八十一 渡辺の鬼の腕(上巻275頁)
渡辺驥(注・わたなべき、わたなべすすむ)氏は信州松代の出身で、明治のはじめに検事総長になり大久保利通卿の信任を得て飛ぶ鳥を落とす勢いを示していた。先代の安田善次郎氏と懇意で金銭的にも余裕があったようで、明治十二、三(1879~80)年ごろの茶道具買入れの大物だった。茶道の宗徧流の大宗匠を気取り、骨ばったやせ形で精悍なようすが顔にも現れ、傲慢に人の上に立つというふうだった。
取り巻きのひとりだった先々代の古筆了仲などは「御前(注・ごぜん)が当代の豊太閤ならば、拙は表向き、利休でげしょう」と持ち上げ、どこの茶会でも無条件に正客になるという豪勢ぶりだった。
そういう渡辺に、いまに伝えられているふたつの逸話がある。
ひとつは、彼が明治十三(1880)年に、報知新聞社長の小西義敬氏の茶会に臨席したときのことだ。いつものように正客の座に着き、主人が、呉須赤絵四方入【よういり】椿という、ふたの四隅が内側に入り込んで、甲に椿の赤絵のある香合を取り出した。それを見た渡辺がすかさず、ぐっと反り身になって一同を見渡し、「諸君、これは呉須赤絵四方入【よもにゅう】椿という香合で、いたって稀なるものであるから、とくと見ておかるるがよろしい」と、ものしり顔に説明した。それを末座できいていた道具商の梅澤安蔵は吹き出したいのを我慢して、その場はことなく終わったが、そのあとたちまちうわさを流した。いつも憎らしいと思っている渡辺のことなので茶人どもはおおいに喜び、このときから渡辺のことを「よもにゅう先生」と呼んだそうだ。(注・「四方入」は、「よほういり」と呼ばれるようだ。通は、音をつづめて「よういり」と呼んだものか。https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_05/02087_001.html )
もう一つの話は、同じころに安田松翁【善次郎】の茶会に臨んだときのことだ。主人である翁が、当時の二百円で買いたてのほやほやだった染付張鼈甲牛の香合を一覧にいれた。すると渡辺は、主人とはとりわけ親しい間柄ということもあり、またいつものように悪態をつき、「ご主人、この香合は偽物だよ」と言い放った。それをきいた安田翁は静かに香合を取り戻し「さらばこの香合めが、ふたたび人を化かさぬよう、私が成敗いたします」と言うやいなや膝の下に敷き、粉々に打ち砕いてしまったそうだ。
渡辺は前述したとおり明治初期における新進茶人の巨頭で茶器の大口購入者だったので、しぜんと名器を見せに行く者も多かったのだろう。明治十九(1886)年ごろ、小堀宗中の家に伝わった、いわゆる「遠州蔵帳(注・えんしゅうくらちょう)」の二つの長持を買い取った。
そもそも小堀遠州の家は、五代目(注・じっさいには六代)の政方(注・まさみち)が伏見奉行の失敗(注・御用金を不正に着服)で、一時、闕所(注・けっしょ。領地財産を没収される刑)になっていた。(注・天明八(1788)年のこと)
それが、天保年間(注・じっさいには文政十一(1828)年)に、政方の甥の政優(注・まさやす)宗中の時代に幕府の旗本に召し出されてその時に伝家の名器も返還された。これがいわゆる遠州蔵帳品であった。
渡辺はこの二長持を四千円で譲り受けたのである。そのときの気焔といったら、先祖の渡辺の綱が、羅生門の鬼の腕を斬り落としたのと同じくらいのすごさであった。このときから宗徧流を遠州流に改め、茶器収蔵家として世間を下に見おろす勢いを見せたものだった。
さて明治二十九(1896)年、彼の臨終の間際になり、道具商の梅澤安蔵、池田江村が札元になり、星ヶ岡茶寮においてその蔵器の一部を売却することになった。その価格はまだ非常に安く、私の記憶するところでは次のような落札品が見られた。
一、清拙禅師筆平心二大字 金弐千円
一、牧谿筆青黄牛 金壱千参百円
一、古銅雲耳花入 金五百余円
一、雪舟筆竹に雀竪幅 金五百余円
一、土佐光信下絵蘆屋霰馬地紋釜 金三百五十円
これでも明治二十五(1892)年の河村家入札よりは三、四倍は値上がりしたようである。しかし大正中期に比較すると二十分の一にも満たない相場だった。(注・河村家入札については64に記事あり)
この渡辺家入札では、染付大壺に納めてあった有名な初音の香木があり、これが一悶着をおこした。その香木は、大壺と別々に入札するようにと付記してあったのだが、井上馨侯爵が壺と香木を一品とみなして入札してしまった。それで札元と議論になり、最後には井上対渡辺の交渉に持ち越されるという道具界始まって以来の騒動になった。この事件について、札元だった東京の道具商梅澤安蔵はこのように語っている。
「渡辺さんの道具売立は明治二十九年で、このなかに小堀遠州が秘蔵していた初音の香木がありました。この香木は藤四郎(注・瀬戸焼開祖)作の瀬戸水指の中に入れ、その香気の失せざるよう、さらにこれを染付の大壺に納めておきましたので、入札の際、染付大壺と香木入り水指を別々にし、香木に千六百円の止札(注・最低希望価格)を入れておいたところ、井上侯が染付大壺を七百円ばかりで落札し、香木もその中に含んでいるはずだと言い張るので、札元はその事由を弁明し、いかに井上侯のご請求でも、これに応ずるわけにはいかぬと跳び付くれば、侯は烈火のごとくに怒って、ここに大悶着が起こったのである。このとき益田孝さんが中に立って、調停を試みられたが、話が容易にまとまらず、大に閉口せられましたが、もともと井上侯の言い分が無理なので、ほどふるにしたがって、とうとう泣き寝入りとなり、染付大壺を札元方に引き取って、ようやくけりがつきましたが、このとき、かの清拙禅師の「平心」二大字幅を落札した益田さんは、私等にむかい、なにごとも「平心、平心」と言って笑われました云々」
この渡辺入札は香木事件で一段と有名になったが、明治中期における唯一の大入札でもあって、維新後のわが国の道具移動史のなかで特筆すべきものであろう。
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