元の吟舟翁が負担した東明流連中席の武田家は、例の花柳国の女将軍らが押しかけて大入り満員であったばかりでなく、最後の三日間は、この連中が大そそり(注・歌舞伎の千秋楽などで、筋や配役を変えて滑稽に演じること。そそり芝居)を演じて、さまざまな談柄(注・だんぺい。話の種)を残した。これは、大正初期の演劇界における、ひとつの異彩だったのではないかと思う。

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二百十四  権八郎調子外しの段(下巻238頁)

 歌舞伎座での「春日神話妹背の鹿笛(注・前項の213を参照のこと)」は、河東節と同様、簾内語り式で、最初はきわめて大事をとり清元延寿太夫一門の玄人連だけで興行したが、中日ごろから、そのころ清元もしくは東明節を稽古していた高窪喜八郎、花月主人の平岡権八郎をはじめ、自称「天狗」の連中が数名簾内に割り込み、玄人連にまじってそれぞれの受け持ちの場所を語るということになっていた。
 そこで、いろいろな場所に集まり猛練習を続けいよいよこれでなら大丈夫ということになったので、私も無論その連中に加わり、延寿太夫張りの四本という高調子で、「山の端いづる月さえて」と謡い出したのが案外好評を得た。すると、われもわれもと連中がどんどん増えていった。
 さて、私がこの連中に加わったことについては、いささか思うところがあったのである。従来の日本の芸術家には、封建時代の遺習で自尊心の持ち合わせがなく、一種下級の人種であるかのように、みずから甘んじてそう心得ており、芸術そのものに対する崇高な観念が薄弱であった。試みに西洋諸国を見れば、芸術のたしなみある紳士が家庭内や公開の席上で、随時その余技を演奏することは当座の清興(注・上品で風流なたしなみ)を助けるだけでなく、健羨(注・非常に羨ましく思うこと)の的とさえなるほどなのである。ところが日本においては、音曲をたしなむ者が一種の道楽人のようにみなされ、芸事は外聞をはばかり隠蔽するものであるという弊害がある。
 そこで私は、この際すすんでこれを打破しようと思ったのである。旧習を革新する一端として、先ず隗より始めよ、の先例を示したわけだ。
 こうして私がこの決意を同好者に告げると、延寿太夫は私に、今度のような紳士の演芸は世間の耳目を一新するのはもちろん、玄人どもにも、わが芸術の価値を知らしめることになり、従って、その風紀を振粛(注・奮い起こし、引き締める)する端緒ともなるので、この道のため、幸慶のいたりであると語られたものだ。
 これが、素人連の簾内語りの始まりの次第であったが、興行が始まるや、「権八郎調子外しの段」という、舞台以上に面白い一幕が演じられることになったので、その話もしなくてはならない。
 花月楼主人の平岡権八郎は、義弟の高橋某と共に連中に加わった。高橋は最初の「山の端いづる月さえて」を、平岡は「みだれし髪をかきあげて」の一節を引き受けたのだが、高橋が太鼓の掛け声に釣り込まれてカッとなり、「山の端いづる」を一調子高いところから謡い出したため、桂寿郎が助け船を出してこれを救った。すると、今度は平岡がその例にならい、「みだれし髪を」というところを、またまた高調子で謡い出してしまった。これも桂寿郎が取り繕い大穴をあけずには済んだものの、こういう場面ではなにかが起こるのではないかと待ち構えていた連中の喜びようは普通ではなく、さっそく平岡や高橋の妻たちに、「君たちは今朝、金神様にお参りして、良人の無難を祈られたというのに、マンマと調子をはずされたのは、誠にお気の毒千万である」と丁重な弔詞を述べる始末で、本人たちは近所に居ることもできずに一時影を隠したという噂も出、ひょっとしたら身投げでもしはしないだろうかなどと案じる者もあらわれ、時ならぬ悲喜劇の一幕が演じられたのである。これは、この狂言にまつわる大愛嬌であった。
 ところで、家元である吟舟翁はこれを興がることと思い(注・おもしろがって)、連中を集め、その善後策を講じたのであるが、その席上、次のような話をされた。
 「往時(注・むかし)、浅草の札差の某が、河東節の隅田川を一中節と掛け合いで謡ったとき、某は河東節で狂女の出を語り出したが、三度ほど出直してもなお三味線の調子に乗らなかったので、その場はそのまま引き下がった。翌日みずから悪摺りを作り、隅田川の渡船の上に、笹を担いで乗り込んだ狂女が舷によりかかってヘドを吐いている図を、当日の連中に配布したので、さすがに某は洒落者なりとて、かえって好評を博したのだった。されば今度も、その例にならい、花月と高橋と両人より、自発の悪摺りを配布するが宜しかろう」
ということで、翁が即座にしたためた図案は、高い山の上から顔を出している者がいるところに、上の方から長い手を出して、その頭を押さえている者がいる。その山の下に、本街道という制札(注・せいさつ。注意書きの立て札)があるのを、山の上の人が見下ろして、「あれが本街道かいな」と言っているところであった。そして、平岡のほうは、平岡の似顔絵である男が背中に金神様の御札を背負い、乱れ髪の逆立っている頭の上に手をのせているところで、その口上書きには「乱れし髪を掻き上げ過ぎて、今更何とも……」とある趣向だった。
 この平岡は、油絵や水彩画もうまく帝展に入選するほどの技量を持っているので、その後、自筆でこの図案の悪摺りを描き、それを連中に配布し、外れてしまった調子を取り直したということだ。まことに珍事であったというべきであろう。
 この時は、欧州大戦の影響で、日本に好景気の波が盛り上がりはじめ、人の気持ちも自然にうきうきしていたので、このような喜劇も飛び出したわけで、これもまた、時代の相のひとつをあらわすものだったと言えるだろう。


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二百十五  稀音屋六四郎の至芸(下巻241頁)

 私は明治の中期より謡曲、能楽を学び、さらに俗曲にはいって、河東節と清元を稽古した。
 あるときは、薗八(注・江戸中期の浄瑠璃太夫、薗八が始めた薗八節)に指を染めたこともあったが、その後、長唄研精会を参聴するに及んで、大正三(1914)年十月から、四谷伝馬町の天馬軒に、杵屋のち稀音家六四郎(注・のちの二代目稀音家浄観)を招き、時雨西行をふりだしに、おいおい大曲を学ぶことになった。そのうち、六四郎の勧めもあったので、二、三年間、吉住小三郎の門に出入りしたこともあった。
 六四郎は毎月五、六回の来宅を欠かさず、二十年一日のごとくに継続する一方で、私たち夫婦のほうから彼を訪問するということもあり、いってみれば、通家(注・婚姻関係などの非常に親しい家)の交わりを行っていたので、彼の芸術が抜群であることを知ると同時に、芸人として容易に得難い人格者であることを知った。そのことについて詳述するとなると非常に多くの語り草があるが、これは他日に譲ることにして、ここでは私の見た大略を述べることにしよう。
 稀音家六四郎は、本名を杉本金太郎といい、維新前後の東都長唄界で一方の重鎮であった杵屋三郎助の長男である。もともと一見識持った人で、あまりに著名な名家の名跡を継ぐことをきらい、あの、勧進帳を作曲した名人の杵屋六四郎のち六翁の門弟である六四郎を相続することになった。
 六四郎とは、この人が初代で、その娘のさくに門下のひとりを娶せて二代目にしたが、その後、この男が離縁になり名古屋に行って弥十郎と名乗ったので、今の六四郎は、この平凡な名跡を継いで、三代目六四郎となったのである。
 六四郎は天性の芸才に秀でていた上に、父の三郎助が厳格な人で、少年時代からきびしく鞭撻(注・指導)したので、その技芸は、たちまち朋輩の上に出たが、本人が非常な勉強家で、二代目六四郎の妻であった、さくなどから長唄を伝習したばかりでなく、さかんに他流の芸道も究めようとした。中には、小三郎(注・吉住小三郎)とふたりで生田流の永谷検校を訪ね、地唄の影法師を稽古した際、あまりに謡いぶりが悠長なのに閉口し、とうとう逃げ出してしまったというような奇談もある。
 さて彼が二十歳ごろに作曲した「熊野」が、今日、研精会派の大曲に数えられているのを見ても、その芸術の早熟(原文「夙成」)なのを知ることができる。
 彼は普通の長唄の三味線弾きとは違って、左の指がよく利く。また作曲の材料の豊富なのもまた、その少年時代の修業のさまをうかがうに足ることができよう。
 彼の作曲は、研精会との関係上、小三郎との合作が少なくないが、自作の分だけでも、すでに二十段余りにのぼっており、大家の貫録がある。
 彼は、芸術の面で優秀なだけでなく、その人となりが誠実で、普段からよく約束を守り、同業者には寛容に接し、門下の者にも親切に対するので、門流はますます繁盛し、一男一女もまた、みな家芸をもってその身を立て、家庭円満である。
 先年には妻女のしん子と、結婚二十五周年を迎え、銀婚式祝賀会を催した。そのとき私が、彼にかわって物した(注・作詞した)自祝詞松の寿に、彼がみずから節付けした一曲は次のようなものだった。


   松の寿
本調子もろ白髪末長かれと契り  合 其百年の四分一を早や杉本の金の名に、ちなむも好しやしろかねの堅き縁の祝ひ事  合三筋の糸の長き世を唯一筋に渡る身は、心の駒のくるひなく、時に二上り三下り  浮きしづみこそ変れども、かはらぬものは相生の妹背の中の本調子 合むかしむかし江戸つ児の何たら法師のざれ言を、ちつと鳥の口まねや   小唄三下がり世の中を、ずつとすまして、是れからは四季のながめや芸事に、つれはなくとも、小酒にうかれ、そこを覚えにやならぬぞい   合本調子越し方を、思ひまはせば、楽しきも、うきも、浮世の夢にして、彼の邯鄲の夢の間の、半ばは、すでに過ぎたれど、見のこす夢の春秋は  合 まさきのかつら、末ながく、めでたき御代にながらへて、君がめぐみをあふがまし  合面白や、雲白く、月さやかなる、銀世界  合 ながめながめて、又さらに   合 黄金の花の咲く春を、心のどかに  合 松の寿。

 
 六四郎は、その人となりが温厚洒脱でウイットに富み、ユーモアにも長じていた。酒をたしなみ、一杯機嫌になったあとに
さかんに連発する駄洒落の中には、時に掘り出し物といえるものがあった。
 あるとき、上野山下の鉄道の踏切にさしかかって通行止めを食ったとき、同行者をふりかえり、「お止め汽車待つお染久松はどうでしょう」と言ったり、大阪の淀川で、老婆を載せた円タクが川の中に落ちたという話をきいて、「婆は川へ円タクに」婆は川へ洗濯にと言ったりするような洒落の数々は、枚挙にいとまがない。
 興に乗れば、人の求めに応じて下條桂谷ばりの墨竹を揮毫することもあった。その号を、一齋というが、これは彼が私に、隠居したあとに雅号を用いたいと思いますが、何か命名していただきたいという注文されたとき、すごろくのさいころでは、六の裏が一であるから、六四郎、隠居して一齋、ではいかがかと言ったのが彼の気に入ったものか、ついにこれを採用したのである。
 とにかく彼の至芸は、明治後半期から今日まで、小三郎の名調とあいまって邦楽界に貢献するところが少なくない。これはみな、彼の少壮時代自他諸流の猛練習ほかならないので、ここでいささか彼の平生を記して、後進子弟の奮起を促そうとする次第である。


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二百十六  古稀庵の観楓(下巻245頁)

 山県含雪(注・有朋)公は、大正四(1915)年十一月、京都における御即位御大典に参列後、相州(注・現神奈川県)小田原の古稀庵に帰臥されたが、同二十六日の夜、東京目白の山県家執事石崎氏からの電話で、「ただいま小田原の侯爵より貴下へ御伝言がありましたが、京都は今年紅葉が不出来で、高雄も嵐山も一向、見栄がなかったので、小田原もさだめて同様ならんと思いしに、なんぞ計らん、例年よりもいっそうみごとなれば、散り初めぬ間に一度ご来観ありたしとのことであります」とあったので、「さらばその時機を失わぬよう、明日参候致すべければ、その旨言上、相成りたしと答えおいて、翌日午前八時半、東京を発して国府津に赴き、小田原行きの電車に乗り込んだ。
 すると、ちょうど山県公爵を訪問する石井外相(注・石井菊次郎)ばったり出会ったので、車中でいろいろな雑談を交えながら古稀庵に同行した。
 そのときの石外相の談話の内容は次のようなものだった。(注・わかりやすい表現になおした)
 「昨年七月末に欧州戦争が勃発したとき、自分は英国のスコットランドを旅行していたが、デンマーク(原文「丁抹」)を経てロシアに赴いたフランス大統領と外務大臣が急にパリに引き返したという電報に接し、ただごとではないと直感した。至急パリに戻り、二十九日の朝にフランス外務省に駆けつけ、責任ある当局者から戦争勃発が目睫(注・もくしょう。間近)に迫っている事情を探知し、さっそくヨーロッパとアメリカの両方から日本に電報した。当時ドイツでもイギリスでも極度の外交秘密を保っていたので、この電報が日本に欧州大戦を伝えた最初のものだっただろうと思う。」
 そのほかにも、欧州戦争の最中にフランスが人口増加の必要を感じて、内縁の妻や醜業婦(注・売春婦)の出産児までも救養しようとしたことや、フランス、ベルギーにおいて、国宝美術品を安全地帯に運搬したことなどについての耳新しい異聞を語られた。
 やがて古稀庵に到着すると石井子爵はさっそく公爵と機密談に取り掛かられたので、私はその間、貞子夫人とともに庭園を一巡し、主人である公爵の自負のとおりに今を盛りとしている紅葉を賞玩してから食堂にはいり、侯爵夫妻、石井外相と午餐をともにした。
 そして外相がほどなく辞去されると、公爵は「庭前の紅葉を見て」と題する和歌二首を私に示された。また、先ごろの京都における御大典に関する種々の感想談を語られたが、その委細については別項に譲る。
 私は、古稀庵庭前の紅葉が残らず染まり散り始めてもいないという、絶好の機会に際会し、飽くまで今年の秋色を賞玩することができた眼福に感謝し、午後三時に古稀庵を辞して帰京後、礼状の末尾に次の二首を書き添え老公に寄贈した。

      古稀庵の紅葉を見て
   錦きて昼行く人となりにけり もみぢまばゆき庭めぐりして
 
      同じ折、庵主が歌よみて賜はりければ
   紅葉見てかへる錦の袖の上に 君が言葉の花もにほへり

 さて二十九日になり、主公から届いた書簡には、貞子夫人の歌入りの文同封されており、その文句は次のとおりであった。
  

今日は御来庵被下候処、俗客に遮られ、甚だ遺憾の至りに候、別紙相認め差出候御取帰りの反古は、御返却被下度所願候、不日出京、期面晤可申候、草々不尽
    十一二十七日           古稀庵老有朋
箒庵高橋老兄御座下
 

 今年はあたたけきにや、高雄嵐山の紅葉さへ、いとはえなかりしに、古稀庵にかへり来て、秋の景色に驚きぬ

   野も山ももみぢは色に出ざれど 我庭のみは錦をりなす

   嵐山高雄も秋の色ぞなき 誰にほこらむ庭のもみぢ葉

と詠みて、箒庵主人に、いとまあらば、庭の紅葉見にと促せしに、又の日、庵を訪ひければ、紅葉見つつ語らひて、

   君が見し庵のもみぢ葉あすよりは 散りそめぬともなにか惜まむ
                    古稀庵有朋

                                               

 また、貞子夫人の歌入り文は、

  京都のもみぢ、ことしは、いづこも、色なかりしに、海ちかき古稀庵の庭、めづらしきまで、染めつくしければ、おのれにも歌よみてよと、仰せられければ、
                    貞子 
           
                                            
  名所のもみぢむなしきこの秋を 稀なる庵に錦をぞみる

  はこね山入口まばゆくさしわたり 紅葉にほへり板ばしのさと

  かけ谷のこのまにさしとほり ながれきらめきもみぢにほへり

 
 また時しらずに草花の咲きけるのを

  むらさきのりんどうの花なでしこの 色にまじりて水仙のさく


 なにと、御入筆被下度願上候、なほ御歌御染筆たまはり候やう、御願申上候かしこ

 
 このうちの、含雪公の和歌の「君が見し庵のもみぢ葉」の一首は、公爵の私に対する眷顧(注・ひいきにすること)が、非常に深いことを示されたもので、私にとって無上の光栄である。

 なお、この日公爵が物語られた、御大典前後の感想談は、また別項を設けて記述することにしよう。(注・次項217を参照のこと)
 

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二百十七  元老の忠勤(下巻249頁)

 維新前後の国事に奔走し、ついには明治の新政府を樹立し、国家柱石の重臣として匡輔啓沃(注・きょうほけいよく。君主に助言補佐すること)の大任を果たした元老諸公の、国家と皇室に対する忠勤はいくら思っても言い足りず、またいくら言っても言い尽くすことができないほどに真摯で誠実である。またそれをいつも言動にあらわしていることは、まことに感嘆に堪えない。
 なかでも山県含雪(注・有朋)公は、もっとも謹厳な性格であるうえに、大正初期においては元老のなかの首班として、いってみれば托孤(注・もとの意味は、君主が死に臨んで子供を臣下に託すこと)の重責を負うような趣があったので、御大典(注・大正天皇即位式のこと)前後の御補導での苦心配慮は、さぞたいへんなことだっただろう。
 公爵が、例の敬虔な態度で私に洩らされた話のなかには、実に次のような一節があった。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)

 「先頃今上陛下より、自分が青島陥落の際に詠み出でた和歌を認めて差しだすべしとの御下命を蒙ったが、自分はその前、すでに自詠を御覧に入れたことがあるから、あまりしばしば聖覧を涜すのも畏れ多いと思って、ことさらそのままに差しおいたが、今度の御大典に当たり、大嘗祭御挙行のことは、もとより容易ならぬ御場合と思考するので、謹んで一首を詠み出で、京都御所にて陛下に捧呈した。その歌は、

    大嘗祭を詠みて奉る       有朋 

   神と君とまことの通ふ時ならし 更けわたりゆくおほなめまつり

というのであるが、大嘗祭は御一代中の大儀なり、御儀式の間は、誠に神と君と、誠の通うべき時なれば、御精神を統一して、滞りなく御儀を済まさせらるるが、神に対せらるる道なるべしとて、自分はこの歌の心を、事細かに奏上した。
 さて十日、紫宸殿において、御即位の勅語を御朗読あらせらるるについては、もとより皇祖皇宗に対せられ、また全国臣民に対して、宣せ給う御言葉なれば、一字一句にも御心を籠めさせらるること勿論なりとて、自分は十一月七日、御都合を伺いて、午後四時ごろ拝謁し、右の次第を言上して、親しく右勅語を御朗読あらせるるところを拝聴せしが、いまだ御慣熟遊ばされざるところありければ、さらに今一回、御朗読あるのを見届けて退出した。
 陛下にも、定めて五月蝿き(注・うるさい)老爺かなと思召さるることならんが、老臣の勤めは、たとえいかに思し召さるるとも、尽くすべきだけは竭くさん(注・尽くそう)とて、毎度かかる憎まれ役を勤むる次第である。
 この前、新嘗祭の際、陛下が神前に祝詞を御朗読遊ばさるるところを、拝聴したしと申し出でたるに、宮内官がこれを遮りて、これは従来秘密にして、式場に列なる者のほかには許されずと言われたから、秘密とて、すでに臣下においてあずかり知る者ある以上は、自分がこれを拝聴し得ざるはずなし、式場参列の者が秘密を保たば、自分もまたそれだけ秘密を保つべしとて、強いて願い出でければ、やがて勅許ありて、陛下より祝詞の御下示があった。
 これにおいて、自分は、改めて拝謁の上、陛下が神に告げさせらるる御言葉は、大御心より出でて、神の真心に通ずべきものなれば、一字一句たりとも、御大切に遊ばされざるべからずと、率直に申し上げたが、かくて今上陛下をも、先帝のごとく、堂々たる君上にならせ給うことを祈るが老臣の勤めなりと思い居る次第なり云々。」

 さて山県公爵は、御大典の際、京都の無隣庵に滞在して、しばしば陛下に拝謁のうえ、なにくれと所見をも言上し、大嘗祭にも参列するはずであったが、同祭は深夜に行わせらるる御儀式であったため、陛下には公の老体を御懸念遊ばされ、厳命をもって式場参列をやめさせ給うたので、公は当夜、無隣庵にあって、夜更くるまで端座し、敬虔の心をもって御式を遥拝したということである。
 これに先立つ五月十四日、私が目白の椿山荘に老公を訪問したとき、公爵は次のような話をされた。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字になおした) 

 「今度、泰宮殿下(注・やすのみやとしこないしんのう。明治天皇の第九皇女で東久邇宮稔彦王の妃になった泰宮聡子内親王)の御婚儀があるので、自分は是非とも参列したいと思って、斯く滞京して居るのである、先帝の内親王中、御婚儀の済ませられざるは、この御一方のみである。他の御姉君方は、御両親御揃いの中に御婚儀があったが、この御一方だけは、御両親御崩御後に、御婚儀を行わせらるるので、陛下在天の御霊も、吾等ごとき老臣の御婚儀に参列するのを、喜ばせらるるならんと拝察して、是非参列しようと思って居るが、これも一つは、年をとった証拠であるかもしらぬ云々。」

 以上の含雪公の談話は、皇室に対していかにも親しみ深い、真心から出た忠誠で、その言葉には、せつせつと人を動かすものがある。皇室の重臣たる者は、ただ表面的な政務ばかりでなく、皇室のために、このような心構えを持つことを、私は心から切望してやまないものである。


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二百十八  水戸学著述の由来(上)(下巻253頁)

 私の出生地である水戸下市三の町は、水戸義公、すなわち黄門光圀卿(注・水戸徳川家2代藩主)の降誕地である柵町から、わずかに数丁(注・一丁は約110メートル)のところにある。
 七、八歳のころ、よく柵町のあたりまで遊びに行き、この町外れにあった老木の下に小高い古塚があるのを見て、あるときそれについて先人に質問すると、その人はその由来を詳細に説明し、また義公の藩主としての、そして勤王家としての偉大な行状を話し聞かせてくれた。私は子供心にも非常に感激し、この時から義公を敬慕する気持ちが一層切実なものになっていったのである。
 その後数年して、私は久慈郡太田町に近い西山に行き、義公が隠棲していた山荘が非常に狭い場所だった(原文「わずかに膝を容るるに足るばかり)のを見て、感慨を禁じ得なかった。
 また、瑞龍山に登り、その墳塋(注・ふんえい墓)を拝し、また、梅里先生の碑文(注・光圀が大日本史編纂をすることになった事由が書かれている。梅里先生=光圀)を読んで、その出処進退の大節について知り、公の行実について、おりおり古老に尋ねたりした。すると彼らはみな容を改めて(注・いずまいを正して)義公様と敬称を用いて語るのをきき、その道徳が人心に深く浸潤していることを知った。
 さらに年がいってから彰考館に出入りするようになると、大日本史の編纂資料が豊富であるのを見て、水戸藩の修史事業が絶大であり、義公のような大気根、大見識の持ち主でなければ、とうていこれを大成することはできないことを知った。

 すでに東京で小石川後楽園の規模の雄大なことを知ったのちには、あの西山隠棲の質素簡朴さと対比して、その間に霄壌(注・しょうじょう。天と地)の違いがあるのを見て、義公が、時と場合に応じて、顕晦(注・けんかい。世に出ることと、世から隠れること)の軽重を異にする、高雅な風懐(注・風流な心)を持っていることに感服した。
 こうして明治三十九(1906)年にいたって大日本史がすべて完成した。当主の徳川濤山侯爵のち公爵】(注・水戸徳川家13代圀順くにゆき)がこれを天皇家に奉献なさり、義公の宿志が、代を重ねること十二代、年を積むこと二百五十年にして、はじめて報いられたことを悦び、私はいつか義公伝を編纂し、多年にわたる義公への欽慕の誠をあらわそうと決心した。
 水戸の学友だった清水正健、雨谷毅らに委嘱して、義公の伝記材料を数百巻に積みあがるほど収集したものの、私は当時、実業界に在籍していたため、それを編纂する余暇がなく、荏苒(注・じんぜん。物事がはかどらず)歳月を経過している間に、大正四(1915)年十一月に大正天皇陛下が御即位の大礼を行わせらるることになった。
 往時、朝廷色が弱まって長らく廃絶されていた盛儀を再興することになり、荘厳偉麗な悠紀(注・ゆき。原文「悠基」)、主基(注・すき)の二殿や、舞楽殿などは、まことに、大八洲(注・おおやしま。日本の古名)を知ろしめす(注・統治なさる)天津日嗣(注・あまつひつぎ。皇位のこと)の登極(注・即位)の大典たるにそむかなかった。
 率土普天(注・普天率土。天下のあまねくところ)、心を一にして、天壌(注・天下)とともに、きわまることのない、宝祚(注・ほうそ。天皇の位)の隆盛を祝し、赫々(注・かっかく。はなばなしい)たる皇威の八紘(注・全世界)の外に照徹するのを見て、手が舞い、足が踏むところを知らず、これ、もとより、皇祖皇宗の徳を樹つる宏遠、万国無比の国体によりて、しかるものではあるが、往時、皇化陵夷(注・天皇の徳化が次第に衰退すること)天日暗雲に隠れるに当たり、水戸義公を始めとして、その他、天下の志士仁人が、大義名分を明らかにして、王政維新の素地をなしたる努力の結晶で、徳川幕府の大政返上となり、明治時代の大発展となり、ついに、大正聖代の隆運をひらいて、この荘厳無比なる、御即位の大礼を挙行せらるるに至ったかと思えば、私等のごとく、旧水戸藩に生まれ、その臣籍に列し、父祖代々、名公の訓化に浴し、その主義主張を熟聞する者は、豈(注・あに。どうして)黙々として已む(注・やむ。済ませる)べけんやと思い、とりあえず、大体の綱領だけを叙述して、これを水戸学と名づけ、大正五(1916)年十月に、小著として刊行した次第である。

 水戸徳川家第二世、権中納言源光圀卿は、諡(注・おくりな)して義公という。学問淵博、識見超邁、中世以降、皇化陵夷、大義名分の明らかならざるを慨し(注・天皇の徳化が弱まり、大義名分が実現していないことを嘆き)、これを覚醒、啓発するをもって、乱臣賊子の心胆を寒からしめたるのみならず、躬親から(注・きゅうしんから。みずから)尊王の模範を示して、天下人心の帰嚮(注・親しみを抱くこと)を定め、明儒、朱舜水を聘して、大いに倫常の学を講じ、漢土聖賢の教えを資(と)って、もって本邦固有の道義を扶植し、みずから一家の学風を開かれたので、水戸藩の君主臣僚は、代々これを継承し、修史の遺業を紹述して始終渝(か)わらざりしがため、その感化いよいよ深く、ますます広く、幕府の末造、慶喜公の将軍職に就くや、その所出なる水戸家の学風理想を体現して、大政返上の英断に出でて、謹慎恭順、よく臣節を全うして、滑らかに王政維新の鴻業を完成せしめたのは、義公幕初に首唱を、慶喜が幕末に実現したるもので、これを水戸学説の終始一貫というべきであろう。しかし幕府全盛の際にあって、義公が右のごとき理想を樹立したについては、みずからその原由がなくてはならぬ。私は次項において、さらにその大要を陳述することとしよう。

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二百十九  水戸学著述の由来(中)(218・「上」からのつづき)

 水戸義公(注・徳川光圀)が十八歳のとき、史記の伯夷伝を読んでおおいに感奮した事実については、水戸家の第三世粛公(注・徳川綱條つなえだ)が、大日本史の序において記している。
「先人十八歳、適ま(注・たまたま)史記の伯夷伝を読んで、蹶然として(注・けつぜん。勢いよく行動を起こすさま)その高義を慕い、巻を撫して嘆じて曰く、載籍あらずんば、虞夏(注・虞は舜帝、夏は禹王。ともに中国の神話的な君主)の文、得て見るべからず、史筆によらずんんば、何をもってか、後の人をして観感するところあらしめんと、これにおいて慨焉として、始めて修史の志あり。原漢文

 義公が伯夷伝から感得したのは、ただ修史(注・史書の編纂)の必要のみだっただろうか、いや、義公一代の道義観もこのなかから出て来て、水戸学の全精神も実にこのなかに含まれているのである。
 この一義は、私の発見ではないかもしれないが、明白にこれを道破(注・はっきり言うこと)している先輩がないようなので、私は小著の「水戸学」の中で、特にこの所見を発表した。

 今、史記の伯仲伝を見ると、その冒頭に、
「それ学は載籍きわめて博し、なお信を六芸に考う、詩書欠けたりといえども、しかも虞夏の文、知るべきなり。原漢文
とあり、さらにその伝記には次のように書かれている。

(注: 
伯夷、叔斉の故事についてはhttps://dictionary.goo.ne.jp/word/伯夷叔斉/などを参照のこと)
 

「伯夷叔斉は、孤竹君の二子なり、父叔斉を立てんと欲す、父卒するに及んで、叔斉伯夷に譲る。伯夷が曰く、父の命なりと、遂に逃れ去る、叔斉また立つを肯んぜすしてこれを逃る、国人その中子を立つ、これにおいて伯夷叔斉、西伯昌の善く老を養うと聞き、盍ぞ(注・なんぞ)往いて帰せざると、至るに及んで、西伯卒す、武王木主を載せて、号して文王となし、東の方、紂を伐つ、伯夷叔斉馬を叩えてしかして諫めて曰く、父死して葬らず、ここに干戈(注・かんか。武器)に及ぶ、孝と謂うべけんや、臣をもって君を弑(注・しい)す(注・目上の者を殺す)、仁と謂うべけんや、左右これを兵せんと欲す、太公の曰く、これ義人なり、扶(注・たす)けてしかしてこれを去らしむ、武王すでに殷の乱を平らげて、天下周を宗とす、しかして伯夷叔斉これを耻ず(注・恥じる)、義周の粟を食わず、首陽の山に隠れぬ。原漢文
とある。

 私がこの文章を読んで思い当たったのは、義公が伯夷伝から受けた感発(注・発奮材料となったこと)は次にあげる三つの大義である。第一に、公自身が弟の身でありながら兄に先んじて封を継いだということ、第二に、君が君らしくないとしても、臣は臣らしくなければならないということ、第三に、史書の編纂がものごとを後世の人に伝えるために欠くことのできないものであるということである。これらを実現することを終生の目的とされたということである。水戸学の根底は、そこにあると言え、また義公一代の大節もまた、この中にあると言えよう。
 

 そこでまず第一の、弟の身で、兄んに先じて封を継いだ、という点から説明しよう。
 義公は、徳川家康の十一子の、権中納言源頼房、諡して威公と呼ばれた水戸藩祖の第三子である。母は、藩臣谷左馬之助重則の娘、靖定夫人である。諱は光圀、字は子龍、小字は長丸といい、のちに千代松に改めた。日新齋、常山人、卒然子などの号を持つ。また梅里と称し、退隠後に西山と号した。
 寛永五(1628)年戊申六月十日に、水戸藩士、三木仁兵衛之次(注・にへえゆきつぐ)の、柵町の家に生まれた。
 容貌端麗、気格俊邁で、六歳のとき、威公(注・水戸藩初代藩主徳川頼房、家康の11男)の世子がまだ決まらず、将軍家光は水戸家家老の中山備前守信吉に命じて、水戸公の子供のなかから世子を選ばせた。信吉は、義公が幼いながら人君の器量を備えていると見て、江戸に帰って復命したので、公は世子として小石川藩邸に迎えられた。
 七歳で将軍家光に謁見したが、その挙動に異常なく、将軍の手ずから文昌星の銅像を賜った。
 九歳で江戸城において元服した時、一字を賜り光圀と名づけ、従五位下から従四位下に叙して左衛門尉の任じられた。
 十三歳で従三位にのぼり、右近衛中将を拝した。
 義公が伯夷伝を読み、兄弟推譲の義を感じたのは、すでに十八歳に達した正保二年で、位階官爵のすべてで世子に相当するまでにのぼっており、今さら兄の頼重に譲ろうにも、事実として実行できない情勢になっていた。
 ここにおいて、公は自ら深く決意するところがあり、寛文元年七月二十九日、威公が享年四十五歳で水戸に薨じると、儒礼をもって久慈郡太田郷の瑞龍山に葬った。

 翌八月十八日に、将軍家綱の命により家督を相続する場に臨み、義公は、兄頼重、弟頼隆を威公神主の前に会して、「某(注・それがし=自分)は、常に兄を超えて家を継ぐことを本意なく思っているから、今、兄君の長子、千代松を養って、わが継嗣となすことにしたい、兄君が、もしこれを許諾するならば、某、今日命を受けようが、もししからずんば、某は別に思うところあり」といって、その決心を兄頼重に告げた。 
 またここで、二弟の頼元も、頼隆もとともに辞を尽くして頼重に説いたので、頼重もついにこれを承諾することになった。そこで公は、松千代を継嗣と定め、名を綱方と改め、その弟の綱條をも、あわせて養うことにしたが、その後、綱方が早世したので、綱條が水戸家第三世になり、こうして義公は、伯夷伝から感得した兄弟推譲の道を全うしたのである。
 


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二百二十   水戸学著述の由来(下)(下巻260頁)(上へもどる中へもどる

 私は前項において、水戸義公(注・徳川光圀)が伯夷伝を読んで感得した、兄弟推譲の第一義を説明した。そこで今回は、「君、君たらずといえども、臣、臣たらずんばあらず」という、第二義について述べようと思う。

 義公が、伯夷伝から感得した第二義は、伯夷、叔斉が、周の武王が殷の紂を討つのをいさめて、「以レ臣弑レ君可謂レ仁乎(注・臣下の身で君主を殺すのが、仁と言えるのか)」と曰い、武王が殷の乱を平らげてのち、天下周を宗とするにあたり、「義不レ食2周粟1(注・義として、周の粟を食べない)」といって、首陽山に隠れたという行実である。
 古来、シナにおいては、禅譲放伐(注・中国古代に唱えだされた王朝交代の二つの型。中国の君主は天帝の命によってその地位にあるものと信じられていた。禅譲は一王朝一代で、前の王が天命の下りた天下の最有徳者に平和的に王位を譲るという理想型。放伐は、世襲王朝の失徳の王を天下の有徳者が武力で討って代る革命。漢以後の王朝革命では、形式的に禅譲に似せるものが少くなかった。[ブリタニカ国際大百科事典小項目事典より]。高橋は、ここでは、放伐の意味で使用していると思われる。)が常道とされた。君子が君子らしくなければ、臣下がそれに取ってかわることも少なくなかったのである。
 孟子なども、「聞レ誅2一夫紂1矣、未レ聞レ弑レ君也(注・紂(=殷の王)という一人の男を武王が誅殺したとは聞くが、臣下が君主を殺したとは聞いていない)」と明言したほどであるのは、その建国の根本とする義が、すでにこのようなところにあったからである。
 伯夷、叔斉は、君臣の大義というものは決してこのようなものであってはならないということで、武王の馬を叩いて、その非をいさめたのである。そして、孔子は後世になってこれを「仁を求めて仁を得たり」と称賛したのである。

 古来、禅譲放伐(注・前述のとおり、放伐の意味であると思われる)を常習としてきたシナにおいても、すでにこのような義人がおり、聖人である孔子もその義を激賞したのである。
 わが日本国においては、国初以来、万世一系の天子を戴いており、革命の事例を求めることはできないのはもちろんのこと、君臣の大義は明確に万世にわたって不変なはずなのに、中世以降、禍乱(注・災いや戦乱)が相次ぎ、王政ははなはだしく衰え(原文「王室式微」)、政権は武門(注・武家)に移った。
 天下の人民は、将軍がいることを知ってはいても、天子がいることを知らない。北条義時の不臣行為、足利尊氏の奸猾行為があっても、世の中にはそれに気づく者がないというありさまなのであった。
 さいわいに、織田、豊臣の二氏が王室に関心を向け、徳川氏もその先鞭に従い、天朝尊崇の礼を失わなかったが、御水尾天皇のように、関東の情勢に心穏やかでなく幕府の措置に憤りを感じる志のある朝廷人もいたのである。しかし、俗儒曲学の者たちは、その仕えている幕府に媚びて、ややもすると名分を誤るおそれが出てきた。
 武門の驕慢が極点に達し、日本の建国の本義にたがうことがあったならば、徳川氏が長く不臣の汚名をかぶることになってしまうということが、義公のおおいに憂慮するところとなった。日本国民はみな、伯夷、叔斉の心をもって心とし、たとえ君が君らしくなくとも、臣は臣らしくなくてはならないという大義を、みずからのつとめとした。この大義に当たって、「親を滅するも、猶ほ辞さず(注・親をつぶすことも辞さない)」としたゆえんがここにある。
 公が、元禄三(1690)年十月に隠居して、翌月に水戸に赴くことになったとき、当主の粛公(注・水戸徳川家三代藩主、徳川綱條つなえだ)に授けられた留別の詩の結句は、次のようなものであった。

  古謂君雖以不君  臣不可不臣

これは、公が粛公に対して、家学の根本議を示したものである。公は、造次顛沛(注・ぞうじてんぱい。とっさの場合、危難の迫った場合)でも、このことを忘れなかったようだ。

 それゆえ、公はいつも、伯夷、叔斉を敬慕してやまず、かつて、小石川後楽園に得仁堂を作ったとき、そのふたりの木像を安置し、また水戸領内に隠棲することを決めたときに、久慈郡西山にやってきて、その地名を聞き、伯夷と叔斉が「登2彼西山1兮采2其薇(注・ぜんまい)1矣」の遺意を得たりとして、この場所を選定し、自らも西山と号したことなどは、すべてみな、ふたりへの欽仰思慕の一端と見るべきなのである。

 さて最後に、第三義「後人観感の為、修史の必要欠くべからざる事」についても述べてみよう。
 大日本史の序文に、「載籍あらずんば、虞夏の分、得て見る可らず」とある。義公が十八歳のとき伯夷伝を読んで、決然としてその高義を慕い、兄弟推譲の礼を知り、また君臣の大義名分をつまびらかにして、みずから矜式(注・きょうしき。謹んで手本にすること)するところを得ることができたのは、すべてみな、これらを記載する書籍があったためであった。
 だがわが日本においては、六国史(注・奈良から平安時代の修史事業で完成した歴史書。『日本書紀』『続日本紀(しょくにほんぎ)』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』)以降、史実を著したものが非常に少なく、稗官野乗(注・民間の歴史書)では毀誉褒貶が一定せず、事実を誤り虚を伝えている。名分についても順逆をわきまえず、ひどいものでは天皇御謀反であるとか親王を京師(注・けいし。都)に流す、などと言う。当時の林家の博学をもってしても、わが国の朝廷の始祖を呉の太伯の末裔であるとし、それがわが国の建国の大本にもとることがわかっていない。
 「春秋」にあるような、厳正な筆法(注・春秋の筆法=孔子の書いた「春秋」のような厳しい批判の態度)で王覇の弁を明らかにし、乱臣賊子たちが、みずから鑑戒(注・いましめの手本)とするようなものがないという事態は見過ごすことのできない欠陥であるとして、義公は憤然と志を立てたのである。そして、万難を排し、漢土(注・中国の古い呼び方)の史記の実例にならい、本朝の正史編纂の大業を開くにいたったのである。

 以上の三大義は、義公が、伯夷伝を読んで感発なさり、以来、みずから率先実行されたもので、水戸学の根本義はすべてこの中に含まれているということになる。
 この水戸学の精神は、歴代の水戸藩主に伝わり、ことあるごとに発露された。幕府の末期に、公武の間で問題が起こりそうな形勢になったとき、武公(注・水戸徳川家七代藩主、治紀)は、この精神で烈公(注・同九代藩主、斉昭)を戒め、烈公は、この精神で慶喜公を諭した。そのおかげで、王政維新の際、徳川家がその方針を誤らなかったということは、すでに前述したとおりである。(注・191「徳川慶喜公に関する史実」を参照のこと)
 このようなわけで、今回の大正天皇の御即位御大典が盛大に行われたのを見て、感激に堪えず、私心を記念しようと、ついに一冊子をなしたものが、すなわち、この「水戸学」なのである。



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