だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 131‐140

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百三十一   安田松翁出世談(下)(上巻453頁)
 
(注・130「安田松翁出世談(上)」からのつづき)


 安田善次郎翁が一代で億に達する大富豪になるにいたったその経歴は、勤倹力行(注・勤勉倹約)の継続で、実業を志望する若者にとってはもっとも安全な処世訓であろう。
 さて翁が十九歳のときに江戸に出て玩具屋に奉公したのちの経歴談は次の通りである。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いにあらため、一部の漢字をひらがなにしたほかは原文通り)


「私は玩具屋に奉公中、二十一歳ごろであったか、例のごとく旅行して、大和まわりをし、多武峰(注・とうのみね)の談山神社(注・たんざんじんじゃ)に参った時、矢立の筆で、御堂の柱に落書きしていたのを番僧に見つけられ、ことがはなはだ面倒になったので、懐中にあった一分二朱の中から二朱を罰金にして、ようやく無罪放免になった。そこにひとりの老僧が出てきて、仔細をきいて気の毒がり、番僧どもから二朱を取り戻してくれたうえに私に向かって諄々と教戒されたその言葉に、『お前さんもまだ年若であるから、以後はよく心得るがよい。楽書きというものは、昔シナで賊が官軍に追い払われて、右往左往に散乱するとき、神社仏閣の柱や塀に楽書きして、どこで重ねて廻り逢おうとか、または、再挙を謀ろうとかいうような、隠し言葉を書きつけるのが始まりで、本来、賊のし始めたことであるから、いやしくも未来の希望ある青年のなすべきことではない。以後は、きっと無用(注・やらないよう)にせられたがよろしい』と申されたので、これがしみじみと骨身に感じ、名を尋ねれば、村田亮順という老僧なので、その後五年ばかりを経て、村田上人の隠居された九州天草の寺院を訪ねると、惜しいかな、先ごろ遷化されたというので、泣く泣く墓掃除をして、いんぎんにその跡を弔ったのである。

 さて私の玩具屋奉公も、満三年になったので、今度は丸屋松兵衛、通称、丸松という両替店に奉公した。この丸松の店は、今の海運橋四日市にあったが、私はこの店にもまた、丸々三年奉公して、江戸の商売見習いが前後六年になったので、商店奉公は、まずこれで卒業として、今の日本橋新乗物町の十五銀行の支店になっているところに、借地ではあるが、間口二間、奥行五間半の家屋があったのを四十三両で買い取って、ここに安田善次郎独立の両替店を開いたのである。
 このころの両替賃というのは、当百(注・天保通宝。一枚で百文)、青銭(注・あおせん。寛永通宝四文銭)、文久(注・文久永宝)、錏(注・しころ。室町時代の銭)という四種類の銭を金銀に替え、また金銀を銭の換えるので、その切り賃(注・両替手数料)が、普通一両につき一文、仲間取引は八毛ないし七毛というようなことであった。
 このようにして私は両替商を始めて、ほどなくこの仲間の肝煎(注・世話役)となり、すこしは幅が利くようになったが、その当時、本両替屋というのが七軒あった。
 
 さて幕末の財成家の小栗上野介が、貨幣制度を改革することとなり、旧二分金を、新二分金に引き換える計画を立てられたが、そのとき沼間守一氏の父が御勘定方に勤務していて、旧二分を新二分に引き換えるため、旧二分金の集め方を(注・旧二分金を集めるように)例の七軒の両替屋に申し付けたが進んで応じるものがなかった。そこで沼間氏は私を呼びつけて相談されたので、私はさっそくこれに応じ、旧二分金の買い集め費用として沼間氏から金三千両を借り受けることになった。私が三千両という大金を見たのは無論このときが初めてで、餅版(注・トレイのようなものか?)が百二十あって、一つの重さが二百三十目(注・目=文目、または匁。一匁は約
3.75
グラムなので、230匁は約0.86キロ)というのであるから、それを受け取り自宅を持ち帰り、毎晩奉公人が寝静まったあと、家内とふたりで、あるいは屋根裏にかくしたり、縁の下にいれたり、いろいろ工夫をしたが、賊は両替屋に金があることを承知しているから、もし踏み込まれたときに手ぶらで帰すわけにもいかない。その時のためにということで、私はあるとき錏銭やら何やらを取りまとめて、金二十五両の包みと同型のものを三つ作り、ほかに五、六両の金を添えて、金銭出納帳とともに、これを用箪笥の中にしまいおき、賊来たらばこれを渡さん、と待ち構えていた。すると果たして、ある晩に強盗がはいったので、例の帳面とともにこの金を渡したが、翌日になってつくづく考えてみると、強盗が小判の包みを開けて中から餡(注・見かけとちがう中身)が出てきたら、きっと立腹して、復讐に来るであろうと、その心配は大変なものだった。しかしほどなくこの賊が捕縛されて、伝馬町で処刑されたと聞いて、はじめて安堵したようなこともあった。」


 以上、安田翁の出世談は、太閤秀吉の日吉丸時代から木下藤吉郎時代を彷彿とさせ、勤勉力行が、だんだんに人の信用を得て、着々と成功の機会を作りつつ、後日の大成を期したものである。その堅実なやり口は、これから実業界に立って大望を成就しようという有為の青年にとっては、最良の教訓だろうと思う。


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百三十二  金色平沼の真相(上巻456頁)


 明治時代に横浜に盤踞(注・ばんきょ。根を張ること)して、その屈指の富豪と呼ばれた平沼専蔵は、一時、高利貸しだの華族倒しだのと非難された挙句、その高利貸し問題でとうとう獄舎の人となるに至ったので、彼のように世間から爪はじきになっては、金持ちといっても、ちっともその甲斐がないではないかと言う人もあったが、とにかく、天秤棒一本から何百万円の大身代に成り上がったその粒々辛苦を察しないで一概に悪魔視することを、私はしない。
 彼の金だって、やはり日本国の富の一部で、いかにたくさん貯まったとしても別に卑しむべきものでもなかろう。
 昔から日本には金を貯める者を卑しむ習慣があって、ややもすると、これを守銭奴と罵る者も多い。しかし金を貯めるのもまた、一種の趣味であろう。
 世間では往々に、あの男は子供もないのにむやみに金を貯め込んで、死んだあとにどうするのだろうというようなことを聞くが、この種の人物は金を貯めること自体が無上の趣味で、魚を釣る人が、釣るのがおもしろいので、その魚を食べるか食べないかは別問題であるのと同じく、金を釣る趣味がある人は、釣った金が貯まっていくのがこのうえもない道楽なのである。平沼氏などは、もっともこの種類に属する人なので、あまりに彼を憎悪するのはおそらく偏見ではないかと思う。
  わたしは明治二十二、三(188990)年ごろ横浜貿易新聞を監督した関係上、平沼氏と知り合いになり、会えば時候のあいさつをする程度の懇意になった。
 例の高利貸し問題で入獄した平沼氏が、ようやく娑婆の風に吹かれた当時、私は品川の益田孝男爵を訪問する途中に、新橋、品川間の汽車の中で平沼氏に邂逅したので、「貴方は先ごろ、とんでもない災難に出合われたそうだが、本来、東京だの横浜だのは、貴方のような商人の住むべき場所ではあるまい。納得ずくで金を借りながら、そのあとで貸した人を憎むというのは、借りた方が卑怯である。仮に貴方が大阪にでも住んでいたら、岡橋治助翁のような、貴方に一層輪をかけたような豪傑が控えているから、貴方などは一向に目立たず、したがって人からの指斥(注・非難)も受けなかっただろう。貴方はもはや関東を見限って、河岸を関西に替えたほうがよろしいのではありませんか。」と冗談半分に話したところ、平沼氏は、ただ「なるほどな」と言ったばかりで、別に異存も言わなかった。
 私はその足で益田邸に赴くと、富永冬樹(注・益田孝の義兄)氏が来ていたから、たった今汽車のなかで平沼氏とかくかくしかじかの話をしてきたと語ると、富永氏は例を毒舌をふるい、「それは平沼が頭を横に振っただろう、なぜなら、大阪には華族がいないではないか」と言って呵々大笑するのだった。
 私と平沼氏とは、このような通りいっぺんの関係だけであったが、明治四十三(1910)年ごろ、平沼氏が非常に大きな菓子折をたずさえて私の一番町宅を訪ねてきた。なにごとだろうと怪しみながら来意を聞くと、彼が抵当に取った木材を王子製紙会社の製紙用材に使ってくれないかという相談であったので、一応その用談を片づけたあと、かねてからきこうと思っていた彼の立志談を話してもらった。その大要を次に記す。(注・一部をわかりやすい表現にかえた)

 「私は若年のころ、渡邊治右衛門のところで奉公しておりましたが、身体が強壮なので、非常な勉強家(注・勤勉な人)でありました。酒はもとより飲まず、朝飯は味噌汁と煮豆を菜(注・おかず)にしてすまし、朝は四時ごろから起き出して、井戸端で水を浴び、神信心をすましたあと、夜遅くまで働くというところを主人に見込まれ、少し元手ができたので、そのころ黒船が横浜に来て石炭を買い取るのを幸いに、茨城地方から常州炭を仕入れ、小船で横浜に廻送し黒船に売り渡すのです。当時天保銭二枚くらいで仕入れた一俵の石炭を一朱で売ることができたので、実におもしろい商売でした。またそのころ生糸輸出が始まって、間もなく一時幕府でそれを禁止したとき、私は生糸を石炭箱の中に入れ、その上に石炭を盛り上げて外国人に売り渡し、これでは大儲けをいたしたのであります。」
と、平気で秘密を語ってしまうところに、平沼氏の面目躍如たるところがあった。
 彼は一時伊藤博文公爵に接近して、その愛顧を受けたこともあり、その後、彼が従五位に叙せられると、従五位ということが、なにやら彼を卑しむ一種の標語であるかのようにききならわされたこともあるが、このような平沼氏から私は菓子折ひとつを貰いっぱなしになったままで、今でも気の毒に思っている次第である。
 


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百三十三  諸戸清六翁と穂積男爵(上巻460頁) 


 平沼(注・平沼専蔵。132を参照のこと)型の貯金家で、なお一層徹底しているのは、桑名の先代諸戸清六氏であろう。(注・先代18461906、二代目18881969
 明治二十八(1895)年ごろ、突然私を大阪の三井銀行支店に訪ねてきた彼は、体格が偉大で田舎びた容貌で、なんら飾り気のない率直さで私に大阪財界の実状を質問されたので、とにかく一風変わった男だと思い、とりあえずありのままに所見を語ったものだ。
 聞いてみると、彼は年中あちこちを駆け回り、卒然として(注・突然のように)来て、卒然として去り、貴顕紳士の門を叩いて自分の聞きたいことを聞いては、それを参考にするというやり方をするのだそうだ。大隈侯爵の早稲田邸などには月に何回となく現れて、その経済談を聴取するのを常としたという。
 私が東京に戻ったのちにも、知り合いであるという縁故をもってまたまた私を訪ねてきて、三井銀行の抵当流れになっている奥州の四竈村(注・現在の宮城県加美郡にある村)の野地の坪数はどれくらいなのかと問うので、さっそく銀行に問い合わせて返答すると、相変わらず風のごとく立ち去ったが、その後一週間ばかりたって飄然として例の巨体で現れ、さっそく四竈村の野地を見てきたが、その地勢はこれこれで地味はこれこれであると物語るので、その緻密さには驚嘆のほかはなかった。

 さらに彼が語るところによると、
「俺は全国第一の山林持ちになるつもりで、岐阜、飛騨、伊勢、大和その他全国にわたって多数の山林を所有しているが、ある華族で俺よりなお多く持っている者があるから、今よりも、モ少し買い入れて、是非とも全国一になるつもりである。
 俺の買う山林は、世間の人とは反対で、通常はすでに山林になってもはや手の入らぬものを所望するが、かかる山林は拓けるだけ拓けているから値段も相応に高くなっていて、なんの面白味もないのである。俺はヤクザの山林を安値に買って、これを盛り立てるのが楽しみなので、山林でも田地でも、とにかく出来上がらぬものを見つけようと全国諸所を駆け回り、どこにかくかくの山林、田地があると聞けば、即刻発足してこれを見届けるのが俺の常癖である。」
ということであった。
 私はこれよりも以前、諸戸氏について、すこぶる面白いエピソードをきいたことがある。氏の倹約は有名なもので、汽車はもちろん下等に乗って、途中で買い入れた茶瓶は、すべて持ち帰るのを常とし少しでも無駄をしないという流儀である。かつてロシアの皇太子が大津で遭難(注・日本人の巡査に切りつけられた大津事件)の際、彼は図らずも同地に立ち寄ったが、その刃傷事件の大混雑で町内に人力車が見当たらないため、彼はよんどころなくテクテク歩いていた。すると後ろから、いい客だと見た人力車夫がしきりに乗るようにと勧めるので、目的地までの賃銭をきくと、事件のせいで思っていたよりも十銭ほど高いので彼はこれを値切った。だが車夫も足元を見て簡単には負けず、そのうち雨が降り出して双方ビショ濡れになっても、負けろ、負けぬで、ついに目的地に達してしまったのだそうだ。それである人が、着物が濡れる損失を考えて、十銭高くても車に乗ったほうが得ではないかと言うと、彼は頭を振って、「いやいや、商売冥利はそんなものではない。代償が思うつぼにはまるまでは、どうしても動かないのが俺の掟じゃ」と主張したそうである。

 諸戸氏はまた例の早耳で、穂積陳重男爵が三井の家憲を作ったということを聞くや、誰の紹介もなく、ある日突然男爵を訪ね自家の来歴を物語り、なにとぞ諸戸家の家憲を作ってもらいたいと懇請した。その率直な態度と熱心な気魄とに穂積男爵は感じ入り、とうとうこれを引き受けることになった。ところが彼は、自分の書記を代理にして諸戸家に関する一切の書類を穂積男爵に提供し、その後一度も男爵に面会せず、ただ時々玄関までやってきて、よろしく頼むとひとこと残して帰るのを常とした。
 こうして穂積男爵が二、三年かかって諸戸家の家憲を作成して彼に手渡すと、彼は満面に感謝の意を浮かべて、「先生のご鴻恩(注・大恩)は子孫代々決して忘却は仕りませぬ」と、幾度か叩頭して(注・頭を下げて)引き下がった。しかしその後は、ただ毎年、桑名産の白魚を贈ってくるをの常例として、そのほかにはなんらの挨拶もしなかったそうである。
 穂積男爵はこのことを語り終えて、諸戸氏が自分の家憲起草に対してなんらの礼物を提供せぬことは、自分としていささかも遺憾とするところはない、あのような粒々辛苦をもって築き上げた一家が、自分が作った家憲によって長く存続することができるのなら、それが何よりの報酬である、と言われた。このふたりの人格を対照して、すこぶる興味深い逸話であろうと思う。


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百三十四  和歌修業の端緒(上巻463頁)

 私は十歳ごろから古歌を記憶するようになり諷詠(注・詩歌を作ること)もすることがあったが、特に師について学んだことはなかった。ところが明治三十九(1906)年七月の下旬に益田鈍翁の鵠沼の別荘で山県有朋公爵と同宿し、主人と三人鼎座して話題が歌のことに移ったとき、公爵は詠歌に関する感想を述べられ「俺の父は国学者で、おりおり和歌を詠んだので、俺もその感化を受けて少年時代より和歌を好み、維新前、国事をもって京都に赴いた時、詩歌入りの『葉桜日記』を物した(注・書いた)こともあり、その後も折に触れて和歌を口ずさむことがあるので、近頃は小出粲【つばら】翁に添削してもらうことにした。君ももし歌を習うつもりならば、一度小出翁に逢ってはどうか(原文「如何」)」と言われた。

 私はもともと歌が大好きで前から習いたいと思っていたところだったので、仰せに従い、さっそく小出翁に入門して、おそまきながら稽古してみましょうと答えると公爵はとても喜び、君がそのつもりならば、近日、俺が小出に引き合わせてやろうということになった。
 こうして十日ほど過ぎたある日、公爵から小石川水道端町の別宅に招かれた。夕刻から参上すると、相客は田中光顕伯爵、鳥尾小弥太子爵、小出粲翁、井上通泰氏などの大家ばかりであった。
 この別宅は、新々亭【さらさらてい】という名で、公爵が貞子夫人のために建てた(原文「構築した)ものだった。庭は益田無為庵(注・益田克徳)と老公とが相談して造られ、神田上水が南下がりの庭を流れ去って池に注ぐという趣向だった。公爵には次のような歌がある。

  
  さらさらと木隠れ伝ひ行く水の 流れの末に魚のとぶ見ゆ


 当時は日露戦争のあとだったので、日本の国運が末広がりに発展するようすを示されたものらしく、その晩、池辺に焚かれたかがり火が青葉隠れにちらちらと水に照り添う光景を眺めながら、一代の歌人政治家が風雅な談話を交換するという、非常に愉快な会合だった。
 このとき私は、主人である公爵の紹介で初めて小出粲翁に対面した。翁は旧小浜藩士で、酒が好きなせいか鼻の先が赤く、目は象のように細く優しく、このとき七十三歳だったが、座談に長じて非常に快闊(注・快活、さっぱりした)老人と見受けられた。
 この晩もいろいろな話をしたが、歌というものは、いつも思っていながら、ちょっと口に出せないようなところを言い表すのが妙所(注・表現できない味わい)で、小池道子(注・明治、大正期の御歌所歌人)の「程ふれば忘るるばかりの憂きことを嬉しく人にいはでやみにき」などは、そのよい一例であるなどと語られた。

 こうして私は、山県公爵の厚い心遣いを感じ、二、三日後、水道端町の小出翁の閑居をみずから訪ね、「小出大人【うし】の和歌を乞はんとて詠める」という歌二首を持参して添削を願い、その日から贄(注・にえ)を取ることになった。(注・小出翁に入門した、の意であろう)
 そのとき翁は、歌人になった来歴をみずから語ってくれた。「自分は少年のころ漢学を学び、好んで詩を作ったが、その後、歌を詠むことを習い、試作数十首をある歌人に示したところが、お前は自然の歌口があるから、歌を詠めば必ず上達するぞと言われたので、これより別段師匠にもつかず、ほとんと独力で勉強したが、本来、人には歌口というものがあって、学問の有無にかかわらず、詠み出づる言葉が、自然に歌になる人は、いわゆる歌口を持っている者である。ゆえに自分は歌を学ばんとする人に対して、まずその詠んだ百首ばかりを持参せしめ、その中にひとつでも二つでも歌口の調子があればよし、もしそれが見当たらなけれは、遠慮なく教授を断るのである。とにかく兼題(注・前もって与えられる題)をお渡しするから、ひとつ詠んで見られるがよろしい」ということで、船納涼、林蝉、蚊遣火の三題を渡された。
 それから私は、翁が組織していた梔陰社しいんしゃという歌の会に入り、その当座はなかなか勉強したものだ。
 明治三十九(1906)年の末に、翌年の御勅題が新年の松というので、そのころ日露戦争がめでたく済んで日本は一等国となり、世間の景気も非常によいというめでたいことばかりが重なっていたので、私は、

  よろづ代を経し老松もかくばかり 目出たき年はむかへざりけむ

と詠んで小出翁のもとに持参したところ、稽古が浅い割には、なかなか面白い詠みぶりだといって思いのほかの賞賛をいただき、それから先、私の一番町宅で、たびたび梔陰社の例会を開くことになった。
 私の亡妻の千代子も会員に加わり詠歌の稽古をすることになったが、あるとき「森鶯」という題で、
  
 
 鈴の音もたえて聞えぬうぶすなの 森の木がくれ鶯のなく

と詠み、そのときの秀逸となったことがあった。
 これが私の歌道修業の端緒(注・はじまり)であるが、師匠についてからまだ二年とたたないうちに小出翁の物故にあい、たちまち良師を失ってしまったのは、まことに残念の至りであった。


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百三十五 小出粲翁の和歌(上巻466頁)


 小出粲翁は明治時代における天才的歌仙であった。「難題であれば難題であるほど詠みやすい」と本人が言われたほどだから、その歌集を読んでいると着想がいかにも気が利いているし、垢抜けしていて、なんだか小説でも読むよう面白いだがそれだけに上品というわけにはいかなかった。すこし不真面目(原文「不倫」)なたとえでいうと、高崎正風男爵を団十郎とするなら、小出翁は菊五郎、また、男爵を宝生九郎とすると、翁は梅若実というような趣があった。
 京都の歌人である須川信行氏の話であるが、ある夏京都で木屋町の某旅館に泊まられている小出翁を訪問した。これまで先生の書かれた歌はたくさんあるが、詩を書かれたものがないから何か一筆願いますと唐紙の半切を持参したところ、翁はさっそく筆をとり得意の蛍の詩を書かれた。やがてその詩の中の、光という字を書き落としたことに気がつき、蛍には光がもっとも大切なので、これは、はなはだ粗相をしてしまったと言われるので、かたわらに光という字を書き添えるのだろうと思っていると、翁はしばらく考えて、紙の中に即吟で一首を加えられた。その歌は、


  なほざりに書きけちたりと思ひしは 光かくして飛ぶ蛍なり


というもので、書き損じられたのがあやまちの功名で当意即妙の一首ができ上ったので、この幅が一層おもしろくなったということである。
 翁の歌は天才肌で、ふつうの人では簡単には思案がつかないような題を即座にすらすらと詠んで、しかもおもしろい名歌ができ上がるところが他人がいくらがんばっても追いつかないところである。
 翁の歌集を見ると、いかにも軽口で戯談まじりのような歌もあるが、そのなかに翁の独特な天才が認められるようなものが数々ある。たとえば、

 

     鶴久子の会に己が歌を元子と米子と二人して上下を代筆したるを
   たをやめのふたつの筆を杖とし かきおこされぬこのこしをれも


     京都にかりの住ゐしけるころ
   ふぢばかまたたむばかりの女郎花 ひとりはほしき草のいほかな


     おなじ頃女をやとひて
   朝夕のけぶりの為めのふししばを かりの妻木と人やみるらん
 
といったもので、口にしがたい事柄を、無造作に、かんたんに、面白く詠み出すところが、天才でなければ真似できないところだと思う。
 あるとき小出翁は私に、歌人は思いやりということが大切である情のあるなしにかかわりなく、すべて同情の眼でもって観察すれば、そのなかにおもしろい歌の材料がたくさんこもっているものだたとえば、野分というのは秋の半ばに来る嵐だが、この嵐の吹いた跡を注意して見回すと、おもしろい現象を見つけることができる。雲を突くような大木が、根こそぎ吹き倒されているかと思うと、その下に吹けば飛ぶような小さな草が、倒れもせずに平気で花を咲かせているというようなことがある。これを情けのある人間社会のことに引き比べてみると、大いに悟るところがあるものだ。これらの機微を察し、歌の材料にすれば、もしかしたら、古人がまだ言い及んでいないことを詠み出すこともできるだろうと言われた。
 翁の野分の歌に、


   うつばりのゆらぐ野分を床下に しらず顔なるこほろぎの声 


とあるのは、まさにかつての話どおりの独特の観察であると感じた。
 小出翁の歌への批評は、明治三十三(1900)年に山県公爵「梔くちなしの花」後編の序文で書かれた一文が、いかにも適評であると思う。その一節に、
 「梔園しえん翁(注・梔園は小出粲の号)の和歌に妙なるは(注・詠歌にすぐれているのは)、世の人のよく知るところなり、その集を読むごとに、手に巻をおくことあたわざらしむ(注・その歌集を読み始めると、途中で巻を置かせてもらえない)。いわゆる出塵言語(注・俗世間の汚れから逃れた言葉遣い)、必ず新奇なるものにあらずや(注・どれも目新しいものではないか)、然れども、世の中にありとあらゆるもの、目に入り、歌をなさざるなきをもて(注・歌の材料にならないものはなく)、時に薪をおへる山かづの、花の陰にいこへるさまなきにしもあらず(注・薪を背負った山人が花の陰に憩っているように見えなくもない)、古人いへり(注・昔の人は言った)、楊誠齋(注・南宋の政治家、歌人)の詩は、細大の光景見るがごとく写し出さざるはなし、その長処も此にあり、短処もまた此にあり云々(注・小さなものも大きなものも見たままを写すように書かれているが、それが長所でもあり、短所でもある)」とある。 

  この序文で、紀貫之が大友黒主(注・六歌仙のひとり)の歌について「薪負へる山人の花の陰にやすめるが如し」と評した一句を借りて翁の歌を概評されたわけで、これはまさに至言とういうべきだろう。
 翁は明治四十一(1908)年に七十五歳で亡くなられたいつも闊達な気分で、酒を飲めば陶然と佳境に入り、歌姫の絃曲をきいて喜ばれるようなこともあったから、晩年までその歌に活気があり、また艶気もあったのだろう。とにかくも、この明治時代の大歌仙に、みじかい年月ではあったが修学することができた私はまことに幸せであったと思う。


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百三十六  大日本史の完成(上巻470頁)


 大日本史は、第二代水戸藩主である光圀卿すなわち義公の創撰(注・発案して編集)されたものである。明暦三(1657)年(注・江戸で明暦の大火が起きた年)、義公が三十歳で駒込別邸に修史局を開かれてから代を重ねること十二代、年を閲する(注・けみする。年月がたつ)こと二百五十年にして、明治三十九(1906)年に、記、伝、志、表の三百九十七巻ならびに目録五巻を明治天皇皇后両陛下に献納し、全部の完成を告げたのである。
 そもそも大日本史は、水戸義公が、大義名分(注・人、臣民として守るべき事柄)が世の中で明確になっていないことに憤慨し、皇統を正閨(注・天皇の血統を正統であるとする)し、人臣を是非し(注・臣下のあるべき姿を議論し)、春秋厳正の筆法で(注・「春秋」に孔子の意見が加えられていたように、「正邪の判断を加えた方法で」の意)、乱臣賊子の心胆をくじき、国体の尊厳と皇室の崇高であることの理由を祖述(注・先人の説を受け継いて述べる)されたものである。その影響は、勤王と斥覇(注・武力で政権をとるを卑しむ)の思想を全国に醸成し、ついには王政維新の大業を完成させたと言ってよいものである。

 その効果が大きかったこともそうだが、その編集の規模も非常に大きかった。伝え聞くところによると、義公が史館を駒込から小石川邸に移し彰考館と名づけ、天下の学者を招いて全力を修史事業に傾けたとき、その総裁の禄高が四百石、次の人が三百石、二百石といったかんじで、編集員が六十人以上もいたのであるから、その俸禄だけでもたいへんなものだったのである。このほかにも、史臣(注・もともとは記録にたずさわる官職のこと)を各地に派遣して資料収集に当たらせたその経費などがいくらかかったのか知れない。もちろん二百五十年にわたる大事業なので、時には汚職が行われたことがなかったわけではないが、水戸の歴代の君臣がどれほどこの事業に精進したかということは、およそ推しはかることができるであろう。
 さて大日本史は、義公の在世中に、安積あさか澹泊(
だの、栗山潜峰(だのというような大学者が多大な精力を費やして編集に当たったので紀と伝の大部分は脱稿したが、まだ志と表には手がまわらなかった。

 その後、寛政年間の文公(注・水戸徳川家6代藩主治保はるもり)の時代になって、修史の機運が復活し、その結果、文化年間の武公(注・7代藩主治紀はるのり)時代に、はじめて紀、伝を朝廷に献納し、書名も大日本史と勅定(注・天皇が定める)された。
 それ以来、志、表が成立するたびに続々と献納をしたが、王政維新の前後は国事に事件が多発したこともあり、やむをえず一時編集を中止しなければならなかった。
 そして明治四(1871)年ごろ、以前に志と表の編纂に大きな功労のあった豊田天功の門人の栗田寛氏が、志と表を完成させることが自分の任務であるとして、ある時には水戸に滞在して専心これに没頭したり、あるときは東京で大学教授などの余暇を利用してこれに従事したりして四十年間ものあいだ拮据経営(注・仕事に励む)したので、明治三十二(1899)年に彼が永眠したときには、十志のうちの最後の国郡志と、あとの三表を残すだけになるほどに完成していた。

 栗田氏は、もう自分では起き上がって完成することができないとわかったときに、養子の勤氏を枕元に呼び、これを完成させてほしいと切に遺言したほどで、栗田氏がいなければ大日本史の完成はほとんど期待することはできなかったであろう。
 後年、彼の高足(注・すぐれた弟子)である清水正健氏が、その功績をたたえ、
 「先生の進退は、日本史の志類と相終始し(注・大日本史のの編纂と重なり)、先生の学術は志類の編輯と相伴へり、日本史紀、伝、その編輯に従事せし者幾十家(注・編集に携わった人の数は多いが)、そのよくこれを大成せしは、澹泊先生一人のみ、日本史志、表その纂録に拮据せし者幾十人、そのよくこれを集成せしは、栗里(注・りつり=栗田寛)【寛】先生一人のみ、前に澹泊先生あり、後に栗里先生あり、義烈両公の志願、ほぼ果せりというも、敢えて溢美の言には非ざるべし(注・ふたりの先生のおかげで義公[水戸徳川家2代光圀]、烈公[同9代斉昭]の念願が果たされたといってもほめすぎではないだろう)。」
と道破(注・きっぱりと言う)された。まさに簡潔に要点をついたものだと言えよう。
 こうして、栗田寛氏の没後明治三十六(1903)年になって、国郡志と三表を完成させるにはまだしばらく時間がかかりそうだが、できれば少しでも早くこれを完成させ義公の宿願を果たしたいというのが当主の圀順(注・水戸徳川家13代くにゆき)公の志願だったので、同年の二月二日、私の一番町宅でそのための評議会を開くことになった。このとき出席したのは家令の手塚任、家扶の古川哲、福原脩、香川敬三伯爵、石河幹明、佐藤奉、川崎八右衛門の諸氏であった。
 ここで編集経費を大幅に増額し三年半のうちに完成させることが決議された。栗田勤氏が部下を督励して仕事に当たってもらうようにして、予定通り三十九(1906)年十二月に全部の進献(注・天皇に献上)する運びとなったのである。
 このときの宮内大臣は田中光顕伯爵だった。大日本史の各一部を、天皇、皇后両陛下へ献納したところ、両陛下はとてもご満足に思召され、大日本史の資料として彰考館の蔵書を永世保存するようにとの思し召しによって、天皇陛下から金一万円、皇后陛下から金三千円の御下賜の恩命があった。そこで圀順公は常磐神社のそばに堅牢な書庫を建設し、ありがたい天皇のご意向に沿うことにした。
 私も水戸藩臣として、少年時代から自分のことのように関心を持ってきた大日本史の完成を目前に見届けることができよろこびにたえなかった。そこで、ここにその完成の顛末を略述した次第である。


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 百三十七
伊藤公の文藻(注・文才)
(上巻474
頁)

 伊藤(注・博文)公爵は長州出身の高官のなかでももっとも文才に秀でたひとりであった。詩を作り書も巧みで文章も達者なほうであったが、特に書簡文は群を抜いて立派なものだった。素人のことでもあり詩も書も出来不出来がおおいにあるようだが、その傑作ともなれば持って生まれた春畝山人(注・春畝は伊藤の号)の気分が発露して、他人の追随を許さぬものがあった。
 詩については、秘書役である森塊南が多少の添削を加えたかもしれないが、非常に緊張したときの作品はことさらに面白いように思う。明治二十(1997)年前後の、内閣が始まった時期だったと思うが、官邸から芝山内の末松謙澄子爵の家に立ち寄り所感(注・気持ち)を綴った作を示されたということで、その後ほどなく私が末松氏から伝承した七言絶句は次のようなものであったと記憶している。

  騫凌霄志己非 老来豈復憶高飛 孤雲一片秋天外 満目江山帯夕暉 
 (注・騫=傷つく。鳥の翼。霄=空。暉=輝く)

 この作品などは、割合に野心が感じられなくて、公爵の詩としてはもっとも老熟しているものではないだろうか。
 公爵はまた時々、戯文(注・ふざけた文章)を試みられることもあったが、半分以上は漢文の思想で和臭がはなはだ少ないため、とにかく堅苦しい感じからは逃がれられなかったものの、そのなかに幾分かは洒落っ気が感じられたのは、さすがに公爵の快活なうまれつきから来るものだったのだろう。

 明治三十五、六(19023)年ごろ築地瓢家の楼上で長夜の宴を張られたとき、公爵が巻紙を取り上げてすらすらと書きつけられた俗謡は次のようなものであった。

 「位置(一)は固より高く、荷(二)は甚だ軽し、産(三)は営む所に非ず、詩(四)碁(五)二つながら学ばず、禄(六)は今受けず、質(七)も亦(注・また)置かず、蜂(八)には時々藪の中にて刺され、苦(九)も亦免れず、住(十)は大磯の辺に在り。」

 公爵はこの文句を同席していた平岡吟舟に見せ、君、この唄に節付けができるかと言われたので、翁が手に取ってこれを見てみると、俗謡としては堅苦しいし語調もはなはだ悪いのでこれに節付けするのは難題だったが、翁も例の負けん気からお安い御用でございますと三十分で節付けをしたばかりか、その唄に踊りの手もつけて、侍座(注・じざ。貴人のかたわらに控えている)の若吉(注・33に既出した名古屋出身の芸妓と同一人物か?)が三味線で弾けるようにし、藤間政弥に振りつけを教えて即席料理の舞踏を演奏したので、伊藤公爵も吟舟翁の音楽的奇才には感心したそうだ。これがおそらく公爵の俗謡の絶品で、短いながら公爵の身上をきっちり表現しているところに、公爵の文才(原・文藻)の一端を見ることができるのではないだろうか。

 

小村侯爵の警句(上巻475頁)

 小村寿太郎侯爵は五尺(注・約150センチ)に満たない小男で、しかも痩せぎすだった。身体の割に頭が大きく、頬はこけ目はつりあがって、西洋人の漫画に見受けられる東洋人の顔ソックリであった。
 しかし「蛇(注・じゃ)は寸にして物を呑むの概あり」(注・人を呑むが普通。蛇は一寸の幼いときから人を呑みこもうとするように、若いころから気迫があること)というたとえにもれず、外交上の駆け引きにおいては土俵際で人を驚かせるような技量を持っていたそうだ。
 明治三十三(1900)年の北清事変の際、シナの外交団のなかでその技量をおおいに発揮し、そのきびきびした言動は各国の外交官の肝っ玉をくじき、彼らに日本に小村という外交官あり、ということを初めて知らしめたということである。

 侯爵は無愛想な顔つきで談話中に皮肉な警句をまじえ、それが往々にして毒舌となってしまうのだが、これにショックを受けて相手が驚くのを見て呵々と(注・ワハハと)笑うところは、いかにも人を食ったような様子であった。
 ポーツマス条約締結後のことであったが、三井銀行専務の早川千吉郎が小村侯爵を主賓として実業家連中を十数名浜町の常盤屋に招待したときのことである。早川氏は酒を飲むとかなり酔っぱらって同じことを繰り返す癖があったので、その晩も主人役をがんばって勤めたあと例の繰り言のメートルを上げ(注・激しくなり)主賓の小村氏の前に進み出た。「私は無遠慮に談論はするが腹には何もありませんから、決してお気遣いなされように願います」と言ったのだが、小村氏は侯爵の左右を見ながら、腹だけでなく、頭にも何もないだろうとはっきり言って(原文「喝破して」)例のごとくにからからと笑われたので、一座の人間は冷や汗を流して危ぶんだが、当の早川氏はすでにお酒が回っていたのでその意味に気づかなかったようで、一緒にからから笑って事は終わったものだった。しかし小村氏が外交談判では往々にして相手の武器を奪って逆に刺す、というような辣腕ぶりを発揮したことが、この一事をもっても推し量れるだろう。
 日本の政治家では、小村侯爵と犬養毅氏は小男の二幅対であるが、いずれ劣らぬ弁論の雄で、時に毒舌を吐いて人を罵殺するあたりが非常に似ているところは一種の奇観であるといえそうだ。


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百三十八  桂公のニコポン(上巻477頁)

 桂太郎公爵にニコポンという異名をつけたのは誰だか知らないが(注・東京日日新聞記者の小野賢一郎と言われる)、これほどよく公爵にあてはまる尊称はないのではなかろうか。
 公爵は背はあまり高くないがデップリと太っており、見るからに健康そのものという感じである。面相はむしろ丸顔のほうで愛嬌があり、切れ者だが融通が利きそうに見受けられ初見の印象がとてもよい人柄だった。
 公爵が政党員を操縦するときに、ニコニコと微笑んで肩のあたりをポンと叩くと、たいていの硬骨漢もグニャグニャになってその統制に服するという塩梅(注・あんばい)なのだが、それをずばり言い当てたのが、ニコポンという異称だろう。

 明治時代を通じて宰相になる人の数は多かったが、伊藤公爵も決して愛嬌がなかったわけではないが、桂公爵ほど愛嬌に富んだ人は他に例がないと思う。
 このようなニコポン的容貌と、あくまで辛抱強い性質を持っていたので、後輩のなかから抜け出して高い位をきわめた。先輩である長州三尊(注・伊藤博文、井上馨、山県有朋か?)さえも凌いで三回までも内閣の首班に立ち、しかももっとも重要な責任を果たすことになったのである。(注・じっさいには伊藤5回、井上0回、山県2回首相になった。桂がもっとも重要な仕事をしたかどうか疑問)

 私は桂公爵とあまり頻繁に接近する機会はなかったが、明治四十三(1910)年の王子製紙会社の社長時代、外国製の新聞用紙の関税引き下げ案が帝国議会の議題にのぼるというときに製業者として国産擁護運動に加わり、渋沢栄一子爵、大川平三郎氏と三人で桂公爵を三田邸に訪問したことがある。そのときには用件のほかにいろいろな時局の問題についても話した。公爵と要談らしい要談をしたのはこのときだけで、これ以外はたいてい風雅遊戯の会合で接触したのである。

 あるとき私は浜町の常盤屋で宴会のあと、実業家の三、四人と公爵を囲み雑談をしたことがある。この夜、公爵は特別に上機嫌で、しまいには身の上話にもおよんだ。(注・一部を読みやすい表現になおした)
「人はなんでも辛抱ということが肝腎である。それについて吾輩が大に感じたのは、東北戦争(注・戊辰戦争)のとき、会津の近くに至って賊軍の重囲に陥り、非常な苦戦でしきりに援軍を待っていたが、糧食も次第に尽き果てたので、今は戦死を覚悟して、敵軍中に斬り込まんとした時、軍中に一人の老人某という者名前忘れたがあって、今突出(注・突撃)すれは九死に一生を得ることもできぬから、辛抱せぬということはないと、切に吾輩らを制止したので、やむを得ずしばらく猶予している間に、包囲していた敵軍がなぜか次第に他方面に動き始めたから、そのまま形勢を観望しているところに、さいわい援軍が到来して、蘇生の思いをなしたのである、このとき吾輩は、しみじみと辛抱の大切なることを感じ、爾来(注・それからというもの)困難な場合に遭遇すれば、常に当時のことを想い出して、できるだけ辛抱するのを吾輩の主義とするに至った古人の歌に、

  すなほなる竹の心にならへ人 うきふししげき世には住むとも

というのがあるが、これも同じく辛抱の心持を言い現わしたもので、吾輩はこれを座右の銘と思っているよ」
と語られた。
 私は、なるほどおもしろい教訓であると思った。さっそくそれを書いていただきたいと思い、女中に命じて短冊を取り寄せ即座にその歌を揮毫してもらったものだった。
 公爵が日露戦争時代から時局多難の中でしばしば苦境に陥りながら、余裕しゃくしゃくとしてこれを切り抜けた手際を見ると、この談話に思い当たる節が少なくない。公爵の場合、例のニコポンに加えてこの辛抱があったので、あのような大成功をすることができたのだろうと思う。
 桂公爵が愛嬌に富み、人の心をつかむ術にたけていたことは人のよく知るところであるが、ふだんの事務を処理するときには、いかにもテキパキと要領を得ていたのも、なかなか真似できないところであった。
 些細な例になるが、明治四十(1907)年前後に井上世外侯爵が発起人になり、木挽町の田中家という旗亭(注・料理屋)で政治家実業家の数十人の会合を開いたときのことである。この会合は、清元延寿太夫(注・五世)の内儀(注・妻)のお若が、最近、声を痛めて公演壇上に立つのをよしとせず、今後はもっぱら清元の師匠になるらしいということを聞いた世外侯爵が、例の世話好きが高じて集まった紳士連中から若干の寄付を集め、お若を後援するための資金を提供しようとしたのである。そのなかには、桂公爵、杉(注・孫七郎)子爵、園田幸吉男爵、高橋是清子爵、早川千吉郎、馬越恭平、加藤正義の諸氏がいた。

 このときに桂公爵は女中に命じて半紙を数枚持ってこさせ、手ずから横とじの帳面を作った。そして自身が書記役になり、筆はじめに、二百円、と書きつけて、そのほかの人は、五百円くらいを最高額に、あちらはいくら、こちらはなんぼと、いちいち承諾を求めてまわり、たちまち七、八千円の勧化(注・かんげ。もともとは寺の建立のための寄付のこと)を取りまとめてしまった。その手際のあざやかなこと。あっという間に勧化帳を完成させて世外侯爵の手に渡したので、侯爵もニコニコとして、満足の意を表された。
 このとき杉子爵だけは、俺は三百円を寄付しようと思うが、金はないから半切(注・全紙の縦半分サイズの紙)に詩を百枚書くことにしよう、これを一枚三円で売って、三百円にまとめてほしい、しかし絶対に三百円以上に売ってはならんぞ、と言われた。その後ほどなく約束を守られたが、いかにも杉子爵らしい行動で、私は桂公爵の機敏さに感心すると同時に杉子爵の脱俗(注・俗事から超越しているようす)にも敬服したものだった。


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 百三十九 
河東節稽古初め
(上巻481
頁)

 私は前にも述べたように明治二十六(1893)年ごろから謡曲を習い、ついで能楽におよびそれから十数年間継続したが、同四十(1907)年ごろになり合方(注・あいかた。三味線を弾く人)のいない謡曲だけでは満足ができず、なか三味線曲を稽古してみようという気になった。
 何を稽古しようかと考えてみたが、義太夫は家庭の音楽ではないし清元、常磐津も最初から習おうという勇気は出ない。そこで、少し活気には乏しいがシンミリとして上品な河東節に狙いをつけることにした。そして、そのころまだ元気だった同流の家元であった山彦秀次郎を頼りにし、亡妻もまだ存命中だったので、妻は三味線、私は唄の稽古を始めたのだった。
 最初に習ったのが熊野(注・ゆや)」だった。そもそも河東節というのは、江戸時代の中期に吉原謳歌芸術として出現したもので、浅草の札差旦那衆に歓迎された。したがい、吉原廓内で流行し、有名な玉菊太夫などはもっとも堪能だったと伝えられている、
 そのころの粋な遊客が、流連(注・いつづけ。家に帰らずに遊び続けること)の間のつれづれに渋い喉をきかせようとするときに、撥(注・ばち)の当たる音の騒々しい長唄でもあるまい、というところから廓において歓迎されたのである。後年、荻江節が吉原に流行したのも、また同じ理由によるのだろう。

 このような事情なので、河東節というのは旦那芸であって、その人にみ合った力で唄うものだから、節回しものらくらしていてタイミングを取るのがすこぶる難しい。これには閉口して、私は次に取り掛かった邯鄲の途中でいったん稽古を中止することにした。
 さて、師匠の秀次郎のことであるが、以前に、すでに簡単に説明したように、一種風変りの奇人である(注・86「明治中期の芸人」を参照のこと)。彼の晩年に歌舞伎座で演芸会があった時、演奏の途中で便意をもよおしてしまい、合いの手が長いところを見計らってそっとその席を立ち、用便のあと再び元の座にもどって平気でその曲を終えたということだ。このような奇行において、彼は神武以来ほとんど比類がなく彼の独擅場であった。
 そのかわり稽古にかけては、だれかれの区別なくズケズケと小言を言い、どこか気骨があるのが面白かった。またその掛け声の立派なことといったら、あの「助六」のときに、ハヲ―という声が劇場の隅々にまで響き渡った、というような話が伝わっている。
 ともかくも、私の三味線曲の口開きはこの河東節にその端を発したのであった。


清元師匠お若(上巻482頁)

 私が河東節を習い始めてから二年ばかりたった明治四十二(1909)年の暮れに前妻が没したため、稽古もしばらく中止していたが、翌年の十月に迎え取った現在の妻の実家が音曲の家であった関係で、私はまたしても三味線の修養にとりかかった。
 陰気な河東節には閉口していたので今度は思いきって清元を選んだ。そのころの女流清元の第一人者であった、五世延寿太夫の妻であるお若を一番町宅に招くことにした。そして夫婦いっしょになって最初に習ったのは山姥の山巡りの段だった。
 そのころは河東節でいくぶん喉が開いていたから、その分進歩は早く、一段を上げるともう人前で唄ってみたくなってしまった。 
 そこで、まずはその試験官として先代の清元梅吉と延寿太夫に来宅してくれるよう頼み、おじけることもなく(原文・おめず臆せず)彼らを前に発声してみた。そして、とにかくその試験に合格したので、今度は浜町の常磐屋(注・本文中、常磐屋、常盤屋、常盤家などの字が用いられているが正式には常盤屋のようだ)に、お若の女流の高弟(注・優秀な弟子)を十数人招き、はじめて同門の衆評(注・おおぜいの人の批評)を求めた。
 その結果がすこぶる良好なので、以降だんだんに深入りして、大正二(1913)年ごろからは麻布狸穴に清元稽古所を設け、お若に稽古をつけてもらう一方、延寿太夫にも出稽古に来てもらい、桧垣、浅間、夕霧、隅田川、お菊幸助などという当流の奥伝物(注・奥義の伝授にかかわるもの)をも伝習するにいたった。
 延寿太夫の劇場への出演がこのころから非常にひんぱんになったので、私はお若にいて、もっぱらお葉(注・四世延寿太夫の妻で、本人も清元の名人)直伝の節回しを研究したのである。
 お若は中年まで非常な美声であったそうだが、その後すこし喉をいためたため、明治四十三(1910)年に私が後妻を迎えた披露宴で、妹である藤間政弥の青海波踊りの地を唄ったのを公開演奏の最後に、その後はもっぱら女流門弟の育成に没頭した。
 新橋、日本橋の歌妓のなかから、〆子、丸子、利恵治、小花、綾子、おしん、れん子など何人もの歌い手を育て上げ、これらの女流が組織した若葉会という清元の演習会は百回以上も続き、一時は新橋が清元一色になったのは、まったくのところお若の献身的な努力によるものだった。
 お若の語り口は、いたずらに華美をてらうことなく、鼻におもしろみがあって、節回しの細かなところに得も言われぬ妙味があった。稽古中に喉の調子がいいときには思わず聞きほれてしまい、一人で聞くのはもったいないと思うことさえあった。
 夫の延寿太夫(注・五世)は大器晩成で、大正中期以降はほとんどわが国の音曲界の第一人者になるにいたったが、お葉の遺調をよく伝えて女流清元を育てたお若の功績は、ながく忘れてはならないものだろう。


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百四十  老少無常(上巻484頁)


 私は明治四十(1907)年に父を失い、二年過ぎた同四十二年に妻を失った。これはもちろん全く私の家まつわる私事であるが、私にとっては生涯にかかわる一大事で、これについて一言述べておくべきであると感じるので今回言及することにした。なお当時、数多くの大家から亡妻に寄せられた追悼の美辞麗藻(注・詩や歌など)をなにもかも死蔵していることにもたえがたく、ついでながらこの紙面で使わせていただいたので読者にもどうか諒解を願いたい。
 私の父は名前を常彦といい、その四代前から水戸藩に仕えていた。維新前に、藩主の順公(注・水戸藩10代藩主、徳川慶篤よしあつ)に従い禁裏守護のために上洛したことがる。また、矢倉奉行を勤め、水戸藩の武器倉庫を整理したことがあるというのが藩士としての履歴である。
 刀剣の鑑定については一隻眼(注・独特の批評眼、見識)を持ち、時には自分でも砺(注・まれい。刀を研ぐこと)した。また水戸家の名刀について何から何まで記憶しており、それを語ることを楽しんでいた。
 居常恬澹(注・きょじょうてんたん。いつも平静)で物こだわらず、悠々自適して世を終えた。享年八十九歳であった。
 私の亡妻は、長州藩士、長谷川方省の次女で、千代子といった。明治二十四(1991)年に二十一歳で私に嫁ぎ、十八年間生活をともにし三十九歳で早世した。
 彼女の性質や行いについては、私が選定した戒名である幽芳院貞文妙覚大姉の文字にほぼ言い尽くされている。短い生涯は文芸と音楽とで始終した。
 和歌を小出粲つばら、大口鯉二に、琴、胡弓を山登萬和、川口玉栄に、茶道を青木政子に、小鼓を大蔵利三郎、山崎一道、三須平司に、太鼓を観世元規に、仕舞を梅若六郎に、河東節を山彦秀次郎に学んだ。また自己流で絵画を描き、写真を撮り、趣味の上において私と共に楽しむことを心がけた。
 だがこれらの諸芸のなかでも、もっとも琴に長じ、習った年月が短いわりには和歌にもやや見るべきものがある。次の四首などは、その一端を知るべきものだ。


      春雪
   梅が枝にそれかとまがふ花はあれど 消えてあとなき春の雪かな

      野蝶
   春の野のすみれつみつつ行く我を 道づれがほに蝶のおひくる

      夜春雨
   はしためがささやく声もたえはてて 雨しづかなる春の夜半かな
 
      秋暁
   寝覚してきく鐘の音も身にしみて あはれ催す秋のあかつき


 千代子がみまかった時、山県含雪(注・有朋)公爵は常磐会の幹事に時雨という題で会員一同に追悼歌を詠出するように命じられた。また大口鯛二氏は春雪という題で、その門流である「ちぐさ会」から同じように和歌を募集された。その他の先輩や友人たちから寄せられた和歌は二百首余りにものぼり、翌年の春、岡田八千代女史に託して、「ありし世の巻」を執筆してもらい、「言葉の友の巻」「時雨の巻」「春雪の巻」「なきあとの巻」の五巻を併せて一冊にし「小夜ちどり」と名づけ、知り合いに配った。
  この中にある、名家の追悼歌首を以下に掲げる。


      寄時雨追悼  山県有朋
   さびしさのかぎりも見えてひとめさへ かかる野末にふる時雨かな

        吉田貞子
   はれ曇る時雨の空に似たるかな おもひいでつつぬらす袂は

        益田 孝
   小鼓にまひつる夢やむすぶらん 時雨の音の窓をうつ夜は

      寄雪追悼   大口鯛二
   花とみし春の淡雪人みなの たもとの露となりにける哉

        三井五十子
   八千種の園の姫松雪折れの なげき見んとは思ひかけきや


 このほかにも、数々の追悼歌があった。

        三井高保
   飛鳥川かはるふちせの友千鳥 しぐるる夜半の声のかなしさ

        高島張輔(注・九峰。高島北海の兄で漢詩人)
   かをりのみ世にはとどめて春風の 吹くをもまたず散りし梅かな

        大倉鶴彦(注・喜八郎)
   さまたげの多きうき世や花さけば かならずすさぶ隅田の朝風

 私の実家には長寿の者が多く、明治四十(1907)に父が没したとき私は四十八歳ではじめて葬儀というものに出合った。ところがそれから二年で今度は年下の妻を失い、このような場合の心境を痛切に実感するにつけ次のような歌を詠んだ。

   程ふれば忘れんと思ふ面影の などさやかにはなりまさるらん

 また、ある日墓参りをしたとき、雪が深く積もっていたので、箒でみずからそれを払いながら、

   行吟又到墓門辺 髣髴音容在眼前 手掃墳頭三尺雪 峭寒或怕透黄泉
  (注・峭=険しい 怕=おそれる)


と口吟した。
 こうして四十九日を過ぎ、翌年の二月中旬に寸松庵で茶会を催し、床には寂蓮法師の筆になる
   無明轉為明 如融氷成水 
   注・轉=転)

の一軸を掛け、追悼の意を表した。

 回顧すれば、今ではすでに二昔半(注・25年)が過ぎ、鬢絲禅榻(注・びんしぜんとう。白髪まじりになる。唐の杜牧の詩の一節)、唯隙駒(注・月日がはやく過ぎること。荘子の一節)のはやさに驚くのみである。


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