だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 111‐120

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百十一  東明流発端(上巻383頁)

 平岡吟舟翁を家元とする東明流(注・三味線歌曲の流派)は、明治時代に一流派をなした唯一の家庭音楽として最近だんだん世間に広がりを見せていている。派手で上品で変化に富み、しかも大曲よりも短篇のほう気がいている曲目が多いところが当世風であるといえよう。育て方次第では、将来的にも、おおいに発展の望みがあるだろうと思う。
 さてこの流派の家元である平岡吟舟翁は、宝生晋作を師として宝生流を謡われた熈一翁を父に持つ。母は都以中の妹で、一中節はもちろん、薗八、端唄その他の俗曲にも堪能だった柴崎はる女であった。この両親から音楽好きが遺伝し、少年時代にアメリカにいたときには当地の歌曲を口ずさみ、帰国後には本業の余暇に、謡曲や各種の邦楽を究めた。なかでも河東節は、家元の山彦秀次郎についてほとんど全部を習いつくした。そのうえ自ら三味線を弾いたり、諸流の節回しを真似したりして、自分でも作詞作曲を試みたり踊りの振付までもやるという器用さだった。
 そんなわけで、翁が作った小唄で現在も世間に流布しているものも少なくない。毎年の新年には新曲を作り、それを披露するというのが常だったが、それはある時に、某新聞社の依頼で向島八景という新曲を作ったのがはじまりだった。その後、大磯八景、産屋、月の霜夜、三番叟、松の功、石橋、海人、檜垣、紅葉狩、三九年川などに、得意の自己流の節付けをしたものが、いまではほとんど五十曲ほどに達し、東明流の一派をなすことになったのである。この東明流とはいかなるものか翁は次のように説明している。
    
 東明流端書(注・
最初にわかりやすい表現になおしたもの、次に原文を記す

 「自分は、生まれつき音楽が好きで、これまでずっと聞いたり、人に習ったりしてきた。そしてつらつら思う。
 わが国の音楽は、はじめ京都で生まれ、それが次第に東に移ってきた。そのなかで、いろいろな流派に分かれていくにつれ、曲節もさまざまに変化し、それぞれの特徴を持つようになった。しかし、そのなかで、聞いて楽しいものには品がなく、品のいいものには面白みがない。渋すぎたり、甘すぎたりと、一長一短で、全曲を通じて自分の気持ちにぴったりくるものがほとんどなかった。

 そこで、試しに各流派から自分の好きな節だけを寄せ集め、さらに自分で工夫した曲節を加えて、自己流の新曲を作ってみたのである。それを、他流派と区別するために東明流と名付けてみたが、自分は浅学で才能もなく、一流派を創始するなどという、おこがましい野望を持っているわけではない。ただ、自分が好きで、楽しめるような曲を、花晨月夕(注・かしんげっせき。春の朝、月の夜)の自分の楽しみのために作っているに過ぎない。どうか、お手柔らかに願いたい。江児庵吟舟


(以下原文。ただし、旧字を新字になおした)

「おのれ天性音曲を嗜み、年頃聞きもし習ひもして、つらつら惟ふに、我国の音曲は、当初京洛の間に起り、其後次第に東漸して、門流ますます分かるるに随ひ、曲節も亦様々に変化し、おのおの其特長を現したれども、趣味あるものは品あしく、品よきものは面白からず、或は渋すぎ、或は甘すぎ、互に一長一短ありて、全曲悉くおのが心に協ふ者稀なり、因って試みに、各流に渉りておのが好める節のみを寄せ集め、更におのが新に工夫せる曲節を加味して、茲に自己流の新曲を作り、他流と区別する為め、之を東明流とは名けたり、おのれ浅学短才にして、烏滸がましくも一流を創むるなど云ふ野望あるにあらず、唯おのが好みおのが楽む一曲を、花晨月夕の独楽に供するに過ぎず、世の人幸に咎め給ひそ。  江児庵吟舟」


 すでに紹介したように、東明流に、「月の霜夜」という一曲がある。荒木古童の弟子、鎗田倉之助という天才的な尺八奏者がおり、吟舟翁が非常にひいきにしてその人のために作って与えたものだった。処女作でしかも短いものだが、東明流の代表作として同好者にもっとも愛好されているものである。その歌詞を次に掲げる。

    月の霜夜
 小夜ふけて衣うつなり玉川の、岸の枯草さらさらと、霜にふぜいをなやまされ、やるせなみまに生ひ茂る、短き蘆のふしのまに、昨日鳴く音もけふ(注・今日)はせず、妻こ鹿の声さへも、いとどあはれ(注・哀れ)に聞こえける  〽アレあの雁は、何所尋ねてナア、行雲のかげとおもてに姿をうつし、羽袖に月をかくしつつ、顔は見せねど便りはままと、翼にほこるにくらしさ  〽アラ面白の浮世かな、かの邯鄲(注・かんたん)は夢さめて、栄華のほども五十年、年立ちかへる春あれば、又来る夏に秋やきて、冬の寒さに(注・きぬた)うつ、水の流れと清き瀬に、かわるまもなき楽さは、賤が伏屋と人ぞしる  〽さらす細布手にくるくるくると、月の霜夜にわが家をさして、望み叶ひて帰りゆく


 さて音楽はこのところ和洋ともに非常に勢いよく流行してきたが、徳川の末期に清元が起こったあとは、明治の太平の世に新しい流派が生まれたといえるのは、この東明流だけである。

 最近この流派が、家庭音楽としてようやく世間に流行してきた。今では、長唄、常盤津、清元、新内などの、徳川時代から残っている曲が唄い尽くされ、弾き尽くされ、どれも行き詰まりの様相を見せ、新しいもの好きの人情として東明流を習ってみようとする人が多くなっているからである。諸流の専門家の中にも、自流の行き詰まりを感じて、新作に節付けするときに東明流を利用しようとする傾向がままあるので、いたるところで東明流が発展する余地がありそうだ。なのに家元になんの欲望もなく、気の向くままに、ただみずからの楽しみのためにやっていてあまり多くの人に伝授したがらないので、今では、習い手は多いのに教え手が少ないというのが実状で、それがこの流派があまり広がっていかない理由なのである。すこしでも早く、よい専門家の第二世代が生まれ、東明流を広く宣伝し、かつ、続々と新曲を作っていくようになれば、明治時代に生まれた邦楽の一派として、東明流はながく後世に伝わっていくことになるだろうと思うのである。


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百十二  長唄研精会来歴(上巻386頁)

 明治三十五、六(19023)年ごろ、東京で長唄研精会が発足した。これは邦楽復興の黎明期におけるひとつの大きな警鐘だったと思う。従来わが国の音楽はたいていの場合、演劇の伴奏をつとめるものだったから、長唄、義太夫、豊後節の諸流の専門家は、いずれの場合も劇場に出演していた。
 しかし研精会が発足したころの長唄界では杵屋正治郎が大きな勢力をもっており、芝居に出演しようとする者はまず彼の指示を仰がなくてはならなかった。従って家柄、年功などが重視され、嚢中の錐(注・才能のある人)も、その鋭い刃先を見せる機会とぼしかった。
 そのような情勢に不満を感じていた長唄青年新進組が研精会の発起人になったのである。吉住小三郎、二十六歳、稀音家六四郎、二十八歳で、その傘下に集まった小三蔵(注・吉住)、二十五歳、小四郎(注・吉住)、十七歳というのを見ても、長唄界に新しい旗幟を翻そうという年少気鋭の意気盛んなようすを知ることができるだろう。
 しかしながら、この運動は必ずしも上記のような有志の青年のアイデアによるだけでなく先輩の中にもすでに大勢を達観したののがあったとみえる。小三郎の父である三吉住小三郎が、稀音家六四郎少年が三味線を弾く左の指が非常に巧みなのを見て将来かならず名をあげることになると見抜き、小三郎に向かって「今後、彼と芸術上の夫婦になれ」と言い渡したということもあった。このような先輩の意向もあり、演劇の伴奏であった長唄曲を音楽として一本立ちさせ、その特色を発揮させようと思いついたのではあるまいか。この長唄研精会の来歴について稀音家六四郎は、次のように語っている。(注・旧字を新字に、旧仮名遣いを新仮名遣いに直したほかは原文通り)

 「研精会の第一回は、明治三十五年八月十九日で、日本橋倶楽部開きました。このときの出演者は、唄が七人、三味線が六人、囃子が八人、あわせて二十一人でありましたが、聴衆が一向集まらぬので、第八回目には大会と称して余興を交え、踊りや義太夫や三曲(注・琴、三味線、尺八、胡弓など三種類の楽器の合奏)を加えて、人気を引き立てようと思いましたが、もともと資力がないところに、余興の礼金が多いので、勘定には赤字が出る、催主の顔には青字が出るという騒ぎで、研精会はたちまち受難時代に出会い、第十一、二回頃には、囃子方にも逃げられ、唄が四人、三味線が四人という小勢にはなったが、私共の意気はますます盛んで、曲目六番を語り続けたその時、今の和三郎がひとり三味線方に飛んできたので、私共は勇気百倍、初一念を貫ぬかずんばやまぬという決心をしたのであります。
 研精会は十三回頃から、新曲を発表することに申し合わせましたが、これが世間に認められて、研精会発展の端緒となりました。もしこのときに古曲のみに頼り、昔のままに唄い、昔のままに弾いていて、囃子もただテンテケテンテケとやっていたなら、当会が三百回の演奏を重ねて、今日まで発展することはできなかったろうと思います。しかしてこの新曲が、今日当会で演奏する演目の、ほとんど半数を占めている次第なので、音曲もいつも進歩を心がけなければならないと思います。このようにして研精会は第百回記念会(注・明治44年)に中井桃水(注・半井桃水)、幸堂得知の合作である「百夜草」今日の神田祭を上演し、第二百回には、佐佐木信綱作の「菊の宴」を出し、第二百五十回には、中内蝶二作の「相生の松」を披き(注・披く=ひらく。新演目を上演する)、昭和六年第三百回には、中内蝶二作の「魚籃観音」を出して、このとき唄二十二人、三味線三十人、囃子十六人あわせて六十八人の多人数大盛会になりました。
 このような次第で、今昔を思いあわすと、ほとんど夢のようなことでありますが、さて頭ばかり増えたと申して、決してめでたいことではなく、このなかから名人上手が出てこそ、研精会も将来ますます栄えて、邦楽のために貢献することができるのでありますから、新進の若手連は、私共の少年時代より以上に、今後おおいに奮闘せんことを希望する次第であります。」

 以上の六四郎の述懐のように、長唄研精会の努力は、今日おおいに報われている。しかしながら後進の顔ぶれを見渡して、はたして誰が今の小三郎、六四郎になるだろうかと思うと、いささか心細い感じがしないこともない。新進の人たちも、このへんで緊褌一番(注・きんこんいちばん。気持ちをひきしめて)、時代に合った新運動を起こしていく意気込みを持たなくてはならないだろう。
 


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百十三  茶人失敗談 上(上巻389頁)


 私は明治二十五(1892)年、初めての茶室入りを果たした。それから昭和七(1932)年の今日までの四十一年間つねに茶室の中の人となっているので、あまりに慣れ過ぎて最初のような好奇心も湧かなくなりがちだ。だが明治三十六、七(19034)年ごろは、私が自分でも茶事を初めてから五、六年というころで非常に気分が乗っていたし、当時は茶友のなかにも一風変わり者が多かったから後日の語り草になるようなことがよく起こった。
 茶人の失敗というものは、だいたいにおいて茶礼中のきわめてまじめなときに起こってしまうので、その人物と場面を想像するだけで、なんともいえないおかし味が出てくる。この「箒のあと」でも、おりおり、茶室で起きた珍事を披露していくことにしよう。



 感服七種 


 茶人というものは人の前では物を褒め、蔭に回って悪く言うものだと相場が決まっているようだ。、褒められて喜ばないということはない。ゆえに、茶客としての第一の心得は、物に感服するということである。
 その感服の秘訣は、対象物に応じて、またその場面にふさわしく、その日の主人が、いかにもそのとおりであるとみずから感服してしまうようやり方でなければならない。これには、七種の方法があると言われている。私の経験から、ためしにこれを分類してみよう。
 第一は、唸り声をあげて感服すること。
 第二は、しばらく目をつぶって感服すること。
 第三は、顔を見つめて無言で感服すること。

 第四は、ヘッヘッヘーとお世辞笑いをして感服すること。
 第五は、フ―フーと鼻息を荒くして感服すること。
 第六は、尻餅をつきグニャグニャになって感服すること。
 第七は、品物を頭上まで差し上げて感服すること。
これが、いわゆる「感服七種」である。

 さてこの七種の感服の方法を、随時随処(注・いつでもどこでも)活用することのできる極意皆伝の腕前を持っていたのは、今はすでに故人となってしまったが、明治三十年代に茶人仲間のあいだで盛んに活躍した浅田正文氏である。馬越化生恭平翁もまた感服上手のひとりで、浅田氏の生前は、ふたりは東都感服係の両大関といわれたほどだった。
 浅田氏には、とくに感服に関するエピソードが多かったようだ。氏は社交辞令が非常にうまかった。それほどのことでもないのに全身を揺り動かしてカラカラと感服の高笑いを上げる声は遠く茶室の水屋にまでも突き抜けてくるので、たいての主人はこれを立ち聞きして、まずほくそ笑まざるを得ない。

 しかし時として、この感服が度を越して失敗を招いた例がないでもない。あるとき浅田氏は根岸の吉田楓軒丹左衛門氏の茶会に赴き、感服上手であるからというので、みなに推されて一座の正客になったことがあった。ここ一番と感服ぶりを発揮して、さていよいよ香合拝見となった。染付形物香合松川菱を何度か眺めて、何度か感服し、一同も見終わったあとに正客から主人に返す段になった。浅田氏は開き直って威儀を正し(注・重々しく姿勢を整え)、これは極めて珍しく、かつうるわしく、同じ形物のなかでも比類ない稀な作行きであると縷々述べ立てて、頭を畳にすりつけていた。だが、楓軒はせっかちな性分で、寡黙なばかりでなく当時は茶事についても初心者だったから、正客の挨拶には委細構わず、香合を持ってはやばやと勝手のほうにひっこんでしまった。
 一方の浅田氏は、十分に長口上を続けておもむろに頭をもたげてみると、当の相手はすでに立ち去って、主人の座にはただ炉の中の釜だけが残っていたので、さすがの感服家もあっけに取られてしまったということだ。そのようすに、ある狂歌の作者が悪口に作った、


 ほととぎす啼きつるあとにあきれたる 後徳大寺の有明の顔(注・後徳大寺左大臣は、ほととぎす…の本歌の作者)


も思い出されて、一同ドッと噴き出すことになった。これは浅田の感服損として、当時の茶人のあいだでは有名な笑い話であった。



 褒めて叱られる


 明治三十五、六(19023)ごろは、薩摩の伊集院兼常翁が赤星弥之助氏の後見役になって、茶人のあいだで大いに気勢を張っていた。私の寸松庵に茶客として訪れたある日のこと、翁が正客となり、亡くなった大元こと伊丹元蔵が末客おつめをつとめ、最初のうちはすこぶる意気投合していた。
 ところが翁が宗旦の茶杓を鑑定し、みごとに言い当てたとき、大元はここぞとばかりに感服の舌鼓を打ち、「さてさて、ご鑑定(注・鑑識眼)がお上がりになりましたナ」と言った。そのとたん伊集院翁は予想外の不機嫌となり、鑑定が上ったとはなにごとぞ、おれは自ら茶杓をつくって、大家の茶杓にどのような癖があるかは、十分にこれを会得している。四十年来斯道(注・この道)に苦労したこの拙者に、今さら、上がるの下がるのなどと、貴公の批判を受くべきやとの鋭い言葉を発した。予想がはずれた大元は、小さくなって縮み上がり、褒めて叱られるとは、感服もなかなかむつかしいものだと、他日、人にこぼしていたそうだ。


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百十四  茶人失策談 中(上巻393頁)


 茶室の中では、主客のあいだで思いがけない馬鹿げたことが起こり、頤を解く(注・おとがいをとく=あごがはずれるほど大笑いをする)ことも少なくない。どのような大家であっても、猿が木から落ちるような失敗がない、ということはない。そうしたことが世間に知らされたとしても、別段、人格に傷がつくわけでもないし、聞いた人は哄笑し当人は苦笑する程度の一座の座興になるに過ぎないので、ときどきはこうしたことを書いてみようと思うが、一度にやろうとするとあまりに煩雑なので、ここではまず、明治三十五(1902)年から四十四(1911)年までの十年間のエピソードから、なるべくおもしろいものをすっぱ抜くことにしよう。



 馬越化生翁の口禍


 明治三十八(1905)年、馬越化生が還暦を迎えた祝賀茶会が、そのころ根岸の御行の松(注・おぎょうのまつ)のかたわらにあった流水庵で開かれた。そのときには、東方朔(注・前漢の政治家)の長寿にあやかり、交趾桃の香合使われた。

 その香合がすこぶる名品なため、ある来客が翁にその伝来を尋ねた。すると翁は、「これは以前に益田鈍翁から贈られたものだが、いままで使用する機会がなく、今日はじめて取り出したのである」と言われた。座客一同は大いに驚き、「このような名品をむざむざとあなたに贈られた鈍翁の心中は、はたしてどのようなものだったのでしょう、さぞかし名残惜しかったでありましょう」と言い合った。翁は得意さのあまり、つい口をすべらし、「いやいや今の鈍翁ならばそうかもしれないが、そのころは彼もまだ『コレでゲスからネ』」と左手で両目をかくす仕種をした。
 それを面白半分に鈍翁に密告したものがあり、鈍翁は胸に一物(注・秘めたる計略)を持った。そして、これは聞き捨てならない化生翁の一言ではないか、あの香合が貴重なものであることを知らなかったはずがなかろう。無二の親友に対し、粗略な贈り物もできないからと、あのような名品を譲り渡したのに、その好意をくみ取らず、さような放言をするとはもってのほかである。今後茶道上の交際は、断然お断りしなければならないと馬越に言い送った。馬越翁もこれには困ったが、さりとて、どうすることもできず、一年あまりをむなしく過ごした。
 碁敵、ならぬ茶敵とでも言おうか、憎さは憎し、しかし会いたし、ということで、馬越翁はある機会をとらえて和解を試み、失言の代わりに、鈍翁に何なりとも一品を譲りたいと申し込んだ。
 すると鈍翁は、待っていました、とばかりに、それでは相当な代価を払うことになるが、当方の望む一品をお譲り受け申す、もともと口の罪から起きたことだから、口のある品物がふさわしいだろう、ということで、馬越家の有名な粉引の徳利を、と所望された。馬越翁も、さては一本取られたか、と一時は驚いたが、茶人の一言は金鉄のごとしであると、とうとう承知して、ふたりはふたたび無二の茶友となるに至ったのである。



 小倉色紙の用法


 小倉色紙が天下の重宝として、千鳥の香炉や菊一文字の短刀とともにお家騒動のたねになるようになってからというもの、茶人のあいだでもそれを愛でる気運が高まった。
 昔から、この色紙のじょうずな使い方により非常な名誉を得た者もある。利休がある茶会に招かれたとき、まだ待合にいたときに相客との会話がその日の掛物のことになった。「今日の露地の風情が、落ち葉をそのままにしてあるところを見ると、前から聞き及んでいた小倉色紙の八重葎(注・やえむぐら)の歌を掛けられるのではなかろうか」と言われたが、入席してみると案の定そうであったそうだ。

 明治三十八、九(19056)年ごろ、故加藤正義翁は元園町の半蔵庵の茶会で、小倉色紙の一種であるといわれる類色紙を使われた。この歌は、例の有名な、


  八重葎しげれる宿のさびしさに 人こそ見えね秋は来にけり


であったから、一座の賞玩もすさまじかった。さて中立のときに露地に出て、茶室の屋根を見上げると、ピカピカとした銅瓦で葺かれていたので、これでは八重葎が茂ることもできないだろうにとささやく者があった。すると客のひとりが、紅塵十丈(注・ほこりっぽい都会、わずらわしい世俗)の市中を野原に見立て、銅瓦葺きの茶室をあばら家と思わせるのが、主人の趣向である小倉色紙の功徳も、このあたりにあるのではないかと弁護した。一同は顔を見合わせ「なるほど」とは言ってみたものの、果たして心から納得したかどうかはさだかではない。


 完全無欠居士


 加藤翁についてはもうひとつの有名なエピソードがある。翁の茶器の好みはきわめて潔癖で、疵物(注・きずもの)は一切買わないという主義だった。青磁、祥瑞、仁清といった綺麗物を好み、所持品のほとんどが完全無欠であったことから、ある人が翁に対して「完全無欠居士」の尊称を奉った。
 その後翁が茶会を催したとき、なにがあったのか、左の親指を怪我し、白布で包帯をしておられた。それを見た茶客の中のひとりが茶目っ気を出し、


   完全無欠ただ指にきず


と一句、口ずさんだ。これがいよいよ居士の尊称を裏書きするものだとして、この話は当時の茶人のあいだに広く伝わっていったものだった。


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百十五 茶人失策談 下(上巻397頁)


 茶人のナンセンス珍談はいくつもあるのだが、あまり一度にご覧にいれると食傷気味になるかもしれないので、次の一篇をもって、しばらく打ち切ることにしよう。


 掛物の売り損ない


 故益田紅艶(注・益田英作)は多聞店という道具店を経営していたほどだから、相手を見ての道具を売りつける呼吸には、なんともいえない機敏さがあった。
 彼は、松平不昧公が、大阪の道具商の戸田露朝の先々代にあたる宗潮をある大名に紹介した手簡(注・手紙)を所蔵していたので、これを茶席に利用し露朝にうまく売りつけようとたくらんだ。そこであるとき大阪の紳士茶人連とともに露朝を茶会に招き、その不昧公の消息文(注・手紙)を掛けた。その文になかに、
 「谷松屋宗潮と申す者、大好事家にて随分御用も弁ずべく大方目も利き申候、但し左る怖ろしき風聞の男に御座候間、必ず必ず御油断遊ばされ間敷候云々」(注・大意は、宗潮は目利きだが、悪い噂があるので、絶対に油断しないでください

とあった。この掛物を見た同席の茶人が、怖ろしき風聞の男という文句に驚き、胸にぐっと警戒心を抱いたらしいことを戸田が見て取って、なんとも迷惑なことだと思った。そんなことも知らずに主人の紅艶はひとり大得意で、今日のようにぴったりとはまった掛物はふたつとないだろう、殿様の中でも油断ならない不昧公が、宗潮をおそろしき男だと畏敬しているこの手紙は、戸田に対する不昧公の感状(注・上位にある者が下位にある者の功績に対してあたえる賞賛の書きつけ)とみるべきものなので、戸田家における伝家の宝にしないわけないはいかないはずで、茶事がすんだら、代金は問わず、是非とも譲り受けさせてくださいと申し出てくるだろうと待ち受けていた。しかし戸田から音沙汰がないのを不審に思い、内々に大阪方面を探ってみると、戸田は、自分のお得意様の前で、あのような手紙を掛けられたことを非常に迷惑がっているというので、紅艶はハタと思い当たり、あの掛物は、掛ける前に売ってしまえばよかったのだと、おおいに後悔したという。



 藪蛇庵の命名


 益田紅艶には茶事の上での数々の珍談がある。その中のひとつは次のような話だ。
 あるとき紅艶は、小田原と箱根の中間にある風祭というところに非常に安上りの茶室を作り、それまでの長いあいだに借りがたまってしまっていた茶債(注・返礼の茶事のこと)を償おうと思い立ち、ほうぼうの名家を招待した。

 さてその茶室がどのようなものであったかというと、風祭神社に隣接している竹やぶのなかにニョキニョキと立ち並んでいる大竹を柱にして臨時の茅葺きをした茶室を作り、周囲に蛇がのたくったような一筋の流れを作ったものだった。その流れの中に置いた新しい手桶を当座のつくばいとし、席中には大囲炉裏を切って窶れ釜(注・やつれがま。口縁部に欠けがある)を掛けた。また、田舎家風の張りまぜ屏風に、さまざまなポンチ画が貼り付けてあった。その中には来客のポンチ画も少なくなく、山県椿山公の歯をむきだした漫画などもまじっていたので来客一同は抱腹絶倒し、とうとう椿山公までも引っ張り出して、その漫画をお見せすることになった。

 そのときの紅艶は有頂天になり、どうか、庵の命名と、その扁額のご染筆を願いたいと所望した。公爵は即座に快諾されたので、紅艶は、きっと風雅な庵名をつけてくださるにちがいないと一日千秋の思いで待っていた。
 ところが公爵から贈られてきた扁額を見てみると、なんたることか藪蛇庵という三字が書いてあったせっかく公爵から賜ったものを採用しないわけにもいかす、なまじっか公爵などに命名を頼んだものだから、かえって藪蛇になってしまったと、その後二度とふたたびこの庵室を使わなかったそうだ。



 無関税の名銅器


 益田鈍翁が日露戦争後間もなく、故三井三郎助(注・三井高景)氏らとともに清国の巡遊を思い立ち、長江沿いから北京に行き、やがて長崎に帰ってきたときのことである。
 ひとつ非常に気懸かりなことは、シナの某大家から出たという古銅の花入を買い求めてきたが、長崎税関を通過するにあたり、出どころは名家、買い手は鈍翁、というこの品物を、税関ではどれほどの評価額にするだろうか、ということだった。
 鈍翁はまず旅館にはいり、税関からの報告を待っていた。そこへ、随行のひょうきん者が得意満面で帰ってきた。そしてあの花入の関税の件では、褒めてもらいたいだけでなく、一度くらいはご馳走も頂戴したいくらいだと言う。鈍翁は相好を崩してにこにこ顔になり、ではいったい関税はいくらになったのかときいた。するとその者は、驚くなかれ、タッタの一文もありません、税関吏がただいま申されるには、近年シナから、にせものの銅器が輸入されているが、この花入なども、そのなかでも最も拙作な部類で、刀の先で少し触ってみるだけで、すぐに地金の新銅が出てくるので課税するに及ばない、ということでありますと答えた。その報告をきいた鈍翁は、「税関の役人などに、古銅のことがわかってたまるか」と、ただ一笑に付したが、その後何年たっても、ついにこの花入を使われたことはなかったということだ。


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  百十六 

明治大帝御製(上巻400頁)


 明治大帝の盛徳大業(注・すぐれた徳と大きな仕事。聖人君主の理想の姿とされた)はいまさら申し上げるまでもないことだが、和歌のことだけを見ても、古今の歌人のなかでも例を見ないほど多くの御製をお残し遊ばされたことは、まことに畏れ多いことである。
 私は田中光顕伯爵が宮内大臣であったころ、当時、所在のわかっていた紀貫之筆の寸松庵色紙十七枚を模写し一帖にしたものを、伯爵の手を経て、大帝に献納したことがあった。そのとき伯爵はこのように語られた。自分は大帝陛下が非常に御歌にご達者なことを聞き及んでいたので、あるとき御歌所に参り、その日に陛下から高崎御歌所長にお下げになった御歌を拝見した。すると、一日で百六十首あったので、ただひたすらに驚嘆するほかはなかった、ということである。
 陛下は、もちろん若年のころから御歌をお詠み遊ばされたようで、明治八(1875)年四月、向島の水戸徳川邸に御臨幸のときには、聖算(注・天子の年齢)二十四歳であらせられたが、当時水戸家に賜った御製は、


   花くはし桜もあれどこの宿の よよの心を我はとひけり


というものだった。若年のころから堪能であったことがうかがわれる。(注・163「明治天皇御宸翰」に画像あり)

 ある人から高崎御歌所長から直接きいた話だというものによれば、陛下の御製は、日露戦争のころから大きな御進境を示されたとのことだ。これは国家未曾有の大変に当たり、奮起遊ばされた異常なまでも勇猛心が自然に御製の上に現れたのであろうということである。その日露戦争中の御歌としては、
     

       よもの海みなはらからとおもふ世に など波風のたちさわぐらん


   敷島のやまと心のををしさは 事あるときぞあらはれにける


   子等はみないくさのにはに出ではてて 翁やひとり山田もるらん


などのようなものを次々にお詠み遊ばされたので、高崎男爵は感激のあまり、このような御製を臣民に知らせないのは道理でない、しかし、もし陛下にお伺いすれば、なんと御返事があるかわからないので、自分は御歌所長として責任を持ちこれを発表するのだ、ということで、ありがたい御製を世に知らしめたのである。拝読した者たちは聖慮の広大で深遠なことに感泣したが、これがいわゆる「天地を動かし、鬼神を感ぜしむる(注・「詩経」の一節。感ぜしむる=感動させる)ようなもので、国家の隆運に無限の影響を及ぼしたことであろう。


   言の葉のまことの道を月花の もてあそびとは思はざらなむ


とのたまったように、御製というのは、つまり陛下の直言であるから、国民は真の勅語としてこれを心にとどめて忘れず、万世の亀鑑(注・手本)として仰ぐべきものであると思う。


 

高崎御歌所長(上巻402頁)


 御歌所長の高崎正風男爵は薩摩の出身で、維新のときには西郷、大久保らと国事に奔走した志士である。同じく薩摩藩士で、香川景樹の流れをくむ八田知紀に学び、明治歌仙の中で随一の存在である。
 明治十六(1883)年、徳大寺侍従長が明治天皇の内意を受け、当時の歌仙十四人から近作の三十首を奉らせた。作者の名前をかくし無名投票をしたところ、その結果で最高点を得たのが高崎男爵、次点が伊藤祐命、その次が小出粲つばらだったという。
 当時の最高点を得た男爵の和歌三首は次のようなものである。
     馬上見花
  のどかにも見つつゆくべき花かげを いさめる駒に乗りてけるかな
     述懐
 
 言の葉の誠のたねとなりぬべきを さな心はいつうせにけむ

     晴天鶴
  青雲のかぎりも見えぬ大空に つばさをのべてたづ鳴わたる


 聞くところによると、男爵は明治天皇の御製を拝見するようにという仰せをこうむったとき、みずから御前に伺候して、和歌をつれづれの友と遊ばされることは、まことにありがたいことだけれども、御嗜好のあまり、ご政務の差し障りにならないように、あらかじめ願い上げ奉ると申しあげたうえで、それをお受けしたのだそうだ。

 私は明治十七(1884)年ごろ、親友の渡邊治とともに、「仮名の会会員に伊沢修二、後藤牧太氏などがいたと記憶している」にはいり、当時その会場になっていた数寄屋橋外の地学協会に出入りすることがあった。高崎男爵もときどきこの会に臨席されたので、さいわいにその謦咳に接する(注・声を聞く)機会を得た。私の目に映った高崎男爵は、威厳があるが荒々しさはなく寡黙で上品であった。かの俊成卿(注・藤原俊成)という人は、このような人ではなかったろうかと思われ、詠みだされる歌にも正統的な雅びさがあるにちがいがいないと思われた。
 私は明治三十一(1898)年に、はじめて栃木塩原に遊んだ。そのとき高崎男爵が、奥藍田、益田無為庵(注・益田克徳)と並んで、東都紳士として、この地におよんだ草分けであったということを知った。
 男爵の別荘は箒川の上にあり、そこで男爵が詠まれた即興の歌は今では世間に伝唱され、塩原の風景に一段の光彩を添える趣がある。全景を詠じたものでは、


  もみぢ葉のさかりに見れば常盤木は まばらに立てり塩原の


というものがある。また、兄弟の滝の歌としては、


  いつ来ても同じ声してむつましく 語るに似たり兄弟の滝


というものがある。これらの示す典雅の格調を見ても、おのずとその作者を見るような心地がする。明治時代に、このような歌仙が御歌所長としてその歌壇を荘重にしていたということは、まことに聖世の偉観であったと思うのである。


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百十七  目白椿山荘講評(上巻404頁)


 私は明治二十三(1890)年に山県公爵に初めて会ってから、ほどなく三井に奉公して多忙になり公爵をあまり訪問することがなかった。公爵も日清戦争から日露戦争にかけて種々の政務があったので、この間は双方ともに接触する機会が少なかった。
 明治三十五(1902)年の春、公爵は一番町(注・高橋箒庵の一番町邸)の寸松庵茶会に臨まれ益田克徳氏と同席された。そして翌年の同じころに克徳氏が鬼籍に入ったので、


   まとゐせし去年の数寄屋の物がたり おもかげに立つ花の頃かな


という一首をたむけられた。このとき公爵は益田克徳氏の設計した寸松庵の庭を見てさまざまな品評を試みられたので、私も同年の秋に目白の椿山荘を訪問し庭前の紅葉を愛でた。
 公爵が、この庭に対する私の所見を求められたので私は非常に当惑した。これはきわめてむずかしい役目なので、なるべく避けようとして椿山荘の秋景はすでに賞玩したけれども、まだ春の様子を拝見していないので、追ってこれを拝見したうえで卑見を述べたいと言い逃れをしていた。ところが明治三十八(1905)年奉天戦が終わったばかりのとき、突然、私は次のような手紙を受け取った。


   花の頃山荘を訪ふべしとの約もあれば、昨朝風光真情を

   ここもまたなかば咲きけり我が山の 花こそ今は見るべかりけれ


など詠み出し、馬に鞍一鞭、直に走らせ可申と存じながら(注・馬に飛び乗って、うかがうべきところ)、軍務に取り紛れ、今朝に至ればすでに満開、急報に及び候、ゆるゆる御眺め講評を煩わし度、老生は残念ながら本営にまかり出で、御待ち致さず候、余事在面晤 早々不一
 四月十三日  椿山荘主朋
  高橋雅兄座下

 このころ公爵は参謀総長で、戦争関連の仕事でいつもに増して忙しく参謀本部に近い五番町の別宅を使い、椿山荘には帰らず、


   針金の糸のひびきに戦ひの つつの音さへ聞く心地して


と詠まれたような時節であったのに、椿山荘品評の約束を忘れず私にこのような風情ある書状を寄せられたという余裕しゃくしゃくぶりには、槊(ほこ)を横たえて詩を賦した(注・戦いのための矛を置き、詩作した)という古代の名将の故事も思い合わされ、いかにも風流であると感じたので、さっそく椿山荘を訪問した。

 公爵はむろんのこと不在だったので、勝五郎という公爵お気に入りの庭師(原文「槖駝師(たくだし)」)の老人が案内に立った。彼は私にいろいろな質問をし、この庭には、あの主人の気性もあって庭石らしい庭石も置いていないので、おそらくお気に召しますまいなどと誘い文句を発してくる。それで私もつい調子に乗り、橋もこれでは粗末である捨石についてももう少し奮発してほしい。」だとか、「書院に近い崖際に柿の木があるのは不似合いだが、もっとも目白の殿様だから柿がお好きなのも当然かなどと、駄洒落まじりの冗談を言ったりしながら、私が胸の内にしまっていたことも打ち明けてしまった。
 この日はなにごともなく帰宅したが、その後ひと月ばかり過ぎたころに偶然公爵と同席することがあった。そこで私の椿山荘評をしようとしたところ、公爵が手をふって遮り、いやいや、君の批評は残らず勝五郎から聴き取った、柿の木がだいぶ気に入らなかったそうだねと言い出されたので、私は、さてはあの老師こそが、公爵から差し回された軍事探偵であったのか、とハタと思いいたったのであった。背中に冷や汗が流れたが、最後にはとうとう大笑いになった。
 もともと山県公爵は趣味が非常に多方面にわたっていたが、なかでも築庭は青年時代からの趣味であった。奇兵隊長であったころに、萩城下の閑静な場所に、丸木橋を渡って門前に達するという趣向の小さな家を建てられたこともあるそうだ。
 公爵の平素の主張は、庭というものは、自然山水の縮図であるから、水がないことには趣が出ない、だからおれが造った庭で、天然の水がないところはないというものだった。その通りに椿山荘もまた水に富み、庭前の池からは天然水が湧き出て、池尻には一条の小滝がかかっている。公爵はあるとき都下にある富豪の庭園を評し、彼らは庭に水道の水を引きながら、客が来れば水を流し、客が去れば止めてしまうではないか、おれは貧乏人ではあるが、庭の水は年中流しっぱなしであるぞと気焔を吐かれたこともあった。
 そのような次第で椿山荘は天然水に富んでいるうえに、都下には珍しい老松が池をはさんで相対峙している。雑木がその間に点在し、春よりも秋の紅葉時が優れているようなので私はあるとき、


   此庭のあるじ顔なる老松も 紅葉に色をゆづる今日かな


と詠み公爵に見せたこともあった。公爵の庭園趣味についてはまだ多くの美談があるので、後段にて述べることにしたい。(注・245「古稀庵の石と竹」参照)


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   百十八  

日露戦争の衝動(上巻408頁)


 維新後六十年余りにおいて何が一番激しく日本国民にショック(原文「衝動」)を与えたかといえば、誰もが異口同音に日露戦争と答えるだろう。
 しかし、その心配が一番強かったのはむしろ宣戦布告までのあいだで、旅順襲撃の口火が切られてからは、皇国一体、死なばもろともと覚悟したためか度胸が据わり、かえって気持ちが軽くなったようである。とはいえ実地戦局にあたっての国運を双肩にになっていた軍人の心境は、はたしていかなるものだったろうか。私はそのことを思うたびに、粛然として感激の念に打たれるばかりだ。
 日露戦争が、幸いにも海陸ともに勝利を得たからよかったものの、もし反対に敗北していたら、わが国は果たしてどのようになっただろうと想像すると今でも身の毛がよだつような感じがする。
 明治三十八(1905)年奉天戦争の直後、児玉(注・源太郎)大将が政府の要人と相談するためにしばらくのあいだ帰京されたとき、三井家のひとびとは慰労の気持ちを表すために、ある晩伊藤博文公爵らとともに大将を三井集会所に招待したことがあった。
 そのとき児玉大将が洋館の広間に入ってきてキョロキョロと席を見回したその目を見ると真っ赤に血走り、神経が極度に興奮している様子がうかがわれた。彼が日露戦争の参謀長としていかに心労したかを如実に物語っていた。
 当時奉天戦の前後の様子を熟知していた軍人から私が聞いたところによれば、総司令官の大山(注・巌)元帥は、奉天戦がいよいよ迫ってきたときになっても泰然として、まったく動じる気配がなく勝戦のことは、児玉さんに任せてあるから、俺どんは何も知らないが、しかし敗戦となったら、俺どんが出て引き受けるつもりだよと呵々大笑(注・高らかに笑う)されたということである。
皇国の興廃を決める大戦を前にして、大山元帥の沈着ぶりはいかにも見上げたものであるが、その作戦の全責任を負っていた児玉大将の心労は、はたしてどのようなものであっただろう。大将がその後まもなく脳溢血で急死したのは、まちがいなくこの過労の結果で、完全に国に殉じたといってよいだろう。

 その急死について杉山茂丸氏の語るところによると、当時杉山氏は大将に報告することがあって大阪から参謀本部に電報を打ったが、その文言に諧謔(注・冗談)をまじえてあったのを大将はベッドの上に寝転んだまま読み終わり、大笑いしたその瞬間に溢血(注・いっけつ=出血)したので、電報用紙を片手に大口を開いて、笑ったまま死んでいたのだそうだ。
 とにかく、この戦争の最初に国民の心配の程度が大きかった分、吉報が来るたびに喜ばしかったその度合いは無類に大きかったものだ。このような気分は、この大事件に直面した人でないととうてい感じることができないだろうと思うので、ここに書き残しておく次第である。



戦後の気分(上巻410頁)


 日露戦争が国民に与えた衝撃が特別に大きかった分、戦後の気分は、口では言い表せないほどにのどかなものとなった。とくにこの戦争中に参謀総長であった山県有朋公爵などは、その双肩にかかった重荷をおろした心地がして、さぞかし愉快な気分になったことだろう。
 明治三十九(1906)年七月下旬、大磯の別荘である小淘庵にいた山県公爵は、ある日夫人同伴で鵠沼の益田別荘に来遊された。私は主人の鈍翁に誘われて公爵と清談(注・趣味、芸術、学問などのおしゃべり)をともにしたあと、とうとう別荘に宿泊することになってしまったが、翌朝公爵は寝室にあてられていた二階の窓から富士山を見て、


   目なれてもめでたきものは朝窓に おちくる富士高根なりけり


という和歌を詠まれた。そのとき私が公爵に対して非常に強く感じたのは、そのきわめて謹厳な態度のことなのである。私たちは別荘に滞在しているのだから、風呂上がりには着流しに三尺帯などを締めているのだが、公爵はいかなる場合においても袴をつけていないことがなく、談話がどんなに長くなっても脇息に寄り掛かるくらいで膝ひとつ崩さないのである。これは持って生まれた人格というもので、努力しなくてもこうなるのだろうと思われた。
 このとき公爵には、小田原に隠居所である古稀庵を造る計画があった。明けて四十(1907)年の一月に私に手紙が届き、その後私がご覧にいれた家屋の図面が非常に気に入ったということ、また小出粲、高島九峰のふたりが来訪したので、新年の歌を二、三首詠みだされたことなどが書かれており、末尾に次に二首が書き添えられていた。


   去年も来て遊びしところ年立てば また新しき旅路なりけり


   つづみ打つ声面白し万歳の うたひ出でたる門松のかげに


 日露戦争後、古今にも稀なるおめでたい新年を迎え、門松のかげに万歳(注・まんざい芸人)の鼓の音を聞くのどかな気分は、私たちの生涯で二度と感じることができないものではないかと思う。


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百十九  箒庵と箒の歌(上巻411頁)


 私が明治三十一(1898)年に麹町一番町五十五番地に新宅を建て、京都大徳寺に塔頭(たっちゅう)のひとつである寸松庵の茶室を移築したということはすでに前に書いた(注・92「寸松庵開き」を参照のこと)

 もともと私の住まいに対する考えはちょっと普通とは違っている。なぜなら、私は旧水戸藩の貧乏士族の四男坊で宗家に対する責任が何もないし、足手まといになるような縁者もなく独立独行、勝手次第の身分なので、住まいについても非常に楽観主義だからである。

 第一には自己の趣味を満足させることが重要で、次に現在の社会的な身分に応じてそれに必要となる設備を整えようとしたかった。私が聞くところによると西洋の実業家は、全財産の三割を住宅に充てるのを原則としているそうだ。しかし私がもしこの基準どおりに自分を満足させることができるような住宅を造ろうとすると、一生かかっても実現不可能となってしまう。

 そこで私は、西洋の実業家の基準を逆にして、あえて借金まではしないとしても当座の持ち合わせの財布の底をたたいて、まず自分の趣味にふさわしい家を造り、かつそこに住み、かつ楽しむことにした。もし維持困難になったときにはただ処分すればいいだけというわけで、ほかの人の手本になるようなことは一切ない、のんき千万の箒庵一流の住宅経営法を採用したのである。
 このような楽観主義のもとに、私は自分の趣味を満足させるような様式を選んだ。皇居(原文「宮城」)
の森の一部を見渡す高台の、一千坪の四角い土地に家を建てたのである。当時の私の身分からすればほとんど不満のないものだったが、三、四年たつと物足りないような感じがしてきたので、西南の一画に三百坪の空き地があったのを利用し新しい茶室を建てることにした。

 寸松庵が三畳台目だったので、今度はもっと狭い侘茶の茶席を作りたいと思い、京都東山の西翁院のなかにある藤村庸軒ごのみの、淀見の席という三畳敷きの茶室を模造した。

 この席は洞床(注・床の間の間口よりも内部が広いもの)で、二畳を客座に、一畳を主人座とし、その間に、太鼓張り(注・骨組みを囲むように紙を張ったふすま)の二枚引きを立てた。炉は向切(注・むこうぎり。小間の炉の切り方のひとつ)で、左手の窓をあけると淀川の景色が手に取るように見えるので、この庵の名前がついたのであった。
 庭は、おおむね塩原箒川の景色の写しであった。奈良の古石、もしくは筑波山の山石を寄せ集め、大石のあいだから一筋の滝を落とし、京都から取り寄せた台杉で庭の半分を覆い、木の間がくれに、ちらちらと水流を見せる趣向だった。
 その後、ドイツ、ベルリンの博物館長キンメル博士が来庵されたとき、この築庭についての話になり、なぜ杉の木で滝の半分を隠すのかときかれたので、これが日本の築庭術で、ものを隠すことで、そのものを大きく見せ、かつ趣を添えることができるからだと説明した。また竹垣などで庭の一部を仕切ることもあるが、これも、世界ををふたつにわけて庭を狭くすることで、かえって広がりをもたせることになるのだと話すと博士は非常に感心した様子だった。

 さようなわけで、はじめは茶室に箒川庵と名前をつけたが、古色がかった円形の扁額にこの庵号を彫刻しようとする段になり、三文字では字形のおさまりがつかない。しまいに川の字をはずし、箒庵の二字としたのである。
 ところが、それがとうとう私の雅号となってしまったので、箒というものに興味を持つようになった。いろいろな関係をたどっていくと、箒に関する故事はとても多い。寒山の箒は言うまでもないが、禅宗では無形の箒で心の塵を払うというし、詩歌でも箒を詠じたものが少なくない。私が所蔵する幅の中にも蕪村の箒画讃があるし、また大口隆正の箒の讃には


   そのままにうちすてておかば掃ふべき 箒にもなほ塵やかからん


というのがある。
 そこで私は、山県公爵の主宰されていた常磐会という歌会で、箒という課題を出してもらったことがあった。そのとき私が詠んだのは  

 

   散る花も紅葉もはきて春秋の あはれを知るは箒なりけり


というもので、幸いにも選歌となることができた。
 このときの参加者諸氏の吟詠は四十八首にのぼったが、そのなかで主だったものは次のとおりである。


   たまさかに朝きよめする乙女子が もてる箒のおもげなるかな


   朝しめり土もにほへる広庭の 箒のあとのここちよきかな


   松かけの庭の苔生をいたはりて 箒は人にとらせざりけり


 第一首は山県公爵の詠じられたもので、これはそのときに満点で選歌になったそうだ。四人の宗匠の投票で、三点以上は選に入り、四点だといわゆる満点の名誉を得るのである。公爵は大喜びで、選歌の会場だった目白椿山荘の廊下に飛び出して夫人を呼び、「お貞、お貞、己れのが満点になったぞ」と報告されたそうで、ふだんは謹厳な公爵からすると、めったに見ることのできない図であったとは、宗匠のひとりだった井上通泰博士から直接きいた話である。
 さて箒庵であるが、私から中井新右衛門氏に譲り、大正癸亥年(注・みずのといどし。大正十二年、1923年)の震災の火災で寸松庵とともに烏有に帰した(注・全焼した)。しかしながら、私が丹精をこめたものだったから、ここにその建築の由来を語り、あわせて私の雅号と箒の歌の由来を付記した次第である。


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  百二十  元禄模様の流行(上巻415頁)


 私は以前にフランスのパリに旅行したとき、洋服店が毎年のように洋服の新作を出し、単にパリだけでなく、ヨーロッパだけでもなく、遠くアメリカの流行にまでも影響を及ぼしているということを聞いた。祖母の着たものを孫娘が受け継いだりすることさえあるわが国では、まったく考えも及ばないことだった。貧富の度合いが違っているからでもあったからかもしれないが、世界の競争から取り残されたような島国の日本では、人はそのようなことに無頓着で、のんびりしているためだろうと思われた。
 もっとも徳川幕府の盛時には、おりおりで衣服の流行が変化し、人気俳優や、評判の妓女たちがその手本になったということはある。あの市松模様(注・江戸時代の歌舞伎役者、佐野川市松がはやらせた)であるとか、菊五郎格子であるとか、何々絣という名前があることからもわかる。
 しかし維新の変動は、極端にひとびとの気持ちを萎縮させ、かんたんにはもとに戻らず、そんなわけで衣服の流行などを気にする者はいなかった。
 しかし日清戦争後の景気拡大で世間では好況が来たと騒いでいたから、私は、あの伊達模様というものを染め出して、はやらせてみようと試みた。だがまだ時期が早すぎて、そのときはあまり反響がなかった。
 そんななかで日露戦争が始まった。まもなくこの戦争は大勝利のうちに終わり、今度こそ三井呉服店が奮発し、明治ごのみの新しいもので衣服の模様の流行のさきがけになり一世を風靡してみようと思い立った。
 それに先だち私が三井呉服店を改革し始めたとき、新たに意匠係というものを設置していた。そこに何人かの画家を招き、新しい模様をデザイン(原文「立案」)してもらうと同時に、古い絵画を残らずあたり、優れた衣服の模様を収集していた。古いところでは古土佐、住吉派にはじまり、又平(注・岩佐又兵衛)、宗達(注・俵屋宗達)、光琳(注・尾形光琳)、新しいところでは、師宣(注・菱川師宣)、春章(注・勝川春章)、歌麿(注・喜多川歌麿)、雪鼎(注・月岡雪鼎)、栄之(注・鳥文斎栄之)にいたるまで、なんでも図柄のおもしろいものなら、風俗絵巻であろうが、小袖屏風であろうが、はては春画までをも、くまなく写して、模様集帖(注・デザイン帖)を作っておいたものがあったのである。これを実地に応用するのは、まさにこのときだと思われた。

 かねてより古老から聞くところによれば、世間の景気がよくなるときは衣服の模様が派手になり、不景気になるときは概して好みが地味になるという。日本は今や戦争に勝ち世界屈指の大国となり、好景気到来がしきりに叫ばれる時期だったので、世の人の好みも派手になり、自然に大がらな模様が歓迎されていた。元禄時代が再来することは、もはや疑いをいれないと思われた。
 そもそも徳川の元禄時代は、関ケ原の戦いが終わり、大阪も落城し、弓は袋に、刀は鞘に収まった元和元(1615)年(注・大阪夏の陣の年)から七十年の歳月がたったいる(注・元禄時代は、16881704年)。しかし明治はまだ四十年弱しかたっておらず、維新後まだ非常に日が浅かったが、鎖国をやっていた昔とは違い時代も駆け足で進み、このあたりで元禄時代が再現されてもいいころだろうと思われた。
 そこで私は、例の模様集帖から、もっともすぐれた模様を選び、まず十数種類の衣装をこしらえた。
 次に元禄花見踊りという曲を作り、新橋の人気芸者から踊り手と地方(注・じかた。音楽の演奏者)を選び、ひとつの舞踏団を組織した。その踊り手のなかでは、のちに伊井蓉峰の女房になった叶屋清香や、河合武雄の宿の妻となった栄龍などが光っており、たちまち東京中の大評判になった。のちにその当時のことを書いた実録に、つぎのような記事がある。(注・内容を多少わかりやすくなおした)
 「元禄衣装というのは、最初、新橋一流の歌妓である松寿、清香、五郎、栄龍、ひさ、実子などが、めいめいに別々の意匠をこらして、帯や紐はいうまでもなく、髷の結い方や、櫛、笄(注・こうがい)の好みまで、それぞれに昔の型を追ったものだった。その発表の方法としては、高橋箒庵の書きおろした新曲である元禄舞に、杵屋勘五郎が節を、藤間勘右衛門が振りをつけたものがあった。それが、三井呉服店が三越呉服店と改まった三十八(1905)年の春から、浮世絵そのままの姿で交際場に現れたので、雑誌も新聞も筆をそろえてこれを報じたのだった。戦争以来さかんに流行していた絵葉書の図柄にもなり、それが八方に飛んだ。また歌舞伎座の三月狂言の、大切の所作事(注・舞踏)にも元禄踊が演じられた。流行はほどなく大阪南新地にも伝染し、戦後には、人心が華麗で大きなものを好む傾向にあったから、元禄模様は、単に衣服や髪飾りだけでなく、調度器具、日常全般の品々にまでおよんだ。この流行に乗じて、元禄の名を冠するものは、元禄櫛、元禄下駄、元禄足袋、元禄煙管、元禄団扇、元禄手ぬぐい、元禄ネクタイ、元禄友禅などなど、数えきれないほどだった。そのうえ、元禄料理の再現が試みられ、元禄出版の古書籍が値上がりし、また元禄研究会が作られ、これに関する著書も刊行されるという具合で、このころの元禄流行は、実にすさまじいものだった。」

 
 元禄模様のはじまりは、私が三井呉服店の理事を兼任していた明治三十七(
1904
)年からで、翌年には同店が組織を改め三越呉服店となり、その翌年の三十九年に私が同店を去るまでも流行は一向に衰えなかった。戦後の景気拡大がようやく沈静化した四十年ごろまで、その勢いは継続したのである。これは明治時代の風俗を語るうえで特筆すべきことがらであると思う。


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