だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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  百二十一 

製糸工場の処分(上巻419頁)


 三井には、明治二十四(1991)年よりも前に政府から払い下げをうけた富岡製糸場と、三十三銀行の抵当流れだった大嶹(注・おおしま)製糸場という二大製糸工場があり三井工業部の所管に属していた。(注・史実では、三井が富岡製場を手に入れたのは明治二十六年)
 中上川氏が鐘淵紡績や王子製紙を拡張したとき、製糸工場も三井の事業として大幅に拡張し、名古屋と四日市に二大工場を創設することになった。
 しかしこの計画は中上川氏のさまざまな拡張計画のなかで、いわゆる千慮の一失(注・思いがけない失敗)に終わってしまった。というのも、本来製糸の仕事は農閑期の工業で、農家が農間に養蚕をして、繭ができると自分たちで繰り上げるというのが従来のやり方だったからだ。上州(注・群馬)、信州、甲州(注・山梨)には多少は大規模な工場がなかったわけでもないが、言ってみれば一家の手内職であり費用のあまりかからないものだったのに、三井のような大きな会社が繭の買い入れから工場の操業までを給与の高い人を使ってやるしくみでは、結果として費用倒れになってしまったのである。
 特に明治三十二、三(18991900)年ごろは製糸の商況が悪かったので中上川氏も持て余していた。そこで私は中上川氏と協議したうえで、かねてから親しくしていた横浜の原富太郎(注・三渓)氏に交渉し、富岡、大嶹、名古屋、三重の製糸工場を、総額でいくらだったかははっきりとは記憶していないものの、とにかく十か年の分割払いで譲渡することになった。

 原氏は日露戦争後、この工場で大儲けをしたこともあったが、その後そうとうな損失を招いたこともある。大家が経営することが非常に困難な工業であるようだ。三井がこれを処分したのは私が三井呉服店在勤中で、中上川氏がまだ生存中のできごとであった。



絹糸工場の合同(上巻420頁)


 三井が三十三銀行の抵当流れとして引き取った物件のなかに、新町絹糸紡績工場と、前橋の同工場のふたつがあった。絹糸紡績というのは屑繭から糸をつむぐ工業のことで、日本においてはフランスの工場にならって建設したものである。中上川時代には、やはり三井工業部の所管に属しており、柳荘太郎氏が主任者として苦心して経営に当たっていた。
 その工業部が三井呉服店と合わさったので、私は明治三十五(1902)年ごろからその工業の全国的な合同計画に当たることになった。当時、経営が困難だった岡山、京都、程ヶ谷の三つの絹糸紡績工場をまとめ京都を本社にして団結する協定が成立したので、藤田四郎氏を社長に推し、私も取締役のひとりに加わった。
 それ以降かなりの成績をおさめ続けていたが、日露戦争のあとに諸工業が景気づいて、この合同絹糸紡績会社の株が払込の倍額以上に達した。もともと工業関連には執着をもたない三井では、これをだんだん売却し、約百万円ほどの利益が出るまでに売りつくした。
 この件が落着すると、私は三井から感謝状とともに金一封の褒美を頂戴した。そこで、当時の住まいであった一番町の家の東北部分に能舞台を造ることにした。それを稽古場、兼、運動場にした。しかしほどなく私の先妻が死に、ある人の説によると、これは鬼門に向かって能舞台を建設した祟りであるということであった。また私邸に能舞台を造るということは、昔であれば大名でなければなし得ないことで、三井の奉公人としては僭上の沙汰(注・身分をわきまえない贅沢)だと言いまわる人も出てきた。

 いずれにしても、あまりいい考えではなかったようである。しかし一生のうちに一度、自宅に能舞台を造ったというのも、私が趣味にふけった生活を送った一端を示すもので、必ずしも意味がなかったとは思わない。この舞台は、震災前に観世流の橋岡久次郎氏が引き受け、今でも赤坂榎坂町の橋岡方に残っている。



三越呉服店の独立(上巻421頁)


 上記の製糸、絹糸の両工場の処分に続き、私が三井在勤中にうまいぐあいに整理することができた案件は、三越呉服店のちに、三越と改称の独立であった。
 当店は明治二十八(1895)年に私が改革に着手したころから、三井営業店として経営するべきではない、という議論があった。しかし当時の老主人のなかには、少年時代から同店に勤めていた者もいたし、また先祖が始めた事業として二百年あまり継続してきたのだから、という意見もあり、いずれにしても一度改革したうえで、あとのことを決めようということになっていた。
 まずは販売法を西洋百貨店方式に改め、それから十年の歳月がたったので、主人連中の考えもすでに変化しており、今では、処分することに反対する者もいなくなっていた。そこで、当時三井管理部の首脳であった益田孝男爵からの発案で、三井呉服店を三井から分離し五十万円の株式会社にすることになった。そしてこれを、高橋、日比(注・翁助)、藤村(注・喜七)、益田英作の四人に、それぞれ五千株ずつ持たせ、他の五千株を三井関係者から募集した。
 店名も三越呉服店と改め、明治三十七(1904)年にはいよいよ独立して株式会社となり、日比翁助が専務として海外の百貨店の情況視察にあたった。そして同三十九(1906)年には、日本の百貨店の先鞭をつけて今や資本金三千万円の大事業会社になったのである。


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百二十二  日本百貨店の先鞭(上巻422頁)


 越後屋は、元禄の昔に現金掛値なしだとか反物小切売り」だのという先端を行く呉服小売り法を始め、非常に繁盛するにいたった。
 「翁草(注・おきなぐさ。18世紀後半の神沢杜口による随筆)」には「越後屋の繁昌言はん方なく、芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両と称へて、江戸の一所にて一日千両の商売あるものに数へらる」とあり、また新井白石の「紳書」にも「駿河町越後屋二の店にて、一日金千両平均の商あり、一年三十六万両越後屋に入る程に、夫れ程本町衰へたり」とある。また、俳人の其角(注・宝井其角)が、


   
越後屋が絹裂く音や衣がへ


と吟じたその越後屋は、二百十年あまりのちの明治二十八(1895)年から再び、私の手先端を行く改革を始めることになった。
 同三十七(1904)年には独立して株式会社になり、その後すぐに、さらに組織改革を行い日本百貨店の先頭に立つことになった。
 このときの組織改革で三越専務になったのは日比翁助で、常務は藤村喜七であった。百貨店としての完成は、このふたりの力に負うところがもっとも大きかったと思われる。
 日比は明治三十一(1898)年、私が三井銀行から連れて来て支配人にした男で、慶應義塾出身の久留米(注・現在の福岡県久留米市)の人である。正直で勤勉な人で、仕事に熱中するタイプであり、三越を百貨店にする準備のための調査で欧米諸国を視察してもらうことになった。その留守は藤村が守り、私も顧問として助けた。私は同三十九(1906)年、十二年の勤務ののち三越を退くことになった。

 日比氏は帰国すると着々と手腕の冴えを見せて百貨店を経営した。藤村氏も勤勉にそれを補佐した。このふたりの働きぶりにつき元三越常務取締役の林幸平氏は、新著の「続・予を繞る(注・めぐる)人々」の中で、非常に適切に批評しているので、抜粋して大要を記してみよう。(注・一部の表現を読みやすくあらためた)。

 まず日比氏については、
 「日比さんは三越の専務取締役になると、熱烈な意気ごみで全店員をひきいるとともに、なるべく店員を株主にして、多くの店員の中に隠れた才能を持つ人がいないかと、のどの乾いた者が水を求めるように目を光らせた。あるとき日比さんは店員を集め、このように言った。商店というものは、入口の管理が大切である、まず入口で、下足番が気持ちよく来客の下駄を預かり、出口の下足番がまた愛想よく客を送り出せば、その快感によって、多少の不愉快は打ち消されるものである。このように、まずはきわめて些細なところから注意をはじめ、一事が万事この調子で、すみずみにまで心を配っていた。また、「時好」、「三越タイムス」などという雑誌を発行したり、児童用品研究会を発足させて、将来の顧客となるであろう子供たちに対して、三越というものを印象づけようとするなど、百貨店主として、細心の注意を怠りなく行った。そのような氏は、ついに神経衰弱にかかり、まだ数年もたたないうちに病床につき、昭和六(1931)年二月、みずからが培って大成した花や果実を見ることなく逝去したことは、まことに痛嘆のいたりである。」
 また藤村喜七氏については、林氏はだいたい次のように記している。(注・同上)
 「藤村喜七氏は伊勢松坂の人で、十一歳のときに三越の小僧になり、六十一歳の還暦を迎えたとき、三越の常務取締役として、勤続満五十年を祝った。旧越後屋の大黒柱の古材で作られた厨司(注・厨子。扉付きの棚)に、純金の大黒天像を納めた記念品を、店員一同から贈られたという、実に模範的な商店員である。

 彼は小僧出身であるが、勤勉で、協和性に富み、またよく時勢の変化を理解して、それに順応する才能を備えていた。明治十八、九年ごろ、例の鹿鳴館時代の趨勢を見て、フランス国のパリに行き、洋服の材料を仕入れると同時に、フランス人のホフマン夫人と、そのふたりの娘を雇って帰国し、男女用の洋服店を開業して、当時の旧式な呉服業者を仰天させたこともあった。
 氏はまた、商品選びにすぐれており、仕入れ面で最大の功労があった。終生を三越の事業に捧げ、七十余年の高齢で世を去ったことは、東都呉服商店の中で模範的な人物として、おおいに敬意を表さざるを得ない。」
 以上の林氏の、日比、藤村両氏に対する観察は、長年、両氏の下で間近に仕えた人物だけに非常に適切なものである。なお私に対しては、先覚者の名のもとに、
 「高橋さんは明治三十一年ごろの、眠れるがごとき呉服商売の状態を達観して、一切過去の旧習にとらわれず、営業上、一歩一歩尖端を切って、同業者に多大な衝撃を与えたものである。ゆえに、日本における百貨店の発達史の基礎を知ろうとするものは、まず根本の基礎を築き上げた高橋さんの功績を没却してはならないと思う。」
とある。私は、百貨店事業を生涯の仕事としたわけでもなく、ただ、その黎明期に、通りがかりに少しの助力をしたにすぎない。言ってみれば、諸国廻りの武者修行の者が、途中でのある日に、猫退治をしたくらいの功労に過ぎない。したがって、これを誇る気持ちもないのだが、林君の高評に対しては、ありがたく感謝の意を表したいと思う。


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 百二十三 
三池築港の功徳
(上巻426頁)

 明治二十一(1888)年末、三井が三池炭鉱を落札したあと、団琢磨のち男爵氏が実際の経営に当たり、この炭鉱を三井の宝庫とするためにふたつの大事業を完成させた。
 そのひとつは、九州地震(注・明治22年)のために大きな浸水が生じた勝立坑に、明治二十三(1890)年に(注・詳細は未調査だが、史実は明治26年か28年ごろか?)、イギリスの、世界最大のデビーポンプ(原文「デビー卿筒」)を据え付け、その排水に成功したことである。
 ふたつめは、明治三十三(1900)年ごろから計画がはじまった、三池炭鉱から出炭した石炭を輸出するための大牟田湾の築港であった。
 私は勝立坑排水事業とはなんの関係も持たないが、明治三十一(1898)年から鉱山会社の理事を兼任したので、築港計画が起こってから完成するまでのあいだは団氏の助役になるという光栄に浴した。団氏がこの事業を成し遂げるまでにどれほど苦心したかということを十分に承知しているので、その大要をここに記すことにする。
 団氏は、イギリスから輸入したポンプで勝立坑の浸水の排除に成功したのち、さらに万田の竪坑の開削を行い三池炭鉱の出来高はますます増加してきた。この石炭を上海、香港などに輸出するには、まず小船で三池から長崎まで運び、長崎で汽船に積みかえるという二重三重の手間がかかっていた。一歩進めて、汽船を口ノ津港に寄港させて三池からの石炭運搬の距離を短縮してみたものの、例の青筒汽船(注・英国の汽船会社、ブルー・ファンネル・ライン。青い煙突のためにこの名がある)などの船がだんだん大きくなり一万トン以上になるものもあったので、三池の未来のためには大牟田港を築港することが利益になることは明らかだった。そして一万トン以上の大きな船をこの港に寄港させ、炭鉱から掘り出した石炭を港口で本船に積み込めるようにしようというのである。
 このあたりは潮流の干満が激しいというので、最初は水門を二重にする計画で予算を立てたが、費用の点を考慮し工夫を重ねた末に、最終的に一重の水門の案を採用することになった。築港費用三百万円で工事を進めたが、この港を石炭積み出し専用にしてしまうと九州全般にその恩恵が及ばなくなってしまうので、石炭は内港で積み込むこととし、外港は公共の貨物積み下ろしの便の供することになった。すなわち三池港の一部は公開港として、九州地方の運送業のために使用されることになったのである。そのため地元は繁昌し、三池町はほどなく市になるなど、三池港は公私にわたって貢献することになったのである。しかも築港の仕事は順調に進行し、なんらの支障も出なかったため、外港を築造するという臨時支出があったにもかかわらず、結局、予算三百万円の一割程度で落成した。じつに大成功であったと言えるだろう。

 団氏が技術的な知識と事務的な能力を兼ね備えていたために、第一の浸水排除事業、第二の三池築港の二大事業を完成し、三池鉱山を完璧な三井の宝庫になしとげたのである。この人材を経営者として得ることができたことは三井家の大幸運であったと言わざるをえない。
 私は以前にも、三井が三池鉱山の落札のときに団氏を併せて獲得できたことは非常に幸運だったと言ったことがある(注・57「三池炭鉱」を参照のこと)が、三井財国の総理となってからの団氏についてもまだまだ語るべきことがあるので、また後述することにしよう。


築港に対する感想(上巻428頁)

 三池築港は九州における一大土木工事だった。文禄征韓の役(注・16世紀末の朝鮮出兵)のときに太閤秀吉が肥前(注・佐賀)の名護屋(注・原文では名古屋)に施した出征準備の工事もおそらくかなり大規模であっただろうが、いまではその遺跡を確認することができない。
 そのほかの九州の大土木工事というと、その第一は熊本城になるだろう。これを三池築港と比較するとしたら、はたしてどちらが大がかりだっただろうか。私は、三池築港の工事中にたびたび三池に出張したが、そのついでにある日のこと熊本城を参観した。そのときふと頭に浮かんだのは、近代文明の施設と封建時代の事業とのあいだには、大きな違いがあるということだった。

 加藤清正が熊本城を築いたときの経費は、はたしてどれくらいだっただろう、もしかすると三池築港費以上にかかったかもしれない。しかしこの城は、築城されたのちにいかなる実効をもたらしただろうか。徳川時代には城主の威光を隣国に誇示するという功徳はあったかもしれないし、維新後の西南戦争の際に薩摩軍を食い止めるという効能も大きかったかもしれない。しかし一般の民衆に対してなにかの功徳を及ぼしたかどうかというと、かつて何一つ利益を与えたことがなく、今後もなおさらそのようなことはないだろう。
 この点にいたると、三池築港は単に現在だけでなく、炭鉱がことごとく掘りつくされたあとまでも、いや九州が存在する限り、利用厚生の恩恵を末永く子孫に残すことになる。この功徳の深さの違いは比較することすらできない。
 このように考えれば、たとえ最初の動機は利殖のためであったとしても、築港を完成させた資本主としての三井や、計画者としての団男爵の功績は非常に大きかったとしなければならない。私も、末席ながらこの工事の遂行に一員として加わり足跡を一隅に残すことができたことは、まことに望外の幸せであると思っている。
 


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百二十四  九州の実業大家(上)(上巻429頁)


 私は明治三十一(1898年に三井鉱山会社の理事を兼任し、この翌々年ごろから例の三池築港事業がもちあがったので、職務上、何回となく九州に出張することになった。そして同地の炭鉱業者や、その他の実業大家と接触する機会が多かったので、そのなかの主な人々について、きわめて簡潔な所見を述べることにしたい。
 私が九州に出張するようになり最初に知り合いになったのは野田大塊卯太郎】である。当時三井は、三池地方の有志者と密接な関係を結ぶため、また同地方の利益をはかるために三池に三池紡績会社を設立し、野田氏を社長とし永井純一氏を取締役とした。よって私が三池炭鉱に出張するときは、いちばんに三池紡績会社の社長である野田氏に面会するのが当然で、滞在中はほとんど毎日のように会談した。
 氏はもともとは豆腐屋のせがれで、二十貫あまり(注・一貫は3.75キロ)の大きな力士のようだった。九州訛り丸出しで一見気楽な人物のように見えて内部には機略を持ち、後年には政友会の領袖(注・副総裁になっている)となり、逓信大臣にまで出世した。もともとの資質において人よりすぐれたところがあったからであろうが、政党者に見られがちな持って生まれたぬーぼー式が、おそらくその境遇にうまく合致したためだろう。
 井上侯爵などは最初から野田氏を田舎者扱いにして、三池紡績会社が原綿の買い付けで大損失をこうむった時、あんな粗造な頭に計算などがわかるものかと口癖のように罵ったものだ。しかし、どこかに一種の禅気があって、円転滑脱(注・そつなく動きまわること)の妙をそなえていた。かつて鎌倉円覚寺の釈宗演に参禅したこともあり、大事にあたってもあわてず、「ソレでよかたい」を連発し、大口をあいてワッハッハーとわらいながら相手を煙に巻きながら用件をまとめていくところに、なんともいえない機知と策略があった。

 特別に学問をしたようすはないのに、ときとして発句を詠むこともあり、私が音羽護国寺で石灯籠供養会を開いたとき(注・270「名物形石灯籠供養」を参照のこと)には、大塊宗匠がひょっこり現れて芳名録に即吟一首を題した。それは、


   供養塔衆生済度の光かな


という句だった。しかし、宗匠一代の秀逸な句というと、


   天下取る子は大の字の昼寝かな


というもので、大塊がその名のとおりの大きな図体で、雷のようないびきをかきながら大の字になって寝ている姿が、なんとなく水滸伝の花和尚魯智深(注・かおしょうろちしん。全身に刺青のある怪力の持ち主)をしのばせるようで、九州の豪傑としてはまず第一にあげなければならない人物である。
 また永井純一氏は、その名のとおり純情一誠の人格者であった。かつて参議院議員にもなり九州自由党のなかで重きをなしていたが、いかにも謹言で重厚なその態度が野田氏の女房役としてもっとも似合っていた。
 安川敬一郎男爵も、九州の実業家では唯一の男爵であるということからも、ほぼその人柄を察することができるだろう。私が男爵と出会ったのは、明治二十六(1993)年ごろ、私が三井銀行の支店長として大阪に滞在中の、男爵がまだ資産家になる前のことだった。
 自家の石炭売りさばきの道を開くために来阪し、また山陽鉄道に目をつけて、その株を買収するために三井銀行と取引しようとして、その用談のために来店した時が男爵と私の初対面だった。

 男爵は、令兄の松本潜氏が福岡の儒者であっただけに、相当の漢学の素養もあり、後年、自分の部下にあたる使用人に論語の講釈をきかせたときの筆記録を私に見せてくれたこともあった。いかにも堅実で、円熟味のある君子であった。
 炭鉱の経営が本業ではあるが、国家的な見地からシナ方面の商工業にも関係し、九州随一の大家となって、三百万円の資金を投じて学校を設立するなど公共事業にも広く尽くした。そのために男爵に叙せられ、貴族院議員になり、九州地方に重きをなすにいたったのである。
 今では高齢の八十を超えて老健ぶりはさらに衰えず、事業の相続者も得て家業もますます繁昌しているというのは、さだめて積年の善行の余慶というべきであろう。
 貴族院議員の麻生太吉翁も私の知り合いの一人である。翁は福岡県嘉穂郡飯塚村の代々の庄屋の生まれである。少年時代より炭鉱事業に関係し、今日見るような地位を築き上げたセルフ・メイド・マン(注・通常は、貧しい生まれからみずからの才覚でたたきあげた人をさす)で、筋骨たくましく、運慶の彫刻した二王尊を見るようだが、思慮周密で、石橋を叩いて渡る流儀なので、今は九州でも屈指の大資産家になった。
 先年、百二十五万円で炭鉱のある山を三井に売却したとき、その記念のために、その高額の現金を座敷に積み重ねてみようと、門司の日本銀行支店から同額に紙幣を取り寄せ、蓬莱山(注・中国古代の想像上の神山。仙人が住み、玉の木がはえていた)のようにそれを飾った床の間の前で、めでたく祝宴を開いたという。いかにも代々庄屋の旦那らしい稚気に満ちたふるまいで、麻生翁の立志伝の一ページを飾るにふさわしいエピソードであろう。
 


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百二十五  九州の実業大家(下)(上巻433頁)


 九州の炭鉱業者の中の巨頭といえば、なんと言っても亡くなった貝島太助翁である。
 翁は工夫(注・炭坑夫のことか)から成り上がった人で、体格が頑丈で親分らしい容貌を備えていた。非常に寡黙であるが真摯で誠実なところがあり、おおぜいの工夫たちから神のように崇拝されるだけの徳望を備え持っていた。
 私はあるとき直方町の貝島邸を訪問し、翁がみずからの好みで建てたという和洋折衷の三階建ての奇妙な大伽藍のなかで翁の懐旧談をきいた。
 翁は明治三十一、二(189899)年ごろ炭鉱不振で非常に困窮していたが、ある日のこと数台の人力車が門前に着いたので誰が来たかと出迎えてみると、それが井上(注・馨)伯爵馨夫妻であった。驚いたり喜んだりしながら座敷に招きいれ来意をきくと、「維新前、変名してこの辺を往復した昔を思い、久しぶりで再び旅行したのであるが、家内が不浄(注・洗面所)を借りたいというので、見れば不思議な家構えなので突然立ち寄った次第だ」と言われる。これは冥加至極な(注・ありがたい)ことと思い、問われるままに自分の出生から現在の炭鉱事業の状態を物語った。すると伯爵は非常に同情し、「今、資金がどれほど必要なのかをさっそく調べて山口の宿まで申し送るように」と言われた。これは地獄で仏に会ったような思いで詳しく計算して提出したところ、伯爵は毛利家に関係のある下関第百十銀行や三井銀行などに相談して、相当額の資金融通の道を開かれた。このときの拙者にとって、轍鮒(注・てっぷ)が水を得たような思い(注・わだちにはまってあえいでいたフナが水をもらって生き返るという故事)で、伯爵の恩義にたいしては終生忘れることはできませんと、翁は非常に感激して語られた。
さらに、世には不思議なこともあるもので、拙者の考案で作られたばかばかしい家が侯爵を引き付けて私と侯爵の関係が起こったのだから、この家は拙者にとって実に大切な建物でありますと最後は大笑いになった。貝島家は、井上伯爵の指示にしたがい立派な家憲を作成し、後継者にも恵まれ、今や九州の大家として隆々たる声望を博している。これも、太助翁の長年の誠実の報いだというべきであろう。

 九州の実業大家の中には、赤銅御殿で有名な伊藤伝右衛門氏もいる。氏もやはり炭鉱業でその富をなしたひとりで、腕一本からたたき上げた人物だから、この種の人に共通する粗豪なところがないわけではない。しかし、なんら腹蔵のない率直な気質で、いかにも男らしい男である。私は東京でしばしば氏に面談する機会があったが、あるときは、かの白蓮夫人の噂も出て、すこしばかり礼讃の口吻をきかされた(注・のろけ話をされた)こともあった。
 その後に破鏡(注・離婚)の事件が起こると、世間はかの才媛に同情し、大江山(注・酒呑童子のしわざで)さらわれた姫君のように言う者もあったが、才媛ともあろうものが先方の人格を見誤っていったん嫁いだとするなら、ただありふれた離婚沙汰として終わりにするべきだ。才媛がそれについて、なにか感想談を発表したともきいたが、私はそこになにが語らているのかを知らない。しかし、楽毅(注・がくき)は国を去って悪声を放たず(注・中国戦国時代の故事。絶交した人の悪口を言わない)ということもあるので、もしそれが少しでも前夫の名誉に関係するようなことならば、あまり感心したことでもないのではないかと思う。伊藤氏はこの事件では思わぬ噂の種をまいたが、とにかく九州の大実業家であることにかわりはない。

 次に、平岡浩太郎氏は福岡の出身で、実業と政治の両方面で活躍した。日露戦争後の炭鉱業の好景気時代には政治の世界でも相当の手腕を試みた。氏は豪放ななかに無邪気な面を持ち合わせ、日露戦争がはじまり旅順の陥落が心配されたとき、我輩の部下を別働舞台として、すぐに旅順を乗っ取る成算があると人に向かって大言壮語したこともあるなど、すこぶる愉快な人物であった。
 氏は宴席で興に乗ると、田村の謡曲を謡うのが得意だった。その朗々たる音声はいまでも耳に残っているほどだ。また羽振りのよかったころに買い集めた美術品のなかに、趙氏昂筆の陶淵明の絵巻物一巻があって、私は最初にこれを見たときにはまったく気づかなかったが、その後、松平不昧公が編纂した古今名物類聚のなかに名物としてこの一巻が載せられていることを発見したので、平岡氏に知らせようと思いながら氏の物故によってそれが果たせなかったことは残念だった。
 また氏の福岡の自宅には神屋宗湛の古茶室があったので、私は氏を訪問したときに親しくこの茶室を一覧したが、今日なお現存していることだろうと思う。
 氏の壮時には、玄洋社の遠山(注・原文ママ、頭山満)、杉山(注・杉山茂丸)らと肩を並べたほどで、おのずと国士の風があった。晩年の炭鉱不況時代に長逝されたことは、まことに遺憾であったから、私は翁の訃音をきいて、霊前に次の巴調(注・自作の詩歌をへりくだっていう)一句をささげた。


   国の為め心つくしのますらをに 手向くるぬさは涙なりけり
 


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百二十六  能楽実演の興趣(上)(上巻436頁)


  
私が謡曲を稽古しはじめたのは、前述(注・73を参照のことしたとおり明治二十六(1893)年からである。大阪滞在中に少し宝生流をかじり同時に仕舞も稽古し、多少は方向が見えてきたところで東京に帰ることになり、その後すぐに梅若流に改宗したのである。
 三井の同僚のなかには素謡(注・すうたい。囃子、舞をともなわず謡曲だけを謡うこと)の仲間が多かったので自然と稽古に励むことになり、明治三十六、七(19034)ごろには、重習物(注・おもならいもの。免状を得るための歌の等級のひとつ)もほとんど卒業したうえ、毎度、催能を見物しているので、素謡だけでは物足りなく感じるようになってきた。
 そこで、いよいよ能楽の稽古を始め、素人能の仲間入りをすることになった。「猩々」を演じて初めて舞台に立ったのが三十六年ごろだったと思う。
 それから一年に二、三回は演能を試みた。多くの場合は梅若舞台だったが、その後、私は、能楽会長の故蜂須賀茂韶侯爵の勧誘により能楽会役員の一員になったので、蜂須賀侯爵らとともに名古屋に赴き、同地の能舞台で弱法師(注・よろぼうし)」を演じたこともあった。

 とかく素人というものは大物に食ってかかりたいのが常で、私などもご多聞にもれず、これまでに、鉢の木、隅田川、俊寛、弱法師、井筒などという九番物を好んで実演してきた。そのほかにも、松虫、清経、女郎花、百万、三井寺、盛久、山姥、花筐、蝉丸、弦上などを勤めた。最初のうちは万三郎、六郎兄弟(注・両人とも梅若実の実子)の教授を受け、その後もっぱら六郎氏(注・のちの二世梅若実)について稽古することになった。
 さて、能楽を修業してみると、東洋術のならいで、その帰着点はいわゆる腹芸にあるということがわかる。もっと難しく言うと、能禅一味(注・能と禅は一体である)で、物我一如(注・他者と自己の境がない)であることを極致とするのだから、どこまでいっても際限がない。究めれば究めるほど、いよいよ難しくなるようである。
 もっともこれは、どんな芸道においてもみな同じである。しかし、能楽はとりわけ様式が簡単で練習によってその効果を現わすものなので、他の諸芸に比べて一段と難しいものだと思う。第一、能楽は、舞を構成している手振りが少なく、たとえば、左右、打込、披き(注・ひらき)、差廻し、差分け、飛返り、打合せ、身を替え、上げ扇、ユーケン、翳し扇、雲の扉、捲き返しなどという舞型が、全部で二十種くらいしかないので、これをさまざまに組み合わせたところで、普通の舞踏の手振りに比べれば、きわめて簡単なものなのである。
 また舞台には、芝居で使うような写実的な書割(注・舞台の背景画)がなく、たまに小道具を持ち出すことがあっても簡素な形式を示すにすぎないので、背景の力で演芸を補足する度合は芝居とは比較にならない。例えていうなら、芝居は、全幅にコテコテに描き詰めた彩色画であり、能楽は筆数が少なく一点一画に力のこもった水墨画のようなものである。彩画のほうは、画面に現れた形状によって、見る者は、その図が何を描いたものであるかを知ることができるが、墨画のほうは、その筆力ひとつによって、見る者の脳裏に、写実ではない真髄を感じさせるのである。だから、非常に多くの修練を重ねる以外には、その妙境に達するのは不可能だと思われる。
 能楽は、一口に、二百番というが、現在、各流派において通常出される演目は、おおむね五十番内外にすぎない。この道の専門家は、この五十番を少年期から老境にいたるまで、場合によっては一曲を数百回も実演するのであり、その時自分の身も魂も演じる人格になり切り、まったく物我一如となるのである。その心意気が観客の心眼に映り、大きな感動を与えることになる。これがいわゆる腹芸ということである。

 東洋の芸術の帰着点は、どれもみな同様であるが、能楽はとりわけその観が強い。つねに丹田に力をこめ、足ひとつ踏み出すにも、物ひとつ見るにも、まず腹から力が出るようにならなければ、その奥義に達することはできないのである。
 私の経験によると、一番の能には、必ず一、二か所の難関があり、これを通過するには何遍も丹念に稽古するほかはないが、練習の功を積み、その要領を会得したときのよろこびは、また格別なものである。思うに芸術とは、演じるたびに毎回同じにできることはなく、あるときには自分でも知らずにうまくできたことが、次に同じようにやろうと思っても同様の味わいを出せない場合が多い。
 かつて梅若実翁が、弟子の勇治郎が『東北』を稽古しているとき、池水に映る月かげといういうところで、扇を上げて下を見た形がいかにもよかったので、今一度そこをやってみろと申しましたところが、今度は私の思うようにいかなかった。この、いかにもうまかったのは自然にあらわれた妙所で、幾度でも同じうまさにできるようになれば、いわゆる名人となるのでありますと言われたが、能楽演奏の興趣は、このあたりのところにあるのだろう。
 


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百二十七  能楽実演の興趣(下)(上巻440頁)


 私が能楽の実演をするにあたり一番はじめに勤めたのは「猩々」だった。そのときのワキは大友信安で、明治三十五、六(19023)年ごろのことであったと思う。梅若舞台の鏡の間で面をかぶってみると非常に窮屈で、顔の中がむずがゆくなったり、ひげがさわって掻きたくなったり、そのうっとうしさはなかなか厄介だった。そのうえ、ふさふさとした猩々の蔓(注・かずら)を頭の上に載せられたときには、目がぐらついて気が気でなく、いよいよ舞台に掛かったら謡の文句や舞の手を間違いはしないかという心配も加わり、よせばいいのに、とんだことを始めたもんだと、いまさら後悔してみてももう間に合わない。是非もなく舞台に踏み出してみると脚元がふらふらして危なっかしくてたまらなかったが、そのうち少しは精神が落ち着いて、「枕の夢の覚むると思へば、泉はそのまま、つきせぬ宿こそめでたけれ」と舞い終わったときは、やれやれと思ってよみがえったような思いがした。それから楽屋に引っ込んで来ると、梅若実翁が例の調子で、最初としては上出来であると、そこここを褒めてくださった。
 褒められてみると二回目を試みたくなって、次第次第に深入りすることになったが、私が一番困ったことは、明治四十二(1909)年十一月に梅若舞台で「花筐」をつとめたときのことだった。王子製紙会社の専務取締役となって近いうちに北海道の苫小牧工場に出張することになっていたが、今や装束をつけてまさに舞台に掛かろうとしたとき、急用の電話が掛かってきたというのでその電話の内容を聞いてみると、工場におおいに関係した突発事件が起きたという知らせで、私は即刻北海道に出張しなくてはならなくなったのである。このとき、誰かが気を利かせて、しばらくこの知らせを差し控えてくれたらよかろうに、今や舞台に登らんとするときだったので、おおいに神経が乱されたばかりでなく、この能は、最近職務多忙となって稽古が十分でなかったので、あの最も難関の、「帝ふかく歎かせ給ひつつ」というクセのあたりから、われながら調子が悪くなったことを感じ出した。私は、かつて水戸黄門光圀卿が小石川水戸邸の能舞台の楽屋で、藤井紋太夫を成敗したあと五代将軍から賜った唐織の装束をつけて千手の舞を舞い、すこしも平常と変わるところがなく、ツレが絶句したときにも注意してやったということを聞いていたので、今さらのようにそれを思い出し、聖凡の差はこんなにも激しいものかと思い知ったのである。

 今のは私の演能の失敗段であるが、だんだん修業を積むにしたがって、必ずしも失敗ばかりではなかった。明治三十九(1906)年ごろ梅若舞台で「弱法師」を演じたとき、実翁の夫人が稽古中から気にかけて見ておられたそうで、この能が済んだあと稽古をしてくれた六郎にむかい、「万目青山は心にあり」というところで、扇をさっと胸に当てると同時に、二足下がって心持(注・ゆとり)のある工夫が、今日は稽古のときよりもズッとよくできました、と言われたそうだ。夫人は長年、良人や令息の演能を見ているので観能眼は非常に高く、実翁が何か難しい能を演じるときは、打合せの際、夫人に見てもらって意見をきかれたそうだ。そういうとき夫人は、どこそことは批評せず、ただ簡単に、上出来だとか、不出来だとかと言われたそうだが、実翁はこれをきいて、いろいろと工夫を凝らされたという。この夫人からこのような讃辞を受けたのは、私にとっては誠に満足なことであった。
 前に申した(注・126を参照のこと)ように、能は腹芸で、所作を簡単にして、ごく上品にその心を見せるもので、なにごとも腹の力が肝腎である。たとえば、物ひとつ見るにも、なにげなく、ただフイと見たのでは、何を見たのかその趣が現れないから、能楽において物を見るには、まず腹に力を入れて、見方がそれぞれに変化するのを見物人に見分けさせるのがもっとも難しいところである。

 葵上で「水くらき沢辺のホタルのかげよりも」と扇をやって、蛍の飛び行くさまを見るのと、松風で「沢辺の鶴こそ立ちさわげ」と、左右左と、弦の飛び行く態(注・てい。ようす)を眺めるのと、山姥で「峰に翔り(注・かけり)谷にひびきて」と、高山の峰から深谷の底まで見下ろすのと、景清で「ぬしは先へ逃げのびね」と、三尾の谷が逃げていく後ろを見送るのと、藤戸で「我が子返させ給へや」と、ワキの盛綱をにらめつけるのと、その見方はいろいろ違うが、つまり、腹に力がはいって、眼に移り、その眼の光が面から抜け出して見物人に伝わるので、ただうかうかと物を見てもその表情が発露されるものではないのである。
 私などはまだまだ未熟なものだ。ことに、一年に一度か二度の演能であるから、とうていその妙境に達することはできない。しかし、他人の演能を非常に興味深く見ることができるのは、能楽を実演をしたおかげだと思っている。
 


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百二十八  能楽翁の神秘(上巻443頁)


 能楽では、「翁」を二百番中の首位に置き、舞台開きとか正月の舞い始めという場合に、きわめておごそかにこれを演じることとしている。かつて梅若実翁は、
 「この能は神体にかたどったもので、翁は天照皇大神宮、千歳は八幡大菩薩、三番は春日明神としてあり、また天下泰平、国土安穏の御祈祷を演じるものなれば、徳川時代には将軍家でさえ、いわゆる別火潔斎のうえで、これを演じるのを常とした。しかし時世の変遷で、近頃はだんだん簡略になってきましたが、私共は古風を守って、これを勤むる前には必ず精進潔斎いたします。旧幕時代には、将軍自身で勤めらるるほかは、観世太夫がこれを勤め、私共は家格として千歳を勤めましたが、かの天下泰平、国土安穏のところに至れば、将軍も両手を膝に置いて、少しく頭つむりを下げらるるのが常例で、能楽はこの翁によって、大に重きをなすものであります」
と語られた。
 その後、古市公威男爵から聞くところによると、「翁」という能は昔から神秘物とされ、これを勤める者は精進潔斎するのを常とするが、知らず識らずにこれを犯すことがあると不思議と何かの異変が生じるものだという。
 旧幕時代に、梅若実が観世太夫の翁のツレを勤めたとき、実夫人が当日に、翁が装束の腹巻を取り落としたことに気づき、実翁のところへ使者に届けさせた。が、その後、夫人が月経時であったことを思い出したが、もはやどうしようもなかった。いっぽうの実は、その腹巻を締めて千歳を舞ったが、大切(注・おおぎり。最後)の足拍子のとき、不思議なことにその足が大口に引っかかり拍子を踏むことができなかった。それで拍子の代わりに身をかがめて舞い納め、なんという失策をしたことかと思って観世太夫に詫びたところ、太夫はそれを咎めなかったばかりか、謹慎の形になっていてかえって上出来だったと褒めてくれたのでまずは安心しはしたが、いかにも不思議なことだと思った。帰宅して夫人から先の一部始終を聞き、実におそろしいことだと思いましたと、実翁からきいたのだそうだ。


 また私が、その後この話を梅若六郎氏に話すと、氏はさらに次のような実体験についてきかせてくれた。(注・現代表現になおし


 「という能は、私共にとっては実に恐ろしいお能で、これを勤めるときには、非常に心配になります。
 私の母が亡くなった大正五年の一月、私が翁を勤めまして、自分でも気づかずに一句飛ばして謡い終わり、あとから人に注意されて、そのようなことがあるばずなないと不審に思っておりましたところ、ほどなく母が死去しましたので、これがその前兆ではなかったかと思い合わされたのであります。
 また大正十二年、あの大震災の年に、私が翁で、梅若進が千歳を勤めましたとき、不思議にも、舞の間に、彼の差していた刀の柄が折れていたのを発見して非常に驚いておりますと、かの震火災の際に逃げ遅れて、家内と子供と三人ともども全滅しましたので、さては、と非常に驚愕したような次第で、翁ほど怖い能はありませんから、これを勤めるときは、精進潔斎して戦々兢々、舞い終わるまでは、少しも気を許すことができないものであります」
ということであった。


 以上の体験談を聞いて、おおいに思い当たるのは、古来、日本の芸術家が大切な仕事をするときには精進潔斎をして神仏に祈誓し、もろもろの不浄を遠ざけて身心を爽快にすることにつとめるということである。三日間の別火だの一週間の精進だのといって、六根清浄を旨とする習慣がある。
 刀鍛冶が名刀を鍛えるときには、仕事場の四隅に注連縄(注・しめなわ)を張り、その身も精進潔斎して鉄槌を持つということであるし、能役者が翁を勤めるときには、前記のように日を限って別火をするなどの習慣がある。これはただ、その仕事の神秘に対しての謹慎というばかりでなく、そのように身心を清浄にして十分に気根を養っておけば、意識も自然に明瞭になり、仕事を仕損じる危険率が減るはずだということからなされているのだろう。

 つまり昔の人は、神仏にかこつけてこのような習慣を作ったのだと思う。能楽のような芸術を演奏するには、謡といい型といい、また拍子といい、その関係がきわめて複雑なので、酒を飲んだり夜更かしをしたり、その他身心の倦怠を生じてしまうような不摂生があると、その結果が芸術の上に現れ思わぬ不覚を取ることになるのだろう。
 これは能楽の話というだけでなく、社会全般の仕事に当たる者がおおいに心得ておくべきことで、能役者が大切な能を勤めるときのような心をもって事に当たれば、必ず仕損じることがないはずである。上記の体験談は、誰にとっても非常に大切な教訓であろうと思う。
 


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百二十九  東郷元帥の五字讃(上巻446頁)

 対馬沖大海戦(注・日露戦争の勝敗を決めた海戦)の勝利の知らせによって高鳴った胸の鼓動がようやく収まってきた明治三十八(1905)年の暮れに、私は三越呉服店意匠部の画家である島崎柳塢氏に、悪鬼が逃げていく絵を描かせ、それを東郷元帥に持参し、

  待汝之再来   乙巳冬 東郷書

という五字一行の揮毫を請うた。これに、鬼にちなんだ鱗形の裂と、追儺(注・ついな。おにやらい。節分の豆まきのこと)に縁のあるヒイラギの軸とで表装したうえで、わが寸松庵に掲げて歳暮茶会を催したことがあった。
 その後十九年が過ぎ、大正十四(1925)年十二月十日、私は元帥の麹町上六番町邸を訪問し、かねてより願い置いていた私の自作の茶杓の筒に元帥が「山桜」と書いてくださったことと、茶室掛けの横幅に「清寂」の二大字をしたためてくださったことへの謝辞を述べてから、元帥に次のように話した。(注・一部現代文になおす)
 「閣下はお忘れになったかもしれないが、バルチック艦隊全滅の年の暮れに、閣下にご揮毫を願ったことがあり、それは、閣下がロシアの艦隊を撃滅して、国家を富獄の安きに置かれた(注・「国家を泰山の安きに置く」の泰山を富獄=富士山に置き換えている。国家を安泰に導く、の意)ことは、私共がいくら感激してもしきれないことだが、勝って兜の緒を締めなければ将来どのような危険に出会うかわからないので、いったん逃げ出した鬼が、たとえ再び逆襲してきたとしても、いつでもこれを待つ用意があるぞという意味で、逃げていく鬼の絵に『待汝之再来の讃をお願いした次第であります」
 すると元帥は、そんなことがあったか、今はすっかり忘却しましたとのことであった。
 

 さて私は今回、元帥に対し、種々雑多な質問を行った。まず、茶祖の珠光(注・村田珠光)の標語である「清寂」の二字の揮毫をいただき、自作茶杓の筒に山桜の二字を書きつけていただいたのはなぜなのかということ、それからの会見の一時間のあいだにも、元帥は禅学を修められたことがあるのかどうか維新前後にはどのような行動を取られたのか明治四年から英国に遊学した七年間の経歴はどのようなものだったかなどなどいう質問をした。しかし元帥の応答については、後段に譲ることとし(注・284「東郷元帥懐旧談」を参照のこと)、ここでは、対馬沖海戦に関し元帥が私の質問に答えられた談話だけを記述することにする。
 明治三十八(1905)年五月、バルチック艦隊がウラジオストックに向かうにあたり、対馬沖を通過するのか、津軽海峡を回航するのかを予測することは、当時のわが国の海軍の作戦上、重大なことであったと思われるが、閣下はいかにしてあの艦隊が対馬沖を通過することを知り全力をこの方面に集中されたのかという私の質疑に対し、元帥は次のように答えられた。(注・一部現代的表現にあらためた)
 「バルチック艦隊が対馬沖を通過したのは、おのずからその理由がある。およそ軍艦が戦闘を行おうとするときは、長時間にわたって全速力を保持する必要がある。ゆえに長航路を続けて積載石炭の欠乏したときに戦争するのは、実戦上、非常に不利といわねばならない。これが、バルチック艦隊が当然、短航路を取らないわけにはいかない理由である。
 今もし、かの艦隊が津軽海峡を通過するとすれば、航路が非常に延長するから、途中において石炭の手薄になることは必然である。このとき、わが艦隊と衝突するのは不利なのは彼ら十分熟知しているはずだ。そのうえ五月ごろは、かの方面に海霧の多い季節で、敵地を航行する大艦隊は、これをもっとも避けなければならない。それらの理由を総合して、戦術上より判断すれば、かの艦隊は断じて津軽海峡を回らぬことを自分はかたく信じていた。
 そのうち五月二十五日、バルチック艦隊に付属していた運送船三艘が上海に入港したという報知を得たので、自分はいよいよその信念を強くしたが、これは彼らの大失策であった。

 あの艦隊が、もしその進路をくらまそうとするなら、この運送船をあと二、三日海上に留めて、上海入港を遅延させなければならないのである。運送船が上海に入港したということは、これに積載していた石炭を、台湾付近において全部バルチック艦隊に移し終わった事実を説明するので、この知らせを受けたあとは自分はあの艦隊が予想通り対馬沖を通過するものと見て、おもむろにこれを待ち受けたが、これは海軍の戦術上、当然かくあるべきはずなのである」
 私は、東郷元帥から親しくこの談話を拝聴し、ながいあいだ抱いていた疑問が氷解した。それと同時に、元帥が明治初年にイギリスにおいて海軍の修業中、最下級の仕事までも体験して石炭消費などのこまかい仕事もこなしたことが、主将としての実戦上の判断の役に立ったということに敬服せざるを得なかった。
 この日私は、ときどき東郷邸に出入りしている下條桂谷画伯の高弟である八木岡春山を同伴してうかがったのだが、最初に八木岡が元帥を訪問して私が揮毫を願い出た理由を説明したとき、元帥は私が旧水戸藩士だということをきいて、さては、聞き及ぶ高橋多一郎(注・桜田門外の変の首謀者のひとり)の一族ではないか、もしそうなら、日下部伊三治(注・原文では伊佐治になっているが伊三治が正しく、読み方は「くさかべいそうじ」)の縁続きで、あるいは自分と遠い親類になるのではないかと尋ねられ、さっそく私の訪問を許容されたという次第である。水戸藩勤王の目に見えない恩恵が、このような場合にも影響するものかと私は感激の至りにたえなかったものである。
 


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百三十  安田松翁出世談(上)(上巻450頁)


 日本開闢(注・かいびゃく)以来、明治大正の世にいたるまで、一代で大きな身代(注・資産)を築いた人は数限りなくいるが、その点においては安田松翁善次郎が断じて第一人者であると思う。徳川時代には紀伊国屋文左衛門が紀文大尽として名高いが、その当時の身代を今日の通貨に換算したとしても、何千万くらいにしかならないだろう。明治初期に三菱の基礎を築き上げた岩崎弥太郎氏も、死去された明治十八(1885)年ごろの資産は安田氏の晩年には大きく及ばなかったと思われる。
 私は安田善次郎氏と金銭上での関係を持ったことはなかったが、茶人の松翁に対しては、明治三十一(1898)年に彼が、わが寸松庵に来会して以来、あるいは本所横網の旧安田邸に出入りし、あるいはほうぼうの茶室で同席し、その交遊は二十年余りに及んでいる。
 また、翁の喜の字の祝い(注・喜寿、数え77歳の祝い)に茶友から祝歌をつのったとき、私は、


   君が身に集まる宝あまたあれど 羨ましきはよはひなりけり 


の一首を贈って、痩せ我慢を発揮したこともあった。
 翁は西洋人の、いわゆる、トップフロムボトム底より頭主義(注・底辺から頂点までのぼりつめる)で、石橋をたたきつつ一歩一歩その資産を築き上げた。その出世は、もっとも堅実な処世法をあらわしているので、私がかつて翁から聴き取った口述の内容をここに披露することにしよう。(注・一部現代的表現にあらためた


 「私は、越中富山の町はずれ、船橋向(注・舟橋=地名、の向かい?)で生まれた。父は安田善悦といって、御掃除坊主を勤め、城中に出仕し、主君の側から、家老、諸士の詰め所にいたるまでの掃除をつかさどり、五十人扶持、十両を頂戴していた。私は長子で、妹が三人もいたから、もちろん貧乏世帯だった。

 ところで私は、子供のときから手習い(注・習字)が好きで、また軍記物語を読むことが好きだったので、その軍記物語を写し取ってそれを読み、それをまた写し取るという写本を内職にしたほどである。その写本料が、半紙十行詰めで一枚三文、これを十枚写して三十文くらいの筆耕料を得るのであるが、日課としておおいに勉強したので、身の回りの費用は一切自弁(注・自己負担)で間に合わせた。その上に、いくらかの貯金ができると旅行に出かけるのが私の道楽であった。
 これよりも前、私がまだ八歳くらいの時、自分は何になろうかと考えて、はじめは職人になろうと思ったが、そのころ富山では千両の金持ちを田舎富限(注・田舎の富豪)として尊重したから、自分も一生のあいだに千両の身代になってみたいという希望をもっていた。
 ところがここに偶然私の奮発心を引き起こしたのは、私が父とともに富山の城下を往来する時、むこうから物頭、御勘定奉行などという役人が来るのを見ると、父は私の袖を引いて横丁にそれるのを例とした。これは、父が中以上の侍に出会えば下駄を脱いで土下座をせねばならないからである。
 当時、前田家では財産逼迫のあまり、東海道掛川宿の大根屋という大名金貸しから借金し、その主人が富山城下に来るときは、ひごろ私の父が土下座する物頭やら御勘定奉行やらが、うち揃って金主を町外れまで出迎えるので、これは侍になるよりも、金持ちになるほうが早廻りだと感じて、それで商人になろうと決心したのである。

 また私の奮発心を起こすのに大きく貢献したのは太閤記である。例のとおり、軍記物語が好きなので、しじゅう太閤記を愛読しているうちに、木下藤吉郎が後世に天下取りをするような大人物でありながら、草履取りから順序をふんで、だんだんに立身出世したのを見て、順序をふむ、ということは、すなわち成功の基であるとこの教訓を心に銘じ、終生これを忘れなかったのは、みなこの太閤記から得た教訓である。
 私は十九歳のときに、いよいよ江戸にでることになり(注・安政5年、1858年)、出府のあと、みずから好んで玩具問屋に奉公した。この玩具問屋には、軽子という、玩具を籠にいれてかついでまわる者がいるので、私はその軽子のところに住み込み、玩具を作る職人の宅を見まわって、できあがった玩具を取り集め、この玩具を卸すという仕事に当たった。軽子の年給は三両二分くらいであった。
 しかし商売見習いであるから、私は給料の多寡は問わず、二期の宿下がりにだけは、なるべく多くの休暇をもらって、諸国の商売視察のためおりおり旅行することを許してもらったのである。」


 以上の安田翁の直話はその出世物語の始まりの部分で、次回にはさらにこれを継続することにしよう。


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