だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

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  九十一 

相撲の躍進(上巻310頁)


 日清戦争後の膨張の影響は社会の各方面に波及した。相撲もそのひとつで、ほとんど空前絶後といえる活況を示した。
 明治三十一(1898)年の一月場所だったと思う。両国の回向院で常陸山と梅ケ谷が同時に幕内に進み、今度の勝敗次第でどちらが先に大関になるかと注目され、相撲始まって以来の人気が湧き起こった。

 私はもちろん常陸山びいきだった。というのは、彼の父は市毛高成という水戸の士族で、通称河岸通りという那賀川に近いところに住み、その家は私の生家からも近かったからだ。
 高成の弟はのちの内藤高治で、あの武徳会の剣道師範である。私とは親しい友達で、そのころは季吉といったので、私は季公、季公と呼んでいたが、これがすなわち市毛谷右衛門こと、常陸山右衛門の叔父さんだった。そのうえ私の兄弟以上の親友だった渡邊治に彼と姻戚関係があったので、明治十七、八(18845)年ごろ常陸山が東京に出てきたときに、渡邊に力士になりたいと相談に来たことを私は渡邊から聞いてもいた。
 それから約十年のあいだに彼は都の人気を背負って立つ大力士になった。渡邊はすでに故人となったので彼は私を叔父のように思いときどき訪ねてきたりもしたので、最初に話した大勝負の前日に私は彼に会い、おおいに激励した。

 当日も彼の一世一代の出世相撲を見物しに出かけた。もともと豪胆な男なので気力はすでに敵を呑み込んでいた。そして梅ケ谷との取り組みが始まり堂々と彼を土俵の外に押し出した。
 そのときの場内の歓声はしばらくやむことがなかった。これほど観客が熱狂したことは、あとにもさきにも例を見ないのではなかろうか。そのころはまだ大鉄傘(注・鉄骨ドームの国技館)ができておらず小屋掛けの土俵だったが、勝ち力士めがけて羽織や帽子を投げ出すというならいがあったので、私もかぶっていた山高帽を土俵にむかって投げつけたものだ。しかし両力士の仕切りのあいだは胸が高鳴るのを止めることができず、勝負の間際には正視に耐えず目をつぶってしまった。
 こうして常陸山は、梅ケ谷よりひと足先に横綱になり、近代まれに見る名力士とうたわれることになった。そればかりか角界の経営面でも大手腕を発揮し、出羽の海部屋を今日のように繁栄させ、彼の生存中もずっと全盛を維持することに成功した。これは時代のなりゆきということもあったかもしれないが、やはり彼の努力に負うところも大きかっただろうと思う。
 当時、時事新報社長だった福澤捨次郎氏が常陸山びいきで、私と一緒にいつも彼を招いて会食を行った。あるとき彼の身長体重を公表するため、彼を交詢社に呼びくわしく調べたことなどもあった。彼の祖父は水府流水練の達人で、父は弓の名人、叔父は剣道師範だった。一族のいずれもが頑丈な体格の持ち主だったような家柄の出身なので、彼の存命中は角界が武士気質を帯び、なんとはなく気品も高かったように思う。
 いずれにせよ、私がこのような名力士と同郷なばかりでなく、きわめて親しい関係を保ったことはとても愉快な思い出である。 

   


常陸山談片(上巻312頁)


 前項で常陸山の話が出たので、彼が力士を引退後に、年寄として朝鮮満州巡業の監督で出かける前に私の四谷伝馬町の家を訪ねてきたときの雑談の断片をここに記す。
 「私も今度、年寄になりましたが、力士は盛りが短く、四十を越えたばかりで、はや隠居です。しかし私が年寄としてなすべき仕事はたくさんにあります。出羽の海部屋は、はじめ三人ばかりの弟子であったのが今は百人以上になって、一部屋で巡業相撲ができますから、私の言い分は相当に通用するつもりであります。ところで私が第一に改良したいと思うのは、例の物言いで、先日の相撲には、物言いが四時間以上も続いて、観客に迷惑をかけました。これも土俵の上の問題ばかりならまだよろしいが、平常の感情が絡み合うので、かような不体裁ができますのは、協会という大局より見渡して判断せぬからであります。私は今後、苦情が長引けば、取り直させることにいたす決心であります。また私は高砂家という相撲茶屋で、一年に、二、三千円の収入があるそのうえに、相撲年寄は平年寄が一場所十日間で十円、役員が三十五円くらいの給料で、本場所の配当は、ひとりあたり四百二十円でありますから、生活に困難なことはありません。ただいま年寄は八十八人ありまして、協会で身元金として五百円をおさめ、年寄の株を買うのが、約千五百円でありますから、年寄になるには二千円いる都合なのであります。私のこれからの仕事は、第一力士の養成であります。およそ、芸事はこども時から仕込むものでありますが、相撲ばかりは少し違い、まず早くて十八、九歳ころからで、色気が出て、負けては恥ずかしいという心持が起こらぬ間は、いかに仕込んでも本気になるものではありませんから、相撲の修業の年月は短い、それだけ一度に熱心に稽古をつけねばならぬわけなのであります。云々」


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九十二  寸松庵開き(上巻313頁)


 私が明治二十八(1895)年に大阪から東京に呼び戻され三井呉服店の理事になると、仕事柄それまでの書生生活から抜け出し、ひとかどの紳士になりすますことになった。書画、骨董、茶事、音楽、演劇、相撲、はたまた花柳界にも手を伸ばすことになり、その勉強や道楽でいくら時間があっても足りないほどだった。
 その中でも、まず茶道について話そう。三井家の主人はもともと本拠地が京都だったので、茶道の流派はたいてい表千家であった。その好みは番頭たちにも伝染し、益田孝、馬越恭平、木村正幹、上田安三郎はすでに相当の数寄者になっていた。旧番頭のなかにも齋藤専蔵、今井友五郎らの茶人がいたので、朱に交われば赤くなるのたとえのとおり、私もしばしばこの人たちから招かれることが重なると天性の嗜好油を注ぐことになり、彼らとの交際に忙殺されるようになっていった。
 これに先立ち、私は益田克徳氏の茶会を皮切りに(注・59「最初の茶室入り」を参照のこと)大阪にいるあいだにもしばしば茶室入りしていたが、明治二十八(1895)年に東京に移ってからは病みつきになっていったのである。
 明治三十一(1898)年に麹町一番町に新宅を建設したときには茶室、露地の設計を益田克徳氏に依頼した。そして、あの五か条の御誓文の起案者として有名で、当時新宿御苑の一部に住んでいた由利公正子爵から、その邸内にあった寸松庵という三畳台目の茶室を譲り受けることになった。

 この茶は寛永の昔、徳川三代の将軍の茶道師範だった佐久間将監真勝が京都紫野大徳寺境内に創建したものである。小堀遠州の孤蓬庵の向かいにあり、開基は江月和尚、初住は翠巌禅師で、異彩をはなつ唐門をはじめ建築上のさまざまな趣向が施されていたという。
 この寸松庵が明治十二(1879)年に維持困難になり、ついに取り壊されたとき、石山子爵がその茶室を引き受け東京の新宿御苑の一部の土地を借りて移築された。茶席のほかに、二畳敷、中二階式の袴付席があり、庵に付属していた播知釜(注・織田信長が佐久間信盛に与えた釜)や、与次郎(注・千利休の釜師、辻与次郎)の五徳なども一緒に、杉孫七郎子爵の仲立ちで私が譲り受けることになった。そのとき杉子爵から私に送られた狂歌は、


 お値段はたかはし【高橋にてもよしを義雄かへ 袴つけたる佐久間将監


というのであった。
 益田克徳氏は、この袴付席を、邸内の東南寄りの竹林中に建てることにし、露地の設計に非常に苦心された。私は大阪に滞在中に毎日曜日ごとに寺院を巡っているうちに伽藍石に対する愛好心を持つようになり(注・72「古社寺の巡礼」を参照のこと)、その熱が充満している時期だったので、奈良地方を中心に畿内各地にある千年以上の古寺院にあった蹲踞【つくばい】石、伽藍石、石塔などを物色し、法華寺の大伽藍石七個、海龍王寺の団扇形蹲踞石、法隆寺の煉石十三重塔などを買い取っていた。それを庭の要所要所に配置した。
 益田氏は、栃木塩原の景勝の縮図を庭園内に写して作庭を行った。わずか千坪の小さな庭ながら、奈良の古石を東京に持ってくるのは、この庭が初めてだったので、東京の好事家の目を驚かすことになった。井上侯爵が内田山邸に奈良石を搬入されたのは、このあと一、二年後のことだった。

 こうしてこの席は、旧名である寸松庵を襲名し、席開きの茶会のときには床の間に紀貫之筆の丹地鼈甲紋寸松庵色紙の、


 年ふれはよはひはおいぬしかはあれと 花をし見れは物おもひもなし 


というのを掛けた。
 この色紙は、古来、古筆家が紀貫之であると認定したもので、同筆として高野切、家集切【いえのしゅうぎれ】などがあるが、この色紙が最高傑作であるとされている。最初、和泉の堺の南宗寺にあったものを、初代の古筆了佐の鑑定を経て、烏丸光広卿が買い取った。そのときには三十六枚あったが、その後、佐久間将監が中から十二枚選び出し、色紙の歌に相応する図柄の古扇面を取り合わせ、色紙を上に、扇面を下に貼りまぜて一帖を作り、寸松庵の備品にしたのである。それを世間で寸松庵色紙と呼ぶようになったために、この名前がある。
 その扇面帖は、その後一枚一枚に分散し、現在の所在がわかっている二十九枚のうち扇面まで揃っているのは、わずか四、五枚に過ぎない。
 私は寸松庵開きのために是非ともこの色紙がほしいと思い、三十一(1898)年に一枚手に入れた。それは千円ほどであったが、それから二、三年後にまた手に入れたときには三千円にまで値上がりしていた。その後も大正五(1916)年には二万二千円というものがあり、同十四(1925)年ごろには五万三百円というレコード破りがあった。
 私は明治四十二(1909)年に、この色紙のうちの十七枚を模写して一帖を作り(注・模写したのは田中親美)、田中(注・光顕)宮内大臣の手を経て明治天皇皇后陛下に献上した。その後十数年たってから名古屋の森川勘一郎氏が模写させたときには多数の新発見があり、総数は二十九枚に達していた。
 私の寸松庵開きには、例の播知釜を用い、東久世通禧、松浦詮伯爵、三井(注・松籟か)、石黒(注・忠悳)、益田(注・孝)、赤星(注・弥之助)、安田(注・善次郎)、馬越(注・恭平)などの当時の長老茶人を招待したので、たちまちこの方面の評判になり、さっそく推薦されて和敬会の会員になった。いわゆる十六羅漢の一員になり、それから今日まで茶人仲間として在籍することになったのである。これが、私の三十七、八歳のころのできごとである。


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  九十三  

福澤先生の来店(上巻317頁)


 私が明治二十八(1895)年から改革に着手した三井呉服店は日清戦争後の膨張に乗じて大きく発展した。百貨店の卵ともいえる「陳列場」の試み(注・76「呉服小売法の変改」を参照のこと)が非常に好評だったために旧店舗の西側に増築した二階建ての陳列館は、明治三十(1897)年ごろの東京において、ほかでは見ることのできない壮観を呈していた。
 そのころある日、私は福澤先生を訪問し次のよう述べた。
 王政維新後の日本の政府の事業はおおむね西洋文明流に変わってきた。しかし民間の商業では、小売店での販売業の歩みは遅々として旧態依然だ。それを改めるために、今度三井呉服店で西洋流のデパートメント・ストアの販売法を試してみるつもりである。当分のあいだは呉服以外のものを陳列するにはいたらないと思が、呉服についていえば、和洋の一切を網羅するに至ったので一度ご来観願いたい。
 すると先生はいつものようにニコニコされ、それはさぞ面白かろう、さっそく拝見しましょうと言って、日付は忘れてしまったが、ある日の午後二時ごろから来店された。

 まず西館の客室にはいり私の説明を聞いてから、新旧の売り場、意匠部、そして仕入部と、店内をくまなくご覧になった。そして再び客室に戻られたとき、鳥尾小太子爵が偶然来店しており同じ部屋で対面することになった。このとき鳥尾子爵はヨーロッパ諸国を巡回しての帰国後まだ間もない時であったようで、洋行前に先生と話した何かの事柄についてオーストリアの某博士のところで質問してきたが、その意見はかくかくしかじかと、滔々と述べ始めた。先生は最初から気のなさそうな顔できいていたが、話があまり長引いて非常に迷惑に感じたらしく、そのような話をいたしましたか、一向に記憶していないのですが、などといかにも不熱心な様子なので、鳥尾子爵も手持無沙汰になってしまったという一幕だった。
 さて先生は私に対し感心と激励の言葉をくださった。慶應義塾を出た者は学者であるにもかかわらず俗務に就いて、旧来の商工業者に劣らぬ働きをしている。例えば、あの荘田平五郎を見てみよ、在塾中は、いつも折り目正しく袴をはき謹厳な学者風であったのに、三菱会社にはいってからは汽船の運行に関する激務に携わり、さっさっと事務処理をし立派な会社の重役になっているではないか、呉服店の営業というのは、汽船会社よりもなおいっそう煩雑な事務なのに、そこに学卒者(原文「学者」)が飛び込み、二百年間そこで事務に慣れた番頭の仕事を引き受けて、さっさっとその改革をしていくとは、なんと痛快なことだろう、と非常に喜ばれたのである。
 それで私の肩身もなにやら広くなったものだった。時事新報に在社中に論説の執筆をして、先生のお気に召したときにはずいぶん褒められたこともあったが、このときほどに褒め言葉をもらったことがなかったので、私はそれまでの生涯で覚えがないほどに嬉しかった。先生はその後も人に会えば私を例にひいて、学者にできないことは何もない、と説明されていた。それを私自身も聞いたし、また人からも伝え聞き、非常にありがたいと思ったことだった。



染織業の大進歩(上巻319頁)


 私が三井呉服店を改革し始めたのは、日清戦争の終わった明治二十八(1895)年八月からである。戦後の景気拡大の機運がめきめきと盛り上がり、呉服の商売にも発展の兆しが見られた。
 しかし何分にも染織業者が保守的なので進んで改革を試みることがない。新しいものを製造しても問屋や小売店の好みに合わなければ、みすみす損失を招くということで、どれもこれも同じような、まったくの紋切り型の製品しか作らないのである。
 私は染織製品の産地を巡回視察して製造業者に面会し、これからまさにやってくるであろう新しい時代の要求にこたえるために新しい品物を生産してくれるように勧告することを思い立った。

 そこでまず京都西陣の染織工場、丹後宮津、近江長浜のちりめん織元を視察した。東北地方では桐生、足利、伊勢崎の御召糸織銘仙(原文「銘選」)、仙台、米沢、越後の各地では袴地縮(注・ちぢみ)の製造場を歴訪した。そして、春秋二期の染織展覧会に優秀な作品を出品してもらうようにした。こうして彼らも大いに活気づき、製品の品目を一新した。
 私は国内だけでなく、シナ(原文「支那」)の機業地も視察し、もしも輸入するのに適当な品があればその織元と契約をかわそうと思い、三十一(1898)年の三月に、仕入方の山岡才次郎を伴いまず上海を訪れた。ここでは三井物産支店の仲買人である袁氏に世話してもらい、蘇州、杭州、その他付近の織物工場を巡回視察した。しかし康熙、乾隆時代以降、シナの工芸美術がいちじるしく堕落した結果、織物もまたまったく進歩していなかった。あるのは簡単な緞子織物だけで、採用するに足る品物はないという実況を見きわめたうえで帰国した。
 そのころは戦後の景気拡大が世間にみなぎり呉服関係の売れ行きも非常に増加した。時勢とはいいながら、私の染織業界の奨励活動により、この産業が画期的ともいえる進歩を見せた。これは、まことに予想を超える成績だったと言えるのである。


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  九十四  

新旧思想の過渡(上巻320頁)


 私の三井呉服店改革は単にこの一店だけのものにとどまらず、一般小売店に対しても新しい方式の模範を示そうとするものだった。従って、その方法にはかなり奇抜なものも含まれていた。
 これに先立ち私がこの仕事を引き受けたようと思ったとき、長年の習慣を改めることはなかなか簡単なことではあるまいと思った。改革が進むにつれ必ず苦情が百出するだろうから、あらかじめ承知しておいてもらいたいと三井の主人や重役たちに伝え、ついては三越などというあいまいな名義ではなく、はっきりと三井呉服店と改称し、三井が率先して小売業の改革を断行するという意気込みを示すべきであろうと主張した。こうして、即時に三井呉服店と名称を変更し、丸越の商標を、丸に井桁三に改め、はじめから思い切った改革に取り掛かった。
 この改革は、これまでなんの経験も持たないおおぜいの学生あがりが、年季奉公出身の番頭、小僧と一緒になって仕事を進めるのだから、当然のことながら相性がよいわけはなった。東京高等商業学校出身の滝沢吉三郎氏が主任になり帳簿の改正を行うことになったが、そのひとつには、さまざまなトリックを使って商品をごまかし、それで薄給の埋め合わせをするという習慣があったのをストップ(原文「杜絶」)させるということがあった。これまでは反物を背中に入れて店の外に出ると、その反物がさっそく金銭に変わるルートがあったのである。
 これでは古い店員の中から物質的、感情的な両面からの不平が出てくるのは当然だった。そこで私は店員全員に向かい、大幅な増給をするかわりに不正は絶対に許さないので承知しておいてほしいと宣言した。一方で給料を上げ、一方で不正を禁じたのである。
 しかし長年のうちにしみ込んだ悪習を簡単になくすことはできなかった。さまざまなトリックが使われるたびに、その尻尾を捕らえるということが続き、彼らはついには改革に反対し、さまざまな悪い宣伝を行うようになった。またかつて店員として勤務したことのある三井の老主人などに訴え、多数の者が一丸となって同盟ストライキ(原文「罷業」)を決行するに及んだ。
 ここにおいて私はきっぱりとその関係者を免職し、新規に採用していた学卒者に一時期事務をとらせることにした。しかし定規の持ち方も知らないような新参者が、複雑な顧客の注文に応対することの困難は並大抵ではなく、いわば言語道断だった。

 私はこのとき、この問題が非常にデリケートなもので画一的に処分を断行するのでは解決できないと判断し、遺憾ではあったが滝沢氏を三井銀行に転勤させ、かわりに日比翁助氏を連れてきて局面打開に当たらせることにした。ストライキをやった番頭たちにも復職を許し、いわゆる妥協解決をはかったのである。これは非常に姑息な手段であったかもしれない。しかし、もともとが人気商売である呉服店で長い混乱状態が続くことは顧客に対して申し訳が立たないことだと思い、なまぬるいやり方でケリをつけしまったのである。
 それでも店舗改革の方針については一歩も引かず、のちの百貨店の基礎を築くことができたという点で不幸中の幸いであったというべきだろう。



実業奉公の覚悟(上巻322頁)


 私は明治三十一(1898)年から三井鉱山の理事に任命された。当時の本業は三井呉服店の理事であったが、今回さらになじみの薄い鉱山会社の理事を兼任することになったことには理由があった。
 当時、三井の整理に成功してほとんど全局面を支配するかのような勢いがあった中上川氏が、戦後の膨張の反動で三井営業店での利益が減少し銀行の金融が逼迫したことを受けて、突然、貸金の回収を命じた。すると中上川の勢力を牽制する動きが暗黙のうちに起きてきたのである。たとえば、大蔵省の役人だった早川千吉郎が三井元方に採用されたのを手始めに、官吏の天下りが続々と増員されるという気配が見えてきた。
 私が鉱山理事に任命されたというのは、中上川氏がこうした動きに警戒し、気心の知れた人物を要所に配置することで天下り組の侵入者を防ごうとしたためだろうと思われる。
 私としては、三井呉服店の整理が終わったら当然三井銀行に復帰することになると思っており、またそれを希望していた。しかし私の実業奉公に対する覚悟は、三井のような大家の使用人になった以上、ただ主人の命ずるところで働き、その仕事が自分に適しているかどうかを問うべきではない、というものだった。鉱山理事になれば、もっぱらその業務にあたり、その職分を尽くせばよいのだと思い二つ返事で応じることにした。
 三井呉服店の仕事はおおかた支配人の日比翁助に委任し、私は鉱山専務の団琢磨氏のち男爵を補佐することになり、明治四十二(1909)年まで鉱山事務に当たることになった。その間、三池築港事業が進行中だったのでしばしば九州に出張することになった。(注・日比翁助の三井呉服店改革については122を参照のこと。三池築港については123を参照のこと)
 明治四十二(1909)年に三井内部の組織改革があり、王子製紙会社の社長職を打診されたときにも二つ返事で承諾したのは前述したとおりの私の覚悟によるものである。職務はただ主人の命じるままに自分は最善を尽くすのみ、適職かどうかを自分で判断してはいけないという考えを実行したまでである。


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 九十五  
尾崎紅葉の述懐
(上巻324
頁)

 私が三井呉服店の改革を始めて約三年のうちに、各部署の施設が西洋の百貨店にやや近づいてきた。まだもちろん百貨を扱うには至っていなかったが準備はようやく整ってきた。
そこで今度は営業宣伝の方面に力を入れることになり、明治三十一(1898)年末に「花衣」という冊子を発行することになった。
 はじめて発行する冊子なので内容を豊富にしたいと思い、私自身も「模様の説」という一篇を執筆した。また大槻如電翁作の「江戸の風俗衣服のうつりかはり」という、百二十ページにわたる長編を掲載した。

 さらに尾崎紅葉氏に依頼して「むそう裏」という短編小説を執筆してもらった。この小説は、紅葉とその弟子の白峰(注・中山白峰)という人との合作で、上中下の三篇に分かれ、紳士、貴女、芸者など各種の人物の衣服模様や風俗を描写するというのが主題だった。
 その後も紅葉は私の依頼に応じて一、二回小説を寄稿した。またあるときは、巻頭を飾るめに自筆で次のような一句を題したこともあった。

    この巻のはじめに物書けとありけるに、唯凉しからば題意にもたがはざらんとて
     青すだれちよと恋草の透模様         紅葉山人

 

 紅葉は生粋の江戸っ子だった。一種の奇人で、幇間の真似をしたり、緋縮緬の羽織を着て回向院の相撲場をうろついたり、そうかと思うと提物(注・さげもの。根付、印籠など)の象牙彫りに非常な天才を見せたりした。

 彼は尾崎谷斎坊のせがれとして生まれ、親父の天才と江戸っ子気質を受け継ぎおもしろい気風を持った人だったから、来訪するたびに長時間おしゃべりをしたものだ。
 あるとき彼は私に、文士の生活の困難な事情を訴えたことがある。日中は家の中がザワザワしているので、夜更けに人の寝静まったころに起き出して執筆することにしているその不摂生の結果、とうとう胃腸病にかかってしまい、消化不良のため、ご覧のように顔色もまったくすぐれないのである
そのころ紅葉は、あの金色夜叉の執筆に没頭しておられたころのようで、なるほど目の縁が黒ずみ病が悪化しているようすだった。
 さらに言葉を継ぎ、
僕などはそれでもまだ上等の部類であるが、弟子などは、出版社から前借りをし、その金額が三百円にもなると、もやは彼らに首根っこを捕まえられたも同然で、一生うだつのあがらない境遇に陥ってしまう次第である、日本でも文士の報酬がもう少し向上して、力作を一篇執筆すれば一年くらいは遊んでいられるようにならなければ、われわれの境遇は哀れなものだと述懐された。これには、いかにも同情にたえないものがあった。


岩下清周の晴着(上巻326頁)

 私は少年時代に田舎の呉服店に丁稚奉公をしていたことがあるので、衣についてはすこしばかりの経験がないこともなかったが、いよいよ三井呉服店の理事になり営業全般を指揮する立場になったときにいちばん困ったのは、やはり衣のことだったのである。
 私が呉服店の改革を始めてから一、二年たったころだった。ある日、岩下清周氏が来店し、「君は非常に呉服店を改革したそうだから、僕は今日、君に向かってお祝いのために、衣服一組を注文しよう。金はどれほどかかってもよろしい。模様や品柄も一切君の思う通りでいいから、さっそくこしらえてもらいたい。」ということであった。このような大任を負うことにはとても閉口したが、ここは商売柄、二つ返事で引き受けることにした。
 そのころの着物は、三枚重ねが流行っていた。そこで、桐生の最高級の御召を三つ重ねにし、袴には最上の茶宇(注・茶宇じま。袴地にする薄地の絹織物)に、甲斐絹の裏をつけ、羽織には最上の長浜縮緬の黒紋付に、緞子裏をつけるという、費用おかまいなしの上等づくめ、文句なく当世随一の出来のものをこしらえて鼻高々で岩下家に届けた。
 ところが数日後に、ある茶屋で岩下氏に会ったところ、氏は三枚重ねのうちの上衣一枚だけしか着ていない。不審に思い詰問してみると氏はおおいに不満を述べた。「君がせっかく作ってくれたものだが、目方が重くって、全部あれを着ていては、肩が張って身動きもできなくて、堪えきれなくなって一枚脱ぎ、二枚脱ぎ、この通り、一枚になってしまったのだ」と言われてしまった。
 これには私も困り果てた。ただ無闇に上等上等とばかり考えて、衣服の重量に注意を払わなかったのは、新米の呉服屋の失敗だったと兜を脱いで降参するしかなかった。学卒あがりが呉服屋の番頭に早変わりして、大改革をしようとして、ときにはこういう頓珍漢を演じることになり、われながら苦笑を禁じ得なかった。この失敗は私の大きな秘密で、今日まで誰にももらしたことがなかったが、岩下氏もすでに他界され私も七十を超えたので、もう時効であろうと思い今回はじめて白状する次第である。



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  九十六  
先師の捐館(注・えんかん。死去)
(上巻327
頁)

 福澤先生は明治三十一(1898)年九月に脳溢血を起こし一時昏睡状態に陥った。この知らせをきいたとき私もちょうど東京にいたので、さっそく三田邸に駆けつけたが、東京中の名医という名医がかわるがわる来診していた。その中にはドイツの名医ベルツ博士もいた。

 ベルツ博士は帰り際に、私や中上川彦次郎氏が集まっていた座敷に立ち寄ったので、中上川氏が回復の見込みがあるかどうか尋ねたところ彼は手を左右に振って、生命は一時取りとめるかもしれないが、His career is over.【彼の功業は、はや終わった】(原文「ヒズ・キヤ-リヤ-・イズ・オーバー」)と宣告して、悄然と立ち去った。
 先生の病勢はすこしずつ収まり、二、三か月後には片言交じりのおしゃべりをするようになられた。しかし古いことはかえって記憶しているのにひきかえ新しいことは忘れてしまい、特に人名が思い出せないようになっていた。
 ある日、山本権兵衛伯爵に会いたいと言い出されたのだが、その山本という姓が出てこず、ほかの事情から推察して、ようやく同伯爵のことだとわかったというようなこともあった。
 翌年の夏ごろから気力がかなり回復し、記憶もまた復活し、自身で筆をとった大字に「病後之福翁」という印を押されたこともあった。あの「修身要領」というのも病後の産物で、この宣言によって福澤先生のいわゆる「独立自尊宗」が大成を見たといってもよいのである。

 そしてついに、足かけ四年の三十四(1901)年一月に病気が再発し、二月三日に長逝された。
 小幡先生をはじめ塾員総出で準備を整え、同八日に福澤邸を出て麻布の善福寺で葬儀を行い、府下大崎の墓地に葬った。
 それはいかにも厳粛な葬儀であった。福澤邸から善福寺までの随行者は全員徒歩ということになったので、馬車で福澤邸に乗りつけた人はその様子に驚き、すぐに下車して葬列に加わるというありさまだった。先生の葬儀でなければ、このような例を見ることはないだろうと思われるようなもので、会葬者一同は感激したものである。
 私は明治十四(1881)年から先生の庇護を受け、翌年に時事新報の記者になってからは先生の社説の口述筆記をしたり、自説の執筆をしたりするときに先生の検閲を受けるために、ほとんど毎日机のそばにいて文章の書き方をいちいち教わった。幾千もの門弟があるなかで、私は渡邊治、石河幹明の両氏とともに、例を見ない幸運にあずかったのである。
 その後はそれほど近くにはいなかったが、交詢社その他で拝顔する機会は少なくなく、なんとなく厳父のように思っていた。社会に出てさまざまな働きをするにあたっても、先生がどう思われるだろうということを念頭に置き気持ちのうえの励みにしていた。先生が亡くなられたことで、その目印(原文「目当」)を失ってしまったようで、善いことも悪いことも報告する場所がなくなってしまったような気がした。
 顧みて思うに、私の一生のうちで、このような稀代の大人傑のそばで特別の教訓を受ける機会があったことは二度と得難い幸運であったと思う。いまなお、ありがたく感謝している次第である。


稀代の偉人(上巻330頁)

 私は福澤先生と同時代に生を受けただけでなく、浅からぬ師弟関係を結び長年にわたりそばに仕えた。そのような教えを受けたことは、ほんとうに一生の幸運であった。昔から禅宗では、かんたんには世に出てこない名僧のことを五百年間出」などというが、福澤先生は、五百年間出か、一千年間出か、とにかく稀代の偉人であったことだけは確かで、わたしが云々する必要もないことである

 日本という国が始まって以来多くの偉人はいたが、同時代に生まれて親しいつきあいをしたら、さぞかし面白いにちがいないと思うほどの人物はそれほど多くはない。

私は個人的には、学問もあり、趣味もある、話のおもしろい人に会ってみたいと思うので、その筆頭にあげたいのは、唐の仏教文明を日本に輸入した弘法大師である。そしてその次が、鎌倉幕府の創立を計画した大江広元である。また、同じく僧侶で、禅宗を大衆化させた一休和尚にも会ってみたい。そしてさらに近いところでは、なんといっても、太閤秀吉の天空海闊な(注・度量が大きく、こだわりのない)大きな肝っ玉にぶつかってみたら面白いだろうなあと思う。徳川時代では、炒り豆を噛みながら英雄を罵ったという荻生徂徠に会ってみたいと思う。
 そして維新以後の人物で誰に会ってみたいかというと、それは福澤先生ということになるのではなかろうか。ところがなんの幸いか、私はこの千年間出の大先生にお会いし、親しくそばに仕える機会を得たのである。考えてみれば、これこそこの世に生まれた甲斐があったというものだ。
 しかしながら、先生の一代の業績について語ろうとするとほとんど際限がない。それに、門下生の身分では、あまり立ち入って評論するのも得策ではない。よって次項においては、先生にじかに接しその性向をよく知っておられる諸先輩のご意見を摘録することにさせていただきたい。


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九十七  大隈の福澤評(上巻331頁)

 福澤先生は稀代の偉人で稀有の時代に生まれ合わせ、しかもよく自分を知り、その時代に適応しようとして最善の働きを尽くされた。このことは新しい日本文明にとり大いなる効果をもたらした。
 先生の功績には慶應義塾、交詢社、時事新報を創立したことをもちろん数える必要があるが、わが国に西洋文明を輸入した大恩人としての業績を長く礼讃しなくてはならないだろう。
 弘法大師が唐の仏教文明を輸入したのと同様に、先生は日本開国した最初の時期に、まったく流儀の違う西洋の文明、思想、文化、社会のしくみを研究し、ほどよくかみ砕き、わが国民にもわかりやすいように「西洋事情」や「学問のすゝめ」などに著述し、当時の文明、思想の問屋となって新しい為政者にも模範を示し方針を与えた。その努力はながく記憶されなければならない。
 先生の没後、私は先輩諸氏より先生の偉業について直接の談話を聴き取った。順番は前後するが、まずは大正はじめに私が早稲田に大隈侯爵を訪ねたときの話を摘録することにしよう。(注・句点がないところを切るなどして、わかりやすい表現になおした)

「福澤先生は親切で、かつ注意深い人で、吾輩などの乱暴なやり口を危険に思って、たびたび忠告してくださったものだった。しかし明治十四年の国会開設論については、いつもと違って非常な勇気をもって賛成された。
 木戸が明治十年に死んで、大久保がその翌年に世を去って、あとは吾輩がその後を引き受けたようなありさまになってしまった。さて政治上の改革をやらなくてはならないので、吾輩は福澤先生と協議し、伊藤、井上の二人を加えて、まずは世論の力で、当時政府の中でがんばっていた頑固な連中の矛先を挫き、いよいよ国会を開設するという相談になった。これには有栖川宮(注・熾仁親王か?)殿下、岩倉、三条公爵もみな賛成し、実行に移すことになった。

 しかし明治十四(1881)年の夏に東北に御巡幸があって、吾輩も北海道まで随行(原文「供奉」)し、帰り道に福島に到着したときに、東京からの連絡を受けた。それによると、吾輩が、福澤と謀反を企てたということで、薩摩の連中が怒り出し、伊藤、井上は腰を抜かして手を引いてしまい、岩倉もへこたれてしまったというのである。それで吾輩がひとりで責任を背負うことになってしまったが、政府の連中は、なにか吾輩の落ち度を見つけて罪に陥れようとして、三井銀行に行って帳簿を調べたり、岩崎の帳簿を調べたりした。しかし、吾輩には一銭一厘の関係もなく、かえって当時の政府の役人の貸借が明からさまになってしまい、おかげで吾輩は、完全に潔白を証明され、ただ職をやめるだけにとどまったのである。 

 福澤先生は、父君もまた漢学者で、若いころには漢学で頭脳を作り上げた人であったから、世間が言うような唯物主義者ではない。むしろ唯心論者として、立派に世に立った人であるといえる。しかしその後十分に蘭学を勉強し、万延元(1860)年には木村摂津守らとアメリカへ、そして文久元(1861)年にはヨーロッパへも行った。このときは、1884年のフランス大革命のとき(注・原文のままの年を記す1848年の二月革命のことであろう)で、ミルの自由論、ベンサムの功利主義といったものが流行しており、全土に革命思想がいきわたっていた。このような自由な議論が盛んにおこなわれていたところに先生は飛び込み、現状を目撃したのだから、日本の漢学者の議論が実にばからしいものだと思い、根本的に改革しなければならないと気づいたのであろう。
 いつだったか先生は吾輩に向かって、俺は議論によって、なにからなにまで古い物を一掃しつくしてみせる。その後の建設をするのは政治家の仕事で、それはあなたたちにやってもらうしかないので、とにかく建設は誰かに頼むとして、俺は、破壊専門で行く、と言われたことがあった。

 それが、あの楠公権助論などになって、世間の人の考えを刺激し、ずいぶんと大きな敵を作ったりもした。しかしそれに動じることがなかったのも、福澤先生ならではだった。しかしながら、功利主義一点張りではなく、漢学の素養があって忠孝仁義道徳といったことにも十分に考えがある人だったので、世の中が落ち着くにしたがい、もともとの穏健な色合いの思想に立ち戻られたのである。」


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九十八  福澤先生礼讃(上巻334頁)

 私は明治四十五(1912)年に実業界を引退し、閑雲野鶴の(注・束縛のない悠々自適な)身となった。そのときに、福澤先生の伝記を書いてみようかと思い、その後約一年間にわたり、先生と生前に交際のあった大隈重信、山本権兵衛、後藤新平、北里柴三郎、森村市左衛門、足立寛、中村道太、犬養毅、尾崎行雄、鎌田栄吉ら数十人を訪問し、先生に関する談話の聞書きを行った。これはかなりの大部な記録となったので、後年、福澤諭吉伝の著者である石河幹明氏にも見せて参考にしてもらった。今回は、その談話記録の中から、全体として福澤先生を礼讃した二、三の例をピックアップ(原文「摘録」)してみる。(注・読みやすいように、一部の表現をなおした)

犬養毅氏談
 「福澤先生はもともと自由主義の人で、一切の差別をしない。爵位や俸禄、階級、勲位を持たない。あるときなどは、席次の上下ができないように、客室に床の間を作らなかったこともある。
 慶應義塾において一目置かれ重んじられるのは、学問、知識、人格であり、役人の肩書などは、尊敬されるというよりはむしろ卑しまれるくらいだった。

 しかし明治十(1877)年の西南戦争により日本の封建的なやり方が打破されると先生は考えを改め、交詢社を作るなどして、さかんに実業論を唱えるようになった。それを見て世間には拝金宗だと言う者もあった。
 ところが晩年には、ふたたび穏健な考えに戻り、あの「修身要領」を作られたりした。これは、釈迦が最初に出山(注・釈迦が修行を終え雪山をおりたこと)して華厳を説き、その後世間に触れて小乗を説き、最後には法華、涅槃を説いたのと同様である。釈迦における法華と涅槃が、福澤先生にとっての独立自尊主義にあたる。だから吾輩は、三田山の学風が福澤先生の功績を伝え、ながくその特色を失わないようにと望んでいる。」
 

尾崎行雄氏談
 「吾輩は明治七(1874)年に慶應義塾に入門し、あるとき教授のひとりが癪にさわったので翌年にとうとう退学してしまい、福澤先生に対しても、おうおうにして反抗的な態度を取った。
 しかし先生は私を見捨てることはなく、陰にまわって家族の心配までしてくださった。そういう先生の気質を考えてみると、人の感謝するようなことは表面にあらわさず、いわゆる陰徳を施すのを常としたのである。
 あの榎本武揚を助けたり、朝鮮の金玉均を助けたり(注・一例として20「金玉均庇護」を参照のこと)して、なにも知らないような顔をしておられるのがそれである。
 先生が亡くなられてから考えてみると、明治の社会に、先生ほど度量がありすべてを兼ね備えていた人はいなかったように思う。 世の中ではとかく西郷隆盛を大人物を言うが、それは一面的なことで、先生のように広くなにごとにも行き届いた人はほかに例がないと思う。仮に今、明治の大人物を有形的、無形的に粉々に砕いて、その長所短所をまぜこぜにして団子を作ってみたら、福澤先生の団子が、誰のよりもはるかに大きなものになると思う。」


鎌田栄吉氏談
 「維新前後の政治家に『西洋事情』がどれほど大きな効果を及ぼしたかということを考えてみると、すぐに福澤先生の偉大さがわかる。
 勝安房(注・かつあわ。勝海舟のこと)が、維新前に西洋から帰ってきて幕府の老中からその事情をきかれたときの答えが、西洋の事情はちょっと見聞きしたってわかるものではない、まず私の見たところで、ただひとつ日本と西洋で違っているのは、西洋では利口な人が上に立って政治を執っているということであります、というものだったので、馬鹿なことを言うなと、老中からひどく叱られたという奇談がある。もちろんこれは、勝が老中を風刺したものであろうが、しかし実際、西洋の事情に通じて、これを書物に書き表すことができたのは当時、福澤先生以外にはいなかったのである。
 維新前後に西洋に行きいろいろな研究をしてきた人はいるが、それはだいたいがひとつの局面のことである。たとえは中村敬宇が書いたものはと言えば、自助論のような一部のものでしかない。銀行、会社、郵便、学校、政治、軍事、暦、その他全般のことを勉強して大要を教え広めるためには非凡な知識が必要であり、その点が他の誰にも真似できない福澤先生の偉大さなのだと思う。
 また福澤先生は、最も自分の力が発揮できる場所において一生働いたということが偉い。先生は決して政治家ではない。人柄が君子なので、嘘をついたり策略を用いたりすることが絶対にできない。学者として思い切った説を吐き、いつも世の中よりも一歩進んだところから天下に警鐘を鳴らし、ひとびとを覚醒させるのが先生の得意とするところである。
 先生は晩年に自伝を書き、病後には『修身要領』をまとめ、最後まで完全に学者としての生涯を全うされた。それは、いわゆる適材適所ということで、非常に幸運な人であったと思う。」


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九十九  中上川の半面(上巻238頁)

 中上川彦次郎氏はなんといっても明治中期の実業界の偉才だった。私は不思議なめぐりあわせで明治十四(1881)年十一月に初めて氏と面会して以来、時事新報で六年間、三井入りしてからも十年間、机を並べて事務をにしたので、彼に関する思い出は非常に多い。その中で、今回は風雅的な方面のことを記すことにする。
 私が明治十四年十一月に三田四国町の中上川家を訪問したときは、酒井良明氏に駄々をこねて、どうしても貰ってくれとせがみにせがんだ江川氏(注・江川常之助)の娘である新婦(注・勝)と結婚したばかりで、夫婦がお雛様のように並んでいるところは、そばで見ていてうらやましいほどだった。
 その当時の中上川氏は色白の長身で、後年のように肥満していなかったから、当世風ハイカラの美丈夫だった。体格の割に声が小さく、ふだんの話し声も喃々(注・小声)として女性のようだった。

 社会問題を恋愛関係の例を使ってたくみに解説する傾向があり、あるとき、私とふたりで埼玉の久喜町の演説会に呼ばれたとき、来会者の多くが小学校の教員だったのに、いつものように恋愛的な説明をふりまわした。傍聴者は煙に巻かれたようになって、不思議な演説家がいるものだと唖然とした顔になっていたのがおかしく、また気の毒だった。
 氏はまた、ときどき狂歌を詠んだ。このときもまた、往々にして例の恋愛的な傾向が出てきた。一例をあげると、

   名古屋の旅宿にて川島某の情妓小六に与ふ
     川といふ字を横ちやうに寝かせ 二つ並べて六とよむ

   米子と云う歌妓を愛する山田某に与ふ
     野に山に選り食う物は多けれど 山田の米にます味ぞなき

などがある。また、三井銀行員の高野栄次郎が鰻飯の重箱を三年間毎日食い続けたと自慢するのを聞いて、

     重箱を三年かじる歯の強さ さすが三井の白鼠なり

と詠んだ。これは氏の狂歌の中で、第一の傑作だろう。
 氏はまた、ときどき詩を作ることもあって、明治十四(1881)年十月、官を辞めたときの作に次のような一首があった。

   面壁知可九年 此身況又髪猶玄 城南夜々無人到 火蒲団学座禅

これには、達磨の「面壁九年」に学んで、十年後の国会開設を待とうという含みがあり、氏の作中ではいちばんおもしろいものである。
 中上川氏はユーモアとするにはすこし毒気の多い警句を吐き人を驚かす傾向があったが、ある場合には相手を必要以上に刺激して、はからずも敵を作ってしまうこともあった。

 あるとき蜂須賀茂韶侯爵から招かれ、同家自慢の刀剣小道具類がところせましと並べられているのを見て、「さすがにお家柄だけに、たくさん集められましたね」と言ったのは、当家が山賊の親玉、蜂須賀小六の子孫だからだという風刺なので、侯爵は少しも意に介されなかったが、同行した者たちは内心手に汗を握ったそうだ。
 また三井家において宮内大臣の土方久元伯爵を招待したときのこと、伯爵の話がたまたま家系図のことになり、三井家は近江源氏佐々木の支流だということだが、吾輩の先祖は戦国時代に遠(注・現在の静岡)土方村の城主だったということだ、ところで中上川君の系図はときかれたとき、中上川はまじめな顔をして、私の先祖はなんでも相撲取りで、中上川といったそうでありますと言い放った。せっかくの系図談も、このひとことで腰を折られてしまったとのことである。
 また中上川氏が永田町に新宅を建てられたとき、岡本貞烋氏が、ある一軸を持参し、「私はおもしろいものだと思うが、一応、朝吹に鑑定させてからお買いになったらどうですか」と言ったところ、中上川は、「骨董品を買うのは妾を置くのと同じで、他人に問うべきものではない、この掛物は、私が自分で見て、自分でよいと思うので、さっそく買うことにしましょう」と答えた。
 またある人が中上川氏に対し、「あなたは非常に聡明で、八面玲瓏(注・どこから見ても無傷)で、ほとんど取りつく島がないが、水清ければ魚棲まずで、あまりに智恵づくめだと人が寄り付かないのではないか」と忠告したところ、いかにももっともだとして、例の恋愛談だけは自分の暗黒面であると言ったそうだ。人は氏を訪問して、話の種が尽きることがあれば、この方面に水を向けて取りつく島を作るのを常としていた。
 氏は酒豪で、また例の恋愛談の実行者でもあったから、日本人には稀に見る体格でありながら腎臓病にかかり、働き盛りの四十八歳で早逝した。これはまことに惜しむべきことではあったが、普通の人間が七十、八十までのあいだにやるだろうという仕事を短い年月のあいだにやり遂げたのであるから、自ら振り返っても別に遺憾でもなかったのではないかと思う。


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 百
三井家の家憲
(上巻341
頁)

 井上馨侯爵は三井主人側から財政整理を依頼されており、明治二十四(1891)年、私が三井入りしたころから一家整理の根本方針として同族が厳守するべき家憲を制定することを計画していた。しかし、ボアソナード、ロエスレルなどにフランスやドイツにおいてすでに実行されている家憲を調べてもらったが、同族内の一部で破たんが起きた場合に、それを他の同族に及ぼさないですむような方法をどうしても見つけることができなかった。考えあぐねてそうこうしているうちに日清戦争が勃発し井上侯爵は朝鮮公使になり朝鮮に赴任したので、それから数年間は三井の財政問題について世話を焼く機会がなかった。また三井のほうでも、中上川氏の整理が着々と成果を上げてきたので、そのまま放置されていた。
 しかし侯爵が東京在住となった明治三十(1897)年ごろから、三井も戦後の景気拡大からの反動に襲われ、営業上にさまざまは支障が起きてきた。それにともない、各方面からいろいろな建言が集まってきたので、井上侯爵もとうとう腰を上げ、家憲の制定に着手することになった。
 前回のときは私が侯爵の伝令役となって各方面に奔走したが、今回は都築馨六男爵が補佐役になり穂積陳重男爵に家憲の草案を委託することになった。
 穂積男爵は、三井の元祖である宗壽居士高利の遺言をその長男である宗竺居士高平がまとめた「宗竺遺書(注・101を参照のこと)」を基本とすることにし、それに時代に即した法律の思想を加味し、明治三十三(1900)年中に草案作りを終えた。
 三十四年にはいり、いよいよ家憲制定の披露式があり、三井同族の代不磨の(注・長く価値を持つ)家憲が制定されたのである。
 営業店が繁盛はもちろん大切なことだが、同族各家の基礎がしっかりしていなければ、のちのち混乱が生じるかもしれなかったのが、ここに厳粛な家憲が定められ同族が従う基本が示されたわけである。これは当家にとり永遠の幸慶であった。これを祝福するだけでなく、井上侯爵の尽力が大きかったことを忘れてはならないであろう。

 

穂積男の苦心(上巻343頁)

 私は三井家憲の制定後その起草者であった穂積男爵を訪問し、その成立までの苦心談を聴き取った。そのときの談話の概要をここに掲げる。
 「自分が家憲を起草することになった発端は、明治二十五(1893)年ごろのことで、ある日、井上侯爵から招かれ、三井は日本商人の旧家で、同族が非常に多いので、時勢の変化に応じて、この同族の結合を緊密にし、将来の一家の悲運を防ぐ方法を講じなければならない、しかし同家は他の家と違い、第一に総領家というものがあり、次に本家、連家というものがあり、その家格、収入に差があるので、情勢を考慮して、うまい具合にこれをまとめていくには非常に複雑な工夫が必要になる。聞くところでは、君は渋沢家、亀井家の家憲を作ったそうだから、三井のものもご依頼したいと思うと言われたので、いったんは辞退してみたが、侯爵が例の熱心さで何度も懇請されるので、とうとう引き受けることになった。
 さて、家憲の制定であるが、まず、主人を主とする同族会を組織した。次に、従来は元方と称していた番頭と主人の連合の重役会を作った。さらに、これを指導する顧問役を置いた。
 つまり、主人と番頭と顧問の三つの力を集めて、家憲の本体をなすようにしたのである。しかし本来、家憲というものは同族内の契約であるから、これを破ろうとするものがあれば、いつでも破ることができるわけで、いかなる国の法律であっても、それを防止することはできないのである。
 そこで、こうしたことが起きた場合の制裁として、この契約を破った者には、破ったことで生じた損害を償わせるということにした。そうすることで、将来もしも家憲を破ろうとする者が出てきたときも、それによって生じる損失の負担をしなければならないことを考えることで、自然とその気持ちを慎むようになるわけである。これ以外には、なんら法律上の制裁はない。だいたいこのような趣旨で三井の家憲を制定した。
 井上侯爵も、死んだ家憲よりも生きた精神を重視し、各家の主人が心から同族に一致を図り、営業の分担をし、また子弟の教育を奨励して、主人自身にも財産管理を監督できるだけの能力を備えること、旧来の番頭専制体制を打破すること、主人みずからが業務を統括することを主眼にしたのである。
 主人の頭の中に不文の家憲を作り上げ、それを実地でも実現するという考えであった。井上侯爵のような、人望も地位もあり、しかも世話好きで自分の考えを貫徹するまでは熱心に、執拗に、何年かかっても飽きることなく事の当たることのできる精力家でなけれは、三井の家憲を作り上げることは、とうていできなかったであろうと思う。」


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