だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 171‐180

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百七十一  名器調査と雲州土産(下巻83頁)

 私は大正二(1913)年五月十一日京都を出発し、雲州(注・出雲国、現在の島根県地方)への旅に出た。その途上で、

  天涯新樹雨余稠  晴日風薫欲麦秋  笑我一禅参白足  青山影裡入雲州
  (
注・稠=茂る)

という一首を作ったことから、そのときに旅行記を「入雲日記」という題にした。旅行中のこまごましたことは省略し、なぜ雲州を訪問することにしたのか、その理由を今回は記してみたいと思う。
 明治四十五(1912)年初めから私が閑雲野鶴の(注・仕事をせず自由な)身となったひとつの理由は、東山の時代(注・足利義政の時代)以来、幾多の好事家が何度も試みながら、ついぞ完成したことのなかった全国の名器の調査をするということだった。
 この事業を完成するためには、現在日本の国中でもっとも多くの名器を所有している松平直亮(注・なおあき)伯爵の宝蔵でその調査の方法を研究し、いかにして実物を撮影するかということや、いかにして色彩を模写するかということ、また、いかにしてその付属品などをもれなく記述するかということを試験的にやってみるしかないと思った。そこで私は、松平伯爵の許しを得て、まず雲州の宝蔵を拝見することになった。
 松江には速記者の山口鉄市を伴い、松平家宝蔵主任である故米村信敬氏らの助けを借りて、器物のなかでも有名な油屋肩衝をはじめ、大名物、中興名物(注・大名物は利休時代までに知られた名物、中興名物は小堀遠州が選定した名物)の茶入や茶碗の数々を拝見した。絵画では梁楷の李白、徐熈の梅鷺、門無関の布袋などの多数の名品があった。
 これらはいずれも有名な不昧公の遺愛の品で、中興名物の茶器だけでも四十点余りある。大名物や中興名物の書画、器具を合わせれば、その数は実に百点余りになるだろう。それは、ひとつの家で、全国の名物の一割以上を所持していることになるのである。
 よって、もちろん一朝一夕で全部を見るわけにはいかない。拝見は三日にわたり、それで約三分の一程度を調査し、これで幸いにも雲州訪問の第一の目的を果たすことができたのである。
 雲州松平家の所蔵名器がこのように豊富なのは、言うまでもなく、不昧公の熱心な注力(原文「丹精」)によるものである。
 そもそも公は、徳川家康の子(注・次男)である越前秀康(注・結城秀康)の、三男直政から六代目の天隆公【宗衍むねのぶ】の第二子である。宝暦元(1751)年の生まれで、諱を治郷といい、一々斎不昧、未央庵宗納と称された。
 明和四(1767)年、十七歳で襲封するが、そのときの松江藩の財政は極度の窮迫に陥っていた。父公が隠居しその職を新しい藩主に譲ったのも、結局のところそのせいだったので、不昧公はただちに藩政立て直しを志すことになった。そのために朝日丹波茂保を抜擢して後見、兼、執行役にし、大改革に当たらせた。
 丹波は非凡な財政家であった。華奢を戒め、殖産を勧め、七万人余りを動員して、佐陀川に幅二十間(注・一間=約180センチ。20間=約36メートル)、長さ二里(注・約8キロ)の運河を造り、湖水が北の海に注ぐようにすることで、六万石の新たな耕田をひらいた。
 また幕府が経営していた日光人参栽培所からその秘法を習い、雲州人参の生産に成功した。それを長崎に送り、シナ貿易において巨額の利益を占めたのである。
 このようにして不昧公は着々と多くの成功をおさめ、在職三十年余年のあいだに、天下屈指の内福(注・みかけよりも豊かな)大名になった。五十歳で家督を子息の月潭公(注・松平斉恒)に譲り、六十八歳で薨去するまでの隠居生活十八年間は、茶事三昧に暮らした(原文「消光」)ばかりでなく、かねて蓄積してきた財力で名品名宝の買収につとめた。まるで、夜の庭でガマガエルが蚊をパクリパクリと呑みこむように、公の魔力に引き付けられた天下の名器は、争うように公の口へと向かい腹を満たしたのである。
 これが、今日、松平家に現存している不昧公の遺愛の品なのである。
 こうして私は、それらの品々を拝見して、名器の調査についての方針を決定した。そこから、松江市外の菅田庵(注・かんでんあん)やその他の茶室を次々に訪れたり、出雲大社に参拝したりなどして、漫遊の日程を重ねた。
 ある晩には、旅宿の皆美館で、例の安来節と、どじょうすくい踊りも見聞した。安来節には、

  嫁が島外に木はない私が心いつも青々松ばかり
  安来せんげん名の出たところ、社日桜に戸神山、戸神山から沖見れば、いづくの船とも知らねども、せみのもとまで帆を巻いて、ヨサホヨサホと鉄つかんでかみのぼる

というのがあって、この「鉄つかんでのぼる」というのは、不昧公時代の製鉄工業の盛況を詠み込んだものだそうだ。
 また、この土地で行われている、どじょうすくいという踊りは、いかにも素朴で愛すべきものである。ざるで、どじょうをすくう身振りをして、

  私や出雲の浜さだ生れ朝の六つから鰌(注・どじょう)や鰌

といいながら踊るのである。これにはいろいろな替え歌がある。
 私はいつも地方に旅行するたびに、必ずその土地の俗謡を聴くことにしているが、この安来節とどじょうすくいは、東北地方の追分節に匹敵するもので、その他のいろいろな地方のものと比較して、はるかに群を抜いていると思う。これを東京で宣伝したら、かなり興味を持たれるのではないかと思い、帰京後に友人に語り伝えたのだが、それから数年後には安来節が東京に進出し、茶屋小屋から浅草あたりの小劇場にいたるまで、いたるところで唄いはやされるようになった。そして、しばらくのあいだ大いに流行したのである。マサカ、私が宣伝したから、というわけではあるまいが、このことについては、いささか伯楽(注・
すぐれたもの、特に名馬を見抜く能力のある人のこと)の名誉を担ってもよい理由があるのではないかと思っており、自己満足している次第なのだ。


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百七十二  光琳月豆幅の余興(下巻87頁)

  
大正二(1913)年五月二十五日のことだった。下條正雄、朝吹英二の両氏が、大阪府知事の高崎親章氏の依頼で、大阪天満の天神社内に貴賓館を建設する計画賛助のため、都下の紳士数十名を築地瓢家に招請した。その席上、私は参加者に向かって緊急動議を提出した。
 「数日前に両国美術倶楽部において道具入札会があった。そのとき、今夕出席している馬越恭平君が、光琳筆の有名な、月豆の一軸を獲得されたことは、まことに慶賀の至りである。元来、豆は馬の好物であるから、馬越大人が月豆の幅を手に入れたのは、まことに当然のことではあるが、私が探知したところによると、この幅の獲得には競争者がいたのである。それは古河男爵家の代表の中島久万吉男爵であった。男爵は、古河家のためにこの幅を得るため大枚五千円で入札し、これでもう月下の豆は、間違いなくわが手中のものであると安心していた。
 一方、馬越大人は、豆と見ては、なんの猶予があろう、この幅をぜひとも獲得せよと、出入りの道具商である山澄力蔵に命じ、その相場を尋ねた。すると山澄は、まずもって三千円くらいではないかと言う。
 そのとき大人は、頭を左右に振り、いやいや君、それは、時勢遅れだろう、光琳の豆は、満州の豆(注・「満州大豆」は当時の満州開墾の主力農作物だった)とは違い、天下唯一の豆である。自分は前々から光琳の絵を愛して、河秡の図、紫式部の図など、「光琳百図(注・尾形光琳に私淑した酒井抱一が光琳百年忌に編集し出版したモノクロの絵画集)」にもなった優品を持っているが、それらはどれも真面目な図柄なので、かねてから、草体(注・硬派でない、の意か?)の画の一幅を欲しいと思っていた。この月豆の図こそ、まさに自分の理想にかなっているばかりでなく、「光琳百図」の中で、紫式部と並んで掲載されている(注・刊行された「光琳百図」の同じ頁に印刷されている。下の参考写真を参照のこと)もので、離れるべきでない姉妹幅なのだ。ぜひとも、確実に落札できる札(原文「やらずの札」)をいれたいということで、最初から五千円と決め、その上にさらに端数をつけ、結局五千百十円で入札した。
 開札の結果、豆はわずか十円の高値をつけた馬大人の手に落ちた。このような深い情を持つ知己に身請けされた月豆は、さぞかし満足したことだろう。
 それにしても、わずか十円の差でこの名幅を勝ち得た『馬運長久』にいたっては、同好の友を招き披露の祝宴を催すだけの価値があるのではないかと思うが、満座の諸君にもご同意いただけるのではないだろうかどうだろうか。」

と述べたのである。
 すると一同が大賛成したことはもちろんのことだったのだが、このなかには杉山茂丸君のような大豪傑もおり、「自分は月豆問題以外にも、馬大人に対して晩餐を請求する外交問題を抱えている」と言い出す。
 ここで返事にもたもたしていると、旧悪露顕か、はたまた新罪発見か、いずれにしても事は面倒だと見て取った馬大人は機先を制して一座を見回し、「諸君、よろしゅうげす」と快諾したのであった。その期日は六月十五日と決まった。
 さて六月十五日がやってきた。馬大人は前回の出席者十数人のほかに、十円違いで月豆競争にしくじった中島久万吉男爵も招待していた。会場は同じ瓢家で、寄付き(注・はいってすぐの部屋)の床には、光琳の有名な河秡の図を掛けてあるほか、馬越家の秘蔵中の秘蔵である、師宣(注・菱川師宣)と長春(注・宮川長春)の風俗絵巻が陳列され来客は魂を奪われた。
 そのあとには、本席に光琳筆の月豆の図が飾られるという、実にいたれりつくせりの待遇であった。来賓の代表として、金子渓水(注・金子堅太郎)子爵は、懇篤な謝辞を述べた。また大倉鶴彦(注・大倉喜八郎)翁は、

   友どちのまるきまとゐ枝豆の さやけき月を見する掛物

という狂句を披露した。その後、花柳小夏の手踊りなどがあり、めでたく月豆会は終了した。
 そのとき馬大人が、益田紅艶(注・英作)に次のようなひとことを洩らされたのである。
 「東京は真の闇でげす、月が出ているのに、アノ豆が誰にも見えませんよ」
つまり、世人はみな盲目で自分ひとりが具眼である、と言うに等しい啖呵を切ったわけだ。
 そこでこの晩に招かれた客側が七月二十二日に返礼の会を開くにあたり、その幹事を引き受けた私と、益田紅艶、野崎幻庵の三人で協議のうえ、加納鉄哉老人に釈迦如来が緋の衣を着て意気揚々と馬にまたがり、まわりには十六羅漢が群衆している絵を描いてもらった。その釈迦如来の容貌は、夜の主賓である馬大人にそっくりで、群衆の羅漢もまた当夜出席する人々の顔をしているのである。豆の枝と掛物をかついで先導している眉の太い人は、間違いなく山澄力蔵で、ひげに鯰の特徴があるのは加藤正義尊者、土左衛門のように太っているのは益田紅艶童子、頭髪がまばらなのは野崎幻庵、金縁の眼鏡をかけているのは箒庵(注・高橋義雄)というような図柄であった。しかしはなはだ不思議なことに、この絵では馬上の釈迦だけに目があり十六羅漢は全員盲目なのである。
 やがてその理由が明らかになると、主客ともに顔を見合わせて抱腹絶倒するしかなかった。無眼の羅漢を代表して金子渓水(注・堅太郎)尊者の挨拶があり、ついで近藤廉平尊者がこの新作の一軸を馬大人に贈呈した。

 余興には、清元の「彩色間刈豆【いろもようちょっとかりまめ】」を語らせ、晩餐の献立も豆にちなむなど、ずいぶん薬の効きすぎた趣向だった。
 ところで、わずか十円の差で月豆を落札できなかった中島男爵は、むしろその幸運を祝する意味で、八月十五日すなわち仲秋の夜を選び会を催した。
 そこにおいては、古河家が最近譲り受けた、水野子爵家伝来の元暦万葉十四冊が参加者一同のために展示された。とかく下品になり下がることの多いこの種の会合が、もっとも上品な形で千秋楽を迎えることができたことは、まことにありがたき幸せだった。

  この会合は、月豆会」という名で当時非常に有名なものだったので、ここにその大要を記しておく次第である。



 ◆参考:国会図書館デジタルコレクション「光琳百図」より
 (月豆の図と紫式部が同頁に掲載されている )

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百七十三  伊東茂右衛門参禅談(下巻90頁)

 大正二(1913)年十月六日の午前、私は伊東茂右衛門氏から福澤先生の経歴談を聞くために、大久保百人町にある氏の住まいを訪問した。
 伊東氏は豊後(注・現大分県)中津の人である。仙骨飄然とした(注・仙人のようにひょうひょうとした)変わった人だったが、福澤先生にかわいがられた。
 明治十四(1881)年に福澤先生が東京で起きた政変を東北御巡幸に供奉(注・お供)して福島まで帰ってきていた大隈侯爵に内報するための使者に、氏を選んだことを見ても、彼がいかに先生に信頼されていたかがわかる。
 伊東氏は、千葉の近くにあるある寺の住職だった大徹和尚の会下(注・えげ修業)に参加し、この道についての造詣が非常に深いそうなので、私はついでに彼の参禅経歴についても質問した。以下はそのときに氏が語ってくれた一場の物語である。(注・わかりやすい表現になおした)
 

 私は興津の清見寺の住職、真浄(注・坂上真浄)老師が、あるとき上京して碧厳の提唱(注・中国の仏教書「碧厳録」の講義)をしたのを聴いて非常に感ずるところがあったので、大徹和尚とも相談のうえ、その添え書きを懐にして、直接清見寺に出向いた。すると、この寺には見晴らしのよい広い座敷がいくつもあるのに、なぜか私を、三畳ばかりの、ねずみの糞がいっぱいある部屋に通された。食べ物は、朝が麦粥とケンチン汁、夜は、また冷たい麦飯と香の物というような具合で、毎日同じごちそうばかりなので、私はたまりかねて、そっとたもとに入れて持参した鰹節を食べていた。
 さて、ときどき老師に会うと、老師はただ暑いとか、寒いとかいう挨拶をするだけで、なんの話もしてくれない。私もまた、座禅しようというような考えも起こらなかった。
 あるとき、老師の部屋で雑談をしていたところ、ふと座ってみたいという気が起こったので、挨拶もせずに自分の部屋に戻り、いよいよ取り掛かったのは「一指の禅」という公案だった。それより前に、老師が、私に「貴方は座禅の復習に来たのだから、なんでも自分の気に入った公案を選ぶがよろしいと言われたので、それほど難しくないこの公案を試してみたのだった。
 だが、それから四、五日考え続け、老師に考えを述べると、ちょっと聞いただけで、まだまだと言われる。
 それでまた、さらに数日間座り続け、あるときは裏山の上に登って工夫(注・座禅に集中)したりして、もうだいたいよいだろうと思って老師の部屋に行くと、私の足音をきいただけで、障子の中からまだまだと言われる。
 それでさらに考えてから出直していくと、今度は大きな声で、この部屋にはいっちゃならぬと言われる始末だった。

 最初は二、三日滞在するだけのつもりだったのが、もはや三週間過ぎても、簡単には通ることができそうになかった。そのうえ食べ物が悪いので、もううんざりしてきた。
 そのとき、私がかつて大徹和尚のところに行ったとき、和尚が、ある僧のために執筆していた、おもしろい偈(注・げ。仏の功徳をほめたたえる詩)のことを思い出した。せっかくここまでやってきて、なにも得ることなく逃げ出すのも残念なので、最後の一日は大死一番(注・一度死んだ気になって奮起)の覚悟で座禅しようと、むこう鉢巻(注・額のところに結び目を作る鉢巻)を固く締め、腹がちぎれるほどに腹帯を巻き、どっかりと座禅して考案していた。
 すると突然、ねずみが一匹、天井から私の肩に飛び降りてきて、さらに膝の上に飛んできた。そのとたん、今まで考えていた公案のことなど、どこかにすっかり忘れてしまい、再び、大徹和尚の所で見た偈のことを思い出した。
 そこで、さっそくそれに次韻(注・他人の詩と同じ韻字を同じ順序に用いて詩を作ること)し、疲れ果てた気持ちを取り直し、持ち合わせの矢立の筆で、この偈を自分の扇子にしたためた。そして、ふらふらとその部屋を出たときには、もう夜明け方だった。
 とにかく三週間このかた、ろくろく眠っておらず、家に帰って体重を計ってみると一貫五百匁(注・約5.6キロ)減っていたようなところだったので、ふらふらしながら洗面所に出かけていくと、早起きの老師が盥漱(注・かんそう。身を清めること)をしているところだった。
 そのとき老師は、めざとく私が偈を書いた扇子を見つけ、ははあ、次韻ができましたなと手に取り、ちょっと見て、よいとも悪いとも言わずに私に返された。
 しかし私は修行のことなどすっかり忘れてしまっていて、老師に向かい長々とご厄介になりましたが、今から帰京いたしますと言った。すると老師はそれがよかろうと言うだけで何もほかには言わなかった。それで私はそのまま清見寺を退出したのである。
 もともと禅学の修業というものは、言うに言われぬ不思議な仕事で、だんだんと鍛錬するにつれて、スリが他人の財布の中にいくらくらいの金がはいっているかを見てとるように、人が何を考えているかということを、すぐさま見てとることができるようになるのである。つまり、これは考えをひとつにまとめてしまう修業である。
 だから私などは、いますぐに寝ようと思うと、すぐに寝ることができる。これはいつでも雑念を断ち切ることができるためで、修行が進んでくると、そこになんとも言えない無限の面白味があります。


 以上の伊東氏の参禅談は、私にもなにやらサッパリわからないところもあるものの、またなにやら面白そうなところもあるので、ここに記して、読者の判断にお任せしようと思う。

 


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百七十四  小石川後楽園に就て(下巻94頁)

 明治天皇の御大葬に参列するためにフランス政府から派遣されたルボン将軍は、明治初年には陸軍顧問としてわが国の軍制に貢献するところがあったそうだ。また、政府が小石川の水戸徳川邸に砲兵工廠を設置しようとして後楽園取り壊しの評議があったとき、ルボン将軍が自国の例をひいて大都市に名園が必要な理由を説き、とうとうその提案を中止させたという伝説がある。
 だからかもしれないが、御大葬の使節として来日すると、さっそく後楽園に出かけたそうだ。そして昔のおもかげの残る部分だけを撮影し、帰国後に日本庭園の典型としてフランスで紹介するつもりだったようだ。
 ところで私は、大正元(1912)年十月二十六日に、所用で向島の水戸邸を訪問したが、そのときついでにルボン将軍のことを手塚家令に話してみた。
 すると家令は、「それで思い出したが、先ごろ陸軍省から、後楽園の旧園に関する記録や古記録を借覧したいと申し込んできたので、水戸の彰考館から同園関係書類を取り寄せて陸軍省に回付したが、それが二、三日前に戻ってきて、そのまま手元の留め置くように言われたので、ためしに一覧してみると、多数の書類の中に、元文年間(注・1736年~1741年)の、水戸藩臣の額賀信興(注・ぬかが)の手になる『後楽園記』というものがあった。それは当時の同園築造の状況をこまかく記した文書だった」ということだったので、ここに、その大要を記すことにする。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、適宜句読点をつけた)

  「後楽園記事」
 威公【水戸藩祖頼房卿】かつて山水を好ませ給い、江府(注・こうふ。江戸のこと)の御邸に、山水を経営せんとおぼしめし給い、徳大寺左兵衛に命ぜられ、よろしき地形を選ましめ給うに、小石川本妙寺、吉祥寺の辺、山水の営み、しかるべき地形なりといい、すなわち将軍家へ請わせられければ、台命(注・たいめい。将軍などの命令)ありて、やがて本妙寺を丸山(注・現在の巣鴨)へ、吉祥寺を駒込へ移させ給いて、本藩の御邸となる。その時この地、数百年の喬木(注・高い木)生い茂りて、人力の及ぶべからざる形勢なり、そのうえ大猷(注・家光)公いろいろ御物数寄(注・ご注文)ありてできたる御園なれば、威公にも甚だ御心を尽くさせ給いて潤色(注・整備)せさせ給い、自然のことをよろしとし、古木を伐らず、凹凸の地形に任せて、山水を経営す。伊豆の御石山、その他の山々より、奇異なる大石を取り寄せ遊ばされ、これをもって荘厳(注・飾り)となし給う。これもとより、大猷公の御心なるべし。地形によって、まず大泉水を開く。大泉水より東の方は、御屋形(注・館)に当たる。喬木繁茂して、棕櫚山に続きて、御屋形の見隠しとなれり。南に棕櫚山、木曽谷、竜田川、西行堂、桜馬場。西にまわりて、一つ松、硝子の茶屋、大井川、西湖堤、渡月橋、丸や、小盧山、観音堂、音羽滝、琉球山、大黒堂、得仁堂、通天橋、円月橋。北に当たって遠山あり、松原、福禄寿の堂、不老水、八つ橋、水田。そのほとり、稲荷の社、文昌堂、小町塚、河原書院、御能舞台あり。北西の隅に菓木の御園、内に庚申堂、萱御門の外、水車の楼あり。楼上に小廬山へ懸かれる水の筧(注・かけい)あり。大泉水に長橋かかれり。橋より西に蓬莱島、島の中に弁才天の祠あり。すべて園中の山水、喬木、老石、自然の形勢を備えて筆力の尽くすべきところにあらず。ひとたびこの御薗に遊ぶときは東西南北を分かつものなし。実に千山競秀、万壑争流(注・壑=谷)というべし。東福門院(注・徳川秀忠の五女で後水尾天皇の中宮)聞き召し及ばせられ、図に写して献ぜらるべき命これあり、進上おわしましければ、やがて後水尾院にも叡覧ましまして、御感斜ならず(注・感激もひとしおで)、これより天下の名園となる。大猷公の仰せに、水などは御心次第に引かせらるべしとて、親(注・はじめ)から御泉水の御指図どもありてければ、威公にもかたじけなく思し召されしが、義公(注・水戸藩二代藩主光圀)もまた、その御志を継がせられ、潤色もなし給えども、一木を伐り、一石を動かし給うことはなかりける。明の遺民(注・明国の遺臣)朱舜水、御園の名を選びし時、宋の范文正公の「士当先天下之憂而憂、後天下之楽而楽」の語を採りて、後楽園と名づけられ、御屋形より御園への唐門にも、右の三字を書して、扁額となせり。得仁堂、文昌堂、円月堂の類は、義公の御経営なり。ことにより改めさせ給いしものあれども、一木なりとも枯れたるは、年々御植え添えこれあり、大木を伐らせられたることは、かつてこれなかりけるぞ。松は別して御当家にいわれあることなれば、一枝をも伐られ給わざりけり。


 小石川後楽園は前記のように、フランスのルボン将軍の忠告によって、さいわいにも破壊を免れたという説がある。しかし一方で、山県有朋公爵が、例の築庭数寄のためにその破壊を惜しみ、保存することが決定したという説もある。
 私はいつかそのことを公爵に質問しようとして、ついに果たせなかったことが残念だが、いずれにしても、歴史的な名園が一部分だけでも東京に保存されたことは、まことに喜ばしいこと(原文「欣懐の至り」)である。
 震災後に、はたしてどのような様子になっているか、その保存や、利用について、今後識者が大いに考えるべきことであろう。よってこの機会にここに言及した次第である。


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百七十五  東京の庭石(下巻97頁)

 小石川後楽園の話が出た(注・174「小石川後楽園について」を参照のこと)ついでに、東京の庭石についての所感を若干述べてみたい。
 東京は武蔵野の原で、もともと石類にとぼしいところである。徳川氏が天正十八(1590)年八月に江戸に入府し、江戸城を築くためにほかの地方から石類を取り寄せたのをはじめに、ほうぼうに続々と建設された大名屋敷に遠国から庭石を運び込んだ。その数は相当多く、費用も多額にのぼったであろう。
 しかし交通が不便な時代であったから、たいてい運搬は海路で伊豆石や房州石を取り寄せたのである。かの根府川石のような、すべすべして雅趣に乏しいものや、磯石のような粗くて(原文「粗鬆」)打ち水が乾きやすいものが多かった。奈良や京都の庭石と比べて、一見してきわめて殺風景なのはそのためであった。
 その中にあって、小石川後楽園の庭石がほかの庭園より幾分優秀だったのは、その築庭者に石に対する造詣があったからであろう。
 この庭のあとは、徳川時代を通じて江戸府内に築造された庭園のいずれを見ても、駄石ばかりで見るに値するものはない。有名な本所の佐竹侯爵の庭でさえ、ただ大きな石があっただけで雅趣のある石は皆無だった。
 さて、どのような庭石を上等とし、下等とするのか。どこにある庭石を標準にして、その優劣を判断すべきなのか。
 私は、奈良、京都の石をもって、その答えにしたいと思う。
 明治二十七、八(189495)年ごろ、中上川彦次郎氏が永田町に邸宅を新築したとき、そのさきに、ボテボテした新造の大石灯籠を据え付けた。するとある人が、こんな新しい石灯籠は、ありがたくありませんねと批評したのであるが、中上川氏は例の調子で、「君はこの石を、古いの、新しいのと言われるが、これが果たしていつごろできたものであるかを知っているか」と言って、相手を大いに困らせたということだ。しかし、本来、庭石の新古というのは庭に移されてからおよそ何年と数えるべきものなのである。
 日本で一番古いものは、奈良、京都を中心とする五畿内(注・山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国)の神社仏閣や古宮殿にあるような庭石のことをさすのである。なかには千年以上を経ている古いものも少なくない。
 私は明治二十六(1893)年から大阪に滞在した三年間に、五畿内各地の古社寺、名所旧蹟を歴訪し、その庭さきにある飛石、捨石、つくばい、石灯籠、塔石などを見てまわった。そしてそれらの研究をするなかで尽きない興味を感じたので、明治三十一(1898)年に麹町一番町に家を建てたとき、奈良法華寺の大伽藍石を七個、法華寺形石灯籠本歌、鶴石、亀石、法華寺十三重煉石塔を一基、海龍王寺の団扇形つくばいなど、奈良にある数多くの古名石を買い取り、七トン貨車で東京に取り寄せたのである。これがおそらく奈良石を東京に移入した始まり(原文「嚆矢」)だろう。
 その後、向島徳川邸内の嬉森庵、四谷伝馬町の天馬軒、私が現在住む赤坂一ツ木の伽藍洞の庭園築造のときには、奈良の法隆寺、栄山寺、久米寺、山田寺、秋篠寺など、十七の寺の伽藍石を集め、飛石、捨石用に使った。
 それ以前に、岩崎弥太郎氏が深川清澄町の庭園を造られたときは、お手のものの船舶を使い伊豆地方から非常に大きな石を取り寄せた。それは現存する庭を見てもわかるように大勢の人の知るところではある。しかしながらそれらの石は、ただ大きな石というだけで。奈良石などに比べると、羊の皮千枚でも狐の皮一枚に及ばない(注・「千羊の皮は一狐の腋にしかず」)という、たとえの通りになってしまっているのである。


 私が一番町邸のために奈良石を取り寄せた約一年後、井上世外侯爵が内田山邸を築造するために奈良石を取り寄せた。横浜の原三渓氏が、桃山旧構の移築をしたときにも、同地方の石を搬入した。
 また大阪でも、藤田香雪男爵が網島邸の造営に当たり最大規模の蒐集を行ったので、古い庭石がほとんど底をつくという事態が起きた。
 そのときに至り、各地方自治体が史蹟保存の名目で、庭石、伽藍石の譲渡を禁止する方針を採り始めたため、もっとも雅趣に富む古名石は、もはやほとんど手に入れることができなくなったのである。
 このように奈良、京都の石が欠乏したので、私は、石理(注・せきり。石の構成組織)が細かく打ち水の乾きが遅い山石を探すことになった。
 関西においては、それまでに若干東京に搬入されていた鞍馬石、貴船石などのほか、新たに生駒石を採用した。関東では加波、筑波の山石が生駒とやや類似しているのでそれを東京に運んだ。
 その後、田中平八君が葺手町(注・現虎ノ門)邸の築庭を行う際、実に貨車七千トンの筑波山石を取り寄せたということだ。
 またほかにも、甲州石を取り寄せた者もあった。故村井吉兵衛氏の永田町邸のいくつかの大石などがそれである。
 このようなわけで、徳川初期以来現在にいたるまで、武蔵野の原に、他の地方から庭石を搬入した数量は、実に大きな石山をひとつ築くくらいはあっただろう。原っぱのどこにそれらの石が隠れているのかほとんど人目につかないのは、武蔵野が広いからでもあるが、庭石というのは使用するとき半分以上を土中に埋めてしまうからでもあろう。これからもどれだけ搬入されても特別に目立つということはないだろう。
 ただ、私のような庭石そのものを鑑賞の対象にする者が鑑賞者として希望を述べるとすれば、今後石を運び入れる人々が、石の質をも十分に研究してくだらない駄石を大量に搬入することがないようひとえに願いたいものである。


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百七十六  銅像に就ての所感(下巻101頁)

 東京に初めて建てられた銅像がはたしてどこのものであるのか、私ははっきりとしたことを知らないが、明治二十四、五(189192)年ごろに九段の招魂社の社殿前に建立された大村益次郎氏のものはかなり早いほうだっただろう。
 その銅像は、大熊(原文「大隈」)氏広氏の製作によるものだが、私は明治二十二(1889)年の秋、ヨーロッパから大熊氏と同船で帰国したので、この銅像製作の最中にはしばしば氏と面会して製作に関する苦心談をきいたことがある。
 大村氏には満足のいく写真がなかったので、氏の知人や親族によってその容貌を研究したそうだが、非常に額が長い人で、眉毛を中心にその上下がほとんど同じ長さだったという。銅像の片手に双眼鏡を持っているのは、九段の高台から彰義隊の立てこもっていた上野方面を観望したときの姿なのだそうだ。
 その後大熊氏は、福澤先生の座像も作られた。このときは私も共同世話人のひとりで、銅像ができあがったとき大熊氏から、先生の容貌が普通の人とはかなり違っていて写実をするうえで非常に扱いにくい顔だったという理由も聞かされたが、とにかく先生の気に入らなかったので、私も非常に当惑したということがあった。
 その後いろいろな場所に建立された銅像の中には、だんだんに出来のよいものも出てきたようだが、日本では、製作する者も製作させる者も概して不慣れなために、これは、と感心するようなものが非常に少なかったものだった。
 しかし、大正元(1912)年十月十二日、品川の海晏寺で除幕式を行った梅若実の銅像は、それまで東京の各所に建てられた銅像の中で、その姿はほとんど無類の上出来だった。それもそのはずである。翁が右の手に扇を持ち今や踊り出さんとするところであり、長年鍛えに鍛えたその芸術的な態度が普通の人には及びもつかないものだったからだろう。
 この銅像の建立については、私も発起人のひとりとして当日式場列席した。その高さは五尺四寸(注・約163センチ)で、台石を合わせたら十一尺(注・3.3メートル)だった。その台石の背面には股野琢氏の撰文(注・文章を作る)で、次のように刻印されていた。

  翁少壮遇世変 独力維持能楽 演習弗懈(注・弗懈=怠らず) 遂克挽回頽勢 其功其技 古今希匹 因同志胥
(注・胥=助ける) 茲表彰之云


 本像の製作者である沼田技師が語るところによると、この銅像は当然翁の没後に設計したものだが、万三郎の姿が翁にほとんど生き写しなので、それをモデルに三回ほど写しとり、その容貌体格はもちろん、袴のひだにいたるまで、生前の翁そのままを表現することができたことは非常に幸せだったということであった。
 とにかく、銅像というものはのちのちまで残るものなので、姿かたちが似ていることだけに囚われて、実物よりも劣っている物体を遺してしまうのは、故人にたいしてまことに気の毒だ。上野台の西郷の銅像なども、ふだんの生活の様を写そうとする意匠に囚われたばかりに、陸軍大将だったこの人の威厳を顧みることがなかったのは、おおいに考えものではなかろうか。
 また、数年前に、目黒の恵比寿ビール会社の構内に馬越恭平翁の大銅像を建設してその除幕式が行われたとき、清浦奎吾伯爵が演説をして、「自分は従来銅像を好まぬ一人である。東京市中に於ても、建設その場所得ずして、頭に鳥の糞が掛かっている銅像を見受け、思わず顰蹙(注・ひんしゅく)するものがないでもないから、後来、銅像建設を発起する人々は、かような失態を招かぬよう、大に注意しなくてはなるまい。もっとも今度の銅像は当社構内に建てられて、その保護についても、大に他と異なるものがあろうから、これはまったく例外として、その他一般の銅像はなるべく必要やむべからざるものに限り、粗造濫設を戒めざるべからず」という趣旨を述べられた。
 私は、清浦伯爵の意見に同意すると同時に、銅像製作者に対してさらに希望したいことがある。先ごろ、陸軍省構内に建設された山県有朋公爵の騎馬銅像の鋳造の前に、その石膏の段階で、それぞれが所見を述べよということで、委員となっていた人たちが工作場に集合した。その際、故人の特徴を表現しようとするあまり、かえってその欠点がきわだっていることがなきにしもあらずだったので、なるべく長所や美点を目立たせるようにして、似姿とともにその品格風貌を伝えるよう特に注文をしておいたが、これ山県公爵のものにとどまらず、銅像一般についてそのような点に留意されるよう願っている。
 というのも、あるところで背の低い実業家の銅像を見かけたことがあり、小高い台の上に載っていたので、下から仰ぎ見るとまるで奇形の大黒天を見るようで、このような銅像ならむしろ作らないほうがよいのではないかと思ったことがあったからだ。
 日本では昔から、碑文によって故人の遺徳を称揚するという方法がある。中途半端な銅像を作るよりも、石碑のほうがかえって崇敬の念を深くすることがあるということは、かの清水谷公園内にある大久保利通卿の記念碑などがよい例である。
 私は、将来の参考のために、ここにいささかの所感を披歴する次第である。


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百七十七  群書索引 広文庫(下巻104頁)

 大正二(1913)年一月九日のことだった。文学博士、物集(もずめ)高見翁が、私の一番町宅に突然やってきた。そして諄々と語ったのは次のようなことだった。(注・わかりやい表現になおした)
 「自分は長らく帝国大学の国学教授の仕事をしてきたが、明治十九(1886)に伊藤博文公爵が憲法制定のために日本の風俗習慣を調査しようとしたとき、その関連の書物や、そこに記載されている事項を探すのが困難であるという状況について聞き及んだ。そのとき、強く奮起する気持ちを感じて、日本の群書索引の編纂を思い立ったのである。
 それは、たとえば、牛乳に関するさまざまな故事来歴を調べたいと思ったときに、仏経典の中にある、釈迦が牛乳を飲んだことなどをはじめとして、牛乳に関することが出ている書籍の原書名と、それがどのページに出ているのかを一目瞭然に示すことをめざすものである。
 しかし、その原書名を明らかにすることができても、その書物が世間にあまり流布していなかったり、またはすでに消滅して現存しないということもあり、その場合は参考にすることができないわけで、索引があるだけでは用をたさない。
 よって、さらに「広文庫(注・こうぶんこ)」というものを編纂することにした。そこでは、たとえば牛乳については、これこれの書物に、かくかくの記録がある、というふうに、必要な箇所を抜粋することにしたのである。
 この広文庫は、一冊につき二万六千字の原稿が千部にまで達した。つまり、二千六百万字の大部になったのである。(注・参考までに、現在の新書サイズの本は一冊につき10万字が目安といわれている。つまり広文庫は新書で約260冊の分量ということになる)
 このような大部のものは、いまだかつて例を見ない。これまでの日本において、浩瀚(注・こうかん。書物が大部であること)な四大著述と呼ばれていたものは、

第一に、滋野貞主が、仁和朝の時代(注・正確には9世紀前半の淳和天皇の時代である)に編集した「秘府略千巻」現在は完全に消滅した(注・完全に消滅したとあるが、写本が二巻のみ現存しているようだ)、

第二に、徳川光圀編纂の「礼儀類典」(注・引用書目233収載項目は234の朝儀公事にわたり全515巻)、

第三に明和時代(176472)の山岡明阿(注・山岡浚明(まつあけ))が編んだ「類聚名物考三百六十巻」、

そして最後に、屋代弘賢の「古今要覧六百九十巻」である
 

 だが、広文庫は、この四大著作を全部合わせたよりも、もっと浩瀚なものである。

 さて、この群書索引と広文庫は、最近になってようやく脱稿することができたが、それを出版するためには多額の金が必要なので、これまで編纂のために参考にしてきた書画や古器物を売却してその費用に充てるつもりである。京都の林新助、世にも頼もしい道具商であると聞いたので、あなたの紹介をもらって彼に面会したいと思う。そして、これらの品物を売却する目処を立て、一日も早く、ふたつの書物の出版事業を完成させたいのである。」
と言われた。
 私は、翁が独力で、長年にわたってこのような大事業に従事したという気概に感じ入った。またその五尺に満たない(注・150センチ以下)小柄な老人の儒学者が、よぼよぼしながら自著出版のためのわずらわしい俗務に奔走しているのを見て同情する気持ちが湧き起こった。
 そこでさっそく林に紹介状を書いた。聞くところによると、翁の所蔵品は約四百点ほどで、なかには好古的参考になる貴重な品物もあるということなので、できるだけことがうまく運ぶようにと希望しておいた。
 さて、この日の同翁の話では次のようなこともきいた。
 「今日にいたるまで、日本では群書索引のようなものがなかったために、ある故実(注・昔の儀式・法制・作法などの決まりや習わし)を調べようとしても不便きわまりなく、非常に遺憾なことが多かった。
 たとえば、かつて穂積陳重博士が、民法上で隠居について考証しようとしたとき、日本古来の法令式目を参照しようとして材料を探したが非常に困難なことだった。そこである日自分に相談があったので、以前に調べてあった「隠居」の項目を博士に見せたのである。博士はその幅広い調査に驚き、自分でこれを調べていたら半年以上もかかることが、わずか五分で明らかになったととても喜ばれたのである。
 今や、東京の図書館に出入りする学生や学者の数は一日平均で三千五百人程度だと思うが、三千五百の読書人が、かりに一日二時間を読書に費やすとすると、七千時間になる。この七千時間を有効に費やすか無効に費やすかで能率に大きな違いが出るが、現状では群書索引がないので、当てずっぽうで手当たり次第に書籍を探しても結局答えに行きつかないということが多々ある。
 もし索引が出版されれば、それによってあらかじめ目標を定め、調査の鍵を握ってから図書館に向かうことができるので、簡単に用を済ませて読書の時間を有効に使うことができるわけだ。われながら、これは社会にとってかなり有用なものなのではないかと信じるのである。」

 
 それからおよそひと月たち、物集翁が再び私のところにやってきた。そのときには、群書索引の「コ」の部と、「キ」の部を持参し、それらについて自ら説明してくれた。

 なるほど精密な調査ぶりで、この編纂にはさぞかし苦労されただろうという思いを深めた。
 私は、広文庫と群書索引の出版について気づいたことを述べ、かつて「大日本史」のかな文翻訳を出版したことがある安藤守男氏に相談してみたら、よいアイデアが出るかもしれないと思い、翁を安藤氏に紹介した。

 出版までには、いろいろな経緯もあったのであるが、その後相談が進んだとみえて、翁の生前だったか死後であったかは私は正確なことを知らないものの、とにかく翁の大著が刊行されたのである。(注・大正5~7年にかけ、翁の生前に全20冊で刊行された)


 この書物が、読書界に大きな利便を提供していることは私にとっても非常にうれしいことであるから、それが出版されるにいたる前に、翁からじかに聞いた編集についての苦心談の一端をここに記述して、今後の参考にしてもらおうとする次第である。


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百七十八  井上侯の財政追憶談(下巻108頁)

 井上世外侯爵が、明治の初年に大蔵大輔として財政上に辣腕を振るわれた顛末については何度か聴聞したことがあったが、大正二(1913)年一月十八日に今一度その機会が訪れた。
 この日は、井上侯爵がこのほど拝領した明治天皇の御遺物の六点を拝見するために、内田山邸を訪問し午餐をともにしたのち、珍しく来客がとだえたときにきくことができたもので、従来の話よりも簡潔でよく要領を得ているのでここに掲載することにしよう。(注・以下わかりやすい表現に変えてある)

 「維新のはじめ、自分が大蔵大輔として財政の局に当たったときには、大久保利通が大蔵卿であった。そのころの外国貿易では、メキシコ・ドル銀貨を持ってきて、日本の二朱銀、一朱銀と引き換えて通用させていた。ところが日本の二朱銀、一朱銀は多量の金分を含んでいるため、貿易のために使うのではなく、その金を含んだ日本銀をメキシコ・ドル銀貨で買い集めて、(注・両者に含まれる金銀量の差で)大儲けをすることが行われていたのである。
 明治四(1871)年に、岩倉大使が欧米巡遊に出かけるとき、自分は伊藤に六百万両の銀を託してサンフランシスコに送り、そこで分析させたところ、案の上、多量の純金を得ることができたので、運賃と利息を差し引いても、まだ多くの利益を得た。
 そこで自分は、この銀を紅葉山の御蔵に納め、三条公(注・三条実美さねとみ)をはじめとする政府首脳たちに調印させて、これは太政官紙幣の準備金に充てるので、なにがあっても使用をしないということに決定したのである。
 ところが、その後政府の費用がどんどんかさみ、太政官紙幣を発行すればするほど、その紙幣の価値が下落していった。そこで自分は三井組に命じて、三井為替券を発行させたのである。
 ところが、三井為替券もまた非常に下落してしまったので、同僚からいろいろと攻撃された。ことに江藤新平などからは、三井に為替券を発行させるから、ますます紙幣が下落するのだと突っ込まれた。
 それで自分は非常に憤慨して、ならばその三井の為替券を三日間で額面通りにしてみせよう、と言い出したところ、ではお手並みを拝見しようと言い返され、引くに引けなくなってしまった(原文「騎虎の勢い黙止するを得ず」)。
 そこでまず、蛎殻町の両替屋に行き、袂(注・たもと)から三井の為替券を取り出し、これを両替してほしいと言ったところ、やはり一割五分くらいの割引料を要求する。そこで、その両替商の名前を手帳に控え、すぐに、そのときの東京府知事の大木喬任氏のちに伯爵を訪問して「両替商が政府発行の為替券に差をつけるのは不都合である、さっそくこれを召し捕るべし」と談じ込んだ。
 次にその足で円太郎馬車を横浜に飛ばし、まずは富貴楼に陣取って、田中平八、すなわち糸平を呼び寄せた。
 そして「自分は仔細あって三井為替券を買い集めようと思うので、新貨幣で五十万円ほど買い入れてもらいたい」と依頼した。糸平はさっそく承知して、それを買い入れてくれたが、そのとき大阪造幣寮で製造中の新貨幣が間に合わなかったので、糸平から非常に怒られたという滑稽談もあったのであるが、しかしともかくも五十万円分を買い入れたので、三井の為替券は、たちまち元値に回復し、自分は幸いにも面目を保つことができたのである。
 かの紅葉山のお蔵に封印した正貨についてであるが、どんなことがあっても使用しないと決めてあったのに、江藤新平が裁判所構成法なるものを作り、裁判官を終身官にするために、あの正貨を使用するべきであるという建議をした。自分はさかんに異議を唱え、今日のような無能な裁判官を終身官にするために財政の基礎とするべき大切な準備金を使用するなどとは、もってのほかである、と主張した。しかし他方面からも、この正貨を使用しようではないかと言い出した者もあったので、自分としては、苦心惨憺して準備したこの正貨を使用することに耐えられず、このような財政について疎い役人どもと一緒に仕事をすることを潔しとせず、きっぱりと民間に下り、一生政府関係の仕事には関わらないという決心をした。
 そして渋沢(注・渋沢栄一)とともに財政上の意見を建白し、同時に、その趣意を二、三人の新聞記者に話したところ、政府は、自分が機密を漏らしたとして裁判所に呼び出した。そのときには、もろもろの弁論の末に二円五十銭の罰金を課せられた、などということがあった。
 さて、自分が政府を飛び出したのは明治六(1873)年であった。その後大阪に行き、先収社という商会をはじめた。藤田伝三郎。木村正幹、益田孝らのほかに、アメリカ人のアーウィン(注・ロバート・W・アーウィン)などを加え、アメリカ一番商館(注・ウォルシュ・ホール商会)から、一時は七十万円ほども借金して、おおいに商工業を行うつもりだった。
 しかし明治八(1875)年に朝鮮事変が始まると、政府側からの懇願で、黒田(注・黒田清隆)が大使、自分が副使となって朝鮮に赴くことになり、やむをえず、先収社は解散することになった。
 そのとき、純益金が四万円ほどあったので、それをすべて関係者に分配し、自分は朝鮮事変の決着をつけてから、明治九(1876)年にイギリスに行った。
 イギリスでは経済関係の調査を行っていたが、その最中の明治十一(1878)年に、大久保が暗殺されたというので政府から呼び戻された。それ以来、ついに外務省にはいり条約改正の仕事に尽力することになったのであるが、明治初年の財政は貧乏所帯のやりくりで、その困難さは、なかなか言葉で言い尽くせるようなものではなかったのである。」

 以上が世外侯爵の追憶談である。侯爵はこの追憶談を語られてから九日目の、一月二十六日に脳溢血を発症されたのである。侯爵が、複雑きわまる財政談をされたのは、あるいはこれが最後だったかもしれない。この談話は明治初年の財政情勢について将来の人々の参考になることもあるかもしれないので、ここに大要を書き留めておいたのである。
 


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百七十九  内田山掛物揃い(下巻112頁)

 井上世外侯爵は大正二(1913)年一月二十六日の早朝、自邸の湯殿(注・風呂場)で冷水浴中に軽度の脳溢血にかかった。発病当時は左の手足がきかず、談話も不明瞭になった。
 同二十九日、私が吉本博士の許可を得て侯爵に面会したときには、「あまり悪口などを利くものさに、とうとう病気になってしまったよ」と打ち笑い、左手を上下して「どうしてもまだ自由にならず、ものをつかんでも感覚がない」と訴えられた。
 しかし二月にはいっておおいに元気を回復し「相手欲しやの状態になられたので、なんとか病中のつれづれを慰めてさしあげたいと思った。侯爵はかねてから清元が好きで、お若をひいきにされていたので、私は河東節の「東山掛物揃い」にならって「内田山掛物揃い」という曲の作詩をして、五世延寿太夫に節付けを依頼した。
 三月上旬にその曲ができ上がったので、いよいよ演奏の準備を整えることになった。築地瓢家の女将(注・お酉)を世話人にして、三味線はお若、丸子、唄は〆子、花吉、やま子に振り当てて、九日の午前十時から、侯爵の病床がある光琳の間で、掛物揃いの新曲披露をすることになったのである。
 その日の陪聴者として、平岡吟舟、野崎幻庵、原田次郎(注・軍人の原田次郎ではなく、第74銀行頭取の原田二郎のように思われる)、今村繁三、その他婦人客数名を案内した。
 侯爵は、床に銭舜挙(注・銭選)筆の宮女牡丹花の一軸を掛け、砧青磁の筍形花入に白玉椿を活けなどして喜色満面。耳を澄ましてこれを傾聴された。歌詞、曲は次のとおりであった。

   内田山掛物揃い
(エドカカリ)久方の月まつ山の (合)下庵いほに (合)数寄をこらせし故事を、今も都の内田山 (オトス)けふまれ人をむかひつつ、掛けつらねたる名画の数々、あたりまばゆき (スエル)ばかりなり。

先ず周文の間に掛けたるは、むかし蒙古の大軍が、皇国に仇せし其時に (合)土佐の長隆一心に、敵国降伏の祈誓をこめ、画ける不動の尊像にて (合)降魔の剣を打ふつて (合)雲を蹴立てて飛びゆく有様 (合)如何なる天魔おにがみも、畏れつべうぞ見えにける。
(クドキ合)また光琳の間に掛けたるは (合)徽宗皇帝の御筆にて、(カン)桃の梢に鳩ひとつ、春の日かげのやはらかく、羽色にうつる (合)筆のあや、(オトス)風情をここにとどめたり。
(イロ)さて御居間は一休が、悟りごころの面白く、杖をかたげて (合)丸木橋を渡る旅人、下は谷底 (合オット)あぶない (合)すでのこと、浮いた浮世の綱渡り、さつてもこのよなものかいな、粋な和尚の筆すさみ。
(ウキギン)八窓庵は、西行が江口の里に行きくれて、賤が軒端にただずみつ、一夜のやどりを乞ひけるに、あるじと見えし、あそびめが、情なぎさのことはりに (詞)『世の中をいとふまでこそかたからめ仮りのやどりを惜む君かな』と口吟めば、あるじは之を聞くよりも (山田)『世をいとふ人とし聞けば仮りの宿に心とむなと思ふばかりぞ』と心ありげの言の葉に、露をもやどす草枕、仮寝の夢ぞ奇特なる (二上り)面白や、さしも江口の河船に、遊女のうたふ棹の歌、うたへやうたへ、うたかたの、あはれ昔の恋しさよ (ツツミウタ)是までなりといふ浪に、浮べる舟は、忽ちに六牙の象の姿となり、普賢は之れに打乗りて、西の空へと行き給ふ有りがたかりける次第なり。
(カカリ)花月の間には、南蘋か朝日に鳳凰をぞ掛けにける (ウタヒ)まことや聖人ひじり世に出づれば、此鳥奇瑞をあらはして豊栄とよさかのぼる朝日子の影に羽をのす豊けさは、実に治まれる大御代の、姿もかくやと、一同に感ぜぬものこそなかりけれ。

 河東節の「東山掛物揃い」は、近松門左衛門の作であると言い伝えられ、河東節の中の白眉であるが、作者は、君台観(注・足利義政東山御殿内の装飾に関して能阿弥や相阿弥が記録した美術工芸史「君台観左右帳記」)を参考にしたとは思われず、とにかく、事実に即した文句ではない。
 しかし私のものは、井上家の秘蔵品の中から五幅を選んだものである。 
 周文の間には、土佐長隆筆の蒙古退治不動(注・蒙古襲来絵詞の一部か?)、光琳の間には徽宗皇帝の桃鳩図、御居間の床には一休和尚の丸木橋渡り、八窓庵には西行法師の江口の歌、花月の間には沈南蘋筆の朝日に鳳凰の図を掛けて、めでたく一曲を語り納めるという構成であった。
 作曲者も歌意をくみ取り、発端では勇壮、中間は上品かつ艶麗。その後、幽幻清寂にはいり、典雅荘重の趣をもって終局を迎えるよう苦心したようだった。
 そのころは、新橋の清元が美声ぞろいで同流の最高潮に達したときだったから、曲が終わるや、世外侯爵夫妻をはじめ一同は感じ入り、ヤンヤの喝采がしばらく鳴りやまなかったものだ。
 場所といい場面といい、またその演奏者といい、すべてに非の打ちどころがなく、このときのような女流演奏家たちの清らかな調べを聴くことは、私の生涯にもう二度とないだろうと思われた。


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百八十  実験上の宿命観(下巻115頁)

 私が明治十四(1881)年に上京してから、今日にいたるまでの五十年余りのあいだに接触の機会があった大人物の中には、維新の前後に死生の間で奔走した人々が多い。これらの人々は、ことさらに学んだというわけでなく自然の巡り合わせから、禅宗の、いわゆる「大死一番」、「底の境地」を経験し、知らず知らずのうちに悟りの道に達したものか、大事に臨んで驚かず泰然自若の趣のあることが多い。
 あるとき井上世外侯爵が、維新の前に伊藤博文公爵とともにイギリスに遊学した時の船の中での経験談を語られた。その中で次のような話をされた。(注・一部わかりやすい表現に変えた)
「自分と伊藤は英国の帆前船に乗り込んで、まず上海まで出かけたが、このとき船長が、なんの目的をもって渡英するのかと自分たちにきいてきたのを、その身ぶりによってだいたいの意味をとることができたので、航海術を研究するためだ、と答えるつもりが、英語を話すことができない。自分たちは、ネビゲーションという語が航海という意味だということだけを知っていたので、その語を何度も振り回したところ、船長は早合点し、ふたりが水夫の見習いになりたいのだと思い、そのときから自分たちは、インド洋を過ぎ、喜望峰を回り、英国に到着するまで、甲板上で水夫のやる仕事を言いつけられたのである。
 喜望峰に近づいたころ非常に大きな嵐に遭遇した。波が甲板を洗い、すさまじく荒れ狂っているので、自分たちは、細縄で体をマストに結びつけながら立ち働いていた。そのとき、ひとり強情な水夫がおり、そんなまねをしたくないと言って威張っていたところ、たまたま非常に大きな波が来て彼をさらっていってしまったので、さてさて気の毒なことをしたと思っていると、今度はその大波が揺り返してきて彼はふたたび甲板に投げ上げられ、彼はマストに取りついて奇跡的に一命をとりとめたのである。
 それを見て自分は大いに悟るところがあった。人間というものは、生きようとしていても生きられるものではなく、死のうとしても死ねるものではない。これはみな天命が定めるところなので、安んじてこれに服従するよりほかはないと思ったのである。」

 また私は、山県含雪公爵からも、これとほとんど同様な懐旧談を聞いたことがある。それは次のようなものだった。
 「長州藩が攘夷実行のために、元治元(1864)年に下関で、イギリス、フランス、アメリカ、オランダの連合艦隊と戦闘した。そのときの本営は前田に、支営は壇の浦に置かれた。
 自分は壇の浦の砲台を守備し、最初は外人の砲撃など大したことはないと、たかをくくっていた。しかし八月五日、連合艦隊は前田砲台と壇の浦砲台に向かって、さかんに猛撃を開始した。
 そのとき先方の軍艦は、わが射程外にあり当方の弾丸は先方に届かず、先方の弾丸だけがわが砲台に命中するので、前田も壇の浦もさんざんに攻撃され(原文「這々の体に打ちなされ」)、翌六日には壇の浦がとても持ちきれなくなったので、自分は兵をおさめて前田の本営に引き返した。
 そのときの陣営はほとんど焼け落ち、外国陸戦隊がすでに上陸し始めていたので、士気ははなはだ振るわず逃げ腰の者も出てきた。
 そこで自分は、敗兵をまとめてしきりに防戦を試みたが、武器の性能の違いが大きく非常な苦戦に陥った。
 さて自分が手槍を杖にして前田の本営に立ち上がったとき、急にのどの渇きを覚えたので、焼け残りの木材に腰かけ、鉄砲でも洗ったらしい手桶の中に煤だらけの水があるのを見て、これでも飲もうと前方に身をかがめたその瞬間、敵弾一発が背中をかすめ、腰につけていた握り飯の包みを打ち抜き背中と右腕にかすり傷を受けたのである。
 もしこのとき身体が直立していたならば、ちょうど胴のまんなかを射抜かれていたはずであったのに、煤けた水を飲もうとして前にかがんでいたばかりに、幸い命拾いをしたのである。
 そこで自分は、死生には天命あり、死ぬときはいかに用心しても助からず、生きるときには偶然にも危機を免れるものであると、しみじみと人の運命を悟ったのである。」

 ナポレオンの伝記に書いてあるそうだが、彼が戦争で、弾丸雨飛をものともせずに、悠然として砦の壁の上に立ち、双眼鏡で戦争のありさまを眺めていた。そのとき、傍らで砦の壁の陰から目だけを出して戦争を見ていた幕僚の一士官が、飛んできた弾丸に額の真ん中を打ち貫かれて即死した。
 ナポレオンはそれをかえりみて、おれのように壁の上に立っていれば、たとえ弾丸が当たっても急所を避ければ死なずにすむのに、臆病なまねをするから、かえって命を取られるのだ、とののしったそうである。
 これもまた、ひとびとの運命の強弱というもので、たおれる者はそれまでである。生き残った者が最後の勝利を占めるわけなので、じたばたしてもどうすることもできないものなのだ。
 このような宿命観は、大死一番の境涯を通過することにより、自然に悟り得るものなのだろうか。私の経験では、維新前後に活動した英雄豪傑の中に、そのような覚悟を持つ人々を非常に多く見出すような気がするのである。

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