だすだすだすノート

箒庵 高橋義雄『箒のあと』(昭和8年 秋豊園刊)の本文を、やや読みやすくした現代文で紹介しています。各ページへ移動するには、コメント欄下にある「目次」をご覧になるか、またはカテゴリ別アーカイブからおはいりください。 (2020年11月に人名索引を追加しました。)

カテゴリ:箒のあと > 箒のあと 81‐90

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八十一  渡辺の鬼の腕(上巻275頁)

 渡辺(注・わたなべき、わたなべすすむ)氏は信州松代の出身で、明治のはじめに検事総長になり大久保利通卿の信任を得て飛ぶ鳥を落とす勢いを示していた。先代の安田善次郎氏と懇意で金銭的にも余裕があったようで、明治十二、三(187980)年ごろの茶道具買入れだった。茶道の宗流の大宗匠を気取り、骨ばったやせ形で精悍なようすが顔にも現れ、傲慢に人の上に立つというふうだった。
 取り巻きのひとりだった先々代の古筆了仲などは「御前(注・ごぜん)が当代の豊太閤ならば、拙は表向き、利休でげしょう」と持ち上げ、どこの茶会でも無条件に正客になるという豪勢ぶりだった。

 そういう渡辺に、いまに伝えられているふたつの逸話がある。
 ひとつは、彼が明治十三(1880)年に報知新聞社長の小西義敬の茶会に臨席したときのことだ。いつものように正客の座に着き、主人が、呉須赤絵四方入よういり椿という、ふたの四隅が内側に入り込んで、甲に椿の赤絵のある香合を取り出した。それを見た渡辺がすかさず、ぐっと反り身になって一同を見渡し、「諸君、これは呉須赤絵四方入よもにゅう椿という香合で、いたって稀なるものであるから、とくと見ておかるるがよろしい」と、ものしり顔に説明した。それを末座できいていた道具商の梅澤安蔵は吹き出したいのを我慢して、その場はことなく終わったが、そのあとたちまちうわさを流した。いつも憎らしいと思っている渡辺のことなので茶人どもはおおいに喜び、このときから渡辺のことを「よもにゅう先生」と呼んだそうだ。(注・「四方入」は、「よほういり」と呼ばれるようだ。通は、音をつづめて「よういり」と呼んだものか。https://www.gotoh-museum.or.jp/collection/col_05/02087_001.html )

 もう一つの話は、同じころに安田松翁【善次郎】の茶会に臨んだときのことだ。主人である翁が、当時の二百円で買いたてのほやほやだった染付張鼈甲牛の香合を一覧にいれた。すると渡辺は、主人とはとりわけ親しい間柄ということもあり、またいつものように悪態をつき、「ご主人、この香合は偽物だよ」と言い放った。それをきいた安田翁は静かに香合を取り戻し「さらばこの香合めが、ふたたび人を化かさぬよう、私が成敗いたします」と言うやいなや膝の下に敷き、粉々に打ち砕いてしまったそうだ。

 渡辺は前述したとおり明治初期における新進茶人の巨頭で茶器の大口購入者だったので、しぜんと名器を見せに行く者も多かったのだろう。明治十九(1886)年ごろ、小堀宗中の家に伝わった、いわゆる「遠州蔵帳(注・えんしゅうくらちょう)」の二つの長持を買い取った。

 そもそも小堀遠州の家は、五代目(注・じっさいには六代)の政方(注・まさみち)が伏見奉行の失敗(注・御用金を不正に着服)で、一時、闕所(注・けっしょ。領地財産を没収される刑)になっていた。(注・天明八(1788)年のこと

 それが、天保年間(注・じっさいには文政十一(1828)年に、政方甥の政優(注・まさやす)宗中の時代に幕府の旗本に召し出されてその時に伝家の名器も返還された。これがいわゆる遠州蔵帳品であった。
 渡辺はこの二長持を四千円で譲り受けたのである。そのときの気焔といったら、先祖の渡辺の綱が、羅生門の鬼の腕を斬り落としたのと同じくらいのすごさであった。このときから宗流を遠州流に改め、茶器収蔵家として世間を下に見おろす勢いを見せたものだった。

 さて明治二十九(1896)年、彼の臨終の間際になり、道具商の梅澤安蔵、池田江村が札元になり、星ヶ岡茶寮においてその蔵器の一部を売却することになった。その価格はまだ非常に安く、私の記憶するところでは次のような落札品が見られた。

 一、清拙禅師筆平心二大字    金弐千円
 一、牧谿筆青黄牛        金壱千参百円

 一、古銅雲耳花入        金五百余円
 一、雪舟筆竹に雀竪幅      金五百余円
 一、土佐光信下絵蘆屋霰馬地紋釜 金三百五十円 

これでも明治二十五(1892)年の河村家入札よりは三、四倍は値上がりしたようである。しかし大正中期に比較すると二十分の一にも満たない相場だった。(注・河村家入札については64に記事あり)
 

 この渡辺家入札で、染付大壺に納めてあった有名な初音の香木があり、これが一悶着をおこした。その香木は、大壺と別々に入札するようにと付記してあったのだが、井上馨侯爵が壺と香木を一品とみなして入札してしまった。それで札元と議論になり、最後には井上対渡辺の交渉に持ち越されるという道具界始まって以来の騒動になった。この事件について、札元だった東京の道具商梅澤安蔵はこのように語っている。
 「渡辺さんの道具売立は明治二十九年で、このなかに小堀遠州が秘蔵していた初音の香木がありました。この香木は藤四郎(注・瀬戸焼開祖)作の瀬戸水指の中に入れ、その香気の失せざるよう、さらにこれを染付の大に納めておきましたので、入札の際、染付大壺と香木入り水指を別々にし、香木に千六百円の止札(注・最低希望価格)を入れておいたところ、井上侯が染付大壺を七百円ばかりで落札し、香木もその中に含んでいるはずだと言い張るので、札元はその事由を弁明し、いかに井上侯のご請求でも、これに応ずるわけにはいかぬと跳び付くれば、侯は烈火のごとくに怒って、ここに大悶着が起こったのである。このとき益田孝さんが中に立って、調停を試みられたが、話が容易にまとまらず、大に閉口せられましたが、もともと井上侯の言い分が無理なので、ほどふるにしたがって、とうとう泣き寝入りとなり、染付大を札元方に引き取って、ようやくけりがつきましたが、このとき、かの清拙禅師の平心二大字幅を落札した益田さんは、私等にむかい、なにごとも「平心、平心」と言って笑われました云々」
 この渡入札は香木事件で一段と有名になったが、明治中期における唯一の大入札でもあって、維新後のわが国の道具移動史のなかで特筆すべきものであろう。


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 八十二 
生兵法の側杖
(上巻279
頁)

 明治二十八、九(18956)年ごろから私は、仕事上のことがらで朝吹柴庵英二とたびたび会う機会がふえた。用件以外でも、私と柴庵は、たがいに道具道楽の駆け出しの意気盛んなで、寄ると触わるとしまいには道具の話でしめくくるのが常だった。
 柴庵はもともと頭もよく世渡りもうまい人だったので、明治十(1877)年前後に紳商のあいだで花がるた(注・花札)がはやった時には、いちはやく練習を積みたちまちその道の達人となった今度、三井財閥の一員になってみると主人も番頭もみな美術好きである。ならばさっそくこの道を研究しなくてなるまいという気持ちも強かったのかもしれないが、とにかく熱心に道具漁りを始めた。
 そういうところが私と一致し、日曜日になると本町の田澤静雲という道具屋に押しかけたりした。そこで最初に目をつけたのは応挙筆の松鶴図六枚折屏風一双だった。当時ひとりで買うにはあまりにも荷が重すぎるのでふたりで共有にしたのだが、これが偽物とわかったことがあった。だがこれですっかりへこたれるかと思いきや、ふたりともより一層熱心になっていったのである。

 明治三十(1897)年ごろには、ふたりとももうひとかどの鑑定家になったつもりでいた。
 さて、その二、三年前から三井鉱山会社の理事になり赤坂丹後町に住んでいた団琢磨氏
のち男爵が、遅れ馳せながら美術に関心を持ったらしい。われわれから見れば最近田舎から出てきた後進で、美術品の鑑識にかけてはわれわれはふたりともはるかに大先輩であると信じていた。

 団氏が、われわれに多少はお世辞のつもりだったのか、何かおもしろい絵画があったら僕にも知らせてほしいと言われたので、ちょうどそのころ大阪のある道具商が持ってきた宋の李迪(注・りてき)筆だったと記憶している】の山水中鷺図の二幅対が最近ではあまり見ない珍品だということでふたりの鑑定が一致したので、これを団氏に勧めることにした。
 団氏は両先輩の保証付きということで一も二もなくこれを買うことにした。ところがそれから二、三か月して大阪から続々と怪しげな宋、元の絵画が到来し、あちこちでわれわれの目に触れることになった。よくよく考えてみれば、このまえ団氏に勧めた品もやはりこの手のものなのである。柴庵と私はこっそりと顔を見合わせ非常に恐縮したものの、先輩大鑑定家としての手前、団氏に対してかくかくしかじかと打ち明けるわけにもいかないのであった。
 ふたりはしっかり口をつぐみ、団氏もこのことについては一言も語らず、最近までは三人以外にこのこと知る者はなかったのであるが、柴庵翁もすでに亡くなり、団男爵も不慮の兇変にたおれ、今は私ひとりだけが残ったから、このほど団男爵に関する座談会の席ではじめてこの話を披露したところだ狸庵(注・団琢磨)、柴庵(注・朝吹英二)の両老は、はたして地下で、どんな思いをされているだろうか。
 


道具の虎の巻
(上巻281
頁)

 朝吹柴庵翁が美術鑑定において、のちのちまでの語り草になるような数々の逸話を残したことはけっして偶然ではないのである。前項に記した宋画の偽物をあっせんしてしまったことも一層の研究意欲をかきたてたのであろうか、そのころから、私をはじめとする親しい友人にも一切無言で、両国橋近くの薬研堀の一角に住んでいた小川元蔵という道具商のところに出かけて研究に励むようになった。

 まるで張良が黄石公から兵書の六韜三略を伝授されたように柴庵は元蔵から道具鑑定の虎の巻を伝授されたのである。かたや橋、かたや両国橋の違いはあったが、その熱心さはなんら変わるところがなかった。

 この道具商の元蔵は姓を小川といい、通称は道元として知られ江戸っ子気性の強い人物だった。維新前には金座の誉田源左衛門のひいきを受けたが、その理由が普通ではない。浅草の道具市で、祥瑞沓鉢しょんずいくつはちの糶売(注・ちょうばい。競り売り)があったとき、売り手が五十両と言ったのを遠くから見ていた道元が、よしきたと競り落とし、やがてこれを手にすると、「なんのこんな偽物が…」と言うやいなや、大地にたたきつけて壊してしまった。それをひそかに見ていた誉田が気に入り、道元はそれから同家の出入りの道具商になったという経歴を持つのである。明治の初めには岩崎弥之助男爵の愛顧も受け、男爵は彼の鑑定を受けてから茶器を買ったので所蔵品には名品が多いと言われている。
 柴庵はそのような老道具商を見込んだのである。暇さえあれば同店に入りびたり、道元の講釈をきいた。そのうえ、柴庵は友人のあいだでも有名なほど記憶力がいいので、道元からきいた講釈を後日ほうぼうの茶会で実地に応用し、しばしば友人を驚かせたものだ。

 そのいちばん有名なのが、益田鈍翁【孝男爵の茶会でのことだった。その茶会で丹波焼の茶碗を出されたとき、柴庵は一見して、これは有名鬼ヶ城にちがいない、と鑑定した。鈍翁は非常に驚き、君はいかにしてそのようなことを知っているのかと尋ねると、これは前に道元に聴いたのであるが、丹波焼には、鬼ヶ城という頑丈な造りの名物茶碗が一点あるだけだということだったので、きっとそれに違いないと鑑定したのだといい、非常な名誉を博したのである。
 このような類の名誉談はいまでも友人のあいだに語り伝えられているから、またのちほどに追い追い披露させてもらうことにしよう。


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八十三  江戸気分の名残(上巻283頁)

 吉原謳歌の名残りが維新後に薄れてゆき明治中期についに失われたのと時を同じくして、江戸気分もいつとはなく運命を共にして消散してしまった。
 吉原謳歌の末尾に線香花火のような光彩を添えたのが川田小一郎男爵であるとすれば、江戸気分の名残りに江戸っ子然とした景気を示したのが、そのころ平岡大尽と言いはやされた吟舟翁だった。川田氏については前にすでに記した(注・
66「吉原謳歌の名残」を参照のこと)ので、今度は平岡大尽について物語ることにしよう。

 平岡吟舟翁は、名は熈(注・ひろし)、江児庵と称し、号は吟舟。先祖代々の幕府御家人で生粋の江戸気分を持って生まれた人物である。聞くところによると平岡の祖先は河内国の出で、同国に平岡大明神という神社があるのでそれを姓にしたという。初代は庄左衛門といい、徳川家康の江戸入国のお供をしてきたということで、代々御庭番を勤めた。大崎に賜った地所は今の池田侯爵の邸内で、そのあたりは字平岡といっていたそうだ。幕府の制度で御庭番というのは十五俵十人扶持、帯刀御免の御家人で、身分は決して高くないが将軍の命によって諸国の藩情を偵察する役目が与えられていて、将軍がお庭を散歩するとき、じきじきにお目にかかり秘密情報を差し上げることができるという一種の特権を持っていたという。

 この庄左衛門から十二代目が、平岡熈一、すなわち翁の実父であり、翁はその一字を取って、その名とした。熈一翁は後年、田安中納言(注・亀之助、のちの徳川家達)の家老となり、慶応四(1868)年三月に中納言(注・当時満4歳)が主任となって江戸城を西郷隆盛に引き渡すときに、一切の用務を処理したのである。そのほか、上野に立てこもった彰義隊に時勢を説いて退散を勧めたり、上野の大混乱の際に輪王寺宮に対してさまざまなお世話を申し上げたりした。そのために維新後は同宮より、尾張徳川家が献上した大金灯籠一対を賜ったというようなこともあった。
 さて吟舟翁は、明治四(1871)年十六歳(注・満14歳)のときに、当時アメリカ公使として赴任した森有礼のち子爵氏と同船して渡米した(注・じっさいには森に半年遅れて出発)。サンフランシスコに到着したときに、浮きドックの上を汽車が走っているのを見て、まだ少年だった脳天に大きなショックを受け、後年、鉄道機関車の車両製造に従事することになったという。渡米後はボストンに行き、小学校から高等学校に進んだ。のワシントン大統領の誕生日に、校長から何かワシントンを礼讃する演説をするようにと命じられたとき、僕は日本人だからワシントンを褒めることは真っ平ごめんだと断ったので校長から大目玉を食らい、ここぞとさっそく学校を飛び出して、キンクリ―という機関車製造所にはいることになった。

 そこで一職工として三年間勉強しているあいだに、ホワイト・マウンテンという高山に汽車を走らせるという計画が起こった。そのときには翁機関車を工夫して、ニューハンプシャー機関車製造会社社長からほめられたそうだ。

 少年時代から英語が達者だったので、明治四(1871)年の末に岩倉大使の一行が渡米されたときには英語通弁方に雇われ木戸孝允侯爵の通訳を勤めて、教育制度を取り調べたこともあった。大久保利通、伊藤博文らの大家たちと知り合いになったのもこのときのことであったという。
 また翁が明治十(1877)年に帰国したときには、日本に初めてベースボールを輸入した。そのときの工部卿だった伊藤公爵の推薦で工部省三等出仕に任命されると、同省の官舎で周囲の人にベースボールを教えはじめ、同僚たちにユニフォームを着せて、はじめてひとつのチームを作った。そのときはまだヘルメットやマスク、プロテクター、グラブを使わず、素面、素手でやっていたので、競技中にあやまって右の小指を骨折したことがあり、それがいまでも当時の記念だそうだ。
 その後、日本でベースボールのチームができたということで、その写真をアメリカに送った。すると先方から、今度はじめてベースボール用のマスクやグラブ類ができたといって、わざわざ何組かを送ってくれたそうで、それを慶應義塾その他の学校に寄付したそうだ。このように、日本に最初にベースボールを輸入したのは平岡翁なのである。
 平岡翁は本業が汽車の車両製造で、明治二十(1887)年、砲兵工廠の一部を借り受け車両製造を始めた。ほどなく日清戦争が勃発した(注・1894年)ので、さらに軍器製造にも従事した。木工、鉄工、鍛工を指揮して、職工たちには一切の外出を禁止し、かたく軍器の秘密を保ち製作に極力従事したので、陸軍省から特にその功労を賞されたという。

 すでに本所に車両会社工場を始めていて、最初は組合事業だったが、その後独立の平岡工場を経営し、大尽と呼ばれるまでに茶屋遊びにふけりながら工場への指図も抜け目なく行き届いているので、あるとき渋沢栄一子爵が、平岡は夜中にでも工場に出向いて仕事の指図をするのであろうか、と言っておられた。
 当時の工場は非常に利益が上がり、翁は伝統的な音曲の世界で天才的才能を発揮し、歌詞を作り、節付けをし、振付けまでするという三面六臂の働きをした。その江戸っ子気質と、金離れのよさと、芸術趣味が豊かなことがあいまって、平岡大尽の名が喧伝されることになったのである。 
 


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八十四   助六の古式(上巻286頁)

 平岡吟舟翁が平岡大尽と呼ばれるようになったのは、江戸気分がたっぷりで、文化文政のころ(注・文化180418、文政181831の江戸で大通ぶりを見せた浅草札差旦那のように、みずから作詩、作曲、振付までやり、新柳二橋(注・新橋と柳橋の花柳界)の茶屋という茶屋で何年にもわたり遊興し、自作の新曲を謡わせ舞わせるということがあったからでもあろう。しかし大尽の名に一番ふさわしかったのが次の一事である。
 九代目市川十郎が歌舞伎座で助六を演じたときのことである。文化年間に、抱一上人(注・酒井抱一)がみずから興行を行ったと言い伝えられている古式にならい、助六地方(注・じかた)河東節連中を繰り出させたのである。抱一上人は姫路酒井家の次男ながら、大名家の窮屈さを嫌い、浄土真宗の僧籍にはいり、上手に琳派の絵を描くかたわら河東節も好んでいた。

 文化年間に助六の興行があったとき、自画の牡丹の花を表紙にした助六の歌本を発行し、谷文晁といっしょに、真ん中が助六、左右に富士山と筑波山という三幅対を寄せ合い描きした。その幅はいまでも好事家の手元に残り当時の豪勢ぶりを伝えている。
 明治二十九(1896)年の助六には、当時の古式をそのままに採用するというので、その手始めが、十郎から平岡の旦那に河東節御連中の依頼状を送る、というものだった。連中会場として歌舞伎座の茶屋、三洲家を使い、その二階に陣取っている吟舟翁のもとに、助六芝居の頭取である八がその依頼状を持参する。するとそこで吟舟翁が「願是通聞届候(注・願いの通り聞き届けそうろう)」という指令を発するという、まことに豪勢な威光を示したのである。
 こうして平岡の選抜した、いわゆる河東節連中には、三味線方の河東節家元、山彦秀次郎をタテとして、そのほかに婦人が二名、地語りは芳村伊十郎、都魚中、清元弥生太夫、清元魚見太夫など。それに素人連中として、のろま人形頭取の三富、浜町の小常盤主人の依田らが加わった。

 指物師の浪花家も三洲家に陣取り、興行中には連日、抹茶のお点前を引き受けることになった。
 また総ざらいは築地の瓢家で行った。連中それぞれの語り場所をすべて吟舟翁が指示し、いよいよ万端の準備が整った。
 この連中一同には、魚葉牡丹(注・杏葉牡丹、ぎょようぼたんのことか。杏葉牡丹は、助六で用いる成田屋の替え紋)の紋付に、金色とお納戸色の市松模様の帯を配り、楽屋入りのときには高さ四寸(注・約12センチ)の草履をはかせた。
 ここまで古式そのままを採用したのは、このときの狂言が最後だったと思われる。これまた江戸気分の最後の名残りだった。
 このときの歌舞伎座の座主は田村成義で、二番目狂言では、五代目菊五郎が斗々屋の茶碗(注・三題噺魚屋茶碗)を出した。福地桜痴居士がその摺り物の讃を書いたのに対して、吟舟翁は十郎に次のような新作の端唄を贈った。

 春霞たつや名に負ふ江戸桜、だてな姿に鉢巻を、すぎし頃より待ちわびし、甲斐ありておちこちに、噂もよしやよし原に、思ひそめたる仲の町、箱提灯も色めきて、ぬしのゑがほを三升うれしさ


富永の毒舌(上巻288頁)

 富永冬樹氏は旧幕府旗本の家系で、この人もまた生粋の江戸っ子だった。明治四(1871)年に平岡吟舟と同船でアメリカに渡り帰国後は長年裁判官を勤めていた。一族には、東京高等商業学校の初代校長で銅像もできている令弟の矢野次郎(注・二郎とも)氏があり、令妹は、内助の功の多かった益田孝男爵夫人(注・益田栄子)である。みな江戸前の才子肌で、口から生まれたような人間だったが、なかでも富永氏は皮肉な批評の名人で、すこし毒を含んでいるのだがあとあとまで話のたねになる名言が多かった。
 明治三十(1897)年私が麹町区一番町に住んでいたとき、隣家の米倉一平氏を見舞っての帰り道に私の家に寄られたことがあった。そのときも、まじめな顔をして私に、今、米倉を見舞ってきたが、からだじゅうに毒気が回っているので、蛭を掛けてもその蛭がみなポロポロと落ちてしまう、ところでその蛭を顕微鏡で覗いてみたら、みな鼻をつまんでいたそうだ、と言って、からからと笑われた。
 また、大江卓、加藤正義、近藤廉平、益田克徳などという連中が、自宅で一品持ち寄りの会を順番にやっていたことがあったが、あるとき木挽町の梅浦精一氏の会に出席した富永氏は声をひそめて私たちに向かい、「梅浦の家の玄関には、なにやら仏像が一体飾ってあるが、その印の結び方がどうも変だ。右の手は親指と人差し指で丸を作り、左のほうは手のひらを前に差し出しているので、なんとやら、丸をくれろと言っているようだが、君たちはどう思うね」と言い終わるや、微苦笑を洩らされた。ほかにも、富永氏には数々の名言があるが、この二例は富永流の毒舌として、もっとも有名なものであった。
 


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八十五   明治中期の芸人(上)(上巻290頁)

 市川十郎についてはすでに少しばかり語った(注・38・下村と団十郎75・九代目団十郎などを参照のこと)が、彼の全盛時代には演劇、講談、落語家などに稀代の名人が輩出し、じつに一時の盛観だった。これらの芸人は、もちろん一朝一夕に生まれたのではない。徳川時代からの伝統を受けて師弟間に継承してきたものが、このときにいたって発現したわけで、徳川時代の名残とでもいうべきものなのだ。世の中が世知辛くなり芸術の領域にパンの問題がつきまとうようになると、このような芸人を見ることは容易ではなくなるだろう。
 芸人といっても大勢いるので、私は、明治二十四、五(18912)年ごろからの十数年間の、自分でも交流があって、その芸の力を知っている芸人だけについて多少の所感を書き残しておこうと思う。
 まず俳優であるが、十郎を除くと五代目菊五郎を第一に挙げなければならない。私は彼とは友人の家で二、三回同席したことがあるだけで、ふだんのことをあまり知らない。しかし彼は十郎と違って如才なく、人の持ち物をほめて喜ばせたりする巧みさを持っていた。また座談がうまく得意の芸談を披露するのが好きだった。

 芸にかけては苦心惨憺して、徹底的に自分の満足するところまで到達するのが彼の性癖だった。彼ほど芸に凝った俳優は近代にはほとんどいなかったのではないか。彼が十郎と肩を並べたのもそのためだったろう。
 当時、世間では菊左といって、市川左団次も併せてこう称した。ただ、いかに左団次が、押し出しもよろし、調子もよろしのさっぱりした芸風で、丸橋忠弥や高野長英を演じるとき、こせこせせずにまことに清々しい気分があったからといっても、、菊には一歩譲らざるを得なかったのは事実だ。しかしまあ、三人三様の特色があるということで、こう並び称したのであろう。
 私などは、とかく故人を褒めるようでいけないが、この三人の俳優の全盛時代を見ているため、幸か不幸か、その後の歌舞伎役者を見ても眼中に残っている、菊、左と比べてしまいどうしても彼らに匹敵するような会心の至芸を見ることができない。思うに、彼らは、徳川時代から伝わってきた歌舞伎役者の最終幕を飾ったのだと言い切ってよかろう。
 明治中期の芸人のなかでわたしがいちばん傾倒したのは、人情話では三遊亭円朝、講談では桃川如燕と松林柏円、常磐津では林中、清元ではお葉であった。

 円朝は若いころ、赤い襦袢を来て寄席の壇上で踊りを踊ったこともあったそうだが、中年以降は自ら人情話を組み立て、自己の工夫によって老若貴賤の男女の声色を使い分ける巧みな技で、きく人の喜怒哀楽をそそり大きな感動を呼んだ。彼のやった塩原多助、牡丹灯籠、荻江露友などの人情話は芝居にまでなり、菊左が演じたことさえあった。
 彼はおりおりに地方を旅行して、こまかに田舎の情景を観察した。そして、茶店の老婆の言動やその店に並べてあった駄菓子の種類までを、ことごとく出し物の中に織り込むので、実際の情景を見ているように切々と人を感動させたのである。
 ある時五代目菊五郎が塩原多助を演じたとき、その芝居と円朝の話のどちらが面白いかと私に質問した人がいた。私は、むろん話のほうが面白いと答えた。なぜかといえば、芝居では、多助だけが菊五郎で、そのほかはみなそれ以下の役者だが、円朝の話では登場人物の全員を円朝ひとりでやるのだから。
 井上馨侯爵も円朝びいきでよく彼を呼びよせられたので私も幾度となく同席したが、彼は茶人でもあり、所持品の中には後年に入札市場で高価に売れたものもあった。そんなことからもただの平凡な芸人ではなかったということがわかる。
 円朝はスラリとしたやせ形の男だったが、桃川如燕は引退した力士のようにデクデクと太った大入道だった。得意の水戸黄門仁政録などを演じるときは野太い声で堂々と語り続け、万座を圧倒する力量があった。

 明治二十六(1893)年ごろ、大阪の外山修造氏が、中之島に建てた新宅披露に彼をわざわざ東京から呼び寄せたことがあった。そのころが如燕の全盛時代で、彼は大阪行きの条件として身のまわりの世話をする若い女性をつけるように言ったそうだ。そのいかに気力旺盛であったかがうかがえる。
 松林伯円は色が黒く、頬骨が高く、しかも頑丈な骨格で、よく泥棒の話題を演じたので「泥棒伯円」とあだ名されていた。容貌もまた、人殺しでもしそうな険悪さだった。だみ声で、最初は聞き苦しく思えるのだが、だんだん演じ進むにしたがって顔色と声があいまって、いかにもものすごい感じを起こさせた。これは彼独特の芸の力だった。


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八十六   明治中期の芸人(下)(上巻293頁)

  明治中期の東都(注・東京)音曲会の第一人者といわれたのは常磐津の林中である。彼は常磐津の家元と喧嘩してしばらく盛岡に引っ込んでいたが、明治の中期にふたたび東京に舞い戻り、その豊富な声量と巧妙な節回しで、たしかに群を抜いていた。
 ある年に彼が歌舞伎座で「関の扉」を語ったことがある。そのとき私は、関兵衛をつとめた十郎に向かって林中の地語りは、君の所作と科白に相応して寸分の隙もなく、ほとんど一人の人がやっているようで、実に驚くべき技能ではないかと称賛したことがあった。すると団十郎は「仰せのとおり、よく語りますよ、まず現今、語り物では、西に越路太夫のちの摂津大掾】(注・竹本摂津大掾)、東に林中でありましょう」と答えた。
 林中は生粋の江戸芸人肌の持ち主で、大酒をたしなみ、座敷に呼ばれて芸が上手にできたときには相棒を引き連れて一晩喜んで飲み明かし、反対に芸のできが悪ければ、やけ酒を飲んで胸のうっぷんを晴らす、というふうで、いわゆる宵越しの銭は持たぬという江戸っ子であった。年がら年じゅう貧乏でも平気だった。

 当時は林中が最高給だった。それでも、お座敷が一席につき三十円くらいのものだったので、配下の太夫たちにも貧乏人が多かった。芝居に出演していた一座の人たちが、あるとき林中に給金を五円あげてもらいたいと言い出したことがあった。林中はこれをきいて、よしよし、望み通り上げてやるが、そのかわり五円分よく語ってくれるか、と言われたので、その人たちは二の句が継げなかったとのことだ。
 清元では、四代目の延寿太夫が美声ではあったが名人という域には達していないように思われた。しかしその妻、お葉は、清元を流行させた太兵衛と称する第二世延寿太夫の娘で、女流ながら実に稀代の名人だった。
 お葉は、先代の清元梅吉を相手に清元を上品に唄い出した。女流のため、劇場で語ることはないかわりにお座敷で演じた。金屏風をうしろに立てまわし、きわめて上品に語り始めたのはこのお葉が最初であり、それを継承したのが五代延寿太夫の妻、お若だった。
 お葉は喉がよかっただけでなく、その語り口にもおおいに研究を重ねた。たとえば、山姥の山巡りの段の「桃は気ままに山吹も」という甲高く派手なところでは、湯を飲むようにサラサラと語る。そして、かえって人があまり注意を向けないような「つくろう花のあだ桜」というあたりでは、なんとも言えない妙味をたたえて玄人たちを感服させるのであった。お若は、実は私の師匠で、そのことについては後述するつもり(注・139「清元師匠お若」を参照のこと)なのでここでは省略する。

 河東節の家元であった山彦秀次郎(注・山彦秀翁、11代十寸見河東ますみかとう)も私の師匠であったので、ひとこと言っておこう。彼は一種の奇人だった。ものごとに無頓着であることこの上なく、しかも近眼であわて者(原文「粗忽者」)でもあったから数多くの滑稽談を残している。せっかちな男だったので、新橋あたりを稽古で回るときも、弟子の前に座って帽子も取らずに尻端折り(注・しりはしょり)のままで稽古を済ませると、フイと立って次の家に行ってしまうという不精さだった。

 私の四谷伝馬町の家に稽古に来たある時のことだ。帰りがけに汁粉を出したところ、その膳に箸がなく、女中が箸を持ってくるまで待ちきれず、かたわらの火鉢にあった火箸を取って、これを食い終わるや、そうそうに立ち去ってしまったこともあった。
 彼の才能は唄よりもむしろ三味線のほうにあった。掛け声が遠くまで力強く響き渡っていたことがいまでも人の記憶に残っている。
 さて関西方面では竹本摂津大掾、すなわちもとの越路太夫が、先代津太夫(注・三代目竹本津太夫)とともに名人の域に達していた。津太夫は非常にききとりにくい声で、最初はほとんどきこえないのだが、しばらく我慢してきいているうちにだんだん妙味を感じるという芸風だった。これに対し摂津大掾は、古今に例を見ない美声の持ち主で、詞からいつのまにか節に移っていくときの、その息が長かった。節回しも自由自在で、それに魅了されない者はなかった。
 明治二十八(1895)年の夏だったと思うが、私が有馬温泉に滞在したとき彼も同宿で、十日ほどのあいだ毎日のようにおしゃべりをしたことがある。彼はそれほど大柄ではなく、やや浅黒く、顔のパーツ(原文「顔の道具」)がよく整っていた。眉毛が太くて黒いのが特徴で、しゃべり方は重々しいが、故人の芸談などを思い出すままにポツリポツリと語るところをきくと、さすがに一流の重鎮であると思われた。

 彼よりちょっと年上の女房が、赤子を扱うかのように彼の身の回りの一切を世話し、彼には金銭的なことには一切関わらせず芸道一筋に全力を打ち込めるようにしたそうで、彼は、少し前までの大名のように悠然としていかにも上品な物腰であった。

 彼の稀代の至芸はもちろん彼の天分によるものであるが、環境もまた、その大成を助けたということができよう。そうだとすれば、これから先、彼のような名人が生まれることはきわめて難しいことだろうと思うのである。


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八十七   梅若流稽古 (上巻296頁)

 私は、自分が梅若流の謡曲稽古し始めたのがいつだったかということをはっきりとは覚えていなかった。最近別の用があって梅若六郎氏を訪問したついでに、そのことを話してみたところ、六郎氏は、父上、実翁の直筆の門入帳を出して見せてくれた。その記録によると私のは、明治二十八年十月二十八日三井支配人高橋義雄とあった。
 この門入帳を最初から見てみると、明治十三(1880)年に益田孝、三井八郎次郎(注・松籟三井高弘)、十四年に古市公威、鳩山和夫、十六年に団琢磨、十七年に馬越恭平が入門している。それには驚かなかったが、十四年三月二十三日に元老院権大書記官金子堅太郎とあったのが意外だった。
 その後偶然に金子子爵に面会することがありこのことについてきいてみると、子爵は今昔の感にたえないという面持ちで次のようなことを語ってくれた。

 当時は能楽界が悲惨きわまりない窮状を示しており、厩橋の梅若能楽堂の一部を借家にでもしないと家計もまかなえない状態にあったが、「たとえ道端で謡を謡うことになるとしても、能楽堂を手放すことだけは祖先に対して申し訳が立たないという翁の嘆息をきいて同情にたえかね、ひと月にいくらあればよろしいのかと訊くと、三十円で足りるというならばわれわれが門弟になって、それに相応する月謝を提供しようということになった。僕は自宅に来てもらい、ほかの人たちは九段下の玉泉堂を稽古場にして出稽古をしてもらったのだ、ということだった。
  さて私が梅若流の稽古を始めたのは、前述のとおり明治二十八(1895)年からだった。(注・73「謡曲稽古の発端」を参照のこと二十六年の大阪滞在中に宝生流の謡曲と仕舞を習い始め師匠はそのとき大阪にいた名古屋人で、木村治一という六十歳前後の老人であった。この老人はすこぶる美声で相当な能楽の心得があったので、謡曲とともに仕舞も教授していた。

 当時まだ二十代だった、木村の息子の安吉は、以前に宝生九郎の内弟子になり、今の松本長、野口政吉らと同輩であったが、怠け者で師匠のところにいることができず、やがて老父のもとに戻ってきた。私は老父の依頼で安吉を一時三井銀行に採用してやったが、私が大阪を去ったのち今度は東京に舞い戻り、ほどなくして若死にしてしまったという。
 このように私は最初に宝生流を習ったが、明治二十八(1895)年の東京移住後には三井の主家では全員が観世流なので、わたしもさっそく改宗することになった。そのころ神田小川町に住んでいた観世清廉のところに入門した。
 そのころの清廉は三十歳くらいだったであろうか、とてもよい声で、厩橋の梅若舞台にも出演することがあったが、もともと自由気ままな性格で、能役者としての作法を守ることがなく、女房と雑談しながら、ときどき振り向いて謡曲を教授するといった不謹慎さがあった。それで私は二、三度稽古に行き、班女一番を習っただけで、弟子のほうから破門ということにしてしまった。

 そして今度は観世清之のところへ行った。この人はすこししゃがれ声で渋味のある芸風だった。梅若実の婿養子であり、万太郎、六郎がまだ生まれる前には実の片腕となって働いていたそうだ。しかし私が行ったころには梅若家を離れ、元の観世姓に戻っていた。その晩年には謡曲本を発行し、この世界における功労者であったとのことだ。
 私は明治二十八(1895)年に東京に戻ってからは、麹町上二番町四十二番地の、加藤弘之氏の隣りに住んでいたので、三井呉服店に出勤する前に隔日くらいで謡曲の稽古をした。あるとき清之が病気し梅若万三郎と六郎が交代で来てくれることになり、進歩もあまり遅いほうではなかった。
 清景を稽古していたころのある日、その日は万三郎が来宅する番の日で、朝食をとるあいだしばらく座敷で待たせておいたことがあった。そして悠々として行ってみると、なんということか、梅若実翁が師匠の風格を示して正面にどっしりと座っていた。私はおおいに恐縮し、清景の「松門ひとり閉じて年月を送り」というところを稽古してもらった。年老いた盲目の清景が孤独の庵の中でひとりごとを言う場面である。その心境の説明後、発声の練習となった。その教授法が丁寧で、かつ徹底していたためか、それからというもの自身で謡っても、または清景の能を見ても、この一段のところに来ると翁の面影が目に浮かび声がはっきりと耳に聞こえる。これが名人の芸力というものなのだろう。
 私の梅若入門は、前述したとおり明治二十八(1895)年の十月だから、翁が来宅されたのは、たぶんその十二月ごろだったのではないか。それは翁が六十八歳のいまだ壮健なときで、私は三十五歳だった。
 その後私は、謡曲とともに仕舞も稽古し、さらに、猩々をはじめ、花筐、弱法師、三井寺、弦上、百萬、松虫、鉢木、盛久、俊寛、隅田川などの演能を試みた。そのときのことについては、また追って記述することにしたい。
 


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八十八   明治能楽界の三傑(上巻300頁)

 明治時代の能楽界には宝生九郎、梅若実、桜間左陣という三傑がいた。これは演劇界に、菊、左の三優がいたのに相対し、まったく世にもまれな壮観だった。
 宝生九郎は梅若実に比べ人物も気質もやや大まかなところがあった。芸風でいうと、九郎が十郎ならば、実が菊五郎、左陣が左団次だというところか。
 実ももちろん美声で、独特の人をひきつける謡いぶりだったが、九郎は、最高の美声で名高かった。私は彼が明治二十五(1892)年ごろに芝公園内の能楽堂九段の招魂社境内に現存花筐を勤めたのを見たが、揚幕の内側から「いかにあれなる道行人、都への道おしえてたべ」と呼びかけるその声の朗々として満場に響き渡る心地よさが、今でも耳の底に残っているほどだ。
 もともと宝生流には美声家が多く、昔から地宝生といわれている。九郎が地頭(注・地謡の統括者)に座るときには、他流で聞くことができないくらいに地方(注・じかた)が揃っていた。彼は、実が円満な体格であるのに対し痩せて長身だったが、姿勢が整然として、舞ぶりも堂々として舞台を圧倒していた。
 どれかを選ぶとすると、鉢木、景清、高野物狂というような、武張った渋い型が優れていたように思う。芸の名に傷がつかないように芸人的な利欲から離れたところにいた点で、頑固で妥協を知らない古武士のようだった。
 彼はあまり多くの素人弟子を取らなかった。ただプロだけを養成して自流を後世に伝えようとしていた。そうしたところがなんとなく禅宗の僧に似ていた。
  六十一歳のときに安宅を勤めたあと、きっぱり舞台から引退したということも、彼の芸道における意志の固い信念を裏書きしている。
 私は幾度となく九郎と対話する機会を得たが、あるときに九州の安川敬一郎男爵が、山県有朋侯爵を有楽町の三井集会所に招いた席上で九郎が仕舞を舞われたことがあった。その仕舞を見終えた山県公爵は、いかにも整然たる姿勢ではないか、二個の茶碗に水を盛って、彼の双肩に載せておいても、あまりこぼれないだろうと思うがどうだろうと、そばの人に話されていたのを九郎は黙って聞いていたが、その眉間には我が意を得たりの深い満足の様が見えた。
 梅若実は、人となりが非常に怜悧で世渡りたけていた。思慮がすみずみに行き届き、単なる能楽者として群を抜いていただけでなく、何をやってもひとかどの成功を収めるだろうと思われた人だった。
 彼は座談がひじょうにうまく、話が芸道のことになると話の材料が驚くほど豊富で、とうとうと語り続けたものだ。
 あるとき時事新報に談話の連載をしたことがあった。能楽、謡曲について、これまで誰も語らなかったことについて詳しく論じた。この世界を知る参考として当時の人の大きな注目をひいた。

 彼は芸について非常に工夫をこらし、彼によって梅若流の演能に改良を加えられたものが多々ある。とくに、他流の演能では男女の差をあまり緻密に表現せず、たとえば三番目の鬘物(注・五番立ての演能で三番目に演じられる女性がシテの演目)を演じるときも、武張った型になっていたのを、けなげに両足を揃えることにしたり、女物を演じるのにときどき毛ずねが見えていたのを、ももひきをはいて隠したりした。つまり、老若男女や貴賤に応じてそれぞれの性質をあらわすことに苦心したのである。今では他流でもまねするようになった。
  かつて明治天皇の仰せを蒙り、観世流の謡曲本にみずから節付を書き入れてお手元に献納したこともあるそうだ。
 婿養子の清之(注・のちの観世清之)、実子の万三郎、六郎に対して流儀のすべてを伝え、八十二歳の高齢で没する二年前まで舞台に立った。維新後に衰亡の極致にあった能楽界においてその復興に果たした苦心の数々については、また別項を設けて記述することとしたい。
 桜間左膳とは私は深く交際しなかったので、実や九郎と同じようには、その人となりを語ることはできない。しかし芸に忠実で、それが長年にわたり洗練された結果である足さばきはみごとであった。その堅実で渋みのある芸風は他のふたりに実力肩を並べていたと思う。
 私は彼の芸風が好きで、彼の出演する舞台なら、いつでもどこでも参観するようにしていたが、彼は、特に四番目物に秀でていることと、老人物が得意なのが特徴だと言えた。
 晩年、模範的な松風を演じるという評判があったので興味を持って見物に行ったことがあった。しかし老体のため、首が肩の間に落ち込んでいる松風であった。十郎の晩年の道成寺と同じく、いくら名人とはいえ不自然なのは免れないようだった。
 実も晩年に、若手たちに手本を遺すということで、先代の観世銕之丞と蝉丸を演じたことがあったが、よせばいいのに、と思われたものだった。
 その点で、九郎はその名に傷をつけぬようにと、還暦後に舞台に立たなかったのは、ひとつの見識というものであろう。
 私は自分が明治時代に生まれあわせ、演劇界の菊左とともに能楽界の三傑を目撃することができ、芸術鑑賞のうえで非常に幸福なことだったと思うのである。


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八十九  下條桂谷画伯(上巻303頁)

 私は、明治時代随一の画伯である下條桂谷(注・げじょうけいこく)翁と明治二十九(1896)年ごろに知り合いになり、翁の人柄に惹かれ、またその画風を愛したので、翁の逝去まで非常にちかしい交際をした。そのため翁について語るべきことも非常に多いが、ここでは初めて会ったころのことを記してみたいと思う。
 翁は米沢藩士で名を正雄といい、桂谷、雲庵などの号がある。絵を描くことが幼いころから好きで、寺子屋に通っているころ読書、習字はほったらかしで、いつも何か絵を描いていた。武士気質の父親がこれを嘆き、懲らしめのために菩提寺の和尚に預けられてしまった。ところがそこでも絵好きの性質が増すばかりで悔い改めるようすもないため、和尚も匙を投げて実家に帰らされてしまった。
 ところが実家が貧乏なので、翁は玩具店の主人に相談して凧の絵を描くことになった。その鯉や金時や雲竜などの絵が抜群にうまいために人目をひき、凧の売り上げが非常に好調だった。そしてその代金収入も上がっていった。

 そこで両親もとうとう折れ、翁に絵画を習わせることにしたのである。十二、三歳のときから同藩の目賀田雲川先生のもとで修行することになった。この雲川先生というのは、米沢の片田舎に住んでいたために世に名が伝わることはなかったが、遺品を実見してみると、筆力雄健、画想高邁で、谷文晁に比肩する腕前を持つ画家だったことがわかる。
 桂谷翁はそのような良き師を得て、少年時代に腕を上げたわけである。翁が後年において、日本絵画の過渡的な時期に、黄河に立つ石柱(原文「中流の砥柱」)のように毅然としてそそり立ち、その見識を保ったのも、このような教えが基礎にあったからである。明治の絵画界は、下條翁を通じて目賀田先生に負うところが少なくなかったと言わねばならない。

 翁は維新の初めに朝廷に召し出され、まず若松軍務監出張所に出仕した。次いで東京に出て、市中取締を命じられた。その後海軍に歴任し貴族院議員となった。このように、中年の時代に官界に身を置いたというのは、翁が世渡りに長け、文筆も立ち、どこに行っても通用したからであった。そのために、本来なら絵画の大作を残すべき二十五歳から五十歳までの二十五年間を、それ以外のことに使ってしまったことは非常に残念ではある。
 このように、翁の絵画は、二十歳前後と、五十歳以降の二十年余りの間に生み出されたものである。安政六年の、翁が十七歳のときに描いたという「趙盾図」(注・趙盾(ちょうとん)は、晋の政治家)などは、自分で構図したものではないだろうが、その筆はのびのびとして、ぎこちなさは感じられず、趙盾の着物を描くしなやかな細い線は、後年の老熟の域に達したときの翁の作品を見ているようである。これが十七歳の手になるものかと思うと、いよいよその天才には敬服せざるを得ない。
 下條翁の師である目賀田雲川先生は狩野派の画家であった。その見識は高邁で、雪舟のような風格があったということだ。下條翁も師にならい、ひごろから宋、元の筆使いを究めていった。夏圭、馬遠、牧谿、梁楷を総合して自分のものにし、その雄健な筆遣いには限りない味わいがあった。

 図柄については必ずしも新案というわけではなかったが、少年時代から練磨を重ねた筆の力は、その一線一画の中に、すなわちワン・ストロークの中に、なんともいえない風情が見られた。
 画風はというと、宋元、狩野、土佐、四条、あるいは文人画にいたるまで、なんでも来いであった。また特に席画が得意で、とっさに描いた作品のなかに、かえって得難い逸品が含まれていたものだ。
 そのかわりに、ときおり出来のよくないものもあって、同じ人の作品だとは思えないくらいの違いがあることもあったが、傑作のほうを見れば、古今を見ても不朽であると認めざるをえないものが少なくない。
 そもそも、維新後の学問や芸術の各分野において現れたすぐれた人材は、おおくの場合、旧幕時代の遺産であるといえる。そのなかで、名人の域に達している人も多く、ほかのどの時代と比べても、けっして遜色のない多士済々である。しかし絵画の分野だけでは、他の時代に比べて傑出した大家というのが見られなかったようなのだ。
 ためしに明治時代を見渡してみると、その初期における狩野芳崖は、たしかに当時の第一人者ではあったが、しかし稀世の偉才というほどの画家でもない。
 野口幽谷も相当に有名になったが、この人も一国一城の雄であるに過ぎず、天下の才とは言えないだろう。
 橋本雅邦はたしかに大家と称してよい一人であるが、絵の主題に筆の力がついていかないことがあり、言うならば、意余りて技足らざる、の観がなくもない。
 川端玉章にいたっては、その絵と、友禅染のあいだに、どれほどの差があるのかがわからない。
 この際、古今無類の野口小蘋女史がいたことを明治時代の誇りとすべきなのかもしれないのだが、これまた、女流としては無類であったとするしかないのである。
 以上のことから、わたしは下條桂谷翁が、維新後の絵画界における彗星であり、その傑作においては狩野探幽を優に超えるものもあることを断言してはばからないのである。
 残念なことに翁は、はじめ海軍軍人、次いで貴族院議員として政治方面に力を散じてしまったために、画伯として古今に知られるような業績を残さなかった。しかし、明治画檀を席けんした洋画模倣の波にのみこまれることなく毅然として自分の主張するところを守り、東洋伝来の画風で、今日もなお
完全なる地位を保っているのである。これは下條翁が遺した威光であると言っても過言ではあるまい。


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九十 美術鑑賞熱(上巻306頁)

 日清戦争の結果、世界が日本を大国だと認めたのと同時に、日本人もまた自分たちが大国人になったという気持ちを持つようになった。そしてそれまで劣等感を持っていた自国のあれこれが急にありがたいものに思えてくるようになった。なかでも維新後に瓦礫同様に扱われた道具(注・骨董)や、二束三文で売買された書画に対して、一時に鑑賞熱が高まったことはもっとも顕著なあらわれだった。このことについて少し考えてみたい。
 維新の変動は日本人の心を急速にかきみだした。ひとつには社会の不安定のために、もうひとつには古いものを破壊したために、ものごとを平静な気持ちで判断することができなくなってしまった。
 昨日までは、お家の大切な宝だった「小倉色紙」も「千鳥の香炉」も、猫に小判だかなんだかのように顧みる者がなくなってしまった。
 そのようなときに、アメリカからフェノロサらがやってきて日本の美術品が非常に優秀であると説き、その当時二束三文で売買されていた数々の書画骨董を買い集め、ボストンその他の美術館に送り始めていた。
 ここで日本人もはじめて目が覚め、明治十一、二(18789)年ごろ、この世界における先覚者と言われていた佐野常民のち伯爵、塩田真、下條正雄(注・桂谷)の諸氏が、「龍池会」という書画鑑賞会を設立した。そして折にふれて展覧会を開催し、共鳴する人々を集めていった。
 その努力が実り、だんだん世間で美術の鑑賞熱が高まっていった。そこに、ちょうど日清戦争後の景気拡大の勢いが加わり、いろいろなところで美術的な会合が開催されるようになっていった。なかでも一番有力だったのが「大師会」である。
 そもそも大師会は、明治二十四、五(18912)年ごろから書画、茶器を購入しはじめた益田孝男爵が、同二十八(1895)年ごろに狩野探幽が所持していた弘法大師の真蹟の座銘断片十六字の一巻を得て、翌年の三月二十一日大師の命日に、御殿山の自邸においてその披露の会を催したのが発端である。
 それから三十年あまり、この回は連綿として継続し、最初は御殿山の益田邸でのみ開催されていたが、近年では音羽護国寺に場所を移している。毎年四月にその座右銘を本尊として、和漢の仏画、古書画など、だいたい上代の美術品そろえて陳列披露し、全国の愛好家の会員を集めることになった。このため、この会がいろいろな方面の美術鑑賞熱を喚起することになり、同時に、ひとびとの鑑識眼を向上させることになった。そうした効果については決して忘れることはできないのである。

 このころに、また別に「天狗会」という会も発足した。これは近藤廉平、加藤正義、赤星弥之助、朝吹英二、馬越恭平、浅田正文らの同人が、時に茶会的に、時に宴会的に、各家で順番に持ち回りで会を催したのものだった。名器、名幅を陳列して、集まってくる大天狗、小天狗どもを驚かそうという魂胆で、趣向もさまざまだった。
 近藤廉平男爵が牛込の佐内坂邸で開いた会では、鞍馬山というのが大まかな趣向だった。座敷の中に杉の大木でセットを作り、つぎつぎにやってくる大小の天狗が、あぜんとして目を見張っているところに、木の葉天狗の装いできちんと化粧をした者が目八分の高さにお膳を掲げてお給仕に出てきたので、一同、高い鼻を砕かれて、これはこれは、と閉口するばかりだった。
 また明治二十九(1896)年ごろから「二二会」という会も発足した。これは、会員の各自がすこしずつ書画や骨董を持ち寄り入札をする。そして、二番札の者に賞与を与え、最低額の者には罰金を課すというものだった。日本橋区浜町の常磐屋、京橋築地河岸の壽美屋などに会合したのは、鳥尾小太、富永冬樹、馬越恭平、赤星弥之助、加藤正義、近藤廉平、浅田正文、益田英作、朝吹英二の顔ぶれであった。

 私は当時、三井呉服店の理事で、仕事上の関係もあったため毎回これらの会合に出席した。あるときは鳥尾小太子爵が出品した仏画を落札し、たいそうお礼を言われたこともあった。
 このころまでは、道具がまだたくさんあったから、会員がなんの気なしに持ち寄った出品物が、後年におおいに出世して数万円の高なることもあった。
 最初のうちは出品が名品揃いだったが、だんだん品位が落ちてきたので、二二会というのは、もともと二十二日に開かれるのでそういう名前がついたのだが、がらくたの荷に、荷が重なる会だ、などという悪評が出てくるようになり、ついには崩壊することになってしまった。
 さて、茶事方面を見てみよう。当時「和敬会」という会があった。会員を十六人と定め、欠員があると補充するという仕組みになっており、別名を十六羅漢会ともいった。この会の主なメンバーは、松浦詮伯爵、東久世通禧伯爵、石黒忠悳子爵、三井八郎次郎男爵、同高保男爵、益田孝男爵、安田善次郎、加藤正義、吉田丹左衛門、馬越恭平、大住清白の諸氏であった。この会は明治中期から大正初期まで続き、東京の著名な茶人はだいたいこの会に加わっていたため、この会が原動力になり茶道の盛運が促進されることになった。その効果は、じっさいのところ非常に大きなものだった。
 このようにして、美術鑑賞熱が高まっていったが、それにともない美術品が非常に値上がりしていった。その顛末については、また後段で取り上げていきたいと思う。


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