百六十一
明治天皇崩御前(下巻48頁)
明治四十五(1912)年七月二十日午後、新聞号外が聖上陛下の御病状を報道した。その記事には「去る三十七年末より、陛下には糖尿病に罹らせられ、三十九年一月より更に腎臓炎を併発、岡(注・玄卿)侍医等、御療養に手を尽し居りしが、去る十七日より御容体宜しからず、今日に至りて、四十度五分御発熱あり、一同驚愕、三浦(注・謹之助)、青山(注・胤通)両博士をして拝診せしめしに、御病状は尿毒症なり」とあり、日本国民は初めてその報道を耳にしたその日から、同三十日早朝の「聖上陛下には、本日午前零時四十二分崩御せらる」という新聞号外を見るまでの十日間、一同憂愁に満ちて食事も喉を通らず物も手につかず、御容体書の号外が出るたびに胸をどきどきさせながらその御経過を懸念した。全国いたるところで神社仏閣に祈誓をしたり、宮城前で参集したりしてただたた御平癒を祈願するなど、見る者も聞く者も涙ぐましい光景を展開したのである。
私はそのころに時々来宅された宮内省侍医の鈴木愛之助氏から陛下の御容体を伝聞していたが、二十六日午後の氏の話は次のようなものだった(注・文体を現代文になおす)。
「聖上陛下の糖尿病と腎臓病は、四、五年来の慢性で、毎日大小便の分析を行わない日はなかったが、去る十九日にはどうしたことか、終日便の御下付がなかった。これは、その日に御便通がなかったためで、その晩からいよいよ御重患となられたのである。聞くところによると、日露戦争間際には、陛下の御心配は非常なものだったものとみえ、戦争がまさに起きそうになった十日ほど前から、御食事がほとんど御平常の三分の一に減ったために、侍医は御病気ではないかと、しきりに案じたが、女官から御病気ではないとの忠告があった。これは、国事に御心配の結果で、国交断絶の当日には、終日まったく御食事なさらず、侍医局でも非常に御案じ申し上げた。事が決定した翌日からは、もはや御安堵遊ばされたのか、御食事も元どおりになったが、腎臓病は非常な心配の結果で、また心配によって、その病勢が増す例が多いので、日露戦争は陛下の御健康の上に、非常に影響を及ぼしたものと思われる。今回の御病源も、おそらくそのときに萌したものだと思われ、まことに恐れ入ることなのだ云々」
私は、この話を拝聞し、いよいよ恐懼したものだったが、同二十八日に鈴木氏が来宅し、今朝、御所にて玉体の御模様を拝したとき、御容体が非常に険悪であったというのを聞き、早くも御大漸(注・帝王の病気がしだいに重くなること)なのかと失望するあまり、
明らけく治め給へる大御代も 今がかぎりとなりやしぬらん
と口ずさみ、ただ痛嘆するほかなかった。
崩御後の感慟(下巻50頁)
七月三十一日の新聞紙上は聖上御崩御に関する記事で満ちていた。その一方で改元について、公羊伝に「君子大居正」とあり、また易経にも「大享以正天之道也」とあることから、本日より大正と改元される、という記事もあった。
陛下の盛徳大業は御一代を通じて数限りないので、今後、御大葬まではこれに関するさまざまな記事が続くだろうが、人のなすことの大小というものは世間に及ぼす反響の大小によって判断することができるものだ。池に小石を投げ込めば、その波動はわずかに一部分にとどまるが、もし大石を投げ込めば、ただ池の全面が動揺するだけでなく波は何度も繰り返し長いこと停止することはない。
今回の御事のような、わが国においてほとんど比類のない大変な事態では、ひとびとの心に及ぼす波動の大きさは多くを語る必要もないことなのである。
先帝は御幸運で、御聖寿(注・ご寿命)にも恵まれ(原文「万々歳」)私などは、明治の年号のあいだに一生を送ることになるのだろうと思っていたのに、今や明治は過去となってここに大正の年号を迎えたのである。古歌に、
さくら色に染めし袂の惜しければ 衣更へうき今日にぞありける
とあるように、私たちは、明治の古い衣を脱ぎ捨てて大正の新しい服に着替えるのをとても名残惜しく感じたものである。このような感覚は、実際にあのときに出くわした人でなければ感じることができないものだと思う。
大帝崩御の数日後に山県含雪公爵を訪問した友人の話では、ふだんは気丈な老公も今度は非常に落胆し、「伊藤などは早く死んで、今日の悲痛を知らなかったのはしあわせ者である」と言われたという。御大喪の歌は、普段の公爵に似合わず、
ましまししそのおもかげは老の身の 夢にうつつにはなれざりけり
の一首だけだったということである。
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