だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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百五十一  茶道記と萬象録(下巻10頁)

 私は明治四十五(1912)年の初めから閑散の身(注・仕事がなくひま)になると、第一に茶会記録を作ること、第二に感想日記を書くことを思い立った。
 茶会記録作ろうとした動機であるが、明治時代も四十四年を過ぎ、今や、いよいよ文化の熟欄期に入ろうとしているのだから、文学、美術、工芸、茶事風流の諸道も今後一層、複雑で込み入ったものなっていくだろう、そのようなときに、その方面に直接関わりを持つ者がその実状を記録しておいたならば、後世から今日を観察しようとする者のために、きわめて有力な材料となるだろう、ということだった。
 私自身が桃山時代の茶道文化を研究しようとするとき、当時の太閤秀吉を中心にした英雄豪傑や、利休を囲む茶道宗匠の行動を詳細に記述したものがあったら、どんなに面白い歴史的な好資料になっただろうと思うのである。たまたま茶人の手で書かれた簡単な記録でさえも、それが実際を目撃した者の筆になったものであれは、当時の情景を想像するのに非常に便利なものであることは、博多の茶傑、神屋宗湛の宗湛日記にある天正十五(1587)年正月三日の大阪城大茶湯の記事などがその好例である。ここからは、太閤みずからが大茶湯を指揮している情景を、眼前に実際に見るようにうかがい知ることができるのである。
 私たちが今日過ごしている明治の時代にも、後世から振り返ってみたら太閤時代にひけをとらない人物が大勢いる。特に、茶人は知識階級に属し一代の風雅を背負って立つ人が多いから、これらの人々に関する実写的な記録を作っておいたら、後世の人が現代の半面を想像することができるにちがいない。その上に、この茶会記によって、すこしでも茶道の興隆に寄与するところがあるならば、まことに望外の幸せであると思いついたのである。そこで、二月初旬(注・明治45から茶会記録に着手することにした。
 最初は「東都茶会記」と題し、その後「大正茶道記」と改め大正十五(1926)年までずっと時事新報に掲載し、昭和二(1927)年以降は「昭和茶道記」と改題して、昭和七(1932)年六月まで国民新聞上で継続し、合計二十一年間分を記録したので、のちの人がこの間の消息を知るのに多少は参考になるだろうと思う。

 第二の感想日記であるが、それは明治四十五(1912)年の五月中旬から執筆し始めた。
 私の考えでは、時代の事相というものは映画のように日々目の前に展開していくが、その幻影が去ってしまうと、もうそれを留めておくことがことができない。実際を目撃した者がそれを記述しておかない限り、後世の人がこれを後追いすることはできないのである。そこで、日々の事相をありのままに筆記して当時の実況を知らせることは各時代を通じての学識者のつとめだと言えるはずだが、日々見慣れ聞き慣れた事柄は、そのときには別に珍しいと思わず、わざわざ筆記しておくほどの価値もないだろうと思ってこれをなおざりにしてしまうのが、いつの時代にも起きてしまう弊害である。
 ここで、ある人が日々見聞した事実を採録しておいたならば、その人の地位や見識次第で、その記事が事実に対する証拠となる。現時点ではそれほど重要視されることはなくても、後世には、それがその時代を判断する得難い指針(原文「金科玉条」)にならないとも限らない。それが、各時代の目撃手記が大切な理由なのである。

 しかし文筆が達者な人は見聞に乏しく、見聞に富んでいる人は文筆がつたない。昔から、そのような記録を後世に伝える人がきわめて少ないということを、私はいつも遺憾に思っている。
 近代にはいってからは新聞や雑誌が盛んに発行されて、日常的な全般について報道するようにはなっているが、これらの記事がすべて事実の真相を伝えているかどうか、という問題もある。中には思惑があって事実を曲げて書かれることがないとは限らないから、これによって時代の真相をうかがおうとするのは非常に危険である。公平で思慮のある目撃者による感想日記が必要なのは、そのためなのである。

 私は以上の趣旨で感想日記を書き始めた。普通の日記のように、気温、天候、生活一般、手紙などの音信や人の訪問について記すだけでなく、学者、政治家、実業家、文筆家、芸能人と会ったときの談話内容や、そのほかにも目に触れ耳に聞いた事柄について何から何までその中に書き記したので、これを「萬象録」と名づけた。明治四十五(1912)年五月から大正十(1921)年六月までの足かけ十年間これを継続したが、その日記が山のように大きくなり、ほとんど背の高さと変わらなくなってしまったので、せっかくこんなに骨を折ってもこれを読む人がいないに違いないと思い、本録についてはこのときで絶筆することにし、以後は普通の日記をつけることにした。
 茶会記のほうは毎年まとめて刊行してきたが、萬象録のほうはむろんそのままになっており、いつかどこかの図書館に寄託して、砂の中から金を拾おうとする好事家の材料にしてもらおうと思っている。
 


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百五十二  岩渓裳川翁の詩品(下巻14頁)

 私は少年時代から漢詩が好きで、「唐詩選」「詩語碎金(注・しごさいきん)」などをひねくりまわし、折にふれ吟詠をしてみることもあった。和漢古今の詩を愛読し、気に入ったものは長編のものでもかなりたくさん暗記していたくらいである。しかしなにかに取り紛れて、不惑の歳(注・数え四十歳)に達するまで師について学ぶところまでに至らなかった。ただ明治三十一(1898)年にシナに赴いたとき、上海で日本郵船会社支店長だった鷲津毅堂門の、永井禾原(注・かげん。永井荷風の父、久一郎。久一郎の妻が鷲津毅堂)氏と知り合い、その後まもなく氏が帰国して隠居するようになってから、ときどき拙詩の添削を乞うたことがあったのと、森槐南氏が星岡茶寮で開いていた杜甫の詩の講義を、あるときに二、三回聴講したことはあった。
 さて大正の初めから私は東都茶会記の記述を始めたので、自作の詩を記事の中に挿入する必要から、岩渓裳川(注・いわたにしょうせん)翁に学ぶ(原文「叱正を乞う」)ことになり、それからというもの、今日にいたるまで、おりおり翁を煩わしている次第である。
 裳川翁は丹波福知山の朽木侯の藩臣であったが、五代前の祖には、通称が帯刀で、嵩台と号した、鴻儒(注・えらい儒者)がいた。この人(注・
https://kotobank.jp/word/巌渓嵩台-1056842は京都の吉益東洞に学び、池大雅らを友に持ち、早くから京畿間で名声が高かった。当時の福知山藩主は朽木昌綱であった。古銭の収集で名高く、茶道を松平不昧公に学び、不見庵龍橋と号して深く嵩台先生の人物を敬愛した。

 そこで朽木侯は、嵩台先生を禄高二百石え召し抱えようとした。するとそのとき、高松の松平家では五百石で召し抱えようと言い、松平不昧公は千石で、と申し込まれたのだそうだ。すると嵩台先生は憤然として、「士はおのれを知る者のために死す、と言われるように、俺は禄の利益のために動く者にあらず」と言って他を断り、一番小禄だった朽木家を選んだのである。それからというもの岩渓家は、裳川翁にいたるまで五代の間、同家に仕えた。

 こうして裳川翁は、先祖からの遺伝を受けて若年のころから詩の才能を発揮し、森春濤先生に学んで、永坂石埭(注・せきたい)、森槐南らとともに、森門下の逸足(注・逸材)と呼ばれ、今ではよわい喜寿(注・77歳)を越えて、ますます詩境は進み、私の卑見をもってすれば翁と国分青厓翁とは、現今の詩壇における双璧である。不心得(原文「不倫」)なたとえになるかもしれないが、青厓が宝生九郎ならば、裳川は梅若実、また、青厓を九代目団十郎とすれば、裳川は五代目菊五郎である。さらに、明治の歌人とも比較してみると、青厓が高崎正風、裳川が小出粲というところであろうと思う。
 裳川翁は詩学への造詣が深く、才調絶倫、長作、短篇のどれをとっても、まずい作品が見当たらない。
 翁から私に贈っていただいた大作だけを見ても、伽藍洞歌、白紙行、贈箒庵長篇、読入雲日記七絶十五篇、などがある。
 そのため、翁の詩について全貌(原文「全豹」)を批評しようとすると、この場の短い文章で言い尽くすのは無理なのでそれは別の機会に譲り、ここでは翁の小品について、翁の才調がどのようなものであるか、その一端(原文「一斑」。「全豹一斑」=豹のひとつの斑を見て豹全体の姿を類推する、の意から)を示すことにしよう。
 翁の詩に、雨後凉夕と題する七言絶句がある。

  不是西風枕上伝 月明露白已凉天 中庭樹竹参差影 閉目秋声来四辺

 これは、翁がたまたま手に入れた、俳人芹舎(注・八木芹舎。やぎきんしゃ)の短冊に、「錠させば四方になりけり秋の声」という句があったので、それを転結二句に翻案したものだそうだ。

  翁がそれを森槐南に見せたところ、槐南が構想が非常に俳句に似ていると評したので、翁はしまいには種明かしをして、槐南がそうと見破った慧眼に驚きつつ敬服したそうだ。
 また、翁が穉梅(注・穉=稚。若い梅の樹?)について詠じた詩がある。
 
  曾見幺苗掀土生 数花竹外一枝横 可憐笑倚黄昏月 未解風前有笛声
  (注・曾=かつて。幺=小さい。掀=覆っているものをめくる。倚=寄りかかる。黄昏=たそがれ)

 この詩の転結は、紀貫之の「今年より春知りそむる桜花散ると云いふことは知らずやあるらん」の歌意を借用したもので、井上通泰氏もこれを見て、うまく意訳したものだと嘆賞したそうだ。
 また翁が鎌倉で作った詩に、

  春風何処訪遺蹤 唯有残僧撒手逢 花落鎌倉星月夜 五山齊打一声鐘
   注・蹤=跡)

とある。鎌倉山の星月夜というのは、昔からありふれた言葉だが、これを詩の中に挿入したのは、実に、翁が初めてだろう、
 この詩が初めてある新聞に載せられたとき、翁がたまたま別の用があって初めて渡邊国武子爵、つまり無辺侠禅(注・原文では、以下もすべて禅侠になっている)を麻布の蝦蟇池邸にたずねたところ、侠禅は、その詩が載っている新聞を手にして出てきて、花落鎌倉の星月夜は妙ですね(注・絶妙ですね)と、初対面のあいさつもまだ済まないうちに、まず感嘆の言葉を洩らされたということだ。

 また、翁が私に贈ってくださった読入雲日記十五首のうち、菅田庵を詠じた詩がある。

  壁幅瓶花賞意幽 焉知清濁有源流 一庵茶事自然趣 聞説雲州出石州
   注・焉=いずくんぞ)

これは、私が入雲日記(注・箒庵が大正259日から18日まで、松平不昧の事跡を求めて出雲に旅したときの記録。東都茶会記で発表された。管田庵は、松平不昧の指図で作られた風呂場付きの茶室。不昧が放鷹のときに使った)に、松平不昧は、片桐石州の流儀を伝えた伊佐幸琢(注・
https://kotobank.jp/word/伊佐幸琢%283代%29-1052823)に学び、別に雲州流を開いた人であると書いたのを見て、聞説雲州出石州、の句を入れられたのである。しかし雲が石から出たという言い回しは、たまたまの自然の巡り合わせで、しかもなんという絶妙な表現だろう。

 以上のように、これらの短篇をいくつか見るだけでも、いかに気が利いて軽妙な江戸趣味を含んだ才調があるかということを窺い知ることができるのである。当然ながら、それは性格から流れ出てくるもので、他人の追随を許さない翁の独擅場といってもよいだろうと思う。
 


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百五十三  裳川詩老の俳味(下巻18頁)

 私は岩渓裳川(注・いわたにしょうせん)翁の詩の作品について前項(注・152)においてだいぶ述べてみたが、このほかにもう少し、私と翁がなぜ知り合うことになったのかといういきさつや、翁の余技である俳句についてここで余談として述べてみようと思う。
 明治四十(1907)年ごろ、私は同県人の塚原夢舟(注・塚原周造)翁のすすめで、そのころ星ヶ岡茶寮で毎月一回開かれていた森槐南氏の杜詩講義(注・杜詩=杜甫の詩)を聴講したことがあった。
 槐南氏は四十前後と見受けられたが、色白の黒ひげで名古屋タイプの風采をしており、非常に雄弁な講義ぶりだった。
 そのうえ通俗な漢学先生じみた口ぶりではなく、博引傍証(注・広い範囲から例をひき証拠を示す)、自由自在で、詩格、用字の説明にはじまり、杜甫がその詩を作ったときの境遇や時勢の変遷、交友の状態などを説明するときの面白さは、まるで歴史小説を聴いているかのようだった。
 私の経験では、槐南の詩学講義と大内青巒の仏教講義は、非常に似ているところが多い。難解な意味を誰にもわかりやすくかみ砕き、誰にでも理解できるようにする力量が優劣つけがたいほどに両人ともすぐれていた。もしこの槐南が長生きしていたならば、ここでの縁で私は彼の門を叩くことになったのではないかと思うが、この人は割合に早く病没してしまった。
 そこで私は、上海で知り合った永井禾原(注・久一郎)を訪ねて、拙詩の添削を乞うたのである。しかし禾原もまた、ほどなく物故したので、あるとき石黒況翁(注・石黒忠悳)の早稲田多聞山茶会で同席した永坂石埭(注・せきたい)に依頼してみようと思い、茶友の松原瑜洲(注・新之助)氏に相談したところ、石はもちろんよいのだが、老年でしかも多忙なので、もう少し若くて気力のある人がいいのではないかという。そこで私は、松原氏の紹介で裳川翁を訪ね、ときどき自作を添削してもらえるよう、また詩歌談を聴かせてもらえるように頼んだのである。

 さて岩渓裳川翁の詩についてであるが、簡単に説明することができないので、それは別の機会に譲ることにして、ここでは翁の余技、あるいは隠し芸とでもいうべき俳句について一言述べてみる。
 前項でも述べたように、翁は豊かな詩情で俳句を吟出される。着想は軽妙、しかもそこには深い含蓄がある。それがおのずから独特の風格をそなえることになり、私などにはとても面白く感じられる。私がそう感じるだけでなく、翁の俳句は早くから専門大家の間では知られていて、しばしば敬意を表されたことがあったということだ。
 その一番の例に、このようなものがある。かつて正岡子規が新聞「日本」に寄稿していたころ、「旅の旅の旅」という、発句(注・ここでは俳句の意味だろう)入りの紀行文を書いたことがある(注・「旅の旅その又旅の秋の風」が最初の句)が、たまたま翁がこの文を見て、即座に無遠慮な評論を書き送った。子規はそれを読んで、ことのほか感服し、ある日、自身の写真を裳川翁に送ってきたその手紙に「自分は非常な肺病であるから、面会は此方より遠慮致す其代り写真をお送りするにした、而して此写真は十分に消毒したであるから、決して懸念くださるな、そして爾今音信はすべて手紙を以てするから、左様御承知下されたい」とあったそうで、子規も翁に対しては、この道の知己としておおいに敬意を表していたことがわかるのである。
 裳川翁の俳句は非常に数が多いようだが、私が翁からおききして、ときどき書き留めておいたなかでいちばんおもしろいと思われるのは次のようなものだ。
 まず春の句では、

  桜かな散るを盛りの初めにて
  似た人に呼びとめられて朧月
  遠近のけしきまとめる柳かな


夏の句では、

  五位の行く闇を追ひけりほととぎす
  稲妻にぽつかり出たり夜の山
  一つ来て藺の闇ほごす蛍かな


秋の句に、

  竜胆(注・りんどう)に砕けて白し蛇の衣きぬ
  門川や家鴨の覗く崩れ簗


そして冬の句に、

  鯨取り小さな家に帰りけり
  鶏の嘴はしあてて見る霰かな
  寝返れば鼠の逃げる寒さ哉


などがある。しかしながら私がいちばん好きな翁の句は、元旦の句で、

  今日ばかり鶴は物かは初烏
  (注・ものかは=ものの数ではない。初烏は元旦の季語)

というのと、春の句の
  分別のついた途端や落椿


である。そのほかで、すこぶる面白いものとして、

  持ち得たる闇潜り入る鵜舟かな


という句もある。これは、久須美双柳軒という旧幕府旗本出身の宗匠が、久須美は本姓を曽我といったことから、毎年、曽我兄弟の忌日(注・命日)に点取り俳句(注・点者が評点をおこなう)を集め、それを献灯にしたためて優劣をつけるという会を催したときに詠み出されたものである。
 曽我兄弟が、待っていた五月の闇に潜りこみ仇討をしたその意気を、鵜舟という語で表したところに、翁のセンス(原文「敏感」)がひらめいている。
 このほかにも俳句の専門家に負けない翁の句について検討を加えてみたら、まだほかにも多数の名句があることだろう。
 要するに翁は詩博士であると同時に句博士でもあった。その詩風に、一種、言い難い趣味があるのは、おそらく俳想を含んでいるためではあるまいか。とにかく、わが国の詩壇において、青厓、裳川の二翁が健在であることは、まったく現代の壮観であろうと思う。


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百五十四  杉老子爵の逸事(下巻22頁)

 老子爵、杉聴雨(注・杉孫七郎)先生のエピソードはすでに以前に紹介したが、先生は長州人のなかにあて一種独特な人で、禅僧のような脱俗(注・俗気のなさ)ぶりが私のもっとも敬服するところである。前項
(注・104「杉聴雨先生」参照のこと)では言い尽くせなかったことをここで補ってみることにしよう。

 明治四十五(1912)年、先生が七十八歳のある日、私は先生の平河町の家に訪ねたことがある。
 書斎の机の上に異様な硯があったのでその来歴を尋ねてみると、「れは弘法大師が唐から持ち帰ったもので、硯面の上の端に蓮花が彫刻してあるので、俺はこれを君子硯と名づけたが、発墨(注・墨のすれ具合)の見事さと言ったら、俺が長年のあいだに手にした幾百の硯の中で最高なので、非常に愛蔵しているということだった。
 そこでこれを手に取ってみると、縦八寸(注・一寸は約3センチ)、横四寸五分くらいの大硯で、石理いしめの細かさは驚くばかりである。私は、たちまちのうちに欲しくてたまらなくなり(原文「食指忽ち動いて」)譲っていただくことはできないかと盛んにお願いしたが、先生は頭を振り、これは俺の目の黒いうちには誰にも譲ることはできない、ということでこの談判は不調に終わった。
 ところがそれから一週間ほどたったとき、先生が突然、一番町の私の紅蓮軒に訪ねて来られた。例の硯を持参され、君があれほど懇望するので、よくよく考えてみれば、俺ももはや七十八歳で、余命いくばくもないから、思い切って割愛(注・惜しいものを手放す)することに決めたよと言い終わりもしないうちに、机のそばにあった巻紙を取り上げて簡単な一筆画の自画像を描き、

 とる年をかぞへてみれば七十八 おひおひ近くめでたくもなし

と自讃して、呵々一笑(注・はははと笑う)された。
 杉家は長州藩の名門である。この藩では、歴代の中に大将の首を幾つか揚げた者でなければ名門に列されることはないそうだ。先生の家では大将の首を七個揚げた名誉の経歴を持ち、代々武芸を重んじたので、先生もはやくから槍術を修め少壮のころには他流試合のために九州諸国を遍歴した。そのときには、柳河藩の道場を除いて一度も後れを取らなかった(注・負けなかった)ということだ。

 そのため先生は秘蔵の名槍を相伝しておられたが、晩年にはその穂を取って仕込み杖を作り外出の際には必ず携帯していた。それを、茶目っけがあることで有名な、同国の友人である児玉少介氏が見て、ある日のこと先生をそそのかして賭け碁をやり、児玉は、先生がかねてから垂涎(注・ほしがる)していた谷文晁の青翠山水額を提供するかわりに、先生には例の仕込み杖を賭けさせた。その一戦の結果は、マンマと児玉の勝ちとなり、児玉はあっという間に玄関へ飛び出して仕込み杖を持ち去ったので、先生はおおいに困惑された。だが児玉はもともと、いたずらの一芝居を打ったに過ぎなかったので、その杖はその後、同国人の瀬川某に与え、某はそれを仰木魯堂に贈り、さらに魯堂はこれを先生に返納した。そのときの先生の驚喜はたとえようもなく大きく、まるで多年失踪していた愛児を迎えるようだったので、魯堂はその純情にとても心を動かされたということだ。
 先生の詩作は非常にまじめで、その傑作のなかには作家の域にはいるものもある。しかしながら三十一文字のほうは、大部分が例のとおりのアソビ(原文「狂言綺語」)で、その脱俗ぶりを見せているものが多い。
 あるとき島地黙雷が、先生が洋服のチョッキに毛皮をつけたのを見て、その皮はなんですか、ときいてみると、

  ジャによつてわしが言ふ事あてにすな 表は狸裏はかはうそ

と答えられた。さすがの黙雷師も、一本取られて黙って苦笑するしかなかったという。
 またある人から、鬼の絵の讃を乞われたとき、

  追ひ出しし鬼もこよひは寒からむ 虎のふんどしよくしめて行け

としたためた。翁はその閻魔のような顔に似合わず、内面には無量の慈悲の心を持っている証拠だろう。
 また私と一緒に鎌倉に転地中の井上侯爵を訪ねたときには、「君、これはどうじゃ」と言いながら巻紙に書いてあった狂歌を見せた。
 

  稲村が崎で釣りたる太刀の魚 義貞どののかたみなるらん

  大仏のお腹の中のひろきこそ 本来空といふべかりけれ

  鎌倉は政子静の古蹟にて 山の腰にも穴のかずかず

というもので、井上侯爵も、読んで噴き出されたものだった。
 先生は下関で、福岡出身の建築技師である仰木魯堂と知り合った。魯堂が上京して初めて建築したのは、平河町の先生の臨終堂だった。
 このとき先生は、ある所蔵品を処分して金一万円を得たので、魯堂に向かって俺はこの金で棺桶を置く座敷を造ろうと思うが、設計は一切君に任せるからと言われたので、魯堂は、上段十八畳、次の間八畳の大書院を建てることにした。ところがその建築場所が、たまたま鬼門に当たるというので、杉家出入りの熊谷鳩居堂が迷信を気にした(原文「御幣をかつぎ」)。直接申し入れても取り合ってもらえないと思い、植木平之丞夫人、つまり先生の長女にさかんにやめさせるように進言したが、先生は、よしよし、俺が自分でめてやるから、決して心配せぬがよいと言って、自分でその場に行き、鬼門のほうに向かって立小便をし、これで残らず(原文「悉皆」)悪魔を祓ったよと呵々大笑され、魯堂に向かっては、予定通りさっそく工事を進行するようにと命じた。
 仰木は、いささか懸念しながらもその工事に取り掛かったところ、その後一週間過ぎて、先生に鬼門除けを忠告した京都の熊谷鳩居堂が、自店からの失火で全焼したという知らせが届いた。先生は呵々(注・大声で)と笑って、俺のほうは、俺が浄めたので、鬼門は京都に移ったのだよと言われた。
 その時建てられた臨終堂は、別名を古鐘庵ともいい、今なお平河町の杉子爵邸に現存している。(注・残念ながら屋敷は現存しないが、郷里山口県のふぐ料理店春帆楼が跡地に出店している)

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百五十五  井上侯爵と雁取茶碗(下巻26頁)

 井上世外侯爵は明治四十一(1908)年に加賀金沢に遊び、同地の名家の書画、茶器を巡覧された。しかし一度ですべてを見尽くすことができなかったので、同四十五(1912)年五月二十日に京都から金沢に再遊しようということになり、私もその一行に加わることになった。
 金沢に到着してみると、本多(注・政以まさざね)、横山(注・隆俊)の両男爵をはじめ金沢の諸大家が総動員で迎えてくれた。彼らは宝庫を開いて見せてくれたほか、兼六公園の成巽閣に展観のための席を設けて侯爵の臨席を願い出る人もいた。
 特に今回は、加賀出身の三井銀行専務の早川千吉郎氏が案内役(原文「東道」)で、また日本銀行副総裁の高橋是清男爵のちに子爵も一緒になったので、滞在の数日のあいだに名器、名物を、いったいいくつ実見したかわからない。
 世外侯爵もことのほか満足したようだったが、その数々の展観物のなかで侯爵の注意をいちばんひいたのは、能久治氏所蔵の、利休が銘をつけた、長次郎作の茶碗「雁取」(注・東都茶会記には「がんどり」のルビ)だった。

 この茶碗に雁取の名があるのは次のような次第だ。あるときに利休がこの茶碗を芝山監物に寄贈したところ、その返礼として鷹野の雁をつかわした。すると利休が、

  思ひきや大鷹よりも上なれや 焼茶碗めが雁取らんとは

という狂歌を書きつけたものを、また返事として送った。それが一軸になり、この茶碗に付属しているので雁取と呼ばれるのである。
 しかしいつのころからなのか、この雁取の文と茶碗とが離れ離れになってしまった。文のほうは、かなり昔から加賀の本多男爵家にあり、茶碗のほうは京都の某家にあった。
 その茶碗を能氏が買い取った。このとき文と茶碗とは、同じ金沢でわずかの距離(原文「咫尺(しせき)の間」)に接近したのに、ついに対面することはなかった。
 そして本多家蔵器入札の時、その文だけが井上侯爵の手に落ちたのである。そして、例の同情深い老侯爵は、今度の加賀行きに際して、みずからこの文を携え、能久治氏の家で文と茶碗を一緒にして飾り、絶えて久しき両者の対面を遂げさせたのである。
 能氏の驚喜もただごとではなく、老侯爵もまた非常に満足した。そして心中には、いつかは一度この文と茶碗を一緒にしないわけにはいかないという希望を抱かれたことだろう。
 井上侯爵が加賀金沢で、雁取茶碗の文と茶碗を対面させたのが明治四十五(1912)年五月だったが、それからわずか二年半後の大正三(1914)年、能氏は京都において他の蔵器とともにこの茶碗を入札売却に出した(注・5月京都美術倶楽部にて)。しかしその値段が予定に達せず、親引(注・入札者に戻ること)になってしまったのを京都の道具商の林新助氏が調整して古河虎之助男爵に納め、男爵は世外侯爵の八十のお祝いとして、これを老侯爵に呈上(注・さしあげる)することになったのである。

 このときの、古河家(注・古河財閥)の重役だった中島久万吉男爵のちに商工大臣から世外侯爵に送られた書簡には次のような一節がある。(注・旧字を新字になおしたほかは原文通り)
 
(前略)利休雁取の文は御縁有之候て、夙(つと)に侯爵閣下の御手に帰し、文と茶碗とは相添ふべくして、竟(つい)に相添ふ事を得ず、然るに先年侯爵加州御行の砌(みぎり)、親ら彼の文を御携帯ありて能家に於て絶えて久しき両者の対面を遂げしめられ候段、侯爵閣下御風流の御襟懐、当時茶界の一佳話として伝へられ候。其後内田山八窓庵の大茶の湯に於て、文と茶碗との再会有之候由、伝承仕候処、爾来茶碗は復た加北の地に去りて、再会期し難く、真個蘇武朔地の歎茶界終天の恨事とこそ可申候、惟ふに両者は竟に久しく相離るべきに非ず、実に箒庵高橋義雄氏の申され候如く、茶碗が文を取るか、将又文が茶碗を取るか、茶道の結ぶの神の胸秘の程、偲ばれ候次第に有之候。然る所、其結ぶの神の手引なれや、今回故ありて彼の茶碗、古河家の養女となりて引取られ候に就ては、同家より不遠黄道吉日を卜して、彼の文の許に入輿為致可申都合に付、爰(ここ)に結納の一札、小生より差入申候、何卒千代万世の行末かけて、御納被成下度奉願候、謹言

 大正三年臘月(注・12月)二十九日
                             中島久万吉
 井上侯爵閣下

 このような次第で、雁取の茶碗と文はついに一緒になった(原文「比翼連理の契りを結ぶに至った」)。日ごろから世話好きで、私などにさえも結婚媒酌の世話を焼いてくださった世外侯爵が、他の媒酌人によって雁取の文と茶碗との結婚を見るにいたったのは、つまりは侯爵の長年の世話好きの報いというべきだろう。
 こうして雁取茶碗は純黒の、長次郎特有のカセ(注・釉薬の一部がはげ落ちること)も少なく、胴が少し締まり、口は少しすぼまり、外面は胴からその下にかけて飛雲のような横一寸(注・約3センチ)、縦四分(注・約12ミリ)ほどの景色があるのみ。濃茶茶碗として大きすぎも小さすぎもせず、その閑寂幽玄の趣は長次郎の作の中でも白眉と称するべきものである。今でも侯爵家の宝蔵の奥に収まっているので、いつか一度はその姿を現して茶人を喜ばすことがあるだろうと思う。(注・現在はサンリツ服部美術館蔵)
 


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百五十六  藤田男と大亀香合(下巻30頁)

 大阪の大実業家である藤田伝三郎男爵は、明治四十五(1912)年三月三十日、藤田組の経営する小坂銅山が成功し家運隆々の真っ最中に、その波乱多き七十二年の生涯を終えられた。実業家としての男爵についてはすでに以前に記述したことがある(注・69「藤田伝三郎男」を参照のこと)ので、ここでは美術品鑑賞家そして美術品収蔵家としての男爵について語ってみることにしたい。
 藤田男爵は美術品の鑑賞、収蔵において、明治時代の第一人者であるとは言わないまでも、まさに傑出した一人であることはまちがいない。
 コレクションは多岐にわたって(原文「八宗兼学」)いた。天平時代の品物から宋元の古画、和漢の仏画、古筆、古墨蹟、陶器、銅器、蒔絵、近代の各流の書画にいたるまで、類別的に収集した品数の多さでは全国でも肩を並べる者はないであろう。
 あるときに、私と益田男爵とが藤田男爵に所蔵の宋元の古画を一覧させていただきたいと申し込んだところ、男爵からの答えはご覧には入れるが、ただ、宋、元とだけ言われても困ってしまう、宋元の馬氏とか、夏氏とか、李氏とかと分類して御所望願いたい」と、このように大きく出たので、ふたりとも実に驚いたものだった。
 男爵が私たちにこのような大言を放ったのは、少しばかり相手を見損なっていたからだともいえるが、とにかく、男爵のコレクションがいかに豊富なものだったかを証明するに足る話だろう。
 男爵が大阪の網島邸に宝蔵を建てるとすぐに内部一面には木版を張り合わせ、その間には乾砂を詰め込み、さらに銅板を張り巡らすなど建設の最初の段階から完全に湿気防止をした。この宝蔵が落成したときには私たちに向かって拙者の倉庫は即日名器を入れても差し支えないように構造したと、その苦労談を語られていたものだ。
 男爵は、名器を購入するにあたり一度もその値段をきいたことがなかった。道具屋が品物を持参すると、それを見て、ただいるとかいらないとかと言うだけなので、出入りの道具商はその買いっぷりを喜んで、名品が出てくるや必ず藤田家にそれを持参し、まずはいるかいらないかを確かめた上で、はじめて他家に持ちまわるようになったのだそうだ。
 ところで男爵の道具鑑定においての天狗ぶりは天下無敵で、誰をも眼下に見下すような傾向があった。たまたま上京したときに好事家の道具を鑑賞するようなことがあっても、この品はかなり上手ではあるが、俺の家にはもっと出来のよいものがあるとか、この品は無傷だが、俺の家のに比べたら、少し見劣りするところがあるなどと言い、どんな品物でも俺の家にないものはなく、俺の家のものより好きになるものはないというのが男爵の器物鑑定における建前なのだった。

 そういうわけで、私はいささか小癪にさわる思いもしたものだから、その揚げ句にいたずらっ気を出し、あるとき男爵を牛込矢来町の酒井忠道伯爵邸に案内し、同家の道具の虫干しを拝見させてもらいに連れて行ったことがあった。
 このときに酒井家の書院に陳列されていた品物には、次のようなものがあった。
 茶入では、飛鳥川、橋姫、畠山、国司茄子、木下丸壺、利休鶴首、寺沢丸壺、玉柏、北野肩付、羽室文琳の十点があり、天目には、油滴、虹、夕陽。花入には、青磁吉野山、古胴角木があった。墨蹟には、無準(注・ぶじゅん。牧谿の師、無準禅師)、兀庵(注・ごったん)。絵巻物には、伴大納言、吉備大臣入唐があった。
 このような銘器、名幅の三十六点が、所せましと並んでいたものだから、さすがの男爵も唖然として、世間には「俺が家」以上のコレクターがいることを初めて知ったのであった。また、大阪に住んでいるためふだん大名道具を間近に見る機会がなかったので、自分のコレクションに宋元、あるいは、日本の古画が不備であることを自覚したのだった。
 このときから、この不備を埋めるために急に私などにも依頼が来たので、私の手だけでも、前後、数幅を周旋したし、また男爵が井上侯爵に頼んで深川鹿島家所蔵の夏珪の山水幅を譲り受けたのもこのような動機から出たものだったのである。(注・106にこの経緯の短い説明あり)
 藤田男爵の道具好きについては、ここにもっとも有名なエピソードがある。明治四十五(1912)年の三月末大阪で行われた、生島家蔵器入札のときのことである。
 出品されたものの中に交趾焼の大亀香合があった。この香合は、名物香合番付で昔から大関(注・横綱はなく大関が最高位)の位置を占めているもので、松平直亮伯爵所蔵の不昧公遺愛の同香合と、天下の双璧として知られているものである。それに先立つこと藤田男爵は、道具好きの割には、みずから茶会を催すことがあまりなかったので、適当な名品が揃ったら生前に一度は会心の茶会を催してみたい、ということで、だんだんに器物を集め始めた。そして、あとは交趾の大亀香合さえ手に入れたら、思い通りの道具仕立てができるからといって何度もこれを所望したのだが、生島氏がこれに応じることはなかった。そんなことで、なすすべもなく月日を送るうちに、藤田男爵は大病にかかってしまった。
 生島家蔵器入札の当日は、まさに、男爵の臨終の日だった。男爵は、前々から欲しくてたまらなかった(原文「兼て執心の」)大亀がいよいよ入札市場に出たので、是非ともこれを買おうとしたが、その入札金額が、生島氏の希望額に達していなかったために、親引(注・売立を請け負っている道具商に戻ること)になってしまった。
 そこで藤田家のお出入り道具商であった戸田弥七露朝は、藤田男爵の病床に進み出てその指示を待った。そしてとうとう示談で、当時のレコード破りの九万円で売買の相談がまとまったのであった。

 この吉報のたずさえて戸田が男爵の病床に駆けつけたときは、今や男爵が最期の息を引き取らんとする時だった。耳元で声高に大亀を取りましたから、ご安心なされませと伝えたところ、その声がよく心根に徹したとみえて、男爵はニコリとして安らかに瞑目されたという。
 この一事は、男爵のふだんからの道具への執心が臨終の際までも変わることがなかったことの証拠で、後世にも伝えてゆくべき美談である。藤田家が大正時代において天下屈指の大コレクターになったのは、男爵にこの意気があったからであろう。


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百五十七  五世清元延寿太夫の生立(上)(下巻34頁)

 私は大正初年に同好者とともに麻布狸穴に清元倶楽部を設け、五世清元延寿太夫を招聘して数年間、清元の直伝を受けたことがある。そのため延寿太夫の人となりや芸風について語るべき多くの材料を持っている。だがここではそれを語る前に、まずはその生い立ちの一端を物語ることにしよう。
 五世清元延寿太夫岡村庄吉は祖父を斎藤彦兵衛、父を萩原平作といった。祖父の斎藤彦兵衛についてはおもしろいエピソードが伝わっている。
 徳川十一代将軍家斉公時代に、三河島に住んで御城付御庭番の親方を勤めていた伊藤三郎兵衛という者が、盆栽好きの将軍から何かの盆栽の御用を仰せつかった。彼はとくに考えもせずにお受けしたのだが、さてこれを手に入れようとすると府下のどこの植木屋を探しても持ち合わせがない。困り果てて切腹してお詫びするほかはないという苦しい状況に追い込まれた日、足をすりこ木にして、ほうぼうを回った帰り道に、飯田橋の植木屋、斎藤彦兵衛の前を通りがかった。手下の者を振り返って「ここにも一軒植木屋があるが、こんなケチくさい植木屋にあの盆栽があるはずもなかろう」と言って通り過ぎようとしたが、その手下の者にいさめられ、では念のためにと斎藤の店に立ち寄った。
 するとそこの主人である彦兵衛は自身が非常な盆栽好きで、いろいろな珍木を集めていたのである。伊藤が血眼になって探していた盆栽も一鉢持っていたので、伊藤の悦びははかり知れなかった。即座にその盆栽を譲り受け、首尾よく将軍家の御用を果たした。そして、その礼の気持ちから、斎藤を幕府御庭番に推挙したのだそうだ。

 斎藤という人もひとかどの器量を持つ人物だったので、ここから出世の糸口をつかみ、非常に裕福になったということである。というのも将軍家斉の豪奢は有名で、毎日のようにお居間の庭を改造させるのである。だから御庭番は夜間に大勢を率いて池を掘り、築山を造り、樹木を植え替え、翌朝までにお庭の景色を完全に一変させるのが常だった。その経費が莫大な分、御庭番の収入もまた莫大だった。しかも毎日のことだったため、一回使用した樹木や石材を再三利用するという方法が取れたので、そのために斎藤家はたちまちのうちに大金持ち(原文「大富限者」)になったのだそうだ。
 実子が三人いたなかで、長男は家を継いで父の名の斎藤彦兵衛を名乗り、次男は亀次郎といって、横浜富貴楼の女主人お倉の亭主になった。三男は、向島の三囲あたりの植木屋萩原家の養子になって、萩原平作となった。それが、五世延寿太夫の実父である。
 さて斎藤彦兵衛は、今話したような幸運から大金持ちになり、高田馬場近くに広大な地所を求めて飯田橋から移転したが、そのとき縁の下に埋めてあった金銀入りの大甕を運ぶことになった。物が物なので、子供達の目に触れさせないようにと配慮して、三人を一時的に倉庫の中に閉じ込めた。しかし子供たちは倉庫の窓から覗いて見ており、甕の中には金貨があることを知った。そのとき、「うちにはあんなにお金があるから、みんなで十分に使おうではないか」と三人で申し合わせたということだ。
 こうして、斎藤家は長男が家を継ぎ、萩原家の養子になった三男の平作は同じく三人の男子を得た。
 さて、五代目菊五郎がこの平作と親しく、ときどき萩原家を訪ねてくる仲だった。そんなとき菊五郎は、植木屋の半纏を身に着け、剪定の刀を持って刈込をしたりするのがうまかったのだそうで、そんな関係から、萩原家が窮乏したときに一番下の息子の菊之助を菊五郎が養子にもらうことになった。そして、次男の兼次郎は、横浜富貴楼の養子になった。

 平作の長男の庄吉、すなわち、のちの五世延寿太夫は少年のころから乱暴だったので、とうとう売れ残りになっていた。萩原家は維新の前後に「軍用金」と称してしばしば浪士たちの強盗にあい、そのころまでには見るかげもない困窮に陥っていた。平作も病没したため、庄吉は、明治元(1868)年七歳のときに伯父である高田馬場の斎藤彦兵衛のところに引き取られ居候になった。
 さて、この伯父彦兵衛の妻は、元猿若町の芝居茶屋である松川屋のお藤といい、昔は一枚看板の美人(注・「一枚絵に描かれたくらいの美人」の意だろう)だったが、庄吉が居候になったころには斎藤家の主婦として家事一切を切りまわしていた。庄吉の目から見ればほとんど鬼婆のようであったが、しかしながら後年振り返ってみると、その思慮深い振る舞いにずいぶん感心するべきところがあったということだ。
 たとえば、我が子には白米の飯を食わせながら、庄吉には他の職人と同じ麦飯を出した。田舎だったので味噌搗きがあったのだが、背が届かない子供のためにわざわざ高下駄を作り、その味噌搗きの仲間に入れさせた。また七歳の子供が運べるくらいの弁当籠を作り植木職人の仕事場に運ばせるなど、預かった子供を厳しく教育する見地からこのような扱いにおよんだのだという。
 そのころ庄吉が通っていた近くの手習師匠が斎藤の家に来て庄吉を養子にくれ、と懇望したとき、お藤はきっぱりとこれを拒否した。私の実子はどうなってもよろしいが、庄吉は預かり子で、一人前に育て上げなくてはならないので、養子など、もってのほかでありますと答えたのを、庄吉は物陰から立ち聞きした。さてはこの鬼婆、心あって自分を酷使していたのかと悟り、はじめてそのありがたさに気付いたということである。


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百五十八  五世清元延寿太夫の生立(下)(下巻37頁)

(注・157・五世清元延寿太夫の生立(上)からの続き)
 

 斎藤家の主婦、お藤は、庄吉の教育についてひそかに心を配っており、高田馬場のような片田舎に長いこと置いておくのは本人のためにならないとして、庄吉は十一歳のころから神田皆川町の親戚のところに預けられることになった。
 ここでいろいろな修業をさせ明治九(1876)年、庄吉が十五歳のときに、そのころ兜町に創立された三井物産会社の小僧として住み込ませることにした。
 当時小僧はひとりだったから庄吉は、三井物産における小僧の家元だといってもよかろうと後年、本人が冗談で言っていたものだ。
 十九歳で、庄吉は三井物産の横浜支店に転勤した。そのため当時支店長だった馬越恭平氏との親密な関係がうまれた。弟の兼次郎が富貴楼の養子になっていて、またそのころの富貴楼には伊藤、井上、大隈をはじめとする高官や紳商の会合が頻繁におこなわれていたので、庄吉もしじゅう富貴楼の家に出入りしていた。
 あるとき、琴の名手だった中能島松声と清元お葉とが、「お菊幸助」を掛け合いで語ったことがあった。あの「白山さんに願かけて」のくだりに来たとき、甲高いほうを中能島が、低いほうを、お葉が唄った。その美声といい節回しといい、得も言われぬ妙味があったのに感じ入り、庄吉自身も清元が大好きになり、このときから清元の門にはいったのである。このときさかんに研鑽したことが、後年に家元になる素地を作ったということである。
 庄吉は二十四歳になるまでの足かけ十年、三井物産会社で奉公していた。そのころ横浜ではドル相場が流行し、多少の山っ気があれば、ほとんど誰でも相場に賭けてみるという状況だった。それで庄吉もたまたまやってみたところ、とんとん拍子で当たりまくり、一時は五、六万の大金を握るまでになった。
 それで奉公しているのが馬鹿馬鹿しくなり、血気盛んな年ごろだったこともあり、それから二十九歳までは、あらん限りの道楽をやり尽くしたそうだ。そのころは、一年に一万円も使えば大尽風を吹かすことができた時代だったので、自分の好きな清元お葉や先代梅吉などをひいきにして、彼らを座敷に招いたりもした。
 ある晩、お葉、梅吉などの清元連中を誘って高島町の某楼で遊んだことがあった。そのとき何かのはずみから、お葉が清元家の現状を話し始め借金はあるは、後継者はないはで、このままではどうにもならないので、あなたが養子になってくれませんかと言い出したそうだ。

 一方、庄吉はというと、二十九歳とき「座して食らえば山も空し(原文「山をも尽くす」)」のたとえにもれず、その後すっからかんの一文無しになってしまった。自分は三十までは勝手気ままに遊んでいるが、三十になったら必ず身を立てなければならないと決心していたことをそのときになって思い出した。それが来年には三十になってしまう。ここでなんとか身の振り方を決めなくてはならないと気づいたそのとき、以前お葉から養子にならないかと言われたことを思いした。
 そこで、そのころ浜町の花屋敷に住んでいた清元家を訪ねたところ、お葉はその日、浜町の岡田家の店開きの余興に呼ばれたという。そこで続けて岡田家のほうに押しかけたところ、玄関で客と間違えられてしばらく滑稽な展開となったが、とうとうお葉と梅吉が休んでいるところに乗り込むことができた。
 そこで、いつだったか自分を養子にすると言ってくれたことがあったが、私も持ち金を使い果たしてしまい一文無しになってしまったので、あなたの養子になる気になったので、どうか承知してくれないだろうかと相談した。
 そのときお葉は、しっかりとした女であるところを見せた。亭主の四代目延寿太夫にさえも相談せずに、それはありがたいことだ、でも清元の家には今、三千八百円の借財があることを承知してもらいたい、それから、あなたを養子にもらったら富貴楼から苦情が出るので、あなたは三年間ばかりは富貴楼に出入りしないという決心をしてもらいたいと言ったのだった。

 庄吉はこの条件を承諾した。そのかわり、婿養子にはなりたくないので岡村家に女子がいても、自分の妻は自分で選ばせてほしいと言った。この双方の意見が一致したので、庄吉はいよいよ清元の養子になることが決まったのである。
 さて、清元家に養子ができたということを聞いて、十一人の借金取りが一度にどっと押しかけてきた。そのときお葉夫婦はそれを庄吉に任せて、どこかに身を隠してしまうという始末だった。庄吉は、前から懇意にしていた浜町の待合である弥生の主人から、若干の金子(注・きんす)を借り受けて、借金整理に取り掛かることにした。
 ところが、最初は三千八百円と言っていたのが、だんだん増えて、四千二百円ほどになっていたので、さらに調べてみると、某高利貸しの借金など、初めは五十円だったのが、今では三千円余りになっていたのだった。そのほかは米屋、酒屋といった小口ばかりだったので、その人たちを集めて、全額の二、三割に当たる金額の金を財布ごと彼らの前に投げ出した。そして、まず、これだけを受け取ってほしい、その分配は、よろしく頼むと言った。
 そのやり方が債権者たちの気に入り、みな庄吉のことを信用した。そこで庄吉もさかんに金策に励んだ。返済するたびに若干の割引をしてもらえるようになり、半額くらいの金額で全部の借金を返済することができたのだという。
 こうして岡村家の債鬼を追い払った庄吉は芸道に一意専心精進し、明治三十(1897)年には五世延寿太夫となった。その披露のときに発表された青海波そして柏の若葉の新曲は、今でも清元の曲の中で人気のものになっている。お葉の高弟であるお若を妻にし、清元の至芸が一家に集まり、近世における清元興隆の気運を開くことになったのである。
 


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百五十九 女流常磐津(下巻41頁)(注・原文では「常盤津」となっているが、ここでは以下「常磐津」に統一する)

 明治末期以降の東京の花柳界において各種の音曲芸能がいちばん発達した場所は、誰がなんと言おうと新橋である。
 新橋には芸人の頭数が多く、またやってくる客層がよいだけでなく、そこで指導的立場にいる人たちが芸道を奨励することが土地の繁昌の良策であるとして、最近ではその機関として演舞場(注・新橋演舞場)を設立するなど、各種の施設が、比較的よその土地よりも完備しているのである。清元、常磐津、長唄などのすぐれた女流芸人が揃っている(原文「顔揃い」)という点で、新橋は東京一、つまり日本一だと言わなくてはなるまい。
 新橋に清元を発展させたのは、前項(注・139「清元師匠お若」を参照のこと)でも述べたように、清元お若の力だった。それに対し常磐津を今日のように盛んにさせたのは、老妓、お粂の熱心な努力によるところが多いということだ。
 もちろん、お粂ひとりの努力だけではなく、先代の常磐津文字兵衛が、長年、親切に稽古をつけ、今の文字兵衛もそれを熱心に継続し続けたことが、年がたつごとに大きく報いられたということは言うまでもないことであろう。
 それより以前は、新橋の女流芸人では清元が一番の粒ぞろいで、常磐津よりもずっと上を行っていた。木挽町の田中家を会場としていた若葉会は、東京の紳士連中を聴衆に毎月一回の演奏会を催していた。
 これは、お若仕込みの節回しで、聴衆の人気は長く続き、会を重ねること二百回以上になったというだけで、このときの隆盛をうかがうことができる。
 しかし、大正十二(1923)年の地震火災で田中家が焼失してしまったあと、ほどなく同家は再興したにもかかわらず、あとに続く者が出てこなかったために、若葉会もいつの間にか解散してしまった。

   また、お若も病気がちで稽古を辞めることになってしまい、清元はだんだんと衰えを見せるようになった。
 それと反対に常磐津の勢いが大きくなり、例のお粂の努力がそろそろ効果を現わし始め、長年押されぎみだった清元に対抗しようとする一致協力の努力も加わり、唄には今栄、小助、駒代、綾治など、三味線には小春、若龍、稲奴など、いずれも女流芸人として一騎当千の面々が、それぞれの特長もって陣頭に立つようになった。
 築地新喜楽を会場に毎月一回開催する常盤会は、いまでは百数十回を重ね、常磐津全盛の観を見せるようになった。
 その常磐津連中は、先輩が後輩のことをよく引き立て、さかんに流派の発達につとめているから続々と後継者も現れてくるのではないかと思う。
 しかし今の花柳界の風潮は、時代の流行の影響で、茶屋、料理屋にダンス場を新設するところさえもある状況である。指導者がよほどしっかりと決心して一致団結して流派を守っていかなければ、大きな濁流に押し流されてせっかくの女流芸術もあとが続かなくなるかもしれない。
 私は、今の女流常磐津の先輩たちが、お粂姐さんらの遺志をしっかり継いで、せっかく新橋に成長した江戸伝来の芸術の花を衰えさせることがないよう一層努力することを切に希望している。

  

日本の女優(下巻43ページ)


 日本には昔、阿国(原文「お国」=おくに)歌舞伎といって、女優もいたのである。しかし徳川時代を通じて東西の劇場には、いわゆる女形の男優が跋扈(注・ばっこ。のさばること)し女優の役目を占領した。

 瀬川菊之丞だの、岩井半四郎だの、最近では中村歌右衛門、尾上梅幸などという名優を輩出したためか、今日に至るまで西洋諸国のような女優の発達が見られないのは非常に遺憾なことである。
 ただ明治中期には、市川九女八という女優がいた。川越の郷士である横田彦八の娘で、弘化元(1845)年に神田豊島町に生まれた。生まれつき踊りが好きで、六、七歳のときから坂東三枝八の弟子になり、のちには岩井半四郎に入門して岩井九女八(注・粂八)と名乗った。
 また市川団十郎の芸風を学び、しまいにはその門弟にもなり市川升之助(注・升之丞か?)と名乗っていたこともある。いわゆる「団洲張り」の勧進帳を演じ、一時は女団洲と呼ばれるに至った。(注・団洲とは団十郎の号)
 私も何度か、彼女の山姥、鷺娘、保名などを見物したが、男女の役をどちらもこなし、なにをやってもうまかった。
 六、七歳から七十歳まで、ずっと舞台の人であり続けたが、大正二(1913)年七月に浅草みくに座で保名と山姥を毎日三回ずつ繰り返していたときに、ついには舞台の上で力尽きたということで、これなども明治の演劇界における女優第一人者たるを示している。
 なお彼女の下には演技力抜群の女優がおおぜいいたが、なかでも米花(注・べいか。岩井米花)というのは、男役をやるときに驚くような技量を示した。九女八や米花は、長い間、神田の三崎座でかなりの一座を形成していた。しかしその後は彼女らに匹敵するような女優が出なかった。
 明治末から大正にかけては松井須磨子が、やや将来のある女優と思われて、カルメンやカチューシャなどの翻訳もので独特の気迫あふれる芸風を見せていたものの、惜しいことに若死にしてしまい、その熟欄期を見ることができなかった。(注・カチューシャとは、トルストイ原作「復活」の主人公名。劇中歌「カチューシャの唄」が大流行する)
 また明治の末期に帝国劇場が建設されると、そこで何人かの女優を養成した。その第一期生の中には多少の頭角をあらわした者もあったが、際だった異彩を放つような者をついぞ見受けることがないのはなぜであろうか。それは、日本の劇場には、今でもなお男性の女形が跋扈しているので、それを蹴落とすほどの女優が出現する余地がないからなのだろうか。
 私が生きている間には、日本にはサラ・ベルナールもエレン・テリーも、見ることはできないのかと思うと、まことに残念でならない。女流芸術家たちには、ここで奮起してもらい、あまり遠くない未来に世界的な大女優の二人や三人は出て、わが国の劇場を飾ってほしいものだと思うので、ここにその希望だけでも述べておくことにしよう。


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百六十  高野山霊宝館の発端(下巻45頁)

 私は明治四十五(1912)年から趣味に生きる人間になったので、美術、工芸、文学に関する各種の事業において、みずから進み出たり人から推されたりして奔走することになったそのようなもののひとつに、同年の六月から発足して約十年後にようやく完成した高野山霊宝館の建設事業がある。
 そもそもこの事業は高野鉄道の発起人である根津嘉一郎氏らが、この鉄道を繁昌させる方策として高野山に宝物館を設けようと提唱したことに始まる。ひとつには一般人に観覧の機会を与えようということと、もうひとつには火災の危険を防ぐ必要があると提唱したのである。弘法大師の信仰者であり、また同山の宝物の真価を知り尽くしていた益田孝、朝吹英二、高田慎蔵の諸氏が賛成し、彼らが私に趣意書の起草を非常に熱心に依頼されたので、次のような大要の一文を作りその求めに応じることになった。これが高野山霊宝館の建設のはじまりだった。

   高野山霊宝館建設趣意書(注・旧字を新字にあらためたほかは原文通り、なお、「萬象録」明治45年6月29日にも同趣意書が掲載されているが、文言が微妙に違っている。後者は、たとえば「本邦名刹はと問ふ者あれば人先づ指を高野山に屈せん」で始まっている)
 

人あり若し本邦の名刹を問ふ者あらば、必ず先づ指を高野山に屈せん、此一事開山大師の徳業が、如何に当山に集中せるやを示すと同時に、之を永遠に保存するの必要も、亦自づから明白ならん、而して此保存事業中、即今一日も捨て置く可からざるものは、高野山霊宝館の設立即ち是れなり、由来当山の宝物は、大師の唐朝より請来したる書画、法器、歴代聖僧の手に成れる仏体、仏具、各種の図像、詔勅、官符、衣裳、刀剣、凡百器具書類に至るまで、歴史に於て信拠すべく、法儀に於て尊重すべく、美術に於て鑑賞すべき者にして、既に国宝に指定せられたる者、百数十点の多きに及べりと云う。然るに此等の宝物は、総本山たる金剛峯寺の所管に属する一部分の外、或は各寺院、或は各個人の名義に属して、統一集中の道を得ず、第一火災、第二湿汚の危険あるのみならず、其取扱の不完全なるが為め、毀壊相継ぎ、遂に宝物たるの真価を失ふの恐なしとせず、聞くが如くんば高野鉄道は、早晩其工程を進めて、汽車の山頂に往来するに至るも、亦応さに(注・またまさに)遠からざるべしと。果して然らば、山上の人煙更に加り、参詣の群衆更に倍する事必然にして、此際因て生ずべき不慮の災難を防ぎ、因て要すべき観覧の便宜を謀り、茲に高野山宝物館を当山内に設立するは、豈に焦眉の急事業にあらずや。是れ啻(注・ただ)に祈願報恩の為めのみにあらず、今後永く大師以下諸名僧の遺烈を仰ぎ、又平安朝文献の余影を留め、本邦歴史文学美術の参考に資する所以にして、其関係する所重大なりと云べし。大方の諸賢、冀(注・こいねがわ)くは某等の微志を賛助せられ、速に浄財を喜捨して此発願を成就せしめ給はんことを、熱願渇望の至りに堪へず、某等敬白。
 明治四十五年六月吉祥日


 この趣旨については、高野山金剛峰寺の管長、密門宥範大僧正らももちろん大賛成で、宝城院住職の佐伯宥純師を全権委員に任命し、いよいよ資金勧化にとりかからせた。佐伯師は、僧侶の中では稀に見る敏腕家で、しかも非常に熱意をもってこれに当たられたので、事業は非常に進行した。
 ところが大正七(1919)年七月に上京のおり、腸チフスにかかり突然遷化されたので、ここでいったん頓挫することになった。その時、馬越恭平翁は非常な義侠心を発揮し、この事業を完成させなければ死んだ佐伯師に対して合わす顔がないとして、私と野崎広太氏を補佐役にして、三人が協力して資金を募集することになった。
 当時は好況な時代だったので、諸大家の蔵器入札会が頻繁に行われたのを幸いに、その入札に関係した札元などを説得して、その手数料の一部を何度も喜捨に回してもらった。そしてとうとう十二万円ほどの資金を集めることに成功したので、今回は、最初から縁故が深かった益田孝、朝吹英二、馬越恭平、根津嘉一郎、原富太郎(注・三渓)、野崎広太と私の七名が、不足分を各自七千円ほど出し合って建設費の十七万円とし、さらに高野山から補給された十万円余りと合わせて霊宝館建設に着手した。
 木材はすべて高野山から伐り出したため費用を大きく減らすことができ、結果としては五十万円程度で霊宝館ができ上ったのであった。
 なお、佐伯師遷化のあとは、金剛峯寺執事の藤村密幢師のちに大僧正大覚寺門跡がかわって尽力し、大正十(1921)年五月十五日に、ついに開館式を挙行することができた。この開館前後の様子についてはまた後段において叙述することにしたい。(注・261「高野山霊宝館落成式」を参照のこと)
 


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