百四十一 京都祇園の名花(上巻489頁)
京都は昔から美人の多い場所で、遠く藤原時代から歴史に名をとどめる女性が少なくないが、維新後、光一【ぴかいち】として無競争の位置に立つほどの美人は非常にまれである。たとえて言うなら、天体には数限りない星があっても北極星とか宵の明星とかという誰にでもその名を知られている星がきわめて少ないように、ぴかいち美人もまたきわめて稀有だということだろう。
明治初めの京都祇園では、お嘉代という美人の名が高かった。私は、この女がある名家に落籍されて何人かの子供の母になったあとに見て昔の色香をしのんだに過ぎない。
それから十数年後の日露戦争前後に祇園町でぴかいちの名声を担ったのは、おそらく池鶴のお政だろう。この婦人は嵯峨の里に生まれ、加茂川の水にさらしたような雪の肌で、色があくまでも白く、うりざね顔で明眸皓歯(注・美しい瞳と白く揃った歯を持つ美人)。しかも中肉中背で気立てもいたってやさしく、また頭もよかった。接客術もたくみで、舞の手も相当に鮮やかだった。ただし、その玉にキズ(原文「白璧の微瑕」。陶淵明集序から)ともいえるのは、笑ったときに、より器量良しにはならないということで、むしろ無心で人前に立ったときに極上の美貌を発揮するという特徴があった。
とかく美人には薄命がつきもので、遅くとも三十代で人に惜しまれる間に白玉楼中の人となる(注・死ぬ。本来は、詩人に対して使う)のがお定まりである。そのいい見本は、「桜時雨」という狂言になった吉野太夫である。彼女を妻にした灰屋紹益はその死をいたんで
都をば花なき里となしにけり 吉野を死出の山に移して
という弔歌を詠じ、荼毘にふした遺骸の灰を酒に浸して飲んでしまったということである。吉野が死んだのは、実に三十一歳であった。
ところがお政のほうは、幸か不幸か「すこぶる」つきの健康体で、今や六十路の坂に到達しようとするまで生き延び、出会う人に今昔の感を抱かせているところが少々桁外れであるが、私の知る限りでは、まずこの人をもって近代京都のぴかいち婦人であると認定しなければなるまい。
大阪南地の明星(上巻490頁)
前記のお政から少し遅れて、大阪南地に富田家八千代という美人が現れた。お政に比べると、だいたいにおいて小づくりで、色もお政ほど白くはなかったが、鼻筋の通った美形の顔に一目で人を悩殺するやや大きな目がいわゆる千両の働きをなしていた。
非常に頭がよく、きわめて明るく、かつ玉を転がすような美声で対話する客にさまざまな話題を提供し、座を見て法を説くこと(注・釈迦が、相手を見て説法の内容、方法を変えたように、相手に合わせること)にかけては他の追随を許さなかったので、一時は南地の人気を背負って立つの観があった。
もうひとつこの婦人が珍しいのは美貌の内側に負けじ魂を秘めていたことで、当地の習慣である正月の今宮詣りの宝恵駕籠(注・えべっさんの、ほえかご)を派手に興行するぜいたくぶりには仲間の中で肩を並べる者がいなかった。
そのうえ、舞踏にかけては、はっきりと群を抜き、南地温習会(注・ミナミの舞踏発表会)でも彼女の出番には観客が倍増したということだ。
しかし、この負けず嫌いの芸妓気質が彼女の暮らしぶりにも影響したばかりか、両想いの紳士が事業に失敗して、ついに落籍の機会が失われたことは、典型的な美人薄命のようにも見えた。
しかし頭のよい彼女は、ほどなくして画家である菅楯彦の世話女房となり、大正の終わりに菅氏が東京で自作の展覧会を開いたときなど、病気ながら上京してこれを助けていた姿には同情を禁じ得なかった。
八千代は、いつのころからか、私の亡妻の千代子と知り合い同士になった。早世する女性のあいだにはなにか気質が似通うものがあるのか、あるいは、その名前の似ている偶然もあったためか、生前は互いに音信を絶つことがなかった。
明治四十二(1909)年に千代子が永眠すると、彼女は心のこもった供物を贈ってきてくれたので、私はそのやさしさを愛でて、
妻琴の音にかよひたる友千鳥 八千代と聞くもなつかしきかな
という腰折(注・自作の和歌をへたくそと謙遜するいいかた)を一首送り、そのあたたかい気持ちに感謝したことがあった。
しかし八千代はお政とは違い、ほどなく所天(注・ここでは夫のこと)の熱愛をよそに、さびしくこの世から旅立ったので、いっそう彼女の薄命に同情せざるを得なかった。
さてまた大阪南地には、八千代と同時に大和家お染という美人もいた。これは八千代とはタイプが違い、大柄で宮川長春の浮世絵の上品な御守殿上臈(注・ごしゅでんじょうろう。大名家に嫁いだ将軍家の娘に仕える高級女官)のようで、小袖幕(注・元禄時代の花見で、桜の木と木の間に綱を張り小袖を掛け連ねて幕の代わりにしたもの)の中から抜け出て桜の花の下に立ちそうなようすをしていた。
彼女は、大阪の銀行家であった野本驍氏に落籍されたが、氏の没後は南地に帰り大和家の女主人になっていたこともある。今でもまだ健在だときいているので、同じ美人ながらあまり薄命ではないかもしれない。
こうして、明治の後半から大正にかけて、京阪の臙脂界(注・えんじかい。花柳界のことか?)を見渡して私の記憶に残るのは、まずこの三人くらいである。こうしてみると、天下の美人もまた少ない哉、と言わざるを得ない。
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