だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 161‐170

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 百六十一   

明治天皇崩御前(下巻48頁)

 明治四十五(1912)年七月二十日午後、新聞号外が聖上陛下の御病状を報道した。その記事には「去る三十七年末より、陛下には糖尿病に罹らせられ、三十九年一月より更に腎臓炎を併発、岡(注・玄卿)侍医等、御療養に手尽し居りしが、去る十七日より御容体宜しからず、今日に至りて、四十度五分御発熱あり、一同驚愕、三浦(注・謹之助)、青山(注・胤通)両博士をして拝診せしめしに、御病状は尿毒症なり」とあり、日本国民は初めてその報道を耳にしたその日から、同三十日早朝の「聖上陛下には、本日午前零時四十二分崩御せらる」という新聞号外を見るまでの十日間、一同憂愁に満ちて食事も喉を通らず物も手につかず、御容体書の号外が出るたびに胸をどきどきさせながらその御経過を懸念した。全国いたるところで神社仏閣に祈誓をしたり、宮城前で参集したりしてただたた御平癒を祈願するなど、見る者も聞く者も涙ぐましい光景を展開したのである。
 私はそのころに時々来宅された宮内省侍医の鈴木愛之助氏から陛下の御容体を伝聞していたが、二十六日午後の氏の話は次のようなものだった(注・文体を現代文になおす)。 
「聖上陛下の糖尿病と腎臓病は、四、五年来の慢性で、毎日大小便の分析を行わない日はなかったが、去る十九日にはどうしたことか、終日便の御下付がなかった。これは、その日に御便通がなかったためで、その晩からいよいよ御重患となられたのである。聞くところによると、日露戦争間際には、陛下の御心配は非常なものだったものとみえ、戦争がまさに起きそうになった十日ほど前から、御食事がほとんど御平常の三分の一に減ったために、侍医は御病気ではないかと、しきりに案じたが、女官から御病気ではないとの忠告があった。これは、国事に御心配の結果で、国交断絶の当日には、終日まったく御食事なさらず、侍医局でも非常に御案じ申し上げた。事が決定した翌日からは、もはや御安堵遊ばされたのか、御食事も元どおりになったが、腎臓病は非常な心配の結果で、また心配によって、その病勢が増す例が多いので、日露戦争は陛下の御健康の上に、非常に影響を及ぼしたものと思われる。今回の御病源も、おそらくそのときに萌したものだと思われ、まことに恐れ入ることなのだ云々」

私は、この話を拝聞し、いよいよ恐懼したものだったが、同二十八日に鈴木氏が来宅し、今朝、御所にて玉体の御模様を拝したとき、御容体が非常に険悪であったというのを聞き、早くも御大漸(注・帝王の病気がしだいに重くなること)なのかと失望するあまり、

  明らけく治め給へる大御代も 今がかぎりとなりやしぬらん

と口ずさみ、ただ痛嘆するほかなかった。

 

崩御後の感慟(下巻50頁)

 七月三十一日の新聞紙上は聖上御崩御に関する記事で満ちていた。その一方で改元について、公羊伝に君子大居正とあり、また易経にも大享以正天之道也とあることから、本日より大正と改元される、という記事もあった。
 陛下の盛徳大業は御一代を通じて数限りないので、今後、御大葬まではこれに関するさまざまな記事が続くだろうが、人のなすことの大小というものは世間に及ぼす反響の大小によって判断することができるものだ。池に小石を投げ込めば、その波動はわずかに一部分にとどまるが、もし大石を投げ込めば、ただ池の全面が動揺するだけでなく波は何度も繰り返し長いこと停止することはない。
 今回の御事のような、わが国においてほとんど比類のない大変な事態では、ひとびとの心に及ぼす波動の大きさは多くを語る必要もないことなのである。
 先帝は御幸運で、御聖寿(注・ご寿命)にも恵まれ(原文「万々歳」)私などは、明治の年号のあいだに一生を送ることになるのだろうと思っていたのに、今や明治は過去となってここに大正の年号を迎えたのである。古歌に、

   さくら色に染めし袂の惜しければ 衣更へうき今日にぞありける

とあるように、私たちは、明治の古い衣を脱ぎ捨てて大正の新しい服に着替えるのをとても名残惜しく感じたものである。このような感覚は、実際にあのときに出くわした人でなければ感じることができないものだと思う。
 大帝崩御の数日後に山県含雪公爵を訪問した友人の話では、ふだんは気丈な老公も今度は非常に落胆し、伊藤などは早く死んで、今日の悲痛を知らなかったのはしあわせ者であると言われたという。御大喪の歌は、普段の公爵に似合わず、

   ましまししそのおもかげは老の身の 夢にうつつにはなれざりけり

の一首だけだったということである。
 


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百六十二  明治大帝の御性行(下巻52頁)

 明治大帝陛下の崩御から御大葬までは、新聞の記事は言うに及ばず、人が二人、三人寄ると触わるとこの話で持ち切りになったものだ。しかし時がたてばこの話も消え失せてしまい語り継ぐ者もいなくなってしまうと思うので、当時私が耳にした二、三の興味深い話を書き留めておくことにしよう。(注・以下、旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらため、一部の漢字をひらがなにした)

子爵、石黒忠悳氏の談話。

「大帝陛下が日清戦役中、広島の行在所(注・あんざいしょ。天皇の外出時の仮宮)に在せしとき、十畳敷きの二室にて軍務を聞き召され、隣室が御寝室となっていて、あまりに端近く外間の物音が騒々しいので、事務官らが心配のあまり、あるとき御座所と離隔するため、新たに板塀を造って置いたところ、陛下はこれを御覧みそなわして、元のままにて苦しからねば、塀は取り払ったが宜いとの御沙汰であったから、事務官は仰せ畏みて、早速その塀を取り払ったが、由なきことをしでかして、なんとも申し訳なき次第なりと、恐懼措くところを知らざりしに、その夕刻、何方よりか献上の鮎を、供御の余りなりとて、この塀を造りたる事務官に賜わりければ、事務官は案に相違して、はじめて安堵の思いをなしたりという。これを伝え聞いた人々は、陛下の大御心の隅々までも行きわたらせられて、臣下に対する思いやりの深きに、感泣せざる者はなかった。」
 

御歌所の大口鯛二氏から直接きいた話。
「陛下は宮中において、一度定めたること、一度用いたるものは、すべてこれを変更することを好ませられず、たとえば御膳部にても、時候のものは毎年先例どおりにして、さらに新しきものを差加うるを許さず、また宮中の御召使は、本人より願い出づるのほか、一切罷免の御沙汰がなかったが、陛下が政務上必要のほか、容易に宮城を出でさせられなかったのも、また皆、この変更を好ませられぬ御性格によるものであろう。しかして唯一の御楽しみは、和歌を詠じ給うことで、この最も多き時は、一日に百六十首にのぼりたることあり、あるとき宮内大臣田中光顕伯が、御歌所に来たりて、陛下よりその日御下付になった御製を拝見せしに、やはり百首以上に達していたので、かつて聞き及びたるとおりなりとて、大いに驚かれたことがあった。かく御多作のため、高崎御歌所長も即座に拝覧することあたわず、時経て遅れ馳せに拝見の分を差し出すものが多かった。そのころ御製六万首にのぼりたりといい、のちまた、七万首にのぼりたと聞きたるに、今度ある新聞には、九万首の多きにのぼれりと記したるものあり、事実如何は知られざれとも、とにかく日本開闢以来、一人にしてかくのごとき多数の和歌を詠み出でられた事例なく、御歴代においても、天皇歌を詠じ給えば、皇后に御詠なく、皇后和歌を嗜ませ給えば、天皇に御製なきが多く、明治大帝のごとく、皇后陛下とともに国風に御堪能なりしは、実に前代未聞である云々」

 

また、ある宮内官の話。
「大帝陛下の御晩年、ある者より熱帯地方の果物マンゴスチンを献上せしに、陛下はその形を愛でさせられ、中味をえぐり抜きて、外部を陰干とし、やがて固く干しあがりたるところを、漆にて塗りつぶし、みごとに蒔絵して刻みたばこ入れを作らせられ、のち、これを侍臣に賜ったことがあった。ところでその後、前例にならい、大きな西瓜をえぐり抜きて、陰干となさんとて、御学問所のひさし先に吊るし置かれしに、おりからの霖雨にて、その西瓜が腐敗せしものと見え、陛下が縁先を御運動の時、御沓の響きにて、その西瓜が地上に落ち、めちゃめちゃに砕け散ったのを、御覧になった陛下は、平常あまり笑い声などを発し給わぬのに、このときばかりはカラカラと笑わせられ、幾回も思い出しては、笑い止め給わざりとなり。」
 

御歌所長高崎正風男爵から直接きいた話だという、ある人の話。
 「明治十年ごろ、自分は岩倉右大臣に申し出でて、明治大帝御教導のため、夜話ということを始め、副島(注・種臣)、吉井(注・友実)、土方(注・久元)その他、時の老臣を御前にして、夜話の会を催すこととした。その因由いわれは、人には五倫(注・「孟子」の守るべき五つの道としての、君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の親)あれど、天皇陛下だけは四倫なりというのは、陛下には朋友というものがないからである。ところで今やその欠陥を補うがため、陛下の御前に老臣を集め、畏れながら友達同士のごとき気持ちをもって、夜話会を始めた次第であるが、陛下が御座に着かせらるるや、いずれもその御威光に打たれて、老臣共もなんとなく打ち解けることができないので、つい一、二回で中止してしまった。そのとき岩倉右大臣は高崎男に向かって、君は非常に心配するようだが、陛下は大器晩成の御性質で、やがて必ず御名君とならせらるるから、永い眼で見ておられよと言われたそうで、高崎男はその後岩倉公のこのひとことを想い起こして、公の眼識の非凡なるを感嘆しておられたという。」



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百六十三  明治天皇御宸翰(上)(下巻56頁)


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 明治天皇陛下は、御書道についてはふだんからお考えががあったようで、あまり多くの御宸翰(注・天皇の直筆の文書)を残されることがなかった。
 私は明治四十四(1911)年、大正天皇陛下がまだ皇太子にましまして北海道を御見学になったとき、その下検分のために王子製紙会社の苫小牧工場に来臨された子爵藤波言忠氏と一晩ゆるゆると清談を交わした。そのときに子爵が明治天皇陛下から特別に御短冊を賜ったときのことをきかせてもらい、いつかそれを見せていただく約束をした。
 その後子爵は明治天皇御記(注・明治天皇紀」のこと)編纂事業に関与し、大正六(1917)年四月七日、向島の水戸邸を訪問され、かの「花くはし」の御短冊(注・明治8年に徳川昭武邸を訪問したときの「花くはし桜もあれどこの宿のよよの心を我はとひけり」の短冊。116「明治大帝御製」を参照のこと。)を拝見して、宸筆であることは間違いないだけでなく、特にすばらしい出来栄えのものだと讃嘆された。
  その翌日の午後、私は麻布飯倉の子爵邸を訪問し、以前からの約束もあるのでご所蔵の御宸筆を拝見したいと申し入れたところ、子爵は非常に気の毒がり、御宸筆は万一の危険をおそれて他の安全な倉庫に預けてあるので今日お見せすることができないということだった。しかし子爵は、この御宸筆を賜ったいきさつをさらに詳しく話してくださったので、すこし時間的には先になるが、その話の大要をここに披露することにしよう。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
 「自分は広橋胤安の子で、祖父を広橋大納言光成といったが、やや長じて藤波家を相続することになり、明治元年、賢所付きとして京都より東京に移り、同六年明治天皇の御学友に召し出され、爾来、宮内省の諸職に歴任して、ことのほか御寵遇を蒙り、御内儀にも出入りする身分となった。かつて聞くところによれば、亡父胤安は有栖川流の書道を究め、孝明天皇の御命により有栖川幟仁(注・たかひと)親王が明治天皇の御書道教育の任に当たられたころ、父は親王の仰せを受けて、明治天皇の御手を取りて、以呂波を御手ほどき申し上げたことがあるというので、あるとき自分は陛下に対して、このことを伺い出でたるに、朕は自らこれを記憶せざれども、中山一位局(注・明治天皇の生母、中川慶子)などより、たしかにさることありと聞き伝えていると仰せられたので、明治十年ごろであったが、ある夜陛下が、表御所において御酒宴の席上、御機嫌ことにうるわしかったので、自分は再びこのことを申し出でて、父が以呂波を御手ほどき申し上げたる御縁もあれば、何にても一筆書き下し賜われかしと願い上げたるところが、陛下は暫時御考え遊ばされたのち、はや御製のできあがりたりとおぼしく、さらば書きて遣わすべしと仰せられたので、とりあえず女官に短冊を乞いしに、これを預かる者が、既に御局に下がったというので、やむなく皇后陛下の御座所にまかり出で、一枚の短冊を拝領して、有り合う硯箱とともに、陛下の御前に差し出せば、陛下は筆取り上げて、左の御製を物し賜うた。

   かけ渡す板間も広き橋の上に 色あらはして咲ける藤波

と、広橋と藤波とを一首の歌に詠み込ませ給うたのは、自分の身に余る光栄とて、ありがたく御短冊を頂戴して、大切に秘蔵しおる次第であるが、このほど、水戸徳川家に賜った御短冊を拝見すれば、彼はまた格別の御出来で、墨黒々と立派に御したためあり、ことに桜という字など、畏れながら、もっとも見事な御出来なるのみか、歌も徳川家にとりてはたとえ難なき光栄で、他に比類あるべしとも思われず、自分拝領の短冊は、御即興にて渡らせらるれば、墨色も薄く、水戸家のとはいささか相違するところがある。自分が拝見した陛下の御宸翰にては、水戸家に賜った御短冊が、畏れながら、もっとも優秀なるものと拝察し奉る。また陛下は御思し召しあって、多くの宸翰を留めさせられず、平常国風の御詠は、諸省より奏上の状袋裏に御下書き遊ばされたのを、税所(注・税所敦子)、小池(注・小池道子)など、和歌に堪能なる女官に拝写せしめ終われば、その草稿を御前にて寸裂するを常とし、年々の新年の勅題御製、および招魂社の勅額は、無論御宸筆であるが、臣下に賜ったものは、三条家に御短冊一枚あり、岩倉家には明治三年、島津、毛利の一致協同を、岩倉具視公に取り計らわしめんとの思し召しを伝えたる宸翰あり、これは同時に島津、毛利両家へも勅諚ありしものだが、御宸筆はただ岩倉家の分のみである。このほか同家には三回御臨幸があったので、その中にいつか庭前の景色を詠み出で給うた御短冊がある。このほかには中山一位局に賜った御短冊が一枚あり、また徳大寺(注・実則さねつね)公が御筆の大字を所蔵せらるるやに聞き及ぶが、自分はいまだ拝見していない、その他には自分が拝領したのと、水戸家に賜った御短冊のほか、御宸筆は絶無といってもよろしかろうと思う。」(注・次ページにつづく)


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百六十四  明治天皇御宸翰(下)(下巻59頁)

(注・163「明治天皇御宸翰(上)からの続き)

 藤波言忠子爵は明治天皇陛下の御学友として御側近くに奉仕し、引き続き宮内省の要職を歴任されたから、陛下の御行実についてはもっともよく知るひとりで数々の思い出話がある。そのなかには次のようなものもあった。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)

「明治天皇陛下の御在世中、重臣大官より、しばしば御詠の御下賜を願い出たこともあったが、さる場合にはただうち笑ませらるるのみで、かつて御筆を執り給わず、先年高輪なる後藤象二郎(原文「象次郎」)伯邸の御臨幸のとき、庭前の池殿に御着席あり、月に対して、夜更くるまで御機嫌斜めならざりしかば(注・ごきげんよろしかったので)、後藤伯は何か御染筆を願わんとて、自分にも御執奏を依頼せられたから、侍座の人々ともども御勧め申し上げたが、ただうち笑ませらるるのみ、御当座(注・歌会の題に即席で作った歌)もすでに御出来になっていたようだが、ついに御筆を執らせられなかった。自分は今や御記(注・「明治天皇紀」)編纂の事にあずかっているから、なるべく御遺蹟を探究して拝見もし撮影もする考えであるが、小松宮彰仁親王家には、御直筆の会津攻めの感状を下し給わったということであり、また有栖川家にも何か御宸筆があるだうと拝察すれば、追って参殿して、その実否を伺い定めんと思って居る。」

 聞くところによると、山県有朋公爵は、明治天皇陛下の御宸翰を得ようとして、その機会を待ち望んでいたが、御生前にはそれを果たすことができなかったので、崩御後に御学問所を整理したときに、諸官省からの奏請(注・天子に願い出ること)書類のの状袋(注・封筒)の裏に御製(注・ぎょせい。天皇が作った詩歌)を書かれた草稿があったということを聞き、せめてそれでも拝領したいと皇后陛下のちの昭憲皇太后に願い出た。
 皇后陛下は、さらに思し召すところがあったようで、山県がそれほどまでに熱望するというなら、毎年の勅題の御短冊の中から一枚を分け与えようと仰せられたそうだ。しかし山県公爵は、勅題御製の全部が揃っている中から一枚を拝領するのはあまりに畏れ多いことだとして、結局拝辞したそうである。よって、天皇陛下から臣下に給わった宸翰は、前条に記した藤波子爵のもの以外はおそらく皆無であろうと思う。
 また子爵の談話の中には次のような一節もあった。(注・旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)

 「明治の初年、自分は陛下に供奉して東京に出てきたが、陛下はそのころなお御髪を垂れて緋の袴を御着遊ばされた。しかるに同五年九月、九州御巡幸を機として、はじめて西洋服を御着用あり、大西郷(注・西郷隆盛)の注意で、実際軍隊を御統率遊ばさるべく、御教育申し上げんとて、あるとき習志野の原に御臨幸を仰ぎ、天幕の中に御露営を請いたる折しも、大雨降り来たって、御座所に雨漏りの懸念さえあったので、大西郷は例の率直な態度で、天幕の幕間より御座所を覗き込み、「いかがでごあります」と御機嫌を伺いたるなどの奇談もあった。またそのころは、陛下御教育のため、宮中に侍補という者を置き、土方久元、吉井友実、佐々木高行らが一等侍補、元田(注・永孚ながざね)、高崎(注・正風)、米田(注・虎雄)、鍋島(注・直彬)の諸氏が二等侍補で、もっぱら匡補(注・きょうほ。非を正し、及ばないところを補う)の任に当たられたが、中にも佐々木侯は真摯剛直の人であるから、奏上の事を御採用なき間は、断じて御前を退かぬというありさまで、まことに古忠臣に恥じざるのおもむきがあった。しかるに侍補の権力があまりに増大してきたので、内閣においても大いに考慮するところあり、ついにこれを廃するに至ったが、その後副島種臣、加藤弘之、西周、西村茂樹、本居豊穎(注・とよかい)らの和漢洋の諸学者が、陛下の左右に参候して侍講侍読を怠らず、あるとき西周が西洋諸国演説のことを奏上して、御前において演説の仕方を演じたるなどの奇談もあった。これら名臣賢士の啓発は、叡聖文武なる陛下の御天性と相まって、古今に冠絶する御盛業を樹てさせ給うに至ったのである。」
(注・侍補の人員については、以下が正しい。元田永孚の提議によって西南戦争後の行財政改革の一環として発足した。一等侍補は徳大寺実則(宮内卿兼務)、吉井友実、土方久元、二等侍補は元田永孚(侍講兼務)、高崎正風、三等侍補は米田虎雄、鍋島直彬、山口正定の計
8
人が任じられ、11月に建野郷三が三等侍補、翌明治11年(1878年)3月には佐々木高行が一等侍補に追加され全部で10人となった。)

 私が、藤波子爵から以上の明治天皇の御宸翰、御事蹟に関する談話を聴聞した飯倉藤波邸の客間は和洋折衷で、床の右端に高く明治天皇の御肖像を掲げてあった、その御肖像は毎度拝見するお姿と違い、正面から竜顔(注・天皇の顔)を写されたもので、おそらくは御晩年の尊影であろうと思われる。鬚髯(注・しゅぜん。あごひげと頬ひげ)豊かで、御威厳がますます崇高に拝されたので子爵に尋ねてみると、この御肖像は自分が特に写生させて、何度かの修正を加えて自分がよいと思うまでに仕上げたものなので、世間に類例がない唯一の御尊影であるということであった。


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百六十五 井上角五郎氏と初桜歌集(下巻62頁)

 人間には偶然とは思えないほど不思議な巡り合わせがある。
 私が明治三十一(1898)年に麹町区一番町五十五番地に住居を定めた(原文「卜居(ぼっきょ)した」)時には、南隣りに米倉一平氏が住んでいたが、その後何年かたって、慶應義塾の同級生だった井上角五郎氏が引っ越してきて門を並べて住まうことになった。
 私が井上氏と慶應義塾に在学したのは明治十四(1881)年から十五年までの一年間で、氏は私の親友の渡邊治とともにクラスの中の二駿足(注・ふたりの秀才)だった。
 十五年に私は、渡邊とともに卒業して時事新報の記者になり、井上氏は一時、福澤家の家庭教師になっていたが、ほどなく朝鮮に出張し、朴泳孝、金玉均らとともに京城の政治舞台で活躍した。同時に、時事新報の通信員としても明治二十一(1888)年ごろまで大いに手腕をふるった。
 その後、氏は衆議院議員になり、最後には北海道炭鉱会社社長まで出世したが、私の隣家に越してきたのは、おそらく同社の社長時代だったと思う。
 井上氏といえば、口さがない京童(注・噂好きな人のことをさす)が、蟹甲将軍、などと言いはやしたほどで、鉄骨銅心の木強漢(注・無骨で一徹な人)かと思いきや、明晰な頭脳の持ち主である。いつのまにか和歌を吟詠し、自作の百首を集めて「初桜」という題名の歌集を作ったから、と言って、大正元(1912)年八月、私に一本寄贈してくれた。そして、同じ月の二十八日には、わが紅蓮軒にやってきて、その歌集を出版した由来について話された。

 「僕は一昨年、ある結婚披露宴の席で、高木兼寛氏とともに祝賀の席上演説をしたが、井上通泰氏が同席のある人に、井上の演説は自然と歌になっている、もしその一部を取って三十一文字に綴ったら、全部歌になるだろうと言っていたと聞いた。その後、目の治療のために同氏を訪問したついでに、このことを確かめたところ、いかにもそのとおりだと答えられたうえに、さかんに入門をすすめられた。また、御歌所の遠山英一氏を師にして学ぶのがいいだろうといって、その後遠山氏を紹介されたので、昨年の四月十日から詠歌を始めて、今日までに、およそ百六十首を詠んだ。そこで、この中から百首を選んで、今年の議員選挙のときこれを出版し選挙区民に配った次第である。歌はまず遠山氏が加筆し、さらに井上氏の意見をきき、両氏の熱心な指導によって、あの「初桜」の出版に至った。このほど井上氏を訪問したところ、先帝の崩御について氏が詠み出た十首の歌を示された。そして、この歌を見たままの感じを歌にせよ、と言われたので、次の一首を即吟した。すると氏は、そのままで申し分ないと非常に称賛してくれた。それは次の歌である。

   月見るも虫の音聞くも此秋は ただあはれをぞますばかりなる
 

 井上氏の談話は以上のようなものだった。私は井上氏が帰ったあとに、すぐに初桜集をひもといて一気にこれを読み終えた。井上、遠山両人の添削が少しばかり親切すぎたようで、どれもが歌人の調子になっていて率直な井上氏の面目が現れていないような気もしたが、そのなかに、

    福澤先生の嘗て(注・かつて)給ひし消息文を見て
   いくたびも読まんとしてはためらへぬ 落つる涙にぬれもするかと

の一首などは、問題が問題だけに、作者の真情をうかがうことができるものだった。
 そこで私は「初桜歌集を読みて」と題して所見を述べた一文をしたため、末尾に次のような腰折(注・自分の歌を謙遜して言う表現)を添えて、井上氏の一粲を博した(注・いっさんをはくした。お笑い種にしてもらった)。

   まなびやに机ならべし友と又 門をならべて住むが嬉しさ

   思ひきや門を並べて住む友の またの言の葉の友ならんとは

   言の葉の道に匂へる初ざくら 奥ある花のさかりまたるる

 もともと井上氏が朝鮮入りしたのは、福澤先生が西洋文明を日本に移入して人民の叡智を開発しようとした運動と同じことを、朝鮮にも広げ、半島人民の利益を増進しようとする使命を帯びたものだった。
 前後数年間にわたって井上氏が試みた数々の事業の中で、もっともめざましかったのは、明治十九(1886)年一月に発行した漢城周報に、漢文と、朝鮮のハングル(原文「諺文(おんもん)」)を混合した文体を使用したことだろう。
 朝鮮には、むかしから、漢文、諺文(注・ハングル)、吏文(注・朝鮮の外交文書の文体)の三種類があったが、そのままでは読みにくく、また使いにくかった。新聞用の文として広く民衆に普及させるにはこれまで非常に不便だったので、漢文とハングルを結びつけて、日本の、漢文かなまじり文と同じような文体を工夫して、その文法書までも作成したので、この文体は、それ以降朝鮮で一般にも流行し、政府の法令でも使用するようになったそうだ。
 福澤先生も、生前にその話をきいて、たいそう喜ばれたそうで、このことは井上氏の功績として長く半島の文化史に残るべきものであろう。


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百六十六  井伊伯家の什宝(注・じゅうほう。家宝)(下巻66頁)

 私は旧彦根藩の人で帝国大学歴史編纂部に勤務する文学士の中村勝麻呂氏の紹介で、井伊大老自筆の茶書の数々を借覧した。
 そのなかには「茶の湯一会集」、「古茶人逸話集」、江戸石州流宗匠片桐宗猿との問答書、「披の間廃止論」など、この道での参考にするべきものが少なくなかった。鉄血の宰相として幕末の恐怖時代の主人公たるこの人が、こうした半面を持っていることは非常に興味深いことなのであるが、それはしばらく置くことにし、今回は、その縁で同家に伝わる数々の書画や名物茶器を拝見することになった時の話をしたい。
 大正元(1912)年九月五日午前九時、三井守之助(注・高泰)、朝吹英二の両氏と三人で、麹町区一番町の井伊伯爵家を訪問した。
 書院の大広間に向かうと、主人の直忠伯爵(原文では「忠直」)も羽織袴で出座され、いんぎんに私たちに挨拶をなさった。
 この日、大広間に、所せましと並べられた御蔵器は、さすがに大老家の所蔵品だけあり、広間の床には、大名物の牧谿筆「松に鶴」、「岩に猿猴」の二幅対が掛けられ、その前には大名物の宮王肩衝茶入が飾られていた。
 牧谿幅も宮王茶入も、当家の先祖の井伊直孝が大阪の陣の戦功で家康公から賜ったもので、どちらも大名物中の白眉である。また茶杓では珍作が数本あるうちの、小堀遠州作百千鳥の銘のものがもっともすぐれていた。
 香合は、祥瑞しょんずいの横瓜蜜柑、交趾の紫鹿。その他にも、堆朱、堆黒など名品が多く、とくにノンコウ(注・楽家三代目道入)作の菊蟹香合の写しは、いかにも珍しい逸品だ。
 釜もまた数多かったが、津田宗及が北野大茶の湯で使ったという古天明常張釜があった。また大老がことに愛玩したという車軸釜、卍字釜など、いずれも凡庸でない。特に、萬年春の三字銘釜は太閤秀吉が所持していたそうで、いっぷう変わった珍品である。

 雑器のなかでは、野老ところの碁盤というものがあった。野老というのは蔓の一種で、珍しい四方杢(注・将棋盤、碁盤などの盤という意味か?)である。世に将棋盤はあっても、碁盤としては天下一品(注・この世にひとつ)だということだ。
 屏風では、元信筆の山水中耕作がもっともすぐれていた。そして、宗達の三十六歌仙、近衛三
院(注・さんみゃくいん。原文「院」。寛永の三筆のひとり、近衛信尹。のぶただ)公が和歌を題した六枚折一双(注・屏風)もまた、絶品にちがいない。

 その他、大老ごのみの茶器、和歌発句の掛物、湖東焼の各種の陶器など、ほとんど枚挙にいとまがなかった。
 それらの一覧を終え別室にはいると、ここには井伊家歴代の甲冑が並べられていた。このなかで井伊直孝が着用したというものは、鉄骨を赤漆で塗ってあった。いわゆる、井伊の赤隊というのはこの甲冑を指したのだろう。
 その甲冑は大きいのはもちろんのことだが、全部が鉄でできているので胴の重さだけで十六貫目(注・約60キロ)あり、両手でわずかに持ち上げることができるというくらい重い。それに縦長の鍬形をつけた鉄兜やら、小手臑当(注・腕やすねの防具)を合わせたら、その重量は、無論、二十貫目(注・約75キロ)に達するはずだ。
 このような重量を身にまといながら、両刀を帯び、さらに槍などを持って千軍万馬のあいだを行ったり来たりしたとは今では想像もつかないことだ。昔の武士は戦争が商売で、常に重たい甲冑を身に着けられるように身体を鍛錬したのである。今日の力士が稽古を重ねて強健な体格を作るように、一種の養生法によって、こうしたことに耐えられるようになったのだろう。
 しかし、直孝よりあとの代々の甲冑を見ると、鉄は皮に変わって重さが非常に軽くなり、鉄砲が盛んに使われる時代が近づくにつれ甲冑の重さは目立って減っていった。それは、人間の体質が軟弱になったのと同時に戦術が大きく変化したためでもあろう。
 こうして数々の宝物を拝見し終わったあと、最後に、あの「彦根屏風」を一覧することになった。これは世間でもよく知られた名画なので、いまさら説明するまでもないだろう。聞くところによると、井伊大老は、ひごろ非常な道具数寄者で、大老になったあとは、千代田城から帰邸すると、玄関から居間にいたるまでの廊下に、毎日のように出入りの道具屋が持参した道具を陳列しており、それをひとつひとつ見ていくのを楽しみにされていたという。この彦根屏風なども、その陳列された中の一品だったとしたら、まさに大物の掘り出し物であったにちがいない。(注・現在では、直弼の兄、12代当主の直亮(なおあき)が購入したことがわかっている)。
 ところで、大正十二(1923)年の地震で、無残にもこれらの名物宝庫は火災に襲われた。しかしすべてが灰燼に帰する寸前に、今回私たちの案内役になってくれた中村博士らが駆けつけ、かねてから熟知している彦根屏風、宮王肩衝、その他十数点を外に運び出した。これは、井伊家にとっての、はたまた国家にとっての、偉大な殊勲だったと言わなくてはならない。
 今回私たちが拝見したその他の数々の至宝の大部分が、猛火に舐めつくされて烏有に帰した(注・「灰燼に帰す」「烏有に帰す」ともに、火災で燃えてしまうこと)ことは、史上とりかえしのつかない遺憾である。私は、拝見の折の眼福を長く記念するため、ここに、そのときのことを記した次第である。


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百六十七  乃木大将の殉死(下巻69頁)

 大正元(1912)年九月十三日、御大葬の御見送りのため私は帝国劇場前に出かけた。
 午後八時半ごろに、霊轜(注・れいじ。霊柩車のこと)の御通過を拝観したが、土佐絵の絵巻物に出てくるような装飾した牛がひいていく御轜車の哀しい音と、先頭の笙(注・しょう)、篳篥(注・ひちりき。縦笛)の響きが相和して、言いようもない神々しい光景であった。私は感動のあまり、

   御者の牛のあゆみもなほ早き 心地せられぬ今日の御幸は

   今はとて涙ぬぐひて見おくれば 大御車ぞ遠ざかりゆく

と口ずさんだ。
 帰宅してから、一晩ほとんど眠ることもできなかった十四日早朝、まだ布団から出てもいないころ、新聞の号外があわただしく昨夜の乃木大将夫妻の自刃を報じた。取るものも取り合えず読んでみると、

   うつし世を神去りましゝ大君のみとしたひて吾はゆくなり

という辞世が載せてあったので、まぎれもなく殉死であることがわかったものの、いわゆる晴天の霹靂の思いがけない出来事であった。私は茫然自失し、ほとんど言うべき言葉が見つからなかった。
 その後新聞紙上に発表された諸大家の感想は後日のように一定したものではなく、東京朝日新聞などは、「大将の行為は、常軌を逸したる者なれば、武人の道徳は別として、一般の道徳に於て、其人に同情するの余り、一概に之を賞讃して、後世を誤る可らず」という一説を載せていた。
  一方、万朝報の黒岩周六氏は、乃木大将を楠木正成公に比して、「楠公も大将も、ともに死なんとして死したもので、その死は生よりも貴く、遺烈を千載に留めたり」と論じ、その結末には、

   今まではすぐれし人と思ひしに 人とうまれし神にぞありける

という一首を付け加えてあった。
 大将の殉死についての所見は、日本人のあいだですら以上のようにまちまちだったのだから、西洋諸国の人々では、かりにおざなりに賞讃する人があったとしても、彼らの道徳観念においてこの事件を理解することができなかったのはまったく無理もないことだった。
 ロンドン・タイムズの東洋部長であったチロール氏(注・Valentine Chirol 18521929)が大将殉死の翌日にタイムズに寄せた一文には、「私は乃木大将とその夫人の最期について、東西の思想上に深いみぞがあるのを発見し、古い記憶を思い出さざるを得ない。十五年前、ロンドン駐在のシナ公使の羅豊禄が、シナ人としてはまれに見る欧化主義者でありながら、彼が不治の病にかかった時、シナの医師に呪文を唱えさせて、祈祷のための灰を五体に振りかけさせたのを見て、私は東洋人の心理を理解することができなかったが、今回のことも同様である」という一節があった。この見解は、ただチロール氏だけでなく、欧米人ならばきっと同じように持つものだろう。(注・瞥見では、日本在住の親日家の記者ブリンクリーが「古風な武士道精神の復興」とタイムズ916日号に書いた)
 このようなわけで、九月十四日の早朝に、乃木大将の思いがけない殉死の報を耳にした一般国民は、驚くやら戸惑うやらで、このことに対しての決定的な観念を持つまでには、いろいろと思いを巡らしたようだった。なかには、最初にこの報を聞いた時には、あまりに過激な行為なので、これが欧米各国に伝わったらどのような反応になって現れるだろうかという不安を抱いた者もあったようだ。

 また大将は旅順で二児を戦死の犠牲で失い、今では学習院在学中の三人の皇子とともに華族の子弟を預かり教育の任に当たっているという大切な立場の人間である。当然のごとく、余生を国家に尽くすべきはずなのに、その生を捨てて死を選んだのははなはだ遺憾であるという意見もあったようだ。
 また一方では、この行動によって日本国民がいかに忠君の一義において熱狂的であるかということを各国の人が知り、彼らを心底震えあがらせ、彼らは今後日本人に畏敬の気持ちを持つようになるだろうと見る者もあった。
 さて私はある日、犬養毅氏と話しているときこの話題になった。同氏の説は次のようなものであった。(注・わかりやすい表現にあらためた)
 「余は西南戦争のとき、新聞通信班として九州に出張し、乃木大将と知り合い、詩作を見せ合ったこともある。大将が、かの軍旗をなくしてしまったという苦戦の状況についても余はよく知っているが、あれはやむを得ない出来事だった。わずか百人ばかりの小倉兵が、賊軍の主力軍に遭遇して、旗手も戦死し、旗を奪われてしまったのだ。これは大将の責任として、それほどには重大なことではなかったのに、謹厳な大将のことで、ずっと気ににしていたようだ。そして、今回の殉死は、乃木大将だから意義のあることで、もちろん他人が真似するべきことではない。坂井虎山が、赤穂四十七士を詠じた詩に、
    
     
若使無茲事
     臣節何以立
     若常有茲事
     終将無王法
     王法不可廃
     臣節不可巳 
     茫々天地古今間
     茲事独許赤城士

(注・この詩は、「臣節」「王法」とはなんであるかを赤穂浪士は示したとして、作者は評価している)

とあるが、この最後の句の赤城士を乃木将軍とすれば、この詩が今回の大将の行為に対する適評になるだろう」
と言われた。私は犬養説が、大将の殉死に対する決定案(原文「鉄案」)として、動かしがたいものだと信じる。


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百六十八  乃木大将追懐茶会(下巻73頁)

 子爵石黒忠悳況翁氏は乃木大将とひごろ親密な交際があったので、大正二(1913)年四月に牛込揚場町帰雲亭において、大将のために心をこめた追善茶会を催された。
 床には大将の歌入り書簡を掛け、古銅薄端花入に杜若かきつばた】を活け、屈輪ぐりん大形の香合に名香「初音」を薫じた。茶入は、明治三十七(1904)年の冬、大将が戦地から況翁に送られた敵弾二個を寄せ合わせた中次を使い、茶碗は二百三高地の土で作り、有名な大将の詩である

  山川草木転荒涼 十里風腥新戦場 征馬不前人不語 金州場外立斜陽

を彫りつけたものを使い、また、旅順攻略のときに使ったという鉄条網の火箸などを組み合わせられた。
 況翁が古銅薄端の花入に杜若を活け、手向けの香に初音を選ばれたことには深い寓意があった。
 況翁は、乃木大将の最期を、万治年間(注・16581661)年間に細川三斎の十三回忌に割腹した興津弥五右衛門に酷似していると見ており、上に挙げた縁故の品々を使うことで、それとなく追善茶会に歴史的な感興を添えられたのである。その興津割腹とは、次のようなものだった。
 寛永五(1628)年五月、長崎に到着した安南船が珍しい伽羅の大木を舶載してきた。この時細川三斎は、興津弥五右衛門ともうひとりの相役を長崎に差し向け、その伽羅の大木を買い取らせようとした。
 この伽羅には本木と末木があった。伊達政宗の使者が、本木のほうを獲得しようとしたので、興津は、これを我が手に入れようとし双方の争いとなった。
 そのとき彼の相役は、香木のような玩物のために過分の大金を投げうっては、細川家のためによろしからず、として、興津とのあいだに意見が衝突した。激しい口論の末、相役は一刀を取り上げ、抜き打ちで興津に切りかけた。
 おりしも五月のことだったので、床の間には杜若を活けた薄端の唐銅花瓶があった。興津はそれを取り上げてハッシと受け止め、続いてさっと飛びしさり(注・後ろ向きに飛んでさがり)刀を抜き、ただの一打で相役を討ち果たした。
 こうして興津は、目的通り伽羅の本木を買い取り、当時細川の居城のあった杵築に帰り、事の次第を三斎に報告した。主命を果たすためとはいいながら、お役に立つべき侍ひとりを討ち果たしてしまったことに対して、まことに恐れ入る次第であるので、切腹を仰せつかりたいと言上した。

 三斎は委細を聞き終わると、主命を重んじて稀代の名香を買い求めたことは、あっぱれの手柄なので、相手の子孫も遺恨を抱かないように余の面前で盃を取らせ、互いに誓言させようとの主命をもって一切を取り計らわれたので、事件はすみやかに落着することになった。
 この名香は、細川家では、

    聞く度に珍しければ郭公 いつも初音の心地こそすれ

という古歌にちなんで、初音の香と名づけ、それは天下の名香として知られている。
 さて興津はというと、その後、寛永十四(1637)年に忠利の旗下に属して島原に出陣し、抜群の戦功をあげて恩賞をこうむるなど、ついに戦死の機会を得ることもなく、心ならずも余生を保っていた。
 細川家はほどなく肥後に転封し、忠利がまず逝去し、三斎も薨去し、今では肥後守光尚の世になっていた。
 ちょうど三斎の十三回忌に当たり、興津も時節到来と思ったのだろう、万治元(1658)年十二月二日、三代相恩(注・三代にわたって恵みを受けた)の殊勲に対する遺書をしたため、腹一文字に掻き切って、熊本城下の寓居において自尽(注・自害)したということである。
 興津弥五右衛門が自刃を覚悟したのは、長崎で相役を討ち果たしたときであったが、主人の三斎の寵遇が厚かったため、ついに三代にわたって仕え、二十代のときから三十年余りがたっていた。三斎の十三回忌を選んで、遅れ馳せながら宿志を果たしたのである。
 乃木大将が一死を覚悟したのもまた、あの西南戦争中に軍旗を喪失したときであったということである。しかし大将もまた死に場所を得ることができず、隠忍して歳月が過ぎるうちに、ちょうど旅順の戦争がやってきた。
 眼前で多数の兵卒を殺してしまい、愧我何顔看父老(注・乃木の漢詩「凱旋」の一部)の感慨もまた切なるものがあっただろう。
 二児の戦死によって、かえって自ら慰められるところがあったようだが、明治天皇の崩御に至り、今こそ死ぬべき時が来た(原文「正に是れ其死を致すべき秋なり)と決心し、ついに宿志を果たしたのであろう。
 大将を、興津に比することについては、人物の大小、事態の軽重ももちろん同様ではないが、義のために死を軽んじ、あくまでも所志を達せんとした高潔な心事については、古武士の面目躍如として、両雄を対比して、断じて、千歳の知己(注・生きた時代は違うが、通じるところがある)と言うべきだろう。
 況翁は、いつのことにか両者が酷似しているのを見つけた。まず、興津の買い求めたというあの初音の香木を薫じ、また彼の相役の一刀を受け止めたという唐銅の花瓶に擬して古銅の薄端花入を使い、生け花までも同じ杜若を選んだ。
 その心配りは、情義と感興とを兼ね備え、名教(注・人が行うべきすぐれた教え)として役立てることもできよう。大正の劈頭(注・へきとうはじめ)の、一種の出色の茶会であると思われるので、ここにその顛末を記した次第である。


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百六十九 石黒子(爵)談片(下巻76頁)

 子爵、石黒忠悳(注・ただのり)翁は、明治、大正、昭和の三朝歴事(注・三代の主君に仕えた)の長老である。
 日清戦争のときの陸軍軍医総監として、広島の行在所(注・あんざいしょ。天皇の外出時の仮御所)で奉仕した経歴も持つ。明治天皇陛下の御逸事に関して、翁ほど資料を持っている人はいないのではないかと思う。
 あるとき翁は次のようなことを語られた。(旧仮名遣いを新仮名遣いに、旧字を新字にあらためた)
 「明治天皇陛下の御倹徳については、さまざまの美談がある中に、天皇崩御後、森林太郎(注・鷗外)氏が御所(の)衛生のことを担任して、御座所の跡片付けをなしたので、自分は森氏に依頼して、御学問所の欄間の紙と襖の腰張とを、少々頂戴したのである。頂戴といっても、もとより伺い出でたわけではなく、ただお取り捨てになるべき廃物を、係の者より手に入れたまでであった。聞くところによると、御座所の欄間は、皇居御造営後、ただ一度御張替えになったのみだということで、年経るままに真っ黒く煤けているので、係の者より時々張替えのことを伺い出づれば、陛下はいつでも、それには及ばぬとのみ仰せられて、長年張り替えなかったのであるそうだ。さて大正二年には自分も古稀になったので、亡父が出張中に自分の誕生した福島県伊達郡柳川村に罷り越し、いささか懐旧の情を慰めたついでに、土地の父老を集めて一場の講話を試みた。その講話前において、同村の小学校を訪いたる帰途、その村中で一番貧乏なる百姓家というのをたずねて、その障子の一小間を切り抜き、張替料にとて二十銭銀貨を与えて持ち帰り、その百姓家の障子紙と、かねて持参した、かの御学問所のとを比較するに、百姓家のほうがむしろ綺麗であったから、今さらながら恐れ入り、講話中、このふたつの紙を取り出して、これを来会の父老に示しつつ、陛下が世界第一御倹徳の帝にましますことを物語り、独逸(注・ドイツ)では帝室費として、一年に一千八百万円を計上され、その他欧州諸国の君主は、みな巨額の帝室費を消費しているのに、わが帝室費の年額は、僅々四百万円である、しかして国民が水火難災厄の場合に、恩賜せらるる金額は、かえって欧州の帝室に勝っているのは、畢竟、陛下が親から倹徳を守らせ給うおかげであるから、国民は肝に銘じて、その御恩徳を忘れてはならぬと述べたところが、父老の中には、声を放って泣き出した者もあった云々。」

石黒翁の談話中には、さらに次のような一節もあった。

 「日清戦争中、広島行在所において、旧八月十五夜の晩、自分が御前に伺候したところが、天皇陛下には至極の御機嫌で、自分に向かわせられ、今夜は十五夜であるが、十五夜に月を見るの法を知っているかと仰せられたので、自分はこれという思いつきもなく、御所においては高殿にのぼるか、または窓など開き給いて、御覧遊ばされ候にやと申し上げたるに、陛下は微笑を含ませられて、イヤイヤ月を見るには、苧殻(注・おがら。皮をはぎ取った麻の茎。盂蘭盆(うらぼん)の迎え火・送り火にたき、供え物に添える箸にする)にて茄子をえぐり抜き、その穴より見るものであると仰せられたれば、自分は陛下が御戯れに斯様(注・かよう)のことを仰せられたのだと思い、やがて御前を退下するや、その足にて有栖川大宮殿下(注・日清戦争中に広島大本営にいたのは参謀総長の熾仁(たるひと)親王)を訪い参らせしに、またまた月見の話が出て、ただいま陛下がかくかくと仰せられましたと申し上げたところが、殿下は打首肯せ給いて(注・うなずかれて)それはいかにもその通りである、堂上(注・公家)にては、茄子の穴より月を見るのがならいにて、十五歳にて元服する者は、その茄子の穴より月を見ているあいだに、袖を切り詰めるのが、旧来の慣例なりと仰せられたので、自分は初めて雲上方の月見の故実を承知したのである云々」

石黒況翁は官民の各方面での経歴豊富で、茶道においては、明治初年の茶道復興の黎明期から関与していた先達なので、この方面に関するエピソードは際限なくあるが、それらについては後段に譲ることにする。翁は談論の名手で、ふつうの世間話でもウイット(原文「ウエット」)に富み、ユーモアに長じ、私の記憶の残っているものの中にも、おもしろい談片は少なくない。次のような笑い話もあった。
 「先日明治四十五年、桂公爵の西伯利亜(注・シベリア)経由でヨーロッパ行きしたとき、桂公爵を見送るために新橋ステーションに出かけたら、ある人が、山県公爵は最近とても痩せられそうだから、元老は「ダシ」に使われるから、鰹節のように削られて、痩せてしまうのだと言ったら、その人が目の前に立っている桂公爵を指して、桂公爵は元老でも、あの通り太っているではないかと言うから、桂公爵も「ダシ」に使われるが、アレは昆布ダシだから、煮出されるほど、ますます太るのだよと言ったが、どうだねアハハハハ。」


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百七十  顔輝の寒山拾得(下巻80頁)

 私は、大正二(1913)年五月十日雲州松江に出かけるついでに、その日に臨時で展覧された神戸布引の川崎美術館を訪問し、他の陳列物とともに同館の第一の重宝である、顔輝筆、寒山拾得二幅対を再見するという好機会を得た。その日川崎美術館では、別棟である長春閣の正面の床にその名軸が掛けられていた。
 私は明治二十六(1993)年に当館で初めてこれを見て以来二十年余りのあいだ、人物画を見るたびに必ずこの掛物を連想したもので、宋人の人物画の白眉として寝ても忘れることができない(原文「夢寐(むび)之を忘るる能わず)ほどである。今回参観したというのも、まったくのところ、これを再見するためだった。
 そもそもこの二幅対は、言うまでもないが東山御物で、その後織田信長に伝わった。
 信長はひごろからこれを愛玩して座右から離すことがなく、近侍の者に向かって、「この画中の人物は何やら物を言いそうなり」と語られたことがあった。あるとき、森蘭丸が、信長の癇癪(原文「癇癖」)が極度に高まったのを見て、「殿は、かの画像が何か物を言うようなりと仰せられたが、昨夜私が、かの幅の前を通りがかるや、画中に声あって、近頃殿の御短慮もってのほかの御事なり、かくて御用心これなきにおいては、いかなる変事の出来(注・しゅったい)も測られずというかと思えば、そのまま沈黙いたし候」と諷諫(注・遠回しにいさめる)したところ、信長はこれをきいて激怒し、「余の愛玩の恩も忘れ、無礼な諌言、聞き捨てならず、汝すみやかにかの画像を引き裂いて、火中に投ずべし」と激しい表情と怒声で命じたので、蘭丸は「仰せ畏まりぬ」と、ただちにかの画像のところへ向かったあと、また元に戻り、「ただいま、かの画像を引き裂かんと存ぜしに、彼らは殿の御威光に恐れ、もやは何事も申し出ざれば、ひらに御容赦相成りたし」と詫び入ったので、信長もたちまち機嫌を直し、画像は危うく一命をとりとめた、という伝説があるそうだ。
 これはもちろん好事家の作り話(原文「戯作」)であろうが、東山御物の中でもこの幅が昔から有名だということは、こんな話が伝わっているというだけでわかるというものだ。
 その後信長は、今大阪城のある石山城を根城に十三年間彼に対抗していた本願寺の顕如上人と講を結ぶにあたり、この幅と、かの有名なる一文字茶碗、そして古金襴の三点を贈り、修好(注・親しくつきあう)の意を表した。
 本願寺においては、大切な寺宝として代々守り続けていたが、安政年間(18551860)に西本願寺の困窮が極まったとき、当時、同寺の世話方で、石田小十郎あるいは小兵衛という乾物屋、通称「大根屋」として知られた者が、金千両の身代わりの品として本願寺からこの幅を預かることになった。
 ところで、そのころ道具にかけては「大鰐」として名高かった京都所司代の酒井忠義がそれを聞き込み、人を介して何度も大根屋に所望したそうだ。しかし、預かり物なので、ということで応じず、本願寺にとっても手放し難い事情があったので、維新の前にはそのままに経過した。
 しかし明治の初年に大根屋の代替わりがあり、この幅の処分を本願寺に迫ったが、当時のことでもあり本願寺も金千両を賠償することができず、ついに世間に流出することになってしまった。
 そのようなわけで、池田某の手に渡っていたものを、明治十七(1884)年に先代の山中吉郎兵衛が引っ張り出してきて、まずは藤田伝三郎男爵に勧めた。しかし男爵が見向きしなかったので、貿易商会(注・起立工商会社のことであろう)の若井兼三郎氏が仲介を引き受け、松方海東(注・松方正義)公爵その他に当たってみたが誰も応じなかった。
 そんなときに川崎正蔵氏がその写真を一見し、狩野探美に鑑定を頼んだところ、探美が古今未曾有の逸物なり(注・いまだかつてない逸品だ)と証明したので、一も二もなく買い求めたのである。そのときの代価は、わずかに千五百円であったという。
 川崎氏はそのころ築地に造船所を所有し政府筋に用向きが多かったので、もしこのことが貴顕(注・身分の高い人、政府高官など)の耳にはいり、犬骨を折って鷹に取られては一大事だということで、それから三年間極秘にして誰にも見せなかった。
 しかしいつしか同好者のあいだで評判になり、川崎氏ももう隠し立てすることができなくなり、この名幅が手にはいったのは美術の神の引き合わせなので、どのような貴顕の懇望があっても断じて徴発に応じることはできない、という条件つきで、ある日、築地邸に賓客を招いてはじめて披露したのだそうだ。
 この二幅対は、顔輝筆のなかでは試金石というべきもので、画面も非常に綺麗であり、これに対面すると、絵の中から抜け出してきた、にこにこ顔の人を迎えるような気分になる。私が二十年余り前にこの幅を見たときには、かなりの大幅だと思っていたが、今回再見してみると、巾は三尺内外(注・一尺=約30センチ。実物の大きさは、じっさいには、二幅合わせた横幅が約85センチ、縦130センチ弱である)で、いたって小幅であることに驚いた。
 私の経験から言えるのは、名画というものは実物よりも大きく見えることがよくあるということだ。最初に見たときに大幅だと思ったもので、再見したときに意外と大きくなかったときは、たいていの場合、名画である。道具でもなんでも、名品と言われているものには概してこの傾向が見られるようだ。
 目下(原文「方今(ほうこん)」、世に知られている宋画は、いったい何点あるのかわからないが、人物幅において、この顔輝の右で出るものがあるとは思えない。徽宗皇帝の桃鳩図に相対し、かたや人物、かたや花鳥の、双絶(注・この上なくすぐれた二つのもの)であるから、この機会に、私の感想を発表した次第である。(注・寒山拾得図は現在は東京国立博物館蔵の重要文化財。徽宗皇帝「桃鳩図」は個人蔵で国宝)


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