だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 101‐110

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百一  三井宗竺遺書(上巻345頁)

 前項(注・100を参照のこと)に記述した三井家憲は、今日の情勢と法律に適応できるように規定された。その根本は、三井家が二百年あまり守り続けた同家の家憲である「宗竺遺書」に準拠した内容になっている。そこで、今回はその宗竺遺書について述べてみたい。
 三井の祖先は近江源氏佐々木族である。元亀、天正のころ(注・16世紀末の室町時代)近江鯰江の城主だった三井越後守高安という人が、織田信長に追い払われて伊勢の雲津に落ち延びた。ここに土着し則兵衛高俊を生み、高俊は八郎兵衛高利を生んだ。この高利が商家としての三井の先祖である。高利は元禄七(1694)年七月に七十三歳で死去し、法号を松樹院長誉宗壽居士といい、京都の真如堂に葬られた。
 この人こそが、伊勢から江戸に出て越後屋呉服店を開き、ついで三井両替店を始めた当家の創業者である。実子が十五人いた中から正腹の男子六人を選び、嫡男を総領家とし、他の五人を本家として三井六家を立てた。
 嫡男であった八郎右衛門高平は宗竺と号し、二代目として非の打ちどころのない守りの才能、器量に恵まれていた。同族の長久繁栄のために、その父である宗壽居士の遺訓により宗竺遺書と名付けた掟の書を作り、享保七(1722)年に家法として厳守することを決定した。
 この遺書は同族の処世法、商売上の措置、奉公人に対する注意、財産の分配および子孫の教育法など、永世にわたっての容易ではない訓戒規律を網羅したものである。時勢の違いから今日には相容れない法律的規定を別にすれば、これ以上周密で適切な家法を作ることは現代人であっても誰もできないだろうと、穂積陳重博士でさえもが感嘆するほどのものだった。三井家が二百年余りにわたり、ますます繁盛を続けているのも、この遺書の精神に基づき子孫がよくその家業を継承してきたからにほかならないと思われる。

 宗竺遺書は、そのような家法であったが、明治三十四(1901)年にできあがった三井家憲も、だいたいにおいてこの遺書によっている。子孫に対する訓戒の中には、現代の実業家に対してもすこぶる適切なものがあるので、その二、三の興味深い例をあげてみよう。(注・難しい漢字をひらがなにしたりしたほかは、原文通り)
 一、同苗(注・同族)共益々心を同じうし、上に立つ者は下を恵み、下たる者は上を敬うべし、吾々は兄弟にして睦ましけれども、この末はまた左にあらず、しかればいよいよ心を一にし、立て置く家法礼儀をみださず、よくつつしみ守る時はますま栄ゆるの理なり、人各その心あり、彼れが心を酌み、われを図ってことをなさばよく整ふべし、己を立て人を図らざれば、外整ふとも内和せず、よく服せざる時はみだるるなり、その旨よくよく心得べし、驕り長ずる時は家業を忘れ、その商に疎かなる時はなんぞ繁昌せん、ただ一家親しく身を慎み、私なくよく眷族
(注・一族)を恵み、家業に怠りなき時はいよいよ繁昌相続いたすべき事

 一、商人は不断の心がけ薄き時は、他よりその商ひを奪はる、これ戦ひの理なり、多年心に懈怠(注・けたい。怠けること)なく、商ひの道をよく勤め、眷族(注・一族)を養ひ、内を修め、家業を怠らざれば家栄ゆるなり、大工の家を造るに、棟梁ありともそれぞれの大工なくんば成らず、棟梁良き時は好く出来(注・しゅったい)す、皆これ諸共にして棟梁よく下を使へばなり
 一、異国の国王に十人の男子を持てり、その親末期に及び、十人の子供を各々枕元に呼び寄せ、一人に矢一筋づつ持たせ、右の矢を折り候へと指図の時、十人ともに矢を折る、また矢を十筋一緒に束ねて、総領より折り候やうに申渡され候とき、右の矢かつて折れず、次男に申付られ候とも折れず、十人共に一人の力にては及ばざる由申せし時、親遺言として十人共兄弟へ申置かれ候は、われら相果て候以後、兄弟一致に睦ましく諸事相励むべし、右矢のごとく一本にては折れやすく、十本束ね候ては折るることなし、兄弟各々心をあわせ候ときは、国に危きことなしと申置かれ候由、手前家の掟これに相適ひ候
 

以上は、宗竺遺書の一部に過ぎないが、一家を永続させようとする深謀遠慮は、このような一片からでも容易に想像できるだろう。
 こうして今から二百十一年前にあたる享保七(1722)年にこの家法を制定し、これを子孫に守らせた祖先の力もすごいが、また大事に家法を守り、同族一致して今日までますます家名を盛り立ててきた子孫も感心なものである。単に日本において例が少ないだけではなく、世界を見渡しても、きわめてめでたい家柄であろうと思う。
 しかし大家は大木のようなもので、林に大木があるということで、その林が貴いものになる。国に大家があるということは、国が重要であるということになる。
 最近流行している悪思想では、むやみに大家を目の敵にするが、三井のような旧大家は、個人の私有物というよりも、むしろ国家の公有物であろう。その繁昌が、同時に国家の繁昌を意味するのである。今、かりに三井が所有財産を売り払い、実業界から引退することになったら日本の財産にどのような影響がるだろうか。国家の大局から見てのその損益については多くを語る必要もあるまい。
 このような大家は、主人も勝手にこれを私有してはならず、ながくわが国の商業界に立ち、国家大衆とともに栄枯苦楽をともにする運命を持っているのである。よって、この一家が雪ころがし方式に世を利し、我を利しながら、ながく繁栄していくことを私は心から願ってやまないのである。



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百二  大家の主人公(上巻349頁)

 井上馨侯爵が三井家の家憲を制定するにあたり私たちに向かって口癖のように述べられたことを要約すると、三井のような大家の興廃は、単に一家の問題ではなく国家の利害に大きな影響があるということだった。封建時代、鎖国時代には、豪族の兼併(注・他人の土地、財産を併合すること)の弊害などという議論があったが、今日のような世界各国間の経済競争の世の中では大資本家の力で対抗するほかはない。大家は国家の機関として健全な発達を遂げてもらわなくてはならない。大家に家憲が必要なのはそのためである、というのが侯爵の論点だった。
 このような見地から考えると、創業者である祖先や、国家からの信頼に対して重大な責任を背負わされる大家の主人は、世間からは栄耀であると見られ悠長なものだと思われるだろうが、じっさいにはその反対で非常にありがたくないことなのかもしれない。現今の日本の二大大家として知られている三井家、岩崎家の主人について私の知る限りでは、三井の総領家八郎右衛門男爵(注・北家10代三井高棟たかみね)は伝統的な特質を受け継ぎ芸術的才能を備えている。能楽にあってはほとんど専門家をしのぐほどであるし、絵画を試みては、その父である福翁(注・北家8代三井高福たかよし)の遺風を受け継いで四条派の絵画に巧みな才能を示し、茶事では表千家の堂奥に入り、建築、築庭についても並々ならぬ意匠の持ち主である。長兄の高朗(注・北家9代たかあき)氏の没後に三井総領家を相続した最初のころは折々に能楽などを催し同族と娯楽をともにすることもあった。しかし明治二十四(1891)年の危機に際し自らも深く考えるところがあり、家憲制定に関して主人側を代表し井上侯爵、都築男爵もしくは家憲起草者の穂積陳重男爵らとの研鑽、研究が数年間に及んだ。そしてこれを実行するにあたり、同族統率の任に当たるために自分の責任がいかに重大であるかをはっきりと自覚しそれまでの態度を大きく改めた。自分の趣味、嗜好が同族や使用人に感染する影響をおそれ、家憲擁護のために自分の享楽を犠牲にすることも辞さなかった。その後、夫人を同伴して団琢磨らとヨーロッパ諸国を巡り、そこでの大家の行儀作法などについて研究し帰国した。その後は、営業方面においては勤勉に手腕を発揮し、家庭においては家長としての模範的な行動を示した。みずから慎重に行動し、かつて批判されたような行動をつつしみ、この三十年間まったく変わらずにそれを続けたことは、三井総領家の主人が身をもって家憲励行の責任を全うしているからにほかならない。

 世の中ひとびとは、ややもすれば大家の主人を見て羨望の的にするようだが、自分がその立場に立ったならば話はさほど簡単なことではないだろう。私は近くでよくそれを見てきたから、大家の主人になるのははなはだ大変なことだとひそかに敬服している次第である。
 大家の主人というものが、はたで想像するような安逸悠長なものでないことの例をあげる。日本の大家の横綱として三井家と相対している岩崎家においても同じようなことが言えるのである。私が明治二十一(1888)年にアメリカ、フィラデルフィアを訪問したときのことである。岩崎久弥男爵は同地の学校に遊学中だった。それ以前、男爵の厳父である太郎君は、わが子の教育のために非常に厳格な方法をとっていた。男爵の少年時代には、同郷の有望な子弟といっしょに書生部屋で寝起きさせ、大家の令息的な扱いを一切しなかったそうだ。私がアメリカを去りイギリスのロンドンに滞在中、久弥男爵が来遊されたということをきき、どこのホテルに滞在されているのか問い合わせると、三菱の仕事で滞英している和田義睦氏の下宿に泊まっているということだった。ところがその下宿がいたって粗末だったらしく、ある人が岩崎男爵を訪ねたところ、男爵は南京虫に刺されて頬のあたりが腫れあがっていたそうだ。そんな話をきいたあと、ある日、日本領事館で領事の園田孝吉氏のち男爵と会ったときにその話になった。園田氏は非常に謙虚でまじめな人だったから粛然とした面持ちになり、そうだからこそ岩崎家は代不易(注・いつまでも変わらない)なのだなあと大いに敬意を示していた。

 私は大正の中頃に、京都祇園の杉の井旅館で故朝吹英二氏といっしょに、ちょうど入洛中(注・京都に滞在中)だった岩崎男爵とおしゃべりをしたことがある。そのとき男爵は「僕はいたって無風流で、もはや親父の逝った歳に近づいたが、これまでなんらの趣味もなく、おりおり牧畜場を見廻って、牛の成長を見守るくらいのものである」と呵々一笑(注・かかいっしょう=はははと笑う)された。男爵の無風流ぶりは男爵が言われるとおりの天性のものかもしれないが、しかし幾分かは身分を顧みて謙虚にしているためで、すすんで趣味的な娯楽に触れないようにしているようなところがあるのではなかろうかと私は朝吹翁と語り合ったものである。
 かつて益田英作氏が東海道の汽車のなかで、柏木貨一郎そして岩崎弥之助男爵と乗り合わせたことがあった。そのとき、柏木と弥之助男爵が居眠りをしていたが、片方は非常にのんきで大いびきをかいているのに、もう片方の男爵は心配ありげな顔つきで眠っていたそうだ。「僕らは金持ちの弥之助男爵よりも、貧乏な柏木のほうが、はるかに気楽なことを発見した」と益田氏は言ったものだ。これなども、大家の主人に対するひとつの見方であるかもしれない。


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百三  中上川の業績(上巻352頁)

 中上川彦次郎氏が三井銀行の副長になりその手腕を振るい始めたのは、明治二十五(1992)年の初めからである。二年たって日清戦争が起こり、戦勝による景気でいろいろな計画が持ち上がった。

 朝吹英二氏が整理にあたっていた鐘ヶ淵紡績の株は、一時、十円台にまで下がっていたのが、たちまち払込で五十円の倍額までに値上がりした。
 渋沢子爵の手で三井に移した王子製紙会社や、三井工業部の所管になった富岡製糸場なども、それぞれ隆々たる盛況を呈しさらに規模を大きくした。
 さらに、北海道の事業にも着目し北海道炭鉱会社の株式を大いに買収した。
 東本願寺への百万円をはじめとする貸金についても、とうてい完全には回収することはできないだろうと思われていたものを案外すんなりと回収し終えることができたため、各地方に散在していた多数の支店を閉鎖し銀行の実力をおおいに充実させ、抵当流れの土地なども、たちまち数倍に値上がりした。
 このような好都合がさらなる好都合を呼び、三井の成長の勢いは予想外に大きなものだった。神戸の小野浜で十万坪の抵当流れの一坪一円の地所が、後年に一坪百円以上に値上がりしたというような例も少なくなかった。

 かくして中上川氏の画策は着々と成功し、ほとんど後光が射すような勢いだった。それが明治二十七、八(18945)年から三十一(1898)年いっぱいのことで、彼の業績の全盛期であった。日清戦争後、中上川氏の三井整理がうまくいったことと、戦後の景気拡大が合わさり、計画は着々と成功したため一時は全盛の極点に達した。

 しかし三十二(1899)年ごろから反動が見られるようになり、やがて急転直下の苦境に陥ることになる。これは財界波乱が引き起こしたことで、まったくやむを得なかったと言わなければならない。
 それ以前に、中上川氏は三井の事業統一を提唱した。それまでの三井商店は、銀行、物産、鉱山、地所、工業と、それぞれの部門に分かれ、益田孝男爵のような大人物といえども、その手腕が及ぶのは、物産もしくは鉱山という一局部に限られ、三井全体に及ぶことはなかった。それを中上川氏の入行後、各商店理事を一か所に集め、各自それぞれの議案を持ち寄り、各部の連絡を保ち、これを統一協定とすることになった。益田、中上川の両雄も毎回会議に同席して営業方針を定めたので、当分のあいだはどこにも溝はなかった。
  
しかし戦後膨張の反動が起こったとき、その影響は、まず物産の商売に現れた。大阪支店において原綿の暴落の損失が出ると同時に金融はますます急迫を告げた。
 その救済のために、井上侯爵の口添えで九州方面に三井銀行が貸し出した金を回収しようとしたところ、たちまちにして九州炭鉱業者の不平を招いた。それは、中上川氏と井上侯爵のあいだに自然と溝ができることを意味し、そればかりか、益田氏との関係も絶頂時代のようにはいかなくなった。ここへきて中上川氏を攻撃する声が四面に湧き起こったのである。
 折も折、中上川氏は三十二(1899)年ごろから腎臓病が悪くなり、機嫌も非常に悪く、ややもすると他人の感情を害するような行動も見られるようになった。
 事態が重ね重ねも難局なことに加え、長崎あたりの新聞が三井に恐慌来たるといった内容を掲載したため、関西地方のひとびとが不安視し、明治二十四年の二の舞(注・取り付け騒ぎのこと)が起きそうな状況に陥ってしまった。そこで日本銀行の総裁と協議して、取り付けはほどなく鎮静化した。しかしこのような情勢では各自がその位置を守ることばかりに必死で、他者を非難するというのが人情というものである。それで内部においても、ややもすれば悪口が広がって反中上川の情勢がみなぎるようになっていた。 

 そんなときに、折悪しく、二六新報の三井銀行攻撃事件が突発した。この事件は、かつて三井と取引関係があった三谷三九郎という人の遺族に対し、三井の待遇が非道であるという理由で攻撃の矛先を向けたものだった。しかし三井銀行が簡単には応じなかったため、秋山定輔氏が、「将をたおさんとすれは、まず馬を射よ」の戦法をとり、三井主人の人身攻撃を始めたのである。やがてその攻撃の材料が尽きると、今度は伊藤博文公爵を動かし、伊藤公爵はさらに井上侯爵を動かして、三井と二六の仲裁談が持ち上がった。中上川氏は、ついに城下の盟をなす(注・敵に首都の城下まで攻め込まれて講和の約束をする)ような苦境に陥り、まことに気の毒な状態だった。
 そのころ三井銀行で中上川氏の次官格だったのは波多野承五郎氏であったが、じっさいに各部の重役間の潤滑油になってその調和をはかる役割を果たしたのは、すでに三井工業部の理事になっていた朝吹英二氏だった。外見は磊落で無頓着のように見えるが、実は非常に敏感で苦労性なこの人は、自分が歳(注・まんざい。基本は太夫と才蔵の二人組の芸能)の才蔵役になり、八方融和のために円転滑脱の働きをしたのである。その苦心は非常に大きなものだった。
 このように、中上川は時勢が自分の不利になり、四面楚歌の中に置かれることになったが、このようなときに尻尾を巻いて逃げたり責任を他人に転嫁するような人物ではなかった。最期まで堂々とその運命を自覚し、明治三十四(1901)年十月、四十八歳にして、ついにその短い生涯を終えた。
 しかし彼の没後数年での日露戦争を経て、一陽来復の景気がやってきた。彼の施策が効果を現わしはじめ、今更ながら彼の卓見に感服した人もあったのではないかと思うものの、死者の功績を回想して、これに感謝した者があったかどうか、それはわからない。しかし三井中興の基礎は、彼の三井入りから死去にいたる、この十年間に築きあげられたものなので
ある。彼も地下にあって、みずから慰めるところがあるのではないかと思う。


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第五期 実業 明治三十五年より明治四十四年まで

 百四  杉聴雨先生(上巻359頁)

 杉聴雨【孫七郎】先生は長州藩の名門の出身で、井上侯爵とは莫逆の交わり(注・非常に親しいつきあい)があった。長州人は総じて文学趣味に富み、書道に秀で、詩文を巧みに作る人が多いが、先生はそのなかでも抜きん出ていた。詩や書についてはほとんど専門家をしのぐほどの技量の持ち主だった。
 私は井上侯爵の家に出入りするようになってから、三日にあげず侯爵家を訪問されていた先生と親近した。文学の趣味を持つ同好の士であったことや、私の岳父の長谷川秋水(注・前妻千代子の父長谷川方省)が先生の詩友であったことから、初めて会ったときからまるで旧知の仲のようで、わたしはほどなくして平河町にあった杉邸に足しげく出入りするようになった。
 先生は大柄で、頑丈な骨組みは武道家のようだった。容貌は雄偉、色黒で眼光が光り、いったん怒ると鬼でもやっつけるような威厳を持つが、いったん笑うと子供もなつくような柔和さを持っていた。いたって寡黙で、長州弁で要点だけを口早に言い終わるや、また黙々として人の話に耳を傾ける、という風だった。それは大悟徹底した禅僧の趣で、何事にも控えめで、いかにも沈着な態度でありながら行動するときには動じない気迫を内に秘めていた。

 その一例をあげる。維新前後の長州の志士が国事に関して京都に赴こうとし、便船が鞆之津(注・とものつ)に近づいたときのことである。激しい暴風雨に遭遇し、船頭ももはや転覆沈没するほかはないと乗客一同に警告を発した。そこで同行の七、八人は覚悟を決め、遺書をしたためる者、辞世を書く者など、みな顔色を失って悲惨の極点に達していた。先生はその光景を寝転びながら見ており、やがて船が沈没するという刹那に猛然と立ち上がり、真っ裸になって同行者の前に立ちはだかった。そして、「おれの辞世は、これじゃ、これじゃ」と、その勃々たる勇気の勢いを示したので、今まで悲惨な顔つきをしていた同行者も、さすがにこれには笑い出し、船頭までもが元気づき、とうとう荒波を乗り切って鞆之津に着くことができたという。この逸話は先生が死生の際で見せた泰然とした態度を語るものとして、非常に有名なものだそうである。
 先生はかつて皇后宮大夫の重職にあった。書道にきわめてすぐれていたので、大正天皇がまだ東宮であられたころ習字の手本を差し上げて、おりおりご教授申し上げたそうである。また深い漢学の素養もあり、時々詩文を作られた。なかでも詩はきわめてうまく、数々の感吟がある。西郷隆盛の城山に立てこもった当時の状況を詠じた詩は、次のようなものである。


  百戦無功半歳間 首丘幸得返家山 笑儂向死同仙客 日洞中棋響閑


 ところが、はなはだおかしなことに、この詩が西郷の詩と誤って伝えられてしまった。現に、簡野道明氏の和漢名詩類選評釈の中にも西郷の作として掲載されている。その他の大家の著作でも同様の誤りを見受けたので、私は聴雨先生にこれは世間で西郷の詩と言い伝えられているが、貴方のお作でありますかときくと、先生は微笑なさりおれの作も西郷のとなってしまえば名誉であるよ、実は西郷が岩崎谷に立てこもった時の心境は、このようなものだろうと思って、彼に代わって作ったものであるが、西郷の作だといえば、それでもよいわァハハハハハと笑われた。これには、いかにも聴雨先生らしい雅量がうかがわれたものだ。
 そこで私は、では後日の記念のために、その詩を書いてくださいと所望し、さっそく半切(注・画仙紙などの全紙の半分サイズの紙)に揮毫していただき、頂戴したようなことがあったので、ここにその顛末を記して世間の誤伝を正すことにした。
 先生の性格は井上侯爵と正反対である。侯爵は雷伯といわれたほどで、ときどき大きな罵声を発せられることがあるのに対し、先生はいつでも沈黙して、静かなること山のごとくである。それで井上侯爵とは漆膠のごとく注・不可分に)親密で、侯爵は先生がいなくては夜も日も明けず、なにかあるとすぐに杉を呼んで来いというのが侯爵の常だった。
 ところで、井上侯爵がなにかのことで癇癪を起こすと、先生はいつのまにかその場をスルリと抜け出して、挨拶もなしに帰ってしまったものだった。その呼吸がいかにも巧妙なのだった。あるとき興津の別荘で井上侯爵の落雷が激しかったとき、先生は例のとおり泰然として座敷中を眺めていた。侯爵が鉈豆煙管(注・なたまめギセル、短いキセルの種類)で灰吹をポンポン叩くので、あちこちに焼けほげを作っているのを見つけると、そばにあった紙に、

  焼ほげがところどころに出来にけり 畳がへなら献金をせん

と書いて机の上に置き、フイと立って旅館水口屋に引きあげてしまった。あとで侯爵がその紙きれを取り上げて見て思わず噴き出し、いままでの大雷がたちまち収まった、などということもあった。
 杉先生については、まだ多くの奇談があるので、また後段でも語ることにしよう。(注・154「杉老子爵の逸事」などを参照のこと)


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百五  道具争奪戦の勝敗(上)(上巻362頁)

 道具鑑賞家というものはひとりで道具を楽しむだけでは満足せず、同好者を集めてこれを展示したり、その批評をきいたりして自分の思うつぼにはまったときには、隆鼻三千丈(注・鼻たかだか)でたちまち大得意となるのは昔も今も変わらない。
 だがこの鑑賞家が、たまに争奪戦を演じることがある。たとえば、某家から某品を譲り受けようと内々に手を回し、抜け駆けの功名をなそうとすることがある。そういうときに他に競争者がいると、親しい仲間同士で密約して連合軍を組織する場合もある。
 このような興味をそそる争奪戦のエピソードは昔から数限りなくあるが、太閤秀吉(原文「豊太閤」)が神屋宗湛の博多文琳現在、黒田長成侯爵所蔵】(注・現在は福岡市美術館蔵)を彼から奪おうとした策略計画は、そのもっとも有名なものである。
 それは天正十五(1587)年の太閤秀吉の九州征伐のときのことだった。博多の神屋宗湛の茶会に臨み、宗湛秘蔵の博多文琳を奪おうと、随行の石田三成に言い含めて一計を案じた。急に帰ると申し出るから、宗湛が玄関に送りに出た隙をうかがって三成が博多文琳を懐中におさめて立ち去る、という策略だった。

 太閤は打ち合わせどおりに茶室から立って玄関に向かった。そして三成が来るのを今か今かと待っていたが、すんなり出てこないので、しきりに気にして待ちあぐんでいた。その様子を見て宗湛は、懐の中に入れた博多文琳を見せびらかし殿下の待ち受けておいでなのは、これではございませんかと言ったので、どうやら、この自分をもってしても奪うことはできないようだと太閤は笑って立ち去られたという話である。
 明治の世になり、不思議なことにこれに酷似した出来事があった。ある日、井上世外侯爵が福地桜痴、小室信夫らとともに品川御殿山の益田鈍翁の茶会に臨んだ。床の間に掛けられていた一軸を見ると、それは牧谿筆の蜆子の図だった。これは最近まで福地桜痴の所有だったものだが、彼が金に窮して、残念ながら鈍翁に譲り渡したものだった。その日これを見た桜痴はいまいましさのあまり、なんでもいいから一計をめぐらして持ち主の鼻をあかしてやろうと思った。そこで、内々に侯爵と小室と示し合わせ、侯爵が帰るときをねらってこの掛物を取り外し、その馬車に載せて持ち帰らせてしまおうとした。

 鈍翁は、桜痴の様子がふつうでないのではやくも計略に気づき、侯爵が席を立つと同時に、まず掛物を外して、倉庫の奥にしまってしまった。さて玄関に駆けつけてみると、桜痴は途中で引き返し、いそいで床の間の前まで行ったが掛物は影も形もない。さては小室が気を利かして自分より先に持ち去ったのかと急いで玄関に行ってみると、井上侯爵は馬車の中から覗き見るように福地、小室を待ち構えている。そこでおもむろに鈍翁が馬車のそばに進み出て、閣下の待ち受けられている品物は、先刻土蔵に納めて、今日は間に合いませんので、とくとくお帰りなされませと言った。侯爵は何度かため息を吐き、益田はさすがに素早い奴だと感心されたとか。福地の策略も無念、とうとう失敗に終わったのであった。
 井上侯爵に関する道具談には、もうひとつよく似たエピソードがある。明治四十(1907)年前後、侯爵が内田山の八窓庵でしばしば茶会を催されていたころのことである。今度は赤絵揃いで茶会を催そうということで、向付、肴鉢、水指、建水、花入、小皿、香合などの一切を赤絵だけで組み合わせた。ところが、ただひとつ徳利だけが不足していた。こんなに赤絵が揃ったのに徳利がないのは残念であると、いろいろ出入りの道具屋などに聞いているうちに、馬越化生翁が天下一品の赤絵徳利を所持していることを告げた人がいた。侯爵は非常に喜んでさっそく化生翁を呼びつけ、赤絵揃いの茶会の計画を話した。そして、こうなったからには君の徳利を譲ってくれ、もし譲ることができないなら借用させてもらうだけで差し支えない、と談じ込んだ。

 化生翁の当惑は、ひとかたならなかった。ほかでもない、その徳利は、形といい模様といい寸分も非の打ちどころがない品だったからである。白地の部分は玉のようで、赤絵は花のよう。しかも口縁にすこしゆがんだところがあって、いわゆる綺麗さびの最上の絶品なのである。たとえ世外侯爵の不興を買い、茶道上での絶交になったとしても、これを手放すわけにはいかない。そう決心の腹を決め、この一品は旧持ち主とのあいだで、他に譲渡すべからず、という約束もあり、門外不出としているので、どうか切にご勘弁くださいと、苦しい断り状を出した。化生翁は当分のあいだ、内田山にイタチの道をきめこんで(注・交信を絶つこと)、一年ばかりたって、このやりとりが侯爵の頭から消えた頃から、また出入りするようになったのである。
 それ以来、化生翁は茶会でこの徳利を取り出すたびに、必ず当時の危機一髪状況の演説をして、あやうく鰐魚(注・ワニ)の口をのがれましたと一笑したのであった。私たちも、この徳利のためなら、いかにも、ごもっとも千万と、相づちを打つのを常としたものであ


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百六  道具争奪戦の勝敗(下)(上巻366頁)

   
前項(注・105を参照のこと)で、井上世外侯爵が、福地桜痴の考えた策略で益田鈍翁の牧谿筆の蜆子図を巻き上げようとしてまんまと失敗したこと、また馬越化生翁所蔵の赤絵徳利を徴発しようとしてとうとう目的を果たせなかったことを記述した。これらは井上侯爵の完全な敗戦である。一方、今度は反対に侯爵の作戦がうまくいって、鈍翁、化生翁が敗者になって指をくわえてその奇勝をうらやましがることになったエピソードがある。
 それは明治三十四、五(19012)年ごろのことだった。深川木場の鹿島清左衛門家で、同族の誰かが三井銀行から借金した手形の保証に立っていたため、その支払いのために道具を処分する必要が生じた。そこで人を介して馬越化生翁に相談したところ、化生翁はかねてより鹿島が道具持ちであることを知っていたので、山澄力蔵(注・道具商)を、鹿島のところにやって下調べをさせた。すると、道具の点数が非常に多いだけでなく伝家の名品が少なからずある。そのうえ、質草に取ってそのまま流れ込んだ大名道具も少なくないことがわかった。

 やがて山澄による道具の調査が終わりその評価が定まったところで、化生翁はまずこの宝の山に乗り込むことにした。そして、なかでもいちばんたくさんあった宋、元時代の書幅をはじめとして、名物の勢至茶入(注・遠州蔵帳に掲載)や釘彫伊羅保茶碗などという、かずかずの名器を獲得した。
 ところで、そのころ同人のなかで馬越翁が桜川宋元の異名で呼ばれていたのは、翁が芝桜川町に住み、しかも鹿島家伝来の宋元の名幅を多数手に入れたからであった。しかし道具があまりに多すぎてひとりでは買いきれず、かつ自分には不向きなものもあったので、道具数寄仲間の益田鈍翁に耳打ちをし、山澄を手引きにして鈍翁を鹿島家に乗り込ませた。するとこれまた数々の名品を選んで手に入れることになり、両翁とも道具運に恵まれた幸運児になったと有頂天になっていた。
 しかし鹿島家には先代からの申し伝えで、名器のなかの名器と言われる三十六点を非売品としこれには初めから手を触れさせぬことになっていたため、両翁ともこれはいかんともしがたく、高嶺の花だと眺めるだけでこれを摘むことはなかったのである。
 そんなときに、横から飛び込んでその非売品をひとつかみにして去った者があった。両翁はトンビに油揚げをさらわれたように開いた口がふさがらず、山澄までもが骨折り損のくたびれもうけに終わってしまったのである。その大トンビはほかでもない、井上侯爵なのであった。

 それはこうだ。益田、馬越の両翁は鹿島家の宝蔵に飛び込み、たらふく名品を頬張ったが、最初から非売品と決定していた名物の三十六点についてはどうすることもできず、ただ舌なめずりするだけであった。でも、それ以外で自分が欲しかったものはすでに手に入れたということで、もう秘密にしておく必要もなく、化生翁はある日井上侯爵を訪問し、のろけまじりにことの次第を話したのである。
 侯爵はその話を何気なく聞いていたが、さて、鹿島家の道具処分に関して、ほかにもうひとり有力者がいることを知って、その人を案内人にして、化生翁らに気づかれないように、みずからも鹿島家に乗り込んだのである。
 井上侯爵の機敏なことといったら、あの賤ケ岳の合戦で豊臣秀吉が、佐久間盛政がまだ陣地を引き払っていないのを聞いて小躍りして進撃したのと同じであった。侯爵は鹿島の主人に面会し、家政整理の状況から不要道具の売り払いの事情までを尋ね根本的な家政立て直しを勧告したものとみえる。とにかく主人も承服して、例の非売品のなかから若干を手放そうと申し出たのである。

 つまり、益田、馬越の両翁が高嶺の花と眺めた唐代の絵画の最高の絶品である、東山御物の徽宗皇帝筆桃鳩図や、大名物木津屋肩衝茶入や、瀬戸伯庵茶碗、名物包丁正宗など、稀代の名品がたちまちのうちに内田山に移動して、侯爵が手ずから活ける花となったのである。これらは侯爵の従来のコレクションに加えられて、ここに一段と光彩を添えることになり、侯爵を一躍天下の大コレクターの巨頭にならしめたのである。
 この非売品の中には夏珪(注・南宋の画家)の山水堅幅があったそうで、あまりに名品が多かったために井上侯爵が見逃されたということを聞き、私もすこしばかりちょっかいを出してみたが、このとき藤田伝三郎男爵が井上侯爵の許可を得て、四千円内外で買収されたとのことがわかったので、私は遠くから匂いを嗅ぐだけで引き下がることになった。この幅は後年、藤田家道具入札で十余万円の高値を呼んだものである。
 とにかく、この一戦においては、井上侯爵に作戦の裏をかかれて、益田も馬越も顔色なかった。惜敗どころか、まったくの惨敗だったといえよう。道具争奪戦における三雄の一勝一敗で、今振り返ってみると非常に興味深いエピソードだと思う。  


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百七   益田無為庵の茶風(上巻369頁)

 益田克徳氏は非黙と号した。無為庵、撫松庵の別号もある。兄が孝男爵、弟が英作氏で、兄弟三人とも非凡な人物ぞろいだった。みな数寄者であったが、なかでも克徳氏は茶人として、また趣味愛好者として非常な天分に恵まれた人物だった。私が生まれて初めて茶席入りをしたのも彼の茶室だった(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)し、また一番町の自邸に寸松庵を移築したときの指揮をとってもらったのも彼だったので、私にとっては常に茶事のうえでの先輩であり、彼から感化を受けたことも少なくない。明治時代において、彼は忘れてはならぬ一大茶人であった。
 彼は東京海上火災保険会社の支配人だったので、かつて欧米諸国の保険業の視察に行き、その帰りにカルカッタに立ち寄り、同地の古物商から一種の広東縞を一巻買ってきた。これは、国王が象の背中にかけたものだと言い伝えられており、それまで日本に渡ったことのないものだったので、益田広東(注・ますだかんとん)と名付けられ、今日でも茶人のあいだで珍重されている。
 また彼はいかにも洒落もので、温和で趣味に富み、工夫が多く、しかも世話好きだったので、彼によって茶味を刺激されて知らず知らずのうちに茶人の門にはいった紳士も少なくない。渋沢栄一子爵、近藤廉平男爵、馬越恭平、加藤正義氏などはみなそうした連中で、兄の孝男爵、弟の英作氏の物数寄も、彼に負うところが少なくないようだ。

 彼は根岸に住み、その本邸の庵を撫松庵といい、別邸のほうは無為庵と号していた。どちらもおもしろい構造だった。渋沢栄一子爵の王子邸茶室も彼の縄張りにかかっていた(注・設計であった)。また、近藤廉平男爵の牛込佐内町の其日庵、品川益田孝男爵の幽月亭、眞葛庵などもそうである。
 彼の茶風は大侘びのきわみで、所蔵の道具は、雑器にいたるまで一品たりとも凡物がまじっていなかった。
 その道具を愛好する熱烈さは、いったん気に入った器物を見ると、五両一分の借金をしても獲得しなければすまない、という感じだった。また、非常に巧思(注・すぐれた発想)に富み、みずから手びねりして作った茶碗の中には、気韻(注・気品、趣がある)のあらわれている名品も少なくなかった。一時期梅澤安蔵が所持し、のちに益田孝男爵に譲った「翁さび」という黒楽茶碗などは、大正名器鑑にも収録されたほどの傑作である。
 彼は、侘び茶の工夫がうまく、毎回おもしろい茶会を催した。それが余りに行き過ぎることなく、茶番狂言になってしまわない範囲で行われるところに、ほかの人には及びもつかない軽妙さがあったのである。

 あるとき撫松庵で、瓢箪茶会というのを催したことがあった。床に掛けた花入は、千宗旦所持の瓢(注・ふくべ)で、その横手には、朱漆で、
   けふはけふ明日また風のふくべ哉
と書きつけられていた。それを見たときには、なにやら彼の人となりを、まざまざと見た(原文「道破した」)ような心地がした。

 そのほかにも、香合、水指、向付、徳利などの点茶懐石道具の一切が瓢箪だった。なかでも瓢箪模様を織り出した有栖川切の袋を掛けた瀬戸大海茶入が使われていたのが、おおいに連客の好奇心をそそった。当時の評判の茶会であった。

 無為庵は、茶道だけに秀でていただけでなく築庭術にも長じていた。彼の根岸御隠殿の庭は、上野の山を庭内に取り入れ、松原の下草に一面のすすきを茂らせていた。これは、彼が所蔵していた寂蓮法師筆の右衛門切に、

       小倉山ふもとの野辺の糸すすき ほのかに見ゆる秋の暮かな

とある歌意を取って、上野の山を小倉山になぞらえ、その趣を現わしたものだった。その侘び趣向が、いかに徹底していたかをうかがうことができるだろう。
 無為庵は明治三十六(1903)年四月、大阪平瀬家の蔵器入札の下見に行こうとして新橋駅に向かう途中、ある旗亭(注・料理屋、宿屋)で休息しているときに突然脳溢血を起こし、五十六歳で死出の山路に旅立ったのであった。私は、

    極楽や花見がてらのひとり旅

という一句をささげた。彼はどこまでも風流な男で、西行法師の「願わくは花の下にて春死なむ」という理想をそのまま実行したのである。
 彼はなにごとにおいてもとても器用だった。字が上手で漫画もうまく、狂歌にいたっては優に堂奥に入っていた。ある年の大師会に模擬店が出ているのを見て、

    おん菜飯天ぷら蕎麦か芋陀羅尼 あな飯うまや何を空海

と口ずさみ、大いに喝采を博したこともあった。
 彼が没した翌年、日本橋の福井楼で遺品の入札会が開かれた。すこぶる名品が多く、現在は兄の孝男爵が所蔵している絵瀬戸茶碗、松虫蒔絵香合、雲鶴女郎花茶碗や、益田信世氏が所蔵している八幡文琳茶入などはその優秀品であった。
 時あたかも日露戦争の勃発する直前で、このような名品ぞろいの入札にもかかわらず、一品で二千円以上になったものがなく、後年の好況時代ならば、おそらく数十万円の売り上げになったであろう売立が、わずかに四、五万円で終わってしまったことは非常に残念なことだった。
 しかし、彼がいつも道具買いの金に行き詰っていたことを知っていた友人たちは、生前にこの金でも持たせてやりたかった、と言い合ったほどだった。私は今日までいまだ、彼のような恬淡にして面白い茶人には出会ったことがないが、今後もまた出会うことはないと思うのである。



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百八  天下仏画の圧巻(上巻373頁)

 明治初年からいあいだ紙屑同然の安値に沈んでいた古書画の値段は、日清戦争後のインフレ(原文「膨張」)によって、たちまち画期的な値上がりを見せた。そうはいっても、まだまだ高の知れたもので、明治三十四、五(190102)ごろまでは一幅が一万円という書画は世間に出ていなかった。ところが明治三十五年になり、初めてレコード破りの一万円の相場が出たのである。
 それは私が、井上世外侯爵の依頼で横浜の原三渓富太郎氏にあっせんした孔雀明王の一幅であった。このころ井上侯爵は、例の書画骨董好きで明治初年から買い集めていた八宗兼学の(注・多彩な)品々が、すでに鬱然たる大量のコレクションになっていた。なかでも仏画は、ほとんど天下一睨みの位置を占めるほどだった。
 ところがまたしても某氏が所蔵する古仏画の虚空菩薩を買収したいというので、それまで所蔵していた孔雀明王を売り払いたいから誰かに世話してもらえないか、というのであった。

 私は虚空菩薩がどれほどの名画であるのかは知らなかったが、仏画として天下屈指の孔雀明王を手放されるのはなんとも惜しいことだと思った。しかし、侯爵からのせっかくの依頼なので委細承知し、まず相談をもちかけたのは益田鈍翁であった。
 鈍翁は、もちろんこの名画の価値を知っているから譲り受けたいのはやまやまだったが、当時としては破天荒の一万円という提示額にいささか尻込みせざるを得ず、ほかに買い入れる人がいなければもう一度考えることにしようという返事だった。

 そこで次に、明治三十一(1898)年ごろからそれまでの文人趣味をやめて、ようやく古画あるいは仏画の分野に足を踏み入れられていた横浜の原氏に交渉してみた。すると原氏は、とにかく一覧してみたいと言われたので、私はかの孔雀明王を井上家から借り出し、麹町一番町の自宅に持ち帰り、原氏が見にられるまでの三日間、広間の床に掛けておいた。
 この仏画の彩色には、すべて鉱物の粉末を使用してあり、夜に電灯の光が当たると五彩絢爛まばゆいばかりになる。その荘厳美麗なさまは、この世のものとも思われないほどだった私は自家の所蔵品のすべてを売り払って、この一幅を所持しようかと考えてみるほどだった。しかし井上侯爵に対する思惑もあり、また商家の使用人の身分として、あまりにも僭越なことだと思いなおし、とうとう原氏を勧誘して井上侯爵の希望どおりに一万円で買い取ってもらうことになった。

 さてその顛末を鈍翁の令弟、英作がききつけた。彼は、兄貴はなんという意気地のないことか、いやしくも数寄者として、あれほどの名画を見逃すことがあるだろうか、こうなったからは、なんとしても、井上侯爵家にある、あれ以上の仏画である、十一面観世音を、この機会に譲り受けるほかはないとうとう鈍翁を説得したのであった。
 英作はみずから井上侯爵を訪問し、孔雀明王を原氏に譲られたのなら、十一面観世音を兄貴に手放してほしい、ただし、代償は、ウンと奮発いたします。きくところによると、あの観世音は三百五十円でお買入れになったそうだから、拙者はそれを百倍にして、三万五千円で引き受けようと思いますが、いかがでしょうかと持ちかけた。
 これには侯爵もびっくりして、それほど熱心に言うなら、ほかでもない益田のことでもあるから望みどおりに任せよう、ということになった。英作は、そのひと言を聞くなり、井上家の道具係に頼んで、さっそく十一面観世音を取り出してもらい、それを小脇に抱えて、芝居がかりの「だんまり」そのままに、「奪い取ったるこの一軸」というような見えの構えをしながら井上家の門を駆け出したという。
 これが、現在益田孝男爵が所蔵する十一面観世音幅である。絹本の画面の長さ五尺五寸五分(注・170センチ弱)、幅二尺九寸六分(注・90センチ弱)、仏体二尺六寸(注・80センチ弱)の、仏画としてもっとも優美なものである。気格が崇高で、筆致も霊妙、いったんこれと向き合ったら、たちまちにしてその威厳、霊感に打たれて、目前に観世音の出現を見るような感覚を生じるのである。

 頭上の正面の三面は寂静の相、左側の三面は威怒の相、右側の三面は利牙出現(注・鋭い牙を見せる)で、後方の一面は忿怒の容、最上段の一面は如来の相をなすという配置になっている。その表情の巧緻なことや、色彩の艶麗なさまから、絶世の作品というべきものである。
 この画幅はもともと大和国(注・奈良)の伝燈寺にあり、龍田新宮の本地仏だったが、のちに法起寺の所有するところとなり、さらに井上家の所蔵になったという。
 この十一面観世音と、かの孔雀明王の二仏画は、いずれも藤原盛時の名画で、後年、上野帝室博物館付属の表慶館で全国十大仏画展覧会があったとき、ともに出品され、ともに天下仏画の五指に数えられ好評を博した。
 このような名幅が、あのような値段でレコード破りとなったのを見ても、当時の状況がおのずと知られるのである。また偶然にも、このような名画の授受に私が関係したことも二度と得難い思い出であるから、ここにこれを記録しておく次第である。


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  百九  
道具界の大鰐
(上巻370
頁)

 日露戦争前後において道具買入の大手筋(注・高額購入者)になり、後年、日本屈指の大コレクターになった二大豪傑がいた。赤星弥之助氏と根津嘉一郎氏である。もっとも赤星氏は明治二十四、五(18912))年ごろから道具収集に着手し、根津氏が台頭してきた明治三十五、六(19023)ごろにはすでに大家になり道具界の大鰐魚とさえ言われていたほどなので、まず赤星氏から書き始めよう。
 赤星氏は明治二十四、五年ごろから道具買収に取り掛かった。世間一般では道具購買力がひじょうに弱い頃のことだったので、前記のように大鰐の異名を取るにいたった。氏がいかにしてその軍資金を得たかというと、日清戦争の前に氏は軍艦の大砲に関するある種の専売特許を得て、これをイギリスのアームストロング社に売り込み、日本から同社に注文する大砲から一門ごとに若干の専売料を徴収した。これで当時の大砲成金となったのである。
 大正中期には船成金、鉄成金、株成金といった人が続出して成金もあまり珍しくなかったが、明治二十年代においては大砲成金が唯一の成金であった。しかも道具の値段が安く、名品があちこちにごろごろ転がっていたから、氏のコレクションがすぐに旧大家を追い越すことになったのははじめからわかりきった勢いだった。

 赤星氏は薩摩人で、一見するだけでは粗野で豪快な感じで道具などに趣味を持っているとは思われないような人だったが、同国出身で当時かなりの大茶人だった伊集院兼常翁などの勧誘もあったらしく、なんといっても資力が潤沢だったので、ただ大口をあけて待っていれば名器は自然に流れ込んできたので、手を濡らさずにたらふく呑み込むことができたのである。道具買入の最高の好機をつかんだ幸運児だったといえるだろう。
 氏の嗜好は、いわゆる八宗兼学(注・分野を問わず多彩)で、仏画でも、古画でも、古筆でも、茶器でもほとんどなんでもこいだった。後年になり、氏は私たちに「おれの家には名物茶入が二十八あるよ」と、こともなげに語られたこともある。
 氏は麻布鳥居坂の井上侯爵邸を買い取り、自分で大徳寺孤蓬庵の山雲床(注・さんぬんじょう。四畳半台目の茶室)の写しを作り、おりおりに茶会を催した。そこで豊富な宝庫の名器を手あたり次第に飾り立てるので、当時の東京では赤星の茶会のように立派な道具が揃っているところはなかったのである。


青磁香炉の裁判(上巻378頁)

 赤星氏は背はあまり高くなかったが色黒で頑丈な体格の持ち主で、こと道具談になると、いつも相手を下に見るような、すこし憎らしいところ(原文「憎っぷりの態度」)があったので、当時、土物の鑑定においては東都紳士中のピカ一を自任していた日本郵船会社副社長の加藤正義氏と、ときどき意見が衝突することがあった。
 明治三十六(1903)年に大阪平瀬家の蔵器入札があった直後に、赤星、加藤のほかに朝吹英二、山澄力蔵が私の一番町の寸松庵に集まった。茶事も終わり広間で雑談をしているとき、加藤氏が赤星氏に向かって君はこのまえの大阪平瀬の入札で、飛青磁袴腰香炉を落札したそうだが、君、あれは二度窯であることを知っているかと遠慮もなく言ったところ、赤星氏は鼻の先でこれをあしらい君などに青磁のことがわかるものか、あれが二度窯であったなら、おれは君ら目前で真っ二つに打破ってお目にかけようと言った。すると朝吹氏が横鎗を入れ、これはおもしろくなってきた、しからばここに控え居る山澄を審判官として、さっそく法廷を開こうではないかと言い出した。赤星も無論承諾し、四、五日後、山澄が審判官、朝吹が立会人として赤星邸に乗り込んだ。この二度窯というのは、色が悪いとか、あるいは釉切れがあるとかいう場合に、再び窯にいれてこれを補修することで、今回の香炉もこの方法で不備な点を補ったのだというのが加藤氏の主張なのであった。

 さてこの場合、非常に難しい立場に置かれたのが山澄力蔵だった。松王丸の菅秀才の首実検(注・菅原伝授手習鑑の一場面)のように、金札か、鉄札か(注・閻魔様の裁きで、善人には金札を、悪人には鉄札を渡される)、ためつすがめつこれをねめつけた。そばにいた朝吹氏は春藤玄蕃、赤星氏は武部源蔵といった様相で、一座の緊張は極点に達した。
 ややあって山澄は、この香炉は二度窯と思われる点もないことはないが、それはこの香炉の出来上がった際に行われたもので、日本に来てから二度窯にはいったものとは思われない、どちらの言い分にも、それぞれ道理があるので、引き分けということでいいでしょうという審判を下した。
 これで命拾いした飛青磁香炉は、ようやくその身を全うすることができたが、後年行われた赤星家の蔵器入札の際に、原価とほぼ同額で誰かが落札していたので、赤星氏もさだめて地下で満足していることだろう。


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百十  道具買収の大手筋(上巻379頁)

 根津嘉一郎氏道具買入の陣頭に立ったのは、明治三十六(1903)年の大阪平瀬家の道具入札のころからである。それから三十年あまりこれを続けたのだからそのコレクションは豊富になった。氏は、たとえ天下第一とは言わないまでも、たしかに五指に数えられるほどの大家となりすました。
 維新後に道具の買入を行い天下屈指のコレクターになった人達は、その道具の半ばをたいてい二束三文時代に手に入れているから、道具の点数は同じでも購入額は割合少ない。しかし根津氏の出陣は割合おそく、道具がかなり値上がりした明治三十年代から買い始めているので、その購入費は意外に多い。根津氏が今日までに支出した金額は少なくとも一千万円を下ることはあるまいというのが、岡目八目の定評だった。この点においては、まさに天下の第一人者といえるであろう。
 氏の道具買入がうまくいったのは持って生まれた大物狙いの気性によるものだろうが、その初陣のときからの参謀長になり仲介役を果たした、大阪の道具商の春海藤次郎(注・はるみとうじろう)という人がいたことが非常に大きかったと思われる。いかなる道具戦陣に臨むときも雑兵原には目もくれず、必ず御大将の首を狙うというやり方によって根津氏のコレクションは豊富になったのである。明治三十九(1906)年の大阪平瀬家の入札で、一万六千五百円の八幡名物(注・やわためいぶつ、はちまんめいぶつ。松花堂昭乗の所持品)の「花の白河硯箱を獲得したというのもその功名の一例である。
 この硯箱は維新後の道具相場のレコード破りで、このときまでは、この半額にさえも達することはなかったのである。私の知るところでは、明治二十(1887)年ごろ、大善こと、伊丹善蔵が、河村家旧蔵の早苗の硯箱を六千円で森岡昌純男爵に売り込んだのが当時の最高値で、その次は、明治三十四(1901)年の加賀本多男爵家の道具入札で川部利吉が落札した遠州好みの蒔絵香棚に、七千円というのがあっただけである。

 それまで道具に一万円以上の高価なものはなかったのに、根津氏が処女的道具買収においてこの記録破りを作ったことは、氏がのちに大コレクターになる前兆となるものとしておおいに祝福すべき出来事だった。根津氏の道具談についてはほかにも数々のエピソードがあるので、また後段にて述べることとしたい。


生涯貧乏の道具商(上巻381頁)

 根津嘉一郎氏の道具買入の先陣においてつねに参謀長を勤め、根津氏をあのような大家にならしめた春海藤次郎は、先々代の戸田弥七露吟、先代の山中吉郎兵衛とともに、大阪道具界の三傑と言いはやされた人である。一風変わったところのある人物だったので、この際その一端を物語ることにしよう。
 春海藤次郎の父は、通称を藤作といった。文政六(1823)年に伏見町五丁目に道具店を開いたのが春海商店のはじまりである。藤次郎は幼いころから道具の鑑定に秀で、茶事についても各流を相伝した。癡漸、綽々子、祐叟、喝山、聞濤軒、一樹庵など、いくつもの号を持つ。機敏かつ胆略(注・大胆で計略に富む)で、伏見町に店を構えていた伊藤勝兵衛、通称を道勝といった当時大阪第一の道具屋があったが、藤次郎がまだ若いころに、そこの番頭と道で行き会ったのに気づかず挨拶をせずに通り過ぎたというので、道勝の機嫌を大きく損ねてしまったことがあった。彼はやむなく道勝のところへ無礼を詫びに出かけたにもかかわらず、番頭が傲然とした態度で応対したため彼の心中は憤慨にたえず、道勝の店先を睨みつけ、この店はいつか必ずおれのものにしてみせるぞ、と言い放って帰宅した。維新後にこの店が売りに出たとき彼はこれを買い取り、その長年の志を果たしたのだという。
 彼はこのような気概を持つ人物であったにもかかわらず金銭についてはつねに淡泊で、蓄財をするといった考えは一切なかった。しかし気に入った道具があるとどうしても買い取らなくてはおさまらないので、年中、金銭に行き詰まっていたので、豆のさやの形のなかに「生涯貧乏」の四文字を彫った実印を所持していた。
 根津氏もそのような面白い気性に惚れこんでこれは春海の親爺が買っておけと言ったから買っておいたというような品物は、ことごとくが名品なのであった。根津家の有名な大津馬なども、松花堂昭乗筆の米俵を背負った馬を曳く馬子の図に沢庵和尚が讃をした掛物で、当時の人がびっくりするような高値で買い入れたのであるが、それも春海の推薦によるものだったのである。(注・298「大津馬茶会と新曲」も参照のこと)
 根津氏はひごろ彼に感服し「藤次郎はいたって淡泊で実直で、しかも磊落なところのあるおじいさんであった。禅を学んだためか、なんとなく落ち着き払った態度があったが、道具の鑑定にかけては当時、関西にて彼に及ぶ者がなかった」と語られた。
 春海は、根津氏のような道具鑑賞家を養成した。また、ほかにも彼に導きによって茶人となった紳士は少なくなかった。明治中期において、彼が道具界に果たした功績を決して忘れてはならないであろう。


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