だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 141‐150

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百四十一  京都祇園の名花(上巻489頁)


 京都は昔から美人の多い場所で、遠く藤原時代から歴史に名をとどめる女性が少なくないが、維新後、光一ぴかいちとして無競争の位置に立つほどの美人は非常にまれである。たとえて言うなら、天体には数限りない星があっても北極星とか宵の明星とかという誰にでもその名を知られている星がきわめて少ないように、ぴかいち美人もまたきわめて稀有だということだろう。
 明治初めの京都祇園では、お嘉代という美人の名が高かった。私は、この女がある名家に落籍されて何人かの子供の母になったあとに見て昔の色香をしのんだに過ぎない。
 それから十数年後の日露戦争前後に祇園町でぴかいちの名声を担ったのは、おそらく池鶴のお政だろう。この婦人は嵯峨の里に生まれ、加茂川の水にさらしたような雪の肌で、色があくまでも白く、うりざね顔で明眸皓歯(注・美しい瞳と白く揃った歯を持つ美人)。しかも中肉中背で気立てもいたってやさしく、また頭もよかった。接客術もたくみで、舞の手も相当に鮮やかだった。ただし、その玉にキズ(原文白璧の微瑕。陶淵明集序から)ともいえるのは、笑ったときに、より器量良しにはならないということで、むしろ無心で人前に立ったときに極上の美貌を発揮するという特徴があった。
 とかく美人には薄命がつきもので、遅くとも三十代で人に惜しまれる間に白玉楼中の人となる(注・死ぬ。本来は、詩人に対して使う)のがお定まりである。そのいい見本は、桜時雨という狂言になった吉野太夫である。彼女を妻にした灰屋紹益はその死をいたんで  
 

    都をば花なき里となしにけり 吉野を死出の山に移して


という弔歌を詠じ、荼毘にふした遺骸の灰を酒に浸して飲んでしまったということである。吉野が死んだのは、実に三十一歳であった。

 ところがお政のほうは、幸か不幸か「すこぶる」つきの健康体で、今や六十路の坂に到達しようとするまで生き延び、出会う人に今昔の感を抱かせているところが少々桁外れであるが、私の知る限りでは、まずこの人をもって近代京都のぴかいち婦人であると認定しなければなるまい。


  

大阪南地の明星(上巻490頁)


 前記のお政から少し遅れて、大阪南地に富田家八千代という美人が現れた。お政に比べると、だいたいにおいて小づくりで、色もお政ほど白くはなかったが、鼻筋の通った美形の顔に一目で人を悩殺するやや大きな目がいわゆる千両の働きをなしていた。
 非常に頭がよく、きわめて明るく、かつ玉を転がすような美声で対話する客にさまざまな話題を提供し、座を見て法を説くこと(注・釈迦が、相手を見て説法の内容、方法を変えたように、相手に合わせること)にかけては他の追随を許さなかったので、一時は南地の人気を背負って立つの観があった。
 もうひとつこの婦人が珍しいのは美貌の内側に負けじ魂を秘めていたことで、当地の習慣である正月の今宮詣りの宝恵駕籠(注・えべっさんの、ほえかご)を派手に興行するぜいたくぶりには仲間の中で肩を並べる者がいなかった。

 そのうえ、舞踏にかけては、はっきりと群を抜き、南地温習会(注・ミナミの舞踏発表会でも彼女の出番には観客が倍増したということだ。
 しかし、この負けず嫌いの芸妓気質が彼女の暮らしぶりにも影響したばかりか、両想いの紳士が事業に失敗して、ついに落籍の機会が失われたことは、典型的な美人薄命のようにも見えた。
 しかし頭のよい彼女は、ほどなくして画家である菅楯彦の世話女房となり、大正の終わりに菅氏が東京で自作の展覧会を開いたときなど、病気ながら上京してこれを助けていた姿には同情を禁じ得なかった。
 八千代は、いつのころからか、私の亡妻の千代子と知り合い同士になった。早世する女性のあいだにはなにか気質が似通うものがあるのか、あるいは、その名前の似ている偶然もあったためか、生前は互いに音信を絶つことがなかった。
 明治四十二(1909)年に千代子が永眠すると、彼女は心のこもった供物を贈ってきてくれたので、私はそのやさしさを愛でて、


   妻琴の音にかよひたる友千鳥 八千代と聞くもなつかしきかな


という腰折(注・自作の和歌をへたくそと謙遜するいいかた)を一首送り、そのあたたかい気持ちに感謝したことがあった。
 しかし八千代はお政とは違い、ほどなく所天(注・ここでは夫のこと)の熱愛をよそに、さびしくこの世から旅立ったので、いっそう彼女の薄命に同情せざるを得なかった。

 さてまた大阪南地には、八千代と同時に大和家お染という美人もいた。これは八千代とはタイプが違い、大柄で宮川長春の浮世絵の上品な御守殿上臈(注・ごしゅでんじょうろう。大名家に嫁いだ将軍家の娘に仕える高級女官)のようで、小袖幕(注・元禄時代の花見で、桜の木と木の間に綱を張り小袖を掛け連ねて幕の代わりにしたもの)の中から抜け出て桜の花の下に立ちそうなようすをしていた。
 彼女は、大阪の銀行家であった野本驍氏に落籍されたが、氏の没後は南地に帰り大和家の女主人になっていたこともある。今でもまだ健在だときいているので、同じ美人ながらあまり薄命ではないかもしれない。
 こうして、明治の後半から大正にかけて、京阪の臙脂界(注・えんじかい。花柳界のことか?)を見渡して私の記憶に残るのは、まずこの三人くらいである。こうしてみると、天下の美人もまた少ない哉、と言わざるを得ない。


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百四十二  家族の消長(上巻492頁)


 私は明治四十(1907)年に老父を失い、四十二年に前妻を亡くしたが、同四十三年に後妻を迎え翌年に初めて嫡男を得た。つまり四年のあいだに、ふたりを失い、ふたりを得たというわけで、人生の加減乗除からは逃れられない運命だと思われた。
 老父と前妻についてはすでに触れた(注・140「老少無常」を参照のこと)ので、その後の私の家庭生活に関することに、些事であるがちょっとだけ言及させていただくことをお許し願いたい。
 私の前妻は子宝に恵まれなかったので、晩年に横浜貿易商会常務の山田松三郎氏の三男を養子にもらい、その寂しさを慰めていた。しかし前妻が早世したので、私は麹町区一番町の比較的規模の大きい家に養子とたったふたりで住むことになり、家事の面で非常に不便を感じたので、翌年の十一月に、平岡熈翁の次女、楊子を後妻に迎えた。
 媒酌は井上馨侯爵夫妻で築地精養軒で結婚披露宴を催した。そのときには清浦奎吾伯爵が祝辞を述べてくださった。
 このときの余興で青海波を舞った藤間政弥の地方の唄い手は清元お若であったが、これがお若が公開の場で唄った最後になった。
 その翌年四十四(1911)年十月二十六日に、私は思いがけなく一男児を得た。媒酌人だった井上侯爵は、一昨年、伊藤がハルピンで亡くなった日に、君の息子が生まれるというのも妙なので、自分が名付け親になってやるが、君が義だから、せがれは忠として、忠雄というのがよろしかろうということで、奉書に麗々としたためて届けてくださった。相も変わらない徹底的な親切で、まことにありがたく思われた。

 私の兄弟は六人で、私を除くと、みな子福者が多く、なかには七、八人の親となっている者もあるのに、私は妻帯以来約二十年たっても、まだ一子も得ていなかったので、もはや子供はないものと思っていた。だから忠雄が誕生したときにも満足な子供が生まれるとは思えなかったのに、その子が幸いにも男子であったので、いつもながらの腰折(注・へたくそな和歌という謙遜表現)を口ずさんで、自分のために祝ったのである。


  国の為めつはもの一人捧げ得て 人数に入る心地こそすれ



家庭の音曲(上巻494頁)


 私が明治二十四(1991)年に前妻を迎えたときは、なんの考えもなかったのに彼女が音楽好きで、琴を弾き、胡弓を引き、謡曲を謡い、鼓、太鼓を打ち、しまいに三味線曲もやって河東節まで練習したというのは、もちろん夫唱婦和で趣味を同じくするためであっただろう。ところが私がまたこの上なく音楽好きであったので、一家で共に楽しみ慰め合う趣味を持てたことは人生における幸福のひとつだったと思う。
 そのため後妻を選ぶにあたっても、第一条件としてまずは音楽の趣味がある者ということで、伝統的な音楽の家庭に育った平岡熈の次女が、いいなずけの相手が病気で亡くなったことで偶然にも婚期が遅れていたのを迎えることにしたのである。それ以来、それまで以上に家庭が音楽的になることになった。
 音楽が風俗や習慣を良い方向に導いたり(注・原文「風を移し俗を和げ」=詩経の一節「移風易俗」から)、社会の融合させるのに役立つということは今さら多くを語る必要もない。シナの聖人も口を開けば礼楽(注・れいがく。礼儀と音楽。中国で尊重された)ということをうんぬんしたほどだが、私の生まれた水戸においては儒教主義が盛んだったにもかかわらず音楽を悪魔の声として嫌悪したので、私の少年時代は家庭内で音楽を聞くなどということは夢にも思わなかった。はじめて東京に出て宴会の席で三味線を聞いたときには、何やら座っていることに耐えられないような気持ちになったものだった。

 しかしその後洋行し、ホームというものを知り、中流階級の家でピアノなどの楽器が置かれていないところはなく、どうということもない近親者の集まりにもおしゃべりのほかに音楽が加わり家の中に和気あいあいとした雰囲気が漂うのを見て、なるほど家庭に音楽が必要なのはこういうことだと認識し、帰国後にはみずからの家庭でもそれを実現しようとしたのである。
 私の岳父の平岡翁が東明流の家元であり、その娘である楊子、つまり私の妻が、父親の嗜好を受け継ぎ、時には作曲をすることもあるので、私も調子に乗って(原文「興に乗じて」)ときどきそれに詞をつけたりした。
 またこれを演奏することも楽しみ、その後、稀音家六四郎にいて長唄を稽古するようになると、私の作詞したものに節付けをしてくれるよう彼に頼んだものも十曲くらいになった。私はこの世を去るまで自分が音楽を楽しむだけでなく、歌詞も節付けも、わが国の上流階級に適し品行に悪い影響を及ぼさないような新しい曲を作って、これまで夫唱婦和でともに楽しむということがなかったために無味乾燥に陥り、ひいてはさまざまな不幸が起こってしまう日本の家庭の欠陥を匡正(注・きょうせい。正しくすること)することにつとめたい。
 僭越ながら、私の家庭を見本にして、近いところから始めて、ゆくゆくは、家庭で音楽を楽しむ趣味を、遠く全国までにも普及させたいと思っている次第である。


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百四十三  音羽護国寺(上巻496頁)


 私は、新義真言宗(注・原文では真義真言宗になっている)護国寺とだんだんに深い関係を結ぶようになり、今では同寺の檀徒総代、そして護国寺維持財団理事長になっている。

 この関係が生まれた因縁は、明治四十二(1909)二月ごろ、その前年に長逝された小出粲翁のために、山県含雪公爵が篆額を、高島九峰氏が碑文を書いて記念碑を建立することになったときにうまれた。その候補地を選定している最中に、御歌所寄人の加藤義清氏が、護国寺境内にちょうどよい場所を見つけたと言われるので関係者一同で実地調査をした。相談の上で観音堂前の老松としだれ桜の間が適当だろうと決定し、加藤氏の紹介で護国寺の許可を得たのである。
 同年四月、小出粲翁一周忌の直後に現存する大石碑を建て、「寺郭公」を兼題(注・あらかじめ出された和歌の題)にして門下一同の和歌をつのったりもして首尾よく建碑式を終えることができたのである。
 そもそも護国寺は天和元(1681)年、上野国碓氷八幡宮の別当、大聖護国寺亮賢が幕府の帰依を受け、ここに伽藍の建立を開始したものである。
 その後元禄十(1697)年に、五代将軍の母、桂昌院の祈願所としてさらに観音堂(注・本堂)を建立することになり、同年五月に上棟式を終えたことが、かの有名な隆光僧正の日記に記されている。
 ところでこの観音堂は、当時全盛を誇った紀伊國屋文左衛門が、いつでも三つの寺院を建立できるだけの木材を所有していたというその木材を使って、わずか数か月の間に建て終えたという伝説が今でも寺に残っているそうだ。

 さて当寺は境内が五万坪、千代田城の西北に位置し最高の景勝地を占めていたが、維新後に二万五千坪を皇室御用墓地に召し上げられ、五千坪を陸軍共同墓地に編入されたので、今では約二万坪を有するに過ぎない。しかし東京市内にあって老樹が鬱蒼(注・うっそう)と茂り境内清浄な寺院といったら、この護国寺のみと言ってもよいくらいであろう。
 徳川将軍家が単独で建立した寺院であったから、維新前には墓地もなく檀徒もいなかった。そのために維新後はまったく維持の道を失ったが、ほどなく三条実美侯爵が亡くなり(原文「塋域を卜され」)、山県、大隈、田中(注・光顕)、山田(注・顕義)ほか、南部、酒井両伯爵家などが陸軍墓地をこの境内に定められたので、それ以来よくやく檀信徒が増え、観音堂裏手の空き地も今ではすき間もないほどになってしまった。そこで昭和六(1931)年に陸軍省から、以前に納めた五千坪の中から六百坪を分割してもらい今後の墓地の需要に応じることになったのである。
 このような次第で当寺の境内は名公巨卿(注・身分の高い著名な人々)の墓所が並んでいることから、ここを、いわゆる墓地公園とみなし、その後、宝物館も建設された。ここでは境内に埋葬される名公巨卿の遺品を陳列し、学校の生徒などが墓参をしたあとにこの遺物の参観をして広く追悼修養の助けにする目的で提供されたのである。



高城大僧正(上巻498頁)


 私は前に記したように、明治四十二(1909)年、歌人の小出粲翁の記念碑建立の際に発起人の一人として、しばしは護国寺に出入りしているうちに、護国寺第四十五世住職である大僧正の高木義海老師に拝謁する機会に恵まれた。
 老師は福井県今立郡新横江村大字横越の生まれで岡田仁兵衛の長男だが、十九歳のとき郷里を出て千葉県松戸村宝光院にはいり、文久三(1863)年、同郡根本村吉祥寺の住職となり、その後、明治三十四(1901)年に真言宗各派分立の際に護国寺に移った。ここではもっぱら自門の興隆のために尽くし、同四十四(1911)年、衆望により豊山派の管長になり、同年五月、七十六歳をもって遷化された高僧である。

 さて、私が初めてお目にかかったのは老師が七十四歳の時だった。その風采は、田舎の人のように身体が頑丈な作りで、なんら飾るところがなかった。言葉にも国なまりがあり、いかにも朴実(注・律儀で誠実)な性格をあらわしていた。率直で、「赤心を推して人の腹中に置く(注・他人を疑わず誠意をもって接する)」のおもむきがあり、私は一目で非常に敬服したものだ。
 ある日のこと、老師は真心をこめて、つくづく次のように述懐された。
 「愚僧(注・僧が自分をへりくだっていう)は久しくこの寺に住持しているが、いかんせん幕府の一建立とて檀家がはなはだ少ないため、一度本堂が破損すれば、本尊を雨ざらしにするのほかないので、愚僧は多年、食う物も食わずに倹約し、今日までに四万円ばかりの資財を蓄積したが、愚僧の余命いくばくもないから、今後この資財は僧侶よりも、むしろ俗家の手で保管してもらいたいと思う。聞けば足下(注・あなた)は、三井家につかえているそうだから、今より当寺の檀徒となって、ながくこの資財を擁護していただきたい」
 このように言われたひとこと、ひとことに誠意がこもり、その熱心さに私は非常に感激したので、さっそく墓地を購入して檀徒の列に加わった。ほどなく前妻が死亡したので、とりあえずこの墓地に埋葬し、その後護国寺維持財団が設立されると、老師の高弟であった佐々木教純師が執事になられたので、ともに老師の遺志を守り財団理事になることを承諾された鍋倉直、池田成彬の両君とも協力して財産を増殖することに助力した。
 その結果、今では十七、八万円の巨額に達したので、高城老師もさだめて地下で満足なさっていることだろうと思う。
 昭和七(1932)年五月、第四十九世護国寺住職の小野方良行大僧正が遷化されたとき、佐々木教純師がすぐに次の住職に任ぜられたことは、護国寺の将来の隆盛のためにまことに慶賀のいたりである。


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百四十四 帝国劇場の使命(上巻500頁)


 日露戦争後、それまでわが国の頭上を覆っていた暗雲が吹き払われて日本晴れの気分になった国民は、明るい方向に向かってさまざまな文化事業を思い立った。
 そんななか、海外の文明国からこれからはどんどんと貴賓が来遊してくるにあたって、それを接待するための大劇場を持たないというのは一等国である大日本の国辱である、という議論や、かのフランスで国がパリの大劇場を保護しているように国賓を接待するために特殊な劇場に相応の保護与えるのが、いわゆる時代の要求であろう、というような議論が私の周囲でも闘わされていた。すると時事新報社長の福澤捨次郎氏が非常にこれに賛成し、当時、宮中方面に大きな勢力のあった伊藤博文公爵に同意を求めたところ、公爵もまたこの説に共鳴され、渋沢栄一、大倉喜八郎、近藤廉平、藤山雷太、田中常徳、手塚猛昌らの実業方面の人々の賛同を求めた。井上馨侯爵はこれに対し比較的冷淡だったが、伊藤公爵の口添えがあり、最後には反対しないということになり、三井、三菱もそれぞれ千五百株ずつ引き受けるということになったので、明治四十二(1909)年二月二十八日に創立総会を催し、百二十万円だったと記憶しているの資本金で丸の内に三菱が所有する二千坪の敷地に一劇場を建設することになった。
 私が明治十八(1885)年ごろに末松謙澄子爵らとともに演劇改良論を唱えていたころ、伊藤博文公爵が私たちの集会にみえて意見を一度述べられたということはすでに記述したとおりであるが(注・21「演劇改良の発端」を参照のこと)、それから二十年あまりが過ぎ、今また公爵がこの運動の助成をされたのは、まことに奇縁だと言わざるを得ない。
 こうして、私が執筆した創立趣意書には、「帝国劇場創立は、現代緊急の文化事業で、一等国なる大日本が、大に外賓を歓迎するには、この設備なかるべからず、そのほか、芸術奨励の意味においても、皇室より若干の御保護あってしかるべきことであろう」というようなことを書いたと思う。
 当時私は三井鉱山の理事であったから、その内規に従い発起人や役員にはならずに、ただ文芸顧問としてすこしばかり参与しただけだった。
 さて帝国劇場は、明治四十四(1911)年二月十日に落成を告げた。この工事中に、不幸にして伊藤公爵の薨去があったので、当初私たちが希望していたような皇室との関係もまったく絶えてしまい、従ってその御保護を仰ぐことはできなかっった。
 しかしとにかくこの劇場ができあがった時には、東京、いや日本における、第一等の劇場として帝都名物の随一に数えられた。大正十二(1923)年の震災までは、所属の俳優も一流クラスの者をまんべんなく揃えたほか、劇場が自家養成した女優もいた。また海外の芸術家を招聘する際にも非常に便利な劇場施設となった。
 堂々とした陣容他を圧していたから、興行はだいたいにおいて毎度好成績を収め、その積立金が一時は資本金の倍にまでなるに至った。
 しかしその後、歌舞伎座のようなより大きな劇場が現れ、東京第一の値打ちは失われ、また、特に癸亥(注・干支の、みずのとい。この場合、大正12年)の震火災に遭い、復旧後の経営が思わしくなく、ついには貸劇場の悲運を見るに至った。これは創立当初の意気込みからするとまことに遺憾と言わねばならない。
 昭和五(1930)年、帝劇は十年の期限で劇場を松竹合名会社に賃貸し、松竹は最近ではこれを活動写真小屋(注・映画館)として使用している。このことにつき私は、あるとき松竹社長の大谷竹次郎氏に意見をきいてみたところ、氏は「帝劇は開設当時、東京随一の劇場として、満都の人気を集め、経営者各位がいずれも紳士の顔揃えなので、演劇の品位を高めると同時に、俳優の地位を引き上げ、一応その使命を果たしたのである。しかるに、その後、東京により大きな劇場が出現したので、松竹はこれを借用して、東京第一の活動小屋にした。ところがこの後に新設される活動小屋は、どれもがこれに対抗して、より大きな設備をつけるようになったので、帝劇はさらに、第二の使命を果たすにいたるだろう」ということであった。
 もちろん、演劇と活動写真に、どちらが高級かいうような特別な軽重があるわけではない。帝劇が活動小屋になったからといって、それほど悲観することはないかもしれない。しかし帝劇発起当初の抱負を回想してみると、気持ちの上で満足しがたいものがあるので、私は少しばかりの卑見を述べることにする。
 今日の日本の劇場では、一流の俳優が自己の面目を賭けて独自の技芸を熱演する機会がないように思う。二年か三年に一回くらいの順番を決めて、月並な出し物ではなく、前もって入念に研究した(原文・「工夫に工夫を凝らした」)独自の型を後世に残そうという意気込みを持たせて俳優たちに登場させるようにしたら、必ずや芸術的な向上に貢献することになるだろう。俳優の声量には限りがあるので、西洋諸国の実例に照らしても、演芸に適度の余裕をもたせるためには、現在の帝劇くらいの大きさがもっとも適当だと思われる。もしできることなら、今後そのような目的のために帝劇を利用する道はないだろうかと大谷氏に提言したところ、氏も一概にはこれを否定されず、一応考慮してみようということであった。
 いつか私たちの希望が実現し、帝劇がさらなる新しい使命を負うことになるのかどうか、今後刮目して(注・目を見開いて)見守りたい。


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百四十五 北海道の雪見(上巻503頁)


 私がはじめて北海道に旅行したのは明治四十(1907)年のことで、三井鉱山会社理事の時代に、現在同社で専務をしている牧田環君のほか二、三人と一緒に五月初旬に函館に渡ったのである。そこでは桜、桃、藤、その他さまざまな草花がどれも一度に開いて非常に見事だったので、私は次の一首を口ずさんだ。


   たちかへり都の友にほこらばや 年にふたたび花を見てけり
 
 このときの仕事は、三井にもっとも関係の深い北海道炭鉱会社の実況視察と、そのころ三井でに獲得した石炭山を踏査することだった。これに二週間かかったので夜分のつれづれを慰めるために牧田君に謡曲の松風を伝授し始め、帰り道に青森に戻ってきたときに初めて卒業免状を渡したなどというようなこともあった。
 それから一年たち、私は四十二(1909)年に王子製紙会社の社長に就任したので、苫小牧工場の建設工事の監督のためにしばしば北海道に往復することになった。
 あるとき東京から青森行きの汽車の中で、そのころ旭川師団長だった上原勇作中将のちに元帥と同車した。別れ際に中将は「この冬は是非とも旭川に来遊せられよ、北海道に来て雪を見ざる者は、共に北海道を語るに足らず」と言われたから、私はその言葉に興味をそそられそのうち仰せに従って、雪見の人となりましょうと答えておいた。
 そして明治四十四(1911)年、私は仕事で北海道に行き、旭川を経て沿道の積雪を見物しながら鵡川(注・むかわ)の山中に分け入り、上原中将は訪問しなかったが、とにかく以前の約束を果たすことができたのである。
 私が二月の酷寒の時期を選んで北海道に山中に分け入ったというのはほかでもない、王子製紙会社苫小牧工場の仕事であった。この工場では北海道の官有林から、エゾ松、トド松を払い下げて、随時、輪伐(注・森林の樹木を毎年順番に一部分ずつ切っていくこと)を行っておき、春の初めの雪解け前に積雪の上を滑らして海岸方面に運搬していた。その終点から軽便軌道によって工場に運搬するので、製紙原料木材の搬出を実地検分するには厳寒積雪中を選ばなければならないのである。
 私は二月上旬に東京を出発して苫小牧に赴いた。同行者三、四人と一緒に石狩平原を通過して、まず旭川に向かう途中、その年は特に積雪が多かったのでかつて想像もしなかったような珍しい光景を見ることになった。
 たとえば、石狩平原の民家はひさしの上まで雪に埋もれているので、かまどの煙が地下から立ち昇っているという面白い光景だった。またある家のひさしの上には、アヒルが並んで日向ぼっこをしていたが、これは池の水が雪に埋もれているので身の置き場がないからだろう。

 ところで、私はひとつ大きな思い違いをしていた。以前に新年の河という勅題が出たことがあった。そのとき私は旭川の名を材料に取り入れようと思い、いくら北海道でも石狩川のような大河が全部氷に閉ざされることはあるまいから、中央には一筋の青き流れがあるだろうと思って、なにげなくその意味を詠み込んだことがあったのだ。ところが今回実際に来てみると、カムイコタンのあたりでは、川の全面がカンカンに凍っており牛馬がその上を通行するというありさまなので、これは大失敗だったと一笑したのである。
 さて旭川から落合に向かって汽車の旅を続け、その途中で鵡川の山中に分け入った。大木の林立している間の部分は積雪が割合に浅いので、わらぐつ(注・藁沓)をはいて、やっとのことで鵡川の木材伐採所に到着した。その木小屋の中で一泊し、大囲炉裏のほた火(原文・榾柮火。枯れ枝や小枝を燃やしたたき火)に当たり、遠く浮世を離れたときには、得も言われぬ一種清浄の気分を感じ、次のような腰折(注・へたくそな和歌と謙遜するいいかた)三首ができた。


   あしびきの山静かなり杣(注・そま)が家を めぐれる水の音もこほりて


   あたたけきほた火あたりて山賤(注・やまがつ。きこり)と かたる今宵を我が世ともかな


   おそろしき熊ものがたり聞く程に 夜や更けぬらし寒さ身にしむ


 そのような次第で、この晩は、ほた火をストーヴがわりにして炉辺にごろ寝し、翌朝は持参した缶詰や雑炊で腹ごしらえをすると、木材運搬道を視察しながら緩い勾配の山腹の下って行き、いったん木材集合所に立ち寄ったあとに夕刻に苫小牧に戻りこの行程を終えたのである。
 北海道の見ものは雪景色である、という上原将軍のひとことが私を裏切らなかったことはもちろんだった。世の中に、もしもこのことを知らない人がいるならば、一度試してみることをおすすめする。


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百四十六  王子製紙の二年半(上巻506頁)


 私は明治四十二(1909)年の秋、三井を代表して王子製紙会社社長に就任することになった。そのいきさつを記す。
 明治四十(1907)年、益田孝男爵が三井三郎助(注・小石川三井家高景)とともに欧米諸国を巡回して商業大家の情勢を調査し、帰国後に三井営業店の組織変更をすることになった。その結果、人員のやりくりの関係で、それまで三井鉱山理事だった私が、王子製紙会社の社長に任命されたのである。
 そもそも王子製紙会社は、明治初年に政府の事業として成立している。その後、日本の新興事業の発展に全力を注いだ渋沢栄一子爵が継承し、谷敬三氏を社長に、大川平三郎氏を技術長として一時は相当の成績をあげた。
 明治二十五(1892)年ごろには三井の所有株が多数を占め、また融通資金も巨額のぼったので、中上川氏が三井に引き取り藤山雷太氏に経営の任に当たらせた。
 ほどなく鈴木梅四郎氏がそのあとを継ぎ、北海道官有林の木材で新聞用紙を製造するため苫小牧に分工場を設けた。そこでは支笏湖を利用し、水力発電事業を計画し、取締役の前山久吉氏が現場監督の任に当たっていたが、三井の出資はおよそ一千万円以上にのぼっていたので、三井家において、この際私を社長にしてこの計画を完了させようとしたのである。
 このとき私は四十八歳で、三井家に奉公してから早くも十八年が経過していた。本来私は文筆の世界に生息するべき人間だと自覚していたので、五十歳になったら実業社会から身を引くことが、この社会に身を投じた最初の時からの予定だった。ところが王子製紙会社の苫小牧工場はこれから二年半で落成するという計画だったので、この仕事を私の最期の奉公にして、工場が完成次第、実業界から身を引くということを思いつき、こころよく任命を承諾したのである。
 このような次第で、私が王子製紙会社社長になってから、明治四十四(1911)年末に、今の王子製紙会社社長である藤原銀次郎氏を後任として同社を辞し同時に実業界を退くまでの期間は約二年半だった。

 苫小牧工場の建設監督には前山氏が、製紙機械の据え付けには現在重役である高田直屹氏が当たった。アメリカから製紙技術者一名を雇い、みごとな新聞用紙を生産できるようになった。
 その一方で、山上に周囲四里(注・一里は約4キロメートル)の湖水をたたえ、一か所だけに落下口があるという水力発電にとっての天然の利を持つ支笏湖において発電事業が完成した。これは、王子製紙会社の基礎を盤石にするものであったと思う。
 さてこの事業が完成した明治四十四(1911)年の夏、当時皇太子でましました大正天皇が北海道に行啓された。宮内大臣の波多野敬直子爵、北海道長官の石原健三氏らの随行で、苫小牧工場に台臨(注・皇族が来ること)の光栄をたまわったので、私は社長としてつつしんでご案内の役目を勤めた。
 私は明治三十二(1899)年ごろ、皇太子殿下が富岡製糸場に行啓されたとき、三井源右衛門(注・新町三井家8代高堅)氏とともにご案内申し上げたことがあった。そのときには、ほかにご覧にいれるものもないので、製糸場の一室に生糸を積み上げ富士山の形にしたものを用意したところ、殿下が物珍しくご覧遊ばされたことがあった。今回再び殿下をご案内申し上げることになったのは身に余る光栄で感激の至りにたえなかった。
 殿下は新設の工場をくまなく御巡覧遊ばされ、第一室では木材が機械で粉砕され、次室ではそれがたちまち抄紙(注・紙をすく)台の上に流れ出て、やがて純白の新聞用紙になる様子を興味深く思われたようで、いろいろなご下問があった。その晩は工場内のクラブにおいてご一泊されたので、私は次のような腰折(注・へたくそな和歌と謙遜するいいかた)を懐紙にしたため、畏れ多くも殿下の台覧の記念にしたのである。(注・原文では「涜(けが)し奉る」)


   白妙にすき出す紙を時ならぬ 蝦夷の雪とやみそなはすらむ


 このような次第で、王子製紙会社の心臓ともいうべき苫小牧工場ならびに支笏湖水力電気事業が完成したのは明治四十四(1911)年の上半期の終わりだった。その下半期において、私はいよいよ引退の決心をした。
 後任者については、当時本社の事業に大きな関心を持たれていた井上世外侯爵や三井幹部の意向を察して藤原銀次郎氏が適任であるということになり、私をはじめとするそれまでの役員は総辞職し、藤原氏を新社長と組織する新内閣が組織された。
 藤原氏はそれまで三井物産会社の小樽支店長を勤め、北海道の木材の海外輸出事業などに当たっており長年の経験を積まれていた。その実業的な才覚で着々と本社事業を拡大して、今日見る大会社を作り上げたのであるが、私がわずかな期間なりとも足跡をとどめた会社がますます隆盛を誇っているのを見るのは、まことに欣快の至り(注・気分がよい)である。


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百四十七  明治実業の六雄八将(上巻510頁)


 私の二十一年間の実業生活のあいだに知り合った先輩実業大家について見聞した事実を述べたり、その批評をしてみたいと思うが、「箒のあと」の体裁としてあまり一方に偏ることもできない。そこで、ひとりひとりについてではなく、何人かを古人に比較してその輪郭を示してみることにしよう。
 私がひごろ日本の歴史を読んでつらつらと考えることは、天正時代(注・信長、秀吉の時代)の英雄豪傑が、強い意気込みで(原文「手に唾して」)諸侯に列せられて封土を得ようとしたのと、明治時代の実業大家が時運に乗じて資産を作ろうとしたのとには、非常に類似するところがあるということだ。
 ならば天正と明治の人物について、その出身や成功失敗の足跡を対照してみれば、その人物像を想像することができるであろう。
 そこで今回は、水戸の儒臣、青山延光著「六雄八将論」を使わせてもらい、明治の実業大家と比較対照してみることにしよう。だいたい次のような顔ぶれになるのではないか。
 
 まず六雄は、


    上杉謙信    渋沢栄一
    武田信玄    大倉喜八郎
    毛利元就    安川敬一郎
    北条早雲    安田善次郎
    織田信長    岩崎弥太郎
    豊臣秀吉    藤田伝三郎


 そして八将は、
    蒲生氏郷    中上川彦次郎
    佐々成正    松本太郎
    小早川隆景   益田孝
    加藤清正    森村市左衛門
    加藤嘉明    近藤廉平
    黒田如水    川田小一郎
    前田利家    古河市兵衛
    伊達政宗    浅野総一郎


 さて以上のように見立てたところで、この比較の理由を説明しようとすると、あまりにも冗長になってしまう。そこで、主だった四、五人についてごく簡単な短評を試みてみよう。

 明治時代、わが国の実業界に雄飛した渋沢栄一子爵は、資産はあまり大きくなく、もしも富だけを比較するならば、世間にはその何倍もの資産を持つ者もあるだろう。しかし、その徳望が大きいことにかけては当世の第一人者であり、まるで上杉謙信が領地もあまり広くはなく、人数もそれほど多くはないのに、侠名義声(注・義侠心が強いという評判)が天下を動かし、隣国もみな畏敬していたのと非常に似通ったところがある。敵の塩がなくなったときいて車に積んで送り、敵の大将が死んだときいて箸を投げて泣いたというほどの義侠心を現代の実業家に探してみるならば、渋沢子爵をおいてほかにはいないと思う。

 織田信長に見立てた岩崎弥太郎氏は、人となりが闊達果敢(注・大胆でのびのびとしている)である。相手の機先を制することに長け、かの共同運輸会社との競争で、ついにはこれを三菱汽船会社と合併させるに至ったときの作戦ぶりなどは、信長が桶狭間の夜襲で今川義元を打ち負かし、浅井、朝倉を滅ぼして京都に攻め上がった軍略と非常に似通っている。また、酒をかぶって意気込み、古今の英雄を睥睨(注・へいげい。にらみまわす)するあたりもほぼ同じだ。信長がとんだ災難で身を滅ぼし、弥太郎が胃癌にかかって早死にしたのも多少似ているところがあるかと思う。

 豊臣秀吉に藤田伝三郎を比較したのはいささか不真面目かもしれないが、藤田が大阪を根城に、網島に桃山式の大伽藍を造営し、書画骨董品の富で天下に匹敵する者がなかったこと、また太閤秀吉の豪奢を明治に継いで、五尺の小柄な体は一見したところ子猿のような見かけでありながら、その胆力の天下を圧するところも、いささか秀吉公に類似していると言えようか。

 八将のほうでは、蒲生氏郷を中上川彦次郎に比擬した。蒲生が群雄の中にあって、人品骨柄が一段とすぐれ、いったん采配を握ったならば百万の大軍をも指揮するというその大将ぶりと、中上川が白皙長身(注・色白で背が高い)の堂々とした風采で、明治実業家の中で異彩を放っていた点に類似点があるからである。氏郷が信長を舅に持ち、名門の威力で諸侯を圧倒したことも、中上川が福澤先生を叔父に持ち、背景に一層の重みが加わったことに似ている。また氏郷と秀吉の遭遇は、中上川と井上侯爵との遭遇に、やや似ていると言えないこともない。氏郷の述懐に、


   限りあれば吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山風


と詠じたものがあるが、これは中上川の心境とまさしく同じだったのではないだろうか。

 明治実業界の六雄八将については、拙著の「実業懺悔」に詳述してあるので今はこの辺でやめることにし、その他はすべて読者の比較研究にお任せする。なお、以上の六雄八将のうちで私がまったく会うことのなかった人物は、岩崎弥太郎のひとりだけである。


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百四十八  実業社会に告別(上巻513頁)


 私は前述したような次第で、明治二十四(1891)年から実業界に身を投じ三井銀行にはいった。同二十八(1895)年からはさらに三井呉服店の改革に当たり、三十二(1899)年に三井鉱山会社理事を兼任し、三十七(1904)年三井呉服店が株式会社三越になると、ほどなく三井鉱山会社の理事専任になった。同四十二(1909)年、三井営業店の組織変更後、三井を代表して王子製紙会社社長を引き受け、四十四(1911)年、同社苫小牧工場の完成を機に、予定した期日どおりに引退することに決め、同年初めの冬に、藤原銀次郎氏に後任を譲り、いよいよ実業界に告別した。(注・箒庵の実業界時代については、54596794146などを参照のこと)
 私は明治二十四(1891)年から四十四(1911)まで満二十一年間、三井営業店に奉公していたが、本当のことを言うと、そろばんよりも筆を取る方が得意なのだった。まさに越鳥南枝に巣くい、胡馬北風に嘶(いなな)くのたとえどおり、自分の居場所に戻りたい気持ちが強かった。
 つらつら考えるに私は比較的金銭に淡泊で大金持ちになるような資質に乏しい。いつもあまり金をかわいがらないので、金のほうでもあまり私を慕うということがないのは当然のなりゆきだ。この点については、はじめから大きな欲望もなく、自分の生活に不自由がない程度の資産をためて悠々自適、なにか興(注・おもしろみ)を感じたときには筆をとり、古人が、いわゆる五日一石、十日一水で絵を描いたように、(注・「十日一水五日一石」で、画家が一つの川を描くのに十日かけ、一つの石を描くのに五日かけるように、ものごとを丹念に仕上げるの意)心のおもむくままに文芸を楽しみたいと思っているに過ぎない。私の心がけ次第で、もう少し早く引退することもできたかもしれないが、例のごとくの趣味的な性格が障害になり、実業界にいながらにして、さまざまな道楽にも手を出したため知らず知らずのうちに奉公生活が長引き、やりかけの仕事に対しては結末をつけなくてはならず、そんなこんなで五十の坂に達するまで実業界の厄介になってしまっていたのである。

 だが幸いに好機が訪れ、特別な手柄は立てなかったとはいえ、そのかわりに特別なあやまちもなく、五十一歳で首尾よく実業界に告別することができたことは、私にとり非常に幸せなことであった。
 私は井上侯爵の紹介によって渋沢、益田の両先輩の推挙を得、最初三井銀行にはいり、しかも同行にはいった学生のうち、急先鋒(注・先頭の切り込み隊)であった割には同僚にも主人にもかわいがられた。
 また、その主人となる家が、日本における第一流の旧大家であったため、同勤務者の多くは修養のある士人(注・徳の高い人)ばかりで、この年月を比較的純潔な境遇の中で送ることができたことは何よりもありがたいことだった。
 二十一年間の奉公を回顧してなにひとつ不足に思うことがないので、私はいつも人に向かって、学問をして福澤を師に持ち、奉公して三井を主に持ったことは私の生涯における大きな幸運だったと誇っている次第である。
 三井の奉公中にもっとも気持ちのよかったことは、主人が全員、温厚の紳士で、きわめてよく部下を待遇してくださったことである。なかでも三井銀行総長の三井高保男爵は旧大家の主人には珍しい賢明な人物で、私はいつも人に向かって、男爵のような人は、大家の背景を取り除いて裸一貫で世の中に出しても相当の位置を獲得すべき人傑であると評したほどであった。私は引退後に男爵を訪問し多年の恩義に感謝したところ、男爵は前もって用意されていたようで、私は小色紙にしたためた次の一首を頂戴したのである。


   
末遠くきえじとぞ思ふ事しげき 年をもあまたつみしいさをは


ここにおいて、私はすぐに次の返歌を呈上(注差し上げること)した。


   久しくも汲みなれて知る弥増(注・いやまし。いよいよ増すこと)に みつ井の水の深きめぐみを


 このような次第で、年来の奉公先から首尾よく骸骨を乞う(注・辞職する)ことができただけでなく、さらに和やかなあいさつを交わして袂を分かつということは、私にとり、まことに嬉しい思い出である。
 私が王子製紙会社を辞めると同時に三井の方までも退いたことを、予定の行動であると知らずに、親切にも私を訪ねて、他の実業方面の仕事の口を世話しようという友人もあった。だが私の考えでは、少し大げさな言い分かもしれないが、これは人間の配材における経済的見地から非常に得策ではないと思うのである。理由を言うなら、私が五十一歳以降の全生涯を実業界で過ごしたならば、そのためには相当の報酬も得られるだろう。したがって養老金も貯めることができるだろう。それに一口に実業といっても、それほどドライな仕事ばかりでなく、私が苦痛を感じるほどでもないかもしれない。しかし、ひるがえって世の中を見てみると、高等学府から毎年有為の人材が輩出して常に就職難が生じている時代に、実業家としてはありきたり(注・原文では「升で量るような」)な私が、いつまでも後進の進路をふさいでいても、それで得ることのできるもの高は知れている。自身が、やや得意だと信じている他方面において、より有効な仕事を見出し、そこに後半生を託すほうが、はるかに得策でないだろうか。そのように思い定めて明治四十四(1911)年の末、五十歳を一期として実業界に告別した次第である。


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百四十九  実業界引退後の感想(下巻3頁)

 私は前述した通り、明治四十四(1911)年末をもち二十一年間打ち込んできた実業界を引退し、いよいよ閑散の身(注・仕事がなくひまな人)となった。このような境遇に行き当たった人のことを、文人風に形容すると「閑雲野鶴」と昔から言いならわされている。自分自身を鶴になぞらえるのは少し僭越の嫌いがあるとは思うが、とにかく、自由の身となった感想を詠じ次の一首ができた。

   飲啄樊籠二十年 老来夢到来丸皐天 一朝振翼去何処 不是雲中已即水辺
   注・樊籠=はんろう。鳥かご 丸皐天=詩経「鶴九皐に鳴き声天に聞こゆ=深い谷底で鳴いても、鶴の声は天に聞こえる」から)

 さて、実業界を引退したことにつき、多年深く世話になった(原文「厚誼を辱(かたじけ)なうした」)井上侯爵夫妻に感謝の気持ちを示したいと思い、明治四十四(1911)年も終わりに近づいた(原文「年の尾も早や二、三寸に迫った」)十二月二十九日に、侯爵が避寒されていた興津の別荘に夫婦そろって訪問し、先だって男の子が生まれたときに名前をつけていただいたお礼も述べた。その足ですぐに京都に向かい、祇園鳥居前の杉の井旅館に宿を取り、大晦日には次の一首を口ずさんだ。

   入相の鐘のひびきも身にしみて 真葛ヶ原に年暮れんとす

 明けて、明治四十五(1912)年元旦、勤めのない身の気楽さから、日が高くのぼってもまだ起き出さない(原文「日高きこと三竿(さんかん)、猶ほ未だ起きず」)といったありさまだったので、

   旅人の心のどけき東山 朝いの床に年立ちにけり

という一首を詠じた。
 それからゆるゆると起き出して朝食をとると、年頭にはまず嫡男の息災を祈願するため、夫婦連れだち車を男山八幡宮(注・石清水八幡宮)に飛ばした。
 そこでほがらかな日光を浴びつつ社殿に参拝後、私がかねてから隠者の見本、風流の本尊として、わが後半生のためにもっとも多くを学びたいと思っていた真言密教の隠者である松花堂昭乗の遺跡をたずねた。
 ところが維新直後の神仏分離の嵐が、瀧本坊、萩の坊をはじめとする三十六坊を吹きまくり、松花堂のありかさえも人に尋ねでもしなければわからないという状態だった。
 もともと松花堂は真言宗の僧正であるが、晩年、松花堂に引き籠り風流三昧の生活にはいった。興がわくと大師流の筆をふるい、牧谿風の絵画を描いた。また、後年「八幡名物」と呼ばれるようになった数々の名器で交流茶事を催し、遠州(注・小堀遠州)、江月(注・江月宗玩)、光悦(注・本阿弥光悦)、沢庵(注・沢庵宗彭。そうほう)、長嘯(注・ちょうしょう。木下勝俊)などの名流(注・有名人)と深く文雅(注・詩文を詠んだりする風雅な道)の交わりを行った。彼の遺した風雅の余韻を私は常に欽慕(注・敬い慕う)してやまない。あまりの惨状に茫然とし(原文「俯仰感慨のあまり」)、

    男山松吹く風にうそふきて 心澄ましし人をしぞおもふ

の一首を書き留めるだけで帰ることにしたが、後年、私たちが松花堂会を発足させて八幡山下の竹やぶの中に散乱していた墓石を拾い集め、松花堂の師である実乗のものも一緒にして今日のように修理したのは、このときに私の頭の中に湧き上がった理想が実現されたものなのである。

 翌二日には武藤山治夫妻を、播州(注兵庫県)舞子の仮住まいに訪ねた。そのときにも、次の腰折(注・自作の和歌を謙遜する言い方)を詠んだ。

    蘆田鶴の舞子の浜に住む友と 年のほぎごとかはすめでたさ

 このようにして三が日を京畿の旅で過ごして帰京した私は、それから後半生の門出を迎えることになった。
 もともと私は実業畑の人間ではない。ただ、持って生まれた趣味的な性分を満足させるためには、一時実業界に身を置き家計的な安定の基礎を作り、その上でゆるゆると趣味の林に遊ぼうという二股根性を持っていた。それで心ならずも踏み入った実業界に二十一年間を過ごし、今ようやく本街道に這い出したところなのであった。それでしばらく身体を休めて、安閑とした月日を送っていたのだが、その心境は宋の陸放翁が、家から遠く離れた成都での七年にわたる官吏の仕事をやめて郷里に帰ったときに、

   遶檐点滴和琴筑(檐=のき、遶=めぐる、点滴=雨だれ、琴筑=ともに弦楽器)
   支枕幽斎聴始奇(幽斎=静かな部屋 )

   憶在錦城歌吹海(錦城=成都の別名、歌吹海=歓楽街) 
   七年夜雨曾不知(曾=かつて)
 

(注・大意「静かな部屋で枕にもたれて雨だれの音をきいていたら、成都の歓楽街できいた弦楽器の音にきこえた。七年間、雨だれの音をきいたことがなかった」)

と詠じたのと、やや似ているところがあると思う。私はすぐに「夜の雨」という題名の新曲を作ってみた。次のようなものである。
 
  「夜の雨」
本調子玉水の軒端をつたう声すなり、琴からあらぬかほどぎにも、似たるしらべの面白や、昔陸放翁は、蜀の都のつかさを罷め、我が故郷にかえり来て、寝覚の床のつれづれに、七年知らで過ごしつる、雨の音色を愛でしとかや。
世の中の有情無情の物の音は、自からなる調べあり、峰の松風、磯の浪、枝の鶯、田の蛙、千草にすだく虫の音や、妻恋う鹿の声までも、宮商呂律の外ならず、ましてや是れは天地の、情を籠めてふる雨の。(注・宮、商は、雅楽の音階)
二上り春辺にきけば、しめやかに、鳥のねぐらをうるして、花を催すのどけさよ、又五月雨はふり暮し、或る夜ひそかに松の月、晴るる間もなく、サラサラと、小笹にそそぐわびしさも、何時か薄ぎり、うちなびき、桐の一葉に秋の来て、ころぎなきつ、村雨の、音聞く夜半に、独りかもねん。
三下りさんさ時雨か、茅野の雨か、音もせで来てぬれかかる、ヨイヨイヨイヤサ、実にりがたや、天が下、賤が伏家も、百敷の、大宮人の高殿も、へだてはあらじ、雨の音、四季りの夜の窓、心ごころに、聞くぞたのしき。

 この「夜の雨」には、平岡吟舟翁が東明流の節付けをしたので、それ以来同流の一曲となり、自分でも唄いまた人が謡うのを聞いて、自然とその年の思い出としている。


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百五十 茶道十六羅漢(下巻7頁)

 私は明治四十五(1912)年の初めから無職自由の境涯にはいり、もっぱら茶事風流に没頭することとなった。
 そのころまでには東京に茶道の古老大家がうち揃い、いたるところで茶煙が上がっていた(注・茶道が興隆し茶会が開かれていた)。
 例の和敬会という順会(注・会員宅で順番に開く会)なども、十六人の定員が満員の盛況ぶりだったので十六羅漢会の異名で呼ばれていたが、その会員の顔ぶれは次のとおりであった。(注・90に関連記事あり)

  東久世通禧伯爵 竹亭(注・みちとみ)
  久松勝成伯爵  忍叟
  松浦 厚伯爵  鸞洲(注・まつら)
  石黒忠悳子爵  况翁(注・ただのり)
  伊藤雋吉男爵  宋幽(注・しゅんきち)
  三井八郎次郎男爵 松籟(注・三井南家高弘)
  三井高保男爵  華精
  益田 孝男爵  観濤(注・かんとう)
  安田善次郎氏  松翁
  馬越恭平氏   化生
  瓜生 震氏   百里
  青地幾次郎氏  湛海
  吉田丹左衛門氏 楓軒
  竹内専之助氏  寒翠
  金澤三右衛門氏 蒼夫
  高橋義雄    箒庵

 十六羅漢は上の通りであったが、一月四日(注・上に同じく明治45年)に東久世通禧伯爵が八十歳で薨去されたためひとりの欠員が生じた。その補充として、加藤正義欽堂氏に白羽の矢が立ち、十六羅漢が再び満員になったことは、東都の茶道界のためにまことに喜ばしいことだった。

 ところで、これらの茶人のことを十六羅漢と言い始めたのは、例の富永冬樹氏(注・84「富永の毒舌」を参照のこと)だった。和敬会の連中は、どれを見ても羅漢面だねと言ったのが、ついに異名になったのである。
 これより以前、氏は本所の横網に新居を造り、吉野吉水院の書院写しの茶室を作った。その新築開きに十六人の客を招き、これを十六羅漢に見立てた。大倉喜八郎男爵に鶴彦尊者、益田克徳氏に克徳尊者、また私には高義尊者などという席札をつけて、托鉢坊主の鉄鉢形応量器(注・てっぱつがたおうりょうき。飯鉢のこと)で、客にインド式の斎食(注・さいじき。食事)を配膳されたことを思うと、富永氏は、よくよく羅漢に因縁のある人なのだろう。
 このときに招待された人たちは、富永の新築開きとあっては、例の口の悪さに合わないためには大いに奮発しなくてはならないと、いずれも喜捨物(注・お布施)をはずんだ。すると益田英作(注・益田孝、益田克徳の末弟)氏がそれを見逃さず、こっそりと新築費用と喜捨物の評価計算に着手したところ、喜捨物のほうが、はるかに新築費用を越えていたという結果が出た。そのとき、飄逸なる克徳尊者は突然立ち上がって一座を見回し、諸君、ひとつできましたから、ご批評願いますと言って、

    「主人は欲阿弥陀(横網だ)、お客は皆尊者(損じゃ)」

と披露したので、さすがの富永氏も例の気焔はどこへやら、ただ微苦笑を洩らすのみだった。
 十六羅漢について、このような因縁のある富永氏が、和敬会員に対して十六羅漢の称号をつけたことはまことに不思議な巡り合わせなので、ここでその由来を記録しておく次第である。


久世通禧伯(下巻9頁)

 東久世通禧伯爵は、和敬会十六羅漢の白眉(注・特別にすぐれた存在)であった。伯爵は維新前、幕府の圧迫を逃れて京都から立ち退かれた、かの七卿の一人で、その勤王尽国の事跡は歴史にはっきりと刻まれ(原文「炳焉(へいえん)として青史に在り」)、余技である詩歌、管弦、書道などでも、またそれぞれの特長を持っておられた。
 茶人としての伯爵は、まことに真率洒脱(注・飾り気がなく洗練された)で、器具の品評をするでもなく、その組み合わせを研究するでもなく、淡々として湯を呑むがごとくに、物にこだわらない流儀だった。
 しかし生け花には深くこだわりを持ち、自邸に各種の植物を植えた。椿などは、ほとんど十数種類に及んだそうだ。
 明治四十一(1907)年ごろから、伯爵はしばしば私の寸松庵(注・高橋の一番町邸にあった茶室)におみえになったが、たいてい静淑(注・物静かでしとやかな)で上品な伯爵夫人を同伴された。
 その客ぶりは、いたって平民的で、談笑中には時々、諧謔(注・気のきいた冗談)などもまじえられた。寸松庵の露地や庵室が、いかにも質樸(注・素朴)で古雅(注・みやびやかな)なので、自分が京都にいるような心地がするといって、とても愛されたのであった。
 またあるときには、七卿が西に下ったのち太宰府にあって、しばらくさすらいの身となられた時のことに話が及ぶこともあった。初めて会ったときから旧知のようで、宮中(原文「雲井」)に近い身分の方に対座しているように感じられなかったことは、非常に奥ゆかしい限りであった。
 公卿から華族になった方には、もともと、案外率直で質素で平民的な態度の人が多いが、伯爵などは、そのなかでももっともその気風を代表する一人であろう。その痩せぎすで、あまり風采のあがらない中に、なんとなく深い印象を秘めていた。
 伯爵の薨去後に、たまたま寸松庵に出入りすると、伯爵が悠揚として(注・ゆったりと)正座されている面影が、ありあと眼前に現れるような心地がしたものだ。私は追憶のあまりに次の二首を口ずさんだ。

    とはれにし葎の宿に思出の 種をのこして君逝きぬはや

    国の為心づくしの物がたり 聞きしも今は昔なりけり



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