だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 181‐190

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百八十一  脱線党の一人者(下巻119頁)

 「箒のあと」も、最近少し堅苦しい話題が続いたので、合いの楔(注・中間のつなぎ)に、この辺で無邪気なナンセンス物語を挿入しようと思う。
 そんな「脱線党」の第一人者といえば、なんといっても、わが益田紅艶(注・益田英作)である。雅俗の両方面でいろいろな珍談があるので、その二、三を紹介しよう。
   

 汽車の中で近善を生け捕りにした話

 益田紅艶が関係していた道具商である多聞店は、同業の近善と、一番多くの取引をしていた。近善というのは竹内広太郎の店の名で、彼の親父が名古屋出身だったので、その道具の買い出し先が特に名古屋方面に多かった。
 紅艶は、名古屋の某家が所蔵していたある名器を買い取ろうとして、ずっと前から近善に依頼しておいたのだが、道具取引の上で近善のことを毎度のようにたしなめていたので、いつか近善が、かの名器を取り出しても(注・道具商が売り主から品物を手に入れても、という意味)、もしかすると自分を袖にして、他の得意先に持っていってしまうのではないかという疑心暗鬼に陥ってしまった。
 そのような折のことであった。近善はある日、道具を包んだ風呂敷を抱えて名古屋から帰京する夜汽車に乗り込んだ。そして、豊橋のあたりにさしかかったときである。大阪から帰京する途中の紅艶が偶然にも同じ汽車に乗り合わせており、便所に向かった。そして思いがけなく、近善と彼が携帯していた道具の風呂敷包みを発見したのである。
 さては、いよいよ思ったとおりのことが起きてしまったと思った紅艶は、列車中に響き渡るような大音声で、「見つけた、見つけた」と怒鳴りながら、近善の首筋をつかみ、猫の子でも吊るしあげるように、風呂敷包みもろとも、隣室の自席(注・コンパートメントがあったのだろうか、それとも隣りの車両のことか?)まで引き摺っていってしまった。
 同乗していた旅客たちは非常に驚き、近善のことを、てっきりスリだと思ったらしい。どうりで目つきの険しい男だったと思っていたが、さては、あのでぶでぶした男の風呂敷を掏り取ったに違いない、おのおのがたは、何か紛失物はござらぬかと、上を下への大騒ぎになったという。
 やがて近善がもとの席に戻ってきたあとも、みな警戒を解かず、とうとう彼はスリにされてしまったということだ。


 新発明の湯たんぽの破裂

 紅艶の汽車の中での珍談には、さらに振るっているものがある。
 彼は大正初年の冬、加賀金沢の道具入札会に行こうとして、上野駅(原文「停車場」)から、寝台車の二階に乗り込んだ。
 彼は、大仏といわれるくらいの大兵の肥満体だったので、二階に何度も昇ったり降りたりするのが不便だと前々から用意してあったゴム製の小便袋を携帯していた。その小便袋は、用便のあとには、湯たんぽに変身するという彼の新発明もあって、彼は「寒中の旅行は、これに限りやす」と得意がっていた。
 さて汽車が高崎あたりを通過したころ、彼が寝返りを打ち、ゴム袋を尻の下に敷いた。その途端、袋が破裂して、寝台は大洪水となってしまい、着ていたものもびしょ濡れになってしまった。
 さすがの紅艶もいたたまれずに、汽車がやがて軽井沢に着くと、同伴していた店員に助けられてプラットフォームに飛び出した。そこの洗面場の水を、衣服の上からザアザアとかけ、ちょっと絞っただけで、もとの寝台に立ち戻り、平気で寝込んでしまった。
 翌朝金沢に到着したときには、からだの熱で、みごとに衣が乾きあがっていたとは、紅艶ならではの人に真似のできない珍芸で、話を聞いた人はみな鼻をつまんだという。


 警句とポンチの天才

 紅艶は、近善に行ってめぼしい道具を買い取るときはいつも、紙切れにその道具の絵を描き、横に代価を書き込んで伝票がわりにし、それを多聞店のほうに持ってきてもらうという習慣があった。
 あるとき、仁清(注・野々村仁清)の茶碗を五十円で買い取り、例によって紙片にその図を描き、その横に、

  仁清わづか五十円、二十五円は直(注・すぐ)でくさし

と書きつけた。
 これは、「人生わずか五十年、二十五年は寝て暮らし(注・桃中軒雲右衛門の浪花節。「朝寝十年うたた寝十年残り五年を居眠りすれば人生しまいにゃゼロになる」と続く)」のだじゃれ(原文「地口」)であり、紅艶の生涯中でも一番の傑作だった。彼が死去したときには、香典返しの袱紗に、この文句が染め出されたが、それなども、いかにも故人にふさわしい、しゃれた思いつきだった。
 また明治四十(1907)年ごろであったか、名古屋の道具数寄者であった織田徳兵衛老が、私の寸松庵で同席した誰かと濃茶茶碗を品評して、萩焼か、唐津焼かとあれこれ考えていた。そのとき紅艶が横から口を出し、「鷺を烏と争うのでゲスか」という洒落を言った(注・さぎ=萩、からす=唐津)。すると織田老は、茶室で洒落を言うとはけしからんと非常に不満の色を表わしたのであるが、相客一同は喝采し、その傑作を賞讃したものだった。
 またあるときには、長唄研精会(注・明治35年に結成された長唄演奏会。112・長唄研精会来歴
参照のこと)で、長唄の囃子というのは古い妾のようで、あれば煩わしいが、なければ淋しいと評し、まわりにいた人たちは、いかにもその通りだとうなずいたものだった。

 さらに、紅艶の頓智の才能は、口舌だけに限ったものではなく、ポンチ画を描かせても、また独特の才能を発揮した。令兄である鈍翁(注・益田孝)や、山県老公などの似顔絵には、実に非凡の傑作がある。
 しかし天下一品というべきものは、彼が日光遊覧中に小西旅館に泊まったときに描いたものだ。
 泥棒の用心に、ということで、紙入(注・財布)を花生(注・花瓶)の中に隠した椿事を、みずからポンチ画にして、詞書を添えたものである。
 最初は、大兵肥満で近眼眼鏡をかけた大入道が、花生の中に紙入を隠している図、次は、その花入の中に水が残っていて、入れた紙入がびしょ濡れになったところ、その次は、濡れたお札に火熨斗(注・ひのし=炭火を入れて使うアイロン)をかけて、「これなら大丈夫、使えるな」と、ニコニコして喜んでいるところの図。
 それを順番にたどって描いた巧妙さは、プロの画家も顔負けであったし、自分を上手に滑稽化して描いた、自画像の見本のような出来ばえだった。
 このように、この方面での彼の頓才(注・臨機応変な頓智)は、彼の警句とともに、まだまだほかにも語り伝えられている。それらについては、またのちに記述することにしよう。


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百八十二  三井松籟翁の茶品(下巻123頁)

 三井松籟翁は八郎次郎(注・三井南家の当主の名)と称し、総領家(注・三井北家)主人の八郎右衛門高福翁の第二子で、諱を高弘という。三井南家を継ぎ、明治二十二(1889)年第一国立銀行の取締役になり、同二十五年ごろから三井家の重要な諸職を歴任した。
 三十四(1901)年三井物産会社の社長に就任し同社の盛運の基礎を開き、その勲功で男爵に叙せられことはよく知られている。
 翁はこうした本領のほかに、もともと文雅風流を好み、茶道に造詣があり、鑑賞眼にすぐれていた。また人あたりが温厚で、事にあたって円満に処理をする才覚を備えていた。
 優雅な品格に加えて、茶道の修養のたまもので、玉のように非のうちどころのない人となりで、大正二、三(191314)年ごろには、和敬会、すなわち十六羅漢会の白眉としてこの世界での崇敬を集めていた。
 もともと三井南家には過去に文芸をもって世に知られた主人がいた。なかでももっとも高名だったのは、延享四(1747)年に生まれ寛政十一(1799)年に享年五十三歳で没した、嘉栗居士、俗称を長次郎、諱を高業といった人だった。
 高業は、わけあって大阪に隠居した。狂歌を栗柯亭木端に学び、僊果亭嘉栗と称し、蜀山人(注・太田南畝)を旗頭とする江戸の天明ぶり(注・天明狂歌)と拮抗して、おおいに浪華狂歌の気焔をあげた。
 居士の狂歌の中で、花より団子の意味を詠じたものがある。

   世の中のながめは稲の花ざかり 吉野龍田はそれからのこと

 また、「つるめそ」といって、京都祇園祭りの甲冑行列に雇われていた日雇い労働者が、炎暑の下で汗みどろになって練り歩くさまを詠じたものには、

   つるめそが其ひおどしの鎧きて 下には汗のくさりかたびら

 また、居士の会心の作で、辞世の意味を込めたものには、

   幕串の跡はそのままありながら 夕ぐれさびし花の木のもと(注・幕串=幕を張るために立てる細い柱や串)

   飲みつづけ日数も一二みいらとり 其むかへ酒そのむかへ酒

などがあった。

 狂歌の著作として「貞柳伝」、「奈羅飛乃岡」、「栗葉集」、「辰の市」、浄瑠璃に「伊賀の敵討」、「糸桜本町育」、「納太刀誉鑑」、「碁太平記白石噺」、紀行文に「北国路之記」、「吉野紀行」がある。
 なかでも「伊賀の敵討」は、「伊賀越」として東西の歌舞伎で何度も上演されたし、「碁太平記白石噺」も、例の宮城野信夫の仇討の話で広く世間に知られている(原文「人口に膾炙する」)ものである。
 松籟松翁はこのような文豪を出した商家を出した三井南家に、三井総領家からはいって主人になったので、家に伝わる書画、器具を、思うままに使って理想的な茶会を催すことができたのである。当代の紳士茶人の中で、抜きん出て(原文「嶄然。ざんぜん」)頭角をあらわしたのにはそのような背景もあった。
 翁はきわめて丹念な(注・念入りな)な性格で、茶会を催すときには、半年ないし一年前から道具の組み合わせを研究したものだ。実物を茶室に並べて千思万考し、すみずみまで納得してから(原文「毛髪遺憾なきにいたって」)はじめて実行に移すという流儀であった。
 だから、翁の茶会は、一年に一、二回に過ぎなかったが、あの「三年鳴かず、鳴けば必ず人を驚かさん」という故事に似たおもむきで、だいたい毎回、後世に伝わるようなすばらしい出来ばえの茶会を催されるのだった。
 たとえば、日露戦争中の奉天戦のあとの祝勝茶会では、床に宗祇法師の大倉色紙の「旅人の」の一軸を掛け、薩摩焼と萩焼の筒茶碗を用いて薩長の意味を暗示するとともに、筒茶碗の形に大砲を重ねたという機転なのであった。それなどは、翁の遊び心が高じて際物師になってしまったと、茶人たちの大喝采を浴びた。
 また、大正二(1913)年の紀元節には、御即位の御大礼が行われる年の佳辰(注・かしん。めでたい日)を記念しようということで、床に一休筆の色紙を掛けられたのであるが、その歌は、

   あしはらは国常立を始めにて いくよを守る神となるらむ

というもので、その日の会の床飾りとして、これ以上の掛物があるとは思われなかった。また、そのたばこ盆に、呉須ごすの「朝日に鳳凰」模様の火入を置き、香合は染付の鶺鴒(注・せきれい)を使い、吸物に大内蒔絵小椀を出し、三輪明神の祭器だった斎部いわいべ】(注・神酒を入れるもの)という素焼きの小甕を花入として掛けるなど、いずれも茶題にふさわしい器物の組み合わせだった。
 これはつまるところ、宝蔵の奥が深く、勇将に仕える勇猛な兵卒が雲のように湧き出てくるのと同じで、道具が主人の点呼に応じて、いつでも陣地につき争って役に立とうとしているためである。しかもそれが茶番に陥らず、品を保ってその趣向の目的を果たしているあたりは、翁の独擅場といってもよいだろう。
 惜しいかな、翁はそのころから病床につかれることが多くなり、ながいこと茶会を催すことができなかったのであるが、翁は、京都鷹峯光悦会の会長なので、あるとき、光悦会大虚庵の一席を受け持ち、寸松庵色紙の「山里は秋こそことにわびしけれ」の一軸を掛け、その前に自作の千家了々斎ごのみの巻水形竹花入を飾り、またすべての器具をこれに準じるものでそろえて関西茶人の目を驚かしたこともあった。
 要するに、翁の茶品が人格と同様に非常に高いということである。私の生涯においても、翁のような大家に遭遇することはめったにないことだと思うにつけ、追懐の情にも切なるものがある。ここに翁の茶品の一端を述べ、同人の記憶を新たにしようとする次第である。


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百八十三  朝吹柴庵道具逸話(下巻126頁)

 朝吹柴庵(注・朝吹英二)翁は多方面に多趣味な人である。才思横溢(注・才能にあふれ)、愛嬌たっぷり、いたるところに奇談の種を宿している。書画骨董方面での逸話が特に多く、なかでも他の人がまねできないところは、「蛇の道はへび(注・専門家にとってお手のものであること)」以上の敏感さで珍器、名物のありかを嗅ぎつけ、海老で鯛を釣るような掘り出し物を見つける能力を持っているということであった。翁のことを私が「道具釣りの名人」と名づけたのは、その抜群の技量を何度も目撃したからである。
 さて、翁がいわゆる道具釣りに出かけるための決まった場所は、下谷仲町の斎藤琳琅閣、四谷見附の伊藤平山堂、その他何軒かの道具店であった。あるとき翁は、琳琅閣で天下の大名物、古銅青海波の花入と、古太刀中の古太刀といわれる「天の座」の名刀を釣り上げたことがあった。
 この琳琅閣の主人は、名前を斎藤といい、本業は古本屋である。旧大名家に出入りするついでに道具類も買い取るようになった一種の変わり種であったが、なぜか世間では彼のことをバイブルと呼んでいた。
 柴庵翁は、彼が古本の横に大名家から仕入れた道具を陳列していることを嗅ぎつけ、ときどき訪問するうちに彼の常連の得意客のひとりになった。今回翁が掘り出した青海波の花入は、茶書のいくつかに水戸殿御所持として挙げられている大名物で、徳川二代、三代将軍がいっしょに水戸邸にお成りになった折に、二代将軍みずからこの花入に緋木瓜の一枝を活けられた、という来歴のあるものだ。後年、水戸家の分家である守山藩主松平大学殿(注・松平頼貞)に伝わっていたものを、琳琅閣主人が、かの天の座の名剣とともに同家より取り出したものだった。
 翁がかねがね垂れておいた釣り針に運よく稀代の大魚がかかったわけで、琳琅閣主人がおそるおそる申し出たその値段というのは、ほとんど二束三文だったので、翁は二つ返事でこれを買い上げた。
 しかし、鼻高々で歓びにひたっている間もなく(原文「隆鼻天に冲して得々自ら悦びたる間もなく」)、それを垣間見た益田鈍翁から熱烈な懇望があった。
 もともと柴庵翁の道楽は、道具を釣ることにあって用いる方にはないのだから、造作もなく譲ってもよいはずなのだが、この花入だけには未練が残り簡単には手放さなかった。その様子は次の譲状によって察することができるのである。

  拝啓青海波花入 御懇望に依り御譲申候、永く御愛蔵賜はり度、希望の至りに奉存候
  東京三十四年除夜
             真言寺拝具
  観濤先生玉机下
   嫁入はめでたけれども親心 嬉しくもあり悲しくもあり
  御一笑可被下候
(注・高橋義雄著「近世道具移動史」では、「嫁入りは是非なけれども」となっている)

 この青海波という花入は、高さ一尺(注・約30センチ)ほど、伝世銅の作、管耳下蕪である。全面が鮮明で、優美高尚な形式は、言語に絶するものがある。銅色も油のごとくで、古謡に「絵かげもうつるなる青海波とはこれやらん」とあるのにちなみ、誰かがこの名をつけたのだろう。とにかく、これは柴庵翁の一世一代の大獲物であった。
 翁には、このほかにも四谷の道具店、黒田琢磨のところから利休丸壺という名物茶入を釣り上げるという大手柄もあった。
 また、古経巻に関心を持たれてからは、扇面経やら久能寺経やらを手に入れたこともあり、晩年には、文人画の方面にも猿臂(注・えんぴ。猿のような長い腕)を伸ばして、頼山陽筆の耶馬渓詩画二幅対を獲得したこともあった。
 翁は石田三成に同情したためか、その相棒であった安国寺恵瓊が所持していた直径八分(注・約2センチ)ほどの純金透かし彫りの印子(注・金塊)を数珠つなぎにした、長さ一丈(注・約3メートル)余りの鎖を買収したこともあった。これは、旧忍藩主松平忠敬子爵の所蔵品だった。
 ともかく、翁の趣味は八宗兼学(注・幅広いこと)であった。広範な方面で釣り針を垂れて、根気強く獲物を釣り上げるというやり方だったので、後代の語り草になるような大収穫があったことも決して偶然ではなかったのである。
 朝吹柴庵翁はあるとき私に向かって、大隈侯爵が井上世外侯爵を評して「井上はあまり学問をしたというわけでもないが、なにか事あるにあたって恐ろしい知恵の出る男である」と言われたと語ってくれたことがあったが、この世外侯爵への大隈侯爵の見立ては、そのままそっくり柴庵翁に当てはめることができると思う。
 翁がどれほど奇智頓才に富んでいるかということは、ある事件に当面したときに、あっという間に名案をひねり出し、周囲の人をその奇想で感心させることが多かったことからもわかる。
 一例としては、馬越化生翁が、かつて小堀遠州銘の有来という茶碗を使ったときに、有来とはどういう意味かということについて、化生翁は「有り来たり」という意味だろうと説明されたのであるが、柴庵翁は簡単には承服せず、帰宅してから沈思百端、夜更けにいたって大悟したという。その説によれば、論語のなかに、
  有朋自遠方来不亦楽乎
とあるが、もともとこの「有来」という茶碗は、前田侯爵家所蔵の「楚白」という茶碗と同手のものなので、小堀遠州が楚白の茶碗の朋(注・友)と見て、論語の冒頭の一句の中から、有の字と、来の字を取り合わせて、その銘にしたのだろう、ということで、遠州の死後に、遠州の心を知る者は、ただ自分ひとりであると得意満面で、即刻これを茶友に宣伝し、それを聞いた者たちはその奇智に敬服したのである。
 その後しばらくして、遠州が寵愛した陶器師に、有来新兵衛(注・うらいしんべえ。
https://kotobank.jp/word/新兵衛-1083231#E3.83.87.E3.82.B8.E3.82.BF.E3.83.AB.E7.89.88.20.E6.97.A5.E6.9C.AC.E4.BA.BA.E5.90.8D.E5.A4.A7.E8.BE.9E.E5.85.B8.2BPlus)という者がいて、その茶碗を所蔵したために遠州がこのよう命名したことがわかり、柴庵翁の沽券は、すこしばかり下落したのであるが、翁にはこのほかにも各種の発明があり、翁の生前は茶界が非常に賑やかであったというのは事実である。翁は、茶の世界における一種の天才であったというべきであろう。



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百八十四 大倉鶴彦喜寿狂歌集(下巻130頁)

 大倉鶴彦喜八郎翁は維新の前から実業方面で活動し、粒々辛苦して最後には当代随一の富豪となったという経歴を持つ。言うまでもなく、まさに立志伝中の人である。
 少壮時代から余裕しゃくしゃくと一中節をたしなみ、六十の手習いで光悦流の書家になった。また狂歌を好み独特な感吟を連発するなど、その余技においても色々と伝えられていることが多い。
 大正二(1913)年、翁が七十七歳になるとき、喜の字の祝いとして狂歌募集の趣意書を発表した。七月十九日がその締め切りだったが、その趣意書というのは次のようなものだった。(注・よみやすいように少し手を入れてある)

 「天に七曜の輝きあれば、地に七宝のうつくしきあり、人に七賢の洒落者あれば、鳥に七面鳥の替りものあり、神に七社、仏に七堂伽藍の具はるあり、義礼の整ふ七教七経七書の七面倒なるは暫く措き、七音七情は人学ばずして之を能くすべし、おのれ七歩の詩才なきも、歳七秩を越えてまた七年、七ころび八起きのあしたの心やすく、質の心配もなくて、七十七度くり返す、七くさ粥のたび重り、ここに目出度喜字の齢を得たり、乃ち四方の風流男みやびをに請申て、七の字に因る兼題十七首を撰み、狂歌の雅会に無邪気の興を催し、共に聖代を楽しみ、太平をうたはんとほつす、冀(注・乞い願わく)は、大かたの歌人、七わたの玉の言の葉、あまた寄せたまはん事を、七重のひざを八重に折り、七くどくもねきまうすになむ。
  大正二年初夏       
和歌廼家あるじ 鶴彦

                                                  

   兼題
七福神 七曜 七里ヶ浜 七面鳥 七本槍 
七堂伽藍 
七騎落 七夕 七不思議 七賢人 七草 七小町 
七変化 
七五三祝 七色唐辛子 七里法華 七ころび八起

      撰者 澤の屋青淵
         和歌の屋鶴彦

 
そこで私は、兼題の中から五題を選び、次のような駄句を寄せた。

    七夕
  飛行機を見て彦星のひとりごと 今年はあれで天の河原を

    七騎落
  八騎では不吉とかつぐ大将も 八幡殿の末と知らずや
    
    
七福神
   六福のにこりにこりを弁天へ 御世辞笑ひと見たは僻目か
  (注・萬象録では「御世辞きらひ」)

    七賢人
  七けんにいざ言とはむ御別荘 時に藪蚊はありやなしやと

    七ころび八起き
  七ころび八起きを十たびくりかへし 七十七となれる鶴彦
 

 鶴彦翁の狂歌は、天性の流露にまかせて連発する流儀で、これという師匠がいるわけではないが、上州伊香保出身の、俳号を文廼家といった松村秀茂老を相談相手にしていた。非常な速吟家で、巧拙はさておき、即座に何首でも連発するというやり方である。しかも持って生まれた歌才で、時によって秀逸なできのものを吐き出すこともある。独特の大胆不敵な言い回しの中に鶴彦式のおもしろみがあった。
 さて同年十月二十七日には、帝国劇場で盛大なる喜寿祝賀会を催し、幸田露伴氏の新作「名和長年」、および私の作詩、平岡吟舟作曲の東明流「那智丸」の歌劇を興行した。

 その日に翁が来賓に配られた扇子には、

  老ぬとも思はぬうちに梓弓 八十路に近くなりし鶴彦

と書きつけられた。
 当日は、衆議院議長の大岡育造氏が祝辞を演説されたが、そのなかには次のような一節があった。(旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いになおした)

 「大倉氏の祖父某は、越後新発田の産で、商売をもって一家を興した人物であるが、その没後、頼山陽が執筆した碑文には、大倉氏が新発田のごとき僻邑に一生を過ごしたのは、誠に惜しむべきことである、彼がもし大都会にあって活動したならば、さらに観るべきものがあったであろう、と述べている。しかるに、今や、その孫たる鶴彦翁が、東京において赫々たる(注・かっかくたる。華々しい)成功を告げ、さらに海外にまで発展し、シナ満州などにおいて、種々の事業を経営しているのは、よく乃祖(注・ないそ祖先)の志を成し、いわゆる身を立て父母を顕したものである云々」

 これはいかにも、事実その通りである。
 また、翁の、あるときの述懐のなかに、

  わたり来しうきよの橋のあとみれば 命にかけてあやうかりけり

という歌があった。後年、山下亀三郎氏が、私の家でこの歌の記念額を見て、自分の経験からもおおいに感じ入るところがあったとみえ何度も感吟して「実にしかり、実にしかり」と讃嘆した。両人の経歴が似ていたためであろう。私はこのとき山下氏を見ながら、名歌は天地を動かし、鬼神を感ぜしむるというが、君のような鉄骨漢を感動させる鶴彦翁の狂歌は、さてさて偉いものであるなと言って一笑したのである。

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百八十五  西園寺陶庵公の雅懐(下巻134頁)

 
大正二(1913)年八月、私が伊香保の木暮武太夫の第二別荘で避暑をしていとき、西園寺陶庵公爵が第一別荘にて静養中だった。
 私はその前年から無職の自由の身になり、文芸趣味の世界で日々の無聊を慰めており、あまり得意でない俳句などをひねくり回したり連歌もどきの文句を並べたりしていた。そのなかには次のようなものがあった。

   湯の宿や隣はさきの総理どの 背戸の垣根にひるがほの咲く
   ふしながら見送る雲の行衛かな 杉の葉わけの風の涼しさ
    夕立のあとよりつづく蝉時雨 時刻たかへず来る碁がたき
    谷ひとつあなたに斧の響かな 浴衣にかをる山百合の花
    山風を土産にせばや峠茶屋 足の下より瀧の音する

 この連句中の第一句の「隣はさきの総理どの」というのは、もちろん陶庵公を指したもので、宿泊先が目と鼻の先なので、ときどき散策のついでに公爵の閑眠を驚かしたこともあったが、公爵は快く部屋に通してくださり(原文「引見せられて」)、毎度、俗世間を離れた清談に耽られた。
 公爵は聡明で博識、多方面にわたる趣味を持ち、なにごとに関しても打てば響くような返答があり、その談話には粛然と襟を正すようなものもあれば、実にここちよいものもあり、そうかと思うと軽快飄逸で頬を緩めるようなおかしな話もあった。そのひと月ばかりの間に何度か拝聴した話の中でいまでも私の記憶に残っているのは、時代の道徳問題に関する次のようなことだった。(注・わかりやすい表現になおした)

「最近、世間で、道徳が次第に衰えていくことを憂い、将来を悲観する者もあるが、かつてに比べて今日の道徳が衰えたとは思わない。自分はまだ若かったころ京都におり、周囲での道徳の腐敗している有様を見てまことに苦々しく思い、他の場所ではここまで腐敗してはいないだろうと考えていたが、その後、諸藩の内情を探ったり旧幕府の気風を察したりすると、やはり京都と変わることなく賄賂が横行し、士風は地に落ちたというありさまは今日よりもさらに甚だしいものだった。
 これは維新の前の紀綱が非常にゆるんだときだけではない。士風がもっとも凛然としていたと言われる徳川初期においても同じである。家康の臣下である某が、自分の家は代々ひとりとして御家に背いた者がありませぬ、と自慢のように語ったところ、家康もまたおおいに感心して、汝の家が代々当家に背かぬのは、まことに奇特の至りであるとして、すみやかにその禄を増加したということである。
 徳川の臣下には、本多正信などを始めとして、時に臣下となり、また仇敵になった者があったが、その中で某のような者はまことに珍しい律儀者であるということで、褒美を得たのである。
 徳川譜代の臣下ですらこのような調子であったから、今日の政事に奔走する者が、あっちにつき、こっちから離れる、というようなことがあったとしても、これを徳川時代の道徳と比較して、いたずらに悲観するべきではあるまい云々」

 さて、このとき私は公爵に対して茶掛の揮毫を願い出た。すると公爵は、昨今はリウマチ(原文「僂麻質斯」)ぎみで、筆を持つと手が震えるから、具合のいいときを見計らって執筆しようと言われたのであるが、そのついでに次のように語られた。

「リウマチについて思い出すのは、先年あるところに招かれてやはり手が震えているところに、当地に避暑中だった、かの中村歌右衛門が御盃頂戴といって自分の前にやってきた。あちらも同じく手が震えるので、左の手で右の手を動かないように押さえて盃を差し出すのを、自分もまた手が震えるので左の手を添えてそれを受ける。その酌をするのが、お粂という新橋の老妓で、それもまた震い仲間のひとりなので、徳利が盃にカチカチと当たったのを見て、これでは三震である、と大笑いになったことがある云々」

 また、このときであったかその後のことだったか忘れたが、貞奴(注・川上貞奴)とともに伊香保に来た福澤桃介氏が、私と同時に公爵を訪問して雑談したことがあった。
 桃介氏は、大同電気社長として木曽川上流に大発電所を完成させた記念に、電気の神の大立像を建設しようという計画を持っており、電気は女性で現わすべきものだと思うが、なにか適当な神像のモデルはないだろうかと真面目な顔で言い出された。
 そのとき公爵は意味ありげな笑みを浮かべて、「それこれと言わず、御携帯の美人(注・当時、貞奴は桃介の愛人だった)の像にすればいいだろう(原文「しくものはなかろう」)と言われたので、さすがの桃介氏も、正面からの不意打ちに一本参ってグウの音も出なかった。これなどは、公爵が長年のあいだ荒くれ政治家を相手にして鍛え上げられた、一刀流の鋭鋒であると納得したものだった。


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百八十六  伊藤公題箋文晁幅(下巻138頁)

 私は明治四十五(1912)年下期から四谷伝馬町に新宅となる天馬軒を建設中であったが、翌年の七月になってもまだ工事半ばなので、上州伊香保の木暮旅館聚遠楼に避暑にいくことにした。
 同旅館の主人、木暮武太夫【先氏は私の旧友だったので、気の合う御仁がやってきたとばかり、おりおり私を訪ねてきて雑談して過ごしたものだった。
 そんな時、氏は木暮家の「いの一番」の宝物であった谷文晁筆の墨画山水大幅を持参し次のように語った。

「これを以前あなた(原文「老兄」)にご覧にいれたとき、非常に称賛されて東京の好事家に吹聴なさったおかげで、その後大評判になり、明治二十九(1896)年、ときの総理大臣伊藤博文公爵がいつしかこの話をきかれて、ぜひとも一覧したいと所望された。そこで、そのころ衆議院議員だった拙者は、同年一月、議員開会の際にそれを持参して上京した。遼東半島還付反対の上奏案がまさに議会に提出されるというときで、伊藤公爵は非常に多忙であったにもかかわらず議会の大臣室でこれを一覧すると言われるので、拙者は部屋まで持参した。大臣室は西洋間で壁に掛物を掛ける場所がなくどうしたものかと見まわしていると、海軍大臣の西郷(注・従道)侯爵が『俺どんに好い工夫がごあす』と言って、みずから椅子の上に立ち、壁に掛けてある柱時計を取り外し掛物をその釘に掛けようとした。ところが少し高くて手が届かないので、佩剣(注・はいけん。帯剣)をはずして軸掛けのかわりにし、首尾よくこれを掛け終えることができた。それを見ていた伊藤公爵はじめ一同は、その機智に驚いたものだった。
 さて掛物を熟覧した伊藤公爵は、『これぞ文晁の中の文晁である』と、しばらく感心してみていたが、時は上奏案の議事中という大わらわの最中だったので、西郷侯爵はふたたび佩剣で掛物をはずし、これを巻き納めて拙者に返却された。
 拙者はこれを箱に納めて、そうそうに引き下がろうとしたそのとき、さきほどから硯箱を引き寄せて、せっせと墨をすっていた内務大臣の野村靖子爵が、『木暮君、その掛物の外題(注・掛物の題名)の付箋を誰かに一筆願ってはどうです。僕はさっきから、誰かが書くだろうと思って、墨をすって待っていたよ』と言われた。すると西郷侯爵がすかさず『誰彼と言わず、伊藤さんが宜しい』と言って、これを伊藤公爵に突き付けた。
 折が折であったので公爵は非常に難色を示したが、西郷侯爵は例の調子で、『これを見料と思うて書くが宜しゅうごあす』と言われたので一同大笑いとなり、公爵もすぐに筆を執り、付箋の上に、文晁筆として、下に春畝山人題と、謹直な楷書で書きつけられた。
 ちょうどそのとき、上奏案否決の知らせが大臣室に届けられたので、一同肩をなでおろし(原文「愁眉を開き」)、歓声がわいたような次第だった。

 思い返すとこれは十八年前の昔で、そこにいた三人も今は全員この世を去り、この幅だけが当時を追懐する記念の品になったのである。
 その後、衆議院書記官の林田亀太郎氏が伊香保に来たので、拙者はこの顛末を同幅の箱裏に書いてもらった。そして今度は西園寺陶庵公が避暑で来られたのを幸いに、すぐに(原文「不日」)箱の表に公爵の題字を請い、十善具足(注・非の打ちどころのない)の宝物にする考えなのだ。」
ということだった。

 聞くところによるとこの文晁幅は、木暮氏が高崎である道具店から掘り出したもので、驚くなかれ、その値はたった五円だったという。
 ところで、私には木暮氏から前にきいていた話がある。
 氏は、明治十三、四(188081)年ごろ、官吏になりたいと思い上京した。そのとき福澤先生に面会しこの志望を述べたところ、先生はその不心得を諭したという。役人などは、産業を持たない士族の子弟がやればよいことで、代々の営業を持つ君などが従事すべきことではない。とくに温泉宿というものは、時勢の進歩につれて、これから大いに繁昌するだろうことは先例を見ても明らかなので、君はまずもって家業に励むことが大切だ。そして、今日は土地の値段が法外に安いのだから、できるだけ土地を買い入れておくのがよいだろう。もし大いに威張りたいというのなら、いつか国会議員になって堂々と国政を議論するべきなのだと言われたそうだ。そこで氏は仕官するという気持ちをきっぱりと断ち、もっぱら家業に専心し、その一方で衆議院議員になって福澤先生の言われたとおりに当初の志望を達することになったのだそうだ。
 そのとき私は木暮氏に、「しかし、君が先生の教訓どおり、安価な土地を買い入れておいたとしても、この掛物を買い入れた利益には及ばないだろう」と一笑したのである。その武太夫君も今では世を去られ、私もまたほどなく寂滅するだろうから、結局残るのはこの幅ばかりとなることだろう。


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百八十七  東都の三曲界(下巻141頁)

 明治中期以来、東都(注・東京)の三曲界(注・地歌、箏曲、胡弓楽、尺八楽の四種の音楽の総称。他の邦楽種目である長唄、義太夫節、清元、琵琶楽、能楽は含まない)には、それぞれに若干の大家が存在していたが、私は、亡妻も後妻も、みな琴や三味線に親しんだので、自然とそちら方面の大家と接触し、その技芸を傾聴する機会が多かった。だから自分では練習したことはなくても、その芸風や巧拙について、まったくの門外漢というわけでもなかろうと思う。
 明治中期には、山田流の中能島松声が嶄然として(注・抜きん出て)頭角をあらわした。も三味線も達者であったうえ、無類の美声で、よどみない節回しには、他の追随を許さないものがあった。
 彼は、単に山田流の琴唄だけでなく、富本の名曲に琴の節付けをして例の美声で唄い、ときどき清元お葉との掛け合いで演奏したこともあった。
 中能島は、でくでくと肥満し、たちの悪い(原文「念の入った」)疱瘡のために目が不自由になったうえに頭部は茶色や紫色のしみだらけで、色つきの地図を見るような非常にグロテスクな容貌だったのであるが、天はこの名人に美声という一物を与え、ひとたび発声すれば、いわゆる「梁塵を動かし(注・漢の魯の虞公は声が清らかで歌うと梁の上のちりまで動いたという「劉向別録」の故事から歌や音楽にすぐれていることのたとえ)、潜蚊を舞わしむる」の趣があった。五世延寿太夫がまだ若かったころ、彼とお葉の掛け合いでお菊幸助を語るのを聞き、感動のあまり清元を習う気になったという一事をもってしても、そのことは十分に理解できるだろう。
 さて、中能島に次ぐ美声家は山登万和である。この人は、私の一番町宅にも何度もやってきて、得意の自作である須磨の嵐などを唄われた。
 山登は痩せぎすで色が黒く、出っ歯だった。凛々としたその声は、いわゆる「盲人声にあらず(注・声をきいただけで情景まで見えるようだ、の意味か?)」で、私は、彼が熊野ゆやの「青かりし葉の秋、また花の春は」という一説を唄うのをきいて、いかにも青いように聞こえるのだと毎回笑って人に話したものだった。しかし中能島に比べると、同じ美声でも、ふたりの間には多少の差があったように思う。
 また山田流では、このほかに山勢松韻という大家もおり、この人は琴を達者に弾かれた。門下から今井慶松、萩岡松韻のふたりを出したのは、同流にとっての彼の功労といわなくてはならない。今井慶松が、得意の新晒しなどにおいて師匠以上の鮮やかさを見せているのは、く知られていることである。また、大正の後半から昭和にかけての宮城道雄氏の活躍は、三曲界にとり、たのもしい限りである。
 宮城氏は天才肌で、まだ二十歳前に水の変態という曲を作曲された。思えばそれが彼にとっての出世作であり、その後も次々に新作に励んでいるだけでなく、琴の演奏も非常に達者である。
 氏はまた、いくらか洋楽を研究したので、作曲にもそれを取り入れようという工夫があるようだ。しかしこれは、西洋人がどんなにうまく和服を着ても日本人から見ると滑稽なように、洋楽の模倣は結局彼らの一笑を買うに過ぎない。氏のような天才は、その精力を一番有効な道に傾注して、みごとに当代にふさわしい純日本式の名曲を創作されるようにと私は切に願っている。
 さて、また三味線においては、明治中期に櫛田栄清氏がいた。その門下から、出藍の誉れある(注・弟子が師をしのぐこと)今の高橋栄清氏を出したことを、ありがたく思わなくてはならない。(注・三味線もうまかったのかもしれないが櫛田栄清も高橋栄清も筝曲家)
 また明治末期から大正時代にかけて、熊本から生田流の永谷検校、小出いと子のふたりが上京し三曲界をおおいに賑わした。
 熊本がいかにして、このような名手を生み出したかということについて、私は熊本出身の清浦(注・清浦奎吾)伯爵や、徳富(注・徳富蘇峰)氏などに質問してみたが、結局わからずじまいだった。
 このふたりのうち永谷検校はもちろん名手だったのだが、小出いと子のほうも、単に女流としてのみならず、生田流では、当代で彼女に比肩する人は何人もいないと思う。
 いと子は五歳のときから三味線を習い始め非常に厳格な修業を続け、それ以来、七十五歳の老齢にいたるまで、睡眠時間のほかは、ほとんど三味線を離したことがないという。そういう勉強に加え、天賦の芸才があったことから当然のごとく、ついには超人的な域に達したのである。
  小出は上京後、しじゅう私の家に出入りしていたので、私は毎回のように、そのすばらしい能力に感服していたが、私が四谷伝馬町に住んでいたころ、夜更けてから帰宅すると小出の撥音が非常に遠くのほうまで聞こえてくるので、今夜もまた彼女が来宅しているのだとすぐにわかったほどだった。
 尺八では、先代の荒木古童が一番有名だった。私は彼の晩年に鶴の巣籠を聞き、その妙技に感じ入ったことがある。
 今の古童翁も先代に劣らぬ名手であると言われ、その子である梅旭氏にも非常に有望な将来が期待されていることは、単に琴古流のためだけでなく東都三曲界のために、大いに祝福すべきことだと思う。
 東都三曲界のことを語るに当たり、たまたま思い出したのが、三輪信次郎君のことだ。明治二十五、六(189293)年ごろ、東京の銀行業者が芝紅葉館に日本銀行総裁の川田小一郎男爵を招待した席上で、当時十五銀行支配人だった三輪君が、余興に一曲演奏しようといってなにか琴の曲を弾き終わると、川田男爵は布袋腹をかかえて「三輪法師、三輪法師と呼びつつ大いに喝采したことがあった。
 その後、三輪法師は、山田流女流筝曲家として好評を得ていた山室千代子を相棒にして、四十年間筝曲に没頭しているが、素人としてこのような活動をする人は、古来類例がなかろう。お世辞にも、お上手とは申し上げかねるが、その熱心さにだけは大いに敬意を表さざるを得ないのである。


(注・原文において、144頁の最終行が抜けている。146頁の最終行[人であった三輪君が、余興に一曲奏せんとて、何やら琴を弾き終るや、川田男は布袋腹を抱へ]が、本来ここに印刷されるべきだった。)


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百八十八  白紙庵構築の由来(下巻145頁)

 私は、しばしば述べてきたように明治四十五(1912)年からその身を文芸界に投じることになったので、十年余り住み慣れた麹町区一番町の邸宅を中井新右衛門氏に譲渡し、四谷伝馬町に新しい境涯向きの住居を建てることにした。
 そこの新築の茶室に、なにか人を驚かすような趣向を加えたいと思い考えた末、それまでに三百年以上たった白紙を収集しておいたので、新しい三畳台目の新席の壁を全部その白紙で張りつめることにした。
 ところが同じ白紙といっても、それぞれ多少の濃淡がるので、まるで地図のような模様が現れ出た。これならば、必ずや好事家の一粲を博す(注・謙遜の意味で、お笑い種になる)に違いないと思い、自分ひとりで得意がり、名前も当然のごとく「白紙庵」と命名した。そして大正三(1914)年三月八日から新席開きの茶会を催し東京の同好者たちを招待した。
 さて、この新席に掛ける一軸は、徳川慶喜公の大字一行物にしようとかねがね思っていた。そのことには、ほかでもない次のような理由があった。
 先年の御殿山の大師会で私が禅居庵の一席を受け持ったとき、慶喜公が渋沢栄一子爵同伴で来臨された。東道役(注・来客の世話人)で台主の益田鈍翁も同座してしばし清談を交わした後、私は慶喜公に「御序(注・ついで)の節、何がな御染筆を願いたし」と申し出たところ、公はすぐに快諾してくださった。
 そこでその後、白紙に縁故のある文句を二つ、三つ選んで、公の末女である徳川圀順公爵夫人の手元に渡し、夫人を経て重ねて願い出たときには、公はすでに病床にありもはや執筆はかなわなくなってしまったので、公の生前にその墨蹟を拝領する機会を失ってしまった。これははなはだ遺憾なことだった。
 そこで私はやむを得ず、藤村庸軒筆の白紙の讃を得て、これを開庵の床に掛けたのである。
 その文句は次の通りであった。

       題白紙     庸軒子
  無画無詩掲一行  不看赤青兼黒黄  這中風致凛乎冷  楮国乾坤雪又霜
 
 白紙庵の懐石茶会は十数回を重ねた。来客には記念として、この庸軒白紙讃を染め付けて新調した六角火入を配りなどした。この記念品は、同人のあいだでなかなかの評判になり、松原瑜洲松江藩士、通称新之助翁からは、大心和尚筆の白紙讃一軸に添えて次の五絶を贈られた。

    箒庵兄鼎新白紙庵 余贈大心和尚所書白紙偈幅 更賦此以為慶
                             瑜洲松原新拝
   心清如白紙 性浄似流泉 白紙庵中主 汲泉茶自煎
 
 このほか、同人数名からは詩歌の寄贈をいただいたが、なかでも岩渓裳川翁の白紙行古体一篇は、新しい庵に一段の光輝を添えるものとなった。

    箒庵先生、新築茶室 名曰白紙庵、 即賦一篇古体以博粲
                       裳川岩渓晋
       茆庵新著白紙字 窺得平生尚素意 満壁糊貼千百張 番々足写博物志
    谷泉詩偈趙州茶 三白相得雪月花 久矣二陸伝経具 風流未曾帰驕奢
    維摩丈室有縄墨 軽楹不用珠翠飾 個中悟到一味禅 豈止賓主参語黙(注・楹=柱)

    石丈偶座如点頭 傍有臨風瀟洒侯 唐昌姑射女仙対 蒼髯老叟皆同流
    聞道旧儀其客五 多驚人目物為主 不掃胸裡万斛塵 床頭空挂玉柄塵
    請見高情陶令琴 無絃能解弾旨深 廬家七椀在知趣 徒競茗器終何心
    幽鼎松風払々入 清泉一杓古可汲 世俗好事紫奪朱 悲糸誰作墨子泣
    浮碧殷紅金花箋 敢説日辺天上伝 茶煙色映白紙白 白衣人結浄因縁

 このとき、私もまた、次の腰折(注・自作を謙遜した言い方)を物して、新庵で茶禅一味(注・茶道は禅から起こり求めるところは同一であるということ)を味わいつつあった。

   花の朝月の夕に木の芽烹て(注・煮て)浮世のことは白紙の庵

   白紙の壁に向ひて松風の 音を聞きつつ我が世をや経む

 ところがこの茶会のあと一か月余りすぎた四月十七日に、徳川圀順公爵の家令、福原脩氏が来宅し語るところによれば、私がさきに公爵夫人を経て慶喜公に願い出た揮毫が、昨年十一月二十二日に公が薨去されために果たされなかったことを夫人がことのほか遺憾に思召され、その次第を慶喜公の嗣子、慶久公に申し入れて、私のために公の遺墨一枚を請われた。すると慶久公はこころよくそれを承諾され、遺墨の中から適当なものを選択するようにと福原氏に沙汰があったので、福原氏は白紙庵に縁故のある文句を選び、唐紙半切に次の二句があるものを持参した、とのことであった。
 私にとっても思いがけないことで慶喜公の遺墨を拝領することができたので、よろこんで(原文「欣然」)これを開いてみると、

     素志与白雲同悠
     真情与青松共爽

というもので、不思議にも、素志、白雲などという文字があり、ただ白紙庵に縁故があるだけでなく、なんとやら、私のような隠逸者の境遇にぴったりの語句で、願ってもない好記念物なので、厚く公爵夫人の御好意に感謝した。さらに徳川邸へもまかり出て、慶久公にもお礼申し上げたのである。
 この白紙庵は、幸いに癸亥(注・みずのとい。大正12年)の震火災にもあわず、今は斎藤浩介氏の住居になっている。微々たる一庵室に関連して以上のような因縁話があったので、追憶の一端にもと、ここにその由来を記し置く次第である。


(注・原文で、146頁の最終行[ー人であった三輪君が、・・・布袋腹を抱へ]は、前項の144頁の最終行に来るべきものである。)


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百八十九  井上世外侯の狂歌(下巻149頁)

 私は大正三(1914)年三月五日、興津別荘に滞在中の井上侯爵を訪問し、庭の木瓜が開き桜のつぼみも膨らんで、春雨一過すれば、まさに嫣然一笑(注・あでやかに笑う。ここではつぼみが開くこと)するばかりになった快心草堂の縁先に出て、黒潮の上を渡ってくる春風に吹かれながら、いろいろな雑談をした。そのとき侯爵は記憶をたどり、あれやこれやの自作狂歌について語られた。
 侯爵の狂歌には侯爵の奇智頓才が現れており、専門狂歌師の作よりもかえって面白いものがある侯爵は、それらの狂歌を書き留めておかれているのかと質問すると、否、そのとき、そのときの座興で、詠み捨て、書き捨てだから、ほとんどは忘れてしまったよと言われる。
 そこで、私は、それまでに聞き込んでいたものと、このときに聞き取った秀逸なものを合わせ、ここで紹介することにする。

 明治二十一(1888)年ごろ、外務大臣を辞めて、長州の外海というところに引き籠りけるとき
    隅田川人のうらやむ都鳥 今は外海【とのみ】の鴎なりけり

 あるとき、富士の裾野を過ぎて
    下女らしき名に不似合の白化粧 ツンとすまして人を見くだす
 

 明治三十年ごろ、朝鮮より帰ってきて、興津に引き籠っていたとき、故伊藤博文公爵からしきりに就官を勧められて
    間をやめて世外に棲むからだ 猿にしておけ猿にしておけ

 同じ折、使者が度重なるので、興津に横砂というところがあるのを思いついて
    寝おきつ浮世の外の老の身は 用があってもむかひ横砂


 日露戦争中、高橋(注・是清)日本銀行副総裁が、公債募集のために渡英することについて、世評がばらばら(原文「区々」)だったので
    よしあしの中にかかれる高橋は 渡りてきかむかりがねの声 
 

 修善寺にこもっていたとき、旅宿で朝夕、興津鯛ばかり出されたので
    あま鯛で寝てもおきても小言のみ 醤油やうにつけ焼かれては
 

 身延山にお参りしたとき、僧に何か書いてほしいと頼まれたので
    門前の小僧のみかは藪かげの 鶯さへも法華経となく

 還暦の年に、人に見せるために
    けふよりはもとの赤子にかへりけり 皆ちやん御免だだをこねても

 奈良に遊んだとき
    いにしへの奈良の都をたづぬれば 春日にのこる鹿の声のみ
       

 明治三十一年二月、官をやめて鎌倉に引っ込んだとき
    世はうしと由井の浜辺による波に ときし冠のひもを洗はむ
 

 伊豆の鼓(注・つづみ)の滝にて
    音にきく鼓の滝の水しらべ しめつゆるめつなり渡るらむ
 

 駿河半紙を漉くのを見て
    木の皮をむいてみつまたにてほして なんと駿河の紙のたふとさ
 

 甲斐の国のある製糸場を参観していたとき
    おかひこでくるめそだてし甲斐の国 木綿もきぬと人はいふらむ


 あるとき朝鮮の時局について
    てうせんとにぎつて打てど手にならず 岡目八目つぶれかんじやう
 

 静岡県の近藤という茶人が「山里は茶うけの菓子も事たりて松風もあり落雁もあり」と詠みおこしたことに対し
    耳と目で茶うけの菓子が事たらば ゑがいた餅で正月はすむ
 

 また、同じ人から「法性のむろぢと聞けど我すめば有為の波風立たぬ日もなし」という歌を見せられて
    うろむろと悟りすごすなけふすめば 金でなければ何で空海
 

 山口に遊んだとき、ある人が戯れに、相撲の賭けで十五円を得て、御馳走するというのをきいて
    ごちそうに御礼はいらぬ十五円 とりし相撲は人のふんどし

 以上の世外侯爵の狂歌を通してみると、侯爵は何かに感激した場合に、狂歌でその所感を洩らされたということがわかる。また、時として、三猿という号を使われていたので、次のような狂歌もあった。
 
   
自作の竹花入に初冠と命名して
    うひかむりつけて無茶くちや楽まん 人の笑ひはかへり三猿て

 世外侯爵は、伊藤、山県両公爵と並び、長州の三傑と称されたが、詩書においては伊藤公に及ばず、和歌においては山県公に及ばなかった。そのかわり書画骨董の鑑賞に関しては両公のはるかに上を行き、狂歌においてもまた他の二尊を凌駕し、杉聴雨(注・杉孫七郎)子爵とほとんど伯仲する間柄であったと思う。

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百九十  渋沢青淵(注・栄一)子爵経歴談(下巻154頁)

 大正三(1914)年八月、私が箱根小涌谷の三河屋に避暑中、渋沢子爵当時は男爵夫妻も同じ宿に投宿されていた。
 同十二日の夜に台風が襲来し激しい雨が建物にたたきつけ(原文「猛雨沛然として屋を動かし)、電灯は消え、温泉は濁り、さんざんなありさまだった。
 私は手持無沙汰のまま、翌十三日の昼食後に渋沢子爵の部屋を訪問した。
 そこでまず話したのは、当時突発したヨーロッパの対戦の発端となった、オーストリアとセルビアの国交断絶と、それが原因で起こったドイツのベルギー侵入事件のことだった。
 このとき子爵は、次のように話された。(注・わかりやすい表現になおした)
「自分はこのほど大隈首相に面会し、首相の意向を尋ねたが、ドイツ皇帝(注・ヴィルヘルム2世)は一風変わった人物で、その自力を過信し、いま、もしドイツがフランスに攻め入ればイギリスは中立の態度を取るだろうから、あっという間にパリ城下に迫ることができるだろうと思っていた。しかしベルギーがその進軍をさえぎり、英仏露の三国がたちまちのうちに連合するに至った。これはドイツ皇帝も、いささか予想はずれだっただろうが、事がここにいたってしまっては、騎虎の勢いを止めるのはむずかしく、非常に大きな事変になってしまうかもしれない。」
とのことだった。

 またわが国の政府は、イギリスからの要請によって、ドイツが蟠踞(注・動かないで根を張ること)している青島から、その勢力を駆逐することになるだろうという評議もあるようだと、さっき東京のほうからの報告を受け取ったという。
 その談話のあと、私は子爵に向かって、子爵が明治六年に官吏を辞めて、みずから実業界に身を投じたのはどのような考えだったのかと質問した。子爵は例の綿密さで事細かに当時の事情を語られたので、ここにその大要を掲げよう。
 「自分は武州川越在の百姓の子であるが、十四歳のころ、自分より数歳年上だった小高某(注・原文では「小高某」になっているが、いとこの尾高長七郎だろうが、剣術修業のために江戸に出て、ときどき帰村して江戸にいたときの見聞談をするの聞いた。そして今日の徳川幕府は、日本国を統一して攘夷を成功させることはできないだろうと思われるので、むしろ徳川幕府を倒して、朝廷に攘夷を実行してもらうほかはないという気持ちを抱いた。
  そこで、百姓の本分を離れて、だんだんに壮士の気風を身につけ、渋沢喜作と相談してふたりで京都に出奔した。
 しかし身を寄せるところがほかにないため、しばらく一橋家用人の平岡円四郎のところに寄寓していたところ、そのことを幕吏に感づかれ、平岡方に自分たちの身分の照会があった。そのとき平岡は自分たちに対し、今は倒幕論をひるがえして、むしろ一橋家に奉公したほうがよかろうと忠告してくれた。
 ここにおいて自分たちは、幕府に引き渡されて牢死の運命にあうよりも、むしろそのほうが得策だろうということで、ついに一橋家の家臣になったのである。
 そしてだんだんに慶喜公に近づいてみると、慈悲もあり思慮もある君公であるから、この人のためなら一身を捧げて奉公してみようと思い定めた。ちょうどそのすぐあとに慶喜公が十五代将軍になられた。
 自分は、公の弟の民部卿(注・徳川昭武)がナポレオン三世の主催するパリ万国博覧会に出向く一行に加わって渡仏することになった。
 民部卿がその使命を果たしたあとは、五、六年間フランスで学問修行をする予定だった。二年ほど滞在しているあいだに幕府は転覆したが、まだ所持していた金が残っていたので、自分は民部卿とともに依然として遊学していた。しかし藩論の定めるところで民部卿が水戸家を相続することになり、自分も一緒に帰国し、すぐに静岡の宝台院に退隠中の慶喜公を訪問した。
 公は昔とは大違いの哀れなありさまで落涙を止めることもできなかったが、自分がさかんに薩長の暴慢に憤慨しているのを見て逆に私を慰め、決して嘆息する必要はない、人を恨まず、天をとがめず、静かに本分を守るがよいと説諭された。
 私は憤りが簡単には収まらず、新政府に対して大きな不満を抱いていたが、明治二年の新政府の命令で是非なく大蔵省に出仕することになり、はじめは大隈侯爵の下で働いた。
 ほどなく大蔵大輔となった井上侯爵と知り合い、当時の財政改革について、ともに尽力はしていたものの、自分は慶喜公に対する情誼からもともと仕官を好まなかったので、明治六年に井上侯爵の辞職とともに自分も辞め、民間に下って実業方面に従事することとなったのである。
 それ以前に、自分はフランスの商業状態を見ており非常に感じ入るところがあった。日本の商人には国家的観念というものがなく、よきにつけ、悪しきにつけ、政府に盲従して自分の利益を計っている。それだけでは国家の前途ははなはだおぼつかないと気づいた。しかし、大蔵省の在勤中に、しばしば民間の商人と接触するうちに、そのなかで意見を話せるのは三井の三野村利左衛門など二、三人だけで、この人たちとて確固たる国家観念があるわけではないから、自分自身が商業界にはいってこの社会のために尽くすほかはない、と決心したのである。
 そんなとき、うまい具合に伊藤博文公爵がアメリカから帰り、国立銀行条例を日本でも実行しようということになり、自分が、その銀行制度実施の先頭に立ち、第一国立銀行の頭取を引き受けて、いよいよ本格的に商業界に乗り出すことになったのである云々」
 


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