百九十一 徳川慶喜公に関する史実(下巻157頁)
大正三(1914)年八月十三日、箱根小涌谷の三河屋で台風の大雨が建物を震撼させんばかりだった最中に、渋沢子爵と前後三時間にわたって対話していた私は、「昔から、歴史というものは、いわゆる史眼炬のごとき人物(注・歴史を見極める炯眼のある人)が、内外、表裏から虚実を明らかにして公正に記述しなければ、その真相を後世に伝えることができないのだから、身近でその真相に触れた人々はなるべく筆まめにこれを書き残して、のちの人に正確な史料を供給するのが義務だろう」という話をした。すると渋沢子爵は次のように言われた。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「しごくごもっともなご意見である。歴史の真相が間違って伝わりやすいことは、徳川慶喜公の生涯を見てもわかるだろう。
拙者は、公の伝記【卓上に積み重ねてあった徳川慶喜公伝の稿本を指して】を自ら編纂し、公に関していちばん誤解されやすい事実を闡明(注・せんめい。はっきりしなかったことを明らかにする)しようと苦心している。編年体にすると二か月分で一冊になりそうなので、あまりに膨大にならないように、史料的な記述ではなく叙事的な伝記として書き上げるつもりで鋭意努力しているが、完成するまでにはまだ何年もかかってしまうだろう。
さて、自分が慶喜公に初めてお目にかかったとき、いかにも聡明な御方であると思ったが、その説をきいてみると、当時の公は開国論者である。拙者は攘夷専門であるから、まったく意見が違っていて内心では不満でたまらなかった。
しかしだんだん時がたつにつれ、攘夷などというものが到底実行されるべきでないことがわかってくると、それまでの不平は雲散霧消して、公の先見に感服することになった。
次に、慶喜公が将軍となられたとき、公はずいぶん賢明な人であるのに、もはや余命もない徳川政府を引き受けるとは、やはり将軍にはなりたいものかと、またまた胸中不平にたえなかったが、これも時の経過にしたがい、公が徳川の末路を良くしようとするがために、みずから犠牲になられたことがわかって、またまたその深謀遠慮に感服したのである。慶喜公が出てきて大政を返上し、また謹慎恭順したからこそ、徳川家一門もその末路をまっとうすることができたというのに、いまさらのように拙者などは思慮が浅薄だったということを知り、いよいよ公の高潔な心事を知ることができたのである。
そのことについては、ここにひとつの美談がある。拙者はつねづね、明治政府諸公の、慶喜公に対する処置に飽きたらないものを感じていた。慶喜公が、朝命とあらば、よいことでも悪いことでも、ただ一意謹慎して江戸城を官軍に引き渡し、百万の生霊を塗炭の苦しみから救われたという、その心事を推察するなら、少なくとも諸公と同様の優遇を受けるべき人であろうと会う人ごとに話し、ことに井上侯爵に対しては、勇気をふりしぼって(原文「張胆明目」)そのことを主張したところ、侯爵も『それはいかにももっともである、まず伊藤に話してみるがよかろう』と言われたので、その後伊藤公爵に面会し、真正面から議論を持ちかけたところ、逆に公爵から次のような逸話を聞き、はなはだ愉快にたえなかったのである。
『あるとき、有栖川宮邸でスペインの国賓を招待したとき、慶喜公や自分が陪賓になったが、その宴が終わったあとに自分は慶喜公に向かって、唐突な質問ではあるけれども、そもそも王政維新の際に、公は謹慎恭順の意を表せられて、なんらの抵抗も試みず、王政維新を容易にされたのはまことに感服の至りであるが、当時公はいかなる考えでそのようにされたのか、その感想をうけたまわりたいと申し出たところ、慶喜公は、それはこういうことだ、これは決して拙者ひとりの考えでやったことではなく、つまり水戸の家風である。拙者は十一歳で一橋家に養われるようになったが、二十歳のとき父である烈公(注・水戸藩九代藩主徳川斉昭)が拙者を招き、さて汝もすでに丁年(注・一人前の年齢)に達したので一応申し聞かせておくが、これから国事はどんどん困難になっていくだろう。しかしここに、わが水戸の家風として、いかなる場合にも厳守しなくてはならないのは、朝廷に対して勤王の趣意を守るべきであるということである。もしも宗家と朝廷のあいだに事あるときには、大義親を滅す(注・大義のためには親兄弟をも犠牲にする)の大法により、むしろ宗家に対して弓を引くことになっても、決して朝廷にそむいてはいけない。これがわが家法なので、いかなる場合にもこれに背いてはいけない、と訓戒されたのを常に心肝に銘じていたので、ただその趣意を失わないようにと努めただけで、自分自身でそれこれという考えがあったというわけではなかったのだと、こともなげに答えられたのである。
慶喜公が、自分の問いに対してなんら意見がましいことを述べず、ただ父祖の遺風を守ったまでだと返答されたことは、いかにも奥ゆかしく、ますますその人物の高きに感じ入った云々』
以上の伊藤公爵からの直話を聞き、拙者はますます慶喜公の高潔な心事に感じ入り、なんとかして公の進退大節(注・行動の大義)を世の人に知らせたいと、みずから公の伝記を編纂している次第である」と述べられた。
このとき私は渋沢子爵に対して、子爵は水戸武公(注・水戸藩九代藩主徳川治紀、斉昭の父)が烈公に与えられたという訓言についてすでに聞いたことがあるかどうかとたずねたが、まだきいたことがない、とのことだったので、それならば、他日あらためてそれを写し取ってお見せしましょうということで、当日の談話を打ち切った。(注・その訓言については、次ページ192「水戸武公遺戒の報告」を参照のこと)
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「箒のあと」192 水戸武公遺戒の報告
百九十二 水戸武公(注・徳川治紀)遺戒の報告(下巻161頁)
大正三(1914)年八月十三日の箱根小涌谷三河屋における私と渋沢(注・栄一)子爵との会談では、徳川慶喜公と子爵の遭遇について、そして、その感想が大部分を占めた。(注・191「徳川慶喜公に関する史実」を参照のこと)
子爵が維新の直後にフランスから帰国したとき、とりあえず公が謹慎していた静岡の宝台院に伺候すると、薄暗い行燈の下で、公が悄然として座っているありさまに、なんとも慰めの言葉も出ず、世には神も仏もないものかと男泣きに泣いて次の一首を作られたそうだ。
維新偉績覓無痕 抉剔相穿未鉤玄 公議与論知何用 千秋誰慰台冤魂
しかし、公の忠誠で高潔な心事はようやく天下に知れ渡り、いわゆる至誠人天に通じて、薨去の際には世間一般から深い哀悼の情が寄せられことから、さらに次の一首を詠じたということである。
嘉遯韜光五十春 英姿今日去成神 至誠果見天人合 不問盛名喧四隣
このとき渋沢子爵は、座右にあった机でこの二首をありあわせの巻紙にしたため「拙作です」と謙遜して私に下さったが、子爵は筆を持つとき親指を曲げず、まっすぐに突き出して一字一字ていねいに書き終えられた。このような座興の執筆にも軽率な様子がまったくなかったことは、例の綿密な天性によるものであろう。
さて、私は前項(注・191)に記したとおり、この会談の中で水戸武公(注・水戸藩七代藩主徳川治紀)の勤王に関する遺戒を渋沢子爵にお知らせすることを約束したが、それから多忙に取り紛れてそのままになってしまっていた。しかし同十一月十日になりようやくそれを執筆して、すぐに子爵に廻送した。その文言は次のようなものであった。(注・旧字を新字になおしたほかは原文どおり)
「拝啓仕候、去る八月中、箱根小涌谷に於て拝芝(注・はいし。面会)の節、水戸武公の勤王に関する遺戒をお目にかけ候様、御約束致候処、右遺戒と申すは、武公が自から認められたる者には無之、水戸の儒臣青山延于の著述したる武公遺事中に、左の一節有之候事に御座候。
『公は御平生、朝廷を殊の外御崇敬被遊けり、或る時、景山公子(注・武公の子、烈公斉昭)へ御意遊されけるは、たとへ何方の養子と成候とも、御普代大名へは参り不申候様に心得可申候、普代は何事か天下に大変出来候へば、将軍家にしたがひをる故に、天子にむかひ奉りて、弓も引かねばならぬ事也、これは常に君としてつかうまつる故に、かくあるべき事なれども、我等は将軍家いかほど御尤もの事にても、天子に御向ひ弓をひかせられなば、少【いささか】も将軍家にしたがひ奉る事はせぬ心得なり、何ほど将軍家理のある事なりとも、天子を敵と遊され候ては、不義の事なれば、我は将軍家に従ふことはあるまじと仰せられければ、公子左様に候はば、公には常々将軍家を御敬ひ遊され候て、毎月の御登城をもかかせられざるは、何故にて候と仰上られければ、御意に将軍と云ふは、天下の政を執られ給ひて、日夜御こころのひまなき故、下民も其徳に服したてまつりて、一人もしたがひたてまつらざる者なく、大名なども一人にても服さぬ者はあらず、しかれば、漢土などに候へば、革命にもなるべき勢ひもあらせられ候へども、天子をば御うやまひ奉るなりと御意遊されたり、又御意に我等かく存候ても、天子に向ひたてまつりては、弓をばひかぬ心得なれば、子供にも其心得にて、普代大名の養子とはなるまじきことなりと、御意遊されけると也。』
御承知にても候はん、青山延于先生は、藤田東湖の実父幽谷先生と相並んで、水戸の宿儒に有之、彰考館総裁をも相勤め、且武公に昵近致し候人なれば、前件記事は固より確実の事と存ぜられ候、又右武公遺事に、
『公或る時仰せられ候は、新井白石制度を改めて、百官も衣冠にて出仕する(注・徳川幕府に)やう建議ありしかど、其儀止みて、関東の幸なり、若し其通りになり候はば、平将門(注・「新皇」を自称し朝敵となる)のやうになるべしと仰せられけりとぞ。』
と申す一節も有之候、案ずるに、武公が斯かる言説を反覆(注・繰り返す)致され候は、当時高山彦九郎、蒲生君平など、王覇の名分論を試みて、隠然王政復古の気焔を煽り候時節に就き、公武の間、一朝危機に迫り候やうの場合なしとも言ふ可らず、其際水戸徳川家をして、方針を誤らしめざるやう、義公(注・水戸藩二代藩主徳川光圀)以来伝家の本領を、景山公子に訓戒し置きたるものと被存候、然るに烈公(注・徳川斉昭)時代となりては、形勢も愈々差迫り候故、烈公が慶喜公に対して、先般御話の如き訓戒を垂れられ候は、誠に当然の成り行きと存ぜられ候、武公は水戸藩祖威公より七代目の藩主にして、諱は治紀、字は徳民、鶴山と号し、安永二年十月二十四日誕生の君侯に御座候。」
というのが、私が渋沢子爵に対して申し送った書簡の大要であった。
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「箒のあと」193 山本権兵衛伯爵の福澤談(上)
百九十三 山本伯の福澤談(上)(下巻164頁)
私は実業界を引退後、余暇に乗じて福澤先生の事歴を先生に縁故ある長老から聴取しておこうと思い、大隈重信、後藤新平、足立寛、中村道太、荘田平五郎、森村市左衛門、阿部泰蔵、北里柴三郎、犬養毅、尾崎行雄ら約三、四十人を歴訪し、各人各様の関係や感想を査問した。これは、それらの人々の在世中になるべく多くの資料を収集するということが主な目的だった。(注・3,40人を歴訪したとあるが、28名分が「福澤先生を語る・諸名士の直話」(昭和9年、岩波書店)にまとめられた。)
そのような次第で私が山本権兵衛氏を訪問したのは、福澤先生が明治三十二(1899)年に山本伯爵と会談されたあと、ある人に「このごろ、山本権兵衛という人に会うたが、イヤ実に偉い男だ、彼はただの軍人でない、学者だ、全体薩摩の奴には数学のわからぬ男が多いが、山本という男は、徹頭徹尾マセマチカルにできあがっていて、実学に根拠する話のできる男だ」と激賞されたということをきいていたからである。
また先生が脳溢血のあと、記憶力が衰えて人の名前を思い出せなかった時、「あの薩摩の奴を連れて来い」と言われたので、三田に関係ある薩摩人の名を数えあげるうちに、山本権兵衛という名前が出てくるなり、両手を打って「それだ、それだ」と言われたということも聞いていたので、私は伯爵への紹介を園田幸吉男爵に依頼したのである。
男爵はさっそく快諾され、山本伯爵は厳格な人だから自分自身が訪問して申し入れようといって、わざわざその労をとってくださったので、私は、大正三(1914)年十一月二日午前八時半から山本伯爵の高輪台町邸を訪問することになったのである。
まず日本客間に通されてみると、床に大正天皇陛下が伯爵の日本海軍建設に関する功労を嘉賞された勅作の七律の宸翰が掛けてあったので、謹んでこれを拝観していると、伯爵は悠然と座につかれ初対面の挨拶を述べられた。
そして伯爵は、私が訪問した趣旨を聞き終わるとおもむろに口を開き、まず福澤先生の事歴に関する思い出談を語り、だんだん話が進むにつれて日露戦争後にドイツを訪問して皇帝(注・ヴィルヘルム2世)に謁見した顛末から、大正政変の委細にまで及んだが、ここでは福澤先生に関することだけを記しておくことにしよう。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)
「自分が福澤先生と会見したのは、明治三十二年であった。会見の手続きは、今なお海軍に勤めておらるる木村摂津守(注・芥舟木村喜毅)の子息(注・次男の浩吉)が先生の使者として来宅し、福澤先生が閣下に会見したいということでありますが、先生が自分より会見を申し込むというのは甚だ稀なことでありますから、枉げて(注・まげて。無理にでも)ご承諾願いたいということであった。
よってすぐにこれを承諾すると木村はさらに語を継ぎ、福澤先生は年輩でもあるから、会見の場所等については先生の方にお任せくだされたいというので、それも宜しいと承諾すれば、既に時日の相談をしてきたものをみえ、何日何時より福澤宅にて会見したしとのことであったから、当日朝九時頃、先生の宅を訪問したが、当日の会談は午前九時に始まって正午になってもなお尽きないので、先生は自分に昼食の御馳走をなし、奥さんや令息たちにも紹介せられて、午餐後、午後四時ごろまで語り続け、先生も非常に満足せられたようであった。
されば当日の談話は、非常に広汎なる範囲にわたったが、今その大要をいえば、自分が十四歳の時、はじめて『西洋事情』を読んで、おおいに時勢に感発したことから始まり、大西郷(注・西郷隆盛)の添書を持って江戸に出て、勝安房(注・勝海舟)に面会して、いろいろ教訓を受けたこと、西郷従道がほしいままに台湾征討に出かけたのを憤慨して、おおいにその不当を責めたが、その後西郷より事情を聞いて自分の誤解を悟ったこと、また自分は一身を海軍にゆだねる決心で勝安房を訪問したところが、彼は自身の経歴を説いて、海軍振興をもって己が任とするには決死の覚悟がなくてはならぬと激励されたから、自分は万難を排して海軍の学術を修めてみようと彼に誓約して、ついにドイツに留学したこと、また明治二十一年、自分に対して四面攻撃が起こったとき、自分は六か月ばかりかかって、わが海軍大改革案を編成し、これを西郷(注・従道)海軍大臣に示したところが、西郷はちょっとこれを読んだばかりで、すぐに賛成の意を表したので、自分が六か月かかって調べたことを、ちょっと読んだばかりで諒解するはずはない、自分はさような大臣の下に就職することはできぬと言い出したら、西郷は例の調子で、実は一切わかっておらぬが、今日君をおいて海軍改革は不可能だから、万事万端君に任せるつもりである。しかしてこの改革案は必ず内閣の同意を得てみせるから、君も是非留まって、これを実行してくれよと切望せられたことなどであった云々。」
以上、山本伯爵の談話は、まだその蔗境(注・しゃきょう。だんだんおもしろくなっていくこと)に入っていないので、次項(注・194「山本権兵衛伯爵の福澤談・下」)においてさらに記すことにしよう。
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「箒のあと」194 山本権兵衛伯爵の福澤談(下)
百九十四 山本伯の福澤談(下)(下巻168頁)
前項(注・193「山本権兵衛伯爵の福澤談(上)」)のとおり、山本(注・権兵衛)伯爵は福澤先生に対して自己の海軍改革案主張に関する談話を進め、ひきつづき次のように述べられたということである。
「さて自分の提出した海軍改革案を西郷(注・従道)海軍大臣が内閣会議に提出したところが、議論百出の末、閣僚中より委員を選定することとなり、山県、伊藤、井上その他の先輩がこれに当たり、自分がその説明を引き受けてついに本案成立したので、この海軍をもってほどなく日清戦争に当たり、実験上さらにまた各般の改革を施した次第を述べ、なお今後の方針についても詳細説明するところがあったので、福澤先生はおおいに満足して今度は反対に自身の来歴を語り、『俺は蘭学を修めて西洋実学の真価を知り、無遠慮に漢学者どもを罵ったので、維新前にあっても相当危険なる場合に遭遇したが、維新後にいたっては、さらにその危険を増し、いつ暗殺せらるるかもしれぬので、万一の場合に逃げ込むべく、居間のストーヴの下に逃げ道をつくったこともあった。されば一方にはおおいに人心を刺激して西洋文明の方向に向かわしめんとし、あるいは嚇し、あるいは嘲り、その論鋒があまりに過激にわたったかと思えば、今度はにわかにこれを緩和し、座を見て法を説くの筆法(注・相手によって説明の方法を変える方法)を用いたれば、福澤には一定の論旨なく、飄々として変転するものだなどと世間よりさまざまの誤解を受けたが、その実、あまり一方に熱中すれば、その身を危うする惧(注・おそれ)があったからである』という苦心談もあり、また『日本の発達が、最初は非常に気遣われたが、日本国民中には相当気力ある者もあって、俺が心配したよりも存外の好結果をきたし、国運も次第に進歩してきたが、前途を見れは、なおさまざまの困難が横たわっているので、日夜苦慮しているのである』というような所見をも述べられ、双方の意気が非常によく投合したので先生もたいそう満足せられ、やがて昼食にとて自分を案内せられた座敷は八畳敷ばかりで、片隅に引っ込んだ床になにやら掛物がかかっていた。
かくて先生の私に対する挙動は、初めより胸襟をひらいて、いさかか包み隠すところなく、食後もまた引き続き、さまざまの談話にはいった。
さて自分は従来、勝安房、西郷隆盛、同従道、大久保利通、伊藤博文などいう人物に面会しているが、考えてみれば、これらの人々のなかで福澤先生ほど大きく腹心を開いて人に接し、子供のごとき無邪気さをもって初対面よりあたかも古き友達に対するがごとく彼我の界を撤去して、愉快に語らるる雅量を持っている人に会ったことがない。
自分が大西郷より添書をもらって勝安房を訪ねたとき、まずどんな人物かと面会してみれば、小づくりな医者のような容体で、たばこ入れを提げて、ひょこひょこと現れ出で、なんとやら軽々しい挙動で、これが勝先生かと思われるようであったが、ただ目がぎょろぎょろとしているところが凡人と思われず、自分に向かってしきりに薩摩人は乱暴であるから、よほど注意しなくてはならぬと教訓を与えてくれましたが、しかし初めより人を呑んでかかって、禅宗流に、いわゆる一喝を喰わせようというやり口であった。
また西郷従道という人は、なかなか真似のできないよいところがあった人で、松方内閣が選挙干渉で、どこまでも押し通そうという場合に、前日までその評議にあずかって格別異存もなかったのに、その翌日の内閣閣議においては、彼がひとり立ち上がって、『かようなことで、お上に御迷惑をかけては重々相すまぬ訳であるから、この内閣は断然明け渡そうではないか』と切って出たので、高島鞆之助やら、その他薩摩の連中等は、あまりに突飛なるに驚いて、かれこれ異存も申し述べたが、西郷はどこまでも例の調子で、この連中を説き伏せてしまった。彼はよく、窮して通ずるの呼吸を解し、いよいよという場合には、実に俺が悪かったというように、なんらの執着もなく手のひらをかえすように翻然と態度を変えてしまうところが彼の得意で、これは容易に真似のできない芸当である。
兄の隆盛などは、その徳をもって人を服するという特長はあったが、弟のごとく翻然と態度を新たにする禅僧じみた真似はできない人であった。
これらの豪傑は、いずれも得難い人物であるが、福澤先生は学者でもあり、かつ非常に大きい人物で、自分がこれまで接触した偉人中の偉人というべき者であろうと思う云々。」
以上は山本伯爵の福澤先生に関する感想談の一部分である。その他の談話は、あまり複雑にわたってしまうので、まずこの辺で打ち切ることにしよう。
「箒のあと」195 荘田平五郎と三菱
百九十五 荘田と三菱(下巻171頁)
荘田平五郎氏には一時期「三菱の智嚢(注・知恵袋)」とさえ謳われた時代があった。
氏は九州の杵築藩士で、維新前に同藩の留学生として上京後、慶應義塾にはいり、卒業後は義塾または他校で教鞭をとったこともあった。
明治八(1875)年に三菱汽船会社に入社し、おおいにその手腕を振るった。
福澤先生は、氏が在塾中に、きちんとした袴をはき、一挙一動がいかにも几帳面であったことを称揚して乱暴書生に対する教訓としたほどだった。
氏と三菱との関係について氏が私に語った経歴談の中で、氏は次のようなことを言っている。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、内容も若干わかりやすい表現になおした)
「私は明治八年に三菱汽船会社に雇われた。三菱は、明治六年の佐賀の乱で政府の海運御用を勤め、翌七年に台湾征討の運送の仕事を引き受けた。
それ以前には、大蔵省内に蕃地事務局というものがあって、P&O会社(注・Peninsular and Oriental Steam Navigation Company)、およびパシフィック(原文「パシフヰツク」)汽船会社(注・パシフィック・メイル社か?)から、千トン内外の機先七艘を買い入れた。台湾事件が終わったあと、それを三菱に貸し下げることになったので、三菱はその船を使って上海への航路を開いた。そのときの事務上、外国人に接触する必要が生じたので、英学書生を雇い入れることになり、かの浅田正文などもそのとき雇い入れられた一人であった。
もともと、この汽船貸し下げのことは大久保利通卿の発議であるそうだが、当時、日本の海運は、第一に政府が担当するか、第二に民間に委任するか、第三に民間の当業者を保護するかの三策しかなかったのである。
大久保卿は、その第三策を取り、三菱の上海航路を補助するにいたったので、私はこのとき三菱に入社したのである。
その口入れをしてくれたのは豊川良平君で、福澤先生にはご相談はしたが、入社については先生とはなんら関係もなかったのである。
福澤先生と岩崎弥太郎との交際は明治十三(1880)年ごろから始まったのであるが、先生は、贔屓役者の後藤象二郎伯爵のことについて岩崎と面談する必要があり、このころから交際を開かれたのだと思う。
その仔細は、後藤伯爵が高島炭鉱を引き受けて大借金に苦しんでいたので、これを岩崎に買入れさせようという案件であった。この高島炭鉱というのは、肥前鍋島の領分で、かの英国人グラヴァ―(原文「グラパ」)と鍋島家が共同で掘り始めたもので、後年にいたっては、ほとんどグラヴァ―ひとりの所有物になっていた。
しかるに明治初年、後藤伯爵が政府と意見を異にして民間に下り、蓬莱橋ぎわに蓬莱社という商館をたてられたとき、そのころの日本の工業法によると、日本の鉱山は外国人が所有することができないというので、政府がグラヴァ―から高島炭鉱を買い上げたのを、後藤伯爵がさらに政府から買収したのである。
このときの金主になったのは、横浜の英一番ジャーディン・マセソン(原文「ヂャーヂンマヂソン」)で、ジャーディンは金主となるかわりに炭鉱の機械一切をその手で売り込み、石炭の売却もまたその手を経るのであるから、こちらのほうは儲かる一方であるが、炭鉱はだんだん採掘費用がかさみ、とうとう非常に大きな損失を招き、明治十二、三(1879~80)年ごろにおける後藤伯爵は実に窮迫の極点に達し、借金のために政治上の働きが束縛されるありさまになった。
そのとき、後藤伯爵びいきの福澤先生はこれを見るに忍びず、岩崎弥太郎に、石炭は三菱でも入用だろうから、ぜひとも高島を買い取ってやれと説きつけたが、弥太郎は容易にはそれに応ぜず、明治十四(1881)年の春にいたり、ようやく相談がまとまったのである。
だいたい三菱という会社は、岩崎弥太郎と、川田小一郎と、石川七財の三人の合作で、一時は三川商会といっていたこともある。川田と石川の川と、もうひとつはどういうわけで三川となったのか、それはわからないが、川田は御承知のとおりの才気ある人物で、外交のことに当たり、石川は堅実な武士気質の人で、内部の仕事に任じた。
明治十一、二年ごろ、石川は函館にいて北海道の汽船業務にあたり、川田は大阪で関西方面の総取締をしていた。北海道から大阪、大阪から下関を経て北海道というように、北と西との航海業を始めたところ、最初は費用が多くかかり運賃が高くなったので、渋沢、益田などが帆船会社というものを興し、北海道の交通をはじめたが、明治十六(1883)年になって、品川弥二郎子爵が共同運輸会社を作り、帆船会社もそれに合流して大活躍を始めたので、そこから三菱と共同運輸との大競争が起こったのである。この両者が明治十八(1885)年に合併して、日本郵船会社ができあがったのである云々。」
以上、荘田平五郎氏の談話は、郵船会社建設以降のことにもわたっているが、今は荘田氏が三菱に入社した経緯だけにとどめ、その他は省くことにしたい。
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「箒のあと」196 正金銀行創設の経緯
百九十六 正金銀行創設の経緯(下巻175頁)
正金銀行の最初の頭取である中村道太氏から、私が例の福澤先生事歴談を聴取した折(注・193を参照のこと)、正金銀行の創設経緯に関する話も聞かされた。このような談話には、幾分自慢話が伴うものなので多少の割引を要するかもしれないが、おおむね事実とたがわない以上これを全部葬り去ることは忍び難いので、次にその大要を記してみることにする。(注・わかりやすい表現にかえた)
「自分は三州(注・三河国)豊橋、松平伊豆守の藩士で、万延元(1860)年に江戸に出て、奥平藩邸に先生を訪問したのが先生との交際のはじまりです。それ以来、先生と私のあいだにはいろいろな交渉がありますが、そのことについては別の機会に譲ります。
明治九(1876)年、私は日本にひとつの特殊な銀行をつくりました。平常は正金(注・貨幣、現金)を蓄え置き、万が一の(原文「一朝」)非常事態に備え、わが国の経済の根本を動かさないようにしなければならないと考えついたので、関根正直氏に依頼して漢文で意見書を書かせた。
これが今の正金銀行の創設意見書で、福澤先生もこれを見て、しごくもっともだと言われました。
しかし当時は実行の運びにいたらず、私はいったん郷里に帰り何か国家のためになるような機械を製作しようと専念していた。
明治十一(1878)年になって、先生からの手紙で、かの正金準備銀行の意見が実行されそうだから至急上京せよ、とあったので、さっそく上京してみると、先生は今夕大隈を訪ねる予定なので一緒に来いと言われる。そこで三田から人力車で雉子橋(注・現千代田区役所の場所)の大隈邸を訪問し、三人鼎座して相談を始めた。
そのころの福澤、大隈らは、ずいぶん乱暴な口のききようで、先生が、そんな馬鹿なことを言うな、などと言えば、大隈さんが口をとがらして怒り出すというような非常に元気のあるものだった。
さて、結局の話であるが、資本金を三百万円とし、二百万円を民間から募り、百万円を政府で引き受けるということになった。民間では福澤先生の懇意であった堀越角次郎に話をし、横浜では私の懇意だった木村利右衛門に相談し、政府のほうは大隈さんが斡旋するということになったが、資金募集は案外順調に進み、横浜のほうでは木村が百万円を引き受けると言い、東京では安田善次郎氏が同額が受け持とうと言い出した。
そこで、十一年末から、正金銀行の定款を作り上げ、十二年一月に開店して私が最初の頭取になったのである。
ところが明治十四(1881)年、例の政変で大隈さんが退職することになったので、政府筋から私にも退職せよと言われたが、私はきっぱりと踏みとどまっていた。
十五年になり、松方さんは大蔵省から検査官を派遣し、何か私の落ち度を見つけようとされたが、それ以前に本行には大蔵省の監督官が出張しているので、いかに探究しても免職の理由がなく、松方さんもおおいに窮してとうとう嘆願的に出てきたから、私はついにこれに応じましたが、福澤先生が承知せず『中村をやめさせるとは言語道断なり』といって、滔々とその不法を論難した文書を発表された。これが私にとっては有難迷惑で、その後思いもよらぬ迫害を一身に引き受けるような始末となった。
さて当時、私の保有株は二千株あり、そのころ百円株が八十円くらいだったから、福澤先生は私にその株を政府に返還せよと申されましたが、一年ばかり経つ間に、正金株が非常に騰貴して、払込の百円になり、さらに進んでその倍額の二百円に達したので、先生はしきりにこれを売却せよと言われました。しかし私は、『この株は三百円になりますから、これまでは頑として持ち耐えます』と言い張り、ほどなく原六郎氏が頭取になり三百円の値が出たので、私はこれを売却して借金を引き去り、手取りで三十七万円を得て、正金と完全に絶縁することになったのであります云々。」
中村氏はなにごとにも器用で、商売の思想に富み、維新前には美濃人の早矢仕有的と相談して横浜に薬種店を開き、はじめてアメリカからキニーネを輸入したというような経歴もある。
幕末に世間が物騒になり、茶釜の値段が下落するとすぐに、地金として茶釜の買収しようという相談を福澤先生に持ち込んだこともある。
また、簿記に長じて、文部省の七等出仕となり、医科大学に簿記法を教授したというような履歴もあるなど、さまざまなアイデア(原文「工夫」)に富んだ人であったが、正金銀行頭取を辞職後、鉱山業で惨敗してからは再び盛り返すことができず、大正初年に私がこの話を聞いたときには、赤坂溜池にわび住まいをして茶道の教授をしていた。老後になって陋屋に隠棲しながら屈託の色を少しも見せず、雄弁滔々として懐旧談を物語られたのは、なにはともあれ、一種の人物であると見受けられたものだった。
「箒のあと」197「がらくたかご」著述の由来
百九十七 「がらくたかご」著述の由来(下巻178頁)
(注・じっさいには「我楽多籠」と漢字の題名で出版された)
私が初めて自著を出版したのは、明治十七(1884)年ごろ時事新報の記者時代に書いた「日本人種改良論」というものだった。木村摂津守の著書以外に序文を書いたことがなかったという福澤先生が特に序文を書いてくださったのは、私にとり非常な光栄であった。
次に明治十八(1885)年ごろ「拝金宗」という題名で、当時、世間でようやく始まりつつあった実業論を公表した。これはおおいに時流に乗り発行部数が非常に多かったので、続編も刊行することになった。
また同十九年には、演劇改良の見地から「梨園の曙」という西洋劇の翻訳書を発行し、明治二十二年には、欧米商業視察の旅を終えて帰国するとすぐに、まず「英国風俗鑑」を出版し、次いで「商政一新」を著述した。この「商政一新」により、私は井上(注・井上馨)侯爵の知るところとなり、その紹介によって、とうとう三井に入社することになったのである。
こうして明治二十四(1991)年に実業界にはいってからは、日常の業務に追われて、筆硯に親しむ余暇がなく、実業生活二十一年間においては一度も著述を刊行しなかったが、明治四十五(1912)年から閑散の身となったので、「東都茶会記」を執筆するかたわら、大正三(1914)年十月に「がらくたかご」【我楽多籠】と題する趣味的な著作を発刊した。なぜこのような著作を出したのかといえば、私はもともと多趣味な人間で、世にいう八百屋主義というのだろうか、間口が広くて奥行きは浅いが、数多い芸術を総合してみると、その趣味には共通点があり、それほど深入りしなくてもかなりそれらを楽しむことができたからである。
さて、人は日々さまざまな場所でさまざまな場面に出合うものだが、そこで出合った事柄に興味を持つか持たないかでは、怡楽(注・いらく。喜び楽しみ)の分量に、大きな違いがあるだろう。
たとえば、義太夫を語る友達に招かれて「親類だけに二段聞き」する(注・義理のつきあい)というような場合に、音曲の心得があれば、下手は下手なりに面白く、上手は上手ながらに聞き甲斐があって、どちらも怡楽の種になるものである。
しかし音曲のたしなみがまったくないのに義太夫を聞かされる人の場合は、たしなみがないがために何時間かの不愉快を我慢しなければならない。
つまり、この両者のあいだには、生涯を通じて怡楽の分量に大損益があることになる。
私は前にも述べたように他方面に多趣味な性質なので、自分で考えても、人一倍怡楽が多いのではないかと思っている。そしてこの怡楽を、なるべく広く世間一般の人に伝えることが仲間に対する当然の義務だと考えたのである。私がなんらかの動機から、それぞれの趣味の境涯にはいりだんだんと研究していくに従い、その趣味が次第に変化しまた向上していく体験談を著述したのが、この「がらくたかご」なのである。
「がらくたかご」には、詩、歌、書、画、茶の湯、道具、建築、築庭、能楽、絃曲の十種を盛り込んだ。本来、東洋の芸術には、これらすべてに通じる共通点があるのである。昔、唐の張旭は、じょうずに剣を使う者を見てたちまちにして書道を悟ったということだが、これはさもありそうなことである。
どのような芸術でも、究極に至ると、禅学でいうところの打成一片、物我相忘、万里一条鉄といった境涯に帰着するもので、芸術でも、その点に達すると渾然として玉のごとく、巧を求めずして自然と底光りが出てくるものである。
古人が、「道なり、技より進めり(注・荘子のなかの包丁の言葉「わたしの好きなのは、技術を越えたところにある道だ」のこと)」と言ったのは、すなわちそのことで、いろいろな芸術を総合してみると、たとえ究極に達していなくても、その行く先を想像することは難しくないので、私などももちろん深奥なる妙味を語ることはできないにしても、それまでに自得しただけを発表し同好者とともにこれを楽しもうとして、この「がらくたかご」を著述した次第である。
この本を発刊にするとすぐに、元老のなかでもっとも多趣味であった山県含雪公爵(注・山県有朋)に一冊呈上しその品評を願い出た。ほどなく公爵からいただいた謝状は次のようなものだった。
寒威日に相加はり候処、老兄万福慶賀、扨て先日は貴著我楽多籠御恵贈を忝(注・かたじけのう)し深謝、日夕一読相試み候処、眼識超群円満にして勁健、有急湍(注・早瀬) 有緩流、不能措巻候、拙詠一首
墨の香も高くかをれり楽みの心にあまる筆のすさひは
供一覧候、年内余日無之、来陽緩々可期面唔草々不尽
十二月十七日 古稀庵老主朋
箒庵宗匠坐下
山県公爵の多趣味といえば、その種類が十二、三種にも達していることは、昭和七年の公爵の十周年忌辰(注・命日)に当たって私が東京中央放送局から放送したことがあるから、追って後段に陳述することにしよう(注・「箒のあと」のなかでは記述されていない)。
私が以上のような十種の芸術について私の体験談を発表したのは、大正三(1914)年五十四歳の時なので、それから昭和七(1932)年にいたるまでには実に十九年経過し、私の趣味の経験もむしろ後半生のほうが潤沢であるので、今後また所感を発表して、同好者の一粲を博する(注・謙遜の意味で「お笑い草となる」の意)ことにしよう。
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「箒のあと」198 花柳国の女将軍
百九十八 花柳国の女将軍(下巻182頁)
料理茶屋、待合の散在する区域のことを花柳国と呼んだり、その料理茶屋、待合を主宰する主婦のことを女将【おかみ】と呼んだりすることの当否はさて措くとして、料理茶屋、待合の繁昌が女将の手腕いかんにかかっているということは争うべくもない事実である。
さて、女将の中の大御所とも言うべきは、明治初期から中期まで、おおいにその異彩を放った横浜富貴楼のお倉であろう。
彼女の一代記は長くなるので省くが、その全盛期に、伊藤、井上、大隈、山県などの大官を手玉に取り、政府の属僚役人(注・小役人)たちがその鼻息をうかがったというその辣腕は、時代が時代だけに、のちの人にはまねできないことだった。また、彼女が横浜にありながら東京の各花柳国をも属国扱いにして、飛ぶ鳥を落とすような将軍ぶりを発揮したのは、いかにも豪勢なことだった。
これに次ぐ者としては、烏森に濱野屋の女将であるお濱がいた。その勢力は、比較的小範囲に限られたとはいえ、その人となりは、すこぶる侠気に富み、持って生まれた負けじ魂が彼女を一方の重鎮たらしめた。
このふたりに並ぶ大女将としては、その気性が協和的で、ある種の脱俗した偉大さを持つ、築地の新喜楽の第一世、伊藤きんがいた。きんは、日本橋区旅籠町新道の町家に生まれたが、家運が傾いたのち、その身を吉原の稲本楼に沈め、源氏名を鳰鳥【におとり】といった。小づくりで格別美人というわけではないが、元気で才子肌なので、福地桜痴、沖守固(注・おきもりかた)、中井桜洲(注・中井弘)らの贔屓を受けた。出廓後、日本橋区芳町に喜楽という待合を開き、その後築地に移り新喜楽という料理屋を始めた。東郷大将と同年の丙午生まれで商売運があると自負していたとおり、広く大官通人たちに愛された。ことに伊藤、井上や、大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)男爵らの引き立てがあり、伊藤公爵の朝鮮統監時代にはわざわざ朝鮮まで出かけたことなどもある。
晩年には、永平寺の森田悟由禅師に帰依し、海千山千の老婆と大悟徹底した老禅師とが相対して笑語するところは、一休和尚と幻太夫(注・地獄太夫の間違いか?)との出会いのようであり、近世まれに見る図柄だった。
またこの老婆には、器量よしの芸人を後援するという道楽があった。伊井蓉峰を新派俳優の頭領分にしたのも、都一中を一流の家元に祭りあげたのも、それにあたる。
しかもそのようなことを人に誇ることなく、ただ当然のことをしているように平然としていたところが凡婦の及ばない特別な点だった。大正四(1915)年四月十七日、七十歳で花見がてらの冥途行きをしたのは、いかにも彼女にふさわしい臨終といえた。
さて同じ築地には、これもまた相当にすごかった瓢家の女将、お酉がいた。お酉は、横浜富貴楼の出身で明治中期には立派な女将ぶりを発揮していた。政界実業界の大家を引き寄せ、新橋の待合のなかではっきり一頭地を抜いていた。
このほかの待合の先覚者としては、長谷川のお鈴というのがいた。彼女が出雲橋近くに開店したころは、諸官省の役人や地方長官などが新橋での一流の客で、争って長谷川の格子をくぐったものだ。彼女のことをママと呼ぶ者が多かった。
このようにして新橋村が東京第一の花柳国になると、女将の頭目は目に見えて増えていったが、その中で、十五のお酌のときからこの地に現れ、ついには田川の女将となって元気と愛嬌と咳払いでもって六十年一日のごとくにその存在を示している石原半女があることは、新橋七不思議【もし、あったらだが】の随一に数えられることだろう。
その他一時期、雨後のたけのこのように続出した茶屋、待合には、早かったところで花月、蜂龍、花屋など、後進では山口、河内屋、金田中、きん楽などがある。
その中には、相当に人に知られた女将もいたが、年のわりに早くからその貫録をあらわして八方無敵、ぬらりくらりとしてこの世界の成功者となった、いわゆる「ギンミを取った」のは、木挽町田中家のおたけだろう。
さて新橋を離れ、その他の花柳国を見れば、浜町の料理屋に岡田屋おきんというのがいた。彼女は、持って生まれた愛嬌に加え、こんこんと尽きないお世辞でいかなる客といえども満足しないことはないという特長があったために、世に「世辞きん」の名前さえも残している。
また同方面の待合である弥生の女将は、同じくお世辞上手な中にもある種の侠気をたくわえ、時に鼻っ柱が強い江戸の気性を見せ、花柳界の紛争の仲介役に立っていた。もしくは、芸人の声援にも乗り出し、清元お葉が困窮しきったときには一時、彼女を自分の家に引き取ったこともある。江戸気質の女将の見本は、ひとり彼女の中に見られたような心持ちがしたものである。
以上が、明治初期からの約五、六十年にわたる東京横浜の花柳国の女将一覧記である。
彼女たちは、いずれもが海千山千の女傑であり、職業の貴賤、硬軟、軽重こそあれ、今日の社会事業に関係して「なになに会長」などと称される、かのインテリ女性たちと比較しても、その力量、機略ですこしも遜色がないばかりか、ときには大政治家のあいだに介在し、暗中飛躍の媒体になろうという者まであったのである。
今後の花柳国の消長はいかがなものになるであろう。後継の女将に、前記のような豪傑が現れるだろうか。社会風俗の変遷を注意して見る者は、興味を持ってそれを観察する価値があるのではないかと思う。
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「箒のあと」199 大隈侯爵懐旧談(上)
百九十九 大隈侯懐旧談(上)(下巻185頁)
大正の初年に、私が福澤先生の事歴を、先生と縁故ある長老の在世中に聴取しておこうと思い立ち、それから約二年間にわたり探問した人々が三、四十名に達したことは前項でも陳述したとおりである。
その大隈重信侯爵の談話については、「大隈侯の福澤談」として、すでに一部を掲載した(注・97「大隈の福澤評」を参照のこと)が、このときの大隈侯爵と私の会見は、ほとんど一時間半にわたったので、侯爵の懐旧談はほかにもいろいろある。
そこでまず、私が大隈侯爵を訪問したときの所見を述べ、その次に談話について述べることにしよう。
私が大隈侯爵を早稲田邸に訪問したのは、大正二(1913)年の五月ごろだったと思う。前もって約束していた午前十時ごろに侯爵邸を訪問すると、その日はほかに訪問客もなく、侯爵が母屋から庭前南方に張り出した温室におられ、今を盛りに咲き乱れた各種の蘭その他の南洋植物の香気の中を、例の松葉づえを突きながらゆっくり歩いておられた。
私が温室のなかに歩み入るのを前から見て手を挙げてそれを押しとどめ、やがて近づいて挨拶され、侯爵はニコニコして私を歓迎してくださった。
それというのは、私はこれに先立つこと数回侯爵と会見しており、数年前に前妻が死去したあと、音羽護国寺の境内でたまたま墓参をされていた侯爵に邂逅ししばらく立ち話をしたことなどもあったからである。侯爵はこの日は、いかにも打ちくつろいだ態度で、私を広々とした母屋の応接室に導きいれ、長卓をはさんでふたりで椅子に腰かけた。
大隈侯爵という人はもともと意思の強い人でそれが面貌にも現れていた。頬骨が高く、目が少し窪み、大きな一文字の口を結んだところは、いかにも確固たる決意をあらわしている。ある人が、「侯爵が衆人稠座(注・大勢の人が座っているようす)の中に入ってきて、中央の椅子に腰をおろすときは、大鷲が岩石の上にとまって、傲然と四方を睥睨するような風采がある」と言ったそうだが、それがいかにも適評だと思われた。
侯爵は維新後、薩長藩閥の群雄割拠の中にあって、そっくり大久保の後継者になり、明治十四(1881)年の下野ののちも屈するところはまったくなく闘志満々でその一生を貫いた、信念強固の、他人の追随を許さない人である。
かつ、日本の政治家としてはまれにみる雄弁家で、人のことを聴くというよりは、もっぱら話す一方ではあったが、博覧強記で、いつの間にか外国のことも研究していた。常に説法者の立場に立っていたあたりは、明治の功臣の中にあっては一種出色の大政治家であると言わざるを得ない。
大隈侯爵の談話では、私が探問した福澤先生の事歴から始まり、前項に述べた先生の所感のほかに、さらに次のような話があった。(注・わかりやすい表現に、一部変えてある)
「明治十一年大久保が亡くなり、吾輩がその後を引き受けたようなことになった。さしあたり、政治の上で大改革を行わなくてはならないことが数々あったが、このとき焦眉の急を要したのは、西南戦争のときに、薩摩の中で西郷にくみしなかった一派を、当時の政府が優遇し、一時東京に連れてきて、その人たちに巡査の職を授け、警視庁の配下に付属したのであるが、この巡査たちが、戦争で功労があったということを鼻にかけ、時として上司の命令に服従しない状態であったため、できるだけ早くこれを廃止したいということだった。もともと情実によって起こったものだったので、廃止するには手加減が必要だった。そこで鎮撫の意味で、大山(注・巌)大将を引っ張り出したり、山県公爵の声援を借りるなどして、ようやくこの巡査を押さえつけたのである。
しかしこれなどはほんの小細工で、政局の大勢を見渡すと薩長が相対峙して互いに牽制し合っているので、なにも改革を施すことができない状態だった。そこで吾輩は福澤先生と協議のうえ、伊藤、井上の二人を加えて、ここに根本的改革の方針を立て、国会を開設し、与論の力で、頑固連の鉾先をくじこうという決意をしたのである。
そのとき吾輩は、福澤先生に是非とも内閣の一員になってもらいたいと勧誘したが、先生はきっぱりとこれを断り、政治は乃公(注・おれ)の長所でないから、君たちがこれに当たるがよろしい、乃公は言論をもって一般民衆に政治的教育をなし、向鉢巻で君たちを声援するから、君たちも一生懸命で政治上の改良進歩を謀られたい、と言われたので、吾輩はその後先生に向かって、内閣入りを勧めないことにしたのである。」
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「箒のあと」200 大隈侯爵懐旧談(下)
二百 大隈侯懐旧談(下)(下巻188頁)
大隈侯爵は明治十四(1881)年の政変において、いわゆる「敗軍の将」であったためか、当時の状況については前項(注・199)に述べた程度であまり多くを語らなかったが、福澤先生との交際に関しては、さらに次のような懐旧談を続けた。(注・一部わかりやすい表現になおした)
「吾輩がはじめて福澤先生を知ったのは明治四年の暮れか、五年の初めか、とにかく、あの廃藩置県が実施されたときであったと思う。一度知り合ってからは非常に懇意になって、先生が吾輩のところに来ると、家内どもまで一緒になって夕食を共にすることもあった。
先生は酒が強く食事が長いから、食っては話し、食っては話しと、だんだんと夜が更けてしまい、膳を片づけようとすると、まだまだという風で、家内を相手にして酒を飲みながら、いつまでも話をするのが常例だった。政治上の秘密談になると、この家の奥にある一室【母屋の背面を指して】で、他人を交えず、家内が酌をしながら話したのであるが、先生は吾輩から見れば先輩で、吾輩も先生によっていろいろと利益を得たことがある。
たとえば、この早稲田の学校ができたのも、吾輩が先生と交際していたからだと言ってもよいのである。
もっとも吾輩は、もともと教育には深い興味を持っていて、長崎にいたころから、いささかながら私立学校を開き人に教えていたこともある。しかし吾輩は、福澤先生のように学問をしている暇がなく、ちょうど今日の犬養や尾崎のように、政論に火花を散らして奔走していたから、まず不良少年仲間だったといってよいだろう。それで、自分は学問はしないが教育には興味を持っていたので、いつも人に向かって、福澤先生のような人は、自分の学問を人に伝えるという教育の仕方だが、吾輩は自分に学問がないから、学者を集めて生徒を教育させるというやり方で、方法は少し違うけれども、学校教育を行うという点についてはまったく同一軌道にあるのだ、と言っていたこともあるのである。
ところで吾輩が明治十四年に政府を退くとすぐに、雉子橋の屋敷を引き払って、この早稲田に引っ込んだが、これに先立つ明治四、五年ごろに、木戸などと一緒にこの辺を散歩していると、植木屋が大きな石灯籠を運んでいたので、これはどこの屋敷かと聞くと、讃州高松と井伊掃部頭の下屋敷であるが、これから庭前の樹木を伐り払って薪にするのだという。それはあまりにも惜しいものだと言って、五万坪ばかりあるのを一万円で買うことにした。
今日より考えてみれば、非常に安いものだったが、当時においては、銭を出して大きな屋敷を買う者はなく、例えば今日第一銀行になっている三井の地所なども、当時井上侯爵が田舎住まいを嫌って、都会の真ん中に屋敷がほしいというので、このころは誰の屋敷だったのやら、園内に池などがあり、約二万坪ほどある地面を井上にやったところ、井上が、蚊が多くて困るからこんな場所は御免したいと言いだした。そのとき三井の三野村利左衛門が、井上さんが御不用ならば、私が是非頂戴したいと言って、わずかな代価で政府から払い下げられた次第であるので、吾輩が早稲田を買ったのは当時においては非常な奮発であったのである。
そしてこの五万坪に、さらに二万坪ばかりを買い足して、今日では早稲田の学校が三万坪、吾輩の屋敷が四万坪程度になっている。
福澤先生は、かの正金銀行を創立するために、大きな骨折りをし、吾輩にもいろいろ相談があったが、これは堀越角次郎という甲州出の爺【おやじ】が、無学ではあったが一見識持っていたので、先生は非常に彼を信用し、彼が横浜に正金銀行を立てようとするのを後援し、吾輩にも助力を乞われたので、ついにこれを認可することになったのである。
それから先生はまた、後藤象二郎と懇意で、後藤の高島炭鉱処分について、先生が非常に尽力した。先生はあの炭鉱を岩崎弥太郎に買わせようと言い出し、岩崎を吾輩の家に呼びつけ、先生も列席のうえで、ぜひとも買ってやれと談判したところ、当時の後藤の借金は、百万円と言っていたのがだんだん増加し、百三十万円ほどになったので、岩崎は容易にはこれを承知しなかった。岩崎は後藤を罵り、『アンナ尻抜けな男は信用ができないから、一切相手にいたさぬ』、と言うのを、ふたりでようやく説きつけて、とうとう三菱に高島炭鉱を買わせたのだ。これは、いやいやながら引き受けたものだったが、今日では、むしろ三菱の金穴(注・ドル箱)となっただろうと思う。考えてみれば、人間の知恵など浅はかなもので、あとから先見だのなんの、と言っているが、その実はたいてい、まぐれ当たりに過ぎないのである云々。」
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